静寂の世界……そう表現しても過言ではないだろう。見渡すかぎりは深い白に覆われ、あらゆる生命はそのなりを潜める。時間が止まったかのような、あるいは、まるで吸い込まれていくような錯覚すら与えるその光景は、少女にはとても興味深く思えた。
――はぁ……――
少女は冬の寒さに、息を両手に吹きかける。その手に感じる温かさが、まるで自分の生命を象徴しているかのような。そんな感じすらした。
「ふふ……。こういうのを無常っていうのかしらね……」
少女は笑みを浮かべながらそうひとりごとを言う。
うっすらと藍色がかった和服を纏い、そして肩にかかった透き通るような黒髪は、深い白とのコントラストが美しく映える。全体的に線の細い、まるで吹けば飛ぶような雰囲気を醸しだすその少女は、可憐という表現がおおよそ似合うだろう。
少女の名は幽々子といった。
「雪化粧とはよく言ったものよね。そう思わない? 妖忌?」
そう幽々子が問いかけた先……。幽々子の隣の縁側に座る、長い白髪をくくり、白鬚を蓄えた老人が一瞥して言う。
「儂には季節の情というのがイマイチ理解できんのでな」
シワがより、顔に傷を追ったその風貌はまるで数十年、数百年もの歳月を生きた仙人の姿を連想させる。
彼は人ではない。
人間と幽霊との間に生まれた半人半霊と呼ばれる存在である。寿命は人間の十倍以上はあり、その達観した人柄と腰に携える刀の腕から、庭師と幽々子の護衛という役目を担っている。
「季節の情なんて言うほど高尚なことでもないわ。ただ感じたことをそのまま表せばいいだけ」
妖忌はまるで下らんとでも言いたげな表情で幽々子から目を離し、手元にある茶をすする。
その様子を見て幽々子は微笑み、手元の湯のみに手をつける。唯茶を啜る音だけが、そして白い情景に吸い込まれていく。
静止した世界。
雪だけが降り続く。
ただしんしんと。
……
…………
………………
…………………………………………………………………………………………
「……む。そういえば……」
静寂の中、妖忌が思い出したかのように口を開く。
「朝早くに紫嬢が来てな」
「えっ!? 紫が?」
そう驚く幽々子。彼女の顔は驚き半分、喜び半分といった感じだった。そんな幽々子の歳相応のあどけない笑顔を見つつ妖忌は続ける。
「明日の昼、お主に会いたいというらしいのでな。例の墨染桜の下にて待つとのことだ」
「まあ。紫と会うなんて久しぶりだわ。久々におめかしして行きましょうか」
幽々子は嬉しそうにはしゃぐ。見ているだけでそわそわしているのがわかる彼女の様子は、とても微笑ましく思える。
「いつもの青の装束もいいんだけど、新調したあれも試してみようかしら♪」
くるりと体を回転して見せる。釣られて揺れる袂と黒髪が艶めかしい。そんな彼女の様子は心底楽しそうに見える。
「ただ……」
妖忌は重々しく口を開く。
「あまり信用しすぎるなよ?」
もともと険しい顔が、刻まれていたシワがより一層深くなる。
「あやつめは何を考えてるのか儂にも皆目検討がつかん」
「あら、そうかしら? 紫はどこまでもどこまでも素直なだけよ?」
紫の友人として、よき理解者としての言葉。
「純真すぎる心ほど怖いものはないというがな」
しかし妖忌はそう言い捨てる。その言葉はまるで悠久の歳月の重みを言外に含んでいるようだった。
八雲紫。娘盛りの若い女の姿を取るそれは、強大な力を持つ「大妖怪」と謳われる存在であった。時として人と対立し、時として人を食らう妖怪がなぜ人である幽々子と知り合ったのか、知る者は二人を除いてはいない。そもそも彼女を妖怪と気づく人物はそうそういない。半人半妖である妖忌は彼女の正体に気づいていたが、殊更それを言及するようなことはしなかった。少なくとも彼の目からは紫が幽々子に害なす存在であるとは思えなかったし、そして幽々子自身も彼女を妖怪だと知りながら友人として、あるいは姉のように、母のように慕っている。下手に自分が関わるのも野暮というものだろう……そう妖忌は考えていた。
身を刺すような冷気、一面に広がる雪景色。鷹揚と流れ、緩やかに蛇行する二つの大河。人々に豊かな水を与え、そして時として洪水という天災を与えるその大河に挟まれた位置に、とある都があった。巨大な長方形に区画され、人々の生活が根付いた歴史のある都市。 人々が互いに肩を寄せ合って生きるその姿は、自然の流れ、あるいはその中の生命の営みというのを感じさせる。
その都の北西に、他の民家と比べて一際壮麗な家屋があった。
名家・西行寺家。
もともと一家の当主は「北面の武士」と呼ばれる都を統括する中央政府直属の警護部隊に属し、相当の地位と将来を保証されていた武士であった。しかし何を思ったか、彼は二十を過ぎると自らの持てる地位も財産も捨て、家を自身の弟に譲り、旅から旅への根無し草となったのである。その後彼は世に認められるほどの歌人になったが、その事実は当時の人々にとって衝撃であった。
それから月日は流れる。
残された彼の息子・隆聖と娘・幽々子。二人はそれぞれ十六、十四になった。かすかに残る、幼い頃に見た父の記憶の残滓。しかし、二人は突然消えた父のことをよく思っていなかった。
――家族を捨てた父――
母は幽々子を産んだあとすぐに亡くなった。もともと病弱な体質でもあり、幽々子の出生はひどい難産になった。助産婦があらゆる手を尽くしたが、結局母はそのまま帰らぬ人となったのだ。その後父は出家し、父の弟、つまり二人の叔父が彼らの面倒を見てくれていた。だから彼らにとっては叔父が親のようなものであり、家族を置いて出家した父を憎まざるを得なかった。
特に隆聖は物心のついたときに父を見ていたがゆえに、一層父への軽蔑の念が強かった。なぜ自分を、妹を捨てたのか。心のなかで抑えきれない思いが渦巻く。そして同時にある種の危機感をいだいていた。自分がこの家を守っていかなければいけないのだと。親として慕う叔父に子どもがいないのはある意味幸運かもしれない。だからこそ彼は人一倍勉学に勤しんだ。この家を、そして妹を守るために。
隆聖は読み込んでいたとある作家の詩集から顔を上げる。さすがに朝からぶっ通しで読むのは疲れる……そう思いながら息抜きとばかりに重い腰をあげる。暖を取る火鉢の向こう側、簾をくぐって縁側に出る。一面に広がる白い世界。雪を被って立ち尽くす松の木。吐く息が、白い。無常な冷たさがどことなく心地良さを与える、真冬のとある景色。
縁側を誰かが歩いて来る音がした。
間隔の狭いその音は急いでいるようにも聞こえる。
目をやるとそこには顔を紅潮させ、慌ただしく走る幽々子の姿があった。
「あら兄さん。勉強は終わったんですか?」
「いや、ちょっと息抜きにね。そんなに急いでどこに行くんだ?」
「紫に会いに行くのよ」
嬉々として語る幽々子。その名前には聞き覚えがあった。
「ああ。例の娘か……」
幽々子が友として慕うその娘。
――死霊を操る程度の能力――
幽々子はその特異な能力から人々から蔑視されていた。いつの世も人と違うものを持つと迫害される。人々は幽々子に近づこうとしなかった。当然友人と呼べるような存在はおおよそいなかったし、西行寺家に仕える女中ですら幽々子を避ける節がある。そんな環境で育ってきたからこそ、彼女は他人に心を開くことはなくなった。彼女が心を許せるのは兄・隆聖と庭師の妖忌のただふたりだけだった。
だからこそ彼女に友人ができたのは驚きだった。あれほど他人を嫌っていた幽々子が慕う友人、紫とはどのような人物なのか。兄として非常に興味深かった。
「俺もその娘に機会があったら会ってみたいものだな」
「まあ。何なら一緒に会いに行きますか?」
「ふむ。そうしたいのはやまやまなんだが俺はこの後やらねばならない仕事があるんだ。悪いな」
「そうでしたか。差し出がましいことをすみません」
「別に構わんさ。楽しんでこいよ」
「ありがとう、兄さん」
そう言って幽々子は急ぎ足で縁側をかけてゆく。幽々子の小さく揺れる後ろ姿を眺めながら、隆聖は満足気な笑みを浮かべた。
都から少し東。周りに比べて土地が隆起しており、都をひと通り見通せる丘になっている場所がある。人の手があまり加わっておらず、近くを大河がゆったりと流れ、様々な植物が自生するそこに、一際雄大な桜の木があった。蕾を雪の白に覆われながら、そしてなおも活き活きとそびえ立つ躍動感あふれるその姿は、まさに風光明媚と呼べるものだろう。
純白に淡い墨を落としたような色の華を咲かせることから、その木はこう呼ばれていた。墨染桜……と。
待ち合わせのその場所に幽々子は足をすすめる。寒く鋭く乾いた空気が、痛い。寒さに震える自分の体に鞭打ちながら、幽々子は雪に覆われた地を進む。
わずかに舞う雪。
幽々子は墨染桜の下に人影を捉える。その美しい金の髪には見覚えがあった。
「紫!」
幽々子は娘に呼びかけ、彼女のもとにかけてゆく。
紫は幽々子の姿に気づくと、微笑んで手を振った。
大妖怪・八雲紫。 鮮やかな金の髪が印象的で、物腰柔らかいその様子はまるで貴族の娘を連想させる。
そしてもう一人。
同じく鮮彩な金の髪、そしてそれと対照的な白の衣を羽織った人物。そしてなにより特徴的なのが、体の後ろから見える金色の尻尾。彼女もまた人ならざる妖怪であるらしい。謙虚に控えるその様子は従者のように見える。
「こんな寒い中ごめんなさいね」
そう紫は幽々子に手を伸ばす。
「大丈夫よこれぐらい。他でもない紫の頼みですもの」
「ふふ。そういってくれるとありがたいわ」
「久方ぶりね。会えて嬉しいわ、紫」
白い桜の木の下、幽々子と紫はそういうとお互い微笑む。
「そちらの綺麗な方は?」
紫の従者と思しき少女を一瞥して尋ねる。
「ああ。そういえば説明してなかったわね」
紫は、自分の後ろに控えるその少女の両肩に手を置き、幽々子の前に立たせる。
「ゆ、紫様……」
「ま、いいからいいから」
困惑する少女にも構わず、紫は続ける。
「紹介するわ。この娘の名前は八雲藍。私の式神よ。この前北に行ったときにうっかり拾っちゃったのよねー。まあいうなればペットみたいなものよー」
「え……えぇ!?」
紫の軽い物言いにうろたえる藍。
「まあペット! 素敵だわ。私も前々からペットを飼ってみたいと思ってたところなのよね。あなたの尻尾とても立派ね。 もふもふしてるわ! 失礼ながらもふもふさせてもらっていいかしら?
いいえ、もうなんといわれようともふもふしてみせますわ。もふもふぅうううううううううううう」
「え、え、え、えええええええ!?」
幽々子は藍の尻尾にダイブする。顔をそのふさふさの尻尾に埋め、もふもふする。
「暖かいわぁ。もふもふしてるわぁ。あぁ~幸せ~」
突然の幽々子の行動に面食らう藍。後ろの紫に助けを求めるが、手を口に当ててころころと笑うばかりである。どうにも困った藍は、結局幽々子のなすがまま、もふもふされていた。
積もっていた雪も溶け、太陽がのどかに陽光を刺すのどかな昼過ぎ。土下座する少女とそれを困ったように見つめる二人の少女。
「ごめんなさい。私可愛い物をみるとついつい我を忘れてしまって。それも初対面の方にいきなりあのような狼藉を働いてしまって。本当にすみませんでした」
頭を地に伏せ謝る幽々子。謝られた当の本人の藍は苦笑を浮かべる。
「いえそこまでして下さらなくても……。まあ最初は驚きましたが別に嫌だというわけではありませんでしたし」
「そうかしら。本当にごめんなさい……」
そう謝る幽々子と対称的に、紫は口を押さえてくっくっと笑っている。
「ふふふ。そうね。藍の尻尾は立派ですものね。私も夜は藍の尻尾にくるまって寝ようかしら。主人の夜伽をするの式神の務めでしょう?」
妖艶に笑う紫。
「いいなぁ紫。こんなに素敵なもふもふを独り占めできるなんて」
うらやましそうに紫を見上げる幽々子。藍は二人の間で好評を博す自分の尻尾の話題に、若干引きつった笑みを浮かべながらその様子を見守っていた。
「まあその話は置いておいて。そろそろお昼過ぎね。お腹もすいてきた頃だしお昼にしましょうか」
「お昼? こんな寒空の下で?」
「それはそれで風情がいいのだけれどね。今日は私の家にでもお誘いしようかと」
「紫の……家……?」
幽々子は首をかしげる。そういえば神出鬼没なこの大妖怪は普段どこに住んでいるのだろう。疑問が頭をかすめる。
「紫の家ってそういえば初めてね……」
「気になる?」
「ええ 凄く気になるわ」
紫は幽々子の言葉を聞くと満足気に微笑む。
「じゃあ――」
「えっ?」
紫は後ろから両手で幽々子の双眸を覆う。突然の紫の行動に幽々子は抗議の声を上げた。
「ちょっと紫。いきなり何するのよ」
しかし紫はその声に構うことなく、幽々子の耳元にそっと口をあてる。
「絶対に。――絶対に目を開けては駄目よ?」
普段の飄々とした様子の彼女からはとても想像できないほど厳粛な声だった。幽々子は彼女のプレッシャーに押されたのか、黙って首を縦に振った。
視界を遮られた暗黒の世界。心のなかで不安が暗雲のように募ってゆく。紫は自分の唯一無二の親友で、絶対の信用を置いているが、それとこれとは別だ。
聞こえるのは、寒さを含んだ風の音。そして紫の呼吸の音……。規則正しく呼吸する様子は、まるで幽々子を落ち着けようとしているかのように思えた。
紫の呼吸が止まる。そしておもむろに流れるような言葉を紡ぎ出す。その言葉は恐らく日本語ではなく、意味も音も聞き取れないが、流暢に軽く跳ねるかのような響きにどことなく心が休まるようである。
風が鳴る。まるで紫の言葉に呼応するかのように。吹きすさぶ風は、しかし刺すような寒さを含まない、柔らかな風だった。例えるなら天女の羽衣のよう。どこか幻想じみたその感覚に幽々子は体を任せる。
紫の声がふと止まった。体を包んでいた毛布のような柔らかな、浮くような感じがふと消える。まるで無重力の空間から地に足をつけたようだ。
「ん……まだ?」
「もう開けていいわよ?」
紫は眼を覆っていた手を離す。開放感を感じながら、紫はおそるおそる眼を開く。僅かにくぐもった視界の先、そこに広がるのは見渡す限りののどかな春の光景――満開の墨染桜だった。
「え、え、え!? どういうことなのこれ?」
「私の家。現実と夢幻の境界線の上。すべての生命が華を咲かせる場所よ」
そう笑みを浮かべながら紫は言う。しかし幽々子には紫のいうことがあまり理解出来ない。季節が僅かな時間で変わるという現象自体がとてつもなく非科学的でとても信じることが出来ない。遠くに広がるはかすかに霞がかった幻想的な風景。どこか寂れた雰囲気の大きくも小さくもない木造の一軒家。そして目の前に神々しく咲く桜の花。恐らく先程まで自分がそばにいた墨染桜なのだろう。枝葉の分かれ方、形にはどことなく見覚えがある。これは先程まで自分がいた場所なのだろうか。
「この墨染桜……さっきまで私たちがいた場所?」
「んー。半分正解で半分違うわね。この空間は現実ではないの。あの墨染桜を現実との架け橋としてこの空間は存在しているの」
「ええと……つまり……?」
幽々子は紫の説明に戸惑う。
「まあ分からないでしょうね。無理も無いわ」
そう言うと紫は墨染桜の方に歩み寄る。
「この桜はね、現世とあの世をつなぐ特別な地点なの。私と貴方が初めてあったときのようにね」
片目をつぶってウインクをする紫。
初めて会った時――墨染桜の下で儚げに立っていた紫。桜舞う春の季節に二人は出逢った。なるほど、つまりそういうことなんだろう。
「ああ。懐かしいわね――」
過去の思い出に浸る紫は本当に儚く、吹けば飛びそうな危うさを醸し出しているかのようだ。
「ふふ。感傷に浸るのはここまでね。春の陽気の中、皆でご飯にしましょう! 今日はお弁当を用意しているのよ」
「紫の手作り?」
「まさか。もちろん藍のお手製よー」
紫は何故か自信たっぷりに言う。その様子がおかしくて、幽々子は思わずくすっと笑う。
「藍さんのお手製ね。確かに藍さん手先とか器用そうよね。家庭的というか…… お母さんみたいな存在なのかしら」
「そうですね。紫様の周りのお世話は一任されております」
頭をぺこりと下げて言う姿は、藍の礼儀の正しさが現れているようだ。その藍の主、紫は手をパンパンと叩いて言う。
「ささ、そんなわけでお昼にしましょう」
紫は虚空に縦一本、長い流麗な線を指でなぞる。なぞった場所が歪み、ぱっくりと空間が割れる。そのわずかな隙間から見える赤紫の世界に、紫はすらりと細い右手を差し入れる。どういう理屈だろうか、隙間から手の先までまるで吸い込まれたかのように見えなくなってしまった。手をごそごそと蠢かすこと数秒、隙間から手を取り出す。手の先には紫色の風呂敷で包まれた大きな直方体の弁当があった。
「じゃーん」
自慢気な声が響く。
「おおおお」
その様子を見て幽々子は歓声を上げる。
「普段は変な人だけどさすが大妖怪ね! どういう仕組みになっているのか気になるわ」
「変な人って……」
紫はわずかに眉をひきつらせて不満を漏らす。
「仕組みというか色々人間にはわからない概念があるのよね。だから多分説明してもわからないんじゃないかしら」
「そう……」
「とりあえずお食事にしましょう。ここからなら都を一望することができますし、高いところから下を見下ろしながらの食事というのもまた乙なものよ? まだ空気も冷え込んでいて食事にはちょっと向かないけどそんなのは些細な事よ!」
そう言って紫は緑の広がる場所に座り、弁当の風呂敷を広げる。幽々子と藍も二人顔を合わせるとくすっと笑って紫の傍に座った。着々と弁当を広げる紫。
「あ」
紫が突然口を開く。
「どうしたんですか紫様?」
紫はしばらく腕を組んで考える。そして思い立ったかのようにもう一度例の“隙間”を作り、そこから薄い緑の一升瓶と三つの盃を取り出す。
「やっぱ宴会といえばこれでしょう♪」
「お酒?」
幽々子は首を斜めにして尋ねる。
「お酒という名のお米のジュースよー」
おどけた様子の紫に藍は慌てて言う。
「紫様! 紫様や私はともかく、幽々子様にはまだ早いでしょう!」
抗議する藍をそっちのけに、紫はとくとくと盃に酒を注ぎ、幽々子に手渡す。
「お酒を楽しむのも女の嗜みの内よ?」
主人のいい加減な持論に一瞬反論しようとした藍だったが、これ以上何を行っても無駄だと悟ったのだろうか、小さなため息をついて口を閉じた。
「そう怒らないでよ。お酒はみんなで楽しむものよ」
紫は二つ目の盃を藍に手渡す。しぶしぶといった感じで受け取る藍の頭をぽんぽんと叩いて自分の分の盃も用意する。
「幽々子はお酒飲むの初めてかしら?」
「兄さんの元服の儀式の時に一回だけ飲んだことがあるわ」
「そう。なら安心ね。それじゃあ今日を共に出来る幸せを噛み締めて、乾杯しましょうか!」
紫は盃を高く上げる。釣られて上げる幽々子に続き、藍も杯を交わす。
かんっという高い音が響き渡る。
「かんぱーい!」
ぽかぽかとしたお日様が差す、春の午後。桜の花びらが満開に咲く下で、三人は藍特製の弁当を食べる。赤黄緑と彩り鮮やかに作られており、食べていて楽しい。
「あら。この黒豆美味しいわね」
箸で上品につまみ、口に含みながら紫は言う。
「そうですか? 丹誠込めて作ったのでそういってもらえると有難いです」
「藍さんはお料理上手なんですね」
幽々子は野菜と白身の魚を頬張りながら言う。
「あはは。主に仕える身としてはこれぐらいできなくてどうします。でもまあそこまで美味しそうに召し上がっていただけると、作った私も冥利につきるというものです」
藍は二人の言葉に喜んだ。
「やっぱりみんなでお食事をするというのはいいものね。誰かと特別な時間を共有する。それだけで幸せを感じるものなのよね、人間って」
「じゃあ妖怪は?」
幽々子は首をかしげて紫に尋ねる。
「妖怪も同じよ。特に私みたいに人間と関わるのを好む妖怪はね。もしかしたら人間以上に……かもね」
「どうして?」
幽々子の問に対して、紫はそんなの簡単よとばかりにあっさり言う。
「人間は先に死ぬもの」
基本的に妖怪は人間より寿命が長い。たとえ妖怪と人間が知り合ったとしても、いずれは別れの時が来る。遅かれ早かれ人間のほうが死ぬという結末を迎えて。
「私はそういう人をたくさんみてきた。みんな私の大切な友人だったのよ?」
過去を振り返る紫の表情はどこか寂しげだ。幽々子は紫の話をただ黙って聞くばかりでいる。
「だから……今、私達がいるこの時間はとても貴重なの。人の一生は短いわ。普段は意識しなくても時はゆっくりと、残酷なまでに確実に過ぎていっているのよ」
人間と妖怪の違い。幽々子には紫の言葉が重く聞こえる。
「関わることをやめたらいっそ楽になるのかもしれないわね。お互いがお互いに住み分けて。でもそんなの私は嫌よ。たとえ別れが辛くても、そしてどんなに難しいことであろうと。私は人と妖怪が手をとりあって笑いあう未来が欲しいわ」
「どうして……」
幽々子は閉じていた口を開く。
「紫は妖怪なのにどうしてそこまで人との共存を目指すの?」
「私が……妖怪を、人を愛しているからかな?」
「どういうこと……?」
「私自身もよくわかっていないのだけれどね。少なくとも人と妖怪が対立し、争う未来よりは素敵だと思わない?」
幽々子に尋ねる紫の口調からは、わずかにではあるけれど紫の過去が見え隠れしている気がした。自分なんかよりは遥かに永い時を生きてきた、親友の言葉。友と慕い、姉と慕い、母と慕う大妖怪の言葉。
「そうね。皆が幸せに過ごせる世界。それが一番ね」
重く言葉を口ずさむ幽々子。彼女の言外に秘められるのは彼女自身の黒い経験と過去――
「うん。だから……私はそんな青臭い理想めいた世界を。数多の妖怪と人間が共存できるような桃源郷を作ろうって」
暖かな風が吹く。紫の言葉には決意という名の芯が深く根づいていた。
「だから幽々子。あなたにも協力してほしいのよ」
「わた……し? でも私には紫みたいに力を持たない、ただの人間だし……」
なんだそんなことと紫は笑う。その笑みには暖かさが感じ取れた。
「力なんて関係ないわ。ただ私の親友として、貴方には手伝ってほしいの」
空に薄く広がる朧雲を仰ぎながら紫は続ける。
「個人的でわがままな願いだけどね。私はあなたと一緒に理想の世界を作りあげたいの。私が作る世界を一緒に見届けてほしい。本当無茶苦茶な願いだけど、駄目……かな?」
困ったような表情を浮かべる紫に、幽々子は首を横に振る。
「……ありがとう。紫にそこまで言われるなんて私は幸せものだわ。こんな私でよければ……」
幽々子は紫に手を伸ばす。紫はその手を固く握りしめた。重なりあう二つの手。
ずっと一緒にはいられない。いつかは必ず来る別れの日。それがわかっていても……。今のこの時間を、幸せを噛み締めていよう。
交差する二人の想い。紫の手はどこまでも暖かかった。
外の世界とは打って変わった春の世界。のどかな空気を全身に感じながら、満開の桜の下幽々子と紫は藍の尻尾にくるまって寝そべる。昼食も食べ終わったせいもあってか、仄かな眠気に襲われる。その心地の良さはまさに至福のときと呼べるものだろう。
穏やかな吐息をたてて眠る紫。柔和な笑みを浮かべる紫は、大妖怪という人とは大きくかけ離れた存在であるにもかかわらず、まるで歳相応の生娘のようである。その様子が可笑しくて、微笑ましくて、幽々子はしばらく紫の寝顔を見つめていた。
頭上には淡い青の空がどこまでも広がる。そんな中、ふと藍と目があった。
「本当に幸せそうに寝てるわね。紫ったら」
「全く。我が主ながら本当に腑抜けた寝顔ですね」
紫の顔がほんの僅かに引きつった気がした。
「主って言えば……」
幽々子が思い立ったかのように口を開く。
「藍さんはなんで紫のペッ……式神になったんですか?」
「……今ペットっていいかけませんでした?」
「……気のせいですよ」
「そうですか……気のせいなら仕方ないですね」
しばし流れる沈黙。しかし一分と経たないうちに二人は笑い出した。
「幽々子さんは本当に紫様に似ています」
「あらそうかしら?」
「ええそうですよ。その悪戯っぽく鈴を転がすようにころころと笑う様子は」
「褒められてるのかどうか解らないですね……」
ふふと笑いながら藍は上を向く。
「私が紫様に出会った境遇ですか……」
「あ、いえその無理に言えって言ってるわけではないです。やはり人には他人に知られたくない過去があるわけですし……」
慌てて取り繕う幽々子に藍は笑う。
「そんな大したもんじゃないですよ。聞いても面白くもなんともないかと……」
「別に構いません。私から言い出したわけですし、藍さんが話して下さるのなら……」
そうですか、と藍は言うと深く息を吸った。藍の視線は遠く、まるで夢をみるかのようだった。
「この尻尾を見てもらったらわかるとおもうんですが、私は九尾と呼ばれる妖狐なんです。妖狐というのは数多の妖怪の中でも相当の妖力を持っていて、かなりの高い地位の妖怪なんです。特に私の母親の妖狐は一族の中でも特に優れた妖力を持っていて、大妖怪と謳われていたんですよ。ですが、他の兄弟や母親が強大な力を持っている中、私だけは大した力も持たない落ちこぼれで……。それで当時の私は周りからのプレッシャーが嫌で一族を抜けだしたんです。何の力も持たないのに……」
そう言って笑う藍の表情は、過去の自分を嘲笑うかのようだった。
「でも力を持たない妖怪が生きて行くっていうのは本当に難しいことなんです。縄張り争いに食べ物の確保。弱肉強食とはよく言ったものですよね。この世は強いものが生き、弱いものが死ぬ。そういうふうにできているんです」
藍は続ける。
「それでも私は弱いなりになんとか生きていたんです。本当に地べたを這いずり回る思いでした。ですが面倒な人間に目をつけられましてね。妖狐というのは稀少価値があるのでしょう。何度も何度も交戦して、結局私は負けてしまったんです。本当に悔しかったですよ。妖狐である私が人間なんかに負けたのですから……。でも、その時なんですよ」
藍は強調して言う。
「私を救ってくれる物好きな妖怪がいたんです。私を嘲笑いながらも救ってくれる妖怪が。私にはその妖怪がまるで神様かのようにも見えました。自分なんかとはとても比べられないほど格が違う強大な力を持った妖怪……彼女は私に手を伸ばしてくれたんです。何の力も持たない自分なんかに。自分と一緒に行かないかって。だからこそ私は紫様に忠誠を誓ったんです。非力な自分でも精一杯あの方を支えていこうと」
これが弱者なりの信念だと。藍の眼には強い信念が見て取れた。
「紫ったら……全く幸せものね。こんなに素敵な方にここまで慕われて……。ねえ、紫?」
紫の眉がぴくっと動く。その様子に藍は驚き、慌てふためく。
「ゆ、紫様!? 起きてらっしゃったんですか!?」
やれやれと言わんばかりの表情で紫は眼を薄く開ける。
「まあ一応、ね。せっかく二人が楽しそうに話をしているんですもの。口をはさむのも悪いかなと思って黙っていたのだけれど……」
藍は自分の心中をまさか主人に聞かれていたとはつゆも知らなかったようで、思わず赤面していた。
「あはは。本当にごめんなさい。でもね……本当に有難う」
紫は藍を右手に抱く。まるで親子のようにも見えるその様子を、幽々子はやや歯がゆい思いで見守っていた。
「幽々子。今日は色々と付き合ってもらって有難う」
遥か西の空には紅く染まった夕日が落ちており、空は全体的に焼けたような色を醸しだす。まるで祭りの後の静けさのような、うっすら寂寥に満ちた雰囲気。
「ううん。むしろ感謝するのは私の方よ。面白いものを見させてもらったわ」
「そうかしら? つまらない話を長々としてしまった覚えがあるのだけれど……」
「そんなことないわ。紫の話はいつも興味深いわよ?」
確かな経験に裏付けされた妖怪の話。これほど興味深いものはないだろう。
人よりも永い時を生きる妖怪だからこそ――
夕日に照らされた桜の木は風に吹かれてざわめく。
「すっかり日も暮れたわね。さぁ、元の世界へ帰りましょう。レディが一人で夜道を歩くのは危険ですからね。送っていきますわ」
紫は幽々子の眼を再び覆う。前はすっかり怖がっていたが、二回目ということもあってか、幽々子は紫に身を預ける。
「じゃあ藍。後はよろしくね」
「わかりました。お気をつけて」
藍は礼儀正しく返事をした。
「絶対に眼を開けては駄目よ?」
「わかってるわ」
紫は例の言葉を紡ぎ出す。跳ねるような心地のよい声色と共に暖かい風が体を包み込む。風に巻き込まれ桜の花は一片一片空を踊る。
しばしの夢ごこちの後、身を刺すような冷気が肌を伝う。
「さぶっ」
幽々子の体が思わず震える。と同時に紫は覆っていた手をのけた。
「もう開けていいわよ」
「んん~寒いわ」
腕を組んでふるえる幽々子。外は先程までの夕焼け空とは打って変わって暗かった。
「紫は寒くないの?」
「私は妖怪ですもの」
紫は幽々子の質問に笑って答える。
「冷え込んで風邪でも引いたらいけないわ。早く帰りましょう。家の近くまでお送りしますわ」
「わざわざごめんね」
幽々子は殊勝に謝る。二人は静まり返った都の方へと歩を進める。
重苦しい夜の闇に包まれた街は、普段とは打って変わってしんと静まりかえっており、幽々子と紫の足音だけがただ水滴を落としたかのように反響する。もし紫がいなかったら今頃怖さに打ち震えていただろうなと自嘲気味の笑みを思わず浮かべる。なんといっても自分の隣を歩くのは数多の妖怪の中でも一際強力な力を持つ大妖怪なのだ。これほど心強いことはないだろう。
二人は夜の街を闊歩する。二人が目指すのは街の北西に位置する幽々子の家――
「ねえ紫……」
「何かしら?」
「紫を一回私の家に招待したいのだけれど。今日も紫の家? か何かは知らないけど招待してもらったのだし。お返しぐらいしたいわ」
突然の幽々子の言葉に紫は驚く。
「あら、迂闊に私なんかを招待していいのかしら?」
「どうして? なにか問題でもあるの?」
「私自身には特に問題はないのだけれどいきなりお邪魔させてもらっていいのかしら? 一応私はこれでも妖怪なのよ?」
「別に問題ないわよ。お家に招待するというか、ちょっと会わせたい人がいてね」
「ああ。もしかして例のお兄さん?」
「うんそう。兄さんも紫に会いたがってたし、なんか兄さんと紫って絶対波長合うっていうか……。よく分からないんだけどそんな気がするのよね」
「ふふふ。幽々子ったら相変わらずお兄さんにべったりなのね」
「ちょっとやめてよ。別にそういうのじゃないから!」
顔を真赤にして反論する幽々子。面白い具合に良いリアクションを示す幽々子に満足したのか、紫は楽しそうに笑う。
「ごめんごめん。ちょっとからかっただけよ」
幽々子は相変わらずむっとした表情で紫を見る。
「まあ私も幽々子のお兄さんには会ってみたいわね。どんな人なのか気になるし」
「そう? だったら今度暇なときがあったら招待するわ」
「ではお言葉に甘えてお邪魔させていただきますわ」
まるで貴族の婦人よろしく深々と頭をさげる紫。その様子を見て幽々子はうんうんと満足気に頷く。
「うん。待ってる」
そう話しているうちに二人は幽々子の家の前へとたどり着いた。周りの家と比べると一際壮麗な様相を示す幽々子の家。幽々子は、蝶の文様が彫られた職人芸を感じさせる木製の門に手をかける。
「今日は有難う。帰りまで送ってもらったりと色々お世話になったわ」
「別に構わないわ。むしろ私の方こそ今日は付き合ってくれて有難うってお礼をしたいぐらいだもの」
玄関の前で二人は笑いあう。
「じゃあね、紫。おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
月の照らす夜闇のなかで二人は別れを告げた。
表門を通り、牛車を停めてある車宿を傍らに幽々子は歩を進める。砂利道を踏みしめる自らの足音のみが、ただ響きわたっては消えた。道の両側にはさびれた雰囲気の灯篭が何基かぽつりと立っている。本来明かりとして機能するそれは、観賞用にと父が飾ったものらしい。夜闇に浮かぶそれは、普段明るい時に見るものとは全く違う、妖しい雰囲気を醸し出していた。
風流を愛した父。幽々子は叔父からそう聞いていた。物心ついたころにはすでに父は出家していたために、幽々子には父という存在がどうにも希薄で、実体感のない概念だった。そんな父が残したこの家。春には桜が咲き、夏には緑が生い茂り、秋には銀杏と紅葉の紅葉が美しく、冬には一面の雪景色が広がるこの家を幽々子は好きだった。自然と人が調和した風景……そんな家を作った父とはどんな人なんだろうかと思う。
砂利道を抜けた先、中門から靴を脱いで中門廊を通る。南の対の屋から伸びるそこは、歩くたびに床の木がぎしぎしと音を立てていく。静寂の暗闇の中、乾いたその音に急かさせるかのように幽々子は足をすすめる。
こんなに夜遅くまで外出していたのだ。兄にも叔父にもとてつもない迷惑をかけているだろう。そう思うと、幽々子の足がよりいっそう早くなる。中門廊を抜け、反渡殿を通り、寝殿の前へと足をすすめる。
「なんて言われるかしらね……」
自嘲気味に幽々子は言うと、深く深呼吸をして、寝殿への扉へと手をかけた。
「遅い」
門を開けた先に待っていたのは、腕を組みながら言う兄の不機嫌そうな声だった。
「ごめん兄さん。ちょっと長話が過ぎてしまって……」
「全く……。心配かけさせるなよ。女がこんな夜遅くまで夜道を歩いてたら危険だろう。近頃は物騒だって話だしな」
「本当にごめんなさい。次からは気をつけるわ……」
しょんぼりと肩を落とす幽々子に、隆聖は深い溜息をつく。
「本来なら小一時間ほど怒鳴りつけたいところなんだがな。もう夜も遅いし、今回は勘弁しておいてやろう。とりあえず飯は用意してあるから。さっさと食うぞ」
「まだ食べてないの?」
「まあな。叔父さんは先に食べて寝てしまったけど。離れに女中さんが用意してくれた飯があるから」
隆聖はそういうと食事が用意されている西対へと行ってしまった。その姿を幽々子は慌てて追った。煌々と夜空に輝く満月。それは普段見る月よりも大きく、紅く輝いていた。
「今日は月が綺麗ですね」
「ああそうだな」
二人は夜空を見上げていう。
「で。今日は何をしてたんだ?」
冷めた汁物をすすりながら、隆聖は口を開いた。
「んー。何をしてたんだろう」
「なんだそれ」
「紫とただ話してただけなんだけどね。まあいろいろあったのよ」
「ほう。こんな夜遅くまで?」
「一応……うん」
「ふーん」
上目遣いで様子を伺う幽々子に、隆聖はただそう答えた。
「詳しく聞かないの?」
「お前が言いたくないなら別にいいさ。人には誰にも言いたくない秘密が一つや二つあるものだからな。もっともお前が言いたいんなら聞いてやるけど」
「うーん。言いたくは……ないかな?」
「だったらそれでいいじゃないか」
至極簡明。それが隆聖の人柄であり、性格であった。
誰にも無理強いはさせない。
でも、もしも何かにつまづいて困っているのなら。
何かに絶望しているのなら。
そっと手を差し伸べてやろう。
そんな兄の人柄を、幽々子は慕っていた。
「まあでも夜遊びはあまり感心できんな。ちょうど都でも謎の疫病だったりが流行ってて乱れた世の中になってるらしいし……」
「疫病?」
「俺も今朝初めて聞いたんだが、都のお偉いさんたち数人が急に謎の突然死を遂げたらしい。それが医者が見てもなんの病気かわからんというようで。体にも特に目立った外傷はないらしいしな……」
「まあ。恐ろしいわね……」
「別に夜遊びに直接関係あるわけでもないが一応気をつけとけよ」
「うん……」
二人は黙々と料理に手をつける。
流れる沈黙……
幽々子はなんとか話題を見つけようと努力していた。
「そういえば兄さん。突然なんだけど紫と会ってみない?」
「ああ、彼女に言ってくれたのか?」
「うん。紫も兄さんに会いたいって言ってたし、ちょうどいいかなって」
「そうか。それは楽しみだ。期待しておくよ。」
隆聖は口元に笑みを浮かべる。
「ちなみにその紫という娘はどういう子なんだ?」
「ひとことで言うと、変な人よ」
「ははっ。それはそれは。ますます期待が高まるなぁ」
ころころと笑いながら、茶をすする隆聖。その様子を見て、幽々子は微笑んだ。
「でもね……紫はとっても強くて、頼りになって、かっこよくて、賢くて、美しくて、大人びていてね、もうとにかくすごいのよ!」
「お前は相変わらず紫嬢にべったりだなぁー」
「そのセリフも紫にいわれたわよ」
隆聖は紫を眺める。その目は兄の目というより、まるで娘の姿を見る親の目のようだった。
「まるでお前は紫嬢に恋してるみたいだな」
唐突に放たれた隆聖の言葉。一瞬幽々子の体が固まる。
「……………………………………………………………え?」
幽々子の顔がみるみる真っ赤になっていく。。
「えええええええええええええええええええええええええええええええ!?」
幽々子が大声で叫ぶ。
「え? だ、だって私も紫も女の子だし、そ、そもそも恋なんて成り立つわけがなないじゃない!」
「そうか? 例え同性でもそこに愛があれば恋は成り立つと俺は思うけどな」
隆聖はまるで専門家よろしく真剣な様子で言う。
「そ、そうなの? 確かに私は紫が好きだけどそれが恋なんて。そもそも紫が私のこと好きかっていうと別にそんなことはないだろうしでもでもでも」
色々と思考回路が乱れてショートしている幽々子を眺めて、隆聖は満足する。
「まあそれは冗談として、とにかく期待しているよ」
冗談、と言ったにもかかわらずあれやこれやと悩む幽々子。
彼女の苦悶は一晩中続いたという。
隆聖との些細な会話も終え、布団へと潜り込んだ幽々子。
――今日も疲れたなぁ――
暖かい布団の中で、幽々子は今日のことを回想する。紫との不思議な経験。隆聖との会話。障子から漏れる月光が夜の雰囲気を醸し出す。
――疲れたし寝よう――
おやすみと一言自分に言い聞かせて幽々子は眠る。
ゆっくりと落ちていく意識――
広がるのは一面の桜の花と春の陽気な暖かさ。
雄大に咲く桜の下に佇む女性の姿。
美しい金の髪をなびかせて彼女は言う。
「桜の花がなぜ赤いかしっているかしら」
彼女は舞い散る花びらを手の上に乗せて言う。
「それはね――」
風が吹き荒ぶ。春の匂を含んだ芳醇な風。
「桜の樹の下に**が埋まっているからよ」
妖艶に微笑む彼女は、とても美しかった。
季節が過ぎ、春。生命の息吹がそこかしこに溢れかえる躍動の季節。大妖怪八雲紫は幽々子の家へと足を運んでいた。春の空気を全身で感じながら紫は蝶の紋様が彫られた門の前へと着いた。
「さてさて。勝手に入っていいのかしら?」
紫がそう悩んでいるとおもむろに門戸が開いた。中から出てきたのは、白髪を生やしたまるで仙人のような様相の老人だった。
「どうぞ中に」
礼儀正しく言う老人に対し、紫は礼を言って優雅に門をくぐる。砂利道を抜けた先には、大きな家屋と庭が広がる立派な豪邸。紫と妖忌はゆっくりとした足取りで歩を進める。
「それにしてもお久しぶりね、翁」
紫は視線を妖忌へと向ける。妖忌の顔のシワがより一層深くなる。
「こうしてあなたと再び巡り合えるなんて不思議なものね。これも一種の縁なのかしらね」
「それがお主の象徴だろう」
「私の象徴……。いい響きだわ」
ふふ、と紫は薄く笑う。
「で。お主は一体何を企んでいるんだ?」
「企むなんて。人聞きが悪いですわ。私はただ……」
言いかけて止まる。思えば自分はなんのために存在しているのだろう。
はっきり断言できない。
自分は本当に正しいのだろうか。
心のなかに浮かぶ形のない不安。
でも――
「たしかにこれは私のエゴかもしれない。でも私は信じてるわ。自分の行動は間違ってなんかいないって」
強く言う紫に、しかし妖忌は静かに溜息をつく。
「危険だな。どこまでも危険でもろくて儚い。何年経ってもお前は成長しない」
「女の子は何年経っても心は少女のままなのよ?」
厳しく言う妖忌に紫は明るく返事した。
――そう。今はただあの子のために――
「初めまして。八雲紫と申します。この度、お言葉に甘えてこうして家にお邪魔させていただきました。幽々子さんにはいつもお世話になってます」
隆聖に対して深々と礼をす紫の姿を隆聖は興味深げに眺める。
同性でさえも気を引くような美貌、流れるような金の髪。そして妹がまるで姉のように慕う人物。好奇心の強い隆聖には非常に興味深かった。
「これは利発そうなお嬢さんだ。こちらこそいつも愚かな妹がお世話になってるようで」
「ちょっと、愚かなってなによ」
幽々子は兄のいいように声をとがらせる。
「紫。こんなのの言うことなんて真に受けなくていいから」
まあまあと紫は仲裁する。幽々子は不服そうにするも渋々と座り込んだ。
「ただの冗談だよ。そうだ幽々子。女中さんにお茶と和菓子を三人分頼んできてくれ。何もお出ししないのは失礼だからな」
思い出したかのように隆聖は口を開く。
つまり少しの間席を外して欲しいということ。幽々子もそれに気づかないはずがなかった。だからこそ彼女は素直に命令を聞く。
「はいはい」
諦めたかのように幽々子は言うと、襖を開けてぱたぱたと早足で廊下を歩いて行く。
残った隆聖と紫。流れる沈黙の時間。遠くで小鳥のさえずりが響き渡った。
隆聖はこほんと咳払いをして話を始める。
「君のことはいつも妹から聞いているよ。あの幽々子がとても嬉しそうに君のことを話すのでね」
「まあ。それはありがたい事ですわ」
「あの子はもう言ったかもしれないが――」
あえて間を置く。隆聖の顔つきが真剣な顔になる。
そう。これはとても繊細で重要な問題……
「幽々子はもともと霊感の強い……というか。人とは違った能力を持っていてね。故にあの子は幼い頃から私を含む家族以外に心を許さず、ずっと自分の殻に閉じこもったままだったんだ」
「ええ、存じあげております」
紫は静かに答える。人は自分とは違うものを疎む生き物だから。具体的には言わずとも、そこには人々からの迫害意識が少なからずあった。
「だからこそあの子が友人を――君の話をしてくれたのは本当に驚きだったんだ。他者を恐れて、ずっと他者との関係を拒んできたあの子が自分から友達のことを話すなんてね。幽々子が自分から慕うような、紫という娘は一体どういう人物なんだろうと思った」
「そうですね……。私が初めて幽々子に会ったときは、丁度今くらいの春の季節。桜の花びらが舞う下で丁度出逢ったんですよ。幽々子を一目見たときに思ったんです。この子は私に似ているって。かく言う私もその昔彼女と同じような境遇にありましたから」
隆聖は紫の話にうなずく。同じような境遇……つまり彼女にも幽々子と同じように特異な能力をもつが故に人々から疎まれた経験があったのだろうと推測する。
「幽々子は私を見たときこう言ったんです。お姉ちゃんも視えるの? って。私は丁度その時、霊魂とちょっとお話をしていた……と言って信じてもらえますか?」
何気ないように放たれた霊魂という単語。恐らく隆聖も幽々子という存在がなかったら信じなかったであろう、人が住む日常とは大きくかけ離れた響き。だが今の隆聖ならその言葉を信じることが出来る。この世界には自分の目には見えない、不思議な力があるらしい。
「信じるよ。どうやらこの世界は自分が見える世界だけじゃないらしいしな。全く不思議なものだ。そしてなにより君が嘘を付いているとは思えないからね」
「ご理解のあるお言葉、感謝します。以来彼女には気に入られたのか、何度かお話しするようになりまして。それが幽々子との付き合いの始まりですね」
「なるほど。俺も小さい時からあいつの面倒を見てきたつもりだが、あいつの心を開くにはやはり同じ立場に立てる人間が一番よかったのかな」
自分を卑下して言う隆聖。その様子を見て、紫は口を開く。
「それは違います」
強い意志のこもった、凛とした顔つきで紫は断言する。まるで悠久の歳月を感じさせるかのような雰囲気に隆聖は圧倒される。重々しくのしかかってくるようなこの空気を隆聖は味わったことがある。どこまでも鋭く峻厳で、頼りになる例の庭師――魂魄妖忌との会話。
「確かに幽々子は私に心を開いてくれました。ですがあの子の心のなかには、私以上にお兄様の存在が強いはずです。誰にも理解されない孤独の世界で、自分を理解してくれる人がいるということはとてつもなく大きなことなんです」
孤独を知っているものだからこそ言える言葉なのだろう。紫の言葉の裏には、過去の己と比べている様子が伺える。
「私には自分を理解してくれる人がいませんでした。皆から蔑まれ、憎まれ、疎まれて。だから私には幽々子の気持ちがわかりますし、同時に彼女が羨ましくもあるんですよ。こんなにも自分を理解してくれる人がいるんですもの」
紫は視線を隆聖へと向ける。強烈な意思のこもった視線に、隆聖は思わず怯む。ただの少女とは思えない気迫に、彼は静かに悟った。彼女には、自分ごときには理解出来ない絶対的な何かがあるのだと。あの他人を拒絶していた幽々子が慕うほどの何かが。
「君はどうやって過去を乗り越えたんだ?」
「乗り越えてなんかいないですよ。私はいつまでも過去に縛られたまま今を生きているんです。だから私は幽々子を放ってはおけない。まるで昔の自分を見ているみたいだから。あの子は危険なんですよ、今のままでは。一見安定しているように見えても、実は少しでも風が吹けば散ってしまうほど儚い存在なんです。あの子を救うためにはお兄様のような理解者が少しずつ環境に慣らせるしかないんです。だから……どうかあの子を守ってやってください」
守る――言葉にすれば軽いが、その言葉は隆聖に重くのしかかった。
「ああそうだな。そのためには是非君の力も貸してくれ」
「ええ、喜んで」
交わされる二人の言葉。約束。
――本当にすごい娘だな――
隆聖は思わず苦笑する。器の違いを見せつけられた気分だ。だが気分は悪くない。むしろ清々しいくらいだ。もっと精進しようと隆聖は決意した。
遠くでぱたぱたと足音がする。和菓子とお茶を持ってきた幽々子は、笑う隆聖を見て不思議そうな表情を浮かべた。
穏やかな風が吹く、春風駘蕩の候。
何事も無く過ぎる今に感謝しよう。
思えば何が悪かったのだろう。何度考えても出てくるのは後悔だけで答えは一向に出ない。この世はとても理不尽で誰にも変えることが出来ないものらしい。
だから私はこの世界を変えようと思った。もしこの世界に神様がいるなら、神様なんて否定してしまおう。少なくとも自分が作った世界のほうが今の世界より数億倍はマシだ。
神様なんて昔から大嫌い――
桜の季節の終わり際。幽々子と紫はいつものように桜の木の下で話しをしていた。都会を離れ、自然に囲まれた景色は、心がどことなく穏やかになる気がする。幽々子は紫の膝に寝そべりながらすっと両目を閉じる。暖かくて、優しい春の匂い。天国というものがもし存在するなら、まさしくこんな感じなんだろうと思う。ときどき顔に振りかかる桜の花びらがどことなく風流だ
「桜の季節もそろそろ終わりね」
紫の声がする。心地良く響く声に幽々子は答える。
「桜を見られるのもあと少しと思うと身につまされる思いだわ」
「あらあら。限りある美だからこそ桜は美しいのよ」
「そうね。でも……こんな日がずっと続いていたらいいのにね」
幽々子がふと呟く希望。誰しもが望んで、決して叶うことのない望み。いつか迎える別れの日に打ち震えながら、遠く届かない思いにそれでも人は想いを馳せる。永遠を夢見て。
「そのことなんだけどね、幽々子。しばらく用事があるから会えなくなるかもしれないわ」
「用事?」
驚きのあまり、思わず紫の膝から起き上がる。
幽々子は首を傾げる。心のなかに吹く、不安の風。
「うん。ちょっと外せない大事な大事な用事」
「いつ、帰って来れる?」
不安気に尋ねる幽々子の頭をそっと撫で、紫は言う。
「いつになるかしらね。一月もあればある程度の目処は立つと思うのだけれど……」
「例のあれ……?」
「そう。私の夢……」
紫は雲ひとつない空を見上げて言う。彼女の夢――その一歩となる計画。
幻想郷プロジェクト。
幽々子はそのことを嬉しく思う一方で、どこか抑えきれない不安があった。ただしそれは紫の考えに対するものではなく、紫が何処かへ行ってしまうことへの不安。なんと子どもじみた考えだろうと思う。自らの夢を追いかけようとする紫に依存する自分が許せなくて、心のなかに頭を擡げた考えを殺す。
「心配そうな顔しないでよ。別にもう会えなくなるわけじゃないんだから。ただほんの少しの間のお別れ」
「うん。私待ってるから。またお話ししましょう」
精一杯の笑顔を作って幽々子は答えた。
紫がこの地を離れてから一週間ほど、幽々子は特に前と変わらない生活を送っていた。ただひとつ、紫がいないという事実を除いては。花びらの殆ど散った桜の下で、なんとなく思いを馳せてみる。やっぱり自分は紫に依存しているのだろう。
眼下に広がるのは、雄大な二つの大河と人々の賑わう都。季節の移ろいを感じながら、そこはかとなく憂鬱を感じる。紫がいなくなった後でも幽々子は時々この桜の場所へと足を運んでいた。特に意味があるわけではなく、ただ心の赴くままに。日々散ってゆく桜を眺めるながら、木の下で寝そべるだけのともすれば無意味な行為。しかし都が例の疫病などの騒ぎで慌ただしい中、こうして落ち着いた時間を取るほうが彼女にとっては意味の有ることだった。
小鳥が囀り、涼風に髪が靡く。誰も来ることのない空間で、その心地の良さに思わずあくびをする。段々と重くなる瞼。そのまま彼女は深い夢の世界へと落ちていく。
瞳の中に広がる暗闇の世界。あまりの息苦しさのあまり、必死でもがく自分がいる。いつまでたっても終わることのない闇の世界。延々と。延々と。それが怖くて恐怖に打ち震える。
だからこそ彼女は手を伸ばした。無邪気に、純粋に、素朴に――
闇を壊すために。
眠りから覚めた幽々子の眼に最初に入ってきたのは、赤く染まった夕焼けの空だった。とても怖い夢を見ていた気がする。終りのない繰り返し。気づかないうちに体が汗を掻いていた。
――もうこんな時間か――
あまり遅くなりすぎるとまた隆聖に怒られてしまう。束の間の休息から幽々子は重い腰を上げて、都の方へと足を向ける。
都の交通の拠点となる大通り。政治の中心となる宮中へと繋がる、普段は人々が賑わうこの通りも、夕暮れの時間と、例の疫病の影響もあってか人々もまばらである。
そんな通りを、幽々子は物思いにふけりながら闊歩する。自らの在り方という漠然とした課題を考えながら。自分は他者――隆聖と紫に依存しすぎなのである。いつまでも甘えている自分、そんな自分が嫌だから彼女は必死に考えた。自らの進むべき道を。取るべき行動を。
思えばすべての原因は自分自身の能力にある。死霊を操る程度の能力。望んでもいないこの能力に今までさんざん振り回されてきた。いや、正確には今もだ。なるべく当たり障りの無いように、波風を立てないように今を生きているだけで、本質は何も変わっていない。所詮自分は心の奥深くで震える臆病な少女なのだ。そんな自分が許せない。
欲しかったのはこんな役立たずでただ人から気味悪がられるだけの力じゃない。今のこの状況を改善するような、すべてを打開できるような、そんな絶対的な力。
考えて、思わず笑ってしまう。ありもしない能力を渇望し、焦がれる自分の姿はとても愚かしく見えた。ずっと紫の近くにいた影響が多きすぎたのかも知れない。彼女の能力は自分なんかとは比較にならないほど強大で偉大だ。近づきすぎたせいで感覚が麻痺していたが、紫と自分では器が絶対的に違うのだ。それこそ正に天と地のように。地を這い蹲る人間が、天の神様になることを夢見ても叶うことなんて決して無い。
ならば自分が取れる行動はなんだろう。
考えを止めてはならない。小さな存在だからこそ常に抗い続けなければならない。
ならば自分は――
そう考えてふと視界が揺れる。どうやら考え事をしていたせいで誤って人とぶつかってしまったようだ。謝ろうと視線をぶつかったであろう人へと向ける。
恐らく宮中に仕える上流貴族だろう。立派な紺の束帯を着たその男の側には三人ほど側近と思われる人物がいた。男は骨ばった顔を怪訝そうにして言う。
「気をつけろ娘」
男は低くのしかかるような声で幽々子に言う。
「申し訳ございません。少し考え事をしていたもので」
「おや?」
その男は首を傾げる。
「お前まさか西行の娘か?」
「え? まあ一応そうですけど」
「ほう。お前が例の憑き物少女か」
男の怪訝そうな顔が一層強くなる。幽々子はその感情を知っている。自分を蔑むときの視線、あるいは自分に対する恐怖の視線。冷たく差すようなその視線に幽々子は吐き気がする。幼い頃からうけていた視線だが、それでも決して慣れることはなかった。
「噂には兼兼聞いているが……」
男は続ける。その様子を見て、辺りの人々が注目し始める。片や朝廷の上流貴族、片や人ならざる能力を持つ少女。二人の会話が注目されるのは仕方のないことかも知れない。
そもそも幽々子が人々から疎まれる発端となった事件――
おおよそ五年ほど前。当時、彼女は人々にとって霊感の強いただの少女であった。彼女の父親が風流を愛する特殊な人であったせいか、彼女の霊感もまた、そういうものなのだろうと人々に受け入れられていた。だから近所の人とも交流があったし、近くの子供達に混ざって遊んだりもしていた。
しかし、そんな彼女の“普通”の幸福は、突如として音を出して崩れる。運命の歯車が歪な回転をしながら、くるくると、狂狂と。
季節は秋の始まり。夏の暑さがわずかに残った悶々とした空気の中、幽々子は近所の子供達と混じって遊んでいた。おはじき、将棋、鬼ごっこ……。皆とただひたすらに遊ぶ時間が幸福すぎて、その幸福にすら当時は気づかなかった。この幸せな世界が崩れるなんて想像すらしなかった。
他愛のない話をしていた三人の女の子。
たった。
たったそれだけなのに。
突然二人の女の子は、まるで操り人形の糸が切れたかのように倒れてしまった。何が起こったのかすら分からなかった。さっきまで自分と話していた子が、突然帰らぬ人となってしまったのだ。
二人の謎の死、幽々子の能力から人々は噂した。
彼女が二人を殺したのではないか――?
もちろん彼女は否定した。なぜ自分が友人である彼女らを殺さなければならないのか。それでも人々の間ではそういう認識が蔓延していく。不安が不安を呼び、恐怖が恐怖を呼び、無限に続く下りの螺旋階段。
自分はなにもしていないのに。それでも自分に向けられる恐怖の視線。
抗って抗って抗って――
全部、どうでもよくなった。
いくら抗っても認められない閉塞感に嫌気が刺した。何もかもが嫌になって自分の世界に閉じこもった。自分を認めてくれる人に依存して――
「今、都でも流行っている例の疫病。どの医者に頼んでも原因がわからないという。原因の分からない突然の死。まるで操り人形の糸が切れたような死に方――」
「偶然にしては出来すぎていないか?」
男は問い詰めるように言う。
「つまり……。私がやったんじゃないかとおっしゃりたいんですか?」
声を荒げる幽々子。言葉こそ礼儀正しいが、そこには明確な敵愾心が含まれていた。揉め事の雰囲気を感じたのか、見守っていた民衆がざわめく。そもそも、父が元北面の武士と言えど、彼女程度の身分で都の政治の中枢を担う上流貴族に逆らうこと自体が異常なのだ。
「口の聞き方に気をつけろ娘」
男は声を荒らげて言う。その表情には幽々子に対する憎々しげな感情が読み取れる。
剥き出しの敵意。自分に向けられる負の感情に、幽々子は思わず溜息をつく。
五年前からずっと晒され続けてきた視線。
もう慣れた――
辛いのなら、苦しいのなら。全部無視してしまえばいい。何もかもなかった事にしてしまえばいい。そうでなければ彼女の精神はとても耐えられなかった。
なのに――
心のなかで蠢くこの感情は何なんだろう。いつもなら嘲笑して見下して、それで終わりなのに。心のなかで雄叫びを上げる、どうしようもないこのざわめきは一体何なんだろう。
「全く。これだから作法の成っていない小娘は」
幽々子は心のなかで悲鳴をあげる。塞ぎ込まずにはいられない。抑えきれない感情。溢れ出る感情。なにもかもが全てが一切合財が怖い――
「例の西行といい、どうしてお前たち一族は無作法で分をわきまえないのか」
あまりの恐怖に幽々子の体が打ち震える。
嫌だ忌々しい鬱陶しい厭わしい疎ましいおぞましい汚らわしい悲しい口惜しい恨めしい悔しい苦しい恐ろしい憎らしい。溢れ出る数多の感情の渦。
五年間、彼女がずっと貯めこんできた負の激情。いうなれば感情の膿。
「こんな得体のしれない娘を匿って大事にするとは、お前の兄も本当に愚かな奴だ」
何かが切れた音がした。
それは幽々子がずっと大切にしてきた心の拠り所。
あるいは彼女の精神のよすが。
暴走する感情を押さえ込んでいた最後の抑制。
心の奥に施された封印が壊れる。
男の体が突然倒れる。
まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。その様子は、「疫病」と呼ばれる現象と全く同じだった。慌てふためく付き人の前で、驚愕の表情を浮かべて佇む幽々子。
何が起こったのか。周りの民衆には想像に難くなかった。
――幽々子が男を殺した――
もはや変えられようのない事実に、民衆はパニックに陥る。
夕闇の落ちる華やかな都で、終わらない最悪の悪夢が幕を開ける。
日も落ちた夕暮れ時、人通りの少なくなった通りで隆聖は帰路をたどる。
彼の本来の仕事、上皇の護衛係――北面の武士。父の跡を継いだ、という彼本人にとっては不本意な形だが、職業の自由があるわけでもないので彼は決して文句を言わずなかった。
そして彼は一日の研修を終え、家へと帰るところだった。元服を迎えたとはいえ、彼は齢たったの十六。上皇の護衛という重要な職業ゆえ、そのための研修期間を彼はこなしている最中である。知性、体力、道徳、どの要素が不足してもこの仕事は務まらない。そういう意味では、彼は非常に優秀であった。なにより勉強家で、人間性も良く、体力の方面では常日頃から妖忌にしごかれているせいか抜群の能力を持っていた。
後僅かの研修期間を終えれば、晴れて北面の武士として本格的な仕事を始めることになる。護衛という仕事の都合上、基本的に上皇の側に詰めて仕事をこなすため、家へと帰る時間が少なくなるだろう。そのことが隆聖を悩ませている事柄の一つだ。自分がいなければ幽々子は生きていけない……というほど自惚れてはいないが、それでも心配ではある。我ながら妹馬鹿だとは思うが、たった一人の妹なのだ。彼女の境遇を知っているからこそ、兄として彼女のことは全力で補助すべきだろう。
少し前に例の少女と話し合ったこと。
決意は、揺るがない。
隆聖は家路を急ぐ。薄暗くなった小道を抜けて、宮中へと続く大通りへ出る。
例の疫病の影響か、静まり返った都――ではなく。
普段とはまた違った騒がしい雰囲気。なにか事件が起きたのだろうか、人々が眉を寄せ合って話をしている。その様子に違和感を感じた隆聖。
何故だろう、胸騒ぎがする。
大通りの端、歴史を感じさせる古びた民家の前で話をする二人の女性。
隆聖はぐっと右手を握り、足をすすめる。
「すみません。これは一体何の騒ぎなんですか?」
礼儀正しく尋ねる隆聖に、中年の女性が息を潜めるようにして言う。
「向こうの大通りの方で、例の憑き物の少女と朝廷のお貴族様が揉め事を起こして、何でも少女がお貴族様を殺めたそうな」
憑き物少女、つまりは幽々子の事。女性は隆聖のことを知らなかったのだろうか、あっさりと話してくれた。その話に、隆聖ははっと息を呑む。 恐らく彼女の身に何かあったのだろう。暴走した彼女の能力。話を聞く限りは事は一刻も争うほど深刻なようだ。
――あの子を守ってやってください
思い出される彼女との会話。
「……はは」
思わず笑いが溢れる。この深刻な状況で自分は何を笑っているのだろうと思う。
だが、彼の決心はより確固たるものへと変わった。
もしかしたら自分は生きて帰れないかも知れない。
それでも、あるいは、だからこそ彼は決意する。
彼は幽々子の元へと全力で走った。
この世界は非情で、不平等だ。あるいは平等故に不条理なのかも知れない。神様は人間を平等に扱うからこそ、決して人間如きに手をさしのべることはないから。
――どうしてこんなことになったのだろう。
――私が悪いのだろうか。
今まで何度この疑問を繰り返してきただろうか。答えが出ることはないと知っているはずなのに、それでも問わずにはいられない。空虚な絶望の中をただがむしゃらにもがき続けるだけ。終わりの見えない暗闇のなかで、彼女の精神は傷ついていく。
怒れる民衆に囲まれた中で彼女は思う。騒ぎを聞きつけたのか、武装した検非違使が幽々子の周りを囲み、その後ろを民衆が囲む。
重々しく渦巻く数多の人々の負の感情と視線。
恐怖、戦慄、不安、困惑、侮蔑
――やめてよ………………――
罵倒、誹謗、中傷、嘲笑、狼狽
――やめてよ………………!――
嘲弄、冷笑、恐慌、蔑視、軽蔑
――やめてよ………………!!――
睥睨、憂虞、疑念、懐疑、焦燥
――やめてよ………………!!!――
当惑、嫌悪、忌避、憎悪、厭忌
――やめてよ………………!!!!――
殺意、殺気、嘲罵、嗤笑、卑下
――やめてよ………………!!!!!――
蔑如、怨嗟、怯懾、畏懼、慴怖
――やめてよ………………!!!!!!――
慴懼、恐悸、惑乱、懍慄、疑懼
――やめてよ………………!!!!!!!――
刀で武装した長身の検非違使が、重々しく口を開く。
「西行の娘。貴殿を例の疫病事件の起因とみなし、殺人の容疑で身柄を拘束する」
殺人、人を殺めたその罪は非情に重い。罪を犯したものは法律に則り相応の厳罰が課せられる。ことに今回の件は例の疫病事件も関与しているとみなされ、彼女は大量殺人を犯したものとみなされる。まかり間違っても死罪は避けられない。
絶望する彼女に向かって伸びる非情な“裁き”の手。
心のなかで悲痛に叫ぶ彼女に、
「お待ちください!!」
響く男の声。彼女の心の拠り所で、希望とも言える存在。
「兄……さん?」
自分をかばうようにして立つ兄、隆聖の姿を見上げて彼女は呆然と呟く。
「兄さん!」
幽々子は思わず叫ぶ。
誰しもが自分を嘲笑う中で、たった一人の味方。彼女にとってはそれが何よりも嬉しかった。
対する隆聖は幽々子の方を振り向かず、まっすぐ正面を見据える。一面に広がるのは人々の悪意と敵意と恐怖の塊。どす黒い瘴気の塊に当てられ、思わず顔をしかめる。
「その者は殺人を犯した重罪人だ。それを庇うというのであれば貴様の身も拘束する」
「少しお待ちください。彼女が殺人を犯したという確かな証拠はあるのでしょうか?」
実際幽々子が明確に殺人を犯したという証拠はない。しかし――
「確かにその娘が直接手を下したというわけではない。しかし、あの場の状況的証拠を考慮に入れて都や民に害なす危険性も高い。そのような危険な存在を野放しには出来ないのだよ」
それに合わせて喝采する民衆。つまり幽々子が殺人を犯したからではなく、彼女が民衆にとって邪魔だから消そうというのだ。皆が求めているのは証拠なんかじゃない。恐怖の対象である幽々子を視界から、そして世界から消し去ることだ。その事実を悟ったのか、隆聖は歯ぎしりをする。
結局穏やかな手段では幽々子を助けることが出来ない。この場にいる自分以外の誰もが幽々子を消し去ろうとしている。一縷の希望も見えない絶望的な状況で、それでも隆聖は鋭く迫り来る検非違使を睨みつけたまま幽々子を庇う手を決して下ろさない。
「普通じゃ駄目ならば、普通じゃなければいい……か」
「え?」
隆聖は幽々子にだけしか聞こえないほど小さな声で呟く。そして後ろを向いて彼女の耳元へささやく。
「ここから家まで全力で走って五分ほどだ。家に辿りつければ妖忌がお前を守ってくれるだろう。妖忌のそばにいればひとまずは安全だ。少なくとも俺なんかよりはよっぽど頼りになるだろう」
幽々子には隆聖が一瞬何を言っているのか全く分からなかった。その様子を見てか、隆聖は一瞬だけ笑った気がした。
「いいか? 生きろよ? お前だけは絶対に生きろ。たとえそれがどれだけ醜かろうと卑しかろうと、地べたを這いつくばってどこまでもどこまでも生きてくれ」
幽々子には彼が何を言っているのか分からない。それでも彼女の胸に喩えようのない不安が広がる。隆聖は幽々子に背を向けて、民衆へとにらみを利かせる。
「いや…………」
すがるように言う幽々子の声に、しかし隆聖は振り返らない。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
朦朧とする意識の中で、声が聞こえた気がした。
――ごめんな。――
叫ぶ幽々子に呼応するかのように、隆聖も張り裂けそうな絶叫を上げる。そして迫る検非違使の波を抜け、遠くから見物する民衆の集まりへと走る。誰もが一瞬何が起こっているか分からなかった。そして隆聖はまるで獣のような雄叫びを上げると、懐から懐刀を取り出し、三十路程度の男の腹へと、「突き刺した」。
勢い良く上がる血しぶきと、強烈な鉄の匂い。
あまりの突然の出来事にその場に居合わせた誰しもが唖然とする。そして一瞬の間の後にまるで小石を池に投げ入れたかのように広がる混乱という名の波紋。
幽々子とは全く違う、「明確な」人殺し。紅く染まるその光景に人々は恐怖を抱えて一目散に逃げる。それでも隆聖は立ち止まらない。次々に人々の腹を、腕を、足を、胸を狙って刀を振るう。耳につんざく恐怖と痛みの悲鳴。まるで地獄のようなその光景に止まらない涙を流しながら、それでも彼は愛する妹のために決して止まらない。あまりの凄惨な光景に、武装した検非違使が彼を取り押さえようと駆けつける。
もはや幽々子のことを見るものなど誰もいなかった。逃げるなら絶好の好機だ。しかし彼女は動かない。悪夢のような惨劇を網膜に写したまま、ただ立ち尽くすことしか出来ない。目の前で涙を流しながら惨劇を起こす兄の姿を見て、彼女もまた涙を流すことしか出来ない。
彼は自分を逃がすために、殺人という罪を自分から犯しているのだ。
自分を逃がすため……ただそれだけのために。
彼は自分が生きることを心から望んでいる。それこそ自分の命を投げ捨てるほどの覚悟で。
そんな彼が最後に自分に託した願い。
――逃げなければ――
彼女は涙を手で拭うと、恐怖で震える足を必死に動かす。
――逃げなければいけない――
こんな形をとってまでも血路を開いてくれた兄のためにも。
――逃げなければならない!!――
彼女は大通りの北へと走りだす。向かうは自らの家。涙で滲む視界を、彼女はおぼつかない足で必死に走る。
なぜこんなことになってしまったんだろう。考えても考えても答えはでない。
何が悪かったんだろうか。自分が悪いんだろうか。
心の奥から溢れ出る感情に彼女は潰れそうになる。
――ねえ神様!! どうして!!!――
溢れる悲しみの激情。おぼつかない足が小石にひっかかり、彼女の体はもたれかかるように倒れる。
「ねえ……兄さ……」
そして。
彼女は見てしまう。彼女が世界で一番見たくないもの。
隆聖が検非違使に刀を突き刺され、抑えられる姿を。
「あ……あ……」
あまりのショックに、彼女の瞳孔が大きく見開く。異常なまでに静かで、時の止まった世界。
隆聖の体は二度と動くことは無い。その事実に彼女のすべての感情が消え失せる。
何が間違っていたんだろうか。
彼に何の罪があったのだろうか。
今まで何度も自らに問うて、結局答えを出せなかった疑問。
感情を全て捨てた今の彼女は一つの答えを出す。
結局――
間違っていたのは、私じゃなくて、兄でもなくて。
全ての原因は、神様などというどうしようもなく莫迦で愚鈍な出来損ないが創り上げた虫けらのようなこの世界。
なんとも醜くて穢らわしい。
ああ、なんて下らないんだろう。
本当に下らない。
こんな世界に今まで自分は振り回されていたんだろうか。
なんども迷って、憤って、抗って。
それでもどうにもならなくて、何度も転んで何度もつまずいて……
全くもって馬鹿らしい。
だったらこんな世界……
――全部壊してしまえばいいよね?――
彼女は静かに立ち上がる。彼女の心にはもはやなんの感情も感じられなかった。
すっと両手を広げる幽々子。
緩慢な動作をする彼女の背中に、人ならざる異形のモノが浮かび上がる。
一切の生気すら感じられない、それの正体。
淡い蒼色の蝶の羽。
彼女の身長の二倍近くに広がる羽に包まれる彼女の姿は、見るものをひれ伏せさせるほど幽玄で美しかった。
彼女は歩き出す。ゆっくりと、しかし確実に。
この世界を潰すために――
激痛で朦朧とする意識の中で隆聖は思う。
――あいつは逃げ切ったかな……――
それが、それだけが彼の願い。
我ながらひどい人生だったなと思う。
妹のために人殺しなどという考えただけでも悍ましい罪を犯して死んでいくなんて本当にひどい死に際だ。
自嘲の笑みを浮かべる隆聖。
だが、後悔はない。
それが自分の望んだ結末なのだから。
――生きろよ、幽々子――
薄れゆく意識の中で、誰かが微笑んだ気がした。
逃げ惑う民衆の中で彼女はうっすらと微笑む。
その笑みはまるで子供のように純粋で、それ故底冷えのするほど恐ろしい笑み。
逃げる人々を、幽々子はひとりずつ潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して遊ぶ。自分がそう望むだけで人々がまるで糸の切れた人形のように死んでいく。
それが楽しくて楽しくて彼女は壊れたかのように高く笑う。
あれほどまでに自分を嫌って疎んだ人々の視線が一つずつ潰れていく。
なんて素敵なことなんだろう。
なんて楽しいことなんだろう。
私が悪いんじゃない。全部この腐った世界が悪いんだ。
だからこそ彼女はその行動を決してやめない。
逃げようとする人々を見て、幽々子は薄い笑みを貼り付ける。
「逃がすわけ無いじゃない……」
家へと逃げようとしたその女は門の前で倒れこむ。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
そう、これは償い。今まで自分を蔑んだ眼で見てきた報い。
幽々子は自分自身の能力に酔いしれる。
自分がずっと渇望していたのはこんな能力だったのかも知れない。
望んだだけでこの閉塞感に満ちた腐った世界を壊せる圧倒的な力。
彼女の心の中で狂った喜びが溢れ出る。
彼女は止まらない。
狂気に満ちたこの空間から皆逃げ去ったと見ると、幽々子は両手を広げる。するとそれに呼応するかのように背中の羽がゆっくりと羽ばたく。零れ落ちる淡い蒼の鱗粉が、まるで天使を連想させる。ただしそれは神の使いなどという穏やかなものではなく、気に入らないもの全てを死に誘う凶悪な堕天使。
彼女の体は少しずつ天高くへと昇っていく。眼下に広がるのはまるで米粒のようにも見えるちっぽけな人の群れ。彼女はその様子を見てひどく楽しげな笑みを浮かべる。
その笑みはさながら獲物を見つけた獣のよう。
彼女はためらわない。
群がる米粒をまた潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して潰して……………………………………………………
飽きてしまった。
彼女は気づいてしまう。
自分が今やっている行為の愚かさを。
たとえ彼女が人々を何人何十人何百人何千人何万人何億人と殺しても……
結局隆聖は生き返りはしない。
自分なんかを逃がすために自らの手を汚して死んでいった愛しい愛しい兄さん。
彼は決して生き返ることはないのだ。
その事実に、彼女は愕然とする。
彼女の心に広がる空虚な絶望の渦。
幽々子は紅く染まる兄の死体のもとへと駆けつける。
満足そうな笑みを浮かべるその様子が、彼女の悲しみを一層駆り立てる。
「ねえ、兄さん」
目尻に涙を浮かべながら隆聖の体をゆする。
決して返事が帰って来ないと知りながら。
「ねえ……ねえってば……」
それでも彼女は隆聖に話しかける。
自分が望んだだけで人が死ぬのならば。
自分が望んだだけで人が生き返らないのか。
「ねえ……起きてよ」
どれほど強く願っても。
どれほど強く祈っても。
響くのは彼女の叫びだけ。
「邪魔する人はみんな消えたから。だから起きて……」
涙が止まらない。
あまりの悲しみに心が、体が、潰れそうな気さえする。
「ま、またお話ししましょうよ。たあ、他愛のない話で、他愛もなくわら、笑って……」
嗚咽で言葉がとぎれとぎれになりながらも彼女は懇願する。
思い出されるのは隆聖の屈託の無い笑顔。
いつもそばにいて、いつも頼りになって、いつも厳しくて、いつも守ってくれて……
「お願いだから。お願いだから起きてよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
静寂の中、彼女の悲鳴にも似た叫びが反響する。
ただ、それだけ。
奇跡なんて誰も起こしてくれない。
分かっていたはずなのに。
それでもあり得るはずのない奇跡にすがって、そして打ちのめされて。
なんて惨めなんだろう。
無限に広がる静寂の中で、彼女は声にもならない叫びを上げる。
この世のどんな言葉でも表現できないような、悲しみで満ち溢れた声を。
都の外れ、美しい花びらを咲かせる桜の樹――墨染桜の下で彼女は静かに佇む。
あれだけの事件があったのに、この世界は何事もなかったかのように回り続けている。
「綺麗……」
彼女は散りゆく桜を見てふと呟く。
まるで血に染まったかのようなその色を見て、彼女は恍惚の表情を浮かべる。
満月の照らすこんな真夜中に一人で桜と戯れている私は誰なのだろう。
そんな当たり前のことさえ忘れて。
何もかもがどうてもよくなった。
今や脈々と流れる自然の流れに身をまかせるだけ。
彼女は眼をゆっくりと閉じる。
大気の流れがまるで体の一部に感じられる。
こんなにも世界は美しく澄み切っている。
ああ、こうして私は一人――――
幽々子は眼を開ける。一瞬で永遠の夢見心地。
彼女は目の前の桜をしっかりと見据える。手に携えるのは護身用にと持たされた短刀。
「兄さん、紫。……ごめんね」
彼女は短刀を華奢な腕で首筋へと押し付ける。
「―――――――――――――」
彼女の鮮血に染まった桜の花びらは、妖しくも美しい舞を踊る。
嫌な予感がしていた。今まで一度も感じたことのないような悪い予感。
でも、どうして――
「どうしてこんなことになってるのよ!!」
普段の温和な彼女からは想像もできないような声で叫ぶ。
美しい金の髪が特徴的な、大妖怪、八雲紫。
一面に広がるひたすらの死体の山を見て、彼女は憤る。見ただけでわかる明らかな異常事態。これだけの屍がありながら、人の死の象徴たる「血」が一滴も流れていない。まるで人の魂が肉体から直接切り離されたかのようで、気味が悪い。
幽々子は無事だろうか。
それだけが彼女の気がかりだ。
死体の山を超えて、紫は幽々子を探す。
――この騒ぎは一体誰のせいなのだろうか
胸に浮かんだひとつの疑問。明らかに人為的なこの惨状と、行方の分からない幽々子。
これらの事実が指し示す一つの推測。嫌な予感がする。
焦る紫の視線に、一つの死体が目に止まる。他とは明らかに様子の違う、紅く血に染まった屍。紫は思わず息を飲む。鮮やかな赤が一際目立つその死体には見覚えがあった。
「お兄……様……?」
幽々子の家に遊びに行ったときに話した、彼女の兄、隆聖。すでに死体となった彼の姿を見て、紫は驚愕の表情を浮かべる。なぜ彼が死んでいるのか。そして、彼が死んでいるということは妹である幽々子は一体……
紫は大きく深呼吸をする。今必要なのは迅速な状況把握。
彼女は右手で隆聖の亡骸の両目をそっと閉じてやる。そしてまるで祈るかのように恭しく合掌をした。
「本当に……やすらかな笑顔……」
一点の曇もない安らかな死に顔。その様子に紫は慈しむかのようにそっと言葉を投げかける。
「ありがとう……そしてごめんなさい……」
口ずさむのは彼女の謝罪と感謝の気持ち。口にすればなんと軽い言葉だろう。そうだと知りつつも彼女は言葉を紡ぐ。彼女に出来るせめてもの償いとして。
紫は歩き出す。何もかもが消え失せた静寂のこの世界で、全てを確かめるために――
夜空に煌々と浮かぶ満月。月光に照らされた墨染桜の下。
幽々子と紫が初めて出逢った思い出の場所。滅多に人の訪れない静寂の空間で。
紫は親友の姿を見つける。
「幽々……子?」
消え入りそうになる紫の声。黒と赤の無数の桜の花が舞う中、そこに横たわっているのは、紅く染まった親友の亡骸。紫はその様をただ呆然と見つめるしかなかった。
辺りに漂う強烈な鉄の匂い。
「……」
紫は唇をかむ。収まらないその感情に、彼女の唇からは赤い血の雫が流れ落ちる。
「ああ……。本当に……。何百何千何万の死を見てきても慣れることなんて無いわね」
かつて自分を可愛がってくれる人がいた。かつて自分を親しく思ってくれる人がいた。かつて自分を慕ってくれる人がいた。かつて自分を愛してくれた人がいた。かつて自分が愛した人がいた。
「みーんな。みーんないなくなってしまう」
そんな自分が嫌だから。そんな世界が嫌だから。もっと良い世界を、争いもなく平和で誰もが幸せに生きるような世界をつくろう。そう思っていたのに……!
「結局私は何も変わっていない……?」
はは、と紫は嘲笑する。
「かよわい親友一人も助けられないのに」
紫の目からは涙があふれる。
悔しい。
私の思いはこれほどまでに強いのに。
世界は手のひらをすり抜けるかのように予期せぬ方向へとうねりをあげる。
まるで世界が私を拒んているかのように……
「認めるものですか。絶対に! 絶対に私は認めませんわ! たとえ! たとえ神様が私を否定しても! 世界中の人が私を否定しても! 」
涙ぐみながら必死で叫ぶ言葉は、永い時を生きる大妖怪とは思えないような、かよわい少女の願いだった。
何度悔やんでも悔やみきれない。
結局は同じことの繰り返し。
何度も失敗して、何度も打ちのめされて、それでもどうにもならないから諦めて……
だが、今回は――
今回は彼女は諦めない。
たとえその行為が、この世の道理に反することになろうとも。
あるいはその行為が彼女の考えに背くことになろうとも。
彼女は躊躇なくその行為を犯す。
――死者の蘇生――
正確には、亡者としての転生。死によって一度現世を離れた魂を無理やり現世に召喚する禁忌の手段。言葉にするだけなら簡単だが、その行為にはおおよそ計り知れないほどの莫大な妖力を必要とする。彼女のような通常では考えられない規格外の大妖怪ですら相当の代償、リスクを背負わなければならない。一度死んだものを再び現世に呼び戻すという行為は、とても重大で由々しき行為なのだ。
それでも。彼女はためらわない。
絶望の中で泣き寝入りするだけの日々はもう嫌だから。
「幽々子がこのことを知ったらどう思うかしらね」
幽々子は自分の意志で死を選んだのだ。それを彼女の意志をねじ曲げてまで蘇生するというのはあまりにも自分勝手な発想。身勝手もいいところだろう。
それでも彼女は幽々子と共にいることを望んだ。
紫は幽々子を愛しているから。
その愛は狂っていると表現してもいいかもしれない。幽々子が紫に依存していたように、紫も幽々子に依存していたのだ。紫にとって幽々子は自分の娘のように愛しかった。まるで昔の自分を見ているようで、だからこそ彼女には自分なんかとは違った幸せな未来を築いてやりたかった。
それも今となっては叶わぬ望み。
今の彼女を突き動かしているのは、どうしようも無い後悔と、ただの自己満足。
そうと知りながらも彼女は突き進む。彼女の人生は、余りにも深い悲しみと後悔で塗りつぶされていたから。
「ごめんね……」
紫は墨染桜を鋭く見据える。
二人の初めての出逢いの場所。
思い出の詰まったこの場所を依り代に、紫は思いを綴る。
――西行妖――
幽々子の魂をこの世に結びつけるための楔。
代償は紫の“縁”。
彼女の妖怪としての成り立ち、其の本質を犠牲にする。
辿るのは崩壊への静かなカウントダウン……
私は誓う。愛するものが、平和に、幸せに暮らせるような世界をつくることを。
もしかしたらこの願いは私の独りよがりなのかも知れない。
誰にも望まれないことを必死で努力して、空虚に空振りしているだけなのかも知れない。
それでも。
例えこの世の全てを敵に回そうとも、私はあなたにもう一度会いたい――
のどかな風が頬をすり抜ける、春うらら。暖かな日差しが地上を暖かく照らすなか、紅く染まる桜を見上げながら、彼女は物憂げな笑みを浮かべる。触れれば壊れてしまいそうなほど危うい美しさと儚さを醸しだす彼女の姿を、遠くからそっと伺う人影――
美しい金の髪を風になびかせながら、彼女、八雲紫は思う。
「なんて言えばいいのかしらね……」
これは自分がわがままで望んだこと。
それでも、ただ悩むだけでは何も進まない。
そう悟ったからこそ彼女は行動を起こしたのだ。
「少なくとも……今あなたはこうして“ここ”にいる」
当たり前で、それ故とても幸せな事実。
紫は彼女のもとへとゆっくりと歩く。誇り高く、凛と歩く紫に彼女は目を移す。
不思議そうに見つめる彼女に、紫はゆっくりと口を開く。
「桜はお好きですか?」
突然の質問に彼女は首を傾げながら答える。
「好きですよ――。美しく咲いた桜の花が散りゆくさまは、とても奥ゆかしくて感慨深いものですもの」
まるで、人の儚い一生のよう……。昔彼女から聞いた覚えがある。
「申し遅れました。初めまして……ですよね?」
彼女は申し訳なさそうに紫に挨拶する。
ああ。
分かっていたこととはいえ、なんて辛い言葉なのだろう。
紫は心のなかで笑みにならない笑みを浮かべる。
彼女の魂は一度肉体を離れたのだ。魂自体は生前の彼女の本質でも、記憶は肉体に依存しているために今の彼女に生前の記憶はない。彼女が知っているのは自分が亡霊であるという事実、ただそれだけ。今の彼女にはそれ以外の記憶はすべて抜け落ちているのだ。紫との思い出も、隆聖との思い出も、そしてあの忌まわしい事件のことでさえも……
「ええ、初めまして。私の名前は八雲紫と申します」
「こちらこそ初めまして。西行寺幽々子と申します」
二人は互いにあいさつを交わす。なんとも懐かしい流れだ、と紫は思う。紫と幽々子が初めて会ったときのこと。その時と全く同じだった。
二人は雄大にそびえる桜の木を静かに眺める。
これが過ちの報いだというのなら、私はもう一度やり直して見せる。
今度こそ、決して後悔しないように。
「桜がなぜこんなにも紅くて美しいか知っていますか?」
紫は幽々子に尋ねる。かつて幽々子に尋ねたのと全く同じ質問。
もちろん帰ってくる答えは昔と同じ――
「桜の下に死体が埋まっているから……でしょう?」
ではなく。彼女は、昔自分が言ったとおりに答えた。彼女は生きている間の記憶をすべて失っているはずなのに。その事実に彼女は驚愕する。
「どこで知ったのその言葉!?」
口調を荒らげて尋ねる紫を訝しみながらも彼女は答える。
「誰だろう。詳しくは覚えていないのだけど、多分私の大事な大事な人……」
紫は口を押さえて、息を呑む。
――幽々子が、覚えている……?――
確かに幽々子は記憶を失っているはずだ。あの日、幽々子は確かに死んで、彼女の魂はこの世を去った。なのに、彼女は覚えている。
「は……ははは……」
思わず紫は口に出して笑う。
幽々子が覚えていた。その事実が、紫にとっては本当に嬉しかった。
どういう理屈なのかも分からない。それでも、確かに幽々子は自分のことを覚えていたのだ。
もしかしたらそれは、幽々子の魂に刻み込まれた“縁”なのかもしれない。
彼女は息苦しい絶望と苦しみの中でひとつの希望を見つけた。
たとえそれがどんなに些細な事であっても、希望があるからこそ彼女はまた前へと進むことが出来る。
この世界は想像以上に最悪で、思ったよりも最高だ。
「ねえ、幽々子。これから私と一緒に来ない?」
「一緒……に?」
唐突な紫の言葉に幽々子は首を傾げる。
「どうせ行くあてもないのでしょう?」
「え……? それは……ええと……まあそうなのかなぁ? ていうかどうして貴方が知っているの?」
困惑する幽々子を見て紫は微笑む。彼女は生前の記憶をほとんど失ったので、自分のことですらあやふやにしか答えることが出来ない。
「ふふ……。私はあなたのことならなんでも知っているわ。行くあてもないなら私と共に行かないかしら?」
紫は幽々子へと手を伸ばす。
「うーん、なんか胡散臭いなぁ」
紫のあからさまに怪しい誘い文句に、しかし幽々子はその手をつかむ。
「あはは。それでもあなたみたいな面白い人は初めてよ。よくわからないけどよろしくね」
彼女の深層意識、あるいは魂に紫のことが刻まれていたのだろうか、彼女はあっさりと紫の提案に賛成する。
紫は幽々子の手をとって話す。
「では、いきましょうか……」
進む先は希望か絶望か。
それでも彼女たちは一歩ずつ遠い遠い道のりを進んでゆく。
たとえその先にどんな困難や苦難があろうと、彼女は歩みを決して止めない。
全ては愛するあなたのために――
冒頭の渋い文体は嫌いじゃありません。
だからこそ……なのですが、文中の「ジュース、ペット、レディ、プロジェクト、カウントダウン」等の
横文字と、もふもふ以降の文体の微妙な変化に違和感を感じました。
後、妖忌と藍の出番が中途半端な気がします。
終盤のあたりで、何らかの出番を与えてあげて欲しかったなぁ、というのが正直な気持ちです。
とはいえ、色々と細かい話は抜きにしても、熱意のようなものは感じられましたし、楽しく読むことができました。
次回はぜひ短編にも挑戦して頂ければと思います。
文体についてですが、確かに後半部分は所謂「息切れ」といいますか、
冒頭の冗長な文章とは違って随分簡素な感じになってしまったように思います。
これもひとえに私の文章を書く経験の少なさや、プロットの甘さに起因するもので、
この二点については今後精進させて頂きます。
妖忌、藍の二人は登場シーンが少なく、特に後半がほぼすべて幽々子と紫がメインのため
キャラを使い捨てにしているように感じてしまいますね。
この点については妥協せず、なんらかの形でしっかりと書き切るべきだったと反省しております。
どうにもこのままでは悔いが残るので、この作品を貴重な経験として次回に活かそうと思います。
しかし内容はとてもよかったと思います。これからも頑張ってください。