―もし諸君が不幸でも、それを読者に言ってはならぬ。
自分の為にとっておきたまえ。
『poesie Ⅰ』Lauttreamont
昔の記憶はいつだって其の様な物だ。
色彩は暗転し、情景は二百十六度に傾いでいた。
窓が一つきりしかない部屋、照明も一つきりで、風も無いのに振り子時計が時を刻むのと同じに、
細い鎖だけで繋がれて揺れている。薄く開いた視界の中で洋燈はくらくたと燃え続ける油の匂いで、
鼻先に指の痕をつけながら、緋色と橙を混ぜたか細い炎をほぅと灯し、部屋を照らし続ける。手を
伸ばせば、其のつまみに手が届くのだろうけれど、幾ら伸ばせども、小指の先一つ分足りない。
揺れて、揺れながら、薄らと照らされ続ける部屋には、一切が無い。
唯一の灯、其の真下には一枚の小さな格子窓。
其の外側には竜胆色の空が広がるばかりで。
後は一切が無い。
そんな部屋の壁に小さな椅子に座りながら、体は二百十六度に傾いでいた。
縛られた様に立ち上がる事も出来ず、ぼうと震える赤と黄を薄く眺めていた。
そんな事しか、出来やしなかった。
ぎゃあと三匹の鴉が啼いた。
何も無い部屋、あるのは窓硝子と球体硝子と自分だけ。
ぎゃあとまた、鴉が泣いた
其れはどうにも、自分の頭に直接響いている様だった。
ふと耳へと手を当てようにも、馴染んだ貝殻が見つからない。
其れどころか、紡錘状に歪んでいる。つるとした感触、隙間だらけの肉。
ああ、どうやらと、ほそり呟く。どうやら、自分の頭は鳥籠に変わってしまったのらしい。
ぎゃあと三度、鴉が鳴いた。
頭の中には三匹の鴉が、其の体を無理からに丸めながら収まっている。
硝子に映った丸い自分の姿。細く編まれた籐の籠、錆びた南京錠で閉ざされた扉、覆う物は何も
無く、止まり木など入る筈も無く、球状に蹲った鴉が三匹詰められていた。
ぎゃあと啼く。
ぎゃあぎゃあと喚く。
酷く、煩い。
昔の記憶とはいつだって其の様な物だ。
暗がりの部屋、壁は灰を煮染めた色をしていた。墨を刷毛で塗った様な穴だらけの影が壁の肌を
這い回る。洋燈が揺れている。鴉が鳴いている。窓の外では、何処までも抜けて行く様な青紫ばか
り。視界を閉じようにも、目蓋を何処かへ忘れてきてしまっていた。塞ぐ耳朶も今はもう無い。
鴉は泣き喚き続け、振動が滲んでいく。滲んで、撓み、歪んで、曲がる。
声が、変わっていく。
まるで、「二度と無い」と聞こえて。
不意に洋燈の火が途絶えた。
部屋には断層の無い黒が覆うばかり。
窓の外から見える光も部屋の全てを照らせない。
照らし出すのは消えた洋燈が尚も揺れる其の姿。後は、何も無い。
鴉達は其れでも「二度と無い」を繰り返す。
ばさがさと頭の中で騒ぎ出す。
どうにも耐えられなくなって来ていた。
そっと手探りで錆びた鍵を探り当て、思い切り引き千切った。
既に体を組み上げる結晶格子には酸素の毒が廻り過ぎて、自身が鍵で在り続ける事などできやし
ない。ふつりと砕けた円管は掌の中で、染み込んでいた雨水を吐き続ける。扉を開けると鴉達はず
りと無理に這い出そうと更に暴れて、仕舞いに砕けて死んでしまっていた。生温い水が首筋を伝い、
肩と背中を濡らし続ける。
全身が他人の血で汚れていく。
滴った水と水。
椅子を伝い、雨の様に部屋の壁へと落ちていく。
其の水音は、まるで「二度と無い」と聞こえた。
―其処で、漸く目が覚めた。
灯の途絶えた部屋、天井の模様さえ見えない、閉ざされた影で満ちた部屋の真ん中。
ベッドの上に、四肢を投げ出したまま、もう消えてしまった場景の名残を探せども。
きつと喉が震えた。
えづく。
一人、夜気だけが満ちた薄暗い部屋の真ん中で、指一つ動かせないまま。
けふごふと、喉から磨り潰された吐息だけが洩れるのを聞くばかり。
身体は、地面の底の、底の底へ錆びた鎖で縛り付けられている様に、動いてくれない。
えづく。
一人きりで、えづき、空の嘔吐を繰り返す。
唾液が口の中に満ちて、唇の端から、雫となって頬を伝い、シーツへと落ちていく。
えづく。
えづきながら、ぼんやりと、そう思う。
他人の昔は、いつだって、理不尽だと。
*
其の日は酷く蒸し暑かった。
昨夜まで降り続いた雨が今日の朝を迎える前に途絶えてしまったからか、湿った竹林の土は注が
れる日差しに、含んでしまった雨水を吐き出し続ける。
永遠亭は、そんな風に湿った熱気がほそと帯びていた。
屋敷の縁側、団扇で力無く首筋を扇ぎながら、地上の兎はだらしなく座り込んでいた。縁側の外
へふらくたと足を遊ばせながら、丸めた背中にはしとと汗の滲みていく。
「ちょっと、てゐ。ダレてないで手伝ってくれない?」
麻で編んだ袋一杯の筍を両手で持ち上げながら、月の兎は地上の兎の後ろを通る。
「あたしの仕事は頭脳労働。力仕事は軍人さんの仕事」
「体の良い言い訳にしか聞こえないけど」
「有能な者は上手にサボるものよぉ」
はたはたと団扇を躍らせながら、首元を広げながら風を送る。
「あんたが有能なのは、其の口先三寸だけでしょうが」
全くと溜息をついて、足を二歩だけ前に出した其の時に、りんと鈴の音が響く。来客を告げる小
さな鈴の歌声。屋敷の扉を叩けば揺れる其の音が、二匹の耳にひくと届く。
「ほら、お客さん」
「荒事は軍人さんの仕事」
「接客は頭脳労働でしょ?」
其れだけ告げると鈴仙・優曇華院・イナバは大量の筍を抱えながら、奥へと消えていく。
「……ちっ、面倒臭い」
不平を小声で口にしながら、因幡てゐは団扇を仰ぐ手を止めずに、重い腰を上げた。ひらひたと
裸の足底に溜まった汗が湿る廊下にへばりついて、足音が少し間抜けに響く。尚も変わらず落ち続
ける汗の一滴が気持ち悪いと、てゐは心の中でごちる。
玄関の扉まで辿り着くと、とんと木の叩かれる細い振動に扉の上に下がった鈴が小さな体を躍ら
せて、雀の様に鳴いていた。
「へいへい、今出ますよぉ」
気の抜けた声で返事をしながら、土間に投げられていた下駄に足を通すと、よろとしながら扉へ
向かう。からと手で扉を引いて、其処でてゐは何の表情も作らず、純粋に片方の眉だけを歪めた。
「辛気臭い奴で申し訳ありません」
苦く笑う其の顔は。
「本当だよ、全く。このくそ暑いのに」
古い地獄に住み着いた覚の怪―古明地さとりは、手元に萌黄色の風呂敷で包まれた重箱を抱えな
がら、永遠亭の玄関に立っていた。
「で、何の用?」
「ええ、ちょっと。家のカラスが病気になってしまいまして」
「高熱ですか」
奥の客間、広めの黒檀で作られた卓袱台に向かい合いながら、薬屋と覚の妖は静かに茶を啜って
いた。互いの間には一つの漆が塗られた重箱。表面には何の飾りも無く、湿った黒い肌を照らして
いた。
「ええ、一昨日辺りから顔に湿疹が出来まして、其れからずっと」
「ふむ……」
「いえ、いつも通りに火炎地獄の調整をしておりました。特に変った所へ行った訳ではありません」
眉を僅かに片側だけ顰めて、苦く笑う。
「そう、心が読めると言うのは、噂通りなのね」
「ええ、噂通りの薄気味悪い力です」
もう一度、苦く笑いながら、永琳は湯呑みを置いて。
「優曇華」
と、通る声で名を呼んだ。
はたはたと早歩きの足音が襖越しに遠く響く。
「御呼びですか、師匠」
数刻の後、からと襖が開いた。
「ええ、如何にも状況を確認しないと、患者の容態が分からないのよ」
「はぁ」
「だから、貴女、行きなさい」
「はい?」
唐突な指示に、間の抜けた声がつい唇から落ちた。
「貴女の勉強にもなるでしょうし、患者の容態を見て判断しなさい。其れに応じた薬を私が作るわ」
「で、でも」
「優曇華」
逡巡の声は、呼ばれた名の語気で潰えてしまった。
「其れで構わないかしら、古明地さん」
「私としては、お空が治るなら何とでも」
「大丈夫よ、此れで私の弟子は優秀だから」
其れで、と重箱を手前に寄せると蓋をそっと開けた。中には五寸には僅かに足りない、細長い形
をした茶褐色の餅が詰まっている。ほうと漂うのは焦げた味噌の褪せた香り。
「鬼餅と言いまして」
如何を問う前に、さとりはそう付け加えた。
「元は酒のアテにと鬼達が自分で搗いて、味噌をつけて焼いたのが始まりでして。まぁ、其れが
評判で、今では自分が食べるよりも遥かに多く搗いては、他の妖怪に配り歩いているんですよ。今
回の診察料代わりと言う訳では無いですが、そうですね。挨拶代わりと云った所です」
「随分と硬い餅ね。此れじゃまるで煎餅だわ」
「力だけは強い物で」
なるほどと今度は薄く笑いながら、重箱の蓋を戻す。
「てゐ」
今度は別の名を。
へたぺたと廊下に素足が張り付く音が鈍く遅く響く。
「へいへい」
開け放しのままだった襖の脇から顔だけを覗かせて、返事を。
「此れを台所に下げて頂戴。今から診察に必要な物を用意しなければならないのよ」
「りょーかいです」
「そう云う訳で準備がありますので、暫しお待ち頂いても宜しいですか?」
「ええ、私は一向に」
「優曇華はお客様の相手を」
「え?」
賛同の声など聞く気も無いと、さっと永琳と重箱を抱えたてゐは廊下の奥へと消えていった。
残された二匹、間にあるのは只の沈黙ばかり。
「あの方は」
ほそと、さとりが呟いた。
「え、あ、はい」
「此処の主なのですか?」
「え、あ、いえ。此処には」
「そうですか、お姫様が」
「え、あ、はい。そうです」
「随分と御綺麗な方なのですね」
「え、如何して?」
すいと湯呑みを唇に寄せて、其れっきり。
「心の声が聞こえる、と云う事は、単純に其の人が心で思った事が聞こえるだけです」
「はぁ」
「けれど、人の言葉等と云う物は其の実、一つの意味だけでは無いのですよ。誰彼が今迄見て来
た物、聞き及んだ事、読み知った言葉、触れ味わった何もかも。其れによって、言葉の一つ一つに
色彩が滲む物です」
ことりと、湯呑みが軽い音を立てて、机の上に座り込む。
さやと竹林が風に軽く踊る声。
「実際に喋る言葉よりも、より鮮明に、より実を持って、一幅の絵よりも忠実に声には色彩が宿
ってしまう。だから、貴女の思う、貴女の知っている姫様がどんな御顔なのかは存じ上げませんが、
恐らくは御綺麗な方なのでしょうねと、そう思っただけです」
「そ、そう云う物ですか」
「ええ、そう云う物ですよ。心の声を聞く事は、謂わば誰彼の昔に土足で踏み入るのと同じ事。
触れられたくなくても、どんなに箱に閉じ込めたままにしておきたくとも」
其れは其れは気分の悪い事でしょうねと苦く笑いながら、湯呑みの底に爪先一つ分だけ残った緑
茶の膜を眺めていた。其の横顔は。
「そして、他人の膿まで背負わされるのだもの、嫌気も差す」
「え、其れって如何云う意味で……」
「準備が出来たわよ、優曇華」
質問は、他者の声によって掻き消された。
振り返ると黒皮で作られた手提げ鞄が一つ持って、永琳が立っていた。
「存外早かったかしら?」
永琳はそう言って笑った。
「あら、貴女も心が読めるんですか?」
「いいえ、読めるのは顔色だけ」
其れは昔の地獄に続く道の途中。ぼうと方々に赤銅色の光が曖昧に灯っているのを、眺めながら
湿った洞穴の肌を歩く。飛んだ方が早いのだけれどと、さとりは言えど洞穴の入り口から橋を越え
てからは、其の足を地に付けて、ゆたりと歩き始めたのにつられて、鈴仙も鞄を持ったまま、歩い
ていた。
乾き切れない土の匂いは何処か生臭い。
遠くで聞こえる祭囃子、風の無い音、天蓋は円く黒に染まる。
「退屈でしょう、こんな景色は」
いえとも、はいとも言えず、只思うばかりで。
「あの灯は、鬼の町ですよ。毎日ああして、馬鹿騒ぎばかり。こんな地の底の底では、酒を呷る
位しか楽しみなど有りはしませんから、致し方無い事でしょうけども」
「まぁ、地上も似た様なものですけど……」
「ええ、其の様ですね。酒宴ばかりは上も下も同じ。違うのは愛でる桜の有無ばかり」
ひそと、笑っていた。
「あの、古明地、さん」
「何ですか?」
「其の、如何して歩いているんですか?」
「景色を、見せて差し上げたかったんですよ」
其れだけ呟くと、静寂の唸りばかりが閉塞された天蓋に響き渡る。
「貴女の元に居た場所と、貴女が今居る場所と。其の中には、こんな場所は無さそうでしたので、
観光がてらと言ったところでしょうかね」
尤も、薄い笑みの貼り付いたままで一切の色彩が抜けている横顔が呟く、余り楽しくは無いでし
ょうけども。
何も、先から返答が出来ないで居た。全ては先に読まれ、先に答えられる。意思は通じる、望む
回答も恐らくは有る。けれど、其処には会話が無い。記号のやり取りが介在しない。見えた景色、
感じた匂い、全てを漉きの木枠に掛けられて眺められている様な、実質はきっと同じ事で。
其れが、酷く。
「気分が悪い、ですか」
笑顔は変らない。
答えは返せない。
「そうでしょうね、御屋敷の時にも言いましたけども、つまりはそう云う事。貴女が元居た場所
で見た景色、貴女が今居る場所で見る景色。全ては貴女の言葉に滲んでいる。竹の青も、酒の香も、
夜の月も、春の霞も、落ちる桜も、舞う雪も。一切が私には聞こえてくる。其の差異に感じる事も。
其の差異その物も。だから、私は嫌われる」
笑顔が変らない。
答えが出てこない。
「貴女の疎む何もかも、貴女の好む何もかも。そして」
ふと立ち止まって、振り返って。
にぃと笑った。
「貴女の怯える何もかも」
そくりと氷が胸の奥に落ちる錯覚。
何を、目の前の妖は言っているのだろうか?
言葉を亡くして、只鯉が飢える様に唇を震わせるしか。
「さて、着きましたよ」
そして、指差した其の先には洋館が―地霊殿がひっそりと建っていた。
促されるままに扉を潜ると、むぅと生温い空気が首筋をべたりと撫でる。厭に重く水気を含み過
ぎた風が地面の上を這いずり回り、其の上をステンドグラスの極光がくらるくると廻る様に踊る。
一切に動いてなど居ないのに、渦を巻き続けてでも。錯視。二つの輪、色の違う環が重なったまま
で、とぐろを巻いている。長く。長く眺めた後で、目蓋を閉じた時に瞳の中にある暗がりが見せる
残光の回転。其れが屋敷の地面に皓と映し出されていた。
眩暈。こめかみを思わず、押さえてしまう。
不意に足元で、柔い何かが触った気がした。
見下ろすと其処には一匹の黒い猫。
踝に纏わり付きながら、ちょんと座ると鈴仙の顔を覗き込みながら、にゃあと鳴いた。
「お燐」
其の猫に視線だけで振り返ると、さとりは名を呼んだ。
「其の人はお空の様子を見に来て頂いたお医者様よ」
「そうでしたか」
視界が、一瞬だけ空白になっていた。
目の前に居た筈の猫は消え去って、鈴仙の背後に人気が唐突に。慌て、驚きながら振り向くと其
処には少女が一人笑って立っていた。三つに編んだ雀茶色の髪が長く二つ下がり、柳煤竹の洋装に
揺れながらも映えた其の姿。服の裾をそっと摘み上げ、芝居掛かった仕草で一礼を。
「ようこそ、地霊殿へ」
「お燐、お茶の用意をお願いね」
「はいはい、畏まりました」
そう言うと、またお燐と呼ばれた少女は屋敷を満たす極彩色の黒の中へと消えていく。
「えっと、今のは……」
「私のペットの一人ですよ」
人に化けられるので色々と仕事を手伝って貰っているんですよとか細く答え、構わず屋敷の奥へ
と歩いていく。後ろをついて歩きながら、さわと何かが黒の中でさざめいている。無数の眸、無数
の気配。血の香り、獣の匂い。何処かで、嗅いだ様な。何処でも、聞いた事の無い様な。仔細が全
て曖昧過ぎて、自分が廊下を歩いているのか、階段を昇っているのか。曲がったのか、下ったのか。
もう七間は歩いたのか。其れとも微塵も進んでなどいないのか。止まってさえいるのだろうか。扉
を通ったのだろうか。そもそも、何処に部屋があって、何処からが廊下なのか。何処までが階段な
のか。そもそも、此処は。
足元でぐねりと偽りの回転を孕み続ける極彩色に心が酩酊していく。
撓む。眩暈。至極、頭が痛い。
撓む。耳鳴。吐き気がしてくる。
―確かに、こんな場所に居た覚えが有る筈が無いと。
前を行く主の背中が、酷く遠い気がする。
こんな場所で。聞けば追われて、終に辿り着いたのが。
其れは、どんな気分なのか。
「清々しい気分ですよ」
声さえも撓んで聞こえる。
獣の声がほそと聞こえた気がする。唸りにも似た其れが多重に絡み合って、全く意味の無い謔言
の様に、一つの明確な宣言である様に。
二度と無い。
そうとしか。
傾いでいく。
身体其の物が斜めに傾いでいく錯覚。
眩暈。吐気。喉元までこみ上げた塩の味。唾が溜まっていく。首筋がふつと痙攣し始めて。二度
と無い。其の言葉が脳に直接響いている。
頭を振る。何かが。喉元を片手で押さえながら、倒れ続ける体を二本の足で支えども。
視界の隅。滲んでいる其処に。
十六匹の兎がじっと自分を見つめているのを。
兎の口が。
二度と無いと。
「着きましたよ」
其処でさとりは歩みを止めて、其処で漸く鈴仙は自分が一つの扉の前にいる事に気づく。
「此処がお空の、貴女の患者が居る部屋です」
冷静さが真綿に水が染みて行く様に、頭へ流れてくる。
取り落としそうになる鞄を持ち直すと、部屋へと急いで入った。何故か、この部屋に居れば大丈
夫だと。何が。其れは。
胡桃色に統一された調度品、窓硝子の近くで一人の少女が息を荒く吐きながら横たわっていた。
長い黒髪を僅かに乱し、胸が大きく上下に振れる。額には濡れていたのであろう白絹がかけられて
はいたが、今はもう熱で皆蒸発してしまっていた。口元には白い湿疹の様な斑点が疎らに散らばっ
て、まるで黴に侵されてでもいる様で。
其の傍らに、さとりはそっと歩み寄り、額に宛がっていた絹を傍らにある水桶につけると、また
水を含ませて、軽く絞る。そっと額にまた宛がうと、頬を柔く撫でた。
「お空、お医者様がお見えになったわよ」
はぁと荒い息ばかり。
「ええ、直に良くなるわ。大丈夫よ」
母親がする様に、さとりはお空と呼ばれる少女へと語りかけ続け。
何度か言葉を一方的に投げた後に、すいと立ち上がり、鈴仙へと振り返る。
「其れでは、鈴仙さん。お願いしますね」
其処で慌てて、鈴仙は少女の傍らに鞄を持っていくと、近くにあった机の上に鞄を置いた。開け
ると中には注射器が二つ、小さな木箱、手で回す遠心分離機。各種の試験薬が入った薬瓶。後は薄
い冊子が一つ。冊子に目を通しながら、鈴仙は注射器の針を木箱に詰まっていた脱脂綿で丁寧に拭
うと、少女の腕へと差し込んで。
其の姿を、さとりはじっと見つめている。
一挙一動を。
採血した血を専用の陶器へと写し、遠心分離機へと入れると取っ手を回す。
からからと歯車が噛み合う音が小さく響く。
其の一挙一動を。
数刻の後に、分離された血の一滴一滴を試験薬の中へと落とし、色が変っていく様を冊子へと書
き込んで。横に書かれた数字と照らし合わせながら、一つ一つ何かを書き込んでいく。試験薬の全
てに血を垂らし終えて、冊子の最後を眺めた其の時に。
「お燐」
名を呼んだ。集中している鈴仙には気づかない程に小さい声で。
すると、にゃあとか細い声がさとりの足元に纏わり着いていた。
「お茶の用意は出来ているかしら」
にゃあと。
「そう、なら急いで、土蜘蛛を呼んできて頂戴」
にゃあと。
そして、黒猫は既におらず、元の情景に。
冊子に刻んだ文字を丁寧に眺め、鞄へとそっと戻した。
「鈴仙さん」
仕草の終わるのを見計らって、主は声を掛けた。首だけで振り返る。
「お茶をご用意しましたので、しばしお待ち頂けませんか? お燐が専門家を呼んで参りますので」
「専門家って」
「伝染病の類、なのでしょう? お空は」
其処で、そっと背筋に冷えた百足が這う様な錯覚が鈴仙を襲った。無言のまま、傍らに既に用意
された席へと腰を掛ける。優美な所作で、さとりはポッドから白い磁器の器へと茶褐色の水を零し
ていく。鼻を擽る香ばしい匂い。
「生憎と、此処では砂糖さえも希少なものでして、ストレートしかお出し出来ませんが」
そう笑うと、湯気を吐くカップを戸惑い続ける兎の前に差し出した。
「読んだ、んですか?」
「ええ。可愛い私のペットの為ですもの、最善は尽くしたいじゃありませんか」
けれど、細かい事は知識が無いので分かりませんけれどと付け加えると、自らも席に着き、紅茶
の香りをすいと嗅ぐ様にカップの端に口をつける。
「……ご承知の通り、伝染病です。主に烏にか伝染しない類で、死には至りませんが」
「そうですか、最悪な事でなくて、本当に良かった」
「ですが、体力の低下を伴いますので、余り長くは放置出来ません」
「お薬で治るものかしら?」
「ええ、ワクチンを投与して、安静にすれば」
「其れは良かった」
本当に安堵しているのか、今までは違う、優しげな微笑が一層。
「どれ程掛かるものかしら、其のお薬は」
「精製自体は一日もあれば」
「そんなに掛かるものですか?」
「……ええ、材料の調達も入れれば三日を頂きたいです」
先回る。言葉が、会話の全てが。
「其れでは其の間、進行を遅くする必要がありますね」
傍らで、尚も荒い吐息。
「本当に、何処で貰って来たのだか。衛生管理はちゃんとしないといけませんね」
「まぁ……そう云う意味では、変な話ですけど良くあるものなので」
「そうですか。良くあるのですか。可哀想に」
カップを片手で持ったきり、さとりは横目で少女を見つめ続けていた。
「大事に、なさっているのですね」
「ええ、此処に居る仔達は皆大事です。例え、上の方々に忌まれ、疎まれ、嫌われようとも。私
には、大事な大事な家族ですよ」
また。頭の奥がきちと喚いた気がする。また。声だけが聞こえる。之は、何なのだろうかと月の
兎は答えを探す。何処かで。否、何処にも。
「己が為、怯えるが故。平気で打ち捨てる上の方々に代わって、私は此の仔達を受け入れる。決
して、逃げたりはしませんよ」
無言。眩暈。耳鳴りが。
眸。
地霊殿の主、左胸にある紅海老茶の肉の珠。薄らと開いた其の瞳が、紅赤色をした虹彩が、鴉羽
色の円が。じいと見つめられている気がする。当人の視線は変らずに、烏の少女を見つめているの
に。慈悲深い視線で、見ているだけなのに。見入られている。三つ目の眸が。視界が回っていく錯
覚。何も言葉が出てこない。吐き気。不快と感じる、何もかも。
「可哀想に、お空も。良くある事とは云え、こんな場所では癒せる腕も、差し伸べる手も無いな
んて。良くある事なのに、こんなに苦しんで。彼女を追いやった人らには、有り触れた病なのに後
三日も苦しまないといけないなんて。ねぇ、鈴仙さん。そうは、思いませんか?」
何を。
声が。
見つめている。
瞳。眸が。
また聞こえる。
「この仔がこんなに苦しんでいるのに、悲しんでいるのに、其れを上の方々は笑って、捨ててし
まうのでしょうね。例えば、怖くて、怖くて、怖くて。自分が助かりたいから」
くつと、其処でさとりが笑う。
「独りで逃げ出してしまう様に」
幻影。泡沫の陽炎が痙攣する瞳に塗り固められていく。兎。十六匹の兎。皆、見ている。あの時
と同じで。あの時と?
「そんな事は、私には二度と無い」
がたりと、鈴仙はそこで椅子を蹴る様に立ち上がった。過呼吸。荒く千切れた呼吸。
首筋にはべっとりと脂汗が染み付いて。
緋色の瞳が、僅かに痙攣していた。
喉が渇いて、言葉が出ない。
「どうやら、専門家がいらしたようですよ」
気にも留めず、さとりはそう呟くと同時にきぃと扉が開いた。
「お待ちしていましたよ、ヤマメさん」
扉の向こうで、心底不機嫌そうな顔で、黒谷ヤマメが立っていた。
「何の用?」
「おや、お燐が伝えませんでしたか?」
どすどすと不愉快を込めて、ヤマメは部屋の中へと入ると月の兎を一瞥すると、鼻で一つ笑った。
「珍しいじゃない。兎なんか飼ってたの?」
「いえ、わざわざお空の為にお越し頂いたんですよ、上から」
「そう。なら、あたしは不要じゃないの」
会話が進む。
「いえ、どうにも伝染病の類だそうなので、お薬の出来るまで三日掛かるそうなんですよ。其の
間、進行を遅くして頂こうかと。お空は余りにも辛そうだったので」
「あんたの頼みを聞いてやる義理は無いのだけど?」
数刻の静寂。
溜息が一つ。
でも、まぁと、ヤマメはお空の寝そべる寝台へと雑に腰を掛け、足を組みながら、熱を帯びた額
へと手をかざした。青白い、曖昧な光が、ほうと燈る。
「あんたは嫌いだが、この烏は嫌いじゃない。辛いのは誰だって厭だものね」
「貴女のそう云う優しい所は、私は好いていますよ」
「あんたのそう云う手前勝手な所が、あたしは大嫌いだよ」
で、と土蜘蛛は視線だけで鈴仙へと振り向く。
「何ぼさっとしてんだよ、兎」
「え、あ、はい」
「三日掛かるんだろ、其の薬。とっとと塒に帰って、作ってきなよ。其れまで何とかしとくから」
そう云われて、慌てて身支度を始めた。
急ぐ為。其れは、薬の為じゃなく、一秒でも長く此処に居たくない。
其れだけの為に。
「おい、兎」
「は、はい!?」
びくと飛ぶ様に振り替えると、ヤマメは無表情と云うには余りにも青い顔を。
倦怠が滲んだ様な顔をしていた。
「其処の馬鹿に何を言われたか知らないけど、背負うんじゃないよ」
言葉の意味を掴みかねていた。けれど、
「分かったら、さっさと行きなよ。長くは居たくないんだろう?」
「え、あ、どうし」
「顔色ぐらい読めるもんさ」
慌てて出て行く兎の足音が扉の向こうに解けていく。
部屋には三匹。
後は静寂。
「お茶でもいかが?」
「集中してんだよ、こっちは。遅らせるのはそんなに楽じゃないんだ」
にしても、と小さく呟く。
「あんたも大概だね」
「何の話かしら?」
「惚けるなよ。全く、妹の時で懲りてないのかい」
「話が読めませんよ、ヤマメさん」
舌打ちを小さく打つ。
「あんたのやってるのは、只の八つ当たりじゃないか」
*
昔の記憶は理不尽だ。
二百十六度に傾いだ視界、目の前は墨を煮詰めた様な空と灰を煮染めた様な地が斜めに広がって
いた。足元の砂は、ぎゅると渦巻いて、むずがる子供の腕の様に捻じ曲がっていた。その上に、垂
直に立つ。五十四度に踏み締めた足に、欠けた地面の礫がぼつぽつと落ちては、砕けて灰に埋もれ
ていく。一片が塊に、塊が一片に。足元で累積し続ける崩れた欠片は元の姿とは異なった歪な容に
固まっていくのが、視界の隅で映ろっていた。
さかしまに降る砂の雨が、暗がりを縦に裂き続ける。
傾いだきりの空、落下する眩暈さえ覚える黒。
そこに、一つ真円の穴が開いていた。真っ青な、球。
あれが月なのか、それとも別の何かなのか。
ぱらと砂が落ちていく。
傾いだきりの地、渇いて乾いて崩れ落ちていく白。
其の上で、否、其の横で、無数の人が群れては縺れ、倒れて其れっきり。無数の人が、まるで百
足の足の様にうぞうぞと蠢きながら、傾いだ地面の上を、視界の下を這いずり回りながら、そんな
事を繰り返している。倒れた人の身体は、二つに裂かれ、四つに別れ、無尽に散って、白い地面の
上に赤く赤く彩りを添えていた。ばさりと、醜く固まった土くれの直ぐ傍に、誰かが倒れた。無残
に散った顔面に、赤以外の色などなく。
ひくりばたりと痙攣して、痙攣して、痙攣して、其ればかり。
ぷつと小さな音がする。
傾いだ視界、其の隅で。
倒れた誰かの顔に、緋色の身体をした、無数の蛆が集っていた。
一匹が肉を食み、二匹目が其の肉を食み、三匹目が其の肉を食み。
其れだけを繰り返して。其ればかりしか知らぬように。
ぐずぐずに潰れた顔の上を、そんな風に無数の蛆が、赤い赤い蛆が這いずり回る。
視界の中にある世界は、白と黒に傾いだ世界は、何もかもが這いずり回って。自分だけが垂直に、
五十四度のまま立ち尽くして。映写機が見せる虚飾の様に、映ろうばかり。
歪に固まった土くれは、気がつけば一匹の大きな鴉に変わっていた。
はさりと翼を広げ、飛び立った鴉は捩くれた地面の先に、自分と百八十二度反転したその場所に、
足を下ろす。尚も翼は広げたまま。翼は大きくて。とても、とても大きくて。空に浮かんでいた青
い月さえも遮って。白の地面を黒に染め上げていく。永遠に続く影が、鴉の羽の下、二百十六度に
傾いだ世界を覆い尽くす。
最初から、光など、何処にも有りはしないのと、告げる様に。
次第に、温度が抜けていく。
影の中に沈んでいく。
蠢いていた人、犇いていた蛆、皆凍りついていく。
永久に閉ざされた影の中では、温度は生きていかれない。
だから、皆、凍りつく。
指の一つ、繊毛の一筋さえも、動かせ得ない。
皆、止まってしまった。
黒。後は黒。
そして、自分の足も凍っていくのが分かる。
膝頭を超えて、腰まで凍り。
其の時、自然に、枝になった林檎が腐り過ぎて、自身を支えられなくなったのと同じで。
地面から、足が離れ、ぼとりと傾かない地面へと落下していく。
数秒間で、既に全身が凍ってしまった。
地面へと落ちたその時に、体が砕けていくのが分かる。
ばらばらになった自分、顔の半分以上が割れて、視界は九十六度だけしか残さない。
砕けてしまった自分の腕が見えた。
落ち割れた青磁器の様に、罅割れた二の腕、肩の付け根。
其の中に、赤い蛆が犇いていた。けれど、姿を外に曝した瞬間に、他と同じ、皆と同じで凍り
つき、動きを一匹、また一匹と止めていく。
凍り付いている。
がらんどうだった身体一杯に詰まっていた蛆も、自分も。
視界が、黒に染まっていく。影に食まれていく。
頭の上、世界の空で、鴉は鳴いていた。
二度と無いと。
其処で不意に視界が晴れる。
―寝巻きにはべたりと汗が雨に打たれた様に染み込んで、裸の肌に纏わり付き水の鎖で縛り上げ
ていく。酷く体が重い。体のあちこちが軋みを立てて、巧く心に従ってくれない。寝具の上に投げ
出したままの四肢、夜気のぬばたまが部屋の天蓋に渦を巻いていた。
大の字に手足を投げたままで、鈴仙は唯、天井を仰ぐ事しか出来ない。
昔の地獄に帰ってから、永琳に事の次第を告げて。薬剤の材料は、もう既に何もかも揃っていて。
唯、やはり精製自体に三日が必要で。其れで。後の事は余り覚えていない。地霊殿から何を持って
帰ってきたのか、今一つ理解がされない。始終、きぃきぃと莫迦になった蝶番が風に煽られている
音ばかりが、耳の奥に直接鳴響く様な、そんな。眩暈が止まらない。目が回るのではなく、視神経
其の物が痙攣し続けている。平衡感覚が取れていない。自分の瞳を鏡で見てしまった。そんな気分
にさえなる。
喉が渇く。
けれど、床に釘で打ち付けられて、動けない。
ひゅぃと気道を無為の吐息が抜ける歌。か細く、鳴り響く蝶番の音色と混じって、酷く不愉快な
音だった。
無理からに右腕だけを持ち上げて、顔を掌で覆う。
二度と無い。
其の言葉が離れてくれない。
何が。
眸の残滓が未だに抜けていってくれない。
気がつけば、鈴仙はぼろぼろと泣いている事に気づいた。気づいて、其処からは体を抱え込み、
赤子の様に体を丸めながら、わぁわぁと泣き続けて。二度と無い。兎の顔。十六匹。一個小隊は。
兎の顔。夢の残りが。皆、赤く赤く紛れていく。凍って、凍りながら。月には一つ影がある。一切
の光を孕まぬ影がある。氷点下二百七十三度。其れ以下の影がある。皆凍っていく。光を、誰も光
をくれてやらないから、凍り続けるより他に無い。泣きながら、薄く開いた障子越しから洩れる光。
月の、青い外光。自分の足元までは、二寸が足りない。けれど、部屋には確かに光があって。
昔の地獄を思い出す。
あそこに燈る灯の色は、鬼の点した祭りの明かり。
唯、其れだけ。
後は、湿った黒い天蓋が全てを覆い尽くして其れっきり。
見た事なんか無い。見た覚えなんか無い。
あれは、鈴仙は泣きながら呟いた、あれは見捨てた仲間達が見ている景色なのだから。
逃げた私が、知る筈も無いと。
其の侭、寝入ってしまっていたのか、気がつけば陽はもう半ばまで昇っていて、目の前で地上の
兎が中腰に座りながら、じいと自分を見つめていた。
「おはよう、寝ぼすけさん」
てゐと、名前を呼ぼうにも喉が掠れて言葉にならない。ひゅると涸れた魚の謔言しか、唇からは
毀れない。
「随分と酷い顔だね、また」
飽きれ気味に笑いながら、竹で出来た水筒を半分だけ起きた布団の上へと放り投げる。
「口濯いだら、仕事だよ」
竹筒の縁に丸く穿たれた穴に打たれた木製の栓を抜くと、中に詰まった水を喉へと流し込む。渇
き切った糸瓜が水を吸う様に、腹の底へと水がざぶざぶと流れ込んでいくのを感じながら、僅かな
息苦しさを感じても、水を貪るのを止めなかった。
「ごめん、てゐ」
「まぁ、昨日の様子を見てりゃ、未だ上等とは思うけどね」
何かを、知っているのか。
てゐは腰に手を当てながら、ぐいと背筋を伸ばしながら、立ち上がる。
「取り敢えず、朝御飯はもう片付けてるから、昼まで我慢しなよ」
「ちょっと、昼も良いかな」
ふんと鼻を一つ、鳴らすと寝巻きの襟をぐいと持ち、顔を引き寄せる。
「あの覚に何かつけられて、腐ってるのは勝手だけどね。倒れられたらこっちが迷惑なのよ、軍
人さん。粥でも良いから腹に押し込んでおいてよね」
「何かって……」
「あの覚が、昔何をやらかしたか教えて上げるよ、折角だから」
顔を寄せたままで、てゐを低く呟く。
「あいつの妹が、何がきっかけでかは知らないけれど、覚の瞳を閉じたんだよ。其れから数日後
さ、あいつは里中を歩き回ったんだ。歩き回って、里に居る人間の全ての『昔』をばら撒いたのさ」
指先が少し震えていた。
「誰だってあるだろ、ちょっとした罪悪感なんか。長く生きてりゃ其れだけ、短く生きてても一
つや二つ。そいつを全部思い出せて、他人の其れとを混ぜ合わせて、其れを一人一人の記憶に植え
付けた」
「如何云う、事?」
「他人の罪悪感を自分の罪悪感に置き換え始めたのさ。否、統合が正しいかな。一人の人間に里
中に居る全部の人間の罪悪感を押し込んだのさ」
「其れで……どうなったの?」
其れから先は、無言だった。
「いいかい、鈴仙。あんたが見ているのは、確かにあんたの罪悪感が元だ。でも、其れだけだ。
他のは何にも関係無い。分かったね」
其れだけ云うと、捨てる様に襟元から手を外すと地上の兎は立ち上がり、襖の向こうへと消えて
いくのを、ぼんやりと見つめる。今言われた言葉を、すいと飲み下す。
罪悪感。
其れでも、先に見た夢が他人の其れとは思えずに。皆が、皆。自分自身を責め立てる、そんな情
景にしか見えなかった。
「仕事……しないと」
白熊の様な緩慢さで立ち上がると、月の兎も同じく身支度を始めた。部屋の隅にある丸鏡。日差
しの中で、写る自分の顔は、まるで死人の様だった。
少し外の空気を吸った方が良いと、鈴仙は薬箱を片手に里に下りていた。陽の高さは既に真ん中
を越えて、少しだけ傾いた昼下がりの午後。里の場景、野良の仕事に出かける者と寺子屋に学びに
行く子供と。其れらの欠けた里の午後は厭に人通りが少なかった。後二日。鈴仙は喉の奥で呟いた。
後二日で薬は完成する。永琳が言うのだから、恐らく其の日付は正確なのだろう。必要な物は誂え
た様に全て揃い、後は。けれど、不意に思う。自分の知る限りでは、恐らく精製に必要な時間は十
数時間。あれから始めたとしても、恐らく今頃には十分に終わっている筈なのだけれど。しかし、
後二日。時間が過ぎれば、自分は。鈴仙の首筋には陽の礫が容赦無く降り注ぎ、汗を珠にして染み
出させ。其処には、じとりと気鬱が滲んでいた。後、二日。そうすれば、どうあれ薬は完成する。
そうすれば、多分自分はまたあの屋敷に、昔の地獄の底の奥、覚の妖が住まう屋敷へと行かなけれ
ばならないのだろうか。
不意にてゐの言っていた言葉を反芻していた。
あれは、昔、人の罪悪感を置き換えていったと。
立ち止まり、里の景色を見回した。茅葺の屋根、瓦の屋根。さやと行き過ぎる風しか、行き違う
物など何も無く。此処で、昔に何が起きたのか。地上の兎は言葉を濁し、きっと地霊殿の主も言い
はしない。そう言えば、土蜘蛛も似た様な事を言っていた気のしたが、其れが何だったかが思い出
せない、思い出せず。
ふと、視界の隅で何かが踊った気がした。
視線だけで振り返ると、其処には白い影がすいと行き過ぎて。
ふらと誘われる様に、足を其処へと向ける。
家屋と家屋の其の合間。
細い路へと誘われて。
其処には、鴉が三匹丸まっていた。際限無く嘴を上下に往復させながら、何かを啄ばみ続けてい
て。蘇芳の水が辺りには飛散していた。生臭い匂いが風に乗って、さやと漂う。きぃとまた蝶番の
音が聴こえてくる。瞳がまた。
三匹の鴉。
其の真ん中には小さな兎が苛まれていた。瞳は既に砕かれて、水晶体を覆う黄白色の汁に包まれ
た視神経の筋がずると嘴に引き摺り出され、首の動きに併せて風鈴の様に揺れている。引き裂かれ
た腹、無造作に内臓が撒き散らされる様は、名前の知れない花の様で。未だ前足が震え続ける。
ひゅぅと気道を息が無意味に通り過ぎて、笛の様に不規則に啼き続け。
其の音色が。
蝶番が鳴いている。蝶番が壊れて、莫迦になっている。眩暈がする。もうずっと、地獄に行って
からは耳朶に銅羅が纏わり付いて、其れっきり。振れていく。中心線がぶれていく。兎の食われて
いる。其れだけの話。誰もいない。自分より他には何も。指先が、指先が震えて。
「あああああああああああ!」
紐が千切れた。鈴仙は人差し指を鴉等に向けて、幻想の弾丸を撃ち続けた。狙いなどつける筈も
無く、まるで見える景色全てを撃ち抜こうとするかの様に。数刻、其れよりもっと。撃って、撃っ
て、撃ち続けて。
気が付けば、目の前には死骸が四つ。
無数の弾に撃ち抜かれた、子供が四人。
瞳は耳ごと抉られて、頭蓋の骨さえ削られて、脳漿がじると土の上に撒かれていた。肩より先は
無数に穿たれて襤褸雑巾の様に。剥き出しになった骨でさえ蓮の根よりも尚穴を刻まれて。横一線
に千切られた腹からとくりと血が溢れ、引き潰された蚯蚓にも似た質感で、内臓が地面に花を咲か
せていた。
其の情景。
鈴仙は、右手を構え、荒く只息を吐く。吐いて吐いて。吐いて吸って。
そして。
「うぇぉ……んぼおぇぇぇぇぇ」
背中を丸め、地面に向けて嘔吐していた。白湯より他に口にしていなかったから、がらんどうの
胃からは何も出てこない。背筋が蛙の足の様に痙攣する。えづく。何度もえづいて、蹲る。地面に
手をつき、膝を地に着けて。吐いて、吐きたいのに、腹の底には何一つ埋まってはいないから、只、
空咳ばかりを繰り返す。喉の奥がぎちと歪んで、酷く痛む。肺が大きく顫動しても、送るのは胃液
と唾液と空の息。視界が滲む。無為に溢れる涙が目蓋を縫い止めていく。頬が震える。
えづく。
何度もえづいて、其れっきり。
地面の上には、ほつぽつと唇から零れた数滴の胃液と十数の唾液で円く穿たれている。
不意に擦れた視界の隅にころと何かが転がってきた。
未だ残った肉の糸を纏わせながら、子供の眼球の一つが垂れ落ちる胃液の下へと滑り込み、虹彩
の上にぽつと湿った雫を飲んだ。見つめている。見つめられている。ぃぃと耳鳴りが。ざやと脳が
揺れている錯覚。垂れ落ち続ける胃液と唾液の入り交ざった雫の輪郭と眼球の真円だけが明瞭で、
後は全て曖昧で。雫が落ちる。其の音色が。
二度と無いと、そう聞こえた。
「あああ。あああああああああああああ!」
殴りつける。右腕が発狂していた。
何度も幾度も、拳を下ろし、指の背で水晶体を砕き続ける。
みしと骨よりは柔い欠片が壊れる感触が肌の上に貼り付いて、砂の欠片がざりと擦る感覚が皮膚
の上を甘く削り。其れでも拳を振り続ける。
ぜいと息を吐く。
荒く肩を上下に揺らす。
拳を上げると其処には眼球など何処にも無く、ぼろぼろに殴り潰された小さな兎が一匹寝そべっ
ていた。肌は幾重も陥没し、穴と云う穴からはぐちゃと潰された臓物がはみ出して、緋色の瞳さえ
も這い出して、ふらと振り子の様に。かつかつと唇が震えている。白い兎の口が震えている。其の
仕草。其れは、「二度と無い」を繰り返し。もう、後は。
其処で視界が暗転していた。
目を覚ますと、其処は見慣れた天井。馴染んだ布団に身を横たえていた。
「目、覚めた?」
障子に肘を預け、頬杖を突きながら、てゐは横目で振り返る。
「私……一体……」
「大変だったよ。帰りが遅いから、行ってみりゃ路地裏の何にも無い所で喚いてるんだもの」
「何も、無い?」
「そう、何も無い。何か見えてたの?」
「そう、ね。見えていたのかもしれない」
記憶が若干薄まっている。
何を見たのかを語るよりは、何を見なかったかを語る方が雄弁な位には。
「朝も言ったよね」
「分かってる。分かってるけど、ねぇ、てゐ」
「何さ」
「あれって、本当に他人の、罪悪感て言うか、記憶と云うか。本当に混ざってるのかな」
「そうだよ。他人の記憶と鈴仙の記憶。其れが混ざった悪い夢」
「本当にそうなのかな」
返るのは、無言だった。
「兎が言うの。何度も。二度と無いって。其れしか言わない。何が、二度と無いのかなって、今
考えるとね。やっぱり、其れは置き去りにした仲間の声だと思うの。私が今過している様な、忙し
いし、腹立つ事もあるけど、そう思える事さえも、もうあの娘達には二度と無いって、そうやっ
て私を」
すくとてゐが立ち上がると、鈴仙の前にふんと中腰に居座る。
そして、ぱんと乾いた音が鳴り響く。
頬を叩かれたと、そう気付いて。
「だから、何なんだ?」
「え?」
「だから、何なんだって言ってるの。あんたが、そうやって腐って生きりゃ、お仲間は蘇るの?
一緒に楽しく明るく暮らせるの?」
「そう、じゃなくて」
「罪悪感なんてのはね、只の甘えなんだ。ああすりゃ良かった、こうすりゃ良かった。自分の無
能を棚に上げて、自分で自分を可哀想がってるだけ。そしてね、そうやってあんたが腐っていくの
を指差して笑ってるだけなんだよ、あの覚の化け物は」
「分かってるよ。分かってるけど!」
「いいや、分かってない。だからね、そうしない為に、あんたは師匠の元で薬学を学んでいるん
じゃないの?」
其処で。
「昔に腐ってるのは地面の下の辛気臭い奴に任せておきな。あんたは、しっかり寝て、しっかり
食べて、いつもみたいに、あたしにぶぅ垂れてれば良いんだよ」
「最後は、あんまりしたくないけどね」
其処で漸く、鈴仙は少しだけ笑った。
「取り敢えず、お粥作っておいたから。今度はちゃんと食べてね」
「何か、色々とごめんね、てゐ」
「全くだよ」
ぽふと鈴仙の頭を、小さな手が軽く叩く。
「頭脳労働も楽じゃないよ」
ひたひたと廊下を歩く。
其の傍らに、永琳が佇んでいた。
「てゐ。鈴仙はどうかしら?」
首を浅く横に振る。
「駄目。もうお終いだよ、お師匠さん」
「そう」
「前を向いてしまった。鈴仙は、前を向こうとしてしまったんだ」
「貴女が、そう差し向けたんじゃなくて」
「否、あたしだったら、あそこで逆にあたしを殴り飛ばしているよ。知った様な口を利くんじゃ
ないって。そうだったら良かったんだ。でも、あいつは、其れをしなかった。だから、此れからの
二波に耐えられない」
「なら、用意しておくべきかしらね」
「早過ぎたんだよ、さとりに逢わせるのは」
「そう。私としてはそろそろ頃合かと思ったのだけど」
「あんたも薬屋なら、適用位、正確に掴んでよ。あんな劇薬は、いっそ飲まない方がましな位な
んだからさ」
「貴女は耐えたじゃない」
「あたしは、既に割り切ってるんだよ、其の辺は」
「そうね、そうかも知れないわね」
「お師匠さん。あんたは、薬の事は分かっちゃいるけど、人の心が分かっちゃいない。永く生き
ているのは同じだけど。あたしは、多分最後には死ぬ。其れが分かってる。でも、あんたは違う。
あんたとお姫様は違う」
すいと永琳は、寂しそうに笑っていた。
「鈴仙が最初に帰って来た時、本当は何も感じちゃいなかったんだろう?」
「其処まで冷たい訳じゃないわよ。只、そうね、ほんの少し、此れが日常になっていくんだなと、
そう思っただけ。此の先、那由多に続くんだと、そう思っただけ」
「だから、分かってないって言ってるのよ」
そうなのかも、知れないわねと。
「薬は、出来ているんでしょ?」
「ええ、とっくにね」
「あたしが、持って行くよ」
「そうね、其の方が良いわね」
「其の序に、八つ当たり位、してきていいよね?」
*
昔の記憶は、いつだって其の様な物だ。
視界が七百十三度に傾いでいる。
窓が一つきりしかない部屋、照明も一つきりで、風も無いのに振り子時計が時を刻むのと同じに、
細い鎖だけで繋がれて揺れている。薄く開いた視界の中で洋燈はくらくたと燃え続ける油の匂いで、
鼻先に指の痕をつけながら、緋色と橙を混ぜたか細い炎をほぅと灯し、部屋を照らし続ける。手を
伸ばせば、其のつまみに手が届くのだろうけれど、幾ら伸ばせども、小指の先一つ分足りない。
揺れて、揺れながら、薄らと照らされ続ける部屋には、一切が無い。唯一の灯、其の真下には一
枚の小さな格子窓。其の外側には竜胆色の空が広がるばかりで。後は一切が無い。そんな部屋の壁
に小さな椅子に座りながら、体は七百十三度に傾いでいた。縛られた様に立ち上がる事も出来ず、
ぼうと震える赤と黄を薄く眺めていた。そんな事しか、出来やしなかった。
がたぎちと一匹の兎が壁を掻いていた。
何も無い部屋、あるのは窓硝子と球体硝子と自分だけ。
ぎちばたと、一匹の兎が発狂していた。
其れはどうにも、自分の頭に直接響いている様だった。
ふと耳へと手を当てようにも、馴染んだ貝殻が見つからない。
其れどころか、立方状に歪んでいる。
つるとした感触、みしりとした感触が掌を伝う。
ああ、どうやらと、ほそり呟く。どうやら、自分の頭は桐箱に変わってしまったのらしい。
ばたがたと兎が暴れている。
頭の中には一匹の兎が入る様だった。窓の無い自分の頭に閉じ込められて、がちがた頭の内側を
引っ掻いている。其の音が酷く煩い。そして、浅く痛痒い。
昔の記憶とはいつだって其の様な物だ。
暗がりの部屋、壁は灰を煮染めた色をしていた。墨を刷毛で塗った様な穴だらけの影が壁の肌を
這い回る。洋燈が揺れている。兎が暴れている。窓の外では、何処までも抜けて行く様な青紫ばか
り。視界を閉じようにも、目蓋を何処かへ忘れてきてしまっていた。塞ぐ耳朶も今はもう無い。
其の内に、気がつくと音が二重にぶれた。どうやら兎が二匹に分かれた様だった。がたがたと頭
が揺れ続ける。痒みよりも其の振動で、眩暈がし始める。瞳など、当に失ってしまってはいるのだ
けど、ぐらぐると廻り続けてしまっている。暫くすると、今度は音が三重に。次に四重に。四重は
五重に。五重は六重に。六重は七重に。七重は八重に。増え続ける。頭の中で兎が増え続ける。兎
が孕んで、産んでいくのか。其れとも勝手に分裂し続けているのか。誰かの作為で増えるのか。理
由など分からない。只、分かっているのは、兎だけが増え続けるばかりで。
振動が、ぶれていく。十重に振動が重なっていく。
不意に洋燈の火が途絶えた。
部屋には断層の無い黒が覆うばかり。
窓の外から見える光も部屋の全てを照らせない。
照らし出すのは消えた洋燈が尚も揺れる其の姿。後は、何も無い。
がたがたがたがたがたがたがたがたと頭だけが震えている。
頭の中で騒ぎ続ける。
止める術が見当たらない。
だから、自分は其の侭、兎が暴れるままにしておく事にした。数にしては十匹の兎。此の程度の
振動と此の程度の痒みでは、耐えられない程でもない。ならばと、暫くそうし続けていた。視界が
暗転してしまったからか、時間の差異が上手く分からないけれど。けれども、恐らくは永い長い時
間が経ってはいるのだと思う。
兎が、どうにも十一匹になったのらしい。
十一匹になったと言う事は、十二匹になると云う事で。
十二匹になると云う事は、十三匹になると云う事で。
そう思った時に、兎は無数に増え続け、終いにみしりと頭に罅が入ってしまった。其れでも兎は
増え続ける。増えて、殖えて。最後には自分の頭は砕けてしまった。だばと捩れ潰れた兎達の血が
自分の肩を汚していく。たぱと雫が部屋の壁へと落ちて。其の音色が。
二度と無い、と。
―其処で、漸く目が覚めた。
灯の途絶えた部屋、天井の模様さえ見えない、閉ざされた影で満ちた部屋の真ん中。
ベッドの上に、四肢を投げ出したまま、もう消えてしまった場景の名残を探せども。
きつと喉が震えた。
えづく。
けふごふと、喉から磨り潰された吐息だけが洩れるのを聞くばかり。
身体は、地面の底の、底の底へ錆びた鎖で縛り付けられている様に、動いてくれない。
えづく。
一人きりで、えづき、空の嘔吐を繰り返す。
「さとり様」
すいと声が聞こえる。視線だけで振り向けば、薄い白練色の下着だけを纏い、三つに編んだ髪を
解いた火焔猫燐がすりと古明地さとりへと擦り寄って、唇を伝う唾液をそっと舐めた。ちゅると啜
る水音が、何も無い部屋に響く。ざらとした舌の表面が、浅く頬を刻むのを感じながら、軋み腕を
伸ばして、燐の頭を撫でる。にゃあと、発情した其れに良く似た甘い声。舐め続ける舌が唇まで伸
びて、口の中まで伸ばしてくる。舌と舌が絡み合い、燐の熱い唾液がさとりの喉を這う。
「またですか?」
すいとそう呟きながら、唇を離すと、一本の細い水の橋が唇と唇の合間に架かった。
「ええ、そうね。あの兎のも貰ってしまったからね」
他人の記憶は理不尽だ。
入れ替えれば、置き換えれば、読めば読むだけ、其の分だけ。自分の中に累積していく。他人の
情景が、自分の情景にへばりついてくる。夢が記憶を整理する物だとするので、あれば尚の事。見
えた情景、他人の膿。そんな物が、胎の底へと溜まっていく。
「寝付けないのでしたら、お相手しますよ?」
「別に、今は良いわ」
ぶぅと頬を膨らませながら、尚もさとりの細い肩へと頬を擦り付けて。
「やっぱり、こいし様の方が良いですか?」
「そうじゃないわよ。今はそういう気分になれないだけ。でも、そうね。貴女が良いなら、添い
て寝てくれるなら嬉しいけど」
答えずに、にゃあと甘く息を吐き。
「御褒美にキスは戴けます?」
頭を撫でる手を緩めずに、そっと唇を重ね、舌を絡ませる。
ちゅくと水音が静かに響く。
「あ、そうだ」
不意に、蕩けた顔で口付けを交わしていた燐は、不意に唇を離した。
「如何したの?」
「地上の兎が、お空の薬を届けに来てるんですよ」
地霊殿の入り口。其の前には、因幡てゐが薬を片手に立っていた。
「思ったより早く出来たんで、届けに来たよ」
「そうですか、其れは有り難う御座います。ヤマメさんには正直、ご苦労頂いているので、本当
に助かります」
薬瓶を掲げる様に持って、左右に揺らしながら。
「あんたのとこの烏には、何の恨みもありゃしないから、此の薬はあんたに上げるけど。其の前
に、なんか家の兎が随分とお世話になったみたいじゃない」
そう聞いて、さとりは笑みを、僅かに浮かべた。
「ああ、鈴仙さんにも随分とお世話になりましたので。そうですね、ご足労頂いたお礼と云った
所ですよ」
「そうかい。あんた、未だ懲りてないのかい?」
「ねぇ、兎さん。貴女も随分と、永く生きておいでの様で」
「健康には気を使っているからね」
「ええ、其の様ですね。素晴らしい事です。でもね、兎さん。貴女が永く生きた其の間、どれ程
の他人を謀りました?」
無言。告げても無駄と。
「どれ程の他人を蹴落としました? どれ程の他人を貶めました? どれ程の他人を蔑みました?
どれ程の人間を、要らぬと棄てました? ねぇ、兎さん。此処にはね、そんな物しか無いんです。
此の屋敷はね、そんなモノの為にあるんですよ。だからね、其れを忘れて、勝手に折り合いをつけ
て笑っている。そんなモノを見ますとね」
にぃと笑った。
「本当に虫唾が走る」
はっと、鼻で一つ、兎は笑った。
「そうかい。じゃあ、あたしも教えてやるよ」
左手を掲げると、じゃらと偽りの鎖が歪に纏わりついて。
「あんたみたい根暗な奴が、あたしは一等嫌いだよ」
「あんたも、懲りないね」
地霊殿の入り口。其の前に、古明地さとりは寝そべっていた。全身は、幻想で撃ち抜かれ、黒く
焦げ、服も散り散りに裂けていた。其れを、黒谷ヤマメは中腰に見下ろす。
「自縄自縛と言った所かね」
「良いんですよ、折込済みです」
そっと薬瓶をヤマメに差し出す。
「此れを、お燐に渡して頂けますか?」
「あんたの頼みを聞いてやる義理は無いよ。自分の手で渡しな」
「そうですね、お空には悪いけど、少し休んでから行くとするわ」
「永遠に一回休みにならなきゃ良いがね」
鼻で一つ。
「此処には医者など居やしないからね」
「ねぇ、ヤマメさん」
「なんだい? 遺言はあんたのとこの猫に言いな」
「いえ、一つ。ヤマメさんは、月が見たいと思った事はありますか?」
「月は嫌いだよ。厭な思い出しかありゃしない」
「そうですか」
くつと、寂しく、さとりが笑う。
「私も嫌いです」
*
鈴仙は薄っすらと、目蓋を空けた。
そして、くつと一つ笑い。
「はは」
瞳を掌で覆う。
「あははははははははははははは」
痙攣した笑い。涙が、如何にも止まらない。
「あははははははははははははははははははははははははは」
体が震え続けている。酷く、寒い。
月の光は、足元まで届かない。
あんなに白く照らしているのに、自分の足まで届かない。
「あははははははははははははははははははははははははは」
すいと、襖の開く音がして、裸の足音が傍らまで近づいて。
「鈴仙」
其処で笑いを止めて、泣きながら笑顔の侭で、手を退けた。
「ねぇ、てゐ。今、夢を見たの」
とすと、寝そべる兎の横に、てゐは胡坐をかいた。
「兎がね、頭の中に詰まっているの。真っ暗い部屋でね、箱になった私の頭に兎が詰まっている
の。最初は一匹だった。次は二匹になってね、どんどん増えていくの」
すらつらと良く舌が廻る。
「最後に十匹になったのね。煩くて痒くて溜まらないけど、まぁ、折り合いをつけるしかないの
かなって、そう思ったの。もう増える事もなさそうだったから」
黙って、聞いていた。
「でもね、てゐ。十一匹になったの。十一匹になったら、十二匹になってしまうの。其処で、目
が覚めたの」
「そう」
「ねぇ、てゐ。私の昔はね、永く生きれば若しかしたら折り合いがつけられると思うの。でもね、
其の間に、多分私はまた別の間違いをする。二度間違ったら、多分三度間違うと思う。そう考えた
らね、どれだけ永く生きたって。ううん、生きたら生きただけ、多分、此れは増え続けいく。そう
考えたらね、私、笑えてきたわ」
すいと目の前に薬の瓶を差し出した。
「里の者、どうなったか教えてあげるわ」
ことと、畳の上に瓶が転がる。
「今のあんたと同じ事、一字一句違わず言ったわ。悪いけど、そうなったら、お師匠さんにも、
あたしにも、否、誰にだって如何にもならない」
薬を指差す。
「胡蝶夢丸。あんたも知ってるわよね。あれは、元々はこいつの薬効を薄めたもの」
「これ、は?」
「阿片みたいなものさ。あんたの抱えた其れ。ぐっちゃぐちゃの其れを、此れの効果が続いてい
る間は忘れてられる。但し、棄てられた訳じゃない。忘れた分だけ煮詰まって、切れた時にぶり返
す。でも、飲んでいる間は大丈夫。こいつを定期的に飲めば、元の日常に戻る事は出来る」
無言。
「飲むか飲まないか、あんたが決めな」
すいと、立ち上がり、振り向きもせずに襖へと進む。
「ねぇ、てゐ」
「何?」
「飲まなかった人はどうしたの?」
「首を括って、死んだよ」
「そう」
「ねぇ、てゐ」
「何?」
「永く生きるってどんな感じ?」
「本当の事を言うのが、馬鹿馬鹿しくなる感じだよ」
そうと言う答えは襖に閉じられて、もう聞こえない。
そして、たんと、か細い偽りの銃声が襖越しに、兎の厚い耳に届く。
「馬鹿だよ、あんた。飲みゃ良いのに」
構造も描写もとても綺麗で、すぅと身に染み込んでいくような文体は心地良かったけれど、内容を考えると中々えもいわれぬ感が心に渦巻いてしまいます。
さとり様、レイセン等々もらしくてよかったです。特にさとり様を慰めるお燐が……。
何はともあれごちそうさまでした
文章の方は独特な文体も相まって序盤が少し分かりづらかった/入りづらかった感がありました。あと全体的に少し文字が詰まり過ぎている気もしました。
さとりは確かに恐ろしいけれど、永琳にくらべれば人間的にも思えるのが、なんだか面白いですね。
鈴仙に同調しつつ読みながら、不意にわきあがる「ニンゲンはそんなに弱くはない」という抵抗と、そこに水を差す我知らず浮かべる冷笑……。
小説を読むスリルを味わえたと思います。ありがとうございました。
独特の世界観は味わえたけど、物語が
一向に頭に入ってこなかったので楽しめたかどうかというと...
こういうの楽しむには文学的素養ってのがいるんだろうか。
カフカとかドフトエフスキーが大好きって人には堪らないのかも。
文学チック、そして暗め、でも先が気になる構成。
面白かったです。
さとりはこうでないと。