最果ての温泉街に到着した私は、改札を出て、階段を降りて行った。
降りた先はこじんまりとした噴水広場だった。「流体力学的だ」などと学術用語を不正確に使いたくなるほど複雑な曲線を描く噴水がライトアップされている。湯気が立っていた。回り込んで真正面から噴水を見てみると、横の看板に「温泉噴水」と書いてあることに気付いて、私は少しだけニヤッとした。アイデンティティだものね。
線路沿いの通りには、観光客向けの土産屋やお食事処などが立ち並んでいる。店の前には使い古された旗が立っていて、夕刻前の涼しい風がそれをかすかに揺らしていた。ここは温泉街。見回してみると、とにかく山に囲まれている。まさに山峡としか言いようがない。
踏切を渡って真っすぐに進み、左に曲がる。通りに面して何棟もの宿泊施設が並び立っている。それは温泉街という語に収めれば許せるコンクリートの群れだった。
予約していた宿に入ってチェックインを行い、部屋に向かった。荷物を下ろすと旅の疲れがどっと押し寄せたが、夕飯に何を食べようかと思うと頬が自然と緩んだ。
目星は付けてあった。駅から宿に向かう途中で見つけた釜めし屋を、私の聖地にすると決めていた。宿から出て、さっき来た道を戻っていく。時間はそれほど経っていないはずなのに、急速に夜の匂いがし始めていた。大きな狸の置物が立っている店が見えてきて、私のお腹はぐぅと鳴いた。絶対に釜めしを食べるのだ。
釜の蓋を開けると、食欲を破壊的に掻き立てる良い匂いがした。釜から飯を茶碗によそうのがもどかしいほどだ。飯を口に入れて咀嚼すると、私は満たされ、にんまりとした。私の眼は、良い店を見つけるのにも使えるのかもしれない。
店を出ると、夜が降りていた。何となく散歩がしたくなって、月光の方が明るいのではないかとさえ思えるほど観光地のくせに心もとない街灯が照らす道を歩いていった。じー、じーと、虫の音が聴こえる。道路があるというのに車の音など聴こえやしない。次第にざあざあと小川の流れる音が聞こえてきた。そこに架かる橋を渡ると、狭い道の左側に階段が見えた。赤い手すりを見て、神社だ、と思った。
端末のライトを点けた。階段と、それを両側から挟み込む森の一部だけが照らされる。私は、その苔むした階段を登って行った。
じー、じー。ざりっ、ざりっ。
虫の音と、私が階段を登る音しか聞こえない。
そのはずなのに。
不意に、木の枝が踏まれ、それが折れる音がした。
私じゃない。私の足裏は、なにがしかを踏んだことを知覚してはいない。それゆえに足の指先が驚いて、そこから全身が粟立つような感覚を覚えた。誰かが居る。いや、何かが居ると言ったほうが自然だろう。きっと動物だ。それなのに私は、
「だ、だれ?」
と呟いた。端末を手にしながら周りを見回す。
すると──先ほどまで私が登ってきていたはずの階段の始まりが見えなくなっていた。下のほうに無限に続くとさえ思える暗闇だ。どう考えてもそんなはずがない。
そう思ったとき、
「ねえ。あなた、迷子?」
と背後から聞こえた。とても厭な声だった。それは、神隠しの主犯が嘯くような声だった。
後ろを振り返ると、私が私を見下ろしていた。──そんな風に言いたくなるほど、私に似た顔がそこにあった。明らかに異常な状況にもかかわらず、私は何故だかとても懐かしくなった。それで私は、
「迷子じゃないわよ。迷子と言うよりは神隠しに近い状況かしら」と、馴れ馴れしく、その女に言った。
中国の道士のような服を着てはいるけれど、顔だけじゃなく被っている帽子まで私のものに似たその女は、微笑みながら
「状況を定義することは大事だけれど……。そんなことをしている場合なの?」
と言って、私を煙に巻いた。
「だから。そんなことをしている場合じゃない状況にしているのはきっとあなたでしょ」
「そうだとして何か問題? 胡乱で楽しいじゃない?」
「確かに胡乱であることは私たちの、いや、ええと、私のアイデンティティに近いけど……って、ごまかさないで。あなたは誰なの?」
「こんな場所で自己紹介するの? 場所を変えましょう」
と言うと、私に似た女は、右手を差し出した。
動いて香ったその袖からは、実家の匂いがした。
降りた先はこじんまりとした噴水広場だった。「流体力学的だ」などと学術用語を不正確に使いたくなるほど複雑な曲線を描く噴水がライトアップされている。湯気が立っていた。回り込んで真正面から噴水を見てみると、横の看板に「温泉噴水」と書いてあることに気付いて、私は少しだけニヤッとした。アイデンティティだものね。
線路沿いの通りには、観光客向けの土産屋やお食事処などが立ち並んでいる。店の前には使い古された旗が立っていて、夕刻前の涼しい風がそれをかすかに揺らしていた。ここは温泉街。見回してみると、とにかく山に囲まれている。まさに山峡としか言いようがない。
踏切を渡って真っすぐに進み、左に曲がる。通りに面して何棟もの宿泊施設が並び立っている。それは温泉街という語に収めれば許せるコンクリートの群れだった。
予約していた宿に入ってチェックインを行い、部屋に向かった。荷物を下ろすと旅の疲れがどっと押し寄せたが、夕飯に何を食べようかと思うと頬が自然と緩んだ。
目星は付けてあった。駅から宿に向かう途中で見つけた釜めし屋を、私の聖地にすると決めていた。宿から出て、さっき来た道を戻っていく。時間はそれほど経っていないはずなのに、急速に夜の匂いがし始めていた。大きな狸の置物が立っている店が見えてきて、私のお腹はぐぅと鳴いた。絶対に釜めしを食べるのだ。
釜の蓋を開けると、食欲を破壊的に掻き立てる良い匂いがした。釜から飯を茶碗によそうのがもどかしいほどだ。飯を口に入れて咀嚼すると、私は満たされ、にんまりとした。私の眼は、良い店を見つけるのにも使えるのかもしれない。
店を出ると、夜が降りていた。何となく散歩がしたくなって、月光の方が明るいのではないかとさえ思えるほど観光地のくせに心もとない街灯が照らす道を歩いていった。じー、じーと、虫の音が聴こえる。道路があるというのに車の音など聴こえやしない。次第にざあざあと小川の流れる音が聞こえてきた。そこに架かる橋を渡ると、狭い道の左側に階段が見えた。赤い手すりを見て、神社だ、と思った。
端末のライトを点けた。階段と、それを両側から挟み込む森の一部だけが照らされる。私は、その苔むした階段を登って行った。
じー、じー。ざりっ、ざりっ。
虫の音と、私が階段を登る音しか聞こえない。
そのはずなのに。
不意に、木の枝が踏まれ、それが折れる音がした。
私じゃない。私の足裏は、なにがしかを踏んだことを知覚してはいない。それゆえに足の指先が驚いて、そこから全身が粟立つような感覚を覚えた。誰かが居る。いや、何かが居ると言ったほうが自然だろう。きっと動物だ。それなのに私は、
「だ、だれ?」
と呟いた。端末を手にしながら周りを見回す。
すると──先ほどまで私が登ってきていたはずの階段の始まりが見えなくなっていた。下のほうに無限に続くとさえ思える暗闇だ。どう考えてもそんなはずがない。
そう思ったとき、
「ねえ。あなた、迷子?」
と背後から聞こえた。とても厭な声だった。それは、神隠しの主犯が嘯くような声だった。
後ろを振り返ると、私が私を見下ろしていた。──そんな風に言いたくなるほど、私に似た顔がそこにあった。明らかに異常な状況にもかかわらず、私は何故だかとても懐かしくなった。それで私は、
「迷子じゃないわよ。迷子と言うよりは神隠しに近い状況かしら」と、馴れ馴れしく、その女に言った。
中国の道士のような服を着てはいるけれど、顔だけじゃなく被っている帽子まで私のものに似たその女は、微笑みながら
「状況を定義することは大事だけれど……。そんなことをしている場合なの?」
と言って、私を煙に巻いた。
「だから。そんなことをしている場合じゃない状況にしているのはきっとあなたでしょ」
「そうだとして何か問題? 胡乱で楽しいじゃない?」
「確かに胡乱であることは私たちの、いや、ええと、私のアイデンティティに近いけど……って、ごまかさないで。あなたは誰なの?」
「こんな場所で自己紹介するの? 場所を変えましょう」
と言うと、私に似た女は、右手を差し出した。
動いて香ったその袖からは、実家の匂いがした。