十六夜咲夜が紅き魔物が住まう館より去って、数年が経った。
紅魔正門番人、紅美鈴は今日もまた孤独に一人、門前にて紅魔の館へと続く入り口を守っている。めっきり冷え込んできたこの季節、外で仕事するには少々辛かろうが、それは人間の物差し。紅美鈴は妖怪であり、寒さにも強く暑さにも強い。次いでにそこらの人間よりもよっぽど丈夫で力持ち。だが外見はまるで血流を思わせる紅の長髪が麗しい、若き乙女そのものだ。
見上げた全天には暗雲が立ち込めており、まもなく銀雪の到来を予感させる。美鈴はさらに冷え込むのを覚悟し、首に巻かれた、まるで自毛のような血脈を連想させるマフラーを、口元を覆うように持ち上げた。寒さに強いといっても加減がある。既に現在、人間ならとても耐えられず、家に逃げ帰り炬燵で暖を取りたくなる程の寒さだ。
こんな寒日に尋ねる人っ子など居るはずもなかろうに、と美鈴は無駄な労働だと思いながらも、仕事をさぼり過ぎる訳にもいかず、とろ火で肉をあぶるような緩やかさで体力を消耗しながら立ち尽くしていた。
マフラーを触った美鈴は、脈絡無しに紅魔館の元メイドにして、ツェペシュの末裔と誇っている館の主、大紅魔レミリア・スカーレットの元従者、十六夜咲夜のことを思い出す。
イメージは、銀色。
初めて彼女を見た時、美鈴は見事な銀色だと感じた。
銀に輝く髪を生やし、銀光煌く小刀を振るう、眉目秀麗の戦鬼。美しい、と誰もが思った。美鈴だって例外では無い。妖怪ならいざ知らず、ただの人間をここまで綺麗だと褒めることがあるとは。
――余程“魔”に魅入られたのだろう。
だからこその美しさ。それならば納得がいくというもの。ヒトにしてアヤカシに近き存在。それが時間を操る程度の能力の保持者、十六夜咲夜。
レミリア・スカーレットがいい拾い物をしたと言い放ったのも、なるほど、頷ける。そこまでの珍しさが無ければ“魔”の根源の一つでもある吸血鬼の彼女が、魔を屠る“銀”に染め上げられた彼女を飼うなんてことは、ありはしないのだから。
古来より、銀は魔に抗う術として、魔族は銀を恐れ、人間は銀を重宝した。銀の弾丸なるものが狼男、悪魔を撃退するための物ならば、十六夜咲夜が振るう銀の小刀もまた、魔を払う為の得物である。
吸血鬼にとってもそれは同じこと。にも関わらず、自らの懐にレミリア・スカーレットは天敵を潜り込ませたのだ。これを知った人妖どもは、肝が太いやら酔狂にもほどがあるだと口々にし、結果的に彼らはレミリア・スカーレットの畏怖を更に郷全体へ広めたのだった。
まあ、そんなこんなで十六夜咲夜は揺れ動きもしない水面に波紋を作る小石のような存在だったわけだが、美鈴には特に関係の無いことだった。
それも仕方ないこと。咲夜は中を任され、美鈴は外を任されていた。職務も違えば場も違う。関わり合いの無い対象である二人は交わることもなく、まるで水と油のような間柄だった。
咲夜が館を立ち去るまで、彼女たちを繋ぐものなどありはしなかったのだ。
気。
漢方医学用語の一つ。
普段は目に見えず流動する存在だが、凝固することによりその存在を衆目に晒すことが可能となる、万物の根源。
そんな大層なモノである気を扱う能力を持つ美鈴であったが、それが腹の足しにでもなればいいのに、とまるで動物の鳴き声にでも例えたくなるような音をたてる胃を抑えながら、少々嘆いていた。
同時に銀雪が舞い降る。
天空に広がる重量感溢れる厚雲が、美鈴には冷たい結晶を自分に投擲する為に溜め込んでいるようにも見え、それがなんとも忌々しかった。
とりあえず空いた腹をどうにかしようと、美鈴は自らの服をまさぐった。
そうして取り出したるは、パン切れと一枚の干し肉。パンは時間が経過して水分が完全に無くなり固くなったところに冷たい外気が影響し、まるで岩石のような手触りを美鈴に伝えていた。干し肉も既に板切れのような硬度をほこり、とても食料とは思えない。
人間ならば食べることを拒否し、ためらうことなく捨ててしまうだろうが、丈夫な妖怪である美鈴は、その手にした硬物をまるで焼菓子を頬張るかのように、覆っていたマフラーを下げ、口の中に放り込んだのだった。パン切れと干し肉は美鈴の口の中で、石を噛み砕くような壊音が、小気味よく聞こえてくる。そして咀嚼し終えると、喉を鳴らし飲み込み、胃に収め、それで美鈴の食事は終わった。
美鈴はまたマフラーを口元まで覆い、門番らしく孤独に立ち尽くし、舞い降る銀雪に当りはじめた。
血脈の如きマフラーに触った美鈴は、脈絡無しに魔に近き存在にして魔を払う銀色の人間、十六夜咲夜が館より去っていった日のことを思い出す。
冬。
その日も銀雪が降っていた。
ありがたみもなくなるほどに連日重苦しい雲より落とされる雪結晶は、外勤の美鈴にとっては五臓六腑全ての熱を奪い去っていく、寒冷の日々を象徴する代物であり、親の仇に挑むような目で見ることが精一杯の抵抗だった。
今冬の郷は、近年稀に見る冷日が続いていた。雪は紅を覆い銀に彩る。紅魔の館は今やまるで白銀の砦。大地には雪が積層し、道という道は断たれ、あるのはただ一面の銀世界。喜んで民家の庭先で駆け回っていた犬すら引っ込んでしまうほど、凶悪な白さを誇っていた。
寒い寒いと歯の根が合わず口をカタカタ鳴らしながら美鈴が身体をさすっていると、背後の紅魔正門より音が響いた。
重く、軋む音を立て、鉄門が内側より開いていく。
珍しいと、美鈴は背後を振り返らず思う。
郷に住む妖怪と少女たちは、空を飛ぶ。つまるところ飛行能力を有している者が大半だ。この紅き館の住人たちも例に漏れず、飛ぶ。館の外に用事がある場合は、大抵門を開けずそのまま窓や庭から空から出入りしている。美鈴は、ここ数年この扉が開閉した記憶が無いことに気付いた。点検もしていないので、鉄門のそこかしこに錆が侵食していた。美鈴は元来いいかげんでずぼらな性格の持ち主で、その上妖怪らしくゆったりと生きているので、こうした物の変化に疎いところがある。
今日は面倒くさいので明日に門の錆と汚れを取ろうと考えながら、誰がこの門を開けたか急に興味が湧いて、思わず顔を背後にめぐらせた。同時に雪を踏む音が止まる。
そこには彫刻が立っていた。
否、まるで作り物のように美しい女が立っていた。
銀色の髪を冷風にゆらゆらなびかせ、鋭い青き眼は寒さに凍える門番に注がれている。目の覚めるような美人だ。同時に外気に負けんばかりの冷気を放っており、まるで他者の干渉を嫌っているかのようだった。
膝丈程度の外套に紅き流線を描くマフラーを纏う銀色、彼の女こそ大紅魔従者、十六夜咲夜であった。
美鈴は寒さを忘れる。代わりに、じわり、と先ほどまでとは別の寒さが体内に広がっていくのを感じる。血管が凍ったかのようで、脳より伝達される“動け”という命令が届かない。
冷や汗がしたたり落ちる感覚を美鈴は覚えた。緊張、だろうか。否、美鈴は己の考えを即否定した。
ただ、美しいのだ。
ただ、十六夜咲夜の美しさに、怯えているだけなのだ。
美鈴が彼女を間近で見るのは、これが二度目。最初はレミリア・スカーレットが十六夜咲夜をこの館に連れて来た日。初めて館を訪れる者は、必ず門より入らなければならない。その時見た彼女は、とても銀色で、とても美しかった。
そして二度目である今回。数年ぶりにちゃんと見た彼女は、最早人外の域に達しているようにも思えた。今や完全に魔に見入られ、その美しさに磨きがかかっている。その為人間味が薄く、まるで名高い芸術家が彫ったような像みたいだったのだ。
だが人間。しかし人間。
門番はようやっと唾を飲み込み、思わず銀色に尋ねた。
「ど、どちらへ」
挙動不審である。美鈴の顔は引きつり、搾り出した声は怯えが混じり、ひどく震えていた。少し美鈴より高い位置にある昨夜の青眼に、困惑の色が浮かぶ。何を怖がっているのだろうか、といった風情で。
咲夜は美鈴の質問に答える。
「おやまに」
山に。
山に行くと、咲夜は言った。その声は堂々として威厳に満ちており、うっかりこの館の主人では勘繰ってしまうほどに。尚且つ、その声音は美しい。まるで透明な液体。透き通るような声という意味を、美鈴は初めて体感した。大紅魔、レミリア・スカーレットのように全てを力づくで押し通すような覇者の声ではない、するりと抜け落ちていくような綺麗な声音。レミリアの声が力なら、咲夜の声は技か。
「山、です、か」
青眼に吸い込まれないよう、美鈴は少しずつ区切りながら、しかしはっきりとした声で喋る。
山に……天狗にでも会いにいくのだろうか、と美鈴は思ったが、個人の事をあれこれ詮索するのは感心しないと考え、それ以上は聞かないことにした。
「お、お気をつけ、て」
咲夜に道をあける為、美鈴は少し移動する。
そんな美鈴をちらりと一瞥し、咲夜は首元より紅き流水の如きマフラーの尾を引かせ、足を踏み出し始めた。
しかしすぐにその足は止まる。
門番の横を通り過ぎた瞬間静止した銀髪は、その番人へと首を巡らす。
びゅう、と一際強い冷風を吹くと同時に、天より舞い落ちる銀雪が、その降雪を強める。またもや顔を合わせることなった両者に、その銀雪が張り付いていく。緊張に飲まれた美鈴は冷たさをどこかに追いやり、青眼に吸い込まれないよう、固く目を閉じた。
咲夜は、閉眼した美鈴の前に立っている。
ふと。
首元に、柔らかい感触。
え、と美鈴は小さく漏らした。彼女の首元にあるのは、というより巻かれているのは紅色の、まるで鮮血を垂らしたような毛糸で作られたマフラーだった。
眼前の咲夜の首に、今はマフラーが巻かれていない。ということは――
「どう、して」
「寒そうだったから」
間髪を入れない、咲夜の答え。美鈴は何もかもが信じられないといった風に、暖かな感触を触り、冷たい銀色を見る。
「それじゃ」
咲夜は美鈴に背を向け歩き出す。彼女は何も語らない。背中で何かを語っているのかと、美鈴は咲夜の遠ざかっていく背を凝視するが、特に何も感じることは無く、ただ外套の背と、冷風になびく銀髪が見えるだけに過ぎなかった。
「あ、ありがと、ござい、ます」
美鈴は頭を下げる。久々に他人に示した、感謝の意だったが、咲夜はやはりそれに答えることなく、その姿は次第に遠ざかってゆき、銀雪に埋もれていった。
口元にマフラーを引き上げ、美鈴は見送る背中が消えてもしばらくの間、ただその方向を見つめていた。
その後、十六夜咲夜を見たという者は、郷のどこにもいなかった。
いま思えば、と美鈴。
猫は死期を悟ると、ふらりと何処かに消えるというが、十六夜咲夜もそんなクチだったのかも知れないと。
あるいは、御山に修行しに行き、位を上げる為か。
人間として魔に近いものでは無く、完全な魔として。ひょっとしたら御山での生活が性格が快適で、もう戻ってくるつもりがないのか。だとしたらこの幻想の地で見ない筈もないのだが。やはり――
何にせよ、あの従者とはもう会うことはないだろう、と美鈴は思う。それは、何となしにというものではなく、何故か確信めいたものでもあった。
数年たったいまでも、美鈴はあの銀色を覚えている。人間として異彩の輝きを放っていた、あの女を。しかし、それはうつろいやすいものだ。人間にとってはいざ知らず、妖怪にとっては尚のこと。寿命の長い彼女にとって、たった二回会った人間など、生涯のうちにどれだけ覚えていられることか。
そうやって、忘れていくのだろう。夢幻の図書館に住まう七曜の魔女も、破壊の権化にして炎帝の化身である地下の悪魔も、そしてこの館を統べる、紅き吸血鬼、不夜の王も。みんな、彼女のことを、あの美しき銀色のことを。遥か忘却の彼方に。
――自分はどうなのだろうか。
自分は――
紅美鈴は、首に巻いたマフラーを鼻に被せるように引き上げた。
天に立ち込めた厚雲は去ることを知らず、銀雪は、ますますその足を速めていた。
彼女は唐突に思い出す。彼女にマフラーを巻いた、あの美しく麗しい、美貌の戦鬼を。銀色の女を。
――しばらく忘れることも無いだろう。
美鈴は空を仰ぎ、嘆息した。マフラー内に生暖かい息が充満し、少し寒さがやわらいだ。
紅き魔物が住まう館の門前に、紅の番人が一人。
血脈のようなマフラーと血流のような長髪を冷風になびかせ、孤独に佇んでいた。
咲夜さんがどうなったか知りたいですが、この小説はそれが分からないからこそ良いのでしょうね…。
そして誤字を発見
>ツェペリの末裔→ツェペシの末裔が正しいかと。
次回も楽しみにしてますです。