空に輝く太陽が暖かな光を大地に注ぐ。大地を歩く動物達も、大地に根付く植物達も、天より賜る暖かさをその全身で感じ取り、寒さに堪え忍び強張った顔を綻ばせ、その生き生きとした姿を見せ付ける。ある者はこの世に新たな生を受け、ある者は長い眠りから目を覚まし、またある者はその存在を皆に知らしめるため、自らを美しく飾り立てる。大地に住まう数多くの生命にとって、静から動へと変わる時が来たのである。そして、それは、妖怪変化に魑魅魍魎、八百万の神々が闊歩する御伽噺のような世界においてもまた、同じことであった。住人達から幻想郷と呼ばれるこの地にも、春が訪れたのである。
麗らかな日和を楽しむことが出来る春の到来は、幻想郷においても概ね歓迎の色が濃い。未だ記憶に古くない、あまりにも長すぎた冬を思い出し、無事に季節が移ろうことに安堵する気持ちもあるのかも知れない。中には、冬の間しか姿を見せない妖怪との別れを惜しむ者も居るが、その一方で、春の訪れを知らせる妖精との再会を喜ぶ声も聞こえてくる。冬を眠りの中で過ごす賢者の目覚めなどは、悲喜こもごもの声を以て迎えられているらしい。こうした、他者との関わり合いという観点から、最も春を心待ちにしていたのが伊吹萃香である。彼女の望みは、春の恒例行事となっている、幻想郷の住人達が集まっての大宴会に他ならない。
萃香は古くから幻想郷に縁(ゆかり)のある鬼である。外見は幼い少女のようでありながら、鬼の一族であることを示す大きな角を、その頭に左右一本ずつ備えている。酒をこよなく愛する彼女は、いつも携帯している瓢箪から酒を呑み続けており、数百年来の知り合いをして、一度も素面のところを見たことがないと言われるほどの酒豪ぶりである。大小強弱様々な妖怪や神々が住まう幻想郷において、萃香の力は並外れて強い部類に入るであろう。何せ彼女は、妖怪の古参にして重鎮でもある天狗達に対し、かつて、絶対的な支配力を有した存在の一角なのである。鬼の名に恥じぬ凄まじい身体能力に加え、あらゆるものの密度を自在に操るという特異な力を有していることもまた、その事実を裏付けている。そんな彼女が、一度は仲間と共に地上から姿を消し、地底の都で暮らすことを選びながら、再び地上で皆の前に姿を現したのは、あまりにも長い冬のために短くなった花見の季節に不満を覚え、己の力を使って住人達を半ば強制的に萃(あつ)めて宴会を開かせるためであったという。その際、彼女が目論んだ文字通りの百鬼夜行は実現しなかったものの、幻想郷の若い住人達は、架空の、あるいは過去の存在だと思っていた鬼の現存を知ることとなったのである。
さて、既に述べたように無類の酒好きにして宴会好きである萃香は、このたび春が到来したことを大いに喜んだ。早々に宴会が開かれることを切望したが、いつぞやのように能力を用いて無理矢理に人を萃(あつ)めようとすれば、異変を引き起こす元凶として退治されてしまう。そうやって自分を退治しに来た強者(つわもの)と戦うのもまた一興ではあるものの、何度も同じことを繰り返して住人達の機嫌を損ねることは、彼女の望むところではない。ならば、穏便な方法で皆を集めて宴会を開かせようと、宴会の幹事となってくれる者を探したのである。一人目と二人目には、面倒臭い、暇そうなお前がやれ、見るからに忙しそうにしている者に頼むな、この酔っ払い、などと散々に言われた挙げ句に断られたが、三人目は、気が早いと文句を言いながらも、渋々承諾してくれた。
「ありがとう。あんたは話がわかるね。」
萃香が礼を言うと、幹事を引き受けた人間は、もちろんお前も手伝うのだろう、と尋ねてきた。正直なところ、萃香は呑んで騒ぐことに集中したかったからこそ、わざわざ幹事役を人に頼みに来たのである。しかし、ここで断ると、せっかくの宴会が開けなくなってしまうかも知れない。嫌々ながら、仕方なく、萃香は幹事の手伝いをすることにした。と、ここまで正直に、その心情を吐露された幹事の心持ちは、決して快いものではなかった。
「貴方は少し正直すぎる。」
幹事、自称普通の魔法使い、霧雨魔理沙は、いつであったか自分に説教をした偉い人を真似て、そう言った。萃香がその物真似に気付いたのかどうかは定かでないが、彼女は悪びれもせずに言い返す。
「鬼は嘘を吐かないもんさ。」
だったら、せめて口を噤め。思わずそう言いかけた自分自身の口を閉ざし、魔理沙は宴会の要項を書き記すための紙とペンを取り出した。それから二人は、宴会の場所、参加が予定される者、各人の役回り、日時などについて話し合った。場所や役回りについては、いつもの慣例とも言うべきものがあり、それに従ってあっさりと決まったものの、存外に長引いたのが開催日時についての話である。何とか今宵、宴会を開けないかと言う萃香を魔理沙が宥め、諭し、宥め、窘(たしな)め、宥めて、ようやく、明晩開催ということで落ち着いた。
「長い間、春を待ったっていうのに、まだ待つなんて。」
「宴会が大好きなのは解るけどさ、少しは自重しようぜ。」
二人は手分けして幻想郷を廻り、住人達に今回の宴会の要項を伝えた。多くの者は、春の到来から間もなく宴会が開かれることに、呆れたり驚いたりしたが、別段、反対することもなかった。敢えて問題があったとするなら、食材調達担当の魔法使いから、経費は出るのか、と訊かれた魔理沙が答えに窮したぐらいである。
こうして、今春最初の宴会は、その開始時刻を待つのみとなった。萃香にとって、丸一日以上も先の楽しみを待っているこの時間は、今朝、その終わりを告げられた冬と相違ないほどに、長く感じられるものであった。
宴会当日、萃香の昂りようたるや、並大抵のものではなかった。もっとも、常日頃から酒に酔っている彼女の高揚していることなど、日常茶飯事の一言で片付けられてしまうのであるが。太陽が天高く昇りきる前に、その酔っ払いに家まで押し掛けられる魔理沙の苦労は、皆から偲ばれてしかるべきであろう。
魔理沙の住まいにして店舗でもある霧雨魔法店は、幻想郷にただ一つと表現して差し支えのない森の中に建てられている。人里にある実家から勘当され、魔法を用いる何でも屋を営む彼女にとって、魔力を高める茸が採れるこの森は、住まうのに適した環境なのである。しかし、今宵、開かれることになっている宴会の会場は、この霧雨魔法店ではない。それにも関わらず、萃香が朝からここにやって来たのは、宴会の会場である博麗神社の住人が、明けたばかりの夜の再来を心待ちにする萃香に、心底呆れ返ったことに由来する。
「霊夢が冷たくてさ。」
「そりゃあ、当たり前だぜ。」
魔理沙は神社の巫女、博麗霊夢に心から同情した。実は、その霊夢こそ、萃香に暇を潰させる場所として、わざわざ自分の所を指定した張本人であるということを、彼女は知らない。
魔理沙自身も、久方ぶりの春の宴会を楽しみにしていたし、この日、取り立てて他にするべきことがあったわけでもない。結局、魔理沙は萃香を家に上げ、知り合いの魔法使いの話をしたり、自らが収集した魔法の道具や、曰く付きの代物の自慢話をしたりして、時間を潰すことになったのであった。嘘吐きは指を噛まれるという、ワニの魔像。覗くと、とてつもなく恐ろしいものが映る、呪いの鏡。中に入れたお茶がなかなか冷めない、魔法の瓶。ある高名な騎士が持っていたと伝えられる、剣の鞘。曰くの付き具合と実用性の幅が広く、信憑性の限り無く低い魔法の品々の話を、萃香は時折茶々を入れつつ、ケラケラと笑って聞いていた。
日が傾き、幻想郷が紅色に染まり始めた頃、萃香は魔理沙とともに木々と草花の間を歩いていた。普段は当たり前のように空を飛んで移動する彼女らが、何ゆえ、土と草とを踏みしめながら博麗神社へと向かうことになったのか、その理由は判然としない。滅多と歩くことのない獣道を、萃香はどこか新鮮な気持ちで進む。そうしたおもむきと、近付く宴会の時に気分を良くした萃香は、両手に着けた独特の装飾品、鎖に繋がった分銅を振り回しながら、歌を唄いだした。よりにもよって、鬼を退治する屈強な若者の物語を唄ったが、前を歩く魔理沙は、その可笑しさを指摘するつもりがないらしい。
萃香が物語を一通り唄い終えた頃、不意に魔理沙が振り返りもせずに話し出した。
「そういえば、この間、パチュリーがさ…。」
「うん。」
萃香は驚いた。今、魔理沙の言葉に相槌を打ったのは、自分ではない。不思議に思い、体を傾げて見てみると、魔理沙のさらに前を、見知った魔法使いの少女が歩いている。
「あれ、アリス。いつから居たの。」
萃香が尋ねたが、少女、アリス・マーガトロイドからの返事はない。魔理沙も萃香の質問を気に止めず、先ほど始めた話を続けた。
先日、アリスと同じ魔法使いであるパチュリー・ノーレッジが、魔理沙が借りたままになっている本を返せと言ってきたが、その場で紅茶を淹れて他愛もない世間話をしたところ、結局、夕方には何も言わずに帰ったという。萃香にとっては、今朝に聞いたばかりの話であったが、アリスには初めて話すことなのだろうと思い、黙って聞いていた。
萃香は以前、アリスに対し、別にお前が居なくとも、問題なく宴会は始まるだろうと言ったことがある。別に悪気があったわけではないのであるが、アリスがこのことを少なからず気にしていたと、後に魔理沙から聞かされた。そんな自分が、今、ともに歩くアリスの存在に気付いていなかったとあっては、彼女の気分を害したとしても不思議はない。素直に謝ろうかとも思ったが、アリスもその報復として、自分の問い掛けを無視したのであるから、それでおあいこだろうと納得し、控え目に鼻歌を唄いながら歩いた。
やがて、三人が神社の裏手に着いた時には、日はもうほとんど暮れかけていた。社殿の向こう側より聴こえてくるざわめきから察するに、宴会に呼ばれた者達は、既にその大半が到着しているらしい。
「幹事のクセに遅いじゃない。」
丁度、裏手の縁側を歩いていた霊夢は、到着した魔理沙達に気付くなり、不満を口にした。
「悪い悪い。アリスが歩いて行こうって言うもんでさ。」
「そうだったっけ。」
萃香は改めて、自分達が歩いて来ることになった経緯を思い出そうとしたが、これがとんと思い出せない。どうやら昼間から、少しばかり酒を呑みすぎたらしい。かと言って、今から始まる宴会では敢えて自重もするまいと思っていると、アリスが魔理沙に突っ掛かった。
「ちょっと。人のせいにしないでよね。」
アリスは、魔理沙が最初に言い出したのだと言う。すると、魔理沙もすぐさま反論を返し、二人は責任の押し付け合いを始めてしまった。どちらかが嘘を吐いているのであれば、何よりも嘘を嫌う萃香がそれを戒める場面なのであるが、いかんせん萃香には、ことの経緯が思い出せない。アリスは嘘を吐く性質(たち)ではないが、魔理沙が嘘を吐いているという確証もないのである。萃香が対処に困っていると、先に霊夢が痺れを切らした。
「もう良いから、さっさと始めましょう。」
どうやら、先客の手によって、既に乾杯の準備が整っているらしい。問責を免れた二人は途端に機嫌を良くして、皆が待っている拝殿前の宴会場へと足早に歩いて行った。なお、そこは本来、宴会場ではなく参道と呼ばれるべき場所である。しかし、幻想郷と外界との境目に在って、かつ、外界の方を向いて建っている博麗神社の参道を参拝のために歩く者など、皆無に近い。専ら宴に利用されるその場所は、萃香をはじめとする大半の者達にとって、宴会場以外の何物でもなかった。
「まったくもう…。」
「困った奴らだねえ。」
魔理沙とアリスの調子の良さに呆れた様子の霊夢であったが、彼女も早く宴会を始めたかったらしく、二人を追いかけるようにして空中を飛んで行く。萃香もまた、いよいよ始まる宴会に心を躍らせつつ、彼女らを追い越すほどの早足で宴会場へと向かった。
上品な薄紅色の花を咲かせ始めた桜の木々が見守る中、春の到来への喜びを示す挨拶もそこそこに、魔理沙は乾杯の音頭を取った。神社に集まった人間も妖精も、妖怪も神も、多種多様な幻想郷の住人達は皆、様々な盃に満ちた、種々の酒を手に、乾杯の声をあげる。萃香が手に持つ瓢箪もまた、彼女なりの盃であった。
乾杯の一口がもたらす僅かな静寂の後、宴会場は瞬く間に沸き上がった。冬の間、顔を合わせることのなかった者同士が、互いの健在ぶりを喜んだり、笑ったり。日頃から折り合いの悪い者同士が、早々に喧嘩を始めようとして皆から煽られたり、止められたり。何かにつけては人をからかい、嘘八百を並び立てた新聞を作る烏天狗が、宴会場のあちらこちらで皆から鬱陶しがられるのも、もはや恒例行事のようである。その烏天狗が、仮にも昔の上役である自分に挨拶もせず、月の姫君と地上の姫君のいがみ合いなどを追いかけていることに、僅かばかりの寂しさを覚えながらも、萃香は、皆が大いに騒いでいる様子を肴にして酒を愉しむ。
桜の木に凭(もた)れて座る萃香の隣に、突如、空間の裂け目が現れる。幻想を知らぬ者達の欲望が渦巻く裂け目、通称スキマから出て来るのは、ただ一人しか居ない。この幻想郷を幻想郷たらしめる賢者の一人、あらゆる境界を操る最高位の妖怪、八雲紫である。妖怪が蔓延る幻想郷に在って、なお持て余すほどの力を誇る萃香も、この紫のことは対等な友人としてみている。
「もう、起きてたんだ。」
例年、紫は冬の間、眠り通しである。たまに起きていることもあるが、よほどの事情がない限り、姿を見せることは滅多とない。そんな友人と再会出来るということも、萃香が春を歓迎する理由の一つなのであろう。
「なんだ、来てたのか。」
その来場に気付いた魔理沙が、串に刺さった団子を手に近寄ってきた。
「藍から聞いてね。」
紫が少し不機嫌そうにして答える。おそらく、いつも宴会に呼んでもらえないことが不満なのであろう。もっとも、冬の間はずっと眠り通しな上に、いざ呼ぼうと思って探してみると、スキマを使って世界中を飛び回っているため、まったく捕まらないのであるが。確実に連絡を取る手段もないではないが、そのためには美味しい油揚げ一枚を要する。そもそも、何も言わなくとも勝手に宴会場に現れるこの妖怪に労力を割くのは、無駄以外の何物でもないというのが、幹事をする者の暗黙の了解であった。当人もそのことは十二分に理解しているらしく、実のところ、拗ねる振りをしているだけなのである。紫は魔理沙の手から串団子を奪い取り、文句を言わせる間もなく、それを食べ始めた。
「意地汚いね。メシを食いたけりゃ、自分で取りに行きなよ。」
萃香が窘(たしな)めるも、紫はまったく聞く耳を持たない。魔理沙も串団子に執着するつもりはないらしく、紫の使役する式神は元気か、などと世間話を始めた。変わりがない、なさすぎて詰まらないぐらいだと紫が答える。何かあったらあったで怒るのだから、わがままな話だ。魔理沙の苦笑には、そんな思いがあったのに違いない。
ここに至り、萃香はいよいよ、異変に気が付く。何百年来どころではない友人、紫が、先ほどから自分に対して何の関心も示さない。ついさっきまで、自分とともに行動していた魔理沙も、こちらには一瞥もなしに紫と話を続けている。
「おい。」
語気にほんの僅かな不快感を含め、萃香は二人に呼びかけた。しかし、どちらも自分の声に反応した様子はない。
「なあ。」
今度は、やや怒りを伴った声を発する。それでも、紫と魔理沙は二人だけで会話を続けている。
「紫!」
ついに声を荒げる。ところが、二人はまったく動じない。
「おい、魔理沙!」
相変わらず自分を無視する魔理沙の右肩を掴もうとして、萃香は左手を伸ばす。しかし、その手は肩に届けど、触れることなく空(くう)を掴む。これに驚いた萃香は、両腕をバタバタと動かし、二人に触れようとするが、その腕は見事に相手をすり抜けてしまう。唖然として、試しに自分の左手首を右手で掴んでみると、両手にはいつもと何ら変わりのない、当たり前の手応えがある。とうとう、わけが解らなくなった萃香は、己の持つ妖力を拳に籠め、紫を殴り付けた。人間である魔理沙はともかく、紫は、仮に全力で殴ったとしても死にはしない。しかし、その拳も、虚しく空(くう)を穿つばかりである。二人はこの間も話を続け、今日という日の暖かさと、掛け布団の厚いのと薄いのとの交換時期などについて語り合っている。
「なんなんだ。」
思わず呟く。未だ、萃香には現状が理解できない。
考えてみれば、神社に向かって歩いていた時から、自分は誰とも会話をしていない。おそらく、あの時、既に異変は始まっていたのである。してみると、この異変の原因は何か。まだ日の高い頃には、魔理沙の家で、彼女の自慢話を聞いていたはずである。それから、魔理沙とアリスが揃って神社に向かって歩き出すまでの間に、いったい何が起こったのか。 いくら思い出そうとしてみても、まったく記憶が甦ってこない。
「霊夢はどこかしら。」
紫が魔理沙に尋ねた言葉が、萃香の耳に入った。
そうだ、幻想郷を外界から隔離する結界の管理者であり、幻想郷で起こる異変をいつも解決している博麗の巫女、霊夢ならば、今の自分のことも見えるかも知れない。そう考えた萃香は、会話をやめて歩き出した紫に付いて歩いた。途中で何度か、宴会をしている者達が紫に声をかけたが、その者達も萃香にはまったく気が付かない。萃香も、紫の傍を歩きながら、何度も紫や他の者達の名を呼んだが、ついぞ誰からも反応はなかった。心に不安を降り積もらせながらも、萃香は紫とともに霊夢のところに到着した。
「あんたも来たの。」
これが、笑顔で近付いてきた紫に対する霊夢の第一声であった。魔理沙といい、霊夢といい、紫に対しては一様に辛辣だなと思う萃香であったが、今はそれどころではない。霊夢と紫の間に立ち、霊夢に向かって叫ぶ。
「霊夢、私が見えるか!?」
しかし、霊夢は目の前の萃香に何ら反応を示さない。大声を出していた萃香には聴こえなかったが、どうやら紫が憎まれ口を叩いたらしく、彼女に白い目を向けているばかりである。
「霊夢!」
もう一度名前を呼んでみても、同じことであった。そもそも、神社に辿り着いた時に霊夢と目が合った覚えはなかったし、ましてや会話をした記憶もない。それでも、この宴会に集まった者達の中で、紫に次いで頼りになりそうな人物が霊夢だったのである。その霊夢も、自分に気が付いてくれない。萃香は、ふと思い付いて宙に浮かび上がり、腰に提げた瓢箪の蓋を開け、霊夢の頭上で傾けた。しかし、瓢箪から流れ落ちる酒は、萃香の体と同じように、霊夢をすり抜けて下に落ちる。土の上に零れたはずの酒は、何も濡らすことなく、消えて無くなってしまう。これに驚いた萃香は地に足を降ろし、しゃがみこんで地面に顔を近付けた。じろじろと足元を観察した結果、彼女は、これまで自分の足跡が残されていないということに気が付く。
「まだ、幽々子達が来てないわね」
紫から目を逸らすように宴会場を見回してから、霊夢が呟いた。
西行寺幽々子は冥界に住む亡霊である。体が死を迎えた後に閻魔の裁きを受けて成仏または転生する前の霊達を従え、その掴み所のない性格で従者を翻弄しつつ、悠々自適の日々を送る屈指の自由人である。消える酒と残らぬ足跡を訝しく思っているところに幽々子の名前を聞き、萃香は一つの仮説に辿り着く。
「私、死んだ?」
曰く、自分が死んだことに気が付いていない霊というものは、そう珍しくないという。特に、生への執着が相当に強い者の場合などは、周囲に影響を及ぼすことさえ出来る、亡霊となるらしい。とはいえ、亡霊となり得るほど生に執着を示すのは人間ぐらいのもので、鬼である萃香が亡霊となることは考えにくい。何より、萃香は先ほどから、周囲にまったく影響を与えられていない。生への執着云々ではなく、本気で自分が死んだことに気が付いていない、間抜けな幽霊なのであろうか。
「そっか、私、死んだのか…。」
深く悲しむのでも、嘆くのでもなく、しみじみと呟く。考えてみても、自分の死因は思い出せないが、おおかた、魔理沙が紹介した魔法の道具が暴発でもしたのだろう。萃香はひとまず、そう結論付けた。
とにかく、死んでしまったのなら、三途の川を渡って閻魔様の裁きを受けねばなるまい。幽々子なら、幽霊である自分も見えるはずだし、三途の川への案内ぐらいはしてもらえるだろう。そう考えていると、丁度、幽々子が従者の魂魄妖夢と複数の霊魂を伴い、空を飛んでやって来るのが見えた。
「幽々子。」
萃香が駆け寄ると、幽々子と妖夢が目の前に降りてくる。喜んで良いのかどうかは判らないが、どうやら、自分は死んだということで間違いないらしい。そう思い、萃香は安堵の溜め息を漏らした。
「いや、参ったよ。なんか、死んじゃったみたいでさ。」
道に迷った大人のように、気恥ずかしそうに笑う萃香。ところが、幽々子は何も言わず、萃香の左半身を通り抜けて行ってしまった。その先には、宴会の料理を乗せた皿が、これでもかと言わんばかりに並べられている。宴会に来るなり料理に目を惹かれ、躊躇いなくそちらへと歩き出す主人を、従者である妖夢は呼び止めようとするが、彼女の足は止まらない。
「もう、幽々子様ったら。」
ぶつぶつと文句を言いながら、今度は妖夢が萃香の右半身を通り抜ける。
自分は幽霊でもないというのか。萃香はひどく困惑した。今、自分はここに立ち、皆が騒ぐ声を聴き、宴会場を照らす幾つもの行灯の明かりを見て、上質の酒や、たくさんの料理が放つ香ばしい匂いを嗅いでいる。それなのに、自分はまるで、ここには居ない存在のようである。
「遅かったな、妖夢。お前らが最後だぜ。」
萃香の背後で魔理沙の声がする。食べ物に夢中の幽々子よりも、妖夢に声をかけるほうが有意義だと思ったのであろう。妖夢は、主人が昼寝していて遅くなったのだと説明した後で、幹事である魔理沙を労った。
「言い出しっぺだからな、仕方ないさ。」
茫然と立ち尽くしていた萃香は、ハッとして後ろを振り返り、妖夢と話す魔理沙の顔を見た。いつもの彼女と何ら変わりのない、明るい表情で妖夢と話す魔理沙に、萃香は問いかけずには居られなかった。
「…私は?」
宴会の盛り上がりも、少しばかり落ち着いてきた。久しぶりの酒宴に舞い上がり、加減を忘れて酒をあおっていた者達が、横になり始めたのである。そのまま石畳や土の上で寝てしまった酔っ払いを、救護班に指定された月の兎が持ち上げては、次々と敷物の上へと運んでいく。すっかり泥酔してしまっている者達は、この心遣いをまったく覚えていないのであるが、彼女は救護班に指定されていない時でさえ、進んでこの仕事をしてくれているのである。そのことを大いに讃えたい萃香であったが、今の彼女には、それも叶わない。
「参ったなぁ…。」
最初に異変に気が付いてから、半刻(はんとき)ほど過ぎたであろうか。夢ならいい加減に覚めるだろうと思っていた萃香も、どうやら、それは期待できないようだと考えていた。しかし、夢ではないとすれば、ますます現状は理解しがたい。
彼女は少しの間、その能力によって己の密度を疎(そ)にして、霧となって神社全体を包み込んでいた。そうやって皆の話しているのを聞いてみたところ、先ほど魔理沙に感じた違和感が一挙に膨れ上がることとなった。この宴会に参加している誰も彼もが、これっぽっちも萃香のことを話題にしようとしないのである。このたびの宴会をうるさく提案し、誰よりも楽しみにしていたはずの自分が、まるで、初めから居なかったかのような扱いを受けている。
これ以上ないほどの不可解な状況にあっても、萃香は相変わらず瓢箪から酒を呑み、宴の雰囲気を楽しもうとしていた。異変の原因がわからない以上、あまり考えすぎても仕方がない。とりあえず、酒でも呑んで落ち着こう、というのである。それでも、いずれは宴が終わってしまうかと思うと、結局、今の状況について考えずには居られなくなってくる。
──鬼なんて、もうとっくに居ないわよ。
かつて、異変を起こしていた萃香が霊夢と初めて会った時、彼女にこんなことを言われた記憶がある。そんな嘘で誤魔化すなと言われた萃香は、鬼が嘘を吐くものかと怒りを露にしたものであった。はたして、この時に感じた怒りは、単に嘘吐き呼ばわりされたことに対するものだけであったか。
「みんな、鬼のことを忘れちまったか?」
つい昨日まで、宴会だ何だと騒ぐ鬼が居たのに、今日、いきなり忘れるはずがない。そんなことは百も承知であるが、現に、自分が綺麗に忘れ去られている事実は無視できない。
「私が思い出させたじゃないか。」
萃香にとって、地底の暮らしは決して悪いものではなかった。個性豊かな妖怪達。ともに移り住んだ鬼達。彼らに何かしらの不満を覚えたつもりもない。それでも、彼女は地上に戻ってきた。その理由は、おそらく、古い友人の顔を見に来ただけではなかったし、ただ単に宴会がしたいということでもなかった。かつての住処である妖怪の山を懐かしむ気持ちがあったことは否定しないが、そこへ帰ろうと思ったわけでもない。だから、久しぶりに顔を合わせた烏天狗に、いかにも帰って来てほしくなさそうな素振りを見せられた時も、別段、不快には感じなかった。
「お前は、覚えててくれたじゃないか…。」
今、その烏天狗はというと、カメラを構えて、すっかり酔い潰れた神霊の前にしゃがみこみ、彼女のだらしのない姿を写真に収めている。
やっぱり、あいつとは他人で良いかもしれない。萃香がそう思っていると、不意に烏天狗が萃香の方を見上げた。慌てて立ち上がり、ペコペコと頭を下げながら、笑顔でこちらへと向かってくる。萃香は、その顔をよく知っている。この烏天狗、射命丸文が、鬼と穏便に話をしようとする時の顔である。本当は自らの強さに相当な自信があるクセに、見せかけの敬意で表面を塗り固め、謙遜という名の嘘八百を並び立ててくるこの顔が、萃香は好きではなかった。しかし、今の彼女にとって、そんなことはどうでも良い。ようやく、自分のことを視認出来る者が現れた。その事実に比べれば、天狗の顔の好悪など何の問題でもないのである。
「あやや。まさか、いらしていたとは。」
「ずっと居たよ。やっと、気付いてくれたね。」
いつもの萃香なら、その無意味な低姿勢をやめろと怒るところであろう。しかし、今、この時ばかりは、自分を見付けてくれたことに対する喜びの他、表現すべきものは存在しなかった。ともかく今は、自分の姿を見ることが出来る文に頼み、この事態を解決出来る人を探してもらうしかない。
「実は、ちょっと困ったことに…。」
萃香は途中で言葉を失った。まっすぐに自分の方へと向かって来ていた文が、そのまま、自分を通り抜けて行ったからである。
「私はあんたら天狗の、そういう面(つら)が大嫌いだよ。」
背後から、よく知る声が聞こえてきた。萃香の同胞であり、その額に一本の角を持つ鬼、星熊勇儀の声である。彼女は他の鬼達と同様に地底の都に住んでおり、基本的に地上の者とは関わり合いになろうとしない。ましてや、自ら地上に出向いてきたことなど、地底に移り住んで以来、今まで一度もなかったのである。その勇儀が、よりによってこの時、この場所に現れようとは、萃香に予想出来るはずもなかった。
「敬意を表したんですが。」
「うわべだけね。」
勇儀は、萃香以上に天狗の狡猾さを嫌う。と言うより、萃香が鬼にしては寛容と言った方が正しいのかも知れない。とはいえ、勇儀も、ここで気に入らない文をどうこうしようというつもりはないらしく、酒盛りをしている者達の中に、親しい人間である魔理沙の姿を見付けると、そちらへ向かって歩き出した。
「勇儀!」
萃香は思わず叫んだ。同じ鬼である勇儀なら、何かを感じ取ってくれないだろうか。その考えに何らかの根拠があったわけではないが、萃香にとっては、これが最後の糸口であるかのように思えたのである。しかし、勇儀も他の者達と変わらず、萃香の声に反応を示すことなく、離れて行ってしまう。鬼から解放されたことに安心した様子の文も、再び萃香の体をすり抜けて、宴会場の写真を撮る作業へと戻っていった。彼女らを見送る萃香の体は、小さく震えていた。
それは、先ほど、文の挙動に期待を抱いてしまった反動からか。それとも、同族である勇儀にすら気付いてもらえなかった失望からか。あるいは、この理不尽な処遇を受けているのが、自分一人であったという疎外感からかも知れない。萃香の胸中に、抑えていたはずの怒りが猛烈に湧き上がってきた。
「お前ら、いい加減にしろ!」
幻想郷全域に聴こえるのではないかというほどの声を張り上げた萃香は、ズカズカと宴会場を歩き出した。目に付いた者達の傍まで足音を立てて歩み寄り、片端からその名前を大声で叫ぶ。人間も妖精も、妖怪も神も霊魂も、この場に集まったあらゆる者達の名前が、萃香によって呼ばれていく。倒れて建物の中へと運ばれた者や、宴会が始まって以来、ずっと厨房で給仕をしている者にも、一切の例外はない。
萃香の足音は歩き回るほどに大きくなり、いよいよズシン、ズシン、と地響きを鳴らすようになってきた。今、萃香が通ったところには、彼女の足跡がしっかりと残されている。しかし、宴会に興じる者達はおろか、怒りに燃える萃香自身も、そのことに気が付かない。
最後に、星熊勇儀、アリス・マーガトロイド、霧雨魔理沙、博麗霊夢、八雲紫と叫び、神社を訪れた全ての者の名前を呼び終え、萃香は宴会場の真ん中で立ち止まった。
「私は、忘れてないぞ!」
誰にも聞こえていないことは解っている。これまで、誰一人として、萃香の呼び声に反応する者は居なかった。それでも、萃香は叫ぶのをやめない。
「私は絶対に、お前らを忘れない!」
萃香が地上へと戻って来たのは、いったい何のためであったか。彼女が皆に望んだことは、はたして何であったか。それは鬼のためか、自分のためか。
「だから、私を…。」
今一度、萃香が片足を上げる。しかし、その一歩は、歩くための一歩ではなかった。
「忘れるな!」
勢い良く石畳へと下ろされた萃香の足が、轟音とともに大地を踏み砕く。博麗神社は、萃香を中心に広がる大地のヒビ割れによって境内が数百に分断され、それぞれが上へ下へ、右へ左へと傾き、激しく崩壊した。桜並木の一本一本がでたらめな方向へと傾き、社殿を構築する木材がへし折れ、宴会料理が、賽銭箱が空を飛ぶ。
その時、その場に居る全ての者達が、一斉に萃香の方を振り向いた。同時に、萃香は、金属にヒビが入り、そのまま砕けるような音を聴いた。
足元から、いくつもの高い衝突音が、うるさく響く。萃香は目の前に上げた両手に、小さい金属の破片を一つずつ持ち、何処かに突っ立っていた。
「うわ、何だ!?」
誰かが声を上げた。萃香が振り向くと、剣の鞘らしき物を抱えた魔理沙が萃香の足元を見て、その口をポカンと開いている。さらに辺りを見回してみると、そこはガラクタの山かと見間違う、様々な道具が散乱する部屋であった。すぐ近くの机の上には、硬く軽い素材で作られたワニの人形や、いやに蓋の大きい茶筒のような物体が置かれている。そう、ここは、霧雨魔法店である。
「鏡が…。」
魔理沙がそう呟いたのを聞き、萃香は改めて、自分が手に持つ金属片に目をやった。また、魔理沙の視線の先、自分の足元には、手に持った物とよく似た破片が散乱している。なるほど、これらの破片は元々、鏡であったのに違いない。それから、もう一度、萃香は魔理沙の顔を見上げた。
「萃香、お前、何したんだ。」
魔理沙は、鏡を割ったことを怒るべきか、割れた鏡の破片による怪我を心配するべきか、困惑した様子で萃香を見つめている。萃香が両手を下ろし、二つの金属片を床に落とすと、散らばった他の金属片とぶつかって、またも耳障りな衝突音が響く。その間、萃香が自分の目をじっと見続けていることを不気味に思い、魔理沙は恐る恐る、萃香の目の前で右手を上下に動かす。すると、突然、その手首をガシッと掴まれた。
「痛い!」
魔理沙が右手を手前に引こうとしても、萃香はその手を離してくれない。離せ、と叫ぼうとしたところで右手は解放されたが、今度は正面から抱きつかれた。身長の低い萃香は、その顔を魔理沙の胴体に埋める。魔理沙は、いよいよ、わけがわからない。
「なんなんだよ。どこか怪我したのか?」
「してない。」
問いかけても、萃香はくぐもった声で端的に答えるばかりである。致し方のなくなった魔理沙は、とりあえず気が済むまで、しがみつかせておくことにした。
魔理沙が改めて床を見ると、とてつもなく恐ろしいものを映しだすという、呪いの鏡の破片が床に散らばっている。どこぞで拝借してきてから、つい数分前、萃香に講釈を垂れるために持ち出してくるまで包みも解かず、ついぞ覗き込みはしなかった鏡である。
「なあ、鏡を見たのか?」
萃香は答えなかったが、魔理沙は、彼女が鏡を覗いたのだと確信した。いったい、どれほど恐ろしく、おぞましいものが映し出されれば、鬼が人間にしがみつくような事態が起こり得るのか。魔理沙には見当も付かない。この鏡を覗いた者は皆、あまりの恐ろしさに顔を背けてしまうという。鏡の持ち主が、そう語っていたことを思い出す。もっとも、眼下にいるこの鬼は、顔を背けるどころか、鏡をバラバラに砕いてしまったのであるが。それが、彼女の怪力によるものなのか、はたまた、妖(あやかし)の力によるものなのかは、魔理沙には判らない。それより、死ぬまで借りているだけの鏡が割れてしまったことを、持ち主に報告しても良いものかどうか。そのことを思案した結果、黙っていよう、今日が鏡の寿命だったのだ、という結論に至る魔理沙であった。
魔理沙はチラと、壁に掛かった時計を見る。昨日、たまには歩いて神社まで行ってみないかと、一緒に相談していた友人が、そろそろ来る時刻だ。だが、目の前のコイツがこの調子では、鏡の破片の掃除も、なかなか出来やしない。結局、空を飛んでいくことになりそうだ、などと考えていた。
麗らかな日和を楽しむことが出来る春の到来は、幻想郷においても概ね歓迎の色が濃い。未だ記憶に古くない、あまりにも長すぎた冬を思い出し、無事に季節が移ろうことに安堵する気持ちもあるのかも知れない。中には、冬の間しか姿を見せない妖怪との別れを惜しむ者も居るが、その一方で、春の訪れを知らせる妖精との再会を喜ぶ声も聞こえてくる。冬を眠りの中で過ごす賢者の目覚めなどは、悲喜こもごもの声を以て迎えられているらしい。こうした、他者との関わり合いという観点から、最も春を心待ちにしていたのが伊吹萃香である。彼女の望みは、春の恒例行事となっている、幻想郷の住人達が集まっての大宴会に他ならない。
萃香は古くから幻想郷に縁(ゆかり)のある鬼である。外見は幼い少女のようでありながら、鬼の一族であることを示す大きな角を、その頭に左右一本ずつ備えている。酒をこよなく愛する彼女は、いつも携帯している瓢箪から酒を呑み続けており、数百年来の知り合いをして、一度も素面のところを見たことがないと言われるほどの酒豪ぶりである。大小強弱様々な妖怪や神々が住まう幻想郷において、萃香の力は並外れて強い部類に入るであろう。何せ彼女は、妖怪の古参にして重鎮でもある天狗達に対し、かつて、絶対的な支配力を有した存在の一角なのである。鬼の名に恥じぬ凄まじい身体能力に加え、あらゆるものの密度を自在に操るという特異な力を有していることもまた、その事実を裏付けている。そんな彼女が、一度は仲間と共に地上から姿を消し、地底の都で暮らすことを選びながら、再び地上で皆の前に姿を現したのは、あまりにも長い冬のために短くなった花見の季節に不満を覚え、己の力を使って住人達を半ば強制的に萃(あつ)めて宴会を開かせるためであったという。その際、彼女が目論んだ文字通りの百鬼夜行は実現しなかったものの、幻想郷の若い住人達は、架空の、あるいは過去の存在だと思っていた鬼の現存を知ることとなったのである。
さて、既に述べたように無類の酒好きにして宴会好きである萃香は、このたび春が到来したことを大いに喜んだ。早々に宴会が開かれることを切望したが、いつぞやのように能力を用いて無理矢理に人を萃(あつ)めようとすれば、異変を引き起こす元凶として退治されてしまう。そうやって自分を退治しに来た強者(つわもの)と戦うのもまた一興ではあるものの、何度も同じことを繰り返して住人達の機嫌を損ねることは、彼女の望むところではない。ならば、穏便な方法で皆を集めて宴会を開かせようと、宴会の幹事となってくれる者を探したのである。一人目と二人目には、面倒臭い、暇そうなお前がやれ、見るからに忙しそうにしている者に頼むな、この酔っ払い、などと散々に言われた挙げ句に断られたが、三人目は、気が早いと文句を言いながらも、渋々承諾してくれた。
「ありがとう。あんたは話がわかるね。」
萃香が礼を言うと、幹事を引き受けた人間は、もちろんお前も手伝うのだろう、と尋ねてきた。正直なところ、萃香は呑んで騒ぐことに集中したかったからこそ、わざわざ幹事役を人に頼みに来たのである。しかし、ここで断ると、せっかくの宴会が開けなくなってしまうかも知れない。嫌々ながら、仕方なく、萃香は幹事の手伝いをすることにした。と、ここまで正直に、その心情を吐露された幹事の心持ちは、決して快いものではなかった。
「貴方は少し正直すぎる。」
幹事、自称普通の魔法使い、霧雨魔理沙は、いつであったか自分に説教をした偉い人を真似て、そう言った。萃香がその物真似に気付いたのかどうかは定かでないが、彼女は悪びれもせずに言い返す。
「鬼は嘘を吐かないもんさ。」
だったら、せめて口を噤め。思わずそう言いかけた自分自身の口を閉ざし、魔理沙は宴会の要項を書き記すための紙とペンを取り出した。それから二人は、宴会の場所、参加が予定される者、各人の役回り、日時などについて話し合った。場所や役回りについては、いつもの慣例とも言うべきものがあり、それに従ってあっさりと決まったものの、存外に長引いたのが開催日時についての話である。何とか今宵、宴会を開けないかと言う萃香を魔理沙が宥め、諭し、宥め、窘(たしな)め、宥めて、ようやく、明晩開催ということで落ち着いた。
「長い間、春を待ったっていうのに、まだ待つなんて。」
「宴会が大好きなのは解るけどさ、少しは自重しようぜ。」
二人は手分けして幻想郷を廻り、住人達に今回の宴会の要項を伝えた。多くの者は、春の到来から間もなく宴会が開かれることに、呆れたり驚いたりしたが、別段、反対することもなかった。敢えて問題があったとするなら、食材調達担当の魔法使いから、経費は出るのか、と訊かれた魔理沙が答えに窮したぐらいである。
こうして、今春最初の宴会は、その開始時刻を待つのみとなった。萃香にとって、丸一日以上も先の楽しみを待っているこの時間は、今朝、その終わりを告げられた冬と相違ないほどに、長く感じられるものであった。
宴会当日、萃香の昂りようたるや、並大抵のものではなかった。もっとも、常日頃から酒に酔っている彼女の高揚していることなど、日常茶飯事の一言で片付けられてしまうのであるが。太陽が天高く昇りきる前に、その酔っ払いに家まで押し掛けられる魔理沙の苦労は、皆から偲ばれてしかるべきであろう。
魔理沙の住まいにして店舗でもある霧雨魔法店は、幻想郷にただ一つと表現して差し支えのない森の中に建てられている。人里にある実家から勘当され、魔法を用いる何でも屋を営む彼女にとって、魔力を高める茸が採れるこの森は、住まうのに適した環境なのである。しかし、今宵、開かれることになっている宴会の会場は、この霧雨魔法店ではない。それにも関わらず、萃香が朝からここにやって来たのは、宴会の会場である博麗神社の住人が、明けたばかりの夜の再来を心待ちにする萃香に、心底呆れ返ったことに由来する。
「霊夢が冷たくてさ。」
「そりゃあ、当たり前だぜ。」
魔理沙は神社の巫女、博麗霊夢に心から同情した。実は、その霊夢こそ、萃香に暇を潰させる場所として、わざわざ自分の所を指定した張本人であるということを、彼女は知らない。
魔理沙自身も、久方ぶりの春の宴会を楽しみにしていたし、この日、取り立てて他にするべきことがあったわけでもない。結局、魔理沙は萃香を家に上げ、知り合いの魔法使いの話をしたり、自らが収集した魔法の道具や、曰く付きの代物の自慢話をしたりして、時間を潰すことになったのであった。嘘吐きは指を噛まれるという、ワニの魔像。覗くと、とてつもなく恐ろしいものが映る、呪いの鏡。中に入れたお茶がなかなか冷めない、魔法の瓶。ある高名な騎士が持っていたと伝えられる、剣の鞘。曰くの付き具合と実用性の幅が広く、信憑性の限り無く低い魔法の品々の話を、萃香は時折茶々を入れつつ、ケラケラと笑って聞いていた。
日が傾き、幻想郷が紅色に染まり始めた頃、萃香は魔理沙とともに木々と草花の間を歩いていた。普段は当たり前のように空を飛んで移動する彼女らが、何ゆえ、土と草とを踏みしめながら博麗神社へと向かうことになったのか、その理由は判然としない。滅多と歩くことのない獣道を、萃香はどこか新鮮な気持ちで進む。そうしたおもむきと、近付く宴会の時に気分を良くした萃香は、両手に着けた独特の装飾品、鎖に繋がった分銅を振り回しながら、歌を唄いだした。よりにもよって、鬼を退治する屈強な若者の物語を唄ったが、前を歩く魔理沙は、その可笑しさを指摘するつもりがないらしい。
萃香が物語を一通り唄い終えた頃、不意に魔理沙が振り返りもせずに話し出した。
「そういえば、この間、パチュリーがさ…。」
「うん。」
萃香は驚いた。今、魔理沙の言葉に相槌を打ったのは、自分ではない。不思議に思い、体を傾げて見てみると、魔理沙のさらに前を、見知った魔法使いの少女が歩いている。
「あれ、アリス。いつから居たの。」
萃香が尋ねたが、少女、アリス・マーガトロイドからの返事はない。魔理沙も萃香の質問を気に止めず、先ほど始めた話を続けた。
先日、アリスと同じ魔法使いであるパチュリー・ノーレッジが、魔理沙が借りたままになっている本を返せと言ってきたが、その場で紅茶を淹れて他愛もない世間話をしたところ、結局、夕方には何も言わずに帰ったという。萃香にとっては、今朝に聞いたばかりの話であったが、アリスには初めて話すことなのだろうと思い、黙って聞いていた。
萃香は以前、アリスに対し、別にお前が居なくとも、問題なく宴会は始まるだろうと言ったことがある。別に悪気があったわけではないのであるが、アリスがこのことを少なからず気にしていたと、後に魔理沙から聞かされた。そんな自分が、今、ともに歩くアリスの存在に気付いていなかったとあっては、彼女の気分を害したとしても不思議はない。素直に謝ろうかとも思ったが、アリスもその報復として、自分の問い掛けを無視したのであるから、それでおあいこだろうと納得し、控え目に鼻歌を唄いながら歩いた。
やがて、三人が神社の裏手に着いた時には、日はもうほとんど暮れかけていた。社殿の向こう側より聴こえてくるざわめきから察するに、宴会に呼ばれた者達は、既にその大半が到着しているらしい。
「幹事のクセに遅いじゃない。」
丁度、裏手の縁側を歩いていた霊夢は、到着した魔理沙達に気付くなり、不満を口にした。
「悪い悪い。アリスが歩いて行こうって言うもんでさ。」
「そうだったっけ。」
萃香は改めて、自分達が歩いて来ることになった経緯を思い出そうとしたが、これがとんと思い出せない。どうやら昼間から、少しばかり酒を呑みすぎたらしい。かと言って、今から始まる宴会では敢えて自重もするまいと思っていると、アリスが魔理沙に突っ掛かった。
「ちょっと。人のせいにしないでよね。」
アリスは、魔理沙が最初に言い出したのだと言う。すると、魔理沙もすぐさま反論を返し、二人は責任の押し付け合いを始めてしまった。どちらかが嘘を吐いているのであれば、何よりも嘘を嫌う萃香がそれを戒める場面なのであるが、いかんせん萃香には、ことの経緯が思い出せない。アリスは嘘を吐く性質(たち)ではないが、魔理沙が嘘を吐いているという確証もないのである。萃香が対処に困っていると、先に霊夢が痺れを切らした。
「もう良いから、さっさと始めましょう。」
どうやら、先客の手によって、既に乾杯の準備が整っているらしい。問責を免れた二人は途端に機嫌を良くして、皆が待っている拝殿前の宴会場へと足早に歩いて行った。なお、そこは本来、宴会場ではなく参道と呼ばれるべき場所である。しかし、幻想郷と外界との境目に在って、かつ、外界の方を向いて建っている博麗神社の参道を参拝のために歩く者など、皆無に近い。専ら宴に利用されるその場所は、萃香をはじめとする大半の者達にとって、宴会場以外の何物でもなかった。
「まったくもう…。」
「困った奴らだねえ。」
魔理沙とアリスの調子の良さに呆れた様子の霊夢であったが、彼女も早く宴会を始めたかったらしく、二人を追いかけるようにして空中を飛んで行く。萃香もまた、いよいよ始まる宴会に心を躍らせつつ、彼女らを追い越すほどの早足で宴会場へと向かった。
上品な薄紅色の花を咲かせ始めた桜の木々が見守る中、春の到来への喜びを示す挨拶もそこそこに、魔理沙は乾杯の音頭を取った。神社に集まった人間も妖精も、妖怪も神も、多種多様な幻想郷の住人達は皆、様々な盃に満ちた、種々の酒を手に、乾杯の声をあげる。萃香が手に持つ瓢箪もまた、彼女なりの盃であった。
乾杯の一口がもたらす僅かな静寂の後、宴会場は瞬く間に沸き上がった。冬の間、顔を合わせることのなかった者同士が、互いの健在ぶりを喜んだり、笑ったり。日頃から折り合いの悪い者同士が、早々に喧嘩を始めようとして皆から煽られたり、止められたり。何かにつけては人をからかい、嘘八百を並び立てた新聞を作る烏天狗が、宴会場のあちらこちらで皆から鬱陶しがられるのも、もはや恒例行事のようである。その烏天狗が、仮にも昔の上役である自分に挨拶もせず、月の姫君と地上の姫君のいがみ合いなどを追いかけていることに、僅かばかりの寂しさを覚えながらも、萃香は、皆が大いに騒いでいる様子を肴にして酒を愉しむ。
桜の木に凭(もた)れて座る萃香の隣に、突如、空間の裂け目が現れる。幻想を知らぬ者達の欲望が渦巻く裂け目、通称スキマから出て来るのは、ただ一人しか居ない。この幻想郷を幻想郷たらしめる賢者の一人、あらゆる境界を操る最高位の妖怪、八雲紫である。妖怪が蔓延る幻想郷に在って、なお持て余すほどの力を誇る萃香も、この紫のことは対等な友人としてみている。
「もう、起きてたんだ。」
例年、紫は冬の間、眠り通しである。たまに起きていることもあるが、よほどの事情がない限り、姿を見せることは滅多とない。そんな友人と再会出来るということも、萃香が春を歓迎する理由の一つなのであろう。
「なんだ、来てたのか。」
その来場に気付いた魔理沙が、串に刺さった団子を手に近寄ってきた。
「藍から聞いてね。」
紫が少し不機嫌そうにして答える。おそらく、いつも宴会に呼んでもらえないことが不満なのであろう。もっとも、冬の間はずっと眠り通しな上に、いざ呼ぼうと思って探してみると、スキマを使って世界中を飛び回っているため、まったく捕まらないのであるが。確実に連絡を取る手段もないではないが、そのためには美味しい油揚げ一枚を要する。そもそも、何も言わなくとも勝手に宴会場に現れるこの妖怪に労力を割くのは、無駄以外の何物でもないというのが、幹事をする者の暗黙の了解であった。当人もそのことは十二分に理解しているらしく、実のところ、拗ねる振りをしているだけなのである。紫は魔理沙の手から串団子を奪い取り、文句を言わせる間もなく、それを食べ始めた。
「意地汚いね。メシを食いたけりゃ、自分で取りに行きなよ。」
萃香が窘(たしな)めるも、紫はまったく聞く耳を持たない。魔理沙も串団子に執着するつもりはないらしく、紫の使役する式神は元気か、などと世間話を始めた。変わりがない、なさすぎて詰まらないぐらいだと紫が答える。何かあったらあったで怒るのだから、わがままな話だ。魔理沙の苦笑には、そんな思いがあったのに違いない。
ここに至り、萃香はいよいよ、異変に気が付く。何百年来どころではない友人、紫が、先ほどから自分に対して何の関心も示さない。ついさっきまで、自分とともに行動していた魔理沙も、こちらには一瞥もなしに紫と話を続けている。
「おい。」
語気にほんの僅かな不快感を含め、萃香は二人に呼びかけた。しかし、どちらも自分の声に反応した様子はない。
「なあ。」
今度は、やや怒りを伴った声を発する。それでも、紫と魔理沙は二人だけで会話を続けている。
「紫!」
ついに声を荒げる。ところが、二人はまったく動じない。
「おい、魔理沙!」
相変わらず自分を無視する魔理沙の右肩を掴もうとして、萃香は左手を伸ばす。しかし、その手は肩に届けど、触れることなく空(くう)を掴む。これに驚いた萃香は、両腕をバタバタと動かし、二人に触れようとするが、その腕は見事に相手をすり抜けてしまう。唖然として、試しに自分の左手首を右手で掴んでみると、両手にはいつもと何ら変わりのない、当たり前の手応えがある。とうとう、わけが解らなくなった萃香は、己の持つ妖力を拳に籠め、紫を殴り付けた。人間である魔理沙はともかく、紫は、仮に全力で殴ったとしても死にはしない。しかし、その拳も、虚しく空(くう)を穿つばかりである。二人はこの間も話を続け、今日という日の暖かさと、掛け布団の厚いのと薄いのとの交換時期などについて語り合っている。
「なんなんだ。」
思わず呟く。未だ、萃香には現状が理解できない。
考えてみれば、神社に向かって歩いていた時から、自分は誰とも会話をしていない。おそらく、あの時、既に異変は始まっていたのである。してみると、この異変の原因は何か。まだ日の高い頃には、魔理沙の家で、彼女の自慢話を聞いていたはずである。それから、魔理沙とアリスが揃って神社に向かって歩き出すまでの間に、いったい何が起こったのか。 いくら思い出そうとしてみても、まったく記憶が甦ってこない。
「霊夢はどこかしら。」
紫が魔理沙に尋ねた言葉が、萃香の耳に入った。
そうだ、幻想郷を外界から隔離する結界の管理者であり、幻想郷で起こる異変をいつも解決している博麗の巫女、霊夢ならば、今の自分のことも見えるかも知れない。そう考えた萃香は、会話をやめて歩き出した紫に付いて歩いた。途中で何度か、宴会をしている者達が紫に声をかけたが、その者達も萃香にはまったく気が付かない。萃香も、紫の傍を歩きながら、何度も紫や他の者達の名を呼んだが、ついぞ誰からも反応はなかった。心に不安を降り積もらせながらも、萃香は紫とともに霊夢のところに到着した。
「あんたも来たの。」
これが、笑顔で近付いてきた紫に対する霊夢の第一声であった。魔理沙といい、霊夢といい、紫に対しては一様に辛辣だなと思う萃香であったが、今はそれどころではない。霊夢と紫の間に立ち、霊夢に向かって叫ぶ。
「霊夢、私が見えるか!?」
しかし、霊夢は目の前の萃香に何ら反応を示さない。大声を出していた萃香には聴こえなかったが、どうやら紫が憎まれ口を叩いたらしく、彼女に白い目を向けているばかりである。
「霊夢!」
もう一度名前を呼んでみても、同じことであった。そもそも、神社に辿り着いた時に霊夢と目が合った覚えはなかったし、ましてや会話をした記憶もない。それでも、この宴会に集まった者達の中で、紫に次いで頼りになりそうな人物が霊夢だったのである。その霊夢も、自分に気が付いてくれない。萃香は、ふと思い付いて宙に浮かび上がり、腰に提げた瓢箪の蓋を開け、霊夢の頭上で傾けた。しかし、瓢箪から流れ落ちる酒は、萃香の体と同じように、霊夢をすり抜けて下に落ちる。土の上に零れたはずの酒は、何も濡らすことなく、消えて無くなってしまう。これに驚いた萃香は地に足を降ろし、しゃがみこんで地面に顔を近付けた。じろじろと足元を観察した結果、彼女は、これまで自分の足跡が残されていないということに気が付く。
「まだ、幽々子達が来てないわね」
紫から目を逸らすように宴会場を見回してから、霊夢が呟いた。
西行寺幽々子は冥界に住む亡霊である。体が死を迎えた後に閻魔の裁きを受けて成仏または転生する前の霊達を従え、その掴み所のない性格で従者を翻弄しつつ、悠々自適の日々を送る屈指の自由人である。消える酒と残らぬ足跡を訝しく思っているところに幽々子の名前を聞き、萃香は一つの仮説に辿り着く。
「私、死んだ?」
曰く、自分が死んだことに気が付いていない霊というものは、そう珍しくないという。特に、生への執着が相当に強い者の場合などは、周囲に影響を及ぼすことさえ出来る、亡霊となるらしい。とはいえ、亡霊となり得るほど生に執着を示すのは人間ぐらいのもので、鬼である萃香が亡霊となることは考えにくい。何より、萃香は先ほどから、周囲にまったく影響を与えられていない。生への執着云々ではなく、本気で自分が死んだことに気が付いていない、間抜けな幽霊なのであろうか。
「そっか、私、死んだのか…。」
深く悲しむのでも、嘆くのでもなく、しみじみと呟く。考えてみても、自分の死因は思い出せないが、おおかた、魔理沙が紹介した魔法の道具が暴発でもしたのだろう。萃香はひとまず、そう結論付けた。
とにかく、死んでしまったのなら、三途の川を渡って閻魔様の裁きを受けねばなるまい。幽々子なら、幽霊である自分も見えるはずだし、三途の川への案内ぐらいはしてもらえるだろう。そう考えていると、丁度、幽々子が従者の魂魄妖夢と複数の霊魂を伴い、空を飛んでやって来るのが見えた。
「幽々子。」
萃香が駆け寄ると、幽々子と妖夢が目の前に降りてくる。喜んで良いのかどうかは判らないが、どうやら、自分は死んだということで間違いないらしい。そう思い、萃香は安堵の溜め息を漏らした。
「いや、参ったよ。なんか、死んじゃったみたいでさ。」
道に迷った大人のように、気恥ずかしそうに笑う萃香。ところが、幽々子は何も言わず、萃香の左半身を通り抜けて行ってしまった。その先には、宴会の料理を乗せた皿が、これでもかと言わんばかりに並べられている。宴会に来るなり料理に目を惹かれ、躊躇いなくそちらへと歩き出す主人を、従者である妖夢は呼び止めようとするが、彼女の足は止まらない。
「もう、幽々子様ったら。」
ぶつぶつと文句を言いながら、今度は妖夢が萃香の右半身を通り抜ける。
自分は幽霊でもないというのか。萃香はひどく困惑した。今、自分はここに立ち、皆が騒ぐ声を聴き、宴会場を照らす幾つもの行灯の明かりを見て、上質の酒や、たくさんの料理が放つ香ばしい匂いを嗅いでいる。それなのに、自分はまるで、ここには居ない存在のようである。
「遅かったな、妖夢。お前らが最後だぜ。」
萃香の背後で魔理沙の声がする。食べ物に夢中の幽々子よりも、妖夢に声をかけるほうが有意義だと思ったのであろう。妖夢は、主人が昼寝していて遅くなったのだと説明した後で、幹事である魔理沙を労った。
「言い出しっぺだからな、仕方ないさ。」
茫然と立ち尽くしていた萃香は、ハッとして後ろを振り返り、妖夢と話す魔理沙の顔を見た。いつもの彼女と何ら変わりのない、明るい表情で妖夢と話す魔理沙に、萃香は問いかけずには居られなかった。
「…私は?」
宴会の盛り上がりも、少しばかり落ち着いてきた。久しぶりの酒宴に舞い上がり、加減を忘れて酒をあおっていた者達が、横になり始めたのである。そのまま石畳や土の上で寝てしまった酔っ払いを、救護班に指定された月の兎が持ち上げては、次々と敷物の上へと運んでいく。すっかり泥酔してしまっている者達は、この心遣いをまったく覚えていないのであるが、彼女は救護班に指定されていない時でさえ、進んでこの仕事をしてくれているのである。そのことを大いに讃えたい萃香であったが、今の彼女には、それも叶わない。
「参ったなぁ…。」
最初に異変に気が付いてから、半刻(はんとき)ほど過ぎたであろうか。夢ならいい加減に覚めるだろうと思っていた萃香も、どうやら、それは期待できないようだと考えていた。しかし、夢ではないとすれば、ますます現状は理解しがたい。
彼女は少しの間、その能力によって己の密度を疎(そ)にして、霧となって神社全体を包み込んでいた。そうやって皆の話しているのを聞いてみたところ、先ほど魔理沙に感じた違和感が一挙に膨れ上がることとなった。この宴会に参加している誰も彼もが、これっぽっちも萃香のことを話題にしようとしないのである。このたびの宴会をうるさく提案し、誰よりも楽しみにしていたはずの自分が、まるで、初めから居なかったかのような扱いを受けている。
これ以上ないほどの不可解な状況にあっても、萃香は相変わらず瓢箪から酒を呑み、宴の雰囲気を楽しもうとしていた。異変の原因がわからない以上、あまり考えすぎても仕方がない。とりあえず、酒でも呑んで落ち着こう、というのである。それでも、いずれは宴が終わってしまうかと思うと、結局、今の状況について考えずには居られなくなってくる。
──鬼なんて、もうとっくに居ないわよ。
かつて、異変を起こしていた萃香が霊夢と初めて会った時、彼女にこんなことを言われた記憶がある。そんな嘘で誤魔化すなと言われた萃香は、鬼が嘘を吐くものかと怒りを露にしたものであった。はたして、この時に感じた怒りは、単に嘘吐き呼ばわりされたことに対するものだけであったか。
「みんな、鬼のことを忘れちまったか?」
つい昨日まで、宴会だ何だと騒ぐ鬼が居たのに、今日、いきなり忘れるはずがない。そんなことは百も承知であるが、現に、自分が綺麗に忘れ去られている事実は無視できない。
「私が思い出させたじゃないか。」
萃香にとって、地底の暮らしは決して悪いものではなかった。個性豊かな妖怪達。ともに移り住んだ鬼達。彼らに何かしらの不満を覚えたつもりもない。それでも、彼女は地上に戻ってきた。その理由は、おそらく、古い友人の顔を見に来ただけではなかったし、ただ単に宴会がしたいということでもなかった。かつての住処である妖怪の山を懐かしむ気持ちがあったことは否定しないが、そこへ帰ろうと思ったわけでもない。だから、久しぶりに顔を合わせた烏天狗に、いかにも帰って来てほしくなさそうな素振りを見せられた時も、別段、不快には感じなかった。
「お前は、覚えててくれたじゃないか…。」
今、その烏天狗はというと、カメラを構えて、すっかり酔い潰れた神霊の前にしゃがみこみ、彼女のだらしのない姿を写真に収めている。
やっぱり、あいつとは他人で良いかもしれない。萃香がそう思っていると、不意に烏天狗が萃香の方を見上げた。慌てて立ち上がり、ペコペコと頭を下げながら、笑顔でこちらへと向かってくる。萃香は、その顔をよく知っている。この烏天狗、射命丸文が、鬼と穏便に話をしようとする時の顔である。本当は自らの強さに相当な自信があるクセに、見せかけの敬意で表面を塗り固め、謙遜という名の嘘八百を並び立ててくるこの顔が、萃香は好きではなかった。しかし、今の彼女にとって、そんなことはどうでも良い。ようやく、自分のことを視認出来る者が現れた。その事実に比べれば、天狗の顔の好悪など何の問題でもないのである。
「あやや。まさか、いらしていたとは。」
「ずっと居たよ。やっと、気付いてくれたね。」
いつもの萃香なら、その無意味な低姿勢をやめろと怒るところであろう。しかし、今、この時ばかりは、自分を見付けてくれたことに対する喜びの他、表現すべきものは存在しなかった。ともかく今は、自分の姿を見ることが出来る文に頼み、この事態を解決出来る人を探してもらうしかない。
「実は、ちょっと困ったことに…。」
萃香は途中で言葉を失った。まっすぐに自分の方へと向かって来ていた文が、そのまま、自分を通り抜けて行ったからである。
「私はあんたら天狗の、そういう面(つら)が大嫌いだよ。」
背後から、よく知る声が聞こえてきた。萃香の同胞であり、その額に一本の角を持つ鬼、星熊勇儀の声である。彼女は他の鬼達と同様に地底の都に住んでおり、基本的に地上の者とは関わり合いになろうとしない。ましてや、自ら地上に出向いてきたことなど、地底に移り住んで以来、今まで一度もなかったのである。その勇儀が、よりによってこの時、この場所に現れようとは、萃香に予想出来るはずもなかった。
「敬意を表したんですが。」
「うわべだけね。」
勇儀は、萃香以上に天狗の狡猾さを嫌う。と言うより、萃香が鬼にしては寛容と言った方が正しいのかも知れない。とはいえ、勇儀も、ここで気に入らない文をどうこうしようというつもりはないらしく、酒盛りをしている者達の中に、親しい人間である魔理沙の姿を見付けると、そちらへ向かって歩き出した。
「勇儀!」
萃香は思わず叫んだ。同じ鬼である勇儀なら、何かを感じ取ってくれないだろうか。その考えに何らかの根拠があったわけではないが、萃香にとっては、これが最後の糸口であるかのように思えたのである。しかし、勇儀も他の者達と変わらず、萃香の声に反応を示すことなく、離れて行ってしまう。鬼から解放されたことに安心した様子の文も、再び萃香の体をすり抜けて、宴会場の写真を撮る作業へと戻っていった。彼女らを見送る萃香の体は、小さく震えていた。
それは、先ほど、文の挙動に期待を抱いてしまった反動からか。それとも、同族である勇儀にすら気付いてもらえなかった失望からか。あるいは、この理不尽な処遇を受けているのが、自分一人であったという疎外感からかも知れない。萃香の胸中に、抑えていたはずの怒りが猛烈に湧き上がってきた。
「お前ら、いい加減にしろ!」
幻想郷全域に聴こえるのではないかというほどの声を張り上げた萃香は、ズカズカと宴会場を歩き出した。目に付いた者達の傍まで足音を立てて歩み寄り、片端からその名前を大声で叫ぶ。人間も妖精も、妖怪も神も霊魂も、この場に集まったあらゆる者達の名前が、萃香によって呼ばれていく。倒れて建物の中へと運ばれた者や、宴会が始まって以来、ずっと厨房で給仕をしている者にも、一切の例外はない。
萃香の足音は歩き回るほどに大きくなり、いよいよズシン、ズシン、と地響きを鳴らすようになってきた。今、萃香が通ったところには、彼女の足跡がしっかりと残されている。しかし、宴会に興じる者達はおろか、怒りに燃える萃香自身も、そのことに気が付かない。
最後に、星熊勇儀、アリス・マーガトロイド、霧雨魔理沙、博麗霊夢、八雲紫と叫び、神社を訪れた全ての者の名前を呼び終え、萃香は宴会場の真ん中で立ち止まった。
「私は、忘れてないぞ!」
誰にも聞こえていないことは解っている。これまで、誰一人として、萃香の呼び声に反応する者は居なかった。それでも、萃香は叫ぶのをやめない。
「私は絶対に、お前らを忘れない!」
萃香が地上へと戻って来たのは、いったい何のためであったか。彼女が皆に望んだことは、はたして何であったか。それは鬼のためか、自分のためか。
「だから、私を…。」
今一度、萃香が片足を上げる。しかし、その一歩は、歩くための一歩ではなかった。
「忘れるな!」
勢い良く石畳へと下ろされた萃香の足が、轟音とともに大地を踏み砕く。博麗神社は、萃香を中心に広がる大地のヒビ割れによって境内が数百に分断され、それぞれが上へ下へ、右へ左へと傾き、激しく崩壊した。桜並木の一本一本がでたらめな方向へと傾き、社殿を構築する木材がへし折れ、宴会料理が、賽銭箱が空を飛ぶ。
その時、その場に居る全ての者達が、一斉に萃香の方を振り向いた。同時に、萃香は、金属にヒビが入り、そのまま砕けるような音を聴いた。
足元から、いくつもの高い衝突音が、うるさく響く。萃香は目の前に上げた両手に、小さい金属の破片を一つずつ持ち、何処かに突っ立っていた。
「うわ、何だ!?」
誰かが声を上げた。萃香が振り向くと、剣の鞘らしき物を抱えた魔理沙が萃香の足元を見て、その口をポカンと開いている。さらに辺りを見回してみると、そこはガラクタの山かと見間違う、様々な道具が散乱する部屋であった。すぐ近くの机の上には、硬く軽い素材で作られたワニの人形や、いやに蓋の大きい茶筒のような物体が置かれている。そう、ここは、霧雨魔法店である。
「鏡が…。」
魔理沙がそう呟いたのを聞き、萃香は改めて、自分が手に持つ金属片に目をやった。また、魔理沙の視線の先、自分の足元には、手に持った物とよく似た破片が散乱している。なるほど、これらの破片は元々、鏡であったのに違いない。それから、もう一度、萃香は魔理沙の顔を見上げた。
「萃香、お前、何したんだ。」
魔理沙は、鏡を割ったことを怒るべきか、割れた鏡の破片による怪我を心配するべきか、困惑した様子で萃香を見つめている。萃香が両手を下ろし、二つの金属片を床に落とすと、散らばった他の金属片とぶつかって、またも耳障りな衝突音が響く。その間、萃香が自分の目をじっと見続けていることを不気味に思い、魔理沙は恐る恐る、萃香の目の前で右手を上下に動かす。すると、突然、その手首をガシッと掴まれた。
「痛い!」
魔理沙が右手を手前に引こうとしても、萃香はその手を離してくれない。離せ、と叫ぼうとしたところで右手は解放されたが、今度は正面から抱きつかれた。身長の低い萃香は、その顔を魔理沙の胴体に埋める。魔理沙は、いよいよ、わけがわからない。
「なんなんだよ。どこか怪我したのか?」
「してない。」
問いかけても、萃香はくぐもった声で端的に答えるばかりである。致し方のなくなった魔理沙は、とりあえず気が済むまで、しがみつかせておくことにした。
魔理沙が改めて床を見ると、とてつもなく恐ろしいものを映しだすという、呪いの鏡の破片が床に散らばっている。どこぞで拝借してきてから、つい数分前、萃香に講釈を垂れるために持ち出してくるまで包みも解かず、ついぞ覗き込みはしなかった鏡である。
「なあ、鏡を見たのか?」
萃香は答えなかったが、魔理沙は、彼女が鏡を覗いたのだと確信した。いったい、どれほど恐ろしく、おぞましいものが映し出されれば、鬼が人間にしがみつくような事態が起こり得るのか。魔理沙には見当も付かない。この鏡を覗いた者は皆、あまりの恐ろしさに顔を背けてしまうという。鏡の持ち主が、そう語っていたことを思い出す。もっとも、眼下にいるこの鬼は、顔を背けるどころか、鏡をバラバラに砕いてしまったのであるが。それが、彼女の怪力によるものなのか、はたまた、妖(あやかし)の力によるものなのかは、魔理沙には判らない。それより、死ぬまで借りているだけの鏡が割れてしまったことを、持ち主に報告しても良いものかどうか。そのことを思案した結果、黙っていよう、今日が鏡の寿命だったのだ、という結論に至る魔理沙であった。
魔理沙はチラと、壁に掛かった時計を見る。昨日、たまには歩いて神社まで行ってみないかと、一緒に相談していた友人が、そろそろ来る時刻だ。だが、目の前のコイツがこの調子では、鏡の破片の掃除も、なかなか出来やしない。結局、空を飛んでいくことになりそうだ、などと考えていた。
どうしても、寂しがりやの迷子、みたいな印象が彼女にはありますよね。
それにしても初投稿にしては書き慣れてますね。どこか別のところでも投稿したりしてました?
その萃香に誰かと一緒の時と一人の時では全然違うと評されてる魔理沙。
案外、心根は一緒な寂しがり屋かもしれませんね。
萃香にピッタリのエピソードだったと思います。
寂しがりな様子と、それでも強引に鏡に打ち勝つあたりがらしいですね。
魔理沙との組み合わせも、なかなか珍しくて面白かったです。
そして面白い。
>6様
恐縮です。こういった所で投稿したのは初めてですが、
小説げな物は何度か書いたことがありました。
可愛い萃香ありがとうございました