6月21日あとがきのみ更新しました。
詳細はあとがきで、ですが本文も追記予定です。
7月18日追記
ミスリードの一文のみ、正しい文章に書き変えました。
これは見えない妖怪の話。
たった一人のただの少女の人生を劇的に変えた。
局地的に見ればそれだけの話で、大局的に見れば幻想郷そのものの在り方を大きく変えた重要な話。
結局あの時誰のどのような思惑でこうなったのかは、今でもよくわからない。想像はできる。が、それは真実ではないし、想像すらできない部分だってまだあるのだ。
これは見えない妖怪の話。
大局的に見ればそんな言葉ではくくれない話だとは思う。しかし局地的に見ればそれだけの話。
突き詰めれば一匹の妖怪と一人の少女の中だけで終わっていた話なのに。
その少女も結果だけを享受したに過ぎない、ただの脇役と言っても大げさではないのだけど。
だから。
これは見えない妖怪の話。
神社の境内に面した縁側に一人の少女が座っている。
年齢は二桁に届くか届かないか。それに見合って背も小さく顔も幼い。
髪はロングの黒髪で、顔の横の髪の毛を赤い紐で結んでいる。
夏らしい、半袖で裾の短い和服を着てぼんやりと足をぶらぶらさせている少女の名前を霊夢という。
日差しが厳しい夏の日のことだった。
蝉の音の騒々しさはいつも通り、もはやここまでくれば夏独特のBGMとなっている。冬に聞けばうるさくてたまらないだろうものも、今聞いている限りでは何の気にもならないただの背景に過ぎない。
むしろ霊夢にとっては大量発生する蚊の方がやっかいだった。これも夏の風物詩の一つではあるのだが。
神社の縁側に腰掛けた霊夢は汗ばんだ肌に寄ってくる蚊を手で払いながら、空を仰いだ。
太陽はどこまでも白く、そこら中を照らしつくしている。全てをさらけ出させるかのように。
「空が青いなぁ」
「当然のこと言わないの」
年の頃20かそこらの、霊夢と同じく黒髪で長髪の女性が台所から声を響かせた。
白い小袖に緋袴。肌をほとんど隠したスタンダードな巫女スタイル。
姿の通り、巫女をしている。
博麗神社の巫女。
霊夢が振り向く先で巫女が苦笑と共に麦茶を盆に乗せて持ってきた。
「言っちゃダメなんですか?」
「ダメってことじゃないけど。うーん、言葉の綾、よ。気にしないで」
言いながら盆を置き、霊夢の隣に腰掛ける。
「そうですか」
言いながら盆の上から麦茶のコップを一つ取る。
「もうちょっと適当に受け流さないと人生疲れちゃうわよ」
巫女は霊夢の頭をかいぐりかいぐり撫でながら楽しそうに笑った。さながら姉妹のように。姉のように。
「ねえ、そういえば霊夢」
巫女は霊夢の頭を撫でていた手をどけて、笑みだけは変えずに続けた。
「今、何かと話とかしてた?」
首を傾げて聞く巫女に、霊夢も首を傾げた。
「いえ……私一人でしたけど。今日は天狗様もまだ来てませんし」
「いいえ、文じゃなくて……ううん、やっぱりなんでもないわ」
巫女は霊夢の頭を撫でるのを再開した。今度はにっこりと笑いながら。
「平和なのはいいことねー」
先の霊夢のように空を見上げながら巫女はのんびりとそう呟く。
そうしてお茶を一口。
隣の霊夢のなんだか言いたそうな、でもやっぱり何も言わずに飲み込んだその姿に苦笑をこぼしながら。
巫女。
博麗神社の巫女。
妖怪退治を生業としている、巫女。
名前はあまり知られていない。皆彼女のことを巫女と呼ぶ。親しい者も親しくない者も、敵も味方も、かしこまった挨拶でも他愛のない昼下がりのおしゃべりでも、皆彼女のことを巫女と呼ぶ。そもそも名前を知っているのか。それすら怪しくなってきた。
巫女。
人間に仇名す妖怪を退治する女。
それだけだったのだろう。歴代の巫女はそれだけが仕事で、それだけが生きがいで生きる意味だったのかもしれない。
でも彼女は違った。
この巫女は、人間と妖怪の橋渡しを目指した。
人間に仇名す妖怪を退治する。
しかしそれだけではなく、妖怪に仇名す人間を相手取ることもあれば、困った妖怪を保護することもあった。
神社の古株たちはその方針に反対していた。
そもそも巫女は人間の味方であるべきであり、妖怪の味方になってはいけないのだ。
妖怪の被害に遭い困った人間を助けるのが巫女であり、弱った妖怪を養うことは蛇足以上にタブーのようなものですらあると。
しかしその批判の度に巫女は妖怪の実情を説いた。ただ人間を襲うだけではない。妖怪も妖怪で生きているのだから救うのは当然だと。
巫女は理想を説き。
古参は現実を説いた。
もちろん巫女の綺麗事も綺麗なだけではなかった。
巫女の言う『困った』妖怪が、果たしてどのように『困った』妖怪なのか。
だが、巫女は自分の意見を曲げず。
周囲の人間は巫女の意見を認めず。
巫女は妖怪退治と妖怪保護の二つの仕事をまんべんなくこなしながら、幻想郷の日々を生きた。
そもそも何が間違っていたかと言えば全てが間違っていた中で。
嘘と人間と妖怪と主張と秘密と嘘の中で。
巫女はどうしようもなく巫女だった。
「よう、そこの小娘」
「きゃぁっ!」
横たえていた体を勢いよく起こして霊夢は高く大きな悲鳴をあげた。
急いで立ち上がろうにも、今まで自分がなんとなく覆いくるまっていた掛け布団が邪魔でうまくいかない。おかげで足が絡まって転んでしまった。
「ふぎゅ」
今度は可愛らしく短い声とともに顔から枕にダイブ。
陽も暮れ暗く、しかし夜中というにもまだ早い。歳が2ケタに届くか届かないかの少女が寝る支度を始めるような、そんな微妙で静かな時間。
「何を驚いている」
先と同じ声がもう一度響いた。
それは何の声なのか霊夢にはわからなかった。人間の声なのか妖怪の声なのか。それはわからないが、しかし霊夢にはその声は低い男の声に聞こえた。乾いた声、というのだろうか。ガラガラしているというわけではないが、枯れているというような。
「……誰?」
枕に顎を乗せたまま、おそるおそる霊夢は聞いた。しかし聞く相手は周りを見回してもどこにも見つからない。
「どこにいるの?」
「ここだ」
「どこ?」
「お前の正面だ」
「え!?」
顎を支点にくるくると左右に振っていた頭が、正常に真っ直ぐを向いた形でぴたりと固まる。
しかし、その視線の先には何も映らない。
「何もいないです」
「いる。お前に見えないだけだ」
「…………」
霊夢は姿勢はそのままに、右腕をそろそろと前へと伸ばした。
何の感触もない。
「……やっぱりいない」
「いる。お前に触れないだけだ」
「嘘です」
きっぱりと霊夢は言った。目の前の空間に向かって。
「ふむ、まあ信じなくてもいいだろう。いつか信じることになる。必ず」
妙に確信めいた言い方だった。
「では今日はここまでにしよう」
唐突にそう告げると、それっきり正体不明の何かはそれ以上何も言わなくなった。
「霊夢ー、まだ起きてるわよねー」
「きゃああああああああああ!」
ガラッと引き戸を開けて巫女が霊夢の家に入ってきた。
「……どうしたの?」
驚いた霊夢より――とまではいかないだろうが――驚かれた方の巫女も驚き戸口で立ち止まりぼんやりと聞いた。
「いえ、ええと……」
我に返った巫女が履き物を脱ぎ家の中に入っている間に、姿勢を正した霊夢はどうしようかと思案する。
そもそもさっきのことにまだ現実味がなかった。
もしかしたら自分は夢を見ていたのではないかとさえ思っていた。見ることも触ることもできない何かに話しかけられていたから、急に現れた巫女に驚いただなんて、どんな顔をしてどんな調子で言えばいいのか。
「ただちょっと寝ぼけていたので、びっくりしちゃいまして……」
自分でもそうなのかと疑っているのだから、100%の嘘はついていないはずだと内心で自分を納得させながら霊夢は言った。
巫女はそんな霊夢の調子に訝しげな顔をし、周りを見渡し、しかし何も言わず破顔した。
「そ。ならいいの。これ、いつものね」
そう言って巫女は数枚のお札を腰をかがめて霊夢に差し出した。
「はい、ありがとうございます」
それを受け取る霊夢。受け取ったお札には筆で書かれた、曲がりくねった文字のような記号のような何かがびっしりと連ねられていた。
年端のいかない少女の一人暮らしは危険が多い。そのための巫女特製の護符だった。
霊夢がお札を懐へしまいこむのを満足そうに見守りながら巫女は「そうそう」と続けた。
「この前揉めてた話がひと段落したの。これでみんなに文句も言わせないからさ、霊夢も一緒に神社に住まない?」
「…………え?」
先の巫女よりも呆けた様子で霊夢はおうむ返しに聞き返すことしかできない。
今、巫女は何と言ったのか。何と言ってくれたのか。
「私と、神社で、暮さない?」
巫女は一言一言区切りながらしっかりと言った。霊夢の目を見てまっすぐに。ニッコリと。
霊夢の顔に広がる喜びの表情は、さながら開花の瞬間を早送りしたかのようだった。
「はい!」
そのいつにない元気な返事に満足そうにうんうんと頷く巫女。
「それじゃあ明日は早速引っ越しね。体力も精神力も結構使うんだから、今日は早く寝なさい」
このはしゃいだ様子で寝られるのだろうかと内心思う。霊夢は手元にあった枕を力いっぱい抱きしめており、そこら中を転げまわりそうな様子だった。
それにしてもこの子は、素直で純粋で清らかないい子だ。
苦笑を隠すこともなく全面に押し出しながら、しかしそんな霊夢の様子に安心した巫女は手を振って家を出た。
中からは小さな歓声が何度も聞こえてきていた。
霊夢。
天涯孤独の少女。
両親はいない。どころか知ってさえいない。
清廉潔白な少女。
文句も言わず、泣き言さえもない。
周りの人間がその境遇を当然のように思ってしまうほどの自然さで、彼女は一人だった。
しかし、そうであるのに、いやもしかしたらそうだからこそ、少女について語るべき特徴は孤独、一人、ただそれだけ。それ以外には特筆すべきこともないただの少女だった。
巫女がその評価を聞いたならば、『巫女の友人』と付け加えるだろう。
それを霊夢が聞いたならば『巫女の知り合い』と直すかもしれない。もしくは、頬を染めながら遠慮がちに『巫女の義妹』と直し、やはり自分はそんなことはないと首を振るかもしれない。霊夢の願望と同様に、周囲からの評価も似たようなものであろうが。
それは気持ちの上の話であって、血縁上ではもちろん、記録的にも義妹となる要素は何もないのだが。
しかし今日からは。
霊夢は自分のことを『巫女の居候』と言うだろう。
巫女は霊夢のことを『巫女の義妹』と直すだろう。
そして霊夢は顔を赤くして照れ笑いを浮かべながら頷くのかもしれなかった。
神社に引っ越してすぐ、またあの声が聞こえた。
夕暮れに景色が橙色に染まっている中、霊夢はいつものように、一人縁側に腰掛けていた。
「今日からここがお前の家か。いい寝床だ。人間の気配が残っているのが玉に瑕だが」
前と同じ。低く乾いた声。響く声と裏腹に、どこにいるのか姿も気配も、もしかしたら質量すらもない何か。
何かよくわからないものが、また話かけてきた。
「人が住むところなんですからいいと思いますけど」
なんとなく神社を貶めたニュアンスを感じ取った霊夢が不機嫌そうに言う。
内心、焦っていなかったと言えば嘘になるのだが。
今は巫女がいない。
巫女は霊夢が引っ越したという旨を人里の人たちに報告に回っているから。
本当は霊夢も同行するべきだったのだけれども、一日引っ越しに酷使した体は疲れ果てていて、それを見た巫女が霊夢を休ませて一人で行くことにしたのだ。
お世話になっていた人々には霊夢自身がしっかりとお礼とお別れを告げていたので、残りは後日ということで良いと言えば良いのだが。
そうではなく。
今は巫女がいない。
「そういうことではないさ」
何かが、呟くように言った。ぼそりと、聞かせる気のないように。
「それより、そんなに怯えなくてもいいだろう」
「…………」
どう答えればよいものか霊夢にはわからなかった。
怯えているのを気取られていいものか。
「別に危害を加えたりはしない」
わざわざそう言うのも、いかにも怪しいではないか。
「巫女がいないからといってすべての妖怪がお前に害をなすわけではないだろう」
「…………そうですね」
巫女がいないから、というのもすべて織り込み済みというのであれば抵抗しても仕方ないだろう。そもそも危害を加える気ならばとっくにやっているか。
霊夢は少し息を吐いた。
「あなたは妖怪なのですか」
先の発言で気になったところを聞いてみる。
「そうだ」
あっさり返ってくる答え。
相手が妖怪とわかっただけでもいくらか気持ちが楽になったかのようにも感じる。霊夢の肩からほんの少しだけ力が抜けた。
「妖怪ならば、巫女様の友達です」
「ふむ、そうか」
心を見透かしたような声。少なくとも霊夢はそう思った。
「妖怪は怖くないのか」
「得体の知れないものは怖いです」
霊夢はジト目で皮肉を投げかける。得体の知れない何かから何かよくわからない妖怪に変わったせいで――もしくはおかげで――少しフランクに少し無防備な口調で。
「その通りだな」
「…………」
皮肉が通じないのか、と霊夢はため息をつく。頭の悪い妖怪には思えないのに――この場合頭の悪い妖怪の方が霊夢にとっては怖かったが――わざとだろうかと少し拗ねる。
子供らしく、ころころ変わる心だった。
「何を考えているのか隠している奴、だましている奴、そういうものがよっぽど性質が悪い。そこらの小悪党よりかははるかにな」
「それはあなたです」
霊夢は口をすぼめて言った。
見えない妖怪はやはり乾いた声で笑うと、ふとしゃべらなくなった。
気づけば時間がだいぶ過ぎていたようだ。いつの間にか陽が暮れていてあたりは暗くなっている。はからずも話に夢中になっていた霊夢は気づかなかったが。
声をあげなくなった見えない妖怪を不思議に思いきょろきょろとあたりを見渡す霊夢の視界に、境内への階段を上がってくる巫女の姿が映った。
引っ越し後初めての巫女との夜が始まる。
巫女の手にはたくさんの食材が抱えられており、霊夢の顔には隠しきれない笑みが浮かべられた。
「おいしいわねー」
「そうですね」
鍋だった。
ぐつぐつと煮えている鍋の中には野菜とたくさんの肉がおしあいへしあいするかのように大量に入っていた。
二人っきりで鍋かと。
夏なのに鍋かと。
そんな無粋なことは言うまい。
小さなちゃぶ台をはさんでほのぼのと、巫女と霊夢は鍋をつつく。火元は巫女の不思議な力。霊夢にはよくわからなかったが。
「これは何のお肉ですか」
霊夢が煮えた肉を一切れ箸につまんで持ち上げた。
「それは兎」
「兎ですか」
「ちなみにこれも兎」
巫女が煮えた肉を一切れ端につまんで持ち上げた。
「それもですか」
「ちなみにそれもよ」
霊夢がもう一切れ、口に運ぼうとしていた肉を指して言う。
「これもですか」
つまんでいた肉を口の中に運び、もぐもぐとゆっくり咀嚼する。霊夢が小さな口を開き、肉を入れ、もむもむと口を動かし、ごくんと飲み込むまでをほほえましくじっくりと観察する巫女。
そのにこにこと笑う巫女が続ける。
「それも。あとこれも。ついでにあれも」
箸で順番に指していく。行儀が悪い巫女だがそれを気にする巫女ではない。
「兎肉ではないものはないのですか?」
「ないわね」
「……ないのですか」
別に嫌なわけではないですが、と言ってまた肉を頬張る。
そういえば。
肉を飲み下した霊夢はそう言って巫女に目を向けた。
「今日はどなたに挨拶をされていたのですか?」
「どなたって?」
肉を取りながら続ける。
「私がお世話になった方にはだいたいお礼を言った気がするのですが」
「肉ばっかり食べてちゃダメでしょ。野菜を取りなさい野菜を」
「巫女様も肉ばかりです」
鍋には野菜が多く残っている。元から肉ばかりであってもこのザマとも言える。
「そうではなく」
「まだまだ子供ね、霊夢。私は保護者みたいなものなのだから霊夢が挨拶した人でも私がもう一度挨拶するものなのよ」
「巫女様も私と一緒に挨拶したじゃないですか」
引っ越しの騒ぎを聞きつけてやってきてくれた人に事情を説明し今までのお礼をしたのだ。その場には霊夢とともに巫女もいた。
「あー、もうめんどくさいわねー」
そう言ってガシガシと頭をかき混ぜる巫女を霊夢はジト目で見つめる。
霊夢が見つめ、巫女が目を逸らし続けること数秒。
「はあ」
ため息をついて巫女が折れた。
「そんな大した話じゃないわよ」
「じゃあ何で誤魔化したんですか」
「ノリよノリ」
「…………」
なんとなく納得してしまって困る霊夢。
「まあ、神社を使うにあたってね、挨拶しないといけない人たちもいるのよ」
野菜をいくつか摘み、つまらなさそうに口に運ぶ。
「誰ですか、それは」
霊夢はそんな話は聞いたことがなかった。
「おじいちゃんおばあちゃん。時々ここを使ったりするのよ」
「そうなのですか」
そんな話も聞いたことがなかった。
「じゃあ私は――」
「大丈夫よ」
俯いて言いかける霊夢を箸で指し制する巫女。行儀は悪い。
「なんとか話はつけてきたから気にしないで。それに、霊夢が気にする話ではないわ」
「でも……」
「大丈夫」
強い口調で巫女は繰り返した。
「もしかしたら霊夢に席を外してもらったり、手伝ったりしてもらうかもしれない。不都合を押し付けちゃうかもしれないのはこっちの方なんだから。それこそ大丈夫かしら?」
「……ええ、それはもちろん」
悪戯っぽく、もしくは意地悪に尋ねる巫女に霊夢は戸惑いながらも頷いた。
巫女は手を合わせてパンっ、と小気味いい音を鳴らすと明るい笑顔を作った。
「さ、この話はもうおしまい! さっさと食べないと寝る時間になっちゃうわよ?」
「子供扱いしないでください」
頬を膨らませて抗議しながら肉をつまむ霊夢に、巫女はくつくつと笑みをこぼした。
夜も更ける。
霊夢は布団の中ですやすやと眠っている。
巫女はその隣に座り、頭を撫でた。なめらかな髪だ。撫でる手が滑るように髪の上を行き来する。不満があるとするならば、あおむけで寝ているために髪が梳けないことくらいか。
先の食事のときと違い、静かな笑みを巫女は浮かべる。
そんな穏やかな静寂に。
ばたばたばたばた、と。
境内を駆ける音が聞こえる。
「巫女様ッ!」
「……わかったわ」
訪問者のあげる焦りでいっぱいの声を聞いて巫女は瞬時に用件を把握する。
「ちょっとだけ行ってくるわね、霊夢」
部屋を空ける準備をして巫女は外に出た。
「後は頼んだわよ」
よく晴れた日だった。
朝のこと。巫女は寝ぼけ眼をこする霊夢に軽く事情を説明して慌ただしく神社を出て行った。
太陽はどんどん高く昇ってくるが巫女は帰ってこず、霊夢は一人縁側に座りぼーっとしていた。
「おい小娘」
「小娘じゃありません。得体の知れない妖怪さん」
突然の第一声にこの程度の軽口を返せる程度には、霊夢も状況に慣れてきていた。
「私の名前は霊夢です」
「俺だけお前のことを名前で呼んで、お前は俺のことを得体のしれない呼ばわりするのは不公平だろう」
「じゃあ名前を教えてください」
「断る」
憮然とする霊夢。
「そんなことでは名前を呼べません」
「じゃあ俺もお前のことを小娘と呼ぶ」
口をへの字にして眉根を寄せる霊夢。
「そんなのは屁理屈です」
「お前がそれなりの人間になれば考えてやろう」
「そんなこと――」
「それよりも」
話題を打ち切ろうという意志が明らかにのぞくような強い言い方で、妖怪は霊夢の言葉を遮った。
「巫女はいないのか」
口に出しかけていた文句を飲み込んだ。
急に巫女の話だ。
得体の知れない妖怪が。
巫女の話自体は霊夢的に大歓迎ではあるのだが。
でも相手は得体の知れない妖怪なのだ。
「巫女様に用事でもあるのですか?」
「ああ、似たようなものだ」
「そうなのですか」
内心、少なからず霊夢は驚いていた。てっきり、巫女がいない時を狙っているのかと思っていたから。
目に見えてわかるほどほっとした霊夢は、朝方巫女が神社を出るときに残していった言葉を思い出す。
「巫女様は今人里の方へ調査に出ているそうです。昨晩妖怪が出たとか」
「俺だって妖怪だが」
「人を襲う妖怪です」
巫女が言うには人里の老人が襲われかけたらしい。その老人があげた叫び声に人が集まってきて、それを見た妖怪は逃げてしまったのだという。
霊夢が巫女から聞いた話だ。
「人里を徘徊していたところに遭遇してしまったとか」
ふむなるほど、とわかったのかわからなかったのかよくわからないような相槌をうつ妖怪。
「お前も危なかったというわけだ」
さらりと言った妖怪の言葉が霊夢にはよくわからなかった。首をかしげる霊夢。
「どういうことですか?」
「お前も人里に暮らしていただろう」
「……あ」
昨日霊夢が今まで住んだ家を出て行ったちょうどその夜、老人が狙われた。
襲われた老人の騒ぎを聞きつけて人が集まってきた。
妖怪は何もせずに逃げた。
巫女が人里の人に呼ばれて駆けつけた。
そうだとするならば。
昨夜襲われたのは霊夢でもおかしくなく。
命がなくてもおかしくはなかった。
一人暮らしの少女。
妖怪が狙うにはうってつけに違いない。
巫女から緊急用のお札をもらってはいるが、それだってどれだけ通用するかはわからないのだ。一人暮らしの環境で、今まで襲われたことがなかったというのは幸運なことだと考えてもいいとは思うが。
「じゃあ私は巫女様のおかげで助かったというわけですね」
俯いて下を向くような素振りを一瞬見せた後、霊夢は静かに笑って空を見上げた。両手をついて上体を傾け、縁側に座る霊夢は空を見上げた。雲が散らばっていても空はやはり青かった。
「さすがは巫女様です」
「そうだな」
間をあけることなく届いた妖怪の声に、霊夢は少しきょとんとする。
「素直で意外な妖怪ですね」
「俺に巫女を悪く言う理由があるのか」
「巫女は妖怪の敵で、妖怪は巫女の敵だと聞いています」
「誰からだ? 巫女か?」
「……いいえ。時々来るおじい様やおばあ様に教えてもらいました」
「歳ばかり食った者どもは余計なことばかり言う」
霊夢は少しきょとんとした。妖怪も口が悪いものだ。
「年配の方は嫌いですか?」
「嫌いだな。個人にもよるが憎んですらいる」
「そういうのはよくありません」
「そう言うな」
妖怪はふんと鼻を鳴らすような音を発すると、そうではなく、と話を戻した。
「巫女はそうは思っていないんだろう?」
「ええ、巫女様にとって妖怪も人間も同じです」
「ならば、俺にとって巫女は仲間だろう」
「あなたは本当におかしな妖怪ですね」
霊夢がクスリと笑った。この妖怪と話しているときには初めて見せる表情だった。
「別にお前の機嫌をとっているわけではないぞ。巫女の理想――妖怪と人間の共存――素晴らしいことだ」
「そうですそうです」
にこにこと笑いながらこくこくと頷く霊夢。
「ただ、それには力がいる。お前は厳しく等しく優しくなれ。お前は強い」
「…………?」
ふいにかけられた、急に纏う雰囲気の変わった言葉に戸惑い、理解できない霊夢。
ただのふざけた雑談だったはずなのに、その落差というかギャップは何なのだろう。
真剣で直球勝負のような。
というか、今の私は不平等で優しくないとでも言うのだろうか。まあ厳しくはないのだろうが。
霊夢はなんとなく不毛なことに心中複雑になる。
「あの、どういう意味ですか?」
宙に声を投げる霊夢。姿が見えるのならば、そこに向けて問うのだが、それがない妖怪だから宙に投げる。
しかしその言葉は空中をふわふわ浮かぶだけで誰も受け取りはしなかった。
「あれ? 妖怪さん?」
霊夢はきょろきょろとあたりを見渡す。もちろん、近くにいたとしたところで、姿が見えるわけはないだろうことは霊夢にもわかってはいたが。
「…………」
返事はなかった。
どこかに行ってしまったようだ。
「むー。答えに困るとどこかへ消える癖はやめてほしいですね」
おそらくは近くにはいないだろうと予想しつつも、不満げにそう言った。
妖怪が消えた数十秒後。
縁側に座る霊夢を吹き飛ばしかねない大きな風が巻き起こった。
「あわわわわ」
髪が舞い上がり和服の裾がはためく。霊夢は顔を伏せ、服を抑え風がやむのを待った。
そしてその強風が自然ではありえない唐突さで消え失せた。
霊夢が顔を上げるとそこには一匹の妖怪がいた。
天狗が。
黒いミニスカートに白いシャツ、黒い翼に白い肌の天狗が満面の笑みで立っていた。
「あやややや、霊夢ちゃんじゃないですか」
射命丸は、神社にいるときの指定席である縁側にいつものように座る霊夢を目にとめると駆け足で目の前に立った。
「天狗様。もう少し普通の登場はできませんか」
そう言う霊夢は髪は乱れ、服は乱れ、まるで寝起きのような格好になってしまっていた。
「あやややや、私としては普通のつもりなのですが。次からは気を付けることにします」
霊夢は射命丸に気づかれないようにこっそりとため息をついた。
しかしため息の後、見てみれば満面の笑みは満面の笑みでもそれは。
まるでさめたような凍りついたような冷たい印象を霊夢に抱かせた。
「ところで、巫女はどこです?」
寸前までの話をころっと忘れたかのように本題を切り出す射命丸。
言い知れぬ迫力を覚える。せめて表情を変えてほしいと霊夢は思った。
「巫女様は人里の方へ行っています。昨日出没した妖怪の調査に」
「人里に妖怪の調査に?」
登場時からまったく崩れない満面の笑み。
霊夢の心が一歩だけ引く。体は動けない。
「本当ですか? 匿ったりしていません? 誰か来たりしているのでは?」
「そんなことないです。何故隠し事なんてしないといけないのですか」
霊夢の言葉を無視してあたりをきょろきょろと見渡し、霊夢が座ってる縁側に膝をかけ、部屋の中まで身を乗り出して確認し始めた。
「天狗様。私と巫女様に失礼です」
霊夢の言葉を無視して射命丸は靴まで脱ぎ始めている。本気で家探しする気で来ているようだった。
射命丸が靴を脱いでいる姿に事情はともかく、とりあえずどう制止しようか座った姿勢のままオロオロしていると。
射命丸が手に、何か紙を握っているのがわかった。
長い時間握りしめていたのか、紙はぐちゃぐちゃにっている。ともすれば破れているのではないかとすら思ってしまうくらいに。
霊夢は何故か、本能的とでも言うのか、射命丸よりもその紙の方を目で追っていた。
それなりに大きな紙だった。
霊夢の目測で、だいたい新聞紙一枚を二回折ったような大きさの紙。
射命丸の激しい動きと共に揺れるので何と書いてあるのか霊夢にはよく見えないが。
それなりの量の文字で埋め尽くされていた。
黒い墨で書かれた。
同心円状に広がっている文字は漢字ばかりで、まるで呪符だかなんだかの類のような。
いったい何が書かれているのか――――
「文! ここにいるの!?」
部屋の中に入っていく射命丸を――正確には射命丸が持つ紙を――目で追って座ったまま上半身を後ろにそらしていた霊夢は、がばっ、と擬音が聞こえそうな勢いで振り向いた。
誰もいなかった神社の境内には、巫女が立っていた。
珍しく息があがっている。巫女が息を切らしているのを霊夢が目撃するのはこれが初めてだった。驚きをもって見つめる。
それに比べて射命丸は落ち着いていた。
「ここですよ、巫女」
ゆっくりと振り向いた射命丸は、やはり最初と変わらない笑顔のままそう言い放った。手にはまだ紙を握りしめたまま。
既に部屋の中に上がっているが悪びれる様子もない。
「何をやっていたの?」
「巫女を探していたんですよ」
「霊夢に聞かなかったの? 今日は人里に調査よ」
「余裕ですねぇ」
「どういう意味?」
霊夢の肩がびくっと跳ねる。こんな巫女を見るのは初めてだった。いつも大きく開いた瞳に、常にない力が込められ、細められ、射命丸を睨みつけている。
「こんなところで言ってもいいんですか?」
射命丸の笑顔は終わらない。声音も高くて優しい。まるで音叉を鳴らしたような、澄んだ平坦な声。
「黙りなさい」
吐き捨てるように言ってこちらに歩いてくる。何も言わずそれを見つめることしかできず固まるだけの霊夢。
巫女はそんな霊夢に目を向けることなく履き物を脱ぎ、縁側から部屋にあがった。
背中越しにたった一言。
「ごめんね、霊夢」
とだけ言い置いて。
「文、こっちで話するわよ。ついてきなさい」
そう言って射命丸の横を通り過ぎ部屋を出る巫女。射命丸もそれを追いかける。
「あの部屋は嫌ですよ」
「我慢して」
「巫女、私がここに来た理由動機がわかっててそんなことを――」
「黙れ」
障子は優しく閉められた。
巫女と射命丸の話はそれほど長くはかかることなく、二人は霊夢の待つ縁側へと戻ってきた。
二人とも、悲壮な表情はしていなかった。射命丸が諦観の表情を浮かべ、巫女はそれを通り越してそもそも何も気にしていないかのようないつも通りの表情に戻っていたくらいの変化。
「巫女は後先考えて行動することをそろそろ覚えるべきだと思いますよ」
射命丸が靴を履きながら巫女に言った。
「あなたにだけは言われたくないわね、そのセリフ。頼むから無茶なことしないでよ」
巫女が射命丸を見下ろしながら言った。
靴のつま先でとんとんと地面を叩いた。
「何をそんなこと。200年以上も時代遅れな――いやそれ以上に自分たちしか見えていない馬鹿どもに、常に最新の情報の中を生きる新聞記者で天狗な私が無茶も何もないと思いませんか?」
「あなたの心配なんかしてないわよ」
そう言って笑った。射命丸も巫女も。
「ねえ、巫女。聞いていいですか」
「何よ」
「あなたは何がしたいんです?」
「私は私がやりたいことをするの」
「そうですか」
「そう」
口の端を吊り上げ、自信満々、一点の迷いもなく言い放つ巫女に射命丸は微笑を返した。
「では、また」
そう言って手をしゅた、とあげる。
巫女も応えて返す。
風が射命丸を包み込み、霊夢が目を逸らし、次に視線を戻した時にはもう射命丸は飛び去った後だった。
優しい風だった。
それからの数日、霊夢が心配したような暗い雰囲気、いわゆる気まずい雰囲気ということになることはなかった。
ある日の晩、霊夢が引っ越してきてからまだ一週間も経っていないある日の晩飯後、入浴後の緩やかな時間のこと。
「霊夢ー。はいこれ、あげる」
敷いた布団の上でくつろいでいた霊夢は、別の部屋から綺麗に包装された何かを持ってきた巫女を見て目を丸くした。
「何ですか、これは」
とりあえず受け取る。それなりに大きな包みの割には重さはほとんどない。
「引っ越し祝い。そういえば何もあげてなかったし」
「本当ですか!? 開けていいですかいいですかいいですかっ?」
言いながらすでに包みをはがそうと指でかりかりしている。
それを見ながら巫女は苦笑して、
「別にいいわよ」
そう言った途端、霊夢は驚くべき速さで――ついでに綺麗さで――包みをはがす、と。
中から出てきたのは大きなリボンだった。
「おー、リボンです! 紅白です!」
「そ、ホントは何か服でも買ってあげようと思ったのだけど」
「巫女服がいいです」
「そう言うと思ったのよ」
巫女は二度目の苦笑を漏らした。
「でも考えてもみなさいよ霊夢。こんな真夏に巫女服なんか着てたら暑くてしょうがないわよ?」
「巫女様は着ているじゃないですか」
「私はしょうがないの。巫女だもの。言っとくけど、霊夢が簡単に我慢できるくらいの暑さじゃないわよ」
「我慢します」
巫女は大いにわざとらしく神妙な顔をして、人差し指を霊夢に突きつける。しかし霊夢の目線は揺るがない。
あくまでもかたくなな霊夢。
巫女はうーんと思考顔。しかし数瞬後、アイデアを閃きしたり顔。
「でもね、霊夢。暑くない巫女服というのも存在はするわ」
「じゃあそれをください」
これはもう私のですけど、ともらったリボンを早速頭につける霊夢。
大きく紅白な派手なリボンは、しかしおとなしい霊夢によく似合っていた。
ふむふむ、と自分の目とセンスに狂いはなかったと満足する巫女。
それはさておき、霊夢の発言を受けて言う。
「でもね、それはとても恥ずかしいデザインなの。夏でも涼しいというのはつまりそれだけ露出が多いというわけなのよ!」
「う……」
それを聞いて少し躊躇する霊夢。突然の意外な話の展開に顔も少し赤くなっている。
巫女は自分の話の期待通りの効果を見て取ると、その機に一気にたたみかける。
「具体的には、腋が出ていたり、でも袖の穴が大きかったり、ところにより臍が出たりするわ」
「腋が!? 袖の穴が大きかったら服の中が見えちゃいます! おへそなんてダメです破廉恥です!」
「袖だけついてるっていうのもいいかもしれないわね」
「巫女様変態さんですっ!」
そんな改造巫女服を着ている霊夢を想像してつい顔がニヤける巫女。
何故だか霊夢との心の距離が遠くなった気がするので、いけないいけないと心を持ち直す。
「まあ、ともかく。それが着れないのに霊夢が巫女服を着るなんてまだまだ早いというわけなの」
「それは嘘です」
「嘘なんかついてないわ」
「うー、絶対嘘ついてます。……けどまあ仕方ありません」
そう言って霊夢が折れた。
そのかわり、と。
「これは絶対に返しませんからね」
頭に付けた大きなリボンを両手で抱え込むように触る霊夢。
「心配しなくてもあげたものを取ったりはしないわよ」
巫女、今晩三度目の苦笑。
なんだかその問答が、そんな空気がおかしくて、霊夢は笑ってしまった。
巫女も、そんな霊夢を見て笑った。
「巫女様、ありがとうございます」
霊夢が笑って言った。
巫女も笑って頷いた。
夏の暑さというものは、途切れることを知らなければ、限界というものも知らないらしい。
霊夢はいつものように縁側で空を見上げながらそう思った。
暑くて暑くてたまらない。太陽はどうして白いのだろう。目を細めて太陽を見ようと試みるも、意味もなく、また目が痛くなるだけだったのでやめた。
今巫女は神社にいない。
例の人里に現れた妖怪の調査をするのだという。
そう、まだ人里を襲ったと言われている妖怪の正体はつかめておらず、また退治もできていない状況だった。
霊夢は一人、お茶をお供に巫女が帰ってくるのを待っていた。
さもお茶菓子かのような自然さで。
「よう小娘」
「何かよくわからない妖怪が声をかけてきました」
妖怪が現れた。
「何かよくわからないとはなんだ」
「小娘とはなんですか」
負けじと言い返す霊夢。
「ふむ」
妖怪はそう言ったのち数秒時間を空け。
「ところで」
話題を変えた。
勝った。と小さくガッツポーズをする霊夢を無視して妖怪は続ける。
「巫女はいないのか」
「またですか」
霊夢は珍しく呆れ顔になる。
「巫女様がいない時に神社に来る方が難しいでしょうに」
「今日も出ているのか」
「ええ、先日人里の方に出た妖怪の調査に」
「ふむ」
そうやって数秒沈黙の時間が流れる。
おそらく何か考えているんだろうと思った霊夢は、どこかにいるだろう妖怪に声をかける。
「お茶の用意でもしてきましょうか」
「気が利くな。だが必要ない」
腰を浮かしかけていた霊夢は、そうですか、とだけ言って腰を下ろす。
「巫女はずいぶんと妖怪を見つけるのに手間取っているようだな」
「そう言われてみれば……そうですね」
今まで巫女は、即解決とまでいかずともそれなりの早さで問題を解決していたように思う。霊夢は首をかしげた。
「何か理由があるんでしょうか」
「考えられるのは二つだな」
なんとなく独り言のように言ったつもりだったが、妖怪は意外なほど早い反応で返した。
「あなたは嘘をつくので信用できませんが聞くだけ聞きます」
霊夢は真顔で言った。
「俺は嘘はついていない。胡散臭いのは認めるが」
いや、一度だけグレーがあったか。
呟くように言う妖怪。姿が見えないので、どのように言っているかはわからないが。
「とにかくだ。一つ目、巫女が見つけられないほど強い妖怪」
「そんなものがいるわけがありません」
霊夢は合間なく言う。いるわけがないのだ。確信を持って。
「別に実力じゃなく、隠れるのがうまい妖怪だっているだろう。まあ実力が伴っているかいないかは運次第だが」
「むむ。隠れるのがうまい妖怪はいるかもしれませんね。私のすぐ近くに」
言って。
いや、と思う。
いるかもしれないのではなく、いるのではないかと。
どこか目の前なのかすぐ隣なのかはたまた後ろなのか。
霊夢の近くのどこかにいる妖怪。
この妖怪を巫女は見つけられていただろうかと。
一度……いや、違う。一度も痕跡すら巫女は感じていないのではないかと。
霊夢は密かに、この得体の知れない妖怪が、より何かわからないものになっているように思った。
そもそもこの妖怪は何が目的でここにいて。
巫女はどこまでこの状況を把握しているのか――
「二つ目にだ」
霊夢の思考を切るかのように、言葉を連ねる妖怪。
「妖怪をかばっているか、だ」
「言い方が気に入りませんね」
眉根をひそめる霊夢。
「言葉通りの意味だろう」
嘲りの色が言葉に混じる。吐き捨てるとまではいかないが。どうだろう、初めて感情が見えたように、そう、あの時笑いあった時間よりもよっぽど、感情がのぞいたように霊夢には聞こえた。
「見逃してあげた、とか許してあげた、とか。そういう言い方ではダメなのですか」
「それでは意味が変わってしまうだろう。いや、それにしてもお前は甘すぎる」
何か言い返そうと一瞬言葉を考える霊夢より先に、妖怪が先を続ける。
「どんな理由があろうと悪事を働けば罰を受ける。それは人間も同じではないのか? それとも人間はルール通り、妖怪には手心を加えるのか」
「そういうわけでは……」
霊夢はどう言えばいいのかわからない。とにかく、何か言い返さなくてはという気持ちだけが逸る。そもそも初めから、自分が言葉を発した瞬間から言い負かされている気はどこかしていたのだが。
「優しさと甘さは違う。慈悲と憐憫は違い、迅速と浅慮は違うのだ」
「……よくわかりません」
「要するに」
妖怪はそこで一息おいた。別にセリフを考えていたわけではないだろうが。
「力の使い方を間違えるなということだ。自分の信じる道を行き、それは正しく、しかし自分勝手で、それでもすべてを守らなくてはならない。そして、勝たなくてはならない」
「全然要約できていない気がします」
霊夢がジト目で突っ込む。ジト目と言っても、その目線を向ける先がわからないので、結果として遠くの風景に文句をつけているような恰好になってしまうのだが。まあこの暑さに文句ならいくらでもあると言えばその通りではある。
「まあ気にするな。結局のところ、今回の話には関係がない」
「嘘をついています」
「俺の名にかけて保証しよう」
「そんな薄っぺらい保証はいりません」
そもそも名を知らない。
「ともかくだ」
霊夢のツッコミを軽く受け流す。自分勝手に話を進める妖怪に、むー、と頬を膨らませるも霊夢は黙って妖怪の言葉を待つ。
「妖怪は退治されるもの、ということだ」
一瞬霊夢はどこの話に戻ったのか理解できなかった。しかし少し考えてもやはりどこかはわからない。
だってそれでは。
もうすでに妖怪の中で結論が出ているように聞こえる。
「妖怪が人間を襲い、人間が妖怪を退治する。そうしてここは成り立っている。その理を理解していないものが多すぎるのだ」
霊夢はあいまいに頷いた。よくわからない。
「お前もいずれわかる」
妖怪は言った。
「それこそが幻想郷と生きていくための方法だと」
物語は佳境である。
物語において、重要な場面というのはどんな風景をしているのだろうか。
例えば、大雨。ザーザーと強い雨が降り続き、大きな雨粒が頭に当たりはじけるのがわかるような水のカーテンの中。目を開けることも困難な状況で全身を濡れ鼠にし、頬から顎から前髪から後ろ髪から指先から体中で雨が滴り、それでも向かい合う二人は口を開き、相手に克明に自分を伝えるため懸命に声を張り上げるのか。
それとも。
例えば、夕暮れ。風景全てが橙色に染まる中、慌ただしくもしくは大人しく我が家へ帰る人々を尻目に、一日が劇的に終わる色を感じることで、別れの悲しさ空しさ切なさを増幅させるのか。胸に確かに響くしかし実体のない痛みと別れる瞬間のあまりのあっけなさに夕日を睨みつけるのか。
しかし今は。
そんな予感など感じさせることもなく。
ただただ今日この日今この時間は。
何の変哲もない昼下がり。夏の暑さはどこへやら、分厚い雲が空を覆い、昼とは思えない暗さ。見渡す限りの風景が灰色で色あせた印象を抱かせ、曇りの日特有の静けさが辺りを包んでいる。
要するに、ただの曇り空。
劇的な悪天候でも、ロマンティックな茜色でもなく、ただの何の変哲もない灰色の空。
本当に、なんでもない今だった。
「あ、霊夢。今日は神社を使わないといけないのよ」
朝起きて朝食を二人そろって食べていると、巫女はそう切り出した。
今日の朝餉はご飯味噌汁焼き魚。味噌汁の中の豆腐の熱さに寝ぼけ眼を細めながら、湯気の向こうの巫女を見る。済まなそうな顔。しかし言い切った顔。
「この前言ってた神社を使う用事ってやつで……霊夢がいたらちょっとだけマズイのよ。だから」
「わかりました。今日は外出します」
巫女と霊夢は揃って外の風景を見る。朝に似合わないどんよりとした空気。いつ雨が降り出してもおかしくはなかった。
「まあ、雨が降ってきたら戻ってきなさいな。それくらいはなんとかするわ」
「はい、そうします」
霊夢はずずずと味噌汁をすすった。
朝食を食べ、少しのんびりして、巫女の見送りをうけて鳥居をくぐって神社から出る。
霊夢は背中に境内を背負い、長い長い階段を下りていった。
階段を下りきったところで、霊夢はきょろきょろと辺りを見回すと、今しがた下りてきた階段の一段目に腰を下ろした。
今更どこかへ遊びにと言われてもしっくりこない。そもそも霊夢はあまり友人が多いタイプではない。というよりむしろほとんどいないかもしれない。
顔は知られていても、それが友人と言えるのか。
少なくとも、今の霊夢は神社の近くにいることが一番快適に感じられた。
それに。
こうやって階段に座り、足をばたばたさせていると。
「どうした小娘。追い出されたのか」
「小娘じゃありません」
またこうして妖怪が来てくれるんじゃないかと、そんな期待があったりした。
「こんなところにいないでどこぞに行けばいいだろう」
「どこぞってどこですか」
「友人のところにでも行け」
「いませんもの」
霊夢は憂うる素振りも見せずそう言った。
「そうか」
妖怪も別に何ら反応することなくそう返した。
「しかしこんなところにいると『お客様』に鉢合わせするんじゃないのか」
待ち伏せでもするなら話は別だが。
くっくと妖怪は笑った。
頬を膨らませて、不満をアピールしながら霊夢は言う。
「別に怒られるわけじゃないでしょう。ちゃんと挨拶はしますよ」
「そうか。まあ別に俺は構わないが」
そこで。
あれ、と。
何で妖怪は、今日神社にお客様が来ることを知っていたのだろう、と。
霊夢は思った。
もしかしてずっと神社に入り浸っていて、自分たちの会話を全て聞かれていたとか。そうだとしたらぞっとしない。霊夢は少し寒気を感じた。
いやでもしかし。
そういえば自分は少し前まで一日のほとんどどころか一週間のほとんどを神社で過ごしていたような人間で、それが高じて、というわけでもないのだが今では神社に住んでさえいる。神社にいないということは、神社にいられないだけの理由があったのだと推測するには別に難しく思えないことのような気がしないでもない。
そう思うと気が楽になる霊夢。単純な子供と言えばそうなってしまうのだろうか。
そんなことを徒然と考えていたその時に。
前方から何か人の群れが歩いてくるのが見えた。
遠くから見てもわかるくらい皆背が低い。霊夢は、ただ背が低いのではなく腰が曲がっているというのが近くなってきてからわかった。
総勢16名からなる老人たちの集団だった。
「おやおや、これは霊夢ちゃんじゃないか」
霊夢の傍らまで来た先頭の老婆が、後ろの老人に向けて言った。
「おや、これが」
「ふむ、何をしているんだい?」
「我々が来るからと出てきてくれたのでしょう。いい配慮じゃないですか」
「おお、それはそれは」
霊夢の傍らで繰り広げられる会話。霊夢はそれを階段の隅にちょこんと座りながら、きょとんと話が進むその様を見上げていた。
老人たちの話はよくわからない。
霊夢の率直な感想である。
挨拶のために浮かしかけていた腰はあげられることもなく、そのまま老人たちが道を通れるように場所を端にずらしただけであった。挨拶する合間すらない。霊夢はむむむとそわそわした。挨拶が出来ない子供だと巫女に怒られてしまう。
「おお、しまった!」
「どうしたね印出井さん」
「忘れ物をしてきてしまってのう。ちょっと取ってくるわい」
「そうかそうか。では儂らは先に行っておるよ。そちらは任せた」
「うむ、では」
そうして、老人の一行は一人を残して神社の境内への階段を上っていき、一人は人里の方へ戻っていった。
霊夢は老人たちの姿が誰一人として見えなくなってからもぼーっと前を向いていた。
「どうした?」
妖怪からの一言も、聞こえていないかのような。いや、聞こえてはいても聞いているどころではない。
それは不思議な感覚だった。
いんでい。
聞いただけでは苗字だということにも気づかないような珍しい苗字。
しかし不思議と霊夢にはどんな漢字を当てるのかがわかった。
印出井。
印出井飛一郎。
いんでいひいちろう。
読みどころではない。フルネームでわかる。
いや、でも。霊夢はなお考える。
今会った――というよりすれ違ったというほうが正しいか――老人たちの誰一人として霊夢は見たことがなかった。
なのに何故、名前がわかるのか。
読みを聞いただけで漢字がわかる。
苗字を聞いただけで名前がわかる。
どこかで見ている。どこかで。
どこだったかが思い出せない。喉まで出てきているのに。絶対にどこかで、最近見ているはずなのに。
あともう少しで思い出せそうなのに思い出せない感覚。霊夢は黙ったままどんどん顔が険しくなる。
「…………」
そしてたっぷり2分ほど考えた後、ふぅ、と霊夢は息をついた。あともう少し。あともう少しで思い出せそうなのに、そのもう少しが決定的で重大で、どうしても見つからなかった。
まあ、どうせいつか思い出すだろう。
霊夢はぼんやりと空を見上げた。相変わらずの曇り空。日々の夏の暑さを忘れさせてくれるかのようなひんやりとした空気は嬉しいことだけど。
静かで澄んだ空気はそれはそれで好きなのだけれど。
今日という日は何故か、太陽の光が恋しかった。
それはきっと。
霊夢は隣を見る。後ろを見る。
巫女がいないから、寂しいのだ。
だから。
「ねえ、妖怪さん」
どこか近くにいるであろう妖怪に静かに声をかけた。
もう一度空を見上げて厚い雲の凹凸をなんとなく眺めながら。
「…………」
しかし。
いつもなら、一人でいるときに虚空へ投げかければ返ってくるはずの返事が、今はなかった。
首を戻してあたりをきょろきょろと見回す。そんなことをしても姿が見えるはずもないのに。
「妖怪さん?」
もう一度呼びかけてみる。しかしこれにも返事はない。
霊夢は急に心細くなってしまった。
今、神社の外で一人でいるということが、心細くて心配で仕方がない。
そう、そんな時。
霊夢がそんなことを考えている時。
「わ!?」
人里の外れの方の方角から、ズシン、という確かな地響きのようなものが。
大きな音が立ったわけではない、しかし伝わってきた鼓動が、何かが押しつぶされたような、何か大きな力が働いたかのような、そんな感覚が襲来する。
霊夢は慌てて立ち上がった。
何があったのだろう。
霊夢の脳裏に、巫女が追っていた妖怪の話が蘇る。
――昨日人里の方で妖怪が出てね。
――ううん、今回のは悪戯とかそういうレベルじゃなくて、人を襲おうとしたらしいの。
――すぐ駆けつけたんだけど見つけられなくて、逃がしちゃって。
――霊夢、今日も行ってくるわね。あの妖怪、まだ見つからないの。
――今日も一日中歩き回って探し回って疲れたわー。まだ見つからないし。
――早く見つけないとまた人を襲うかもしれないのに。
――まだ見つかってないの。
ふと、先ほど人里に戻った老人の姿を思い出した。
ここで別れて人里へ戻った。今はちょうど人里に、何かがあった方面に着いたことではないだろうか。
人を襲う妖怪がいる。
霊夢の中でそれは確信へと変わっていた。生まれ持っての勘で。まだ未熟な勘で。
後ろを見る。巫女は気づいているだろう。まだ出てこれないのだろうか。
横を見る。今まで一緒だった妖怪はいない。
どこに行ったのだろうか。
霊夢は衝撃があった方角を、見えるわけもない距離のものをもしかしたら何か見えるかもしれないと目を細めて見つめた。
懐には、習慣として巫女からもらっていた護身用のお札がある。
今までは着替えのときくらいにしか覚えていなかったそれが、急に重みを持ったかのように感じた。
「何!?」
言いながら、誰の返事を待つというわけでもない、言った瞬間に巫女は御幣を引っ掴んで立ち上がっていた。
しゃらしゃらと紙がすれる音が慌ただしく響く。
「人里の方で何かがあったのでしょう」
「そうじゃ。何を聞く必要がある。明白だろうに」
部屋の中に座る老人のうち、二人が座る姿勢を崩さないままそう言い合った。
巫女はその二人を見て動きを止めた。
神社の中のとある一室。
板張りの部屋は軽い集会場ほどの広さがあり、閉め切って自然の光がほとんど届かない室内は、何本かの蝋燭の光で薄ぼんやりと照らされている。
音も光も届かない、静かで暗い秘密の部屋。
そこにまで不思議な衝撃は届いていた。
人里の方向で何かがあった。
しかし、この老人たちの落ち着きよう、そしてすべてを見透かしたような薄ら笑いはなんなのか。
「……何かしましたか」
巫女は部屋を見回して老人たちに問う。
先の発言の二人だけではない。部屋には十数人の老人が巫女を上座にして二列に向かい合って座っている。
「別に儂らは何もしておらんよ」
「そうじゃ。しかし話の続きをしよう」
老人の一人が自分の目の前に置いてある湯呑の茶をゆっくりと啜って言った。
「お主の活動方針についてじゃ」
「今そんなことを話している場合ですか」
巫女は立ったままそう言う。しかし足を動かすことができない。せいぜいが顔を向けないことで話を続ける気がないことをアピールするくらいで。
「儂らは妖怪をかばうのをやめてくれと言っておるのじゃ。巫女の仕事は妖怪を守ることではない。人間を守り、そのために妖怪を退治することじゃ」
「幻想郷の仕組みについては先日お話したはずですが」
「そう、そこじゃ」
老人は湯呑を置いて、巫女を下からねめつけるように見た。
「儂らには幻想郷というこの場所を守る義理などない」
巫女が拳を握りしめた。
「ご自分が何を言っていらしているのかわかっているのですか」
「重々承知じゃよ。いや、わかっておらん。だからこそ教えてほしいのじゃ」
老人の声は変わらず静かだった。少なくとも語感的には。
「幻想郷が存在することの人間にとってのメリット、幻想郷が存在しなくなることの人間にとってのデメリットというのはいったい何なのか。儂らにはお主の話を聞いてもいまいち理解できないのじゃがな」
老人はもう一度湯呑の茶を啜った。
「是非、教えてほしいものじゃ」
巫女は肩の力を抜いて、出口へ向かいかけていた足を正し、老人の方へ向き直った。
「人間についてのメリットはあまり多くはないかもしれません」
「じゃろうな」
「しかし、ここが好きな方だって少なくはないはずです」
「妖怪に怯える気持ち媚びる気持ち、それを勘違いしているだけじゃなかろうか」
「そんなことはありません」
「妖怪を憎むものが大多数のはずじゃ」
「ご自分たちが人間の総意だという顔をするのはやめてください!」
老人たちは巫女の叫び声などなかったかのような涼しい顔で茶を飲んでいる。周りの者を見ても全員同じような風情で座っている。
「今のお主は人間の敵に見えてしょうがないのじゃよなぁ」
「私は人間、妖怪、どちらの敵味方という立場にはいません」
「そんな綺麗事を言っておるから被害者が出るのではないか」
「……それについては返す言葉もありませんが」
実際にここ数年でいくらかの人間が妖怪の被害にあっていた。
なに、気にすることはない。
老人はそう言って嗤った。
「じきにお主も妖怪を憎むようになる。そうすれば変わるものもあるだろう」
そう、その言葉が皮切りだったかのように。
巫女が内の感情の一切を隠した無表情で老人に向けて一歩踏み出し。
老人が笑いを濃くし。
巫女の眉がぴくりと動いたその瞬間。
一番下座に座って、他の老人と同じ薄ら笑いを浮かべていた老人の首から赤が。
枯れ木のような首から噴水のように血が吹き出し、体全体がゴトリと倒れた。
直後、下座付近の場所に大穴が空き、部屋に外の光が差し込む。
部屋の入口が粉砕された瞬間、ズシンという衝撃が辺りに響き渡った。
「よう、待たせたな」
音を発するその妖怪の姿は、その場の誰にも見えなかった。
衝撃は霊夢の背後で響いた。
一度目の衝撃の後も、何をすることもできず立ち尽くすだけであった霊夢を空気の塊が殴ったかのような衝撃だった。
ほんの少しの時間の間に2度も衝撃が響いた、そのこと以上に、その出所の方にこそ驚いた。
霊夢の背後、長い階段の頂上には神社が聳え立っている。
そこから、先ほど人里であった衝撃と同じ衝撃が神社で。
思えば、先の衝撃の後に巫女は飛び出してこなかった。
何かがあったであろうことは明白だというのに。
境内へと続く階段を見上げる。
足がなかなか上がらなかった。巫女は大丈夫ではあると思う。信じている。巫女は、幻想郷最強なのだから。
しかし足は上がらない。
自分が行ってしまうことで足手まといになることは避けたい。それ以前に自分が行くことで巫女の助けになるわけではないし、助けなどなくても巫女なら大丈夫。
霊夢はそう信じている。
しかし、背中を這いずり回るような嫌な予感が。
不安で仕方なくなるような胸の妙な鼓動が。
霊夢に足を動かさせた。
「妖怪に襲われて孫を失った人もいたの」
部屋には血の匂いが蔓延している。部屋に大穴が空いたというのに、いくら風が吹き空気が流れてもその匂いが消えてなくなることはなかった。
「人里から出た人間は安全を保証できない。妖怪はそんな人間を襲う。それがここのルールだ」
部屋の中で立っているのは巫女だけだった。いや、妖怪が来る前も立っているのは巫女だけだった。
言い直すならば、生きている人間は巫女だけだった。
「私は人間と妖怪に差をつくりたくないの」
部屋の中にいた老人たちは一人残らず首から血を流して死んでいる。
「お前の理想は美しい。しかしだ」
ある者は動くことすらできず、ある者は叫ぶことすらできず、ある者は立ち上がることすらできず、誰も逃げることはできなかった。
「お前の実力は理想に追いついてはいない」
それでもなお妖怪の姿をはっきりとはとらえることはできない。
「このままでは人間対妖怪……いや、人間陣営対妖怪陣営の戦争になる」
巫女は何も言い返すことができない。
「お前は弱い」
巫女が懐から取り出したお札を握りしめる。
「お前には消えてもらう」
巫女はあたりを見回す。妖怪の姿は見えない。
「断るわ」
それでも巫女は毅然として言った。
「私は巫女だもの」
胸を張る。巫女は巫女であるから。
「……お前は巫女をやりたかったのか?」
妖怪が初めての質問を投げかけた。
「仕方ないじゃない。私ったら人間の中じゃそれなりに強い方なのよ」
巫女は躊躇うことなく答えた。まるでその質問を予期していたかのように。
「別に無理して続ける必要はない」
妖怪が言い聞かせるように言った。
「それこそ危ないじゃない。私がいなくなったらここはどうなるのよ」
巫女は拗ねるように言った。
しかし妖怪は、心配するな、と軽く言い放った。
「後のことは任せろ。自分の役目、義務、責任、過去、現在、未来、憂い、悲しみ、しがらみ、この世界」
妖怪の気配が大きく変わる。
「自分自身以外の全ての真実に盲目となり」
妖怪がついに臨戦態勢に入ったことを感じ、巫女も顔からわずかに残っていた冗談の色を消す。
「さっさと楽になれ」
息を切らして階段を上りきり、玄関やいつもの縁側からではなく、大きく空いている大穴から部屋の中に入った霊夢はそのまま気絶するところだった。
入った瞬間に鼻をつき、頭に響く匂い。
血の匂いなど今まで縁のない人生を送っていたというのに。
霊夢の目の前に広がるのは血の海だった。それに加えて部屋の片隅に小さな山ができていて、その上に布がかぶせられている。
「よう、遅かったじゃないか。てっきりすぐ来るものだと思っていたのに、時間がかかったんだな」
そしてどこからか響く見えない妖怪の声。
「これは……あなたがやったの?」
震える声で霊夢が言う。言いながら手で口を覆う。吐き出しそうだった。そうでなくとも涙がこぼれているというのに、このままでは自分が何もかも吐き出してなくなってしまいそうだった。
「そうだ」
「皆様はどこへ」
吐き気をこらえて言う。辺りに広がる赤黒い血の量に対して、死体と言えるものは一つもなかった。
いや、目をそらしているだけで、わかっていてもおかしくはないのだ。
その隅の布の下は――
「お前が見てるものの中だ。15人だったか」
布の中に死体が詰まっている。そう知るだけで目の前が数秒以前の数倍霞んで見えた。
「どうしてこんなことをするの……?」
「うん? わからないか。お前の年齢であの数の死体を見るのは心が病むと思ってな。なに、あの天狗が後始末をしてくれるだろう」
「そういうことではありません!」
吐き気を押して霊夢は気丈に叫んだ。叫ばないとしゃべり続けないと、気を張っていないと今すぐにでも倒れてしまいそうだった。
「殺した理由か?」
「……はい」
そうやって口にはっきり出されることで、ついさっきまで普通にしゃべっていた相手が人を殺したのだということを実感する。また視界がふらつく。現実味がなかった。
「妖怪が人間を襲うのに、理由が必要なのか?」
妖怪は当然のように、いやむしろそんなことを聞いた霊夢を馬鹿にするかのように言った。
霊夢は目をつぶり歯を食いしばった。目に力を入れても涙は止まらないし、口を閉じても吐き気はおさまらなかった。
「……15人、と言いましたか」
数十秒間の沈黙の後、霊夢は諦めた。諦める決心をした。
涙を止めることも、吐き気を止めることも。
この妖怪から目を逸らすことも。
「老人方は16人いたはずです」
数十秒隣をすれ違っただけの微かな出会いを記憶の底から引っ張り出す。そうだ。そしてそのうちの一人が人里へ忘れ物を取りに戻って……。
「数え間違いはない。その中にいるのはきっちり15人だ」
霊夢はふぅ、と息をついた。忘れ物をしたおかげであの老人は救われたのだ。
「ああ、いや、安心しろ。そうため息をつくな」
しかし妖怪は続けた。
「もう一人はまだ死んでないが、妖怪の死骸と一緒に天狗の縄張りに転がしておいた。あの女の天狗が友情に厚かったならば……まあ今生きているかは疑わしいな」
やっかいな術を使っていたのでな。
妖怪が一人ごちる。
霊夢は俯いてただそれを聞くことすらできない。
蝋燭の微かな光だけで照らされた血の海は奇妙で不気味な紅い反射を返している。それだけで霊夢の吐き気を誘う。
しかし、それから逃れたいというネガティブな思いからだけではなく。
いやそれよりもむしろ。
妖怪を、今しゃべっている、ついさっきまで普通に会話していた妖怪を。
その姿をはっきり見ようと顔を上げた。
「大方稗田のところの書物を盗み見したか盗んだか、それか妙に記憶力のいい馬鹿がいたか……まあ、どちらにしてもあそこもそろそろなんとかしなくてはならない場所だ。覚えておけ」
妖怪の声が部屋の中で反響する。
部屋には大穴が空いているのでそれは霊夢の錯覚でしかないのだが。
しかし音が全方向から響こうとも、妖怪の姿は一つだった。
ただ一つそこだけに形を持って。
「では」
霊夢は視線の先にいる妖怪を気丈に睨んだ。
それは虚勢かもしれないが。いや、実際そうなのだけれど。
しかし明らかな勢いをもって。
「一番大切なことをお聞きします」
霊夢にとって何よりも大切なことを。
先までの質問もすべて、その質問の周りで足を出したり引いたりしていただけなのだから。
声が震える。
足も震える。
手も震える。
顔をあげているのが、ここまで力のいることだったか。
「巫女様は、どこですか」
妖怪を一直線に見据える。
聞かずとも答えは見えていると言っても過言ではなかったかもしれない。でも聞かずにはいられなかった。
辺りは血の海になっていた。
巫女は近くに倒れた老人の血を止めようと駆け寄ったが、一目見てわかった。これは絶対に助からない。
蝋燭のぼんやりとした光が、いつも以上に異様な不気味さを放っていた。
「こんなことして許されると思ってるの」
巫女が空間を睨んで言った。
「まさか。だが、お前に言われる筋合いはない」
妖怪が笑いながら言った。ははは、と。愉快そうに言った。
「こっちは真剣に話してるんだけどね」
しかしたしかに巫女の肩から力が抜けている。
顔には笑みすら浮かび始めている。
「だが、俺の言うことがわからないということではあるまい」
「わかってるわよ、当然」
巫女は肩をすぼめ、手を振りながら「説教はたくさんよ」と言った。
「私は確かに我を通しすぎたわ。でも……それでいいと思ってる。昔も今も、そしてこれからも」
「哀れな女だ。ここでない世界で生まれていれば、もっと良い環境の中にいれば、お前は後世に名を残す偉大な人物になっていてもおかしくはなかった器の持ち主だったというのに」
主に度胸の面でな、と妖怪はまた笑った。
「何をそんな夢物語を」
巫女も笑った。
「でもね、私はここが好きなのよ。だから巫女をやっている。それだけよ」
そして、声をあげた笑いを小さな微笑へと変えた。
「あなたと同じ」
そうして少し上を向いてぽつぽつと独白するかのように続けた。
「でも、今こうして巫女としての今までの働きが出来ないと思うと、私が大好きな幻想郷がなくなってしまうかと思うと……後悔がないとも言えないわね」
そうして顔をまた正面に戻し、再び笑った。
「だから、私はやれるだけのことをやるだけ」
「そうか」
妖怪が重く相槌をうった。
「それにしても」
巫女が子供っぽく頬を膨らませた。
「なんであんたここにいるのよ。約束が違うじゃない」
「それは悪かった……が、もう必要ないだろう」
「そういう問題じゃないの。私に嘘ついたことが問題なのよ」
「俺は嘘などついていない」
妖怪はふんと鼻を鳴らした。
「役目はきちんと果たしているだろう。それで十分のはずだが」
んー、と巫女は腕を組む。難しい顔を作ってみる。
「それに、嘘まみれのお前に言われたくはない」
「ふう、まあ、それはそうなんだけど」
でもあなたに嘘なんかついたことないわよ、とやはり頬を膨らます。
そう、それがまぎれもない真実だからこそ。
妖怪はこれ以上聞くこともない。
「俺は、俺のやり方をしたまでだ。百匹と妖怪と百人の良識ある正直な偽善者に尋ねろ。まあ180は堅いな」
妖怪がゆっくりと言う。
「お前のやってることはバランサー。その役目は力がなくては務まらない。しかしお前には力がない。お前は人間と妖怪のどちらを抑えつけることもできなかった。バランスは崩壊する。妖怪が世界を滅ぼさないとも限らないし、人間が妖怪に勝負をしかけないとも――そもそもバランスそのものを崩さないとも限らない」
妖怪がゆっくりゆっくりと言う。
巫女もなんとなくその意図を悟る。
はあ、と一つため息をついた。
これからは博麗の巫女として言わなければならないこと。やらなくてはいけないこと。
「妖怪に襲われて孫を失った人もいたの」
もう話は終わりだ。
「巫女? ああ、そんなやつもいたな」
妖怪がクククと笑った。霊夢の顔がひきつる。
最悪の予感がする。いや、予感もなにも決まっているようなものなのだ。こんな惨事が起きているのに、神社の中にいるはずの巫女が姿を見せないのだから――
「なあ小娘、こんな話を知っているか?」
「…………」
言葉が出ない。音が出せない。喉を震わすことすらできない。
こんな時だから、というわけではなく、小娘という言葉に言い返すことができない。何も口に出せない。
「霊力あらたかな人間。まあ巫女くらいしかいないだろうが、だ。そいつを妖怪が摂取するとどうなると思う?」
「摂取……?」
霊夢の喉からかすれるような、ほとんど音になっていない声が出た。すぐ隣にいても聞こえないようなその声をしかし妖怪はしっかりと拾い、答えた。
懐が重くて声が出ない。
「まあ簡単に言うと喰うということだ」
妖怪がクククと嗤った。どんどん声が大きくなっていく。
それに反抗するように霊夢は体の隣で拳を握りしめる。
「そうすると、だ。普通の人間を喰ってもそうはならないんだが、そういう人間を喰うとどうなるか」
妖怪はどこまでも愉快そうに言う。
霊夢は自分の感情を全力で表に出すように拳を握りしめる。強く強く。
「妖怪の地力に霊力を足すことができる。簡単に言えば栄養剤。パワーアップアイテムみたいなものだ」
霊夢の視界の中に浮かぶ妖怪の凄絶な笑み。
「……巫女様はどうなったのですか」
何故か、そう何故か。
霊夢の震えはいつしか止まり、懐の重さだけを感じるようになっていた。
それはきっと、妖怪に言わせてみれば、霊夢の資質。
純度100%の天才の証。
「もうお前はアイツに会うことはない」
霊夢の鼓動がどくんと跳ねる。
「これからは今までのようにあの巫女に会うことはできない」
霊夢は一瞬長めに瞬きをした。
「何故なら」
涙はもう止まっている。
「今日からお前は、博麗の巫女だからだ」
霊夢は懐の札を勢いよく引き抜いた。
助走なし、その場で踏み切った前宙の要領で霊夢が前に飛び込むのと同時、霊夢の立っていた場所に大穴が空く。
霊夢は妖怪の方を睨んだ。
そう、確かに妖怪の方を。
妖怪も霊夢を見ていた。
幻想郷中に響くような轟音を響かせて、頭上の屋根が吹っ飛んだ。
「ねえ、そこにいるの?」
日差しが厳しい夏の日のことだった。
蝉の音の騒々しさはいつも通り、もはやここまでくれば夏独特のBGMとなっている。冬に聞けばうるさくてたまらないだろうものも、今聞いている限りでは何の気にもならないただの背景に過ぎない。
むしろ巫女にとっては大量発生する蚊の方がやっかいだった。これも夏の風物詩の一つではあるのだが。
神社の縁側に腰掛けた巫女は汗ばんだ肌に寄ってくる蚊をばちんと叩いて、空を仰いだ。
太陽はどこまでも白く、そこら中を照らしつくしている。全てをさらけ出させるかのように。
巫女の膝の上では、先ほどまで元気にしゃべっていた霊夢がすうすうと寝息を立てていた。
「おお、わかるのか」
「あんた博麗の巫女なめてんの?」
「姿は見えないだろう」
「見えないわね」
巫女は膝を揺らさないように、右手を後ろにつき、上体をゆっくりと後ろにひねった。
そして左手の人差し指を立てて、虚空にぼんやりと大きな円を描く。
「でもだいたいその辺にいる」
はは、と妖怪は笑った。
「範囲が大きすぎるが、まあ合格点だろう」
巫女はゆっくりと首を左に巡らし、上体をもとに戻した。
目の前の空間を見つめる。
「そこの膝の上のやつならば、もっとピンポイントにわかるはずだぞ」
巫女は霊夢を見る。穏やかな寝顔。おとなしく礼儀正しいが、人並み以上に明るい良い子。
「たしかにそうかも知れないわね」
ほかの人間や妖怪はどうだろう。それなりの妖怪ならばわかるかもしれない。しかし人間ならば、どうだろう、わからないだろう。
同業だからこそわかる、少女の資質と能力。
「だからどうしたの?」
険しい顔を作って顔をあげる。
「この子を今のうちに殺そう、とかそんなこと考えているならば、いくら私でも手加減はしないわよ」
「いやいや、そんなことは考えてはいない」
妖怪は見透かしたような声音で言った。
「しかしお前は、その小娘を失いかねないんじゃないのか?」
「………………」
巫女が険しい顔のまま目を逸らした。
妖怪は言い募る。
「知っているだろう? 全く部外者の山の天狗ですら嗅ぎまわっていたぞ」
「……はあ、また文ね」
「そんな名前だったな」
巫女は険しい顔を崩してため息を吐き、今度はしかめっつらを作った。
「で、何の用なの?」
「取引をしようじゃないか」
「取引?」
怪訝な顔の巫女。巫女になってから、いや生まれてこの方、妖怪に取引を持ちかけられたことはあっただろうか。……いや、あったかもしれない。巫女は口をへの字にする。けれども、ここまで『それっぽい』取引は始めてだろう。
「俺はその小娘を守ろう」
「…………」
巫女は無言で目の前の空間を、そこにいるであろう妖怪を見つめた。
「条件は?」
「そうだな」
妖怪は、楽しむように、用意してあった答えをわざわざ一呼吸置いた。
「この幻想郷を守ってくれ」
ほー、と少なからず驚き顔で息を漏らす巫女に妖怪は堂々と言った。
「俺はこの場所が気に入っているんだ」
太陽は燦々と明るく輝いていた。
神社での轟音は妖怪の山にも届いていた。
天狗の縄張りに突然放り込まれた人間と妖怪の対処を一時同僚に任せた射命丸は、神社にまで飛んできて絶句した。
つい先日、自分が巫女と話し合いを行った部屋が綺麗に、型を抜いたかのように壊されていた。
射命丸はすぐに自分を取り戻すと上空から直接その部屋へ入っていった。
「あら、遅かったわね文」
急降下して、しかし着地は慎重にひゅっ、と降り立った射命丸。その射命丸に一人の少女が背を向けた恰好で立っていた。
「巫女……! ――いや、霊夢ちゃんですね」
いつもの、何故か懐かしい口調に射命丸は言葉が詰まる、が目の前にいる少女は巫女よりもいくらか身長が低い、声も違う、服も巫女服ではない。
神社に入り浸っていた少女だった。
「ちゃんづけはやめてくれる? いつまでも小娘扱いはやめてほしいわ」
「……霊夢さん。これは、どういうことですか」
射命丸は部屋の惨状を見回して言った。血はまだ地面に染みきっても乾ききってもいなかった。
「さあ? 私が教えてほしいくらいだけど」
射命丸は部屋の隅にできている小山に目を留める。妖怪の自分ですら久しく嗅がなかったような酷い臭いがしている。射命丸は顔をしかめた。
「ただ」
霊夢は、先の戦闘で落としてしまったリボンを拾い上げ頭に付けた。
「どうやら私は今日から博麗の巫女になったそうよ」
射命丸には背を向けたまま。
「なんせ勝手がわからないから、形からでも入っていかないとね」
どうやら霊夢は事情を詳しく説明する気はないらしいと射命丸は判断した。
射命丸は一つだけ確実な真実を前に短く深い息をもらした。
長く生きる妖怪ならば幾度となく経験するモノではあるがそれでも。
それ以上を漏らさなかったのは射命丸文としての、そして天狗としての矜持。
その代わりに口を開く。
「……今日は一面トップ記事をいくつも書かないといけないようですね」
「流石新聞記者は働き者ね。巫女もそれくらいまじめにしないといけないのかしら」
はは、と霊夢は上を向いて笑った。
そしてその姿勢のまま固まってぽつりと。
「ねえ、文。聞きたいんだけど」
「何ですか?」
「あんたたち妖怪は、巫女を食べると強くなるとか、そういうことってあるの?」
およそ想像すらしていなかった質問に意表を突かれた射命丸。答え云々よりも先に、その質問の意味がわからなくて間が空いてしまった。
「……あるわけないじゃないですか」
「へえ」
「そんなことがあったら馬鹿な妖怪がこぞって巫女を襲いに来ますよ。まあ、そんなことをする妖怪はだいたい弱い妖怪でしょうが、強い妖怪が血迷わないとも限らないでしょう」
射命丸が当然のように言った。そんな仮定はナンセンスだと言わんばかりに。
霊夢はふうん、と頷いた。
「もう一つだけ聞きたいんだけど」
「何ですか?」
霊夢はこの時も、結局最後まで文に顔を見せることなく、感情をのぞかせることはなかった。
後ろに立っているのは巫女の友人の天狗で、これから長く付き合っていくであろう天狗で、見えない妖怪は、もう見ることができないのだから。
「勝手な想像でみんなが幸せになったと、物事を整理するのはダメなことなのかしら」
「それは、巫女から妖怪への相談か、それとも長く生きている私個人への相談かどちらでしょう」
「……どっちもね」
「そうですね、それなら……」
射命丸は少しだけ考えた。
霊夢は背を向けて続きを待ち、射命丸は両手を首の後ろで組んでちょこんと上を向いた。
「自分勝手に自分の信じる道を行けばいいと思いますよ」
それは偶然にも――もしかしたら長く生きた妖怪というのは似たような価値観を持つようになるのかもしれないが――あの妖怪がいつか霊夢に語ったものと一緒で。
どんな理由があろうとも。
霊夢は、妖怪に聞かされた話の一つ一つを思い出していた。
巫女との思い出と同様に。
それが今からの自分を作っていくのだろうと感じながら。
霊夢は大穴から外に出た。
曇り空はいつからか晴れていた。
霊夢は空を眺める。いつも自分がしていたように。いつも巫女がしていたように。
いつでもどこでも、空は同じなのだろうと、場にそぐわないロマンスあふれる言葉が心に浮かぶ自分に苦笑しながら。
でも、きっとそうなのだろうと。そうやって空を眺めているのだろうと。
ただの勘だが、そう思った。そう信じた。
今日から、博麗の巫女となったのだから。
ただ、それだけなのだから。
真実は見えない。
私には見えない。霊夢は言う。
例えば文には見えていたのだろうか。
例えば――巫女様には。
霊夢は今日も縁側に座る。
結局、すべては想像で、ご都合主義的な展開や、感動に満ちた展開などではなかったのかもしれない――実際、不幸で生臭い出来事の方が多かったわけだし。
それでも霊夢は今日も湯呑の茶をすすり、空を眺める。
一つ確かなことはあの見えない妖怪が、霊夢を博麗の巫女にしたということ。
それだけ。
たったそれだけのことなのだから。
これは見えない妖怪の話。
-了-
いつダークサイドに堕ちるのかとハラハラしながら読みましたけどw
ただ、オリ妖怪の設定が突飛すぎてイマイチ物語に入り込めなかった。
霊夢が巫女となるために先代の巫女は死ななければならなかった…?
読み終えても謎は解けないままでした。
作中の霊夢が当代の霊夢だとすれば、いささか違和感も感じます。
現在の幻想郷との差異が10年足らずで埋まったとは考えにくいです。
端々に感じる筆主様のセンスには並々ならぬものを感じるだけに、作中での説明不足感が否めません。
次回作にも期待してこの点数で。