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「お墓参りに行かなくちゃ」
夢の終わりにぽつりとこぼれた呟きは、レイラを戸惑わせた。
お墓、死者と記憶が眠る場所。けど、とレイラは考える、ここに私の大事な人たちのお墓はないわ。もう会えない人は沢山いるのに、私に出来るのは一人思い出を振り返ることくらいで、昔のことを話す知り合いもいなければ、昔を思い出させる風景もここにはない。
それは悲しいことなのだろうか、とレイラは自分に問いかける。そして答えを出し切れないまま――というのもここの暮らしには全く不満がなく、それどころかあの頃に較べれば、今はまさしく楽園にいるようなものだったから――ベッドの上で身体を起こし、まだ夜の明けきらない時間帯の灰色の薄明かりに浸された寝室を、ぐるりと見渡した。
三人の姉は、まだ眠っているようだった。
レイラは耳を澄まし、屋敷の静けさに苦笑する。それは何も、お化けが眠ることをおかしがっているのではなくて、昔と変わらず、妹の自分よりも遅れて目を覚ます三人の姉を、愛おしく感じたからだった。
私がいなくなっても、姉さんたちは生きていけるのかしら。もちろん、とレイラは自信を持って断言できた。三人は生きていくに決まっている。好きに音楽を奏で、ふわふわと風に漂うようにして、いつまでも生き続けることだろう。でも、その暮らしからは規則正しい朝食や、昼下がりのお茶の時間、それに夜のテラスで開かれる演奏会は、殆どなくなってしまうかもしれない。それらの準備をするのは、いつもレイラの役目なのだから。
音もなくベッドを抜け出し、レイラは部屋の空気を入れ替えようと窓辺に近付く。昼間であれば霞んで見える湖も、この時間は灰色のもやに溶け隠れている。窓を開ければ、初秋の朝の冷たい大気が、部屋に雪崩れ込んでくることだろう。そしてまぼろしを見せるだろう。記憶にある街の朝。
もっとも、あそこにあったのは湖ではなく運河で、水はエメラルド色をしていたし、教会の鐘の音もここでは聞こえてこないけれど、不思議と朝の空気というものは、故郷を遠く離れても変わらない何かを秘めているように思われてならなかった。
そういえば、と窓を開けながらレイラは恒例の約束に思いを馳せる、今日は天狗の少女が遊びに――彼女に言わせれば取材に――やって来る日だった。文のことは好きだった。彼女の声と喋り方は気持ちよくて、飛ぶ姿はきれいだったし、それに何より、あの風が、とても魅力的だ。彼女の風に乗って三人の演奏が森に拡がると、絡み合った三つの音色がふわりとほどける瞬間が訪れる。そんな時、三人は決まってお互いを見つめ、照れ臭そうに微笑み合う。するとレイラは誇らしいような、寂しいような気分に襲われて、思わず声を上げそうになってしまう。
でも、姉さんたちは、声に出さなくても、ちゃんと私に気付いてくれる。私にも微笑みを向けてくれる。つまり、あれは錯覚なのよ。姉さんたちじゃなく、私に問題があるということ。
あるいは、問題というほどでもないのかもしれない。
ぶるりと身体を震わせて、レイラは窓辺を離れる。そろそろ寝間着を替える時期が来ているのに、このところの忙しさにかまけて、すっかり忘れてしまっていた。
仕方がないわ。こんなに楽しい時間は、ここに来てからだって、そうそうなかったんだもの。
軽やかにクローゼットを開きかけ、そこで思い直すと、椅子にかけていたショールを羽織るだけにして、次第に白み始めた灰色の時間を胸いっぱいに吸い込もうと、そのままテラスに進み出た。
もう少しすれば、木々が、より鮮やかな色合いを帯び始める。そして秋の神様がやって来る。今年の奉納品は何にしよう。昨年は彼女たちのための曲を――もちろん、姉さんたちの作ったものだった――二人に贈った。その前の年は、紅葉と葡萄を模った髪飾り。その場で本物の紅葉と葡萄に変化したのには、驚いたけれど。
そうだ、とレイラはひんやりした空気に微笑みを浮かべた。冬着を何着か繕って、彼女たちのために少し手を加えてみるのも良いかもしれない。あの手の服は、この土地では珍しいものだし、彼女たちも喜んでくれるだろう。折角だから刺繍を入れて――でも、間に合うかしら。たぶん、大丈夫。子供の頃とは違うんだから。問題は、どんな意匠にするかだ。考えているうちに時間がなくなるようではいけない。イニシャルだけというのは寂しいから、彼女たちの季節にぴったりの……
「風邪をひくわよ、レイラ」
背後から声をかけられ、レイラはびくりとする。そして驚きを顔にも態度にも出さず、そっと振り返って小首を傾げた。
「本当に。いつの間にか、夏も遠くなったのね。まだ昼日中は暖かいから、どうしても忘れがちになるの」
「分かってるのなら、早く部屋に戻りましょう――あと一週間しかないのよ。あなたが病気になったら、みんな困るし、寂しがるわ」
たしなめながらもルナサは笑って、しみじみとした調子で付け加えた。
「楽しい催しになるでしょうね。何せ、あなたの願いが叶う日なんだから」
「ええ、全く、その通りだわ」
ささやかな願いだ、とレイラは思う。ささやかな、一生叶うことのない夢に、ほんの少しだけ触れるみたいなもの。
「姉さんたちには、期待してるんだから」
「当たり前でしょう」とルナサは真面目な顔をして頷いた。
「最高の演奏をするわ。あなたの顔に泥を塗らないようにね」
「いいえ、そうじゃなくて」とレイラは首を振り、ルナサの頬を、そっと両手で挟み込んだ。
「姉さんたちの演奏は、いつも最高よ。そうではなくて、私のためじゃなくて、みんなが楽しめるように、みんなのために、みんなが、思い切り騒げるように、そして姉さんたち自身にも、楽しんで欲しいの」
ルナサは、無垢な幼子のように目を見開いた。
「これは、姉さんたちのためでもあるのよ。私や、紫や、文や……顔なじみの人ばかりじゃなくて、色々な人に、姉さんたちの音を聞いて欲しいの。今度のことを、そのきっかけにしたいのよ」
「……レイラは、私たちのために宴会をしようとしているの?」
「私の願い、姉さんも知ってるでしょ。大勢のお客を招いて、賑やかなパーティーを開きたいって」
「それなら、やっぱり、私はレイラのために演奏するわ」
あまりに迷いなく言い切るものだから、レイラはどう答えて良いか分からなくて俯いた。するとルナサは、全部分かっているのだという風に鷹揚に笑って、さあ、入りましょう、とレイラの背中を優しく押した。
「そういえば、メルランが新しい曲を思いついたの。まだ少し時間がかかりそうだけど、明日か、明後日の夜には、お披露目できると思う」
「この前みたいなのは、もうご免よ」
興が乗りすぎたメルランの演奏によって、屋敷で一番広い応接間が滅茶苦茶にされたのは――レイラは指折り数えて驚いた――二ヶ月も前のことだった。
「今度は外で演奏することにするわ」
澄まし顔で、ルナサは答えた。
外での演奏。良い考えだ、とレイラは思う。テラスだって外のようなものだけど、地面と床では、やっぱり趣が違う。
だけど、どうせなら……
「姉さん、ものは相談なんだけど、その曲のお披露目、今度のパーティーに取っておくことは出来ないかしら」
そう、それが良い、とレイラは自分の思いつきに嬉しくなる。庭にたくさんのテーブルを並べて、美味しい食事に、お茶やお酒もたっぷり振る舞って、みんながすっかりくつろいだところで、流れ続けていた姉さんたちの音楽が急に止まって、みんなの顔が、一斉に姉さんたちの方に向けられる。そうして新しい曲が――この私さえ知らない曲が流れ始めて――当然、それはこれまでで最高の曲に違いない――その時間だけは、食事も、お酒も、誰の喉も通らなくなる。演奏が終われば、もちろん、みんなは呆然と姉さんたちを見上げていて、そこで私が、たっぷりと時間をおいて、最初に拍手をする。みんなもようやく我に返って、熱狂して、姉さんたちの演奏の素晴らしさを、そこで初めて、本当に理解する……
「ねえ、良い考えでしょう。そうしましょうよ」
「レイラがどうしてもって言うなら、考えるけど」
「けど?」
「リリカは厭がるんじゃないかしら」
そのくらいは分かっていた。一番下の姉は、要領よく立ち回るようでいて、その実、とても人見知りする質だった。
だからこそ、大勢の前で演奏して欲しいのだ。
「二人が賛成してくれるなら、最後はリリカ姉さんも折れてくれるわ」
「かもしれない、ううん、絶対にそうなるでしょうけど、そんな風に、私たちが乗り気じゃないまま演奏するのは、あなたの望みに適うこと?」
「私一人で聴くよりはね」
ルナサは傷ついた表情を浮かべた。
姉の気持ちは、よく分かった。三人の音は、ずっとレイラのため――時には、おそらく紫のためにも。そうであることをレイラは願っていた。というのも、三人にも彼女を好いていて欲しかったから――レイラを楽しませて、元気づけるためのものだったせいで、他の人に聴かせる、ということを考えられないのだ。
「まあ、すぐに決めることでもないのだし、しばらく考えることにしましょう。姉さん、出来れば先に降りて、かまどの火を見てきて貰えない? 着替えたら、私もすぐに行くから」
ルナサは、その場でしばしまごついていた。そして、おずおずと口を開いた。
「とにかく、二人にも話してみる。それで構わない?」
「ええ、もちろんよ。お願いするわ」
ルナサは明らかにほっとした様子で頷いた。
律儀に扉を開けて去りゆく背中を、レイラは不満とともに見送った――もっと姉らしくしてくれても良いのに。厭なことを断るのは、そんなに難しいものかしら。あの調子だから、リリカ姉さんだっていつまでも甘えてしまうのだろうし。私だって姉さんには甘え通しなのだけど、もしもきちんと言ってくれれば、また違ってくるはずだ。
でも、仮に姉さんが本当に違っていて、今の頼みをきっぱりと断っていれば、どうなっていただろう。
……そんな姉さんであれば、あのように頼むこともなかったのではないか、とレイラは考え、それはあまりに都合の良すぎる考えだ、と自分を戒めた。そして思いを振り払うようにクローゼットを開いて――今日は大人しめの色合いで揃えよう、そう、こんな日は、すっきりした服が良い。この白のブラウスに、スカートは淡緑のものを合わせて――しかし、何という格好だろう、とレイラは思う。昔ならこんな服装は考えられなかったし、あったとしても、母様や姉様なら見ただけで身震いしたはずだ、ましてや自分が着るとなれば、卒倒したかもしれない。もちろん、父様は面白がっただろうけれど。色はともかく、農婦みたいな格好じゃないか、とか何とか言って、大笑いして――上着は必要だろうか、いや、朝のうちはショールがあれば事足りる、動き回っているうちに身体も温まり、昼になれば、また汗ばむ陽気に違いない――それと、贈り物にする服を選ばなければ、とひだのように服が重なったその更に奥へと手を伸ばしかけたが、これでは時間がいくらあっても足りなくなる、と思い直した。先に降りたルナサも待ちくたびれているに違いなかった。いつの間にか、随分と空も明るくなってきているのだ。
今日が良き日でありますように。ゆっくりと階段を下りながら、レイラは祈る。昨日のように、明日のように、ずっと昔からそうだったように、これからも、ずっとそうであるように。
朝の時間は、大抵、慌ただしく過ぎてゆくものだった。向こうにいた頃は、たとえ忙しい日でなくとも、街の喧噪に、じっとしていてはいけないという気にさせられたものだった。あそこに較べれば、とレイラはパン種の並んだかまどを離れて一息ついた。ここの暮らしはずっと静かで穏やかなのに――屋敷は人里離れた森に建っていて、人間が訪れることは滅多になかった――それでも忙しさ、あるいは忙しい気分というものが、絶えず背後にあるように感じられる。
それも悪くない、とレイラは思う。実際に慌ただしく動き回るのは、せいぜいが朝食の始まりまでだし――その慌ただしさにしたって、屋敷で働いていた使用人たちより、ずっと楽なものだった――姉さんたちのために何かするのは、何かすることが出来るのは、途方もない幸せだった。
「レイラ、おはよう」
開け放された裏口から、ひょこりと顔を出したのはリリカだった。井戸水でいっぱいになった桶を三つ宙に浮かべて、目をしょぼつかせている。
「おはよう、姉さん。顔は洗ったの? まだなら、そこで洗ってしまいなさいな」
「分かった……」
寝ぼけ眼のまま、リリカは音もなく桶を地面に降ろした。一つはレイラの傍に、もう一つは厨房の片隅に、そして最後の一つを扉のすぐ横、自分の足許に。水は一滴たりともこぼれなかった。そして桶の上に屈み込むと、小さな手にほんの少量の水を取り、湿った手の平で顔を拭うようにした。
「姉さん」
「これできれいになるんだから、別に良いでしょ。レイラこそ、髪、はねてるわよ」と言って、リリカは右手で耳の上辺りを指差した。まさか、とレイラは髪を抑える。もちろん、まさかだ。リリカは笑っている。
「だまされたー」
「姉さん?」
「怒らないでよ、可愛い顔が台無しになっちゃうわ」
不意打ちの言葉と同時に、寝ぼけているとは思えない素早さで、リリカはレイラに抱きついた。そして日だまりに丸まった猫のように目を細めて「おはよう、レイラ」とささやいた。
胸が締め付けられる。ずっと昔、これとそっくりの一場面があったことをレイラは思い出す。でも、あれは誰と誰のやり取りだったろう。こんな朝があったことは、確かだった。夢を見ているのかもしれなかった。
私ではなくて、リリカ姉さんが、どこかに眠っていた記憶の欠片に出会って、真似してるのかも。
それこそ下らない夢想よ、と冷静な声が告げる。そしてレイラも、その通りね、と同意する。
だけど、時に奇蹟が起きるのも事実でしょう? 私が、こうして、ここにいる。このことだって、たぐいまれな奇蹟の産物だわ。
「ねえ、レイラ。どこか痛いの?」
「姉さんこそ、まだ半分眠ってる?」
「実はそうなの。後で起こしに来てくれると、嬉しいかな」
「もう、ふざけてないで、お皿を食堂に運んでちょうだい」
「眠いのは本当なのに」
「はいはい、姉さんはお寝坊さんだものね。気が向いたら、明日か明後日か、もっと先にでも、夜明け前に起こしにいってあげる。寒い冬の朝が良いかしら。メルラン姉さんのラッパを持ってね」
「レイラのいじわる」
リリカは甘えた声で言い残して、四人分の食器を玩具の兵隊のように引き連れ、厨房から出て行った。
……私が誤魔化したみたいに、姉さんも、隠しごとをしていたのではないかしら。
にわかに静まり返った厨房の真ん中で、レイラはそんな風に考える。元々、甘えたがる人だけど、あんな風に抱きつかれたことは殆どなかった。普段と違うことをする時は、えてして頼みたいことや、言い出しにくいことがあるものだ。
考えすぎだろうか。自分が悩んでいると――悩んでいる? そう、悩んでいるのよ、私は幸せで、何の問題もないというのに。しかも、こんな素敵な朝なのに――こういう時は、他人の行動も、いちいち意味ありげに見えてしまうのかも。そうでなくとも、本当に大事な話なら、いつか話してくれるだろう。いつか、相応しい時が訪れれば。
突然、高らかで、底抜けに明るいラッパの音が辺りに響き渡った。屋根の上からだ。何日かに一辺は――殊更に機嫌の良い時は数日続けて、逆の時は、稀なことだけど、一週間も聞こえない場合もある――こうやって朝を告げる雄鶏のように、メルランの音が屋敷と、森の一角を包む。
喇叭の音はいつも通り、いや、いつもより元気なくらいだった。
華やかな即興のファンファーレを吹き終えたメルランは、出来に満足したのか、続けてレイラにも聞き覚えのあるメロディーを、より快活な音で響かせ始めた。技巧的な曲ではなかった。大らかで、聞いているだけで幸せになるような――この朝に、これ以上相応しい曲があるだろうか、とレイラは思う。そして思い出す。これは一昨年の年明けに、三人が聞かせてくれた曲だった。
信じられないほど高い音域で吹かれた、ビロードのように柔らかな最後の長音が、森の静寂に吸い込まれた。すると不思議なことに――レイラは戸口へ走り寄り、朝の森を眺めた――眠っていた森が、彼女の音で活力を得たかの如く、生き生きと色づいて見えた。まるで夏の名残を惜しむように深緑を残した木々の幾本かで、ゆらゆらと枝が揺れる、そして何人かの妖精が鳥たちとともに飛び出して――彼女たちは、プリズムリバー家の良き友人でもあった。話し相手とするには、少々気紛れすぎるにせよ――メルランのいる屋根に向けて、元気良く手を振った。メルランも手を振り返したのだろう、妖精たちが口々に「おはよう」を言い始める。しばらくして、メルランは地面に降り立った。周りに何人もの妖精をまとわりつかせて。
メルラン姉さんは子供に好かれやすいから、とレイラは考える。明るい性格もあるだろうけど、子供というのは、優しくて、自分たちの声が届く相手を上手に見分けるものだから、ルナサ姉さんでもリリカ姉さんでもなく、メルラン姉さんに妖精たちは懐くんだわ。
メルランは、どこからか取り出した飴玉を妖精たちに一粒ずつ手渡して、一人一人に二言三言、声をかけた。妖精たちは順番に頷いて、飛び立っていった。最後に三人が残った。見覚えのある顔だった。いつかの春先に、屋敷でいたずらを働いた妖精たちだ。
あれは面白い騒ぎだった。あの時は、いつの間にか音もなく窓が割れてたり、しまったものが別の場所に移動したり、食べ物がなくなったり、閉じたはずの扉が開いたりして、リリカ姉さんが――自分だってお化けみたいなものなのに――ひどく怯えてしまって。
三人は飴を受け取ると、メルランばかりでなくレイラにも手を振り――またお茶を飲みにいらっしゃい、とレイラが言うと、一層激しく、姿が見えなくなるまで手を振り続け――去っていった。
「元気な娘たちね」とメルランが言った。
「元気の素は、姉さんの音楽よ」
「私の音楽は、気分を盛り上げるだけ。沈みきった人には、ただのうるさい音にしか聞こえないわ」
「私は、どんな時でも、姉さんの音を聞くと気分が良くなるけど」
「ありがと。でも、それはレイラが特別だからよ。私たちの音楽は、全部あなたのものなんだから」
話すべきかしら。ルナサ姉さんが伝えるよりも先に、新しい曲のことを。けど、この話の流れで、別の人たちのために演奏してと頼むのは、不実だ、とレイラは思う。面には出さなくても、姉さんは傷つくだろう。ルナサ姉さんのように。そうよ、ルナサ姉さんには悪いことをしてしまった。姉さんたちのためを想って言ったはずなのに、そのせいで、あんな顔をさせてしまった。
「……レイラ?」
覗き込むように見上げてくるメルランのくりっとした目に、とても幸せそうには見えない自分の顔を認めて、レイラは「何でもないわ」と誤魔化し笑いをした。
「そう、何でもないんだ。それじゃあ、元気元気。ね?」
ふわりと浮き上がり、頭を撫でるメルランの手つきは、またしてもレイラに遠い過去を思い起こさせた。父様の大事な絵を破いてしまって――父様は笑ってた。首を横に振ったり、杖で床をリズム良く叩いたりしながら、それでも笑ってた。母様は何も言わなかった。あの絵が嫌いだったのだ――あの時も、過ちを犯したのが情けなくて泣いていた私を真っ先に慰めてくれたのは、メルラン姉様だった。頭を撫でて、ささやかだけれどきれいな声で歌を歌ってくれた。
自然と鼻歌がこぼれだした。あの旋律だ。歌詞はどんなだったか忘れても、メロディーは憶えてる、そして姉様の声も……いつも聞いてるじゃない、ほら、今も聞こえてる、でも、こんな声だったろうか、一緒にハミングする姉さんの声は、あの時とは違って聞こえる。それでも、声に込められた想いは同じだわ、とレイラは自分に言い聞かせた、メルラン姉さんは私が悩んでいるのを見抜いていて、訳は知らなくとも――案外、私には分からないことまで察してるのかもしれないけれど――この歌が大事なもので、一緒に歌うことに意味があるんだって気付いてる。
「何だか、懐かしい曲ね。聞くのは初めてなのに。もしかして、私たちが寝てる間に傍で歌ったことがあるとか?」
想像された光景がおかしくて、レイラは思わず吹きだした。
「しないわよ、そんなこと。姉さんたちじゃないんだから」
「最近、やってないわね。今夜は久しぶりに……嘘よ。冗談。子供じゃないものね、レイラも。そうだ、もう姉さんから聞いたでしょ、新しい曲が出来そうって話、それでね、レイラ、今のメロディーも使ったら、あの曲がもっと良くなるんじゃないかと思うの。どう?」
「姉さんが言うなら、絶対に良いものになるでしょうね」
「それじゃ、急いで書き換えなくちゃ。じゃあね、レイラ!」
「あ、待って。一つ、姉さんに頼みというか、提案があるの」
「お披露目のことなら、レイラの好きにして構わないのよ」
「……姉さんは、どう思うの?」
「私? 私は、レイラとみんなが楽しめるなら、それで満足。賑やかなのも大好きだし、願ったり叶ったりってやつね。これで答えになるかしら?」
レイラは頷いた。望み通りの返事だ。他に求めようのないくらい完璧な、メルラン姉さんらしい返事。
「ただし、一つ残念なことがあるわ」
深刻な顔に、どきりと胸が高鳴った。するとメルランは、隠しごとを打ち明けるようにレイラの耳許に唇を寄せて、弾んだ声で、こうささやいた。
「あと一週間も、この曲を聞かせてあげられないだなんて」――メルランは自分のこめかみを人差し指で、とん、と指差した――「いつまでしまっておけるのか、自信がないわ。私の頭の中で、この子は四六時中暴れ回ってるのよ?」
二人は顔を見合わせた。一点の曇りもない笑顔につられて、レイラも、にこりと笑ってみせた。それだけで、正体不明の悩みの種が、すっと胸から取り除かれた心地がした。
やっぱり姉さんは凄い人ね、とレイラは思う。姉妹の誰よりも強くて、優しくて――ルナサ姉さんもリリカ姉さんも優しいのだけど、二人とは、何て言えば良いのだろう、優しさの表し方だとか、向けられる機会が、違っているような気がする。
「私も早く聞きたいけど、待てば待つだけ、期待も大きくなっていくものよ」
「それは大変。一週間もすれば、この家より大きくなってるかもしれないわね」
「森より、湖より大きくたって、まだ足りないわ。大勢のお客さんに聞いてもらうんだもの」
「良いわ。どんなに大きな、どんなにたくさんの期待にも、私たちは応えてあげる」
メルラン姉さんと話してると、時々自分が本当の年よりも、ずっと小さくなった気にさせられる。
これも姉さんの優しさなのかしら、とレイラは考える。こんな子供じみたことを言うだなんて――しかも両腕をいっぱいに拡げるだなんて――それは無意識に出た仕草だった。期待の大きさ、いや信頼の大きさを、どうしても目に見える形で示したかったのだろう、とレイラは恥ずかしさを紛らわすように考えた――全く、こんなこと、本当に子供だった時分にもやらなかった――少なくとも、やった覚えはない。
でも、恥ずかしくはあっても、それでもだ、とレイラは微笑む。姉さんと話して、子供みたいな自分に出会ったり、子供の自分が心の片隅に生き残っているのを発見するのは――しかも彼女が干からびもせず、それどころか昔より生き生きとしてさえ感じられるのは――胸の躍る瞬間だ。それが今の自分とかけ離れた、赤の他人に思えたとしても。
「ところでね、レイラ、作曲って、とてもお腹が空くものなの。そして私は、一晩中この曲と格闘していたのです」
辺りには、パンの焼ける香ばしい匂いが漂い始めていた。
「しょうがないわね」とレイラは人差し指を唇に当てた。
「さすがレイラ、そういうところも大好きよ」
「私も、姉さんのそういうところ、好きだわ」
結局、深刻に考えすぎているのだろう。この胸のつかえも――お墓参りに行かなくては――これだって、秋の気配がもたらす憂愁に過ぎないのだ。
メルラン姉さんのように、私もこれからの一週間を、思い切り楽しむべきだわ、とレイラは心中で呟いた。パーティーを成功させることだけを考えて、一週間が終わっても変わらないようなら、その時は紫にでも相談しよう。
紫といえば、彼女は喜んでくれるかしら。
焼き上がったパンを見て、レイラは考える。このパンは紫が勧めていたから、一週間後の予行演習のつもりで作ってみたのだ――「凄く美味しいよ、レイラ。これってクルミだよね?」「一つだけね。二人には内緒よ?」――けれど、彼女のことだから、当日は来ないかもしれない。
「人や妖怪の集まるところには顔を出さないことにしているの」と随分前に紫は言っていた。「劇を上演している時に、裏方が舞台に上がると白けるでしょう?」
詳しくは語らないものの、言わば紫はこの土地の守護聖人、守護天使のようなものなのだろう。と言って紫にお祈りをする気にもならないのだけど、とにかく、彼女の意志は尊重すべきだ、とレイラは思う。捉えどころのないようでいて、彼女の言葉には真実――彼女の本心が含まれているみたいだから。
私でなく、あなたの本心はどこにあるのかしら、と紫なら訊き返すだろう。
そしてレイラの本音を言うなら、もちろん、紫には是非とも参加して欲しかった。
レイラはメルランのこぼしたパン屑を拾いながら――メルランは、とうにいなくなっていた。焼きたてのパンの入った篭を持って。たぶん、食堂につくまでに、もう一つか二つは減っているのだろう、とレイラは溜息をついて――まぼろしの紫に微笑みかけた。
あなたは私の大事な友人、家族みたいなものよ。来て欲しいに決まってるでしょう? でも、大事だからこそ、あなたの厭がることを無理強いするのはご免だわ。
卑怯な言い分ね、と紫は嬉しそうに笑う――なぜ、卑怯という言葉が表れたのかは分からない。ただ、紫ならそう言うだろうと想像しただけだった――そんな風にとぼけるところも含めて、あなたは卑怯者だわ。
これまで思い浮かべたことのなかった自分の姿を突き付けられて、レイラはうろたえた。
卑怯? 私のどこが卑怯なのかしら――あなただって気付いているはずよ、と紫はレイラを見据えて言った――私に分かるのは、この気持ちが――姉さんたちや紫に向けている愛情が、贋物ではないということ、それだけだわ。大体、とレイラは更に考えを進めた、気持ちに贋物や本物の区別がつくものなのか。たとえば、誰かを愛するふりをすることは、本当に可能なの? 騙しおおせたつもりでも、心のどこかでは愛がくすぶっているのではないかしら。子供っぽい考え方かもしれないけど、子供というのは真っ直ぐに本当の答えに辿り着くこともあるのだし、それに大事なのは、私が卑怯なことを、少なくとも自分でしたくてしている訳じゃないってことよ。
なおもレイラは紫への反駁を慌ただしく組み立てようとしたが、食堂から聞こえてくる騒がしい声で――メルラン姉さんとリリカ姉さんだ――現実に引き戻された。そしてメルランに渡し忘れたジャムの小瓶を棚の引き戸から取り出して、しっかりと握り締めた――紫や姉さんたちの手の代わりにはならないけれど――そして無人の食堂をぐるりと見渡すと、また知りたくなかった事実を突き付けられたような、暗澹とした気分に襲われた。
ここは、こんなに暗い場所だったろうか。まるで、何年も朽ちるに任されていた廃墟のよう。ちり一つ落ちていないし、壁や床は古びていてもきれいで、朝の光が窓から明るく入り込んでいるのに、何か、拭いきれない暗さが覆い被さって見える――息苦しさを覚えて、レイラは胸の前で、ふたたび小瓶を、ぎゅうと握り締めた――たとえば扉の蝶番がよく軋みを上げることとか、調理台が傷んでいて、ヤスリをかけるばかりでは、そろそろ誤魔化しきれなくなっていることだとかが、こんな気分にさせるのかもしれない。
いやだ、とレイラは目を閉じた。こんなのは見たくない、でも、ここから逃れられない、ここは私たちの家、私たち家族の居場所なんだから。なら、どうして私は――ばたん、と戸口で音が聞こえた。風の仕業だ――そしてレイラは「馬鹿馬鹿しいこと」と呟いて、ゆるゆると首を振った。
息を吐く。一週間も待たず、今夜にでも紫に相談した方が良いのかもしれない。気分が優れないばかりなら我慢もするけれど、このままでは、近いうちに取り返しのつかない失敗を犯しかねないという予感があった。とても酷いことを、してしまいそうな気がするのだ。
誰に? 何を?
分からないわ。何も分からないから、怖いのよ。
相手は姉さんたちかもしれない、文かもしれない、妖精の少女たちかもしれない、里の半獣や稗田の当主かもしれない、順々に親しい顔が浮かんだが、最後に残った空白は、空白のまま留め置かれた。
紫が、私なんかに傷つけられるはずがないもの。踵を返し、厨房を離れながら、レイラは繰り返し自分に言い聞かせた。そうよ、紫なら、この気持ちにも境界を引いてくれる。どうにかしてくれる。
まぼろしの紫の声は、聞こえなくなっていた。
それは私が正しいからだわ、とレイラはひとりごちて、その考えに満足する。そして途切れず続いている騒ぎに意識を向けた。
食堂の入り口で、レイラは声を張り上げた。
「リリカ姉さん、メルラン姉さん、どうかしたの?」
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食堂は、まさしく惨憺たる有り様だった。椅子は殆どが――十二脚が長テーブルにしつらえられていて、正確には、目の前の騒動を他人事のように見守るルナサが座るものの他は全てが――倒れ、そのうち半分ほどはテーブルを遠く離れた位置まで飛ばされていた。卓の真ん中に置かれた花瓶は辛うじて無事のようだったが、昨日の朝に摘んだ花――屋敷の近くに生えていた、名も知らない、清楚な白い花だった――は、その可憐な花弁をだいぶ散らして、何ともみすぼらしくやせ衰えて見えた。テーブルクロスは一方の端がまくれ上がり、更にはテーブル自体も、レイラ一人では動かせない重さがあるというのに斜めにずれていて、それが殊のほかレイラを不快にさせた。救いがあるとすれば、カーテンや絨毯に被害が及ばなかったことだが、あと少し来るのが遅れればどうなっていたことやら、とレイラは思った。
ここは家族が毎日集まる場所なのに、とレイラは憤慨する、どうして姉さんたちは、いつもいつも無茶苦茶にしてしまうのだろう。何度頼んでも月に一度は喧嘩して、後片付けをするのは、いつも私(と大体はルナサ姉さん)の役目になる。
怒りが伝わったのだろう――そうであるようレイラは切に願った。今朝は、大事な人を怒鳴りつけたりする気分ではなかった――メルランとリリカは、ぴたりと宙で動きを止めて、レイラを見つめていた。掴みかかろうとするリリカの頭を、メルランが上から押さえ込んだ態勢だった。リリカの顔には分かり易い怒りの表情――眉は寄せられ、目いっぱいに涙が溜まっている。彼女は怒ると泣いてしまうのだった――が浮かんでいる。そしてメルランは笑っているが、普段よりも目が細められていて、辟易しているのだとレイラには分かった。
「二人とも、一体どうしたの?」
リリカはメルランの手を逃れると、ぷいと顔を背けた。リリカの怒りはこちらにも向いているらしい、とレイラは察して、思わず眉をひそめた。
「何でもないわ。ちょっとじゃれてただけよ」
メルランが言った。慌てている。なぜ、私とリリカ姉さんの間に割って入るのだろう、ついさっきまで喧嘩していたのに、これじゃあ、まるで私が悪者みたいだわ、とレイラは思う。そして、彼女たちにしてみればその通りなのだという気がして、すぐに「下らない考えだ」と首を振った――三人が、びくりと身体を震わせた。
「ね、リリカ?」
リリカは乱暴に目許を拭うと、レイラとメルランを交互に見較べて、最後に、助けを求めるようにルナサを見た。ルナサは、分かってるわ、と言うように頷いた。分かってる、あなたは悪くない、ただ、今は間が悪い、だから、我慢してちょうだい。そんな声が聞こえてくるようだった。
「……うん、大したことじゃないの。ご免ね、レイラ。片付けは、私たちでやるから」
すかさずメルランも頭を下げた。まるで、親の叱責をどうにかやり過ごそうとする子供のように。
何をイライラすることがあるの? 私だって、叱りたくないと願っていたじゃない、とレイラは考える。姉さんたちは気遣っているだけなんだわ。いつも、私の気持ちにすぐ勘付いてしまうから。
いや、勘付くというよりも、それこそ音楽のように聞き取っているのかもしれない。これは喜びの音、これは悲しみの音、これは憂うつの、これは楽しみの、という風に。そして今流れてるのは、たぶん複雑に絡み合った音の塊なのだろう、とレイラは思う。自分でも、自分の気持ちを持て余しているのだから。
「もう良いわ。さあ、早く食べてしまいましょう」
自分でも驚いたことに、レイラは心の片隅でこの状況をありがたいと感じていた。気分は良くないにしても、と椅子を直しながらレイラは考える――他の椅子やテーブルも、速やかに元の位置に戻っていた。指揮するように腕を振るっているのは、やはりルナサだったけれど――こうして日常の面倒にかかずらって、三人のやることに気を揉んでいれば、あの暗さが戻ってくることはないようだった。
ただ、日常と言えばそうだけど、朝食の前に喧嘩するのは珍しいことではないかしら、とレイラはパンの香りを楽しみ、ルナサの用意したお茶をカップに注ぎつつ考えた――「どうかしたの、レイラ?」とリリカが心配そうに言った。レイラはおざなりに微笑んでみせた。「いえ、このパンが、冷めても硬くならなければ良いなと思って」――何が原因だったのだろう。あの慌てぶりからすると、私には隠したいことのようだけれど。まさか、パンの取り合いをしていたのでもあるまいし、と考えて、レイラは、また微笑んだ。いや、充分にあり得ることだ。美味しい。上手に焼けている。クルミが多すぎるかと思ったけれど、これくらいの方が食感と甘みを楽しめて、香りも立つようだった。とても力強い味だ。
「そうだ、レイラ。私たち、今日は留守にするけど構わないかしら」
ルナサが言った。
「大丈夫よ。来るのは文と、あとはせいぜい妖精たちくらいでしょうし」
あの曲に関することだろう。森の奥で、ああでもないこうでもないと騒ぎながら色々な音を撒き散らす三人の姿が、目に浮かぶようだった。
「せいぜい、ゆっくりしてらっしゃいな。私も、今日はのんびり……とはいかないけど、久しぶりに、家で一日過ごすことにするわ」
「最近、忙しくしてたものね」
招待状を用意して、それを配達する手配をして、もちろん当日のためのお酒やお茶や食材も――何しろ、ざっと五十人ほどを招待しているため――たっぷりと準備した。日持ちのする料理には、既に手をつけ始めてもいる。後は、届いた返事から参加者の名簿をこしらえ、飾り付けやテーブルと椅子の配置をどうするか決める作業が残っていた。ここは特に時間をかけなければならなかった。相性の悪いお客同士がかち合って、いさかいが起こらないとも限らないのだし――でも、こちらの人たちはあまり堅苦しいのを好まないから、席なんて自由にさせた方が良いのかしら。山の住人たちは、階級がしっかり分かれているということだけど。
「ご馳走様、レイラ。美味しかったわ」
考えに耽るうち、ルナサたちは朝食を食べ終えていた。レイラは、この朝の時間が終わる前に考えをまとめてしまいたくて、行って良いわ、と身振りで促した。三人は何も訊かず、挨拶だけを残して去っていった。
そして、私はまた一人になる。
妙なことに、さっきまでとは違って、一人でいることが全く苦ではなかった。誰にも邪魔されず、一週間後の屋敷の盛況を夢想していると、目覚めながらにして夢の世界をさ迷っているように、ふわふわと心が軽くなる感じがした。
夢、まるで夢みたいだわ。ふっと未来から立ち返って、レイラは考える。ここでの生活ではなく、かつての自分がここ以外のどこかにいたという事実が、夢かまぼろしのように思われた。実際、夢を見た朝のように細かい部分は憶えているのに――港で聞いた岸壁を波が叩く音や、辻楽師の賑やかな演奏、朝焼けに照らされた運河の水面がきらきらと輝いていたこと、父様の煙草の匂いや、祝祭日の度に母様が料理する姿も、それにリリカ姉様の不器用なチェンバロの音、メルラン姉様のきれいで真っ直ぐな歌声、ルナサ姉様がお話をしてくれた時の独特な節回し――本当に、どうしてこれだけ色々なことを憶えているのか自分でも不思議なほどなのに、よりはっきり全体を思い描こうとすると、過去はぼんやり霞んでしまう。ルナサ姉様は、どんなお話を読んでくれたっけ。メルラン姉様の歌も、どんな内容だったかしら。母様の得意料理は? それに父様の声も、通っていた教会のファサードも――そういえば、教会に住み込んでいたお爺さんはどうなっただろう。盲目で、カリヨンと笛を恐ろしく上手に弾きこなして、異国の物語をたくさん知っていた、あのお爺さんは。優に百歳を数えているという噂だった――そうだ、大好きだった景色、運河の向こう岸に並んでいた家の形も、上手く思い出せない。中に一つ黒色の屋根があって、風見鶏が回っていたことは憶えているのに。
それは幻想だからよ。あなたはここに生まれ、ここで育った。そして、ここで死ぬんだわ。
それとも、とレイラは夢に遊ぶ心地で考える、この地に来たことで、私は死んだのかもしれない。生まれ変わったのかもしれない。紫は何と言っていたかしら、そう、忘れられたものが行き着く地、と言ったんだわ。それはつまり、ここにやって来たら、元の世界からは、きれいに消えてしまうってことではないかしら。元の場所からいなくなるだけでなく、みんなの記憶からも、歴史からも、私とこの家は消えてしまったのかもしれないわ。
すると、姉様たちは三姉妹ということになっているのかも。
その考えは、レイラを気楽にさせた。もっとも、気楽に感じた理由までは分からなかったけれど。
「……本当に、妙なものだわ」
カップに残ったお茶を、ゆっくりと、時間をかけて飲み干す。
表玄関は開放して、玄関ホールにソファや椅子を置くと、ちょうど良い休憩場所になるだろう、とレイラは考えた。自宅の居間にいるように、くつろげる空間を作れると理想だった。たとえば、ついたてを使って幾つかの小部屋の形に区切るとか……いや、それではどことなく気取っていて、目的に適わない。かと言って、がらんとしたホールは寒々しくて、そのままでは落ち着かないだろうし。
人形の家で遊ぶ子供のように、次々と新しいアイデアが表れては消えていく。こうして計画を練っている間が一番楽しいのだと、レイラは知っていた。一週間後の夜には、やるせのない喪失感に苛まれているだろうことも想像できたが、だからと言って、今この瞬間が色褪せるものでもなかった。
皿とカップ、ティーポットをパンの入っていた篭に入れて、レイラは立ち上がった。
ともかく、今日のうちに名簿を完成させてしまおう。お客の数が分かれば、他のことも自然と定まってきて、上手く流れるようになる。
食堂を後にする寸前、レイラは、ちらりと窓の外を見やった。
そして「きれいな朝だわ」と呟いた。
だが、それだけだった。
立ち止まって外の景色に見入ることも、いつか経験した朝に旅立つこともなく、しっかりと前を向き、背筋をぴんと伸ばして、腕にかけた篭を軽く撫でると、レイラは足早に厨房を目指して歩き出した。
3
片付けを終えて部屋に戻ると、レイラは愛用の椅子と丸テーブルをテラスに引っ張り出した。そして分厚い手紙束とペン、数枚の紙を用意した。
地味だし、面倒ではあるけど、これも大事な下準備の一つには違いない。
早速、レイラは一番上の手紙を束から抜き出して――谷河童からの返事だった。小さくて丸めの字で、簡潔に参加すると書かれていた――手許の紙に、河城にとり、と書き付けた。それから少し思い悩んだ末、名前の隣に《当日は人間の隣に座らせないこと》と付け加える。
しかし、彼女と親しい山の神様たちは里の人と仲が良いのだから、とレイラは考える。となると、隣のテーブルに人里の招待客を――もし来てくれればの話だけど――座らせるのも面白いかもしれない。あの娘も人間嫌いな訳じゃなく、ただ臆病なだけなのだし。
もう一度考え込み、追記の隣に《保留》と更に書き足した。
間の良いことに、次の手紙は件の人里に住む、上白沢慧音からのものだった。几帳面な字で、時候の挨拶から招待への礼、自分と稗田の娘以外の人々が参加を拒んだことへの詫び、彼ら彼女らの決定に対する擁護――この部分には、特に長々と筆を割いていた――そして最後に、当日を心から楽しみにしている旨が、これも丁寧すぎるほどの丁寧さで記されていた。
いつもお世話になってる人たちには、是非とも来て欲しかったのに、とレイラは落胆したが、覚悟していた結果でもあった。人里の住人は、山や野の住人を怖れている。そしてそれは――この手紙にも繰り返し書かれているように――仕方のないことでもあるのだ。偏見ではなく、両者の間には埋めがたい溝がある。
いつか皆が区別なく暮らせる時代、そうでなくとも、ただ怖れたり、対立するばかりでない時代が来るかもしれないけれど、今日や明日、一年二年後という訳にはいかないだろう。
それに人数が少ないのも悪いばかりでもないわ、とレイラは二つの手紙を見較べた。あの二人であれば、臆病な河童の少女もうち解けられるはずだ。この程度のことだって、上手く運べば、里と山の関係が一歩前進したと言えるのではないかしら。
これまでの覚え書きを塗り潰して《慧音たちの隣に》としっかりした文字で書き記すと、その想いは、より強まった。
「……酷い催しにしてしまったら、台無しだわ」
許より失敗させるつもりなんてないにしても、とレイラは気を引き締めた。たとえば名簿の名前の順番にしたって、一考すべきかもしれない。どんな細かい点であれ、誰かを不快にしないとも限らないのだ。
そんな風にして細々と考え込んでいたものだから、名簿作りは遅遅として進まず、時間だけが瞬く間に過ぎていった。三分の一ばかりに目を通した時点で、今日中に終わらせるのは無理だとレイラは判断した。もう昼を回っていた。
焦ることはないわ。当日までに完成させれば良いんだから。
座りっぱなしで凝った身体をほぐすため、軽く伸びをした。
空を見上げる。
目が合った。
文だ。
「や、どうも。お邪魔でしたか?」
声をかけるどころか瞬きする間もなく、上空にいたはずの天狗の少女はテラスに降り立っていた。巻き起こった風でテーブルの手紙が浮き上がり、レイラが掴み取ろうとするよりも早く吹いた別の風によって、元の位置に舞い戻った。文は悪びれもせず、適当な一通を手にしていた。
一連の動作は素早く、淀みなかった。予定では、もう少し遅く来るはずだった、とレイラが考えついたのは、手紙がテーブルに戻され、向かいの椅子に文が腰掛けて、なおしばらく経ってからだった。
「こんにちは、文。思ったより早かったものだから、驚いたわ」
「いえいえ、こちらにも事情がありまして」
「事情?」
「実はですね、午前中は久しぶりに博麗神社の取材に伺ったのですが」
「いつも通り、追い返されたってわけね」
「いつもよりは粘りました。記録更新です。まあ巫女が実力行使に出たら逃げるしかないので」
「いつも通り、そのよく回る舌で戦ったわけね」
「そりゃ、巫女と本気でやり合う訳にもいきませんから」と文は苦笑した。「彼女に、あなたの半分でも優しさがあれば、私もこんな苦労をしなくてすむんですがね」
「あら、彼女は彼女で優しいところもあるのに」
「それはレイラさんが人間だからでは?」
「さて、どうかしら。そう単純なものでもないと思うけど」
「と言いますと?」
あれが優しさなのかどうかも、本当はよく分からないのだし、とレイラは思った。博麗の巫女は、きっちり月に一度、この屋敷を訪ねてくる。礼を言うと、土地の人間を守るのが仕事の一つだから、と素っ気なく答える。そして、人里に移る気はないか、と問うてくる。ない、と言うと、一言、そうでしょうね、とだけ返される。それから一時間ほどかけて、二人でゆっくりお茶を飲む。それだけの関係が、もう何年も続いていた。
「そうね、上手く言えないけれど、彼女の優しさは、ちょっと他の人とは……」レイラは言葉の見つからないもどかしさに首を振った。「たとえばね、文、あなたが本気で困った時、神社を訪ねてご覧なさい。たぶん、いいえ、絶対に、彼女はあなたを助けてくれるわ。もちろん、人間たちを傷つけない範囲で、だろうけど」
文は疑わしげに唇を尖らせた。
「困った時というと」
「新聞のネタが見つからない、なんていうのは駄目よ」
「他に悩みなんてありませんよぉ」
情けない顔をする文の頭を撫でて――厭がる素振りを見せたが、避けようとはしなかった――レイラはお茶の準備をしに厨房へ向かった。
「あ、レイラさん。待って下さい。まだお話が」
レイラはちらりと振り返っただけで、文がついてくるに任せた。
この娘は、どうも落ち着きがないというか、一つ所にじっとしていられない質なのかしら、とレイラは階段を下りながら考える。お茶を淹れて戻ってくる――それだけあれば幻想郷を一周出来ますよ、と文は言うだろうけど――ほんの五分か十分の時間でさえ、待つことは苦痛らしい。
彼女の頭の中には、喋りたいことや知りたいこと、やりたいことが溢れているんだわ。小さな子供が、あれは何、これは何ってあちこち指差すみたいに、色々なことに首を突っ込みたがるんだもの。それもこれも、とレイラは風に乗って空飛ぶ文の姿を幻視した、この娘の速すぎる翼が元なのかもしれない。私が歩いて三日かかる距離を、ほんの三分で――三秒かも――一っ飛びにしてしまう。あれだけ速ければ、この幻想郷も、さぞや狭く感じられることだろう。そしてあらゆることどもが、のろのろとして、焦れったく思われることだろう。数百年、生きているという。もしかすると彼女の百年は、私の千年に等しいのかもしれない、とレイラは思った。
「それで、文、話って?」
そんな文が、こうしてこちらが話しかけるまで黙っているのは、彼女なりの線引きだった。もっとも、文の礼儀というのは、あくまでも彼女流のルールに則ったものなのだけれど。
「実は、ここに来る前に博麗神社に寄ったのですが」
「もう聞いたわ」
「最後まで聞いて下さいよ。で、その際にですね、あなたは今度の宴会に参加するのですか、と訊いてみた訳ですよ。巫女に」
そこで一息置いて――そのわざとらしさに、内心レイラは失笑した――文は続けた。
「すると、あのいつも通り優しさの欠片もない素っ気なさで、行かないわ、と彼女は答えまして、何といっても私は新聞記者なので、その理由を知りたいと思った訳ですよ。新聞記者なので」
「知ってるわ」
「それはどちらについてで?」
「そうね、私が知ってるのは、彼女が断りの返事を寄越したことと」――もっとも、レイラはあの巫女が現れると確信していた――「それと、あなたには記者より作家が向いてるってことかしら。この前のお話、とても面白かったわよ」
お話というのは、今後百年以内に外の世界から恐ろしい悪魔――何でも血を吸う鬼だとか――が幻想郷に攻め入ってくるという内容だった。微に入り細を穿って描写された悪鬼の姿は、控えめに言っても見事な表現が連続する読み応えのあるもので――だけど、リリカ姉さんったら、あそこまで怖がらなくたって良いでしょうに――こんな妖怪が実在してもおかしくない、と思わせるだけの迫力があった。
「あ、あれは、とある筋からの取材に基づいて真実を伝えた記事であって……」
「あのね、文。もし本当だとして、百年も先のことじゃ、起こった頃にはあなたの記事なんてみんな忘れてるわ。まずは、もっと身近なことから始めなさいな」
「たとえば?」
「明日の天気とか。風を読むの、得意でしょ?」
「誰が喜ぶんです、そんなもの」
「農家の人たちにはありがたいのではないかしら。外れない天気予報」
「……私の新聞を読む人間なんて、あなたくらいのものですよ」
「今はまだ、ね。さあ、お茶も入ったことだし、戻りましょう」
そう、面と向かって褒めたことは殆どないけれど、私はこの娘の書く記事が好きなんだわ、とレイラはあらためて思った。書き手の真剣さや――それは真剣に遊ぶ、といった類のものだとしても――楽しいという気持ちが文字の間から浮かび上がってくる、生き生きとした文章。あれを読めば、人里の怖れも多少は和らぐのではないだろうか。
「ところで、まだ話が途中じゃなかった?」
「誰のせいだと思ってるんですか。まあ良いですけどね。いつものことですし。とにかく、巫女が言ったんですよ、風見幽香が行くような宴会に、どうして私が参加しなくちゃならないの、と」
そう言えば、彼女も招待していた。返事は貰ってないはずだけど、とレイラは微笑んだ。出会いの印象は最悪だったし、それは今でも変わらないのに、二人の付き合いは続いている。
「何しろ風見幽香と言えば、山の妖怪社会に属さず、なのにそこらの野良どころか天魔さまも影を踏みたがらない化け物です。巫女の言い分にも一理あるなと思ったのですが」
「まさか、会いに行ったの?」
レイラは心底驚いて――文のような相手を、幽香は極度に嫌っている――嘆声を上げた。
「いやぁ、出会い頭に傘でぶん殴られるとは、流石に驚きましたよ」
文は、あっけらかんと笑ってみせた。
「私の速さがなければ、首をへし折られてたかもしれませんね」
「……取材も構わないけど、相手と接し方は選ぶべきよ」
「肝に銘じます。もう彼女の速度は体感しましたので、次は」
「文、冗談でも怒るわよ」
「それでは、彼女の代わりに取材させていただけませんか?」
ノートとペンを取り出す文の顔からは、欠片の反省も読み取れなかった。が、こんなものなのだろう、とレイラは思う。この娘は強くて、しかも用心深いから、もしかすると、これまでに心底恐ろしい思いをしたり、打ちのめされたことなんてないのかもしれない。
「何を訊きたいの?」
「レイラさんと幽香さんの馴れ初めについて、是非とも教えていただきたいのです」
椅子に着くや否や、文は待ちきれないとばかりに身体を乗り出した。
「……馴れ初めって、その使い方は正しいの?」
「友情も恋愛も似たようなものですよ。大体、あの何ごとにも無関心な風見幽香があなたとはよくお話するということですし、これはもう恋愛と言っても過言ではないかと。その方が面白いし」
この娘の戯れ言は置いておくとして、友情、恋愛、どちらも幽香との関係には相応しくない、とレイラは考える。会話は弾む、家に来ればお茶を振る舞う、レイラの方からから太陽の畑を訪ねたことも、一度や二度ではない。夏の盛りには、泊まりがけで、日がな一日、向日葵を眺めるのが恒例になっているくらいで、そういった時には、幽香も素敵なもてなしをしてくれる。
それでもよ、とレイラはここにいない幽香に向かって言った。それでもあなたを友人と思ったことはないし、それどころか、あなたも知っているでしょうけど、私はあなたを憎んでた、絶対にあなたを殺そうと思ってた。
――今は違う?
父と母の顔が瞼に浮かんだ。かつては頻繁に襲ってきた感情の大波を、レイラは他人事のように思い出す。そして、その気になりさえすれば、幽香とは新しい関係を築くことも可能だろう、とレイラは思った。それを幽香の側でも望むなら。
――つまらないわ。死ぬまで一つの想いに執着するものだって珍しくないのに。願いを叶えた人間は、みんなあなたみたいになってしまうものなの?
「そうね、彼女は友人でも恋人でもないけど、幻想郷の中で、紫の次に私をよく知ってる相手だわ。長い付き合いなのよ」
「ルナサさんたちは?」
「姉さんたちは……私自身のようなものだから」
「ふうむ、分かりかねます」文は顔をしかめて、ペン先でページを叩いた。「それはそれで興味深い話でもありますが、お姉さんたちのことは後回しです」
「よほど悔しかったのね、幽香に負けたのが」
「負けてません。一時撤退しただけです。未来への進軍です」
「これきりにして欲しいものね」
「ではでは、あの野蛮……幽香さんに会わなくてすむよう包み隠さず教えて下さい」
「お茶はいかが?」
「いただきます」
カップをさっと受け取ると、文は逸る気持ちを抑えるように香りを楽しんで、一口すすった。
お茶の味が彼女の喉に染み渡るのを待って、レイラは言った。
「話せることは、そんなにないの。要は、私と彼女は、ここに来る以前からの知り合いだったということよ」
「ここというと……幻想郷? では、幽香さんは」
「ええ、私の生まれた街に、彼女はやって来たの。それから色々あって私と知り合って、今まで付き合いが続いてる」
「その“色々”の中身を伺っても?」
神妙に訊いてくる――ペンとメモ帳は懐にしまっている――文に、駄目よ、とレイラはかぶりを振った。
「こんな気持ちの良い日には、とても相応しくないわ」
「では、この話はこれまでということで」
「ありがとう、文」
「いえいえ。これでも取材相手と接し方は、選ぶことにしてるのですよ」
そしていたずらっぽく笑うと、こう付け足した。
「レイラとは、ずっと友だちでいたいのよ」
「そう思うなら、取材じゃなく、遊びに来てくれたら良いのに」
「目的のない訪問って、どうにも落ち着かないのよね。それにこれは」と文は、いつの間にかふたたび手に収まったメモ帳を揺らした。「私の趣味、いいえ、生き甲斐だもの。止められないわ」
くつろぎきった様子で足を組んで――はしたないからお止しなさいって、いつも注意してるのに、ちっとも聞こうとしないのだから――文は、一息にカップを空けた。
やはり、文は一番の友人だ、とお茶を注ぎながらレイラは思う。色々なことを気兼ねなく話せる、貴重な友人。もちろん、紫も大事な人で、恩人でもあるし、家族同然に愛していた。しかし、対等な関係とは言えなかった。一緒にいると、時に気詰まりを感じることさえある。そのくせ、困った時は真っ先に彼女の顔を思い浮かべる。神様のようなものかもしれなかった。紫の身体は温かいけれど。
神様と言えば。またレイラは秋姉妹を思い出す。冬着を贈るにしても、別の贈り物を考えるにしても、今年の顔合わせは来週のパーティーになるのだし、その時に渡すべきかもしれない。しかし、そうなると繕い直すので精一杯になるだろう。そんなやり方では、ことのついでみたいで、誠意に欠けている気もする。
「文は来てくれるのよね。来週のことだけど」
「ああ、返事、出してなかったっけ。もちろん参加するわよ。天魔さまもいらっしゃるから、たぶん早めに来て、遅めに帰ることになるでしょうね」
「あの人に会うのも久しぶりね。幻想郷に来た時に挨拶に伺って……そう、その後、姉さんたちが山にお邪魔して以来だわ」
あれは大変だったんだから、と文は苦笑した。
「三人と知り合いだって大天狗様に勘付かれて、説教喰らって、謹慎までさせられて。あの時ばかりは、あなたとの付き合いを止めようか真剣に考えたわ。結局、天魔さまのお陰で処分も軽くすんだから良かったんだけどね。あれから、目をかけて貰えるようにもなったし」
文は、天狗の社会についてどう思っているのだろう、とレイラは考える。自分と付き合うことが、よく思われてないのは知っていた。天狗の頭領は話の通じる相手で、文に近い考えを持っているようだったけれど、多くの天狗は人間との――そして山に属さない妖怪たちとの――関わりを避けている。お互いにそんなだから、釣り合いは取れているのよ、と紫は言っていた。そうかもしれない、しかし、いつまでもつのか、とレイラは思う。人間も、天狗も、他の妖怪たちも、いずれは数が増え、あるいは減って、均衡の崩れる時がやってくるに違いないのだ。
文は、分かってる。賢い娘だから。幻想郷の狭さもよく知っていて、たぶん、それも他の天狗たちとは違うところなんだわ。
「……レイラ。今日は、ただ取材に来たんじゃないのよ」
「知ってるわ。遊びに来たんでしょう」
「違います。……実は、天魔さまから内々に伝言を預かっているんです。あなたに――あなただけに直接伝えるよう、きつく命じられておりまして」
文はわざとらしく辺りを見渡すと――いや、これはこれで大真面目なのかもしれない、とレイラは考え直した――口許に手を当てて、声をひそめた。
「これからお話するのは、私たちの間でも、本当にごく限られた者にしか知られていない秘密でもあるんですが」
やはり、文は真剣そのものだった。そして、この状況を楽しんでいるようでもあった。
「まずは伝言からお伝えします」と文は咳払いをした。「酒とは別に、見目は酒と変わらず、しかし酒ではない飲み物を用意して貰いたいのです」
「……どういうこと?」
「ご存知の通り天狗は基本ウワバミでして、そりゃあ私たちの宴会というのは人間と較べるのも馬鹿らしいくらい皆さん大量のお酒を飲むものなんですよ、というか宴会でなくたって朝っぱらから飲んだくれて仕事に行くのもよくあることですし、仕事しながらだって瓢箪を手放さないのが――これは鬼の真似をしたという恥知らずな話もありますが――強い天狗の証だとさえ言われるんです。私はそんな野暮なことしませんがね。鬼じゃないですから。……で、そんな天狗の中にも時たま……いえ、一世代に一人……千年に一度とか? 酒の苦手な方がいらっしゃったり……そうでもなかったり」
最初の勢いはどこにいったのか、気まずそうに口ごもる文を見て、面倒なことになってきた、とレイラは思った。
「お茶ではいけないの?」
「宴会に出て酒を呑まない天狗はいませんよ。そして酒に呑まれる天狗も、あまり好ましくは思われないということです。酒と馬鹿力以外に取り柄のない鬼との飲み比べでもない限り。ましてや天魔さまともなると、天狗のみならず対外的な面子もありますから」
「以前贈ったぶどう酒は、美味しかったと返事が来たのだけど」
「ええ、あの方には珍しく気に入られたようでした。懐かしい味だとか何とか仰って。次の日は凄い顔色してましたが」
「じゃあ、ぶどうの汁でも瓶に詰めれば良いのかしら」
「ええ、それで構いません。呑んでいる格好が出来れば、あとはお付きの大天狗様もいますから、どうにか誤魔化せるかと。……それに、弱いと言ったって人間よりは呑めるのよ? ただ、これだけ広い範囲の人と妖怪が一堂に会する機会なんて、そうそうあるものでもないし、となると杯を合わせる回数も増えるでしょう? いざという時に酔っ払って醜態晒すようなことにでもなれば」
「天魔でなくなってしまう、とか?」
「それはないかな。愛されてるし、天魔さま。ああいう閉じた世界でこそ、必要なのは力でなく社交性。抑えつけなくても皆がついていきたくなる方が、上に立たれるべきなのよ。そうすればあまり角が立たず、みんなそこそこ楽しく、そこそこ不満を持って、健全に暮らしていけるの。それでなくたって、酒に弱い他は完璧な方なんだから」
巨体の大天狗に笑顔で説教をしている天魔の姿を思い出し、レイラは、なるほどと納得した。
文は「まあ、とにかくお願いします」と頭を下げて、ようやく肩の力を抜いた。レイラが断るなどとは、考えてもいないようだった。そして、もちろんレイラは承諾する。文のためにも、あの天狗の頭領のためにも、宴を成功させるためにも。
「数はどれくらい必要?」
「十瓶もあれば充分よ。対策、というのでもないけど、お酒に弱い参加者もいるだろうから節度を守って楽しむようにって、こちらの面子には触れが出てるの」
質の良いぶどうを用意しようと思うなら、予定を繰り上げてこちらから秋姉妹に会いに行くか――彼女たちのところなら、里から最上の作物や収穫物が集まっているはずだった――それか紫の手を借りるのが手っ取り早いかしら、とレイラは考え、やっぱり、どちらにしても面倒になったわね、と嘆息した。
「すみません、もっと早くお知らせできれば良かったのですが……」
文にお茶のお代わりを勧め、続きを促した。そして、この娘には他に愚痴を言う相手もいないのだろう、とレイラは思った。下手に口を滑らせれば、文字通り風の噂になって相手まで伝わってしまうだろうし、そもそも、この娘から親しい友人の話を聞いた憶えもないのは、つまり、そういうことではないだろうか。少し、失礼な想像ではあるけれど。
文は満たされたばかりのカップに軽く口をつけた、そして居心地悪げに襟口を弄り、息を吐いた。レイラは辛抱強く待ち続けた。風が吹いた。空を見る。雲が遠かった。二週間ほど前なら暑さの盛りという時間帯だったのに、とレイラは思い、ふたたび秋姉妹へ贈る冬物について考えを巡らせかけたところで、文が口を開いた。
「……山でもだいぶ揉めたのよ。その、レイラの宴会に参加するかどうかで。天魔さまは最初から賛成だったのに、直属の大天狗様――全部で七人おられるんだけど、そのうち六人が反対したらしいの。残りのお一方、天魔さまよりお年を召してらっしゃる山の最長老なんだけど、その方だけは、酒が呑めれば何でも良いと仰って、他の大天狗さまに呆れられてたとか。それで、とにかくあなたたちについて、まずは調べてみようってことになったの。山に対して悪意を抱いてないか、宴会に乗じて攻撃を企てているのではないか、協力者がいるのではないか……下らない話に聞こえるでしょう? でも、そんなものなのよ。お偉方っていうのは」
そのせいだったのね、とレイラは一人得心した。つい先週、紫に言われたのだ。この森って、こんなに鴉や犬が多かったかしら、と。
「参加が決まったのは、つい三日前のことよ。決まったら決まったで、今度は誰が留守の間、天魔さまの代理をするのか、お付きはどれだけ連れて行くのか、山の守りが薄くならないよう、どこの部署から引き抜くか……犬走椛って会ったことがあるかしら、自警隊の下っ端なんだけど、そこそこ腕の立つ犬っころでね、そいつが部隊長に、こんな理不尽な決定には従えないって噛み付いたり」――比喩ではないらしい、とレイラは直感した――「あと鴉天狗からも山の守りに駆り出されることになって、宴会について行く私を妬んでるのもいるし……ったく、普段は引きこもってる癖に、こんな時だけは外に行きたがるんだからさ、ふざけんじゃないっての」
これも、変化の兆しと言えるのだろうか。ひたすら恨み言を連ねる文にすまなく思いながらも、レイラは、希望が芽生えるのを感じていた。ちょっと山を空けるくらいで、これほどの騒ぎになるとは思ってもみなかったし、先が思いやられるけど、逆に考えることもできる。そう、ちょっとしたきっかけがあれば、何もかもが大きく変わるのかもしれない。良い結果を生むかどうかは、やってみないと分からない。それでも、ずっと今のままでいるよりは好ましいはずだ。
「ありがとう、文」
「何よ、あらたまって」
本当に、いきなりどうしてしまったのか。レイラは口をついて出た感謝の言葉に狼狽した。でも、こういう時は、言葉の流れとリズムに委ねてしまうべきなのだ。自分でも気付いていなかった何かが、ふっと姿を現すこともあるのだから。
「あなたがいなければ、今度のことは実現しなかったわ。山の皆さんをお招きできたこともだし、あなたが招待状を配ってくれたから、あんなにたくさんの人を呼べたのよ。と言うよりも、あなたと友だちにならなかったら、みんなを招いてみようだなんて、考えなかったと思う。だから、ありがとうって言いたかったの」
それだけじゃない、とレイラは思った。でも、残っているものは一体何なのだろう? 胸の奥にわだかまっている想いがあった。言葉の波に乗り損ねたその想いは、必死にレイラを呼び止めているようだった。
「つまり、自業自得なんだから、そのくらいの苦労は我慢しろって言いたいの?」
「そうね。私に関わったのが不運だったと思って、諦めなさいな」
声を立てて笑ううちに、掴み損ねた想いは風に流されたように消えてしまった。後に残ったのは、紫の横顔だった。やはり笑っている――そう、彼女はいつだって笑っている。そして笑いの裏に一切を閉じ込めているのだとレイラは思った――あなたは卑怯者だわ、と紫は言った。レイラは相変わらず、自分のどこが卑怯なのか理解できなかった――笑いの名残を引きずったまま、文は、でも、とレイラを見つめた。
「私も、ありがとうって言わなくちゃいけないわね」
「え?」
「同じなのよ、あなたと。確かに厭なこともあったけど、それって、悪いことじゃないと思うし。むしろ、見えてなかったことが見えるようになったというか、昔はね、上が何を考えてるかとか、全然気にしなかった。山は鬱陶しいこともあるけど居心地が良くて、新聞作ってれば楽しかったから、せいぜい、務めが取材の邪魔にならなければ良い、くらいにしか思ってなかった。だけど、今は」
分かるでしょう、と文は言った。
「山は好きよ。他のどこよりも素晴らしい場所だと思ってる。ただ、好きだからこそ、それだけではいけないって、最近は考えるようになったの。あなたのお陰だわ」
「……文は、今度のことで、何かが変わると思う?」
「さあね。脚は速いけど、腰は重い。天狗ってそういうものだから、変わるとしても、百年先か二百年先か、見当もつかないわ。あなたには、気の重くなる話だろうけど」
「どうして?」
「お姉さんたちのこと、考えてる。違う?」
レイラは、黙ってポットに目を落とした。文は正しかった。しかし、三人のためだけに宴を開くと思われるのは、厭だった。これは文のためでもあり、自分たちのためでもある。引いては他の妖怪たちの利ともなるだろう。だから、とレイラは自分に言い聞かせる、私が後ろめたく思う理由なんて、どこにもない。
「ま、良いけど。あなたの望みがどんなことでも、私が困る訳じゃないし。それに、他人を利用する姿勢は美徳よ、美徳。強いか賢いってことだからね」
そっと盗み見た文の表情は言葉の通りさっぱりしたもので、嘘をついているとは思えなかった。
なのに、とレイラはふたたびテーブルに視線を戻す。どうして、こんなに怖いのかしら。
文の顔を、まともに見られなかった。彼女の肯定を素直に受け入れるのは、躊躇われた。
紫の言葉が――あなたは卑怯者だわ――突然浮かび上がってきた。文は構わず話し続けている。山に関する諸々の事柄への疑問や苛立ち、山に属さない妖怪たちの身勝手な振る舞いへの憧憬と嫌悪――彼女の中で、二つの感情は容易く両立するらしかった――そして強い人間がいなくなったことへの嘆き、人里の賑わいの興味深さ。どれも聞き慣れた話題だったから、レイラは適当な相づちを打ちつつ、考えを先に進めた。
たとえば、文が言うように、三人のために他の人々を利用するのは――そんなつもりはない、と言い張っても詮ないことだった――悪いことなのだろうか。卑怯なのだろうか。文は、違うと思っているらしい。紫の考えは、分からない。
でも、たぶん紫も卑怯とは言わないのでは、とレイラは思う。これも――卑怯という言葉と同じで――何の根拠もなかったけれど、どうしても想像できなかったのだ。誰かに利用され、相手を卑怯だと罵る紫の姿が。
だとすると、卑怯というのは、もっと別の何かにかかっていることになるのだけど。
考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきて――きっかけは、ただの想像に過ぎない――レイラは文のお喋りに意識を向けた。話題は、ちょうど三人の演奏のことに移っていた。
「当然、宴会ではみんなに聞かせるつもりなんでしょ?」
「ええ、もちろん。必ずね」
良かった、と文は声を弾ませた。
「そんなに嬉しいこと?」
「あなたは毎日聴いてるから忘れてるかもしれないけど、あの娘たちの音楽があるのとないのとじゃ、全然違うのよ」
「他のみんなも、同じように感じてくれれば良いのだけど」
「大丈夫よ」
「本当に、そう思う?」
「ええ、もちろん。必ずね」
文は笑った。レイラも笑った。
他の誰とも違う、文だけの笑顔だ。
今さら、そんな当たり前のことを気にかける自分が、ひどくおかしかった。
4
「では、明日もお邪魔させて頂きますね」
「また取材?」
「今度は端から打ち合わせということで」
「打ち合わせね」
「ええ、打ち合わせです」
あらためて二人で決める事柄など、一つも残っていなかった。
悩みがあると感付いているのだろう。そして、心配してくれている。
それがレイラにはありがたくもあり、気まずくもあった。
「何しろ重要な行事ですからね、直前までじっくり話し合わなければなりません。もちろん、取材もさせて貰えれば、それに越したことはありませんが」
「なら、練習を兼ねて、お菓子でも焼いておくことにするわ」
「それは楽しみですね」
「昼食もいかが? 大したものは作れないけれど」
「喜んでご一緒させていただきます」
「それじゃあ、また明日」
「……うん。明日ね」
「気を付けて」
「レイラも、お姉さんたちがいないのに、一人で森をうろついたりしないように。いつでも助けられるとは限らないんだから」
出会いの記憶。
文の姿は、あの頃と殆ど変わっていない。髪が短くなった程度だ。
けれど、文は変わった。目つきや物腰に、以前はもっと隙がなかったという気がするし、取材の時の貼りつけたような笑顔も、レイラの前では見せることがなくなっていた。
リリカ姉さんも、いつか文のようになるかしら。
ふと、そう思った。
どこが似ているのだろう、と考えを巡らせた矢先に、天狗の少女は一礼して翼をはためかせ、現れた時と同じように一瞬で空高く舞い上がった。
手を振っている。振り返す。別れは速やかだった。いつものことだ。彼女の翼には、誰も追いつけない。
玄関口に立っていると、夕刻の風の冷たさが身に染みた。
三人は戻ってこない。
森は、暗くなるのも早い。文の言った通り、一人で歩き回るのは危険だった。
「……でも、まだ夜じゃないわ。森の妖精たちも、私を誘うことはしないでしょうし」
何を考えているのか、よく分からなかった。
三人の行き先は聞いていないし、どこであれ、もうしばらくすれば帰ってくるに決まっている。そして自分には、速く翔る翼や、身を守る力など具わっていないのだ。
それでも、じっと待つのが辛かった。風のせいだろうか。いつもより、梢が騒がしく揺れている。不安を煽り立て、落ち着かない気持ちにさせる音だった。
空も、重苦しい茜色に染まっていた。風が強いから、たくさんの雲が流されてきたのだろう、それで暗く、ぎらぎらして見えるのだろう、とレイラは思う。
空の向こうにあるものを、ずっと追いかけている。雲の形に、望むもののまぼろしを重ね見ている。
幽香に、そう言われたことがあった。幻想郷に来て間もない頃だ。
幽香自身は、大地と花に、無数の死と夢を重ねているのだとも言った。その二つは、同じものなのだと。
彼女が謎めいた話し方をする時は信用がならなかったし、その時は意味があるとも考えなかったから、ただ聞き流すに留めていた。しかし、それからしばらくは、空を見上げる度に彼女の言葉を思い出した。そして、心がささくれた。
十数年が経った。幽香は忘れているだろう。レイラも、忘れていた。記憶が蘇ってきたのは予期せぬことでありながら、自然な流れに思われた。当時の苛立ちと、焦りにも似た今の気持ちは、よく似ていたからだ。
――あの言葉の意味を、考える気になってくれたのかしら。
まぶたを閉じる。幽香が立っていた。顔は、傘に隠れている。
――あなたも子供ではないのだから、本当は、考えるまでもないでしょうけど。
考える。あの言葉と向き合う。それで、見えてくるものがあるのか。あるとして、見なければならないのか。
捜しに行かなくちゃ。
また、そう思った。
ランタンを手に、暗い森を進む。屋敷の敷地を越えて少し行けば、紫の張ってくれた結界の外に出る。その先に、レイラを守るものは何もない。たった一人。幽香の求めに応じるとは、そういうことなのではないか、とレイラは思う。
――でも、あなたは動かないのね。
「私の家は、ここだけだわ」
目を開けた。踵を返す。家。街の匂いを感じることもなくなった。この屋敷は、とうに幻想郷の風景に溶け込んでいた。
「ご免ね。こんな遠くまで、連れてきてしまって」
黙したままの夕闇に、レイラは諦念を感じ取る。
あるいは心地良い微睡みに沈んでいるのかもしれなかった。
遠い故郷を、夢見ているのかもしれなかった。
また、風が吹いた。
森のざわめきに混じって、三人の音楽が聞こえてきた。まだ、遠い。しかし、すぐに分かった。姉たちが弾いているのは、今朝方にメルランと二人で口ずさんだ、あの曲だった。
聴いているうちに、レイラの口からは、忘れられたはずの歌が漏れ出していた。
離ればなれになった友を懐かしみ、悲嘆する少女の歌。
三人は、明るく、踊るようなリズムで曲を紡ぐ。
幻想の音だ、とレイラは思った。
パンを適当な大きさに千切り、昼から煮込んでいた野菜のスープに入れ、そこに人数分の卵を落とす。軽く火を通して、黄身を崩さないよう気を付けながらカップに取る。残ったパンは、薄切りにして大皿に並べた。楽なものだった。
宴の日は、こんなものではすまない。一応、この土地の鍋料理を中心に据え、故郷の料理は副菜にすることで、手間と時間を省く目処は立っていたけれど、最後の二日は寝る間も惜しむことになるだろう。
忙しく、賑やかな夜を思うと、笑みがこぼれた。祝祭の日の料理を、母は決して他人任せにしようとしなかった。お陰で、前日から家族総出で手伝わされたものだった。料理人もこの時ばかりは暇を出され、たった一人、母が実家から連れてきた老齢の乳母だけが、付き添うことを許されていた。
あの人は、どこに行ったのだろう。使用人たちが次々に去っていく中で、彼女は、比較的長く屋敷に留まっていた。
けど、リリカ姉様が海を渡った頃にはいなくなっていたはずだわ。
カップの載ったお盆をリリカに渡しながら、レイラは当時のことを思い出そうと努めた。
姉の誰かに、ついていったのかもしれなかった。母の実家に舞い戻ったとも考えられた。いずれにせよ、もう亡くなっているだろう。生きていても、会うことは出来ないのだけれど。
浅黒い肌をした、物静かで、自分に厳しい人だった。熱心に教会に通っていた。よく、聖人の話を聞かせてくれた。贅沢を嫌い、いつも灰色のドレスを着ていた。
それから。
レイラは眉間にしわを寄せた。
辛うじて思い出せたのは、皺だらけで、薬指が曲がった、枯れ木のような手だった。近付く手が、飛びかかってくる悪魔か怪物のように見えた。レイラは、ぎゅっと目を閉じて肩をすくめた。何も起こらなかった。恐る恐る目を開けると、両手を身体の後ろに隠すようにして、彼女は苦笑していた。そして、レイラは黙って逃げ出したのだ。次の日から、彼女はレイラと話す時に、必ず手を隠すようになった。思えば、黒い手袋をつけ始めたのも、それからではなかったか。冬の風が手に良くないからだと言っていたけれど、夏になっても手袋を外すことはなかった。
謝るには遅すぎた。あまりにも遅すぎた。
決して謝れないから、後悔だけが、澱のように心の底に溜まってゆく。些細なことが、とても重い罪に思われてくる。彼女の名前さえ、忘れてしまったというのに。
「レイラは憶えてないの?」
「え?」
「だから、あの歌の歌詞よ。姉さんもリリカも聞いたことがなくて、しょうがないから三人で好きに想像して、演奏してたの。だけど、もしもレイラが知ってたら、あの曲の雰囲気も」
「ご免なさい。ずっと前に聞いたきりだから、殆ど憶えてないの。だけど、あれで良いと思うわ。とっても素敵な響きだったもの」
「全部聴いたら、もっと好きになるよ。絶対にね」
リリカが言うからには、本当に自信作なのだろう。
「ねえ、その曲のことなんだけど」
突然、レイラは激しい衝動に襲われ、三人に向かって言った。けれど、自分が続けようとした言葉は何だったのか、それは良いことなのか、悪いことなのか、なぜ、こんなにも厨房が広く感じられるのか、何一つ、レイラには分からなかった。そして結局は口を閉じ、幼い子供のようにエプロンの前を握り締め、俯いてしまった。
三人は顔を見合わせていたが、ルナサが何ごとか耳打ちすると、メルランとリリカは、心配そうにレイラの様子を窺いながらも、大人しく厨房を出て行った。
ルナサは風に揺れる裏口の扉を丁寧に閉め、鍋を火から下ろし、桶の水にさっと手を通した。そしてやり残したことがないのを確認すると、レイラにも手を洗うよう促した。
水はひんやりとして、けれど刺すような冷たさには、まだ遠かった。桶に手を浸したままのレイラの隣で、ルナサは、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「むかし、あなたが今よりもずっと小さかった頃に、憶えてるかしら、紫がいつもみたいに訪ねてきて、あなたと一緒に、歌を歌ったことがあったの」
レイラは首を横に振った。憶えてはいない。しかし、そんなことがあってもおかしくないと思った。
「メルランたちは外に出ていて、私だけが屋敷に残ってた。部屋で、新しい曲のことを、ぼんやり考えていた気がする。そうしたら、声が聞こえてきたの。あなたと、紫の声。彼女の声は、とても綺麗だった。あなたが先に歌って、たぶん教えていたのね、紫は最初の一回りこそたどたどしい感じだったけれど、すぐにあなたに合わせて歌い始めた。……優しくて、悲しい歌だったわ」
ルナサは小さな声で、あの歌詞を口ずさんだ。北の土地に移り住んだ少女は、友を、家を、街を懐かしみ、悲しみに暮れる。
私は違う、とレイラは思う。何も失っていない、むしろ、故郷を捨てたことで、手に入らないはずのものを手に入れたのだ、と。
「メルランの演奏を聞いて、すぐに思い出したわ。だけど、あの娘はとても楽しそうに吹いていて、聞いているうちに、これはこれで良いんじゃないかって、そう思ったの。私だけが、あの女の子のことを忘れずにいれば良いってね」
「……歌は、歌よ。忘れても、忘れなくても同じことだわ」
ルナサは厳粛な面持ちで頷いた。
「そう、歌は歌。誰が作ったのかも分からない、遠い場所の、もしかすると、遠い過去の歌。モデルになった人がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。いたとしても、まさかこんな場所で歌われているだなんて、考えもしないでしょうね」
「だったら」
「それでも、レイラ、曲に込められた想いというのは、どこかに息づいているのよ。甘い考えかもしれないけれど、私たちが、私たちの好きに演奏しているだけでも、曲の響いている間はあの女の子が生きていて、聞いてくれる人たちの心に、語りかけているんじゃないかって思う」
「姉さんは何が言いたいの?」
ルナサは、少し考えるように首を傾げた。
「レイラが言いたかったのは、あの歌のことじゃないかって気がしたの」
「それだけ?」
「それだけよ」
レイラが黙っていると、ルナサは心配そうに付け加えた。
「もちろんレイラが厭なら元の雰囲気を残した曲にするけど、披露するのは宴会ってこともあるし」
レイラは、にこりと笑った。
「良いのよ。そんなつもりじゃないから」
「……本当に?」
「本当に」
「でも、レイラは何だか」
笑顔のまま、レイラは頷いた。
「ええ、悩んでる。歌のことじゃなくて――あの歌のこともあったけど、このところ、一人でいると色々考えてしまうの」
「聞いても良い?」
「説明するのは難しいの。それに、姉さんに話して解決することでもないから……ねえ、ルナサ姉さん」
落胆したルナサの顔を、朝もそうしたように、レイラは両手で包み込んだ。
「姉さんたちのこと、愛してる。ずっと、ずっと、たとえ姉さんたちを忘れてしまっても、愛し続けるわ」
「私たちもよ。でも、私たちは、レイラを忘れたりなんてしないわ」
レイラは少女の額に口付けた。遠い昔、父や母がしてくれたように。
「そうね。私も、忘れない。約束する」
「それが悩みだったの?」
一瞬、レイラは目を見開いた。
「……姉さんは、何でもお見通しなのね」
「当たり前よ。いちばん大事な、家族のことだもの」
ルナサの抱擁は、無邪気で、愛情に満ちていた。
「少し、このままでも良い?」
「レイラの好きなだけ、ぎゅってしてあげる」
小さな姉の身体を抱き締め返し、レイラは押し殺した声でささやいた。
「ありがとう、姉さん」
5
日暮れの風は、一時のものだったらしい。夜の森はひっそりと静まり返り、時折、少し気の早い秋の虫の鳴き声や、寝ぼけた鴉の一鳴きが聞こえる程度だった。
テラスには昼間より一回り大きなテーブルが置かれていた。そして卓上には小さな洋燈のゆらゆらとした灯りに照らされて、5人分のお茶の用意一式が整えられていた。
椅子に着いたレイラの耳には、屋根の上にいる三人の話し声が微かに届いていた。会話の内容までは聞こえなくとも、楽しげな、とっておきのいたずらを仕掛ける子供たちのように浮ついた気配は、しっかりと伝わってきた。
演奏が始まる前のこの時間が、レイラは好きだった。これから始まる音楽に思いを馳せ、明日をどんな日にしようかと想像を巡らせるのだ。今日のような日でも、心が弾むのは同じだった。三人の音楽は、辛い時には最上の慰めとなり、幸せな時はより一層映える華となって、夜の空気を彩るのだった。
「楽しそうね。なのに、悲しそう。何があったの?」
声は耳許で聞こえた。紫が目の前の席に座っていた。
「おはよう、紫」
「こんばんは、レイラ……お茶、頂くわね」
紫は手早く保温帽を外し、カップに紅茶を注ぐと、彼女には珍しいことに、一気に半分ばかりも飲んでしまった。
「やっぱり良いわね。誰かが淹れてくれるお茶って」
「あなたのところにもいるじゃない」
「藍は駄目よ。匂いが嫌いだとか言って、まともにしてくれないの。命じて淹れさせても、いまいち美味しくないのよね。厭がりながら用意するところは可愛いのだけど」
あの子ったら涙目でお湯を注ぐのよ、と嬉々として話す紫に、レイラは溜息をついた。
「子供じゃないんだから」
「ええ、全く。あの子にも困ったものだわ」
少しずつ言葉の意図をずらしてゆく、紫の捻くれた話し方も、今のレイラには煩わしいだけだった。
「レイラ。本当に、どうしたの?」
「分からない」
「話したくない?」
「違うわ。自分でも、分からないのよ」
「駄々をこねてるって訳でもなさそうね」
昔を思い出して、レイラは頬を赤らめた。
「可愛かったわね。小さくて、生意気で、それに、力が溢れてた」
「そうね。私は、すっかり変わってしまったわ」
一息置いて、レイラは言った。
「ゆかり伯母さん」
ほんの短い間だけ使っていた呼びかけは、思いの外、舌に馴染んだ。たぶん、二人の関係に相応しいからなのだろう、とレイラは思う。
紫は苦々しい表情をしたが、何も言わなかった。
屋根の上のお喋りが止んだ。心地良い緊張感が伝わってくる。風も虫も鳥も、この一瞬に――始まりの前の静寂に水を差す真似は、絶対にしない。
そしてルナサのヴァイオリンが、まろやかな音で歌い始めた。
優しく、伸びやかで、郷愁に満ちた調べだった。
すぐにレイラは気が付いた。あの歌とは違うけれど、これもずっと昔に聴いた曲だった。それも――身体が震える。そしてレイラは、教会の表階段に座る彼を見たと思った――間違いなく、あの盲目の老人が、好んで奏でていた音楽だった。当時夢中になって聴いていたのは、一本のリコーダーの演奏だったけれど。
ひとしきりルナサのヴァイオリンが弾き終えると、今度はリリカの鍵盤が、ゆっくりと同じ旋律を辿り始めた。それは古いオルガンの音だった。きらびやかさとは縁遠い、磨りガラスを思わせるかすれた音色に、ひっそりとヴァイオリンが寄り添い、点々と互いの音を補い合ってゆく。二人の交わす会話が聞こえてくるようだった。
二回りして次はメルランの番かと思えば、予想に反して、リリカの鍵盤に右手が加わった。今度はコロコロとした、レイラの知らない鈴のような音だった。二人の奏者の三重奏が始まった。二人は方々に即興らしい装飾を加えだした。装飾は変奏となり、曲は次第に元の形を失っていった。それに連れて、二人の演奏にも熱が入ってゆくのが分かった。何度も何度も、二人は繰り返し続けた。一度として同じ響きは存在しなかった。転調し、テンポを揺らし、ユニゾンの合間にいたずらめいた不協和音を鳴らしたかと思えば、最初のしみじみとした旋律からは想像もつかない、荘重な和音を響かせる――その和音は、当然のように教会の鐘のどよめきを想起させた――二人は思いつく限りの奏法を、この一曲につぎ込もうとしているようだった。レイラの意識は、もうろうとしてきた。紫も、半ば目を閉じて、微かに頭を揺らしている。無数の鏡に反射する、音の迷宮をさ迷っている気分だった。
そうして永遠に続くかと思われた繰り返しが、ぴたりと止まった。終わったのだろうか、いや、とレイラは眠りと目覚めの狭間で三人の息づかいを感じ取る。静止した曲のテンポに合わせて、三人の心臓が脈打っている、ルナサが目配せし、リリカが頷き、メルランが大きく息を吸った――ぱっと視界が開けた。
レイラは息を呑んだ。
あの街だった。
テラスの先に広がっているのは、あの街の朝だった。
それはほんの一瞬の出来事だったが、レイラは運河の向こう岸に並ぶ家々の屋根が、緩やかな三角形であったり、階段のような形だったのを確認した。うっすらと霧のかかった運河に浮かぶ船と、その間を行き来する、積み荷を満載した小舟の姿も目にした。そして教会のファサードには円い明かり取りの窓が開いていて、その下に聖人たちが彫られていたことも、はっきりと思い出した。
メルランの喇叭が最初の旋律を、のびのびと吹いている。ルナサは所々で品の良い和音を作るよう控えめに音を重ね、リリカは通奏低音を担当している。
レイラは覚めきった頭で、今の出来事を振り返った。
ただの錯覚と言うには、明確すぎるまぼろしだった。自分でも手の届かない奥底に沈んでいた記憶が、三人の演奏を契機にして浮かび上がってきたのだという気がした。
紫と目が合った。彼女の顔にも明らかな驚愕が浮かんでいた。
「紫も見たの?」
「……ええ、見たわ。だけど、私はあなたと違うものを見たのだと思う」
「何が見えたの?」
「昔のあなた」
即座に答えて、紫は難しい顔をした。
「たぶん、あんな話をしたせいでしょうね。メルランの喇叭が聞こえた時に、昔の、そうよ、私を伯母だと信じ込んでいた頃の、あなたが見えたの……レイラは、何を見たの?」
「街よ。私の住んでいた街。朝だったわ」
紫は、予想通りだと言わんばかりに肩をすくめた。
ひとまず二人は消え行く音楽に耳を傾けることにした。間もなくして最後の一音が森に溶け込み、静けさが屋敷を包んだ。そして三人は音もなくテラスに降り立った。彼女たちの様子は、いつもと違っていた。レイラはその訳に思い至り、姉たちに頷いてみせた。途端に、笑顔が弾けた。三人は歓声を上げて踊り回った。
レイラは一緒になって笑った。けれど、あのビジョンは未だ心の中で鮮やかに色づいていて、懐かしさや喜びばかりでなく、言い知れない空しさをレイラに与えていた。
紫を見る。
彼女も、笑顔の裏で考えに沈んでいるようだった。
やがて三人はお休みの挨拶をすると、寝室に引き上げていった。
姉たちがいなくなると、急に辺りが暗くなったように思われた。それ自体はいつものことだったが、今日は特別に夜の森が暗く沈んでいるように見えた。
泣いているのだ。この森は、声も出さず泣いている。暗い物置のような部屋の片隅で、膝を抱えて……レイラはめまいを感じて、首を振った。考えるのを止めたかったが、あの部屋はどうなったのか、なぜ屋敷を飛ばす時に、あの部屋だけが――父の書斎だった部屋だけが向こうに取り残されたのかと、しつこく問いかけてくる声があった。
レイラは助けを求めて紫を見た。
か細く揺れる灯の向こうで、あの音楽の余韻に浸るようにまぶたを閉じて、紫はじっと動かずにいる。レイラが口を開くよりも早く、紫は言った。
「夢よ」
「え?」
「あの子たちの音楽は、夢を映す鏡なのよ」
「鏡……いちばん見たいものを見られるということ?」
「そう、夢というのはね、本来は叶えたり、掴み取る対象ではないの。見るものよ。夢を見る。それだけで私たちは満たされる、いいえ、満たされなくてはいけない。だけど、現実は違うわ。夢と願望を混同して、とうてい達成できない理想を追いかけ続けるものが、無数にいる。その点、あなたは特別だった。夢を現実にしてしまったのだから。もっとも、その代償に、あなた自身が夢の世界の住人になったのだけど。今やあなたの夢は現実よ。そしてかつての現実は、あなたにとって手の届かない夢になった――そういうことよ」
紫の話は、レイラの理解を越えていた。しかし、彼女がレイラの悩みを見抜いているのは確かだった。
「どうすれば良いの?」
「まずは、話してちょうだい。あなたの思っていること、感じたこと、それに、夢見たことも」
「無理よ。自分でも分からないものを、どうやって話せというの?」
「分からないのではなくて、見えにくいだけかもしれない。それとも、あまり見たくないものだとか」
「見たくない夢があるの?」
「悪夢というのもあるし、レイラ、そうでなくとも、手の届かない理想というのは、恐ろしいものでもあるのよ」
話し口は穏やかだったが、紫の態度は毅然としていて、逆らいがたい迫力があった。
レイラは上目遣いに紫を見て、ぽつりと言った。
「……長くて、聞きにくい話になるかも」
「子供の時分なら、早く寝なさいと叱るところだけど……そういえば、憶えてるかしら。あの頃のあなたったら、眠いのを我慢して、自分の考えたお話を私やお姉さんたちに聞かせようとして」
「紫。そういうの、まるでお祖母様みたいよ」
紫は目を丸くして、まあ、と声を上げた。そしてごく自然に――としかレイラには見えなかった――顔をほころばせた。
「お祖母様。悪くないわ。悪くないどころか、とても素敵」
うっとりと夢見るような声だった。
レイラは思いがけない表情にどぎまぎしながらも、頭の中で話を組み立て始めた。
無理に決まっている、という思いは、きれいさっぱりなくなっていた。
今朝方に襲いかかったあの衝動、ルナサ姉さんに残酷な言葉をかけてしまったこと、新しい曲のこと……順々に記憶を辿るうちに、レイラは自分が本当にその一日という時間を体験したのか、それとも今この場で新しい物語を造り上げているのか、判断がつかなくなった。つまり記憶というもののあやふやさを、手ひどい形で実感させられた。そして、時も、場所も、自らの正体も忘れ、その物語、または記憶の内容を話し続けた。
思いつく限りのことを話し終えるには、考えていた以上に長くかかった。洋燈の芯を一度替えて、冷えてきたからと部屋に引き上げ、空気が悪いと窓を開けて、吹き込んできた空気に夜明けの気配を感じた時、レイラは一夜という時間の短さと長さに愕然とし、そして正気に返った。
紫は眠っているように見えた。けれどレイラが窓を離れると、目を閉じたまま、静かな声で言った。
「終わった?」
「思い出せることは、ぜんぶ話したつもり」
「それで、何か見つかったの?」
「あなたの夢の話が、たぶん正しいだろうってことは、何となく分かったわ」
紫が黙っていたので、レイラはもたもたと付け足した。
「ええと、だから、どう言えばいいのかしら、私は、あの街のことを」
「戻りたい?」
はたとレイラは考え込んだ。あの街へ帰る。そうしたい、という気持ちはあった。
レイラは慎重に口を開いた。
「……私は、姉様たちや、他の知っている人たちが、どうなったのかを確かめたいの」
「どうして?」
「どうしてって、大事な人たちだもの。知りたいと思うのはおかしなこと?」
ふん、と紫は鼻を鳴らした。
「たとえばの話、私が行って調べて報告すれば、あなたは満足できるかしら」
「それは」
そんなことが出来るのか。もちろん、紫ならば容易いのだろう。ならば、構わないのではないか。そう、何も問題はなかった。レイラ自身が納得できないという他には、非の打ち所のない解決法だった。
「魔法や千里眼を使って、向こうの様子を、こちらから見ることも出来なくはないわ。まずは、魔女か悪魔を捜さなくてはならないけど」
そして魔女や悪魔の協力を仰ぐのに、別の条件が必要となる。その条件のためには、また別の……そうやって延々と旅を続ける男の話を、どこかで読んだ気がした。あれは何という題名の物語だったろう、とレイラはぼんやり考えた。
「レイラ、聞いてる?」
「……ええ」
「そうではなくて、結局、あなたはどうしたいの?」
「私が、選ばなくてはいけないの?」
紫は同情するように頷いた。
「これは、あなただけの問題だから」
「私が、したいこと」
刹那、幾つもの顔が思い浮かび、消えた。
圧倒的な理解とやるせなさが、怒濤のようにレイラの中を駆け抜けていった。
夢は見るもの。裏を返せば、見るだけならば構わないということだ。
みんなの顔を見たい。それはレイラのしたいことではなかった。見たい、では駄目なのだ。しかし見ることしか出来ない。だから夢なのだ。
レイラは言った。紫を見て、縋りつき、彼女の力を信じようとしながら、はっきりと口に出した。
「会いたいの。みんなに会いたい。会って、話をして、謝りたいの」
「みんな?」
「姉様に、使用人たちに、教会のお爺さんや、市場や港の人たちにも。みんな、みんなよ。私の知っている人たち、みんな」
心の奥底で息を潜めていた少女が、勢いよく付け加えた。
「それに、父様と母様にも」
紫は、うろたえたように視線をさ迷わせた。
「レイラ、あなたのご両親は」
「死んだわ。殺されたのよ」
紫の言い方を借りるなら、父は夢を追いかけてしまったのかもしれない、とレイラは思った。自分の運を疑わずに生きる人だった。そして最期は、不運に捕まったのだ。最初から、たぐいまれな幸運の代償を支払う運命だったのだろうとも思う。
「だから、お墓参りをして、報告して、謝りたいの。あのベルは、二人の命を吸って、私の夢を現実にしたのでしょう」
「……そうよ。私が、殺したようなものだわ」
「違うわ。殺したのは幽香。呪いの力があったとしても、それはお父様の死を早めただけだった。あれがなくても、いつか幽香は現れたでしょうし」――幽香は言ったのだ。自分は、負債を取り立てに来たのだと――「紫、だから、こうも考えられるのよ、もしもあのベルを父様が手に入れていなければ、幽香が来た時に、あなたはいなかった。私は姉様たちとは離ればなれになって、姉さんたちと暮らすこともできなかっただろうって」
「詭弁ね」
「本当のことでもあるわ。父様の死は、父様自身の責任。巻き込まれた母様は、運がなかった」
「それで納得できるというの?」
「納得なんてできないわ。だけど、どんな死に方でも、私は納得しなかったと思うの。それに、もう幽香に復讐したいとは思ってないし、紫のことは、騙されたって分かってからも、嫌いになったことは一度もないわ。本当よ」
紫は口を開き、レイラに手を伸ばしたが、結局、声を出すことも、レイラを抱き寄せることもしなかった。そして気まずそうに口を閉じ、手を下ろすと、自分の行動を恥じるように俯いてしまった。
紫の煮え切らなさは、彼女が罪悪感ばかりでなく、彼女なりの愛情をもって自分に接してくれている証だと、レイラは思った。それでレイラには充分だった。
「紫。その話は、もう良いわ。それより、教えて。私の夢は、やっぱり夢でしかないの? 絶対に私は姉様たちに会えないし、お墓参りにも行けないの?」
紫は口ごもって、明確な答えを避けようとした。希望が募る。と同時に、厭な予感がした。
「無理なら無理と言って。そうすれば、諦めもつくわ」
すると紫は、観念したように顔を上げた。レイラは戸惑った。幻想郷の管理者としての、あの冷めた眼差しではなかった。沈痛な面差しで、このような話をさせるレイラを憐れみ、あるいは恨んでいるようにさえ見えた。
「無理ではないわ」
「何ですって?」
「無理ではない、と言ったの。無理にする計画もあるけれど、今のところは、あなたを外の世界に送ったり、また幻想郷に戻すことができる。仮に私の力を使わなくとも、山を越えて、海に出て、船に乗れば、いずれ辿り着くわ」
「……なら、何が問題なの?」
紫は、またも口ごもった。しかし短い間のことだった。
「あの子たちよ」
予想だにしていなかった返答に、レイラは呆然となった。
「あなたのお姉さんたちが、あなたにとっての最大の問題。あなたの力をあのベルが増幅することでこの世に現れたのが、プリズムリバー三姉妹。依り代がいなくなれば、あの三人は、ゆっくりと消えてしまう外ないわ」
「一緒に向こうに行けば」
「あの子たちは、あなたを依り代にするだけでなくて、この土地に取り憑いてもいる。私が、そうなるようにしたの。時間をかけて、この幻想郷の大地に馴染ませれば、あの子たちの在り方も、今よりは安定したものになるはずよ」
「どれくらいかかるの?」
「十年か、二十年か。もしかすると、百年以上かも」
「その前に私が死んだら?」
勢い込んでレイラは訊ねた。戻りたいという思いは、片隅に追いやられていた。
「今すぐでも、ひとまず、完全に消えることはないと思う。ただ、記憶に欠落が生じたり、人格が変わってしまうということは考えられるわ」
今度こそ、レイラは言葉を失った。記憶や人格を失う。それは死ぬのと同じことではないのか。
紫は慰めるように続けた。
「あなたが、あの子たちのためを思って色々としてきたことは知ってるわ。あれはあれで意味があるのよ。多くの人や妖怪が、彼女たちを幻想郷の一員、一種の妖怪や、霊や、現象でも構わないのだけど、そういうものとして受け入れれば、自然と彼女たちの役目が生まれる。そうすれば、あなたがいなくなっても、彼女たちは生き続けられるの。ただ、その時の彼女たちは、もう、あなたの姉ではなくなってしまうわ」
「私の姉さんたち、というのではいけないの?」
「人も妖怪も、忘却を免れない。皆があなたを忘れれば、あなたの家族としてのあの子たちは、消えてしまうの」
でも、と紫は続けた。
「本当に、そうなってしまうのかは分からない。何かの拍子で、今のままの彼女たちが、生き続けることも考えられる。あなたの力、あの三人を生み出した力は、まだ消えてない。あなたは、また奇跡を起こせるかもしれない……けれど、あなたがこの幻想郷を離れて、もしもそのまま向こうに居着きたいと思ってしまえば、その僅かな希望も、完全に潰えてしまうわ。もちろん、あなたのことは信じてるけれど、夢というのは、人を簡単に狂わせてしまうものよ。私は幻想郷の管理者としても、新しい住人をみすみす消してしまう危険を冒したくはないの」
話すべきことは話し終えたのか、紫は深々と息を吐いた。
徐々に世界は灰色に染まり、長い、長い一夜が明けようとしていた。
夜が明ける前に、という紫の声が、レイラには聞こえるようだった。
夜明けまでに、あなたは選ばなくてはいけないわ。幻想郷か、あの街か。姉さんたちか、お姉様たちか。
レイラは、ふと奇妙な考えに囚われた。
どうして、紫はこの話をしたのかしら。幻想郷からは出られないって、一言ですませても良かったのに。
紫は嘘をつかない。しかし誤魔化しは彼女の得意とするところだったし、何より、レイラが幻想郷から出られないのは事実だった。三人の姉さんのことを考えれば、選択の余地など、どこにもなかった。
紫は最初から正しかったのだ。夢は、夢でしかあり得ない。
それを包み隠さず話したのには、彼女なりの思惑があるのではないだろうか。
紫はレイラの思考を読み取ったように、顔を背けた。
「続きは、また今度にしましょう。あなたも、考える時間が欲しいでしょうし――今日は、もう寝るわ。お休みなさい、レイラ」
今を逃せば続きはない、とレイラは直感した。
「……ええ。お休み、紫」
紫の姿がぬるりと隙間に呑み込まれるのを見送り、レイラはくすりと笑った。
そして、なぜ笑ったのかと自問する。
心が軽かった。街に戻りたい、みんなに会いたいという思いは燻っていたが、その感情とレイラの間には、どこか他人事のような隔たりがあった。幽香への憎しみや怒りが変質したように、紫と話すことで、自分の中の何かが変わってしまったのだ、とレイラは思った。
もしかすると、それが紫の狙いだったのかも。
一度思いつくと、他の理由は考えられなくなった。
紫はレイラの夢を消そうとした。消せなくとも、小さなものに――夢に大小があるとすれば、だけれど――変えてしまおうとした。
彼女らしい、とレイラは思う。
自分勝手で、愛情に溢れていて、それに、そう、とても不器用なやり方だった。
考え込みながら、レイラはテラスに歩み出た。
世界は灰色だった。空は平板な雲に覆われ、こぬか雨が降り始めていた。
一つところに全てを繋ぎ止めるような、どこまでも続く灰色。心を麻痺させる色。
耳に残るブロンズの鐘のどよめきは、遠く、遠く、くぐもっていき、やがて彼方へと消えた。あれほど鮮烈に蘇った街の風景も、雨ににじみ、色褪せ、灰色に呑まれて消え失せた。
徹夜で火照った身体を、朝の空気とか細い雨が、快く冷やす。
抗いがたい眠気に引きずられ、レイラは部屋に引き返した。
ベッドに倒れ込みながら、眠りの淵で紫の顔を思い浮かべる。
昨日とは違っていた。レイラを卑怯と呼んだ紫とは、別人に見えた。
何が変わったのか、レイラには分からない。分からないままに、レイラは微笑み、ささやきかけた。
「本当に、卑怯なひと」
そして自分も、彼女の言う通り、どうしようもなく卑怯な人間なのだろう、とレイラは思った。
夢が覚めてゆく。
夢に落ちてゆく。
夢の中の世界。
幻想の、世界。