2090年12月31日
AM6:45
「んー…」
冷たい空気に満たされた部屋でマエリベリー・ハーンは目を覚ました。
室温は13度まで下がっている。外は相当冷えているらしい。京都の冬の寒さはしばし底冷えと称されるが今日は特別だ。室内でもここまで寒いとは。
一昨日からの十年に一度レベルの寒波は京都にも容赦なく襲い掛かった。
布団の中でもぞもぞと部屋着に着替えて二重のカーテンを恐る恐るめくって見てみると、部屋の前の御蔭通は真っ白だった。降り積もった雪が日の出前の薄明の中で青白く光っている。
南の空に雲はほとんどなかったが、昨日の昼から夜中にかけて降った雪が残っているのだろう。早朝という事で歩道にはまだ人が歩いた形跡がほとんどなく、青白く滑らかな雪面が続いていた。
AM7:01
「うう…寒っ!」
宇佐見蓮子は一瞬布団を出たが、あまりの寒さで再び布団に潜り込んだ。アパートの近くの踏切のカンカンという音、車が融けかけた雪道を走るぐしゃぐしゃという音が冷え切った暗い部屋に響く。どうやらかなり冷え込んだようだ。
布団の中からテレビのリモコンに手を伸ばすと辛うじて届いた。
テレビを付けてみると、大晦日だというのにテレビでは日本を襲っている猛烈な寒波の被害のニュースをやっていた。岐阜県で山間の集落が孤立、福井県で新幹線が吹雪の中立ち往生、岡山と広島で積雪が15cm越え…
幸い蓮子は今のところ致命的な寒波の被害は受けていない。被害と言えば布団から出られなかったために二度寝してしまい、家を出るのが遅れたぐらいだった。いつものことである。
AM9:48
「18分26秒の遅刻。いつもより随分派手に遅刻したわね」
蓮子が出町柳駅の改札の前に行くと薄茶色のロングコートに身を包んだメリーが待っていた。地下の改札とはいえ、この寒い中で待たされたのだから引き攣った笑顔を浮かべるのも無理はない。
「ごめんごめん、雪でバスが遅れて…」
「残念ながらバスは地下を走ってるから雪は関係ないわね。それに蓮子は電車で来たんじゃないの?ついでに言うと電車もいつも通り動いてたわ」
完全に論破された。
「うう、ごめんなさい…」
「しょうがないわね、その素直な態度に免じて許してあげましょう」
「わーい」
駅構内には年末年始ムードが漂っている。壁には年末年始フリー切符や沿線の寺社の初詣の広告が何枚も貼られている。
師走という言葉に似つかわしい忙しそうな人々や家族連れに混じって電車に乗り河原町へ向かう。車内は混雑しており空席はなかったので一番後ろの車両のドアの近くに陣取る。
河原町に行く目的は買い物、と言っても特に欲しいものがあるわけでもなく、なんとなく年末気分を味わいに行っているだけのようなものである。
蓮子もメリーも去年末はそれぞれの実家に帰っていたが、今年はどちらも人の移動が多い時に帰省するのは面倒だし、せっかくなので京都の正月も体験しておきたいという理由で実家に帰省しなかった。今年の大晦日はメリーのアパートに集まって2人で年を越して初詣に行こうということになっている。
ただし、今年に限って言えば帰省した方が良かったかもしれないと蓮子は思った。なにしろ、大雪に見舞われている西日本に対して東京はしばらく暖かい日が続いているようだったからだ。
「蓮子は東京だからいいけど、私の実家は寒いのよ?こんな時に帰省したら凍え死んじゃうわ」
「じゃあまた春みたいに私の実家に一緒に来ればいいじゃない。うちは正月には親戚がみんな集まるから騒がしいわよ」
「あら楽しそうね。一度東京の正月も体験してみたいわ。向こうでは正月に冥界詣なんてやるのかしら?」
「そんな彼岸じゃないんだから。東京では正月に四角い餅を食べるし、今でも豪華なおせちを皆でつつくのよ。」
「うちでも豪華なおせちは食べてたわ。」
「そりゃメリーの家はセレブだからじゃない?」
「セレブですわ」
車窓には古代の川端通の風景が流れるわけでもなく、ひたすら続く黒い壁を眺めながら話しているうちに列車は河原町の東の玄関口、祇園四条駅に滑り込んだ。大勢の人が列車を降り、ホームの大勢の客が列車に乗り込んでいく。2人は列車から出ていく流れに流されながら北風の吹きつける地上へ上がった。
AM10:02
河原町は今も昔も京都一の繁華街である。
日本の首都を代表する繁華街とは言え、このあたり一帯は建築物の高さが31mまでに制限されているため、旧都東京のような高層ビルは見られない。通りに沿ってそれほど高くもないビルが並んでいるだけなのでのっぺりした印象を受ける。
京都は昔から景観を守るために高い建築物はほとんど作られなかった。今でも残る高層建築と言えば京都タワーと東寺の五重塔ぐらいである。遷都の際に規制を緩和してはどうかという話が出たが、結局緩和されることはなく、そのこともあってか現在でも京都市自体の人口は250万人に届かない。多くの人々は京都府南部に建設された住宅街や、大阪などの近隣の都市に住んでいる。
交通量が多く融雪剤が撒かれた四条通にはさすがに道路の雪は残っていなかった。鴨川を渡れば歩道には屋根がついているので足元に雪は積もっていない。
ただでさえ通りを行き交う人の数が多いのにこう寒いと誰もが着膨れているのでさらに密度が高く感じる。
道沿いの店には既に正月飾りがぶら下がっていた。
「こういうのを見ると年末って感じがするのよね。この雰囲気好きよ」
「でも偽物の門松に偽物の橙がついたしめ縄ってなんか味気ないわ」
「蓮子は橙を食べたいだけなんじゃないの?」
「本物のなら是非とも食べてみたいわよ。合成ミカンは甘さが足りないわ」
「ミカンと橙は全然別物よ。それに橙は酸味と苦みが強いからそのままじゃ食べられないの」
合成食料の技術が確立されて食料が世界中の人間に行き渡って世界中どこの国も豊かになった。紛争も病人も減り、経済は発展し、出生率が下がったことでパンクしかかっていた世界人口は減少に転じた。
合成食料技術は世界を豊かにしたが、同時に世界中を偽物で埋め尽くしたとも言われた。今では天然の食品は高級品として扱われていて、手に入れる機会も大幅に減少したため本物の食べ物の味をほとんど知らない人は少なくない。そのことに警鐘を鳴らす学者もいたが、果たして合成食料技術とは世界を豊かにしたのか、はたまた人々の心を貧しくしたのか。
「あっ、メリー!そこのデパートで年末セールやってるみたいよ!」
「セールなら初売りの方が安いんじゃないの?」
「ちっちっち。こういうのは決算があるから年末の方が初売りよりも安いことがあるの。だから行くわよ、いざバーゲンへ!」
「はあ…」
1時間後、そこには大きな紙袋を2つ提げた蓮子がいたのであった。
PM1:15
「お腹も膨れたし、夕方からまた雪降るらしいから寒くなる前に帰りましょうか。」
「ねえ、せっかくだからどこかで雪で遊んでかない?」
「…その荷物でよく言えるわね…」
「う…」
雪化粧をした東山が河原町のビル街の向こう側に見える。空は再びどんよりとした雲に覆われていた。数羽の烏が鳴きながら灰色の空を飛んでいく。予報では夕方からまた雪が降ると言っていたが今にも雪が降ってきそうだ。
今年は京都で初日の出を拝むのは難しそうだ。
四条大橋の上は北から吹き付ける風が当たって寒い。夏には川床とカップルが並ぶ鴨川の河川敷も融けかかった雪で覆われている。鞍馬方面の山々は既に雲の中だ。そのずっと手前にはかつての東海道の終点、歌川広重が東海道五十三次の55枚目として描いた三条大橋が架かっている。
さすがに年末ともなれば大抵の人間は地元に帰省してしまうので、橋の上を歩く人は地元の家族連れか観光客が多い。それに紛れてクリスマスも過ぎたというのにマフラーを恋人巻きにしていちゃつく若いカップルもちらほら見られる。地元民なのか、はたまた帰省せずに二人で新年を迎えるつもりなのか。
「ねえ、私たちもマフラー恋人巻きにする?」
「…ちょっと恥ずかしいからここではやめとこう」
こちらを向いたまま少々残念そうな表情をするメリーの冷たい金髪が北風に流されて蓮子の顔にかかる。
電車とバスを乗り継いでメリーの家の近くまで戻って来たときには既に再び雪がちらつき始めていた。
PM2:31
「あー寒かった。ただいまー」
「蓮子の家じゃないからただいまはおかしいわよ」
「えーだってなんかメリーの部屋に来ると落ち着くのよね。それにここんとこずっとここに泊ってたから自分の部屋みたいな安心感があるわ」
「もう…」
そう言ってメリーは笑った。
蓮子は自分の部屋には物が多くて狭いからとか、一人だと寂しいからと言ってよくメリーの部屋に寝泊まりしている。元田中駅前の築30年のワンルームの蓮子と違って、メリーは大学のすぐ裏のアパートの1LDKに住んでいるのだ。
最初の頃はいくら親友同士とはいえ、メリーの部屋に来れば一応遠慮していた蓮子だったが、大学のすぐ裏ということで遅くまで大学に残った日はメリーのアパートに直行するようになり、そのうちに着替え一式や生活用品まで置くようになり、今では週に2~3日はここで生活している。
そんな蓮子をメリーはよく通い妻だとからかったりしていたが、蓮子はそれを聞く度に恥ずかしそうに笑うのだった。そして、メリーも少し照れたような様子でそれを言うのだった。
近所のスーパーで買ってきた食料を冷蔵庫に入れて居間の真ん中のこたつに入る。
古典的な暖の取り方だが、やはり冬はこれが一番である。エアコンよりも電気代はかからないし、それにみかんが美味い。
テレビではそれほど面白くもない年末特番のバラエティ番組をやっている。いつも通りの年末の風景である。
「メリー、こたつ狭くない?二人で使うんだしもっと大きいのを…」
「あら、狭い方が暖かみを感じられるわよ?こうやって足を…」
メリーの素足が蓮子のスカートの中に侵入し、太ももに襲い掛かる。柔らかな足裏を太ももに擦りつけられた蓮子がその冷たさに悶える。
「ひゃっ!ちょっとメリーの足冷たいー。っていうか寒いのになんで靴下脱いでるのよ」
「だから蓮子の暖かみが欲しいの」
「もう、冷たいわよこの雪女!」
「ふふ、小泉八雲の雪女伝説によると雪女は樵との間に10人子供を授かったそうよ。私が雪女なら蓮子は樵ね」
「つ、都合良いように解釈するな!」
炬燵の中で二人が足を絡ませて暴れたので、天板の上でみかんがころころと転がった。
PM7:23
「年越し蕎麦できたわよ」
メリーが作る蕎麦は京都名物にしんそばだった。といっても所詮、合成の蕎麦に合成のにしんを乗せたものだからもはや京都名物と言えるのかどうか。
関西風の薄目の出汁に浸った蕎麦を勢いよくすする。食材が合成になっても名物や郷土料理という文化はあるもので、東京生まれの蓮子からすれば出汁の透き通った蕎麦は食べ慣れない食べ物だった。しかし、飲み干せるほどあっさりとした出汁の味は嫌いじゃないし、何よりメリーが自分のために作ってくれていることが蓮子は嬉しかった。
「年越し蕎麦って元々年が明ける直前に夜食として食べてたのに今じゃ大晦日の夕食に食べるのが普通になってるわね」
「夜8時以降に食事したら太るしね。まあ忙しい大学生にはそんな理屈は通用しませんけど。カップ麺万歳ですわ」
「大丈夫よ。うちに来れば私がちゃんと愛情のこもった健康食を作ってあげる」
「メリーが健康食って言ったらなんかちょっと怖い感じがするなあ。ヘビの抜け殻とか入れない?」
「入れるならせいぜいウミヘビかすっぽんぐらいね」
「メリーいつから沖縄人になったの?」
当然メリーは沖縄人ではない。日本人とイギリス人のハーフである。名前は西洋風だが、顔立ちはどちらかと言えば東洋風だし、ずっと日本で生まれ育ってきたから日本語もペラペラで日本の文化に慣れ親しんでいる。ちなみに金髪なのは染めているだけで、元は茶髪らしい。
テレビをつければもはや年末の風物詩と化した年末恒例の歌番組が放送されている。21世紀も終わりが近いというのに現代日本は20世紀の慣習を多く受け継いでいる。
時代は進んで科学世紀と呼ばれる世の中になり、世界中の人々が豊かになって誰でも(お金があれば)宇宙に行ける時代になったが、それでも大抵の日本人は大晦日にはテレビを見ながら蕎麦を食べ、年が明ければ寺社に詣でて形だけのおせち料理を食べる。世の中そうそう変わらない物である。
「それにしても雪結構降ってきたわね…」
「…こんな中で初詣に行ったら死んじゃうから、初詣は朝になってからにしましょう」
「そうね」
PM9:10
「蓮子、お風呂湧いたから先入っていいわよ」
「ん、じゃあ入ってくるね」
メリーの部屋は風呂もユニットバスではない。トイレに水を掛ける心配も浴槽の中で体を洗う必要もないのを蓮子は常々羨ましく思っている。
浴槽から出れば床には床暖房がついているから体を洗うにも足が冷たくない。ハイテクである。もちろん築30年の蓮子のアパートの風呂場にはそんな機能はついていない。このことも特に冬場に蓮子をメリーの家に惹きつける要因であった。
こんな寒い日は風呂に入って温まるのが一番である。大学に遅くまで残り、疲れて帰ってきた夜にはすぐに風呂場へ向かいたっぷりとお湯を溜め、そこに肩まで浸かればそれだけで幸せを感じられる。こんなことができるのも日本人の特権だ。
自分のアパートの風呂でも気持ちいいが、メリーの部屋の深めの湯船は魅力的である。足を伸ばしても十分肩まで浸かることができる。長身のメリーだったらこれでも肩が出てしまうのだろうか。
セレブなメリーさんはシャンプーも高級な物を使って…はいない。いや、以前はちょっと高めのを使っていたが、いつの間にか蓮子が使っているものと同じ安物のシャンプーを使うようになっていた。それを見て蓮子はメリーの経済状況を勝手に心配したり、高級シャンプーが使えなくなって少々残念に思ったりはしていたが、メリーの真意に気づくことはなかった…
「メリー、風呂空いたわよ」
「すぐ入るわー」
居間の隣には和室が続いている。
風呂に入っている間にメリーが布団を敷いてくれたらしい。模造井草が敷き詰められている和室は、布団を横に3枚ほど並べて部屋の幅になる程度の広さがあり、その部屋の真ん中に2人分の布団が固められている。
冬場は1枚しかない電気布団を2人で使うので仕方がないが、なぜか夏でも広い部屋の真ん中に2枚の布団は固めて敷かれる。おかげで寝ている間に、寝相の悪い蓮子にメリーが蹴っ飛ばされたり、殴られたり、朝になると蓮子がメリーの布団に侵入していることは日常茶飯事である。
いくら生活用品を常駐させているとは言え、さすがに数百m離れたアパートから布団を持ってくる訳にはいかないので蓮子は来客用の布団を使っている。来客用と言っても泊まりに来るような客が蓮子以外にいないのでもはや蓮子専用布団と化しているのだが。
突然風呂でバタバタという音がした。
蓮子が慌てて風呂場に行って扉を開けてみると、メリーが浴槽の縁に掴まって垂れた首を持ち上げようとしていた。湯の中から引き上げられた金色の髪の毛から水が滴り落ちていた。
「メリー!?どうしたの!?」
「あ、蓮子…風呂に入ろうとしたら足滑らしちゃって…」
「…足滑らしたんじゃなくて、また風呂のお湯飲もうとしたのね…人が入った後の風呂の湯を飲むなって言ったでしょ」
「えーだってー」
「風呂のお湯は汚いんだから飲んじゃダメ!」
せっかくのセレブを台無しにしないためにも、メリーさんには風呂の湯を口にしないで欲しいと思う蓮子であった。
PM10:29
雪は相変わらず降り続けており、道を白く染め続けている。明日の朝は今朝以上の積雪になるだろう。
部屋が冷え込んできたので暖房をつけた。
「蓮子は来年の抱負とかある?」
「来年ねえ…来年はもっと秘封倶楽部の活動を充実させたいよね。2人で色んなところに行ってみたいわ。今度は遠野でも行ってみる?」
「四国に行ってお遍路なんてのも楽しそうね」
「あと、とりあえず単位を落とさないことかしら」
「私もそれだわ。まあ落としたことないけど」
「私も落としたことないけど一応転ばぬ先の杖ってことでね。あと天然の食品を食べたいのと、なんとかして月に行ってみたい。それともっと広いアパートに移りたい」
「蓮子は欲の塊ね。除夜の鐘で煩悩を全部落としなさい」
「メリーに言われたくないわね。あ、あと…メリーとずっと一緒に居られますようにってのも…」
2人の顔がみるみる赤くなる。それは暖房から吐き出される暖かい空気に直接当たったからではなかった。
「…私も蓮子と一緒に居られることを願うわ。ふふっ」
もはや新年の抱負ではなくただの願い事であった。
PM11:56
「今年ももう終わりなのねー。色々あったけど早かったなあ」
「年々時間が過ぎるのが早くなって行って自分が老化していくのを感じるわ」
「ねえ、年の境界ってメリーにはどういう風に見えてるの?」
「何も見えないわよ」
「ふーん、暦の変わり目じゃ何も見えないのか。節分に鬼が見えたりしたら面白いのに」
「鬼?見たことあるわよ。前に夢の中から筍持って帰ってきたときに」
「じゃあ今度夢の中で鬼に会ったら角でも持って帰って来てよ」
「あのね、鬼は鹿じゃないの」
「鬼の首でもいいわよ。リアル鬼の首を取ったようなメリーさん。あはは」
「乙女だから鬼の生首なんて見たら気を失っちゃうに決まってるでしょ」
「あ!年が明けたわ!」
2091年1月1日
0時ジャスト―
窓の外で近所の寺の鐘が鳴り響く。鴨川の河川敷から年明けと同時に打ち上げ花火が打ち上げられる音がする。近くの部屋で学生の集団が騒いでいる。
「明けましておめでとうございます」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします。メリー」
「また1つ年を取ってしまうわね」
「誕生日はまだまだ先よ」
炬燵で向かい合って白々しい挨拶を交わす。ずっと向かい合って座っていた相手にいきなり新年の挨拶をするというのも少々気恥ずかしい。
AM0:09
「早起きして初詣行きたいし、年明けも見届けたから寝よっか」
「あー寒い。暖かい布団に早く入りたいわ」
暖房をつけていても窓から微妙に冷気が漂ってきて寒い。
布団に入ってしまえば断熱効果の高い毛布が体温を捕まえて布団の中を暖めていく。
部屋の明かりを消してからも二人の会話は布団の中で続く。
「寒い年明けになったわね」
「来年はもっと暖かいところで年を越したいわ。いっそ海外でも行っちゃう?」
「海外に行くぐらいなら月に行きたいわ。でも月って夜は冷えるんだろうなあ」
「-170℃だから南極に行くよりもずっと寒い。しかも夜は15日間も続くし」
「そんな寒いところに住んでる月の兎ってどんな毛皮なのかしら。それでコートなんか作ったら売れるんじゃない?」
「肉厚でおいしそうね。月に住んでる兎ってワシントン条約で保護されてたりしないかしら」
風が窓を揺らしている。本当に今年はとんだ寒い正月になった。朝になったら雪は止んでるだろうか?
これだけ雪が降ったらただでさえ初詣客が多いのに市内の交通は混乱するだろう。いっそ寝正月にしてしまった方がいいのかもしれない。なんのために帰省せずに京都で年を越したのか分からないが。せめて近所にある田中神社ぐらいは行くことにしよう。
「メリーの布団暖かいー。ずるいー」
「いいわよ、入って来ても」
「やったー。ねえメリー、寒いから手握っていい?」
「手冷たっ!蓮子冷え性?」
「昼間のお返しよ。はあ…人間のぬくもりを感じるわ。ちょっと妖怪臭いけど」
「私は正真正銘の人間よ。人を取って食ったりしませんわ」
「境界が見える時点で十分妖怪っぽいわ」
「じゃあ蓮子を食べちゃうわよ?」
「…アレな意味に聞こえちゃうわね」
「…」
しばらくの沈黙の後、メリーが布団に被ったまま蓮子に近づく。こういうときはあれだ。いつも通り―
ちゅっ
「おやすみ、蓮子」
「ん、おやすみ」
今年も一緒にいられるようにと願う二人であった。
AM6:45
「んー…」
冷たい空気に満たされた部屋でマエリベリー・ハーンは目を覚ました。
室温は13度まで下がっている。外は相当冷えているらしい。京都の冬の寒さはしばし底冷えと称されるが今日は特別だ。室内でもここまで寒いとは。
一昨日からの十年に一度レベルの寒波は京都にも容赦なく襲い掛かった。
布団の中でもぞもぞと部屋着に着替えて二重のカーテンを恐る恐るめくって見てみると、部屋の前の御蔭通は真っ白だった。降り積もった雪が日の出前の薄明の中で青白く光っている。
南の空に雲はほとんどなかったが、昨日の昼から夜中にかけて降った雪が残っているのだろう。早朝という事で歩道にはまだ人が歩いた形跡がほとんどなく、青白く滑らかな雪面が続いていた。
AM7:01
「うう…寒っ!」
宇佐見蓮子は一瞬布団を出たが、あまりの寒さで再び布団に潜り込んだ。アパートの近くの踏切のカンカンという音、車が融けかけた雪道を走るぐしゃぐしゃという音が冷え切った暗い部屋に響く。どうやらかなり冷え込んだようだ。
布団の中からテレビのリモコンに手を伸ばすと辛うじて届いた。
テレビを付けてみると、大晦日だというのにテレビでは日本を襲っている猛烈な寒波の被害のニュースをやっていた。岐阜県で山間の集落が孤立、福井県で新幹線が吹雪の中立ち往生、岡山と広島で積雪が15cm越え…
幸い蓮子は今のところ致命的な寒波の被害は受けていない。被害と言えば布団から出られなかったために二度寝してしまい、家を出るのが遅れたぐらいだった。いつものことである。
AM9:48
「18分26秒の遅刻。いつもより随分派手に遅刻したわね」
蓮子が出町柳駅の改札の前に行くと薄茶色のロングコートに身を包んだメリーが待っていた。地下の改札とはいえ、この寒い中で待たされたのだから引き攣った笑顔を浮かべるのも無理はない。
「ごめんごめん、雪でバスが遅れて…」
「残念ながらバスは地下を走ってるから雪は関係ないわね。それに蓮子は電車で来たんじゃないの?ついでに言うと電車もいつも通り動いてたわ」
完全に論破された。
「うう、ごめんなさい…」
「しょうがないわね、その素直な態度に免じて許してあげましょう」
「わーい」
駅構内には年末年始ムードが漂っている。壁には年末年始フリー切符や沿線の寺社の初詣の広告が何枚も貼られている。
師走という言葉に似つかわしい忙しそうな人々や家族連れに混じって電車に乗り河原町へ向かう。車内は混雑しており空席はなかったので一番後ろの車両のドアの近くに陣取る。
河原町に行く目的は買い物、と言っても特に欲しいものがあるわけでもなく、なんとなく年末気分を味わいに行っているだけのようなものである。
蓮子もメリーも去年末はそれぞれの実家に帰っていたが、今年はどちらも人の移動が多い時に帰省するのは面倒だし、せっかくなので京都の正月も体験しておきたいという理由で実家に帰省しなかった。今年の大晦日はメリーのアパートに集まって2人で年を越して初詣に行こうということになっている。
ただし、今年に限って言えば帰省した方が良かったかもしれないと蓮子は思った。なにしろ、大雪に見舞われている西日本に対して東京はしばらく暖かい日が続いているようだったからだ。
「蓮子は東京だからいいけど、私の実家は寒いのよ?こんな時に帰省したら凍え死んじゃうわ」
「じゃあまた春みたいに私の実家に一緒に来ればいいじゃない。うちは正月には親戚がみんな集まるから騒がしいわよ」
「あら楽しそうね。一度東京の正月も体験してみたいわ。向こうでは正月に冥界詣なんてやるのかしら?」
「そんな彼岸じゃないんだから。東京では正月に四角い餅を食べるし、今でも豪華なおせちを皆でつつくのよ。」
「うちでも豪華なおせちは食べてたわ。」
「そりゃメリーの家はセレブだからじゃない?」
「セレブですわ」
車窓には古代の川端通の風景が流れるわけでもなく、ひたすら続く黒い壁を眺めながら話しているうちに列車は河原町の東の玄関口、祇園四条駅に滑り込んだ。大勢の人が列車を降り、ホームの大勢の客が列車に乗り込んでいく。2人は列車から出ていく流れに流されながら北風の吹きつける地上へ上がった。
AM10:02
河原町は今も昔も京都一の繁華街である。
日本の首都を代表する繁華街とは言え、このあたり一帯は建築物の高さが31mまでに制限されているため、旧都東京のような高層ビルは見られない。通りに沿ってそれほど高くもないビルが並んでいるだけなのでのっぺりした印象を受ける。
京都は昔から景観を守るために高い建築物はほとんど作られなかった。今でも残る高層建築と言えば京都タワーと東寺の五重塔ぐらいである。遷都の際に規制を緩和してはどうかという話が出たが、結局緩和されることはなく、そのこともあってか現在でも京都市自体の人口は250万人に届かない。多くの人々は京都府南部に建設された住宅街や、大阪などの近隣の都市に住んでいる。
交通量が多く融雪剤が撒かれた四条通にはさすがに道路の雪は残っていなかった。鴨川を渡れば歩道には屋根がついているので足元に雪は積もっていない。
ただでさえ通りを行き交う人の数が多いのにこう寒いと誰もが着膨れているのでさらに密度が高く感じる。
道沿いの店には既に正月飾りがぶら下がっていた。
「こういうのを見ると年末って感じがするのよね。この雰囲気好きよ」
「でも偽物の門松に偽物の橙がついたしめ縄ってなんか味気ないわ」
「蓮子は橙を食べたいだけなんじゃないの?」
「本物のなら是非とも食べてみたいわよ。合成ミカンは甘さが足りないわ」
「ミカンと橙は全然別物よ。それに橙は酸味と苦みが強いからそのままじゃ食べられないの」
合成食料の技術が確立されて食料が世界中の人間に行き渡って世界中どこの国も豊かになった。紛争も病人も減り、経済は発展し、出生率が下がったことでパンクしかかっていた世界人口は減少に転じた。
合成食料技術は世界を豊かにしたが、同時に世界中を偽物で埋め尽くしたとも言われた。今では天然の食品は高級品として扱われていて、手に入れる機会も大幅に減少したため本物の食べ物の味をほとんど知らない人は少なくない。そのことに警鐘を鳴らす学者もいたが、果たして合成食料技術とは世界を豊かにしたのか、はたまた人々の心を貧しくしたのか。
「あっ、メリー!そこのデパートで年末セールやってるみたいよ!」
「セールなら初売りの方が安いんじゃないの?」
「ちっちっち。こういうのは決算があるから年末の方が初売りよりも安いことがあるの。だから行くわよ、いざバーゲンへ!」
「はあ…」
1時間後、そこには大きな紙袋を2つ提げた蓮子がいたのであった。
PM1:15
「お腹も膨れたし、夕方からまた雪降るらしいから寒くなる前に帰りましょうか。」
「ねえ、せっかくだからどこかで雪で遊んでかない?」
「…その荷物でよく言えるわね…」
「う…」
雪化粧をした東山が河原町のビル街の向こう側に見える。空は再びどんよりとした雲に覆われていた。数羽の烏が鳴きながら灰色の空を飛んでいく。予報では夕方からまた雪が降ると言っていたが今にも雪が降ってきそうだ。
今年は京都で初日の出を拝むのは難しそうだ。
四条大橋の上は北から吹き付ける風が当たって寒い。夏には川床とカップルが並ぶ鴨川の河川敷も融けかかった雪で覆われている。鞍馬方面の山々は既に雲の中だ。そのずっと手前にはかつての東海道の終点、歌川広重が東海道五十三次の55枚目として描いた三条大橋が架かっている。
さすがに年末ともなれば大抵の人間は地元に帰省してしまうので、橋の上を歩く人は地元の家族連れか観光客が多い。それに紛れてクリスマスも過ぎたというのにマフラーを恋人巻きにしていちゃつく若いカップルもちらほら見られる。地元民なのか、はたまた帰省せずに二人で新年を迎えるつもりなのか。
「ねえ、私たちもマフラー恋人巻きにする?」
「…ちょっと恥ずかしいからここではやめとこう」
こちらを向いたまま少々残念そうな表情をするメリーの冷たい金髪が北風に流されて蓮子の顔にかかる。
電車とバスを乗り継いでメリーの家の近くまで戻って来たときには既に再び雪がちらつき始めていた。
PM2:31
「あー寒かった。ただいまー」
「蓮子の家じゃないからただいまはおかしいわよ」
「えーだってなんかメリーの部屋に来ると落ち着くのよね。それにここんとこずっとここに泊ってたから自分の部屋みたいな安心感があるわ」
「もう…」
そう言ってメリーは笑った。
蓮子は自分の部屋には物が多くて狭いからとか、一人だと寂しいからと言ってよくメリーの部屋に寝泊まりしている。元田中駅前の築30年のワンルームの蓮子と違って、メリーは大学のすぐ裏のアパートの1LDKに住んでいるのだ。
最初の頃はいくら親友同士とはいえ、メリーの部屋に来れば一応遠慮していた蓮子だったが、大学のすぐ裏ということで遅くまで大学に残った日はメリーのアパートに直行するようになり、そのうちに着替え一式や生活用品まで置くようになり、今では週に2~3日はここで生活している。
そんな蓮子をメリーはよく通い妻だとからかったりしていたが、蓮子はそれを聞く度に恥ずかしそうに笑うのだった。そして、メリーも少し照れたような様子でそれを言うのだった。
近所のスーパーで買ってきた食料を冷蔵庫に入れて居間の真ん中のこたつに入る。
古典的な暖の取り方だが、やはり冬はこれが一番である。エアコンよりも電気代はかからないし、それにみかんが美味い。
テレビではそれほど面白くもない年末特番のバラエティ番組をやっている。いつも通りの年末の風景である。
「メリー、こたつ狭くない?二人で使うんだしもっと大きいのを…」
「あら、狭い方が暖かみを感じられるわよ?こうやって足を…」
メリーの素足が蓮子のスカートの中に侵入し、太ももに襲い掛かる。柔らかな足裏を太ももに擦りつけられた蓮子がその冷たさに悶える。
「ひゃっ!ちょっとメリーの足冷たいー。っていうか寒いのになんで靴下脱いでるのよ」
「だから蓮子の暖かみが欲しいの」
「もう、冷たいわよこの雪女!」
「ふふ、小泉八雲の雪女伝説によると雪女は樵との間に10人子供を授かったそうよ。私が雪女なら蓮子は樵ね」
「つ、都合良いように解釈するな!」
炬燵の中で二人が足を絡ませて暴れたので、天板の上でみかんがころころと転がった。
PM7:23
「年越し蕎麦できたわよ」
メリーが作る蕎麦は京都名物にしんそばだった。といっても所詮、合成の蕎麦に合成のにしんを乗せたものだからもはや京都名物と言えるのかどうか。
関西風の薄目の出汁に浸った蕎麦を勢いよくすする。食材が合成になっても名物や郷土料理という文化はあるもので、東京生まれの蓮子からすれば出汁の透き通った蕎麦は食べ慣れない食べ物だった。しかし、飲み干せるほどあっさりとした出汁の味は嫌いじゃないし、何よりメリーが自分のために作ってくれていることが蓮子は嬉しかった。
「年越し蕎麦って元々年が明ける直前に夜食として食べてたのに今じゃ大晦日の夕食に食べるのが普通になってるわね」
「夜8時以降に食事したら太るしね。まあ忙しい大学生にはそんな理屈は通用しませんけど。カップ麺万歳ですわ」
「大丈夫よ。うちに来れば私がちゃんと愛情のこもった健康食を作ってあげる」
「メリーが健康食って言ったらなんかちょっと怖い感じがするなあ。ヘビの抜け殻とか入れない?」
「入れるならせいぜいウミヘビかすっぽんぐらいね」
「メリーいつから沖縄人になったの?」
当然メリーは沖縄人ではない。日本人とイギリス人のハーフである。名前は西洋風だが、顔立ちはどちらかと言えば東洋風だし、ずっと日本で生まれ育ってきたから日本語もペラペラで日本の文化に慣れ親しんでいる。ちなみに金髪なのは染めているだけで、元は茶髪らしい。
テレビをつければもはや年末の風物詩と化した年末恒例の歌番組が放送されている。21世紀も終わりが近いというのに現代日本は20世紀の慣習を多く受け継いでいる。
時代は進んで科学世紀と呼ばれる世の中になり、世界中の人々が豊かになって誰でも(お金があれば)宇宙に行ける時代になったが、それでも大抵の日本人は大晦日にはテレビを見ながら蕎麦を食べ、年が明ければ寺社に詣でて形だけのおせち料理を食べる。世の中そうそう変わらない物である。
「それにしても雪結構降ってきたわね…」
「…こんな中で初詣に行ったら死んじゃうから、初詣は朝になってからにしましょう」
「そうね」
PM9:10
「蓮子、お風呂湧いたから先入っていいわよ」
「ん、じゃあ入ってくるね」
メリーの部屋は風呂もユニットバスではない。トイレに水を掛ける心配も浴槽の中で体を洗う必要もないのを蓮子は常々羨ましく思っている。
浴槽から出れば床には床暖房がついているから体を洗うにも足が冷たくない。ハイテクである。もちろん築30年の蓮子のアパートの風呂場にはそんな機能はついていない。このことも特に冬場に蓮子をメリーの家に惹きつける要因であった。
こんな寒い日は風呂に入って温まるのが一番である。大学に遅くまで残り、疲れて帰ってきた夜にはすぐに風呂場へ向かいたっぷりとお湯を溜め、そこに肩まで浸かればそれだけで幸せを感じられる。こんなことができるのも日本人の特権だ。
自分のアパートの風呂でも気持ちいいが、メリーの部屋の深めの湯船は魅力的である。足を伸ばしても十分肩まで浸かることができる。長身のメリーだったらこれでも肩が出てしまうのだろうか。
セレブなメリーさんはシャンプーも高級な物を使って…はいない。いや、以前はちょっと高めのを使っていたが、いつの間にか蓮子が使っているものと同じ安物のシャンプーを使うようになっていた。それを見て蓮子はメリーの経済状況を勝手に心配したり、高級シャンプーが使えなくなって少々残念に思ったりはしていたが、メリーの真意に気づくことはなかった…
「メリー、風呂空いたわよ」
「すぐ入るわー」
居間の隣には和室が続いている。
風呂に入っている間にメリーが布団を敷いてくれたらしい。模造井草が敷き詰められている和室は、布団を横に3枚ほど並べて部屋の幅になる程度の広さがあり、その部屋の真ん中に2人分の布団が固められている。
冬場は1枚しかない電気布団を2人で使うので仕方がないが、なぜか夏でも広い部屋の真ん中に2枚の布団は固めて敷かれる。おかげで寝ている間に、寝相の悪い蓮子にメリーが蹴っ飛ばされたり、殴られたり、朝になると蓮子がメリーの布団に侵入していることは日常茶飯事である。
いくら生活用品を常駐させているとは言え、さすがに数百m離れたアパートから布団を持ってくる訳にはいかないので蓮子は来客用の布団を使っている。来客用と言っても泊まりに来るような客が蓮子以外にいないのでもはや蓮子専用布団と化しているのだが。
突然風呂でバタバタという音がした。
蓮子が慌てて風呂場に行って扉を開けてみると、メリーが浴槽の縁に掴まって垂れた首を持ち上げようとしていた。湯の中から引き上げられた金色の髪の毛から水が滴り落ちていた。
「メリー!?どうしたの!?」
「あ、蓮子…風呂に入ろうとしたら足滑らしちゃって…」
「…足滑らしたんじゃなくて、また風呂のお湯飲もうとしたのね…人が入った後の風呂の湯を飲むなって言ったでしょ」
「えーだってー」
「風呂のお湯は汚いんだから飲んじゃダメ!」
せっかくのセレブを台無しにしないためにも、メリーさんには風呂の湯を口にしないで欲しいと思う蓮子であった。
PM10:29
雪は相変わらず降り続けており、道を白く染め続けている。明日の朝は今朝以上の積雪になるだろう。
部屋が冷え込んできたので暖房をつけた。
「蓮子は来年の抱負とかある?」
「来年ねえ…来年はもっと秘封倶楽部の活動を充実させたいよね。2人で色んなところに行ってみたいわ。今度は遠野でも行ってみる?」
「四国に行ってお遍路なんてのも楽しそうね」
「あと、とりあえず単位を落とさないことかしら」
「私もそれだわ。まあ落としたことないけど」
「私も落としたことないけど一応転ばぬ先の杖ってことでね。あと天然の食品を食べたいのと、なんとかして月に行ってみたい。それともっと広いアパートに移りたい」
「蓮子は欲の塊ね。除夜の鐘で煩悩を全部落としなさい」
「メリーに言われたくないわね。あ、あと…メリーとずっと一緒に居られますようにってのも…」
2人の顔がみるみる赤くなる。それは暖房から吐き出される暖かい空気に直接当たったからではなかった。
「…私も蓮子と一緒に居られることを願うわ。ふふっ」
もはや新年の抱負ではなくただの願い事であった。
PM11:56
「今年ももう終わりなのねー。色々あったけど早かったなあ」
「年々時間が過ぎるのが早くなって行って自分が老化していくのを感じるわ」
「ねえ、年の境界ってメリーにはどういう風に見えてるの?」
「何も見えないわよ」
「ふーん、暦の変わり目じゃ何も見えないのか。節分に鬼が見えたりしたら面白いのに」
「鬼?見たことあるわよ。前に夢の中から筍持って帰ってきたときに」
「じゃあ今度夢の中で鬼に会ったら角でも持って帰って来てよ」
「あのね、鬼は鹿じゃないの」
「鬼の首でもいいわよ。リアル鬼の首を取ったようなメリーさん。あはは」
「乙女だから鬼の生首なんて見たら気を失っちゃうに決まってるでしょ」
「あ!年が明けたわ!」
2091年1月1日
0時ジャスト―
窓の外で近所の寺の鐘が鳴り響く。鴨川の河川敷から年明けと同時に打ち上げ花火が打ち上げられる音がする。近くの部屋で学生の集団が騒いでいる。
「明けましておめでとうございます」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします。メリー」
「また1つ年を取ってしまうわね」
「誕生日はまだまだ先よ」
炬燵で向かい合って白々しい挨拶を交わす。ずっと向かい合って座っていた相手にいきなり新年の挨拶をするというのも少々気恥ずかしい。
AM0:09
「早起きして初詣行きたいし、年明けも見届けたから寝よっか」
「あー寒い。暖かい布団に早く入りたいわ」
暖房をつけていても窓から微妙に冷気が漂ってきて寒い。
布団に入ってしまえば断熱効果の高い毛布が体温を捕まえて布団の中を暖めていく。
部屋の明かりを消してからも二人の会話は布団の中で続く。
「寒い年明けになったわね」
「来年はもっと暖かいところで年を越したいわ。いっそ海外でも行っちゃう?」
「海外に行くぐらいなら月に行きたいわ。でも月って夜は冷えるんだろうなあ」
「-170℃だから南極に行くよりもずっと寒い。しかも夜は15日間も続くし」
「そんな寒いところに住んでる月の兎ってどんな毛皮なのかしら。それでコートなんか作ったら売れるんじゃない?」
「肉厚でおいしそうね。月に住んでる兎ってワシントン条約で保護されてたりしないかしら」
風が窓を揺らしている。本当に今年はとんだ寒い正月になった。朝になったら雪は止んでるだろうか?
これだけ雪が降ったらただでさえ初詣客が多いのに市内の交通は混乱するだろう。いっそ寝正月にしてしまった方がいいのかもしれない。なんのために帰省せずに京都で年を越したのか分からないが。せめて近所にある田中神社ぐらいは行くことにしよう。
「メリーの布団暖かいー。ずるいー」
「いいわよ、入って来ても」
「やったー。ねえメリー、寒いから手握っていい?」
「手冷たっ!蓮子冷え性?」
「昼間のお返しよ。はあ…人間のぬくもりを感じるわ。ちょっと妖怪臭いけど」
「私は正真正銘の人間よ。人を取って食ったりしませんわ」
「境界が見える時点で十分妖怪っぽいわ」
「じゃあ蓮子を食べちゃうわよ?」
「…アレな意味に聞こえちゃうわね」
「…」
しばらくの沈黙の後、メリーが布団に被ったまま蓮子に近づく。こういうときはあれだ。いつも通り―
ちゅっ
「おやすみ、蓮子」
「ん、おやすみ」
今年も一緒にいられるようにと願う二人であった。
年が明けても蓮メリはちゅっちゅすべし。