犯人は半人半霊
里で、人殺しが起きた。
厳密には、その後ろに未遂と付けた方がいいのだろう。傷の深さと出血量は相当だったが、幸いにも急所は免れたらしかった。医者も「いつ目を覚ますとも分からないが、少なくとも命に問題はない」と判を押した。
この手の事案が起きれば、まずは自警団が調査に当たることになっている。そして寺子屋の仕事が立て込んでいない時、上白沢慧音はなるべく調査に名乗り出るよう心掛けていた。
「包丁で腹を一刺し、だったな」
「ええ。犯人はきっと、今回の犯行のため念入りに準備を整えていたんでしょうね。どんな状況であれ、たまたま包丁を持っていたから刺したとは考えにくいですから」
彼女は今、現場となった路地へと立ちつくしていた。同行している弥七は自警団員であると同時に、かつての慧音の教え子でもある。立派に育ち家業を継いだところを見ると、彼女は実に誇らしい気持ちにさせられるものだが、今回の特異な状況は彼の生まれ持つ好奇心を一層駆り立てたらしい。屈んだり手を突いたりしながら、一見して何の変哲もないあちこちの地面や壁をせわしなく見つめる様子は、彼が寺子屋一のやんちゃ坊主と呼ばれた当時すら思い起こさせた。
「妥当だな。置き手紙か何かでここに呼び出したところを狙ったんだろう」
彼はすっと立ち上がり、慧音と顔を見交わした。慧音の方が軽く見上げる構図になった。
「包丁の側面には、権蔵さんの銘が入っていました。でも、彼も結構なお歳ですからね。誰にどの包丁を売ったかなんて、果たして覚えているかどうか」
「となればやはり、証言を掴む以外に解決の手立てはない、か。しかしこの分ではな……」
「ええ、裏を取るには一苦労しそうですね」
彼女は眉間に皺を作りつつ息を洩らし、そして東西に横たわる小路の全体へと視線を向けた。両側を家屋に挟まれたこの路地の横幅は肩幅にして二人分ほどしかなく、また道の入口には籠や桶が積まれて幅を取っていた。このように見通しと利便性がすこぶる悪いことに加え、北隣の商店を挟んだ先には広い通りがあるので、よほどの理由がなければこの道が使われることなどない。
それからもたっぷりと時間を掛けて現場の検分が行われたが、摺り跡のような妙な痕跡や遺留品がこれ見よがしに残されているはずもない。これ以上の成果は見込めないと判断した二人は、続いて路地を出て聞き込みに移ることにした。被害者に身近な人物には、事件のきっかけになりそうな出来事や何らかの予兆がなかったかについて。そして周辺に住まう人々からは、事件が起きた頃合いに何かを見たり、あるいは聞いたりしたという証言。一つでも多くの取っ掛かりを掴むため、二人は鴉天狗もかくやという東奔西走ぶりを見せた。
……結果に関して強いて言うなら、被害者の男は相当に評判の良いことが分かった。話を聞いた中には、彼をそんな目に遭わせるなんて気が知れない、できることなら俺たちがとっちめてやりたいぐらいだと憤る者も少なくなかった。気立て良く、義理堅く、そして商売上手だが、決してあくどい真似はしでかさない。……そういう人となりのおかげだろう。彼が営む酒屋へ話を伺いに行った時にも、実に繁盛しているらしいと慧音は印象を受けたし、弥七もまたそう簡単には恨みを買いそうにないと判断したようだった。
しかしやはりと言うべきか、事件の中身についての聞き込みが功を奏することはなかった。白昼公然と事が起きたのは違いないはずなのに、まるで犯人が市中の賑わいに紛れて煙と消えてしまったかのように、その姿を捉えた者はついぞいなかったのだ。人の繋がりとはなかなかに切っても切り離せないもので、大抵なら少々取り調べれば尻尾を掴むことができるというのに、今回はそれがない。今も巷の活気に紛れて息を潜める者がいることを思うと、慧音は背筋の正される心地がした。
収穫がなかったことに対する鬱屈は、彼女が畳床の居宅へと帰投してなお収まるどころか、却って募る一方だった。自警団で何かの活動を行った時には慣例として、必ずその内容を書き記して残すことになっている。しかし今回はその調書に碌なことを書けないまま、はたと筆が止んでしまったのだ。
「先生、大丈夫ですか? 何だか随分と悩ましそうにしていますけど」
右手に筆を携えたまま、渋い顔をして文机に片肘をつく慧音に、ある男が声を掛けた。この男は、近頃になって幻想郷に迷い込んだ外の人間だった。これが何とも妙なもので、余程元の世界に嫌気が差したのか、外からひこずってきたものは自分の名前の一つたりとも明かそうとしないほどだった。そんな調子だから慧音は彼の呼び方にさえ目下悩まされているのだが、ともかく彼はそれ以来をこちらで過ごすことに決めていたので、まずは家と職が定まるまでの間だけ彼女が世話を見る手筈になっていた。
「ああ……自警団で受け持つことになった事件が、どうにも解決まで持ち込めそうになくてな。手段がないこともないが、匙を投げるに等しいし気は進まない。講じたくない奥の手、といったところだ」
彼女の言う手段とは、満月の夜を待つことだった。そうすれば慧音はハクタクとなり、ひと月の間に里で起きた出来事の全てを把握できる——つまり、誰が事件の犯人かだって分かるようになる。しかしこの手法のまずいところは、満月まで、あるいは目を覚ました被害者に話を聞くまでの間、犯人が野放しになってしまうことだった。
「それで、その事件っていうのは一体どんなものなんです? 少し私にも聞かせてくださいよ。なに、他に言いふらしたりはしませんから」
男は物珍しそうに、爛々【らんらん】とした眼差しを慧音へと注いだ。対する慧音はというと、それを疎ましげにいなして視線を手元に落とし、こう言うばかりだった。
「しかし、お前は事件には一つも関係ないじゃないか。聞き込みで知られる分には致し方ないが、それをわざわざ部外者に漏らすだなんて。そんな無意味なこと、私はしないからな」
慧音は筆を持たない左の手のひらをひらひらとすげなく払って、自らに差し向いた好奇の視線を追い払う。しかし、男はその程度では諦めることなど考えもしなかったらしい。それどころか彼はさっと立ち上がり、彼女の後ろに回るとその両肩に手を付いて、見下ろしながら調書を眺め始めた。
「ええと何々。被害者は酒屋の勘吉、左下腹から血を流して倒れているところを通行人に……」
「わぁ、読むな読むなっ。外にまで聞こえたらどうするつもりなんだっ」
「ええと、それは失礼しました。でも、三人寄ればという言葉もあるぐらいですから、ねぇ?」
「それを言うなら、とっくに自警団で寄って集って頭を捻ったさ。それに今度のは間違いなく、そもそも手掛かりが足りていないから悩んでいるんだ。話してどうにかなるものじゃないと言っているだろう?」
それからというもの、二人の攻防は騒々しく、そして熾烈に繰り広げられた。結局のところは男に軍配が上がることとなった。彼があまりにも執拗【しゅうね】く食い下がったのと、こんな調子ではろくに調書も書けやしない、と慧音の方が折れた末のことだった。
「——とまあ、今回のあらましはこんなところだ。しかしその顔は……何か気になったことでもあったか?」
慧音が「その顔」などと評したのは、話の途中から聞き手が実に奇怪な面持ちをし始めたことを指していた。具体的には、顔中のしわを中央に引き集めてさらにしわくちゃにしたような、と言えばおおよそその通りであった。その指摘を受け、男は素に戻ってからこのように切り出した。
「あぁいや。その事件が起きたのは、あそこの米屋の脇なんですよね? だったらその頃合に、ちょうどその辺りの路地から出てくる人影を見たんですよ。まさか、そんなことになっているとは思いませんでしたけど」
「何だと、それは本当か?」
思わぬところからの一言。彼女にしてみれば、一束の藁にも縋るとはまさにこのことだった。畳の上を滑り込むような素早さで彼に駆け寄り、がしりと掴んだ両肩を力任せに前後へと揺らす。
「性別は、背格好は、身なりはどんなだった。分かる限りでいい、詳しく教えてくれないか」
「そう責っ付かなくても言いますって。見間違いはないと思いますよ、何せかなり特徴的な見た目でしたから。あれは緑が基調の服を着た女性で、ぱっと見た感じでは人間のようでしたけど……」
男はゆっくりと慧音の手をほどき、目を細めたり、あらぬ方を睨んだりしつつ思い浮かべ、そしてこう言い放った。
「ああ、そうだ。これは最近聞いた言葉なんですけど、ああいうのをこっちでは《半人半霊》って言うんでしょう?」
——そして翌日。
里の一隅に設けられた自警団の詰所には、冥界の屋敷に勤める庭師、魂魄妖夢の姿があった。日頃から携えている業物を取り上げられ、団員の中でも特に屈強な数人に詰め寄られる彼女は、身を固めてふるふると体を小刻みに揺らしていた。
「里で殺人未遂だなんて、そんなことやってません」
「そうやって誤魔化しても無駄さ。ちょうど事件現場で緑の服に身を包んだ半人半霊を見た、と証言が上がっているんだからな」
「だから、それが私じゃないんですって。……確かにその辺りなら、買い出しのために通りはしましたけど」
「ほら、言うことを変えた。そういう語り草は、決まって犯人がするものなのさ。とにかく、あんたには詳しい話を聞いておかないとな」
「そんな、滅相な!」
彼女の口はへの字に曲がりきり、目元はいまに大粒の涙が溢れんとばかりに潤みきっている。そしてその様子を、慧音と弥七は奥の部屋からそっと覗いていた。
「うーむ、少々人選を誤ったか。あまり威圧を掛けてはいけないと懇々言って聞かせたはずなんだがな」
「しかし彼女、打ち明けてくれそうにありませんね。というかどうにも、嘘をついている風ですらないように思ってしまうんですが……これは僕が穿ち過ぎなんでしょうか」
弥七が眉を顰めて俯くのを、彼女は丁寧に首を振ることで励ました。実際、慧音からすれば彼の言うことはまさに尤もだったのだ。
彼女が自警団に与するようになったのは、決して昨日今日の話ではない。それに加えて、寺子屋で長いこと教師をやっていることもある。そうして里の人々と接してきた日々の積み重ねが、妖夢の潔白を必死に訴えかけていた。
「ただそうは言っても、昨日聞かされた証言だって間違っているとは思えなかったんだ。だとすると、これは一体何が起きているんだ……?」
二人して何も言えないでいるまま、頭の中ではいくつもの考えが浮かんでは泡と消えていった。その間も、聴取中の部屋からは息巻く声が響いてくる。そうしてどれほどの時間が経ったかさえ分からなくなった頃、ようやく弥七の口から「ああ」と声が上がった。
「ううん、ちょっと待ってください? 犯人を見たと言ったのは、先生が面倒を見ている外来の人間なんですよね。だとすると、これはひょっとするかもしれませんよ」
「話が見えないな。外来の人間が彼女を見たら、何が違うというんだ?」
「幻想郷に慣れ親しんだ人が半人半霊を見たと言ったなら、それは彼女に違いないでしょう。でも、そうじゃないのなら……とにかく、先生も早くついて来てください」
弥七は、転びそうになっていることなど気にも留めず、半ば強引に慧音の袖を引っ張った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。そう急がなくてもいいだろう、それより一旦落ち着いて話を聞かせてくれないか……?」
「いやいや、悪いようにはしません。話なら後でちゃんとしますから、まずは一緒に来てくださいよ。あの建物は、確かあっちの方でしたよね?」
こうして一つも訳の分からないままに、慧音は詰所から出て行くこととなった……。
そして、その夜。
「先生。結局、例の事件はどうなりましたか」
「それなら無事片付いたよ。お前の証言がなければ、こうも手早く解決することはなかった。礼を言わなければな」
「そうですか、それはよかった」
犯人は結局、刺された男の知人だった。どうやらその知人は男から金を借りていて、一悶着あった結果としてあのような悲劇が起きたそうだった。「返済の催促がくどかったし、あわよくば借金をなかったことにできないかと思ったんだ」などと都合のいいことを、詰所に連れられた犯人は平然と語った。それが今の慧音には思い返すだけで寒気がよだつのさえ感じられたし、目の前の冴えない外来人がその手の厄介に巻き込まれはしないかと憂えずにいられないのも、また当然のことだった。
「——うん、関係ないよな? そんな目になど到底遭うとも思えないし……あぁいや、ただの独り言だ。気にしないでくれ」
「はぁ、そうですか」
釈然としない表情でいる彼を傍目に、慧音は徳利から手酌した酒をくいと呷った。この酒は被害者の店からお礼として自警団へと譲り受けた樽出しだったが、これがまた軽快な酸味と後から現れる甘みがふわりと沸き立つ逸品で、ひとたび口にするごとに心惹かれずにはいられないほどだった。
「おっとそうだ、今回のことについて一つ言っておかないといけないことがあるんだった。お前が見たと言った人影のことだが、あれは半人半霊ではないぞ」
「えっ、本当ですか。上半身と下半身が人間と幽霊で半分ずつだったから、てっきりそうだと思ったんですが」
「そう、そこだ。どこかで聞きかじったからその表現が口をついたんだろうが、半人半霊というのはそういうものじゃない。その見た目は平たく言えば、人間が霊体の親玉を連れ立ったようと表現すればいいかな。……ただ半魚人なんて言葉もあるぐらいだから、間違えるのも仕方ないさ」
弥七に言われてみれば、なんてことのない話だった。彼は確かに、見間違いはしていなかったのだ。ただ単に、緑色の服と烏帽子を身につけ、宙に浮かんでいて、そして人間と幽霊の特徴を半身ずつに持った人物——つまり蘇我屠自古のことを、半人半霊と言い表しただけだった。事細かに言葉を重ねていればよかったはずだが、それがなまじっか半人半霊という言葉を知っていたために偶然にも食い違いを起こした、というのが顛末だった。無事に事件が解決したのも、最終的には屠自古が現場から逃げ去る犯人を目撃していたからだ。
もちろんながら、妖夢には団員共々頭を下げた。間違いがあったにしても一方的に犯人扱いしたのだから、当然のことだろう。彼女も不服には思っているようだったが、慧音から訳を聞くと同時に「そういうことなら……」と一定の理解も示していた。
「蘇我屠自古、ですか。じゃあその彼女は、一体どういう括りになるんですか?」
「種族としての名前は亡霊、あるいは性質的には怨霊と言った方が良いかな」
「お、怨霊っ」
男の顔からはあからさまに、さぁっと血気が引く。それが慧音には、どうにも滑稽でならなかった。
「あっはは、そう怖がる必要はないさ。幸いにも、彼女の怨念自体は長い歳月の間にほぼ消え失せているらしい。時々里にも道教を布教しに来ているが、よほど神経を逆撫でしさえしなければ、文字通りの雷が落ちることはないよ」
「そうだといいんですが……それにしてもここには本当に色々な人というか、妖怪の種族があるんですねぇ。先生だって、百パーセントの人間ではないと言われていましたし」
「まあな。妖と人間が共生、協力しながら、また時には奪う者と奪われる者へと分かたれつつ、そんな状況すら楽しみながら暮らしている場所。それがこの幻想郷だ。しばらく暮らしていれば、じきに分かってくるさ」
そんなものですかねぇ、とつぶやく彼の眼は据わって、どこともつかぬ場所をぼうっと眺めている。
「ところで前から思っていたんだが、私のことをそうやって『先生』と呼ぶのはよさないか? 随分とやりづらいというか、子供や教え子以外からそう呼ばれるのはどうも抵抗があってね」
「いいじゃあないですか、だって寺子屋の先生なのに違いはないんですからぁ」
彼がごろりと畳の上に身を横たえるのを見た時、慧音は彼の様子に明らかな違和感を覚えた。普段よりもいくらか間延びした口調と、半ばとろんと緩んだ目尻。さらには動かない証拠として、彼の顔は随分と紅潮しつつあった。まさかと慧音がそばに置いた徳利を持ち上げてみると、先程注いだ時より少々軽くなっている。——さてはこいつ、いけない癖に飲んだのか?
「先生が寺子屋で普段どうしているのか、聞かせてくださいよぉ。どんなことをされているのか、気に、なる——うっぷ、うぅ……」
「おい、しっかりしろ!? こんなところで吐くんじゃないぞ、まずはこっちに来ようか、な!?」
更なる不穏な予感を覚えた彼女が男の脇に頭を入れ込み、だらりとうなだれた身体を下から支えて連れ出そうと試みる。しかしそうしている間にも、赤みを帯びていた顔色はみるみるうちに青白く褪めていった。単に『いけない』どころか、あるいは余程の下戸だったのかもしれない。どちらにせよ介抱に追われていては、この調子では幻想郷なりの挨拶は厳しいかもしれない、なんて悠長な考えを巡らせる余裕などない。
そして窓の外では上弦の月が、そんな二人のてんやわんやを天上からそっと見守っていた。
幻想郷の夜は、まだまだ長い。
里で、人殺しが起きた。
厳密には、その後ろに未遂と付けた方がいいのだろう。傷の深さと出血量は相当だったが、幸いにも急所は免れたらしかった。医者も「いつ目を覚ますとも分からないが、少なくとも命に問題はない」と判を押した。
この手の事案が起きれば、まずは自警団が調査に当たることになっている。そして寺子屋の仕事が立て込んでいない時、上白沢慧音はなるべく調査に名乗り出るよう心掛けていた。
「包丁で腹を一刺し、だったな」
「ええ。犯人はきっと、今回の犯行のため念入りに準備を整えていたんでしょうね。どんな状況であれ、たまたま包丁を持っていたから刺したとは考えにくいですから」
彼女は今、現場となった路地へと立ちつくしていた。同行している弥七は自警団員であると同時に、かつての慧音の教え子でもある。立派に育ち家業を継いだところを見ると、彼女は実に誇らしい気持ちにさせられるものだが、今回の特異な状況は彼の生まれ持つ好奇心を一層駆り立てたらしい。屈んだり手を突いたりしながら、一見して何の変哲もないあちこちの地面や壁をせわしなく見つめる様子は、彼が寺子屋一のやんちゃ坊主と呼ばれた当時すら思い起こさせた。
「妥当だな。置き手紙か何かでここに呼び出したところを狙ったんだろう」
彼はすっと立ち上がり、慧音と顔を見交わした。慧音の方が軽く見上げる構図になった。
「包丁の側面には、権蔵さんの銘が入っていました。でも、彼も結構なお歳ですからね。誰にどの包丁を売ったかなんて、果たして覚えているかどうか」
「となればやはり、証言を掴む以外に解決の手立てはない、か。しかしこの分ではな……」
「ええ、裏を取るには一苦労しそうですね」
彼女は眉間に皺を作りつつ息を洩らし、そして東西に横たわる小路の全体へと視線を向けた。両側を家屋に挟まれたこの路地の横幅は肩幅にして二人分ほどしかなく、また道の入口には籠や桶が積まれて幅を取っていた。このように見通しと利便性がすこぶる悪いことに加え、北隣の商店を挟んだ先には広い通りがあるので、よほどの理由がなければこの道が使われることなどない。
それからもたっぷりと時間を掛けて現場の検分が行われたが、摺り跡のような妙な痕跡や遺留品がこれ見よがしに残されているはずもない。これ以上の成果は見込めないと判断した二人は、続いて路地を出て聞き込みに移ることにした。被害者に身近な人物には、事件のきっかけになりそうな出来事や何らかの予兆がなかったかについて。そして周辺に住まう人々からは、事件が起きた頃合いに何かを見たり、あるいは聞いたりしたという証言。一つでも多くの取っ掛かりを掴むため、二人は鴉天狗もかくやという東奔西走ぶりを見せた。
……結果に関して強いて言うなら、被害者の男は相当に評判の良いことが分かった。話を聞いた中には、彼をそんな目に遭わせるなんて気が知れない、できることなら俺たちがとっちめてやりたいぐらいだと憤る者も少なくなかった。気立て良く、義理堅く、そして商売上手だが、決してあくどい真似はしでかさない。……そういう人となりのおかげだろう。彼が営む酒屋へ話を伺いに行った時にも、実に繁盛しているらしいと慧音は印象を受けたし、弥七もまたそう簡単には恨みを買いそうにないと判断したようだった。
しかしやはりと言うべきか、事件の中身についての聞き込みが功を奏することはなかった。白昼公然と事が起きたのは違いないはずなのに、まるで犯人が市中の賑わいに紛れて煙と消えてしまったかのように、その姿を捉えた者はついぞいなかったのだ。人の繋がりとはなかなかに切っても切り離せないもので、大抵なら少々取り調べれば尻尾を掴むことができるというのに、今回はそれがない。今も巷の活気に紛れて息を潜める者がいることを思うと、慧音は背筋の正される心地がした。
収穫がなかったことに対する鬱屈は、彼女が畳床の居宅へと帰投してなお収まるどころか、却って募る一方だった。自警団で何かの活動を行った時には慣例として、必ずその内容を書き記して残すことになっている。しかし今回はその調書に碌なことを書けないまま、はたと筆が止んでしまったのだ。
「先生、大丈夫ですか? 何だか随分と悩ましそうにしていますけど」
右手に筆を携えたまま、渋い顔をして文机に片肘をつく慧音に、ある男が声を掛けた。この男は、近頃になって幻想郷に迷い込んだ外の人間だった。これが何とも妙なもので、余程元の世界に嫌気が差したのか、外からひこずってきたものは自分の名前の一つたりとも明かそうとしないほどだった。そんな調子だから慧音は彼の呼び方にさえ目下悩まされているのだが、ともかく彼はそれ以来をこちらで過ごすことに決めていたので、まずは家と職が定まるまでの間だけ彼女が世話を見る手筈になっていた。
「ああ……自警団で受け持つことになった事件が、どうにも解決まで持ち込めそうになくてな。手段がないこともないが、匙を投げるに等しいし気は進まない。講じたくない奥の手、といったところだ」
彼女の言う手段とは、満月の夜を待つことだった。そうすれば慧音はハクタクとなり、ひと月の間に里で起きた出来事の全てを把握できる——つまり、誰が事件の犯人かだって分かるようになる。しかしこの手法のまずいところは、満月まで、あるいは目を覚ました被害者に話を聞くまでの間、犯人が野放しになってしまうことだった。
「それで、その事件っていうのは一体どんなものなんです? 少し私にも聞かせてくださいよ。なに、他に言いふらしたりはしませんから」
男は物珍しそうに、爛々【らんらん】とした眼差しを慧音へと注いだ。対する慧音はというと、それを疎ましげにいなして視線を手元に落とし、こう言うばかりだった。
「しかし、お前は事件には一つも関係ないじゃないか。聞き込みで知られる分には致し方ないが、それをわざわざ部外者に漏らすだなんて。そんな無意味なこと、私はしないからな」
慧音は筆を持たない左の手のひらをひらひらとすげなく払って、自らに差し向いた好奇の視線を追い払う。しかし、男はその程度では諦めることなど考えもしなかったらしい。それどころか彼はさっと立ち上がり、彼女の後ろに回るとその両肩に手を付いて、見下ろしながら調書を眺め始めた。
「ええと何々。被害者は酒屋の勘吉、左下腹から血を流して倒れているところを通行人に……」
「わぁ、読むな読むなっ。外にまで聞こえたらどうするつもりなんだっ」
「ええと、それは失礼しました。でも、三人寄ればという言葉もあるぐらいですから、ねぇ?」
「それを言うなら、とっくに自警団で寄って集って頭を捻ったさ。それに今度のは間違いなく、そもそも手掛かりが足りていないから悩んでいるんだ。話してどうにかなるものじゃないと言っているだろう?」
それからというもの、二人の攻防は騒々しく、そして熾烈に繰り広げられた。結局のところは男に軍配が上がることとなった。彼があまりにも執拗【しゅうね】く食い下がったのと、こんな調子ではろくに調書も書けやしない、と慧音の方が折れた末のことだった。
「——とまあ、今回のあらましはこんなところだ。しかしその顔は……何か気になったことでもあったか?」
慧音が「その顔」などと評したのは、話の途中から聞き手が実に奇怪な面持ちをし始めたことを指していた。具体的には、顔中のしわを中央に引き集めてさらにしわくちゃにしたような、と言えばおおよそその通りであった。その指摘を受け、男は素に戻ってからこのように切り出した。
「あぁいや。その事件が起きたのは、あそこの米屋の脇なんですよね? だったらその頃合に、ちょうどその辺りの路地から出てくる人影を見たんですよ。まさか、そんなことになっているとは思いませんでしたけど」
「何だと、それは本当か?」
思わぬところからの一言。彼女にしてみれば、一束の藁にも縋るとはまさにこのことだった。畳の上を滑り込むような素早さで彼に駆け寄り、がしりと掴んだ両肩を力任せに前後へと揺らす。
「性別は、背格好は、身なりはどんなだった。分かる限りでいい、詳しく教えてくれないか」
「そう責っ付かなくても言いますって。見間違いはないと思いますよ、何せかなり特徴的な見た目でしたから。あれは緑が基調の服を着た女性で、ぱっと見た感じでは人間のようでしたけど……」
男はゆっくりと慧音の手をほどき、目を細めたり、あらぬ方を睨んだりしつつ思い浮かべ、そしてこう言い放った。
「ああ、そうだ。これは最近聞いた言葉なんですけど、ああいうのをこっちでは《半人半霊》って言うんでしょう?」
——そして翌日。
里の一隅に設けられた自警団の詰所には、冥界の屋敷に勤める庭師、魂魄妖夢の姿があった。日頃から携えている業物を取り上げられ、団員の中でも特に屈強な数人に詰め寄られる彼女は、身を固めてふるふると体を小刻みに揺らしていた。
「里で殺人未遂だなんて、そんなことやってません」
「そうやって誤魔化しても無駄さ。ちょうど事件現場で緑の服に身を包んだ半人半霊を見た、と証言が上がっているんだからな」
「だから、それが私じゃないんですって。……確かにその辺りなら、買い出しのために通りはしましたけど」
「ほら、言うことを変えた。そういう語り草は、決まって犯人がするものなのさ。とにかく、あんたには詳しい話を聞いておかないとな」
「そんな、滅相な!」
彼女の口はへの字に曲がりきり、目元はいまに大粒の涙が溢れんとばかりに潤みきっている。そしてその様子を、慧音と弥七は奥の部屋からそっと覗いていた。
「うーむ、少々人選を誤ったか。あまり威圧を掛けてはいけないと懇々言って聞かせたはずなんだがな」
「しかし彼女、打ち明けてくれそうにありませんね。というかどうにも、嘘をついている風ですらないように思ってしまうんですが……これは僕が穿ち過ぎなんでしょうか」
弥七が眉を顰めて俯くのを、彼女は丁寧に首を振ることで励ました。実際、慧音からすれば彼の言うことはまさに尤もだったのだ。
彼女が自警団に与するようになったのは、決して昨日今日の話ではない。それに加えて、寺子屋で長いこと教師をやっていることもある。そうして里の人々と接してきた日々の積み重ねが、妖夢の潔白を必死に訴えかけていた。
「ただそうは言っても、昨日聞かされた証言だって間違っているとは思えなかったんだ。だとすると、これは一体何が起きているんだ……?」
二人して何も言えないでいるまま、頭の中ではいくつもの考えが浮かんでは泡と消えていった。その間も、聴取中の部屋からは息巻く声が響いてくる。そうしてどれほどの時間が経ったかさえ分からなくなった頃、ようやく弥七の口から「ああ」と声が上がった。
「ううん、ちょっと待ってください? 犯人を見たと言ったのは、先生が面倒を見ている外来の人間なんですよね。だとすると、これはひょっとするかもしれませんよ」
「話が見えないな。外来の人間が彼女を見たら、何が違うというんだ?」
「幻想郷に慣れ親しんだ人が半人半霊を見たと言ったなら、それは彼女に違いないでしょう。でも、そうじゃないのなら……とにかく、先生も早くついて来てください」
弥七は、転びそうになっていることなど気にも留めず、半ば強引に慧音の袖を引っ張った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。そう急がなくてもいいだろう、それより一旦落ち着いて話を聞かせてくれないか……?」
「いやいや、悪いようにはしません。話なら後でちゃんとしますから、まずは一緒に来てくださいよ。あの建物は、確かあっちの方でしたよね?」
こうして一つも訳の分からないままに、慧音は詰所から出て行くこととなった……。
そして、その夜。
「先生。結局、例の事件はどうなりましたか」
「それなら無事片付いたよ。お前の証言がなければ、こうも手早く解決することはなかった。礼を言わなければな」
「そうですか、それはよかった」
犯人は結局、刺された男の知人だった。どうやらその知人は男から金を借りていて、一悶着あった結果としてあのような悲劇が起きたそうだった。「返済の催促がくどかったし、あわよくば借金をなかったことにできないかと思ったんだ」などと都合のいいことを、詰所に連れられた犯人は平然と語った。それが今の慧音には思い返すだけで寒気がよだつのさえ感じられたし、目の前の冴えない外来人がその手の厄介に巻き込まれはしないかと憂えずにいられないのも、また当然のことだった。
「——うん、関係ないよな? そんな目になど到底遭うとも思えないし……あぁいや、ただの独り言だ。気にしないでくれ」
「はぁ、そうですか」
釈然としない表情でいる彼を傍目に、慧音は徳利から手酌した酒をくいと呷った。この酒は被害者の店からお礼として自警団へと譲り受けた樽出しだったが、これがまた軽快な酸味と後から現れる甘みがふわりと沸き立つ逸品で、ひとたび口にするごとに心惹かれずにはいられないほどだった。
「おっとそうだ、今回のことについて一つ言っておかないといけないことがあるんだった。お前が見たと言った人影のことだが、あれは半人半霊ではないぞ」
「えっ、本当ですか。上半身と下半身が人間と幽霊で半分ずつだったから、てっきりそうだと思ったんですが」
「そう、そこだ。どこかで聞きかじったからその表現が口をついたんだろうが、半人半霊というのはそういうものじゃない。その見た目は平たく言えば、人間が霊体の親玉を連れ立ったようと表現すればいいかな。……ただ半魚人なんて言葉もあるぐらいだから、間違えるのも仕方ないさ」
弥七に言われてみれば、なんてことのない話だった。彼は確かに、見間違いはしていなかったのだ。ただ単に、緑色の服と烏帽子を身につけ、宙に浮かんでいて、そして人間と幽霊の特徴を半身ずつに持った人物——つまり蘇我屠自古のことを、半人半霊と言い表しただけだった。事細かに言葉を重ねていればよかったはずだが、それがなまじっか半人半霊という言葉を知っていたために偶然にも食い違いを起こした、というのが顛末だった。無事に事件が解決したのも、最終的には屠自古が現場から逃げ去る犯人を目撃していたからだ。
もちろんながら、妖夢には団員共々頭を下げた。間違いがあったにしても一方的に犯人扱いしたのだから、当然のことだろう。彼女も不服には思っているようだったが、慧音から訳を聞くと同時に「そういうことなら……」と一定の理解も示していた。
「蘇我屠自古、ですか。じゃあその彼女は、一体どういう括りになるんですか?」
「種族としての名前は亡霊、あるいは性質的には怨霊と言った方が良いかな」
「お、怨霊っ」
男の顔からはあからさまに、さぁっと血気が引く。それが慧音には、どうにも滑稽でならなかった。
「あっはは、そう怖がる必要はないさ。幸いにも、彼女の怨念自体は長い歳月の間にほぼ消え失せているらしい。時々里にも道教を布教しに来ているが、よほど神経を逆撫でしさえしなければ、文字通りの雷が落ちることはないよ」
「そうだといいんですが……それにしてもここには本当に色々な人というか、妖怪の種族があるんですねぇ。先生だって、百パーセントの人間ではないと言われていましたし」
「まあな。妖と人間が共生、協力しながら、また時には奪う者と奪われる者へと分かたれつつ、そんな状況すら楽しみながら暮らしている場所。それがこの幻想郷だ。しばらく暮らしていれば、じきに分かってくるさ」
そんなものですかねぇ、とつぶやく彼の眼は据わって、どこともつかぬ場所をぼうっと眺めている。
「ところで前から思っていたんだが、私のことをそうやって『先生』と呼ぶのはよさないか? 随分とやりづらいというか、子供や教え子以外からそう呼ばれるのはどうも抵抗があってね」
「いいじゃあないですか、だって寺子屋の先生なのに違いはないんですからぁ」
彼がごろりと畳の上に身を横たえるのを見た時、慧音は彼の様子に明らかな違和感を覚えた。普段よりもいくらか間延びした口調と、半ばとろんと緩んだ目尻。さらには動かない証拠として、彼の顔は随分と紅潮しつつあった。まさかと慧音がそばに置いた徳利を持ち上げてみると、先程注いだ時より少々軽くなっている。——さてはこいつ、いけない癖に飲んだのか?
「先生が寺子屋で普段どうしているのか、聞かせてくださいよぉ。どんなことをされているのか、気に、なる——うっぷ、うぅ……」
「おい、しっかりしろ!? こんなところで吐くんじゃないぞ、まずはこっちに来ようか、な!?」
更なる不穏な予感を覚えた彼女が男の脇に頭を入れ込み、だらりとうなだれた身体を下から支えて連れ出そうと試みる。しかしそうしている間にも、赤みを帯びていた顔色はみるみるうちに青白く褪めていった。単に『いけない』どころか、あるいは余程の下戸だったのかもしれない。どちらにせよ介抱に追われていては、この調子では幻想郷なりの挨拶は厳しいかもしれない、なんて悠長な考えを巡らせる余裕などない。
そして窓の外では上弦の月が、そんな二人のてんやわんやを天上からそっと見守っていた。
幻想郷の夜は、まだまだ長い。
妖夢と屠自古でこうなりうるのかとうなりました
素晴らしかったです