「ふにゃあ」
と、黒猫・魔理沙はあくびまじりに大きく鳴いた。
お腹が空いたのである。今日は朝から何も食べていない。
外は雨。春だというのにとても寒い。
憂鬱。
ごそごそとお気に入りの押入れの奥から抜け出して、う~んと伸びをする。もうひとつあくび。
自慢の毛並をぺろぺろと整えて、前肢で顔を洗い、つつと板張りの廊下を優雅に歩く。しっぽがぴょこぴょこゆれている。短くて巻き込むように丸まっているのが不満だけど、ジャパニーズ・ボブテイルだから仕方ない。
ピンクの肉球でとっとこ歩く。
にゃあ、ともう一度鳴く。
反応はない。
思ったとおり食餌の容器も空。隣の容器に水が残ってるだけ。それもほんのちょっぴり。
「……。」
仕方なくそれを舐める。もうない。
パタパタ。
短いしっぽをせわしくゆらす。
人で言えば指先をとんとんと打ちつけるような仕草である。言うまでもなく苛立っている。
しかし優雅な猫は下品にふぎゃふぎゃ鳴いたりしない。
パタパタ。
しっぽを振る。
パタパタパタパタ。
激しく振る。
パタパタパタパタパタパタ。
もっと振る。
パタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタパタ……!
……疲れた。
ツンとおすまし顔でその場を離れる。まだ外は雨。せっかくの毛並も湿気でぺったり。不満だらけだ。
またもとっとこ廊下を移動して、ある部屋の前で立ち止まり、閉め切られた障子を見上げる。ちょこんとお座りして、ニャア。
おきろ。朝だぜ。飯をくれ。
返事はない。
にゃあにゃあにゃあ。
物音ひとつしない。
ばりばりばり。
障子を破いて中に入る。引き戸やドアレバー式の扉を開ける猫はよくいるが、また賢いと言われるが、より優雅で上流な猫はそんなことはしないものだ。誰かが開けてくれるまで待つか、あるいは破壊する。
「にゃお」
入るぜ。
部屋の中には紅白の物体が転がっていた。
ふかふかの羽蒲団にくるまっている。紅白──と思いきや、今は寝巻きなので襦袢の白だけだった。もぞり、とだらしなく動く。
もぞり。
何かの幼虫みたいだ。
すうすうと可愛らしい寝息。
目許にかかるさらさらの髪。長い睫毛。
朱色の唇。
(──もぞり。──)
ときどき思い出したように動くのがとても怖い。
「──。」
そして静かに上下する胸元と、桜色のほっぺ。
「みみゃあ」
ぷにぷにぷにぷに。
思わずいじってみたくなる。
ぷにぷに。
やーらかーな感触が愉しい。病みつきになりそう。
おきろおきろ。顔の上を大胆に踏んづけていく。餌くれ餌くれ。踏み踏み。
朝だぜ。
いや、もう昼だ。
春眠暁を覚えなさすぎだ。
覚えたからって、幻想郷では何の得にもならないから、別にいいんだけど。
でもとりあえず腹が減ったのは困る。
飯をくれ。
にゃおにゃお。
ぷにっ。ぷにっ。
必殺の猫パンチも効果がない。
(──もぞり。──)
また動く。微妙に痙攣してるみたいでとても厭だ。
その拍子に紅白(白襦袢)の枕元から何かがはらりと飛び出した。
だだだだっ!
「……。」
思わず飛びついてしまった。
それは一枚の紙切れ。何やら墨でごちゃごちゃと書き込んであるようだが、とうぜん知ったことではない。
噛みついてみたり引っ掻いてみたり。
ついでに一発必中のマスタースパーク(猫)をお見舞いしてみたり。
動くものを見るとつい攻撃する癖が出てしまうのだ。
しかも無意識に。ほぼ本能。
自分が手を出すことによって紙が不規則に飛び、それを追いかけて爪で引っ掻く。するとその反動でまた動く。動くから飛びついて、飛びつくからまた紙が飛ばされる。
ガサガサ。ダダッ!
ガサガサ。ダダッ!
しばらく熱中してみたり。
が、やがてはたと気づく。
なんだか目を血走らせて必至に紙切れを追い駆けるさまは、あんまり恰好よろしくない。遊ぶにしても、もうちょっとゆとりを持って。
紙っ。紙っ。
なんて悦んでいる場合ではない。
とことこ紙のそばを離れて部屋の隅でちょこなんと座り込む。紅白(白襦袢)の方を見て、なー、と小声で鳴く。
紙切れなんて素知らぬ振り。
それでも──。
おひげがピクピク。
しっぽがパタパタ。
「…………。」
沈黙。
ガサガサガサガサササッ!
やっぱり追い駆けてしまう哀しい習性だった。
ドタタタタッ…!
!…ッタタタタド
タドドドドッ…!
盛大な騒音を撒き散らしながら部屋の中を行ったり来たり。
向こうに行ってはこっちに戻り。そっちに進んであっちに曲がる。
ときどき邪魔な紅白(白襦袢)が視界に入るが気にしない。もちろん避けることもしない。
紙っ。紙っ。
(──もぞり。──)
一心不乱にじゃれつくそばで、紅白(白襦袢)がまた動いた。ぽそり、と寝言だろうか、何事かを呟く。
「夢想刻印──……」
みぎゃあ。
∠(*_*|||)∠ ....
……やっぱり弾幕遊びは危険だ。
じゃれついたものが悪かったかもしれない。
それも燃え尽きてしまったし。適度に毛並も黒く煤けた。黒に黒だから見た目は判らないけど触ると煤でべったりだ。気持ち悪いので蒲団になすり付けておく。
──さて。
あれ? ええと。
ここまでなにしに来たんだっけ?
外は雨で散歩に出られないのはすっきり暴れて解消したし。弾幕も充分に堪能したし。
部屋の中央で転がってる紅白(白襦袢)も、自分で自分の寝床を破壊しておきながら一向に起きる気配がない。
「──。」
なんだかこっちまで眠くなってきた。
春だからな。まだ雨はしとしと降っているけど。
「くあ……」
大きなあくびがこぼれ、ふと見ると丁度良いような空間がある。
鼻先で匂いを嗅ぎながら近付いて、紅白(白襦袢)の乱れた襟口から服の中にもぐり込む。もぞもぞ。丸くてやーらかいものに体を預け、胸元から顔だけをちょこりんと覗かせる。狭いところは好きだ。あったかくて気持ち良い。
おやすみなさい。
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「……変な夢を見ちまったぜ」
ある雨の午後である。
黒い魔法使いさん・霧雨魔理沙は寝そべっていた縁側から体を起こして涎を拭いた。
無人の博麗神社に遊びに来たまま、いつものように勝手に上がり込んで縁側でお茶を飲み、うつらうつらとしてそのまま寝入ってしまったのだ。
「私が猫だなんてどうかしてる」
それはそれで可愛かったし、魔法使いに猫はつき物だけれど、自分がなるのは少し違う。猫は、やはり飼うものだ。
魔理沙はふああとあくびをすると、そのまま大きく伸びをして、よっこらしょと少女らしからぬ掛け声を出して立ち上がった。
ひさしの向こうで雨はまだ降り続く。板張りの廊下に座布団一枚で寝てしまったので、少し冷えてきたようだ。お腹も多少、空いてきた。
居間に向かうと縁側の床がかすかにきしむ。古式ゆかしい造りで魔理沙は気に入っていた。
「霊夢ー」
呼びながら居間に入る。居間の隣は襖に仕切られた寝室で、今はその襖も開け放たれ一続きの部屋のようになっている。
彼女はその隣の寝室で、柔らかな蒲団に寝そべりだらしなく眠っていた。
「なんだ寝てるのか」
魔理沙はふう、とため息をつく。せっかく一緒に遊ぼうと思ったのに。しかし無理に起こすことはない。
仕方ない飯でも用意するかと呟いて、静かに台所の方へと歩み去る。
蒲団の上では、紅白が身じろぎしていた。
起きているような、寝ているような。夢うつつながら、両手の上に顎を載せ、薄目を開けて魔理沙の背中をぼんやりと追う。やがて聞こえてくる、とんとんと包丁を使う音、鍋のぐつぐつ煮立つ音。
その物音を聞きつけると紅白の彼女は満足したのか、もう一度目を閉じると、耳としっぽをぴくぴく動かし、再び心地好い眠りへと落ちていく。
ねこ~ねこ~