雲の欠片が2、3浮かんでいるだけで、今日も空は青白く輝く。
あれほど存在感のあった猛暑も今では随分と大人しくなったが、
やはりまだ若干の暑さの感じられる湿った空気の中、私は今日も妹紅の庵への道を歩いていく。
私と妹紅とのファーストコンタクト、今日と同じようにこの道を歩いていったことを覚えている。
竹林に亡霊が出る。白い髪を振りかざしながら人影がこっちへ走ってきた。夜叉に違いない。
などなど、里の者が不気味がるためその正体を突き止めるために私は竹林を進んでいた。
私も多少は腕に自信はある。最悪里に危険があるようであれば排除する事も厭わなかった。
しかしいざ会ってみると、確かに強力な力を持っていることは解ったが
里の者に対して脅威になるかと言われれば、そうではないだろうということがすぐに解った。
白髪の夜叉。竹林の亡霊。その正体はぼろ家の中で大きないびきをかいて無防備に眠っていた。
興味の湧いた私は監視の意味も含めて度々彼女の元を訪ねるようになった。
初めはこちらを暗く睨むだけで話を聞いてさえくれなかったが、
それにめげずに何度も足を運んだ結果――他人と関わり合いたいという気持ちはどこかしらあったのだろうか――
重い口を開くようになり、私の到来を歓迎するようになり、今ではお互いに多少の心を許せる仲になった。
見た目はまだまだ可愛さの残る少女。
後々、彼女は見た目からは想像のつかないような永い年月を過ごしていることもわかった。
「なぜ人里で暮らさないのか」と聞いてみたところ、
「こんな呪われた体を受け入れてくれるわけがない、それに厄介なおまけも付いてくるしね」
と、少し寂しそうに語った。
ほとんど代えていないであろうそこかしらに繕った跡の見えるぼろぼろの服。
生活臭を感じさせない今にも朽ち果てそうな家。
本来は美しい銀光を放つであろう、こちらが見ていられないくらいぼさぼさの長い髪。
私はそんな彼女をどこか哀れんでいたのだろうか、本人はあまり気にしてない様子だったが
元来の世話好き――お人よしとも言う――が祟り、この少女の面倒を見てあげようと心に決めた。
鬱蒼と茂る竹林を進み、少し開けた場所にぽつんと佇むぼろ家が見えてきた。
その傍らでは膝丈まで短く切ったもんぺ(夏の間はひどく蒸せるらしい)を穿き、
上半身はさらし一枚というあられもない格好をした妹紅が手に持った木刀で一際大きな竹を一心不乱に叩いていた。
「……何をやっているんだ、あいつは」
声をかけようと私は歩み寄った。
パキ、と私が踏んだ竹の枝が小気味良い音を起てて折れる。
ヒュッ
いきなり私の顔を何かが高速で掠めていった。
後方で『ゴッ』という硬いもの同士がぶつかるような音が聞こえる。
こちらを向く妹紅。だがさっきまで手にしていたはずの木刀の姿がない。
「あーごめんごめん、気配を隠してたみたいだからてっきり輝夜の刺客かと思っちゃったよ」
頭を掻きながら妹紅がこちらへ歩いてきた。
さっきまで不快に感じていたはずの暑さは消えており、代わりに冷たい汗が流れる。
「随分なあいさつだな」
バスケットを持つ手が震える。
流石の私でもあれの直撃を食らっていたら只事では済まない。
「いやね、昨日借りた本に嵌っちゃってさ。
私もちょっと剣の道を歩いてみようと思ったわけなのよ」
両手を合わせて上目遣いに妹紅が言った。
昨日貸した本というと、確か宮本なんたらの六輪の書・・・だったっけか。
声をかけても返事をしないくらい夢中になって読んでいた気がする。
「危うく私の顔に突起物が一つ増えるところだったぞ」
伝説の剣豪は己の獲物を投擲するようなことはしなかったと思うが。
「ちゃんと外したでしょ。それより今日は何を持ってきたの?」
「ふむ、まぁそれは見てのお楽しみだ」
先程湧き上がった怒りは妹紅の笑顔を見た途端に生りを潜めた。
そのまま一緒に家に上がった私はバスケットの中からある一つの物を取り出す。
「何これ」
こういった物に疎いのだろうか。
それを手に取った妹紅はしげしげとそれを見つめている。
「それは石鹸という」
「ふーん、いい匂いがするね」
以前から気になっていた妹紅のぼさぼさの髪。
せめて雰囲気だけでも年頃の女性を意識して欲しいと願った私は今回この石鹸を持ってきた。
適当に洗っているのだろうか、今では髪といわず全身から男臭が漂っている。
「そうだ、それは擦ることで汚れを綺麗に……」
そこまで口にした私の目の前で妹紅はおもむろに石鹸に噛り付いた。
「って違う!!」
思わず手元にあったバスケットで妹紅の頭部をぶん殴る。
どうやら怒りはその身を一時的に隠していただけであって、消えてはいないようだった。
ふむ、無事に口内から石鹸は排出できたようだ。
「うへぇ、何これ」
白い泡の残る口を開けたまま涙目に妹紅がこちらを見る。
「人の話を最後まで聞かないからだ。
あと何でもかんでもすぐに口に入れるんじゃない」
食えばわかる。というのは彼の亡霊嬢の専売特許のはずだ。
「どうせ死なないからいいじゃん」
「よくない、それと早く口を洗ってきた方がいいぞ」
言いつけの通り大人しく妹紅は水瓶の方に向かっていった。
「しかし、これはあまりよろしくないな」
まず口にする、というのは感受性が高い証拠だとどこかで聞いた記憶がある。
そんなことはどうでもいいのだが、妹紅は一般人の持つ常識、
日常生活を送るための知識に乏しいところがあるのが問題だ。
この先ずっとこれまでのような隠居生活を送っていると、いずれ霞を喰って生活をし始めかねない。
そうなる前に一度、現在の人間の社会というものに放り込んだ方がいいのかもしれない。
そう考えていると妹紅がこちらに戻ってきた。
「なんか口の中が変な感じがするわ」
「石鹸は物を綺麗にするための道具だ。食べ物じゃない。」
再び妹紅は石鹸を手に持つ。
「で、これで物を擦ればいいの?」
「うむ」
一応話は聞いていたみたいだ。
「衣類や肌の汚れを落とし、さらに石鹸の持つ香りもつけることができる」
「へぇ」
納得したように頷く妹紅。
「言っておくが水に溶かさないと良い効果は得られないから……ってちょっと待て!」
案の定というか、すでに妹紅は手に持つ石鹸を自分の頬に擦り付けていた。
「え、擦ればいいんじゃないの?」
「どうでもいいからとりあえず人の話は最後まで聞け!」
これ以上変なことを起こされないよう石鹸をひったくる。
「うわ、なんか手がぬるぬるする」
「そういうもんだ」
今度里に連れて行こう。
そして社会見学だ。
うん、決めた。
「………くっ、くく」
なんだろう、変な声がする。
妹紅の方を見るとなんだか険しい眼つきになっていた。
「あっはっは!
あなたって本当に面白いわね!」
声のする方を見ると窓――唯単に穴ともいう――から覗き込む人の顔。
空気に流るそれは絹のように柔らかく光沢を放つ黒髪。
くりっとした双眸に宿るは琥珀のような瞳。
可愛らしさと気品を兼ね備える整った鼻。
上品に口元に手を当てて笑うは永遠の権化である月の姫。
「……蓬莱山輝夜」
妹紅の殺し相手がそこにいた。
なぜか額から血を流しながら。
「そこな半獣はお久しぶりね」
「なんだ、今日は珍しくお供も連れずにお散歩かい」
妹紅が相手の言葉を遮りながらスッと立つ。
輝夜の視線はすぐにもう一人の永遠の方に向けられる。
流れ出る血流が見てて痛々しい。
「いきなり不意打ちとはやってくれるわね。まさか私に気付いて木刀を投擲してくるなんて」
「……」
出血のことなど気にもかけず、窓枠に両手をかけてほくそえむ輝夜。
妹紅の方は自覚がないようで、2,3秒間呆けた後「あぁ、あれか」といわんばかりにぽんと手を打った。
あの時の鈍い音の正体はこれだったのか。
よく死ななかったものだ。実際1度死んだかもしれないが。
「ちょっと頭にきたからこっちも奇襲でお返ししてあげようと思って様子を見てたんだけど」
なかなか上手いことを言う。
月の姫は洒落の方も教育がなっているらしい。
「妹紅……、あなたがここまで物知らずだとは思わなかったわ」
くくくっ、と思い出し笑いをする輝夜。
一方の妹紅はさっきまでの事を思い出したのだろうか、赤い顔で震えている。
今にも付近一帯を焦土と変して鳳凰が産声を上げそうだ。
「今日は面白いものが見れたからこのまま帰ることにするわ」
ふわっ と輝夜の姿が窓から消える。
「ちょ……待てぇ!」
気勢を逸らされたのか、ワンテンポ遅れて妹紅が反応する。
扉をぶち破りそうな勢いで駆け出した妹紅につられて私も外に出ると、輝夜はすでに竹林の上に浮いていた。
「今度家に来たときは食べきれないくらいの石鹸でおもてなししてあげるわ」
笑い声と共に何かが降ってくる。
反射的に妹紅がそれを受け止める。
「これは・・・私の木刀?」
『 笑 』と血文字の書かれているそれを妹紅が地面に叩きつけた時には輝夜の姿はもうどこにもなかった。
今から追いかけても道中で追いつくのは無理だろう。
むざむざ敵の陣地のど真ん中まで単身乗り込むのは無謀だと私は判断する。
といっても彼女がそれをしないわけがない。
「慧音、ちょっと行ってくるわ」
言うが早いか火の鳥と化した妹紅は瞬く間に空に浮かび、あっという間に視界から消えた。
恐らくは鈴仙、永琳も出張ってくるであろう弾幕戦を想定した私には、その結末も容易に想像できた。
後始末をする身にもなってほしい。
妹紅の代わりに軽く部屋の掃除をし、衣類の洗濯をして竹で組んだ物干し竿に洗濯物を全て引っ掛けた。
お茶を入れて一息ついていると、ぼろぼろになった妹紅を背負った鈴仙がこちらへ飛んできた。
「どうもご苦労様」
「いえ、いつものことなんで」
苦笑いをする宇宙兎と軽い挨拶を交わした私は、なぜかいい香りを放つ妹紅を受け取った。
「あと、これは姫からです」
饅頭箱のような物を受け取る。
蓋には『永遠の芳香―ギフトセット―』と書かれていた。
「師匠が作った石鹸です。よかったらもらって下さい。
後々里の方にも卸す予定なので試供品ってことで」
「ありがとう、折角だから頂くとするよ」
わざわざ持ってきてもらったのだ。ありがたく受け取っておこう。
礼を返すと鈴仙はすぐに踵を返し元来た方向へと飛んでいった。
せめてもう少し長いスカートを穿け、と今度忠告しとこう。
私は石鹸セットを片手に妹紅を担いで部屋の中まで運んだ。
呻き声を上げる妹紅を見ながら飲みかけのお茶を啜る。
露出が高いこともあり生傷がかなり目立っていたが、そのほとんどはすでに塞がりつつあった。
「この様子だと後1時間というところか」
今回は特に大きな外傷はなかったため、放っておいても大丈夫だろうと考えた。
お茶を飲み終えてさらに50分後、至って普通に妹紅は全快した。
「輝夜のやつ、私を見るなり笑いながら石鹸を投げてくるんだよ」
衣類は洗濯していたため、服装はそのままで妹紅は話し始めた。
私の出したお茶を苦々しそうに啜っている。
結局むきになって突っ込んだ妹紅はそのまま輝夜の放った弾幕にあえなく撃ち落とされたそうだ。
そして、地面に伸びてる間に顔中石鹸まみれにされたらしい。
「なんか久しぶりに屈辱ってのを感じたよ」
「まあわざわざ本拠地に乗り込んで行った時点で結果は見えてたがな」
「う……」
がっくし、と肩を落とす。
「とりあえず風呂にでも入ってきたらどうだ?私はその間に夕餉の準備をしておくから。
食事が済んだ頃には代えの服も乾くだろう」
「うん、そうする……」
緩慢に立ち上がる妹紅。
「そうだ、これを使うといい」
さっき鈴仙から貰った石鹸としゃんぷーを渡す。
「何これ」
「言っておくが飲み物ではない」
「う、分かってるよ」
「この入れ物に入った液体は髪の毛専用の洗剤、だそうだ」
って説明書に書いてた。
「ふーん、こんなのも持ってきてたんだ」
石鹸と同じようにしげしげと見つめている。
「ああ、それは私が持ってきた物じゃない。とある人物から貰ったものだ」
「なんか嫌な予感がする」
ラベルには『永遠の芳香―頭髪用―』と書かれていた。
ついでに手に持った石鹸を裏返すと、輝夜をモチーフにしたらしいキャラが掘り込まれていた。
それを確認した瞬間妹紅は無言でその石鹸を握りつぶす。
「あいつ……」
「物に当たるのはよくないぞ。少なくともその石鹸に罪はない」
確かにその気持ちは分からんではないが。
「分かってるよ」
そう言うと妹紅はそのまま風呂場の方に向かっていった。
「さて、私は夕餉の支度をするか」
風呂といってもこれから水を沸かさないといけないので多少時間がかかるはずだ。
それにあの長い髪を洗うとなると結構な作業になるだろう。
私は持ってきた野菜をバスケットから取り出すと、そのまま調理台へと向かった。
「いやー、思ったよりよかったわ」
ほくほく顔で漬物を齧りながらそう言った。
風呂に入る前とは打って変わって妹紅からは上品な香りが漂っている。
ふむ、後でいくつか私も貰っておこう。
「結局両方使ったみたいだな」
「まぁお手並み拝見したかったからね」
笑顔のまま妹紅は美しく光沢を放つ銀の髪を掻き上げた。
火の光に照らされて流れる落ちる光線は月の姫のそれと比べて全く遜色はない。
いいなぁ、しゃんぷーも頂いていこうかしら。
「ところで妹紅」
「ん、何?」
話題を変える。
折角の機会だ。こういう時に提案しないと今度はいつチャンスが巡ってくるかわからない。
「少し里で暮らしてみないか」
返事はない。
「今の里には恐らくお前の知らないものが沢山転がっている。
いい機会だから人間の文化というものに触れてみないか?」
「うーん……」
渋い顔をしているが拒絶はないようだ。
もう一押しか。
「それにこのままだとまた輝夜に世間知らずだと笑われるぞ?」
「それは嫌だな」
「なに、いくらあいつでも里の者をいきなり巻き込むようなことはしないだろうさ」
「そうだねぇ」
「里での世話なら私も少しはできる。そんなに長い間、とは言わないから」
少し沈黙が続いた後返事が返ってくる。
「……たまにはそんなのもいいかもね」
そう言うと妹紅はもう一度長い髪を掻き上げた。
どうやらしゃんぷーがよほど気に入ったらしい。
そのまま庵に泊まった私は、朝餉を食べ終わると妹紅を連れて里に帰ってきた。
「おや、慧音さん。今お帰りですかい?」
「ああ、今戻ったところだ」
里の入り口で見張り番をしている男に声をかけられる。
「ところでそちらのべっぴんさんは?」
「うん、紹介しておくよ。藤原妹紅という。少しの間厄介になるだろうがよろしく頼む」
「いやいや、慧音さんのお頼みとあらば私らも懇切丁寧に承りますでさぁ」
「感謝する」
ちら、と妹紅の方を伺う。
少し緊張しているのかその表情は固い。
「藤原さん、でしたかな。私は那切留蔵と申します。
普段は『那雲』という飯屋におりますので、何か困ったことがあったらいつでも訪ねてくんさい」
にかっ、と笑う留さん。
もういい年だというのに相変わらず屈託のない笑顔だ。
その顔を見て緊張も解けたのだろうか。
妹紅の顔から固さが消える。
「はい、こちらこそよろしくお願い致します」
ぺこっと頭を下げ、まるでどこぞのお嬢様と言わんばかりの挨拶をしていた。
門を潜るとそこはもう商店街。
通りにはいくつもの店が立ち並び、通行人の数も多い。
「いやー、久しぶりに来たけど随分賑わってるねぇ」
きょろきょろと物珍しそうに周りを見ながら妹紅は歩く。
「しかしさっきのお前、まるでどこかのお嬢様だったぞ」
つい可笑しくて笑ってしまう。
「んー、ある程度礼儀作法は叩き込まれたからね。
まさか私にまだ礼節が残ってたなんて、こっちが驚いたよ」
そう言ってすぐにまたきょろきょろと周りを見始める。
なんとなく気品があると思っていたが、なるほどそうだったのか。
着物を着た妹紅を想像してみると違和感の欠片も感じられなかった。
路地を曲がってさらに進む。
一つ大通りを外れると人気は一気に途絶え、あれほど騒がしかった喧騒も掻き消える。
住居の立ち並ぶこの通りをさらに進んだ先に私の住んでいる建物がある。
先程までとは言わないが、まだ物珍しそうに辺りを見回している妹紅を連れて私は歩いていく。
「そういや飛んで行かないんだね」
急に妹紅が口を開いた。
「人の視点で歩いた方がいいかと思ってな」
「なるほど」
それきり口を噤み、2人しててくてくと歩く。
「さあ、着いたぞ」
「ここは?」
「私の家だ」
玄関の鍵を開け、中に入る。
手入れの行き届いた空間は妹紅の庵とは比べ物にならないくらいの生活感が詰まっている。
「へぇ」
と言ってまた妹紅はきょろきょろとし始める。
意外と落ち着きのない娘だな。
「私は昼から授業があるから、その間妹紅は里を見てくるといい」
水瓶から汲んだ水で抹茶を溶かす。
「え、慧音は一緒じゃないの?」
少し驚いた顔をして妹紅は湯飲みを受け取った。
「夕方には終わるから、それに私がいると羽目を外せないだろう?」
「いや、そんなことは……」
ばつの悪そうな顔をして妹紅が答えた。
「慧音が帰ってくるまで本でも読んで待ってるよ」
「一応駄賃は渡しておくから適当に遊んでくるといい」
妹紅のことだ、すぐに外に飛び出していってしまうに違いない。
それから少し里の話をした。
私の開いている寺子屋の話も。
それから昼食を摂ってお茶を飲んでいると、生徒達がやってきた。
「慧音せんせーこんにちはー」
「こんにちはー」
「こんにちは。今日も元気でなによりだ」
代わる代わる子供達の頭を撫でていく。
横を見ると妹紅がぼけーっとこちらを見ていた。
「あそこにいるのは私の友達の藤原さんだ」
急に呼ばれた名前にびっくりしたのか、妹紅がおどおどし始める。
「藤原さんこんにちはー」
「こんにちはー」
「…あ、う」
「ほら、妹紅もちゃんと挨拶しないとだめだぞ」
生徒の前なので少し偉そうにしてみた。
「あ、こ、こんにちは」
照れながら挨拶を返す妹紅に子供達が殺到する。
「うわー、綺麗な髪の毛ー」
「すげぇ、光ってるぞ」
「さらさらー」
子供達は妹紅の長い髪に興味を惹かれたらしい。
一瞬で妹紅はもみくちゃにされ、その長い銀髪を触られたり引っ張られたり頬擦りされたりしている。
「ちょ、慧音!どうにかしてよ!」
「よかったな、もう皆の人気者だ」
「うわー、いい香りー」
「本当だ、すげぇ」
妹紅の方もまんざらではなさそうだが、そろそろ開放してやらないと可愛そうだ。
「ほらほら、そこまでにしなさい。あんまりくっつくとお姉ちゃんに怒られるぞ」
「はーい、せんせー」
「はーい」
散々弄ばれたはずの妹紅の髪はそれでも艶と均整を崩さずにいる。
今度永遠亭にあのしゃんぷーを貰いに行こう。
「じゃ、じゃあ私は上に行ってるから」
そう言うと妹紅は逃げるようにその場を後にした。
それを見届けた後私は子供達の方を向く。
さて、ここからは私の時間だ。
「よし、みんな席につくんだ」
私はいつものように授業を開始した。
「はぁ、いきなりだからびっくりしたわ」
子供達から逃げるように2階に上がった私はその場にすとん と腰を下ろした。
子供に直接触れるのは何年ぶりだろう。
さっきまで弄られていた髪に触れてみる。
さらさらと零れ落ちる感覚に私は嬉しくなり、思わずにやけてしまう。
「さて、どうしたもんかね」
部屋を見渡すと大量の本が目に入る。
慧音の授業も気になったが、いきなり参加しようとは思わなかった。
「終わるまでこれでも読んでますかね」
適当にその中から一冊を取り出し、私は本を読み始めた。
「……飽きた」
20分も経たない内に飽きた。
幻想郷の歴史が記された本。
予想はしていたがあっさりと私はそれを本棚に戻した。
私は本を読むこと自体興味が失せてしまったため、そのまま少し寝転んで天井を見る。
ポケットに手をやると慧音からもらった小遣いがちゃら と音を起てた。
下からは慧音が何かの授業を行っている声が聞こえる。
私は立ち上がって階段に向かった。
「まぁ貰ったものは有効活用しないとね」
階段を下りると慧音の声がはっきりと聞こえるようになった。
「じゃあ次はこの計算だ。
……おや、お出かけか?」
こっそり出て行こうと思ってたがすぐに見つかった。
一斉に子供達の顔がこちらを向く。
…ちょっと怖い。
「うん、ちょっと出かけてくるよ」
「そうか、できれば夕飯には間に合うようにな」
「わかった」
私が入り口の方に背を向けると、
「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃい」
と声をかけられた。
振り向くとまだ子供達の目は私に注がれたままだ。
「……いってきます」
笑って返事ができたと思う。
そのまま私は靴を履いて玄関を出た。
「たまにはこういうのも悪くないかな」
うん、悪くない。
少し空を見上げ、一度振り返って慧音の家を見た後私は歩き出した。
朝歩いてきた道を辿って歩く。
この里の地理は慧音に地図を見せてもらいながらだいたいは教えてもらった。
ここは位置的に言えば里の北西の区画にあたる住宅街。
天気もよかったので軒先には洗濯物やら布団やらが随分多く目に付く。
移動するときは大概空を行くが、今日はなぜだかそんな気にはなれなかった。
角を曲がると遠くの方では多くの人が行き来している。
おそらくそこが大通りなのだろう。
自然とそちらの方に足を向けて私は歩いた。
「へい、そこのお嬢さん。とれたての野菜だよ!今夜のおかずに一つどうだい!?」
「霧の湖で捕れた珍しい魚だよ!次の入荷は未定だ!さあ、買った買った!」
「お嬢さん、ちょっと一杯ひっかけていかねぇか?うまい酒の店知ってんだ」
「お薬いかがですか~」
「さあさあ、あの紅魔館から仕入れた茶葉だよ!」
「あー、お兄ちゃんそれ私の団子ーっ!」
朝通ってきた時よりさらに騒がしい。
注意して歩かないとすぐに人にぶつかってしまいそうだ。
「しかしまあ…」
慧音といた時は感じなかったが、今は少し心細かったりする。
こんな喧騒は本当に何年ぶりだろう。
私は周囲から見て浮いてやしないだろうか。
当てもなくふらついていると里の入り口付近までやってきた。
少し疲れたので目に付く茶屋に入る。
「いらっしゃいませー」
どっこらしょっと。
どかっ と窓際の椅子に座ると店員から声がかかる。
適当に茶と団子を注文して店内から外の通りを私は眺めた。
………
ぼーっとしていると湯気の立つ緑茶と団子が私の横に置かれた。
串を掴んで一口齧る。
ん、うまい。
………
湯飲みを掴んで一口啜る。
ん、熱い。
………
………
………おぉ、危うく寝てしまうところだった。
「なんていうか」
外を見ると人が歩いている。
必死に客を呼びとめようとする店の主人。
2人並んで走っていく子供達は兄弟だろうか。
よく見ると妖怪の姿もある。
あのちゃらちゃらした服は以前来た吸血鬼のとこの者か。
さっきまで客を呼び込んでいた主人は今は客の対応をしている。
私は長いことそれらの光景に見惚れていた。
とすっ という音がして私の座る長椅子に誰かが座る。
「いらっしゃいませー」
「えと、お茶とお団子を一皿」
「かしこまりましたー」
聞き慣れた店員の声が耳に入る。
なんていうか。
随分久しぶりに時間の流れる感覚を味わっているような気がする。
ずっと放置されていた湯飲みに手を伸ばし、一口啜る。
ん、うまい。
ふと横を見るとブレザーを着た兎少女と目が合った。
っぷ
危うく噴出しそうになるのを必死で堪える。
「な、なんであんたがここにいんのよ!?」
「なんであなたがここに!?」
ほぼ同時に叫んでいた。
確かこの鈴仙は魔眼の持ち主だ。
下手にガンを飛ばしてえらい目にあったことを思い出す。
視線を逸らして私は答えた。
「ちょっとした社会見学よ」
「ちょっと薬を売りに来てたのよ」
声が重なる。
なんか気まずい沈黙が流れる。
「はい、ご注文の品ですー」
店員がこの空気を見事に粉砕してくれた。
見ると鈴仙は皿を持ってきょろきょろと周りを見ている。
「別にわざわざ席を移らなくてもいいんじゃない?他に空いてなさそうだし」
手元の団子を一つ齧る。
実際店内は満席のようだった。
「はぁ」
諦めたように呟くと鈴仙は湯飲みを持って茶を啜った。
「熱っ」
私はにやにやしながらその光景を眺める。
「……いいじゃないの、熱かったんだから」
「いやなに、ついさっき同じ事をした人間を知っていてね」
にやけが止まらない。
鈴仙はしばらく私の方を見ていると、ぷっ と噴出した。
「それってあんたのこと?」
笑いながら聞いてくる。
「さてね」
私は茶を啜りながら答えた。
「その薬って、売り物?」
「そうよ、結構な評判なんだけど今日はいまいちだったわね」
鈴仙は手元の瓶を撫でながら答える。
「ふぅん、ちゃんと商売やってるのね」
「お金がないと色々苦労するのよ、実際」
「なるほどね」
ポケットの中の小銭に触れる。
慧音の寺子屋の報酬の一部だろうか。
「あなたはいいわね。金銭面の苦労がなさそうで」
「まあね、いざとなったら竹を食べるわ」
もぐもぐと2人して団子を齧る。
湯飲みに残った最後の一滴を啜って私は立ち上がった。
「じゃあ私はおいとまするよ」
「そう、それじゃあね」
「あー、そういえば」
「?」
「この前の石鹸としゃんぷー、結構良かったわ。あいつの顔以外は。」
髪に手をかけて私はそう言った。
手の隙間からさらさらと銀色が零れ落ちる。
目をぱちくりさせた後、鈴仙が笑顔で答える。
「そう師匠と姫に言っとくわ」
視線を交わした後、勘定を済ませて私は茶屋を後にした。
外に出ると夕餉の買出しだろうか、人ごみはさらに増していた。
私は人の合間を掻い潜りながら慧音の家を目指す。
するすると歩いていると、ふと一つの看板が目に入った。
『那雲』って、確か今朝会った男の話していた店だったっけ。
夕食には少し時間があるから、と思った私は何となくその店に入っていった。
「へい、いらっしゃい。…って、確かお嬢さんは」
「今朝方振りです」
店に入るとすぐに見知った顔と遭遇した。
カウンターに腰を据えて気付いたのだが、ここは飯屋。
気付けよ、私。
「えぇと、お酒は置いてあります?」
何も注文せずに出て行くのは悪いと思ったので、とりあえず酒を頼んだ。
「あい、銘柄はどれにしやす?」
「これを熱燗で」
「あいさ」
とりあえず一番安いのを選んでおいた。
食前酒くらい偶にはいいだろう。
目の前に置かれた徳利からお猪口に注いで一口。
ん、うまい。
「慧音さんのお連れの方らしいですが、失礼ですがあまり見かけないお顔ですね。
お嬢さんくらいのべっぴんさんなら一度見たら忘れやしないんですが」
「まぁちょっとした社会見学にね」
舌が滑るのも酒のせいだろう。
私はこれまでのことをこの人の良い店長に話して聞かせた。
「へぇー、それはそれは」
気付くと徳利の数は4つほど増えていた。
「じゃあうちでちょっと働いてみる気はないですかい?お嬢さんの言ういい社会勉強になると思いますよ」
「んー、そうだね。よろしく頼むよ、留さん!」
気分がよかったので乗っておいた。
「いやいや、こちらこそよろしく頼みます」
「んじゃーそろそろ帰るわ」
「あい、では明日の昼からでいいんですね?」
「あっはは、任せといてよ」
勘定を済まして外に出るともう陽は完全に落ちており、
あれほど騒々しかった大通りも今では大分静けさを取り戻している。
「あっちゃあ、慧音に怒られるかな」
口に出してみて『しまった』と思う。
お泊り初日から夕食に遅刻は流石にまずい。
いくら温厚な慧音でも今回は怒られるだろうなぁ。
夜風が火照った体を冷ましていく。
……まぁのんびりと帰りますかね。
道中は暗かったが今日一日で一番気分は良かった。
こればっかりは酒のせいだけじゃないと思う。
帰ったらこっぴどく説教された。
次の日、私は慧音に揺さぶられて目を覚ました。
昨日に続く快晴。
2階の窓からは心地よい朝日がさしている。
昨日は色々あって疲れたと思っていたのだが、目覚めは意外とすっきりしていた。
こんなに気分よく眠れたのも久しぶりだ。
慧音の朝ご飯を気持ちよく食べることでこの感謝の気持ちを表現しよう。
どうやら3杯目で私の感謝の気持ちが伝わったらしい。
「お前は私の家の米を食い尽くす気か?」
「だっておいしいんだもん」
そう言うと慧音は何かごにょごにょ言っていた。
照れる慧音を見るのも久しぶりだ。
「そういえば昼から留さんの処で働くんだっけ」
「うん、これもいい社会勉強かなと思って」
食後の茶を啜りながら慧音と話す。
「うむ、いい心掛けだ。だが接客業というのは意外と難しいぞ」
「やってりゃ慣れるよ」
「まぁそう言うがな……」
仕事の事について色々と慧音から話を聞いた。
妖怪が来ても驚くな、だの。
笑顔を忘れるな、だの。
注文はちゃんとメモをとるように、だの。
客にせがまれて一緒に酒を飲むな、だの。
ほとんど勉強会に近かった。
「ふむ、そろそろ時間かな、そこでちょっと待っててもらえるか」
話が一区切りついたところで慧音がそう言って席を立った。
「まぁなんとかなるから、慧音は心配しなくていいよ」
「そこが心配なんだよ」
やれやれ、と言った顔で何かを持ってくる。
「……その服は?」
「いつもの服装だと明るさがないだろう?」
といって手渡されたのは紅色の着物。
「お前に似合うと思ってな。昨日のうちに用意しておいたんだ」
しばしその着物を眺めてみる。
「顔がにやけてるぞ」
真顔で眺める。
けどやっぱりにやけてしまう。
「ありがと、慧音!」
「着付けは手伝うから、ちょっとこっちに来なさい」
私は着物を掴むと急いで慧音のところまで行った。
こういうのを着るのも何時以来だろう。
本当、久しぶりのことだらけだ。
「うん、何と言うか。思った以上だな」
姿見に映る自分自身を眺める。
慧音が言っていた通り、この色は私の髪の色によく合ってる気がする。
昨夜風呂に入った時もあのしゃんぷーと石鹸を使った。
そのせいか肌の色までいつも以上に健康的に見える。
ついでだから髪留めも借りて長い髪を結わえてみた。
……あなたは誰ですか?
姿見に映った自分に聞いてみた。
「うーん、なんか私じゃないみたい」
「まぁそう言うな、元々がお嬢さんだったんだろう?」
「それもそうね」
納得した。
「じゃあ慧音、行ってくるね」
「ああ、暇ができたら私も顔を出すよ」
いつも履いてる靴ではなく、草履を借りて外に出る。
もんぺと違って歩きづらいな。
記憶を辿って歩き方を思い出す。
「……たしかこんな感じで」
すすっ と滑るように歩く。
おお、やるじゃん私。
家を出てしばらく歩くと、昨日私の髪を引っ張っていた子と撫でていた子が向こうから走ってきた。
「こんにちは」
にっこり笑って挨拶をする。
なのになぜか子供達は私を見上げて凍ったようにその場に静止していた。
「ちゃんと挨拶しないとだめだぞ」
慧音の真似をしてそう言った。
途端子供達の時間が動き出す。
「ここここんにちは」
「こっこここんにちは」
何かの冗談かしら。
無事挨拶も返してもらえたことだし私は目的地へ向かって歩き出した。
後ろの方から「ぎゃー」とかいう声が聞こえたけど無視した。
大通りに着く。
相変わらずの喧騒だ。
だけど慣れてしまえばその騒音も活気のあるメロディとして私の耳に届く。
「へい、そこのお嬢さん。とれたての野菜……ですよ、よかったらいかがでしょうか」
「霧の湖で捕れた珍しい魚だよ!次の入荷は……来週です」
「お嬢さん……すいません、何でもないです」
「お薬いかがですか~」
「さあさあ、あの紅魔館から頂いたお茶の葉ですよ」
「お兄ちゃん見て、すごい綺麗な人ー」
あれ、なんか違和感を感じるのは気のせいかしら。
昨日は必死になって避けていた人の流れなのになぜか今日は皆が道を譲ってくれる。
なので目的地には簡単に辿り着くことができた。
暖簾を潜って店に入る。
「へい、いらっしゃい、ませ」
昨日と同じようにすぐに留さんは見つかったので早速挨拶をする。
「どうもこんにちは、不束者ですが本日は何卒よろしくお願い致します」
ぺこりと頭を下げる。
……何よ、この沈黙は。
留さんを見てみるとさっき会った子供達と同じように固まっている。
というか同じように凍りついてる店の外の人だかりは何なのよ。
「あー、留さん?昨日話してた藤原妹紅だよ。
とりあえず動いてくれないかな。どう突っ込んでいいのかよくわかんないから」
ビクリ と震えた留さんが動き出す。
「な…お嬢ちゃん…かい?」
「だからそう言ってるでしょ」
青くなっていた留さんの顔に赤みが戻る。
ひょっとして血流も止まってたのか。
「いやあ、一瞬誰だかわからなかったよ」
「あー、私もそう思った」
後ろの集団の時間も戻ったようだ。がやがやと煩い声が聞こえる。
「じゃあとりあえずよろしく頼むよ」
「その格好でやんのかい?」
「その為に着てきたんだけどね」
「あいわかった、こちらこそよろしく頼むぜ」
こうして私の仕事は始まった。
やってりゃ慣れる、とか思ってたら最初からすごい混雑して大変だった。
夕方になっても客足は衰えなかった。
そのため、食事処のはずなのに客に時間制限が設けられた。
「はいお客さん、そろそろお時間ですよ」
「後1分、後生だから後1分だけ!」
「だめです」
カウンターにしがみつく客を力ずくで引き剥がして勘定を済まさせる。
まさか接客業がこんな力仕事だったなんて思いもしなかった。
「大分有名になっているみたいだな」
入り口の方から聞き慣れた声がする。
そちらに顔を向けると授業が終わったらしく、慧音が店にやってきていた。
「あ、慧音」
「どうやらその様子だと心配することもなかった様だな」
慧音はそのまま空いたカウンターに座ると留さんに酒を注文した。
「昨日私に暗くなる前から酒を飲むな、って言ってなかったっけ?」
「そんな歴史は無かった気がするが?」
そう言うと慧音は美味しそうに酒に口をつける。
そういや私もお腹空いたな。
「そろそろ休憩していいよ、腹も減っただろう」
いい具合に天の声がかかる。
「待ってました」
「ここだとなんだから奥の座敷で食べるといい」
留さんがそう言った途端に店中から非難の声が上がる。
そんな声より飯の方が重要だ。留さんが何か叫んでいる中、私はさっさと奥に引っ込んだ。
「慧音もこっちに来なよ」
「ん?いや、さすがにそれは…」
ちら と店主の方を向く。
「いいですよ、お姫様の頼みとあっちゃあ断れねぇ。
それに慧音さんは私らには特別な存在ですので」
「そこまで特別視されると逆に困るんだがな。まぁ折角なので上がらせてもらうよ」
「どうぞどうぞ」
店主に押されて慧音も座敷に上がってくる。
他の店員が私の前に料理置いてそそくさと去っていった。
目の前には慧音と料理とお酒。
「それ一口頂戴」
「仕事中は禁酒だろう」
私の願いはあっさり却下される。
「どうだ?実際に働いてみて」
「うん、悪くはないね」
私は思ったことをそのまま口にした。
目の回るような仕事の忙しさ。
常に店内を意識している時の緊張感。
料理を運んだときのお客さんの笑顔。
妖怪と一緒に酒を飲むおじいさん。
町娘達との会話。
私が注ぎすぎて泥酔させてしまった男の寝顔。
そのどれもが私にとって新鮮だった。
「最初は私の方としても賭けみたいなものだったが、どうやら良い目が出たようでなによりだ」
そう嬉しそうに言ってさらに酒を飲む慧音。
目の前でこんなに楽しそうに飲まれので思わず酒をひったくりそうになったが、自重しておいた。
酒を眺めながらもくもくと箸を動かし続ける。
「…なにやら店の方が騒がしくなったな」
食事に夢中だったので言われて初めて気がついた。
夕餉時になったのでお客が雪崩れ込んで来たのだろう。
「ちょっと見てくるね」
「ああ、私はこれが空いたら家に戻ることにするよ」
徳利を摘む慧音を後に私は戦場へと帰還する。
「ああ、お嬢ちゃんいい所に。
あそこのお客さんがお嬢ちゃんをご指名なんだよ」
顔を出すなり少し困り顔の留さんと鉢合わせする。
いつから指名制度まで出来たんだこの店は。
けどお客の指名とあらば仕方ない。
私はそそっと奥の座敷に向かっていった。
「いらっしゃいませお客様、ご注文はお決まりでしょうか」
かなり貫禄のつき始めた営業スマイルを展開する。
「そうね、この店で一番の料理を頂戴」
目の合ったそいつはそう宣いやがった。
笑顔が固まる感覚を初めて知った。あまり知りたくもなかった。
「なんであんたらがここにいんのよ」
「あら、私だって里に来るときもあるのよ」
普段の十二単ではなく簡素な着物を着てはいるが、それでも十二分に周囲の視線を釘付けにする月の姫。
その対面には、こちらも同じく簡素な着物を着て背筋正しく正座をする月の頭脳。
その横で必死にこちらと目を逸らそうと努力している、いつもよりなんとなく小さく見える薬売り。
なるほど、情報源はこいつか。
精一杯の殺意をぶつけると鈴仙はさらに小さくなった。ついでに店内から音が消えた。
「かしこまりました、少々お待ちください」
「1分、それ以上は待たないわ」
私のスマイルに亀裂が入る。
「姫、それだとご飯と白菜しか出てきませんよ」
「じゃあ5分で許してあげるわ」
勝ち誇った顔の輝夜。
恐らく普段の私なら確実に沸点を1万度程突破していただろう。
笑顔を固める感覚は思いもかけないところで役に立っていた。
「かしこまりました」
「それとこの店は食前に茶の1杯も出さないのかしら?」
私は無言で調理場へ向かうと留さんに指示を出した。
毒丼大盛りにしてやろうかと思ったが、あの面子だと鈴仙だけにしか効果がなさそうだったのでやめた。
さすがに昨日の今日だったので、私の良心が必死になって押しとどめてくれたおかげである。
湯飲み3つにお茶を入れると私は踵を返した。
いつの間にか店内から客はいなくなっていた。
「お待たせいたしました」
それぞれに湯飲みをさしだす。
「ちょっと待ちなさい」
「はて?」
「何で私のお茶だけ現在進行形で沸騰し続けているのかしら?」
輝夜の前にはぐつぐつと音を立てる湯飲みが時折カタカタと震えながら置かれている。
単に私から溢れ出した熱量が形になっただけだ。
「当店のサービスでございます、お客様」
「あら、意外といけるわね」
「あ、本当ですね」
「ありがとうございます」
「ちょっと待ちなさい」
「まだ何か?」
永琳と鈴仙はごく普通にお茶を飲んでいる。
永遠亭での輝夜の位置というものが微かに見えたような気がした。
「私は猫舌なの。冷たいお茶を頂戴」
「面倒でございます、お客様」
おっと、つい本音が出てしまった。
「へぇ、ここは客の要望を真っ向から拒否するような店なのね」
だめだ、このままだと私だけじゃなくて留さんの店に迷惑をかけてしまう。
私は極限まで悪党を追求しました、というようなしたり顔でこちらを覗き見る輝夜。
この女最初から計算に入れてたな。
「申し訳ございません、ただいまお持ちいたします」
「10秒よ」
私は氷上を滑るかのように調理場へ戻った。
着物を着ているため普段の様に走れなかったが、人間やればできるものである。
新しい湯飲みを用意して同じように戻り、輝夜の前にそれを差し出す。
きっかり10秒。
永琳と鈴仙は私を何か変なものでも見るような目つきで眺めていた。
「それでは私は厨房に戻ります」
「ちょっと待ちなさい」
「何でしょうか」
「私にはこれは唯の氷にしか見えないのだけれど」
「その通りでございます、お客様」
空中でいきなり火花が散る。
なるほど、この言葉は実体験からきた言葉だったのか。勉強になった。
「姫、恐らくさっきのお茶にこの氷を入れれば良いとのことなのでしょう」
「その通りです。お客様自信のお好みの温度に調整して頂けると思ってこれをお持ち致しました」
ナイスフォローだ、流石は月の頭脳。
「なるほど、良くわかったわ」
そう言いながら氷を摘み、未だに煮えたぎるお茶の上にそれを持ってきたところでその手が止まる。
「ちょっといいかしら」
「なんで御座いましょうか」
「今氷を入れると確実に溢れ出てしまうのだけれど」
その通り、輝夜だけは表面張力ぎりぎりまでお茶をサービスしてあげた。
現在も沸騰する湯飲みの周りはお茶浸しになっている。
「当たり前で御座います、お客様」
輝夜の指に挟まれた氷が砕け散る。
「なら貴方がやって下さるかしら、温度は適当でいいから。
もちろんそのくらいのサービスはして下さるのでしょう?」
そうくるか。
さすがにここからのカウンターは思いつかなかった。
渋々私は沸騰する湯飲みから氷の入った湯飲みの方へお茶を移した。
パキパキという音を立てて普通のお茶が完成する。
「どうぞ、これくらいでよろしいでしょうか」
「そうね、まあ良しとしましょう」
私は多少熱さには耐性がある。
鈴仙は目が点になっていたが、永琳と輝夜は別段気にした様子もなかった。
やはり客は神様なのだろうか。絶望的な戦いを前に私の心は少し暗くなった。
とぼとぼと厨房に戻った私に留さんから声がかかった。
どうやら料理が出来上がったらしい。
「お嬢ちゃん、最初の品だ」
「あ、わかったわ」
まずは味噌汁、刺身、ご飯を席に運ぶ。注文を受けてから4分48秒、これなら文句はないだろう。
「お待たせ致しました」
食器をそれぞれの前に置く。
輝夜のだけ箸も含めて全て鉄製なのはただの嫌がらせだ。
「へぇ、これがこの店一番の料理?」
「はい、存分にお召し上がり下さい」
案の定輝夜のチェックが入る。
「これだと1分で出来そうなのだけれど」
「これらがお済み次第、次の料理を持ってきます」
「ふぅん、ところでちょっといいかしら」
「毎度毎度なんで御座いましょうか」
「何で私の箸は鉄製なのかしら」
「月の姫ともあろう方にお出ししても恥ずかしくないと思われるものを考えた結果がこちらです」
「鉄なのね」
「左様です」
ここは勢いで誤魔化すしかない。単なる思い付きだったのだから。
「これなら箸より重たいものを持った事がないと言っても多少の言い訳にはなるでしょう」
「意味がわからないわ」
同感だ。
「それとも月の姫ともあろうお方が鉄の箸如きに跪くと言われるのでしょうか」
「店員が客を試していいとでも思っているの?」
尤もな意見だと私も思う。
私たちの向かいで仲良く夕食を食べる2人がやたら眩しく感じる。
こっちのことなど見てすらいないのだろう。
「この刺身はなかなかいけるわね」
「師匠、これは何て言う魚ですか?」
「あぁ、これはね…」
なんだろうこの空間は、こんなことなら我に帰らない方がましだったかもしれない。
「姫、早くしないとお味噌汁が冷めてしまいますよ」
と思っていたら思わぬ助け舟が入る。月の頭脳、恐るべし。
「…それもそうね」
仕方ないといった面持ちで輝夜が鉄の箸を持つ。
じゅっ
「熱っ!!」
すぐさま私は予め用意しておいた濡れ布巾で輝夜の手を包み込む。
もう片方で熱した鉄の箸も押さえ込む。ジュウゥゥ という音も一緒に押さえ込む。
「ちょっと、このお箸熱いじゃないの!」
輝夜の目が本気だ。その証拠に少し涙目になっている。
「なんのことでしょうか、お客様」
鍛えた営業スマイルをここぞとばかりに決めてやる。多分今日一番の笑顔だったと思う。
「多少重いだけで至って普通の箸ですが?」
「この……!」
「姫、食事中に立つのは行儀が悪いですよ」
神宝を持って立ち上がった輝夜を永琳が叱責する。
永遠亭で下克上でもあったのだろうか。
「私達は今日は外食をしにここへやってきているのです。争い事をしないと初めに言ったのは姫ですよ?」
永琳の言った言葉が止めになったみたいで、輝夜は大人しく席に着いた。
なんか輝夜が可哀想に思えてきたので普通のお箸を持ってきたら、黙って食べ始めた。
私もちょっと大人気なかったかしら。
私が厨房に戻ると留さんが次の料理を完成させていた。
席を見ると2人が食べ終わって何か話をしているのに対して、輝夜はまだ食べ終わっていなかった。
私は厨房でお茶を淹れて自分で飲んだ。
火傷するくらい熱かった。
適当に頃合を見て次の料理を持っていく。
次の料理は大根と椎茸の煮物。
3人の前に料理を出したら、今度は輝夜は何も言ってこなかった。
手持ち無沙汰になったので空になっていた3つの湯飲みを全部下げて温めのお茶を淹れてやった。
厨房から眺めていると今度は3人で普通に会話しているみたいだった。
鈴仙が相変わらず弄られてた。あの娘は見ているとどこか弄りたくなるのはどうやら私だけじゃないみたいだった。
そういえば慧音はもう帰ったのかな、と思って座敷を覗くと布団を被って眠っていた。徳利の数は7本くらいある。
留さんに私も少し飲んでいいかな?と聞くと、客が帰るまではだめだ、と断られた。
仕方ないのでお茶で我慢した。
次の料理は山女の山椒焼き。
私は山椒はそこまで好きではないのだが、これには正直かなり惹かれるところがあった。
料理を出して空いた皿を片付ける。
永琳や鈴仙はともかく、輝夜までが空いた皿を取りやすいように隅に寄せていた。
熱でもあるのかと思って輝夜の額に手を置こうとしたら、私の両目の前に箸が突き出されていた。
「店員が客に手を出していいと思っているの?」「滅相もございません」「今後気をつけることね」
大人しく箸が引き下がったので、そのまま厨房に帰った。輝夜は永琳に箸の使い方について説教されていた。
次の料理は雉子の黒酢煮。
あんまり捕れないけど美味しいんだよね、雉子って。
料理を持っていくと3人ともあっという間に平らげた。
美味しいものは万国共通みたいだ。
席の方では雉子を捕獲する方法がどうとかいう話で盛り上がってるみたいだ。
あいつらのことだ、屋敷中を総動員して雉子狩りをし始めてもおかしくない。
「次が最後の料理です」
「なんだ、もう終わりなの」
「腹八分目というのが侘というものですよ」
「私はもうちょっと食べたかったなぁ」
5分で最高の料理を作れ、とかいう無茶な注文を回避するための苦肉の策だったが、
なんとか誤魔化せたようだ。
最後の料理の乗った皿を3人の目の前に出す。
「これは?」
「人参に見えますね」
「私も人参に見えます」
「その通りでございます」
最後の料理はせん切にされた人参の漬物。
鈴仙は人参を見つめたまま動かない。
ぽりぽり
ポリポリ
「結構いけるじゃない」
「ですねぇ」
普通に齧っている蓬莱人達。
「姫が普通に人参を食べてる……」
「私も人参が食べたくなる時くらいあるわ」
「ウドンゲ、あなたにはもう少し侘寂を嗜む心が必要ね」
同時の突っ込み。
一瞬だけしょぼくれてた鈴仙も箸を伸ばして齧りだす。
ぽりぽり ポリポリ ぽりぽり
私はそんな三重奏を聴きながら3つの茶碗に温めのお茶を淹れる。
席に歩いて行くと、唯普通に人参を齧っているだけの3人。
私はそれぞれに茶碗を配り、お愛想を告げる。
「それを飲み終わったら店じまいよ」
「疲れたー」
最後のお茶を出した後、そのまま私は店の奥の座敷に引っ込んで仰向けに倒れた。
留さんからは、「最後の客の会計は俺がいつもやることになってる」と言われたので、
片付けやら掃除やらが始まるまで、とりあえずの休憩である。
横を見ると慧音が赤い顔をして眠っている。
「明日は説教してあげないといけないわね」
いつもと立場の逆転した光景を思い浮かべる。
慧音がどんな言い訳をしてくるのか楽しみでしょうがない。
「おーい、お嬢ちゃん。ご指名だよ」
その妄想は留さんの声によって打ち消されてしまった。
正直もう動きたくなかったりする。というか店じまいにするんじゃなかったの?
亀のような足取りで店内に戻ると、
「やっぱりあんたよね」
「遅いわ妹紅、せっかく待っててあげたのに」
カウンターには輝夜がちょこんと座っていた。
「残りの2人はどうしたのよ?」
「私を置いて先に帰ったわ」
「涙ぐましい主従関係ね」
どっか と輝夜の隣に座る。
留さんの方を見ると……無言で徳利を出してくれた。
今日は見逃してくれるってわけみたい。
「で、今日はどうだったのよ?」
なんか普通に話しかけられた。
私のお猪口に輝夜が酒を注ぐ。
「なかなか楽しかったよ」
なので普通に返事をする。
輝夜のお猪口に私が酒を注ぐ。
「このままここで暮らしてもいいな、とか思ってるでしょう?」
こいつがそんなことを気にするなんて思いもしなかったわ。
注がれた酒を一気に飲み干す。あー、やっぱり美味しいわ。
「まあそれもありかな、とは思ってるわ」
なんでもかんでも酒のせいにするのは悪いと思ったので正直に答える。
輝夜の方は上品に飲む。結局飲み干したけど。
「せいぜい足掻くことね」
ふふっ と輝夜は私に優しく笑いかけやがった。
こいつは……、目の前のこいつは考えたことはなかったんだろうか。
私がいくらがんばっても、いくら高く登っても、
こいつはいつも私の頭の上から私を見下ろしている気がする。
身近にもう一人の蓬莱人がいるからというだけで満足したのだろうか。
そういやこいつって人生の先輩なんだなよな。なんか理不尽だ。
あれ、なんでこんなこと考えてるんだろう。酒の……せいかしら。
あー、だめだな。初めての労働が堪えてるんだ。きっとそうだ。
「妹紅……?」
輝夜の声が遠くに聞こえる。
もういいや、私は寝るよ。
「………」
「………くっ」
……誰の声だ?
「………くくく、あははっ。やっぱり妹紅は頭が悪いわねぇ。私がただの気紛れで酒を注ぐとでも思ってるのかしら」
…
「さて、後はこの石鹸を口に突っ込めばお終いっと♪火傷の恨み、思い知るがいいわ!」
開けた目に映った輝夜の腕を全力で掴み、同時に反対側の手で内腿をつねる。死ぬほど痛かった。
「な、永琳の造ったアレを摂取したら人間なんて目覚めるはずがないのに!?」
慌てる輝夜。普通に猛毒を投与するなよ。
内腿から手を離し、まだ手の付けられてない徳利を握り締める。
「どうせならデスマッチと洒落込まないか?」
私は輝夜の口に無理やり徳利を突っ込んだ。
まあ無理に飲ませても死にはしないだろう。
もごもご言っているがちゃんと飲んでいるようだ。
2合分の酒が輝夜の腹に全部消えたと思ったら眼つきがいきなり変わった。
「いいわよ、ならお互いが交互に一杯ずつ。先にダウンした方が負けよ」
「さっきのはお互い不完全燃焼だったからな。彼岸で酒の河に溺れるといいわ!」
案外何も考えていないのかもしれないな、こいつも。
紅妹って無知なんですかね。流石に紅妹の時代には石鹸はなかったでしょうが…w
心温まる作品でした。次にも期待。
着飾った姿を想像したりと映像的なイメージがわき易く、楽しいお話でした。
>↓↓ 様
どちらかというと世間に疎い、というイメージがあったあのでこんな感じになりました。学習能力とかは結構高いんじゃないかな、とは思っています。
>↓ 様
私の場合概要を決めて書き出すと情景が次に浮かぶので、なんとなく映像的になったりします。そのせいで登場人物が勝手に一人歩きしてしまうことも多いですが…。これからも表現に磨きをかけていきたいと思ってます。
>霞を喰って生活をしはじめない。
しはじめかねない。ではないでしょうか。
ご指摘の点、修正しておきます。感謝です。
口調の方は…全然気に留めてなかったです。orz
『頭』でなく! 『心』で『理解』できたッ!
お腹すいたなぁ