天高く、そびえる月を見上げるのはお嬢様。
星々はかしづくように瞬き、夜空は我が主の威厳を称える。月光がさながら祝福だとしたら、私は感銘の拍手を贈るところなのだろうか。
蝙蝠の羽が小刻みに揺れ、空を見上げていた顔がこちらを振り向く。
何も言わずとも、お嬢様は全てを理解していた。
聡明な賢者よりも理解が早く、それでいて全知とは程遠い存在。運命を操る吸血鬼にとって、私の人生はどう見えるのだろう。プロローグからエピローグに至る長い物語を拝聴するほどの寿命はなく、せめて今日一日をどう思ったのかぐらいは聞きたかった。
問いかけたところで、答えてくれるとは思わないけれど。
「お帰りなさい、咲夜」
それは誰に対しての言葉なのか。
考える暇もなく、私の口からは自然と言葉が漏れる。
「ただいま戻りました、お嬢様」
幼く紅い月は愉快だと笑い、白い月は何も言わずに主と従者を見下ろしていた。
調子の悪さは自覚していた。傍目から見ても一目瞭然なのだ。むしろ気付かない方がどうかしている。
瀟洒な従者を自認する以上、あからさまな異常には対処をすべきだろう。たとえそれがお屋敷の不備だろうと見逃すことはできず、ましてやこれは自分自身のこと。歯医者が苦手で敬遠し続けるような真似、十六夜咲夜ができるはずもなかった。
一刻も早い回復が望まれるものの、さて頭を傾げる。どこに行ったものか、幻想郷にも慣れ親しんできたとはいえ俄に思いつくことはできない。真っ先に浮かんだのは河童だが、どうにもアレの手にも余るような気がした。
なにせ特殊な代物なのだ。私の懐中時計は。
「どうしたんですか、咲夜さん。難しい顔をして」
悩みが表情に表れていたらしい。平静を重んじる私にはあるまじき失態だった。自らを戒め、話しかけてきた小悪魔に向き直る。
「懐中時計の調子がね、どうにも悪いのよ。長針と短針は問題無いのだけれど……」
取り出した懐中時計を見て、小悪魔の表情も曇った。規則的な長針と短針へ反旗を翻すかのように、秒針の動きは不規則で奇妙だった。進んだかと思えば戻り、進むのかと思えば戻り、じゃあ戻るのかと思えば今までの遅れを取り戻すかのように進む。
時計盤の裏に妖精が潜んで、悪戯をしているかと疑いたくなる。
「河童に頼もうかとも思ったのだけど、物が物だけに頼みにくいのよ」
「特注なんですか?」
「特注で特製なの。私の能力を補助するような物よ」
時間を操るのはあくまで私自身の能力。だけどそれを微調整しているのは、この懐中時計なのだ。物心ついた時から肌身離さず持ち歩き、どこで手に入れたのかは全く覚えていない。
だけど、これだけ不思議な特性を秘めた物なのだ。そこいらの古道具屋で手に入れたわけではないのだろう。今となっては由来すら知ることができないけれど、便利なので重宝していた。
だからこそ、どうして壊れてしまったのかは分からない。大切に扱っていたつもりなのだが、不思議である。
「だったら、パチュリー様に頼まれてはどうですか。修理はできなくとも、直し方を知ってるかもしれませんし」
「なるほど、それもそうね」
直し方さえ分かれば、河童の技術で何とかなるかもしれない。人間を盟友と謳うわりに、あれはあれで大妖怪達よりも特出した連中なのだ。
「ありがとう、さすがは司書さんね」
「えっへん」
褒められ慣れていないのか、子供のように得意気な顔で小悪魔は胸を張った。犬の尻尾を思わせる動きで頭の羽もパタパタと揺れ動き、なんだか撫でてあげたい衝動に駆られる。
小悪魔と別れた私は、すぐさま大図書館へと足を運んだ。今日の業務は殆ど終わらせており、もしも懐中時計の件がなければ美鈴でも誘ってティータイムにしようかと考えていたぐらいである。
「失礼します」
ノックの後に扉を開き、膨大な書物が視界を埋め尽くした。これだけの量の本があるのに、かび臭さは全く無いのだから驚きだ。私には到底理解できない魔法がかけられているらしいのだが、これはあくまで訪問客の為だという。
最近はそういった来客にも意識を使うようで、色々と趣向を凝らしているらしい。だから、ここより奥は想像通りのかび臭さが支配している。小悪魔あたりはそちらの香りがお気に召しているようで、昼寝をするときは決まって図書館の奥だという。私には理解しがたい話だが、好みも人それぞれということだろう。人ではないのだけれど。
屹立する本棚の群れが圧倒するように私を取り囲み、図書館の主への道を阻んでいる。真っ直ぐ向こう側まで伸びた通路を除けば、視界の悪さは相変わらずだ。天井に接するほど高い本棚があっては、飛んだところで目的の魔女を見つけることは難しい。
普段ならば入り口近くのテーブルに座り、見たこともない文字で書かれた本を読んでいるのだが。どうにも今日はこの広大な図書館の中を飛び回っているようで。開かれたままの本はあっても、肝心のパチュリー様の姿はどこにも見あたらなかった。
こうなると、あの人を見つけるのは小悪魔でも難題になるというから困りものだ。これにはお嬢様も頭を悩ませており、今後は首に鈴でも付けようかしらと真剣な顔で言っていたのを思い出す。
捜索するよりも、帰ってきた頃に再び訪問する方が賢い。いくらパチュリー様とはいえ、一生涯を図書館探索に費やすはずはないのだから。
誰もいない空間に頭をさげ、廊下へと戻る。
さて、どうしたものかしら。当初の目的はあっさりと崩れ、かといって直接河童へ会いに行くわけにもいかない。だったらパチュリー様以外に、この懐中時計の直し方を知っていそうな人物はいるかと訊かれたら、首を捻って考え込む。
知識という面においては頼れる候補者もいるのだが、どうにもこうにも胡散臭かったり、一筋縄ではいきそうにない連中ばかり。迂闊な弱味を見せて、いらぬ攻撃を受ける可能性だってあった。ここは大人しくパチュリー様を待つとして、私は美鈴とのお茶会に興じよう。
思考を切り替え、厨房へと向かう。階段をあがって地下から脱出し、赤い絨毯の敷き詰められた一階へと戻ってくる。
そして時間短縮の為に、私はいつものどおり時間を止めた。
「あっ!」
習慣というものは恐ろしい。あれほど懐中時計の大事さを語っておきながら、それを忘れて能力を発動させるだなんて。
何が起こってもおかしくないのに、これだから美鈴に注意されるのだ。咲夜さんは肝心なところでミスをするのだと。
頭を抱えたところで、もう遅い。能力は発動してしまった。
窓の外から聞こえていた鳥のさえずりは途絶え、風に煽られていた木々は傾いたまま固まっている。
「……さほど影響はないみたいね」
懐中時計は相変わらず不規則な運動を続けているけれど、周りの景色は私の能力が正しく発動されていることを示してくれている。この様子だと、どうやらただの杞憂に終わりそうだ。少なくとも能力がマトモに使えるのならば、しばらくは放っておいてもいいだろう。
上機嫌になった私の足取りは軽く、ともすれば普段は絶対に出ることのない鼻歌すらも飛びだしそうだ。こんなに機嫌がいいのは、完璧なマフィンを焼き上げた時以来である。我が事ながら、案外簡単に機嫌が良くなるものだ。
瀟洒な従者とて、所詮は人間であった。
「っと、いけない」
曲がり角の向こう側から足音が聞こえる。慌てて、私は気を引き締めた。
一応、この館では瀟洒な従者ということで通っている。それに異論を唱えたことはないし、その立ち位置は私としても気に入っていた。もっとも、お嬢様と美鈴だけは違う印象を持っているようだけど。
少なくとも、妖精メイド達の前で上機嫌に歌などを口ずさみそうになる私を見せるつもりはない。緩みかけた顔を整え、いつもどおりの十六夜咲夜で歩こうとして足を止めた。
足音?
妙な話だ。この世界は時が止まった世界。私以外の人妖は全て動きを止めており、誰一人として足音を鳴らすことなどできないはずなのに。それなのに、曲がり角の向こうからは確かに足音が聞こえてくる。
こちらの気配に気付いたのか突然慌てだし、足音は乱暴に絨毯を踏みしめながら私から遠ざかっていく。間違いない。誰か動いている奴がいるのだ。
俄には信じられないけれど、事実として足音は鳴っている。
動揺を抑え、私も走り出した。
「そこにいるのは誰!」
問いかけても、当然のように答えは返ってこない。だが、まぁいい。曲がり角さえ曲がってしまえば、その正体も容易に掴めるだろう。
駆け出した私は曲がり角を曲がり、そうして同時に扉の閉まる音が聞こえてきた。
やられた。無駄に部屋数の多い紅魔館。鍵がついている部屋など限られており、当然のように空き部屋には鍵などかけられているはずもない。謎の人物はどうやら、その空き部屋の中に入っていったようだ。幸いにも閉まる扉が見えていたので、どの部屋に入ったのかは分かっている。
少々焦ったが、所詮は袋の鼠。噛まれないように気を付けていれば、今度こそ正体が分かるはず。もう急ぐ必要はない。ゆっくりと、私は目的の部屋へと近づこうとしていた。
それを遮るように、今度は後ろから足音が聞こえてくる。振り返っても誰もいない。おそらく、曲がり角の向こう、先程まで私がいた所から近づいてきているのだろう。
まさか、相手も私と同じように空間を操る能力も持っていると言うのか。
だとすれば、あの部屋には誰もいない?
確かめる為に、私は走り出す。呼応するように、後ろの気配も走り出した。
そして扉に手をかけて開いた瞬間、唐突に後ろの気配が叫びをあげた。
「そこにいるのは誰!」
聞き覚えのある発言に驚き、部屋の窓が開いていたことにも驚く。この中に逃げ込んだ人物は、どうやら外へと飛びだしたようだ。もしも空間を操る能力があるのならば、わざわざ窓から逃げる必要なんてない。そういった能力は持っておらず、高速で飛んで後ろへと回り込んだのか?
窓まで近づく。後ろの気配も、段々とこの部屋に近づいているようだ。
追う者がいつのまにか追われる者に変わっている。奇妙な状況だ。
ここで迎え撃つべきか考える私は、窓下の庭園に人影を見つけた。一瞬だったので容姿までは見えなかったけれど、少なくとも何かが動いていたのは間違いない。
追っていた人物と、追ってきている人物が別人。新しい情報は得られたものの、謎は一層深まるばかりだ。だが、いつまでも真相を掴めずに悩んでいるわけにはいかない。後ろの気配はとうとう扉に手をかけている。
私は意を決し、窓から飛び降りた。着地の瞬間に重力を消して、ふわりと綿毛のように華麗に舞い降りる。そしてすぐさま、先程人影を見た地点に向かって走り出した。
ここまで追ってくるとは思っていなかったのか、あっさりと人影を見つけることができる。しばらく走ったところで、こちらを見て驚いている人物の姿を捉えた。
「どういうことなの……」
それはどちらの台詞だったのだろう。いずれにせよ、どちらでも良いような気がした。
純白のヘッドドレスに、従者が身につけるメイド服。銀色の髪は日光を照らし、藍色の瞳が驚愕を携えてこちらを見つめている。
私が追いかけていた人物、それは十六夜咲夜だった。
驚きで固める二人。現実へと戻ってきたのは、あちらの咲夜が先だった。
踵を帰し、再び走り出す。私はまだ状況が掴めず、消えていく咲夜を見送ることしかできなかった。
そして、背後から聞こえる足音。
思い出す。私もまた、追われる立場にあったのだと。
振り向いて、驚愕の色を強める。
「どういうことなの……」
そこにいたのも、十六夜咲夜だった。
「あ、咲夜さん」
「悪いけど急いでるの」
前方を行く私が、素っ気なく美鈴の話を打ち切る。残念そうな顔がこちらを向き、眉はハの字に歪んでいく。
「咲夜……さん?」
「悪いけど急いでいるの」
私もまた、彼女をあしらう。緊急事態なのだ、多少の冷たさは夏を乗り切る清涼剤と割り切って欲しい。
「………………」
「悪いけど急いでいるの」
後ろの方から聞こえてくる会話。とうとう美鈴は何も言わなくなった。
仮に私が彼女の立場だったなら、きっと同じように言葉を失っていただろう。妹様が四人に増えるなら日常茶飯事だったとしても、私や美鈴が増えるなんてことは異変に分類されてもおかしくない。
局所的なものだから、おそらく巫女や魔法使いは出張ってこないだろうけど。それでも異常事態であることに間違いはなかった。
前方の私が溜息をつく。伝染するのか、私もまた思わず深海のように重い溜息をついてしまった。その後、後ろから似たような溜息の音が聞こえてきたのは言うまでもない。
「パチュリー様!」
「パチュリー様!」
「パチュリー様!」
微妙に三人の時間はずれているらしく、輪唱のような呼び声が図書館に木霊した。静けさを尊ぶ室内においては、瀟洒な従者らしからぬ振る舞いであるが、なにしろ異変。兎にも角にも大目にみて貰いたい。
やまびこのように響き渡った魔女の名前は、さながら彼女の召喚呪文になったようだ。眠たげな眼を擦りながら、どこかカビくさい魔女がのっそりと本棚の後ろから顔を覗かせた。お昼寝中だったのかもしれない。
「なによ、五月蠅いわね。名前は一回呼べば充分……」
目を擦る手が止まり、美鈴のように訝しげな表情へと変わっていく。頬をつねり、眉間の皺を揉みほぐし、もう一度目を擦ったところでパチュリーは頷きながら両手を叩いた。
「夢か」
寝起きの思考ゆえ、そこに至るのは当然の結末であるが、残念ながら現実は魔女の夢ではなかった。勿論、蝶々如きの夢でもない。いっそそうあって欲しいと願ってしまったのは、異常な状況が思考を狂わせているからなのか。
何故か寝直そうとするパチュリー様を、逃すまいと私達の声が響く。
「生憎と、これは現実ですわ」
「生憎と、これは現実ですわ」
「生憎と、これは現実ですわ」
「……一度言えば分かると言うのに」
三人なのだから仕方ない。とはいえ輪唱のようにずれているのだから、私が何も言わなければ良いだけの話。そうしようと何度も思っているのだけど、不思議と口から勝手に声が漏れだしてしまうのだ。
自然と出てしまいそうなくしゃみ程度の強制力ではあるが、下手な体力を使ってまで逆らおうとは思わない。ただでさえ摩耗しつつある体力と精神力。冬眠する熊のように蓄えておかないと、後々でどうなるか知れたものじゃない。
「ああ、現実なのに悪夢を見てるようだわ。小悪魔、小悪魔」
「はー……いっ?」
テーブルの上に置かれたハンドベルは、小悪魔を呼び寄せる為の合図。いつものようにひょっこりと現れた小悪魔は、三人の私を見て案の定の表情を浮かべた。
「とりあえず、紅茶をいれてきて。四杯」
「わ、わかりました!」
紅茶だったら、私がいれますのに。不満がありありと浮かんでいたのか、それともパチュリー様の洞察力が優れていたのか。こめかみを揉みほぐしながら、いまだ眠そうな半目で呟く。
「あなた達に頼むと、十二杯でてきそうだからよ」
前を行く私が振り向き、つられて私も後ろを振り向く。
不満の色はどこにもなかった。
さぞや不思議な光景だったろう。テーブルの前に並べられた三つの椅子には、それぞれ私が一人ずつ座っていたのだから。
私だって気分が良いわけではない。なにせ両隣に自分がいるのだ。ドッペルゲンガーは見たら死ぬらしいけど、これはどういう扱いになるのかしら。せめて命は無事な方向で決着がついてほしい。
「小悪魔からも話を聞いたんだけど、あなたの懐中時計が壊れたそうね」
「はい」
「はい」
「はい」
「ストップ。質問するたびに輪唱されても困るから、とりあえず真ん中の咲夜が代表して答えなさい。両隣の咲夜もそれでいいわね」
文句の声はあがらず、パチュリー様も頷いた。
「それじゃあ改めて。あなたも薄々は気付いていると思うけど、おそらくはこういう状況を作り上げた原因は懐中時計にあると思うのよ」
「何かが起こるかもしれないので使用は控えようと思っていたんですが。つい、うっかり……」
私の能力を補助する役目の懐中時計。それが壊れたのだから、時の止まった世界で何かが起こっても不思議ではない。
「秒針が壊れたそうね」
「はい」
取り出した懐中時計を見て、パチュリー様は眉をひそめた。気が付けば、左隣の私が既に懐中時計を出しているではないか。それを見て右隣の私も懐中時計を取り出す。まるで三人姉妹が自慢のし合いをしているようで、端から見ているぶんには微笑ましく映るのかも知れない。
当事者は気味が悪いばかりだが。
「なるほど、確かに壊れているわね」
あるいは直っていてくれるかと期待した懐中時計は、反抗期の真っ盛り。時間など知ったことかと自由きままに時を刻み続けている。しばし青春を謳歌する秒針を見つめ、パチュリー様は難しい顔で冷めた紅茶に口をつけた。
猫舌というわけでもないのだが、何故かパチュリー様は熱々の紅茶を好まれない。付き合いで飲むことはあっても、趣味の範囲でならいつも冷めた紅茶を召し上がる。それでは味も変わるのだと力説したところで、頑固な魔女の意志を変えさせることなど出来るはずもなかった。
「……これはあくまで私の仮説なんだけど、あなた達のそれは妹様のような分身とは違うのかもしれないわね」
「私も、それは思っていました」
相槌を打つのは小悪魔。
「何というか分身というわりには動きがずれているし、かといってまったく独立しているわけでもないし。輪唱してるみたいなんですよ、咲夜さん達」
輪唱していたのは声だけではないということか。
「私も小悪魔と同意見。ただ正確にはずれているのではなく、それぞれ違う時間を切り取った結果だと思っているわ。つまり少しだけ未来の世界の咲夜。少しだけ過去の世界の咲夜。そして現在の咲夜。それぞれの時間軸から切り離された結果、輪唱しているような動きになったんじゃないかと思うの」
眠たげだったパチュリー様の瞳が、俄に光りを取り戻して輝き始めた。お嬢様と同じぐらい、この人もまた面白そうなものには目がないのだ。こんな変わった状況にあって素直に驚き続けるほど、マトモな精神はしていないらしい。
それにしても、未来、現在、過去とは。信じがたい説ではあるけど、それならば納得のいく現象も幾つかある。左隣の私、つまり未来がした行為を現在の私がしたくなるのは当然の法則。そしてまた私の行為を、右隣つまり過去の私が行うのもまたパチュリー様の説を裏付けているとしか思えない。
逆に、私がしようとしている事を未来が先にやるのも当たり前だ。未来なのだから、現在や過去に遅れをとることがあるはずもない。
「状況は何となく掴めてきました。ですが、私が気になるのは状況よりも、むしろ解決策です」
極論を言うならば、原因が未知の宇宙人の仕業であっても困らない。要は、それをどうやって治療するかが問題なのだ。魔女や魔法使いであれば寝食を惜しんで研究に没頭するところを、メイドにはそれほどの好奇心が宿っていない。解決するのなら、原因や過程などどうでもいいのだ。
「まず懐中時計を修理すべきでしょうね。元に戻ったとしても、それが壊れたままなら同じことを繰り返す羽目になる。とはいっても、いま渡されたら三つとも修理しなくちゃいけないから、解決したらの話ではあるわね」
「つまり、解決する方法があると?」
「要は時間軸を固定させてしまえばいいだけの話。これが数十年単位の誤差だったら考えるところだけど、数秒単位なら強引に固定化しても大した影響はないわ」
なんとも乱暴な話だ。どこぞの魔法使いを連想させる。
あれと付きあっているうちに、パチュリー様も毒されてしまったのだろうか。
「固定化と言われましても、どうやったらいいのか見当もつきません」
「簡単よ。未来か過去に触れるだけでいい。虹や蜃気楼は触れたら消える幻想だけど、それは触れることで現実になる幻想なのだから」
思ったよりも簡単に条件に、内心ではホッとしていた。時間軸の固定とか難しい単語が出たあたりで、時間旅行でもさせられるのではないかと怯えていたのだ。生憎と時をかけるつもりなど毛頭ない。
一刻も早く解決しようとして、片腕をあげた私を制したのはパチュリーの声だった。
「未来だ過去だと言っても、そこまで頑固な強制力があるわけじゃない。だから未来のとった行動だって、逆らおうと思えば逆らえる。過去がやろうとしたことに未来が逆らうことだって出来る」
パチュリー様の言葉を象徴するように、未来の私が立ち上がって距離をとった。そんな行動、とろうと思ってすらいなかったのに。
「不幸なことに、あなた達にはそれぞれ意志がある。だから頑張ることになるのでしょうね。誰だって、自分が最後に残りたいのだから」
私が未来に触れれば、そのまま私が咲夜になれる。だけどそれは未来や過去にとって、自分の存在を消してしまうことに他ならない。たとえ数秒とはいえ、未来や過去の咲夜は別人のようなものだから。当然のように抵抗をする。
私だってそうだ。もしも過去が触れそうになったら全力で逃げる。だから未来に倣うような動きで距離をとったのも、至極当然の論理。空を切った過去の手が、空しく図書館の空気を掴んだ。
咄嗟に時を止めそうになるが、それで招いたのがこの事態。うっかりミスは一度にしておかないと、いいかげんお嬢様に愛想をつかされてもおかしくはない。能力に頼らず、何とかして他の咲夜に触れるしかなかった。
だとしたら、過去よりも未来の方が遙かにやりやすい。なにせ、こちらがしようと思ったことはある程度の強制力となって未来へ伝わる。逆に動きが筒抜けになる危険性はあるものの、馬鹿正直に動かなければいいだけの話で。
いやしかし、そうやって騙そうとしていることも伝わってくるのだから意味がない。現に、過去がやろうとしていることが現在の私には筒抜けとなっている。未来を相手にするということは、覚りを相手にするのと同義。
なら過去を相手にすればいいのかと訊かれたら首を捻る。過去は過去で私に対する強制力があるし、迂闊に過去を狙えば察知した未来がそうはさせるかと襲ってくる可能性だってあった。
考えれば考えるほど、三すくみになっていく状況。互いが互いを睨み付けながら、能力を使ってもいないのに時は止まったかのように動かなくなっていた。
鬼ごっこで例えるならば、さながら鬼と逃げる役を同時にこなしているようなものだ。これが今後も続くようならば、体力だけでなく精神的にも疲労してしまうだろう。言うまでもなく業務に差し支えるどころか、下手をすればお嬢様の専属メイドの任すら解かれる恐れがある。
面白いものをこよなく愛するお嬢様だけれど、それはあくまで玩具や鑑賞という意味でしかない。使えないメイドを側に置いておくほど、人情に溢れた方でないことは他ならぬ私自身がよく知っている。
なんとかしなければ。解決したい意志は強くとも、結果が伴ってくれない。
何処へともなく歩きつつも、三すくみの状況は一向に進展を見せていなかった。意表をついて駆け寄ろうとしても、未来の私はそれよりも早く走り出す。そして迂闊に立ち止まろうものなら、今度は過去の私が追ってくるのだ。
端から見たら同じことを繰り返す私達は、さぞや退屈な見せ物だろう。だけど、だからといってどうすればいいのだ。
「動きを止めることが出来れば話は簡単なんだけど……」
私が未来の私にナイフを投げたところで、動きを察知しているのだから避けることは容易い。だけどもしも、私が自らの両足にナイフを突き刺そうとしたならば、先んじて未来の私が足にナイフを突き刺すのではないか。
未来という特性を利用した案ではあったが、問題は心の底からそうしようと思わなければいけないということ。やるふりでは、未来の私が動いてくれないのだ。現に何回も試そうとしたけれど、結果はいずれも芳しくない。
ならば、外部の人間に手を借りてはどうだろう。現状では最も有効な手段なのだけど、これはこれで多いに問題があった。
「パチュリー様から話はうかがいましたけど……」
困り顔の美鈴。
「難しい話じゃないわ。私以外の咲夜を捕まえていて欲しいの」
「難しい話じゃないわ。私以外の咲夜を捕まえていて欲しいの」
「難しい話じゃないわ。私以外の咲夜を捕まえていて欲しいの」
「…………あの、それで本物の咲夜さんは誰なんですか」
「私よ!」
「私よ!」
「私よ!」
偽物が化けていたり、分身しているのなら話は早かった。ただ時間軸がずれているだけで、厳密にはどれも本物の十六夜咲夜。ただ私には私の意識があるから他の咲夜が別人に見えるだけで、端から見ていたらどの咲夜にも差などないだろう。
捕まえておいてくれと頼んだところで、どの咲夜にするのかで睨み合いは続くだろう。かといって第三者の気まぐれで生き残る咲夜を決められてはたまらない。
混乱する美鈴を背後に、私達はまた歩き始める。
やはり、最後に残された方法は一つしかないようだ。
パチュリー様から説明を受けた時点で、私には一つの解決策が思い浮かんでいた。それを劣化させたものが、あの両足にナイフを刺すというもの。
ただナイフでは抵抗される恐れもある。両手両足を封じたところで、私は十六夜咲夜なのだ。ナイフだけでなく抵抗しようと思えばいくらだって出来る。
だったら答えは簡単。要は抵抗できない状態にしてしまえばいいのだ。
そう、人は死んでしまえば抵抗できない。
ならば話は元に戻る。すなわち、私は死ぬことができるのかと。生半可な覚悟では、未来の私が自殺することはない。
だが幸いにも、こと自殺に関しては十六夜咲夜ほど適した人物もいないと自負している。まったくもって自慢にならないことであるが。
お嬢様に使えて幾数年。その忠誠心たるや紅魔館でも随一だと胸を張り、比喩でも何でもなくお嬢様が死ねばと言われれば死ぬことができる。この身体の全てはレミリア・スカーレット様の為にあり、彼女から見捨てられない為だと思えば命を捨てることなど実に容易い。
朝ご飯の林檎を剥くように、首の皮を剥いでいくことだって出来る。勿論痛みはあるし、恐怖だって感じる。ただ忠誠心がそれらを鈍らせ、死への恐怖をやわらげているのだ。だから死のうと思えばいつだって死ねる。
矛盾しているかもしれないが、再びお嬢様のメイドとして仕える為だ。ここで死ぬしか道はない。
ただどうしても、気になることがある。未来や過去の私がそれに気付いているのかどうかは不明だけど、こればっかりはパチュリー様に訊いても答えは返ってこないかもしれない。それに、迂闊に質問すれば意図に気付かれる。過去の私には筒抜けかもしれないけど。
このまま悩み続けても年老いて捨てられるだけだ。
やるしかない。
決意を新たに、私達は歩き出す。館の中で死のうとしても、妖精メイド達が止めるかもしれない。やるならば、どこか人気のないところが相応しい。
意図に気付いているのかいないのか、未来の私は行こうとしている方向へ足を向ける。
そしてしばらくして、庭の片隅の誰も通りそうにない木陰まで私達はやってきた。さあ、後は命を落とすだけだ。
ナイフを取り出し、心臓に突き立てよう。
所詮は人間。杭でなくとも、それだけで絶命は必至だ。
気持ちを切り替え、心の底から自殺を望む。普通の人間には覚悟と動機が必要だけど、こと十六夜咲夜にはそんなもの必要ない。ただ意識を切り替えれば、忠実な犬はあっさりと自らの生を放り出す。
ナイフを取り出したところで、未来の私がようやくこちらを振り向いた。その両手はしっかりとナイフを握りしめ、震えながらもゆっくりと胸へ吸い込まれるように動いている。
必至に抵抗しているようだが、生死に関しての強制力に逆らうことはできないだろう。現実の私が死のうとしているのだ。それよりも先に未来が死ななければ辻褄は合わない。勿論、その後に私は同じ真似をして死んでしまうのだろう。
もしも未来に駆け寄るも早く、強制力が来たならば。最後に生き残るのは過去の私になるのか。それとも。
「くっ……!」
抵抗を続けていた未来の私だったが、最後にこちらを睨み付けて胸へナイフを突き立てた。
瞬間。私は走り出した。
慌てて過去の私も走るけれど、脚力は変わらない。だとしたら真っ先に辿り着くのは私のはず。後は強制力が来るよりも先に、未来の私へ触れるだけだ。
障害はそれだけだと思っていた。だからこそ私は、してやられたのだ。
どれだけ走っても、どれだけ急いでも一向に距離が短くならない。
まるで死神がそうしているように、私は未来の私の元へと辿り着くことができなかった。
そして訪れるのは強制力と、過去の私に距離を操られたのだと気付いた愚かな私。
「最後の最後でこんなっ!」
自らの迂闊さに毒づきながら、両腕を必至で押さえ込む。未来の私へぶつけていた言葉が、ブーメランのように返ってきていた。どれだけ未来が抵抗しても、現実が死のうと思っているなら逆らえるはずがないのだと。
「未来は過去のことを全部知っている。だから何かを企んだところで、全てが筒抜けになってしまう。だけど私は気付いたの。過去は未来を変えられる。でも未来は過去を変えられない」
過去の私は話しかける。足音は近づき、もうすぐ触れられる距離になるだろう。
「未来は過去の行動を知り、過去は未来の行動を指示できる。だから対等だと心のどこかでは思っていたけど、それは最初から間違った認識だったのよ。このシステム、有利なのは過去だったんだわ」
言われてみれば、当たり前のことだ。どうして今まで気づけなかったのか不思議なくらいに。
「だから私は思ったのよ。これから先、決して過去のことは振り返らないって。何があっても、絶対過去を思い返さない」
ああ、なるほどと。私はようやく敗北を悟った。
過去の恐怖に怯えることはあっても、果たして過去の企みが伝わってきたことはあっただろうか。もしも過去の考えが伝わっても無視するように指示されていたとしたら、未来の私が簡単に自殺したことにも頷ける。
要は知らなかったのだ。過去を振り返ることができなかったから。
「未来は変わるわ。私が変える」
「それは……どうかしらね」
ここに至って、勝負は決した。逆転の目などあるはずもなく、もう少ししたら私は自ら命を絶ってしまうだろう。望んで死ぬなら本望だけど、こんな形で死んでしまうとは。お嬢様に合わす顔がない。
ああ心配ないのか。もう顔を合わせることなんて無いのだから。
だけどせめて、最後の一太刀ぐらいは過去の私に浴びせてからも遅くはないだろう。僅か数秒とはいえ、私の方がお姉さんなのだから。人生の先を歩む者として、警告の一つでもくれてやらないと気が済まない。
「気付いているのかいないのか、それはいいけれど。このままだったら、あなたもタダでは済まないのよ」
「………………」
生死に関する強制力は絶対だ。だからこそ一度死んでしまえば逆らうことはできない。
「存在を固定しまえば、そんな強制力は無効になると思っている。だけど、それは本当なのかしら。例え一つになってところで、未来の私が死んだ事実は変えられない」
「運命なんて硝子細工のようなもの。お嬢様の言葉だけど、死という未来だって変えることはできるのよ」
「それを判断するのは私やあなたじゃないわ」
「それこそ運命でしょうね」
「だからこそ分からない」
「それでも私は信じている」
ナイフはすぐそこまで迫っているのに、不覚にも笑ってしまった。私だって同じことを思っていたのだから。
だからこそ計画を実行したのだ。
さすがは私ということか。数秒程度の時間では、さしたる違いはないらしい。
「お嬢様のことを頼んだわよ」
「問題ないわ。だって私もあなたも十六夜咲夜なんだから」
考えてみれば、最初から抵抗する方が馬鹿らしかったのかもしれない。例えどの私が生き残ったにせよ、レミリア・スカーレットの横にいるのは十六夜咲夜なのだから。
変な計画など練らずに、大人しく誰かに触られた方がマシだったのかな。
今度は逆に誰も動かなくなった図を想像して、私は微笑みながら胸にナイフを突き立てた。
肩に置かれた手の感触が、不思議と温かかったのを覚えている。
面白かったです。
とても面白い発想だった
盲目的な忠誠が感じられてとても良かったです。