涼しい風が吹く、三途の川の岸。一人の死神が、岸辺の草原に横になっていた。
「ん、世は平穏事も無し、だねえ」
くあ、と人目をはばからない――そもそも人もいないのだが――欠伸を一つして、三途の川の渡し守、小野塚小町は額に手をかざして、太陽の光を眩しそうに眺めた。
いい陽気だ。こんな陽気の中では眠くなるのも道理。
別にサボっているわけではない。ただ、魂の量が今日は少ないだけなのだ。
時折、こういう日もある。極端に渡る魂の少ない日。
極端に多い日もあれば少ない日もあり、極端に多い年があれば少ない年もある。まさに道理であった。
だから別にそれを口実にサボっているわけではない、と、小町は胸中で誰に対してというわけでもなく弁解がましい言葉を呟いた。
「しかしそれにしても、暇だねえ……」
サボるというのは仕事があってこそ楽しめるのであり、仕事がないときにこうしているのはただ暇を持て余しているようで楽しくない。
どこかに見回りに行ってみようかね、と、そう思い始めた、そんなときだった。
「あの、すみません」
声が聞こえた。ひょい、と頭を上げると、そこには一つの霊魂が漂っている。
声はそれから聞こえたようだった。目を細めて、小町は頷く。どうやら仕事が来たようだった。
どうせ暇をしていたところだ。受けるのも悪くない。
「どうやらお客さんのようだね。あんた、自分がどうなったのか――死んだのはわかっているね?」
小町はその幽霊――小町の目には少女の形を取っているそれに尋ねかける。
「……ああ、やっぱり私は死んだのですね」
「うん、そうだ。あんたは閻魔様の前に行かなきゃならない。そのためには、この河を渡る必要がある」
小町は立ち上がり、自分の背後に見える河を示した。
「そこまで渡すのがあたいの仕事。あんたも渡してあげよう」
「はい、ありがとう」
「じゃあ、まず船賃だね。あんたの持っているお金を、全部渡してもらえるかな」
小町は目を細めて微笑い、少女に手を差し出す。
「え、私、お金、って」
「いいから、ポケットの中とか探ってみな。きっとあるから」
言われるままに、少女はポケットの中に手を入れた。そして、目を丸くする。
「え、あれ? いつのまに?」
驚くままに、少女は自分のポケットの中の金を取り出し始める。その量は、小町が驚くほどのものだった。
若いが、それなりの徳は積んできたのだろうか。それを判断するのは、小町の役目ではないけれど。
「それがあんたの船賃さ。額は全額。渡しておくれ」
「あ、は、はい」
面食らったまま、少女はこぼれ落ちた金銭も全て拾って小町に渡した。誤魔化しはないようで、小町は少しほっとする。
全額を渡さず、渡れなくなった霊魂も少なからず存在する。それに対する警告はするが、守らない者もやはりいることにはいるのだ。
「ん、十分だ。さ、あたいの船はこっちだ」
小町はそう、少女を先導するように歩きだした。
「あんたはどうして死んだんだい? 随分と若いようだけれど」
船を漕ぎ出しながら、小町は尋ねる。
この少女の額を見れば、それほど長い船旅にならないことは容易に想像ついたが、どうしてここまでの額なのか興味はあった。
「病気です。何か、難しい名前だったけど、今の私はもう覚えてないですね」
少女は微笑んだ。長いこと苦しんだのだろうが、それを感じさせない魂だった。
ああ、そうか、と小町は理解する。この少女は、きっと。
「随分と入院してたのかい」
「ええ。随分長くいたような気がします」
少女は目を閉じた。少し思いを馳せるように考えて、口を開く。
「周りにも病気の子がいたりして、出来ることは少なかったけど、折り紙を作ったり。いろいろ、していました」
「うん」
小町は櫂を漕ぎながら、少女の言葉に耳を傾ける。
少女がどんな人達に会い、どんな話をし、どんな思いをしたのか。
彼女の経験を――彼女の人生を、聞いていく。
「……病気の前からも、随分たくさんの人と過ごしてたんだね」
「そうですね、私は幸せだったのだろう、と思います」
少女は笑った。随分と慕われていたのだと、話を聞くだけの小町にもわかった。
いい奴ほど早死にする、と言ったのは誰だったか。よく聞く言葉でもあるな、と小町は思う。
「でも」
少女の呟きに、小町は動きを止めて意識を向けた。
「もっと、生きたかった、とは思います」
「うん」
「いつか死ぬことはわかっていたけれど。ああでも、だからこそ落ち着いているのかな。最期のときまで、私はきっと生きたかったんだと思います」
ここまで芯の通った魂も珍しい、そう、小町は楽しげに目を細めた。
この少女は命の火を燃やして、燃やし尽くしてここにきたのだろう。
それは恥ずべきことでも、後悔することでもない。そうやって懸命に生きる者が、今どれほどいるだろうか。
「あんたは一生懸命生きたんだね」
「そうでしょうか」
「そうだと思うよ、あたいは。だから真っ直ぐここまで来れた。迷わずにね」
小町はそう笑いかけてやった。死を受け入れられず迷う魂は多い。未練を捨てきれずに来る魂も。
けれどもこの少女は真っ直ぐに自分の生と死を見つめてきた。こんなに強い魂は、本当に珍しい。
真面目に仕事をする気になってたのはそれもあるかな、と、小町は心の中だけでくつくつと笑った。
こうした魂に会えるから、この稼業は楽しいのだ。
「少なくとも、あたいは誇っていいと思う、あんたの生き方を」
「ありがとうございます」
そう、少女は花が綻ぶように笑った。小町は軽く頷いて、櫂を握る手を、またゆっくりと動かした。
やがて、きい、と音がして、船が岸に着く。小町はさっと船を固定すると、少女の幽霊を降ろしてやった。
「さ、この後は閻魔様の審判だ。頑張るんだね」
「はい」
どんなことがあるかわからないけど、と頷いた少女は、あ、と呟いて、ポケットに手を入れた。
「そうだ、これ」
そう言いながら、彼女は何かを取り出す。
それは金銭ではない。金銭ならば、彼女はここにいない。それはただの、折り紙で作られた、風車だった。
「同室の子に渡そうと思って、最後に作ったのが残ってたみたいで。お金じゃないからいいかなって思ったけど、この先に持っていけないかもしれないから、貴女に」
「……うん、もらうよ」
小町の手のひらに小さな風車を乗せて、少女は微笑んだ。
「ありがとう、船頭さん」
「いいや、次はいい生が送れるといいね」
「次も、ですよ」
その言葉に、小町は緩やかに微笑んだ。こんなにプラスの思いを乗せるのは、本当に珍しい。
「そうだね、悪かった。行っておいで」
「はい、さよなら」
手を振って、少女は歩き出す。それを見送りながら、小町は胸の前でそっと手のひらを閉じた。
大事に大事に、壊れてしまわぬように、優しく握りしめた。
三途の川は魂を渡す。この風車もまた魂の記憶にすぎない。
此岸の岸まで川を渡りきってしまえば、きっとこれも、消えてなくなるのだろう。
それでも、小町はそれを受け取った。
それでも、受け取ってやろうと思った。
だってこれは、彼女が賢明に生きた証、なのだから。
「僅かでも、賢明に生きた跡があるならば――あの子の行き先はきっと悪くないものだろう」
小さく呟く。それは祈りなのかもしれなかった。
魂の向かった方を一つ眺めやって、小町は此岸に向かって船を進め始める。
一つ一つの魂に思いを寄せていては、キリなどありはしない。
一つ一つの想いに揺れ動いていては、死神などやっていられない。
けれども、その魂の想いに心を馳せるのは、間違いではないだろうと小町は思っている。
だってそれこそが。
「死神冥利に尽きるってもんじゃないかい。ねえ」
誰ともなく呟いたその手の中から、風車が消えていく。
花が散るように、霞となって空気に溶けるように、消えていく。
それを見届けて、小町は一つ目を閉じた。
再び船は岸に着いた。くるりと見回しても、やはり誰も何もいない。本当に死者の少ない日だ。
「さて、次はどんな奴が来るかねえ」
目の上に手を翳して、小町は目を細める。
次来る者はどんな生を送ったものなのだろうか。善人だろうか、悪人だろうか。
悪人であれば、それはそれでまた面白い。
今回は善い方向に楽しい魂に会えたのだ――次は悪い方向に面白くても良い。
そう心に呟き、暢気に鼻歌を歌いながら、小町は岸辺の草原に足を進めた。
「ん、世は平穏事も無し、だねえ」
くあ、と人目をはばからない――そもそも人もいないのだが――欠伸を一つして、三途の川の渡し守、小野塚小町は額に手をかざして、太陽の光を眩しそうに眺めた。
いい陽気だ。こんな陽気の中では眠くなるのも道理。
別にサボっているわけではない。ただ、魂の量が今日は少ないだけなのだ。
時折、こういう日もある。極端に渡る魂の少ない日。
極端に多い日もあれば少ない日もあり、極端に多い年があれば少ない年もある。まさに道理であった。
だから別にそれを口実にサボっているわけではない、と、小町は胸中で誰に対してというわけでもなく弁解がましい言葉を呟いた。
「しかしそれにしても、暇だねえ……」
サボるというのは仕事があってこそ楽しめるのであり、仕事がないときにこうしているのはただ暇を持て余しているようで楽しくない。
どこかに見回りに行ってみようかね、と、そう思い始めた、そんなときだった。
「あの、すみません」
声が聞こえた。ひょい、と頭を上げると、そこには一つの霊魂が漂っている。
声はそれから聞こえたようだった。目を細めて、小町は頷く。どうやら仕事が来たようだった。
どうせ暇をしていたところだ。受けるのも悪くない。
「どうやらお客さんのようだね。あんた、自分がどうなったのか――死んだのはわかっているね?」
小町はその幽霊――小町の目には少女の形を取っているそれに尋ねかける。
「……ああ、やっぱり私は死んだのですね」
「うん、そうだ。あんたは閻魔様の前に行かなきゃならない。そのためには、この河を渡る必要がある」
小町は立ち上がり、自分の背後に見える河を示した。
「そこまで渡すのがあたいの仕事。あんたも渡してあげよう」
「はい、ありがとう」
「じゃあ、まず船賃だね。あんたの持っているお金を、全部渡してもらえるかな」
小町は目を細めて微笑い、少女に手を差し出す。
「え、私、お金、って」
「いいから、ポケットの中とか探ってみな。きっとあるから」
言われるままに、少女はポケットの中に手を入れた。そして、目を丸くする。
「え、あれ? いつのまに?」
驚くままに、少女は自分のポケットの中の金を取り出し始める。その量は、小町が驚くほどのものだった。
若いが、それなりの徳は積んできたのだろうか。それを判断するのは、小町の役目ではないけれど。
「それがあんたの船賃さ。額は全額。渡しておくれ」
「あ、は、はい」
面食らったまま、少女はこぼれ落ちた金銭も全て拾って小町に渡した。誤魔化しはないようで、小町は少しほっとする。
全額を渡さず、渡れなくなった霊魂も少なからず存在する。それに対する警告はするが、守らない者もやはりいることにはいるのだ。
「ん、十分だ。さ、あたいの船はこっちだ」
小町はそう、少女を先導するように歩きだした。
「あんたはどうして死んだんだい? 随分と若いようだけれど」
船を漕ぎ出しながら、小町は尋ねる。
この少女の額を見れば、それほど長い船旅にならないことは容易に想像ついたが、どうしてここまでの額なのか興味はあった。
「病気です。何か、難しい名前だったけど、今の私はもう覚えてないですね」
少女は微笑んだ。長いこと苦しんだのだろうが、それを感じさせない魂だった。
ああ、そうか、と小町は理解する。この少女は、きっと。
「随分と入院してたのかい」
「ええ。随分長くいたような気がします」
少女は目を閉じた。少し思いを馳せるように考えて、口を開く。
「周りにも病気の子がいたりして、出来ることは少なかったけど、折り紙を作ったり。いろいろ、していました」
「うん」
小町は櫂を漕ぎながら、少女の言葉に耳を傾ける。
少女がどんな人達に会い、どんな話をし、どんな思いをしたのか。
彼女の経験を――彼女の人生を、聞いていく。
「……病気の前からも、随分たくさんの人と過ごしてたんだね」
「そうですね、私は幸せだったのだろう、と思います」
少女は笑った。随分と慕われていたのだと、話を聞くだけの小町にもわかった。
いい奴ほど早死にする、と言ったのは誰だったか。よく聞く言葉でもあるな、と小町は思う。
「でも」
少女の呟きに、小町は動きを止めて意識を向けた。
「もっと、生きたかった、とは思います」
「うん」
「いつか死ぬことはわかっていたけれど。ああでも、だからこそ落ち着いているのかな。最期のときまで、私はきっと生きたかったんだと思います」
ここまで芯の通った魂も珍しい、そう、小町は楽しげに目を細めた。
この少女は命の火を燃やして、燃やし尽くしてここにきたのだろう。
それは恥ずべきことでも、後悔することでもない。そうやって懸命に生きる者が、今どれほどいるだろうか。
「あんたは一生懸命生きたんだね」
「そうでしょうか」
「そうだと思うよ、あたいは。だから真っ直ぐここまで来れた。迷わずにね」
小町はそう笑いかけてやった。死を受け入れられず迷う魂は多い。未練を捨てきれずに来る魂も。
けれどもこの少女は真っ直ぐに自分の生と死を見つめてきた。こんなに強い魂は、本当に珍しい。
真面目に仕事をする気になってたのはそれもあるかな、と、小町は心の中だけでくつくつと笑った。
こうした魂に会えるから、この稼業は楽しいのだ。
「少なくとも、あたいは誇っていいと思う、あんたの生き方を」
「ありがとうございます」
そう、少女は花が綻ぶように笑った。小町は軽く頷いて、櫂を握る手を、またゆっくりと動かした。
やがて、きい、と音がして、船が岸に着く。小町はさっと船を固定すると、少女の幽霊を降ろしてやった。
「さ、この後は閻魔様の審判だ。頑張るんだね」
「はい」
どんなことがあるかわからないけど、と頷いた少女は、あ、と呟いて、ポケットに手を入れた。
「そうだ、これ」
そう言いながら、彼女は何かを取り出す。
それは金銭ではない。金銭ならば、彼女はここにいない。それはただの、折り紙で作られた、風車だった。
「同室の子に渡そうと思って、最後に作ったのが残ってたみたいで。お金じゃないからいいかなって思ったけど、この先に持っていけないかもしれないから、貴女に」
「……うん、もらうよ」
小町の手のひらに小さな風車を乗せて、少女は微笑んだ。
「ありがとう、船頭さん」
「いいや、次はいい生が送れるといいね」
「次も、ですよ」
その言葉に、小町は緩やかに微笑んだ。こんなにプラスの思いを乗せるのは、本当に珍しい。
「そうだね、悪かった。行っておいで」
「はい、さよなら」
手を振って、少女は歩き出す。それを見送りながら、小町は胸の前でそっと手のひらを閉じた。
大事に大事に、壊れてしまわぬように、優しく握りしめた。
三途の川は魂を渡す。この風車もまた魂の記憶にすぎない。
此岸の岸まで川を渡りきってしまえば、きっとこれも、消えてなくなるのだろう。
それでも、小町はそれを受け取った。
それでも、受け取ってやろうと思った。
だってこれは、彼女が賢明に生きた証、なのだから。
「僅かでも、賢明に生きた跡があるならば――あの子の行き先はきっと悪くないものだろう」
小さく呟く。それは祈りなのかもしれなかった。
魂の向かった方を一つ眺めやって、小町は此岸に向かって船を進め始める。
一つ一つの魂に思いを寄せていては、キリなどありはしない。
一つ一つの想いに揺れ動いていては、死神などやっていられない。
けれども、その魂の想いに心を馳せるのは、間違いではないだろうと小町は思っている。
だってそれこそが。
「死神冥利に尽きるってもんじゃないかい。ねえ」
誰ともなく呟いたその手の中から、風車が消えていく。
花が散るように、霞となって空気に溶けるように、消えていく。
それを見届けて、小町は一つ目を閉じた。
再び船は岸に着いた。くるりと見回しても、やはり誰も何もいない。本当に死者の少ない日だ。
「さて、次はどんな奴が来るかねえ」
目の上に手を翳して、小町は目を細める。
次来る者はどんな生を送ったものなのだろうか。善人だろうか、悪人だろうか。
悪人であれば、それはそれでまた面白い。
今回は善い方向に楽しい魂に会えたのだ――次は悪い方向に面白くても良い。
そう心に呟き、暢気に鼻歌を歌いながら、小町は岸辺の草原に足を進めた。
良い彼岸帰航いただきました
あっさり目な仕上がりも良いですが、起伏ある物語も見てみたいですね
こんな感じで仕事してるんだろな、こまっちゃん。
小町が本当に小町らしい。適当にやっているようでもその一つ一つはしっかり心が篭っている。
魂にとってはそれがたった一度きりの船旅ですから。
なにより他人に深く情を移さないから
ありがとうございました。
余計な話か