既に炎は消え、灰のみが残っていた。
「出て行け」
幽々子の唇が震えた。
妖夢は、何が何だか分からないと言った様子で立ちつくしている。
何も喋っていないのに、声は枯れてしまったようで微かな音が喉奥に引っかかっていた。
それだけだった。
幽々子は静かに踵を返すと部屋を出て行った。
六畳間には惚けた表情の妖夢一人が取り残される。
秋風。
「うっ」という胸の音とともに、妖夢の両目から涙が溢れた。
「うあああああ……」
いち早く空気の変化を見破ったのは、妖忌だった。
妖忌は離れに住んでいた。
離れと言っても渡り廊下でつながっており、その気になれば白玉楼の本体である屋敷まで一分とかからない。
しかし、彼はわざわざ離れを好んだ。
微妙な距離感というのは、時によってこの上ない魅力となる。
彼の場合もそうだったのかもしれない。
昼食を取り、刀を磨き終わり、気怠い昼下がりをどう過ごそうかと思案していた矢先であった。
急に茶が恋しくなった。
そこで、彼は廊下を通って屋敷まで茶菓子を取りに行くことにしたのである。
丁度、茶菓子が切れていたのだ。
「幽々子様」
呼びかけても返事がない。
用事のついでに、主人の様子を確認するのは半ば習慣となっている。
彼が違和感に気付いたのは、この習慣のためであったとも言えそうだ。
「幽々子様?」
幽々子は縁側に腰掛けて、茶を啜っていた。
妖忌は首を傾げる。
これだけ近くにいて、声が聞こえなかったとは思えがたい。
「どうされました?」
「ああ、妖忌?」
「少々、お茶菓子を貰いに来たのですが」
そう言って妖忌は戸棚を開け、煎餅を取り出した。
持っていた皿に5、6枚盛る。
醤油の煎餅だ。
妖忌も幽々子もこれを好む。
「幽々子様もいかがですか?」
「いいわ、いらない」
幽々子はこちらを見ようとせず、ただ庭先を見ていた。
妖忌は後ろで一つ縛りにした銀髪を揺らす。
「そうですか、分かりました」
幽々子は相変わらず、門の方を見ている。
妖忌はあれこれと考えた上で、「何かあったら、言ってください」とだけ残すと軽やかな足取りで離れに戻ってしまった。
鬱陶しがられるという心配もさることながら、早く煎餅が食いたくて仕方なかったのだ。
主の手前でバリバリ食う訳にはいかない。
妖忌は茶を啜り、煎餅を囓りながら、書を読んだ。
書は妖忌一人のものであったので、遠慮はなかった。
彼は剣だけでなく、書も好んだ。
大抵は兵法書を読んでいたが、小説も嫌いではなかった。
とにかく食わず嫌いはしなかった。
あるいは、裸体の描かれた何とやら。
とにかく、離れに住んでいるというのはいいものである。
昼下がりはこうして怠惰に過ごすのに限るのだ。
妖忌はいつの間にか、眠りに落ちていた。
夢を見ていた。
妖夢が出てきた。
練習試合であろう。
お互い、木剣を握ったまま、見合っていた。
「よし、来い」
しかし、妖夢が中々打ってこないので、妖忌は痺れを切らす。
「どうした。打ってこないか」
やはり、妖夢が打ち込んでくる気配はない。
ついに妖忌は一歩、前に出て大上段から剣を振り下ろす。
予想では、5回も打ち合わない内に勝負は決するはずであった。
しかし、妖夢は太刀を受けなかった。
軽やかに横へ逃れた。
妖忌の木剣は地面の砂を打つ。
「おっ」
予想外だ。
妖夢はすかさず、剣を横へ薙いだ。
妖忌は思わず冷や汗を流していた。
間一髪で太刀を受ける。
この上なく重い一撃であった。
そこから、打ち合いに入る。
しかし、妖夢の動きはとてつもなく速く、撃は重く、信じがたい強さであった。
次第に妖忌は劣勢になっていく。
こんなはずでは。
ついに、妖夢の一閃が肩を打った。
妖忌は目を見開き、無様に砂の上に転がる。
次の瞬間、妖忌は縁側から転げ落ちた。
背中に走る痛み。
妖忌は荒い息を吐いた。
「ゆ、夢か」
ほっと、息を吐くと、顔の上に本が降ってきた。
妖忌は仏頂面で本を取り、元通り縁側に腰を下ろした。
既に辺りは薄暗く、陽が沈みかけていた。
妖忌は腹が減っていることに気付く。
考える。
今日の晩飯はなんだろう。
出来れば、魚がいい。
肉は昨日食べた。
そうだ、鮎がいい。でも、駄目だろうな。世の中、そんなに上手くはいかないのだ。
考え事に耽っていると、渡り廊下から足音が近づいてきた。
妖忌はすぐに察した。
幽々子の足音だ。
彼女が離れに来ることは珍しい。
何やら、胸騒ぎを覚える。
すぐに幽々子は姿を現した。
「幽々子様?」
夕日が幽々子の顔を照らす。
彼女は涙を流していた。
妖忌の記憶の中で、彼女が涙を流したことはなかった。
大体は、笑っているような主である。
うろたえる妖忌の胸に幽々子はしがみついた。
胸が引きちぎられるかと思う、力強さであった。
「妖忌」
「はい」
幽々子は小さく、声を漏らした。
「妖夢が、帰ってこない」
妖忌の胸騒ぎは的中した。
妖忌は一人、刀をぶら下げて走っていた。
庭の幽霊達はその剣幕にうろたえるばかりである。
外は広い。
妖忌は走り幅跳びの要領で助走を付けると、階段を滑空していった。
しかし、妖夢の姿は見当たらない。
妖忌は階段の終点まで来ると、石畳を蹴って白玉楼の空へ舞い上がった。
見当たらない。
当たり前だ。そんなに目が良いわけではない。
そのまま、右側の木が生い茂った部分へと突っ込んでいく。
そして、名前を叫びながら、森の中をかき分ける。
妖夢は見当たらない。
妖忌の額から汗が垂れてきた。
陽が沈んでくる。
苛立ち。焦り。
妖忌は歯ぎしりした。
やはり、外か。
夜の外は妖怪の巣窟ではないか。
「あれほど、外へ出るなと言ったのに……、未熟者が」
考えたくもない。
白玉楼の中を探し回ったのは、外へは出ていまい、という楽観的かつある種の願望であったのだ。
妖忌は重い足を外へと向けた。
瞬間、「あ」と声を上げる。
頭に一つの閃き。
妖忌はまたしても、飛んだ。
白玉楼の裏。
幽々子が入ろうとしない場所がある。
小高く土が盛り上がり、草が疎らに生えた丘。
小さな桜が所々に生えている。
つまらない場所だった。
妖忌は軽やかに着地した。
「妖夢」
そこに妖夢はいた。
自らの剣を鞘ごと墓標のように突き立て、桜の根元に足を組んで座っていた。
半霊は力無く、刀に巻き付いている。尻尾が情けなく垂れていた。
もう陽は暮れてしまった。
月灯りの中、妖忌は妖夢に近づいていく。
「ここにいたのか」
妖夢の目は腫れ上がっていた。
涙は出尽くしてしまったらしい。
「私だ」
妖夢はちらり、と妖忌を見たきり特に避ける様子も無く、動こうとしなかった。
その気力も感じられなかった。
「妖忌様」
掠れた声が出た。
「酷い声だ」
妖忌は妖夢の隣に腰を下ろす。
枯れ始めの草を、秋風が吹き飛ばした。
「どうして、こんな所にいる?」
妖夢は口をつぐんだ。
妖忌はそれきり、ずっと返答を待っている。
「出て行けと言われました」
「そうらしいな。幽々子様に聞いた」
妖忌はくしゃみをした。
「寒いな。帰らないか?」
妖忌は妖夢の肩を指さした。
彼女は震えていた。
半袖で風を受けているのだから、仕方ない。
「帰りたくない」
「ん?」
「帰りたくないです」
妖忌は辺りをぐるり、と見回す。
ここは二人が剣の修練に使っている場所である。
銀のポニーテールが風に靡いた。
「これから、どうする? 斬り合うか?」
「丁度、真剣もあることだし」と続ける。
二人は真剣を使って、斬り合ったことはない。
木剣を使うのだ。
「さっき、夢の中でお前に斬られたよ。木剣だがね。」
妖夢は何を言い出すのか。と言った表情をしている。
「探してしまったよ。てっきり外だと思ってね」
「外へ行ったんですか?」
「いや。行きかけた」
妖夢との会話に進展が無いと見ると、妖忌は懐から大きな徳利を二つ取り出した。
並々と酒が入っている。
「飲め。台所からくすねて来た」
目を丸くする妖夢に妖忌は無理矢理、酒を手渡す。
「で、でも。私、飲んだことありません……」
妖夢は顔を赤らめた。
妖忌はくすくす、と笑う。
「この寒い中、体を温めなければなるまい。斬り合うのとどっちがいい?」
妖忌の性格から言って、酒を断れば本当に刀を抜きかねない。
妖夢はそれをよく心得ていた。
おもむろに、徳利を傾けて二口ほど飲んだ。
「よし」
妖忌も同じだけ飲む。
「どうだ、旨いか?」
「う、あんまり美味しくないです」
妖忌は膝を叩いた。
意外にも嬉しそうだった。
それを見た妖夢はもう二口飲んだ。
「妖夢、私の膝の上に来い」
妖忌はあぐらをかいた。
妖夢は勢いよく首を振る。
「出来ません」
「いいから来るんだよ」
妖忌は半ば強引に妖夢を抱き寄せ、膝の上に座らせた。
「おっと、酒は零すな。しっかり、持っていろ」
妖夢は徳利を右手に持ったまま、固まっている。
妖忌は妖夢の頭越しに星空を眺めて、感嘆の声を漏らした。
「でかくなったなあ」
妖忌の厚い手が妖夢の頭を撫でた。
銀色の髪が逆立つ。
「髪をもっと、長くしないのか? でも、長くしなくてもいいぞ。短い方が好みだ、私はな。切って欲しい時は言え。可愛く切ってやる」
妖忌はふと、妖夢が嗚咽を漏らしているのに気付いた。
横から顔を覗き込む。
妖夢は目を閉じ、歯を食いしばって涙を流していた。
「よしよし、どうした? 話してみろ」
妖忌は妖夢の肩に手を回した。
妖夢はその腕をしっかりと掴む。
か弱い腕だった。
「私、幽々子様の櫛を燃やしちゃいました」
「うん」
「いらないと思って。私、幽々子様の櫛燃やしちゃいました」
「聞いたよ」
「ボロボロの木の櫛が落ちてたから、新しいのに取り替えてあげようと思って」
妖忌は頷いて、妖夢を両手で抱いた。
「そしたら、幽々子様が「出てけ」って。あんなに、怒ったの初めてで。私は殺されるかと思って」
「妖夢よ」
ふと、片手を離し、妖忌は徳利を傾ける。
「誰しも思い出がある。幽々子様にもあるのだ。私もあの櫛のことは知っていた。幽々子様が大事にされていたものだ。きっと、あの櫛はそういうものなのだろう。どんな思い入れがあるのかは知らないがね」
妖忌は言葉を切って、「主君の悪口を言うのではないのだからな」と念を押す。
「確かに櫛を燃やしたのは、お前の落ち度だ。妖夢が悪い。だがな、「出てけ」は言い過ぎだと思う。決して悪気があったわけじゃないからな、そうだろ?」
妖夢は返事をせず、「わっ」と声を上げて泣き出した。
妖忌は頷くと、「飲め」と徳利を手渡して、自分でも飲み始めた。
妖夢は涙を流しながら、酒を飲む。夢破れた者が酒に溺れる様子に似ていた。
「それと、お前は「殺される」と言ったが、幽々子様がお前を殺すわけないだろうが。今だって、心配しているんだぞ」
返事はない。ただ、嗚咽が響く。
妖忌は溜息を吐いた。
「帰りづらいのは分かるよ。私にも似たことがあったからな」
酒を飲む。
「あれは百年程前、私がもっと元気だった頃の話だ。私はつい調子に乗って、庭の木を試し切りしていたのだが、酔っていた勢いで桜を三本ほど切り倒してしまった。あの時は流石に切腹を覚悟した。接着剤か何かでくっつけようとしたけど、駄目だった。幽々子様は怒り狂ったよ」
「妖忌様」
「妖夢よ」
「はい」
「お前、いつから私の膝の上に乗らなくなった?」
妖夢は「分かりません」とだけ答えて、口をつぐんだ。
「いつからおじいちゃんと呼ばなくなった? 覚えているか?」
またもや妖夢は「分かりません」と答えて、俯いた。
「お前はまだ子供だ。子供扱いされるのは嫌かもしれないが、私からすれば青二才もいいところだ」
「はい……」
「どうだ、酔っぱらってきたろう?」
妖忌は妖夢の頭を掴んで、自分の胸に付けた。
妖夢は抵抗もせず、頭を預ける。
妖夢の体は酒のためか、熱を放っていた。
「ほら。見ろ」
妖忌は空を指さした。
「あれはペガスス座だ。分かるか?」
「はい……」
「小さい頃、よく見に来たろう。肩車してな」
妖忌は「ふう」と一息吐くと、酒を煽った。
残り少なくなってきた。
「あれが、カシオペア座だな。秋は綺麗に見える。そこから下へ行くとくじら座だ。斜めに辿ってみずがめ座。あそこと、あそこを結んで……」
滔々と口を動かし続けた妖忌はふと、口を止めて酒を飲んだ。
「妖夢?」
小さな声で呼ぶが返事も嗚咽も聞こえない。
微かな呼吸の音だけが響いていた。
「妖夢?」
顔を覗き込むと、妖夢は眠っていた。
涙はすっかり乾燥していた。
妖忌はどっと疲れたような顔をして、息を吐いた。
「ようやく、酒が回ったな」
くすくす、という妖忌の笑い声。
徳利をもとのように懐に入れると、妖夢の刀を地面から引き抜く。
そして、妖夢をそっと動かして背中へ背負った。
妖忌は「う。腰が」と呟く。
直後、真っ直ぐに白玉楼へ向けて歩き出した。
彼は一刻も早く、主のもとへ帰らなければならないのである。
「ふう」
溜息。
秋の風。
「全く、未熟者め」
だけど妖忌が夢で妖夢に敗れた事が何かの意味があるのかイマイチわからなかった。
あと妖夢を連れて帰ったあとの展開が見たかった
色々惜しいけど、GJッ!
じいさんダンディーだなw
いいお話でした
それに妖夢と妖忌の会話がまた結構ちぐはぐで、それにリアリティと暖かみを感じました。
会話が論理的に繋がらないからこそ、その場で現在を共有していることの繋がりが見事に浮かび上がっています。