※この物語は「靈禽蓮々歌~Inevitable night~ 第一章」と「靈禽蓮々歌~Inevitable night~ 第二章」の続きとなっていますので、先にそちらをお読みください。
~10.譲れない道~
永琳から妹紅の異変の原因を聞かされた後、慧音は最後の可能性に賭けるためにすぐに紅魔館へ向かおうとした。
しかし噂でそこに住んでいる悪魔は昼は寝ているといわれており、それに加えて妹紅をそのまま永遠亭に置いていくというわけにもいかなかった。
ここで輝夜にでも見つかったら事態が更にややこしくなることは目に見えていたからだ。
慧音達が永遠亭を後にする時には雷雨は収まっており、段々と回復してきていた。
そんな中、永琳はたくさんの錠剤の入った一つの薬瓶を持ってきた。
「この薬はさっき妹紅に飲ませた奴と同じ薬で、妹紅の二つの能力を押さえ込む作用を持っているわ。今のところほんの少しの延命効果しかないけど、さっきみたいな発熱を抑えることが出来るし、毎日一粒飲んでいたら少なくとも一ヶ月は命に問題ないわ。ただし、能力を押さえ込んでいる副作用として、今の妹紅は不老不死でもなくフェニックスの能力も持たないただの人間と同じ体になってしまっているわ。それだけは気をつけてね」
彼女はそのように説明し、妹紅の掌にしっかりとそれを握らせるように渡す。
「ごめんなさい。私が蓬莱の薬なんてものを作らなければ、こんなことには……」
妹紅の手を包む永琳の手に力がこもる。
今回の件で……いや、はるか昔から彼女はずっと自らを責めていたのだ。
自分が軽はずみに作ってしまった薬のせいで二人の人生を狂わせてしまった、と。
そのことに対する自責の念が、彼女をずっと蝕んでいるのだ。
だが、妹紅はそんな永琳の手を優しく包み返す。
「永琳が謝る必要はないよ。それに蓬莱の薬がなかったら私がこうして慧音に……私の一番大切な人に会うこともなかった。それにしっかりこうして私を助けてもくれるしね。私が永琳を恨むはずなんてないし、永琳が悩む必要ないよ」
妹紅は、永琳に優しく微笑みかける。
その微笑みが、永琳の呪縛を一つ解いたのだった。
「妹紅……」
「さあ、ここで輝夜の奴に見つかると大変だし、さっさと行こうよ」
妹紅は元気よく答え、慧音の手を握る。
誰が見てもその元気は空元気だった。
しかし、その妹紅の行動が永琳の心に救いをもたらす。
「永琳、色々と世話になった」
「こちらこそほとんど何も出来なくて……」
「いや、そんなことはないぞ。こうして妹紅の容態が安定しただけでも十分だ。本当にありがとう」
慧音は深々とお辞儀する。
そして、妹紅を抱きかかえて慧音は永遠亭を後にした。
「本当に貴女達は……」
永琳の瞳には、雨雲の隙間から照らされる日光によって光り輝くものがあった。
その後、普通の人間と全く代わりのない妹紅を一人竹林の彼女の庵に帰すわけにもいかなかったので、慧音は一旦彼女を連れて彼女が守護する里へと向かった。
妖怪と共に歩んでいく道を選んだ者や、外の世界を捨てて流れ着いた者が集まった村。
それが慧音の守護する村だった。
中には妹紅の事を噂で知っている者もいたが、それでも慧音と共にいる事もあり、村人達は妹紅をすぐに受け入れた。
妹紅は最初戸惑っていたが、もともと気さくで人当たりがいいことが幸いし、すぐにある程度村に馴染んでいったのだった。
その様子を見て慧音は一安心した。
とりあえずは妹紅に関しては大丈夫だろう。
残る問題はこの後のことである。
相手は悪魔、しかもかなり高貴で悪名が高いのだ。
一筋縄ではいかない、と、慧音は半ば確信していた。
しかし、案ずるより産むが易し、何はともあれ実行に移すことには変わりなかった。
そして、村全体を夕日が紅く染め上げる黄昏時、慧音は村を後にしたのだった。
太陽が地平線に沈み、それと呼応するように反対の地平線から月が昇り始める。
昼と夜の境界にあたるこの時間帯。
ちょうど夕凪の時刻とも重なっており、辺りは恐ろしくなるほどの静けさに包まれている。
特に周りを湖で囲まれたここは、早朝と夕方の凪の時間しか静けさが訪れない。
そのような恐ろしささえ感じる静けさの中、紅魔館はいつも以上の威圧感を漂わせながらも存在していた。
紅き悪魔の住む紅魔館。
その名を知っている者は、自殺願望がない限り紅魔館へは近づこうとはしない。
そこには数多の妖や悪魔が存在し、それら全てが尋常ならぬ実力を持っているからだ。
もし、生半可な力を持ってその館に忍び込めば、たちまち彼女達の餌食になってしまうだろう。
もちろん慧音もその噂はもちろんの事知っていたし、それが事実であることも知っていた。
しかし、今は場合が場合であるため、そんなことは気にしていられない。
迫り来る恐怖を無理矢理意識の外に追いやりつつも、慧音は紅魔館のへと近づいていく。
と、
「待ちなさい」
目の前に一人の少女が立ちふさがる。
「今日は来客の予定はないはずだが……何をしに紅魔館に来たんだ?」
声をかけてきた少女は一定の間合いを保ちながらも、慎重にこちらの様子を伺ってくる。
それがおそらく彼女の間合いなのだろう。
間合いの取り方や警戒の仕方からして、彼女が相当な実力の持ち主ということが分かる。
「今日はこの館の主人に用事があってきた。案内してくれないか?」
だが、慧音とてここまで来て引くわけには行かない。
これが妹紅を助けることの出来る最後の手段かも知れないからだ。
「お嬢様から伺っていない相手はどんなことがあろうと館には入れない。それでも入りたくば、私を倒す事だ」
もちろん、彼女もそう簡単には通してくれない。
彼女から伝わってくる『気』が鋭くなる。
「そうか……なら少し、手荒く行かせてもらう」
慧音も同じく弾幕をいつでも張れるような体勢をとる。
周りがほとんど無音の中で、一触即発な緊張感が二人の間に広がる。
どちらかが動けば一気に両者が動き出すであろう緊張感。
二人はじっと止まったまま、相手の動きを探りあい続ける。
一瞬とも永遠ともとれる時間が流れていく。
ぴちゃん
と、湖から魚の跳ねる音が聞こえた。
その音を合図に同時に二人が動き出す!
「そこまでよ!」
突然の声に、動き出した二人の体が硬直する。
二人同時に声のしたほうに振り向くと、いつの間にかそこには顔に少し幼さの残るメイド服の女性が立っていた。
「さ、咲夜さん……?」
「お前は……確かあの吸血鬼と一緒にいたメイド……」
呆気にとられて硬直している二人を気にせず、咲夜と呼ばれた女性は慧音のほうに向く。
「上白沢慧音ね。お嬢様がお待ちよ」
彼女は呆気に取られる慧音と少女にそうとだけ告げ、一人先に紅魔館の中へ歩き出す。
まるで、慧音が紅魔館に来る予定となっていたかのように。
「え?え?咲夜さん?今日は誰も尋ねてこないはずじゃあ……」
「先程、一人だけ特別な客が来るから迎えにいきなさい、とお嬢様から言われたわ。だから美鈴は気にしないで今まで通り門番を続けて」
「は、はあ……」
「ほら、貴女もそんなところで突っ立ってないで早く来なさい。お嬢様のお気分が変わるかもしれないわ」
美鈴と呼ばれた少女はまだ少々呆気に取られた表情をしていたが、咲夜に言われたとおり再び門の前に立つ。
おそらく、美鈴よりも咲夜のほうが位的に上なのであろう。
一方で慧音は呆気に取られていたが、咲夜の言葉に、はっ、と我に返り、少々不審に思いつつもそのまま慌てて彼女の後についていく
「そういうことだからはぐれない様についてきて。はぐれて他のメイドの餌食になっては困るからね」
「……分かった」
正直、これが罠であるのではなかろうかと心の中では思っていた。
しかし、それ以外の道がない慧音は大人しく咲夜の後についていった。
咲夜は何も言わず紅魔館の中に入っていく。
慧音も同じく紅魔館の中に入っていく。
そして二人の姿が館の中に消える。
がちゃん
同時に、大きく重い音を立てて館のドアが閉まったのだった。
~11.悪魔との契約~
紅魔館の中は思った以上に静かだった。
玄関ホールから続く先の見えない長い廊下にはいくつものドアがあるのだが、その中からは全く人の気配もせず物音もしない。
時々廊下でメイドの格好をした妖か悪魔とすれ違うだけで、そのほかには廊下には人影が見当たらない。
かつかつかつかつ、と二人の歩く音が妙に大きく廊下に響いていく。
「……少し、聞いてもいいか?」
その沈黙を破るように慧音が口を開く。
「何故あの悪魔は私がここに来た事を知っているんだ?それも運命を操る力のなしえる技なのか?」
咲夜は答えない。
かつかつかつかつ
先ほどよりも足跡が大きくなったような気がした。
と、
「私は貴女をお嬢様の元まで連れて行くのが役目よ。それ以外の事をする義務はないわ」
「……そうか」
少し間をおいて咲夜はキッパリと言い放つ。
「ただ……貴女を罠に嵌めるとかそういうのではないわ。お嬢様は貴女に興味を持った。ただそれだけの事よ。でも、変なことをすれば容赦しないから気をつけておくことね」
これも咲夜の気遣いなのだろうか。
慧音の心の中を察したように付け加えてくる。
ちょっと言葉に棘があるのは、かつての仕返しなのかもしれない。
慧音は無言のままだ。
それを御意と受け取ったか、咲夜もペースを保ったまま歩き続ける。
館の外見にそぐわない、先が暗闇で覆われている長い長い廊下を二人は黙って歩いていく。
しばらくすると、他の扉とは明らかに造りの違う扉の前にたどり着いた。
見るからに他よりも装飾が凝っており、明らかにここは特別な部屋というのが分かる場所だった。
咲夜が振り返り目配せする。
どうやらこの扉に向こうに、彼女の主人である紅い吸血鬼がいるようだ。
慧音の顔は自然と固くなってしまう。
咲夜はそんな慧音の様子にもかまわずドアをノックする。
「お嬢様、上白沢慧音をお連れしました」
「入りなさい」
扉の向こうから少女の声が返ってくる。
その声は少女の声なのに威厳を漂わせている。
やはり、この紅魔館を統べるだけの実力を持っている事の現われだろうか。
咲夜はその声に促されドアを開ける。
「失礼します」
彼女は一礼をし、部屋の中へ入りドアの横に待機し、再び慧音に目配せする。
その視線に促され、慧音は、ごくっ、と一度唾を飲み込んでから部屋に足を踏み入れた。
それを見た咲夜が大きなドアを再びゆっくりと閉める。
かちゃ、と控えめな音が鳴った。
部屋は外見と同じく、壁紙から絨毯、家具や時計にいたるまで紅一色だった。
そんな紅い部屋のど真ん中にある机。
そこに当主であるレミリア・スカーレットは座っていた。
「ようこそ、紅魔館へ。この前は色々とお世話をしたわね。その恩返しに来てくれたのかしら?」
口につけていた、やけに紅い紅茶の入ったカップを机に置き、机の上に肘を乗せて笑みを浮かべる。
どうやら慧音をからかっているようだ。
「いや、そうじゃない。今日はレミリア・スカーレット、貴女に頼みごとがあってきたんだ」
慧音はそれを流し、単刀直入に用件を述べる。
慧音がこの館に足を踏み入れた時、既に何事にも屈しないという決意をしていたためだ。
だが、レミリアは慧音の言葉を聞くと露骨につまらなさそうな顔をする。
「つれないなぁ。あんたが私に願い事があってここに来たなんて最初から知っているに決まっているじゃない。そうじゃないとここまで通さないわよ。こういう時は言葉遊びに決まっているでしょ?全く、これだから頭の固い輩は……」
はぁ、と大げさにため息をつき、肩をすくめるレミリア。
どうやら彼女なりの楽しみだったらしい。
「すまない……そこまで頭が回らなかった」
自分に非は全くないはずなのに、慧音はつい頭を下げ謝ってしまう。
ここでレミリアの機嫌を損ねてはいけないという気持ちが強かったからだ。
しかし、その行動を見て更にレミリアは不機嫌になる。
「もう、この前の気迫もなくなっているなんて全然面白くないじゃない。興醒めだ」
はぁ……、とため息をつきじとーっとつまらなさそう慧音を見つめる。
しかしそれもつかの間の事で、レミリアの表情はすぐに外見不相応な威厳のあるものへと変わる。
「……で、私の能力のおかげで私はあんたがここに来ることを知っていたけど、実際何をしに来たのかは知らないわ。あんたは一体何をしに来たんだ?言ってみなさい」
レミリアはぐっ、と机に身を乗り出して慧音を見つめる。
彼女の表情には好奇心の三文字が見て取れた。
おそらく何しにきたのかを全く知らないというのは嘘だろう。
しかし、その瞳の奥にはほんの僅かだが真剣さを見て取れた。
慧音はそんなレミリアの不思議な瞳に誘われるように、妹紅の事をしゃべりだした。
慧音が話しを終えると同時に、レミリアは机に置いていた紅茶に口をつける。
すっかり冷め切ってしまった紅茶が、レミリアの喉をすーっと通っていく。
冷めてしまった紅茶ほどおいしくないものはない。
レミリアは咲夜に声をかけ、その紅茶を下げさせた。
咲夜はさめた紅茶を下げるのと同時に、熱い紅茶をレミリアに差し出す。
レミリアはそれを受け取り、ゆっくりと口をつける。
レミリアの一番好みな温度の紅茶が彼女の喉を通り、程よい香りが口の中に広がる。
その香りを堪能してから、再び慧音をじっと見る。
慧音は微動だにせず、レミリアのその行動をじっと見ていた。
カチ、カチ、カチ、カチ
壁にかかった紅い柱時計の秒針が動く音がやけに大きく聞こえる。
そして、レミリアの口がゆっくりと開く。
「まさかあの時の死なない人間がそんな目にあっているなんてね。ま、ある意味自業自得ね」
大げさな素振りで肩をすくませ、はぁ、とため息をつく。
「で、話から察するに、あんたはこの私にその死なない人間の運命を変えてもらうように頼みに来たって所でしょ?」
「そうだ……」
人差し指をびしっと慧音に向け、さも言い当てるかのように言うレミリア。
慧音はそれに無表情のままで答える。
「なるほどね……」
レミリアはそう答えた後、腕を組んで慧音をじっと見つめる。
なにもかも見透かしてしまうような視線。
レミリアの視線は、まさにそのものだった。
慧音はその視線に見つめられただけで、全身を束縛されてしまうような錯覚に陥ってしまった。
「……ねえ、悪魔との契約は等価交換っていうのは知っているかしら?」
「あ、ああ……悪魔と契約するにはそれ相応の報酬を払わないといけないというやつだろう……?」
レミリアはその視線でじっと慧音を見続けている。
そして慧音はその視線に捕らえられながらもなんとか口を動かす。
もしかしたらこの行動すら、レミリアに操られての行動かもしれないという感覚が慧音を襲う。
「そうよ。だったら話が早いわ」
ふっ、とレミリアは笑みをこぼす。
しかし、その笑みは少女の可愛らしい笑みではなく、猛獣が獲物を獲た時にもらすであろう笑みであった。
「もし、あんたがその妹紅とかを助けたければね、等価交換として、あんたの命を貰うわ」
ボーン、ボーン、ボーン
ちょうどその時、柱時計が鐘を鳴らしだしたのだった。
~12.彼女の選んだ道~
「私の……命……」
慧音の口からその言葉がゆっくりと紡ぎだされる。
もともと言葉というのは葉に書かれた文字を言うというのが語源である。
その語源のとおり、言葉は文字とは違い発音されて始めて意味を持つのだ。
レミリアと慧音が紡ぎだした言葉がゆっくりとその場を支配していく。
それほど言葉というものの力は大きく、時に残酷なのだ。
慧音の頭はその自分で紡いだ言葉で混乱しつつも、どこかで第三者としてその言葉を聞いているような錯覚に陥る。
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ
時刻の数だけ鐘を鳴らし終えた柱時計は、再び秒針を刻んでいく。
その音が先ほどよりも大きく、だがゆっくりと刻んでいっているような気がする。
慧音はじっとレミリアを見たまま動けないでいる。
ふと彼女の視線はレミリアの後ろの窓に移る。
何時の間に上ったのだろうか。
そこには、ほんの少しだけかけた、満月に近い紅い月があった。
紅い悪魔と紅い月。
これほど似合う組み合わせは他にはないだろう。
そのあまりの美しさもあってか、先ほどの交換条件や今ここにいる事ですら幻想であるかのような感覚になる。
慧音の瞳に不穏な影が見え始める。
「私の命で……妹紅が助かる……」
「そうよ。あんたの命で私があんたの最愛の人が助ける……もう答えは決まっているでしょう?」
レミリアは先ほどの魅惑的な笑みを浮かべたまま、慧音を誘うように甘くつぶやく。
「私は……」
正直言うと、自分の命を捨てることはしたくない。
だが、自分の命をささげる以外に妹紅が助かる方法は存在するだろうか?
もし、ここでレミリアとの契約を破棄してしまったら、妹紅はもはや助からないのではないか?
そのような葛藤が慧音の頭の中を占めていく。
考えれば考えるほど他の考えが次々と浮かんできては消えていく。
そんな邪念を慧音は頭を振って振り払っていく。
そもそも私が紅魔館に来た理由はなんだったんだ!?
妹紅をなんとしてでも助ける為だろう!?
だったらどうするかは自ずと決まるじゃないか。
そう、何も怖がることはないんだ……
慧音は頭の中で自分に言い聞かせる。
大抵、一度腹をくくるとどんな状況でも物事を冷静に見ることができるようになる。
それはもちろん慧音も同じだった。
慧音は、ふぅ、と一息つき、視線をレミリアから天井に向けつつも体の力を抜く。
これで全てがうまくいき、妹紅が助かる。
その気持ちが今までごちゃごちゃになっていた慧音の頭を空っぽにしていく。
先ほどの恐怖心も躊躇いもすべて消え去ってしまった。
すべてのしがらみがなくなったあと、慧音の頭には妹紅の事だけが残った。
根は優しくて涙もろいのに、そのくせプライドが高いためにいつも強がり本当の表情を隠していた。
しかし慧音の前では、妹紅は包み隠さず本当の表情を見せていた。
その中でも慧音は妹紅の笑顔が一番好きだった。
その笑顔は慧音がいなくなったら誰に向くのだろうか?
「蓬莱の薬がなかったら私がこうして慧音に……私の一番大切な人に会うこともなかった」
ふと、慧音の脳裏に妹紅の言葉が蘇る。
様々な苦痛を引き起こした蓬莱の薬によって与えられた能力。
それの唯一もたらした幸せが自分だといってくれた妹紅。
その能力のせいで自分の命を奪ってしまうことになったら、妹紅はどう思うだろうか?
もし自分が逆の立場なら、そのような行動に出た妹紅をどう思うだろうか?
慧音は空っぽになってすっきりした頭で考えていく。
――なんだ、確かに答えは決まっていたじゃないか。
すぅ……と、息を吸い込み、再び視線をレミリアに向ける。
その瞳には先ほどの不穏な光はもはや見えず、しっかりとした光を宿していた。
彼女は自ら迷い込んだ迷宮からようやく抜け出すことが出来たのだった。
そして、それと同時に一つの決意をした。
「私は……その契約を受け入れることは出来ない」
慧音はしっかりとした言葉で伝える。
レミリアはその言葉を聞いて、少し驚いたような表情をする。
「へぇ……やっぱり自分が死ぬことに怖気ついたのかしら?妹紅ってやつはその程度の存在だったんだ」
そして口元に笑みを浮かべながらも、からかうような口調で慧音を挑発する。
しかし、彼女の瞳には冷たい残酷な光は潜んでいなかった。
「そうじゃない。ようやく……本当にようやく気づけたんだ。私の命と交換で妹紅の命を助けるということが無意味であるということに……」
その言葉にレミリアの眉が、ぴくっ、と反応する。
そして、レミリアの顔から先ほどのからかうような笑みが消え、真剣な表情へと変わっていく。
「……無意味って言うのはどういうことだ?」
今の発言が気に入らなかったのか、レミリアは無意識のうちに言葉の語尾が荒くなる。
「もし私が妹紅ならば、私は妹紅の命を犠牲にしてまでも生き延びたいとは思わない。そうされたら、絶対自分を嫌いになってしまう。きっと……いや、絶対に妹紅も同じように思うはずだ。ただ……それだけだ」
カタカタカタ、と、レミリアの目の前のカップが振動する。
レミリアから向けられる無言の圧力が見えない力として空気を震わせているのだ。
しかし、慧音はそれを真っ向から受け止め、しっかりと自分の思いを伝える。
心に迷いがなくなった今、彼女が恐れるものは何もない。
「それに……貴女は『妹紅を助ける』とだけ言って『妹紅が助かる』とは言っていない。まあ、助かるんだとしても、私の命と交換は出来ないけどな」
「……これ以外に妹紅を助ける方法がなかったとしても、それでもあんたは契約を結ばないの?このままだと妹紅は消滅するのよ?」
レミリアは慧音の瞳をじっと見つめたまま動かない。
しかし、それは先ほどの怒気は含んでおらず、一種の最終警告のようなものを含んでいた。
「ああ。例えこのまま妹紅が消滅してしまうことになっても、私は契約を結ばない」
慧音もそれを感じ取ってか、もう一度自分に言い聞かせるようにはっきりと言う。
「後悔しても遅いわよ?」
「契約をして後悔するよりかはましだ」
今までの仕返しか、慧音は少し皮肉をこめた言い方をする。
二人は一言もしゃべらずに見つめあう。
一瞬、紅い部屋の中に緊張がはしる。
「ふふ、ははは……あははははははははははははははははは!!」
しかし、その緊張はレミリアの笑い声によってかき消されてしまった。
急に狂ったかのように笑い出すレミリア。
彼女の急な変化に慧音は思わず呆然としてしまう。
そして、彼女の専属メイドである咲夜でさえも、その様子にほんの少しだが驚いた表情を見せていた。
部屋の中にはレミリアの笑い声のみが響く。
しばらくすると、次第に笑い声が小さくなっていく。
「はは……私が契約を提示した連中の中で……あんたのような奴は今まで一人もいなかったわよ」
目じりに涙を浮かべながらも、必至に笑いを抑えこもうとするレミリア。
その笑いのせいで、先ほどまでの緊迫した雰囲気は一気に台無しになってしまった。
「あんたは馬鹿。馬鹿に正直すぎる……本当に馬鹿だ……」
レミリアは手で目を覆い、天井を仰ぐ。
その口元には依然笑みが刻まれている。
慧音は、そんなレミリアの様子をただただ見ている事しか出来なかった。
「契約は無効。私はあんたのような『馬鹿で妙に物分りのいい奴』は嫌いだ。さっさと帰って妹紅とか言う奴の側にずっとついて自分の無力を感じてなさい」
目を覆っていた手をどけ、最初と同じようにカップを取り口を付けつつもレミリアはぶっきらぼうに言う。
その目元は微かに赤くなっていた。
一口紅茶を喉に流し込んでから、ぱんっ、とレミリアは手を叩く。
すると、ほんの数秒後に部屋のドアが開き一人のメイドが入ってきた。
「そいつを門まで連れて行け」
レミリアはそうメイドに命令し、椅子ごと窓のほうに向いてしまう。
レミリアに命令されたメイドはじっとレミリアの後姿を見ている慧音をチラッと横目で見てから
「ついてきてください」
と、一言言ってから歩き出す。
慧音は暫くレミリアを見ていたが、彼女振り返ったりする様子もなかったのでメイドの後についていく。
と、慧音が部屋から出ようとしたその時、
「……今から私が言うのは独り言よ。あんたには関係ないからね」
レミリアが背を向けたまま言う。
その言葉に慧音の足は止まり、再びレミリアのほうを見る。
「消滅の運命はどんな生物にも必然。この世に存在するものは必ず消滅する時が来る。それに逆らおうとするなら必ずそれ相応の代償を払わないといけない。それが自然の摂理よ……」
レミリアの言葉が途切れる。
その言葉は今回の出来事の終焉を表していた。
暫くしてレミリアがゆっくりと振り返る。
「……何をしているのよ。さっさと帰りなさい。でないと本当に命を貰うわよ?」
その言葉に慧音は、はっ、として、部屋の外で待機しているメイドの側まで行く。
その途中、部屋を出る前にもう一度レミリアに振り返り、
「本当に世話になった。色々とありがとう」
と、一言だけいい、軽く頭を下げてから再びメイドについていく。
かちゃっ、とゆっくりと扉が閉まる。
紅い部屋にはレミリアと咲夜しかいなくなった。
暫くして、はぁ……とレミリアは大きくため息をつく。
「命をとろうとした相手から『ありがとう』といわれるなんて……情けないわ」
苦笑しながらもレミリアはコップを一気に傾けて、冷めてしまった紅茶を全部飲み干す。
喉を冷たい塊が通っていく。
「いえ……そんなことありませんわ。お嬢様は立派で……」
――そして心優しいですわ。
そう言おうとして咲夜は口を噤む。
咲夜は気づいていたのだ。
レミリアが最初から慧音の命を取ろうとは思っていなかったことに。
レミリアが慧音に一つの事に気づかせるためだけに、このような芝居を打っていたことに。
そして、それを無意識のうちにレミリア自身にも言い聞かせていたことに。
レミリアの紅茶が空になったので、咲夜は再び熱い紅茶をコップに注ぐ。
香り良い湯気が優しくレミリアと咲夜を包み込んでいく。
レミリアはゆっくりと紅茶を口に含み、その味を確かめる。
「ところで咲夜、明日のことだけど……」
先ほどの事がなかったかのように、咲夜にだけ見せる笑顔を浮かべながらも話し出すレミリア。
そんな彼女を見て咲夜は、再度決意したのであった。
――自分の命が消え耐えるその時まで、ずっとお嬢様の側にいよう。
と。
~続く~
~10.譲れない道~
永琳から妹紅の異変の原因を聞かされた後、慧音は最後の可能性に賭けるためにすぐに紅魔館へ向かおうとした。
しかし噂でそこに住んでいる悪魔は昼は寝ているといわれており、それに加えて妹紅をそのまま永遠亭に置いていくというわけにもいかなかった。
ここで輝夜にでも見つかったら事態が更にややこしくなることは目に見えていたからだ。
慧音達が永遠亭を後にする時には雷雨は収まっており、段々と回復してきていた。
そんな中、永琳はたくさんの錠剤の入った一つの薬瓶を持ってきた。
「この薬はさっき妹紅に飲ませた奴と同じ薬で、妹紅の二つの能力を押さえ込む作用を持っているわ。今のところほんの少しの延命効果しかないけど、さっきみたいな発熱を抑えることが出来るし、毎日一粒飲んでいたら少なくとも一ヶ月は命に問題ないわ。ただし、能力を押さえ込んでいる副作用として、今の妹紅は不老不死でもなくフェニックスの能力も持たないただの人間と同じ体になってしまっているわ。それだけは気をつけてね」
彼女はそのように説明し、妹紅の掌にしっかりとそれを握らせるように渡す。
「ごめんなさい。私が蓬莱の薬なんてものを作らなければ、こんなことには……」
妹紅の手を包む永琳の手に力がこもる。
今回の件で……いや、はるか昔から彼女はずっと自らを責めていたのだ。
自分が軽はずみに作ってしまった薬のせいで二人の人生を狂わせてしまった、と。
そのことに対する自責の念が、彼女をずっと蝕んでいるのだ。
だが、妹紅はそんな永琳の手を優しく包み返す。
「永琳が謝る必要はないよ。それに蓬莱の薬がなかったら私がこうして慧音に……私の一番大切な人に会うこともなかった。それにしっかりこうして私を助けてもくれるしね。私が永琳を恨むはずなんてないし、永琳が悩む必要ないよ」
妹紅は、永琳に優しく微笑みかける。
その微笑みが、永琳の呪縛を一つ解いたのだった。
「妹紅……」
「さあ、ここで輝夜の奴に見つかると大変だし、さっさと行こうよ」
妹紅は元気よく答え、慧音の手を握る。
誰が見てもその元気は空元気だった。
しかし、その妹紅の行動が永琳の心に救いをもたらす。
「永琳、色々と世話になった」
「こちらこそほとんど何も出来なくて……」
「いや、そんなことはないぞ。こうして妹紅の容態が安定しただけでも十分だ。本当にありがとう」
慧音は深々とお辞儀する。
そして、妹紅を抱きかかえて慧音は永遠亭を後にした。
「本当に貴女達は……」
永琳の瞳には、雨雲の隙間から照らされる日光によって光り輝くものがあった。
その後、普通の人間と全く代わりのない妹紅を一人竹林の彼女の庵に帰すわけにもいかなかったので、慧音は一旦彼女を連れて彼女が守護する里へと向かった。
妖怪と共に歩んでいく道を選んだ者や、外の世界を捨てて流れ着いた者が集まった村。
それが慧音の守護する村だった。
中には妹紅の事を噂で知っている者もいたが、それでも慧音と共にいる事もあり、村人達は妹紅をすぐに受け入れた。
妹紅は最初戸惑っていたが、もともと気さくで人当たりがいいことが幸いし、すぐにある程度村に馴染んでいったのだった。
その様子を見て慧音は一安心した。
とりあえずは妹紅に関しては大丈夫だろう。
残る問題はこの後のことである。
相手は悪魔、しかもかなり高貴で悪名が高いのだ。
一筋縄ではいかない、と、慧音は半ば確信していた。
しかし、案ずるより産むが易し、何はともあれ実行に移すことには変わりなかった。
そして、村全体を夕日が紅く染め上げる黄昏時、慧音は村を後にしたのだった。
太陽が地平線に沈み、それと呼応するように反対の地平線から月が昇り始める。
昼と夜の境界にあたるこの時間帯。
ちょうど夕凪の時刻とも重なっており、辺りは恐ろしくなるほどの静けさに包まれている。
特に周りを湖で囲まれたここは、早朝と夕方の凪の時間しか静けさが訪れない。
そのような恐ろしささえ感じる静けさの中、紅魔館はいつも以上の威圧感を漂わせながらも存在していた。
紅き悪魔の住む紅魔館。
その名を知っている者は、自殺願望がない限り紅魔館へは近づこうとはしない。
そこには数多の妖や悪魔が存在し、それら全てが尋常ならぬ実力を持っているからだ。
もし、生半可な力を持ってその館に忍び込めば、たちまち彼女達の餌食になってしまうだろう。
もちろん慧音もその噂はもちろんの事知っていたし、それが事実であることも知っていた。
しかし、今は場合が場合であるため、そんなことは気にしていられない。
迫り来る恐怖を無理矢理意識の外に追いやりつつも、慧音は紅魔館のへと近づいていく。
と、
「待ちなさい」
目の前に一人の少女が立ちふさがる。
「今日は来客の予定はないはずだが……何をしに紅魔館に来たんだ?」
声をかけてきた少女は一定の間合いを保ちながらも、慎重にこちらの様子を伺ってくる。
それがおそらく彼女の間合いなのだろう。
間合いの取り方や警戒の仕方からして、彼女が相当な実力の持ち主ということが分かる。
「今日はこの館の主人に用事があってきた。案内してくれないか?」
だが、慧音とてここまで来て引くわけには行かない。
これが妹紅を助けることの出来る最後の手段かも知れないからだ。
「お嬢様から伺っていない相手はどんなことがあろうと館には入れない。それでも入りたくば、私を倒す事だ」
もちろん、彼女もそう簡単には通してくれない。
彼女から伝わってくる『気』が鋭くなる。
「そうか……なら少し、手荒く行かせてもらう」
慧音も同じく弾幕をいつでも張れるような体勢をとる。
周りがほとんど無音の中で、一触即発な緊張感が二人の間に広がる。
どちらかが動けば一気に両者が動き出すであろう緊張感。
二人はじっと止まったまま、相手の動きを探りあい続ける。
一瞬とも永遠ともとれる時間が流れていく。
ぴちゃん
と、湖から魚の跳ねる音が聞こえた。
その音を合図に同時に二人が動き出す!
「そこまでよ!」
突然の声に、動き出した二人の体が硬直する。
二人同時に声のしたほうに振り向くと、いつの間にかそこには顔に少し幼さの残るメイド服の女性が立っていた。
「さ、咲夜さん……?」
「お前は……確かあの吸血鬼と一緒にいたメイド……」
呆気にとられて硬直している二人を気にせず、咲夜と呼ばれた女性は慧音のほうに向く。
「上白沢慧音ね。お嬢様がお待ちよ」
彼女は呆気に取られる慧音と少女にそうとだけ告げ、一人先に紅魔館の中へ歩き出す。
まるで、慧音が紅魔館に来る予定となっていたかのように。
「え?え?咲夜さん?今日は誰も尋ねてこないはずじゃあ……」
「先程、一人だけ特別な客が来るから迎えにいきなさい、とお嬢様から言われたわ。だから美鈴は気にしないで今まで通り門番を続けて」
「は、はあ……」
「ほら、貴女もそんなところで突っ立ってないで早く来なさい。お嬢様のお気分が変わるかもしれないわ」
美鈴と呼ばれた少女はまだ少々呆気に取られた表情をしていたが、咲夜に言われたとおり再び門の前に立つ。
おそらく、美鈴よりも咲夜のほうが位的に上なのであろう。
一方で慧音は呆気に取られていたが、咲夜の言葉に、はっ、と我に返り、少々不審に思いつつもそのまま慌てて彼女の後についていく
「そういうことだからはぐれない様についてきて。はぐれて他のメイドの餌食になっては困るからね」
「……分かった」
正直、これが罠であるのではなかろうかと心の中では思っていた。
しかし、それ以外の道がない慧音は大人しく咲夜の後についていった。
咲夜は何も言わず紅魔館の中に入っていく。
慧音も同じく紅魔館の中に入っていく。
そして二人の姿が館の中に消える。
がちゃん
同時に、大きく重い音を立てて館のドアが閉まったのだった。
~11.悪魔との契約~
紅魔館の中は思った以上に静かだった。
玄関ホールから続く先の見えない長い廊下にはいくつものドアがあるのだが、その中からは全く人の気配もせず物音もしない。
時々廊下でメイドの格好をした妖か悪魔とすれ違うだけで、そのほかには廊下には人影が見当たらない。
かつかつかつかつ、と二人の歩く音が妙に大きく廊下に響いていく。
「……少し、聞いてもいいか?」
その沈黙を破るように慧音が口を開く。
「何故あの悪魔は私がここに来た事を知っているんだ?それも運命を操る力のなしえる技なのか?」
咲夜は答えない。
かつかつかつかつ
先ほどよりも足跡が大きくなったような気がした。
と、
「私は貴女をお嬢様の元まで連れて行くのが役目よ。それ以外の事をする義務はないわ」
「……そうか」
少し間をおいて咲夜はキッパリと言い放つ。
「ただ……貴女を罠に嵌めるとかそういうのではないわ。お嬢様は貴女に興味を持った。ただそれだけの事よ。でも、変なことをすれば容赦しないから気をつけておくことね」
これも咲夜の気遣いなのだろうか。
慧音の心の中を察したように付け加えてくる。
ちょっと言葉に棘があるのは、かつての仕返しなのかもしれない。
慧音は無言のままだ。
それを御意と受け取ったか、咲夜もペースを保ったまま歩き続ける。
館の外見にそぐわない、先が暗闇で覆われている長い長い廊下を二人は黙って歩いていく。
しばらくすると、他の扉とは明らかに造りの違う扉の前にたどり着いた。
見るからに他よりも装飾が凝っており、明らかにここは特別な部屋というのが分かる場所だった。
咲夜が振り返り目配せする。
どうやらこの扉に向こうに、彼女の主人である紅い吸血鬼がいるようだ。
慧音の顔は自然と固くなってしまう。
咲夜はそんな慧音の様子にもかまわずドアをノックする。
「お嬢様、上白沢慧音をお連れしました」
「入りなさい」
扉の向こうから少女の声が返ってくる。
その声は少女の声なのに威厳を漂わせている。
やはり、この紅魔館を統べるだけの実力を持っている事の現われだろうか。
咲夜はその声に促されドアを開ける。
「失礼します」
彼女は一礼をし、部屋の中へ入りドアの横に待機し、再び慧音に目配せする。
その視線に促され、慧音は、ごくっ、と一度唾を飲み込んでから部屋に足を踏み入れた。
それを見た咲夜が大きなドアを再びゆっくりと閉める。
かちゃ、と控えめな音が鳴った。
部屋は外見と同じく、壁紙から絨毯、家具や時計にいたるまで紅一色だった。
そんな紅い部屋のど真ん中にある机。
そこに当主であるレミリア・スカーレットは座っていた。
「ようこそ、紅魔館へ。この前は色々とお世話をしたわね。その恩返しに来てくれたのかしら?」
口につけていた、やけに紅い紅茶の入ったカップを机に置き、机の上に肘を乗せて笑みを浮かべる。
どうやら慧音をからかっているようだ。
「いや、そうじゃない。今日はレミリア・スカーレット、貴女に頼みごとがあってきたんだ」
慧音はそれを流し、単刀直入に用件を述べる。
慧音がこの館に足を踏み入れた時、既に何事にも屈しないという決意をしていたためだ。
だが、レミリアは慧音の言葉を聞くと露骨につまらなさそうな顔をする。
「つれないなぁ。あんたが私に願い事があってここに来たなんて最初から知っているに決まっているじゃない。そうじゃないとここまで通さないわよ。こういう時は言葉遊びに決まっているでしょ?全く、これだから頭の固い輩は……」
はぁ、と大げさにため息をつき、肩をすくめるレミリア。
どうやら彼女なりの楽しみだったらしい。
「すまない……そこまで頭が回らなかった」
自分に非は全くないはずなのに、慧音はつい頭を下げ謝ってしまう。
ここでレミリアの機嫌を損ねてはいけないという気持ちが強かったからだ。
しかし、その行動を見て更にレミリアは不機嫌になる。
「もう、この前の気迫もなくなっているなんて全然面白くないじゃない。興醒めだ」
はぁ……、とため息をつきじとーっとつまらなさそう慧音を見つめる。
しかしそれもつかの間の事で、レミリアの表情はすぐに外見不相応な威厳のあるものへと変わる。
「……で、私の能力のおかげで私はあんたがここに来ることを知っていたけど、実際何をしに来たのかは知らないわ。あんたは一体何をしに来たんだ?言ってみなさい」
レミリアはぐっ、と机に身を乗り出して慧音を見つめる。
彼女の表情には好奇心の三文字が見て取れた。
おそらく何しにきたのかを全く知らないというのは嘘だろう。
しかし、その瞳の奥にはほんの僅かだが真剣さを見て取れた。
慧音はそんなレミリアの不思議な瞳に誘われるように、妹紅の事をしゃべりだした。
慧音が話しを終えると同時に、レミリアは机に置いていた紅茶に口をつける。
すっかり冷め切ってしまった紅茶が、レミリアの喉をすーっと通っていく。
冷めてしまった紅茶ほどおいしくないものはない。
レミリアは咲夜に声をかけ、その紅茶を下げさせた。
咲夜はさめた紅茶を下げるのと同時に、熱い紅茶をレミリアに差し出す。
レミリアはそれを受け取り、ゆっくりと口をつける。
レミリアの一番好みな温度の紅茶が彼女の喉を通り、程よい香りが口の中に広がる。
その香りを堪能してから、再び慧音をじっと見る。
慧音は微動だにせず、レミリアのその行動をじっと見ていた。
カチ、カチ、カチ、カチ
壁にかかった紅い柱時計の秒針が動く音がやけに大きく聞こえる。
そして、レミリアの口がゆっくりと開く。
「まさかあの時の死なない人間がそんな目にあっているなんてね。ま、ある意味自業自得ね」
大げさな素振りで肩をすくませ、はぁ、とため息をつく。
「で、話から察するに、あんたはこの私にその死なない人間の運命を変えてもらうように頼みに来たって所でしょ?」
「そうだ……」
人差し指をびしっと慧音に向け、さも言い当てるかのように言うレミリア。
慧音はそれに無表情のままで答える。
「なるほどね……」
レミリアはそう答えた後、腕を組んで慧音をじっと見つめる。
なにもかも見透かしてしまうような視線。
レミリアの視線は、まさにそのものだった。
慧音はその視線に見つめられただけで、全身を束縛されてしまうような錯覚に陥ってしまった。
「……ねえ、悪魔との契約は等価交換っていうのは知っているかしら?」
「あ、ああ……悪魔と契約するにはそれ相応の報酬を払わないといけないというやつだろう……?」
レミリアはその視線でじっと慧音を見続けている。
そして慧音はその視線に捕らえられながらもなんとか口を動かす。
もしかしたらこの行動すら、レミリアに操られての行動かもしれないという感覚が慧音を襲う。
「そうよ。だったら話が早いわ」
ふっ、とレミリアは笑みをこぼす。
しかし、その笑みは少女の可愛らしい笑みではなく、猛獣が獲物を獲た時にもらすであろう笑みであった。
「もし、あんたがその妹紅とかを助けたければね、等価交換として、あんたの命を貰うわ」
ボーン、ボーン、ボーン
ちょうどその時、柱時計が鐘を鳴らしだしたのだった。
~12.彼女の選んだ道~
「私の……命……」
慧音の口からその言葉がゆっくりと紡ぎだされる。
もともと言葉というのは葉に書かれた文字を言うというのが語源である。
その語源のとおり、言葉は文字とは違い発音されて始めて意味を持つのだ。
レミリアと慧音が紡ぎだした言葉がゆっくりとその場を支配していく。
それほど言葉というものの力は大きく、時に残酷なのだ。
慧音の頭はその自分で紡いだ言葉で混乱しつつも、どこかで第三者としてその言葉を聞いているような錯覚に陥る。
カチッ、カチッ、カチッ、カチッ
時刻の数だけ鐘を鳴らし終えた柱時計は、再び秒針を刻んでいく。
その音が先ほどよりも大きく、だがゆっくりと刻んでいっているような気がする。
慧音はじっとレミリアを見たまま動けないでいる。
ふと彼女の視線はレミリアの後ろの窓に移る。
何時の間に上ったのだろうか。
そこには、ほんの少しだけかけた、満月に近い紅い月があった。
紅い悪魔と紅い月。
これほど似合う組み合わせは他にはないだろう。
そのあまりの美しさもあってか、先ほどの交換条件や今ここにいる事ですら幻想であるかのような感覚になる。
慧音の瞳に不穏な影が見え始める。
「私の命で……妹紅が助かる……」
「そうよ。あんたの命で私があんたの最愛の人が助ける……もう答えは決まっているでしょう?」
レミリアは先ほどの魅惑的な笑みを浮かべたまま、慧音を誘うように甘くつぶやく。
「私は……」
正直言うと、自分の命を捨てることはしたくない。
だが、自分の命をささげる以外に妹紅が助かる方法は存在するだろうか?
もし、ここでレミリアとの契約を破棄してしまったら、妹紅はもはや助からないのではないか?
そのような葛藤が慧音の頭の中を占めていく。
考えれば考えるほど他の考えが次々と浮かんできては消えていく。
そんな邪念を慧音は頭を振って振り払っていく。
そもそも私が紅魔館に来た理由はなんだったんだ!?
妹紅をなんとしてでも助ける為だろう!?
だったらどうするかは自ずと決まるじゃないか。
そう、何も怖がることはないんだ……
慧音は頭の中で自分に言い聞かせる。
大抵、一度腹をくくるとどんな状況でも物事を冷静に見ることができるようになる。
それはもちろん慧音も同じだった。
慧音は、ふぅ、と一息つき、視線をレミリアから天井に向けつつも体の力を抜く。
これで全てがうまくいき、妹紅が助かる。
その気持ちが今までごちゃごちゃになっていた慧音の頭を空っぽにしていく。
先ほどの恐怖心も躊躇いもすべて消え去ってしまった。
すべてのしがらみがなくなったあと、慧音の頭には妹紅の事だけが残った。
根は優しくて涙もろいのに、そのくせプライドが高いためにいつも強がり本当の表情を隠していた。
しかし慧音の前では、妹紅は包み隠さず本当の表情を見せていた。
その中でも慧音は妹紅の笑顔が一番好きだった。
その笑顔は慧音がいなくなったら誰に向くのだろうか?
「蓬莱の薬がなかったら私がこうして慧音に……私の一番大切な人に会うこともなかった」
ふと、慧音の脳裏に妹紅の言葉が蘇る。
様々な苦痛を引き起こした蓬莱の薬によって与えられた能力。
それの唯一もたらした幸せが自分だといってくれた妹紅。
その能力のせいで自分の命を奪ってしまうことになったら、妹紅はどう思うだろうか?
もし自分が逆の立場なら、そのような行動に出た妹紅をどう思うだろうか?
慧音は空っぽになってすっきりした頭で考えていく。
――なんだ、確かに答えは決まっていたじゃないか。
すぅ……と、息を吸い込み、再び視線をレミリアに向ける。
その瞳には先ほどの不穏な光はもはや見えず、しっかりとした光を宿していた。
彼女は自ら迷い込んだ迷宮からようやく抜け出すことが出来たのだった。
そして、それと同時に一つの決意をした。
「私は……その契約を受け入れることは出来ない」
慧音はしっかりとした言葉で伝える。
レミリアはその言葉を聞いて、少し驚いたような表情をする。
「へぇ……やっぱり自分が死ぬことに怖気ついたのかしら?妹紅ってやつはその程度の存在だったんだ」
そして口元に笑みを浮かべながらも、からかうような口調で慧音を挑発する。
しかし、彼女の瞳には冷たい残酷な光は潜んでいなかった。
「そうじゃない。ようやく……本当にようやく気づけたんだ。私の命と交換で妹紅の命を助けるということが無意味であるということに……」
その言葉にレミリアの眉が、ぴくっ、と反応する。
そして、レミリアの顔から先ほどのからかうような笑みが消え、真剣な表情へと変わっていく。
「……無意味って言うのはどういうことだ?」
今の発言が気に入らなかったのか、レミリアは無意識のうちに言葉の語尾が荒くなる。
「もし私が妹紅ならば、私は妹紅の命を犠牲にしてまでも生き延びたいとは思わない。そうされたら、絶対自分を嫌いになってしまう。きっと……いや、絶対に妹紅も同じように思うはずだ。ただ……それだけだ」
カタカタカタ、と、レミリアの目の前のカップが振動する。
レミリアから向けられる無言の圧力が見えない力として空気を震わせているのだ。
しかし、慧音はそれを真っ向から受け止め、しっかりと自分の思いを伝える。
心に迷いがなくなった今、彼女が恐れるものは何もない。
「それに……貴女は『妹紅を助ける』とだけ言って『妹紅が助かる』とは言っていない。まあ、助かるんだとしても、私の命と交換は出来ないけどな」
「……これ以外に妹紅を助ける方法がなかったとしても、それでもあんたは契約を結ばないの?このままだと妹紅は消滅するのよ?」
レミリアは慧音の瞳をじっと見つめたまま動かない。
しかし、それは先ほどの怒気は含んでおらず、一種の最終警告のようなものを含んでいた。
「ああ。例えこのまま妹紅が消滅してしまうことになっても、私は契約を結ばない」
慧音もそれを感じ取ってか、もう一度自分に言い聞かせるようにはっきりと言う。
「後悔しても遅いわよ?」
「契約をして後悔するよりかはましだ」
今までの仕返しか、慧音は少し皮肉をこめた言い方をする。
二人は一言もしゃべらずに見つめあう。
一瞬、紅い部屋の中に緊張がはしる。
「ふふ、ははは……あははははははははははははははははは!!」
しかし、その緊張はレミリアの笑い声によってかき消されてしまった。
急に狂ったかのように笑い出すレミリア。
彼女の急な変化に慧音は思わず呆然としてしまう。
そして、彼女の専属メイドである咲夜でさえも、その様子にほんの少しだが驚いた表情を見せていた。
部屋の中にはレミリアの笑い声のみが響く。
しばらくすると、次第に笑い声が小さくなっていく。
「はは……私が契約を提示した連中の中で……あんたのような奴は今まで一人もいなかったわよ」
目じりに涙を浮かべながらも、必至に笑いを抑えこもうとするレミリア。
その笑いのせいで、先ほどまでの緊迫した雰囲気は一気に台無しになってしまった。
「あんたは馬鹿。馬鹿に正直すぎる……本当に馬鹿だ……」
レミリアは手で目を覆い、天井を仰ぐ。
その口元には依然笑みが刻まれている。
慧音は、そんなレミリアの様子をただただ見ている事しか出来なかった。
「契約は無効。私はあんたのような『馬鹿で妙に物分りのいい奴』は嫌いだ。さっさと帰って妹紅とか言う奴の側にずっとついて自分の無力を感じてなさい」
目を覆っていた手をどけ、最初と同じようにカップを取り口を付けつつもレミリアはぶっきらぼうに言う。
その目元は微かに赤くなっていた。
一口紅茶を喉に流し込んでから、ぱんっ、とレミリアは手を叩く。
すると、ほんの数秒後に部屋のドアが開き一人のメイドが入ってきた。
「そいつを門まで連れて行け」
レミリアはそうメイドに命令し、椅子ごと窓のほうに向いてしまう。
レミリアに命令されたメイドはじっとレミリアの後姿を見ている慧音をチラッと横目で見てから
「ついてきてください」
と、一言言ってから歩き出す。
慧音は暫くレミリアを見ていたが、彼女振り返ったりする様子もなかったのでメイドの後についていく。
と、慧音が部屋から出ようとしたその時、
「……今から私が言うのは独り言よ。あんたには関係ないからね」
レミリアが背を向けたまま言う。
その言葉に慧音の足は止まり、再びレミリアのほうを見る。
「消滅の運命はどんな生物にも必然。この世に存在するものは必ず消滅する時が来る。それに逆らおうとするなら必ずそれ相応の代償を払わないといけない。それが自然の摂理よ……」
レミリアの言葉が途切れる。
その言葉は今回の出来事の終焉を表していた。
暫くしてレミリアがゆっくりと振り返る。
「……何をしているのよ。さっさと帰りなさい。でないと本当に命を貰うわよ?」
その言葉に慧音は、はっ、として、部屋の外で待機しているメイドの側まで行く。
その途中、部屋を出る前にもう一度レミリアに振り返り、
「本当に世話になった。色々とありがとう」
と、一言だけいい、軽く頭を下げてから再びメイドについていく。
かちゃっ、とゆっくりと扉が閉まる。
紅い部屋にはレミリアと咲夜しかいなくなった。
暫くして、はぁ……とレミリアは大きくため息をつく。
「命をとろうとした相手から『ありがとう』といわれるなんて……情けないわ」
苦笑しながらもレミリアはコップを一気に傾けて、冷めてしまった紅茶を全部飲み干す。
喉を冷たい塊が通っていく。
「いえ……そんなことありませんわ。お嬢様は立派で……」
――そして心優しいですわ。
そう言おうとして咲夜は口を噤む。
咲夜は気づいていたのだ。
レミリアが最初から慧音の命を取ろうとは思っていなかったことに。
レミリアが慧音に一つの事に気づかせるためだけに、このような芝居を打っていたことに。
そして、それを無意識のうちにレミリア自身にも言い聞かせていたことに。
レミリアの紅茶が空になったので、咲夜は再び熱い紅茶をコップに注ぐ。
香り良い湯気が優しくレミリアと咲夜を包み込んでいく。
レミリアはゆっくりと紅茶を口に含み、その味を確かめる。
「ところで咲夜、明日のことだけど……」
先ほどの事がなかったかのように、咲夜にだけ見せる笑顔を浮かべながらも話し出すレミリア。
そんな彼女を見て咲夜は、再度決意したのであった。
――自分の命が消え耐えるその時まで、ずっとお嬢様の側にいよう。
と。
~続く~