Coolier - 新生・東方創想話

百億の私と一人のあなた

2014/05/29 16:09:31
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 鈴奈庵の午後は、微睡みみたいに怠惰な静けさと共に過ぎ去ろうとしていた。空は爽やかに晴れ上がっているが、古書店の中は嘘みたいに薄暗くて涼しい。
 本居小鈴はを目を擦り、机の上の分厚い本から顔を上げる。
 眼鏡を外して入り口の扉を見やるが、客どころか外を歩く通行人の気配さえなかった。
 視界に映るのは一分の隙もなく蔵書が詰め込まれている、背の高い本棚だけで、彼らはいつだって民衆を監視する兵士みたいに冷たく無機質だ。
 今日は開店してすぐに顔馴染みの客が二人来ただけで、それからといったら閑古鳥が我が物顔で鳴き続けている。聞こえるものといったらそれと、あとは手元にある蓄音機のメランコリックな掠れ声ぐらいなもので、小鈴はわだかまる感情を抑えきれずにいた。
 
「はぁあ・・・・・・」
 憂鬱と退屈と虚無感がカクテルにされて、小鈴の口から勝手に溢れ出た。
 少し前までは一日中本を読んでいられるだけで十分すぎるほど幸せになれたのに、いつからこんなに贅沢な人間になってしまったのだろう。
 原因は考えるまでもなく、はっきりしていた。
 
 幻想郷に住まう妖怪たちの織り成す、気宇壮大たる奇譚。
 それらを解決しようと八面六臂の活躍を見せる巫女と魔法使い。
 なんら物理的な力を持たないただの人間だけれども、不思議な力でそれに協力する自分。
 目を閉じればその時のことが、ほんの些細なことまではっきりと思い出せる。
 けれども、もうそれは終わった話。
 つい最近の人里と言ったらなんの事件も無く平穏で、刺激なんて単語はまったくもって縁遠く、小鈴は物足りなさをひしひしと感じていた。
 
 あるいは。
 それとも。
 そんなことよりも。
 『あの人』がまるで鈴奈庵に来てくれなくなったことが、一番の原因なんだろうか。
 そんなことを一瞬だけ考えて、また海溝みたいに深い溜め息が漏れる。
 
 どうにも自分らしくないなぁ、とひとつ伸びをした。
 鬱屈した気持ちを振り払うかのように首を振ったけれども、黒い紙に白いインクを飛び散らせただけではないかというほど文字が書き込まれた手元の本を読み直す気にはなれず、少し乱暴に閉じながら立ち上がった。

「・・・・・・あれ?」
 視界の端、本棚の最上部の隅に、見慣れない形式の本が横になっているのを不意に見つけた。それは大判の薄いもので、外の世界では大学ノートと呼ばれているものだと小鈴は知っていた。
 自由に文章を書けるこの帳面と、甘い蜜をたっぷりかけられた薩摩芋の間にどんな関係があるのか、それはまるであずかり知らないことなのだけれども。
 それよりも不思議だったのは、そんな珍しいノートが鈴奈庵にあることだった。仕事柄、毎日隅から隅まで本棚を凝視しているし、蔵書に関する記憶には自信があった。なのにこんなに珍しい外の本が、ここが私の終の棲家でございますとばかりに堂々と鎮座しているのは、小鈴の貸本屋としての沽券に関わることだった。
 好奇心が手を伸ばし、ついでに背伸びもするが中指のさきっぽすら届かない。仕方なく持ってきた踏み台に上ってようやく手に取った。

 その青い表紙には、黒いペンでただ、『の日記』と書かれていた。『の』の字の前はひどく掠れていて、ただの黒い線の塊になっている。
 外の世界の住民の日記。思わぬ掘り出し物に興奮を抑えきれず、頬がだらしなく緩んだ。と、同時にこんなお宝に気がつかなかった自分を猛省。
 ぱらぱらとノートを捲り、中ほどで止めてみる。軽く全体に目を通して、何の気もなしにページの右下から読み始めた。
 1ページがそれぞれ縦に三等分されるように太い線が引かれていて、その区画ひとつにつき一日分の日記が書かれているようだった。
 小鈴が読み始めた場所は、月日だけならばちょうど昨日のそれだった。 
 
 九月十四日 晴れ
 今日もあの人に会えなかった。
 明日は会えるといいな。

 たったそれだけの文章が、優しい字体で小さく書かれていた。
 けれどもその僅かな文字たちに、不思議と既視感が湧き上がってくる。その正体は、すぐに分かった。

「これ、私の字・・・・・・?」
 もちろん、自分がこんな日記を書いた覚えなどない。しかしながら、一見してそうと間違えるほど、その文字は小鈴自身のものにそっくりだった。
 椅子に座り、丸眼鏡を掛ける。ひとつ深呼吸して、気分を真面目な読書家にシフト。
 微かに震える手で、さらに一日前の日記を指で文字をなぞりながら、ゆっくりと呼吸を整えるように読み始めた。

 九月十三日 くもり時々雨
 今日もあの人に会えなかった。
 家に帰るとき急に雨が降ってきて、びしょ濡れになってしまった。 
 夜ご飯はちょっとだけ贅沢して、いいお肉を使ったシチューにしてみた。
 明日は会えるといいな。

 小鈴は、自分の震えがもはや抑えようがなくなっていることを感覚した。心臓が耳元まで上ってきて、早鐘を打っているかのようだった。
 理由はまったくもって単純明快。小鈴は、そのことも間違いなく、はっきり覚えていたからだ。
 一昨日、そんな気配はなかったので傘も持たずに買い物に行ったら帰りに突然雨が降り出して、仕方なく濡れながら帰ってきたら、その直後に雨は止んでしまった。
 家族にそのことを笑い話にされながら、珍しく洋食になった夕飯を囲んだことも、そして今日はいい素材を使ったから美味しいね、などと言っていたことも、しっかりと脳裏に焼きついていた。

 小鈴は頭を掻いて、半狂乱になりながら日記と記憶を過去方向に捲り続けた。
 友達と長話をしたこと。
 初めて見る本を買って、どきどきしながら読み進めたこと。
 同じくらいの歳の女の子と仲良くなったこと。

 大事な思い出から、微かに漂う記憶の残滓まで、日記の中に登場する『私』の存在は、小鈴のそれとひとつ違わず同じだった。
 
「なんで・・・・・・どうして・・・?」
 うわごとのように何故を繰り返しながら、小鈴はページを捲る。理由も何も分からない涙がとめどなく溢れてきて、視界に靄がかかった。
 怖いのか不思議なのか、辛いのか厭なのか。それすらも分からないまま、小鈴は泣き続けた。
 私は誰なんだろう。私は、ただこの本の予言に従わせられているだけなんじゃないか。
 ページを捲れば捲るほど、奇妙な絶望がとめどなく湧き上がる。
 生まれて初めて抱いた自我への疑問が、小鈴の心を無残に食い散らかしていた。
 歳相応の心の脆弱さに立ち向かおうと、小鈴の震える細い指は再び九月十四日のページにかかろうとしていた。その次にあるのは、勿論今日の日付。そこにあることに逆らえば、こんな馬鹿げた予言は終わりを迎えられる。単純な発想だが、既にそんなことしか考えられなくなっていた。

九月 十五日

 涙が落ちて、ノートに染みを作った。立ち上がって肩で呼吸をしながら、ゆっくり、ゆっくりと読み進める。
 息が苦しかった。それでも奇妙な義務感に駆られるまま、小鈴は日記を開き続けた。

晴れのち雨

 そこまで読んだとき。 
 突然、店の外に閃光が走り、小鈴の思考を貫いた。
 一瞬遅れて轟音が鳴り響き、鈴奈庵自体が激しくびりびりと震えた。
 小鈴は弾かれるように扉に向かって走る。
 蹴り飛ばされた椅子が後ろの本棚にぶつかり、何冊かの本が豪快に崩れ落ちる。
 それすら無視して、半ば倒れこむようにして小鈴は扉を開け放った。

 豪雨だった。
 先ほどまでの嘘のような青空が嘘だったかのように、一面の曇天からとめどもなく激流が降り注ぎ、一瞬で地面を水浸しにしていった。
「こんなことが・・・・・・そんな・・・・・・」
 じりじりと、二歩三歩、あとずさりする。
 ひどい立ちくらみがした。
 目の前がぐるぐる回って、一瞬で何も考えられなくなった。
 頭が痛くて、立っていられない。膝をつき、頭を抱えて倒れこむ。
 遠のく意識の中、ある恐ろしい想像だけが小鈴の中で急激に膨れ上がり、一瞬で世界を塗りつぶした。
 
 あのノートは予言書なんかじゃない。
 計画書だ。
 私はあのノートの通りに動かされているだけ。
 あのノートに書かれているから、私はここに存在している。
 私はただの・・・・・・文章の中の人形なんだ。

 そこまで考えが至ったところで、ぷっつりと小鈴の意識は途絶えた。




 冷たい海の底に沈んだような、暗澹とした気分だった。
 寒い。怖い。悲しい。
 悲観が渦巻く心が、ふと、誰かに抱き上げられた気がした。
 まるで、息もできない深い沼の底から助け出されたような、奇怪な、それでいて心地いい、優しい感触だった。

 


 
 浮遊。あるいは沈殿。
 小鈴が意識を取り戻して初めて感じたのは、矛盾だらけに入り組んだ二つの感覚だった。
 ゆっくりと、目を開く。しばらくの間、そこがどこだか分からなかった。少なくとも鈴奈庵の店内ではない。畳の青い匂いが鼻をつく。
 上半身を持ち上げて、生まれたばかりの小鹿のようにひどく怯えて周囲を確認した。なんのことはない、自分の部屋の布団に寝かされているだけだった。重たい掛け布団をゆっくりとどかす。
 ごしごしと目を擦る。私室には禁帯出の本が所狭しと収蔵されていて、それらから一章を選んで読むのが小鈴の毎晩の小さな楽しみだった。
 しかし、今日の部屋の隅には、ここでは見慣れない人影が座り込んでいた。

「あ、あなたは・・・・・・」
「おお、ようやく起きたか。心配したぞ」
  
 小鈴の呼びかけに答えるようにして、その人物が顔を上げた。
 艶やかな長髪を揺らしながら、眼鏡を人差し指の腹で直す。一瞬生真面目な表情を浮かべたかと思うと、すぐに柔和な笑みへと変容させた。その表情を見て、小鈴はなんだか、すとんと憑き物が落ちたような心地がした。はじめのうちは可笑しかった妙な口調も、いまはずいぶんと心強い。
 眼鏡の奥で理知に富んだ瞳が、干乾びた小鈴の心を見通すかのように輝いた。 
 小鈴の目の前に座るこの長身の女性こそが間違いなく、ずっと待っていた『あの人』――二ッ岩マミゾウであった。

「ど、どうしてあなたがここにいらっしゃるんですか?」
 驚愕を飲み込んで、目を白黒させながらもやっとの思いで小鈴は言葉を発した。

「なに、いつも通り散歩をしていたら急に大雨に降られてな。雨宿りがてら鈴奈庵に寄ったら、お主が真っ青な顔で倒れておっってのう。慌てて家の人を呼んで、布団まで運ばせて貰ったのじゃ」
 こう見えても腕力には自信があるんじゃよ、と得意げに言って、マミゾウは袖を捲って見せた。しかしその下にあるのは儚くたおやかな細腕で、小鈴は俄かには彼女の言うことを信じられなかった。

「まぁ、大事には至らなかったようで何よりじゃ。変な妖魔本でも開いたかと思ったぞい」
 服を直しながらけらけらと笑うマミゾウの表情に対して、小鈴のそれはみるみるうちに暗くどんよりとしたものになっていった。俯いて、掛け布団を握りしめる。
 そんな小鈴の様子に気がついて、マミゾウは眉間に皺を寄せた。

「なんじゃ、そんなに落ち込んで。どれ、儂でよければ何でも言ってみるがよい」
 小鈴は一瞬逡巡した。心配はかけたくなかったからだ。しかし、マミゾウの眼光はその柔らかな物腰とは裏腹に鋭く小鈴を貫いていた。
 嘘は必ず見破るという確固たる自信か。それとも、嘘そのものを使いこなしてきた自負か。
 どちらにせよ、小鈴はマミゾウに隠し事をするのは早々にあきらめて、すべてを話すことにした。

 本棚の一角に見つけた大学ノートのこと。
 そこに記された日記が、現実の自分自身のことと何一つ違わなかったこと。
 読んでいるうちに、書いてあることが現実になったこと。
 そのうち自分自身が単なる文章の中の存在ではないかと疑えて来て、倒れてしまったこと。

 一つ話し始めると止まらなくなった。
 不安、不満、恐怖、ありとあらゆる感情が言葉の奔流になって溢れ出す。倒れた時のことが思い出されて、また少し涙ぐむ。
 その長い話にもマミゾウは嫌な顔一つすることなく、目を瞑って淡々と聞き続ける。
 やがて小鈴は言いたかったことをすべて話すと、元のように俯いた。
 マミゾウはそんな小鈴の姿を見て僅かに首を傾げ、そして訥々と話し始めた。

「儂は難しい話は苦手でのう。上手く説明できるかわからんのじゃが。そうじゃのう、まずはお主は文章の中だけの存在じゃないか、とかいう疑問から答えよう」
 ずい、とマミゾウは身を乗り出して、小鈴に顔を近づける。
 反射的に小鈴の顔が上がると、マミゾウは掴みどころの無い笑顔を見せた。

「答えは簡単じゃよ。『だから何?』じゃ」

「・・・・・・え?」
 マミゾウから返されたのは、驚くほど拍子抜けした答えだった。
 もっと長々とし否定の言葉を期待していた小鈴は、思わず大きく瞬いた。

「お主が小説の登場人物でしかないとして、それが何だというんじゃ。小説に描かれる一人の人生なぞ、ほんの僅かな時間を切り取ったものに過ぎん。その他の殆どの時間を、お主は自由に使えるのじゃ。それでは不満かのう? 作者なぞ無視して、自由に生きれば良い」

「で、でも・・・・・・」
 言いよどむ小鈴を制するように、マミゾウがさらに続ける。

「どうしても不安ならば魔法の呪文を言うが良い。『私は私のことを書いている人の事を書きます』とな。自分の事を記述する者に対する恐怖心を描いている著者が、そんな台詞を登場人物に言わせられる訳がないからのう」
 マミゾウの考えた呪文は、どうしようもなく荒唐無稽で屁理屈で、馬鹿馬鹿しかった。
 けれどもその馬鹿げた言い回しが、小鈴には力強く感じられた。
 破綻しきった論理、下らない冗談なのにも関わらず、それが不思議と小鈴の心を柔らかく溶かした。
 小鈴は忍び笑いを漏らし、拭っていない涙のことを上げてマミゾウのことを見つめた。

「おお、少しは安心したかのう。この調子でもう一つも片付けてしまおうか。日記帳とはこいつのことじゃろう?」
 そう言って、マミゾウは懐から例の青い大学ノートを取り出した。そしてそのまま、片手でひらひらとはためかせる。
 小鈴はそれだけでも恐ろしくて、マミゾウの問いかけに頷くだけで精一杯だった。

「珍しい外来本だというのに、乱暴に放置されていたのが気になって拝借してきたのじゃがな、こいつが主犯だったとはのう。とはいえこいつ自体は日記を代筆する妖魔本でも、未来予知のマジックアイテムでもない、正真正銘ただの紙じゃ」
「で、でもこの日記、私のしたことを百発百中で当ててるんですよ」
「うむ、まことに不思議なことよ。けれどもな、お主も知っていることでな、世の中にはたった一つだけ、この不思議を説明することのできる事象が存在するのじゃ」
「えっ」

 小鈴は驚きに声をあげ、自分の持てる記憶を総動員してこの不思議を解明してみようとした。しかし、いくら考えてみても、本で読んだ知識を片っ端から漁ってみても、なんの成果も上がらなかった。

「お、教えてください」
「本当に聞きたいかの?」
「本当にお願いします」
「本当に本当じゃな?」
「本当に本当です!」

 押し問答を繰り返すたびに、マミゾウはぐいと小鈴に顔を近づける。
 そして額が当たりそうなほどの距離まで近づくと、たった四文字の言葉を、悪戯っぽく小鈴の耳元で囁いた。

「ぐ・う・ぜ・ん」

「・・・・・・は?」
 予想していたそれとは正反対の方向に理解の範疇を超えた答えに、素っ頓狂な声が零れた。
 偶然。その単語にたどり着いて尚、マミゾウがそう言ったとすぐには信じられなかった。

「そ、そんなのありえません! 隅から隅まで、全部私のしてきたことと一緒だったんですよ! 絶対に、絶対に偶然じゃないです!」
 真面目に相談していたのに、なんだか馬鹿にされたような、裏切られたような気がして、小鈴は語気を荒げた。
 信頼していた相手に虚仮にされたのが無性に悔しくて、怒りよりも先に涙がこみあげてきた。
 しかし、マミゾウは小馬鹿にした笑いを浮かべることもなく、むしろ真摯に小鈴を見つめ続けた。

「お主、今、『ありえません』『絶対に偶然じゃない』と言ったのう。それはなぜじゃ?」

「だって、そうじゃないですか。日記の日付から出来事まで全部私と一緒だなんて、そんなのありえません」

「うむ。確かに、その確率は限りなく低い。しかし、零ではない。確率が零ではないということは、起こってもおかしくない。『ありえないこと』ではないんじゃよ。 分かるかのう?」
 小鈴は混乱した。確かに、マミゾウの言うとおりだ。その確率は天文学的に低い数字ではあるのだけれど、零ではない。
 けれど、そんなに奇跡的に低い確率の出来事が、自分の身にそう都合よく起こるのだろうか?

「例えば、じゃ。お主『ぱられるわぁるど』とやらは知っておるかのう?」
 頭の上に疑問符を浮かべたままの小鈴に助け舟を出すように、マミゾウはさらに理論を展開する。
 パラレルワールド。平行世界。外来本好きの彼女にとって、それは聞き覚えの無い単語ではない。
 先ほどは一瞬とはいえ怒りに身を任せたのがなんだか気恥ずかしくて、小鈴は黙って頷く。

「ならば話は早いのう。お主がノートを見つけなかった世界。一昨日雨に降られなかった世界。献立の違った世界。ありとあらゆる可能性がお主にはあったじゃろう。そして、それらの殆どの世界では、お主は日記を読んだところであんなに憔悴することはなく、精々お主自身と共通点をいくつか見つけ出す程度にとどまったじゃろう」
 マミゾウは子供に読み書きを教える寺子屋の教師のように、すらすらと淀むことなく言葉を紡ぐ。
 小鈴はそれに聞きほれるように、時々頷くことくらいしかできなかった。

「しかし、この世界のお主は違った。奇跡的に日記の内容と日々の生活がすべて一致しておったのじゃからの。それはまあ、確率に直してしまえば千、万。否、せいぜい百億分の一程度に過ぎぬものであろう。お主、とんでもない幸運の持ち主じゃのう」
 百億分の一の世界となれば、成るほど、小説にしたくなるのも分かるのう、と付け加え、マミゾウは低く笑った。
 百億分の一。あまりにも分母が大きすぎて、すぐには小鈴はその確率を認識することが出来なかった。
 百億人並んだ自分の姿を想像しようとして、小鈴はすぐに諦めた。

 解決とも呼べないような、あまりにも乱暴な推論。
 けれども、反論すべきところも見つからない。
 それに、そんな籤数百回分の偶然を掴んだとなれば、小鈴も理屈抜きに不思議と嬉しかった。

「それでも不気味だという気持ちも分からんでもないからな。それならば、儂が責任を持ってこのノートを処分させて貰うぞ」
 マミゾウに言われ、小鈴は目を瞑り、黙って考える。
 百億近い別の世界の私は、今日どんなことを体験したのだろうか。
 日記を少し読んで、私とちょっぴり似ている子の日記なんだな、と微笑み、また棚に戻しただけのはずだ。
 そうしてやがて雨が降り、『この人』が店内に駆け込んでくる。
 ああまた会えた、と嬉しくなってすっかり日記のことなど忘れ去り、他愛も無いお喋りをして、しばらくしたら帰りを見送るのだろう。
 その光景は、簡単に思い浮かぶ。

「そう・・・・・・そうね」
 なんだか段々と、自分が今何をすべきか、小鈴の心に湧き上がって来る確信があった。
 沈黙を肯定と受け取って、立ち上がって背を向けていたマミゾウが、不思議そうに肩越しに振り返った。

 百億近い他の世界の私たちは、きっと今日も、何も踏み出せずにいたはずだ。
 この日記を書いた名も知らない外の人間は、九月十五日に『あの人』に出会えたのだろうか。
 きっと、会えただけで、やっぱりいつも通り何も出来なかったのではないだろうか。

 これが。これが、私が選ばれた理由なんだ。
 たくさんの他の世界の私と、日記の持ち主に背を押されるような気がして、小鈴は小さな拳を決意で握りしめた。

 一つ、深々と深呼吸。
 前に進めなかった九十九億九千九百九十九万九千九百九十九の私と、日記の元の持ち主。
 あるいは私が小説の登場人物ならば、今ここにいる私を読んでいる誰かさん。
 合わせて百億と少しの人々を振り返り、 小鈴はたった一言、「いってきます」と呟いた。

 そして小鈴はただ一人、立ち上がる。

 憧れの背中を、ただの憧れに終わらせないために。


――――あとがき

 はじめまして、密室少年と申します。
 初SS&初投稿ということで拙い作品ではありますが、僅かながらでも楽しんでいただけたら幸いです。
 次に投稿することがあれば、また目を通していただけると嬉しく思います。
 読了ありがとうございました。
密室少年
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コメント



0.200簡易評価
2.90名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
物語なら結末があるんでしょうが、これは日記ですから決意の結果がどう転んだとしても先へ続いていくんでしょうね。
3.100物色削除
やばい、この小鈴可愛すぎる。
これはマミゾウさんベタ惚れですわw
4.90奇声を発する程度の能力削除
面白いお話でした