注 このSSは作品集16にある『東方(ひがしかた)紅魔郷』、
及び作品集21にある『東方(ひがしかた)妖々夢』の続編となっております。
先にそれらを読んでいないとかなり大丈夫ではありません。
あと1ボス兼2ボス兼3ボス兼4ボス兼5ボス兼ラスボスのオリキャラがいます。
―――鏡の話をしよう。
鏡というものは人の生活に密着している。
目覚めて顔を洗おうとすればそこに鏡はあり、街を歩けば確実に鏡へ出くわす。
車という車は鏡に頼って視界を確保し、現在世界の通信網は鏡の原理で結ばれていた。
光を反射する鏡の性質は、強弱はあれど万物が持つものであり、
目に映らないほど小さなものを見るには鏡の性質が必要不可欠である。
鏡は太古の昔から人と共にあり、
遥かな未来でも――人があるかぎり――共にあるだろう。
人の生活は、鏡無しには成り立たない。
人の科学は、鏡の存在無しに発展することが出来ない。
人は、鏡が無ければ自分の正確な顔すら判らない。
―――だからだろう。人が鏡と向き合うのは。鏡に心惹かれてしまうのは。
人は鏡の中の世界を想像する。
何もかもが反転した世界。
常人では存在すらも許されない、鏡の怪物(ミラーモンスター)が生息する領域。
『アリス』が夢見た鏡の国。
大人たちが否定する鏡の中の世界。
人は鏡を恐れる。
深夜零時に向かい合わせの鏡を覗くと、鏡の中へ引きずり込まれる。
『ムラサキカガミ』。その言葉を二十歳まで覚えていると死んでしまう。
鏡の中の自分が、鏡の外の自分とすり替わろうとする。
鏡の中には悪魔が住んでいる。
人は鏡に幻想を見い出す。
鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番美しいのは誰でしょう?
吸血鬼は鏡に映らないという伝承。幽霊は鏡に良く映るという伝承。
願いを叶える魔鏡を求め、大空の冒険者(ガンバード)は飛び立った。
神器である八咫鏡、呪文を撥ね返すシャハルの鏡、風水で使う八卦鏡、妖怪の雲外鏡。
鏡は心を、罪を、未来を映すという。
―――鏡は全てを映しだす。鏡の中には全てが在る。
だが。
鏡はそれを、ただの偽物だと感じていた。
「……自分に、本物はあるのだろうか?」
その答えを得るためには、動くしかなかった。
魔法の森。
幻想郷にはそう呼ばれる場所がある。
その名の通り魔の法が支配する、普通の人間が立ち入るのはお勧めできない森だ。
幻想郷の魔が自ずから集まる事によって成立したその有様は、
何百年も前からロンドンにあるという食屍鬼街(オウガーストリート)と良く似ていた。
そんな魔法の森の夜に留まる少女がひとり。
髪は金で瞳は紅く、その背中には奇妙な形の羽。
それは明らかに常人のものではなく、事実そうではない。
―――少女は生まれながらの吸血鬼であった。
少女の名はフランドール。フランドール・スカーレットという。
「……つまんないなあ」
フランドールは不機嫌だった。
それは、この魔法の森に住む魔法使い――名を霧雨魔理沙という――のせいである。
フランドールが住んでいるのは、魔法の森から大分離れた湖にある洋館だ。
普段のフランドールはそこでゴロゴロしていたり寝ていたり暴れていたりする。
―――いや、それは正確ではない。
確かに少し前までのフランドールにはそれくらいしか選択肢が無かったが、
最近は外にも出かけるようになった。
とある事件を機会に知り合った人間たち、特に霧雨魔理沙と遊ぶためである。
そう。フランドールが魔法の森までやって来たのは、霧雨魔理沙に会うためであった。
「こういう時、運命でも判れば便利なんだけどね」
しかし魔理沙は不在だった。……その理由は大方見当がつく。
フランドールは空を見上げた。
空にあるのは多少の雲と、ほんの少しだけ欠けた月。
月の光はいつもの様に地上をあまねく照らし出し、夜を歩く者の道標となっていた。
だが、道標はあくまで道標にしか過ぎず、自衛の武器にも救いの手にもなりはしない。
月はただそこに在るだけの存在だ。―――常人にとっては。
(あんな物からじゃ力を得る事なんて出来ない。私は得られなくても問題ないけど―――)
生まれながらの吸血鬼は月の影響を強く受ける。
というか大抵の妖怪がそうだし、魔法使いの術だってそうだ。
普通の魔法使いである霧雨魔理沙は否応無しに気づいたのだろう。
今の月が贋物である事に。
……今の月はけして満ちる事がない。
このまま放っておけば、幻想郷の住人は二度と満月を見る事が出来ないだろう。
誰がやったのかは知らないが、解決するべき事件である事は確かだ。
しかし。と、フランドールは素直な感想を口にする。
「あんなの、放っておけば誰かが解決する事なのに」
たとえば巫女が。あるいはフランドールの姉とかが。
「放置すれば正体を理解する事は叶わないな。だから、彼女は自ら動いたのだろうさ」
「……。私はフランドール・スカーレット。あんたは誰?」
何時から居たのか。何処から現れたのか。
フランドールの目の前に、一人の少女が居た。
大きな黒い帽子に白いエプロン、全体的には黒白姿の金髪少女―――
霧雨魔理沙の姿をした、誰かが。
そいつは魔理沙と良く似た―――いや、同じ表情(かお)と声で言う。
「初めまして、フランドール・スカーレット。自分はミラー。ミラー・エバネセント」
「鏡(ミラー)?」
フランドールの言葉に、気取った仕草でミラーは答える。
「Exactly(そのとおりでございます)」
「ふん。で、その鏡さんは何しに出てきたわけ? 私の遊び道具となりに?」
「とても近い。そう、自分はあなたを誘いに来たのだ」
ミラーの瞳が月光の色に煌いた。
「自分が主催する、最初で最後の死亡遊戯(エクストラゲーム)へ」
エグゾーストノートだけを標として必死に指を動かした。
辺りは暗闇、狭苦しいトンネルの中。
カーブも地雷原も既に突破した。恐れるべきはあと一つだけ。
(……今だッ!)
彼は勘に任せて指を動かし―――
「うおおおおおお―――ッ!!」
トンネル内に仕掛けられたキャノン砲の一撃が、彼の車を完全に粉砕した。
『GAMEOVERッ!』
スピーカーから放たれた合成音声が、失敗にヘコむ心を効果的に逆撫でていく。
「……ああもう、止めだ止め!」
自身の敗北を宣言し、彼はコントローラーを床へと放り投げた。
―――彼の名前は東方仗助(ひがしかた・じょうすけ)。
見ようによってはダイヤモンドの形にも見える、特徴的なリーゼントをした少年だった。
さて、(当たり前といえば当たり前だが)仗助は実際に車を運転していたわけではない。
していたのは『F-MEGA』というレースゲームである。
ふとした拍子で無性にプレイしたくなり、押入れの中から引っ張り出してきたものだ。
それは十年以上も昔のゲームであるが、面白さはまったく色褪せてはいなかった。
「……ちっ、初めてキャノン砲のところまでたどり着けたのによ~。
あとどんくらいプレイすればあのトンネルを突破出来るんだ……?」
口では不愉快げにそう言うものの、仗助は純粋にゲームを楽しんでいた。
指の動きに応える車の挙動が、
遊べば遊ぶほどはっきりと腕が上達していく感覚が、実に心地いい。
「―――もう一回やってみるか」
その感覚が仗助に再びコントローラーを握らせた。
次は今よりも上手くやれる。そう信じてスタートボタンを押す。
前回も、前々回も、同じように再スタートを選んだ。そうして少しずつ上手くなってきた。
諦めさえしなければ、人は成長し続けるのだ。
―――キャノン砲のところまでは実にあっさりとたどり着いた。
(今度こそ…ッ!)
仗助は、前回よりも経験の分だけ速いタイミングで指を動かし―――
キャノン砲が弾と共に放つ光が、仗助の操作する車を映し出す。回避・成功。
「いよっしゃあッ!」
トンネルの出口が見えた。プログラムで描かれた太陽の光が見えた。
このトンネルを抜ければ車の速度は二倍になる。
仗助はその加速に備え、車体の角度を微調整し
――その時、来客を告げるチャイムが鳴り響いた――
精神的動揺によって操作ミスをした。カーソルキーを長く押しすぎてしまった。
車は不適切な角度でトンネルを飛び出し、コースアウト。地面に激突、爆発四散。
「……あああ~ッ!」
炎上する己の車を見ながら、仗助は悲鳴を上げた。
来客とあれば仕方が無い。仗助はゲーム機の電源を切って立ち上がり、玄関へと向かう。
「……まったくよ~、どこのどいつだ?」
現在時刻は午前十時、そして今日は休日。
その状況下で訪ねてくるのは、さて誰だろう。……宅配便あたりだろうか?
(判子はどこにあったっけか……)
仗助は玄関の扉を開けた。
「どうも、おはようございます」
そこに居たのは紅美鈴(ほん・めいりん)だった。
紅美鈴は幻想郷のとある館――名は紅魔館という――の門番を勤めている妖怪だ。
美鈴と仗助はある事件で知り合い、それから結構な長さの付き合いがある。
「……美鈴さん。何があったんスか?」
一目見ただけで、何かあったと判る程度の付き合いが。
「……はい。フランドール様が誘拐されました」
「……グレート」
朝の来訪者は、脅威の知らせ(バッドニュース)をひっさげてきたようだ。
詳しい事情は家の中で聞くことにした。
それはあまりおおっぴらには出来ない話だからであり、コーヒーを淹れるためである。
「美鈴さん、ミルクと砂糖はどうします?」
「砂糖だけでお願いします」
心を落ち着かせて話をするためには、飲み物が有効だ。
「―――ふう。誘拐されたという確証はあるんスか?」
自分の分を一口飲み、仗助は美鈴に聞いた。
「フランドール様が出かけてから二日以上が経っていますが、未だ連絡の一つもありません」
吸血鬼にとって太陽の光は禁物だ。
いつもはどこに行っても朝までには帰ってくる。帰れない場合はそれなりの連絡をする。
今まで、こんな事は無かった。
「そしてもうひとつ。犯人と思われる相手からの知らせがありました」
「どんな形でです?」
連絡手段の形からは相手の情報がかなりのレベルで読み取れるものだ。
他者の体を使って連絡してくればそういう技能と性格を持った相手だろうし、
本人が堂々とやってくれば、それだけの実力と根性を持っていると判る。
「鏡です」
紅魔館じゅうの鏡という鏡に文章が書かれていたのだという。
『フランドール・スカーレットを誘拐させてもらった。自分を見つけ出してみろ』と。
「……そんだけ?」
美鈴は無言で頷いた。
「……ストレートっつーかノーヒントっつーか……」
どうやって探し出せばいいのかさっぱりだった。
仗助は、(おそらくは美鈴も)フランドールの身の安全については全く心配していない。
なぜならフランドール・スカーレットの力は、とてつもないレベルのものだからだ。
誘拐したなどと犯人は言っているが、実質は共に居るというだけなのだろう。
(もちろん誘拐したという言葉が大嘘で、そもそも一緒に居ないという可能性もあるが)
犯人がフランドールを力ずくでどうにかしようとしても無駄だ。
フランドールがその気になれば犯人は一瞬で破壊される。
こと破壊において、フランドールの右に出る者は存在しない。
―――そう、それが問題なのだ。
「見つかるのは時間の問題と思います。
既に咲夜さんが捜索を開始していますし、相手方からの接触もあるでしょう」
わざわざ誘拐宣言をするという事は、犯人が接触を望んでいるという事だ。
誘拐対象だけが目的ならば、宣言などという無駄かつ危険な行為をするはずもない。
「で、ですね。見つかった際には仗助さんの力を貸してほしいんです」
美鈴が仗助のところまでやって来たのは、仗助の持つ力を借りるためだった。
といってもそれは捜索のためでも戦闘のためでもない。
「その、直す力を」
復元のためである。
……フランドールという少女には少しばかりワケの解らないところが存在した。
はたから見ればきっかけとも思えないようなきっかけで暴走を始めるという性癖だ。
―――ありとあらゆるものを破壊する程度の能力を使い、
何が壊れようと気にせず、何を壊そうと気にせず、自分の理屈で動きだす。
それは結局のところ力を持つ誰かによって止められる定めだが、
周囲はその余波で実に酷い事になる。コーラを飲んだ後ゲップをするくらい確実に。
……美鈴はそのフォローを仗助に頼んでいるのだった。
フランドールが壊したものを、その力で直してほしいと。
見つかった時、フランドールが暴走しているかどうかは判らない。
だが、万が一に備えるのはけっして悪い事ではなかった。
その万が一が、危険であればあるほどに。
……フランドールの暴走は危険だ。そしてそれに関わるのはとても危険な行為だ。
ただ暴走で破壊されたものを直すだけであっても、余波によって命の危険がある。
仗助も美鈴も、それを解っていた。
それでもなお仗助に頼んでいるのは、それが仗助にしか出来ない事だからであり―――
頼りになる相手だと、思っていたからだ。
仗助の答えは決まっていた。
「オッケーっス。この仗助さんに任せてくださいッスよ~!」
紅魔館の住人には色々と世話になって(主にタダ飯とか)いるし、
フランドールの暴走の後処理はいつもやっている事でもある。
そして、何よりも―――犯人に対して腹を立てていた。
言葉を尽くして語るまでもない。
犯人のやり口が、気に食わなかった。
(許せねえ……!)
仗助は、心の底からそう思った。
だから、頼まれた以上の事をしようと決めた。
「……ところで美鈴さん。今からニューヨークまで飛べます?」
仗助が言うニューヨークとは、他のどこでもなくアメリカのニューヨークのことだった。
そこに『彼』は住んでいた。
―――老人は己の部屋の窓を開け放して空を見ていた。
空にあるのは欠けのひとつも無い綺麗な月。
まごうことなき夜だった。
「さすがに夜は冷えるの~……」
ひとり呟き、老人は左腕の義手を軋ませる。
年老いた体に夜の空気は堪えた。
明日も早い。本来ならばとっくに床へ着いて眠っているところである。
……そうしたいのは山々だったが、しかしそうするわけにもいかない。
約束がある。
老人は、底に優しさを湛えた眼差しで夜空の月を見ていた。
……この老人を知っているだろうか?
その眼差しを、その義手を、知っているだろうか?
―――空の月の中に、ひとつの影が現れた。
影は見る見るうちにその大きさを増していき、十数秒程度ではっきりとした形に変わる。
それは人だった。
鳥よりも早く空を飛ぶ、赤い髪の少女と、奇妙な髪型の少年だった。
「やれやれ、ようやく来たか」
老人は彼らを待っていた。
己の能力を頼りにして、はるばる日本からやって来た彼らを。
……彼らは、開かれた窓から部屋の中へと降り立った。
彼らの纏っていた熱く爽やかな風が、部屋の中から外へと吹き抜けていく。
「―――あ~、しんどかった」
少年は深呼吸をし、そして少女に向かって言う。
「……ジャンボジェットとの正面衝突はさすがに勘弁してくださいッスよ。洒落になんねえ」
「いや、予想以上に速かったもので。今の飛行機って凄いんですねえ」
見た感じ、旅の疲れはほとんど無いようだった。喜ばしい事である。
「……元気にしておるようじゃのう、仗助」
老人は少年―――東方仗助に声をかけた。
「そっちこそ。バアちゃんとは仲良くやってるか?」
老人の言葉に仗助は悪戯っぽい笑みで答え、少女―――紅美鈴に向かって言う。
「ええと、紹介します。このじじいの名前はジョセフ・ジョースター。おれの親父っス」
「よろしくの~、お嬢さん」
老人―――ジョセフと仗助は相当歳が離れてはいるが、
確かに血の繋がった実の親子である。
……この辺りの事情は実に複雑なものがあるのだが、大切なのはたったひとつだ。
互いが互いを認めているということ。
「で、この人が紅美鈴。さっき電話で話した、紹介したいひとだよ」
「どうも、初めまして。仗助さんにはいつも色々とお世話になってます」
困った時、頼りにしようと思えるほどには。
「では、さっそく始めるとしよう」
お互いの挨拶が済むと、すかさずジョセフはそう言った。
仗助たちはジョセフの力を借りに来たのであり、話をしに来たわけではない。
事態は一刻を争う。
「ところでワシ、どこにカメラを置いたじゃろう?」
ど忘れというのは誰にでもあるものだ。
「……そこにあるよ」
不安と諦観と心配の混じった複雑な表情で仗助が指し示したのは部屋の中央。
しっかりとした作りのテーブルがそこには置いてあり、
そしてテーブルの上には一台のポラロイドカメラが載っていた。
「おお、そうじゃったそうじゃった」
頷きながらジョセフはテーブルへと近づいて―――
「ふんッ!」
己の左腕に『茨』を生やし、それを思い切りカメラに叩きつけた。
それは、力を発揮するためには絶対に必要な行為だった。
ジョセフが持つ力の名は『隠者の紫(ハーミットパープル)』という。
それは妖怪が持っている力とも、幻想郷の人間が持っている力とも違う、
『幽波紋(スタンド)』と呼ばれる系統の力だ。
……一口にスタンドと言っても、さまざまなタイプの力が存在する。
たとえば新しい生命を作り出すもの、触れた物を爆弾へ変化させるもの、
天候を操作するもの、他者を老化させるもの、何かを集めることに特化したもの。
――仗助が持つ復元の力も、スタンドと呼ばれる力である――
スタンドの能力は個人個人によって違い、似た力はあっても同じ力のスタンドは存在しない。
ジョセフのスタンド、ハーミットパープルは、
自身の体の内側から茨の形をしたエネルギーを放出するというものだった。
それは直接戦闘には向いていないものの、かなり応用の利く力である。
物に絡みつかせてロープ代わりに使うことも、砂に見知らぬ街の地図を映し出すことも、
電線の中に入り込んで敵の居場所を探る事も、
テレビの音声を使って『念聴』をする事も―――
カメラを使って遠く遠く離れている位置の敵を『念写』することも出来た。
ジョセフがカメラに腕を叩きつけたのは、ハーミットパープルで念写をするためだった。
カメラを使って念写する場合、こうしていちいちカメラを破壊しなければならないのだ。
それは年老いた体には少しばかりキツい行為であったが―――
鋼で出来た義手はカメラを効率的に破壊し、
義手に生えた『茨』は中のフィルムに傷を付け、像を描いた。
半壊状態のカメラから、音と共に勢いよくフィルムが吐き出される。
ジョセフはフィルムを手に取り、
「ぬう……!」
そして呻いた。なぜなら、そのフィルムに写っていたのは―――
時は少しだけ遡る。
―――空にあるのはほんの少しだけ欠けた月。
月の光射す魔法の森を、彼女は歩いていた。
髪は銀で瞳は青く、着ている服はメイド服。纏う気配は刃物のように冷たく鋭い。
……夜の魔法の森に、普通の人間は足を踏み入れない。
ならば、あえて踏み入れる人間は普通の人間ではないのだろう。
それもそうだ。メイドが普通であるはずもない。
今の時代のメイドは、仗助のような不良と同じくらい稀少で『幻想的』な存在だ。
彼女の名前は十六夜咲夜。
紅魔館のメイド長を勤める、時間を操る程度の能力を持つ女性である。
(……厄介な)
と、歩きながら咲夜は思った。
たとえ偽物でも、月が示すもの――夜の始まりと夜の終わり――に変わりは無い。
月時計は咲夜にとある事実を知らせていた。
何者かの手によって、夜が引き伸ばされている事を。
(ただでさえ面倒な事になっているというのに……。
この現象を引き起こしてる相手ともやり合わなければいけないのかしら……?)
誘拐犯人が、夜を引き伸ばしている犯人でもあるのなら面倒が無くていいのだが。
咲夜が魔法の森へやってきたのは、言うまでも無く事件の手がかりを探すためである。
フランドールが最後に目撃されたのはこの魔法の森だった。
手がかりがあるとすれば、ここしかあるまい。……魔女の占いにもそういう徴が出た。
(……)
咲夜は立ち止まり、闇の中へ声をかける。
「さっきからこそこそしてる奴。顔を見せな」
答えはすぐに返ってきた。
「……あなたの戦いぶりを見させてもらったよ」
言葉と共に現れたのは―――緑色の短髪に触覚を持ち、黒いマントを付けた少女。
その顔に見覚えは無いが、見れば色々と判った。
「なんだ虫か。……手がかりにも道標にもなりそうにないわね」
「虫を侮ってはいけない。
蛍の光で本を読む事は可能だし、サティポロジァビートルの腸は武器になる」
「束ねれば、でしょ? 単独の虫で有用なのは、毒を持っているものと寄生虫ぐらいよ」
言いながら、咲夜はナイフを取り出した。
「あなたはどちらかしら」
「どちらでもないな。『自分』は虫ではないから」
緑髪の少女は、森の闇の中から蟲たちを呼び出し―――そして戦いが始まった。
決着はすぐに着いた。
「あーあ。見つからないなあ、手がかり」
ナイフの汚れを拭い取りつつ、はっきりと落胆を表して咲夜は言った。
ちょっとやそっとでめげるつもりはなかったが、
この森に入ってからはこんな事の繰り返しだ。さすがに疲れた。
「いいや、手がかりなら既に見つけているはずだ」
その声が己の右横から聞こえた瞬間、咲夜は己の力で時間を止めた。
音と風と命と―――時間に縛られている全ての物が一斉に動きを止め、世界は静止する。
『今』動けるのは時間に縛られないものだけ、この場においては十六夜咲夜だけだ。
(聞き覚えの無い声だ―――)
まず確かめるべきは己へ迫る攻撃の有無、次に相手の位置。
静止した世界の中を、咲夜は動き
「ッ!?」
「……これが停止した時間の中か。あなたはいつもこんな光景を見ているのか―――」
自分と同じように動いているそいつを、見た。
止まった時間の中を動ける存在などたいして珍しくも無いと、咲夜は解っていた。
以前、仗助から聞いた事がある。
仗助の年上の甥は、時間を止めてその中で動く事が出来るのだと。
幻想郷にも、自身の能力を応用すれば止まった時間の中を動けるであろう者たちが居る。
たとえば巫女や、たとえば境界に住まう妖怪だ―――
だから咲夜が驚いたのは、そいつが止まった時間の中で動いている事にではない。
その姿に驚いたのだ。
そいつは十六夜咲夜だった。
顔も服も声も――己の声はこう聞こえるのかと咲夜は思った――全て咲夜と同じだった。
……咲夜は己が力の使用を止め、時の歯車から手を離す。
止まっていた瞬間など無かったかのように、時は自然に動き出した。
そいつの唇が、動いた。
「手がかりは『自分』だよ、十六夜咲夜」
その言葉で咲夜は悟る。
「……なるほど、確かに虫じゃあない。人の姿を真似るのは虫ではなく獣だわ」
そいつは、先ほど咲夜が戦った相手と同じ存在なのだと。ただ見た目と力が違うだけで。
「獣? そうなら話は簡単だったけど、あいにく自分は獣じゃない。鏡だ。
自分の名前はミラー・エバネセント。この名を忘れないでほしい、十六夜咲夜」
―――聞き覚えは無かった。そして、名乗った覚えも無かった。
咲夜の顔には自然と笑みが浮かんだ。
「鏡よ鏡よ鏡さん、ひとつ教えてちょうだいな。フランドール様は今どこに?」
その笑顔の裏にあるのは、笑顔越しにでも判るほど鋭いもの。
ミラーがそれに気づかないはずは無かったが、反応を表に出すことは無かった。
「鏡の国でゲーム中さ。しばらく戻る気は無いそうだ」
「じゃあ、その鏡の国とやらに案内してもらいましょうか―――」
咲夜は言い終わらぬ内にナイフを取り出し、ミラーへと投げつける。
標的までの距離は短い。そしてナイフの速度は速い。このままなら確実に当たる。
時間を止めればかわせるだろうが、
しかしお互い停止した時間の中で動けるゆえに、有利なのは先手の咲夜だ。
ミラーとミラーに向かうナイフを見据え、咲夜は考える。
(こいつは私をどこまで真似られる―――?)
見た目と力の一部か。力の全てか。心までもか。
それを確かめるための一投であった。
もちろん次のナイフは既に準備済み、ミラーがどう動こうと問題無く対処できる―――
「……!」
あまりに予想外な行動でなければ、だ。
ミラーは時間を止めなかった。
時間を止めず、空間をいじくる事もなく、完全に瀟洒にナイフをかわしてみせた。
己の足元に現れた鏡の中へと沈み込む事によって。
「―――案内は出来ない。だけどしかるべき時が来れば、こちらから招待させてもらう」
鏡面から、上半身だけを出した状態でミラーは言った。
そしてそのまま鏡の中へと沈み込んでいく。ここから撤退するつもりなのだろう。
だがその程度の行動。そう、その程度の言葉。
「その程度の言動、私が予想していないと思った?」
咲夜の行動は、ミラーよりも速く終わっていた。
「……上か!」
鏡面に写る『それ』に気づいたのか。ミラーは己の真上を仰ぎ見る。
―――それは、自身を狙うナイフの群れ。
多く、速く、煌びやかなその姿は、ガラスのシャワーと良く似ていた。
何もせずにそれを避けられるほどの運は己に無い。ミラーはそれを知っている。
「意思無きものはお呼びじゃない……!」
だからミラーは咲夜のようにナイフを取り出し、降り注ぐナイフへ向けて撃ち出した。
撃ち出す量は鏡のように、迫り来る群れと同数だ。
接触。
けたたましい音を立ててナイフ群は離散し、全て鏡狙いの軌道から外れた。
しかしそれに安堵する暇も無く―――咲夜がやって来た。
「あなたもだ! 十六夜咲夜!」
「知ったことかい」
手を伸ばせば触れられる距離。
ミラーが降り注ぐナイフに気を取られている隙に、咲夜はそこまで近づいていた。
敵に近づいてする行為など、一つしかない。
「―――ッ!」
攻撃である。
咲夜は両手にそれぞれナイフを握り、地を這うような姿勢でミラーに斬りかかった。
刃が狙うは首と腕。その速度は疾風のごとく。
「速い…!」
そこに手加減などは一切無い。
一撃でも当たれば、そのままなす術も無く全身を切り刻まれることだろう。
「しかし、あなたが速ければ速いほど……!」
当然、それを黙ってミラーが受け入れるはずもなかった。
かわすか、立ち向かうか。
……鏡面に沈んで避け、逃げ出す事は出来なかった。
そんな真似を許してくれるほど、咲夜のナイフは遅くない。
だからミラーは咲夜と同じようにナイフを握り、己への斬撃に斬撃で対抗する。
斬り裂かれた大気が唸り、かち合う刃が悲鳴を上げる。
―――咲夜とミラーの力は互角だった。
当然だ。
今のミラーの体は咲夜を模したもの。その力、上回る事は無いが下回る事も無い。
そして体のスペックが同じならば、それ以外のものが勝負を決める。
地形、流れ、運、武装、経験、そして―――覚悟。
ミラーは冷たく冴える咲夜の連撃を、皮一枚というところで凌ぎ続けた。
余計な部位は動かさず、ただ腕だけを動かし、刃に刃をぶつけて相殺する。
退く事も進む事も出来ないが、しかしそれは相手(さくや)も同じだ。
ただ、無心に踊り続けるしかない。
―――それは相手が咲夜だからこそ、ミラーが咲夜の体だからこそ出来る剣舞だった。
しかしあと数秒足らずでその舞いは終わる。
確かに体のスペックは互角だ。けれど先手を取った分、咲夜のほうが有利だった。
「……結構やるじゃない。って、これは自画自賛になるのか?」
ナイフを振るう手を止めずに咲夜が言う。
その表情にあるのは余裕だ。目前にある自身の勝利を、咲夜はしっかりと認識していた。
「自画自賛の何が悪い? あなたは本当に凄い人だ。もっと自分の力を誇ってくれ」
迫るナイフに己のナイフを当てながらミラーが言う。
その表情にあるのは咲夜と同じ余裕だ。
咲夜が認識しているように、ミラーもまた認識していた。
『自分』の力というものを。
「―――そう、『自分』の力にあなたは負ける!」
叫びながらミラーは両手のナイフを振るう。
その速度は今までと変わらず、込められた重さも変わってはいない。
変わったのは軌道だけだ。
その軌道が咲夜のナイフを弾き飛ばした。
……それはありえない軌道だった。
ミラーが両手のナイフを振るったのは、ただ一度。
当然その軌跡は二本以上にも以下にもならないが、しかしこの時の軌跡は十二本あった。
幻でも数え間違いでもなく、実際に。
それは言うまでも無くミラーの仕業である―――
全ての存在は空間の上に『立って』いる。
地面に寝転がる猫も、空を流れゆく雲も、万物を構成するクォークも、
皆等しく空間という足場の上に立って、この世界に存在している。
その足場の状態が変化すればどうなるだろうか?
たとえば隣の足場が遠ざかり、入れ替わりに遠くの足場が隣の足場になったとしたら。
自分の立っている足場の半分が、遠くにある足場の半分と摩り替わってしまったら。
ミラーがしたのはまさにそれだ。
己のナイフが通る空間をいじくり回し、いくつかの離れた空間と繋げたのだ。
そのラインをなぞるだけで、ナイフが複数の空間を同時に移動するように。
それはミラーの力ではなく咲夜の力、『時間を操る程度の能力』によるものだった。
昨夜は時を操れるが、同時に空間をも操れる。時と空間は切り離せない物であるゆえに。
ミラーは普通に両腕を振り抜いただけだ。
それだけでナイフは十二の空間を同時に動いた。
ミラーのナイフが向かった先は、咲夜が握る二本のナイフ。
右手のナイフに七本の軌跡が、左手のナイフには五本の軌跡が流れ込み―――
軌跡本分の衝撃を受け、咲夜のナイフは弾き飛ばされた。
視覚ではなく手応えからそれを理解したミラーは、
「今はさよならだ、十六夜咲夜!」
追撃をせず鏡面へと沈み込み始めた。
戦いを続けるための集中力も、ナイフを握り続けるための握力も、
時と間を操り続けるための『力』も―――今の一撃で限界に達していた。
だがそれは。ミラーだけだったらしい。
「はいさようなら、とは行きませんわ」
ミラーの背後から、咲夜の声がした。
と同時に腕が、ミラーの首と両腕に絡み付いていた。
「ッ!」
いつの間に―――などと問うのは意味が無い。咲夜は自分の力を使ったのだろう。
時と間を操れば、誰かの後ろに回りこむなど簡単な事だ。
「あなたは……!」
だが、今のミラーは大地に出現した鏡面へその体を沈み込ませている。
……それはミラーが固い鏡面へ入り込めるよう己の体を変調させているのではなく、
鏡面がミラーという存在を受け入れているのだ。
全てを飲み込む底なし沼のように。
―――今の鏡面に土塊でも落とせば、土塊は鏡面の内側へ融けて消えるだろう。
つまりミラーの後ろを取るという事は、己自身も鏡面へ沈み行くという事だった。
「さあて、案内してもらいましょうか?」
既に咲夜の体は半ば以上鏡面に沈み込んでいた。
しかし、その声に動揺は無く、迷いも無く―――ただ決意だけがあった。
「……あなたは躊躇わないんだな。
この先は、人の身では一秒とて生きていけない環境かもしれないのに」
「手がかりを逃すわけにもいかないでしょ?
一秒すら生きてはいられないというのなら、目的を果たすまで時を止め続けるだけよ」
―――その言葉の内に秘められたものに、ミラーは痺れた。
「……さすがは十六夜咲夜。
自分にはできない事を平然とやってのける。……自分はそこに憧れる―――」
その言葉を言い終わるかどうか、という時、二人の体は鏡面へと沈みきった。
幾許も無く鏡面も消え、後には何も残らない。
弾かれて地に転がるナイフのみが、闘いの跡だった。
月だけが、それを見ていた。
傍らにはテーブル。
お気に入りの椅子に座って窓越しに月を見ながら、その少女はティーカップを口に運ぶ。
「……」
美味しくないな、と少女は心の中だけで呟いた。
カップの中身はいつもと同じ―――。飲む自分も場所もいつもと同じ。
いつもと違うのは、それを淹れたメイドだけ。
―――カップにそれを注いだのは、十六夜咲夜ではない。
「ふん」
つまらなそうな表情で、少女は自身の翼を一打ちした。
その少女には翼があった。蝙蝠と同じ見た目の、しかし大きさはまるで違う翼だ。
その翼は作り物ではない。
その青い髪と紅い瞳も、作り物などではない。
少女は生まれながらの吸血鬼だった。
少女の名はレミリア・スカーレット。
フランドールの実姉であり、十六夜咲夜の主人であり、紅魔館の館主である少女だ。
……音も無く、部屋の扉が開いた。
「ただいま戻りました、お嬢様」
言葉と共に部屋へ入ってきたのは―――
十六夜咲夜だった。
「……首尾は?」
レミリアは椅子の上から動かず、ただ視線だけを咲夜に向けて言う。
咲夜はレミリアへと歩み寄り、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。
手がかりは見つけたのですが、あと少しというところで取り逃してしまいました」
「それは残念」
「ですけど、こんな物を拾いましたわ」
咲夜が取り出してみせたのは、真っ赤な宝石の付いたペンダントだった。
「……綺麗ね」
「犯人が落とした物です。これを調べれば、詳細な手がかりが―――」
その言葉を遮ってレミリアは言う。
「調べる必要は無いわ」
「は?」
実に間抜けな表情をする咲夜へ、レミリアは告げた。
「犯人は私の目の前に居る。……まったく、『咲夜』は何をやっているのかしら?」
―――潔いというべきか、諦めが早いというべきか。
咲夜の姿のまま、『それ』は言った。
「……まずは自己紹介をさせてもらおう。
自分はミラー・エバネセント。今は誘拐犯であなたの敵だ。
―――しかし参ったな。これでも本気で真似ていたのだが。……何故判った?」
『それ』があまりに可笑しかったので、レミリアは笑い―――
「判らない理由があるとでも?」
言う。
―――そこに、何を見て取ったのか。
ミラーは、罠と共に水へ沈められるネズミのように顔を青ざめさせた。
「……レミリア・スカーレット。
あなたは本当に恐ろしい方だ。迫る死よりも恐ろしい存在だ……」
しかしそれはほんの僅かな時間だけ。
ミラーは瞳に決意を滾らせ、静かに言った。
「だからこそ。乗り越えた時には多大な栄光を掴めるだろう―――」
レミリアへ見せ付けるように、ミラーは右手を自身の胸元へと動かす。
その手に握られているのは先ほどのペンダントだ。
―――そしてミラーは己の力を使う。
鏡としての力を使い、光の有る場所から光の無い場所へ光を運び―――
真っ赤な宝石が太陽のように煌めいて、一筋の光を放った。
それはただの光ではない。
石によって集束増幅された光、鋼鉄のエンジンを破壊出来るほど強力なレーザーだ。
光線が向かう先はレミリアの胸。
狙いは正確、速度は光速。動いてかわす事など出来はしない。
「……!」
しかし光線は、『たまたま』射線上にあったティーカップに行く手を阻まれた。
受け止められたのではない。反射されたのでもない。
逸らされたのだ。
……光線はカップを貫いた。そこまではよかったが、その中には液体が在った。
光は、ある物質から別の物質に角度をつけて入ると進行方向を変える性質を持つ。
それは光の伝わる速度が物質によって大幅に異なるからだ。
レーザーのように強い光でも光は光。その性質は変わらない。
光線は紅茶という液体によって屈折し、進む先を壁へと変えた。
カップの穴から中身が漏れ出て、床を赤く染めていく。
「あー。これ、わりと気に入ってたんだけど」
手に持ったカップを見ながら、傷ひとつ無いレミリアが呟いた。
「―――それは済まない事をした。
お詫びと言ってはなんだが、あなたに歴史の影へ埋もれた深紅の秘伝説を語ろう」
レミリアはテーブルにカップを置き、興味深げな視線をミラーに向けて言う。
「へえ。歴史には詳しいほう?」
「ハクタクほどではないが。
……あなたはエイジャの赤石というものを知っているか?
己に当たった光を増幅して一点から撃ち出す、自然の作り出したレーザーユニットだ。
それの力を利用し、自らの野望を達成しようとした者が居た。
彼の野望は結局のところ人間の力に、いいや地球の力に粉砕されたわけだが―――
しかし赤石は残った。
赤石の中で最も大きく美しい、自然が生んだ奇跡の完全結晶。
スーパー・エイジャは。……それが、これだ」
ミラーはペンダントに嵌められた真っ赤な宝石を指し示す。
「といってもこれは自分の写し出した真っ赤な偽物だが、
――蓬莱山輝夜が持つものは、エイジャの赤石だがスーパー・エイジャではない――
威力のほうはたった今示したとおり。光に弱い存在を滅殺するには十分だ」
蛍、蝙蝠、本、写真、人間。
影の中に潜み人へ選択を迫るスタンド、使いこなせないほど強暴な殺人ウィルス。
光に弱い存在といってもさまざまだ。
しかしミラーが言っているのは、今挙げられたどれでもなかった。
それは強い力を得た代わりに光の下を歩けなくなったもの、吸血鬼と呼ばれる種族。
「―――ツェペシュの幼き末裔よ。あなたはこの光に耐えられるか?」
レミリア・スカーレットに他ならない。
その事を、自身の性質を、レミリアが理解していないはずはないが―――
「無理無理。直撃すれば居ないはずの王女になっちゃう。直撃すればね」
しかしレミリアに警戒の色は無かった。
それは何故なのかと考えながら、ミラーは言葉を発する。
「直撃するとも。……周りを見るといい」
レミリアはごく自然な動きで周りを見回し、そしてその存在を認めた。
「おやまあ」
そこにはナイフがあった。
何十というナイフがレミリアを取り囲むように配置され、空中に静止していた。
それはミラーが咲夜の力――空間を操作する力――を使って造り上げた銀刃の結界だ。
ミラーがレミリア相手に講釈を打ったのは、それを気取られずに作成するためであった。
「光を避けようとすればナイフに、ナイフを避けようとすれば光に当たる。
曇りの無いナイフは反射鏡の役割を果たし、当たらないはずの光を当てにくる……」
なるほどこれは直撃するわ、とレミリアは頷いて、
「じゃあなぜ今すぐ撃とうとしない?」
至極もっともな問いかけをした。
それは、相手を『理解』しようとするための問いだった。
「……相手を力任せに叩き潰しても、それは乗り越えた事にはならない。
相手を乗り越えるという事は、相手の全てを『理解』し、見切るという事だ」
ミラーは静かに問いへ答え、そして問う。
「だから自分はあなたに問う。
―――あなたは何故動かない?
死の刃を突きつけられながら、そして妹をさらわれながら、何故動こうとしない?」
行動を起こさなければ、望む未来を手に入れる事なんて出来はしないというのに。
「動かない理由を教えてくれ。……あなたは諦めてしまったのか?」
言葉を放つミラーの瞳には、さまざまなものが混ざって浮かんでいた。
戸惑い、悲しみ、怒り、怯え、迷い、……希望。
レミリアはそれらを正確に読み取った。そして、本気で腹を立てた。
「私が諦めただって? 冗談じゃない!」
侮辱にも程がある。
「私が動かないのはね、動く理由が無いからだよ……!」
その一言で。部屋の空気が変わった。
「…ぐ………!?」
呻き声を上げ、ミラーが膝をつく。その手から力が抜け、ペンダントが床に滑り落ちた。
レミリアを囲んでいたナイフが、全て床に落ちて硬質の音を立てる。
(なん…だ、これ、は……!)
体が異常に重かった。
100パーセントの純粋酸素を吸い込んでしまったような、
あるいは鉄分を失いすぎてしまったような、脳みそに拳を打ち込まれたような、
全世界的悪夢(ナイトメア)の中に居るかのような。
そんな劣悪な体調になっている。急速に。
「―――さっきの講釈のお返しに、私もひとつ講釈をしてあげる」
レミリアの声が、内側から響くようにミラーの頭をかき回す。
「ラプラスの悪魔って知ってる?
現在の全ての物の動きを読み取り、そのデータから未来を予測する悪魔のことよ。
その予測精度は極めて高く、予測の未来と実際の未来は寸分たりとも違わないわ。
ラプラスの悪魔の予言は外れない。
それを傍から見れば、まるで『運命』を読み取っているように見えるでしょうね」
レミリア・スカーレットは、『運命』を操る程度の能力を持つと言われている。
「そして正確な未来を計算できるなら、どうすれば望む未来を掴めるかも計算できる。
―――光を曲げる最適な角度も計算できる」
「そう…か……! あの、カップの位置は、全て計算されて…いた、のか…!」
レミリアは、にやりと笑って言った。
「『勝利というのは戦う前に全て既に決定されている』。孫子だっけ?
お前の敗北は、お前がこの部屋に入ってきた時から決まっていた。
私の気が充満するこの部屋にね―――」
レミリアの指先からは、紅色の霧が湧き出ていた。
……その霧はすぐに拡散し、大気に紛れて見えなくなる。
だが、見えないだけで霧はそこにあるのだ。運命のように。
「運命を解する悪魔の領域に入りこんで、ただで済むと思ったのか?」
霧は静かに忍び寄り、そして入り込んでくる。
ただ部屋に居るだけで、必然的に霧を体内へ取り込んでしまう。
その霧は基本的に害をなさないが、しかしレミリアの意思ひとつで何時でも暴れだす。
体内で暴れる霧は、生命活動を阻害して―――
「……はッ、はぁ……!」
今のミラーのように、戦う事すら出来ない体調へと変える。
完全に、ミラーの負けであった。
「…さ、さすがは…レミ、リア……スカーレット……。
二度と、お目にかかることは、無いだろう……!」
呻きながら言うミラーへ、レミリアは冷たく鋭い表情で告げる。
「……予言してあげるよ、ミラー・エバネセント。
あんたは敵対した全員に負ける。その力にではなく、その心に負ける」
ミラーは苦しげに息をつきながら、しかしその瞳に情熱の炎を滾らせて咆えた。
「……敗北は、怖くない……! 自分が、恐れるの、は―――!」
ガラスが砕けるような音が響き、ミラーにヒビが走っていく。
――それは、服から肉体に、肉体から服にと切れ目なく走る、異常なヒビだった――
そしてミラーは、内側から力を加えられたかのように弾け飛んだ。
爆発さながらの勢いで全方向にばら撒かれるそれは、肉ではなく鏡の破片。
「!」
レミリアは咄嗟に自身の翼で体を護り、迫り来る鏡の刃を受け止め、逸らす。
その手ごたえは確かなものだった。
……第二波は無かった。
ミラーは消えうせ、跡と呼べるものは何も残ってはいない。
ペンダントも、ナイフも、たった今ばら撒かれた鏡の破片すらも。
「……ふん」
レミリアはつまらなそうに呟いた。
「何故動かないかって? そんなの決まってるじゃないか」
理由は色々ある。
咲夜に任せておけば万事が万事大丈夫だというのもある。
運命を計算し、動かなくても問題ないレベルの事と判断したというのもある。
計算外の出来事が起こった場合、それに素早く対処するためというのもある。
しかし、もっとも大きな理由は―――
「私が出迎えてやんなきゃいけないんだよ」
家族の帰りを待つのは、帰ってきた家族を出迎えるのは、家族として当然のことだ。
だから、レミリア・スカーレットは動かない。
―――それは、動く必要が無いという事なのだろうか?
「ぬう……!」
そのフィルムに写っていたのは、仗助たちが現在居る部屋だった。
仗助たち自体は写っていないが、家具も広さも色調も、全て現在の部屋そのままだ。
美鈴と共にフィルムを覗き込んでそれを見た仗助は、部屋を見回して考える。
「……どういうことだ? ワケ判んねー……」
仗助は、いつぞやの写真に潜んでいた敵の事を思い出す。
あの時とは違い、敵がこの場(写真)に居るわけではないようだ。
ならば、この写真は何を意味しているのか。
「おれら以外は何も違いがねーじゃねーか……!」
「……いや、違いは他にもあるぞ」
ジョセフが静かに言った。
その瞳にあるのは、成りたての吸血鬼を手玉に取った時と同じ煌めきだ。
「こいつをよーく見るんじゃ」
ジョセフは写真に写っている壁時計を指し示す。
美鈴は写真の時計と実際の時計を交互に見て、そして呟いた。
「逆…?」
そう。
写真の中の時計の文字盤は、鏡に映ったかのように文字が反転していた。
―――いや、時計だけではない。
よくよく見れば、写真の中の家具の位置は全て実際と異なっていた。
鏡を通して部屋を見れば、そうなるであろう位置に。
「そう、逆なんじゃ。……ワシらが写っていない事と併せて考えると―――
この写真は『今居るこの部屋を写したものではない』のではないか?」
「……」
では、これはどこの部屋を写したものなのか、と仗助たちが考え込んだ時だった。
「……ご明察だ、ジョセフ・ジョースター」
唐突に女の声がした。
その声が聴こえてきたほうへ、三人は一斉に視線を向ける。
―――そこには十六夜咲夜が居た。
「アンタは…?」「咲夜さん!?」
ジョセフの言葉を遮るように、仗助と美鈴が異口同音に言う。
咲夜は、
「初めまして、三人とも」
言葉を放ちつつその姿を――黒白の魔法使い、霧雨魔理沙に――変じ、
「自分はミラー・エバネセント」
さらに姿を――今度は初老の男、今より少し若いジョセフ・ジョースターへ――変え、
「……今は、ただの黒幕だ」
そしてもう一度十六夜咲夜に姿を変え、そいつは言った。
「……!」
部屋の空気が急速に張り詰めていく。
仗助たちの警戒心は、油を注がれた炎のように激しく燃え盛っていた。
ミラーと名乗るそいつが敵かどうかの確証はまだ無いが、確かな事が一つある。
無許可で人の部屋に入り込んで自分から黒幕と言い出す奴が、マトモであるはずはない。
「……その黒幕さんが何の用っスか? 引越しの挨拶にでも来たとか?」
ジョセフと美鈴をかばうように、仗助がミラーへと一歩だけ近づいて言った。
その表情にも言葉にも焦りは見られない。が、内心は相当に焦っていた。
なにしろ相手の底が見えていない。
(間田のヤローや未起隆と似たような能力か…!? だがこいつは……どこまでやれる!?)
人の姿を真似られる事は判ったが、能力まで真似られるかは判っていなかった。
ついでに言えば、ミラーの他にも警戒するべき相手が入り込んでいるかどうかもだ。
―――しかし、何であってもやるべき事は、やりたい事は変わらない。
自分の力で護りたい人たちを護る。それだけだ。
そんな仗助の答えと同じくらい、ミラーの答えはシンプルだった。
「いいや。そのつもりで来たなら蕎麦のひとつも持ってきている。
―――自分は、招待しに来たのさ」
そうミラーが言い終わると同時、辺りの全てが大きくなった。と、仗助には見えた。
もちろんそう見えただけだ。実際は何も大きくなってはいない。
ただ、仗助が膝元まで急激に床へ沈みこんだからそう思えただけである。
「―――なにィ~ッ!?」
それに気づき、仗助は驚愕した。
仗助が立っている部分の床に、マンホール程度の大きさの鏡が出現していた。
それは紙よりも柔らかい鏡だった。
「……戦いというものは、自分に有利な場所でするべきだ」
いつ出来たのかも、何故柔らかいのかも『謎』の鏡は、
――謎(エニグマ)があらゆる手を使って人を己の中へ引き込もうとするように――
静かに、確実に、仗助を飲み込んでいく。
もちろん。美鈴は、ジョセフは、それを黙って見てなどいない。
「隠者の紫(ハーミットパープル)!」
ジョセフは己のスタンドを仗助の体に絡みつかせ、鏡から引き上げようと。
「―――破ッ!」
美鈴は一陣の風のようにミラーへと接近し、殴り倒す事で次の動作をさせまいと。
それぞれのやり方で、仗助を助けるために動いた。
だが―――
「……!」
美鈴の拳はミラーに当たらなかった。
ミラーが『一瞬』の間に立ち位置を変えたからだ。
「―――ぬ、うう……!」
ジョセフの足がたたらを踏んだ。
ミラーが仗助の足元の鏡の中に入り込み、仗助を鏡の内側へと引っ張ったからだ。
「……フランドール・スカーレットと同じように、あなたを誘拐させてもらう」
鏡の中からミラーが言う。
その瞳にあるのは、たとえ手足を失おうと鏡の中へ引きずり込むという意志の炎だ。
考える時間は無かった。
(……やべえッ!)
ミラーの鏡の中へと引き込む力は、強い。
このままではジョセフごと鏡の中に引きずり込まれてしまうだろう。
行動は取れて一回。
攻撃も防御も牽制も、等しく一回だ。
さてどうするか?
―――ミラーに打撃を決めても、それでミラーが倒れるとは限らない。
いや、倒れないと見たほうがいいだろう。
ミラーがしているのは苦し紛れの一撃ではなく、覚悟による行動だ。
ならば。
「こっちも覚悟を決めるしかねーな……!」
仗助は、ミラーへの攻撃が外れたゆえにミラーの現在位置を悟り、
その現在位置へと―――つまり己を目指して駆け出している美鈴を見た。
「―――」
美鈴の瞳を一瞬だけ見つめ、(伝わったかどうかは判らないが)己の考えを伝え、
そして、仗助は己の力を使用する。
仗助の体から、
生物のような機械のような、どこかダイヤモンドを思わせる姿の拳士が現れ出でた。
それはスタンドと呼ばれる力。常人には見えない力の像(ヴィジョン)だ。
ジョセフのスタンドは茨の形をしているが、仗助のスタンドは人の形をしていた。
そのスタンドの名は、『クレイジーダイヤモンド』。
名前通りのダイヤモンドの拳で立ちはだかる難関を全て打ち砕く、
接近戦に向いたスタンドである。
仗助は己の意のままにクレイジーダイヤモンドを行動させた。
「……ドラアッ!」
狙うのは―――己の体に絡みつく、ハーミットパープルだ。
失敗する理由は無い。手段を選ぶ時間も、無い。
クレイジーダイヤモンドはハーミットパープルを掴み、力任せに引き千切る―――
結果。
引き込む力に対抗する力は無くなり、ジョセフが鏡へ引きずり込まれる事も無くなった。
……それが、仗助の望んでいた結果だった。
ジョセフまで鏡の中へ引き込むわけには、いかない。
―――ハーミットパープルという支える力が無くなったため、
仗助の全身はあっという間に鏡の中へ沈み込んだ。
「仗助ッ!」
力の入れ所を失った反動で尻餅をつきながら、ジョセフが叫ぶ。
その声は鏡越しに仗助へと届いた。
鏡の中で、仗助は安心させるように笑い、
「……すぐに戻ってくっからよ~、あんま心配すんな、親父―――」
そして鏡の奥深くに消えた。
―――床の鏡に、もはや仗助は写っていない。
かといって、ミラーもこの部屋の光景も写ってはいなかった。
そこにはただ、銀色の光だけが存在していた。
「……くそ」
目標時間に大幅に遅れて鏡という目標地点へたどり着いた美鈴は、鏡を見つめて考える。
するべき事は決まっていた。
鏡の中に入り込み、ミラー・エバネセントを叩きのめす。
それだけだ。
……時間は無い。
まだ、この場から鏡は消えていない。だがいつ消えてもおかしくはなかった。
準備を整え、中からの撤退ルートを確保して―――なんて事は不可能だろう。
今すぐ進むしかなかった。虎穴に入らずんば虎児を得ず。というやつだ。
(いや、むしろ背水の陣かな……)
どちらにしても躊躇いは無い。―――ただ、ひとつだけ問題があった。
「……やってくれたもんじゃ……!」
全身に闘志を滾らせて立ち上がったジョセフ・ジョースターを、どうするかという。
「―――ジョセフさん」
と、美鈴は声を掛ける。
ジョセフが激情のままに鏡の中へと突入しないよう、釘を刺すためだ。
……はっきり言って、年老いたジョセフは足手まといである。
年齢ゆえ肉体的に無茶が効かず、かといって強力な特殊能力を持っている訳でもない。
何が待ち受けているかも判らない鏡の中へ赴くには、厳しいものがある。
見過ごすわけには行かなかった。
―――鏡の中へ引きずり込まれる寸前、仗助は視線で美鈴に頼み事をしてきた。
はっきりとした言葉で伝えられたわけではない。
だが判った。その状況で頼み事をするとなれば、ひとつしかないからだ。
『親父を頼む』。
……真実と信頼で出来た切なる願いだった。それを拒否する事など、美鈴には出来ない。
はっきり足手まといだと言い切るよりは、役目を与えて留まらせた方がいいだろう。
美鈴はそう判断し、
「あなたは―――」
「……あんたは次に『ここで退路を確保していてください』という」
「ここで退路を確保していてください。……はッ!?」
放った言葉をジョセフに先読みされ、瞠目した。
動揺の欠片も無い静かな表情で、ジョセフは言う。
「……判っておるよ。鏡の中の危険性も、自分の戦闘力の衰えも。
だがのう―――」
しかし、その表情はすぐに崩れた。
熱く震える心をむき出しにして、ジョセフは咆える。
「目の前で息子をさらわれて、大人しくしていられるものか……!」
ジョセフの家族を護ろうとする気持ちは強い。
それは、その複雑な生い立ちによるものだ―――。
(……しょうがない、か)
美鈴はジョセフの生い立ちを知らなかったが、しかしはっきりと理解した。
何を持ってしても、この意思を変える事は出来ないと。
理解したあとに、もはや言葉は不要だ。
「……。
では、私が前で攻撃的な壁になります。ジョセフさんは後ろで囮を務めてください」
美鈴はジョセフを護ると決めた。
―――人ひとりを護れずして、門番が務まるものか。
「……ああ、わかった……!」
ジョセフの返事を聞き、美鈴は鏡の上に移動し、そして中へと沈み込んだ。
人間が入り込んでも大丈夫だと、美鈴は理解する。
鏡の中の美鈴から合図を受け、ジョセフが鏡の中へ入り―――
部屋から人が消え、原因となった鏡も消え去った。