4/3に投稿した「~求生求悪~」の前文です。
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~迎往~
光り輝く満月を背にして、その行列は音も無く天から地へゆっくりと落ちていく。
様々な荷物や厳しい武器を携えた月兎達は、
列の中央にある牛車の速さに合わせて進む。
黒塗であつらえた車体には向かい合うように座っている二人の影が簾の合間から窺い知れた。
「八意様、ご気分が優れないのですか?」
影の一人が向き合う影へ心配そうに話しかけた。
八意と呼ばれた影は沈みがちな目を問いかけた影にそっと向けた。
「大丈夫よ、少し昔のことを思い返していただけ。
………姫と過ごした日々を……」
言いながら細めていた目を閉じて伸びをするように顔を仰ぎ、ゆっくりと正面を向いた。
「蛭子、あなたは時折月読様の命で地上に降り立っては地上の穢れを祓ったり、
姫の情報を収集したりしてるから聞くけれど、姫の身辺はどんな様子なの?」
「はい、姫様は月におられた頃のままの美しさでご健在です。ただ……。」
蛭子は直ぐに口に出すのを躊躇った。
「ただ…何?」
「……姫様の美しさに魅せられた5人の地上人が姫様に求婚を迫っているのです」
言って、蛭子は申し訳なさそうに伏目がちになった。
それを聞いた永琳は大仰に驚いているように見せながら笑っている。
「あらあら、姫もそんなお年頃になってしまわれたのね。」
冗談混じりに問いかけると蛭子は苦々しく口元を締めて答えた。
「姫様も姫様ですよ、まったく変わっておりません。
地上人の求婚など全て突っぱねてしまえばいいものを……。」
「あら、お受けになったの?」
永琳は蛭子の反応をわかっていて尋ねた。
「とんでもない!……い、いえ、あの、そうではないのです。
…姫様はある条件を満たしたならば求婚に応えようと言い出したのです…。
その条件というのがちょうど5人ということもあって『五常の宝珠』を
一番に取ってくればその者の妻となろう……と。」
想定していたものとは少しずれたものではあったが永琳は聞いて納得した。
「あるかどうかも分からない伝説の品なので、恐らくこの条件を満たせる者はないと思います。
私は姫様の迂遠な拒否の意思ではないかと考えております。」
蛭子の考えは妥当なものであったが、永琳にはどうしてもそれだけとは思えなかった。
「姫も相変わらず意地が悪いわ。
恐らくその条件の真意を見出せる者など一人もいないでしょうね。」
「真意…とは?」
「『五常の宝珠』は確かに存在する。
しかし自らそれらを取りに行こうとする者は必ずその身を滅ぼすの。
あれは太古の昔から蓄積された想い、概念が物質化した力そのもの。
そんな大それたものを自ら手にしようだなんて自殺行為はお勧めできないわ。」
「……それではやはり姫様の計略で煙に巻いてしまわれた、
と取って構わないのでは?」
蛭子は永琳の言う〝姫の真意〟を未だ掴めてはいない。
「そうね、そう考えるのが一番自然ね。」
ぽつりと呟き俯いた。
永琳の重々しい様子に蛭子は言い得ぬものを感じ、それ以降話しかけるのを止めた。
姫の真意については分からず仕舞いだったが、
永琳が沈んでいるのはきっと輝夜が堕天の刑に処せられたにも拘わらず、
自分(永琳)は大したお咎めもなかったことを今も気に病んでいるのだろうと考えた。
暫くしてから、牛車の手綱を捌く月兎がもうすぐ地上に降り立つことを知らせた。
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~再会~
地上に降り立つ際、地上人は抵抗を見せたが、
天に弓引く者の末路は己の放った矢に掛かり、
または月兎達の紅眼に狂って同士討ちを始め、守備隊は全滅した。
屋敷へは蛭子を先頭に、二人の月兎が永琳を挟むようにして入っていった。
あらかじめ蛭子は屋敷の何処に輝夜がいるのか、
この土地を治める権力者や近隣の村々など、
ありとあらゆる調査を済ませているため
例え輝夜が住まう屋敷を逃げ出したとしても先を見越すことは容易い。
蛭子が地上での諜報活動に従事しているのには二つの理由があった。
一つは、月と地上を結ぶ道である満月が出ている時でしか行き来することができないところを、
蛭子は自身のみが乗ることの出来る<天笹舟>で自由に往来できるからである。
そしてもう一つの理由が蛭子の“どんな者にでも成れてしまう程度の能力”にある。
姿形は勿論、声から思考の組み立て方、
果てはその模写した人物特有の癖までも模写しきってしまえる程の能力である。
しかしそんな能力のせいもあってか蛭子自身の人の姿というものは存在しない。
あえて言うなら蛭子が何者にも化けていない時の姿は剥き出しになった腸の塊である。
そんな蛭子の姿を不快に思った月の城主(輝夜の母)である月読尊は、
蛭子を月の役職の中で最も低い位置の官職を与えた上で、
自分より地位の上の者を許可無く模写することを禁じてしまったのである。
それ故に蛭子が模写できる対象は月兎と地上の民以外にはなかったために、
今の役割が振られた。それは定期的な輝夜の監視役としても適任であった。
今回の連れ戻しも輝夜の身辺に不穏な動き(言い寄る異性)あり、と報告を受けたのが始まりである。
地上人を忌み嫌う月読にとって当然許せるものではなかった。
次の満月までに輝夜を連れ戻すよう命を下したのを永琳は聞きつけ、その役を買って出たのである。
月読は永琳の申し出を少し躊躇したものの、蛭子を随伴するのならばよし、とした。
永琳は自分を遣わすことに躊躇うことは予め分かっていた。
お目付け役が付くことも予想内だった。
輝夜と永琳という組み合わせが猜疑の目を向かせるには十分な過去を持つ故に、月読の条件は当然といえた。
輝夜を迎えに行けるのならば誰が付いてこようと構わなかった。
一日千秋の思いでこの日を待ちわびた永琳にとって、どんな条件が付こうとも辞さない覚悟だった。
そして今歩いている、月の屋敷に比べれば狭く短い廊下がとてももどかしく感じられた。
襖が10枚ほど並んだ部屋の中央で蛭子は歩きを止めて振り返った。
「こちらに」
蛭子は端的に伝えて一歩引くと二人の月兎が中央の襖一枚ずつに張り付いた。
永琳は襖の前で服を整えしゃがみ込むと蛭子もそれに続いた。
「失礼します」
永琳の一言を合図に二人の月兎はそれぞれ反対の方向へ襖を引いた。
永琳と蛭子は三つ指を付き深々と頭を垂れ、顔を上げると部屋の右手奥の上座には鴨居から畳まで大きな簾が掛かっていた。
簾の向こうには輝夜とおぼしき人影が座っていた。
永琳と蛭子が部屋へ入ると月兎達は廊下に残り襖は閉じられた。
部屋の中央へ足音も立てず二人は進み、上座へと体を向けると再び座して頭を下げた。
「久方ぶりにございます、輝夜様。八意重兼永琳、蛭子両名、
姫のお迎えにあがりました」
言い終えてようやく頭を上げるといつの間にか簾は巻き上がり、輝夜の姿が露になっていた。
数多に彩られた鮮やかな五衣や唐衣に包まれた輝夜の姿は華々しくも優雅に、
蠱惑的な引力を有しながらも近寄りがたい高貴な雰囲気を醸し出していた。
「本当に久しぶりね、永琳。あなたがわざわざ迎えに来るなんて驚いたわ」
驚いたと言いながらも落ち着き払った口調には冷ややかな感があった。
「さあ姫様、月に帰る準備は整っております。
月読様も輝夜様がご帰還なさるのを、首を長くしてお待ちになっております」
蛭子が月読の名を出した途端に輝夜の顔は嫌悪に染まった。
「母様が私の帰りを待ち望んでいるですって?
ええ、そうでしょうとも。あの人はいつもそう。
母様の都合で地に堕とされ、またも母様の都合で天に連れ戻される。私がいつ月へ戻ると申しました?」
蛭子を見据えて矢つぎ早に問い責める。
「こんな身勝手は無いわ!確かに私は悪戯に禁忌を犯し、その報いを受けて天から追放された。
でもそれは私一人だけだった。共に禁を破ったはずの、
そこに居る永琳も私と共に罰を受けるべきではなくて!?」
永琳は膝の上で手を握り締め目を瞑り、輝夜の声に耳を傾けている。
「恐れながら姫様、無礼を承知で申し上げます。きっと月読様もお辛かったはずです!
いかに輝夜様といえども禁忌を犯して裁かぬというのでは下々に示しがつきませぬ。
八意様に置かれましてはその類稀なる医と智を役立てねばならない立場に在らせられる故に、
月の繁栄には欠かせぬ存在なのです。姫様、どうかご理解ください!」
蛭子は畳に頭が付くほど頭を下げ、輝夜にひれ伏した。
「他人の形を借りないと話しもろくに出来ない化け物が良く喋ること。」
憤りに満ちて怒りの捌け口を求めた輝夜は暴言を吐いた。
蛭子は身を僅かに震わせ苦しそうに、悲しそうに押し黙った。
輝夜は憤怒 から自虐的な笑みへと少しずつ表情を変化させていった。
「そう……母様は……月の民達は私よりも永琳の方が大事なのね。」
くすくすと自嘲する輝夜を前にして永琳は首を左右に振った。
「そんなことはありません、姫。全ての月の民が姫の帰還を願っております。
月へ戻られればその事がお分かりになれます。」
輝夜は笑いを止め、永琳に顔を向けた。
「あなたもよ、永琳。あなたも私より月の民達の方が大事だったのでしょう?
さぁ、あなたの口から聞かせて頂戴!」
自虐的に永琳を問い詰める瞳にはうっすらと涙が溜り、
微かな嗚咽と共に目じりから頬へと滴り堕ちた。
輝夜の乱れ振りに永琳は蛭子に下がるよう命じた。
蛭子は素直にその命に従い部屋を出て行った。
永琳は泣きじゃくる輝夜の目の前まで近寄ると、その胸に包み込むようにただただ優しく抱きしめた。
「嫌ッ!永琳なんか嫌い、大っ嫌いよ!私を独りぼっちにして……
…嫌いよぅ……永琳なんか…永琳なんか………ぅぅ……」
抱きしめられた腕を振り払おうと踠いたが、永琳は決して輝夜を離そうとはしなかった。
次第に暴れる力は弱まっていき、終には永琳の胸で大声を上げて、
母にすがり付く子どものように泣き伏した。
その間永琳は何も言わずに、輝夜の背中や髪を優しく撫でて泣き止むのを待った。
輝夜が泣き止んだ頃合を見計らって、永琳は語りかけた。
「姫が堕ちてから今に至るまで私はずっと月読様の監視の下にありました。
駆けつけ、お側に仕えることのできないそんな我が身を呪いました。
輝夜様もさぞ辛く、寂しかったことでしょう。
それでも今日という日を迎えられたことを嬉しく思います。
また月で、共にこうして過ごせるのですから。」
輝夜が胸の中で小さく震えていた。
永琳はそれを歓喜による震えだと解釈し、より深く抱き締めようとした。
しかし輝夜は顔を埋めていた永琳の胸を突き飛ばすと距離をとった。
輝夜の表情は口を堅く結び、目を見開き、怒っているような、
恐怖に顔を引きつらせているような顔をしていた。
そのただならぬ表情に、永琳は自分の考えの足りぬ本心からの言葉に後悔した。
そして輝夜の内に猛る怒りの本質を見誤っていたことに後悔した。
輝夜の怒りは処罰の処遇や、今回の強引な連れ戻しによるものだと考えていたが、それだけではなかった。
輝夜は未開の土地で、見知らぬ地上人と過ごし、自分の身の置き場を自分の手で切り開いた自負がある。
それは月に居た頃にはなかった確固たる〝自己確立〟に他ならない。
おめおめと月に連れ帰られては耐え難い屈辱となるだろう。
月に帰ったとしても母の威光に逆らうことなどできないことはわかっている。
それだけにこの地上を離れることは自身の居場所をも失うことに等しかった。
輝夜にとって月への帰還は、譲れないもの全てを根こそぎ粉砕してしまう行為に他ならなかった。
そこへ最後の味方だと思っていた永琳の口から、永琳の本心から「月へ戻ろう」と言われてしまった。
輝夜の目には一番の忠臣がただの敵にしか映らなかった。
「姫、違うのです!」
永琳が擦り寄ろうとするより輝夜は先に後ずさった。
それを見てとった永琳は、自分の言葉にはもはや何の力もありはしない事実に強く打ちひしがれた。
立て膝のまま固まっていた永琳は力無く座り込んだ。
輝夜は敵意を宿した目で永琳の動きを注視していた。
永琳がへたり込んでもその眼差しが変わることはなかった。
「……どうしたら……許して頂けるのでしょうか……どうすればお側に…
おいて頂けるのでしょうか。……どんなことでも仰ってください。
…………私の仕えるべき主は……姫を措いて他にありえはしないのですから……」
敵意を未だ発散し続ける輝夜は、不用意な永琳の言葉を怒りに任せて詰った。
「どんなことでも?それをあなたが叶えてくれるというの?
笑わせないで!私の苦しみも知らないくせにッ!私の悲しみも知らないくせにッ………
私があなたの主であるなら、主と共に苦むのが従僕の務めではなくて!?」
輝夜の怒声が永琳を更に打ちのめす。
「私は絶対に月へは帰らない!それは私の譲れないものなの、わかる永琳?
私の覚悟を聞いてもまだそんな温い考えが持てるかどうか試してあげるわ!」
輝夜は永琳達が入ってきた襖を開けて、
近くに誰もいないことを確認してから蹲る永琳の側で誰にも聞こえぬように囁いた。
耳打ちされたその〝覚悟〟に驚いた永琳の目は、輝夜の姿しか捉えることが出来ないほど動揺した。
しかし永琳は輝夜へ異論を唱えることを許される立場にありはしなかった。
もしここで否定的な意見を唱えればそれこそ輝夜の心はより遠く離れていってしまうだろう。
輝夜に対する負い目と〝覚悟〟が永琳を追い詰める。
「あなたは私のすることをただ黙って見ていればいいだけ。
役立たずなあなたでも、見ている位はできるでしょう?
……私は私のために、罪を罪で塗り潰す。苦しみから逃れる為に
新たな苦しみを作り出す。それでも私は…私を決して見捨てはしない…。」
誰の為でもない、自分自身へ宣言する輝夜を見た永琳は、口を半開きにしてその姿に見惚れていた。
記憶の中にある輝夜にはなかった、決意の深さと凛々しさに永琳は自分の認識を改めた。
悪を悪と認めてなお揺るがぬ、金剛石にも勝る強固な意志。
目的の為ならばどんな犠牲も厭わない確固たる信念。
自らの内に無くなって久しい、毒々しいまでの〝生〟を謳歌する、仕えるべき主がそこにあった。
永琳は居すまいを正すと輝夜に恭しく頭を下げた。
「私の認識の甘さによる重ね重ねの非礼、真に申し訳ありませんでした。
ただ一言、宜しいでしょうか?」
永琳の態度に訝しみながらも凛とした態度に気圧された。
「言ってみなさい」
「先ほど姫は『見ているだけでいい』と仰いましたがその役、私にお任せ願えないでしょうか?」
永琳の申し出に輝夜はその意図を摑みかねた。
「どういうこと、永琳。
急に手の平を返したように汚れ役を買って出るなんて……私の目を眩ます妙案でも思いついたの?」
意地悪く問い質す。
「今は信じて頂けなくても構いません。事が成った後に判断して下さって結構です。
その時には私も月へ帰れない身の上になっていることでしょうから。」
永琳は苦笑いしながらも厳しい表情を崩さなかった。
輝夜はその言葉全てを信じたわけではないが、無視することの出来ない迫力を感じた。
「そう、そこまで分かっていてそう言うのなら私はあなたを見ていることにするわ。」
事が済むまで監視する、という意味を含ませ永琳を牽制した。
「やることが決まったのにここで何時までも話していては埒が明かないわ。
準備は整っているのでしょう?さっさと済ませてしまいましょう。」
輝夜は永琳を引き連れて部屋を後にした。ある決意を胸に秘めて。
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~迎往~
光り輝く満月を背にして、その行列は音も無く天から地へゆっくりと落ちていく。
様々な荷物や厳しい武器を携えた月兎達は、
列の中央にある牛車の速さに合わせて進む。
黒塗であつらえた車体には向かい合うように座っている二人の影が簾の合間から窺い知れた。
「八意様、ご気分が優れないのですか?」
影の一人が向き合う影へ心配そうに話しかけた。
八意と呼ばれた影は沈みがちな目を問いかけた影にそっと向けた。
「大丈夫よ、少し昔のことを思い返していただけ。
………姫と過ごした日々を……」
言いながら細めていた目を閉じて伸びをするように顔を仰ぎ、ゆっくりと正面を向いた。
「蛭子、あなたは時折月読様の命で地上に降り立っては地上の穢れを祓ったり、
姫の情報を収集したりしてるから聞くけれど、姫の身辺はどんな様子なの?」
「はい、姫様は月におられた頃のままの美しさでご健在です。ただ……。」
蛭子は直ぐに口に出すのを躊躇った。
「ただ…何?」
「……姫様の美しさに魅せられた5人の地上人が姫様に求婚を迫っているのです」
言って、蛭子は申し訳なさそうに伏目がちになった。
それを聞いた永琳は大仰に驚いているように見せながら笑っている。
「あらあら、姫もそんなお年頃になってしまわれたのね。」
冗談混じりに問いかけると蛭子は苦々しく口元を締めて答えた。
「姫様も姫様ですよ、まったく変わっておりません。
地上人の求婚など全て突っぱねてしまえばいいものを……。」
「あら、お受けになったの?」
永琳は蛭子の反応をわかっていて尋ねた。
「とんでもない!……い、いえ、あの、そうではないのです。
…姫様はある条件を満たしたならば求婚に応えようと言い出したのです…。
その条件というのがちょうど5人ということもあって『五常の宝珠』を
一番に取ってくればその者の妻となろう……と。」
想定していたものとは少しずれたものではあったが永琳は聞いて納得した。
「あるかどうかも分からない伝説の品なので、恐らくこの条件を満たせる者はないと思います。
私は姫様の迂遠な拒否の意思ではないかと考えております。」
蛭子の考えは妥当なものであったが、永琳にはどうしてもそれだけとは思えなかった。
「姫も相変わらず意地が悪いわ。
恐らくその条件の真意を見出せる者など一人もいないでしょうね。」
「真意…とは?」
「『五常の宝珠』は確かに存在する。
しかし自らそれらを取りに行こうとする者は必ずその身を滅ぼすの。
あれは太古の昔から蓄積された想い、概念が物質化した力そのもの。
そんな大それたものを自ら手にしようだなんて自殺行為はお勧めできないわ。」
「……それではやはり姫様の計略で煙に巻いてしまわれた、
と取って構わないのでは?」
蛭子は永琳の言う〝姫の真意〟を未だ掴めてはいない。
「そうね、そう考えるのが一番自然ね。」
ぽつりと呟き俯いた。
永琳の重々しい様子に蛭子は言い得ぬものを感じ、それ以降話しかけるのを止めた。
姫の真意については分からず仕舞いだったが、
永琳が沈んでいるのはきっと輝夜が堕天の刑に処せられたにも拘わらず、
自分(永琳)は大したお咎めもなかったことを今も気に病んでいるのだろうと考えた。
暫くしてから、牛車の手綱を捌く月兎がもうすぐ地上に降り立つことを知らせた。
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~再会~
地上に降り立つ際、地上人は抵抗を見せたが、
天に弓引く者の末路は己の放った矢に掛かり、
または月兎達の紅眼に狂って同士討ちを始め、守備隊は全滅した。
屋敷へは蛭子を先頭に、二人の月兎が永琳を挟むようにして入っていった。
あらかじめ蛭子は屋敷の何処に輝夜がいるのか、
この土地を治める権力者や近隣の村々など、
ありとあらゆる調査を済ませているため
例え輝夜が住まう屋敷を逃げ出したとしても先を見越すことは容易い。
蛭子が地上での諜報活動に従事しているのには二つの理由があった。
一つは、月と地上を結ぶ道である満月が出ている時でしか行き来することができないところを、
蛭子は自身のみが乗ることの出来る<天笹舟>で自由に往来できるからである。
そしてもう一つの理由が蛭子の“どんな者にでも成れてしまう程度の能力”にある。
姿形は勿論、声から思考の組み立て方、
果てはその模写した人物特有の癖までも模写しきってしまえる程の能力である。
しかしそんな能力のせいもあってか蛭子自身の人の姿というものは存在しない。
あえて言うなら蛭子が何者にも化けていない時の姿は剥き出しになった腸の塊である。
そんな蛭子の姿を不快に思った月の城主(輝夜の母)である月読尊は、
蛭子を月の役職の中で最も低い位置の官職を与えた上で、
自分より地位の上の者を許可無く模写することを禁じてしまったのである。
それ故に蛭子が模写できる対象は月兎と地上の民以外にはなかったために、
今の役割が振られた。それは定期的な輝夜の監視役としても適任であった。
今回の連れ戻しも輝夜の身辺に不穏な動き(言い寄る異性)あり、と報告を受けたのが始まりである。
地上人を忌み嫌う月読にとって当然許せるものではなかった。
次の満月までに輝夜を連れ戻すよう命を下したのを永琳は聞きつけ、その役を買って出たのである。
月読は永琳の申し出を少し躊躇したものの、蛭子を随伴するのならばよし、とした。
永琳は自分を遣わすことに躊躇うことは予め分かっていた。
お目付け役が付くことも予想内だった。
輝夜と永琳という組み合わせが猜疑の目を向かせるには十分な過去を持つ故に、月読の条件は当然といえた。
輝夜を迎えに行けるのならば誰が付いてこようと構わなかった。
一日千秋の思いでこの日を待ちわびた永琳にとって、どんな条件が付こうとも辞さない覚悟だった。
そして今歩いている、月の屋敷に比べれば狭く短い廊下がとてももどかしく感じられた。
襖が10枚ほど並んだ部屋の中央で蛭子は歩きを止めて振り返った。
「こちらに」
蛭子は端的に伝えて一歩引くと二人の月兎が中央の襖一枚ずつに張り付いた。
永琳は襖の前で服を整えしゃがみ込むと蛭子もそれに続いた。
「失礼します」
永琳の一言を合図に二人の月兎はそれぞれ反対の方向へ襖を引いた。
永琳と蛭子は三つ指を付き深々と頭を垂れ、顔を上げると部屋の右手奥の上座には鴨居から畳まで大きな簾が掛かっていた。
簾の向こうには輝夜とおぼしき人影が座っていた。
永琳と蛭子が部屋へ入ると月兎達は廊下に残り襖は閉じられた。
部屋の中央へ足音も立てず二人は進み、上座へと体を向けると再び座して頭を下げた。
「久方ぶりにございます、輝夜様。八意重兼永琳、蛭子両名、
姫のお迎えにあがりました」
言い終えてようやく頭を上げるといつの間にか簾は巻き上がり、輝夜の姿が露になっていた。
数多に彩られた鮮やかな五衣や唐衣に包まれた輝夜の姿は華々しくも優雅に、
蠱惑的な引力を有しながらも近寄りがたい高貴な雰囲気を醸し出していた。
「本当に久しぶりね、永琳。あなたがわざわざ迎えに来るなんて驚いたわ」
驚いたと言いながらも落ち着き払った口調には冷ややかな感があった。
「さあ姫様、月に帰る準備は整っております。
月読様も輝夜様がご帰還なさるのを、首を長くしてお待ちになっております」
蛭子が月読の名を出した途端に輝夜の顔は嫌悪に染まった。
「母様が私の帰りを待ち望んでいるですって?
ええ、そうでしょうとも。あの人はいつもそう。
母様の都合で地に堕とされ、またも母様の都合で天に連れ戻される。私がいつ月へ戻ると申しました?」
蛭子を見据えて矢つぎ早に問い責める。
「こんな身勝手は無いわ!確かに私は悪戯に禁忌を犯し、その報いを受けて天から追放された。
でもそれは私一人だけだった。共に禁を破ったはずの、
そこに居る永琳も私と共に罰を受けるべきではなくて!?」
永琳は膝の上で手を握り締め目を瞑り、輝夜の声に耳を傾けている。
「恐れながら姫様、無礼を承知で申し上げます。きっと月読様もお辛かったはずです!
いかに輝夜様といえども禁忌を犯して裁かぬというのでは下々に示しがつきませぬ。
八意様に置かれましてはその類稀なる医と智を役立てねばならない立場に在らせられる故に、
月の繁栄には欠かせぬ存在なのです。姫様、どうかご理解ください!」
蛭子は畳に頭が付くほど頭を下げ、輝夜にひれ伏した。
「他人の形を借りないと話しもろくに出来ない化け物が良く喋ること。」
憤りに満ちて怒りの捌け口を求めた輝夜は暴言を吐いた。
蛭子は身を僅かに震わせ苦しそうに、悲しそうに押し黙った。
輝夜は憤怒 から自虐的な笑みへと少しずつ表情を変化させていった。
「そう……母様は……月の民達は私よりも永琳の方が大事なのね。」
くすくすと自嘲する輝夜を前にして永琳は首を左右に振った。
「そんなことはありません、姫。全ての月の民が姫の帰還を願っております。
月へ戻られればその事がお分かりになれます。」
輝夜は笑いを止め、永琳に顔を向けた。
「あなたもよ、永琳。あなたも私より月の民達の方が大事だったのでしょう?
さぁ、あなたの口から聞かせて頂戴!」
自虐的に永琳を問い詰める瞳にはうっすらと涙が溜り、
微かな嗚咽と共に目じりから頬へと滴り堕ちた。
輝夜の乱れ振りに永琳は蛭子に下がるよう命じた。
蛭子は素直にその命に従い部屋を出て行った。
永琳は泣きじゃくる輝夜の目の前まで近寄ると、その胸に包み込むようにただただ優しく抱きしめた。
「嫌ッ!永琳なんか嫌い、大っ嫌いよ!私を独りぼっちにして……
…嫌いよぅ……永琳なんか…永琳なんか………ぅぅ……」
抱きしめられた腕を振り払おうと踠いたが、永琳は決して輝夜を離そうとはしなかった。
次第に暴れる力は弱まっていき、終には永琳の胸で大声を上げて、
母にすがり付く子どものように泣き伏した。
その間永琳は何も言わずに、輝夜の背中や髪を優しく撫でて泣き止むのを待った。
輝夜が泣き止んだ頃合を見計らって、永琳は語りかけた。
「姫が堕ちてから今に至るまで私はずっと月読様の監視の下にありました。
駆けつけ、お側に仕えることのできないそんな我が身を呪いました。
輝夜様もさぞ辛く、寂しかったことでしょう。
それでも今日という日を迎えられたことを嬉しく思います。
また月で、共にこうして過ごせるのですから。」
輝夜が胸の中で小さく震えていた。
永琳はそれを歓喜による震えだと解釈し、より深く抱き締めようとした。
しかし輝夜は顔を埋めていた永琳の胸を突き飛ばすと距離をとった。
輝夜の表情は口を堅く結び、目を見開き、怒っているような、
恐怖に顔を引きつらせているような顔をしていた。
そのただならぬ表情に、永琳は自分の考えの足りぬ本心からの言葉に後悔した。
そして輝夜の内に猛る怒りの本質を見誤っていたことに後悔した。
輝夜の怒りは処罰の処遇や、今回の強引な連れ戻しによるものだと考えていたが、それだけではなかった。
輝夜は未開の土地で、見知らぬ地上人と過ごし、自分の身の置き場を自分の手で切り開いた自負がある。
それは月に居た頃にはなかった確固たる〝自己確立〟に他ならない。
おめおめと月に連れ帰られては耐え難い屈辱となるだろう。
月に帰ったとしても母の威光に逆らうことなどできないことはわかっている。
それだけにこの地上を離れることは自身の居場所をも失うことに等しかった。
輝夜にとって月への帰還は、譲れないもの全てを根こそぎ粉砕してしまう行為に他ならなかった。
そこへ最後の味方だと思っていた永琳の口から、永琳の本心から「月へ戻ろう」と言われてしまった。
輝夜の目には一番の忠臣がただの敵にしか映らなかった。
「姫、違うのです!」
永琳が擦り寄ろうとするより輝夜は先に後ずさった。
それを見てとった永琳は、自分の言葉にはもはや何の力もありはしない事実に強く打ちひしがれた。
立て膝のまま固まっていた永琳は力無く座り込んだ。
輝夜は敵意を宿した目で永琳の動きを注視していた。
永琳がへたり込んでもその眼差しが変わることはなかった。
「……どうしたら……許して頂けるのでしょうか……どうすればお側に…
おいて頂けるのでしょうか。……どんなことでも仰ってください。
…………私の仕えるべき主は……姫を措いて他にありえはしないのですから……」
敵意を未だ発散し続ける輝夜は、不用意な永琳の言葉を怒りに任せて詰った。
「どんなことでも?それをあなたが叶えてくれるというの?
笑わせないで!私の苦しみも知らないくせにッ!私の悲しみも知らないくせにッ………
私があなたの主であるなら、主と共に苦むのが従僕の務めではなくて!?」
輝夜の怒声が永琳を更に打ちのめす。
「私は絶対に月へは帰らない!それは私の譲れないものなの、わかる永琳?
私の覚悟を聞いてもまだそんな温い考えが持てるかどうか試してあげるわ!」
輝夜は永琳達が入ってきた襖を開けて、
近くに誰もいないことを確認してから蹲る永琳の側で誰にも聞こえぬように囁いた。
耳打ちされたその〝覚悟〟に驚いた永琳の目は、輝夜の姿しか捉えることが出来ないほど動揺した。
しかし永琳は輝夜へ異論を唱えることを許される立場にありはしなかった。
もしここで否定的な意見を唱えればそれこそ輝夜の心はより遠く離れていってしまうだろう。
輝夜に対する負い目と〝覚悟〟が永琳を追い詰める。
「あなたは私のすることをただ黙って見ていればいいだけ。
役立たずなあなたでも、見ている位はできるでしょう?
……私は私のために、罪を罪で塗り潰す。苦しみから逃れる為に
新たな苦しみを作り出す。それでも私は…私を決して見捨てはしない…。」
誰の為でもない、自分自身へ宣言する輝夜を見た永琳は、口を半開きにしてその姿に見惚れていた。
記憶の中にある輝夜にはなかった、決意の深さと凛々しさに永琳は自分の認識を改めた。
悪を悪と認めてなお揺るがぬ、金剛石にも勝る強固な意志。
目的の為ならばどんな犠牲も厭わない確固たる信念。
自らの内に無くなって久しい、毒々しいまでの〝生〟を謳歌する、仕えるべき主がそこにあった。
永琳は居すまいを正すと輝夜に恭しく頭を下げた。
「私の認識の甘さによる重ね重ねの非礼、真に申し訳ありませんでした。
ただ一言、宜しいでしょうか?」
永琳の態度に訝しみながらも凛とした態度に気圧された。
「言ってみなさい」
「先ほど姫は『見ているだけでいい』と仰いましたがその役、私にお任せ願えないでしょうか?」
永琳の申し出に輝夜はその意図を摑みかねた。
「どういうこと、永琳。
急に手の平を返したように汚れ役を買って出るなんて……私の目を眩ます妙案でも思いついたの?」
意地悪く問い質す。
「今は信じて頂けなくても構いません。事が成った後に判断して下さって結構です。
その時には私も月へ帰れない身の上になっていることでしょうから。」
永琳は苦笑いしながらも厳しい表情を崩さなかった。
輝夜はその言葉全てを信じたわけではないが、無視することの出来ない迫力を感じた。
「そう、そこまで分かっていてそう言うのなら私はあなたを見ていることにするわ。」
事が済むまで監視する、という意味を含ませ永琳を牽制した。
「やることが決まったのにここで何時までも話していては埒が明かないわ。
準備は整っているのでしょう?さっさと済ませてしまいましょう。」
輝夜は永琳を引き連れて部屋を後にした。ある決意を胸に秘めて。