☆☆☆
「――貴女は、運命を信じますか? 過去、現在、未来。私達の進むべき道は、神と呼ばれる何者かの手によって定められている。そんな馬鹿げた妄言を信じますか?」
まるで詠うように、私は言葉を紡ぐ。
「私は信じません。遠い昔にそれを信じていた時期があったかもしれませんが、今やその事実すら霧の彼方です。だから私は、定められた道筋を否定する。拒絶する。破壊する」
「……何が言いたいんだ?」
「つまりですね、私はレミリアと同属なんです。種族的な意味では無く、その思想が。彼女は私と違って否応無しに運命を信じざるを得ない状況にいる。でも、それに抗える力を手に入れた。運命を操作する能力というのは、つまりそれを否定するところから始まった力である訳です」
「ああそうかい。じゃあ、お前も似たような力が使えるって言うのか?」
「その通り! ……と言いたいところですが、残念ながら私はただの悪魔ですよ。名前を失い、日々パチュリーのお小言を聞く勤勉な小悪魔ちゃんです。図書館の影のマスターと呼んで下さって構いませんよ」
「だからこうして時間稼ぎをしてるって訳か。全く、お前はつくづく面白い奴だな。だが、咲夜ならすぐには来ないぜ。今日は先に倒しておいたからな」
「おや、予定が狂ってしまいました。……では、どうしましょうかねぇ。久々に私と勝負します? まだ夢の中に居るパチュリーを起こさないよう、静かに優雅な戦いになりますけど」
「そりゃあ難しい注文だ。何せ弾幕はパワーだからな。……というか、だ」
「はい?」
「一回くらい本気出してくれよ。名前を封じられて出来る事は少なくなってるらしいが、弾幕ごっこの範疇でなら無茶も出来るだろ?」
「まー、出来る事は出来ますけど、あとで怒られるのは私なんですよねぇ。……でもまぁ、貴女に勝てば問題ないか」
「うっし、それじゃあ行くぜ!」
ふわりと、箒に跨った彼女が飛び上がる。それを見つめる私は静かに微笑み――そして軽やかに地を蹴ると、彼女と同じように空へと向かう。
そうして放たれ始めた彼女の弾幕は、星の輝きを持って私へと襲い掛かる。それを踊るように回避しながら、私は星をモチーフにした杖を召喚し――対する彼女が息を飲んだ。その様子に笑みが強まるのを感じながら、私は真っ直ぐに彼女を見つめ、
「――ねぇ、魔理沙。言い忘れてましたけど、私も弾幕はパワーだと思うんですよ」
「……へぇ、気が合うな」
「だから、景気付けに一発行きますよ!」
くるり、と軽やかに杖を回転させ、私はその先端に七色の輝きを持つ魔法陣を生み出し――
「――!」
光が、爆ぜた。
☆ 彼女の愛したマリス・ステラ ★
★★★
目覚めは、酷く最悪なものだった。
「……ようやく起きたわね」
「あれ、パチュ――痛ぅッ!」
「全く、図書館で暴れ回ったからよ。……ほら、お水。一口飲んで落ち着きなさい」
「すまん。でも、私はどうして気を失ってたんだ?」
「勝負の最中に本棚へと激突して、そのまま本に埋もれたらしいの。恐らくその時にでしょうね」
「あー、妙に背中が痛いのはそのせいか……」
「あとで片付けておきなさいね」
「へーい……」
冷たい水を飲み干し、グラスをパチュリーに返す。その途中で、自分が見覚えのない部屋に居る事に気付いた。屋敷の一室なのは解るが、見た事の無い内装だ。
それが顔に出てしまったのか、パチュリーは軽く背後を見るようにしながら、
「ここは私の部屋。他の部屋にベッドを用意させるのは時間が掛かるし、手近なところでここに運んだの」
「……なんつーか、お前らしい部屋だな」
まるで、小さな図書館のような部屋だった。
部屋の四方に本棚が置かれ、このベッドのすぐ脇にも本が並んでいる。それは机の上、床の上にも当たり前のように積まれ、更にはマジックアイテムと思われる品々の姿も見える。
なにより……落ち着かない。そんな私の様子に気付いているのかいないのか、パチュリーはベッドから降りようとする私を止め、再び横にさせると、
「もう少し寝ていなさい。あとで貴女にお説教をするから」
「げぇ、なら尚更逃げ出したいところなんだが」
「お黙り、この泥棒鼠」
「へーい……」
身を縮こませつつ、私は逃げるように布団の中へ。対するパチュリーは小さく息を吐きながら本を開き始めた。
でも、潜り込んだ暖かな布団はパチュリーの匂いがして…………どうやっても、眠れそうに無い。
「……嗚呼、」
柄じゃないな、と思いながらも、私は熱くなる顔と、心臓の高鳴りを押さえる事が出来なかった。
忍び込んだ屋敷の地下図書館。そこで本と共に在り続ける魔女、パチュリー・ノーレッジ。
最初は、いけ好かない奴だと思った。部外者である私が本に触れる事を良しとしない、少し潔癖にも思えるその態度に苛々したのだ。だからという訳ではないけれど、私は彼女の本を盗むようになる。
今にして思えは、あれが最初の抵抗だったのかもしれない。孤高な魔女である彼女の視線が、本にではなく私に向くように――そんな小さな独占欲が私を突き動かしたのだ。
そうして解ったのは、数多ある蔵書が彼女にとっての宝である事。知識である事。そして何よりも拠り所であるという事。『本の側に居る者こそが己である』と、彼女は本気で考えているのだ。
私は、そんな彼女を外へと連れ出してやりたくなった。煌々と光る月明かりの下、二人で箒に乗り、一緒に空を飛んでみたくなったのだ。
ただそれが、引き篭もり魔女に対するお節介なのか、それ以外の何かによるものなのか、当時の私は解っておらず……本を盗んだ事を怒られ、怒鳴られ、文句を言われながらも、それでも図書館に通う毎日を続けていった。
そうして一ヶ月、三ヶ月、半年と時間を過ごしていく内に、向こうも諦めたのかどうなのか、私が図書館に来ても文句を言わなくなった。本を読んでも怒らないし、ちゃんと返却さえすれば貸し出してもくれる。なにより、私の話に付き合ってくれるようにもなった。
そうやって一日一日、少しずつ、けれど確実にお互いの距離が近付いていくのが嬉しくて仕方なかった。
だが、その頃からだろうか。
その綺麗な髪を撫でたい。
その色素の薄い肌に触れたい。
その細い体を強く抱き寄せて、そして――
――という、本来ならば男性へと向けて、求めるべきなのだろう感情を覚え始めたのは。
……最初は、漠然とした気持ちだった。何となしにその髪に触れてみて、そのままキスをしてみたくなった。その時は何とも思わなかったものの、家に帰って冷静になって、私は自分がとんでもない事をしそうになっていたのだと気が付いた。
だが、気持ちというものは、一度理解してしまうと影のように延々と付き纏ってくる。考えまい考えまいとするほど意識は取られ、同時に過去の自分の行動が、その感情に基づくものだと気付いてしまって……
……私は、パチュリーの元から離れようと決めた。
今までのように森に籠もり、研究に没頭しよう。
この気持ちはただの錯覚に過ぎず、冷静になれば落ち着く筈だ。
むしろ、彼女がそれだけ魅力的なだけで、私は何もおかしくない。"普通"だ。
そう、自己暗示でも掛けるように、私は自宅に籠もり続け――
――魔女と知り合って二度目の冬。
去年とは大きく変わってしまった関係の中、ただ一人何も出来ないまま漫然と日々を過ごしていた私のところへ、パチュリー・ノーレッジがやってきた。
驚いた。慌てた。震えた。怖かった。……何より、嬉しくて愛しくて、だから私は、どれだけ一人で考えたって否定出来なかったその気持ちを、肯定するしかないと知ったのだ。
だが、それでもまだ凝り固まった固定観念を捨てられなかった私に、パチュリーは安堵のある微笑みを浮かべて言ったのだ。
『……良かった、生きていたのね』
その言葉を聞いた瞬間から――私を心配し、家にまでやってきてくれたパチュリーの優しさを知った瞬間から、私は悩むのを止めた。自分の気持ちに正直に生き始め、今までひた隠しにしてきた想いを前面に出し始めたのだ。
あの頃から、私の魔法使いとしての技量も上がって来たように感じる。自分に正直になった事で、今まで以上に世界を見る事が出来て、魔法に対する感受性も高まったのだろう。
そして……今年の頭、私は思い切ってパチュリーに告白をした。
テンション高く愛を告げるのと違って、本気の告白は死んでしまいそうになるくらい恥ずかしく緊張して……でも、私の想いは彼女に届かなかった。
『ごめんなさい。同性愛に理解はあるけれど、私自身は異性愛者なのよ』
その時の申し訳なさそうな表情は今も良く覚えている。でも、それが嫌悪ではなかっただけでも、真っ直ぐに告白した意味はあったと思うのだ。
そうして今も、私はパチュリーの事を好きで居続けている。振られたからといってその人の事を嫌いになる訳じゃないし、これからも好きという気持ちを伝え続けていくつもりだ。
だから私は毎日のようにパチュリーの元へ通い、時折は彼女を自宅へ招き、孤高だった魔女と共に時間を過ごしていた。
今も怒られるし、皮肉は言われるし、説教もされるけれど、冗談を言って笑い合ったり、一晩中魔法の鍛錬をしたり、二人で一冊の魔道書を完成させてみたりと、今まで以上に距離の近い友人同士として私達は付き合っている。
私は、恋愛感情を差し引いてもパチュリーの事が好きで、そして大切な友人だと思っているのだから。
……なので、今も大好きな人のベッドで――彼女に抱き締められているかのようにも錯覚する場所で眠れる訳も無く。
碌に体力を回復出来ないまま、私はパチュリーの説教を受ける事になった。
でも、その説教自体はあまり苦痛ではないのだ。普段は物静かなパチュリーが私を責め、少しだけ蔑むようにこちらを見てくる様は……ちょっとだけ、ゾクゾクするから。
そうして、新たな何かに目覚めそうなお説教タイムが終了した後、私達は図書館へ移動。
魔道書を書き始めたパチュリーとは対照的に、私は崩れ落ちた本を片付け始める事となった。
「……にしても、予想以上に崩れてたもんだな」
「自業自得」
「……美鈴呼んじゃ駄目?」
「自己責任」
「夕飯を作るまでの間だけで良いからさ! 頼むよ!」
「一刀両断」
「何を?!」
「……四文字熟語が思い付かなかったので、図書館の掃除もプラスします」
「ヒデェ、私の責任じゃないのに! でもそんなところも好き!」
「はいはい、解ったから手を動かす」
「口は?」
「返事くらいならしてあげる」
「わーい、愛してるぜパチュリー!」
「……」
「返事してくれよ!」
「私はそんな安い女じゃないの」
「私の愛は安くないぜ?」
「何度も繰り返すとチープになるわよね」
「それでも変わらないのが愛ってもんだ」
「熱烈ねぇ」
「熱愛なのさ」
「猫舌なんだけど」
「人肌だぜ」
「温いのはちょっと……」
「フ、我が侭な子猫ちゃんだぜ★」
「そういえば、この前言ってた魔法はどうなったの?」
「無視かっ! ……って、ああ、アレか」
「アレ。夢幻館の眠り姫の魔法をパクったっていう」
「オマージュ!」
「ラーニング」
「リスペクト!」
「何でも良い」
「切り捨てられた! ……まぁ、完成したぜ。確実に幽香以上のパワーは出せる」
「へぇ、凄いじゃない。魔法はパワーだっていう言葉は偽りじゃなかった訳ね」
「でも、まだ威力の調整が不安定なんだよ。安定した出力を出せるまでは、実践じゃ使えんな」
「だから美鈴相手には使わなかったと」
「そういうこった。……あ、そういえばさ、」
「手伝わせないわよ」
「えぇー……。って、違う。前から聞きたい事があったんだよ」
「ん?」
「どうして美鈴はこの屋敷のメイドをやってんだ?」
「私が雇ったからよ」
「いや、それはそうなんだろうけど」
「……というか、これは話した事が無かったかしら。
彼女、私と出逢う前は世界各地を転々と修行して回っていたらしいのよ。そうして、この場所に辿り着いた。それが十年位前の冬の事ね。
幻想郷の冬は厳しいわ。いくら鍛えていると言っても、風雪に曝され続けるには限界がある。そんな時にこの屋敷を見付けたらしくてね。『雪を防げる場所を探しているのですが、一晩泊めて頂けませんか』ってやってきたのよ」
「それが何でメイドに。……てか、私にはあんなに冷たかった癖に、美鈴はすぐに受け入れたのか?」
「あら、嫉妬? でもね、当時の私は彼女に対しても冷たく当たったわ。『玄関でも良いから』っていう彼女の言葉を額面通りに受け取って、布団も出さずに泊まらせたくらいだから」
「マジか。せめてこう、ぶぶ漬けを用意するくらいのさぁ……」
「色々あったし、当時は今よりもずっと排他的だったの。でも、そんな私に美鈴はとても感謝してくれて……だけど、幻想郷の冬は辛く厳しい。一晩どころじゃ吹雪は収まらなくて、済し崩しに数日泊める事になって、その間に「お礼がしたい」って掃除や炊事を始めてくれたのよ。それに雪掻きまでやってくれて、私もそのお礼に彼女を泊め続けて……気付いたら、美鈴と一緒に暮らすようになっていたの。――って、そう考えると美鈴を雇ってないわね、私。むしろ養われているような……」
「おいおい、しっかりしてくれよ館主さん」
「まぁ良いじゃない。彼女は私を主と認めてくれていて、私も彼女をメイドと認めている。それが事実よ」
「じゃ、じゃあ、私は?」
「泥棒」
「えー」
「冗談よ。最高の友人だと思っているわ」
そう不意打ちのように告げられた言葉と微笑みに、私は手にしていた本を手放しながら立ち上がり、「パチュリー!」とハートマークを飛ばしつつ彼女に抱き付こうとして、
「はい、調子に乗らない」
べちん、と魔道書で叩き落とされた。超痛い。
「お、乙女の顔面に何しやがるんだよ……!」
「むしろ、ここまでされても私を嫌いにならない事に凄さすら覚えるのだけれど。……もしかしてマゾなの?」
「お前がサディストなのは十分解ってる」
「答えになってない」
「痛いのは嫌いだぜ。お前から責められるのは嫌いじゃないが」
「……精神的ドMか」
「ドが付くほどじゃねぇよ!」
「M否定はしないのね。……まぁ良いわ。ほら、さっさと片付ける。少しは手伝ってあげるから」
「本当か?!」
「その代わり、倉庫にある未整理の本も少し整理するけどね。盗もうとしたら……」
「しないしない」
「じゃあ、昼間のあれは?」
「あ、あれはだな……」
と、文句を言われたり言い訳を返したり、ボケたり辛辣に突っ込まれたり、愛を語ったりスルーされたりを繰り返しながら、本の整理は進んでいく。
「……そうね、このまま美鈴も呼んで図書館の大掃除もしてしまおうかしら」
「えー、掃除は苦手だぜ」
「貴女に拒否権は無いわ」
「けど、ここはお前の予想以上に埃っぽいぜ? それに私は客人であって、家人じゃない。自分で崩した本の整頓はするが、掃除をするまでの義理は――」
「それは聞き捨てならないわね。一年の八割以上をここで過ごしている癖に、今更他人のふりをするつもり? その体の八割は、私や美鈴が作ったご飯で出来ているのに」
「ぐ、確かにそれはそうなんだが」
「そうやって目を背けているから、家の掃除も一向に進まないのよ」
「あー……そういや、お前は結構綺麗好きなんだよな」
「綺麗好きも何も、自分の居場所を綺麗にするのは当たり前の事だし、咳が出ないように埃を掃除するのは当然の事よ。……ただ、この図書館は広くて、その隅々まで掃除の手が行き届かないだけ」
「……解ったよ。掃除はあんまり好きじゃないが、誰でもないパチュリーの為だ。やってやる」
「ありがとう。でもその前に、倉庫の本を引っ張り出すわ。手伝って」
「おう。…………にしても、ここは広いよなぁ」
「まだまだ足りないくらいよ。この倍はあっても良いわ」
「流石は本の虫だぜ。でも、そうなるとメイドの数を増やした方が良いんじゃないか? 掃除するにも限界が出てくるだろ」
「理想の話であって、実際に広げるつもりはないわ。その手段もないし」
「あ、それもそうか」
「それに、この屋敷で暮らしているのは私と美鈴と貴女しか居ないのよ? メイドはあの子だけで十分」
「確かになー」
「……って、何をにやにやしているのよ」
「いや、別に」
嬉しくて、頬がにやけてしまう。今パチュリーは、私を屋敷の住民の一人として数えてくれていた。それが嬉しくて仕方ないのだ。
だから私は、こちらの様子に怪訝な顔をする彼女に楽をさせてやろうと、目の前に見えてきた倉庫の扉を勢い良く開けて――
――雪崩のように崩れ落ちてきた本に埋まる結果となった。
「畜生、誰がこんな事を!」
「落ち着きなさい。取り敢えず犯人は私じゃないわ」
「意義あり!」
「却下します」
「裁判長ー!」
「……話戻して良い?」
「すまん、その前に助けてくれ」
どうにか本の山から救出されつつ、改めてパチュリーに視線を向ける。対する彼女は、顎に手を当てながら崩れた本の山を見つめ、
「多分これは、外の世界から流れてきたものね。ここは幻想郷でもっとも本の数が多い場所だから、結界を越えてきた本が紛れ込む事があるのよ」
「そういや、前にそんな事言ってたな。香霖が羨ましがりそうだ」
「暫く倉庫の整理をしていなかったから、自然と溜まってしまったみたいね。まずはこれを片付けないと……って、何やってんの」
「え、これはまだ図書館の蔵書じゃないし、私が貰っても問題ないんじゃないか?」
「私が存在を認識した時点で、それはここの蔵書になるわ」
「横暴な!」
「ここの王は私よ。意見があるのなら、メイドである美鈴を倒してからにしなさい」
「ぐ、さっき負けたばかりの私の心に塩を塗り込むような事を……。ほら、返すぜ」
「全く。……にしても、綺麗な装丁の魔道書ね」
「本当、外の世界の製本技術にゃ驚かされるぜ」
だから頂こうと考えたのだが、失敗してしまった。そんな私の隣で、パチュリーが魔道書の表紙にそっと触れ、
「……妙に強い魔力を感じるけれど、呪いの類は掛けられていないようね」
「じゃあ、早速開いてみようぜ」
「……まぁ、ちょっとだけね」
こういう時、本に依存しているパチュリーは新しい書籍の誘惑に抗えない。当然、私も抗えない。
軽く興奮してくるのを感じながら、私は魔道書を開くパチュリーの手元を覗き込み……疑問符と共に首を捻った。
「んん? ……これ、何語だ? 英語……にしちゃ単語が変だよな」
「アナグラム……いえ、これは独自の言語なのかもしれないわ。アルファベット以外の文字も見られるから」
そうして開かれて行くページには、魔法陣だと思われる挿絵の数々と、独自言語で書かれた文章が続いていて、
「黒魔術の本なのか? でも、挿絵を見るに悪魔信仰って感じじゃないな。もっと別の――」
そう告げる私の言葉に応えるように、二ページ丸々使った挿絵が現れた。それは何とも言えない奇妙な獣を描いたもので、
「――狼? いや、キメラ信仰か? そんなの聞いた事が無いぜ」
そこには、狼のような顔と、熊のような手、そして巨大な翼を持つ獣が描かれていた。それは黒く塗りつぶされた影のようなシルエットで――だからこそ、その禍々しさを如実に表しているかのようだった。
だが、どうやらこの獣を信仰しているようではないらしい。ページを進めていく内に、今度は武器と思われる挿絵が幾つか現れた。それをじっと眺めてから、パチュリーは再び先ほどの獣のページを開き、
「これは、この獣を封印する為の指南書なのかもしれないわ。……まぁ、この絵から感じる禍々しさから考えるに、実物がここに封じられている可能性も高いけれど」
「確かにこの絵、印刷された文字よりもやけに色が濃いもんなぁ」
幻想郷という狭い世界に数多くの強大な妖怪が住み着き、けれどそれが外の世界に一切感じ取られないように、結界というのはとても強い力を持つ。つまり、他の魔道書と同程度のサイズしかないこの本の中に、巨大な獣が封じられていてもなんらおかしくないのだ。
「にしても、黒塗りの獣か。気になるな。ちょっと召喚してみようぜ」
「馬鹿、何を考えているの? ここに記された獣がどんな力を持っているのか、私達には全く解らないのよ?」
「解ってる、冗談だよ。でも、どんな獣かはパチュリーも気になるだろ?」
「……まぁ、それはそうだけれど」
良くも悪くも、魔法使いという生き物は己の探究心を抑えられない生き物だ。だから貪欲に知識を求める。そうした部分は、魔法使いという妖怪であるパチュリーも、魔法使いを職業としている私も変わらない。二人とも、知識欲が何よりも旺盛なのだ。
しかし、それで身を滅ぼしてしまったら意味が無い。突然魔力が膨れ上がったりしないよう、気を付けながらページが捲られていき……数ページ後に、もう一体獣の挿絵が描かれていた。それは先ほどの獣と似ていて、けれど手に巨大な瞳のようなものが描かれ、その翼の形もいびつに歪んでいる。どうやら、同じ種族の別の固体らしい。
禍々しい絵だぜ。そう思いながらも、私はページが捲られて行くのを眺めていく。とはいえ、二匹の獣以外にこれといって目を引く記述はないように思えた。……いや、文字を読めない以上憶測だが。
そう思う私の隣で、パチュリーが難解なパズルを前にしたような、困惑と嬉しさが同居した表情で、
「これは解読に時間の掛かりそうな本だわ」
「確かになぁ。っと、私にもちゃんと見せてくれ。さっきの絵を確認したい」
「変な事は考えないでよ?」
「解ってるよ」
笑みで答えながら、受け取った魔道書のページを開く。そうして改めて獣の挿絵を見ると、その禍々しさに気圧されるかのようだった。
ここに何かが封じられているのは確かなのかもしれない。そう思っていると、不意にパチュリーが何かに気付いた。
「……ん? これは名前かしら」
「名前?」
「ほら、ここ。獣の絵の下に名前のようなものが書かれているわ」
「あーん?」パチュリーが指差すところを見ると、絵のインパクトに隠れるようにして、小さく手書きの文章があった。それは何かを説明した一文のようで、「……前後の文脈は解らんが、恐らく絵描きの名前じゃないか? いや、これを絵だと想定した場合だが」
「或いは、この獣を封じた人物の名前かしら」
「なんて名前だ? もしかしたら、幻想郷に居る有名人かもしれないぜ」
「日本人な訳無いでしょう。多分」そう呆れた様子で言いつつも、パチュリーが目を細めて文章を追い、「えっと……"remilia・scalet"って書いてあるわね」
――その、瞬間。
小さく告げたパチュリーの声に呼応するように、魔道書の中の獣がどくりと脈打った。
そしてその中心から血が滲むように紅い色が溢れ始め、私は酷く慌てながら魔道書を閉じる。だが、それを内側から阻まれた。
それに動揺する私の手から魔道書を奪い取ると、パチュリーがそれを投げ捨て、二人同時に魔道書から距離を取る。だが、私達の混乱は収まらない。それどころか、パチュリーは目を白黒させながら私と魔道書を交互に見つめ、
「ちょ、ちょっと待って! いくらなんでもあれが召喚の鍵だとは思わないでしょう?!」
「私も同意見だ! 名前を読ませた事を後悔するぜ!」
「私も読み上げたのを後悔するわ! でもその前にアレを封じないと!」
「解ってる! セオリー通りに行くかは解らんが、それでも――」
そう叫びながら行動を起こそうとしたところで、開いた状態で床に落下していた魔道書が浮遊し、魔法陣を展開。
そこから、ずるり、と這い出してきたのは、全身を紅く染めた幼い少女だった。
いや、這い出した、という表現は間違いだろう。
それは、べちゃり、と床に落ち、しかし苦しげに呻き続けている。
だが、それ以上に、
「……なんだ、これ」
少女の胸には、巨大な杭が突き刺さっていた。その背には蝙蝠の羽があり、恐らくは吸血鬼なのだろうという事が解る。しかし、杭は心臓を僅かに避けたのか、吸血鬼を殺し切る事が出来ていないようだった。
それでも少女が回復出来ないのは、杭が鈍く輝く銀で作られているからなのだろう。いや、私の腕よりも太いその大きさから考えるに、白木の杭を銀でコーティングしてあるのだろうか。凄まじい発想だが、しかし吸血鬼相手にこれほど厄介な武器は無いに違いない。
結果、少女は死ぬ事も杭を抜く事も出来ず、さりとて殺されもせずに封印されたらしい。それが何の因果か、私達の前に現れたのだ。
彼女は苦しげに呻きながら蠢き、落下した魔道書へと少しずつ近付こうとしている。その姿は目を背けたくなるほど痛々しいもので、私は絶句するしかない。
それでも、隣に立つパチュリーは気丈な様子で、しかし少女から目を離さぬまま、
「……取り敢えず、助けるわよ」
――流石に、思考が止まった。
私は一歩少女に近付こうとするパチュリーの腕を慌てて掴むと、そのままこちらへと振り向かせながら、
「お、お前、何言ってんだよ! 相手は多分吸血鬼なんだぞ?!」
「だからこそよ。ここまでされて死んでいないという事は、確実にこの吸血鬼は純血のはず。そして純血の吸血鬼は、誇り高い事で有名なの」
「ま、まさか……命の恩人に牙を剥く事は無いって、そんな風に考えてるのか?」
「そうよ。それに、このまま無理矢理送喚するのも気分が悪いわ。その魔道書は、ここの蔵書となったのだから」
「馬鹿げてる! それで牙を剥かれたらどうすんだよ!」
「その時はその時。あれだけ弱っている吸血鬼を殺せないほど、私達は弱くない。そうでしょう?」
「……クソ、お前は本当に卑怯な奴だよ」
そんな風に言われたら、私は否定出来る訳が無い。そうでなくても、彼女の目は本気だった。こうなると、もう何を言っても無駄で、だからって一人で逃げるなんて出来なくて、
「――解った、解ったよ! 私も手伝ってやる!」
半ば自棄になりながら、私はそう叫ぶ。正直怖くてやってられないが、それでも隣にはパチュリーがいるのだ。やってやれない事は無い!
……でも、
「でも、一体どうやって吸血鬼を助けるんだ?」
「……」
「な、なんだよ」
じっと無言で見つめられて、ちょっと焦る。そんな私の前でパチュリーが風の精霊を召喚し、図書館の外へ――恐らくは美鈴のところへと飛ばしながら、
「私と美鈴があの杭を引っこ抜くから、その瞬間に吸血鬼の唇へ血を垂らして頂戴。そうすれば彼女は回復するはず」
「解った――って、一体誰の血を与えるんだよ」
「――解っているでしょう? この屋敷で処女なのは貴女だけよ」
……その後、説明を受けた美鈴とパチュリーの手によって銀の杭が引き抜かれ……私は、胸にぽっかりと穴を開け、それでも死なずに蠢いている少女の前に立った。
処女である事を指摘された羞恥よりも、指先をナイフで切った痛みよりも、今は恐ろしさの方が強い。
幻想郷で生まれ育った私は、少なからず『死』を見てきた。死に掛けの人間。殺され掛けの妖怪。人間だったもの。妖怪だったもの。食い散らかされ、人としての形を保っていない骸を見付けてしまった事もある。だが、そうした過去の記憶よりも強い畏怖を、目の前の少女は与えてくる。
妖怪は肉体よりも精神への攻撃を苦手とするから、ここまでの屈辱を与えられれば、そのまま死んでしまってもおかしくない。だというのに、殺され掛けて封印され、それでも死なずに生き続けるこの執念は何だ。
いつしか私は、恐ろしさの中にも敬意を覚え――その畏敬こそ、吸血鬼の持つカリスマなのだと気付かぬまま、光を映さぬ二つの闇を見つめ返すように、微かに震える少女の唇に血を落とし――
――紅い雫が唇を伝い、その小さな口へと流れた途端、
「――ッ!」
まるで鞭打たれたかのように少女の体が跳ね上がり、そのまま大量の霧へと変化した。
それは呼吸するように膨張、縮小し、そして――
――傷一つ無い全裸の少女が、目の前に現れた。
「――ッ。……私は、まだ生きているのね」
辛く苦痛に満ちた表情を浮かべている彼女は、呆然とする私達をおいて机の上の魔道書を手に取り、それを大事そうに抱えながら私達を順に見つめた。
そして、先ほどまでの様子とは一変した儚い微笑みを浮かべ、
「……助かったわ。感謝する。私はレミリア・スカーレット。吸血鬼よ。どうやらここは魔女の屋敷であるようね。家主は貴女? ……ああ、有り難う」
美鈴がおずおずと手渡したタオルを笑みで受け取り、少女がそれを纏う。その様子を私と一緒に呆然と見つめていたパチュリーが「え、えぇ、そうよ」と答えた直後、レミリアが小さく首を傾げ、突然異国の言葉で話し始めた。
何を言っているのか全く解らない。だがパチュリーにはそれが解るのか、少々つっかえつっかえながらも返事を返し、そして改めるように、
「私はパチュリー・ノーレッジ。そしてここは極東の島国、日本に存在する幻想郷。ご存知だとは思うけれど、現代社会とは結界で隔離されているわ。当然、国語は日本語よ」
「ここが幻想郷……。噂には聞いていたけれど、実在していたのね」
「えぇ。ここには『幻と実体の境界』といって、勢力の弱まった妖怪を幻想郷に呼び寄せる結界が存在しているの。私達の言葉が日本語に変換されているのも、恐らくはそれの効果ね」
「凄まじいわね、その結界を作った者の力は」
「そうかしら。似たような事なら私にも可能だから、そうは思わないわ。……むしろ、数滴の血液で完全回復する貴女の方が凄まじい」
「吸血鬼だからね」
謙虚な様子も無く、当たり前のようにレミリアは告げる。
その様子に少々面食らいつつ、そういえば力の強い妖怪というのは総じて自分の力を過小評価しないものだよな、なんて思っていると、彼女は腕の中の魔道書を強く抱き締めながら、
「……取り敢えず、一つ聞かせて。貴女達に敵意はある?」
「あったら助けてないわ。むしろ助けたお礼を要求したいくらい」
こっちもこっちで強気だなパチュリーさんよ! そんなところも好きなんだけど!
そう思う私の前でレミリアは一瞬驚き、
「あら、こんな痩せっぽちの女の子に何を期待するのかしら」
お嬢様然とした微笑みを浮かべて返事を返してきた。だが、その表情が少しずつ曇っていき……彼女は改めて真面目な表情でパチュリーを見つめると、
「……でもまぁ、そういう事なら安心出来るか。じゃあもう一つ質問。この世界に敵意はある?」
「私は魔女。彼女は人間。そこのメイドは種族も良く解らない妖怪。こんな私達が気楽に過ごせる程度には敵意があるわね」
「へぇ、幻想郷というのは恐ろしい場所だわ。……なら、大丈夫か。今度こそ、大丈夫か」
吸血鬼という、現存する妖怪の中で一、二を争うだろう力を持つ妖怪が、何かを迷っていた。不安げに、心細げに、まるで年相応の少女のように怯えた様子で。
そして彼女は、自分を納得させるようにもう一度「……大丈夫」と呟きながら、パチュリーをじっと見つめ、私を見つめ、美鈴を見つめ……
「……多分、きっと、恐らく。私の視る運命は破滅ばかりだけれど、でも……今度こそ大丈夫よ、フランドール」
その言葉と共に魔道書が中に放られ、何者かの意思に応えるように勝手にページが捲られて行き――レミリアが現れた時と同じように、魔法陣が展開。
それに驚く私達の前で、魔法陣から"手首"が生え出し、
「――お姉様ぁ!」
涙で擦れた声と共に、金髪の痩せ細った少女がレミリアの胸へと飛び込んだ。
レミリアと同じように全裸で、何故か手首から先が存在していない。その上、彼女の羽は蝙蝠のそれとは思えない、まるで宝石を模したかのような歪な形をしていた。……何より、その少女から感じられる魔力も、レミリアのそれに匹敵するほど強く禍々しいものだった。
いや、それよりも、あの魔道書からもう一人少女が出てくるとは思わなかった。いや、魔道書に描かれたキメラの挿絵は二つあって――今にして考えると、あれはキメラではなく、吸血鬼の持つ狼化の能力、熊のような腕力、そして蝙蝠の羽を表したものだったのだろう。でもだからって、一冊の魔道書に吸血鬼が二人も封じられているだなんて、誰が想像出来るだろうか?
もう開いた口が完全に塞がらない私と美鈴とは対照的に、ある程度は予想していたのだろうパチュリーが少々の警戒を滲ませながら、
「……取り敢えず、そちらの事情を説明して貰えるかしら」
「えぇ。助けられた恩もあるし、ここはおとなしく従うわ。……この子が泣き止んだらね」
私の血を一滴だけ飲み、両手を復活させ、美鈴の用意した赤いドレスに身を包んだ金髪の少女は、フランドール・スカーレットと名乗った。レミリアの妹で、ありとあらゆるものを破壊する力を持つのだという。つまり、フランドールを模した絵に描かれていた瞳は、その狂気の力を表現したものだった訳だ。
だが、その強大過ぎる力は人間達に狙われる的となり……吸血鬼という種族の知名度もあってか、スカーレット姉妹は幼い頃から人間に襲われ続けていたのだという。
妹の着ているものと同じデザインの白いドレスを借り受けたレミリアは、大妖怪らしからぬ疲れ果てた表情で、
「どんなに世の中が変化しても、妖怪を追い続ける人間は決して消えなかった。いわゆるヴァンパイアハンターと呼ばれる連中ね。私は五百年もの間奴等と戦い続けて……でも、ある戦闘の最中に杭を打ち込まれて、魔道書に封印されたの。
当然、杭を打ち込まれた状況からも反撃出来たし、いっそフランドールに杭を破壊して貰う事も出来た。だけど、それをしたって結局何も変わらない。……私は、逃げ続ける人生に疲れてしまったのよ」
妹の髪を優しく撫でながら、まるで年老いた老婆のようにレミリアが告げる。対するフランドールは強く姉に抱き付いたまま、こちらを見ようともしなかった。
幻想郷で暮らしている以上、大妖怪から似たような昔話を聞く事があった。里の慧音先生だって、昔は人間に迫害されていたと言っていた。
だが、五百年にも渡って敵意を向けられ続け、それに耐え続けてきた妖怪など聞いた事が無い。レミリアがパチュリーだけを見て話し、しかし私の一挙一動に強く意識を向けてきているのは、人間に対するどうしようもない敵意と恐怖があるからなのだろう。
そんなレミリアの視線を真っ直ぐに受けるパチュリーは、この幻想郷がどんな場所であるのかをざっと説明し……それに真剣な様子で頷いたレミリアは、フランドールへと視線を落としながら、
「どうやら、ここでは襲撃に怯えて過ごす必要は無さそうね」
「といっても、博麗の巫女、という抑止力は存在するわ。近い内に、貴女達の様子を見に来るかもしれないわね。……まぁ、博麗大結界を越えてきた訳ではなく、魔道書から召還されたようなものだから、暫くは気付かれないでしょうけれど」
「じゃあ、その巫女というのが現れるまで、ここに住まわせて貰えないかしら。この世界についても、もっと詳しく教えて貰いたいし」
「構わないわ。吸血鬼に借りを作れるチャンスなんて早々無いもの。――美鈴、部屋の用意をしてあげて。二階の……そうね、北側の部屋。あそこなら日光が殆ど入らないから」
「畏まりました」
恭しく頭を下げて、美鈴が図書館を出て行く。その姿を見送るレミリア達をそれとなく見つめながら、私も暫くはこの屋敷に滞在しようと心に決めた。
ここは幻想郷で、人間と妖怪が同居している世界だ。そんな場所で人間を嫌い続けていたら、いつか巫女に『危険な妖怪だ』と判断されてばっさり退治されかねない。だから私は、幻想郷に暮らす人間の代表として、レミリア達に人間側からの常識を教えてやる必要があると思うのだ。
それは、幻想郷のパワーバランスの一角になるだろう吸血鬼を懐柔しておきたい、という気持ちからではなく、彼女達の辛く苦しい身の上話を聞いてから芽生えた情によるものだ。
そんな純粋な思い遣りを、パチュリーは「甘い」と一蹴するだろう。だが、私は情深い女だ。妖怪は退治するもの、という考えは曲がらないが、それでも彼女達と一緒に過ごせる事も、陽気に酒を飲み交わせる事も、恋を出来る事も知っている。
だから、お互いを警戒し合うのではなく、仲の良い隣人であれるように、レミリア達に色々とアドバイスしてやりたいと思えたのだ。
★★★
そうして私は、魔女の屋敷で暮らし始めるようになった吸血鬼姉妹と沢山の時間を過ごした。
当然、最初は警戒があった。それはもうツンツンしていた頃のパチュリー以上に取り付く島が無く、気軽に話し掛ける事すら出来ないほどだった。
だが、吸血鬼と魔女は同じ夜の世界に生きる者だ。人間を拒絶していても、魔法使いに対する拒絶は無いはず。そう考えた私は、彼女達にも馴染み深いだろう魔法を披露し、私という人間が危険ではない事をアピールしたり、一緒に食事を取ったり、お茶を飲んだり、一日の殆どを彼女達と共に過ごしていった。
その内、人間=恐怖であり、しかし人間そのものをあまり知らないフランドールは私に興味を示してくれて、次第に笑顔を見せるようになってきて……私の事を明確に警戒しているレミリアも、それに付き合って笑ってくれるようになった。
だが、それはお嬢様然とした作り笑いで、本心ではまだまだ警戒があるのが解る。
解るのだが……彼女達は私よりもずっと幼い少女の外見をしているから、どうしても、歳相応の笑顔を浮かべて欲しくなってしまうのだ。
そんな私の行動を美鈴は純粋に応援してくれて、同じようにパチュリーも応援してくれた。
てっきり『そんな事をしても無駄よ。相手は吸血鬼なんだから』と私の努力を切り捨ててくるかと思っていたから、それはとても意外だった。それを正直に告げた私に、パチュリーはどこか赤い顔で怒りながら、
「馬鹿。本に執着していた私を、こうして外に連れ出してくれたのは誰だったのか……それを忘れてしまったの?」
思わず抱き付いた。
怒られた。
でも、凄く嬉しかった。
告白という形で一応は落ち着いたパチュリーへのアプローチは、けれど確実に彼女の心を変化させる事が出来ていた!
毎日やってくる私に呆れて諦めたのではなく、彼女は私を受け入れてくれていたのだ!
私の想いは、彼女に届いていた!
その事実に小躍りしそうになりながらも、私は改めてレミリア達の心を開かせようと努力し始め……
……そんなある日の事。
押し掛け女房から居候にランクアップしたとはいえ、流石に何もせずにいるのは気が引けて、少しは恩義を返そうと美鈴の仕事を手伝った私は、食堂の椅子に腰掛けて彼女手製の肉まんを頬張っていた。
窓の向こうを見ると、メイド服の美鈴が花の手入れをしているのが見える。中庭に咲き誇る花々や野菜は全て美鈴の手によって育てられたもので、屋敷の各所にそれが飾られている。つまりここは、『魔女の屋敷』という暗く鬱蒼としたイメージとは真逆の、美しい花々で彩られた綺麗な屋敷なのだ。
あとで畑仕事も手伝おう。そんな事を思いながら視線を戻したところで、廊下の向こうからレミリアがやってきた。
彼女は陽光の差し込む窓、そして私の姿を順に見ながら、
「……食事中?」
「美鈴特製の肉まんだ。食べるか? まぁ、肉は豚肉だけどな」
笑みと共に立ち上がって、窓のカーテンを閉める。新しく取り付けられた射光カーテンは、紫外線も防げるようにパチュリーと私で加工した特別品。食堂はレミリア達も利用するところだから、こうした日光対策を施してあるのだ。
何より、レミリアから話し掛けてきてくれたのが結構嬉しい。それに自然と笑みを強めながら椅子に腰掛け直し、対面の椅子に腰掛けたレミリアの前へ蒸篭を移動させる。すると、彼女は湯気を上げるそれを物珍しそうに見つめながら、
「……彼の黄金の島、ジパングの住民は人肉を食べるんじゃなかったの?」
「それは妖怪の領分だ。人間は家畜の肉しか喰わないぜ」
この豚は屋敷の裏庭で美鈴が飼っているもので、生地に使われている粉や調味料も全て彼女が作り上げたものだ。
パチュリーは食料を必要としないが、ただの妖怪である美鈴は生きる為に食事を必要とする。かといって人間を襲って食べると主であるパチュリーの評判が落ちるかもしれない。その結果、彼女はそうした食材作りを始めたらしい。
山間の幻想郷は食料不足に陥り易いが、しかし美鈴は気を操って動植物に活力を与える事が出来るし、いざとなったらパチュリーが魔法で雨を降らせたりなんだり出来る。……つまるところ、森にある家に居るより食事事情が豊かなのだ、この屋敷は。
まぁ、さもしいって言われたらそれまでだが。そう思う私を前に、レミリアはどこか意味深な笑みを浮かべ、
「家畜の肉か。でも、人肉を食べる生き物は存在する訳ね」
「ああ。だからこうして幻想郷が生まれたって訳だ」
「……怖くないの?」
真っ直ぐに見つめられた。だから、私も真っ直ぐに見つめ返す。
こうして彼女から問い掛けてきたのはこれが初めてで……恐らく、これがレミリアとの関係を決定付ける切っ掛けになる筈だ。ならばこそ、私は正直に自分の気持ちを告げていく。
「怖いさ。けど、話せば解る奴は沢山いる。人間を護ってくれる妖怪だっている。そもそも人肉を食わない奴だっている。人間がそうであるように、妖怪だって千差万別なんだ。『妖怪』ってだけで差別してたら、得られるものも得られなくなると私は思ってる」
「……その結果が、この肉まんか」
「美味いぜ。あと、熱いから気を付けろよ」
平気、とレミリアは小さく告げて肉まんを手に取り、それを半分に割って、小さな口をいっぱいに開いて食べていき――その澄ました表情が驚きに変わり、そして少々熱そうな様子で飲み込むと、
「確かに美味しいわね、これ」
「だろう? ほら、お茶飲め」
「ありがとう……」
と、私が差し出したお茶を一口飲んでから、しかしレミリアが自分の行為に驚いたように目を見開いた。
その様子に私は首を傾げ、
「ん、どうした?」
「…………このお茶も美味しい、と思って」
「そうか。なら良いんだが……」
どうにも様子がおかしい。けれどレミリアはそのままゆっくりと肉まんを食べ続け、同じように私もそれを食べていく。
そうして、三つあった肉まんの内二つを食べ終わる間に、レミリアがようやく一つを食べ終わった。吸血鬼の癖に彼女はとても小食で、食べるのがゆっくりなのだ。まぁ、レミリアは生粋のお嬢様なのだというし、淑やかに食事をするのが当たり前なのだろう。
そういう部分は私以上に女の子らしいよなぁ……などと思いつつ、グラスに手を伸ばしてお茶を注ぐ。すると、レミリアが何か言いたそうな目でこちらを見つめてきて、
「もう一杯飲むか? ……って、ああ、すまん。さっきは私の飲み掛けを渡してたな。今から新しいグラスを持ってくるから、」
「……大丈夫。……でも、」
「ん?」
「……『大丈夫』って言える自分が、ちょっと意外なのよ。さっきも、人間から手渡されたものを警戒しないで食べて、飲んでた。これで二回は死んでるわね」
「だけど、ここじゃそれは有り得ない。それは解ってくれてるだろ?」
「解っているわ。……貴女が私に優しくしてくれているのも、その気持ちに裏が無いというのも解っているの。でも、だからこそ解らない」
困惑というより、動揺のある表情でレミリアは私を見つめ、
「私達を助けて、貴女に何の得があるというの?」
「……得、か。そう言われてみると、得っていう得は何も無いな。正直、押し付けがましい自己満足だと言われたらそれまでだ」
「……押し付けがましい自己満足だわ」
「でも、フランドールは笑うようになったし、レミリアはこうして私と話をしてくれるようになったぜ? ……って、こうして出来た人間関係は、得って言えるのかもしれないな。まぁ、私は損得で人付き合いをするタイプじゃないが」
自然と笑みを浮かべながら、お茶を飲む。それにレミリアが驚いて、けれど再び困惑を浮かべ、
「……私がそのグラスに細工をしていたら、なんて考えもしないようね」
「何かするつもりだったのか?」
「そ、そう言う訳じゃないけど……」
「私だって何も考えてない訳じゃないさ。けど、誇り高い吸血鬼が、そんなせせこましい手を使ったりはしないだろ?」
レミリアは吸血鬼である事にプライドを持っている。もし私を本気で邪魔だと思い、殺そうとするなら、真正面から首を刈りに来るだろう。
そう思う私をレミリアはじっと見つめてきて……
……ふっとその体から力を抜くと、背もたれに体重を預け、どこか気の抜けた様子で、
「……貴女は変わっているわね」
「私は普通だぜ。……いや、私だけじゃない。幻想郷の人間は、お前が持ってる以上に妖怪と近しい関係にあるんだ。さっきも言ったが、妖怪は退治すべき存在であり、先生でもあり、時にはパートナーにもなるほどだ。……中には、妖怪に恋をする奴だっているのさ」
だから、と私は身を乗り出し、突然の動きに警戒するレミリアの頬についていた肉まんの皮を取ってやり、
「だから、話をしようぜ。お互いの事を話せば理解も深まるからな。ああ、先に言っとくけど、何か企んでるとかそういう事は無いぜ。私はそうしてパチュリーや美鈴と仲良くなったんだ。友達は多い方が楽しいからな」
「……それが、貴女の処世術? この妖怪だらけの世界で、貴女はそうやって生きてきたの?」
「あぁ、そうやって生きてきた」
「でも、妖怪退治もするんでしょう?」
「するぜ。でも、無差別にって訳じゃない。異変を起こしたり、その解決の邪魔をしてきた奴を相手にするだけだ」……いやまぁ、一部私利私欲で戦った事もあるが。「でも、戦う時は正々堂々と戦うぜ」
「……私とも?」
「戦う理由があるならな。でも、私達の間にそれは無い。だったら、友達にだってなれると思わないか?」
こうして意思の疎通が出来ていても、人間と妖怪の間にある壁はかなり大きい。
何が切っ掛けで仲違いしてしまうか解らないし、その時命を狙われる可能性だってある。だがそれは、人間同士にだって有り得る事で……しかし、人間同士ならただの喧嘩で済みそうな事も、妖怪相手だと喧嘩騒ぎでは済まなくなる可能性がある。その力の差を解消する手段があれば良いのだが、そんな便利なものは幻想郷に存在しない。
ならばこそ、私は彼女達と話をして、理解を深めて、一緒に笑い合う仲になりたいと思うのだ。そうすれば、例え大喧嘩をしたって、血みどろの結果にはならない筈。
それが出来るだけの理性を、妖怪達は持ち合わせているのだから。
そんな私に、レミリアは少々驚きのある表情で、
「……友達、か。そんな事を言われたのは初めてだわ。……でも、悪い気分じゃないわね」
「その調子で人間に対する恐怖も消えてくれたら良いが……そうは上手くいかないよな」
「えぇ……」
レミリアの中にあるトラウマは深い。急がず焦らず、ゆっくりとそれを癒していって欲しいと思った。
その後、私にも心を開き始めてくれたレミリアと、色々な話をした。
それは好きな事、嫌いな事、趣味の事や魔法の事など、取り留めの無い普通の話ばかりで……でも、そうやって他愛の無い話をする機会すら失っていたレミリアにとっては、ただのお喋りも楽しい一時に感じられるようだった。
それから数日後。
こっそりと自作ワインを開けていた美鈴の姿を見付け、「お嬢様には内緒ですよ」「解ってるぜ」と共犯になり、二人で軽い仕上がりの新酒を楽しんでいたところをレミリアとフランドールに見つかり、「私、ヴィンテージワインしか飲んだこと無いわ」「私も」というお嬢様発言に美鈴と二人して絡み、肴を追加しようと立ち上がったところで魔道書の角が脳天に突き刺さった。
超痛い。
「リ、リアクション取れないくらいリアルに痛いぜ……」
「そりゃあ痛くしたもの。で、何やってるのこんな夜中に。しかもキッチンで」
「えーっと、その、私の作ったワインの試飲会をですね……」
「美鈴?」
「ご、ごめんなさいごめんなさい! お嬢様の分はちゃんとありますから!」
「だったら良いのよ」
「良いのかよ!」
「当たり前でしょう。私はこそこそされるのが嫌いなだけよ」
ということで、宴会となった。
因みにパチュリーも美鈴も酒に強く、私はいつも潰されてしまう。だが流石にレミリア達は……と、外見年齢だけで判断して挑んでみたところ、かなりいける口だった。……なんだろう、この敗北感。
ともあれ私達は、台所から食堂へと移動して、明るく楽しく酒を飲んでいった。
……だが、酒の力というのは恐ろしいもので、最初は明るかった場の空気が、何気ない話の流れから急に湿っぽくなってしまう事がある。
或いは、そのつもりが無かった話から、暗い話に繋がってしまう事もある。
私は湿っぽい酒が嫌いだから、そうならないように明るくテンションを上げていたのだが……美鈴が里にある霧雨道具店の話をし始めた事で、つい口を挟んでしまった。
そうしたら止まらなくなってしまって、気付いたら過去を暴露し始め、結果的にそのまま全員が過去を語り始める流れになった。
といっても、私の過去はそこまで壮大なものじゃない。父親と大喧嘩して勘当同然に家を追い出された事や、博麗神社の祟り神だった魅魔様との出逢いと別れなど、珍しいのかもしれないが、しかし他愛のない話ばかり。
むしろ、産業革命後の、工業化と共に魔法を失った世界に生まれた魔女であるパチュリーの苦悩や、飢饉や戦争など、長い時を生きてきたからこそ様々なものを直視せざるを得なかった美鈴の苦しみなど、私とは比べ物にならないほど重たい過去を持ち、けれど笑みで酒を飲むパチュリー達の姿に驚かされる。それは私には――短い寿命しか持たない人間には想像出来ない強さだった。
そして、それ以上のものをレミリア達は背負っているのだ。
「……昔はね、静かに暮らしていたのよ。こうしてみんなとお酒を飲む事だってあった。でも、私達が吸血鬼である以上、平穏は長く続かなかった」
人間に対して明確な敵意を向けた事は無かった。ただ静かに暮らしていたかった。だからフランドールは人間というものを詳しく知らない。世界に残された唯一の真祖として、彼女達はそうあるべく望まれていた。
だが、人間達はそれを許さない。いや、人間だけではない。吸血鬼を倒して名を上げようとする、様々な妖怪が彼女達を付け狙った。朝も夜も関係なく、逃げ続ける日々は終わらなかった。
妖怪は飽きっぽく、けれど興味が尽きなければ何度でも襲い掛かってくる。そして人間は執念深く、時には何代にも渡って襲い掛かってきた。
時代の流れと共に妖怪の数は減ったものの、しかし人間の執念は消える事が無かった。ヴァンパイアハンターと呼ばれる彼等は、人々の営みの中に潜みながら、常に彼女達を狙い続けているのだ。
「宗教団体や秘密結社と呼ばれるものの中には、本物が混じっているの。その組織が、という意味ではなくて、その構成員の中に。彼等は今も高い幻視力を持ち、灯りに満ちた夜の世界に闇を見付け、私達を討伐する。その隠れ蓑の為に組織に所属するの。例えそれを咎められても、組織の活動だと偽って逃げる事が出来るから」
人間は、どんな不可解な状況でもそれを納得しようとする。その『不可解な状況』を自分の中の常識に押し込める事で、精神の安定を図ろうとするのだ。
そして、一度『不可解な状況』に対する認識が出来上がってしまえば、後は余程の事が起こらない限り、その状況に対して行動を起こさなくなる。
宗教団体や秘密結社の活動、というのはそれだけで不可解であると予想出来るものだ。その団体の評判が悪ければ悪いほど、一般人は近寄らなくなる。その先で吸血鬼が狩られているとしても、『怪しげな団体の怪しげな活動』としか思わなくなってしまう。
つまり、狩人側には行動の制限が存在しないのだ。しかし、吸血鬼であるレミリア達は、日光に弱いという致命的過ぎる弱点がある。持久戦に持ち込まれたら勝ち目は無く、どうにか逃げ出したとしても、休息を取る余裕すら与えられない。
立ち止まった次の瞬間には、銀のナイフが、銃弾が、杭が、その体へと迫っているかもしれないのだから。
「そうして逃げ回り続けて、五百年以上。生きているのか死んでいるのか解らない人生に疲れ果てていた私は、人間達の襲撃を察知していながらも、それから逃げずに迎え撃ってしまった。戦いに没頭する事で、死の呪縛から目を逸らそうとしたのよ。
……でも、それは呆気無く失敗し、銀の銃弾の前に倒れた私の胸に杭が打ち込まれた。それでも私を殺さなかったのは、私達が希少だと知っていたからなのでしょうね。月の魔力すら無くなった外の世界でも、そうした曰く付きの物品をコレクションする蒐集家は存在していたようだから」
その後、隠れていたフランドールを見付け出され、破壊の力を封じる為に彼女の手が落とされた。そして、姉は泣き叫ぶ妹を目の前で封印され……自分の行動に絶望し、抵抗する気力すら失ったレミリアも、フランドールと同じように封印される事になる。
「私の精神は死なずに生き続けていたけれど、このまま消える運命だと思っていたわ。でも、こうして助けられて、フランドールと一緒にお酒を飲んでいる。……この眼は破滅の運命しか映さないと思っていたけれど、それは案外呆気なく変化するものなのかもしれないわね」
……その言葉を聞きながら、ふと、レミリアと出逢った日の事を思い出す。
魔道書から現れたレミリアを助けようとした時、私は彼女の姿に畏敬を覚え、瞬きすらも忘れてその姿に見入っていた。だからこそ、今でも印象強く覚えているものがある。
それは、彼女に血を与えようとした時の事。
あの時、レミリアの眼窩には深い闇が広がっていた。
比喩ではなく、そこには光を反射する眼球が存在していなかったのだ
それがヴァンパイアハンターによって抉られたのか、或いはレミリア自身が抉り取ったのか、私には解らない。
とはいえ、驚異的な身体回復能力を持つ吸血鬼にとって、眼球を失う程度の傷は傷の内に入らないだろう。
並みの妖怪を超える魔力を持つ吸血鬼にとって、眼球を失う程度ではその能力は失われないだろう。
だが、それでも、失った眼球を再生させられないほどの絶望がそこにあったのだとしたら。
運命視を持って生まれてきて、しかしそこに映るものが破滅しかないと解ってしまったら、何よりもまず、自身の能力に絶望してしまう筈だ。
その結果、自傷行為に走ってしまってもおかしくない。それが無駄だと解っていても、その事実を否定する為に、自身を傷付けずにはいられなくなってしまってもおかしくない。
そうやって運命を否定しようと苦しみ、拒絶しようともがき、破壊しようと足掻き……けれど何も変えられなかった絶望の先。
そこに、彼女は居るのだ。
「…………」
全ては想像でしかない。しかもそれは、まだ二十年も生きていない人間である私が想像するものだ。レミリアの刻んできた歴史の、十分の一も再現出来ているとは思えない。
けれど私は、グラスに残っていたワインを一気に煽ると、レミリアを真っ直ぐに見つめ、
「……お前の眼が破滅の運命しか映さないのなら、私がその運命をぶっ壊してやるさ」
妖怪退治だなんだと言ってはいるが、今の幻想郷ではそれが完全に形骸化しつつある。妖怪は腑抜けてやる気をなくし、『英雄』と呼ばれていた人間の力は失われて久しいのだ。
つまるところ、レミリアが警戒すればするほど、この土地では孤立してしまう。五百年もの間積み重なってきた恐怖は意思の力で放り投げられるほど軽いものではないだろうが、それでもそうした気持ちを忘れ去れるくらい、陽気に暢気に笑っていられる、平和な空気がここにはある。
だから、
「何か困った事があったら言ってくれ。お前は今まで一人でフランドールを護ってきて、そのプライドもあるだろうけど……でも、友人を頼るのは悪い事じゃないだろ? 私はいつでもお前を助けてやる。それが出来るのも、幻想郷って場所なんだからさ」
笑みで締め括った私に続くようにパチュリーが頷き、美鈴もそれに続いてくれた。そんな私達の様子にフランドールが笑顔を見せ……けれど、レミリアは一人俯き、
「……馬鹿ね。私が嘘を吐いているかもしれないとは思わないの?」
「嘘だったらそれで良い。苦しんでた吸血鬼は居なかったって事になるんだからな。でも、そんな嘘を吐いて、レミリアに何の得があるんだ?」
「……幻想郷を支配しようとしているのかもしれないわ」
「ここには靈夢が……博麗の巫女が居る。それは不可能だぜ」
「……だったら、人間を喰らい尽くそうとしているのかも」
「里には慧音先生が居る。でなくても、無差別に人間を襲えば妖怪の賢者が黙ってないだろうな」
「……なら、妖怪達を支配しようと、」
「そんなやる気のある妖怪は殆ど居ないぜ。さぁ、あとは何だ?」
「……」
軽く挑発するように告げた途端、レミリアから睨まれた。けれどそれは私を射殺そうとする凶悪なものではなく、反論に窮した子供の眼で。
それに応えるように私は手を伸ばし、その小さな頭を軽く撫でながら、
「そう肩肘張らないで、私達に甘えて良いんだよ。我が儘だって言って良い。レミリア達は、もう自由になったんだから」
途端、レミリアの体が強張った。そのまま『巫山戯ないで』と拒絶されるかと思ったら、しかし見上げてくる表情は困惑に染まっていた。
もしかしたら、彼女はこうして誰かに頭を撫でられる事もなければ、優しく抱かれる事も、愛された記憶も無かったのかもしれない。それでも大切な妹の為に戦い続けてきたレミリアは、誰よりも愛情に飢えているのかもしれない……
そう思う私に、レミリアは躊躇いがちにこちらを見上げ、
「……本当に? 本当に、甘えて良いの?」
「あぁ。私がどーんと受け止めてやるぜ!」
「……で、でも、私……」
そう躊躇いを強めるレミリアに、私は優しく言い聞かせるように、
「無理して今までの自分を捨てろって言ってる訳じゃないんだ。ただ、少しずつでも良いから、絶望を忘れていって欲しいんだよ。私はあと五十年も生きられないだろうけど、吸血鬼であるレミリア達はこの先もずっと幻想郷で生きていくんだ。肩肘張ったままだったらすぐに潰れちまう。だから少しずつ、その力を抜いていけば良いのさ」
「……解ったわ。上手く出来るか解らないけれど、そこまで言うなら頑張ってみる」
その言葉と共に、決意に満ちた表情でレミリアが立ち上がり――
「――どーん!」
「のわっ?!」
両手を上げ、勢い良く私のところへ飛び込んできた。それに驚きながらも彼女を受け止めたところで、「私もどーん!」というフランドールの楽しそうな声と共に背中に衝撃。それに更に目を見開いた直後、近くに座っていた美鈴が「どーん」胸が顔に胸が!
そうして二人分の体重に押し潰される形になった私は、美鈴の胸から腹へ顔を押し付けるようにして体制を崩し、その間に響いてきた色っぽい声にドキドキしつつ――って、更なる重さが、
「……どーん」
え、嘘、パチュリーまで?! という事はこの柔らかさはまさか――!
などと全力で動揺しつつ、私はある事を思い出す。
それは、今までずっと真面目な話をしていたからこそ、忘れ去っていた事実。
――ここに居るの全員、酔っ払いだった。
崩れる。
重さと柔らかさと幸せに押し潰される。
それにフランドールがけらけらと笑い出し、釣られるように笑顔が伝播していく。
重かった空気は一瞬で霧散し、馬鹿騒ぎの笑い声が食堂に響き始める。
その中心で笑うレミリアは、憑き物の落ちたような晴れ晴れとした笑顔を浮かべて私を見つめ、
「まだ人間は信じられないけれど、でも、貴女の事は信じられる。私は、幻想郷に来られて幸せだわ」
「じゃあ、もっと幸せになっていこうぜ。私達と一緒にさ!」
「うん!」
その頷きと共に、とても可憐な笑顔を浮かべたレミリアに笑みを返したところで、「お姉様にもどーん!」とフランドールが姉に飛び掛って、騒ぎはもっと大きくなっていって。
私達の間にあった壁は、完全に無くなっていったのだった。
★★★
宴会の翌日から、レミリアに笑顔が増え、恐らくは彼女の素なのだろう、子供のような我が儘な行動が見られるようになった。
会話にも笑い声が増えるようになり、私のところにやってくる回数も多くなって、フランドールと一緒に驚いたり笑ったり、日々がどんどんと騒がしく楽しくなってくる。
そうなると、こっちのやる気も更に高まってくる訳で、
「今日は新しい魔道書を借りに来たぜ!」
「却下」
「酷い!」
と、いつも通りサディスティックなパチュリーにゾクゾクしつつ、私は彼女の隣に腰掛ける。
そしていつものように……って、
「ん? 今日は何を読んでるんだ?」
「天狗の新聞。美鈴が窓を拭くのに使っていたのを一部貰ってきたの」
「へぇ、そんなに興味を引く記事が書いてあったのか? ……って、んな訳ないか。天狗の新聞だもんな」
「えぇ、天狗の新聞だから」
「でも、それを読もうって気になったんだから、何か気になる事が書いてあったんだろ?」
「…………これよ」
机の上に広げられた新聞を、パチュリーが指で突付く。そこにある記事を読んでみると、そこには予想外の文字が並んでいた。
「『海賊達の恐怖』?」
なんでも、外の世界には樽に入った海賊にナイフを指し、海賊が痛みに飛び上がるまでを楽しむゲームがあるらしい。そのゲームを模したような遊びが、幻想郷の一部で流行り出している……というような事が記事には書かれていて、
「……いくら日本人でも、ハラキリは遊びに出来ないぜ」
「私も同意見。例え嘘でも、こんな記事を書く神経が理解出来ないわ」
まるで、記事を書いた天狗が親の仇であるかのように、忌々しげな様子で告げるパチュリーに、私は不安を覚えつつ、
「……もしかして、何か思うところがあるのか? ――あ、いや、無理に聞くつもりは無いんだが」
「あ……、……ごめんなさい。昔の事を思い出してしまって……」
表情を曇らせて、パチュリーが深く息を吐く。
……この前の宴会で聞いた過去の話もそうだが、私はパチュリーについて知らない事が多い。
生まれが外の世界だという事は知っていたが、当時の生活や、幻想郷にやって来た経緯などは全く知らないのだ。その一端は宴会の時に聞けたとはいえ、まだ知らない事は多い。
根掘り葉掘り全てを聞き出そうというつもりは無いが、それでも知りたい部分はある。彼女の事が好きだから、それは尚更だった。
そんな私を前に、パチュリーは視線を上げ、
「……でも、そうね。貴女になら話しても良いか。いえ、出来れば聞いて欲しい」
「私で良いのか?」
「貴女が良いの。……私を再び外に連れ出してくれた、貴女にこそ伝えておきたいの」
「……解った。話してくれ」
思ってもみなかった言葉に驚きながらも、私は真っ直ぐに頷き返す。
対するパチュリーは、視線を下げ、どこか辛そうな様子で語り始めた。
「……以前にも話した通り、私は外の世界で暮らしていたの。都会から離れた、静かな街だったわ。でも、だからこそ魔女である私の噂はすぐに広まって、私の屋敷に近付く者は居なかった。
でもそんなある日、一人の女の子が私の前に現れたの」
少女は、魔法使いを――ファンタジックなものではなく、悪魔との契約の元に魔法を扱う古き魔女を目指していた。パチュリーはそんな彼女に呆れ、あまり相手にしなかったらしいが、毎日のように押し掛けてくるその熱意に根負けし、一緒に魔法の鍛錬を始めるようになったらしい。
「あの時代では珍しく、彼女には魔女としての才能があった。もしかしたら、私よりも高い魔力を持っていたのかもしれないわ。だけど、どこか抜けているところがあって、私はそんな彼女を嫌いになれなかった」
だが、そんな生活が続いていく内に、少女を取り巻く状況が変わり始めた。彼女はパチュリーと同じ、種族としての魔法使いを目指していたらしいが、家族がそれを許さなかったのだ。
「捨虫の魔法を会得した私と違って、彼女は結婚し、子供を生み、孫にも恵まれた。でも、時折彼女は魔女になれなかった事を悲しんでいて……けれど私にとっては、そうした普通の幸せが羨ましかった。妖怪である私には、決して手に入らないだろうものだったから。……だから私にとって、彼女は『人間として生まれた私』ともいえる存在だったのよ」
その後も二人の関係は続き……しかし、その幸せはある日突然終わりを告げる事になる。
「……孫娘が七歳になった頃、比較的裕福だった彼女の家に強盗が入ったの。奴等は彼女の家を漁り、更には抵抗した彼女を…………殺した。それだけじゃなく、彼女の孫を誘拐していったのよ。静かな街で起きた大事件だったから、街は大騒ぎになって……」
孫娘が見付かったのは、それから一週間後。
命に別状はなかったものの、彼女は強盗達から暴行を受けていた。
「その間、私は住民達から非難され続けたわ。『魔女であるお前が犯人に違いない』と決め付けられて、家から出る事すら出来なくなった。その間に彼女の葬儀が終わって、助けられた孫娘のお見舞いにもいけなくて…………辛くて悲しくて、それから逃げるように引き籠り続けていたある日、不意に非難の声が止んだのよ。朝から晩までずっと響いていたそれが止むなんて思ってもいなかったから、ついに私はおかしくなってしまったんだ、と思った。彼女を失った悲しみと、犯人達に対する怒りと、非難され続けていた苦しみで、まともに眠る事すらも出来ない毎日を送っていたから。
でも、それでも、私はそっと外の様子を確認して……自分が、幻想郷にやって来ていた事に気付いたの」
それが、今から五十年ほど前の話。
だが、それ以降も彼女は図書館に引き篭もり続け……十年前、ふらりと現れた美鈴をメイドにする事になる。
「美鈴を受け入れたのは、彼女が妖怪であるという事と、私に必要以上に干渉してこなかったからよ。……でも、彼女が居てくれたから、私はある程度人間らしさを取り戻せて…………だけど、人間と、特に魔法使いや魔女と触れ合うのはとても怖かった。……また、大切な人を失ってしまうような気がして」
出逢った当初のパチュリーがやけに冷たかったのは、そうした過去があったからだったのだ。
「でも、やっぱり私は押しに弱くて……駄目だ駄目だと思っていても、貴女を受け入れてしまった。……まぁ、告白された時は驚いたけどね」
「私は、今もパチュリーの事が好きだぜ」
「解っているわ……。でもね、それを解っているからこそ、私は不安になるのよ」
真っ直ぐに見つめられる。
その瞳は、不安に揺れていた。
「ここは幻想郷で、貴女には妖怪を倒せるほどの力がある。でも、強大な妖怪の代名詞ともいえる吸血鬼と知り合った事で、今後は妖怪と戦う機会が増えるかもしれない。……レミリアを助けたのは間違いだったとは思わないし、こうして彼女達が心を開いてくれたのはとても素晴らしい事だと思うけれど……でもやっぱり、不安は消し切れない」
「パチュリー……」
「……こんな言い方はアレだけれど……私は、貴女がこんなにもレミリア達に入れ込むとは思わなかったのよ」
私の行動は、パチュリーにとっては意外だったのかもしれない。でも、私がレミリア達にやってきた事は、出会った頃のパチュリーにやってきた事と殆ど変わらないのだ。私の事を知って貰って、彼女達と仲良くなりたい。そう思っての行動だったのだから。
唯一の違いは、そこに恋心があったかどうかで……今も続いているその気持ちを胸に、私はパチュリーを安心させるように微笑み、
「そう心配しなくても大丈夫だよ。私は自分の力を過信しないし、引き際は弁えてる。パチュリーを悲しませるような事はしないさ」
「……信じているからね」
「おう」
真っ直ぐに頷き返す私に、パチュリーが小さく微笑んで……
……私は椅子から立ち上がると、そのまま彼女を抱き締めた。
「……心配すんな。私はお前の側に居るから」
「…………っ、…………男に言われたいわね、そういう台詞は」
「じゃあ、私が男だったら付き合ってくれるか?」
「どうかしら。私、結構面食いだから」
「なんだよそれー」
小さく、笑い合う。
でも、パチュリーのそれが少しずつ涙混じりになっていって、止まらなくなって。
「……大丈夫だから」
嗚咽するパチュリーを安心させるように、私は「大丈夫」と繰り返す。
普段は冷静な魔女の中には大きな傷があり……それは、五十年以上経った今も消えない悲しみと怒り、苦痛を与え続けてきている。しかもそれは、自分の意思で消せるようなものではない、深い深い心の傷だ。
だからこそ、パチュリーは不安になってしまうのだろう。
レミリアと相対した時のように、すぐ隣で私を助けられる状況なら未だしも、自分の計り知らないところで私が傷付く事を……私が何者かに襲われ、殺されるかもしれない未来が来る事を彼女は恐れている。
でも私は、異変が起きたら見逃せない性質の人間だ。いくらパチュリーの事が好きでも、「もう妖怪とは戦わない」とは言ってやれない。それが私のスタンスで……それを失ったら、私はパチュリーを護る事すら出来なくなるから。
それは彼女も解ってくれているのだろう。でも、涙は止められない。大切な友人を殺された過去は、決して消えないものだから。
ならばこそ、私は、
「……大丈夫。私は、ずっとお前の傍に居るから」
その不安を受け止め、少しでも安心して貰えるように、涙するパチュリーを抱き締め続けた。
それから、暫く経って。
「……あーもう、恥ずかしいなんてレベルじゃないわね、全く」
目元を赤く腫らしたパチュリーが、気恥ずかしげに呟く。
私はその隣に腰掛け直しつつ、いつものように笑みを浮かべながら、
「泣きたくなったらいつでも言ってくれ。胸を貸すぜ」
「結構よ。次は美鈴のを借りるから」
「な、何で!」
「自分の"胸"に聞いてみなさい」
「う、五月蝿いな! 私はまだまだ成長途中なんだよ!」
「私、貴女くらいの時には結構育ってたわよ」
「よ、妖怪と人間じゃ色々違うんだよ、この隠れ巨乳! 揉むぞ!」
「揉めるほど育ってから言いなさい」
「うわーん!」
「あら、もう泣くの? 私は色々吹っ切れたし、これからはもっと虐めてあげようと思ってたのに」
「やだ、素敵……!」
などと、暗くなった空気を払拭するように軽く騒いだ後、パチュリーが胸の中の重さを吐き出すように深く息を吐き、
「……これも、運命なのかしら」
「ん、パチュリーも運命論を信じるのか?」
「いいえ、私は私が刻んだ歴史と魔道書しか信じないわ。……でも、それでも、この出逢いが定められたものであると仮定して考えてみたくなる時もある。頭ごなしに運命を否定していたら、真理を求める事なんて出来ないもの」
魔女は真理を追い求める存在だ。ならばこそ、それを信じるか信じないかは別にしろ、運命もその一つに含まれて然るべきなのである。
「で、お前はそこに何を視た」
「……笑わない?」
「当然」
頷きに、パチュリーはどこか気恥ずかしげな様子を見せ、
「……私は、そこに幸せを視たわ」
「……」
「……ぼ、呆然とされても困る!」
「い、いや、まさかお前がその答えに至るとは思ってなかったからさ。……てか、そこに私は含まれているんだよな?」
「当たり前よ」
と、パチュリーは赤い顔で頷き、
「さっきのアレで解ったでしょうけれど……貴女の存在は、私の人生に必要不可欠なものになっているの。…………ああもう、ここまで言っても解らない? 私はね、貴女が居てくれたから幸せを見付けられたのよ」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。
だが、すぐに理解の波が襲ってきて、そうしたらもう何をどう言葉にして良いのか解らないくらい嬉しくなって、
「私も愛してるぜ、パチュリー!」
「そ、そういう意味じゃない! ……まぁ、確かに愛情はあるけど!」
「解ってるよ! 解ってるけど嬉しいんだよ! ああもう、生きてて良かったぜ!」
私は椅子から飛び上がり、そのままぴょんぴょんと興奮に飛び上がりながらパチュリーをぎゅっと抱き締める。
「あーもう、どうしよう、涙出てきた……」
「ちょ、ちょっと、流石にそれは喜び過ぎじゃない?」
「だってお前、大好きな人に幸せをプレゼント出来てたんだぜ? こんなに嬉しい事、他にあるかよ!」
嗚呼、私は今、最高に幸せだ!
そうテンションを上げる私を落ち着かせるように、パチュリーがそっと私を抱き返してくれて……
――そんな私達を、ニヨニヨと笑うレミリアが見つめていた。
「仲が良いのねぇ」
「――?! ?! ?!」
ちょ、ま、いつからそこに?! そう声に出せない混乱で頭が一杯になり、訳も解らずパチュリーの頭を抱き寄せる。それに「むぎゅ」とくぐもった声が聞こえたが気にしていられない。嬉しさが一気に恥ずかしさへと変換されて、もう何をどうしたら良いのやら!
「取り敢えず、パチュリーを離してあげたら? 苦しそうよ」
「って、うわ、パチュリー! パチュリィィィィィィ!!」
酸欠気味の状況から復活したパチュリーに「嬉しいのは解ったから落ち着きなさい」と冷静に怒られてから、私は改めてレミリアと向かい合っていた。
今も嬉しさは強いのだが、流石に顔には出していない。流石に、あんなにも浮かれ切った姿を見られた後で頬を緩める訳にはいかなかった。……というか、実をいえば今も恥ずかしさが勝っていてまともにレミリアの顔が見られやしない。かといってパチュリーを見つめる事も出来ず、さっきから私は微妙に視線を下げ続けていた。
そんな私の視界の端で、レミリアは楽しげに微笑み、
「こんな事なら、フランドールと美鈴も一緒に連れて来れば良かったわ」
「よ、良くない! ……それより、私に何の用なんだ?」
話を逸らして気恥ずかしさを誤魔化してしまおう。そう思う私の気持ちを読んでいるのか、レミリアは暫くニヨニヨ笑い続け、
「……その辺にして、レミリア」
「はいはい、解っているわ」
パチュリーに窘められつつ、レミリアは改めて私を見つめ、
「ちょっと頼みたい事があるのよ。凄く簡単で、多分十分も掛からない程度の用事なんだけど」
「買い物か何かか?」
「違うわ」
そう、まるで無邪気な子供のように彼女は微笑み、
「血を吸わせて」
「――さーて、久しぶりに家に帰って掃除でもしなくちゃかなっと」
「はいストーップ」
立ち上がった私の目の前に、机の向こうに座っていた筈のレミリアが現れていた。霧となって移動出来る彼女は、こうして呆気無く相手の間合いに入り込んだり離れたり出来るのだ。
本当、吸血鬼の力というのは恐ろしい。そう思う私の前で、レミリアがキラキラと目を輝かせ、
「ねぇ、良いでしょう? ちょっとだけだから。前にも説明したけれど、私は小食だから吸血鬼化する事は絶対ないし……ほら、これからもあるし」
「って、ちょっと待て、一度だけじゃないのかよ! いや、一度だけでも嫌だけど!」
「だって、あんなにも美味しい血は初めてだったんだもの」
「っていうかなんで私なんだよ! 美鈴とかでも良いだろう?!」
「そこでパチュリーの名前を出さないのが貴女らしいわね」
「……な、なんの事かさっぱりなんだぜ?」
ちらり、とパチュリーに視線を送ると、魔道書を読んでいてこっちを見てすらいなかった。ああもう、さっきの事があったから放置プレイか!
対するレミリアは楽しげな様子のまま、
「まぁ良いわ。飲ませて」
「だ、だから良くないっての」
「じゃあ、パチュリーを監視につけるから。良いでしょう?」
「好きにすると良いわ」
「ちょ、ま、そんなにあっさりOK出すのかよ!」
酷い! そう叫ぶ私に、パチュリーはちらりとこちらを見やり、
「大丈夫よ。何かあったら私が人間に戻してあげるから」
「そういうレベルの話じゃねーよ! 大体私だって好きでその……ああもう!」
「ねぇ、お願い……」
「そんな小動物みたいな目ぇすんな! ……解った、解ったよ! ちょっとだけだぞ?!」
言わずもがな、パチュリーの事は全力で信頼しているし愛しているし、当然レミリアの事も信頼している。正直嫌だし恐怖もあるが、そこまで怯えるほどの結果にはならないだろう、と腹を括った。
そんな私に、対するレミリアは嬉しそうに破顔し、
「わーい、それじゃあフランドールも連れて来るわね!」
「待てぇい!」
「え、駄目なの?」
「駄目じゃないけど順番ってのがあるだろ! つかそんなに飲まれたら貧血で倒れるっつーの! 献血は三ヶ月に一回!」
「そんなに待てない!」
「じゃあ我慢!」
などと騒がしくやり取りをしつつ、結局血を与える事になった。
――だが、その決断があまりにも早計だったと気付くのは、再び椅子に座り、軽く首を傾けるように指示を受けた後の事だった。
流石のパチュリーも本から顔を上げてこちらの様子を伺っていて、しかし耳の上で私の髪を押さえるレミリアの手は、そっと添えられているだけなのに全く頭を動かせない。それに焦りを感じつつ、私はこちらを覗き込んで来る彼女の紅い瞳を見返し、
「ちょ、ちょっと待て。まさか首筋からガブッっといくのか?」
「うん。それにしても綺麗な髪ねー。染めているの?」
「魔法でちょちょいとな――って、いくのかよガブッと!」
「まぁまぁ、そう不安にならなくても大丈夫よ。傷跡は私が治してあげるから。あと、変身もしないわ」
「何の話?! てか、ちょっとは否定するとかしてくれよ!」
「やぁよ。もうお腹ペコペコなんだから。それに、そんなに心配しなくても大丈夫よ。ダイジョーブ」
「言えば言うほど信用ならなくなるなその言葉……! ああもう解ったよ!」
微笑むレミリアに(半ば強引に)諭されて、私は強張る体からどうにか体の力を抜いていく。
そうして、私の首筋にそっと唇を近付けて来ながら、しかしレミリアは耳元で一度動きを止め、
「……痛くしないから安心して。あと、声は我慢しなくて良いからね」
小さく告げられた言葉の意味を理解出来ず、私は思わず「声って、一体どういう――」
――がぶり。
「――ッ、」
吸血鬼の魔力なのか、或いは覗き込まれた時に魅了でもされていたのか、異物が差し込まれた感覚と共に全身から力が抜けて、
血液が流れ出す熱を感じ、
それに触れる冷たい舌を感じ、
そっと、
吸い上げ、
られっ、
「ひぁっ」
変な声が、自分のものとは思えない甘ったるい声、が、
「あ、」
脳天から足先まで、全身を巡る血液が一点へと吸い上げられる。その度に、全身に震えるような甘い痺れが走る。溶ける、蕩ける、なんだか良く解らなくなる。それが吸血鬼の魔力なのか或いは覗きこまれたときにでもみりょうでもされたのか、わたしは「いったいどういうことだ」といいかけたくちびるからだらしなくこえとよだれをたれな、っ、ぁ――
中略。
吸血鬼の吸血行為には、快楽が伴う。そんな知識を思い出したのは、死にたいくらい恥ずかしい醜態を晒しまくった後の事だった。
「いっそ殺してくれ……」
その前に着替えたいけど……。そう思いながらぐったりと机に突っ伏す私のところへ、パチュリーがやってきた。
彼女はどこか高揚のある様子で私の髪を撫で、
「……十三回」
「止めてくれよ何の数字だよ……」
「私の名前を呼んだ回数」
「――ッ! もうやだ死ぬ! 今から死ぬ!!」むしろ恥ずかしさで死ねたなら! そう叫び上げながら机にがんがん頭をぶつけ始めたところをレミリアに止められ、その後も暴れる事数分。
どうにか落ち着きを、というかもう気力を失って机に突っ伏すしかない私の首筋にパチュリーがそっと触れ、
「予想以上ね、吸血鬼の力というのは。……可愛かったわよ」
「追い討ちかよ! 死人に鞭打たないでくれよっ……!」
「そうよパチュリー。この子を――私のマリアをいじめないで」
「大丈夫よ、このくらいなら逆に喜ぶから。……にしても、吸血鬼が聖母を求めるの?」
「そのくらい甘美だったのよ」
パチュリーが何か聞き捨てならない事を言ったような気がしつつも、突っ込む気力すら湧かないまま、私は微笑むレミリアの様子を横向きに眺める。
血を吸った前と後とで明確な変化は見られないが、それでも幾分肌艶が良くなったようにも思えて。
レミリアの調子が出てきたのは良いが、何か危険なスイッチを押し込んでしまったような気がしないでもない。そう思いながら、私は目の前の現実と羞恥から逃げるように瞼を閉じて……でもきっと、次の『食事』も血を差し出してしまうのだろうなと、未知なる快楽に魅入られてしまった自分の身を呪ったのだった。
……まぁ、悪魔に魅入られてなかったら、魔女なんてやってないけどさ。
その後、パチュリーとまともに顔を合わせられず、逃げるように部屋へと戻った私は、今日一日の予定を全て放り投げて引き篭もり始めた。
ベッドの中で丸くなり、恥ずかしさに消えてなくなりたいと本気で思いながら時間を過ごし……
……いつの間にか眠っていたのか、気付けば窓の外は真っ暗になっていた。
「……」
まだ顔が熱い。何も考えたくない。それでも思うのは、パチュリーに嫌われてなくて良かった、という事。あと、あの高揚したサディスティックな表情が凄く綺麗だった、という事。
正直、涙するパチュリーを慰めた事や、彼女に幸せをプレゼント出来ていた事を喜んだのが数日前の出来事のように感じられる。あれが吸血行為のすぐ直前の出来事だったなんて信じられない。
……いや、もしかしたら、レミリアはもっと早い段階から私達の会話を聞いていたのだろうか。吸血鬼の聴力なら、重たい図書館の扉の向こうからでも会話は盗み聞けるだろうし……第一、扉が開けばそれに気付く筈だ。となると、彼女は霧か蝙蝠になって暗い図書館の中に隠れていて、私達を脅かそうとでもしていたのかもしれない。でも、あんな風に昔話が始まってしまって、出るタイミングを失い、だからああして場の空気を変えるような登場をしたのではないだろうか。
或いは、私達の中に残っていた重い空気を完全に消し去る為に、賑やかしを演じてくれたのか。
なんにせよ、酷く恥ずかしい思いをしたのは確かで……でも本当、パチュリーのあの表情は綺麗だった。
「……」
……あれが見られるのなら、またパチュリー同伴でも良いな。むしろ同伴が良いな……
などとぼんやり考えていたところで部屋の扉がノックされて、別にやましい事は何もしていないのに、思わず心臓が飛び跳ねた。
「だ、誰だ?!」
「――あ、良かった起きてた。レミリアよ。夕飯を持ってきてあげたわ」
「……あー、ちょっと待ってくれ」
のそりと起き上がって、乱れた髪をざっと直しながら扉を開くと、木製の盆を片手に載せたレミリアが立っていた。
彼女は少しだけばつの悪そうな表情で部屋に入ってくると、机の上に盆を置き、
「美鈴が持ってくるつもりだったらしいんだけど、私が変わりに持ってきたの。……なんていうか、さっきはやり過ぎたわ」
「本当だぜ、全く……」
苦笑と共に告げて椅子に腰掛け、美鈴手製の夕飯を貰う。今夜はシチューだった。人参が星型に刳り抜かれているのをみると、美鈴も私を心配してくれていたらしい(普段は乱切りなのだ)。
あとで顔を出さないとな、と思いつつ、湯気を上げるシチューにスプーンを突っ込んだところで、レミリアがじっと私を見つめて来ている事に気付いて、
「ん、どうした?」
「……怒ってない?」
「怒ってない。そりゃ今も恥ずかしいけどさ、吸血行為に快楽が伴うのを忘れてた私が悪いんだ。お前は気にしなくて良い」
「ありがとう、私のマリア……。じゃあ今度はフランドールも一緒に、」
「絶対にNO! 悶え死ぬ!」
「パチュリーも付けるわよ?」
「……か、考える時間をくれ」
「そこは否定しないのね。……私、マリアのそういうところが好きよ」
「欲望に忠実なのも考えものだと思うけどな! 自分の事だけど!」
ああもう恥ずかしい! そう真っ赤になりつつも、私はシチューを食べていく。
対するレミリアは安堵のある表情でベッドに腰掛け、私の様子を見つめてくる。
……背中の羽さえなければ、小さな子供にしか見えなかった。
そうして静かな食事が終わり、一息吐いた頃。
私は、いつの間にかベッドに横になっていたレミリアへある事を問い掛けた。
「なぁ、レミリア。どうして私がマリアなんだ? まさか名前を一文字もじっただけ、なんて事は無いよな?」
「そういう言葉遊びは嫌いじゃないけど、流石にそれは無いわ。ただ、私の中のイメージとして、聖母マリアはとても美味しそうな相手なのよ」
「美味しそうと来たか。人間にゃ想像出来ない感覚だぜ……」
「こればかりは仕方ないわ」
そう微笑むと、レミリアは瞼を閉じながら、
「十字架や聖水といったキリスト教を象徴する道具を弱点とする吸血鬼にとって、ナザレのイエスを産んだ聖母マリアは最も忌むべき存在の一人でもあるの。だけど、私はそうは思っていないのよ」
眠るように瞼を閉じながら話すレミリアの姿は、まるで絵画に描かれる天使のように美しい。けれど彼女の姿は、鏡のように部屋の様子を映す窓ガラスには映り込んでいない。
鏡は魂を映すものであり、それを持たない不死者の姿はそこに映らないのだ。
だが、レミリアには私のそれよりも繊細な心がある。それをそっと包むように胸元で手を組んだ彼女は、ゆっくりと瞼を開いて私を見つめ、
「……絶望と共に生きてきたから、私には常に死が付き纏ってきた。でも、この体はそう簡単には死んでくれない。真祖である私は日光にもある程度の抵抗があって、自殺する事も出来ないのよ。……解るかしら。どれだけ人生に絶望して死を選びたくても、自分で死ぬ事の出来ない苦痛が。かといって、人間相手に死を望んでも、絶対に楽には殺して貰えない。苦しみだけ与えられ、下手をすれば殺されずに見世物にされる可能性だってある。……いえ、ああして魔道書に封じられていた以上、実際に見世物にされていたわ。……私達姉妹は、そんな人生を歩んできたのよ」
それは、終わらない絶望。
拒絶したい現実。
だが、それを不可避だと示すレミリアの能力。
運命。
「もし吸血鬼が完全な不老不死だったとしたら、私の精神は持たなかったと思うわ。でも、不死者とはいえ私は死ぬ事が出来るから――吸血鬼を殺せる武器が存在するから、私は生き続けた。どんなに苦しくても、いつか死ねると希望を持った……。
つまりね、聖母マリアは、私に死という希望を産んでくれた人でもあるのよ」
どんな妖怪も化け物も、全ては人間の心が生み出した幻想だ。不可解な事件、蔓延する厄病、時代の変化と共に混ざり合う文化や宗教。そして、根源的な夜への恐怖。死への恐怖。そうしたモノが意思を持ち、肉体を得た果てに彼女達は生まれる。
この世界に生れ落ちた頃には弱点が無かったとされる吸血鬼は、キリスト教の影響を受けて弱点を増やしていき、ある作家が決定付けたイメージによってその存在自体を固定されてしまった。
彼女達が人間に影響を与えるように、人間から生まれた彼女達も、また人間に影響されてしまうのだ。
「だから、私にとって聖母マリアは特別な存在なの。そんな中で、彼女のものかと思えるほどの血を持った相手に出逢えたんだもの。これはマリアと呼んで敬うしかないでしょう? ……だからほら、そう苦しそうな顔をしないで。私はもう大丈夫だから」
霧となり、ベッドの上からこちらの正面にやって来たレミリアが、私をそっと抱き締めてくれた。
血を飲まれた事で、レミリアと感覚が繋がってしまったのだろうか。どうしようもない絶望に胸が締め付けられ、深い苦しみに涙が溢れ出してくる。
そんな私の涙を、レミリアがそっと拭ってくれながら、
「……ごめんね、私のマリア。美味しいご飯の時間だったのに」
「気にすんな。それよりも謝らないでくれよ」
「……だって、こんなにも心配して貰えるとは思ってなかったから」
血液は全身を巡る命の水だ。それを与えた私以上に、レミリアには私の心が流れ込んでいるのかもしれなかった。
だが、彼女は私の頭を優しく抱きかかえながら、
「……でも、私は謝らなくちゃ」
「どうして?」
「私は…………私はね、死ぬ運命にあるの」
一瞬、言われた言葉の意味が解らなかった。それでも彼女の腕を払うように顔を上げると、私は悲しげに微笑んでいるレミリアを見つめ、
「ど、どういう事だよ!」
「三日後、私は人間に殺される。これはずっと昔から、生まれた頃から定められていたものだった。ああして封印されてからは、私の精神が持たなくなるか、或いは本が燃やされでもするか……そうして死を迎えるのだと思っていたわ。でも、パチュリーの魔力で封印が解けて、この屋敷で暮らし始めて……まさか、こんなにも平和な生活が手に入るなんて思ってもいなかった」
つまりそれは、私達がレミリアを助けたからこそ、彼女の『人間に殺される』という運命が確定してしまった、という事であり、
「ふ、巫山戯んな! 私はそんなの納得しない! 出来る訳無いだろ?! ――って、まさか、だから私の血を飲んだのか?!」
吸血鬼に死を与えてくれた聖母マリアの血を飲むというのは、つまりその死を受け入れるようなものだ。むしろもっと単純に、最後に生娘の血を飲んでおきたかっただけかもしれない。
どちらにしろ、私はこのまま死を傍受しようとしているレミリアを認められなかった。
だが、対する彼女は優しく微笑み、
「あれは本当にお腹が空いていただけよ。他意なんて無いわ。……でも大丈夫、大丈夫だから。
辛い人生を歩んできた私にとって、死へと向かうこの運命が唯一の救いだった。……酷い話よね。フランドールを残してしまうのに、その日が来るのが待ち遠しかったのよ。苦しみのない死が与えられる可能性なんて殆ど無いのに、それでも私はその死へと――苦痛からの開放へと向かう為に生き続けた」
でも、
「でも、今は違うわ。私はその運命に抗ってみせる。私の力は運命視であって、未来を確定させる訳ではないのだもの。その運命を変えたいという強い意志があれば、必ず変えられる筈」
レミリアはそう強く断言し、けれど不安げに眉尻を下げ、
「……だから、お願い。私に力を貸してくれないかしら。死の運命に抗うなんて初めてだから、どうして良いのか解らないの」
「……何言ってんだ、この馬鹿」
「え……?」
私は椅子から立ち上がると、驚きに目を見開いているレミリアの細い体を抱き返し、
「そんなもん、言われなくても手伝うに決まってるだろ。私だけじゃない、パチュリーや美鈴だって絶対手伝ってくれる。そんな馬鹿げた運命なんて、認められるか」
「……でも、本当に良いの? 人間は妖怪を退治するものなんでしょう?」
「その通りだ。だけど私は、相手が人間だろうと妖怪だろうと、大切な相手を護る為なら全力を尽くすぜ」
不安げな問い掛けに、力強く言葉を返す。例え妖怪の賢者達に文句を言われたとしても、この信念だけは変えるつもりは無い。
「それでも不安になるなら、お前は誰にも負けない吸血鬼でいてくれよ。いつか私がお前を退治してやるから。それなら何の問題もないだろ?」
「うん……。……ありがとう、私のマリア」
「気にすんな。でも、そんな重要な事をどうして今まで黙ってたんだ?」
「こんなにも仲良くなれるとは思っていなかったし……それに、早く事実を告げた事で、運命が悪い方向へ転がってしまう可能性もあったから。でも、このタイミングの告白なら、もし最悪の結果になってしまったとしても、私だけが――」
「――それ以上言うな。お前は運命を変えるんだろ?」
「……うん」
ぎゅっと、強く抱き返される。口では決意を語っていても、その心はどうしても不安に埋め尽くされてしまっているのだろう。
夜の王たる吸血鬼の小さな体は、微かに震え続けていた。
さて後編。
楽しみです。