一発の炸裂音と同時に頭が弾けとんで、脳髄が辺り一面に撒き散らされるイメージ。雨のように脳漿が霧の濃い湖に撒かれ、マーブリングされた赤色が広がっていく。それが、古明地こいしの感じた自分の最期だった。
霧の湖。年中濃い霧が水面のみならず辺りの森までも覆っているという変哲もない水たまり。いつの間にかこいしは、その表面に力なく漂っていた。ゴスロリ調の洋服は水を吸って見にくく膨張し、黒い帽子はこいしの頭上を行き来している。第三の目も不気味なテカリを放っているが、瞼は閉ざされ世界を見ることを拒否している。
確かに死んだはずだった。こいしが感じた痛みは紛れもなく本物で、鮮明な映像も頭に残っている。走馬灯もしくは白昼夢を見ているような不思議な気分だ。
掌で自分の頬を触ろうとすると、もちろん空を切らず、あどけなさの残る肌があった。ペタペタと位置を変えても結果は同じだ。首から上はまだあるようだ。
こいしはしばらく呆然としていたが、肌をいたぶる冷たさによって我を取り戻した。着の身着のままの格好で湖に浸かっていることに気づき、慌てて手足でもがいた。
自発的に着衣したままダイブしたわけでもない。湖ごときで気分をあげて飛び込むなどと、そんな幼稚なことをするほどこいしは馬鹿ではない。そもそも、日差しはまだ弱く風神が頑張っているのか風も強い季節の中、普通の感性を持っていれば水浴びをしようとも思うはずがない。
こいしは水を吸って重くなった服に苦労しながら水から上がると、顔を不快感で露骨に歪める。帽子を振って水を飛ばし、袖を絞りながら、こんな濡れるつもりじゃなかったのに、と溜め息をついた。
「あーあ」
わかさぎ姫という人魚がここに棲んでいると聞いて、ペットにできまいかと視察に来ただけだったのだが、とんだ災難に遭ってしまった。しかも目的の人魚を一目見ることもできなかった。こんなことなら来なければよかったと肩を落とすこいしに、慰めるようなそよ風が一つ。
こいしは水滴を垂らしながら高度を上げ、もう一度だけ湖を端から端へ展望した。水面下に人魚のような影は見当たらず、チルノとかいう氷精が蛙に飲み込まれんと抵抗している光景が遠目にあるだけだ。そちらの方は興味がなかった。
こいしはズれていた帽子をかぶり直すと、わざわざチルノたちの視界に入るような軌道で帰ることにした。吹き付ける湖の息吹がこいしの濡れた体を冷やし始め、そこでようやく湿った服が気になり出した。
地霊殿に帰るかして乾いた服に着替えたかったが、地底に帰るのでは到着するまでに体が凍えて風邪を引いてしまう。地上ならばなんとか間に合うだろう、と頼りにできそうな場所を脳内で検索すると、聖という尼がいる寺が最初に思い当たった。
在家とはいえこいしは命蓮寺に属している身、行けば多分何とかしてくれるだろう。小刻みに体を震わせながら、平生より幾ばくか速めに空を飛ぶ。
こいしはチルノの目の前を通りすぎたが、蛙はこいしを目で追っていたのに対し、チルノは全くの無反応だった。相変わらず氷の塊を手にじりじりと間合いを図っているだけ。
「なあんだ、子供だから気づいてくれると思ったのに」
こいしは皮肉抜きに残念そうに呟くと、薄暗いが心地のいい森の上空を通り抜けようとする。
こいしはさとり妖怪の一種だった。さとり妖怪は、第三の目を用いて相手の心を読み取るという忌み嫌われた能力の持ち主なのだが、寂しがりやなこいしはさとり妖怪に生まれたことにひどく絶望し、第三の目を閉ざしてしまった過去を持つ。そうすればもっとみんなと関われると信じての行動だった。だが、さとり妖怪のアイデンティティーを失ったこいしは存在の根幹が大きく変容し、無意識を操る程度の能力へと能力が昇華してしまったことにより、ほとんどの人妖から認識されなくなり、むしろさとり妖怪だった時以上に呵まれることとなってしまったのである。
唯一の肉親である姉やペットですら疎遠になり、イマジナリーフレンドとしてしか存在できないでいることはこいしには耐え難く、時々放浪して誰かに気づいてもらうのをひたすらに待っているのだ。
頭痛は気づかぬ間に消え去っていて、あの強烈な映像のことをこいしはもう気に止めていなかった。
誰かに会わないことを祈りながら進んでいく。気づかれないことを、の方が正確だろうか。こいしを気に止める存在などごく一部だ。だがその一部に、今の無様な格好を見られたくはなかった。
なるべく早く乾燥するように大の字になりながら空を飛んでいると、やけに烏の騒いでいる箇所に差し掛かった。下品な烏が騒ぐときは決まっている。屍肉を漁り、貪り、挙げ句の果てにはその者の魂さえも喰らおうとするときだ。同じ烏でも、天狗に関わる鴉はもっと知性を感じられるのになぜ差が生まれてしまうのか、全く不可解だ。
こいしはあんな烏のことは嫌いだが、どんな人間が死んだのかは気になりだした。自然と烏たちの合唱に吸い込まれていく。人の死を嘲笑うためではなく、野次馬根性とも呼べる、単なる好奇心からの行動だ。
この幻想郷で銃を持っている人間、もしくは妖怪は少ない。一応明治時代に輸入されたり開発された歩兵銃はあるが、一介の猟師が持つにはあまりに高価で、好んで集めているのは一握りの道楽家ぐらいだからだ。妖怪は武器を持つこと自体稀だから言うまでもない。ともかく、人里から出ないでもいいような特殊な人間が死ぬとはいったいどんな状況なのかが知りたかった。
それに、こいしも住環境のせいで銃そのものをあまり見たことがなく、どんなものを持っているのかも関心があった。
馬鹿騒ぎする烏の渦中を降りていくと、仏はすぐに見つかった。探すという行為に及ぶまでもなく、非常に分かりやすいところに鎮座していた。
屍は木の根元に寄りかかっていて、周りの土が赤黒く染まっている。屍の頭上の木の肌にまだ新鮮な血肉がこびりついていて、木を背に撃たれたのだろうと推測できた。
どうやら撃たれたのは妖怪だったようだ。まだ指先が時折動いていて、体全体も大きく痙攣している。地力は強くなかったようで、まだ死んでいないものの、所詮弱小妖怪のこと、すぐに動かなくなるだろう。
成り行きはきっとこうだ。この妖怪は人間を襲おうとしたのだろう。しかし運悪く、標的は獲物を持っていた。あっけなく妖怪は返り討ちにされ、人間はどこかへ逃げていった。そして銃声を聞き付けた烏達が群がってきたものの、死体は妖怪で、食べることを躊躇っていたに違いない。
等という思考はしていたものの、こいしは動かなくなった妖怪を目にしてから、身動きがとれなくなっていた。自然と両手は頭にやられ、珍しく速まる動悸に困惑を隠せないでいる。
きっと偶然なのだろう。驚くことでもないのかもしれない。こんな事例は特異でもないし、むしろよくある話なのかもしれない。こいしはそう願いたかった。
死体の肩を震えながら触ると、ねっとりとした血液が指先に付着した。まだ生暖かく、人肌ぐらいだった。吐き気を催すほど温もりのあるこの感触は、慄然とするほど現実味を帯びていた。
だからこいしは、ありふれた話になることを懇望した。一歩、二歩と死体から離れ、呆然自失としながら背中を向け、手についた鮮血を落とすために湖へ飛び立った。思ったより速度が出ないことに舌打ちをするが、気持ちが逸るだけで状況はなにも変わらない。
こいしはもう一回、自分の首から上があることを確認した。肌色の綺麗な掌で触っても、いかほども安心感は得られなかった。こんなにも不安を煽られるなど、こいしが第三の目を閉ざしてからは初めてのことだった。肌を刺激する清冽だけが、こいしが発狂するのを寸前に押し留めていた。
死体の頭は銃弾によって破裂していた。つまり、首から上が無かったのだ。それは、こいしが湖に落ちることになった原因である幻覚と同じ死因だったのだ。
“偶然の一致”とは、単に低確率の掛け合わせによるものなのだろうか。人と人のかかわり合いの中で引き起こされる偶然は、たまたまという陳腐な言葉で片付けられるのだろうか。
外の世界にとある心理学者がいた。もちろんこいしは彼のことを知っているわけもなく、あくまでも外の世界での話だ。
彼は、彼の想像上の『老賢者』を絵画にし、そこに一枚のカワセミの羽を付けた。翌日散歩をしていると、カワセミの死骸を見つけたが、そこはカワセミの生息地域ではなかったらしい。
もう一つ、その学者が講演会を終えたときのこと。ホテルに戻った彼は、突如として後頭部に異物が差し込まれたような痛みに見舞われた。彼の元に、翌日ある電報が届いた。内容は、彼が治療したことのある元神経症患者がピストル自殺をしたというものだった。撃たれた弾丸は頭蓋骨を貫通せず、後頭部で止まっていたという。
彼はこの経験を『シンクロニシティ』と名付け、“集合的無意識”で生物は繋がっているのではという説を発表したのである。
こいしは無意識の塊といってもいい。普通人妖は意識によって他者との無意識下での繋がりは妨げられているが、こいしは意識という障害がない。つまり、他人の無意識とのパイプが非常に強いということ。射殺された妖怪の痛みを共有した原因はそれだ。
こいしはその日もう一度、同じような体験をすることになる。寺で衣服を乾燥させてもらっていると、突如として呼吸困難に陥った。数分で治まったが、あと少しで昇天しそうなほどの苦しみを味わう羽目になった彼女は、イライラのあまり備え付けの木魚を粉砕するという事件を起こした。その後地霊殿へ帰る途中、人里で男児が水難事故に遭って亡くなったという話をこいしは聞き、かくしてこいしは、自分の状態に感づき始めた。
こいしは宗教戦争に触発されて行った面霊気との決闘以後、集められた注目もほとんど無くなることによりび周りが彼女に気づくことも再びなくなってしまった。一旦享受した甘味は離しがたく、皆に気づいてほしいという願望はさらに強まり、能力の暴走という形で無意識での繋がりが強化されたのだ。
こいしはそんな状況下にあっても、外出をやめたりはしなかった。どんなに痛い目にあっても、苦しみの共有が自分がいるという認識を助けてくれるからだった。
数日後。
珍しく“共鳴現象”が昼過ぎまで起こらないことに驚きつつ、魔法の森を散歩するこいしの姿があった。口には星の刺繍が施されたマスクがしてある。魔法の森にくるんだったら、と住人にプレゼントされたものだ。
魔法の森は幻想郷では珍しい特性を持つ。原生の木々が寄り添って成り立っているこの森は、どこから飛来したのか判然としない未知の胞子が一面に充満していて、魔法の原材料ともなるキノコが自生することで有名だ。常人は数秒呼吸をするだけで立つことすらままならぬ状態に陥ることから、妖怪さえもあまり訪れない。この森に住んでいるということは、相当な変人であることと同義である。
「今は神社にいるのかな?」
マスクの星に触りながら、今から訪れようとしている黒白の格好をしたペット候補(話題にする機会は殆ど無いに等しいがまだ諦めていない)の顔を思い浮かべる。
宙を舞い続ける胞子を感情の無い瞳で流し見つつ、時折不気味に歪む幹を撫でながら奥へと進む。しかし深淵まで臨むつもりはない。ここの住人に会えればいいかなという軽い気持ちだけなので、あの子と行き違って、更に誰とも遭遇しなければ散策を切り上げて他のところに行くだけだ。
目に色とりどりの粉が入り込んできそうで、こいしは帽子を目深くまでかぶり直した。顎をあげて視界を確保し、うろ覚えな道筋をどうにか進むと、胞子の密度がきもち薄くなってきた。
「そろそろだ」
こいしは歩む速度を早め、一人で住むのには大きすぎるが、複数人になると狭すぎる白亜の家を探した。ウサギのようにスキップしながら進んでいくと、目的地はすぐに現れた。
住人の名前は霧雨魔理沙。普通の魔法使い。異常な人間。
ドアのところまで駆け足で行くが、ノックをしようと拳を持ち上げたところでふと動きが止まった。腕は静かに下ろされ、彼女は代わりに耳を木製のドアにあて、中の様子を窺う。
ひたすらな無音が広がっていた。息づかいの一つさえも聞こえない。寝ているのかもしれないが、無意識の働きによって睡眠中に見る夢の気配もなく、どうやら外出中らしい。
「まあしょうがないか」
落胆した様子も見せずそう呟くと、すぐさま踵を返して舞い上がる。この幻想郷は狭いけれど、まだ見ぬ秘境は数多い。新しい発見に満ち溢れている。一人の人間と遊べなくたって、退屈は紛らわせる。
「こいしじゃないか」
「わっ」
意外そうな声色がこいしの耳朶を震わせ、素頓狂な音を発しながら振り向かせた。まず声をかけられたことにこいしは驚いたのだが、声の発生源である正体がわかると納得はすぐにいった。
「よっ」
「おぉ、魔理沙じゃん」
黒を基調とした服装に、白いエプロンドレスを着けていて、被る用途のはずの帽子一杯にキノコを詰めている少女。紛れもない黒白の魔法使い、魔理沙だった。寝不足か、体力切れなのか、顔が少しやつれている。魔理沙はぎこちなく口角を上げると、屋内に入ろうと早足で玄関に近づく。
こいしは空を飛ぶのをやめて、魔理沙のそばに降り立った。
「キノコ集めしてたの?」
「……まあな」
こいしが帽子の中身を覗きこむと、魔理沙は居心地が悪いように身を捻った。疲れていて相手をするのも面倒くさそうな様子ではなく、会話をするのを意図的に遠ざけようとしているようにこいしは思えた。煮え切らない態度の魔理沙に違和感を覚えたこいしだったが、追求をするのはやめておいた。
「別にいいじゃない、私が見たって種類とかわからないし、取らないし」
こいしが頬を膨らませると、魔理沙は苦笑いをこぼした。
「わかったわかった、とりあえずこれ持っててくれ」
魔理沙はキノコいっぱいの帽子を預け、鍵代わりの結界魔法を一時的に解いた。魔理沙が意識できない妖怪に気がついたのは、恐らく家の結界に反応があったからだと、こいしはようやく得心がいった。こいしの能力は生物の無意識をごまかせても、単なるギミックをだますことはできないらしかった。
「まあ入ってけよ」
魔理沙がそう微笑んだ。こいしはその表情に不快感さえ催すほど引っ掛かりを覚えた。明らかに不自然な作り笑顔だったからだ。愛想笑いなどというレベルではない、強がりと形容してもいいだろう。
家にあげたくないのか、いう憶測が浮上するが、だとするならば魔理沙は有無を言わさず追い出すはずだ。自分の意見をぼやかすような性格を魔理沙はしていない。こいしは、彼女の知る由もないところで何かあったのだろうとあたりをつけたっきり、家にお邪魔する間魔理沙を観察することに決めた。
「お邪魔しまーす」
こいしは無邪気そうに言うと、魔理沙と共に屋内に入った。
案外重かった帽子を魔理沙に手渡すと、こいしは乱雑な部屋をぐるりと見回した。蒐集癖のあるこの家の主人は片付けることが致命的に苦手で、整理されていない物が散乱している。以前訪れたときと同じように物があちこちに置かれていて、だが煩雑さは強さを増していた。
やはり独り暮らしとはこういうものなのか、とこいしが勘違いをしていると、二階とこことを忙しなく行き来している魔理沙の姿が気になった。キノコを研究室兼自室に置いてきているだろうことはわかるが、それにしては異常な回数だ。
魔理沙はこいしの視線を気になっていないのか、はたまた気になっているからこその行動なのか、やけに落ち着きがなさそうだった。あたかも、見られてはいけないものを隠しているかのようだった。
魔理沙が持ち去っていくものにはいくつか見覚えがあった。地霊殿の備品等ではないが、普段お目にかかれないもので記憶に残りやすい物だ。
まだちょっと片付けに時間がかかりそうで、こいしは近くにあったソファに腰かけようとするが、その上は満遍なく物置になっていて、仕方なくその一角を脇に下ろして勢いよく座った。
面白味のありそうなものはないかとあちこちに視線を彷徨わせてみるが、ボロボロになった壁紙以外はそそられる物もなかった。無理矢理引き裂いたように剥がれていたり、重たいものをぶつけられたように穴が開いていたりと、まるで狂人が暴れた後の痕跡のようだ。しかも真新しい。魔理沙の前、前の前、歴代の住人がやったにしては、やけに新鮮すぎる。
「……まさかね」
妙な自信を胸に秘めつつ、こいしはそっと手を伸ばす。もし彼女の推測が正しいものならば。魔理沙の運んでいるやつがそうなのだとしたら。魔理沙の表情が意味しているのは。
「悪い悪い」
寸前で魔理沙がこいしの腕をつかんで止めた。こいしが見上げると、魔理沙の張りぼての笑顔があったが、冷や汗が彼女の頬を流れている。こいしに触れられないように焦って止めに入ってきたのは丸分かりだった。
「もう、ちゃんと片付けておいてよね」
「急に来客が来るとは思わなくてさ」
こいしはわざとらしくむすっとした姿勢をとる。魔理沙が注視しなければわからないほど微かに安堵したのを見て、こいしは確信した。確信したが、魔理沙が言わないのなら無理に聞き出すことはないだろう、といつも通り振る舞うことにする。
「で、なんの用だ?」
「いや、特に用はないよ」
あっけらかんとして答えたこいし。嘘ではない。魔法の森に来た当初はその通りだったからだ。魔理沙の顔を見てからはその限りではなくなったが。
魔理沙は額に手をやると、どうしたもんかと視線をさ迷わせる。
「とりあえずお茶でも飲むか? 日本茶ぐらいしかないけど」
「わーい、こいし、日本茶だーいすき」
「……そんなに好きだっけ?」
「可愛かったでしょ?」
「やれやれ……」
猫のように愛くるしく舌を出すこいしを横目に、魔理沙はため息をつきながら水を取りに席を立った。
その背を真剣な目付きで見送りながら、こいしはこの後の予定を組み立てていく。彼女にとってそそられる題材ではないが、調べてみなければならない。こいしの直感がそう告げていた。
餅は餅屋だ。その道を調べるには専門家に頼るのが一番という意味だ。では魔理沙の専門家はというと、誰に当たるのだろう。その答えは、魔理沙と関わりがあるものなら誰でも知っている。
博麗霊夢、神社の巫女だ。幻想郷のシンボルにして、幻想郷の維持には不可欠な役職についているものぐさな少女。霧雨魔理沙は博麗霊夢を目標にして幼い頃から追い続け、両者の関係は十年近くも変わっていない。人間はおろか神をも凌駕する彼女が魔理沙に与えた影響は計り知れず、彼女がいなければ今の魔理沙はいなかったとも言える。霊夢もまた同じで、二人は否定するだろうが、ある種の共同体とこいしは捉えている。簡単に言えば、霊夢こそ、魔理沙に対する餅屋なのだ。
魔理沙の態度に変調をきたしたなら、十中八九霊夢のせいだ。こいしは魔理沙の家を出てすぐさま博麗神社へ向かった。
急がなければならない。タイムリミットはもうそこまで来ている。魔理沙はもう決意をあらかた決めているだろうから。
境内につくとまず面霊気のこころを探したが、今日は神社にいないようだ。寺か仙界に行っているのだろうが、あてにしていた分、こいしは少なからずがっかりした。
賽銭箱の前で箒を持ちながらぼんやりしている霊夢を見つけると、こいしはほぼ垂直に降下し、霊夢の目の前に降り立った。
「こんにちはー」
霊夢の目と鼻の先で勢いよく手を振るが、霊夢の視線はこいしを越えた空にいっている。ああ、またか、とやるせない気持ちになったこいしだが、諦めず、何かいたずらをしてやろうと巫女装束に手を伸ばした。
「なにやってるのよ」
こいしのことを見えていないはずの霊夢がいきなり声を発した。こいしは吃驚して反射的に霊夢の顔を見上げる。独り言かと思っていたのだが、霊夢の瞳は確実にこいしを写している。
「あれ、見えてなかったんじゃないの?」
「最初から見えてたわ。ただボーッとしてただけ」
さすが博霊の巫女だ、とこいしが変に感心していると、霊夢がこいしの頭を帽子越しに撫でた。変な格好で固まっていたこいしも緊張を解き、しばらく為すがままにされた。
「で、何しに来たのよ」
お疲れ気味なのか気の抜けた息を漏らし、こいしに背を見せる霊夢。
「遊びに来てみただけー」
えへへ、と無邪気にこいしが笑うと、霊夢は脱力して竹箒に寄りかかった。
「好きにしなさいな」
お茶を淹れに行くために霊夢が社務所ヘ歩き始めると、こいしは付かず離れずの距離をとって後に続いた。
いつもよりちょっとだけ小さな霊夢の後ろ姿は、彼女の沈んだ心境をよく物語っている。霊夢は今でこそ表に出すまいとしているが、残念ながら、彼女の沈鬱ぶりはさとり能力が無くても手にとるようにわかってしまう。
一体なぜそうなっているのか、経緯を聞かなくても殆ど察せられた。たぶん、魔理沙とも関係があるだろう事は間違いない。
いつもの場所、神社に客(妖怪ばかり)が来たときに通される部屋に着くと、こいしは縁側に腰を下ろして、霊夢は奥にそそくさと入っていってしまった。
こいしは霊夢から何か聞き出せるかどうか自信がなかったが、楽観的なスタンスをとり繕った。事情を訊いたところで、霊夢がこいしに一から十まで教えるかどうかは問題ではなく、霊夢の言葉尻から尻尾でも何でも掴むことができればそれでいいからだ。
霊夢を待っている間、暇潰しになるものはないかを詮索するために振り返ると、早速面白そうなものを発見した。二層からなっていて、下に置かれているかごのような箱は扉付き、その上には小槌が紐で縛り付けられている。地霊殿の倉庫に眠っているお人形遊び用の家そっくりの大きさだった。こいしもまさか霊夢がそんな遊びに手を出すとも思わないが、だからこそ余計に気になる。
四つん這いになって寄ってみると、お飾りでもなく玩具でもなくもっと実用的な雰囲気が漂っていて、もっというならば誰か住んでいるようにも感じられた。
試しにドアの上部の隙間に爪を差し込んで開けてみる。妙なドキドキを覚えつつ中を覗くと、人の形をしていながら、人外の小ささを誇る誰かがベッドの上でスヤスヤと寝息を立てていた。
一瞬こいしも仰天したのだが、朧気ながら小人族も幻想郷に存在していたことを思い出すと、得心がいったように頷いた。
しかし、これほどまでに小さかっただろうか、と記憶を辿っていくが、小人族は平均してせいぜい人間でいう四五六歳の身長なので、こいしが目にしている小人は、彼女にとっては異端的存在として映った。
「起こさないであげてよね」
こいしが小人の寝顔を眺めていると、急須と湯飲みを乗せた盆を持った霊夢が姿を現した。部屋の真ん中に置かれていた卓袱台にそれらを下ろすと、こいしから取り上げるように小さな家を持ち上げて移動させてしまった。
唇を尖らせて不満を包み隠さず表明するこいしを傍目に、霊夢は淡々と茶を注いでいく。
「また変なのが増えたね」
「あんたも変なのの一員でしょうが」
「私は変じゃないよ。いたって普通のさとり妖怪よ?」
「……第三の目」
「イヤン」
「変な声出さないでよ」
取り上げられてしまったのはこいしもショックだが、霊夢の様子からすると遊びに来ているのではなく、住み着いている様子である。こいしは小人を弄るのはまた今度にでもしようと気分を改めた。
そのためにもまず霊夢に揺さぶりをかけた。それとなく魔理沙を彷彿とさせる形容詞を使ったのだが、連想させるのには弱かったか、刹那沈黙があっただけで目立った反応は無し。焦ってはいけないのはこいしもわかっているため、これぐらいでは動揺もしなかった。
「この間の異変から?」
あの小人の一軒家をちらりと見てから霊夢に問いかける。
「そうよ」
「大変だねぇ、異変の度に妖怪に押し掛けられて」
「そう思うんだったらさっさと出て行きなさいよ」
「でもこころの時は結構世話焼いてたじゃない」
「あの子は迷惑かけないもの」
迷惑云々より神社に利益をもたらすかどうかが霊夢の価値観なのでは、とこいしは内心で突っ込みをいれるが、口に出すのが怖く黙っておいた。
「妖怪じゃなかったらいいの?」
「人外じゃなかったらいいのよ。それとお賽銭入れてくれる人は歓迎するわ」
「うん、知ってる」
「じゃあなんで聞いたのよ」
「なんとなく、無意識に」
肩肘をついて額に手を当てる霊夢を見て、こいしはケラケラと笑った。本題はここからだ。
「お賽銭くれなくてもさ、神社が妖怪に乗っ取られてるっていう風評を無くすためにはいいんじゃないの?」
「……やけに親身ね。なにか企んでるの?」
「まさか」
腐っても博麗の巫女、勘が鋭い。洞察力にも優れているようだ。疑り深いじと目でこいしを睨むが、こいしは破顔して誤魔化した。
こいしが元々つかみどころの無いやつだと霊夢は思い出したのか、それ以上の追及はせず、一つ嘆息して机に突っ伏した。
それっきり霊夢は口をつぐんでしまい、有益な情報を聞き出す見込みはなくなってしまった。霊夢自身理由を自覚していないだろうが、魔理沙についての情報を欲しがっているこいしにとっては痛手だ。やっぱりやりにくい相手だとこいしは腕を組む。
ストレートに切り出してもそれほど問題にはなりそうもないが、霊夢がへそを完全に曲げてしまいかねない。そうなることはこいしも絶対に避けたい。
こいしは神社の古ぼけた天井を仰ぐと、卑屈な姉と、姉を取り巻くペットの顔を思い浮かべた。一段落したら久々に家に帰ろう、とホームシックになってがっくりとうなだれる。
そのまま体を背中から倒し、手を広げて寝転ぶと彼女の視界に先程の小屋が入った。そういえば、とこいしはハッとして起き上がる。
小人は霊夢のところに住んでいて、霊夢と時間をかなり共有している。もしかすると、霊夢と一緒にいた魔理沙に何があったのか知っているのかもしれない。そうこいしは思い至り、霊夢を刺激しないようにゆっくりと立ち上がった。
霊夢はまだ寝ているわけではなく、日が出ているうちは小人に接触できなさそうでも、夜中に忍び込めばなんとかなりそうだ。小人が騒ぐことだけがこいしにとっては不安材料だったが、あまり深く考えず気楽にとらえ直し、こいしはその場を立ち去った。
こいしが完全に神社から消え去ってから、霊夢はのっそりと顔をあげた。こいしの飲みかけの湯飲みを見ると、めんどくさそうに頭を掻いて、自分の分を一気に飲み干した。
何かが動く気配はなく、何の音も聞こえないまま霊夢を取り巻く時間が過ぎていく。
「魔理沙、か」
霊夢はほとんど声帯を震わさず呟き、正座をしている自分の足のすぐ隣に視線を移した。
太陽が沈み静寂で獰猛な夜になるまでの間、こいしはいかにして時間を潰そうか悩んでいた。魔理沙との関係の深度に関係なく他のところにも突撃してみるのもよさそうなものではあったが、どうせなら聞き込み調査も平行して行いたい。しかしながら如何せん彼女の交友範囲は広すぎる。一つや二つに絞らなければあまり効果があがりそうにない。
霊夢の次に魔理沙に対する影響が強いのは果たしてどこなのか、とこいしが考えてみたところ、紅魔館が真っ先に浮かんだ。中でも、パチュリーという魔女が候補として強かった。
館の図書館にいる彼女の話が魔理沙の口から出る頻度は高い。山の神社にこいしが訪れたとき、魔理沙をサポートしていたのもパチュリーらしかった。
魔理沙の近くにいてあげたいのも山々だったが、こいしは断腸の思いで堪えると、悪魔の住む紅い館を目指した。
紅魔館の回りには湖があるものだから徒歩ではたどり着けず、こいしも森をすれすれで越える高度まで浮かび上がって進む。
霧が濃くなってきた頃、何日か前に凍えるような温度の大きな水溜まりに落ちたことを思い出し、こいしは身を震わせたが、クスリと小さな笑みを溢して気持ちを切り替えた。
そろそろ深い青色をした大地が見えてくるだろう、と思われたその時だった。
全身が痺れ、ついで感覚が失われた。首筋から鈍い痛みが脳に伝わるが、次第にそれも消えていく。飛ぶこともできなくなったが、こいしは動揺しない。重力に逆おうともしないまま頭から自由落下を始めるが、こいしは体の感覚が戻ってくるのを気長に待ち、程無くして回復したのを皮切りに体勢を立て直した。
湖に落ちたときと同じ現象、とこいしは感覚で理解する。どこか彼女の近くで人が死んだのだ。今回は派手な死因ではなかったのか激しい幻覚はなかったにしろ、自分が死ぬ感覚というのは何回経験しても慣れないようで、こいしは安堵の息を漏らして眼下を眺めた。
元凶はすぐに見つかった。こいしの直下、切り立った崖の下に赤い点が広がっている。
こいしは元凶に白い目を送りながら静かに降りていくと、崖の上に小物が数点置いてあるのを発見した。いくつかを回収して着地すると、無惨な姿を晒す死体をまざまざと見せつけられた。幻想郷ではみられない奇妙な見かけは、外来人であることを示している。顔立ちもまだ幼い。
死骸の首はあらぬ方向に曲がっていて、落下したときに折れてしまったのだろう、とこいしは簡単に推測した。他殺か自殺かは別としてだ。
その判断も、こいしが拾ったもので簡単にできた。脱いだ後きれいに揃えられたスニーカーと呼ばれる変な靴と、白い紙に長々と書かれた文章。乱雑に折られた紙には、両親への感謝と、周りへの愚痴、自責の言葉、そして締めには“ごめんなさい”という謝罪の言葉。
どうせ自殺するのであればもっと他にいい場所があるはずなのだが、いったいどういう経緯があったのだろうか。
こいしは、手紙の書き手である少年を感情の無い瞳で見くだす。死に顔は安らかで、解放感に満ち溢れながらも、寂しさを感じさせる不思議なものだった。
憐憫の感情がこいしに沸き上がるが、その色は一瞬にして消えた。
何事もなかったようにこいしは飛び上がると、まだ違和感がある肩を回したり揉んだりして解しながら紅魔館の姿を探す。物言わぬ骸の方は一度も見返さず、二度と思考にも昇らせなかった。
こいしの頭には、ただひたすら、霧雨魔理沙という脆い存在のことが鎮座していた。極めてアンバランスな人間。強くて脆く、弱くて頑丈。
自身の予感が出来れば外れてくれることをこいしは願いつつも、大して期待はしなかった。
ならばどうして自分はこうして奔走してるのか、こいしにもわからず仕舞いだったが、彼女はあまり深く考えることをせず、ただ面白い逸材だから、という当たり障りの無い回答を得ると、そっと第三の目を撫でた。
逢魔が時を過ぎ、人の息吹が静まり返った頃に妖怪が騒ぎ出す。夜を増すごとに彼らはその雄叫びを強め、丑三つ時になればもはや誰も人外に敵うもの無し。いるとするならば、人間の道を外れた人間ぐらいだろう。
博麗の巫女、博麗霊夢の目を掻い潜って例の小人を見つけるには、なるべく妖怪ですら鳴りを潜める時間帯に訪れなければならなかった。霊夢は不真面目な性格のためか夜間警邏などほとんどしないのだが、用意は周到にしておいて損はない。
心地いい月光が西から来るようになって、こいしは博麗神社の境内に侵入した。正々堂々、鳥居からである。正面からとはいえ物音をたてるわけにもいかず、宙に浮かんで、しきりに背後や側面を気にしながらだが。
こいしはとりあえず賽銭箱の周りをぐるりと回って不審人物がいないことを調べる。人も影も見当たらず、こいしは一旦深呼吸をすると、踵を返して霊夢の寝室に向かった。辺りに霧状となって潜んでいるか軸を越えた世界にでもいない限り問題ないはずだ。
こいしは何度か神社に遊びに来ているし、間取りも主要な場所は大体覚えていた。
昨昼の縁側に着くと、こいしは忍者のような足さばきで板張りの床上がり、障子越しに中の気配を探る。数秒して安全と判断して、摩擦音すら起こさないよう慎重に開け、見事侵入に成功した。
あとは偶然鉢合わせしないことを祈るばかりだ、とこいしは廊下を歩きながら周囲に気を配る。
言ってしまうと身も蓋もないが、こいしは『誰かに気づかれる』ということをあまり気にしなくていい。そういう能力を持っている存在だからだ。無数に生い茂る木々の中の一本、道端に落ちている小石のような存在だ。
読心を捨て、今の姿になってから大分経って彼女もそれに慣れてきているはずなのだが、こいしはあえて人に認識されていたときの行動をやめない。そうでもしないと、自分を認めてくれる数少ない存在からも忘れ去られるような気がして怖いのだ。
一つ二つ角を曲がると、こいしは現れた襖の前で立ち止まった。霊夢が布団を敷いて寝ている部屋であることは今更言うまでもない。生物が活動している気配は無し。時折衣擦れの乾いた音だけが響いてくる。
こいしは伏せた状態になり、両手で少しずつ、少しずつ襖に隙間を開けていく。子供一人通れそうなほど開くと、彼女は体を滑り込ませた。
こいしの予想通り、小人の家は霊夢の枕元にあった。抜き足差し足忍び足を体現しながらこいしが近づくも、当たり前だが巫女はいっこうに目を覚まさない。
こいしは抱きかかえるように一軒家を持つと、侵入より若干速めに退出した。
中にいる小人が起きてしまわないように気を付けながら移動し、こいしはやっとの思いで賽銭箱の前に持ってくることが出来た。額の汗を拭うような仕草をするこいしだが、実際は汗も何もない。
手の爪先で引っ掻けるように扉を開け、中を覗きこむ。なかなか寝心地の良さそうなベッドの上で、いかにも可愛らしい少女が眠りこけていた。こいしは知らないが、少名針妙丸という。少し前の異変の実行犯で、小人族の末裔だ。
こいしはまるで人形を扱うかのように小人の胴体を鷲掴みにすると、やや強引に引き出した。
「っ! え、え、なに!?」
小人が起きてしまうのも無理はない。むしろこいしはそれを狙った。針妙丸は突然身に振りかかってきた衝撃に戸惑いながら、拘束から抜け出そうと身を捩る。
「ちょ、ちょっと! なにするのよ!」
思考の空白から脱出して事態を把握し、彼女を捕まえている真犯人であるこいしを睨む針妙丸。こいしはこれ以上針妙丸が騒がないように、針妙丸の口を手のひらで隠す。サイズの関係上、鼻までも隠れてしまい、呼吸がままならなくなってしまった針妙丸が呻く。こいしはなにふり構わず、ただ針妙丸に黙るよう唇に人差し指をつけ続けた。
酸欠で危篤状態に陥る寸前で針妙丸が沈黙すると、こいしはそこでようやく針妙丸を地上に下ろした。
新しい空気を取り込むことに針妙丸が夢中になっている間、こいしはその様子をずっと眺めていた。ただ待っているのではなく、小人という種族を面白がっているだけのようだが。
「もう、こんなことをして、許さないわよ!」
立ち直った針妙丸は威勢よくこいしに噛みつく。手元に剣があれば突き刺しているほどの勢いだ。霊夢から離れているとはいえ、小人にあまり騒がれたくないこいしはもう一度針妙丸の口を覆おうとする。すると針妙丸はピタッと叫ぶのをやめた。こいしが満足げににこりと笑う。
「で、あ、あなた誰? な、なんのようかしら」
あからさまにこいしを警戒している針妙丸。腰を落として何度も背後を確認する。いざとなれば逃げようとしているのだろう。こいしはそんな彼女の心づもりを無視し、いきなり本題を切り出した。
「ねぇ、昨日霊夢と魔理沙に何があったか教えてくれる?」
針妙丸は目を見開き、ポカンと口を開けてこいしを凝視した。何を言ってるんだこいつは、と目が物を言っている。
無理もないどころか当然だ。互いに自己紹介もなく、しかも初対面の印象は最悪の状況。そんな中、一見全然関係の無さそうな質問が来たのだ。放心もするだろう。
「ねえ、教えてよ」
しかしこいしは有無を言わさない口調で再度問い詰めた。知りたいことを知ることが出来ればそれでいいのが今のこいしだ。名前がどうのこうのなど後回しにしたかった。
無表情のままを貫くこいしを見て切羽詰まった状況を針妙丸も悟ったのか、居住まいをただすと、魔理沙がいつも通り神社を訪ねてきたところから語り始めた。
こいしは、針妙丸から事情を聞き出し、彼女を部屋に送ると、脇目も振らず神社を飛び出した。東の空はまだ暗く、夜明けまでにはまだ時間がかかりそうだ。
この時間帯、普通の人間ならば起きていることはほぼ絶望的だ。しかし魔理沙なら。努力に服を重ねたような人間の霧雨魔理沙なら、日の出まで活動していてもおかしくはない。
何本かの道を越え、森の姿が変容し始めると、魔法の森に着いたことがわかる。こいしが心臓を掴むように服を握ると、クシャリと皺ができる。
また何処かで誰かがどうして死んでいるのだろうか。そんなような痛みがこいしを襲う。こいしは大きく頭を振って、自分の中に沸き起こる最悪の想定を却下しようと試みた。
どれだけ頑張っても不安は増大するばかり。こいしの顔も険しくなる。
魔理沙の家の屋根が見えてくると、こいしはラストスパートをかけた。魔理沙の部屋には電気が灯っている。住人の安否は別として、会ってすぐ話せる状態なのかも知れなかった。
扉の周りの広場に着くと、息切れを起こしながらもこいしは止まることなくドアにしがみつき、息を整えながら拳を振るう。
「魔理沙ーっ!」
名前を呼ぶが、返事はない。先程の霊夢の時同じように静まり返っている。ただ違うのは、生の息づかいが感じられないということだ。今のこいしにとって、最も遭遇したくないサインだ。
不安が焦りへと変容し始める。
「魔理沙、魔理沙!」
ノックを強めたり、回数を増やしても駄目だ。こいしも埒があかないと悟り、強行突破できないかと探りをいれる。小手始めに、まずドアノブを捻ってみた。鍵が空いていればいいのだが、こちら側は店ではなく勝手口の方だ。警備を怠っているはずもない、とこいしも思っていて、次はどうしようかと悩んでいたのだが、
「……」
すんなりと入り口は開かれた。
焦りはさらに加速する。焦燥は確実性を増して、そして諦めへと段階を踏もうとしている。
思考が嫌な方向嫌な方向へと向かうのに必死に抵抗する度に、こいしは自分の頬を抓る。足音を踏み鳴らし階段を駆け上がって、魔理沙の寝室へ直行する。
ドアにはガラスがついていないから寝室の中の様子は確認できない。だが、こいしは隠密に行動するつもりはない。たとえ魔理沙が起きていて、まだ実行するつもりがなくて、彼女に怒られようともこいしは踏み込むつもりだった。
「魔理沙!」
乱暴に扉を開き、こいしが突撃する。
魔理沙は、研究用の机に向かい合って座っていた。髪は掻き回されたようにグシャグシャで、肌も荒れて、十歳ほど老け込んでいるようだった。
来訪者が入ってきた瞬間、魔理沙がゆっくりと首を動かしたことでまだ生きていると分かり、こいしは心の重石が微妙にとれたみたく申し訳程度に弛緩する。
魔理沙の目は、普段の生き生きして、自己中心的で、傲岸不遜な強く透き通ったものとはかけ離れたものと成り果てていた。見るからに諦観で濁りきった瞳。眠気によるものではない、かつて地底に封印され、絶望のどん底に陥れられたばかりの寺の面々のような暗澹たる表情。
魔理沙の部屋は階下の空間よりもおぞましい惨状で、それも整理されていないだけでなく、意図的に荒らした形跡もある。なぜか研究机だけは綺麗さっぱりとしていたが、机の側に大量の紙束が落ちていることから、押しのけて強引に片付けたのだろう。
こいしは魔理沙の正面に置かれた、極彩色の液体の入ったビーカーを凝視する。ああ、やはりか、とこいしは臍を噛む。
「どうしたんだ、こいし」
魔理沙が無理矢理な笑顔をこいしに送ろうとするが、唇の端が動くだけで、ニヒルな笑みとなってしまっている。こいしの視線に気づいた魔理沙は、ビーカーを無意識に隠したがり手の甲で奥へと押しやった。
「なんでもないただの実験薬だぜ」
表情を変えずこいしに説明する魔理沙。釈明にもならないことを魔理沙も承知しているはずだが、せずにはいられなかったのだろう。こいしは魔理沙の言葉に耳を貸さず、魔女の金色をした眼を覗いた。疑念を晴らすためというよりも、真意を確認するために。
「悪いな、ちょうど今から寝ようと思ってたところなんだ」
魔理沙がこいしから眼をそらし、背中を向けて席を立とうと腰を浮かせる。その場をしのがせようとしても、こいしには無意味だった。
「死にたいの?」
こいしは表情を変えず、魔理沙の心に直接届くよう、言葉を濁さずはっきりと訊いた。こんなところでぼやかしたりしたくなかった。
魔理沙の肩が電流を流されたように跳ねる。その反応は、憶測に対する答え合わせに他ならなかった。残念ながらこいしは正解してしまったようで、悔しそうに眉を下げた。
魔理沙は、背を見せたまま振り向かなかった。
「……何を言ってるんだ?」
震えている魔理沙の声が、こいしを苛立たせる。未だにとぼけようとする魔理沙の態度が、彼女の精一杯の虚勢だった。
「それ」
こいしが指差したのは、机に置かれた薬品らしきもの。茸から抽出したのか、既存の薬物を調合して作ったものなのかはその道に無学なこいしには判別つかないが、用途だけはわかる。魔理沙がこいしに見せてくれた書物の中に載っていた特殊な薬品。一滴だけでも命を脅かす、魔物の血。
「死にたいんでしょ?」
魔理沙は微動だにせず、こいしの次の言葉を受け止めようとしているようだった。こいしの方もまた、魔理沙が何かしら独白してくれるのを待っている。
ヘドロよりもねっとりとした障気が部屋を充満していた。
気まずい空気が流れる中、こいしの脳裏によみがえったのは、針妙丸の語った、魔理沙と霊夢に起こった何気ない一日だった。そう、何気ない日常なのだ。
魔理沙が神社に遊びに来て、暇な時間を分かち合って、別れ際に一弾幕。魔理沙が負けて、そのまま解散となっただけのこと。いつもと違ったのは、魔理沙が新スペルを引っ提げて挑んだということ。その新スペルを含めて、霊夢はことごとく捻り潰したということ。魔理沙は帰るとき、泣き顔を必死に見せまいとしていたこと。たったのそれだけだ。
数多の人妖、取り分け魔理沙と親しい人妖の中には、そんな些事で壊れるなんて情けないと呆れる者もいるだろう。これだから人間は、と失望する輩もいるだろう。
しかしこいしは知っている。魔理沙にとって霊夢はどんな存在なのかを。彼女の生涯を、いったいどれだけ霊夢のために費やしてきたのかを。
こいしは知っている。魔理沙という人間は、皆が思っているほど強くないことを。本当は強がりなだけの一人の少女ということを。
魔理沙は生まれつき特殊な力があったのではない。魔法が使えたわけではない。むしろ、適正の時点でマイナス部分があったほどなのだ。それを彼女は覆した。
人間をやめたといっても過言ではないほどの努力を積み重ね、人間を、そして数多の妖怪を越えたのだ。そこまで至る道の険しさは、常人でも簡単に理解できる。
なぜこいしが魔理沙にこんなにも入れ込むのか、この瞬間に彼女は少しだけ理解できた。
さとり妖怪から逃げた自分。自分から逃避したのにも関わらず、誰からも接してくれない現状に嫌気が差して、しかし根本の解決を図ろうとしない。心を読むのがひたすら怖くて、でも第三の眼を閉ざしたままではなにも変わらない。そんな背反に悩んだまま数百年を無駄に過ごした自分。
それに比べて、魔理沙は輝かしいほどに行動して、手にいれているのだ。手が届きそうになければ手が届くように努力、工夫をし、無理そうならさらに努力する。
努力し挫折し立ち直り努力し挫折し立ち直り努力し挫折し立ち直り努力し挫折し立ち直り努力し挫折し立ち直り血を吐くまで努力する魔理沙の姿は、人間の営みを凝縮しているかのようだった。
だから、こいしは、魔理沙に脱落しないでほしいのだ。こいしもいつか、心を閉ざした彼女自身と向き合うために。
「止めにきたのか?」
魔理沙がゆっくりとこいしに向きながら訊く。どっかに行け、という暗黙のメッセージを彼女の表情は伝えていた。映し出されているのは拒絶ではなく、懇願のような気がこいしはした。
悲哀の溢れる魔理沙の目を見て、こいしは内心で一つ大きな息を吐く。何をすべきか、どうしたらいいか、こいしはようやく理解した。
「別に」
「……え?」
気の抜けた声が魔理沙の喉から漏れる。こいしは魔理沙を凝視するのをやめて、ものぐさそうにそっぽを向いた。積み上げられたマジックアイテムの合間を縫って、見晴らしの悪い窓から、胞子の舞う気味の悪い森を眼下に臨んだ。
「死にたいなら勝手に死ねばいい」
魔理沙を一度も見ずに、突き放すような言葉を放つこいしは、興味なさげな顔を露にする。何を言われたのかまだ噛み砕けていないのか、魔理沙は目を点にしたまま固まっている。
「そんなの魔理沙の勝手だしさ」
こいしが横目で魔理沙を見る。そろそろ魔理沙も言葉を飲み込めたのか、みるみるうちに眉間が険しくなっていく。
「ということはつまりあれか、冷やかしに来たんだな?」
「うん」
「っ……帰れ!」
堪忍袋の緒を切らした魔理沙が手近にあったアイテムの瓶をこいしに投げつけるが、目標を大きく逸れて壁に当たって砕け散った。ひどく耳障りな音がして、中に詰まっていた深紅の宝石の数々が床にぶちまけられた。
投げた格好のまま息を切らしている魔理沙を、こいしは冷淡な目で見つめる。こいしにとっても魔理沙にこんな言葉を投げ掛けるのは辛いが、ここで辛抱しないでいつ辛抱するのか、と自らを奮い立たせた。
「お前に何がわかるんだよ!」
血反吐を吐くように魔理沙ががなる。
「私は……私はなぁ、いつか報われるって信じてたんだ。ゴールは見えないけれど、なんとなく辿り着ける気がしてたんだだけどっ! 勝手に夢見て、勝手に挫けて、なんだよこのザマはぁ!」
魔理沙は血がにじむほど下唇を噛んで、拳を握る。いつのまにか魔理沙の怒鳴りは自虐の色を持ち始めた。溜め込んだ鬱憤を晴らすがごとく、誰に向けたものでもなくただ自責のために。こいしはそれでも、魔理沙への態度を変えなかった。
「どうせ無駄なら、どうせ無駄なら……いっそのこと」
「だから勝手にしてって言ってるじゃん。私には関係の無いことなんだし」
こいしは聞くのも煩わしそうに耳を塞ぐと、魔理沙を無視してドアノブに手をかけた。魔理沙の憎悪の込められた視線がこいしを貫くが、さとりをやめた少女は飄々と受け流した。
「なんだよ、何しに来たんだよお前」
「さあ? ただ俯いてグダグダしてる御馬鹿さんを嘲笑いに来たのかもよ?」
「……んだと」
魔理沙の瞳の奥底に、幽かに光が戻った気がした。消えかけの蝋燭のようにひ弱だったが、それがなければ何も始まらないほど大事なものだ。
あともう一押しで、こいしの目論みはほとんど達成される。そのためにも畳み掛けなければならない。こいしが魔理沙の懐に大股で入り込むと、吃驚してのけぞる魔女の眉間にビシッと指を指した。
「ねえ、こんな時、いつもの貴女だったらどうしてるかしら?」
挑発の色を込めて、こいしが魔理沙に囁く。ぽっかり口を開け戸惑っていた魔理沙だったが、不敵に微笑みかけるこいしを見て、
「ああ、弾幕ってやろうじゃねえか」
自分を刺している指を握りしめて獰猛に牙を剥く。魔理沙の表情は怒りで染まっているにも関わらず、沸き上がる高揚感に胸を躍らせている子供のような純粋さも孕んでいた。
これこそがこいしの狙い。枯れ木の流木と化していた魔理沙をよみがえらせるための荒療治。魔理沙に火をつけるのは、魔理沙が腕を磨きに磨いたに弾幕ごっこしかない。
これでもうこいしがやるべき事は終わったも同然、あとは魔理沙次第、そうこいしは思った。
「さあ、表に出よう」
魔法の森が舞台では、胞子の影響もあってか弾幕ごっこがやりにくい。そこで二人は魔理沙邸を少し離れ、なんの特徴もない普通の森の上空で対峙することとなった。
こいしは魔理沙の家にいた頃とはうってかわって満面の笑みを浮かべていた。確かに演技がかった部分もあるが、魔理沙が再燃し始めた嬉しさによるものも大きい。
魔理沙は、こいしから十メートルほど離れて滞空し、エンジンを吹かすように箒に跨がっている。激情に身を任せているとはとても思えず、試合を前にアップをするスポーツマンの姿に近かった。
魔理沙が落ち着きを取り戻してきているのは、こいしでなくてもわかるだろう。十中八九、魔理沙も自覚しているはずだ。
ある分野における魔理沙の単純さ、或いは扱いやすさにこいしは表に出さず苦笑する。だがそれも一興なのだ、と彼女の金髪が風に靡くのを眺める。
勝負に必要なのは一回だけでいい。けじめをつけるための一発勝負。結果がどうであれ、再戦はしない。互いに何も言わなくても通じ合っていた。
「うん、じゃあそろそろ始めよっか」
大きく手を振りながらこいしが呼び掛ける。
「ああ、いいぜ」
魔理沙が唇の端をつり上げながら応える。
嵐の前の静けさ、空白の時間が生まれる。草木の擦れ合う音がしても、鳥が羽ばたいて何枚か羽が散らばっても、二人を穏やかな風が撫でても、微動だにしない。先に動いたら負ける、そんな暗黙のルールが存在しているかのようだった。
やがて幻想郷のどこかから狼の遠吠えが木霊してきた。それを合図に、魔理沙とこいしは全力をもって、相手を叩き潰すためにぶつかり合った。
「なあ、こいし」
「なに?」
「……ありがとな」
魔理沙が、自分の後ろで箒に乗っているこいしにばつが悪そうに礼を言う。二人とも服のほつれが目立ち、破れている部分もあったが、こいしの方が損傷が激しい。最早使い物にならないだろう。
弾幕ごっこは魔理沙の勝利で終わった。こいしもいい線まで行ったのだが、勢いを取り戻した魔理沙には勝てなかったのだ。
当座はこいしが優勢だった。魔理沙も頭が冷えてきたとはいえ、冷静さと精確さは全快ではなく、通常弾幕でさえも凡ミスをしてしまう場面も多かった。
ところが、時間が経つにつれてぎこちなさも徐々に取り除かれていき、こいしが二枚目のスペルカードを宣言するときには以前と変わらない様にまで回復し、そこから先は魔理沙の独壇場となってしまったのである。
「だから言ってるでしょ? 魔理沙がどうしようと私は知らないって」
「……そういやそうだったな」
こいしが相変わらずつんけんした態度をとると、魔理沙は快活な笑いを空に投げ掛けた。雲を完全に振り払い、濁りのない青空を取り戻したように晴れ晴れとしていた。
こいしは魔理沙の笑みを見て、肩の荷がようやく外れた気分だった。これから魔理沙が何をするのか、こいしには本当に預かり知らぬところだが、特に心配する必要もないだろう、と確かな安堵は得ることができる。
この件については思うところはもうない、と魔理沙の背にこいしは顔を埋める。
唯一、今回こいしの不安を必要以上に駆り立てたあの感覚、人の死との無意識下での繋がり、何度も彼女を死の錯覚に追いやったあの感覚はもうこりごりだ、という感想は胸に深く刻まれた。
あれが一生続くのであれば、死んだ方がましとこいしの方が自害しかねない。ここ数日間の体験を思い返すだけでもこいしは心底うんざりしていた。
こいしは他者との繋がりを諦めたわけではない。縁を渇望しているのは変わらない。他にいくらでも方法はあるんじゃないか、と考えているだけだ。
幸い、こいしの回りにはたくさんの友人がいる。こいしと同じように、自分の有り様に悩むものもいる。彼女たちはきっと、こいしの力になってくれるはずだ。
こいしとかかわり合った彼女たちと共に歩んでいけたらな、と目を閉じてこいしは夢想する。
心地いい風が一迅、こいしの髪をさらって溶けて消えていく。
地獄のように長かった夜が明けて、輝かしい明日を予感させる夜明けが訪れた。
霧の湖。年中濃い霧が水面のみならず辺りの森までも覆っているという変哲もない水たまり。いつの間にかこいしは、その表面に力なく漂っていた。ゴスロリ調の洋服は水を吸って見にくく膨張し、黒い帽子はこいしの頭上を行き来している。第三の目も不気味なテカリを放っているが、瞼は閉ざされ世界を見ることを拒否している。
確かに死んだはずだった。こいしが感じた痛みは紛れもなく本物で、鮮明な映像も頭に残っている。走馬灯もしくは白昼夢を見ているような不思議な気分だ。
掌で自分の頬を触ろうとすると、もちろん空を切らず、あどけなさの残る肌があった。ペタペタと位置を変えても結果は同じだ。首から上はまだあるようだ。
こいしはしばらく呆然としていたが、肌をいたぶる冷たさによって我を取り戻した。着の身着のままの格好で湖に浸かっていることに気づき、慌てて手足でもがいた。
自発的に着衣したままダイブしたわけでもない。湖ごときで気分をあげて飛び込むなどと、そんな幼稚なことをするほどこいしは馬鹿ではない。そもそも、日差しはまだ弱く風神が頑張っているのか風も強い季節の中、普通の感性を持っていれば水浴びをしようとも思うはずがない。
こいしは水を吸って重くなった服に苦労しながら水から上がると、顔を不快感で露骨に歪める。帽子を振って水を飛ばし、袖を絞りながら、こんな濡れるつもりじゃなかったのに、と溜め息をついた。
「あーあ」
わかさぎ姫という人魚がここに棲んでいると聞いて、ペットにできまいかと視察に来ただけだったのだが、とんだ災難に遭ってしまった。しかも目的の人魚を一目見ることもできなかった。こんなことなら来なければよかったと肩を落とすこいしに、慰めるようなそよ風が一つ。
こいしは水滴を垂らしながら高度を上げ、もう一度だけ湖を端から端へ展望した。水面下に人魚のような影は見当たらず、チルノとかいう氷精が蛙に飲み込まれんと抵抗している光景が遠目にあるだけだ。そちらの方は興味がなかった。
こいしはズれていた帽子をかぶり直すと、わざわざチルノたちの視界に入るような軌道で帰ることにした。吹き付ける湖の息吹がこいしの濡れた体を冷やし始め、そこでようやく湿った服が気になり出した。
地霊殿に帰るかして乾いた服に着替えたかったが、地底に帰るのでは到着するまでに体が凍えて風邪を引いてしまう。地上ならばなんとか間に合うだろう、と頼りにできそうな場所を脳内で検索すると、聖という尼がいる寺が最初に思い当たった。
在家とはいえこいしは命蓮寺に属している身、行けば多分何とかしてくれるだろう。小刻みに体を震わせながら、平生より幾ばくか速めに空を飛ぶ。
こいしはチルノの目の前を通りすぎたが、蛙はこいしを目で追っていたのに対し、チルノは全くの無反応だった。相変わらず氷の塊を手にじりじりと間合いを図っているだけ。
「なあんだ、子供だから気づいてくれると思ったのに」
こいしは皮肉抜きに残念そうに呟くと、薄暗いが心地のいい森の上空を通り抜けようとする。
こいしはさとり妖怪の一種だった。さとり妖怪は、第三の目を用いて相手の心を読み取るという忌み嫌われた能力の持ち主なのだが、寂しがりやなこいしはさとり妖怪に生まれたことにひどく絶望し、第三の目を閉ざしてしまった過去を持つ。そうすればもっとみんなと関われると信じての行動だった。だが、さとり妖怪のアイデンティティーを失ったこいしは存在の根幹が大きく変容し、無意識を操る程度の能力へと能力が昇華してしまったことにより、ほとんどの人妖から認識されなくなり、むしろさとり妖怪だった時以上に呵まれることとなってしまったのである。
唯一の肉親である姉やペットですら疎遠になり、イマジナリーフレンドとしてしか存在できないでいることはこいしには耐え難く、時々放浪して誰かに気づいてもらうのをひたすらに待っているのだ。
頭痛は気づかぬ間に消え去っていて、あの強烈な映像のことをこいしはもう気に止めていなかった。
誰かに会わないことを祈りながら進んでいく。気づかれないことを、の方が正確だろうか。こいしを気に止める存在などごく一部だ。だがその一部に、今の無様な格好を見られたくはなかった。
なるべく早く乾燥するように大の字になりながら空を飛んでいると、やけに烏の騒いでいる箇所に差し掛かった。下品な烏が騒ぐときは決まっている。屍肉を漁り、貪り、挙げ句の果てにはその者の魂さえも喰らおうとするときだ。同じ烏でも、天狗に関わる鴉はもっと知性を感じられるのになぜ差が生まれてしまうのか、全く不可解だ。
こいしはあんな烏のことは嫌いだが、どんな人間が死んだのかは気になりだした。自然と烏たちの合唱に吸い込まれていく。人の死を嘲笑うためではなく、野次馬根性とも呼べる、単なる好奇心からの行動だ。
この幻想郷で銃を持っている人間、もしくは妖怪は少ない。一応明治時代に輸入されたり開発された歩兵銃はあるが、一介の猟師が持つにはあまりに高価で、好んで集めているのは一握りの道楽家ぐらいだからだ。妖怪は武器を持つこと自体稀だから言うまでもない。ともかく、人里から出ないでもいいような特殊な人間が死ぬとはいったいどんな状況なのかが知りたかった。
それに、こいしも住環境のせいで銃そのものをあまり見たことがなく、どんなものを持っているのかも関心があった。
馬鹿騒ぎする烏の渦中を降りていくと、仏はすぐに見つかった。探すという行為に及ぶまでもなく、非常に分かりやすいところに鎮座していた。
屍は木の根元に寄りかかっていて、周りの土が赤黒く染まっている。屍の頭上の木の肌にまだ新鮮な血肉がこびりついていて、木を背に撃たれたのだろうと推測できた。
どうやら撃たれたのは妖怪だったようだ。まだ指先が時折動いていて、体全体も大きく痙攣している。地力は強くなかったようで、まだ死んでいないものの、所詮弱小妖怪のこと、すぐに動かなくなるだろう。
成り行きはきっとこうだ。この妖怪は人間を襲おうとしたのだろう。しかし運悪く、標的は獲物を持っていた。あっけなく妖怪は返り討ちにされ、人間はどこかへ逃げていった。そして銃声を聞き付けた烏達が群がってきたものの、死体は妖怪で、食べることを躊躇っていたに違いない。
等という思考はしていたものの、こいしは動かなくなった妖怪を目にしてから、身動きがとれなくなっていた。自然と両手は頭にやられ、珍しく速まる動悸に困惑を隠せないでいる。
きっと偶然なのだろう。驚くことでもないのかもしれない。こんな事例は特異でもないし、むしろよくある話なのかもしれない。こいしはそう願いたかった。
死体の肩を震えながら触ると、ねっとりとした血液が指先に付着した。まだ生暖かく、人肌ぐらいだった。吐き気を催すほど温もりのあるこの感触は、慄然とするほど現実味を帯びていた。
だからこいしは、ありふれた話になることを懇望した。一歩、二歩と死体から離れ、呆然自失としながら背中を向け、手についた鮮血を落とすために湖へ飛び立った。思ったより速度が出ないことに舌打ちをするが、気持ちが逸るだけで状況はなにも変わらない。
こいしはもう一回、自分の首から上があることを確認した。肌色の綺麗な掌で触っても、いかほども安心感は得られなかった。こんなにも不安を煽られるなど、こいしが第三の目を閉ざしてからは初めてのことだった。肌を刺激する清冽だけが、こいしが発狂するのを寸前に押し留めていた。
死体の頭は銃弾によって破裂していた。つまり、首から上が無かったのだ。それは、こいしが湖に落ちることになった原因である幻覚と同じ死因だったのだ。
“偶然の一致”とは、単に低確率の掛け合わせによるものなのだろうか。人と人のかかわり合いの中で引き起こされる偶然は、たまたまという陳腐な言葉で片付けられるのだろうか。
外の世界にとある心理学者がいた。もちろんこいしは彼のことを知っているわけもなく、あくまでも外の世界での話だ。
彼は、彼の想像上の『老賢者』を絵画にし、そこに一枚のカワセミの羽を付けた。翌日散歩をしていると、カワセミの死骸を見つけたが、そこはカワセミの生息地域ではなかったらしい。
もう一つ、その学者が講演会を終えたときのこと。ホテルに戻った彼は、突如として後頭部に異物が差し込まれたような痛みに見舞われた。彼の元に、翌日ある電報が届いた。内容は、彼が治療したことのある元神経症患者がピストル自殺をしたというものだった。撃たれた弾丸は頭蓋骨を貫通せず、後頭部で止まっていたという。
彼はこの経験を『シンクロニシティ』と名付け、“集合的無意識”で生物は繋がっているのではという説を発表したのである。
こいしは無意識の塊といってもいい。普通人妖は意識によって他者との無意識下での繋がりは妨げられているが、こいしは意識という障害がない。つまり、他人の無意識とのパイプが非常に強いということ。射殺された妖怪の痛みを共有した原因はそれだ。
こいしはその日もう一度、同じような体験をすることになる。寺で衣服を乾燥させてもらっていると、突如として呼吸困難に陥った。数分で治まったが、あと少しで昇天しそうなほどの苦しみを味わう羽目になった彼女は、イライラのあまり備え付けの木魚を粉砕するという事件を起こした。その後地霊殿へ帰る途中、人里で男児が水難事故に遭って亡くなったという話をこいしは聞き、かくしてこいしは、自分の状態に感づき始めた。
こいしは宗教戦争に触発されて行った面霊気との決闘以後、集められた注目もほとんど無くなることによりび周りが彼女に気づくことも再びなくなってしまった。一旦享受した甘味は離しがたく、皆に気づいてほしいという願望はさらに強まり、能力の暴走という形で無意識での繋がりが強化されたのだ。
こいしはそんな状況下にあっても、外出をやめたりはしなかった。どんなに痛い目にあっても、苦しみの共有が自分がいるという認識を助けてくれるからだった。
数日後。
珍しく“共鳴現象”が昼過ぎまで起こらないことに驚きつつ、魔法の森を散歩するこいしの姿があった。口には星の刺繍が施されたマスクがしてある。魔法の森にくるんだったら、と住人にプレゼントされたものだ。
魔法の森は幻想郷では珍しい特性を持つ。原生の木々が寄り添って成り立っているこの森は、どこから飛来したのか判然としない未知の胞子が一面に充満していて、魔法の原材料ともなるキノコが自生することで有名だ。常人は数秒呼吸をするだけで立つことすらままならぬ状態に陥ることから、妖怪さえもあまり訪れない。この森に住んでいるということは、相当な変人であることと同義である。
「今は神社にいるのかな?」
マスクの星に触りながら、今から訪れようとしている黒白の格好をしたペット候補(話題にする機会は殆ど無いに等しいがまだ諦めていない)の顔を思い浮かべる。
宙を舞い続ける胞子を感情の無い瞳で流し見つつ、時折不気味に歪む幹を撫でながら奥へと進む。しかし深淵まで臨むつもりはない。ここの住人に会えればいいかなという軽い気持ちだけなので、あの子と行き違って、更に誰とも遭遇しなければ散策を切り上げて他のところに行くだけだ。
目に色とりどりの粉が入り込んできそうで、こいしは帽子を目深くまでかぶり直した。顎をあげて視界を確保し、うろ覚えな道筋をどうにか進むと、胞子の密度がきもち薄くなってきた。
「そろそろだ」
こいしは歩む速度を早め、一人で住むのには大きすぎるが、複数人になると狭すぎる白亜の家を探した。ウサギのようにスキップしながら進んでいくと、目的地はすぐに現れた。
住人の名前は霧雨魔理沙。普通の魔法使い。異常な人間。
ドアのところまで駆け足で行くが、ノックをしようと拳を持ち上げたところでふと動きが止まった。腕は静かに下ろされ、彼女は代わりに耳を木製のドアにあて、中の様子を窺う。
ひたすらな無音が広がっていた。息づかいの一つさえも聞こえない。寝ているのかもしれないが、無意識の働きによって睡眠中に見る夢の気配もなく、どうやら外出中らしい。
「まあしょうがないか」
落胆した様子も見せずそう呟くと、すぐさま踵を返して舞い上がる。この幻想郷は狭いけれど、まだ見ぬ秘境は数多い。新しい発見に満ち溢れている。一人の人間と遊べなくたって、退屈は紛らわせる。
「こいしじゃないか」
「わっ」
意外そうな声色がこいしの耳朶を震わせ、素頓狂な音を発しながら振り向かせた。まず声をかけられたことにこいしは驚いたのだが、声の発生源である正体がわかると納得はすぐにいった。
「よっ」
「おぉ、魔理沙じゃん」
黒を基調とした服装に、白いエプロンドレスを着けていて、被る用途のはずの帽子一杯にキノコを詰めている少女。紛れもない黒白の魔法使い、魔理沙だった。寝不足か、体力切れなのか、顔が少しやつれている。魔理沙はぎこちなく口角を上げると、屋内に入ろうと早足で玄関に近づく。
こいしは空を飛ぶのをやめて、魔理沙のそばに降り立った。
「キノコ集めしてたの?」
「……まあな」
こいしが帽子の中身を覗きこむと、魔理沙は居心地が悪いように身を捻った。疲れていて相手をするのも面倒くさそうな様子ではなく、会話をするのを意図的に遠ざけようとしているようにこいしは思えた。煮え切らない態度の魔理沙に違和感を覚えたこいしだったが、追求をするのはやめておいた。
「別にいいじゃない、私が見たって種類とかわからないし、取らないし」
こいしが頬を膨らませると、魔理沙は苦笑いをこぼした。
「わかったわかった、とりあえずこれ持っててくれ」
魔理沙はキノコいっぱいの帽子を預け、鍵代わりの結界魔法を一時的に解いた。魔理沙が意識できない妖怪に気がついたのは、恐らく家の結界に反応があったからだと、こいしはようやく得心がいった。こいしの能力は生物の無意識をごまかせても、単なるギミックをだますことはできないらしかった。
「まあ入ってけよ」
魔理沙がそう微笑んだ。こいしはその表情に不快感さえ催すほど引っ掛かりを覚えた。明らかに不自然な作り笑顔だったからだ。愛想笑いなどというレベルではない、強がりと形容してもいいだろう。
家にあげたくないのか、いう憶測が浮上するが、だとするならば魔理沙は有無を言わさず追い出すはずだ。自分の意見をぼやかすような性格を魔理沙はしていない。こいしは、彼女の知る由もないところで何かあったのだろうとあたりをつけたっきり、家にお邪魔する間魔理沙を観察することに決めた。
「お邪魔しまーす」
こいしは無邪気そうに言うと、魔理沙と共に屋内に入った。
案外重かった帽子を魔理沙に手渡すと、こいしは乱雑な部屋をぐるりと見回した。蒐集癖のあるこの家の主人は片付けることが致命的に苦手で、整理されていない物が散乱している。以前訪れたときと同じように物があちこちに置かれていて、だが煩雑さは強さを増していた。
やはり独り暮らしとはこういうものなのか、とこいしが勘違いをしていると、二階とこことを忙しなく行き来している魔理沙の姿が気になった。キノコを研究室兼自室に置いてきているだろうことはわかるが、それにしては異常な回数だ。
魔理沙はこいしの視線を気になっていないのか、はたまた気になっているからこその行動なのか、やけに落ち着きがなさそうだった。あたかも、見られてはいけないものを隠しているかのようだった。
魔理沙が持ち去っていくものにはいくつか見覚えがあった。地霊殿の備品等ではないが、普段お目にかかれないもので記憶に残りやすい物だ。
まだちょっと片付けに時間がかかりそうで、こいしは近くにあったソファに腰かけようとするが、その上は満遍なく物置になっていて、仕方なくその一角を脇に下ろして勢いよく座った。
面白味のありそうなものはないかとあちこちに視線を彷徨わせてみるが、ボロボロになった壁紙以外はそそられる物もなかった。無理矢理引き裂いたように剥がれていたり、重たいものをぶつけられたように穴が開いていたりと、まるで狂人が暴れた後の痕跡のようだ。しかも真新しい。魔理沙の前、前の前、歴代の住人がやったにしては、やけに新鮮すぎる。
「……まさかね」
妙な自信を胸に秘めつつ、こいしはそっと手を伸ばす。もし彼女の推測が正しいものならば。魔理沙の運んでいるやつがそうなのだとしたら。魔理沙の表情が意味しているのは。
「悪い悪い」
寸前で魔理沙がこいしの腕をつかんで止めた。こいしが見上げると、魔理沙の張りぼての笑顔があったが、冷や汗が彼女の頬を流れている。こいしに触れられないように焦って止めに入ってきたのは丸分かりだった。
「もう、ちゃんと片付けておいてよね」
「急に来客が来るとは思わなくてさ」
こいしはわざとらしくむすっとした姿勢をとる。魔理沙が注視しなければわからないほど微かに安堵したのを見て、こいしは確信した。確信したが、魔理沙が言わないのなら無理に聞き出すことはないだろう、といつも通り振る舞うことにする。
「で、なんの用だ?」
「いや、特に用はないよ」
あっけらかんとして答えたこいし。嘘ではない。魔法の森に来た当初はその通りだったからだ。魔理沙の顔を見てからはその限りではなくなったが。
魔理沙は額に手をやると、どうしたもんかと視線をさ迷わせる。
「とりあえずお茶でも飲むか? 日本茶ぐらいしかないけど」
「わーい、こいし、日本茶だーいすき」
「……そんなに好きだっけ?」
「可愛かったでしょ?」
「やれやれ……」
猫のように愛くるしく舌を出すこいしを横目に、魔理沙はため息をつきながら水を取りに席を立った。
その背を真剣な目付きで見送りながら、こいしはこの後の予定を組み立てていく。彼女にとってそそられる題材ではないが、調べてみなければならない。こいしの直感がそう告げていた。
餅は餅屋だ。その道を調べるには専門家に頼るのが一番という意味だ。では魔理沙の専門家はというと、誰に当たるのだろう。その答えは、魔理沙と関わりがあるものなら誰でも知っている。
博麗霊夢、神社の巫女だ。幻想郷のシンボルにして、幻想郷の維持には不可欠な役職についているものぐさな少女。霧雨魔理沙は博麗霊夢を目標にして幼い頃から追い続け、両者の関係は十年近くも変わっていない。人間はおろか神をも凌駕する彼女が魔理沙に与えた影響は計り知れず、彼女がいなければ今の魔理沙はいなかったとも言える。霊夢もまた同じで、二人は否定するだろうが、ある種の共同体とこいしは捉えている。簡単に言えば、霊夢こそ、魔理沙に対する餅屋なのだ。
魔理沙の態度に変調をきたしたなら、十中八九霊夢のせいだ。こいしは魔理沙の家を出てすぐさま博麗神社へ向かった。
急がなければならない。タイムリミットはもうそこまで来ている。魔理沙はもう決意をあらかた決めているだろうから。
境内につくとまず面霊気のこころを探したが、今日は神社にいないようだ。寺か仙界に行っているのだろうが、あてにしていた分、こいしは少なからずがっかりした。
賽銭箱の前で箒を持ちながらぼんやりしている霊夢を見つけると、こいしはほぼ垂直に降下し、霊夢の目の前に降り立った。
「こんにちはー」
霊夢の目と鼻の先で勢いよく手を振るが、霊夢の視線はこいしを越えた空にいっている。ああ、またか、とやるせない気持ちになったこいしだが、諦めず、何かいたずらをしてやろうと巫女装束に手を伸ばした。
「なにやってるのよ」
こいしのことを見えていないはずの霊夢がいきなり声を発した。こいしは吃驚して反射的に霊夢の顔を見上げる。独り言かと思っていたのだが、霊夢の瞳は確実にこいしを写している。
「あれ、見えてなかったんじゃないの?」
「最初から見えてたわ。ただボーッとしてただけ」
さすが博霊の巫女だ、とこいしが変に感心していると、霊夢がこいしの頭を帽子越しに撫でた。変な格好で固まっていたこいしも緊張を解き、しばらく為すがままにされた。
「で、何しに来たのよ」
お疲れ気味なのか気の抜けた息を漏らし、こいしに背を見せる霊夢。
「遊びに来てみただけー」
えへへ、と無邪気にこいしが笑うと、霊夢は脱力して竹箒に寄りかかった。
「好きにしなさいな」
お茶を淹れに行くために霊夢が社務所ヘ歩き始めると、こいしは付かず離れずの距離をとって後に続いた。
いつもよりちょっとだけ小さな霊夢の後ろ姿は、彼女の沈んだ心境をよく物語っている。霊夢は今でこそ表に出すまいとしているが、残念ながら、彼女の沈鬱ぶりはさとり能力が無くても手にとるようにわかってしまう。
一体なぜそうなっているのか、経緯を聞かなくても殆ど察せられた。たぶん、魔理沙とも関係があるだろう事は間違いない。
いつもの場所、神社に客(妖怪ばかり)が来たときに通される部屋に着くと、こいしは縁側に腰を下ろして、霊夢は奥にそそくさと入っていってしまった。
こいしは霊夢から何か聞き出せるかどうか自信がなかったが、楽観的なスタンスをとり繕った。事情を訊いたところで、霊夢がこいしに一から十まで教えるかどうかは問題ではなく、霊夢の言葉尻から尻尾でも何でも掴むことができればそれでいいからだ。
霊夢を待っている間、暇潰しになるものはないかを詮索するために振り返ると、早速面白そうなものを発見した。二層からなっていて、下に置かれているかごのような箱は扉付き、その上には小槌が紐で縛り付けられている。地霊殿の倉庫に眠っているお人形遊び用の家そっくりの大きさだった。こいしもまさか霊夢がそんな遊びに手を出すとも思わないが、だからこそ余計に気になる。
四つん這いになって寄ってみると、お飾りでもなく玩具でもなくもっと実用的な雰囲気が漂っていて、もっというならば誰か住んでいるようにも感じられた。
試しにドアの上部の隙間に爪を差し込んで開けてみる。妙なドキドキを覚えつつ中を覗くと、人の形をしていながら、人外の小ささを誇る誰かがベッドの上でスヤスヤと寝息を立てていた。
一瞬こいしも仰天したのだが、朧気ながら小人族も幻想郷に存在していたことを思い出すと、得心がいったように頷いた。
しかし、これほどまでに小さかっただろうか、と記憶を辿っていくが、小人族は平均してせいぜい人間でいう四五六歳の身長なので、こいしが目にしている小人は、彼女にとっては異端的存在として映った。
「起こさないであげてよね」
こいしが小人の寝顔を眺めていると、急須と湯飲みを乗せた盆を持った霊夢が姿を現した。部屋の真ん中に置かれていた卓袱台にそれらを下ろすと、こいしから取り上げるように小さな家を持ち上げて移動させてしまった。
唇を尖らせて不満を包み隠さず表明するこいしを傍目に、霊夢は淡々と茶を注いでいく。
「また変なのが増えたね」
「あんたも変なのの一員でしょうが」
「私は変じゃないよ。いたって普通のさとり妖怪よ?」
「……第三の目」
「イヤン」
「変な声出さないでよ」
取り上げられてしまったのはこいしもショックだが、霊夢の様子からすると遊びに来ているのではなく、住み着いている様子である。こいしは小人を弄るのはまた今度にでもしようと気分を改めた。
そのためにもまず霊夢に揺さぶりをかけた。それとなく魔理沙を彷彿とさせる形容詞を使ったのだが、連想させるのには弱かったか、刹那沈黙があっただけで目立った反応は無し。焦ってはいけないのはこいしもわかっているため、これぐらいでは動揺もしなかった。
「この間の異変から?」
あの小人の一軒家をちらりと見てから霊夢に問いかける。
「そうよ」
「大変だねぇ、異変の度に妖怪に押し掛けられて」
「そう思うんだったらさっさと出て行きなさいよ」
「でもこころの時は結構世話焼いてたじゃない」
「あの子は迷惑かけないもの」
迷惑云々より神社に利益をもたらすかどうかが霊夢の価値観なのでは、とこいしは内心で突っ込みをいれるが、口に出すのが怖く黙っておいた。
「妖怪じゃなかったらいいの?」
「人外じゃなかったらいいのよ。それとお賽銭入れてくれる人は歓迎するわ」
「うん、知ってる」
「じゃあなんで聞いたのよ」
「なんとなく、無意識に」
肩肘をついて額に手を当てる霊夢を見て、こいしはケラケラと笑った。本題はここからだ。
「お賽銭くれなくてもさ、神社が妖怪に乗っ取られてるっていう風評を無くすためにはいいんじゃないの?」
「……やけに親身ね。なにか企んでるの?」
「まさか」
腐っても博麗の巫女、勘が鋭い。洞察力にも優れているようだ。疑り深いじと目でこいしを睨むが、こいしは破顔して誤魔化した。
こいしが元々つかみどころの無いやつだと霊夢は思い出したのか、それ以上の追及はせず、一つ嘆息して机に突っ伏した。
それっきり霊夢は口をつぐんでしまい、有益な情報を聞き出す見込みはなくなってしまった。霊夢自身理由を自覚していないだろうが、魔理沙についての情報を欲しがっているこいしにとっては痛手だ。やっぱりやりにくい相手だとこいしは腕を組む。
ストレートに切り出してもそれほど問題にはなりそうもないが、霊夢がへそを完全に曲げてしまいかねない。そうなることはこいしも絶対に避けたい。
こいしは神社の古ぼけた天井を仰ぐと、卑屈な姉と、姉を取り巻くペットの顔を思い浮かべた。一段落したら久々に家に帰ろう、とホームシックになってがっくりとうなだれる。
そのまま体を背中から倒し、手を広げて寝転ぶと彼女の視界に先程の小屋が入った。そういえば、とこいしはハッとして起き上がる。
小人は霊夢のところに住んでいて、霊夢と時間をかなり共有している。もしかすると、霊夢と一緒にいた魔理沙に何があったのか知っているのかもしれない。そうこいしは思い至り、霊夢を刺激しないようにゆっくりと立ち上がった。
霊夢はまだ寝ているわけではなく、日が出ているうちは小人に接触できなさそうでも、夜中に忍び込めばなんとかなりそうだ。小人が騒ぐことだけがこいしにとっては不安材料だったが、あまり深く考えず気楽にとらえ直し、こいしはその場を立ち去った。
こいしが完全に神社から消え去ってから、霊夢はのっそりと顔をあげた。こいしの飲みかけの湯飲みを見ると、めんどくさそうに頭を掻いて、自分の分を一気に飲み干した。
何かが動く気配はなく、何の音も聞こえないまま霊夢を取り巻く時間が過ぎていく。
「魔理沙、か」
霊夢はほとんど声帯を震わさず呟き、正座をしている自分の足のすぐ隣に視線を移した。
太陽が沈み静寂で獰猛な夜になるまでの間、こいしはいかにして時間を潰そうか悩んでいた。魔理沙との関係の深度に関係なく他のところにも突撃してみるのもよさそうなものではあったが、どうせなら聞き込み調査も平行して行いたい。しかしながら如何せん彼女の交友範囲は広すぎる。一つや二つに絞らなければあまり効果があがりそうにない。
霊夢の次に魔理沙に対する影響が強いのは果たしてどこなのか、とこいしが考えてみたところ、紅魔館が真っ先に浮かんだ。中でも、パチュリーという魔女が候補として強かった。
館の図書館にいる彼女の話が魔理沙の口から出る頻度は高い。山の神社にこいしが訪れたとき、魔理沙をサポートしていたのもパチュリーらしかった。
魔理沙の近くにいてあげたいのも山々だったが、こいしは断腸の思いで堪えると、悪魔の住む紅い館を目指した。
紅魔館の回りには湖があるものだから徒歩ではたどり着けず、こいしも森をすれすれで越える高度まで浮かび上がって進む。
霧が濃くなってきた頃、何日か前に凍えるような温度の大きな水溜まりに落ちたことを思い出し、こいしは身を震わせたが、クスリと小さな笑みを溢して気持ちを切り替えた。
そろそろ深い青色をした大地が見えてくるだろう、と思われたその時だった。
全身が痺れ、ついで感覚が失われた。首筋から鈍い痛みが脳に伝わるが、次第にそれも消えていく。飛ぶこともできなくなったが、こいしは動揺しない。重力に逆おうともしないまま頭から自由落下を始めるが、こいしは体の感覚が戻ってくるのを気長に待ち、程無くして回復したのを皮切りに体勢を立て直した。
湖に落ちたときと同じ現象、とこいしは感覚で理解する。どこか彼女の近くで人が死んだのだ。今回は派手な死因ではなかったのか激しい幻覚はなかったにしろ、自分が死ぬ感覚というのは何回経験しても慣れないようで、こいしは安堵の息を漏らして眼下を眺めた。
元凶はすぐに見つかった。こいしの直下、切り立った崖の下に赤い点が広がっている。
こいしは元凶に白い目を送りながら静かに降りていくと、崖の上に小物が数点置いてあるのを発見した。いくつかを回収して着地すると、無惨な姿を晒す死体をまざまざと見せつけられた。幻想郷ではみられない奇妙な見かけは、外来人であることを示している。顔立ちもまだ幼い。
死骸の首はあらぬ方向に曲がっていて、落下したときに折れてしまったのだろう、とこいしは簡単に推測した。他殺か自殺かは別としてだ。
その判断も、こいしが拾ったもので簡単にできた。脱いだ後きれいに揃えられたスニーカーと呼ばれる変な靴と、白い紙に長々と書かれた文章。乱雑に折られた紙には、両親への感謝と、周りへの愚痴、自責の言葉、そして締めには“ごめんなさい”という謝罪の言葉。
どうせ自殺するのであればもっと他にいい場所があるはずなのだが、いったいどういう経緯があったのだろうか。
こいしは、手紙の書き手である少年を感情の無い瞳で見くだす。死に顔は安らかで、解放感に満ち溢れながらも、寂しさを感じさせる不思議なものだった。
憐憫の感情がこいしに沸き上がるが、その色は一瞬にして消えた。
何事もなかったようにこいしは飛び上がると、まだ違和感がある肩を回したり揉んだりして解しながら紅魔館の姿を探す。物言わぬ骸の方は一度も見返さず、二度と思考にも昇らせなかった。
こいしの頭には、ただひたすら、霧雨魔理沙という脆い存在のことが鎮座していた。極めてアンバランスな人間。強くて脆く、弱くて頑丈。
自身の予感が出来れば外れてくれることをこいしは願いつつも、大して期待はしなかった。
ならばどうして自分はこうして奔走してるのか、こいしにもわからず仕舞いだったが、彼女はあまり深く考えることをせず、ただ面白い逸材だから、という当たり障りの無い回答を得ると、そっと第三の目を撫でた。
逢魔が時を過ぎ、人の息吹が静まり返った頃に妖怪が騒ぎ出す。夜を増すごとに彼らはその雄叫びを強め、丑三つ時になればもはや誰も人外に敵うもの無し。いるとするならば、人間の道を外れた人間ぐらいだろう。
博麗の巫女、博麗霊夢の目を掻い潜って例の小人を見つけるには、なるべく妖怪ですら鳴りを潜める時間帯に訪れなければならなかった。霊夢は不真面目な性格のためか夜間警邏などほとんどしないのだが、用意は周到にしておいて損はない。
心地いい月光が西から来るようになって、こいしは博麗神社の境内に侵入した。正々堂々、鳥居からである。正面からとはいえ物音をたてるわけにもいかず、宙に浮かんで、しきりに背後や側面を気にしながらだが。
こいしはとりあえず賽銭箱の周りをぐるりと回って不審人物がいないことを調べる。人も影も見当たらず、こいしは一旦深呼吸をすると、踵を返して霊夢の寝室に向かった。辺りに霧状となって潜んでいるか軸を越えた世界にでもいない限り問題ないはずだ。
こいしは何度か神社に遊びに来ているし、間取りも主要な場所は大体覚えていた。
昨昼の縁側に着くと、こいしは忍者のような足さばきで板張りの床上がり、障子越しに中の気配を探る。数秒して安全と判断して、摩擦音すら起こさないよう慎重に開け、見事侵入に成功した。
あとは偶然鉢合わせしないことを祈るばかりだ、とこいしは廊下を歩きながら周囲に気を配る。
言ってしまうと身も蓋もないが、こいしは『誰かに気づかれる』ということをあまり気にしなくていい。そういう能力を持っている存在だからだ。無数に生い茂る木々の中の一本、道端に落ちている小石のような存在だ。
読心を捨て、今の姿になってから大分経って彼女もそれに慣れてきているはずなのだが、こいしはあえて人に認識されていたときの行動をやめない。そうでもしないと、自分を認めてくれる数少ない存在からも忘れ去られるような気がして怖いのだ。
一つ二つ角を曲がると、こいしは現れた襖の前で立ち止まった。霊夢が布団を敷いて寝ている部屋であることは今更言うまでもない。生物が活動している気配は無し。時折衣擦れの乾いた音だけが響いてくる。
こいしは伏せた状態になり、両手で少しずつ、少しずつ襖に隙間を開けていく。子供一人通れそうなほど開くと、彼女は体を滑り込ませた。
こいしの予想通り、小人の家は霊夢の枕元にあった。抜き足差し足忍び足を体現しながらこいしが近づくも、当たり前だが巫女はいっこうに目を覚まさない。
こいしは抱きかかえるように一軒家を持つと、侵入より若干速めに退出した。
中にいる小人が起きてしまわないように気を付けながら移動し、こいしはやっとの思いで賽銭箱の前に持ってくることが出来た。額の汗を拭うような仕草をするこいしだが、実際は汗も何もない。
手の爪先で引っ掻けるように扉を開け、中を覗きこむ。なかなか寝心地の良さそうなベッドの上で、いかにも可愛らしい少女が眠りこけていた。こいしは知らないが、少名針妙丸という。少し前の異変の実行犯で、小人族の末裔だ。
こいしはまるで人形を扱うかのように小人の胴体を鷲掴みにすると、やや強引に引き出した。
「っ! え、え、なに!?」
小人が起きてしまうのも無理はない。むしろこいしはそれを狙った。針妙丸は突然身に振りかかってきた衝撃に戸惑いながら、拘束から抜け出そうと身を捩る。
「ちょ、ちょっと! なにするのよ!」
思考の空白から脱出して事態を把握し、彼女を捕まえている真犯人であるこいしを睨む針妙丸。こいしはこれ以上針妙丸が騒がないように、針妙丸の口を手のひらで隠す。サイズの関係上、鼻までも隠れてしまい、呼吸がままならなくなってしまった針妙丸が呻く。こいしはなにふり構わず、ただ針妙丸に黙るよう唇に人差し指をつけ続けた。
酸欠で危篤状態に陥る寸前で針妙丸が沈黙すると、こいしはそこでようやく針妙丸を地上に下ろした。
新しい空気を取り込むことに針妙丸が夢中になっている間、こいしはその様子をずっと眺めていた。ただ待っているのではなく、小人という種族を面白がっているだけのようだが。
「もう、こんなことをして、許さないわよ!」
立ち直った針妙丸は威勢よくこいしに噛みつく。手元に剣があれば突き刺しているほどの勢いだ。霊夢から離れているとはいえ、小人にあまり騒がれたくないこいしはもう一度針妙丸の口を覆おうとする。すると針妙丸はピタッと叫ぶのをやめた。こいしが満足げににこりと笑う。
「で、あ、あなた誰? な、なんのようかしら」
あからさまにこいしを警戒している針妙丸。腰を落として何度も背後を確認する。いざとなれば逃げようとしているのだろう。こいしはそんな彼女の心づもりを無視し、いきなり本題を切り出した。
「ねぇ、昨日霊夢と魔理沙に何があったか教えてくれる?」
針妙丸は目を見開き、ポカンと口を開けてこいしを凝視した。何を言ってるんだこいつは、と目が物を言っている。
無理もないどころか当然だ。互いに自己紹介もなく、しかも初対面の印象は最悪の状況。そんな中、一見全然関係の無さそうな質問が来たのだ。放心もするだろう。
「ねえ、教えてよ」
しかしこいしは有無を言わさない口調で再度問い詰めた。知りたいことを知ることが出来ればそれでいいのが今のこいしだ。名前がどうのこうのなど後回しにしたかった。
無表情のままを貫くこいしを見て切羽詰まった状況を針妙丸も悟ったのか、居住まいをただすと、魔理沙がいつも通り神社を訪ねてきたところから語り始めた。
こいしは、針妙丸から事情を聞き出し、彼女を部屋に送ると、脇目も振らず神社を飛び出した。東の空はまだ暗く、夜明けまでにはまだ時間がかかりそうだ。
この時間帯、普通の人間ならば起きていることはほぼ絶望的だ。しかし魔理沙なら。努力に服を重ねたような人間の霧雨魔理沙なら、日の出まで活動していてもおかしくはない。
何本かの道を越え、森の姿が変容し始めると、魔法の森に着いたことがわかる。こいしが心臓を掴むように服を握ると、クシャリと皺ができる。
また何処かで誰かがどうして死んでいるのだろうか。そんなような痛みがこいしを襲う。こいしは大きく頭を振って、自分の中に沸き起こる最悪の想定を却下しようと試みた。
どれだけ頑張っても不安は増大するばかり。こいしの顔も険しくなる。
魔理沙の家の屋根が見えてくると、こいしはラストスパートをかけた。魔理沙の部屋には電気が灯っている。住人の安否は別として、会ってすぐ話せる状態なのかも知れなかった。
扉の周りの広場に着くと、息切れを起こしながらもこいしは止まることなくドアにしがみつき、息を整えながら拳を振るう。
「魔理沙ーっ!」
名前を呼ぶが、返事はない。先程の霊夢の時同じように静まり返っている。ただ違うのは、生の息づかいが感じられないということだ。今のこいしにとって、最も遭遇したくないサインだ。
不安が焦りへと変容し始める。
「魔理沙、魔理沙!」
ノックを強めたり、回数を増やしても駄目だ。こいしも埒があかないと悟り、強行突破できないかと探りをいれる。小手始めに、まずドアノブを捻ってみた。鍵が空いていればいいのだが、こちら側は店ではなく勝手口の方だ。警備を怠っているはずもない、とこいしも思っていて、次はどうしようかと悩んでいたのだが、
「……」
すんなりと入り口は開かれた。
焦りはさらに加速する。焦燥は確実性を増して、そして諦めへと段階を踏もうとしている。
思考が嫌な方向嫌な方向へと向かうのに必死に抵抗する度に、こいしは自分の頬を抓る。足音を踏み鳴らし階段を駆け上がって、魔理沙の寝室へ直行する。
ドアにはガラスがついていないから寝室の中の様子は確認できない。だが、こいしは隠密に行動するつもりはない。たとえ魔理沙が起きていて、まだ実行するつもりがなくて、彼女に怒られようともこいしは踏み込むつもりだった。
「魔理沙!」
乱暴に扉を開き、こいしが突撃する。
魔理沙は、研究用の机に向かい合って座っていた。髪は掻き回されたようにグシャグシャで、肌も荒れて、十歳ほど老け込んでいるようだった。
来訪者が入ってきた瞬間、魔理沙がゆっくりと首を動かしたことでまだ生きていると分かり、こいしは心の重石が微妙にとれたみたく申し訳程度に弛緩する。
魔理沙の目は、普段の生き生きして、自己中心的で、傲岸不遜な強く透き通ったものとはかけ離れたものと成り果てていた。見るからに諦観で濁りきった瞳。眠気によるものではない、かつて地底に封印され、絶望のどん底に陥れられたばかりの寺の面々のような暗澹たる表情。
魔理沙の部屋は階下の空間よりもおぞましい惨状で、それも整理されていないだけでなく、意図的に荒らした形跡もある。なぜか研究机だけは綺麗さっぱりとしていたが、机の側に大量の紙束が落ちていることから、押しのけて強引に片付けたのだろう。
こいしは魔理沙の正面に置かれた、極彩色の液体の入ったビーカーを凝視する。ああ、やはりか、とこいしは臍を噛む。
「どうしたんだ、こいし」
魔理沙が無理矢理な笑顔をこいしに送ろうとするが、唇の端が動くだけで、ニヒルな笑みとなってしまっている。こいしの視線に気づいた魔理沙は、ビーカーを無意識に隠したがり手の甲で奥へと押しやった。
「なんでもないただの実験薬だぜ」
表情を変えずこいしに説明する魔理沙。釈明にもならないことを魔理沙も承知しているはずだが、せずにはいられなかったのだろう。こいしは魔理沙の言葉に耳を貸さず、魔女の金色をした眼を覗いた。疑念を晴らすためというよりも、真意を確認するために。
「悪いな、ちょうど今から寝ようと思ってたところなんだ」
魔理沙がこいしから眼をそらし、背中を向けて席を立とうと腰を浮かせる。その場をしのがせようとしても、こいしには無意味だった。
「死にたいの?」
こいしは表情を変えず、魔理沙の心に直接届くよう、言葉を濁さずはっきりと訊いた。こんなところでぼやかしたりしたくなかった。
魔理沙の肩が電流を流されたように跳ねる。その反応は、憶測に対する答え合わせに他ならなかった。残念ながらこいしは正解してしまったようで、悔しそうに眉を下げた。
魔理沙は、背を見せたまま振り向かなかった。
「……何を言ってるんだ?」
震えている魔理沙の声が、こいしを苛立たせる。未だにとぼけようとする魔理沙の態度が、彼女の精一杯の虚勢だった。
「それ」
こいしが指差したのは、机に置かれた薬品らしきもの。茸から抽出したのか、既存の薬物を調合して作ったものなのかはその道に無学なこいしには判別つかないが、用途だけはわかる。魔理沙がこいしに見せてくれた書物の中に載っていた特殊な薬品。一滴だけでも命を脅かす、魔物の血。
「死にたいんでしょ?」
魔理沙は微動だにせず、こいしの次の言葉を受け止めようとしているようだった。こいしの方もまた、魔理沙が何かしら独白してくれるのを待っている。
ヘドロよりもねっとりとした障気が部屋を充満していた。
気まずい空気が流れる中、こいしの脳裏によみがえったのは、針妙丸の語った、魔理沙と霊夢に起こった何気ない一日だった。そう、何気ない日常なのだ。
魔理沙が神社に遊びに来て、暇な時間を分かち合って、別れ際に一弾幕。魔理沙が負けて、そのまま解散となっただけのこと。いつもと違ったのは、魔理沙が新スペルを引っ提げて挑んだということ。その新スペルを含めて、霊夢はことごとく捻り潰したということ。魔理沙は帰るとき、泣き顔を必死に見せまいとしていたこと。たったのそれだけだ。
数多の人妖、取り分け魔理沙と親しい人妖の中には、そんな些事で壊れるなんて情けないと呆れる者もいるだろう。これだから人間は、と失望する輩もいるだろう。
しかしこいしは知っている。魔理沙にとって霊夢はどんな存在なのかを。彼女の生涯を、いったいどれだけ霊夢のために費やしてきたのかを。
こいしは知っている。魔理沙という人間は、皆が思っているほど強くないことを。本当は強がりなだけの一人の少女ということを。
魔理沙は生まれつき特殊な力があったのではない。魔法が使えたわけではない。むしろ、適正の時点でマイナス部分があったほどなのだ。それを彼女は覆した。
人間をやめたといっても過言ではないほどの努力を積み重ね、人間を、そして数多の妖怪を越えたのだ。そこまで至る道の険しさは、常人でも簡単に理解できる。
なぜこいしが魔理沙にこんなにも入れ込むのか、この瞬間に彼女は少しだけ理解できた。
さとり妖怪から逃げた自分。自分から逃避したのにも関わらず、誰からも接してくれない現状に嫌気が差して、しかし根本の解決を図ろうとしない。心を読むのがひたすら怖くて、でも第三の眼を閉ざしたままではなにも変わらない。そんな背反に悩んだまま数百年を無駄に過ごした自分。
それに比べて、魔理沙は輝かしいほどに行動して、手にいれているのだ。手が届きそうになければ手が届くように努力、工夫をし、無理そうならさらに努力する。
努力し挫折し立ち直り努力し挫折し立ち直り努力し挫折し立ち直り努力し挫折し立ち直り努力し挫折し立ち直り血を吐くまで努力する魔理沙の姿は、人間の営みを凝縮しているかのようだった。
だから、こいしは、魔理沙に脱落しないでほしいのだ。こいしもいつか、心を閉ざした彼女自身と向き合うために。
「止めにきたのか?」
魔理沙がゆっくりとこいしに向きながら訊く。どっかに行け、という暗黙のメッセージを彼女の表情は伝えていた。映し出されているのは拒絶ではなく、懇願のような気がこいしはした。
悲哀の溢れる魔理沙の目を見て、こいしは内心で一つ大きな息を吐く。何をすべきか、どうしたらいいか、こいしはようやく理解した。
「別に」
「……え?」
気の抜けた声が魔理沙の喉から漏れる。こいしは魔理沙を凝視するのをやめて、ものぐさそうにそっぽを向いた。積み上げられたマジックアイテムの合間を縫って、見晴らしの悪い窓から、胞子の舞う気味の悪い森を眼下に臨んだ。
「死にたいなら勝手に死ねばいい」
魔理沙を一度も見ずに、突き放すような言葉を放つこいしは、興味なさげな顔を露にする。何を言われたのかまだ噛み砕けていないのか、魔理沙は目を点にしたまま固まっている。
「そんなの魔理沙の勝手だしさ」
こいしが横目で魔理沙を見る。そろそろ魔理沙も言葉を飲み込めたのか、みるみるうちに眉間が険しくなっていく。
「ということはつまりあれか、冷やかしに来たんだな?」
「うん」
「っ……帰れ!」
堪忍袋の緒を切らした魔理沙が手近にあったアイテムの瓶をこいしに投げつけるが、目標を大きく逸れて壁に当たって砕け散った。ひどく耳障りな音がして、中に詰まっていた深紅の宝石の数々が床にぶちまけられた。
投げた格好のまま息を切らしている魔理沙を、こいしは冷淡な目で見つめる。こいしにとっても魔理沙にこんな言葉を投げ掛けるのは辛いが、ここで辛抱しないでいつ辛抱するのか、と自らを奮い立たせた。
「お前に何がわかるんだよ!」
血反吐を吐くように魔理沙ががなる。
「私は……私はなぁ、いつか報われるって信じてたんだ。ゴールは見えないけれど、なんとなく辿り着ける気がしてたんだだけどっ! 勝手に夢見て、勝手に挫けて、なんだよこのザマはぁ!」
魔理沙は血がにじむほど下唇を噛んで、拳を握る。いつのまにか魔理沙の怒鳴りは自虐の色を持ち始めた。溜め込んだ鬱憤を晴らすがごとく、誰に向けたものでもなくただ自責のために。こいしはそれでも、魔理沙への態度を変えなかった。
「どうせ無駄なら、どうせ無駄なら……いっそのこと」
「だから勝手にしてって言ってるじゃん。私には関係の無いことなんだし」
こいしは聞くのも煩わしそうに耳を塞ぐと、魔理沙を無視してドアノブに手をかけた。魔理沙の憎悪の込められた視線がこいしを貫くが、さとりをやめた少女は飄々と受け流した。
「なんだよ、何しに来たんだよお前」
「さあ? ただ俯いてグダグダしてる御馬鹿さんを嘲笑いに来たのかもよ?」
「……んだと」
魔理沙の瞳の奥底に、幽かに光が戻った気がした。消えかけの蝋燭のようにひ弱だったが、それがなければ何も始まらないほど大事なものだ。
あともう一押しで、こいしの目論みはほとんど達成される。そのためにも畳み掛けなければならない。こいしが魔理沙の懐に大股で入り込むと、吃驚してのけぞる魔女の眉間にビシッと指を指した。
「ねえ、こんな時、いつもの貴女だったらどうしてるかしら?」
挑発の色を込めて、こいしが魔理沙に囁く。ぽっかり口を開け戸惑っていた魔理沙だったが、不敵に微笑みかけるこいしを見て、
「ああ、弾幕ってやろうじゃねえか」
自分を刺している指を握りしめて獰猛に牙を剥く。魔理沙の表情は怒りで染まっているにも関わらず、沸き上がる高揚感に胸を躍らせている子供のような純粋さも孕んでいた。
これこそがこいしの狙い。枯れ木の流木と化していた魔理沙をよみがえらせるための荒療治。魔理沙に火をつけるのは、魔理沙が腕を磨きに磨いたに弾幕ごっこしかない。
これでもうこいしがやるべき事は終わったも同然、あとは魔理沙次第、そうこいしは思った。
「さあ、表に出よう」
魔法の森が舞台では、胞子の影響もあってか弾幕ごっこがやりにくい。そこで二人は魔理沙邸を少し離れ、なんの特徴もない普通の森の上空で対峙することとなった。
こいしは魔理沙の家にいた頃とはうってかわって満面の笑みを浮かべていた。確かに演技がかった部分もあるが、魔理沙が再燃し始めた嬉しさによるものも大きい。
魔理沙は、こいしから十メートルほど離れて滞空し、エンジンを吹かすように箒に跨がっている。激情に身を任せているとはとても思えず、試合を前にアップをするスポーツマンの姿に近かった。
魔理沙が落ち着きを取り戻してきているのは、こいしでなくてもわかるだろう。十中八九、魔理沙も自覚しているはずだ。
ある分野における魔理沙の単純さ、或いは扱いやすさにこいしは表に出さず苦笑する。だがそれも一興なのだ、と彼女の金髪が風に靡くのを眺める。
勝負に必要なのは一回だけでいい。けじめをつけるための一発勝負。結果がどうであれ、再戦はしない。互いに何も言わなくても通じ合っていた。
「うん、じゃあそろそろ始めよっか」
大きく手を振りながらこいしが呼び掛ける。
「ああ、いいぜ」
魔理沙が唇の端をつり上げながら応える。
嵐の前の静けさ、空白の時間が生まれる。草木の擦れ合う音がしても、鳥が羽ばたいて何枚か羽が散らばっても、二人を穏やかな風が撫でても、微動だにしない。先に動いたら負ける、そんな暗黙のルールが存在しているかのようだった。
やがて幻想郷のどこかから狼の遠吠えが木霊してきた。それを合図に、魔理沙とこいしは全力をもって、相手を叩き潰すためにぶつかり合った。
「なあ、こいし」
「なに?」
「……ありがとな」
魔理沙が、自分の後ろで箒に乗っているこいしにばつが悪そうに礼を言う。二人とも服のほつれが目立ち、破れている部分もあったが、こいしの方が損傷が激しい。最早使い物にならないだろう。
弾幕ごっこは魔理沙の勝利で終わった。こいしもいい線まで行ったのだが、勢いを取り戻した魔理沙には勝てなかったのだ。
当座はこいしが優勢だった。魔理沙も頭が冷えてきたとはいえ、冷静さと精確さは全快ではなく、通常弾幕でさえも凡ミスをしてしまう場面も多かった。
ところが、時間が経つにつれてぎこちなさも徐々に取り除かれていき、こいしが二枚目のスペルカードを宣言するときには以前と変わらない様にまで回復し、そこから先は魔理沙の独壇場となってしまったのである。
「だから言ってるでしょ? 魔理沙がどうしようと私は知らないって」
「……そういやそうだったな」
こいしが相変わらずつんけんした態度をとると、魔理沙は快活な笑いを空に投げ掛けた。雲を完全に振り払い、濁りのない青空を取り戻したように晴れ晴れとしていた。
こいしは魔理沙の笑みを見て、肩の荷がようやく外れた気分だった。これから魔理沙が何をするのか、こいしには本当に預かり知らぬところだが、特に心配する必要もないだろう、と確かな安堵は得ることができる。
この件については思うところはもうない、と魔理沙の背にこいしは顔を埋める。
唯一、今回こいしの不安を必要以上に駆り立てたあの感覚、人の死との無意識下での繋がり、何度も彼女を死の錯覚に追いやったあの感覚はもうこりごりだ、という感想は胸に深く刻まれた。
あれが一生続くのであれば、死んだ方がましとこいしの方が自害しかねない。ここ数日間の体験を思い返すだけでもこいしは心底うんざりしていた。
こいしは他者との繋がりを諦めたわけではない。縁を渇望しているのは変わらない。他にいくらでも方法はあるんじゃないか、と考えているだけだ。
幸い、こいしの回りにはたくさんの友人がいる。こいしと同じように、自分の有り様に悩むものもいる。彼女たちはきっと、こいしの力になってくれるはずだ。
こいしとかかわり合った彼女たちと共に歩んでいけたらな、と目を閉じてこいしは夢想する。
心地いい風が一迅、こいしの髪をさらって溶けて消えていく。
地獄のように長かった夜が明けて、輝かしい明日を予感させる夜明けが訪れた。
でも漢字の使用方がおかしなところ言葉の使い方がおかしなところも結構ある。
それと序盤、頭部を失った妖怪の死因が判明するより手前で猟銃についての説明が入るのはおかしくないかしら?
凄く怖い体験して平然とするどころか魔理沙を助けれたのは流石というか少女離れしてますけど