「ぎゃあああああ!!」
ほんのさっき、といってもわずか1秒ほど前ー初めて顔を合わせたばかりの男が、悲鳴をあげて咲夜の前に倒れた。
時を止めてーしばらく顔を眺めていたから、咲夜にはその男の声に少し聞き覚えがあるような気がした。だが、咲夜にはその男の顔に覚えはなかった。ということはやはり、さっきから自分を襲ってきている人間たちは、自分を別の誰かと勘違いしているか、あるいは自分のあずかり知らぬところで、秘密裏にそういった計画が進められていた、と解釈するべきなのだと咲夜は思った。そもそも男たちは人里の人間でもないらしかった。金色の髪と緑色の瞳。咲夜はずいぶん昔にそういう人間たちのことを知っていた気がしたが、そういった人間を人里で見かけたこともなかった。
周囲の様子もどこか変だった。煉瓦造りの細々とした家の立ち並ぶ狭い通路の中に咲夜はいた。これも幻想郷では紅魔館以外ではまず見かけないものだ。
自分は今、幻想郷ではない場所にいて、幻想郷の人間ではない誰かに襲われている。
そう理解した瞬間、咲夜の胸の中に去来したのは数刻前、霧の湖の森を抜けて人里に向かう道すがら、舗装もされていない林道に一瞬走った閃光のようなものの記憶だった。
そしてそれを思い出した瞬間、咲夜はようやく自分が今置かれている状況に違和感を覚えた。
というより、覚えることができた、といったほうが適切かもしれない。気がつけば目の前に数人の男たちがいて、咲夜は時を止める能力がなければ、おそらくその瞬間に殺されていたであろう、刃が一斉に彼女の体を襲ったのだ。
それからの数刻は条件反射と時間停止の能力だけが本能的に彼女の体を支配し、多くの名も無き骸が彼女の後方にうず高く積まれる結果となった。
「というかー」
ふと気がつけば、その違和感の正体はあまりにもあっけないものだった。
「あれ、紫の結界よね。私、それにハマってしまったってこと?」
思えば、昨日は博麗神社で宴が開かれ、八雲紫は式を従え、最終的にはその式ともども酔いつぶれて土の上に転がっているのを、咲夜は主人を連れて帰る道すがら、ちらと視界の端に止めていたのを思い出した。
二日酔いで起き上がれない彼女たちは未だに結界のほころびに気付いておらず、不運な私はこうしてどこともしれない空の下、屋敷に持って帰ることもできない無用な死体を積み上げているというわけだ。
「本当はこういうのは全て妖精たちの仕事なのだけれど・・・」
いつの間にか運動で燃焼したエネルギーが汗に変わったのか、咲夜の顔は上気し、全身からじんわりと汗が噴き出していた。
これからお嬢様に夕飯の支度をしなければいけないのに、これでは一度湯浴みをしなければならないー
早く幻想郷に戻り、夕飯の買い出しを続けなくては。
ことが結界のほころびの問題であるならば、元いた場所に戻れば、そこが結界の出口でもあるはずだ。
咲夜は異国の狭い迷路を、わずかな記憶と血の匂いを頼りに引き返し始めた。
「早くあの大妖怪が自分のミスに気付いてくれればいいけど・・」
というより、まさかあの大妖怪が慌てて、誰かがそこを通ったことも気付かぬまま、急いで結界を封じてしまうということはないだろうか?
そうなったら、私はどこへ行けばいいの?
“咲夜の世界”
気がつけば、咲夜は時間を止めていた。
さっきまで、日常の何気ないハプニング、程度に気にも止めていなかった結界の割れが、咲夜には急に自分の運命の途上にぽっかりと空いた、底のないブラックホールのように思えてきた。
迷宮のミノタウルスは、テセウスが来ない限り誰に殺されることもない迷宮の王だが、生贄の少年少女も送られないのであれば、ただそこに一人だけいることを強要されるのであれば、それは単なる永遠の孤独な存在にすぎないのだ。そして永遠の中では時を止める程度の能力も、時を止めないことと何ら違わない。自分以外に誰も存在しないのであれば、そこにあるのは自分の中に流れる自分が終わるまでの、時を止めようが動かそうが変わりがない、絶対的なただ一つの時間だけだからだ。
そしてその時、迷宮は迷路であることを止め、ただの終わりのない1つの殻へと変わる。その中には何者かがいるかもしれない。だが誰もその中に何者かがいるなんて考えもしない。だからそれは忘れ去られ、やがてその中で何かが終わる時、それは完全に姿を消す。
咲夜はかつて自分にもそんな時間があったことを思い出したような、そんな懐かしさと、新しさのないまぜになった奇妙な感覚を味わいながら、止まった時の中を進んだ。
ー私は、何を目指して歩いているのだろう・・
この場合のアリアドネの糸は、自分が殺した名もなき人間たちの血、その決して落ちることのない臭いだ。
そしてその血の臭いとは、昔ある時、今の主人によって咲夜に刻まれたものだった。
ーレミリア・スカーレットに会ってから、私は変わった。名前の必要ない私に名前を授けてくださったのも、その名前に意味を授けてくださったのも、どちらもあの吸血鬼の少女だった。こんなことを顧りみたのは咲夜にとっては初めてのことだった。
何度か角を曲がり、薄暗い路地を突き進んで、咲夜はとうとう自分が最初に男たちに襲われた場所までたどり着いた。そこにはこうこうと光る松明を持った男たちが何人も集まっていて、その向こうで黒い神父の装束を着た男が、結界の裂け目を背に、何か男たちに指示を飛ばしているところだった。
光の向こうに幻想郷があることは明らかだった。
「やれやれね。」
咲夜は懐からナイフを取り出すと、男たちの首を一人一人掻き切りながら、退屈しのぎにその数を数えていった。
そしてふと、裂け目の下に持ってきたバスケットが誰からも手をつけられることなく置いたままになっていることに気がついた。
バスケットの中には、後で使おうと思っていたガラス瓶がいくつか入っていた。
「たまには異国の味、というのもお気に召すかもしれないわね。」
咲夜はそれを使って、結界の裂け目に異常がないことを確認してから、神父服の男の前で時を戻した。男はしばらく動転した後、蚊の鳴くような声で命乞いを始めた。咲夜には不思議と男の言っている言葉の意味がわかったが、それは今ではもう本当に遠い世界の出来事のように感じられた。
結界の裂け目は恐ろしいほどあっさりと抜けることが出来、周囲に誰も出入りした形跡がないことに気づいた咲夜は、結界の向こうの男たちの臆病さをほんの少しだけ可愛らしく思った。
どっちみちこの霧の湖の森では、出てきても満足に生きられないだろう。ガラスの瓶がすべて満杯になったので人里に下りる用事はほとんど済ましてしまったが、少しだけ買い物があったので、咲夜はその足で人里へ向かった。
大通りで、咲夜は豆腐屋の軒先で買い物をしている、いつもよりだいぶ元気のない狐の式を見かけた。
「あら、今日は元気がないのね。」
「いや、これは面目ない。」
狐の式は赤面した。
「あれだけ飲んで暴れたんだから無理ないわ。今日はこれから夕食ですか?」
「どちらかというと、朝昼夕兼用です。」
式の顔はますます赤くなった。
「そういえば霧の湖で結界に裂け目が出来てたわよ。何も出てこないといいけど。」
八雲藍の顔は、もう見ていられないくらい真っ赤に染まった。
完