私がその人に拾われたのは、今からだいたい百年か、もう少しくらい前のことでね。
拾われたっていうか、回収されたの。当時はまだ傘職人がいて、私もそのうち解体されて新しい傘に生まれ変わるはずだったから。
意外? 私だって立派な付喪神なのよ。長い歳月をかけなきゃモノが簡単に妖怪になっちゃうわけないでしょ。何度か古くなったり新しくなったりを繰り返して、でもとある職人の腕が悪くて。
腕っていうか――感性の問題だったのかしらね。
茄子色の傘にされちゃったところで、私はモノの循環系から弾き出されたってわけ。
それが全ての始まりで。
供養されなかった私の、悲しい物語の起点なのよねえ。
浸るなって言われても。
いいじゃない、少しくらい。これからそれを話そうっていうんだしさ。
幻想郷の外ではどんな傘が使われてるか、知ってる? こういう唐傘はもう廃れちゃってて――そこ、笑うなっ! 私の傘だけじゃないんだからね――洋傘っていって、絡繰仕掛けで開いたり閉じたりする傘が主流になってるの。
そりゃあ私は聖輦船にこっそりくっついて幻想郷に入るまで、外の世界で暮らしてたもの。ちょうどいいところにあの船が通りかからなかったら――それに透過の魔法がうまく働いていたら――私はまだ向こう側にいたかもしれない。あまつさえ、消えちゃってたかもしれないわね。
うん。
ま、辛気臭い話をするつもりはないわ。私は忘れ傘だったけど、その前にはちゃんとした環(わ)の中にいた。大事なのはそこであって、どんな傘が使われているかなんてのは些細なことなんだし。
私を回収した職人さんには、一人娘がいたの。名前はおさんちゃん。抜けるように白い肌をした、小柄な女の子でね。って言っても、あの時はもう十七だか八だかだったらしいわ。
抜けるような。
あるいは――病的な白さの、女の子。
最初は分からなかったんだけど、おさんちゃんは真実、病気だったの。
白子って言ったら分かるのかな。
そうそう。
おたまじゃくしなんかにもたまにいるよね。他のと違って、真っ白な色をした奴。あれと同じような人間だと思ってもらえばいいわ。全体に色味がないような。瞳の色だって黒くない、赤い色をしていたっけ。これは最近知ったんだけど、ああいう生き物ってあまり長くは生きられないんだってね。
拾われた頃の私は、付喪神になりかけていたといっても、朧気な意識しか持っていなかったの。言ってしまえば寝たり起きたりを繰り返しているような状態でね。そんな私でも――いろいろな人の手を介して渡世を過ごしていた、要するに人を見る目が少しばかり肥えていた私でも――分かるくらい、おさんちゃんは綺麗な子だった。
美人薄命っていうのかな。薄命だからこそ、綺麗だったのかもしれない。十何年生きてて薄命も何もないだろうけどさ。
なんとなーく、よ?
何となくだけど、人間に化けられるならこの子みたいな人間になりたいと思ってしまうくらいに。
……せっかちね。参考にはしたけど、あくまで参考よ。こんなに元気っぽい感じじゃなかったってば。両方の目が柘榴みたいな赤色をしてたし。私のは片方、青いでしょ。わわ、近いわよ。見たいならあとでちゃんと見せてあげるから。座って座って。
こほん。ええと、どこまで話したっけ。
おさんちゃんの話ね。あの子はね、私を見て言ったのよ。「こんなに綺麗な傘なのに」ってね。
何よぅ。
疑うのは勝手だけど、この言葉は後生大事にしまっておくんだから。ふんだ。
何でもね、かつて紫色は高貴な人物の色だったんですって。寺子屋で教わった付け焼刃の知識なんだけど、ってお父さん、私を拾ってくれた傘職人さんと話していたわ。
嬉しかったなあ。喜怒哀楽が曖昧なところだったから、なおさら喜色が強く現れたんでしょうね。
実際の私はそんな大層な姿じゃなかったのにね。褒めてくれた色はすっかりくすんでたし、骨だって何本か折れてたし。
それを――さ。
何を思ったか神棚に祀っちゃったわけ。
な、何だか惚気みたいで気恥ずかしいわね。……え? そんなことないって? そうかなあ。
粗末に扱われて付喪神になった割に、私が結構能天気なのは――いやうん自分で言っちゃうのもどうかと思わないではないんだけど――多分、あの二人の言葉と行いのおかげなんだよね。私の仲間に陰湿なコが多いのは、みんなも知っての通りだから。そうなる素養は私にもあったはずなんだし。こうして普通に話をすることも困難だったかもしれない。まあ、仮定の話なんだけど。
針供養と同じように、あの頃は傘供養があったのね。それまでの間、私は神棚に祀られることになったの。新しくなるまでの猶予期間ってわけ。それが良かったのか、はたまた悪かったのか。私はおさんちゃんの家に溜まっていた、傘たちの雑念を一身に集めて、だんだんと起きていられる時間を伸ばしていったわ。
でもねえ。
結局のところ、まだまだ年月が足りなくて。
私はなりかけの付喪神って立場から離れることができなかったの。
つまり、今みたいに人間の形を取ることができなかったのよね。
だから、防げなかったのよ。
おさんちゃんの身に降り掛かった災厄をね。
どんなことだって?
それを今から話すんじゃない。短期は損気よ。
って言っても――どこから話したらいいのかな。他人に話すのは初めてだから、どうにも加減が分からなくっていけないわね。とりあえず、もう少しだけ二人のことについて話しましょうか。
おさんちゃんと。
傘職人のお父さんと。お父さんの方は――名前を忘れてしまったのだけれどね。
仲がいい親子だったわ。長屋の一室を改装した、小さなお店(たな)を二人きりで切り盛りしてて。傘の骨をお父さんが作って、傘布張りをおさんちゃんが担当して、一本の傘を仕上げていたの。傘って広げると結構な面積になるじゃない? だから屋号を大書して宣伝に使ったり、魅せるための文様を描いてみたりね。智慧を出し合ってそれなりに繁盛していたみたい。使われる身の私から見ても綺麗な姿で、いつか私もと思わせてくれる傘だったっけ。
お母さん?
分からない――じゃあ、駄目だよね。ううん、どう言っても悪口になっちゃうから。お母さんは、おさんちゃんとお父さんを捨てた――らしいの。断片的な話を集めると、ねえ。どうにもそういう構図が浮かび上がってくるわけ。
鬼子。
白子のおさんちゃんを指して、そういう取引相手もいたわ。ほんの数人だったし、大店の相手であっても、当人がいないときに言ったとしても、それきり縁が切れてしまったようだけど。お父さんはそれだけおさんちゃんを大事にしてたのね。それでも、おさんちゃんは気丈な子だった。髪色を隠すこともなく買い物にだって出かけていたし、それを苦にしている様子も見せなかったから。
今考えれば、強いてそうしていたんだろうけれどね。
座敷牢に囚われていなかっただけ、良かったのだと――そう知ったのは、それからかなり後のことでね。あの頃の常識に則ってみれば、お母さんの判断をやみくもに責めるわけにもいかないと思うの。
話が逸れちゃったわね。ごめん。
拾われてひと月くらいだったかなあ。私はそうして、神棚からお店を窺って過ごしたの。身の振り方を考えるだけの頭はまだなかったし。あったとしても、ただの器物でしかない私には何もできなかったんだろうけど。
夏になるほんの少し前だったかな。ありきたりな――ありきたりでも防ぎようのない災厄が襲ってきたのは。
じめじめした、傘にとって一番役立てられて嬉しい時期が終わった頃だった。暦なんて読めなかったから、具体的に何月何日だ、とは言えないんだけど。というか――まあ、真実明瞭な日付なんてないのよ。それに見舞われたのは、おさんちゃんの家だけじゃなかったらしいから。
流行病。
うん。
詳しくは分からなかったけれど。おさんちゃんとお父さんがそう話しているのを聞いたわ。必然、二人はこもりがちになって――でもね。
そう。
二人とも、罹ってしまったの。
腕のいい薬師の先生がいない町でね。罹ってしまえば死んでしまうか、良くなるとしてもずいぶん苦しむことになる病だったの。まあ、流行病なんだから当然なのかな。この里にだって流行病の一つや二つ――……最近は八意先生がいるから大丈夫? あの人そんなに信用されてるんだ。へえ。八意さんくらい腕の立つ先生がいたらよかったのに、って? うーん、終わったことをとやかく言っても、って感じよね。
今となってはもう遅いんだから。
と言っても――おさんちゃんは死ななかったのよ。体は弱いはずなのに。不思議と生き残っちゃったの。
何が二人を分けたのかなあ。
分からないけど。
お父さんが熱心に願を懸けていたからなのかもしれないわ。娘だけは助かりますようにって。そう思わないとやってられないだけなんだけどねえ。
私が、よ。
いっそ二人揃って西向いてた方が幸せだったのかもしれない。そんなこと考えちゃうから。後遺症っていうのかな。顔中にあばたができてさ。一時期は顔中に布巻いて、目だけを出して生活してたわ。元が綺麗な顔立ちだった分、目立っちゃうんだよね。余計にさ。
おさんちゃんは何もしていないのにねえ。
そんな格好の人が店の前を往来する様子も見てたから、あんまり珍しいことでもなかったのかなあ。ああ、神棚は表に面した作業場の奥にあったから、通りの観察はできたんだよね。
繰り返しになるけど、人間の事情を汲めるような頭はまだなくって――ちょ、ちょっと馬鹿って言うのやめてくれない!? 確かに賢いとは言い難いけど今でも! 笑うなっ!
……そんなこと言ってると話止めちゃうわよ。
聞きたいの? 聞きたくないの?
どっちかっていうと聞きたい? な、なんか納得できないなあ。……まあいいけど。
泣きっ面に蜂とはよく言ったものよね。悪いことっていうのは、いくつも重なるものでさ。お父さんがいなくなったことから立ち直れていなかったおさんちゃんにも、それから不幸が重なったの。
亡くなるまではお父さんが売り子もやっていたんだけど、その役目をおさんちゃんがやらないといけなくなって。売れないんだよねえ。傘の姿は――まあ、質はいくらか下がっていたんだろうけど――変わらず綺麗だったのに。あの子が売っているっていうだけで、売れなくなったの。
鬼子呼ばわりもおおっぴらに聞こえるようになってねえ。やっぱり、お父さんがいなくなったことは大きかったのよ。髪を染めてみたり、笠をかぶってみたりして、どうにか本人から注意を逸らそうと努力はしてたんだけど。あんまり成果を上げていたようには見えなかったわね。
目が。
目立つのよ。どうしたってさ。客商売だし、相手の目を見ないわけにもいかないじゃない。気味が悪いって言われることも多くって。雨が降っている最中に来たお客さんでも、傘を買わずに店を飛び出していくことも少なくなかったわね。
売ることも難しかったようだけれど、原材料の確保もお父さんがしていたから、その取引先と交渉することも難儀だったみたいでね。卸してくれていたお店と疎遠になってしまって、傘を作ることが難しくなってしまったのよ。そもそも、骨の作り方をきちんと教わってはいなかったらしくって。見よう見まねで危なっかしく作っても、中々形にはならなくて。分業だったのが仇になったのね。
店構えが小さくて、丁稚さんや兄弟子さんがいなかったことも災いしたのかな。おさんちゃんは本格的に一人になってしまってね。しばらくは傘作りの傍、張子を作って納品したりもしていたのだけれど。
それもねえ。
どうしても付け焼刃だったから。上手く行くことは少なくて。ずいぶんと値切られて、そのうち止めてしまって。
私の――神棚の前で愚痴るようになったのも、その頃が最初だったわね。あの子のために中身は話せないけどさ。苦しかったんでしょうよ。みんなが驚いてくれないからって、私が命蓮寺に駆け込むようなもんでしょ、要するに。死活問題。私はまだそれくらいじゃあ、死なないし。多少ひもじいくらいなら、我慢しちゃえば良いんだけどさ。
人間は脆いから。
おさんちゃんは日に日に痩せていったわ。元々の病弱さがたたって、寝込んでいる日が多くなった。それでも、放っておくと外聞が悪いからって、長屋の人たちは一応世話を焼いてくれていたんだけど。それでもやっぱり出ちゃうじゃない、おさんちゃんをどう思っているかっていうのは。
段々と、ね。
あの子自身が距離を取るようになってしまって。
いつのまにか夏が終わって。
秋を耐えて。
冬をやり過ごして。
春が巡ってきた頃にはもう、器量良しだった頃の面影なんて残っていないくらいに、痩せ衰えてしまっていたわ。あまり寒くなる土地じゃなかったのが幸いだったのかな。……いいえ。不幸だった、の間違いなのかも。
きっと。
そのときにはもう。
少なからず――狂っていたんだから。
長屋の表を締め切っていたから、日差しも入ってこない有様だった。でもねえ、それだけじゃないわ。
私の前で呟く繰り言は、次第に呪詛の色を濃くしてて。昏いのよ。家の中が。家主の気質で家運が決まってしまうっていうのは、あながち間違いじゃないのね。人型を取るより前に、私はそのことを学ばされたのよ。
己の生まれを呪い。
父を奪った病を呪い。
何より、そんな行いを繰り返してばかりいる自分を呪って。
皮肉なことに、その呪いを受けて私の精神は育っていった。
呪うばかりの暮らしを続けていたから、髪を染める墨も尽きてね。家財道具や商売道具はみいんな質草にしてしまっていたのに、それでも無理に染めようとして。まだらになった蓬髪を振り乱して外に出る姿は鬼気迫るものがあったわ。
それでどうやって生きていたのか?
昔馴染みの店々を巡って、情けに縋るような生活を送っていたの。向こうにも縁を切った負い目があるから、って卑屈になってしまった笑顔を向けられたこともあったわ。私自身は売り物にもならないから――とも、言っていたっけ。
……長く続くわけないわよね。
それでもね。おさんちゃんは死ななかった。自刃することは初めから考えていた様子もなかったし、飢えて飢えて死んでしまうことも、何故だかなかった。お父さんの願いがそうさせた――そうさせてしまったのかもしれない。もちろん、あのままの暮らしを続けていれば、遅かれ早かれ力尽きていたんでしょうけれど。
狂っていたと言ったでしょ?
ただ死んでしまうことは、彼女自身が許せなかったの。
だからといって、誰かにその責を押し付けられるほど壊れていたわけではなくて。板挟みになっていたのよ。人間であることと、それを捨て去ってしまうことの境目でね。
何があの子を後押ししたのか。
それは、私なんかには到底分からない。
あえて言うわ。――分かりたくなんて、ない。
突然だった。
「そうか」。おさんちゃんは、そう言ったの。いつもの――もうその時にはほとんど動かなかったのよ――ように、神棚の前にぺたりと座り込んでね。何に得心がいったのかな。今でもまるで分からなくて。
言うが早いか、弱っているとは思えないような速さで土間へ進んで行って――。
……ああ、ごめんね。どうにも上手く話せないなあ。
「こんなものが、なければ」って言ったのよ。こんなもの、が何だか分かる? 薄暗い家の中で、水瓶を覗き込んで。囁くようにね。咒を紡ぐのと打って変わった、変に明るい声でそう言ったの。
どうして"それ"が見得たのか。あるいは、それまでずっと見て見ぬ振りをしていたのか。
あの子が見つめていたのは、水に映ったあの子自身の姿。
いいえ。
もっと正確に言うなら、自分自身の瞳を見つめていたの。それで「こんなものがなければ」よ? ……色を得るような薬があるなんて、そんな話は聞いたことがないし、あったとしてもあのときのおさんちゃんに買えたとも思えない。そもそも、そういうことを考えていたのではなかったんだ。
これを、
これを除いてしまえば、私はただの盲になれる――。
そう言ったのよ。これ、が何のことだか、言わなくても分かるわよね。
そうよ。
目玉――よ。
……壊れているでしょう?
手段も何もかもすっ飛ばして、あの子はその結論に達したの。天啓とすら思っているような、一年前を思わせるような、そんな明るい笑顔を浮かべてね。綺麗だったわ。いっそ、この世のものとは思えないくらいにね。
嬉しそうだった。
楽しそうだった。
そうすることで、かつての暮らしが戻ってくると信じてやまないような、そんな目をしてた。
私は――どうしても賛同しかねると思ったんだけど。いくら力をつけていたといっても、人化することも口を利くことすらもできなくて、制止することははなからできるはずもなかったけど。
それでもね。
どうにか一寸ばかり、移動することはできたのよ。……褒めないで。決して良い結果を招いたわけではなかったんだから。
そのとき、おさんちゃんは土間にある水瓶を覗き込んでいたんだけれど。物音に振り返った先には、私が――つまり、ボロ傘が転がっていたのよ。
あの子はまた、笑ったわ。
「ああ、あなたがいたのよね」と言って。
あらかたの家財は処理してしまってた、と言ったでしょ? 鋭利なものも、家の中には存在していなかったのね。そう――私の、傘の柄を除いては。
今でもしっかり覚えてる。
忘れられるわけないでしょう?
膝でにじり寄ってくる、おさんちゃんの凶相も。ざりざりと板の間をこする音も。荒い息遣いも。何もかも、私の行為が裏目に出たことを示してた。
ありがとうございます――。
あの子は神棚の前で額づいて、言ったわ。こんな良きモノを与えてくだすって、ありがとうございます、ってね。
私を使って目玉を抉り出そうとしている。
直感しても、どうにもできなかった。私はほんの一寸動いただけで、力を使い果たしていたから。
震える手に握られる感触。私の気持ち、分からないだろうなあ。分かってくれとも言わない。みんなには分かってほしくない。本来の用途、つまり人間の役に立つような使われ方をしないんだ、って予見してしまったあの瞬間のことは。
そういう思いをすることも、させることもしないでほしい。これは私からのお願いね。
厭だった。厭で厭で仕方なくて、でも閉じる目だって持っていなくて。見ているというよりも、流れ込んでくる感じだったから。画(え)を見続けるより、私にできることはなくって。
近付いてくる顔を凝視して、
待つより他に何もできない我が身を嘆いて、
結局は、どうすることもできなくて。
触覚はね。どちらかと言うと、発達していたの。私を持つ人間の手の、その温もりを感じたいと思っていたから。
あの瞬間だけは、自分のことを呪ったわ。
一思いに、と考えたんでしょうね。考えたというより感じたのかな。
目玉の表面ってね、案外固いのよ。押し当てられて、突き抜けても、残骸がまとわりつくように先端を鈍らせて。ずぶずぶッ、て潜り込んだ深さは何寸もなかった。それでもねえ。その時間がまた長かったわ。一秒にも満たない時間だったと思うんだけどね。感触と音と。それを感じている時間は、永劫にも思えてしまって。だって、見えたのよ。透明な膜を突き破って、眼窩の奥にある桃色をした肉の部分に到達したところまではっきりと。全身が目と同じ役割だったから。おさんちゃんは声を上げなかったわ。強かったからとか痛みのあまり、というよりも、最初のひと突きで力を使い果たしていたんでしょうね。近付いた時よりもいくらかゆっくり、肉の色が遠ざかっていって。傘って手元の部分が少しだけ膨らんでいるでしょう? あの部分にまぶたが引っかかってね。なかなか抜けないのよ。意思とは関係なしに、筋が硬くなっていたから。挟み込まれる感触がありありと伝わってきたし、それは確かだと思う。ぐいぐいとねえ。引っ張って。相当に痛かったと思うんだけれど。ぶちぶちと肉を引き裂く音を残して、私は眼窩から飛び出した。水音が。滴っていたのは他でもないおさんちゃんの血だったんだけど。していてね。それでも声は出さないのよ。異様だった。引き抜いた勢いで倒れこんだあの子は、しばらく身体を震わせていてね。ああ、終わりにしてくれるのかな――と思った矢先に、血と涙にまみれた顔を私に向けたの。
黒々とした空っぽの穴と、もう片方の赤い目をかッと見開いてね。
そうよ。
目玉は二つある。そんな簡単なことが吹き飛んでしまうくらい、私にとっては衝撃的だったのよ。
たまらない。
瞬間、私はそう思ったの。
そして――。
◆
「私は私にこびりついていた目玉の残骸を食べたの。そうやって力を」
「た――食べちゃったの?」
小傘の話を聞いていた子どもたちのうち、車座の最前列にいた子がたまらずといった風に声を上げた。
寺子屋の一室。教室前面の黒板には、「モノを大切に」という議題が流麗な文字で記されている。講師 多々良小傘の名も一緒だ。手習いの一環として、命蓮寺裏の墓場にいたところを呼び止められたのである。
普段は広げっぱなしにしている傘を畳み、手放した小傘は、少々奇抜な格好をした少女にしか見えない。が、それでも教壇に立ってしまえば子どもたちの認識はもう"先生"なのだ。
そう呼ばれることに悪い気はしなかったし、これで子どもたちがモノを大切にしてくれれば、自分のような付喪神が増えずに済むという思いもあった。まあ後者に関して言えば、幻想郷が賑わってくれるので、そう悪いことではないような気もしたのだが。
――それに。
存分に怖がらせてやって構わない、とお墨付きまでもらったのだ。大人を話術で驚かせることは、小傘にとって大変難しいことなのだが、いくらなんでも子どもくらいなら何とかなるだろうと思ったのである。話の冒頭が関係のないところから始まったために茶々を入れられたりもしたが、それなりに腹が膨れたところからするとまあ成功といっても良いのではないだろうか――と、小傘は自画自賛する。
本来の師、上白沢慧音の前だからか、子どもたちは基本的に大人しかったことも良かったのだ。普段は子どもを相手にすると、唐傘の舌を引っ張られたり、逆に驚かされたりと散々な目にあってしまうので。もっとも、慧音は小傘が話し始めて数分もしないうちに姿を消していたのだけれど。
「ねえ、本当の本当に食べちゃったの?」
「先生はまだ普通の傘だったんじゃないの?」
質問を重ねられて、小傘ははっと我に帰った。興味津々と言いたげな視線がいくつも並んでいる。普段は考えられない光景に、彼女はさらに気を良くした。
「そのとき、私は私に口ができていることに気付いたのよ」
「……気付いたって」
別の子どもが呆れたように鼻で笑う。
「そんなわけないだろ。自分のことなのに」
「そうとしか言いようがないんだもの。気付いて、食べて。食べたことでまた力を得て、って感じだったかな」
「ほ、ほんとに食べたの?」
小傘はあえて答えなかった。意味深に子どもたちを見回して、
「付喪神っていうのは蔑ろにされた道具のなったモノだからね。本来の用途とはまるで異なった使われ方をしたこと。私自身が人間に強い恨みの念を覚えたことも関係していたのかな。粗末に扱われたことに対してね。そんな使い方を続けられることには我慢ならなかったの。だから私は、おさんちゃんをまるごと――」
頃合いを見計らい、ぱちん、と手を打ち合わせた。子どもたちがびくりと震えたことに満足して――単純にその驚きで腹が満たされたという事情もあって――、この辺りで話を切り上げようと決めた。何事も引き際が肝心、というのが小傘の信条なのである。
「じゃ、私はこれで帰るね。みんなはちゃんとモノを大事に。捨てるときにはちゃんと壊すこと。壊されることに関して、道具はむしろ感謝の念を持つからね。役割を終えることができたから、って。どうしてもできない場合は、ちゃんと供養してあげること。分かった?」
「「はあい」」
「うむ、良い返事である。まったねー」
からり。
ぴしゃり。
「あれ、慧音センセ」
「お疲れさま。預かっていた傘だ。なかなか弁が立つのだな」
「ありがと。そこそこ長く生きてますから」
傘を受け取りながら、小傘はえへんと胸を張る。慧音は苦笑を返してから、ふと気付いたというように口を開いた。
「多々良小傘。君は本当に、人間を――」
言いかけて。
けれど、いや、とかぶりを振る。
「"妖怪"に聞くだけ野暮というものか」
「あれはわちきの苦ぁい記憶なのでありんす。聞かぬが花という奴サ」
芝居がけて言うと、慧音の苦笑は深くなった。
「今日来ていない者のために、何度か声をかけさせてもらうかもしれない。そのときはまた、よろしく頼む」
「いつもお墓にいるとは限らないけど。私のお腹も膨れるし、いつでも言ってよ」
ぶんぶんと傘を振って小傘は慧音に別れを告げた。
外に出るなり、畳んでいた傘を広げようとして、ふと思いついた言葉を口にする。
「講釈師の口でも探してみるっていうのも面白そうだね」
唐傘は少女と赤い目を見合わせて――笑った。
引き込まれました
手を放したら小傘ちゃん消滅しちゃうよ!
こういう雰囲気好きです。
良かったですよー惹きこまれましたとも
情けないイメージの強い小傘ですが、そのせいか地に足の着いた怪異と親和性があるんでしょうかね
拙い語り口と相まって奇妙な現実感が怪談らしさを盛り上げていたように思います