「ああ、参ったな。迷ってしまったわ」
「遭難じゃないの?」
夜の帳が下りる山道を、二人の少女がゆっくりと歩いている。
遭難、などと物騒な物言いをしながらも、少女たちの表情に怯えのようなものは一切見受けられない。
「ふふふ、メリー。怪異の一つでも飛び出してきそうな雰囲気じゃない」
「どうでもいいから、さっさと星を見てくれるかしら」
「断る。何のためにわざわざ遭難したと思ってる?」
「蓮子、あなたって本当に面倒だわ」
蓮子と呼ばれた少女は憮然と歩き続ける。その後ろをメリーが不承不承といった様子で付いてきている。
二人はいま、奇怪な伝承が残る山中へと踏み入っている最中だった。始めのうちは蓮子につられて勇み足だったメリーも、いまは疲労の色を隠そうともしない。
整備された山道に対して、「こんな小奇麗な道を通るとは言語道断、我らがサークルを何と心得る」と言い張る蓮子は道なき道を進んでいた。
「蓮子、あなたが星を見て、場所を特定して、山を出て、ご飯を食べる。これらの何が問題なの?」
「メリー、私の能力はひどく安全で心強いものだわ。でも、そんなものに裏打ちされた状況で、出会える怪異はあるのかしら?」
「できれば、一人で出会ってほしいものね」
「いつになく突っかかって来るねメリー。心細い?」
蓮子の挑発に反論することなく、メリーはまた黙々と歩き始めた。蓮子の言葉が正鵠を得ていたせいもある。
二人が黙ると、山は静かな……というよりは、息を潜めるようにして怪しい静寂に包まれる。
蓮子の背中と、頭上から差し込む僅かな月明かりのみを頼りにメリーは進んでいる。そして何とか平静を保てているのは、いざとなれば蓮子の能力を使えばいいという安心感からだろう。
辺りを暗闇と静寂に覆われると、自然とメリーの感覚は鋭敏に、むしろ過敏になり始めた。蓮子が草木を掻き分ける音が、やけに禍々しく聞こえる。そこには悪意のようなものさえ感じられた。
自分の後ろや横で、不明瞭な音が聞こえ始める。ここには自分と蓮子しかいない……メリーはそれが思い込みなのかと疑い始める。
己の感覚に猜疑心を抱いてしまうと、あとは奈落に落ちるかのように疑心暗鬼に苛まれる。
さっき通り過ぎた木々の間から、視線を感じる。あるはずのない、三つ目の息遣いが耳に届く。落葉を踏み潰す足音には、五本目の足が混ざっている。暗がりからこちらを窺うのは、いったい誰なのだろう。 恐怖感に押し出されるようにして、メリーは声を漏らす。
「ああ、もう……」
まとわりつく視線や息を払うようにして、メリーは頭を振る。視界の端には、黒い人影のようなものが絶えず入り込んでいる。しかし目で追おうとすると、たちまちに影は行方をくらますのだ。やがてメリーは気付く、消えた影の行き着く先が、己の背後であることに。
膨張が止まない恐怖感は、いまにも破裂してしまいそうだった。メリーはそれを抑えるために、怒気を孕んだ声色で前を歩く蓮子に言う。
「もう、やめにしましょう蓮子。いますぐ山を下りて、家に帰るの」
蓮子は後ろを振り向こうともせず、歩を緩めることも速めることもせず同じ速度で進み続ける。
頭上に生い茂る木々は月明かりを完全に遮断し、唯一の頼りとなった蓮子の背中にも、メリーは言い表せない恐ろしさを覚え始めていた。
メリーがいよいよ蓮子の背中を訝しげに感じると、ようやくに蓮子が口を開いた。
「メリー、私はさいきん上手く眠れない」
「……?」
それは、状況にそぐわぬ言葉だった。それどころかメリーの不信感は深まるばかりだ。前を歩く背中が、少しづつ形を変える。今まで慣れ親しんだものが別のものに変容する姿は、恐ろしさ以外の何者でもなかった。
「けれどメリー、きっと私は今日からぐっすりと眠ることができる、死ぬみたいに」
「」
メリーは何か言葉を発しようとしたが、それは形を成さぬまま空気に溶けた。蓮子はなおも歩みを止めようとしない。メリーはもう、前にある背中が誰のものなのか確信が持てなくなっている。
「メリー、この山には多くの〈もの〉が捨てられている」
「」
「山はあらゆる〈もの〉を受け入れる。だから皆、山の深部に悩みの種を捨てていく」
「」
「何でもいい。ただ自分が抱えているものであれば、何でもいい。形の在る無しは些細な問題なのだから」
「蓮、子」
メリーは、その場に膝をついた。荒れた息と動悸は収まらず、顔を上げるだけで精一杯だった。視線の先にあるのは見知らぬ背中。変容した背中に、蓮子の面影はいっさい残っていない。メリーにはそれがひどく恐ろしく、悲しくもあった。これはどこから来る悲しみなのか、メリー自身にも全く理解できない。
「メリー、私とあなたの愛は、いずれ失われる」
蓮子は蹲るメリーに構わず歩き続ける。蓮子の声には、さっきまでとは違い感情がこもっていた。それは、いつもメリーに語りかけるような、少々芝居がかった気障な喋り方だ。
メリーは頬を伝う涙の正体が、やっとわかった。変わったのは蓮子ではない、自分だ。
「蓮子、やめて」
「誰も認めない、理解も共感も得られない。あとは、ゆっくりと腐るだけ」
「そんなこと、ない」
「ならいっそ、捨てたほうが良い。欠片も残さず綺麗に捨てるの。汚れを落とすみたいに」
「汚れなんかじゃない」
メリーの記憶から蓮子に関する部分だけが次々と抜け落ちていく。幾度となく重ねた唇と体の感触を、メリーはもう思い出せない。蓮子の背中は変わってない。自分が忘れた、だけ。
山の伝承とはきっと、これなのだ。先ほど蓮子が言ったように、抱えきれないものを捨てる場所。形の在る無しは問題ではない。もちろん愛も、例外ではない。
「これでいい。ようやく私と君は、呪いから解放される」
「呪いじゃ、ない」
「そう、愛ね。でも呪いと言い換えても、さして問題はないのよ」
メリーは溢れる涙をせき止めるようとする。落ちる涙が蓮子との思い出のようで、必死に目を押さえる。
「こんど会うときは、お互いが幸福になったとき。互いが互いを必要としないぐらい、幸福になったとき、また会いましょう」
「嫌……」
既に蓮子の姿は視界から消えていて、聞こえてくる蓮子の声と、薄れていく意識のみがメリーが感じることのできる全てだった。
「メリー、私は寸分の狂いなく、あなたを完璧に愛してた」
「蓮子、蓮子……」
「それじゃあメリー、いつか、また」
「蓮子!」
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
------------------------------------------------------------------------------------
ある日の昼下がり、小さな喫茶店で二人の少女が退屈そうにしている。話しているのは、中身の無い話ばかりで、今日の夜には忘れてしまうような話題ばかりだ。
時間を無為に過ごしていることを理解していながらも、二人はそこから動こうとはしない。
「なんの話をしていたっけ」
「なんの話をするかって話でしょう」
「ああ、そうだった……」
二人はしばらく黙っていたが、やがて一方が気まずそうに語りかけた。
「ところで、さ。あのウワサ本当なの?」
「私に恋人ができたって話なら、事実よ」
「……なんだか、もう少し躊躇ってほしかったな。聞きがいが無いじゃない」
噂を尋ねた少女が、がっくりと項垂れた。先を越された、そう思ったからだ。
それを無視して軽食を摂っていたもう一人の少女が、やがて席を立った。
「どこへ行くんだい」
項垂れたまま、少女が尋ねる。
「件の恋人と、会う約束がね」
「でぇと……」
「そ、デート。じゃあね、蓮子」
やがて席を立った少女は喫茶店を出て行き、後には一人だけ残された蓮子がぼんやりと窓の外を眺めていた。
「さよなら、メリー」
消え入りそうな声で、蓮子は呟いた。
「遭難じゃないの?」
夜の帳が下りる山道を、二人の少女がゆっくりと歩いている。
遭難、などと物騒な物言いをしながらも、少女たちの表情に怯えのようなものは一切見受けられない。
「ふふふ、メリー。怪異の一つでも飛び出してきそうな雰囲気じゃない」
「どうでもいいから、さっさと星を見てくれるかしら」
「断る。何のためにわざわざ遭難したと思ってる?」
「蓮子、あなたって本当に面倒だわ」
蓮子と呼ばれた少女は憮然と歩き続ける。その後ろをメリーが不承不承といった様子で付いてきている。
二人はいま、奇怪な伝承が残る山中へと踏み入っている最中だった。始めのうちは蓮子につられて勇み足だったメリーも、いまは疲労の色を隠そうともしない。
整備された山道に対して、「こんな小奇麗な道を通るとは言語道断、我らがサークルを何と心得る」と言い張る蓮子は道なき道を進んでいた。
「蓮子、あなたが星を見て、場所を特定して、山を出て、ご飯を食べる。これらの何が問題なの?」
「メリー、私の能力はひどく安全で心強いものだわ。でも、そんなものに裏打ちされた状況で、出会える怪異はあるのかしら?」
「できれば、一人で出会ってほしいものね」
「いつになく突っかかって来るねメリー。心細い?」
蓮子の挑発に反論することなく、メリーはまた黙々と歩き始めた。蓮子の言葉が正鵠を得ていたせいもある。
二人が黙ると、山は静かな……というよりは、息を潜めるようにして怪しい静寂に包まれる。
蓮子の背中と、頭上から差し込む僅かな月明かりのみを頼りにメリーは進んでいる。そして何とか平静を保てているのは、いざとなれば蓮子の能力を使えばいいという安心感からだろう。
辺りを暗闇と静寂に覆われると、自然とメリーの感覚は鋭敏に、むしろ過敏になり始めた。蓮子が草木を掻き分ける音が、やけに禍々しく聞こえる。そこには悪意のようなものさえ感じられた。
自分の後ろや横で、不明瞭な音が聞こえ始める。ここには自分と蓮子しかいない……メリーはそれが思い込みなのかと疑い始める。
己の感覚に猜疑心を抱いてしまうと、あとは奈落に落ちるかのように疑心暗鬼に苛まれる。
さっき通り過ぎた木々の間から、視線を感じる。あるはずのない、三つ目の息遣いが耳に届く。落葉を踏み潰す足音には、五本目の足が混ざっている。暗がりからこちらを窺うのは、いったい誰なのだろう。 恐怖感に押し出されるようにして、メリーは声を漏らす。
「ああ、もう……」
まとわりつく視線や息を払うようにして、メリーは頭を振る。視界の端には、黒い人影のようなものが絶えず入り込んでいる。しかし目で追おうとすると、たちまちに影は行方をくらますのだ。やがてメリーは気付く、消えた影の行き着く先が、己の背後であることに。
膨張が止まない恐怖感は、いまにも破裂してしまいそうだった。メリーはそれを抑えるために、怒気を孕んだ声色で前を歩く蓮子に言う。
「もう、やめにしましょう蓮子。いますぐ山を下りて、家に帰るの」
蓮子は後ろを振り向こうともせず、歩を緩めることも速めることもせず同じ速度で進み続ける。
頭上に生い茂る木々は月明かりを完全に遮断し、唯一の頼りとなった蓮子の背中にも、メリーは言い表せない恐ろしさを覚え始めていた。
メリーがいよいよ蓮子の背中を訝しげに感じると、ようやくに蓮子が口を開いた。
「メリー、私はさいきん上手く眠れない」
「……?」
それは、状況にそぐわぬ言葉だった。それどころかメリーの不信感は深まるばかりだ。前を歩く背中が、少しづつ形を変える。今まで慣れ親しんだものが別のものに変容する姿は、恐ろしさ以外の何者でもなかった。
「けれどメリー、きっと私は今日からぐっすりと眠ることができる、死ぬみたいに」
「」
メリーは何か言葉を発しようとしたが、それは形を成さぬまま空気に溶けた。蓮子はなおも歩みを止めようとしない。メリーはもう、前にある背中が誰のものなのか確信が持てなくなっている。
「メリー、この山には多くの〈もの〉が捨てられている」
「」
「山はあらゆる〈もの〉を受け入れる。だから皆、山の深部に悩みの種を捨てていく」
「」
「何でもいい。ただ自分が抱えているものであれば、何でもいい。形の在る無しは些細な問題なのだから」
「蓮、子」
メリーは、その場に膝をついた。荒れた息と動悸は収まらず、顔を上げるだけで精一杯だった。視線の先にあるのは見知らぬ背中。変容した背中に、蓮子の面影はいっさい残っていない。メリーにはそれがひどく恐ろしく、悲しくもあった。これはどこから来る悲しみなのか、メリー自身にも全く理解できない。
「メリー、私とあなたの愛は、いずれ失われる」
蓮子は蹲るメリーに構わず歩き続ける。蓮子の声には、さっきまでとは違い感情がこもっていた。それは、いつもメリーに語りかけるような、少々芝居がかった気障な喋り方だ。
メリーは頬を伝う涙の正体が、やっとわかった。変わったのは蓮子ではない、自分だ。
「蓮子、やめて」
「誰も認めない、理解も共感も得られない。あとは、ゆっくりと腐るだけ」
「そんなこと、ない」
「ならいっそ、捨てたほうが良い。欠片も残さず綺麗に捨てるの。汚れを落とすみたいに」
「汚れなんかじゃない」
メリーの記憶から蓮子に関する部分だけが次々と抜け落ちていく。幾度となく重ねた唇と体の感触を、メリーはもう思い出せない。蓮子の背中は変わってない。自分が忘れた、だけ。
山の伝承とはきっと、これなのだ。先ほど蓮子が言ったように、抱えきれないものを捨てる場所。形の在る無しは問題ではない。もちろん愛も、例外ではない。
「これでいい。ようやく私と君は、呪いから解放される」
「呪いじゃ、ない」
「そう、愛ね。でも呪いと言い換えても、さして問題はないのよ」
メリーは溢れる涙をせき止めるようとする。落ちる涙が蓮子との思い出のようで、必死に目を押さえる。
「こんど会うときは、お互いが幸福になったとき。互いが互いを必要としないぐらい、幸福になったとき、また会いましょう」
「嫌……」
既に蓮子の姿は視界から消えていて、聞こえてくる蓮子の声と、薄れていく意識のみがメリーが感じることのできる全てだった。
「メリー、私は寸分の狂いなく、あなたを完璧に愛してた」
「蓮子、蓮子……」
「それじゃあメリー、いつか、また」
「蓮子!」
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ある日の昼下がり、小さな喫茶店で二人の少女が退屈そうにしている。話しているのは、中身の無い話ばかりで、今日の夜には忘れてしまうような話題ばかりだ。
時間を無為に過ごしていることを理解していながらも、二人はそこから動こうとはしない。
「なんの話をしていたっけ」
「なんの話をするかって話でしょう」
「ああ、そうだった……」
二人はしばらく黙っていたが、やがて一方が気まずそうに語りかけた。
「ところで、さ。あのウワサ本当なの?」
「私に恋人ができたって話なら、事実よ」
「……なんだか、もう少し躊躇ってほしかったな。聞きがいが無いじゃない」
噂を尋ねた少女が、がっくりと項垂れた。先を越された、そう思ったからだ。
それを無視して軽食を摂っていたもう一人の少女が、やがて席を立った。
「どこへ行くんだい」
項垂れたまま、少女が尋ねる。
「件の恋人と、会う約束がね」
「でぇと……」
「そ、デート。じゃあね、蓮子」
やがて席を立った少女は喫茶店を出て行き、後には一人だけ残された蓮子がぼんやりと窓の外を眺めていた。
「さよなら、メリー」
消え入りそうな声で、蓮子は呟いた。
でも、嫌いじゃないです
ここに至る過程も読みたかったな