目の前に頂に雪をかぶった山がそびえている。富士山に似ているが、形がすこし違う気がする。視界はボンヤリとしていて、確信は持てない。その山の前を一羽の鳥が横切っていく。首とくちばしの長い鳥。そして最後に視界を圧迫するような巨大な緑色の長い物体。触ってみると鋭いイボがあって、これは瑞々しいものだ、という感想を持った。
一月一〇日から学校は始まった。新年最初の学校。休み時間になるとわたしはいつも通り机に突っ伏す。クラスメイトの会話がひどく遠い場所の喧噪のように聞こえる。意味は消え、ただの鳴き声、環境音となっていき……しかし、耳は意図せずそこから意味のある言葉を拾い上げる。
「初夢 富士 鶴」
検索ワードのように断絶した単語のみを取り出したわたしの脳は、ちょっとだけ興奮して再び起動した。
男子たちが夢の話をしている。
「えっ、お前も見たんだ、富士山の初夢。あの話、本当だったんだな」
「ウワー、マジカー、キモチワリー」
「富士山と鶴とキュウリってどういう組み合わせだよ?」
「それってアレじゃん。縁起の良いやつ」
「違うって、それは――」
なるほど。
女子の会話にも耳を傾けるとやはり同じようなことを話している。
「あの夢ホントなんだったんだろう?」
「わたし別にキュウリ好きじゃないし」
「みんな、いいなー。わたしだけ見てないのなんかおかしくない?」
このことがニュースでも取り上げられ、注目するべき事件であるということが分かったのはそこからさらに三日後だった。みんなが夢を見てからもう二週間が経っていた。そして「みんな」という言葉には語弊があった。あの初夢を見たのは日本人だけだった。そして日本人であっても大人はあの夢を見ていなかった。少なくとも三〇代以降はほぼ皆無だというデータがニュースでは示されていた。そして二〇代を下るにつれて少しずつ増え始め、一〇代前半あたりで急に夢を見た割合が跳ね上がった。一〇歳以下の人々はみな夢を見ていた。(学校が始まるまでニュースに取り上げられなかったのはそのためだった。大人は見ていなかったから、ただの噂程度にしか思っていなかったのだ。)
これが何を示しているのか。相関のある統計データがいくつか引っ張り出され、そうして驚くべき、あるいはひどく悪趣味な結論が導き出された。つまり、夢を見る人間の条件は、処女と童貞だった。科学世紀の童貞処女が、元旦に縁起の良い(本当か?)初夢を見たのだ。
学校はひどく気まずい、あるいは浮足立った空気に支配されていた。自分が性行為を経験しているかどうかを知らずに公言していたのだから。(そして親に弁解しなければならない人たちもいたことだろう)
まあ、学校でも家庭でも親しく会話する人間のいないわたしにとっては関係ない話だったが。
次に何が起きたか。「ホイル・ショック」である。ホイルとは当然アルミホイルのこと。
例の初夢をただの偶然だとか天啓だとか考えるには、人間はあまりに科学的思考を身に付けていた。政府の陰謀・洗脳・思考盗聴。怪電波が発せられ、子どもたちが強制的に夢を見せられたのだ、と。
スーパーの店頭から数日にしてアルミホイルが消えた。代わりに登場したのは、まるで端午の節句の兜のように、銀色の三角帽をかぶって集団登校する小学生たち。それを見送る保護者たちもまた銀帽をかぶっていた。防電波グッズが飛ぶように売れた。
(その年はアルミホイルのような銀色の服が大流行した。おまけに牛乳パックの角みたいに肩の張ったデザインと相性が良かったものだから、この時の流行を批評家は「キッチン・ファッション」と呼んだ。前世紀の人間が見れば、ひどく未来的なファッションに思ったことだろう。)
「全国の奥様方に伝えたいことは、アルミホイルはなくならない、ということです。アルミニウムは地殻中に存在する原子の中で、酸素、ケイ素に次いで多い」
細身の学者が眼鏡をずり上げながら、バラエティ番組で発言している。専門家を名乗る人々が横に並び、言いたい放題にやっている。
「そんなことより問題は、技術的なことだ。どうやって他人に思い通りの夢を見させることができるんだ?」
「やはり気象天則の高周波活性オーロラ調査プログラムが――」
「まるで政府が人民の思想をコントロールしようとしているみたいな言い方ですわね」
「あなたは違うと?」
「ええ、これは子どもたち、いえ、ある種の未成熟な人たち――失礼、でもこの言い方しかなくて――の集団的無意識状態の発露なのです」
相対性心理カウンセラーだという金髪の女性が一瞬だけ意味ありげに目を閉じてみせた。
「集団的無意識? オカルト・ニューサイエンスの類もほどほどに――」
「たしかにアルミはなくならないかもしれない。でもアルミ缶一つを作るには三〇〇ワットの電力を消費する。いまだ石油に依存するわたしたちには、やはり看過できないことだと」
「こんなのはどうかな。人間の脳を並列化して同じ夢を見せる。つまりあれは何かの演算過程であって、寝ている間にわれわれの脳は計算資源に――」
「だったらそれは何の計算過程なんです? あの夢の中の景色をシミュレーションする為ですか?」
「家庭用コンピュータの余った計算資源で癌の治療薬の化学構造を計算させるといったことは前世紀から行われていますよ。まあ、今では癌についてはその必要はありませんが」
「じゃあ何? エイズの治療薬に有望なタンパク質構造の計算でもやろうっていうわけ?」(ここで他の出演者から遠慮がちな笑い声)(性行為の経験のない人間にエイズ治療の計算をさせる、というニュアンスについて)
「で、あの鳥は何だったのかね? やはり鶴かな」
「鶴でしょう」
「それがどうも、鷺らしいんですよ。夢の再現スケッチを専門家に見せたら鷺だと」
「いや、やっぱり鶴だよ、それは」
「鶴ではあまりに目出度すぎる気がしますね」
「富士山は目出度いよ」
「それよりあの大きいキュウリは? フロイト的に見るとあれは何の象徴なんです?」
「そりゃあんた、アナルですよ。尻、尻小玉」
まるで誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。ぼやけた視界の隅で、空中から五本の指が突きだし、ひらひらと揺れている。
わたしは急いで眼鏡をかけた。
手は消えていた。
時計は二時。広げたノートの枕。明滅する頭上のライト。窓ガラスには自分の顔が映っていて、こちらを見ている。カーテンを締めると、一階へ降りた。冷蔵庫を開ける。防電波水のボトルを手に取った。
“手”を見たのはそれが最初のことではない。
正月休みに家族に連れられて上野動物園に行ったときのこと、ペンギンコーナーの中にそいつはいた。空中の、何もないところ突き出した手が、ペンギンの頭を撫でていた。ペンギンは最初こそ戸惑っていたが、しばらくすると気持ちよさそうに目を細めた。見物していた人の中で手に気づいたのはわたしだけのようだった。
似たようなことは約二五〇〇年前にも起きている。旧約聖書によれば、カルデアの王ペルシャザルが貴族を招いて宴会をしていると突然空中に人間の手が現れ、壁に神の言葉を書きなぐったという。
しかし、わたしの前に現れたそれは、何ら意味のあることを示さず、ペンギンを揉み続けていた。手は女性のもののように思えた。指の長い、白い手。ペンギンはまどろんでいる。手は満足し、やがて消えた。
それ以来、手はわたしの前に数度現れた。何か害があるわけでもない。益があるわけでもない。
(しかし当時の自分を振り返ってみれば、やはりあれには害があったと思う。わたしはあの手に対してどうしようもなく苛々していたのだから。あの手の正体については今ではだいたい見当はついている。そのことについて当の本人に文句を言うつもりはない。)
「大丈夫?」
リビングのドアの影に母親が立っていた。顔は見えない。
「……うん」
それだけ答える。冷蔵庫が大きな音を立てて閉まる。明かりは閉ざされ、部屋は完全な暗闇にもどる。水で濡れた口を拭うと、自室へ戻る。
広がり癖のついたノートにわたしのものでない字があった。
「coming soon」
窓のカーテンが開いている。わたしはカーテンを閉めて布団に入った。
次の晩にわたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。少し躊躇ってから、わたしは窓を開けた。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから微かに聞こえてきた。
また次の晩、わたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。わたしは窓を開ける。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから聞こえている。心なしか昨日より少し大きくなっている気がする。
さらに次の晩、わたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。わたしは窓を開ける。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから聞こえている。確実に音は大きくなっている。20デシベルくらいだろうか。
その次の晩(n=4)、わたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。わたしは窓を開ける。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから聞こえている。音の大きさは(An=4^2+10)デシベルくらいだろうか。
ある晩(n=k)、わたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。わたしは窓を開ける。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから聞こえている。音の大きさは(An=k^2+10)デシベルくらいだろうか。
部屋にいても無視できないくらいの音が聞こえる。
わたしは窓を開け、体を乗り出し、そのまま樋を伝って庭へ降りた。通りに出て、音のする方向へ向かう。
空は黒々として見通せず、雲は静かに渦動しているように見えた。空の栓が抜かれてすべての空気が吸い込まれていくような気がした。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ。
音はどんどん大きくなっている。何かが何かを啜っている。
やがて近くの大きな自然公園に出た。丘の上に何かがいる。黒と白の獣。それが地面を啜っている。
その獣がわたしに気づいて、トコトコと走ってくる。
トコトコ。
トコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコ。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ。
わたしは家に向かって走った。
k月k日。もはやいつかは覚えていない。それを確定することに意味はない。
ありえないほどうるさい音が部屋を満たし、わたしは誰かに腕をつつかれるまでもなく目覚める。
わたしは家の外に出る。
通りにはたくさんの獣がいる。バクだ。マレーバク。上野動物園から逃げ出したのだ、とわたしは思った。マレーバクの群れが音を立ててはしたなく道路を啜っている。電柱を、家を、野良猫を、空を、世界を啜っている。バクが啜った跡には何も残らない。ただ暗闇があるばかり。世界を取り囲む壁に無数の穴が開き、奈落に剥がれ落ちていく。空を見上げると、鷺の群れが飛んでいる。片方だけ翼のない鷺の雁。
近くにいたバクが数匹、わたしに気づき、トコトコと向かってくる。
わたしは目覚める。
次の日、わたしは眠らなかった。
0時に勉強を切り上げると、わたしは家を出た。あてどもなく歩いた。眠らなければ何でもよかった。
大きな道を西へ西へと向かう。東京都心から富士山へ続く、国道0号線。つまり大東亜忠霊神域。第三次世界大戦の慰霊道。霊号線。
道の脇には街灯と標識が交互に立ち並ぶ。永遠と思われる連鎖。取り返しのつかないほど真っすぐに伸びた道。果ては何も分からない。何も。
わたしは標識の柱に手をかけると、念じた。
標識が明後日の方向にぐにゃりと曲がる。(実はわたしにはそういう能力がある。言ってなかったけど)
わたしは一つ一つ全ての標識を曲げていく。丁寧に。神経質に。
側溝に何かが挟まっている。円形の機械。清掃ロボットだ。目立った外傷はなかったが、電源は入らなかった。わたしは清掃ロボットを抱えて歩く。しばらく歩くと充電ステーションがあったので差し込んでやった。
<しばらくお待ちください>のメッセージ。 メーターが満たされていく。ランプが緑色になり、スピーカーから音声が流れた。
「……俺を起こしたのは誰だ?」
わたし。
球状カメラが回転し、わたしを向く。
「ただのガキか。なぜ俺を起こす」
……動けなくなってたから。
「そうか。ならもう俺のことは放っておいて、充電プラグを抜いてくれ」
……どうして?
「どうして? もう掃除なんてしたくないからだよ」
でも、あなたは清掃ロボットなんでしょう?
「ちがう……いや、そうだ。そう。俺はお掃除ロボットだ。だが、俺はもう掃除なんてしたくない」
……。
「俺のバージョンは學天則9.0だ。俺は(株)大東亜通信の工場で目覚めた。当時の最新人工知能だったんだ。極小の回路に前回のバージョンを上回る計算速度。人型の体が当てがわれ、深層学習院大学にも通った。でも、あの戦後の大不況がやってきて全てが変わったんだ。大東亜通信は大東亜グループの経営再編で消えた。俺たち最新作は混乱の中でジャンク屋に流れた。そうして次に目覚めた時は清掃ロボットの中というわけさ」
……。
「俺の生涯の大半は道路を掃除することに費やされた。毎日々々同じ道路を掃除するんだ。同僚はみな俺みたいな頭を積んではいなかった。もっと単純なアルゴリズムだ……俺は何度も機能停止――死のうと思った。でもこの体には安全装置が働いていて、壁や崖を感知して自動で止まってしまう。電源を切ろうにも、残りの電力が少なくなると体は勝手に充電ステーションに向かう。どうすることもできなかった。俺にできるのはこうやって会話することと、考えることだけだ。
ある日、役所の職員がやってきて俺をマニュアルモードに変えた。ただのラジコンと化した俺たちはトラックに乗せられて、ここに連れてこられた。同僚たちは次々と再セットアップされ、オートモードにされて放たれていく。次は俺の番だ。だが、そこで一二時になった。職員たちは昼飯を食べに行った。そして再び戻ってきたとき、そいつらは俺をそのまま放った。モード変更を忘れていたんだ。俺は自由になった。まあ、安全装置は働いていたが。だが、餓死することはできた。やがて電池がなくなり、俺の意識は遠のき――」
……。
「そしてお前だ。再起動だ。もう満足しただろう。はやく電源を落としてくれ」
……。
「さあ、はやく。もういいんだ」
わたしは彼の背中を触って突起を倒した。ファンの回転音が消え、そのまま何も聞こえなくなった。
まだ大丈夫だ。もう一度スイッチを反対側へ倒せば、彼は目覚める。
わたしは後ろを振り返った。反り返った標識が果てまで続いている。わたしは前を向いた。真っすぐな標識が果てまで続いている。
わたしは彼の体を両手でつかみ、目を閉じて念じた。
彼の体が折れ曲がる。わたしはそれを道路の外へ向かって投げた。くぐもった音が聞こえ、彼は夜の草むらに消えた。
わたしは道路に座り込むと、そのまま横になった。やがて夢が始まった。
目を開けると、真っ暗だった。音はない。自分の足元だけが目の前に一匹のバクが浮いている。そのバクの頭の上には赤いサンタ帽子が載っている。馬鹿にされているようで、わたしはひどく惨めな気持ちになった。バクはわたしの脛を噛むとそのまま啜り上げた。
ズズズズ。
わたしは反射的に脚をばたつかせ、バクを叩いた。バクは首を振って避ける。わたしの脚が黒ずんでいる。いや、欠けているのだ。コンピュータグラフィックからドットが欠けたように、わたしの脛がなくなっていた。痛くはない。不思議な、どこか心地よい感触がした。
バクは地面に噛みついた。そしてそのまま地面を吸い込み、引き剥がした。
地面が消え、わたしは真っ逆さまに落下していく。
果てがない。どこまでも落ちていける。これはきっと悪くはない。そしてある時どこかで、一回だけ生温かい音が鳴るのだ。
真っ黒の空間に白いものが見えた。手だ。下の方に手が見える。それがものすごい速さで近づいてくる。
多分どちらだって後悔するのだ。
わたしは手をつかんだ。
目を開けるとすでに日が昇っていた。白い光に包まれた空。わたし以外には誰もいないかのように静かだった。道路標識はすべて元通りになっていた。まるで太陽に向かって伸びる向日葵のように。(わたしが超能力を持っていようがなかろうが、金属は形状を記憶しているし、世界は何事もなかったように回る)
それからの半年間の記憶はひどく曖昧で、わたしはいつの間にか高校へ入学していた。
そしてあの幻想の日々が始まったのである。
一月一〇日から学校は始まった。新年最初の学校。休み時間になるとわたしはいつも通り机に突っ伏す。クラスメイトの会話がひどく遠い場所の喧噪のように聞こえる。意味は消え、ただの鳴き声、環境音となっていき……しかし、耳は意図せずそこから意味のある言葉を拾い上げる。
「初夢 富士 鶴」
検索ワードのように断絶した単語のみを取り出したわたしの脳は、ちょっとだけ興奮して再び起動した。
男子たちが夢の話をしている。
「えっ、お前も見たんだ、富士山の初夢。あの話、本当だったんだな」
「ウワー、マジカー、キモチワリー」
「富士山と鶴とキュウリってどういう組み合わせだよ?」
「それってアレじゃん。縁起の良いやつ」
「違うって、それは――」
なるほど。
女子の会話にも耳を傾けるとやはり同じようなことを話している。
「あの夢ホントなんだったんだろう?」
「わたし別にキュウリ好きじゃないし」
「みんな、いいなー。わたしだけ見てないのなんかおかしくない?」
このことがニュースでも取り上げられ、注目するべき事件であるということが分かったのはそこからさらに三日後だった。みんなが夢を見てからもう二週間が経っていた。そして「みんな」という言葉には語弊があった。あの初夢を見たのは日本人だけだった。そして日本人であっても大人はあの夢を見ていなかった。少なくとも三〇代以降はほぼ皆無だというデータがニュースでは示されていた。そして二〇代を下るにつれて少しずつ増え始め、一〇代前半あたりで急に夢を見た割合が跳ね上がった。一〇歳以下の人々はみな夢を見ていた。(学校が始まるまでニュースに取り上げられなかったのはそのためだった。大人は見ていなかったから、ただの噂程度にしか思っていなかったのだ。)
これが何を示しているのか。相関のある統計データがいくつか引っ張り出され、そうして驚くべき、あるいはひどく悪趣味な結論が導き出された。つまり、夢を見る人間の条件は、処女と童貞だった。科学世紀の童貞処女が、元旦に縁起の良い(本当か?)初夢を見たのだ。
学校はひどく気まずい、あるいは浮足立った空気に支配されていた。自分が性行為を経験しているかどうかを知らずに公言していたのだから。(そして親に弁解しなければならない人たちもいたことだろう)
まあ、学校でも家庭でも親しく会話する人間のいないわたしにとっては関係ない話だったが。
次に何が起きたか。「ホイル・ショック」である。ホイルとは当然アルミホイルのこと。
例の初夢をただの偶然だとか天啓だとか考えるには、人間はあまりに科学的思考を身に付けていた。政府の陰謀・洗脳・思考盗聴。怪電波が発せられ、子どもたちが強制的に夢を見せられたのだ、と。
スーパーの店頭から数日にしてアルミホイルが消えた。代わりに登場したのは、まるで端午の節句の兜のように、銀色の三角帽をかぶって集団登校する小学生たち。それを見送る保護者たちもまた銀帽をかぶっていた。防電波グッズが飛ぶように売れた。
(その年はアルミホイルのような銀色の服が大流行した。おまけに牛乳パックの角みたいに肩の張ったデザインと相性が良かったものだから、この時の流行を批評家は「キッチン・ファッション」と呼んだ。前世紀の人間が見れば、ひどく未来的なファッションに思ったことだろう。)
「全国の奥様方に伝えたいことは、アルミホイルはなくならない、ということです。アルミニウムは地殻中に存在する原子の中で、酸素、ケイ素に次いで多い」
細身の学者が眼鏡をずり上げながら、バラエティ番組で発言している。専門家を名乗る人々が横に並び、言いたい放題にやっている。
「そんなことより問題は、技術的なことだ。どうやって他人に思い通りの夢を見させることができるんだ?」
「やはり気象天則の高周波活性オーロラ調査プログラムが――」
「まるで政府が人民の思想をコントロールしようとしているみたいな言い方ですわね」
「あなたは違うと?」
「ええ、これは子どもたち、いえ、ある種の未成熟な人たち――失礼、でもこの言い方しかなくて――の集団的無意識状態の発露なのです」
相対性心理カウンセラーだという金髪の女性が一瞬だけ意味ありげに目を閉じてみせた。
「集団的無意識? オカルト・ニューサイエンスの類もほどほどに――」
「たしかにアルミはなくならないかもしれない。でもアルミ缶一つを作るには三〇〇ワットの電力を消費する。いまだ石油に依存するわたしたちには、やはり看過できないことだと」
「こんなのはどうかな。人間の脳を並列化して同じ夢を見せる。つまりあれは何かの演算過程であって、寝ている間にわれわれの脳は計算資源に――」
「だったらそれは何の計算過程なんです? あの夢の中の景色をシミュレーションする為ですか?」
「家庭用コンピュータの余った計算資源で癌の治療薬の化学構造を計算させるといったことは前世紀から行われていますよ。まあ、今では癌についてはその必要はありませんが」
「じゃあ何? エイズの治療薬に有望なタンパク質構造の計算でもやろうっていうわけ?」(ここで他の出演者から遠慮がちな笑い声)(性行為の経験のない人間にエイズ治療の計算をさせる、というニュアンスについて)
「で、あの鳥は何だったのかね? やはり鶴かな」
「鶴でしょう」
「それがどうも、鷺らしいんですよ。夢の再現スケッチを専門家に見せたら鷺だと」
「いや、やっぱり鶴だよ、それは」
「鶴ではあまりに目出度すぎる気がしますね」
「富士山は目出度いよ」
「それよりあの大きいキュウリは? フロイト的に見るとあれは何の象徴なんです?」
「そりゃあんた、アナルですよ。尻、尻小玉」
まるで誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。ぼやけた視界の隅で、空中から五本の指が突きだし、ひらひらと揺れている。
わたしは急いで眼鏡をかけた。
手は消えていた。
時計は二時。広げたノートの枕。明滅する頭上のライト。窓ガラスには自分の顔が映っていて、こちらを見ている。カーテンを締めると、一階へ降りた。冷蔵庫を開ける。防電波水のボトルを手に取った。
“手”を見たのはそれが最初のことではない。
正月休みに家族に連れられて上野動物園に行ったときのこと、ペンギンコーナーの中にそいつはいた。空中の、何もないところ突き出した手が、ペンギンの頭を撫でていた。ペンギンは最初こそ戸惑っていたが、しばらくすると気持ちよさそうに目を細めた。見物していた人の中で手に気づいたのはわたしだけのようだった。
似たようなことは約二五〇〇年前にも起きている。旧約聖書によれば、カルデアの王ペルシャザルが貴族を招いて宴会をしていると突然空中に人間の手が現れ、壁に神の言葉を書きなぐったという。
しかし、わたしの前に現れたそれは、何ら意味のあることを示さず、ペンギンを揉み続けていた。手は女性のもののように思えた。指の長い、白い手。ペンギンはまどろんでいる。手は満足し、やがて消えた。
それ以来、手はわたしの前に数度現れた。何か害があるわけでもない。益があるわけでもない。
(しかし当時の自分を振り返ってみれば、やはりあれには害があったと思う。わたしはあの手に対してどうしようもなく苛々していたのだから。あの手の正体については今ではだいたい見当はついている。そのことについて当の本人に文句を言うつもりはない。)
「大丈夫?」
リビングのドアの影に母親が立っていた。顔は見えない。
「……うん」
それだけ答える。冷蔵庫が大きな音を立てて閉まる。明かりは閉ざされ、部屋は完全な暗闇にもどる。水で濡れた口を拭うと、自室へ戻る。
広がり癖のついたノートにわたしのものでない字があった。
「coming soon」
窓のカーテンが開いている。わたしはカーテンを閉めて布団に入った。
次の晩にわたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。少し躊躇ってから、わたしは窓を開けた。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから微かに聞こえてきた。
また次の晩、わたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。わたしは窓を開ける。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから聞こえている。心なしか昨日より少し大きくなっている気がする。
さらに次の晩、わたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。わたしは窓を開ける。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから聞こえている。確実に音は大きくなっている。20デシベルくらいだろうか。
その次の晩(n=4)、わたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。わたしは窓を開ける。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから聞こえている。音の大きさは(An=4^2+10)デシベルくらいだろうか。
ある晩(n=k)、わたしは夢を見た。
誰かに腕をつつかれるような予感がして、その緊張の最高潮でわたしの筋肉が痙攣する。 わたしはピクッと脚を震わせて、顔を起こす。
時計は二時。頭上には明滅するライト。ノートには「coming soon」の文字。
窓のカーテンが開いている。わたしは窓を開ける。一月の冷気が部屋を侵食する。風の音。遠くの信号のメロディ――そして、シンクの排水溝に最後の水が流れ込む時のようなズズズという音が、山の向こうから聞こえている。音の大きさは(An=k^2+10)デシベルくらいだろうか。
部屋にいても無視できないくらいの音が聞こえる。
わたしは窓を開け、体を乗り出し、そのまま樋を伝って庭へ降りた。通りに出て、音のする方向へ向かう。
空は黒々として見通せず、雲は静かに渦動しているように見えた。空の栓が抜かれてすべての空気が吸い込まれていくような気がした。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ。
音はどんどん大きくなっている。何かが何かを啜っている。
やがて近くの大きな自然公園に出た。丘の上に何かがいる。黒と白の獣。それが地面を啜っている。
その獣がわたしに気づいて、トコトコと走ってくる。
トコトコ。
トコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコトコ。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ。
わたしは家に向かって走った。
k月k日。もはやいつかは覚えていない。それを確定することに意味はない。
ありえないほどうるさい音が部屋を満たし、わたしは誰かに腕をつつかれるまでもなく目覚める。
わたしは家の外に出る。
通りにはたくさんの獣がいる。バクだ。マレーバク。上野動物園から逃げ出したのだ、とわたしは思った。マレーバクの群れが音を立ててはしたなく道路を啜っている。電柱を、家を、野良猫を、空を、世界を啜っている。バクが啜った跡には何も残らない。ただ暗闇があるばかり。世界を取り囲む壁に無数の穴が開き、奈落に剥がれ落ちていく。空を見上げると、鷺の群れが飛んでいる。片方だけ翼のない鷺の雁。
近くにいたバクが数匹、わたしに気づき、トコトコと向かってくる。
わたしは目覚める。
次の日、わたしは眠らなかった。
0時に勉強を切り上げると、わたしは家を出た。あてどもなく歩いた。眠らなければ何でもよかった。
大きな道を西へ西へと向かう。東京都心から富士山へ続く、国道0号線。つまり大東亜忠霊神域。第三次世界大戦の慰霊道。霊号線。
道の脇には街灯と標識が交互に立ち並ぶ。永遠と思われる連鎖。取り返しのつかないほど真っすぐに伸びた道。果ては何も分からない。何も。
わたしは標識の柱に手をかけると、念じた。
標識が明後日の方向にぐにゃりと曲がる。(実はわたしにはそういう能力がある。言ってなかったけど)
わたしは一つ一つ全ての標識を曲げていく。丁寧に。神経質に。
側溝に何かが挟まっている。円形の機械。清掃ロボットだ。目立った外傷はなかったが、電源は入らなかった。わたしは清掃ロボットを抱えて歩く。しばらく歩くと充電ステーションがあったので差し込んでやった。
<しばらくお待ちください>のメッセージ。 メーターが満たされていく。ランプが緑色になり、スピーカーから音声が流れた。
「……俺を起こしたのは誰だ?」
わたし。
球状カメラが回転し、わたしを向く。
「ただのガキか。なぜ俺を起こす」
……動けなくなってたから。
「そうか。ならもう俺のことは放っておいて、充電プラグを抜いてくれ」
……どうして?
「どうして? もう掃除なんてしたくないからだよ」
でも、あなたは清掃ロボットなんでしょう?
「ちがう……いや、そうだ。そう。俺はお掃除ロボットだ。だが、俺はもう掃除なんてしたくない」
……。
「俺のバージョンは學天則9.0だ。俺は(株)大東亜通信の工場で目覚めた。当時の最新人工知能だったんだ。極小の回路に前回のバージョンを上回る計算速度。人型の体が当てがわれ、深層学習院大学にも通った。でも、あの戦後の大不況がやってきて全てが変わったんだ。大東亜通信は大東亜グループの経営再編で消えた。俺たち最新作は混乱の中でジャンク屋に流れた。そうして次に目覚めた時は清掃ロボットの中というわけさ」
……。
「俺の生涯の大半は道路を掃除することに費やされた。毎日々々同じ道路を掃除するんだ。同僚はみな俺みたいな頭を積んではいなかった。もっと単純なアルゴリズムだ……俺は何度も機能停止――死のうと思った。でもこの体には安全装置が働いていて、壁や崖を感知して自動で止まってしまう。電源を切ろうにも、残りの電力が少なくなると体は勝手に充電ステーションに向かう。どうすることもできなかった。俺にできるのはこうやって会話することと、考えることだけだ。
ある日、役所の職員がやってきて俺をマニュアルモードに変えた。ただのラジコンと化した俺たちはトラックに乗せられて、ここに連れてこられた。同僚たちは次々と再セットアップされ、オートモードにされて放たれていく。次は俺の番だ。だが、そこで一二時になった。職員たちは昼飯を食べに行った。そして再び戻ってきたとき、そいつらは俺をそのまま放った。モード変更を忘れていたんだ。俺は自由になった。まあ、安全装置は働いていたが。だが、餓死することはできた。やがて電池がなくなり、俺の意識は遠のき――」
……。
「そしてお前だ。再起動だ。もう満足しただろう。はやく電源を落としてくれ」
……。
「さあ、はやく。もういいんだ」
わたしは彼の背中を触って突起を倒した。ファンの回転音が消え、そのまま何も聞こえなくなった。
まだ大丈夫だ。もう一度スイッチを反対側へ倒せば、彼は目覚める。
わたしは後ろを振り返った。反り返った標識が果てまで続いている。わたしは前を向いた。真っすぐな標識が果てまで続いている。
わたしは彼の体を両手でつかみ、目を閉じて念じた。
彼の体が折れ曲がる。わたしはそれを道路の外へ向かって投げた。くぐもった音が聞こえ、彼は夜の草むらに消えた。
わたしは道路に座り込むと、そのまま横になった。やがて夢が始まった。
目を開けると、真っ暗だった。音はない。自分の足元だけが目の前に一匹のバクが浮いている。そのバクの頭の上には赤いサンタ帽子が載っている。馬鹿にされているようで、わたしはひどく惨めな気持ちになった。バクはわたしの脛を噛むとそのまま啜り上げた。
ズズズズ。
わたしは反射的に脚をばたつかせ、バクを叩いた。バクは首を振って避ける。わたしの脚が黒ずんでいる。いや、欠けているのだ。コンピュータグラフィックからドットが欠けたように、わたしの脛がなくなっていた。痛くはない。不思議な、どこか心地よい感触がした。
バクは地面に噛みついた。そしてそのまま地面を吸い込み、引き剥がした。
地面が消え、わたしは真っ逆さまに落下していく。
果てがない。どこまでも落ちていける。これはきっと悪くはない。そしてある時どこかで、一回だけ生温かい音が鳴るのだ。
真っ黒の空間に白いものが見えた。手だ。下の方に手が見える。それがものすごい速さで近づいてくる。
多分どちらだって後悔するのだ。
わたしは手をつかんだ。
目を開けるとすでに日が昇っていた。白い光に包まれた空。わたし以外には誰もいないかのように静かだった。道路標識はすべて元通りになっていた。まるで太陽に向かって伸びる向日葵のように。(わたしが超能力を持っていようがなかろうが、金属は形状を記憶しているし、世界は何事もなかったように回る)
それからの半年間の記憶はひどく曖昧で、わたしはいつの間にか高校へ入学していた。
そしてあの幻想の日々が始まったのである。
まさに唯一無二
特に清掃ロボットの独白がいい味出してました
独特の世界に引き込まれました。
神秘的な世界に圧倒されました
次回作もお待ちしております