@百合です
私は手元の便箋を見下ろすと、そこに書かれた言葉に思わず笑みがこぼれる。
上から下、右から左と、雑な四つ折りにする。
そのまま大げさすぎるほど思い切り大きな動作で前後に引き裂いてみると、図書館に甲高い音が響いた――。
事の始まりはといえば、やはりあの時だろうか。
いつもの来客が帰った少し後。研究に行き詰まり、図書館をぐるぐると飛んで考えを巡らせていたところ、真っ赤な絨毯の上に一箇所、花が咲いているように見える部分があった。
近寄ってみれば、それは細長いピンク色の封筒。場所からすれば、落し物で間違いないだろう。
「ふうん……」
拾い上げ、表と思われる面、左上の部分に「パチュリーへ」と書かれているのを目にする。私宛てに文書で伝えたいことがありそうな者にはいくらか心当たりがある。直接顔を合わせる機会の多い間柄とはいえ、間接的に文書を用いる必要がある用事というものもないとは言えない。
しかし私は首を振って、ある二人を候補から除外する。それは紅魔館の中で可能性がある二人ともだったが、生憎その可能性は潰れる。どちらとも私を様付け無しに呼んだことがないから、というのもあったが、その宛名の字がびっくりするほどいびつだったからというのが一番の理由。
つまり、と封筒を裏返しながら思えばそこには予想通り、それが差出人のサインであるかのように星型のシールがべたべたと貼られていた。
「なんだ、魔理沙か」
本人に聞かれれば、なんだとはなんだ、とでも言われそうな言い草だが仕方がない。
人間の身分で私の庭にやってきて、本を漁り時には持っていく。要するに、変わり者兼略奪者。
会話らしい会話を交わすことはあまりないが、靴が絨毯を撫でる音でどこにいるかは把握している。もちろん、どういった本を目当てにしているのかも。
この数日は辞書を手にとっているようだったけれど、まさか手紙を書いていたとは。
いや、もちろん私も手紙くらい書くことはある。伝言程度の簡単なものはもちろんのこと、招待状や挨拶状を館の主人に代わって書いたことも数え切れないほどある。
だけどこれはどうみても、
「ラブレターよねえ……」
封筒裏側、中央のシールに目を留める。色とりどりの星が散りばめられたその中に唯一存在する赤色。ハート型のシールだった。
それを改めて見ると、思わずため息が漏れた。
「人間が私に、か」
と呟くと、思わず笑みまで零れてしまう。
いくらなんでもこんな大事なカードを人の庭に落としていくなんて不用心すぎはしないか。私がもっと無遠慮だったら、開けて読んだ末に燃やして知らない振りをしているだろう。
はじめてみた類の手紙に俄然興味は湧いたものの、私とて人並み以上の礼儀を弁えている。中を見ず、折を見て返せばいいというだけの話だ。
どうせまた明日も明後日も来るのだから。
最初はただの研究の邪魔だと思っていた。ろくでもない手土産を持ってきて、たまに私を驚かせたりするし。いや、でもこの間の空飛ぶキノコは面白かったな。
だけど、魔導書を抱えてきては私の知識を借りにきて、研究の妨害をする。だけど、不意に顔を近づけてきたときは、心臓麻痺で死ぬかと思った。
気付けば、毎日魔理沙が来るのを待ち望んでいる。研究の邪魔をされてもいいと思うのは、研究が進まなくて気晴らしが必要だから……というだけではない気がする。
おかしい、と首を振って思う。これではまるで、私の方が魔理沙のことを好きみたいじゃないか。私が人間相手に恋をする?
ありえないわ。
まず知識量が違う、歩んできた歳月が違う、種族が違う。まともな会話を交わしたことはない、お互いのことをほとんど知らない、そんな二人が恋をすることなんてありえない。
だけれど、魔理沙はそう思っていないということなんだろう。
「どうしたものかしらね」
と呟いてはみたものの、もうやることは決めていた。
僭越ながら私は、生まれながらに知識を肉とし好奇心を血としてきたのだから。これからもそうするだけ。
そう自分に言い聞かせるように、図書館の扉を開いた。
「それでどうかしたの、パチェ」
浅く腰掛ける私とは対照的に、めんどくさそうにソファにふんぞりかえって組んだ足を放り出している。私と同じよう、レミィもいつもと変わりない座り方だった。見ようによっては威厳もあるかもしれないが、どちらかというと外見の幼さが強調されるよう。
咲夜はと言えば、そのすぐ後ろで微動だにせず顔を伏せていた。
「ええ、それがね」
と私は切り出し、
「ちょっと聞いて欲しいっていうか、むしろあくまで参考意見として聞きたいだけであって、私の魔法使いとしての好奇心を満たすには通らざるを得ない道であって、決して私が切迫した状況に陥ってるとかそんなことじゃないのよ、ほんとよ、それで主と補佐役としての関係というよりはただ友人として聞きたいことがあってね、いやほんとあくまで参考にさせてもらいたいだけだからほらそんな変に思われても」
「パチェ、パチェ」
私を呼ぶ声にふと我に返ると、聞き手は呆れたような顔で苦笑いをしていた。
いけない、今日は我を忘れやすすぎる。
言葉を続けるうちに速さを増した胸の鼓動が耳にも聞こえるようになっていた。
「ええと、私に聞きたいことがある。そしてそれはパチェの好奇心を満たすため」
レミィは爪の鋭く伸びた指を一本二本と立て、一泊置いて、握る。
「そうね?」
「仰せの通りに」
その背後では恭しく咲夜が従った。
「それで?」
満足したように大仰に頷きながら笑みを浮かべたレミィが、続きを促す。
「……そうね、率直に聞かせていただくわ」
そう言った私の動悸はまだ落ち着かない。
同じ動悸でも、研究中稀に感じる、望む結果に辿り着く直前のあの高揚感とは遠くかけ離れた感覚だった。どちらかといえば、喘息の時のそれに近い気さえした。
けれど、私は知りたいことのために手段は問わない。深呼吸を一つして、私は尋ねる。
「……他人を好きになったことって……ある?」
だから、喉につっかえさせたままでは窒息しそうなそれを思い切って言葉にした。
「あるわよ」
そんな私の葛藤には興味がないというように、目の前の吸血鬼がしれっと言ってのけたので、私は思わずテーブルに身を乗り出してしまった。
「あるの!? ていうか誰よ!」
そんな私の言葉がさぞ心外だったのだろう、レミィは引きつったような笑みをわずかに浮かべてそっぽを向いた。
「……まさか、その子?」
私は身を乗り出した体勢のまま、目を閉じて立ったままの咲夜を見やるが、
「違うわ」
即座に否定するその言葉に、咲夜はわずかに一度だけ肩を震わせた。
そして続けられる言葉は愉快そうに弾んで。
「距離が近ければいいってものでもないってことよ。ほとんど一人で過ごしてる人には、それで充分なのかもしれないけどね」
好きな人を瞼の裏に思い浮かべると、自然とそうなってしまうのかもしれない。思えば、魔理沙の愚痴を話すときは、私も饒舌になる気がする。
「相手のことを大切に思っていさえすればね、あとのことは全部放り出しても好きという感情は存在できるものだわ」
もっとも、とレミィは続ける。
「私の場合は、永遠の片思いかもしれないけど」
……なるほどね。
レミィが気楽そうに肩をすくめれば、その仕草さえ痛々しいというように肩を落とす咲夜。もちろん、レミィがそうするのは私に対する気遣いを含んでいるのだろうから、感謝するべきなのだろう。必要なこととはいえ、片思いの原因の一端は私なのだから。
だから私は、少しの沈黙の後に、
「で、咲夜は? 今好きな人がいたりするの?」
と、意地悪く尋ねた。
相手なんて分かりきっているというのに。
「私も、いることにはいますが……」
「が?」
聞こえる声にふと見れば、おもちゃで遊びたくて仕方ないというような、満面の笑顔のレミィ。よくよく考えれば、レミィは長い間今の生活を続けているのだ。それだけ咲夜をからかうのにも、それを気晴らしにするのにも慣れている。
主人の期待するような目に、渋々、私を諭すような優しい声色で咲夜は語る。
「好きと一口に言っても、そうですね。食べ物を好きなのとは事情が違うものです。故に、その一つに敬愛というものがありまして」
嬉しげに耳を傾けるレミィと、続きを促すように何度も頷く私。
「その基本的な心理は、自分と相手の違いを比較することです。相手が、自分にはどうやっても辿り着けない位置にいるほど、自分の持ち得ないものを持っているほど、愛情は強くなるものだと、私は考えています」
と、手の動作まで交えて熱く話し始めそうになると、
「……いえ、ただ私はお嬢様に仕えてさえいれば」
そう言って咲夜は一歩下がり小さく礼をした。出すぎた真似をしたというよりも、そう。
なるほど、辿り着けぬ場所にいて持ち得ぬものを持っているという、その当人に想いを告げたようなものだ。そんな照れからか、先ほどよりも顔を深く下げて立っていた。
「ま、そういうことよ。まだ何か質問がおあり?」
分かりやすい作り笑いを浮かべてそう尋ねるレミィは、鋭い歯を見せて満足気だった。
物事が思い通りにいくと、いつもそんな顔をする。見た目に感じる幼さと、運命を操る能力と、そのどちらをも象徴するような笑みだった。
もちろん私も、そんな笑みが嫌いではないのだが。
「いいえ、参考になったわ。ありがとうね」
さっきの慌てぶりを忘れたように、私は言った。それが敬意を示すことにもなると思ったし、こういうところでお互いの立ち位置を再確認するのは大事だ。
長年一緒の時間を過ごしてきた数少ない相手に対する、私なりの解答だった。
柄にもなく慌てたり、メイドで遊んだりはしたものの、結論は得られた。
私が魔理沙のことを好きになる理由は充分にあるし、それを恥じる必要はないということ。
これなら確かに、魔理沙が私にラブレターを書いていたというのは納得できるというものだった。私が持っていないものを魔理沙が持っているのなら、逆もまた然り。
が、まだ納得できないことが一つあった。
とりあえずじっくり腰を据えて考えてみようか、と書斎のドアを開くと、
「ぱっちゅりぃさまぁー!」
前方からの突然の衝撃で尻餅をついた私に、さらに追撃はやってくる。
「どこ行ってたんですかぁ! こんなに、こんなに、こんなにいい子にして待ってたっていうのに!」
胸の辺りを掴まれ、言葉と共に何度も何度も頭で腹部を殴打される鈍痛。今にも喉の奥から溢れてきそうな血をこらえながら、私はなんとか口を開く。
「あなたね……私を愛したいのか殺したいのか一つに決めてくれるかしら? どちらにしても答えは未来永劫ノーから一ミリたりと動かしてやることはないんだけどね」
そう言って、わずかに腹部から浮いた頭を両手で挟み込むと、渾身の力を振り絞ってこめかみを左右から締め上げた。
「痛い痛い痛い痛い痛い、でもこの痛みも愛だというなら全て受け止めます!」
反省したのか何なのかは分からないけれど、私は手を緩め、まだずきずきと痛む腹部をおさえて立ち上がる。慣れないところで体力を使ったせいで、若干息も上がっていた。
頭突きを何十回と繰り返していた小悪魔はと言えば、目には涙をにじませ、こめかみをさすりながら何やら笑っている。
ちょっと気持ち悪い。
「それで、今日はなんでまた私を殺しにきたわけ?」
「なんでって言われましても、三日前に与えられた仕事が終わったので報告をしようと思ったんですが。書斎にも図書館にもいらっしゃらなくて、トイレにお風呂にクローゼットの中まで確認して、次は下着を漁ろうかなと思ったところで、急にパチュリー様がきたので……」
これっぽっちも、いい子である要素が見当たらなかったのは気のせいではないだろう。
昔からこの子は、私を慕って好き好きと言ってくるのだけど、いまいちよく分からない。私は必要な仕事をさせているだけだというのに。
ただ、普段は鬱陶しいだけのそんな小悪魔に、今に限っては圧倒的に向いた仕事があることに思い至った。
「ねえ、小悪魔」
「なんですか? 抱擁は一日三百回までですよ?」
「あなたって、私のこと好きなのよね?」
「はい!」
不意の問いにも、満面の笑みで応える。
「私の、どんなところが好きなの?」
「全部です」
難解な問いにも、明快な視線で応える。
とても、解答にはなっていないが。今のは私の問いかけが悪かった。
最後の疑問を晴らしたくて、私は問う。
「……私が仕事を言いつけて、あなたはそれをこなしてるだけじゃない。それでどこに好きになるきっかけがあるのよ?」
「分かってないですね、パチュリー様」
指を口の端に当てて、にこりと微笑む小悪魔。
「一緒にいる、ただそれだけで充分じゃないですか」
今この瞬間も、というように、私の目をまっすぐに見つめて言った。
そう、思い返してみれば。
魔理沙が最初に遊びにやってきた時から、胸は震えていた。最初は不愉快な気分から動悸が激しくなっているだけ、と思ってはみたけれど。
ふと手を止めて魔理沙のいる方を見てしまうのは、勝手に本を持って行かないか監視をするためと、誰にともなく言い訳をしてみたけれど。
来ない日があれば、なんだか手の進みが悪くなるのは、今まで散々ペースを乱されて取り戻すのに時間がかかるだけと思いたかったけれど。
でも、私にはないあの強さが羨ましくて、何も気にしない自由さが輝いて見えて、気が付けば、一緒にいて欲しいと思うようになっていた。
そこにはきっかけなどなかった、そんなものはいらなかったのだ。だから、認めよう。
私は、魔理沙が好きだ。
明日も来るだろうから、そのときに手紙を返しながら、伝えたい。
そう決めてしまえば心がふと軽くなったからか、今まで見えなかった小悪魔の思いが見えるようになった気がして、なんだか申し訳ない気持ちになった。
魔理沙がやってくる前から私のことを好きだと言ってくれていた子に、私は言った。
「……ごめんね、小悪魔」
「いえいえ、なんの。パチュリー様が幸せなら、それでいいのです」
いつもと変わらないはずの、私を通して遠くを見るようなその目が、なんだか胸にちくりと痛かった。
「おーじゃましまー……っす」
翌日、私の晴れやかな気分の原因であるはずの魔理沙はいつもより少々早い時間にやってきて、随分とおっかなびっくり、とても似合わないか細い声と共にドアを開いた。
「いらっしゃい、なんだか今日は元気ないみたいね」
しかし、私が振り向いて顔を見せると、魔理沙はほっとしたように息をつき、硬そうな頬がほんの少し和らいだようだった。
それは私が普段通りの姿で迎えたことに安心したようにも見えた。といっても、私とて内心では朝起きた時から胸を高鳴らせ、来訪を待ち望んでいたのだけれど。
しかし魔理沙はといえば、自分の手のひらを覗き込んだり、つま先で絨毯を叩いたり。背面のドアを振り返ったり、視線を上にやってすぐ足元に下ろしたりと、いやに落ち着かない様子だった。
椅子でもすすめようかと思った時、
「あのさ、パチュリー」
胸につかえたものを搾り出すかのように、服の胸元を掴みながら、魔理沙は口を開いた。
その動作だけで、なんのことを言いたいのかが分かってしまった。いや、その言葉を望んでいたせいかもしれない。
「昨日ここに、手紙……落ちてなかったか?」
ほら、やっぱり。
「ええ、これのことかしら」
机の上に置いたままの封筒を私は引き寄せ、目の前に掲げる。とまったハートのシールが、心なしか震えているように見えた。
それは、魔理沙の心だろうか、私の心なのだろうか。
「そう、それなんだが……中、読んだか?」
「読んでないわ、安心して」
私の言葉に、魔理沙は何故だか顔を少し強張らせた。
それを少し不思議に思いながらも、私は続ける。押さえていないと、言葉やそれ以外のあれやこれやがあふれ出てしまいそうな気がして、封筒を胸元に当てながら。
「それでもあなたの気持ちはよく伝わったわ。そして、私自身の気持ちも。どんなに否定しようとしても、この鼓動は落ち着いてくれなかった。いつ目を閉じても、あなたの笑顔が浮かんだ。少ししか交わしていない言葉でさえも、私の胸にいつも響いていたから」
そして、胸からあふれ出す想いが押し出すように。この想いを直に伝えるために。
封筒を摘んだ手を、魔理沙の方へと伸ばした。
ぎこちない笑顔になってしまったかもしれない、それでもいい。
「魔理沙、あなたが好きよ」
そんな私の急な告白を聞き、ぽかんとした顔の魔理沙は、やがて頬を朱に染め、口の端を上げて笑顔を作った。
「ああ、私もだ」
手を差し出し封筒を受け取るのかと思えば、二本の指を立てたVの字の後ろで、歯を見せて笑っていた。
「って、これは返すから」
いくら眩しい笑顔でも、笑ってごまかされては困る。
「後で書き直してくれてもいいし、そのまま処分してしまってもいいし」
思いを伝え合った今では、もう必要のないものではないか。
なのに魔理沙は、気まずそうに言うのだった。
「それは、私の気持ちだから……できれば読んで欲しいんだ」
意図せずに手に渡った手紙を、だろうか。
だけれど読んで欲しいというのなら、私は魔理沙の気持ちを知りたい。
「……そう、分かったわ」
ハート型の封を、絶対に破れないよう綺麗にはがそうとしていると、
「それじゃ私は帰るから、また明日来るぜ!」
私に返事をする間も与えず、魔理沙は逃げるように去っていってしまった。
目の前で手紙を読まれるのが、恥ずかしいのかしら。
今更だろうに、と小さく笑って私は便箋を開く。
そこには短い文章が綴ってあった。だけど、紛れも無い魔理沙の言葉。
拝啓 パチュリー・ノーレッジ様
すまん、借りてた本燃えちった
かしこ
霧雨魔理沙
私は手元の便箋を見下ろすと、そこに書かれた言葉に思わず笑みがこぼれる。
上から下、右から左と、雑な四つ折りにする。
そのまま大げさすぎるほど思い切り大きな動作で前後に引き裂いてみると、図書館に甲高い音が響いた――。
事の始まりはといえば、やはりあの時だろうか。
いつもの来客が帰った少し後。研究に行き詰まり、図書館をぐるぐると飛んで考えを巡らせていたところ、真っ赤な絨毯の上に一箇所、花が咲いているように見える部分があった。
近寄ってみれば、それは細長いピンク色の封筒。場所からすれば、落し物で間違いないだろう。
「ふうん……」
拾い上げ、表と思われる面、左上の部分に「パチュリーへ」と書かれているのを目にする。私宛てに文書で伝えたいことがありそうな者にはいくらか心当たりがある。直接顔を合わせる機会の多い間柄とはいえ、間接的に文書を用いる必要がある用事というものもないとは言えない。
しかし私は首を振って、ある二人を候補から除外する。それは紅魔館の中で可能性がある二人ともだったが、生憎その可能性は潰れる。どちらとも私を様付け無しに呼んだことがないから、というのもあったが、その宛名の字がびっくりするほどいびつだったからというのが一番の理由。
つまり、と封筒を裏返しながら思えばそこには予想通り、それが差出人のサインであるかのように星型のシールがべたべたと貼られていた。
「なんだ、魔理沙か」
本人に聞かれれば、なんだとはなんだ、とでも言われそうな言い草だが仕方がない。
人間の身分で私の庭にやってきて、本を漁り時には持っていく。要するに、変わり者兼略奪者。
会話らしい会話を交わすことはあまりないが、靴が絨毯を撫でる音でどこにいるかは把握している。もちろん、どういった本を目当てにしているのかも。
この数日は辞書を手にとっているようだったけれど、まさか手紙を書いていたとは。
いや、もちろん私も手紙くらい書くことはある。伝言程度の簡単なものはもちろんのこと、招待状や挨拶状を館の主人に代わって書いたことも数え切れないほどある。
だけどこれはどうみても、
「ラブレターよねえ……」
封筒裏側、中央のシールに目を留める。色とりどりの星が散りばめられたその中に唯一存在する赤色。ハート型のシールだった。
それを改めて見ると、思わずため息が漏れた。
「人間が私に、か」
と呟くと、思わず笑みまで零れてしまう。
いくらなんでもこんな大事なカードを人の庭に落としていくなんて不用心すぎはしないか。私がもっと無遠慮だったら、開けて読んだ末に燃やして知らない振りをしているだろう。
はじめてみた類の手紙に俄然興味は湧いたものの、私とて人並み以上の礼儀を弁えている。中を見ず、折を見て返せばいいというだけの話だ。
どうせまた明日も明後日も来るのだから。
最初はただの研究の邪魔だと思っていた。ろくでもない手土産を持ってきて、たまに私を驚かせたりするし。いや、でもこの間の空飛ぶキノコは面白かったな。
だけど、魔導書を抱えてきては私の知識を借りにきて、研究の妨害をする。だけど、不意に顔を近づけてきたときは、心臓麻痺で死ぬかと思った。
気付けば、毎日魔理沙が来るのを待ち望んでいる。研究の邪魔をされてもいいと思うのは、研究が進まなくて気晴らしが必要だから……というだけではない気がする。
おかしい、と首を振って思う。これではまるで、私の方が魔理沙のことを好きみたいじゃないか。私が人間相手に恋をする?
ありえないわ。
まず知識量が違う、歩んできた歳月が違う、種族が違う。まともな会話を交わしたことはない、お互いのことをほとんど知らない、そんな二人が恋をすることなんてありえない。
だけれど、魔理沙はそう思っていないということなんだろう。
「どうしたものかしらね」
と呟いてはみたものの、もうやることは決めていた。
僭越ながら私は、生まれながらに知識を肉とし好奇心を血としてきたのだから。これからもそうするだけ。
そう自分に言い聞かせるように、図書館の扉を開いた。
「それでどうかしたの、パチェ」
浅く腰掛ける私とは対照的に、めんどくさそうにソファにふんぞりかえって組んだ足を放り出している。私と同じよう、レミィもいつもと変わりない座り方だった。見ようによっては威厳もあるかもしれないが、どちらかというと外見の幼さが強調されるよう。
咲夜はと言えば、そのすぐ後ろで微動だにせず顔を伏せていた。
「ええ、それがね」
と私は切り出し、
「ちょっと聞いて欲しいっていうか、むしろあくまで参考意見として聞きたいだけであって、私の魔法使いとしての好奇心を満たすには通らざるを得ない道であって、決して私が切迫した状況に陥ってるとかそんなことじゃないのよ、ほんとよ、それで主と補佐役としての関係というよりはただ友人として聞きたいことがあってね、いやほんとあくまで参考にさせてもらいたいだけだからほらそんな変に思われても」
「パチェ、パチェ」
私を呼ぶ声にふと我に返ると、聞き手は呆れたような顔で苦笑いをしていた。
いけない、今日は我を忘れやすすぎる。
言葉を続けるうちに速さを増した胸の鼓動が耳にも聞こえるようになっていた。
「ええと、私に聞きたいことがある。そしてそれはパチェの好奇心を満たすため」
レミィは爪の鋭く伸びた指を一本二本と立て、一泊置いて、握る。
「そうね?」
「仰せの通りに」
その背後では恭しく咲夜が従った。
「それで?」
満足したように大仰に頷きながら笑みを浮かべたレミィが、続きを促す。
「……そうね、率直に聞かせていただくわ」
そう言った私の動悸はまだ落ち着かない。
同じ動悸でも、研究中稀に感じる、望む結果に辿り着く直前のあの高揚感とは遠くかけ離れた感覚だった。どちらかといえば、喘息の時のそれに近い気さえした。
けれど、私は知りたいことのために手段は問わない。深呼吸を一つして、私は尋ねる。
「……他人を好きになったことって……ある?」
だから、喉につっかえさせたままでは窒息しそうなそれを思い切って言葉にした。
「あるわよ」
そんな私の葛藤には興味がないというように、目の前の吸血鬼がしれっと言ってのけたので、私は思わずテーブルに身を乗り出してしまった。
「あるの!? ていうか誰よ!」
そんな私の言葉がさぞ心外だったのだろう、レミィは引きつったような笑みをわずかに浮かべてそっぽを向いた。
「……まさか、その子?」
私は身を乗り出した体勢のまま、目を閉じて立ったままの咲夜を見やるが、
「違うわ」
即座に否定するその言葉に、咲夜はわずかに一度だけ肩を震わせた。
そして続けられる言葉は愉快そうに弾んで。
「距離が近ければいいってものでもないってことよ。ほとんど一人で過ごしてる人には、それで充分なのかもしれないけどね」
好きな人を瞼の裏に思い浮かべると、自然とそうなってしまうのかもしれない。思えば、魔理沙の愚痴を話すときは、私も饒舌になる気がする。
「相手のことを大切に思っていさえすればね、あとのことは全部放り出しても好きという感情は存在できるものだわ」
もっとも、とレミィは続ける。
「私の場合は、永遠の片思いかもしれないけど」
……なるほどね。
レミィが気楽そうに肩をすくめれば、その仕草さえ痛々しいというように肩を落とす咲夜。もちろん、レミィがそうするのは私に対する気遣いを含んでいるのだろうから、感謝するべきなのだろう。必要なこととはいえ、片思いの原因の一端は私なのだから。
だから私は、少しの沈黙の後に、
「で、咲夜は? 今好きな人がいたりするの?」
と、意地悪く尋ねた。
相手なんて分かりきっているというのに。
「私も、いることにはいますが……」
「が?」
聞こえる声にふと見れば、おもちゃで遊びたくて仕方ないというような、満面の笑顔のレミィ。よくよく考えれば、レミィは長い間今の生活を続けているのだ。それだけ咲夜をからかうのにも、それを気晴らしにするのにも慣れている。
主人の期待するような目に、渋々、私を諭すような優しい声色で咲夜は語る。
「好きと一口に言っても、そうですね。食べ物を好きなのとは事情が違うものです。故に、その一つに敬愛というものがありまして」
嬉しげに耳を傾けるレミィと、続きを促すように何度も頷く私。
「その基本的な心理は、自分と相手の違いを比較することです。相手が、自分にはどうやっても辿り着けない位置にいるほど、自分の持ち得ないものを持っているほど、愛情は強くなるものだと、私は考えています」
と、手の動作まで交えて熱く話し始めそうになると、
「……いえ、ただ私はお嬢様に仕えてさえいれば」
そう言って咲夜は一歩下がり小さく礼をした。出すぎた真似をしたというよりも、そう。
なるほど、辿り着けぬ場所にいて持ち得ぬものを持っているという、その当人に想いを告げたようなものだ。そんな照れからか、先ほどよりも顔を深く下げて立っていた。
「ま、そういうことよ。まだ何か質問がおあり?」
分かりやすい作り笑いを浮かべてそう尋ねるレミィは、鋭い歯を見せて満足気だった。
物事が思い通りにいくと、いつもそんな顔をする。見た目に感じる幼さと、運命を操る能力と、そのどちらをも象徴するような笑みだった。
もちろん私も、そんな笑みが嫌いではないのだが。
「いいえ、参考になったわ。ありがとうね」
さっきの慌てぶりを忘れたように、私は言った。それが敬意を示すことにもなると思ったし、こういうところでお互いの立ち位置を再確認するのは大事だ。
長年一緒の時間を過ごしてきた数少ない相手に対する、私なりの解答だった。
柄にもなく慌てたり、メイドで遊んだりはしたものの、結論は得られた。
私が魔理沙のことを好きになる理由は充分にあるし、それを恥じる必要はないということ。
これなら確かに、魔理沙が私にラブレターを書いていたというのは納得できるというものだった。私が持っていないものを魔理沙が持っているのなら、逆もまた然り。
が、まだ納得できないことが一つあった。
とりあえずじっくり腰を据えて考えてみようか、と書斎のドアを開くと、
「ぱっちゅりぃさまぁー!」
前方からの突然の衝撃で尻餅をついた私に、さらに追撃はやってくる。
「どこ行ってたんですかぁ! こんなに、こんなに、こんなにいい子にして待ってたっていうのに!」
胸の辺りを掴まれ、言葉と共に何度も何度も頭で腹部を殴打される鈍痛。今にも喉の奥から溢れてきそうな血をこらえながら、私はなんとか口を開く。
「あなたね……私を愛したいのか殺したいのか一つに決めてくれるかしら? どちらにしても答えは未来永劫ノーから一ミリたりと動かしてやることはないんだけどね」
そう言って、わずかに腹部から浮いた頭を両手で挟み込むと、渾身の力を振り絞ってこめかみを左右から締め上げた。
「痛い痛い痛い痛い痛い、でもこの痛みも愛だというなら全て受け止めます!」
反省したのか何なのかは分からないけれど、私は手を緩め、まだずきずきと痛む腹部をおさえて立ち上がる。慣れないところで体力を使ったせいで、若干息も上がっていた。
頭突きを何十回と繰り返していた小悪魔はと言えば、目には涙をにじませ、こめかみをさすりながら何やら笑っている。
ちょっと気持ち悪い。
「それで、今日はなんでまた私を殺しにきたわけ?」
「なんでって言われましても、三日前に与えられた仕事が終わったので報告をしようと思ったんですが。書斎にも図書館にもいらっしゃらなくて、トイレにお風呂にクローゼットの中まで確認して、次は下着を漁ろうかなと思ったところで、急にパチュリー様がきたので……」
これっぽっちも、いい子である要素が見当たらなかったのは気のせいではないだろう。
昔からこの子は、私を慕って好き好きと言ってくるのだけど、いまいちよく分からない。私は必要な仕事をさせているだけだというのに。
ただ、普段は鬱陶しいだけのそんな小悪魔に、今に限っては圧倒的に向いた仕事があることに思い至った。
「ねえ、小悪魔」
「なんですか? 抱擁は一日三百回までですよ?」
「あなたって、私のこと好きなのよね?」
「はい!」
不意の問いにも、満面の笑みで応える。
「私の、どんなところが好きなの?」
「全部です」
難解な問いにも、明快な視線で応える。
とても、解答にはなっていないが。今のは私の問いかけが悪かった。
最後の疑問を晴らしたくて、私は問う。
「……私が仕事を言いつけて、あなたはそれをこなしてるだけじゃない。それでどこに好きになるきっかけがあるのよ?」
「分かってないですね、パチュリー様」
指を口の端に当てて、にこりと微笑む小悪魔。
「一緒にいる、ただそれだけで充分じゃないですか」
今この瞬間も、というように、私の目をまっすぐに見つめて言った。
そう、思い返してみれば。
魔理沙が最初に遊びにやってきた時から、胸は震えていた。最初は不愉快な気分から動悸が激しくなっているだけ、と思ってはみたけれど。
ふと手を止めて魔理沙のいる方を見てしまうのは、勝手に本を持って行かないか監視をするためと、誰にともなく言い訳をしてみたけれど。
来ない日があれば、なんだか手の進みが悪くなるのは、今まで散々ペースを乱されて取り戻すのに時間がかかるだけと思いたかったけれど。
でも、私にはないあの強さが羨ましくて、何も気にしない自由さが輝いて見えて、気が付けば、一緒にいて欲しいと思うようになっていた。
そこにはきっかけなどなかった、そんなものはいらなかったのだ。だから、認めよう。
私は、魔理沙が好きだ。
明日も来るだろうから、そのときに手紙を返しながら、伝えたい。
そう決めてしまえば心がふと軽くなったからか、今まで見えなかった小悪魔の思いが見えるようになった気がして、なんだか申し訳ない気持ちになった。
魔理沙がやってくる前から私のことを好きだと言ってくれていた子に、私は言った。
「……ごめんね、小悪魔」
「いえいえ、なんの。パチュリー様が幸せなら、それでいいのです」
いつもと変わらないはずの、私を通して遠くを見るようなその目が、なんだか胸にちくりと痛かった。
「おーじゃましまー……っす」
翌日、私の晴れやかな気分の原因であるはずの魔理沙はいつもより少々早い時間にやってきて、随分とおっかなびっくり、とても似合わないか細い声と共にドアを開いた。
「いらっしゃい、なんだか今日は元気ないみたいね」
しかし、私が振り向いて顔を見せると、魔理沙はほっとしたように息をつき、硬そうな頬がほんの少し和らいだようだった。
それは私が普段通りの姿で迎えたことに安心したようにも見えた。といっても、私とて内心では朝起きた時から胸を高鳴らせ、来訪を待ち望んでいたのだけれど。
しかし魔理沙はといえば、自分の手のひらを覗き込んだり、つま先で絨毯を叩いたり。背面のドアを振り返ったり、視線を上にやってすぐ足元に下ろしたりと、いやに落ち着かない様子だった。
椅子でもすすめようかと思った時、
「あのさ、パチュリー」
胸につかえたものを搾り出すかのように、服の胸元を掴みながら、魔理沙は口を開いた。
その動作だけで、なんのことを言いたいのかが分かってしまった。いや、その言葉を望んでいたせいかもしれない。
「昨日ここに、手紙……落ちてなかったか?」
ほら、やっぱり。
「ええ、これのことかしら」
机の上に置いたままの封筒を私は引き寄せ、目の前に掲げる。とまったハートのシールが、心なしか震えているように見えた。
それは、魔理沙の心だろうか、私の心なのだろうか。
「そう、それなんだが……中、読んだか?」
「読んでないわ、安心して」
私の言葉に、魔理沙は何故だか顔を少し強張らせた。
それを少し不思議に思いながらも、私は続ける。押さえていないと、言葉やそれ以外のあれやこれやがあふれ出てしまいそうな気がして、封筒を胸元に当てながら。
「それでもあなたの気持ちはよく伝わったわ。そして、私自身の気持ちも。どんなに否定しようとしても、この鼓動は落ち着いてくれなかった。いつ目を閉じても、あなたの笑顔が浮かんだ。少ししか交わしていない言葉でさえも、私の胸にいつも響いていたから」
そして、胸からあふれ出す想いが押し出すように。この想いを直に伝えるために。
封筒を摘んだ手を、魔理沙の方へと伸ばした。
ぎこちない笑顔になってしまったかもしれない、それでもいい。
「魔理沙、あなたが好きよ」
そんな私の急な告白を聞き、ぽかんとした顔の魔理沙は、やがて頬を朱に染め、口の端を上げて笑顔を作った。
「ああ、私もだ」
手を差し出し封筒を受け取るのかと思えば、二本の指を立てたVの字の後ろで、歯を見せて笑っていた。
「って、これは返すから」
いくら眩しい笑顔でも、笑ってごまかされては困る。
「後で書き直してくれてもいいし、そのまま処分してしまってもいいし」
思いを伝え合った今では、もう必要のないものではないか。
なのに魔理沙は、気まずそうに言うのだった。
「それは、私の気持ちだから……できれば読んで欲しいんだ」
意図せずに手に渡った手紙を、だろうか。
だけれど読んで欲しいというのなら、私は魔理沙の気持ちを知りたい。
「……そう、分かったわ」
ハート型の封を、絶対に破れないよう綺麗にはがそうとしていると、
「それじゃ私は帰るから、また明日来るぜ!」
私に返事をする間も与えず、魔理沙は逃げるように去っていってしまった。
目の前で手紙を読まれるのが、恥ずかしいのかしら。
今更だろうに、と小さく笑って私は便箋を開く。
そこには短い文章が綴ってあった。だけど、紛れも無い魔理沙の言葉。
拝啓 パチュリー・ノーレッジ様
すまん、借りてた本燃えちった
かしこ
霧雨魔理沙