机に向かう妖怪が一匹。
顔立ちは整っていると言っていいだろう。髪の毛は桃色で、蝋燭の明かりの中でも目立つ。しかし何より特徴的なのは、頭から伸びた二本の長い耳。それは、兎の耳だ。
机に向かっているのは永遠亭の従者の一人、鈴仙・優曇華院・イナバである。
肘を突き、机に置いてある筆を弄んでいる。
ため息をつきながら。
今日中に貸本屋から借りてきた薬酒の本を写しておこうと思ったのだが、どうにも筆が進まない。くるくると筆を指で回していたら、ポーンと飛んでしまった。机の上に落ちた筆が、黒い染みを作る。
「あー、駄目だ、全然進まないや」
そう言って寝転がると、開いた戸から、丸い月が目に入った。
赤い。まるで、自分の目のように。こんな夜は、仕事も手に付かなくなってしまう。師匠にまた、怒られてしまうだろうか。でも、仕方のない事なのだ、だって、あんなに月が赤いのだから。そう思って目を閉じる。
彼方よりこんなに遠く離れているのに。
此方へとあの光は、月を捨てた去った私の姿を照らす。
もう、どの位になるだろう、自分があの月を離れてから。
この幻想郷で暮らしていると、あの頃のことは夢のように遠くなってしまった。
自分とて、木の股から生まれ出でたわけではない、父もいれば母もいた、多くの同僚も。すべて、すべて捨ててしまった。あろうことか、己が心より慕った、主まで。
月の明かりは、嫌がおうにも、自分の行いを思い起こさせる。しばらくその淡い光に目を奪われていると、自分を嫌悪したくなるような、感情に襲われてしまう。だから、目を閉じた。
「あー、良くないな……」
ごそごそと、懐に手を入れる。
取り出すのは四角い紙で出来たパッケージ、“ゴールデンバット”と書いてある。
今はもう外の世界では忘れられてしまった種類の煙草だ。箱の中を覗くと、もう二本程しか残っていない。
寝転がったまま、一本咥えて火をつけた。医者である師匠に見つかったら、怒られてしまうかな、なんて思いながら。
美味い、なんて思った事はない。だけれど、どうしても、吸いたくなってしまう時があった。特に、こんな風に月が赤く染まる夜は。
多分、師匠には知られていないと思う。
まるまる一本を吸いきって、もう一本にも火をつける。これで、残りはゼロだ。
「ちぇ」
どうしても、こんな夜は、口寂しい。日が落ちてしまっては、店ももうやっていないだろうな、等と思い、舌打ちした。
すると、廊下の方から声が聞こえた。
「あー、いけないんだ、医者の弟子が煙草なんて吸っちゃって」
にやにやと笑みを浮かべながら現れたのは同僚の因幡てゐである。
「なによ、アンタ暇なわけ?仕事、どうしたのよ、まだ事務処理残ってる患者さん、いるんじゃないの?」
「事務仕事なんかもう終わったよ」
そう言って、ちょこちょことてゐが部屋の中に入ってくる。
「師匠は?」
「まだ研究室でこもってる、なんか、作りたい薬があるんだってさ」
「そう」
てゐがすうっと右手を出した。相変わらずの笑顔で。
「何よ、その手は」
「んー、口止め料」
「良いわよ、別に言いつけたって」
てゐの方を見ずにそう答えると。ため息混じりにてゐが手を引っ込めた。
「なにさ、妙にノリが悪いね、いつもだったらわたわた焦りそうなもんなのに、機嫌でもわるいの?」
「別に、そんな事無いわよ」
捨てる、と言う事は、捨てる者そのものをすべて、否定する事だと思う。
自分は、肉親も、共に過ごした友人も、二人の主も捨ててしまった。あんなに、好きだったのに。あんなに、優しかったのに。
「そんなんじゃ言いつけても面白くないね、まったく、面倒な女ウサ」
ごそごそと、てゐがポーチの中から何かをとりだし、放り投げた、ぽん、と鈴仙の胸の上に乗ったその四角い物には、“ゴールデンバット”と書いてある。
「アンタ……これ……」
「あんまり吸いすぎない方が良いよ?いくら妖怪が人間と比べて身体が強いって言っても、お師匠達みたいに不老不死ってわけじゃあないんだからさ、一応それだって毒なわけだしね」
「なんで?」
「何で知ってたのかってことについちゃ、そりゃアンタと私の部屋は近いもの、臭いくらいはわかるし、何でもってきたのかって事については、空を見上げりゃわかるウサ、ああいうお月様、好きじゃないんでしょ?もうそろそろ付き合いも長いからね」
意外だ、と思った。普段は悪戯やらなにやら、あんまり性格の良い方ではないてゐが。少し、申し訳ないと思い、身体を起こす。
「ありがと、素直にもらっとくわ、助かる」
「一個貸しね」
「うん、借りとく」
やれやれ、というようにてゐが首を振って立ち上がる。どうやら、自分に煙草を渡すためにやってきたらしかった。
出がけに、てゐが振り向いた。
「昔は、昔でしょ」
「それ、姫様に言ったら殺されるわよ」
「鈴仙だから、言ってるんでしょ、わっかんないかねえ?私はアンタと違って抜けてないもんねー」
「あんたね……」
「おっと、そいじゃねー」
ぱたぱたと足音を立てて、てゐが歩いて行く。
一人になると、また、心がざわつき始める。
心配、されたのだろうか、あのてゐに。
優しくされると、怖くなる時がある、あんなに優しかった主人を捨てた自分は、また、同じ事をしてしまうのではないかと思ってしまう。それは、殆ど恐怖に近い。
もう一度、何かを確かめるようにありがと、と呟く。忘れてしまわぬように。
貰った煙草の箱を一度放り投げてから、ポケットの中に突っ込んで、臭い消しのための香を焚いた。
写本はまだ、四分の一ほど残っている。
一人、暗い通路を走っている。
明かりは、真っ赤なランプがくるくると回って周囲を照らす。
走らなきゃいけない、それだけが鈴仙の頭の中にあった。
急がなくてはいけない、でも、どこへ?
何か、とても大事な事を忘れている気がする。それが、何だったのか思い出せない。
気持ちだけが焦る、赤く光るランプを見ていると、言いようのない不安に襲われるのは何なのだろう。
十字路に差し掛かった、どっちへ行けば良いのかわからない。
右も、左も、正面も同じ道のように見える。
背後だけは、振り返らなかった。
振り返ってしまったら、なにかとんでもない事になってしまいそうな気がした。
赤い光に照らされて、鈴仙はその場から動く事が出来なかった。
「んー……あ、いけない……」
ぼんやりと、意識が覚醒する。どうやら、写本をしながら眠ってしまったらしい。
臭い消しのために、ローズマリーの香を焚いたのが良くなかった。リラックスのためのハーブは眠気も引き起こす。
眠ってはいけないと思いながら眠る気持ちよさは、恐ろしい物があるな、等と机の上で考えていたのを思いだした。
嫌な、夢だったな、と思った。まるで月の軍事施設のような場所だった。
まだ、あの赤い光が目に焼き付いているような気がして、目をごしごしと擦る。
「あれ?」
違和感を感じて、まてよ、と思う。
確か自分は机に向かっていたはずだ、眠ってしまったのならば、机に突っ伏しているのが普通であろう。明らかに今自分は横になっている。
視界には天井が斜めになって見える。何かに、頭を乗せているらしい。
改めて考えると、後頭部当たる感触が妙に柔らかい。頭の後に手を伸ばす。
むにぃ、と言う感触、適度な弾力と柔らかさである。
「………っ!」
声にならない声が聞こえた。よく耳を凝らせば、人の呼吸音もあるようだ。
なぁんとなく、確認をしづらい。
「おはよ、ウドンゲ」
その声を聞いた途端に鈴仙の身体は跳ねるように起き上がる。
振り返って目に入ったのは赤と青の装束。微笑む笑顔は美しい。
「し、師匠!?なんで!?」
「何でって、ご挨拶ねえ、せっかく膝枕してあげていたのに」
「ええと、それはわかりましたけども」
そう言って八意永琳はコロコロと笑った。
「写本、終わったのかしら?」
「あ、いえ、えーと、その、そうそう、まだ休憩中で!」
「なんてね、終わらせておいたわよ」
言われて、机の方を見ると閉じられた本が二冊置いてある。
どの位、自分は寝てしまったのだろうか、肩をすくめて頭を下げる。
「すいません……」
「いいのよ、こんな日に頼んだ私が悪かったわ」
こんな日、というのはどういう事だろうか。自分の気持ちが見透かされているような言い方だ。
どうやら、自分は師の膝の上に眠らされていたらしい。机の上で寝ていたのを、わざわざ自分の膝の上にのっけたようである。
「嫌な夢でも、見た?」
すこし、心配そうな顔で永琳が鈴仙の顔を覗く。
「あ、ええ、ちょっとだけ……」
言って、すこし頭を掻いた。うなされでもしていたのだろうか。
「まあ、それは良いのだけれど」
「はぁ……」
「これ、どうしたの?」
そう言って永琳が指さしたのは、銀色の灰皿。かたづけるのを忘れていた。
「あ!いえ!その!なんといいますか!」
「まあ、個人の嗜好なのだから、別に吸うなとは言わないけれども」
「はあ、好きってわけでもないんですけど……」
「精神安定のためならお薬にしときなさいな」
そう言って取り出した錠剤を鈴仙の目の前においた。
「なんですか?この薬」
「まあ、安定剤みたいな物よ、少なくとも煙草よりは身体に良いわよ」
「あ、ありがとうございます」
錠剤を受け取って机の上に置く。ひょっとして、さっきてゐのいっていた作っている薬というのはこれだったのだろうかと思う。
「あの……何でこれを私に……?」
「んー、最近煙草を吸う量が増えてるっててゐが」
「し!知ってたんですかあ!?あいつ~~!」
何が告げ口しても面白くないだ、とうの昔にチクリ済みではないか、等と考えて鈴仙はため息を吐いた。
「わざわざ、作ってくれたんですか、すいません」
「あらあら、良いのよ、ウドンゲの可愛い寝顔も見られたしねえ」
「か!可愛いって!からかわないで下さい……」
言われて、顔が少し赤くなる。こんな美人に言われてもなあ、と少し思ったりもした。
わざわざ自分のために、この薬を調合してくれていたのだろうか、それなのに、居眠りなどをしてしまって、ありがたくて、申し訳ない気分になってしまう。
「なんだか、昔を思いだしてしまってね、つい膝の上にのっけちゃった」
言われて、言葉に胸を突かれた。むかし、その言葉は自分にとって忌まわしい言葉でしかない。何故だか、視線を合わせられなかった。
「月にいた頃の事ね」
「そう……ですか」
「あのころも玉兎達はいてね」
「そうですよね、ずうっと昔から、月に兎はいたんですよね……」
月の兵士として。月を守護する軍隊として、玉兎という種族は存在していた。
自分もまた、その一員だった。そして、その使命を置き去りにした。
「お気に入りの子がいてね」
「はぁ」
「私の膝の上で寝るのが好きな子だったのよ」
「はい」
「それを思いだしたわ」
そう言うと、永琳は開いた戸から月を見上げる。
懐かしむように、少しだけ寂しげに呟く。
「もう、生きてはいないのかしらねえ」
月人は、穢れを知らぬが故に、無限に近い寿命を持つ。しかし、玉兎はそもそも種としての存在が違う。地球の人間に比べれば以上とも言えるまでの寿命を持つが、それでも、いつかは老いて死ぬ。
地球で暮らすという穢れを知り、八意永琳は蓬莱の薬を飲み、罪人として、不老不死となった。
「師匠は、その頃の事、懐かしく思ったりするんですか?」
「そうねえ、もう二度と手に入らない物って言うのは、綺麗に見えてしまうものなのかもしれないわね」
「あんまり、綺麗なのって、辛いです……」
「あら、そんな事無いわよ、思い出せば、楽しい思い出は楽しいし、辛い思いでは、やっぱり辛いわ、でも今、私楽しいからね、そりゃ、後悔する事もあるけれど、後悔は過去の否定というわけではないわ、けっして消えない思い出なら、大事にしてあげた方が良いでしょう」
どうして、この人は、そんな風に生きられるのだろう。きっと自分などよりももっと多くの思い出を抱えているはずなのに。
「師匠は、強いんですねえ……」
この人にとっても、過去は忌むべき物の筈だった。罪を犯し、逃げて、逃げて、逃げた果ての住処がこの永遠亭なのだから。自分も、逃走の果てに、ここに辿り着いた。
何故、懐かしむように月の事を想えるのだろうか。
「私は、駄目ですねえ……」
肩を落としてそう言った。本心からそう思った。だから、何が等という事は考えなかった、気持ちをそのまま言葉にしたら、その台詞が出てきた。
あの星から逃げて自分の失った物は、何だったのだろう、それは多分愛という物だったのではないだろうか。もう、二度と得る事のない、かけがえのない物だったのではないだろうか。そんな事の出来た自分が恐ろしかった。
月が赤く染まる度にそんな風に思った。
「ねえ、ウドンゲ」
「……はい」
「もう、私たちが月に帰る事はないわ」
「……はい」
「泣いて、いいのよ」
言葉で肺腑が、抉られたように息づかいが荒くなる。
はぁはぁと、自分の息づかいが聞こえる。
視界が、透明に歪んだ。
「わた……し……わたし……」
俯く、涙、頬を伝わって流れ落ちる。ぽたぽたと、畳の上に落ちるそれを流す資格など自分にはあるのだろうか。そう思っても、止められない。
「あんなに……豊姫……さまも……依姫さまも……やさしくして……くれた……のに………ぜんぶ……ぜんぶ…」
捨ててしまった。月にいるのが恐ろしくて、周りのもの全てに目を閉じ、耳をふさいで。故郷を、そして自分を愛してくれた人たちを。
「そうね……」
「私……また……同じ事を……して……しまうんじゃないかって……こわくて……わたし……」
もし、そんな事をしてしまいそうになったら、死んでしまおう、そう思った。
師匠が、好きだった、姫様も、てゐも、みんなみんな、好きだった。月から逃れ、襤褸のようになっていた自分を暖かく迎え入れてくれた永遠亭の事が好きで好きでたまらなかった。
けれど、おなじように大好きだった豊姫様と依姫様を、自分は裏切ってしまった。
もし、同じ事をしてしまうのであれば、裏切る前に命を絶とう、そう思っていた。
それくらい、自分の事が信用できなかった。自分の弱い心が、恐ろしかった。
ふわりと、肩を抱かれた。白銀の髪の毛が、頬に触れる。薬の臭いがした、師匠の臭いだ、そう思った。
「馬鹿ねえウドンゲ」
そうだ、自分は馬鹿だ、大馬鹿物だ。そう思いながら、顔を手で覆った。
「私たちは、過去に色々な物を捨ててしまったわ」
肩にそっと、添えられた手、手で触れた、暖かい。
「失うということは、怖いことね」
「はい……」
「怖いから、もう決して私は失くしたりしないようにするわ、姫様も、てゐも貴女の事も、安心なさい、貴女の事、逃がしたりしないから」
逃がしたりしない、そうしてくれますか。
自分の事を捕まえていてくれますか。
こんな臆病な兎の事を、貴女は繋ぎ続けてくれるのですか。
きっと口にして問うまでもない事なのだろう。
この人は、言った以上けして、自分を逃がしたりしないだろう。
自分が、この人に適うわけはないのだから。
それならば、自分はきっとここにいられる。
「……うああ」
声が漏れる、言葉が、言葉にならない。
「ねえウドンゲ……」
声、とても優しくて。
「うああああああああああああ……」
その優しさに応える言葉を返したいのだけれど。
「好きよ、貴女のこと」
涙は、止まってくれなくて。
「う゛あああああああああああああああああああ……」
師の胸に、しがみついた。
「大好き」
もう、煙草はいらない。
了
一箇所直ってない所がありました。
あと、一応、永琳が優曇華院を呼ぶときの表記は公式だとカタカナで「ウドンゲ」が正しいようです。
永夜抄はバックストーリーが重めで、調理する人によって本当に味わいが違いますね、暖かな月光でした。