事の発端は、先日の花騒ぎの後で知り合ったてゐの言葉だった。
「ねえ、てゐ?」
「なにメディ」
「お友達を作るってどうすればいいのかしら」
私は尋ねる。それは一番の悩み事。
閻魔に叱られて以来、私は将来の人形解放に向けて、心を知るための勉強を始めた。
心を知るために、まずは他者と関わらなければならない。でも、実際問題それってどうすればいいのかしら?
「さあ~? よくわかんないけど、そうねえ、あっちの方に行くといいって聞いたわ」
「誰に?」
「通りすがりの親切な兎に」
彼女はいつものように、あからさまに嘘臭い言葉で煙に巻く。聞いた相手が間違ってるのかしら?
「嘘ね」
素っ気無く指摘してあげるも、しかしぬけぬけと笑顔で彼女は頷く。
「まあ嘘だけど。行かないの?」
「えー、嘘なんでしょ?」
「でもほら、出かけなきゃ何も起きないじゃない」
「ううん、そうなんだけど」
それは前から思っていた事だ。鈴蘭畑に篭っているばかりでは駄目なのだ。
……でも、スーさんから離れるのはまだちょっと慣れないから怖いし。
「だったらほら、丁度いいじゃない。思い立ったが吉日って言うし」
「軽く言うわね。だったらついて来てよ」
「あれー、怖いの?」
「そんな事ないわよー。ちょっと慣れてないだけで」
嘘じゃないわよ。毒さえあれば何も怖くなんてないんだから。……毒さえあれば。
そんな少しだけ弱気になっている私を、しかしてゐは平然と突き放した。
「まあ無理だけどね。えーりんにお使い頼まれてるから」
「……嘘じゃないの?」
「ホントホント。毒をちょっと分けて貰ってくるようにって」
そう言って先程分けてあげたスーさんを見せてくれた。
「もう、だったらいいわよ。一人だって問題なく行けちゃうんだから」
「そうそう、その意気。応援したげるから頑張ってー」
手を笑顔で軽くぶらぶらさせる彼女に溜息をついて、仕方なく出かける事にした。
「じゃあスーさん、ちょっと出かけてきますね」
風にざわざわと揺れる鈴蘭畑に別れを告げて、
「で、どっちに行くといいって言ってたかしら?」
「あれ、信じるの?」
「景気付けよ。どうせアテなんてないし」
そう言うと彼女はきょろきょろと辺りを見回して、
「あっちね」
自信満々に指差したのはさっきと逆の方だった。やれやれだわ。
そして飛ぶ事暫し、気が付けばそこは鬱蒼とした森の中。
「怖くない、怖くない」
どきどき。
毒の花どころか、普通の花さえ見当たらない妙な森。あるのはキノコくらいのもの。
動物の姿も見かけないし、人間なんていうまでも無い。こんな場所には人形もないんでしょうね。
慣れない場所に神経は磨り減るし、歩いてても楽しくないし、今日はもう帰っちゃおうかしら。
いつもの遠出からすれば、かなりの記録更新だし。
何より、本音を言うと。
実は自分がどれくらい動けるのかわかっていない事、それが怖い。
スーさんからずっと離れても大丈夫なのか。それともいつか蓄えた毒が切れるのか。切れるとすれば、それはいつの事なのか。
いつも鈴蘭の花畑に生き、咲かない時期は土中に残る毒素で細々と暮らしている自分は、まだ限界を知らない。
終わりが来たら、どうなるのだろうか。
「うーん……そろそろ帰っちゃっていいんじゃないかしら」
まだちょっと慣れないし。うん、慣れないだけだから、また少しずつ慣らしていけばいいと思うの。だって時間はたっぷりあるもの。
そうと決まれば、と振り返ろうとしたところで、薄暗い森に似合わない金色の光が視界の端を掠めた気がした。
「?」
花が咲かず動物を殆ど見かけないために、例外なく蒼と緑と暗闇で占められた森の中にあって。
微かに見えた金と赤の色彩はいつも以上に目を引いた。
ついでに興味も引かれたので、視界を遮る茂みをかき分け向こう側を覗き込む。と、そこには、
「わー」
金糸の髪を赤いリボンで飾り、シンプルなエプロンドレスを着た、少女のような、
「わーわー。こんなところで人形に会えるなんて!」
それは確か人形だった。同じ人形の身体を持つ私でなくても、人にありえざる大きさや比率のその姿を見れば誰だってわかるだろう。
その人形は一人、薬草を抱えて飛んでいた。どうやら薬草集めのために使役されていたらしい。
「……もしかして、これは」
言うまでもなく、チャンスだった。主の姿は近くにない。
使役される人形がただ一体でうろつく状況に遭遇できる機会はあまり多くはないだろう。
私には夢がある。
それは、人間によって一方的に愛情と言われながら使役され、用が済めば、いや、飽きれば捨てられる人形たちを一つでも多く、人間の手から解き放つ事だ。
本来は独りよがりな解放運動から、人形たちの納得・協力を得るために、他者とのコミュニケーションを練習中だった訳なのだが。
というかまだ、どうすれば何を学べるのかはっきりと理解していない訳なのだが。
それはそれとして、今まさに使役されている人形を目にして、放っておく事が出来るだろうか。いや、出来ない。
と、いう訳で。
「ねえ、あなた!」
呼びかけても、返事がない。もしかすると、まだ自分の意思がないのかしら。
「でも、もう大丈夫よ。私が助けてあげるからね!」
森の向こうへと飛び去ろうとする人形を、抱きしめるようにして捕まえようとする。
「わっ」
びゅん、と脇の下を魔力弾が抜けていった。
危なかった。多分、主の命令による防御行動なのだろう。運良く当たらなかったが、うっかりすると凄く危険だったかも。
「大丈夫大丈夫、怯えなくてもいいのよ」
しかしそこは近くに主人のいない繰人形、威嚇以上の攻撃にはなりえない。
私は十分に注意しながら、彼女を今度こそ捕まえた。
じたばたと微かな力で抵抗するが、流石に圧倒的な体格差はひっくり返せないようだった。
「あ、これが糸ね」
そうやって暴れる背中に、微かに見えた魔力の糸。これがきっと、彼女を縛る鎖なのだろう。
その時はそう思った。だから、私はこれを迷わずに断ち切った。幸い、魔力さえ捉えられればそんなに強い糸ではなかったし。
「これで、あなたの主に無理矢理持っていかれる事はないわよね」
嬉しくて、笑顔で彼女の顔を覗き込んだ。けれどその無機質な顔は、糸が切れた今もじたばたと暴れるままだった。
「あれー? おかしいなあ。自分で動けるのかな? それともよっぽど手の込んだ魔法とかで作られてるのかしら」
人形には詳しくても、魔法の知識のない私にはよくわからなかったので、とりあえず今日のところは帰ることにした。
思わぬ収穫もあった事だし。今度てゐにあったら、感謝してあげてもいいかもしれないわね。
そんなことを考える私の腕の中で、人形の彼女は今も、小さな身体でもがき続けていた。
スーさんのところに戻った時には、思ったよりも時間がかかっていて既に日も暮れようという時間だった。
「ここが私の場所よ。スーさんはとっても優しいの。素敵でしょ?」
連れ帰った人形に、私は満面の笑みで伝える。きっと彼女も喜んでくれると、そう思ったから。
けれど彼女は何も言わない。自分で動く事が出来る人形は初めて見たけれど、逃げるためにしか動かない。
「……むー」
それが、ちょっとだけ不満だった。折角自分で動けるのに、どうして自分で生きようと思わないのだろう?
私には、何もわからなかった。だから、きっと騙されているんだろうと思った。ううん、そう、信じた。
「そうだ。私の考えてる事、聞いてくれる? 私、人形たちを助けたいの!」
まだ、説得したり共感を得るためにはどうすればいいかわからなかったから、まずは私の気持ちを伝える事にした。
誰かが言っていたもの。相手と仲良くなるためには、自分をわかってもらうのがいい、って。
離せば逃げてしまいそうな彼女を抱えて、私はスーさんの真ん中に倒れこむ。
そして、私の生まれた時から、色んなあった事、思った事を話し続けた。
人形の私たちに、眠りは必要ないから。
その日は、綺麗な月夜だった。
「うーん、どうしてかしら」
私はまだ困っていた。彼女が、自分で動けるのに話す事が出来ないようだったからだ。
彼女が私に賛成してくれるのか、それとも反対するとして、どうしてそう思うのかがわからない。
これでは経験にならない。もっともっと勉強して、一杯の人形たちを人間達から解き放つお手伝いをしてあげたいのに。
「こんなに毒は一杯あるのにねえ、スーさん?」
勢いに乗って彼女を連れ帰ってしまったけれど、これからどうしていいのかわからない。
だから閻魔はもっと経験を積めって言ってたのかしら?
「やっほー、メディ~」
「あ、てゐー」
鈴蘭畑の端で、てゐが手を振っているのが見えた。手を振り返す。
余談だが彼女は、以前ここで体調を崩したのが余程悪い体験だったのか、花畑の中にまで入ってこない。
スーさんはこんなに優しいのにねえ。勿体無いわね、スーさん。
と、今日は昨日と違い、もう一人、背の高い人影が見えた。あれはきっと永遠亭の薬師だろう。
「あれ、珍しい」
立ち上がり、二人の方へ歩いていく。もちろん、胸にはあの人形を抱いてだ。
「こんにちは、メディスン。お邪魔するわね」
「うん、いらっしゃいませ」
ぺこり、と挨拶をする。彼女とは比較的、毒を通じて深い付き合いだ。いいお客様でもあるし、大事にするに越したことはない。
「今日はどうしたの? いつも鈴仙とかてゐに取りに越させるばっかりなのに」
尋ねると、彼女はいつものように朗らかに、でもどこか突き放す笑顔で笑って答えた。
「たまには外に出ないと、身体に悪いでしょう?」
「えーりんがそんな事言っても説得力ないけどね。死なないし」
からからとてゐが笑って言い、それに怒る様子もなく流す姿もいつものままだ。私も少し笑う。
彼女は人間だけど、死なないらしい。理由は良く知らないけれど。
ばらばらになってもすぐに元に戻るらしい。首をとっても簡単に戻せるらしい。
彼女はとても綺麗だ。出来すぎているくらいに。
だからというわけでもないけれど、私には、彼女が人形とどれほど違うのかがよくわからない。
血肉が人間の証なのだろうか? 血肉で作った人形は人間と違うのだろうか?
意思があり、自分で動く事が出来る私には、よく、わからない。
いつも会うたびに思う、不思議な思考に浸っていると、てゐが目ざとく私の抱く人形に目を付けた。
「あれ、それって魔法の森の人形遣いのじゃない? どしたの、それ」
「あら、本当ね。手放すとは思えないし、どうしたのかしら?」
どきり、とした。
魔法の森の人形遣い。この人形の、『持ち主』を示す言葉。
今、この人形が手元になくなった事に気付いているだろう誰かの名前。
なくなった事を悲しんでいるだろうか。それとも、もう別の人形で満足しているのだろうか。
嫌な人間ならいい。きっと、この胸をちくりと刺すこの棘も、和らぐだろうから。
私は胸の痛みを押し隠すように、笑いながら答えた。
「昨日、てゐに言われて遊びに行ったじゃない。そこで拾ったのよ。お友達になるの。
そうそう、昨日はありがとね。お陰でこんな素敵な人形を助けてあげる事が出来たわ」
そう答えると、彼女は凄く微妙な顔をした。どう、とは言えないけれど。
しかしすぐに表情を変え、彼女はまた笑顔になった。天真爛漫に見える笑顔。
「どういたしまして。良かったね~。でも、助けるってその後どうするの?」
「決まってるじゃない。説得して、人形解放に協力してもらうのよ」
「でも拉致監禁して説得って、説得力なくない?」
「うー、そうなんだけど……」
でもあのまま放って置けるわけないじゃない……。
言葉を詰まっていると、永琳がついでとばかりに指摘した。
「それに、その人形は説得しても無駄よ。あなたと違って意思はないし」
「でも、自分で動いてるよ?」
今ももぞもぞと動く彼女を示すと、永琳は首を横に振った。
「それは多分、自律用の式が組んであるんでしょう。魔力で動いているだけだし、そんなに複雑な行動はとれない筈よ。
今も振りほどくんじゃなく、ただ主人の下に戻ろうとしているだけでしょう?」
「……そっか」
ちょっと残念だった。もしかしたら、話を聞いてくれる人形にやっと会えたかもしれないと思ってたから。
「あ、そうだ。ねえ、この子って自分で動けるんだから、少し毒を染み込ませてあげたらすぐに私みたいになれるんじゃないかしら。
他の人形は上手くいかなかったけど、この子なら上手くいく気がするの!」
そう言うと、永琳は少し鋭い目をして――――あれ、気のせいかしら?
「そうね、そうかもしれないわね。ところでごめんなさい。今日は用事があるの。
早く帰らなければいけないから、そろそろ今日も少し毒を分けてもらえるかしら」
「いいけど……?」
変わらない笑顔で言われた言葉に、内心少し首を傾げる。突然どうしたのかしら?
そんな不思議顔をしているだろう私を置いて、会釈して離れていく永琳を眺めていると、てゐが口を開いた。
「ねえ、どうして人形解放を目指してるんだっけ?」
「何度も言ったじゃない。いいように使われて辛い思いをする人形たちを、人間の手から解き放つためよ!」
自明の理とばかりに幾度となく繰り返した言葉を言う私に、しかし彼女はいつものように笑ってくれなかった。
むしろどことなく醒めた声で、どうでもいい事を語るような口調でぽつりと呟いた。
「どうして辛い思いをするのか、したのか。メディは覚えてるの?」
「え……?」
思わず声が漏れた。理由はわからないけど、何か大切な事を言われたような気がした。
一瞬、雰囲気が重く変わったのを厭うかのように、一転して彼女は破顔一笑して茶化した。
「まあ、じょーだんだけど。大切にしてあげるならいいんじゃない?」
あはは、と誤魔化すように笑い、ごめん行くね、と言って永琳の方に駆け出した彼女を、私は慌てて呼び止めた。
「ねえ!」
「んー? なーに?」
振り返った彼女に尋ねる言葉を捜そうとして、それが見つからない事に焦る。
何かを、尋ねなければいけなかった。何かを。
でも、わからなかった。だから、適当な質問で誤魔化す。胸に宿る焦燥をかき消すように。
「この子の名前、あなたは知ってる? 呼ぶ名前がなくて不便なの」
「えっとね、確か……上海、とか呼ばれてたと思うよー」
「ありがとー」
少しだけ悩むそぶりを見せた後、一つ頷いて教えてくれた彼女にお礼を言って、駆けていく彼女を見送る。
胸に抱えた人形が、少しだけ揺れた。
その晩、名前が上海と判明した彼女とスーさんの真ん中で遊ぶ。
この鈴蘭の花園の中で私は生まれた。毒で満たされて、この心を手に入れた。
だから、彼女もきっと、毒で満たせば話せる様になる。だって、もう彼女は動き出しているのだから。
スーさんの毒は心の毒、足りないものを補うものなのだから。
「楽しみね、スーさん。きっと、もうすぐお友達が出来るわよ。この子ね、上海って言うんだって」
コンパロコンパロと呟きながら、鈴蘭の花びらを上海に飾るように振りかけた。
宵闇の中、金糸の髪が月明かりに照らされて綺麗だった。
「いつになれば話せるようになるかしら。明日かしら、明後日かしら」
一月後でも、一年後でも。人形の私たちには関係ない。きっと、それはいつか必ず来る未来。
なら、いつまでだって待ち続ける。
「その時まで、一緒にいてね、スーさん」
くすくすと笑いながら、広い鈴蘭畑に寝転ぶ。ここが私の場所。
生まれる前からずっと転がっていたせいで、避けるように咲いた鈴蘭で跡がついてしまっている場所。
「ああ、明日がこんなに楽しみなのは久しぶりね」
今日は休もう。昨日から少しはしゃぎすぎたし。
それに、彼女が目を覚ますまでに、ばててしまうわけにはいかないもの。
鈴蘭の毒を一杯に受けるよう、抱きしめられた上海人形。
月明かりの下、眠る少女の上、自身も休むようにただ静か、止まったまま。
異変は翌朝から始まった。まっくらな朝、雨の降る日。
「ねえ、上海? どうしたの?」
語りかけて返事があるとは、まだ思っていなかった。
時間があるのだから、いつまでだって待つつもりだったから。
でも、こんな事になるなんて想像してなかった。
「おかしいわ、スーさん。どうして動かないのかしら」
あんなにもがくように、いつまでも帰り道を探していた彼女。
意思は無かったけれど、いつか心を得ることが出来ると思わせた、自然な身体の動き。
それが無い。動かない。手を離せば倒れてしまう。立ち上がらない。
「どうして、どうして、どうして?」
焦燥が募る。何かいけない事をしてしまっただろうか、何か大変な事が起きているのだろうか。
鈴蘭の花をかぶせる。私と同じように、毒が満ちれば動き出すんじゃないかと思って。
けれど降りしきる雨に服を濡らすまま、彼女は眠り姫のように動かない。
「どうしよう、どうすればいいだろう」
言葉だけが漏れる。思考が上滑りする。どうしよう、どうしよう。
「助けてよ、スーさん……。誰でもいいから、ねえ」
助けたかっただけなのに。いつか使い捨てられてしまう人形たちを、自由にしてあげたかっただけなのに。
そこまで考えて、いつかの言葉を思い出した。
『人形が解放されたら、誰が人形を創る?』
人形を創る、だけじゃない。私には、毒以外の知識が殆ど無い。
壊れた人形を直す事も、破れた布を繕う事も出来ない。
本当だ。何も考えてなんか居なかった。考えたつもりになっていただけだ。
どんなに解放を叫んでも、私には彼女を救う手段が無い。
雨が降る。厚い雨雲に覆われ、大地は暗闇に満ちている。
何をすればいいのか、何処に行けばいいのか。道が見えない。
どうしよう。その一言が頭をぐるぐる回る。どうすればいいのかわからない。
このまま座り込んでいて、どうするんだろう。どうにかなるのだろうか。
「やっぱり、持たなかったのね」
跳ねるように振り向く。この声は、
「心配になって様子を見に来てみれば、予想通りなんてね」
「永琳!」
叫びのような声が口から溢れた。
上手く力の入らない足を無理矢理動かし、傘をさし背後に立つその姿に飛びつくようにすがりついた。
「永琳、これがどういう事かわかるの? ねえ、医者なんでしょ? 直せないの、ねえ!?」
「落ち着きなさい」
彼女の手が、ぽんぽんと肩を叩いた。胸に膨れ上がり続ける不安が、少しだけ落ち着いた気がした。
そして落ち着いたその姿に、希望が見えた気がした。だから、少しだけ、離れる。
胸の中に抱きかかえた、動かない上海人形に向かって彼女は手を差し出した。
「ごめんなさい、少し見せて貰えるかしら?」
「……直せる?」
渡しながら、尋ねた言葉に応えは無く、無いはずの心臓が胸を叩く音さえ聞こえる気持ちで立ち尽くす。
仔細に裏から表から、人形を検分する瞳が、こちらを見据えた。
「どうなの?」
視線の強さに負けない様、ぐっと腹に力を入れ、身体の中のスーさんを確かめるようにしてもう一度尋ねる。
無言で人形が返された。胸に抱きしめると、溜息と共に彼女は喋り始めた。
「簡潔に言うわね。そのままではその人形は二度と動く事はなくなるわ」
「どうして!」
覚悟なんてない。心が散々に乱れる。胸が騒ぐ。
――――私は、怖い。私のせいで彼女が動かなくなる事が、ではない。
助けたいと思った、この思いが嘘になってしまう事が、怖い。
それとも、これも自分のためなのだろうか? 自分勝手な人間のように?
「……昨日、帰ってから調べてみたのよ。少し心配だったから。
人形を動かすには、幾つかの方法があるの。本物の糸を使うのが一番基本となるやり方」
「それが!」
「聞きなさい」
叫んだのは私、むしろ静かな口調なのに。気圧されて、私は口を閉ざした。
彼女は間違わない。とても頭がいい。だからきっと何か意味があるのだ、何かが。
「そして糸を魔力に変えて、指ではなく意思で動かすのが人形遣いの業。けれど、それだけでは効率が悪い。
だって見ていなければ制御できないし、一つ一つの動作を指示してやる必要がある。
だから、人形遣いは式を創る。人形に魔力を込め、法則を刻む。
術者の一つの指示に応じて、決められた一連の行動を取るように」
雨が服を濡らし、今の心のように身体を重くしていく。
雨音だけが響く中、永琳の講義は続く。
「丁寧に丁寧に、微調整を繰り返しながら魔力を馴染ませていく。さながら全身に神経を行き渡らせるように。
完成した人形は、人間にも劣らない精緻で多彩な動きを取れるようになるというわ。
その人形は、その域に十分以上に達しているわ。よほど心を込めて創ったんでしょうね」
「……それが、どうなるの?」
「魔力そのものを付与するんじゃないの。式を創るために魔力を刻むのよ。
そして、魔力はそれ自身では存在を保持する事は出来ない……。
その人形はね、身体に込められた魔力が切れかけて、神経の維持のために休眠状態にあるの」
「だったら……!」
希望が見えた気がした。思わず明るい声が漏れた。
「魔力を込めて貰えば、この子は元通りになるのね?」
「駄目よ」
そんな希望を、一言で斬って捨てた彼女は、無表情で言葉を繋げた。
「言ったでしょう? 神経を行き渡らせるように、と。
術者のためだけに創り込まれた人形は、術者以外の魔力を受け付けない。
拒絶反応が出るわけじゃないわ。けれど、けして動かない」
そして、と彼女は言った。
「魔力が尽き、維持できなくなった神経は崩壊する。
そして壊れた魔力の刻印は人形の中に傷跡を残す。
そうなれば二度と、同じように魔力を刻む事は出来なくなるでしょう。動く事もなくなる」
魔力。彼女を捕まえた時、その背中に続いていた魔力の繰り糸。
もしかして、あれは、彼女を縛る『鎖』ではなく。
彼女を生かす、『生命線』だったのではなかったろうか。
動揺する私を無視して、永琳は一拍の躊躇いも無く言葉を続けた。そして、
「そのままでは、その人形は『死』ぬわ」
放たれた言葉は私の胸を容赦なく切り裂いた。
力が抜け、ぺたりと座り込んだ私を永琳が見下ろす。
さあさあと音を立てて、雨は降り続いていた。
「……ねえ、永琳……」
「なにかしら」
少しだけ、呆けていたらしい。時間の感覚がない。そんなにたっては居ないと思うけれど。
その間も待ってていてくれたらしい彼女に、私は問いかけた。
「もう、手は無いの?」
「あなたは、もうその答えを知っているでしょう?」
問われて、一つだけわかる解答を思う。それは、一番簡単な方法。そして、一番怖い方法。
でも、私は考えた。凍りついた思考の中、精一杯考え続けた。
私は、上海を助けたいと思って連れて来た。それは間違いない。
『貴方は少し視野が狭すぎる』
けれど、結局は傷付けただけだった。いや、それだけじゃない。
上海を傷付け、持ち主と彼女を引き離し、無理矢理に縛り付けていた。
『他人の痛みが判らない魂に、協力してくれる魂など無い』
相手の心の痛みを想像する事、出来るようになる事が大事なんだと思った。
だから、彼女を心配した。でも、その想像が間違いだったら?
『どうして辛い思いをするのかしたのか、メディは覚えてるの?』
それは想像なんて物ではなかった。単なる妄想に過ぎなかった。
忘れていた。辛いのは人間に使われているからじゃない。一緒に居たいのに、捨てられてしまう事だ。
忘れてしまっていた事。自分勝手に思い出を捻じ曲げて。
だから一方的に心を押し付け、彼女たちを傷付けた。
まるで、私が嫌う身勝手な人間のように。
私が自分の事、自分の目でしか考えていなかったから。あんなに閻魔に言われたというのに。
だから、私は謝らなければいけない。私が思う、身勝手な人間がしなければいけないように。
だから。勇気を振り絞って、尋ねなきゃいけないのよ。
「永琳」
無言で見やる視線の強さ――――違う、これは私の心の弱さだ。
私の身体を竦ませる、恐怖。だから、負けられない。負けてはいけない。責任を果たすために。
大きく息を吸って、尋ねた。
「人形遣いの家の場所を教えて」
濡れそぼち、重い身体を引きずって、魔法の森を駆け抜ける。
大切な宝物を抱えるように、何よりも恐ろしい爆弾を抱えるように、彼女の身体を胸に抱いて。
スーさんから離れ、慣れない場所を行く恐怖。そんなもの、今は怖くもなんとも無い。
それよりも、ずっと怖い事が待っているから。
これから私は、私が傷付けた人に会いに行くんだ。例え怒られ、殴られ、詰られようとも。
赦して貰えなくても、友達になりたかった彼女を救う為に、頭を地面に擦り付けてでも。
頭の中は真っ白だった。膝は震え、今にも上海を取り落としそうになっていた。
ただそれでも、今は謝らなきゃいけないと、それだけを考えていた。そのために全身の力を振り絞った。
それでも、永琳に言われたままの洋館が木々の合間に見えた時、動けなくなった自分が本当に情けなかった。
「動け、動け、動きなさい!」
飛び上がる力が絶えても、地面を踏みしめる力が萎えても。
私はあそこに行かなきゃいけない。一歩ずつ、歩いて。
「うううーっ」
がんがんと揺れる頭、胸を張り裂きそうに跳ね回る心。全てをねじ伏せて、前に。
お願い、スーさん。もう少しだけ、力を貸して。
途方も無い時間がかかった気がした。それでも、私はその館の前まで辿りついた。
前には進めなかったのに、今にも振り向いて走り出しそうな足を縛り付けて。
扉を、叩く。
「……誰よ」
返事はすぐだった。どこまでも疲れ果てて、今にも倒れそうな声だった。
倒れそうな身体を支えて、扉が開くその様を見守った。
その向こうから姿を現した、私より幾らか年上に見える少女は酷い有様だった。
服は汚れ破れ乱れきって、裾は泥とかぎ裂きだらけ。髪は荒れ身体は擦り傷だらけ、目の下にはくっきりと不眠の証が見えていた。
それを見て、わからないわけがなかった。わかりたくなかった。けれど、判ってしまう。
彼女は、上海を愛してくれてる。きっと私なんかよりも、ずっと。
だから、顔なんてもう上げられなかった。頭を下げ、上海人形を差し出す。
受け取った彼女が驚愕の表情を作ったのは見なくてもわかった。
「これ……! 貴方、」
「ごめんなさい!」
言葉をかき消すように叫んだ。そうしたら、止まらなかった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
頭を下げたまま、私は後ろに下がり、そのまま駆け出した。
後ろで彼女が何かを言っていた。でも、私には自分の叫び声しか聞こえなかった。
そのままどこまでも離れていく。道なんてわからないまま、闇雲に駆けた。
「痛っ」
足が木の根をひっかけ、身体が地面を擦って止まる。そうしたら、もう立ち上がれなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
ああ、謝れなかった。彼女に伝えられなかった。
全部悪いのは私です、と。私の弱さで。傷付けたのは私の仕業なんです、と。
でも、限界だった。もう心は限界だと訴えていた。
その心が大きな声をあげていた。
なんて言っているのかはわからないけれど、きっと同じ事をしているのだと思う。
人形には、涙は無い。乾いた瞳は硝子玉で、これ以上乾く事も潤す必要も無いからだ。
だから、人形は泣かない。泣いたりしない。
だからこの頬を濡らす雫は、きっと鈴蘭を濡らす露なのだ。空が流した雨の雫なのだ。
雨が、やんだ。虹は、きっと出ていたと思う。
私は、鈴蘭畑にいた。胸元には誰もいない。
「また、一人になっちゃったー……」
苦い溜息が飲み込めず、結局吐き出した。そよかな風に鈴蘭が揺れる。
「人形解放も、心の勉強も、また一からやりなおさないといけないね、スーさん」
あの苦い思い出を、忘れないために。
結局あの後、そのままの姿勢で気絶していたようで、目を覚ますと泥だらけだった。
惨憺たる気持ちで何度も迷いながら鈴蘭畑に戻り、どうにか休むので精一杯だった。
そう。私の人形解放活動一回目は、無残にも失敗に終わったのだ。
「おーい、メディ~」
「あ、てゐ」
一人で反省していると、懐かしいような声が聞こえた。
三日と経っていない筈なのに、もうずっと会っていないような気持ちとは、こんな気持ちなのだろうか。
不思議な郷愁に浸っているうちに気付くと、彼女は珍しく花畑の中まで近寄ってきていた。
そして、私の目の前まで来ると、更に珍しくも突然、頭を下げた。ちょっとびっくりした。
「ごめん」
「な、何よ、てゐ?」
「昨日の事、永琳に聞いたの。私が変なこと言ったから……」
「え、ちょっとやめてよ。そんな、大丈夫だって」
慌てて元気をアピールする。ちょっと落ち込んだりもしたけど、大丈夫よ?
「メディがそんなに大変なことになるなんて思ってなかったし。
謝らないと気がすまないよ」
「謝って貰わなくても大丈夫だって。
だって、いい事もあったもの」
「本当?」
恐る恐る、というふうに身体を起こす彼女に私は笑いかけた。
今日の朝、目を覚ましてから、いや、森の中で目を覚ました時からずっと考えていた。
私が今回やってしまった事。そして、やらなければいけない事。
知らなかった事。知らなければいけない事。
「そうよ。私は私が思ってる以上に物を知らないんだって、やっと理解できたの。頭だけじゃなくて、心で」
胸を押さえる。そこは少しの間、友達になりたくて、でもなれなかった彼女がいた場所。
「私、これからも人形解放を目指すわ。口だけでも行動だけでもなく、ちゃんとした意味で。
辛い思いをする人形を助けて、そして、幸せな思いをする人形と友達になるの。
人形たちみんなが、幸せな思いを分かち合えるように。辛い思いをする人形がいなくなるように。
力ずくじゃなくて、言葉を使うわ。悲しい行き違いが起きないように」
苦い思い出を、風化させないように。声に出して、私の心に刻み込む。
そんな私の様子を見て、彼女もようやく信じられたのか、垂れ下がっていた耳をぴょこりと立ち上げた。
そして、うってかわって笑顔で言うのだ。
「あー良かった。永琳に怒られちゃってさ、ちゃんと謝ってきなさいー、って。
もう、すっごく怖くってさー。本当にあんな事しなきゃ良かった」
「もう、そんな事だろうと思ったのよ」
二人でくすくすと笑う。そして、思い出した。言わなきゃいけない事。
「ねえ、てゐ」
「ん?」
「ありがとね。てゐは前から気付いてたのね。私のやり方じゃ駄目だったって事。
あの時言ってくれたのは、私を心配してくれたからでしょう? だから、ありがとう」
そういうと、今度は照れたようにそっぽを向いてしまった。あら、本当に珍しい。
「まあ、……友達だし?」
「友達?」
「そう。友達。あれ、違ったっけ?」
言われて初めて気が付いた。ずっと気付かなかった。
ああ、なんて間抜けだったんだろう!
そうだ、彼女はずっと友達だったのだ。私がそうだと知らなかっただけで。
そうと判っただけで、途端におかしくなってきた。ずっと悩んでいた事が、簡単な事に思えてきたからだ。
「ど、どうしたの?」
「あのね」
くすくすと笑いながら言おうとして、やっぱりやめた。
「ちょっと、どうしたの? 気になるなあ」
「いいのよ、もう」
だって、友達だから。友達になってくれてありがとうなんて、今更言えないでしょ?
二人でひとしきりじゃれて、少し疲れてきた所で並んで花畑から少し離れた所に腰掛けた。
こうしないと毒に中てられて、てゐがすぐに倒れてしまうからだ。最近、やっとそんな気遣いが出来るようになった。
「で、本当に大丈夫?」
「え、何が?」
「昨日の事。色々大変だったんでしょ?」
言われて、そんな事ないと首を振った。だって、
「私は逃げ出しちゃったから。まだ大変な事は残ってるのよ、実は。だからまだそんな事無いの」
「そなの?」
「そう」
言って、ふと思いついて私は立ち上がった。そして、手を口に当てて、鈴蘭畑一杯に響くように。
「スーさん、あのねーっ!」
隣でびっくりしたように目を丸くする彼女に笑いかけて。
この雨上がりの空と、未だ露の滴る鈴蘭と、親愛なる友人に。約束をしよう。
「私ね、絶対にまた謝りに行くわ! それで、今度こそ! あの娘と仲良くなるの!」
きっと心配で疲れきっていたんだろう、あの人形遣いに。今度こそ、真正面から。
そして叶うなら、いや、赦して貰えるまで頭を下げたっていい。何をしたっていい。
必ず、あの上海ともう一度会って、そして言うのだ。
友達になって、と。たとえ意思がまだ無いとしても。
だって、それが礼儀でしょう?
「絶対なんだから、約束するから! スーさん、お願いだから私をずっと見ててねーっ!」
鈴蘭畑が、優しく頷くように、風に揺れた気がした。
「ねえ、てゐ?」
「なにメディ」
「お友達を作るってどうすればいいのかしら」
私は尋ねる。それは一番の悩み事。
閻魔に叱られて以来、私は将来の人形解放に向けて、心を知るための勉強を始めた。
心を知るために、まずは他者と関わらなければならない。でも、実際問題それってどうすればいいのかしら?
「さあ~? よくわかんないけど、そうねえ、あっちの方に行くといいって聞いたわ」
「誰に?」
「通りすがりの親切な兎に」
彼女はいつものように、あからさまに嘘臭い言葉で煙に巻く。聞いた相手が間違ってるのかしら?
「嘘ね」
素っ気無く指摘してあげるも、しかしぬけぬけと笑顔で彼女は頷く。
「まあ嘘だけど。行かないの?」
「えー、嘘なんでしょ?」
「でもほら、出かけなきゃ何も起きないじゃない」
「ううん、そうなんだけど」
それは前から思っていた事だ。鈴蘭畑に篭っているばかりでは駄目なのだ。
……でも、スーさんから離れるのはまだちょっと慣れないから怖いし。
「だったらほら、丁度いいじゃない。思い立ったが吉日って言うし」
「軽く言うわね。だったらついて来てよ」
「あれー、怖いの?」
「そんな事ないわよー。ちょっと慣れてないだけで」
嘘じゃないわよ。毒さえあれば何も怖くなんてないんだから。……毒さえあれば。
そんな少しだけ弱気になっている私を、しかしてゐは平然と突き放した。
「まあ無理だけどね。えーりんにお使い頼まれてるから」
「……嘘じゃないの?」
「ホントホント。毒をちょっと分けて貰ってくるようにって」
そう言って先程分けてあげたスーさんを見せてくれた。
「もう、だったらいいわよ。一人だって問題なく行けちゃうんだから」
「そうそう、その意気。応援したげるから頑張ってー」
手を笑顔で軽くぶらぶらさせる彼女に溜息をついて、仕方なく出かける事にした。
「じゃあスーさん、ちょっと出かけてきますね」
風にざわざわと揺れる鈴蘭畑に別れを告げて、
「で、どっちに行くといいって言ってたかしら?」
「あれ、信じるの?」
「景気付けよ。どうせアテなんてないし」
そう言うと彼女はきょろきょろと辺りを見回して、
「あっちね」
自信満々に指差したのはさっきと逆の方だった。やれやれだわ。
そして飛ぶ事暫し、気が付けばそこは鬱蒼とした森の中。
「怖くない、怖くない」
どきどき。
毒の花どころか、普通の花さえ見当たらない妙な森。あるのはキノコくらいのもの。
動物の姿も見かけないし、人間なんていうまでも無い。こんな場所には人形もないんでしょうね。
慣れない場所に神経は磨り減るし、歩いてても楽しくないし、今日はもう帰っちゃおうかしら。
いつもの遠出からすれば、かなりの記録更新だし。
何より、本音を言うと。
実は自分がどれくらい動けるのかわかっていない事、それが怖い。
スーさんからずっと離れても大丈夫なのか。それともいつか蓄えた毒が切れるのか。切れるとすれば、それはいつの事なのか。
いつも鈴蘭の花畑に生き、咲かない時期は土中に残る毒素で細々と暮らしている自分は、まだ限界を知らない。
終わりが来たら、どうなるのだろうか。
「うーん……そろそろ帰っちゃっていいんじゃないかしら」
まだちょっと慣れないし。うん、慣れないだけだから、また少しずつ慣らしていけばいいと思うの。だって時間はたっぷりあるもの。
そうと決まれば、と振り返ろうとしたところで、薄暗い森に似合わない金色の光が視界の端を掠めた気がした。
「?」
花が咲かず動物を殆ど見かけないために、例外なく蒼と緑と暗闇で占められた森の中にあって。
微かに見えた金と赤の色彩はいつも以上に目を引いた。
ついでに興味も引かれたので、視界を遮る茂みをかき分け向こう側を覗き込む。と、そこには、
「わー」
金糸の髪を赤いリボンで飾り、シンプルなエプロンドレスを着た、少女のような、
「わーわー。こんなところで人形に会えるなんて!」
それは確か人形だった。同じ人形の身体を持つ私でなくても、人にありえざる大きさや比率のその姿を見れば誰だってわかるだろう。
その人形は一人、薬草を抱えて飛んでいた。どうやら薬草集めのために使役されていたらしい。
「……もしかして、これは」
言うまでもなく、チャンスだった。主の姿は近くにない。
使役される人形がただ一体でうろつく状況に遭遇できる機会はあまり多くはないだろう。
私には夢がある。
それは、人間によって一方的に愛情と言われながら使役され、用が済めば、いや、飽きれば捨てられる人形たちを一つでも多く、人間の手から解き放つ事だ。
本来は独りよがりな解放運動から、人形たちの納得・協力を得るために、他者とのコミュニケーションを練習中だった訳なのだが。
というかまだ、どうすれば何を学べるのかはっきりと理解していない訳なのだが。
それはそれとして、今まさに使役されている人形を目にして、放っておく事が出来るだろうか。いや、出来ない。
と、いう訳で。
「ねえ、あなた!」
呼びかけても、返事がない。もしかすると、まだ自分の意思がないのかしら。
「でも、もう大丈夫よ。私が助けてあげるからね!」
森の向こうへと飛び去ろうとする人形を、抱きしめるようにして捕まえようとする。
「わっ」
びゅん、と脇の下を魔力弾が抜けていった。
危なかった。多分、主の命令による防御行動なのだろう。運良く当たらなかったが、うっかりすると凄く危険だったかも。
「大丈夫大丈夫、怯えなくてもいいのよ」
しかしそこは近くに主人のいない繰人形、威嚇以上の攻撃にはなりえない。
私は十分に注意しながら、彼女を今度こそ捕まえた。
じたばたと微かな力で抵抗するが、流石に圧倒的な体格差はひっくり返せないようだった。
「あ、これが糸ね」
そうやって暴れる背中に、微かに見えた魔力の糸。これがきっと、彼女を縛る鎖なのだろう。
その時はそう思った。だから、私はこれを迷わずに断ち切った。幸い、魔力さえ捉えられればそんなに強い糸ではなかったし。
「これで、あなたの主に無理矢理持っていかれる事はないわよね」
嬉しくて、笑顔で彼女の顔を覗き込んだ。けれどその無機質な顔は、糸が切れた今もじたばたと暴れるままだった。
「あれー? おかしいなあ。自分で動けるのかな? それともよっぽど手の込んだ魔法とかで作られてるのかしら」
人形には詳しくても、魔法の知識のない私にはよくわからなかったので、とりあえず今日のところは帰ることにした。
思わぬ収穫もあった事だし。今度てゐにあったら、感謝してあげてもいいかもしれないわね。
そんなことを考える私の腕の中で、人形の彼女は今も、小さな身体でもがき続けていた。
スーさんのところに戻った時には、思ったよりも時間がかかっていて既に日も暮れようという時間だった。
「ここが私の場所よ。スーさんはとっても優しいの。素敵でしょ?」
連れ帰った人形に、私は満面の笑みで伝える。きっと彼女も喜んでくれると、そう思ったから。
けれど彼女は何も言わない。自分で動く事が出来る人形は初めて見たけれど、逃げるためにしか動かない。
「……むー」
それが、ちょっとだけ不満だった。折角自分で動けるのに、どうして自分で生きようと思わないのだろう?
私には、何もわからなかった。だから、きっと騙されているんだろうと思った。ううん、そう、信じた。
「そうだ。私の考えてる事、聞いてくれる? 私、人形たちを助けたいの!」
まだ、説得したり共感を得るためにはどうすればいいかわからなかったから、まずは私の気持ちを伝える事にした。
誰かが言っていたもの。相手と仲良くなるためには、自分をわかってもらうのがいい、って。
離せば逃げてしまいそうな彼女を抱えて、私はスーさんの真ん中に倒れこむ。
そして、私の生まれた時から、色んなあった事、思った事を話し続けた。
人形の私たちに、眠りは必要ないから。
その日は、綺麗な月夜だった。
「うーん、どうしてかしら」
私はまだ困っていた。彼女が、自分で動けるのに話す事が出来ないようだったからだ。
彼女が私に賛成してくれるのか、それとも反対するとして、どうしてそう思うのかがわからない。
これでは経験にならない。もっともっと勉強して、一杯の人形たちを人間達から解き放つお手伝いをしてあげたいのに。
「こんなに毒は一杯あるのにねえ、スーさん?」
勢いに乗って彼女を連れ帰ってしまったけれど、これからどうしていいのかわからない。
だから閻魔はもっと経験を積めって言ってたのかしら?
「やっほー、メディ~」
「あ、てゐー」
鈴蘭畑の端で、てゐが手を振っているのが見えた。手を振り返す。
余談だが彼女は、以前ここで体調を崩したのが余程悪い体験だったのか、花畑の中にまで入ってこない。
スーさんはこんなに優しいのにねえ。勿体無いわね、スーさん。
と、今日は昨日と違い、もう一人、背の高い人影が見えた。あれはきっと永遠亭の薬師だろう。
「あれ、珍しい」
立ち上がり、二人の方へ歩いていく。もちろん、胸にはあの人形を抱いてだ。
「こんにちは、メディスン。お邪魔するわね」
「うん、いらっしゃいませ」
ぺこり、と挨拶をする。彼女とは比較的、毒を通じて深い付き合いだ。いいお客様でもあるし、大事にするに越したことはない。
「今日はどうしたの? いつも鈴仙とかてゐに取りに越させるばっかりなのに」
尋ねると、彼女はいつものように朗らかに、でもどこか突き放す笑顔で笑って答えた。
「たまには外に出ないと、身体に悪いでしょう?」
「えーりんがそんな事言っても説得力ないけどね。死なないし」
からからとてゐが笑って言い、それに怒る様子もなく流す姿もいつものままだ。私も少し笑う。
彼女は人間だけど、死なないらしい。理由は良く知らないけれど。
ばらばらになってもすぐに元に戻るらしい。首をとっても簡単に戻せるらしい。
彼女はとても綺麗だ。出来すぎているくらいに。
だからというわけでもないけれど、私には、彼女が人形とどれほど違うのかがよくわからない。
血肉が人間の証なのだろうか? 血肉で作った人形は人間と違うのだろうか?
意思があり、自分で動く事が出来る私には、よく、わからない。
いつも会うたびに思う、不思議な思考に浸っていると、てゐが目ざとく私の抱く人形に目を付けた。
「あれ、それって魔法の森の人形遣いのじゃない? どしたの、それ」
「あら、本当ね。手放すとは思えないし、どうしたのかしら?」
どきり、とした。
魔法の森の人形遣い。この人形の、『持ち主』を示す言葉。
今、この人形が手元になくなった事に気付いているだろう誰かの名前。
なくなった事を悲しんでいるだろうか。それとも、もう別の人形で満足しているのだろうか。
嫌な人間ならいい。きっと、この胸をちくりと刺すこの棘も、和らぐだろうから。
私は胸の痛みを押し隠すように、笑いながら答えた。
「昨日、てゐに言われて遊びに行ったじゃない。そこで拾ったのよ。お友達になるの。
そうそう、昨日はありがとね。お陰でこんな素敵な人形を助けてあげる事が出来たわ」
そう答えると、彼女は凄く微妙な顔をした。どう、とは言えないけれど。
しかしすぐに表情を変え、彼女はまた笑顔になった。天真爛漫に見える笑顔。
「どういたしまして。良かったね~。でも、助けるってその後どうするの?」
「決まってるじゃない。説得して、人形解放に協力してもらうのよ」
「でも拉致監禁して説得って、説得力なくない?」
「うー、そうなんだけど……」
でもあのまま放って置けるわけないじゃない……。
言葉を詰まっていると、永琳がついでとばかりに指摘した。
「それに、その人形は説得しても無駄よ。あなたと違って意思はないし」
「でも、自分で動いてるよ?」
今ももぞもぞと動く彼女を示すと、永琳は首を横に振った。
「それは多分、自律用の式が組んであるんでしょう。魔力で動いているだけだし、そんなに複雑な行動はとれない筈よ。
今も振りほどくんじゃなく、ただ主人の下に戻ろうとしているだけでしょう?」
「……そっか」
ちょっと残念だった。もしかしたら、話を聞いてくれる人形にやっと会えたかもしれないと思ってたから。
「あ、そうだ。ねえ、この子って自分で動けるんだから、少し毒を染み込ませてあげたらすぐに私みたいになれるんじゃないかしら。
他の人形は上手くいかなかったけど、この子なら上手くいく気がするの!」
そう言うと、永琳は少し鋭い目をして――――あれ、気のせいかしら?
「そうね、そうかもしれないわね。ところでごめんなさい。今日は用事があるの。
早く帰らなければいけないから、そろそろ今日も少し毒を分けてもらえるかしら」
「いいけど……?」
変わらない笑顔で言われた言葉に、内心少し首を傾げる。突然どうしたのかしら?
そんな不思議顔をしているだろう私を置いて、会釈して離れていく永琳を眺めていると、てゐが口を開いた。
「ねえ、どうして人形解放を目指してるんだっけ?」
「何度も言ったじゃない。いいように使われて辛い思いをする人形たちを、人間の手から解き放つためよ!」
自明の理とばかりに幾度となく繰り返した言葉を言う私に、しかし彼女はいつものように笑ってくれなかった。
むしろどことなく醒めた声で、どうでもいい事を語るような口調でぽつりと呟いた。
「どうして辛い思いをするのか、したのか。メディは覚えてるの?」
「え……?」
思わず声が漏れた。理由はわからないけど、何か大切な事を言われたような気がした。
一瞬、雰囲気が重く変わったのを厭うかのように、一転して彼女は破顔一笑して茶化した。
「まあ、じょーだんだけど。大切にしてあげるならいいんじゃない?」
あはは、と誤魔化すように笑い、ごめん行くね、と言って永琳の方に駆け出した彼女を、私は慌てて呼び止めた。
「ねえ!」
「んー? なーに?」
振り返った彼女に尋ねる言葉を捜そうとして、それが見つからない事に焦る。
何かを、尋ねなければいけなかった。何かを。
でも、わからなかった。だから、適当な質問で誤魔化す。胸に宿る焦燥をかき消すように。
「この子の名前、あなたは知ってる? 呼ぶ名前がなくて不便なの」
「えっとね、確か……上海、とか呼ばれてたと思うよー」
「ありがとー」
少しだけ悩むそぶりを見せた後、一つ頷いて教えてくれた彼女にお礼を言って、駆けていく彼女を見送る。
胸に抱えた人形が、少しだけ揺れた。
その晩、名前が上海と判明した彼女とスーさんの真ん中で遊ぶ。
この鈴蘭の花園の中で私は生まれた。毒で満たされて、この心を手に入れた。
だから、彼女もきっと、毒で満たせば話せる様になる。だって、もう彼女は動き出しているのだから。
スーさんの毒は心の毒、足りないものを補うものなのだから。
「楽しみね、スーさん。きっと、もうすぐお友達が出来るわよ。この子ね、上海って言うんだって」
コンパロコンパロと呟きながら、鈴蘭の花びらを上海に飾るように振りかけた。
宵闇の中、金糸の髪が月明かりに照らされて綺麗だった。
「いつになれば話せるようになるかしら。明日かしら、明後日かしら」
一月後でも、一年後でも。人形の私たちには関係ない。きっと、それはいつか必ず来る未来。
なら、いつまでだって待ち続ける。
「その時まで、一緒にいてね、スーさん」
くすくすと笑いながら、広い鈴蘭畑に寝転ぶ。ここが私の場所。
生まれる前からずっと転がっていたせいで、避けるように咲いた鈴蘭で跡がついてしまっている場所。
「ああ、明日がこんなに楽しみなのは久しぶりね」
今日は休もう。昨日から少しはしゃぎすぎたし。
それに、彼女が目を覚ますまでに、ばててしまうわけにはいかないもの。
鈴蘭の毒を一杯に受けるよう、抱きしめられた上海人形。
月明かりの下、眠る少女の上、自身も休むようにただ静か、止まったまま。
異変は翌朝から始まった。まっくらな朝、雨の降る日。
「ねえ、上海? どうしたの?」
語りかけて返事があるとは、まだ思っていなかった。
時間があるのだから、いつまでだって待つつもりだったから。
でも、こんな事になるなんて想像してなかった。
「おかしいわ、スーさん。どうして動かないのかしら」
あんなにもがくように、いつまでも帰り道を探していた彼女。
意思は無かったけれど、いつか心を得ることが出来ると思わせた、自然な身体の動き。
それが無い。動かない。手を離せば倒れてしまう。立ち上がらない。
「どうして、どうして、どうして?」
焦燥が募る。何かいけない事をしてしまっただろうか、何か大変な事が起きているのだろうか。
鈴蘭の花をかぶせる。私と同じように、毒が満ちれば動き出すんじゃないかと思って。
けれど降りしきる雨に服を濡らすまま、彼女は眠り姫のように動かない。
「どうしよう、どうすればいいだろう」
言葉だけが漏れる。思考が上滑りする。どうしよう、どうしよう。
「助けてよ、スーさん……。誰でもいいから、ねえ」
助けたかっただけなのに。いつか使い捨てられてしまう人形たちを、自由にしてあげたかっただけなのに。
そこまで考えて、いつかの言葉を思い出した。
『人形が解放されたら、誰が人形を創る?』
人形を創る、だけじゃない。私には、毒以外の知識が殆ど無い。
壊れた人形を直す事も、破れた布を繕う事も出来ない。
本当だ。何も考えてなんか居なかった。考えたつもりになっていただけだ。
どんなに解放を叫んでも、私には彼女を救う手段が無い。
雨が降る。厚い雨雲に覆われ、大地は暗闇に満ちている。
何をすればいいのか、何処に行けばいいのか。道が見えない。
どうしよう。その一言が頭をぐるぐる回る。どうすればいいのかわからない。
このまま座り込んでいて、どうするんだろう。どうにかなるのだろうか。
「やっぱり、持たなかったのね」
跳ねるように振り向く。この声は、
「心配になって様子を見に来てみれば、予想通りなんてね」
「永琳!」
叫びのような声が口から溢れた。
上手く力の入らない足を無理矢理動かし、傘をさし背後に立つその姿に飛びつくようにすがりついた。
「永琳、これがどういう事かわかるの? ねえ、医者なんでしょ? 直せないの、ねえ!?」
「落ち着きなさい」
彼女の手が、ぽんぽんと肩を叩いた。胸に膨れ上がり続ける不安が、少しだけ落ち着いた気がした。
そして落ち着いたその姿に、希望が見えた気がした。だから、少しだけ、離れる。
胸の中に抱きかかえた、動かない上海人形に向かって彼女は手を差し出した。
「ごめんなさい、少し見せて貰えるかしら?」
「……直せる?」
渡しながら、尋ねた言葉に応えは無く、無いはずの心臓が胸を叩く音さえ聞こえる気持ちで立ち尽くす。
仔細に裏から表から、人形を検分する瞳が、こちらを見据えた。
「どうなの?」
視線の強さに負けない様、ぐっと腹に力を入れ、身体の中のスーさんを確かめるようにしてもう一度尋ねる。
無言で人形が返された。胸に抱きしめると、溜息と共に彼女は喋り始めた。
「簡潔に言うわね。そのままではその人形は二度と動く事はなくなるわ」
「どうして!」
覚悟なんてない。心が散々に乱れる。胸が騒ぐ。
――――私は、怖い。私のせいで彼女が動かなくなる事が、ではない。
助けたいと思った、この思いが嘘になってしまう事が、怖い。
それとも、これも自分のためなのだろうか? 自分勝手な人間のように?
「……昨日、帰ってから調べてみたのよ。少し心配だったから。
人形を動かすには、幾つかの方法があるの。本物の糸を使うのが一番基本となるやり方」
「それが!」
「聞きなさい」
叫んだのは私、むしろ静かな口調なのに。気圧されて、私は口を閉ざした。
彼女は間違わない。とても頭がいい。だからきっと何か意味があるのだ、何かが。
「そして糸を魔力に変えて、指ではなく意思で動かすのが人形遣いの業。けれど、それだけでは効率が悪い。
だって見ていなければ制御できないし、一つ一つの動作を指示してやる必要がある。
だから、人形遣いは式を創る。人形に魔力を込め、法則を刻む。
術者の一つの指示に応じて、決められた一連の行動を取るように」
雨が服を濡らし、今の心のように身体を重くしていく。
雨音だけが響く中、永琳の講義は続く。
「丁寧に丁寧に、微調整を繰り返しながら魔力を馴染ませていく。さながら全身に神経を行き渡らせるように。
完成した人形は、人間にも劣らない精緻で多彩な動きを取れるようになるというわ。
その人形は、その域に十分以上に達しているわ。よほど心を込めて創ったんでしょうね」
「……それが、どうなるの?」
「魔力そのものを付与するんじゃないの。式を創るために魔力を刻むのよ。
そして、魔力はそれ自身では存在を保持する事は出来ない……。
その人形はね、身体に込められた魔力が切れかけて、神経の維持のために休眠状態にあるの」
「だったら……!」
希望が見えた気がした。思わず明るい声が漏れた。
「魔力を込めて貰えば、この子は元通りになるのね?」
「駄目よ」
そんな希望を、一言で斬って捨てた彼女は、無表情で言葉を繋げた。
「言ったでしょう? 神経を行き渡らせるように、と。
術者のためだけに創り込まれた人形は、術者以外の魔力を受け付けない。
拒絶反応が出るわけじゃないわ。けれど、けして動かない」
そして、と彼女は言った。
「魔力が尽き、維持できなくなった神経は崩壊する。
そして壊れた魔力の刻印は人形の中に傷跡を残す。
そうなれば二度と、同じように魔力を刻む事は出来なくなるでしょう。動く事もなくなる」
魔力。彼女を捕まえた時、その背中に続いていた魔力の繰り糸。
もしかして、あれは、彼女を縛る『鎖』ではなく。
彼女を生かす、『生命線』だったのではなかったろうか。
動揺する私を無視して、永琳は一拍の躊躇いも無く言葉を続けた。そして、
「そのままでは、その人形は『死』ぬわ」
放たれた言葉は私の胸を容赦なく切り裂いた。
力が抜け、ぺたりと座り込んだ私を永琳が見下ろす。
さあさあと音を立てて、雨は降り続いていた。
「……ねえ、永琳……」
「なにかしら」
少しだけ、呆けていたらしい。時間の感覚がない。そんなにたっては居ないと思うけれど。
その間も待ってていてくれたらしい彼女に、私は問いかけた。
「もう、手は無いの?」
「あなたは、もうその答えを知っているでしょう?」
問われて、一つだけわかる解答を思う。それは、一番簡単な方法。そして、一番怖い方法。
でも、私は考えた。凍りついた思考の中、精一杯考え続けた。
私は、上海を助けたいと思って連れて来た。それは間違いない。
『貴方は少し視野が狭すぎる』
けれど、結局は傷付けただけだった。いや、それだけじゃない。
上海を傷付け、持ち主と彼女を引き離し、無理矢理に縛り付けていた。
『他人の痛みが判らない魂に、協力してくれる魂など無い』
相手の心の痛みを想像する事、出来るようになる事が大事なんだと思った。
だから、彼女を心配した。でも、その想像が間違いだったら?
『どうして辛い思いをするのかしたのか、メディは覚えてるの?』
それは想像なんて物ではなかった。単なる妄想に過ぎなかった。
忘れていた。辛いのは人間に使われているからじゃない。一緒に居たいのに、捨てられてしまう事だ。
忘れてしまっていた事。自分勝手に思い出を捻じ曲げて。
だから一方的に心を押し付け、彼女たちを傷付けた。
まるで、私が嫌う身勝手な人間のように。
私が自分の事、自分の目でしか考えていなかったから。あんなに閻魔に言われたというのに。
だから、私は謝らなければいけない。私が思う、身勝手な人間がしなければいけないように。
だから。勇気を振り絞って、尋ねなきゃいけないのよ。
「永琳」
無言で見やる視線の強さ――――違う、これは私の心の弱さだ。
私の身体を竦ませる、恐怖。だから、負けられない。負けてはいけない。責任を果たすために。
大きく息を吸って、尋ねた。
「人形遣いの家の場所を教えて」
濡れそぼち、重い身体を引きずって、魔法の森を駆け抜ける。
大切な宝物を抱えるように、何よりも恐ろしい爆弾を抱えるように、彼女の身体を胸に抱いて。
スーさんから離れ、慣れない場所を行く恐怖。そんなもの、今は怖くもなんとも無い。
それよりも、ずっと怖い事が待っているから。
これから私は、私が傷付けた人に会いに行くんだ。例え怒られ、殴られ、詰られようとも。
赦して貰えなくても、友達になりたかった彼女を救う為に、頭を地面に擦り付けてでも。
頭の中は真っ白だった。膝は震え、今にも上海を取り落としそうになっていた。
ただそれでも、今は謝らなきゃいけないと、それだけを考えていた。そのために全身の力を振り絞った。
それでも、永琳に言われたままの洋館が木々の合間に見えた時、動けなくなった自分が本当に情けなかった。
「動け、動け、動きなさい!」
飛び上がる力が絶えても、地面を踏みしめる力が萎えても。
私はあそこに行かなきゃいけない。一歩ずつ、歩いて。
「うううーっ」
がんがんと揺れる頭、胸を張り裂きそうに跳ね回る心。全てをねじ伏せて、前に。
お願い、スーさん。もう少しだけ、力を貸して。
途方も無い時間がかかった気がした。それでも、私はその館の前まで辿りついた。
前には進めなかったのに、今にも振り向いて走り出しそうな足を縛り付けて。
扉を、叩く。
「……誰よ」
返事はすぐだった。どこまでも疲れ果てて、今にも倒れそうな声だった。
倒れそうな身体を支えて、扉が開くその様を見守った。
その向こうから姿を現した、私より幾らか年上に見える少女は酷い有様だった。
服は汚れ破れ乱れきって、裾は泥とかぎ裂きだらけ。髪は荒れ身体は擦り傷だらけ、目の下にはくっきりと不眠の証が見えていた。
それを見て、わからないわけがなかった。わかりたくなかった。けれど、判ってしまう。
彼女は、上海を愛してくれてる。きっと私なんかよりも、ずっと。
だから、顔なんてもう上げられなかった。頭を下げ、上海人形を差し出す。
受け取った彼女が驚愕の表情を作ったのは見なくてもわかった。
「これ……! 貴方、」
「ごめんなさい!」
言葉をかき消すように叫んだ。そうしたら、止まらなかった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
頭を下げたまま、私は後ろに下がり、そのまま駆け出した。
後ろで彼女が何かを言っていた。でも、私には自分の叫び声しか聞こえなかった。
そのままどこまでも離れていく。道なんてわからないまま、闇雲に駆けた。
「痛っ」
足が木の根をひっかけ、身体が地面を擦って止まる。そうしたら、もう立ち上がれなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
ああ、謝れなかった。彼女に伝えられなかった。
全部悪いのは私です、と。私の弱さで。傷付けたのは私の仕業なんです、と。
でも、限界だった。もう心は限界だと訴えていた。
その心が大きな声をあげていた。
なんて言っているのかはわからないけれど、きっと同じ事をしているのだと思う。
人形には、涙は無い。乾いた瞳は硝子玉で、これ以上乾く事も潤す必要も無いからだ。
だから、人形は泣かない。泣いたりしない。
だからこの頬を濡らす雫は、きっと鈴蘭を濡らす露なのだ。空が流した雨の雫なのだ。
雨が、やんだ。虹は、きっと出ていたと思う。
私は、鈴蘭畑にいた。胸元には誰もいない。
「また、一人になっちゃったー……」
苦い溜息が飲み込めず、結局吐き出した。そよかな風に鈴蘭が揺れる。
「人形解放も、心の勉強も、また一からやりなおさないといけないね、スーさん」
あの苦い思い出を、忘れないために。
結局あの後、そのままの姿勢で気絶していたようで、目を覚ますと泥だらけだった。
惨憺たる気持ちで何度も迷いながら鈴蘭畑に戻り、どうにか休むので精一杯だった。
そう。私の人形解放活動一回目は、無残にも失敗に終わったのだ。
「おーい、メディ~」
「あ、てゐ」
一人で反省していると、懐かしいような声が聞こえた。
三日と経っていない筈なのに、もうずっと会っていないような気持ちとは、こんな気持ちなのだろうか。
不思議な郷愁に浸っているうちに気付くと、彼女は珍しく花畑の中まで近寄ってきていた。
そして、私の目の前まで来ると、更に珍しくも突然、頭を下げた。ちょっとびっくりした。
「ごめん」
「な、何よ、てゐ?」
「昨日の事、永琳に聞いたの。私が変なこと言ったから……」
「え、ちょっとやめてよ。そんな、大丈夫だって」
慌てて元気をアピールする。ちょっと落ち込んだりもしたけど、大丈夫よ?
「メディがそんなに大変なことになるなんて思ってなかったし。
謝らないと気がすまないよ」
「謝って貰わなくても大丈夫だって。
だって、いい事もあったもの」
「本当?」
恐る恐る、というふうに身体を起こす彼女に私は笑いかけた。
今日の朝、目を覚ましてから、いや、森の中で目を覚ました時からずっと考えていた。
私が今回やってしまった事。そして、やらなければいけない事。
知らなかった事。知らなければいけない事。
「そうよ。私は私が思ってる以上に物を知らないんだって、やっと理解できたの。頭だけじゃなくて、心で」
胸を押さえる。そこは少しの間、友達になりたくて、でもなれなかった彼女がいた場所。
「私、これからも人形解放を目指すわ。口だけでも行動だけでもなく、ちゃんとした意味で。
辛い思いをする人形を助けて、そして、幸せな思いをする人形と友達になるの。
人形たちみんなが、幸せな思いを分かち合えるように。辛い思いをする人形がいなくなるように。
力ずくじゃなくて、言葉を使うわ。悲しい行き違いが起きないように」
苦い思い出を、風化させないように。声に出して、私の心に刻み込む。
そんな私の様子を見て、彼女もようやく信じられたのか、垂れ下がっていた耳をぴょこりと立ち上げた。
そして、うってかわって笑顔で言うのだ。
「あー良かった。永琳に怒られちゃってさ、ちゃんと謝ってきなさいー、って。
もう、すっごく怖くってさー。本当にあんな事しなきゃ良かった」
「もう、そんな事だろうと思ったのよ」
二人でくすくすと笑う。そして、思い出した。言わなきゃいけない事。
「ねえ、てゐ」
「ん?」
「ありがとね。てゐは前から気付いてたのね。私のやり方じゃ駄目だったって事。
あの時言ってくれたのは、私を心配してくれたからでしょう? だから、ありがとう」
そういうと、今度は照れたようにそっぽを向いてしまった。あら、本当に珍しい。
「まあ、……友達だし?」
「友達?」
「そう。友達。あれ、違ったっけ?」
言われて初めて気が付いた。ずっと気付かなかった。
ああ、なんて間抜けだったんだろう!
そうだ、彼女はずっと友達だったのだ。私がそうだと知らなかっただけで。
そうと判っただけで、途端におかしくなってきた。ずっと悩んでいた事が、簡単な事に思えてきたからだ。
「ど、どうしたの?」
「あのね」
くすくすと笑いながら言おうとして、やっぱりやめた。
「ちょっと、どうしたの? 気になるなあ」
「いいのよ、もう」
だって、友達だから。友達になってくれてありがとうなんて、今更言えないでしょ?
二人でひとしきりじゃれて、少し疲れてきた所で並んで花畑から少し離れた所に腰掛けた。
こうしないと毒に中てられて、てゐがすぐに倒れてしまうからだ。最近、やっとそんな気遣いが出来るようになった。
「で、本当に大丈夫?」
「え、何が?」
「昨日の事。色々大変だったんでしょ?」
言われて、そんな事ないと首を振った。だって、
「私は逃げ出しちゃったから。まだ大変な事は残ってるのよ、実は。だからまだそんな事無いの」
「そなの?」
「そう」
言って、ふと思いついて私は立ち上がった。そして、手を口に当てて、鈴蘭畑一杯に響くように。
「スーさん、あのねーっ!」
隣でびっくりしたように目を丸くする彼女に笑いかけて。
この雨上がりの空と、未だ露の滴る鈴蘭と、親愛なる友人に。約束をしよう。
「私ね、絶対にまた謝りに行くわ! それで、今度こそ! あの娘と仲良くなるの!」
きっと心配で疲れきっていたんだろう、あの人形遣いに。今度こそ、真正面から。
そして叶うなら、いや、赦して貰えるまで頭を下げたっていい。何をしたっていい。
必ず、あの上海ともう一度会って、そして言うのだ。
友達になって、と。たとえ意思がまだ無いとしても。
だって、それが礼儀でしょう?
「絶対なんだから、約束するから! スーさん、お願いだから私をずっと見ててねーっ!」
鈴蘭畑が、優しく頷くように、風に揺れた気がした。
個人的には、アリスに関してのことを詳しく見てみたいと思う。
あとがきのこととか、その後メディとどうなったとか。
最初の一歩で解ったのは運がいい、これもてゐ効果か?
これからも二人が仲良きよう。
是非に同時期のアリスサイドを!
余韻が残るラストなのにそれを打ち消しているのが勿体無い。