/さくらさくら
桜が、舞っていた。
幽々子の誇張ではあったが――二百由旬はある庭一面に存在する、数えるのも空しくなる程の桜の木々。妖夢が幻想郷中からかき集めた春によって、満開に咲き乱れていた、桜の花。
それらが一斉に散り、空中を舞っていた。
まるで、庭全体を、桜の花びらでできたドームが囲んでいるように。
その桜吹雪の舞う中、妖夢は地面に座り込み、呆然と目の前の光景に見入っていた。
今まで一度も見たことのない、西行妖の桜の花。つい先ほどまで、満開に限りなく近い数の花びらが咲き乱れていた。
『それは凄い桜だったが、もう二度と咲くことは無いだろう』
ふいに、かつての祖父の言葉が思い出された。
その時は、妖夢は幼すぎ、その意味が分からなかった。だが――今なら、十分に理解できた。
――あれは、危険すぎる――
自分の半分が幽霊でなければ、魂を持っていかれそうになるほどに、その桜は美しすぎた。
恐らくは、その桜の花びらでさえも、主である幽々子に似た特性――見るもの全てを、死に誘う力があるのだろう。
元々、西行妖にはその力があったのだ。それが、幽々子という媒介を得て、その力を存分に発揮するようになってしまった。――そう、妖夢や侵入者である三人が持ってきた春によって。
人や妖怪はおろか、幽霊でさえも、この場には数秒といられないほどの妖気と、むせ返るような、甘い死の香り。妖夢でさえも、この場に五分といられる自信がなかった。
だが、妖夢を退けた人間の三人は、突風のごとく走り、満開に咲く桜の花を、妖気を、死の香りを。そして、西行妖の花びらをも舞い散らし、吹き飛ばす。
留まることを知らぬように、ただひたすらに己が道を貫くように。
そして、一見不規則な三人の動きが、実はある法則にそっているようにも見えて――まるで流星の帯のようにその後を舞う、桜の花びらが。
そしてなによりも、その中にあって、負けず劣らず燦然と輝く人の姿が。
その光景を、妖夢はただただ、純粋に「綺麗だ」と感じて、
知らず知らずのうちに、妖夢は泣いていた。
幽々子が西行妖に取り込まれた時も、祖父であり剣の師匠でもあった妖忌が突然消えた時も、どんなに辛い修行の時も流さなかった涙が、堰を切ったようにあふれかえる。
「――――あ」
声を漏らす。だが、妖夢はそれが自分の声だと気付かなかった。
「ああ――」
嗚咽が漏れる。
その時になって、ようやく、妖夢は自分が泣いているのに気付いた。必死にこらえようとするが、涙は、止まらない。
そして、今まで以上に強烈な一陣の風が吹き、西行妖の桜の花びらが、すべて散った時――
「――――――――――――っ!!」
舞い上がる桜吹雪の中、妖夢は、枯れた喉から発せられるような自身の泣き声を聞きながら、人知れず泣いた。
後日、冷静に考えても、何故あの時泣いたのか、妖夢にはどうしても分からなかった。
/妖々夢
今年の秋は、外界では残暑が厳しいらしい、と、幽霊同士の話し声が聞こえてきたのは、庭の手入れをしている最中だった。
その何気ない会話に、妖夢は思わず手を止め、懐かしそうに目を細めた。
冥界とはいえ、昼と夜はあるし、勿論、季節もある。
だが、妖夢は幼い頃、季節の変わり目がよく分からなくなることが頻繁にあった。
四季を通じて、気温が一定以上上がりもしないし、下がりもしない地。だからこそ、季節の変わり目は桜の木か幽霊の話で判断するしかなかったのだ。
頭の中で季節が混乱する度に、妖夢は祖父の妖忌に聞き、その度に、
「早く分かるようになれ」
呆れの混ざった声で言われて――一ヶ月の内に何度も聞けばそうなるだろう――結局は教えてくれた記憶がある。剣の道には厳しくとも、他の部分ではそれなりに優しかった。
その光景を思い出し、妖夢は微かに笑ったが、すぐに気を取り直し、ただ黙々と、葉の落ちた桜の枝の手入れを再開する。
落ちた枝を掃除するのは、半身の幽霊の仕事だった。普段は半分らしく、妖夢にピッタリ着いているが、今は拾った枝を捨てにいっているのか、ここにはいない。見事なまでの役割分担である。
二百由旬と言うだけあって、庭はとにかく広かった。休みなく動かなければ――それこそ半身も有効に使わなければ、午前中に決められた部分まで終わらないのだ。しかも午後も午後で、主である幽々子の剣術指南、座敷で将棋や碁などの嗜みといった予定が入っている。しかもそれが毎日なのだから、実質、休みは寝る時くらいである。
それでも妖夢は、文句一つ言わず――というより、物心ついた頃からこの仕事を手伝っていたので、この生活が当たり前だと思っているが――自分の仕事をこなしていた。
今まで、特に疑問にも思わなかった。恐らくこれからも、疑問に思うことはないだろう。
「・・・・・・だけど」
妖夢は呟き、手を止めた。
珍しく幽々子がやる気を出して起こした騒動――確実に方向性を間違えている、と妖夢は思ったが――その際、妖夢は春を取り返しにきたという、人間でありながら冥界へと入り込んだ三人と相対した。
決して慢心していたわけではない。本気で戦ったのだが、その内の一人に完膚なきまでに敗れ、その結果、幽々子の危険に繋がった。
そのことが、妖夢の心にわだかまりを残していた。
勿論、それはどう考えても自業自得なのだ。そのことは幽々子の友人である紫にも指摘されており、妖夢は反論しなかった。
春を奪う、ということは、あるべき自然の姿を奪うことに他ならない。そうなれば当然文句を言ってくる者もいるだろうし、中には実力で訴えにでてくる者もいるだろう。
幽々子を守るためとはいえ、それらを切り伏せなければならない可能性が大いにあった。それが、妖夢には耐えられなかった。
主の命であり、それを遂行するためと割り切るには、妖夢は幼く、優しすぎたのだ。
それでも、心に生まれたその苦悩を抱えたまま春を集めていく内に、妖夢は次第にそれが大きく、自身を侵食する程に成長したことを悟る。
『曇りなき太刀を振るえるようになった時、お前はいずれわしを超えるだろう』
太刀を振るうたびに思い出す祖父の言葉に、しかし妖夢はどうすることもできなかった。
もしあの時、侵入者である人間に倒されていなかったら、自身の苦悩に押しつぶされていたかもしれない。
だけど、と妖夢は思う。
だからといって、主を危険な目にあわせておいて、それを言い訳にしていないのだろうか、と。
自らの未熟さを正当化していないのだろうか、と。
そして――
「私、は――」
ポツリと漏らした声は、しかし途中で途切れ、それ以上は続かなかった。
やがて半身の幽霊が戻ってきて、異変に気付いたのか周囲を回り始めたが、妖夢は気付く様子もなく、ただただ立ち尽くしていた。
結局、妖夢は午前中に終わらせる筈だった仕事を明日に引き延ばす羽目になり、幽々子に五時間正座を命じられた。
太陽が隠れ始め、幽霊や妖怪の動きが一段と活発になり始める、夕刻。
五時間の正座からようやく解放された妖夢は、痺れの残る足を引きずりつつも、すぐさま台所に立ち、夕食の準備を始めた。
献立は何にしようか、と、所帯じみたことを考えながらも――実際、料理を作っているのは妖夢ただ一人なので、十分所帯じみているのだが――妖夢はまず調理器具、釜戸、その隣に何故かある竹刀を点検し、異常がないことを確認してから料理に取り掛かる。
調理をしている間は、それ以外のことは考えないようにしていた。午前中のように、手が止まるなど論外である。
何故かと言うと、料理が遅れると、見た目に反して大飯食らいの幽々子は盛大に文句を言うし、もし忘れた、等と言おうものなら、きっと一ヶ月近くもの間、悪戯が続くだろう。
例えば、厠に入って、出ようとした妖夢を、扉に顔だけを浮かび上がらせて――しかもご丁寧に、妙に迫力のある化粧までして脅かすのだ。
なかなか念の入った化粧に、それを見た妖夢は大声で悲鳴を上げて気絶し、幽々子もあまりの大声にしばらくの間、目を回していたのだが。
その後、起きた妖夢に幽々子は、
「食べ物の恨みは怖いのよ」
と、化粧したままの顔で大真面目に言い放ち、化粧をさせた張本人であり、様子を見に来た紫と妖夢を呆れさせた。
「・・・・・・はぁ」
それから後々まで、気絶したことをネタにからかわれたことを思い出し、深いため息を漏らす。他にも、食べ物関連でそういったことは、挙げ始めればきりがない。
だが、雑念を振り払うかのように頭を振り、止まりかけていた手を動かす。
毎日、朝昼晩の食事を作っているだけあって、その手際もよく、そう経たないうちから、食欲をそそる香りが台所から漂い始めた。
出来上がった料理を台所の机に並べては、次の料理に取り掛かる。その後姿は、剣士でも庭師でもなく、立派な料理人だった。
――だが、実はここからが、「料理人」魂魄妖夢の腕の見せ所なのだ。
ふいごを使って釜戸の火を調整しつつ、煮込み料理の味見をする。その背後には既に、完成したおかずが数品並んでいた。
そのおかずに忍び寄る、人影。妖夢は気付いていないのか、米の炊き具合を見ている。
人影は一歩、また一歩と、慎重に慎重を重ねて忍び寄る。妖夢は、煮込み料理の味を調整している。
そして、人影の手がおかずの一品に伸ばされた、まさにその瞬間、
「――はっ!!」
釜戸の隣に立てかけていた竹刀を手に、妖夢の一閃。時間にして、わずか数瞬の出来事である。常人ならば、妖夢が竹刀を振った後しか見ることができないだろう。
だが、その人影は反応していた。竹刀が振られる瞬間には、既に手を引いていたのだ。
その人影に、妖夢はため息交じりに言った。
「・・・・・・後10分程すれば出来上がりますので、おとなしく待っていてください、幽々子様」
「むー、妖夢ったら、本気でやったわね」
「幽々子様でも反応できるよう加減はしました。・・・・・・そんな残念そうな顔をされても、駄目なものは駄目です。待っていてください」
「・・・・・・もう、分かったわよ」
そう言って、あっさりと台所から出る幽々子。幽々子を多少でも知っている者ならば、思わず拍子抜けするような行動だったが、妖夢は知っていた。それはおとなしく引いたと思わせるフェイントで、実は台所の入り口からずっと機会を窺っていることに。
いつも見抜かれ、その度に幽々子は「妖夢は勘が鋭いわね」と呟くのだが、毎日毎日それが続けば、誰でも気付きますよ、と妖夢は思った。後、時々顔を見せるその光景がちょっと怖いとも思ったが、口にはしなかった。
背後に気を配りながら、妖夢は調理を再開する。
一方の幽々子は、まさしく妖夢の思ったとおり、入り口の影に隠れ、じっと機会を窺っていた。
だが、何故かその表情には、僅かに影がさしている。
「気付いてないのかしら・・・・・・あの太刀は本気だったのに」
ため息混じりに呟く。
いつも妖夢の稽古を見ている幽々子だからこそ、先ほどの一閃が、まぎれもない本気の太刀だと見抜いていた。
「妖夢ったら・・・・・・自分の太刀も分からなくなるくらいに、何を抱え込んでいるのかしら」
なんとなく、といったレベルでなら、一ヶ月以上も前から、幽々子は妖夢の異変に気付いていた。なにしろ、妖夢が庭掃除という仕事を遅延するなど、今まで経験がなかったからだ。
初めて遅れが出たのは、春の騒動――自身がその元凶なのだが――から、二週間程経った時だった。怪我も癒え、騒動によって破壊された庭の修復に取り掛かるため、妖夢は朝早くから出かけていた。
幽々子は、その行動をさして気にもせず、妖夢がいない間、いつも通りに過ごしていた。
だが、昼食時になっても、一向に帰ってこないことに痺れを切らした幽々子は、妖夢が昼までに終わらせる、と言っていた方へと様子を見に行き――ほとんど仕事が終わってない光景を目の当たりにして、珍しく呆然とした。
しかも妖夢自身はというと、桜の花びらが未だに降り積もる地に足をつけ、ただじっと、何かを考えるように立ち尽くしたいたのだ。
その時、幽々子は「まだ疲れがとれてないのかしら?」程度にしか考えず、また「妖夢も仕事をサボることを覚えたのかしら」とも思ったのだが、どうも様子がおかしい。
普段なら、近づくだけで気配に気付く筈。だが、幽々子が背後に立ち、声をかけるまで、妖夢は気付く様子も見せなかった。
「・・・・・・その時の驚きようは、面白かったけど」
思い出し、クスリと笑う幽々子。そのネタだけで一ヶ月間もからかったのだから、余程面白い光景だったのだろう。
その日は幽々子の機嫌がいいこともあり、お咎めなしで昼食となった。――但し、昼食の時間が遅れたことに関しては、盛大に文句を言っていたのだが。
だが、それから数日のうちに、また同じことが起こったのだ。
流石に二度目は許すわけにもいかず、幽々子は二時間正座を命じた。妖夢は良くも悪くも生真面目だから、こうすれば反省し、もうしないだろう、と、その時は思っていた。
だが、それからほぼ毎日、仕事に遅れが目立ち始めたのを目の当たりにして、幽々子はようやく、妖夢が何か悩みを抱え込んでいる、ということに気付く。
気付いたが、面と向かって聞こうとはしなかった。
「多分、あの三人に敗れたことなんでしょうけど」
それを直接聞けば、答えてくれるかもしれない。だが、一歩間違えれば、ますます妖夢を追い詰めることにもなりかねなかった。
もしあの三人が関わる悩みだとすれば、それは幽々子を守れなかった、自責の念だから。
そして、幽々子はそのつもりで言わなくても、妖夢がそのつもりで聞けば、立派な皮肉にもなりえるのだ。
だからこそ、幽々子はその悩みを聞かない――聞けない。
「さて、どうしましょうか」
腕組みし、うーん、と首をかしげて考え込む。
考え込んだ時間は、わずか5秒程。そこで妙案が浮かんだのか、手をポン、と叩く。
「・・・・・・こういう時は「困った時の友人頼み」だったかしら。紫なら相談に乗ってくれそうね。冬眠する前でよかったわ」
妙案でもなんでもないのだが、幽々子は自身の考えに満足したかのように頷いた。
だが、既にその身体は台所の中に入り、並べられたおかずへと忍び寄っていた。言動と行動があまりにもかけ離れている。
――多分、もう気付いているわね。近づくだけなら容易いけど、妖夢の間合いに入った瞬間が、本当の勝負ね。
もはや、先ほどまでの考えは、頭にはなかった。目の前のおかずと妖夢に神経を集中し、じりじりと間合いを詰める。
結論を出せば、疑うこともなく、それ以上は考えようともしない。良くも悪くも、それが西行寺幽々子だった。
最もこの行動が、一時的にせよ、妖夢を悩みから解放しているのだから、そういった意味では――意識しているのかはともかく――幽々子は妖夢想いだと言ってもいいだろう。
ちなみに、それから料理が完成するまでの十分の間に、先ほどと同じやり取りが計七回繰り返された。
今年の幽々子のつまみ食い成功回数は、通算で五回にも満たない。特にここ百年は二桁に達したことさえもなかった。
西行寺幽々子。現時点で、今年も負け越しが決定した瞬間である。
やはり妖夢は、その生真面目さと幼さゆえに、悩み始めたらどこまでも思い詰めてしまいそうですよね。器用に割り切ることも出来ずに。
そんな妖夢の心がラストには晴れ渡ってくれることを願いつつ、続きを待ちます。