始まりは一人だった。
非番の日に外を歩いていた時に人を見かけたのだ。その人は悩んでいて、相談に乗ったことが始まりだった。彼の悩みに対して私が所見を述べたことで悩みは晴れた様子だった。
「あなたは自分が不幸だと言いましたが、悩むばかりで現状の改善をしようと行動を起こしていないのではないでしょうか。今のあなたは少し考えすぎのようです。時には考えるのではなくがむしゃらに行動を起こすことも大切ですよ。』
彼は弾かれたように立ち上がって一言残して慌ただしく去っていった。
私は明くる日も人に助言をした。その次の日も。またその次の日も。
そうしていくうちに私の元に自主的に人が来るようになった。私は相手に合わせて言葉を選びながら考えを伝えていったのだった。
次第に人々の数は増えていき、ついには集会のようになっていた。みんな私の言葉を聞いてはどうすれば新しく善行を積めるか質問を投げかけてきた。私はそれらに対して出来るだけ丁寧に返したのだった。
そんなある時の裁きに見覚えのある魂がやってきた。熱心に通ってきていたお婆さんだった。彼女は礼儀の正しい人で、私に対して挨拶や感謝の言葉をよくかけてくださる人だった。お礼と言ってお菓子をくださった時もあった。私の話し相手をよくしてくれて、本当によくできたひとであった。そんな彼女に対する裁判だ。何の心配もすることはなく、私の中の閻魔が告げる評決を述べ、いつも通りに裁きを下した。
お前は地獄行きだ。と
四季映姫ヤマザナドゥは誰よりも公平だ。
それは私が閻魔として人を裁く務めを帯びているからだ
我々閻魔は浄玻璃の鏡を使用して、人の過去を見ることができる。
生前その者が何をして、何を考え、何を残してきたか。
誰を愛し、誰に愛され、誰に愛を返してきたか。
その全てを無遠慮に覗き込み、その全てに裁定を下していく。
ある者は私の行いに対して羞恥を覚え、ある者は怒りを感じる。またある者は悲しいのか魂の姿であっても全身を震わせて止めるように求めてくる。
見ないでくれ。
やめてくれ。
どうしてこんなことを。
自分がどうしてこのような目に遭うことが理解できずに訴えかけてくる。あるがままの魂で在るためか、その感情は生きていた時よりも剥き出しで、痛いほどに純粋だ。それを「私」は裁いていく。何も感じず、何ともおもわず。ただただ捌いていく。それはある種の作業のように。閻魔は何も感じることはない。まるで彼らと私たちは違う世界の住人であるかのように。上からではなく外側から判決を下すのだ。閻魔はそれが正しい姿だ。相手に対して感情を揺さぶられて、私情を交えているようでは「ヤマ」失格だ。確固たる基準の中から裁量を下すべきだ。下さなければならない。そういう存在だ。
しかし『私』はどうだろうか。
肝心の『私』は閻魔に相応しいのだろうか。
彼らの叫びを、怨嗟を受けて影響されることはないだろうか。
私は …
私は閻魔なのだ。いついかなる時でも役職を通して自身を見られている。非番であろうとそんなことは関係がない。
私の裁定は此岸で目をかけていたものでも、助けられたものでも、関係は…ない。
結局あの老婆はただ私の話を聞きに来ていただけだった。どこかで私が死後に裁きを与える存在であることを知ったあの人は、ただ私と親しくなることが目的で集会に通っていただけであった。 何かを改善しようとはしないで、親しみから自分に対する裁きが甘くなることを期待していたのだ。
あの人は叫ぶ。
どうしてだ。あなたのお話を聞いたのに。閻魔様だからと足繁く通ったというのに。こんな仕打ちをするというのか。
そうして悲鳴を上げながら地獄に落ちていった。
私は内心愕然としていた。その真実にも結果にも。私は間違っていたのだろうか?あの日貰った一言は間違いの始まりだったのか?
ありがとう。
自分の願いが達成されて。初めてのあの人が立ち去る時に残してくれたあの言葉が嬉しくて。みんなが笑顔になってくれることが誇らしくて。ただそれだけだったのに。
その後も集会に参加していた者の魂がやってくることはあったが、誰も変わってなどいなかった。集会に集まっていた殆どの人は老婆から私の正体を聞いていて、死後安楽を得るために話を聞いている振りをしていたのだ。私の言葉が助けになった人は初めのうちに話したほんの数人だけであった。
私がしていたことは間違いだったのだろうか。私の軽率な行動で彼ら自身の力で善行を積む機会を奪ってしまったのではないだろうか。もし彼らと会うことがなければ地獄行きを宣告することもなかったのではないか。
私と出会った者と出会ってない者との間に不公平が生まれてしまった。私は図らずとも特定の者に肩入れしてしまったのだ。
そのうえ、私が手を差し伸べたものにも明確に差が生まれてしまった。
公平であるはずの閻魔が、自分の意思で、彼らを分けてしまった。
公平であるならば両者に差など生んではいけなかったのに。
むしろ私が説教をして改善した者にこそ、酷な裁定を下さなければならないのではないのだろうか。
私が関わったことで本来受けるはずだった待遇から良くなってしまったのならば…釣り合いが取れない。そうではない者と比べて不公平ではないか。
しかし、閻魔の裁きは「公平」に行われる。世界の外側、理のもとに決定される。そこに私情が入り込む余地など存在しない。
これでは狡いではないか。理を知っている私は人間が死ぬ前に好きなだけ彼らが善行を積めるように仕向けられる。しかも、私がそうしたところで私を罰する者は存在しない。
これでは平等などではない。これでは公平などではない。これでは…。
いっそ人と関わることをやめてしまおうか。
そう考えたところでやめることなどできるはずがなかった。
私は人間に幸せな生を全うしてほしいと願っている。そのためなら微力でも力になろうと決めていた。ただ見守るだけだった以前と違い、自由に動く体を戴いたのだから。
声をかけようとした。諌めようとした。慰めようとした。感謝を伝えようとした。
しかし、石で作られた体では動くことは出来なかった。ただ見守るだけだった。歯痒さだけが募る日々だった。
今の私はあの頃とは違う。今ならできる。彼らの力になることができるのだ。そんな私が彼らを放っておけるだろうか。放っておけるはずがない。これからも人間に教えを説いていくだろう。
私はどうすればよかったのだ。
「公平」な私と『不公平』な私で歪みが生まれていく。悔悟の棒が重く感じる。浄玻璃の鏡を見るのがこわい。
でも、閻魔は淡々と職務をこなしていく。
「ヤマ」だけでなく『四季映姫』も機械のようであればよかったのに。裁きを下すように人を助けるシステムであればよかったのに。
私という人格もなく。
ただ白か黒か。どちらかを示すだけの天秤であればよかったのに。
私はどうすればよいのだろう。
非番の日に外を歩いていた時に人を見かけたのだ。その人は悩んでいて、相談に乗ったことが始まりだった。彼の悩みに対して私が所見を述べたことで悩みは晴れた様子だった。
「あなたは自分が不幸だと言いましたが、悩むばかりで現状の改善をしようと行動を起こしていないのではないでしょうか。今のあなたは少し考えすぎのようです。時には考えるのではなくがむしゃらに行動を起こすことも大切ですよ。』
彼は弾かれたように立ち上がって一言残して慌ただしく去っていった。
私は明くる日も人に助言をした。その次の日も。またその次の日も。
そうしていくうちに私の元に自主的に人が来るようになった。私は相手に合わせて言葉を選びながら考えを伝えていったのだった。
次第に人々の数は増えていき、ついには集会のようになっていた。みんな私の言葉を聞いてはどうすれば新しく善行を積めるか質問を投げかけてきた。私はそれらに対して出来るだけ丁寧に返したのだった。
そんなある時の裁きに見覚えのある魂がやってきた。熱心に通ってきていたお婆さんだった。彼女は礼儀の正しい人で、私に対して挨拶や感謝の言葉をよくかけてくださる人だった。お礼と言ってお菓子をくださった時もあった。私の話し相手をよくしてくれて、本当によくできたひとであった。そんな彼女に対する裁判だ。何の心配もすることはなく、私の中の閻魔が告げる評決を述べ、いつも通りに裁きを下した。
お前は地獄行きだ。と
四季映姫ヤマザナドゥは誰よりも公平だ。
それは私が閻魔として人を裁く務めを帯びているからだ
我々閻魔は浄玻璃の鏡を使用して、人の過去を見ることができる。
生前その者が何をして、何を考え、何を残してきたか。
誰を愛し、誰に愛され、誰に愛を返してきたか。
その全てを無遠慮に覗き込み、その全てに裁定を下していく。
ある者は私の行いに対して羞恥を覚え、ある者は怒りを感じる。またある者は悲しいのか魂の姿であっても全身を震わせて止めるように求めてくる。
見ないでくれ。
やめてくれ。
どうしてこんなことを。
自分がどうしてこのような目に遭うことが理解できずに訴えかけてくる。あるがままの魂で在るためか、その感情は生きていた時よりも剥き出しで、痛いほどに純粋だ。それを「私」は裁いていく。何も感じず、何ともおもわず。ただただ捌いていく。それはある種の作業のように。閻魔は何も感じることはない。まるで彼らと私たちは違う世界の住人であるかのように。上からではなく外側から判決を下すのだ。閻魔はそれが正しい姿だ。相手に対して感情を揺さぶられて、私情を交えているようでは「ヤマ」失格だ。確固たる基準の中から裁量を下すべきだ。下さなければならない。そういう存在だ。
しかし『私』はどうだろうか。
肝心の『私』は閻魔に相応しいのだろうか。
彼らの叫びを、怨嗟を受けて影響されることはないだろうか。
私は …
私は閻魔なのだ。いついかなる時でも役職を通して自身を見られている。非番であろうとそんなことは関係がない。
私の裁定は此岸で目をかけていたものでも、助けられたものでも、関係は…ない。
結局あの老婆はただ私の話を聞きに来ていただけだった。どこかで私が死後に裁きを与える存在であることを知ったあの人は、ただ私と親しくなることが目的で集会に通っていただけであった。 何かを改善しようとはしないで、親しみから自分に対する裁きが甘くなることを期待していたのだ。
あの人は叫ぶ。
どうしてだ。あなたのお話を聞いたのに。閻魔様だからと足繁く通ったというのに。こんな仕打ちをするというのか。
そうして悲鳴を上げながら地獄に落ちていった。
私は内心愕然としていた。その真実にも結果にも。私は間違っていたのだろうか?あの日貰った一言は間違いの始まりだったのか?
ありがとう。
自分の願いが達成されて。初めてのあの人が立ち去る時に残してくれたあの言葉が嬉しくて。みんなが笑顔になってくれることが誇らしくて。ただそれだけだったのに。
その後も集会に参加していた者の魂がやってくることはあったが、誰も変わってなどいなかった。集会に集まっていた殆どの人は老婆から私の正体を聞いていて、死後安楽を得るために話を聞いている振りをしていたのだ。私の言葉が助けになった人は初めのうちに話したほんの数人だけであった。
私がしていたことは間違いだったのだろうか。私の軽率な行動で彼ら自身の力で善行を積む機会を奪ってしまったのではないだろうか。もし彼らと会うことがなければ地獄行きを宣告することもなかったのではないか。
私と出会った者と出会ってない者との間に不公平が生まれてしまった。私は図らずとも特定の者に肩入れしてしまったのだ。
そのうえ、私が手を差し伸べたものにも明確に差が生まれてしまった。
公平であるはずの閻魔が、自分の意思で、彼らを分けてしまった。
公平であるならば両者に差など生んではいけなかったのに。
むしろ私が説教をして改善した者にこそ、酷な裁定を下さなければならないのではないのだろうか。
私が関わったことで本来受けるはずだった待遇から良くなってしまったのならば…釣り合いが取れない。そうではない者と比べて不公平ではないか。
しかし、閻魔の裁きは「公平」に行われる。世界の外側、理のもとに決定される。そこに私情が入り込む余地など存在しない。
これでは狡いではないか。理を知っている私は人間が死ぬ前に好きなだけ彼らが善行を積めるように仕向けられる。しかも、私がそうしたところで私を罰する者は存在しない。
これでは平等などではない。これでは公平などではない。これでは…。
いっそ人と関わることをやめてしまおうか。
そう考えたところでやめることなどできるはずがなかった。
私は人間に幸せな生を全うしてほしいと願っている。そのためなら微力でも力になろうと決めていた。ただ見守るだけだった以前と違い、自由に動く体を戴いたのだから。
声をかけようとした。諌めようとした。慰めようとした。感謝を伝えようとした。
しかし、石で作られた体では動くことは出来なかった。ただ見守るだけだった。歯痒さだけが募る日々だった。
今の私はあの頃とは違う。今ならできる。彼らの力になることができるのだ。そんな私が彼らを放っておけるだろうか。放っておけるはずがない。これからも人間に教えを説いていくだろう。
私はどうすればよかったのだ。
「公平」な私と『不公平』な私で歪みが生まれていく。悔悟の棒が重く感じる。浄玻璃の鏡を見るのがこわい。
でも、閻魔は淡々と職務をこなしていく。
「ヤマ」だけでなく『四季映姫』も機械のようであればよかったのに。裁きを下すように人を助けるシステムであればよかったのに。
私という人格もなく。
ただ白か黒か。どちらかを示すだけの天秤であればよかったのに。
私はどうすればよいのだろう。
やっぱり人を裁くことには余程の自己嫌悪が付するものなのでしょうね。
映姫が映姫だからこそ悩めること。
でも、決着が欲しかったなと思ってしまいました、