Coolier - 新生・東方創想話

今昔紅魔郷

2016/04/18 23:15:08
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 こんなに月も紅いから――
 今宵もまた、追憶の海を漂いましょう。
 
 
 
        ▼        ▲
 
 ガツン、と。
 喩えるなら、穏やかな眠りをゲンコツによって破られたような。
 私の心境は、まさにそんな心地悪さで占められていた。
 
「それって、夢見のよくなる寓話でしょうか?」
 
 いかにも気ままな少女らしい、青天の霹靂とも評すべきセリフに対して、私は憮然と切り返した。普段から大物然とした振る舞いをする割に、ふと見せる天然ボケとも言うべき愛嬌は、私のお気に入りでもある。
 しかし今回に限っては、なぜか不快感が強かった。
 
 五秒ほど、沈黙が訪れた。
 それは、私が主導権を得た余韻を味わえるようにと用意された、優しい時間。お気に入りを与えられ、思わず口元が緩みそうになる。もしも私が犬であったなら、千切れんばかりに尻尾を振りまくったことだろう。
 私は肘掛けに両腕を乗せ、深々と腰を預けて返事を待った。
 
「もちろんよ。睡魔も裸足で逃げだすような話を、寝る前に語ってどうするの?」
 
 今夜は、ふと酔狂な気分になってしまうくらい、雨音が素敵なのだもの。そう答えた少女の口ぶりに、不愉快そうな様子はない。むしろ、私の一挙手一投足を愉しんでいる風でもあった。そこまで大袈裟な反応をしたつもりはないが、目の前に座る少女にとって、私を困らせることはイタズラ程度の遊びらしかった。
 それはさておき、確かに今夜のような雨のそぼ降るときは、徒然と回想に耽るにお誂え向きだと思える。そう、例えば雨垂れが長い年月をかけて石を穿つように、なにかの変化を漫ろに観察するための舞台装置として、この空模様は相応しい。
 しかし、それは対座する少女にとっての都合であり、私にすれば気の進まない都合であるのも、また厳然たる事実である。
 私は意思表示を強める意味を込めて、これみよがしの欠伸までして見せた。
 
「すみませんが、日ごろの疲れが溜まっていまして……あまり長くは、眠気に耐えられそうもありません。明日に延期してもらえると、幸いですわ」
「ふん。相変わらず、いい性格してるわよね」
「自負してます」
「口も減らないこと。敵わないわ」
 
 やれやれ――と、いかにも困ったと言わんばかりに少女が頭を抱えて見せるのは、その実しっかりと計算された、わざとらしい演技。相手を、少しばかりの優越感に浸らせてやるためのお膳立て。ひとつ屋根の下に暮らし、いつも顔を合わせていれば、そのくらいは察せられるようになる。
 しおらしく困った素振りを見せる少女は、きっと胸裡で唇から可愛らしい舌を突きだし、こう思っているはずである。せいぜい、今のうち得意になっておくがいい。数分後には、落胆の紅色に染めあげられる運命なのだから、と。
 そう。そうなのだ。抗って見せたところで、所詮は形式的な舞台演技にすぎない。私には最初から拒否権なんてない。なぜなら、私の運命は彼女のものでもあるのだから。そのセリフを皮切りに、有無を言わせる暇もなく押し切られ、すべては少女の思い描いたとおりになる。それもまた、延々と繰り返されている日常だった。
 
「その口を噤んで、いつもどおり書記になりなさい。記憶だけでは、いつか詳細を忘れたり、真実が歪められてしまうから、きちんと記録に残しておかないと」
「でしたら、ご自身で自叙伝でも綴ってはいかがでしょうか。時間なら、いくらでも余裕があるでしょうに」
「うるさいね。もし口述筆記の途中で居眠りしたら、容赦なく折檻してやるよ。そのつもりで努めること。いいわね?」
「ご期待に沿えるか解りませんけど、努力はしてみますわ」
  
 訊いたところで、返事は待たない。それが、自由奔放な少女の流儀なのだ。
 そして、少女は朗々と語り始める。彼女が宿したまま、片時も忘れることがなかった記憶を、吟遊詩人のごとくに抑揚をつけて。
 
 
 彼女たちの物語を、誰かと共有するために――
 
 
 
   【1】  こんな世界に、ずっと憧れていたんです。
 
 
 なんなのだ、これは。
 
 それが、私の頭に浮かんだ、最初の言葉。
 
「なんなのだ、これは?」
 
 それが、私の唇から漏れた声だった。
 なぜ玄関ホールに、濡れそぼって吐き気を催すほど強烈な人間臭さを放ちまくっているものが、転がっているのか。それも、暴漢に襲われ陵辱し尽くされた直後のような、ひどくボロボロの身なりで。
 私は二階のロビーから、手摺りに身を乗りだして状況を観察した。
 埃と脂にまみれた汚らしい髪は肩にかかる辺りで切り揃えられていて、パッと見には少年のようである。しかし、私の鋭敏すぎる嗅覚は、かなりの距離を隔てていても、異臭の中に自分と同じ薫りを嗅ぎ取っていた。
 倒れているのは、いわゆる忌みの周期を宿した運命の者……その徴候が身体に顕れて間もないだろう、年端もゆかぬ少女だ。しかも、まだ死んではいない。極度の疲労によって、気を失っているだけらしい。
 
「こんなにも素敵な宵なのに、無粋だわ」
 
 なにを隠そう、心地よい夜の空気を妨げられるのが、私は大嫌いである。それが、降りしきる雨音に耳を傾けながら、気怠さの中でプライベートな愉しみに耽っているときならば、なおのこと。一秒でも早く、割り込んだ不協和音と異臭の元凶を排除せずにはいられない気分にさせられるのだ。さっきまで興じていたタロット遊びでも、問題は迅速に解決すべしと告知された。
 なるほど、これは長引かせる必要もない。さっさと放り出すに限る。
 
「ふん。これも運命だと言うのかしらね」
 
 少女の周囲にぶち撒けられた何冊もの書物が、私の神経をさらに逆撫でる。その数、ざっと見ても十を下らない。基本的に几帳面を自負する私にとっては、散らかり放題、汚れまみれな状況も許せなかった。それが本のこととなれば、なおさら。
 それにしても、どのような本を帯同してきたのだろうか。私の視線と興味は、小汚い行き倒れの少女より、むしろ書物へと注がれていた。
 開かれた紙面を埋めているのは、私の知る文字ではなかった。挿絵なども含まれているから、なにかの学術書らしいことは解る。それも、あくまで推測であり、内容を正確に読み解くのは無理だ。
 一体全体、この少女は何者なのか。遠い世界から流れてきた異邦人? だとして、その目的とは……なに?
 
「どういうことなのか、説明しなさい」
 
 声音に苛立ちを滲ませながら訊ねたが、扉のノブを握ったまま硬直している妖精メイドから、答えは即座に返されなかった。
 なにしろ、ドアを閉めなければ雨や湿気を含んだ風が吹き込むのに、それさえ忘れるほどだ。周囲の状況が霞んでしまうほど、困惑している様子が窺える。ただただ闖入者に釘づけとなった、妖精メイドの視線。その反応だけ見ても、これが偶発的な事件であることは歴然だった。明日の朝食用の材料が届けられたのであれば、屋敷の雑務を執りおこなう妖精メイドが、こうも無頓着なはずがない。
 まあ、本来が気ままな妖精に自主的な行動を求めすぎるのは、酷な話だろうけど。

「来客の予定は、私の記憶にないわ……そうよね?」
 
 自慢のブロンドを、これ見よがしに掻きあげながら、エントランスに向けて語気鋭く問う。妖精メイドは、そこでようやくビクリと姿勢を正すと、畏まった顔で首肯した。やはり、私の失念ではなかった。
 ――と言うか、なにも今夜に限った話ではなく、私は滅多に外の人間ごときと交流をもったりしない。使用人の人間を除けば、面会することが例外中の例外である。
 とある一文を引用するならば、そもそも、道の無い森の中に洋館が建っているだけでも不思議なのだ。
 外の人間たちも、鬱蒼たる森に覆い隠された湖畔には、これまで近づこうとしなかった。とっぷりと陽が暮れて、濃い霧に包まれる刻限はもちろん、私たちのような種族にとって忌々しい陽光が降り注ぐ昼間でさえも。なぜならば、この森にまつわる、おどろおどろしい伝説や噂話が広く信じられていたからだ。種明かしをすると、それらは大概、この館を護るために張り巡らせた結界による現象や、私が流布させたデマである。
 そこまで周到に用意をしているから、本来は見つけることさえ難しいはずなのだけど、なんの因果か不慮の事故で辿り着いてしまう者もいる。その人間たちが人里に生きて帰ることは、決してない。そう……私のテリトリーに入れば、もはや世俗における数学的な確率論は意味を失い、運命なんて漠然とした言葉が絶対不変の価値となる。つまりは私という存在こそが、すべてにおける揺るぎない定理なのだ。この定理は、遭難者の生還を解と認めない。
 
「いつだってイレギュラーな事象は発生し得るものだけど、どうして今夜なのかしらね」
 
 このズブ濡れの小汚い少女も、人生最悪の貧乏クジを引いてしまった哀れな贄と言えよう。もしかしたら、夜道で暴漢だの妖魔の襲撃を受け、九死に一生を得る覚悟で森へと逃げ込んだ挙げ句、私の館に辿り着いただけかも知れない。
 ああ、なんて皮肉で、滑稽な話! よりにもよって、助かりたいばかりに紅い悪魔の住処に逃げ込むなんて、とびっきりの間抜けではないか。あまりの馬鹿馬鹿しさに、おなかを抱えて笑い転げたくなる。現に、私の腹筋はもう不規則に震え、頬と唇は弛みかけていた。
 体臭には閉口させられるけれど、生娘の血を思うがままに味わい尽くせるのは悪くない。綺麗に洗って臭いを薄めるまで、辛抱するだけの価値なら充分にある。
 
「どれ。調理されて変わり果てた姿となる前に、お間抜けな顔を拝んでおいてやろうか。そのくらいの慈悲は、かけてあげるわ」
 
 いつもなら、どれだけ間怠っこしくても足音を忍ばせ、淑やかに階段を降りている。それが、高貴な者の嗜みであり、客人に対する礼儀だからだ。
 しかし、昏倒している相手は、礼を尽くすべき対象ではない。ましてや招かれざる人間ならば、論外だ。私は颯爽と手摺りを飛び越え、エントランスに舞い降りた。それでも一応、身だしなみとしてスカートの乱れを正すことは忘れない。
 そして――歩み寄り、濡れ髪がまとわりついた少女の顔を見るや、我ながら滑稽なほど上擦った声で、妖精メイドに命じていた。
 
「この娘を客室に運びなさい。傷の手当ても、忘れないでね」
 
 号令一下、即座に数名の妖精メイドが集合して、自分たちのメイド服が汚れるのも構わず客人を抱えあげ、連れてゆく。そんな騒がしさの中にあっても、昏倒した娘は意識を取り戻すことがなかった。
 やがて、玄関ホールに満ちていた喧噪は遠ざかり、夜の静けさが戻ってきた。元どおりなのは、館内の空気にも稀釈されない悪臭だけ。
 
「この臭い、絨毯に染みついたら困るわ。しっかり換気してから、香水をかけて念入りに処理するように命じておかないと。ちょっと気に入ってるペルシア絨毯だから、買い換えることにでもなったら最悪ね」
 
 半ば本気で心配しつつ、足下に散乱した本を見遣る。それぞれ本の背には、金箔を貼りつけたような背文字が並び、通し番号と思しいローマ数字も確認できた。
 私は屈み込んで、その一冊を拾いあげてみた。しかし――
 
「なに、これ?」
 
 自慢ではないが、およそ館の周辺で使用されている言語であれば、読み書きできる自信があった。けれど、私の手にした本は初めて見る文字で溢れていた。試しに、他の本も確かめてみたものの、どれも私には読めない本ばかりだ。
 
「あの娘……何者なのかしら」
 
 とにかく、情報収集はこれからだ。
 もしかしたら、面白いオモチャを手に入れたのかも知れない。そう思うと、久しく忘れていた高揚感が、私の中に満ちてきた。
 しばらくは、退屈せずにすみそうだ。
 
 
        ▽        △ 
 
 さて、まず状況を整理しよう。
 ここに至って思いだした事実がある。いつでも遊びにきていいと言ったのは、他ならぬ私だ。私の屋敷には、地下に広い図書館と大量の蔵書があるから、本好きならば訪ねてこいと誘った。それは認めねばならない。
 しかし、そう、しかしだ。その気安さは社交辞令としての誘いであり、本心は真逆の場合も少なくない。だから、本当にやってくるとは――およそ一週間を経て、しかも変わり果てた姿で訪れるとは、完全な想定外だった。おまけに、意味不明な状況を手土産に持ってくるだなんて、どこの誰が予期し得ただろうか。まったく、人間という存在の不可解さには、いつもながら驚かされる。
 私の背後に控えている妖精メイドも、今なお珍客の乱入に当惑するばかりだ。鏡を見れば、私も似たような顔をしていたはずだけど。
 
「ご、ご機嫌よぅ。あのぉ……す、素敵な、お住まいですね」
 
 深夜を憚ってか、はたまた近くの森で物悲しげに鳴き続けるフクロウにさえ気遣っているのか。この招かれざる客は、消え入りそうな声でおざなりな挨拶をすると、ベッドの上に起こしていた半身を窮屈そうに折り曲げた。不器用な会釈だ。挨拶と言うよりは、貴族に対し平伏する領民の様相である。
 私は、突然の来訪者を無遠慮に観察した。
 夜の中でも、髪や肌の汚れが目立つ。饐えたような臭いだって、鋭敏な私の鼻には耐え難いほどに、刺激が強かった。湿気のせいもあるだろうが、本当に我慢ならないほど人間臭い。この汚れようから察するに、纏っている服がボロ布に等しくなったのも、昨日今日の話ではなさそうだ。
 流氓――という言葉が、不意に胸奥の闇に浮かんだ。つい最近まで、この付近で見かけた憶えのない顔だったこと。そこに加えて、娘の華奢な体躯を見ると、なにかの理由で家族財産を失い、故郷を捨ててきた天涯孤独の身空なんてシチュエーションが、私の中で妙にしっくりきたのだ。
 
(だとして、どこから流れてきたのやら?)
  
 人間の世界も、私が物心ついた頃からすれば随分と喧しく、かつ煩わしくなった。正直、最低限の接触しか保っていたくないほどだ。そういう心情であるから、小汚い少女に対してやたらと想像力を逞しくすることに、すぐ辟易してしまった。
 まあ、この少女が何者だろうと構いはしない。真夜中に訪問してくる辺り、一応は妖魔怪物の礼儀は弁えているらしいし、その意気に敬意を表して、茶の一杯でも振る舞ってやろうという気分にもなる。レディーたる者、礼節には厳格であらねばならないのだ。それが、私の主義にして矜持である。
 ベッドから、およそ三メートルほど距離を置いたまま、私は徐に話しかけた。
 
「いつまで、そうしているつもり? 顔をあげなさいよ。とりあえず、会話できるくらいには体力も回復したようね」
「はい。おかげさまで、なんとか」
「恐縮しているの? 客人なんだから、もう少し図々しくしてもいいのよ」
「そう言われてしまうと、ますます肩身が狭くなってしまいます」
 
 殊勝な言葉の割には、それほど悪びれた感がない。どこか他人事のようだ。
 自分の行動を、客観的に視ることができない性分なのだろうか。
 
「ふん……誘い文句を真に受けて、アポイントもなしに押しかけてきたくせに、今更よく言うわ。誰かさんは玄関先で、ズブ濡れネズミのまま気を喪って、ベッドに運ばれているのだけれど。自分が置かれた状況を、きちんと自覚できてる?」
「す、すみません……お邪魔してます」
「さらに言えば、他人の家を訪問するなら、せめて身だしなみを整えてからにして欲しいわね。その風体で倒れられていたら、行き倒れの死体かと思ってしまうじゃないの。これだけ離れていても、貴女かなり体臭がひどいわよ」
「うぅ~。返す言葉もないですぅ」
 
 言葉どおり、娘は居心地悪そうに、痩せた肩を竦ませる。しかし、次の瞬間には居住まいを正し、やおら口の中で何事かを呟いた。直後、彼女の手には真新しい道具が収まっていた。
 
「あ、あのっ、遅くなりましたが、これ……つまらない物ですけど」
「おや、少しは魔法の心得があるの? 即興の手品を披露しつつ、手土産を用意するなんて、なかなか面白い真似をするじゃないか」
 
 もちろん、嫌味だ。しかし、少女は私の棘のある口調を、気にも留めなかったらしい。さっきから辛辣な言葉をぶつけてきたから、その延長と思ったのだろうか。
 手渡されたのは、木製の長い柄の先に棕櫚かなにかの植物繊維を括りつけた道具だった。不思議と手に馴染みやすく、重さを感じさせない。なるほど、魔法使いとしては未熟なようだが、結界を抜けて私の館に辿り着けた理由は、説明がつけられそうである。
 
「これは、魔法の配管清掃用ブラシというわけ?」
「お気に召しませんか?」
「確かに、詰まらない物よね。ぬめりを取れるくらいには洒落が効いてて、そこそこ愉しめる趣向だったわ。この手の便利ツールは、うちの使用人たちが泣いて喜ぶ。ありがたく、受け取っておこう」
「よかったぁ」
 
 言って、娘は安堵の息を吐き、ふわりと蕾が開いたかのように微笑んだ。
 もしも誰かに『彼女を気に入り始めたのは、いつ?』と問われたならば、まさに、この瞬間からだと、私は自信を持って答えるだろう。生涯に三度とないかも知れない邂逅を、私たちは果たしたのだ――と。
 二回、ハンドベルを鳴らして、館に満ち満ちた夜の静寂を破る。
 八秒と待たず部屋のドアが開かれ、昏い中からカンテラを手に、メイド長が駆け寄ってきた。しっとりと夜闇を染み込ませた白銀の髪は、じつに私好みの美しさ。昼間に見る彼女の髪も綺麗だけど、夜のほうが何倍も素敵だ。
 
「寝ぼすけの客人が、目を覚ましてくれたわよ」
「はい、お嬢様」
 
 やりとりは簡潔。メイド長は穏やかな微笑を浮かべて、恭しく半身を折り曲げた。その拍子に、金の鎖で頸から吊された懐中時計が、カンテラの明かりを鋭利に跳ね返し、私の網膜に妖しい残光を刻んだ。
 まるでゼンマイ仕掛けの人形みたいに、メイド長が再び姿勢を正す。そして、無駄な言葉を発することなく機敏に踵を返し、部屋の外へと消えた。優秀な彼女は、自分の為すべきことを理解している。だから、私が逐一を指示する必要はないのである。
 私の瞳はまた、名なしの少女へと戻された。
 
「仕切り直して、ようこそと言っておくわ」
 
 メイド長がカンテラを持ち去ったことで、客室に深い夜闇が戻った。私にはどうと言うこともないが、人間の眼ならば物の識別すら覚束ないはずだ、歩き回ることなど、なおさら自由になるまい。
 きっと、不安に駆られているだろう。それが、私の知り得る一般的な人間についての、一般的な心理分析だった。
 しかし、客人の瞳は、まっすぐに私を捉えている。闇に怯えたり、狼狽えた様子はない。その辺の温室で育てられた、容易く手折ってしまえる可憐なだけの花とは違うらしい。
 
「この館は、私のお城。私にとって唯一無二の、安息の地よ。貴女にとっては、どうか判らないけどね」
「居心地は、いいですよ。夜闇は以前から好きですし、館の古びた匂いも素敵……まるで、お伽話みたい。こんな世界に、ずっと憧れていたんです」
 
 御世辞か、お調子者の戯れ言か、それとも本心なのか。奇妙なことを、さらっと言う。
 
「本当に、そう思うの? ここは悪魔の館よ、誰もが恐れて近づかないのに」
「それはそれで、スリル満点です。面白そうじゃありませんか。それに、今さっき顔を見せたメイド長――彼女は人間でしたよね? あの人が無事なんですもの、だから私の身の安心も、保障されたも同然でしょう」
「呆れたわ。本気で言っているなら、正気を疑うね。もし遊び気分で悪魔を愚弄するのであれば、後悔することになるよ。お前を蝋人形にしてやろうか」
「あら素敵。蝋人形になったら、永遠に美しくいられますね」
「そんなわけないでしょ。あぁもう……なんだか、すっごく疲れたわ」
 
 冗談ではなく、この娘にペースを乱され気力が萎えた。ばかりか、その場に座り込んでしまいたいほどに、脱力感に苛まれた。客人に軟弱な姿を見せまいと、意地で姿勢を正したけれど、それでも漏れてしまう溜息は押し留めようがない。
 そんな私を見つめながら、奇妙な少女は落ち着き払って微笑みを浮けべている。
 憎たらしいまでの余裕。しかし、それが私の好奇心をくすぐったのも事実だ。幸いなことに、観察に充てる時間なら腐るほどある。退屈しのぎには、もってこいの玩具かも知れない。飽きたら、捨てるなり食料にしてしまえばいい。
 私は虚勢を張るように、そう自分に言い聞かせていた。
 
 
        ▼        ▲
 
「大切な、追憶の物語なのですね」
 
 はたり、はたり。
 雨粒が窓を叩く、控えめな喝采に満たされたラウンジにて――
 話がひと区切りついたのを見計らい、私はテーブル越しに水を向けた。そうしたくなるくらい、目の前の少女は見るからに上機嫌だったから。
 案の定、私の言葉を受けて、館の主人である少女は微笑を浮かべる。
 
「あら、解るの?」
「私だって、そこまで鈍感じゃないですよ。お嬢様が、その記憶を今まで筆記や随筆みたいな形で残してこなかったのは、誰にも触らせないためなのでしょう?」
「ええ。私の記憶は、私だけのもの。とても……私にとっては、とても大切で、片時だって手放したくはない美しい記憶だから」
 
 それなのに、どうした心境の変化なのか。ここ最近、お嬢様は私に昔話を話して聞かせたり、口述筆記を頼むようになった。もしや、記憶障害を引き起こす病を患い、焦りを覚えた……とか? 
 あり得ない、と言い切れないところが厄介だ。お嬢様の普段の生活は、健常者そのものだけれど、所詮は他人の身体のこと。目に見える症状がなければ、測りようがない。ましてや、お嬢様は人間とは違うのだから。
 
「その人とは、今も交流が?」
 
 話の継ぎ端として、訊ねてみた。釈然としない想いが、私の胸中の大半を占めていたけれど、わずかばかりの興味をそそられたのも、また事実。行間を詳らかに補足できるほど鮮明に憶えているのだから、ひどく古い話ではないのだろう。そんな見立てからだ。
 お嬢様は、相変わらず微笑みを崩さない。
 しかし、先刻までのものとは明らかに、笑みの質は異なっていた。喩えるならば、同じ晴れでも快晴と薄曇りほどの差違でしかなかったが、私にはそれが解った。
 
「言ったでしょ。美しい記憶だ、と」
 
 どういう意味なのか、私には解らない。いや、理解することを拒んでいると言うべきか。考えを巡らそうとすると、脳裏に奇妙な靄がかかるのは、眠気ばかりのせいでもない気がする。お嬢様への遠慮が、私にそうさせるのかも知れない。
 ともかく、私は継ぐべき二の句に迷って、唇を閉ざした。その沈黙を愉しむように、お嬢様は艶然と窓越しに低く垂れ込めた雨雲を振り仰ぎ、小さく吐息した。
 
「さて、お話を続けようか。貴女が聞いてくれるならば、だけど」
「私に拒否権はないと言ったのは、お嬢様ですよ? 話してくれる限り、聞かせてもらいます。夜は、まだ始まったばかりですし」
「そう……感心だわ」
 
 言って、紅茶を一口。そこにタイミングよく、館に据えつけられている時計台の鐘が鳴った。
 厳かな音色の響く中、お嬢様の白い指が、楽譜の音符でもなぞるかのように純白のテーブルクロスを撫ぜる。その仕種は、どこか艶かしく愛おしげで……まるで、記憶の中にしかいない少女の柔肌を、愛撫しているかに見えた。ふと生まれた妖しい妄想が、私の胸に奇妙な疼きをもたらし、少しだけ身体を火照らせる。
 
「今宵の雨音は、本当に気持ちがいいね。ジメジメしすぎるのは、いただけないけれど」
「そんなに雨だれの音がお好きならば、シャンパングラスを使った水琴はいかがでしょう?」
「水琴? 興味をそそられるわね。貴女が造ってくれるのかしら」
「お望みとあれば、明日にでも用意いたしますわ。作るのに、特別な道具や材料は必要ありませんから」
「ほう……愉しみだ。期待してるからね」
 
 お嬢様は小さな右手をテーブル越しに突きだしてくるや、私の鼻先で小指を立てて見せた。その意味は、もちろん解る。口約束だけではない特別な儀式、古来より契約の証を求めて交わされてきた行為だ。私は迷うことなく、お嬢様と自分の小指を絡ませ、二人だけの接点に誓いの唇を寄せた。
 満足そうに微笑んだ淡い唇の狭間に、鋭利な牙を覗かせて、お嬢様が鷹揚に頷く。
 そして、少女は再び記憶の中へと旅立ち、物語を紡ぎ始めた。
 
 
 
   【2】  内なる欲求に素直なだけよ。
 
 
「そうそう。おかげさまで、本を取り戻せました!」
 
 ぺこり。メイド長が淹れてくれた紅茶で、喉と唇を湿らした客人の少女は、軽く会釈して切り出した。今の私は、魅惑の紅い液体の味と香りを堪能することに意識の半分を持っていかれていたから、その話題に相槌を打つのが三秒ほど遅れた。
 
「あぁ……あの大判の、9巻セットになっていた本か。見た感じ、随分と重そうで持ち運びに不便だろうなと思ったものだけど」
「ええ。それはもう重くって重くって……物理的な意味だけに留まらず、心理的な意味からも。あの本は、私にとって生命の次に……いいえ、魂そのものと言ってもいいくらい、大切な本です。この本の価値さえ理解できない下賎の輩に強奪されたときには、冗談抜きに生きる希望を喪いかけていましたよ」
「そして、絶望に打ちひしがれていたところで、私に出逢った――と」
 
 仄かな月明かりが射すだけのロビーに、テーブルを挟んで二人きり。
 客人の少女は、椅子に深く腰を降ろしながらも、しゃんと背筋を伸ばしている。両手でティーカップを包み込んだ仕種が、そこはかとなく初々しく、愛らしい。人懐っこそうな瞳も、なかなかのチャームポイント。おとなしそうな見た目そのままに、立ち居振る舞いも楚々としていて、まさしく良家の令嬢を感じさせた。
 もっとも、それは不慣れな場所に踏み込んだ者にありがちな、遠慮や気後れによるものかも知れない。現在の小汚い格好は明らかに、良家の令嬢のそれではなかった。
 
「なにはともあれ、本懐を遂げたのなら祝福しないとね。おめでとう、乾杯しましょう」
「それもこれも、お姉さまの励ましがあればこそです。強大な相手に立ち向かう勇気を、私にくれたんですもの」
 
 おやおや。いつの間にやら、姉のように想われていたらしい。
 まあ現実的に考えて、生きてきた年数は私のほうが上だろう。時間は、妖魔と人間の区別なしに等しく与えられるけれど、その価値まで等しくはなり得ない。妖魔にとっての時間は悠遠であり、それに比べたら人間の一生など午睡の夢も同然だからだ。私にすれば、この少女とて、走馬灯の如く現れては消える人間の一人でしかない。
 だが……もし、主人と客の関係が逆だったとしても、この小娘は私を姉のように慕ったに違いない。明確な根拠もないまま、私はそう感じていた。
 それに実際、私には歳の近い妹もいるし、姉と呼ばれることに違和感はなかった。至って自然とその単語を口にしたところから察するに、この娘の家族構成も案外、私と似たり寄ったりなのかも……。
 
「お姉さんが、いたりする?」
「よく解りますね。ええ、いますよ。自慢の姉や妹が」
 
 言って、少女が浮かべた笑顔は無邪気で、幼気な子供を彷彿させた。なんて生命力に溢れ、溌剌としているのだろう。出生――種族的な問題で、身体にいろいろと生まれつきの不自由を強要される私からすれば、羨ましいかぎりの輝きだ。たとえ、それが刹那の輝きだとしても……いいや、だからこそ貴重で、惹かれるのである。
 
「それは、追々また話すとして」

 未だ名も知らぬ娘は、潤んだ双眸を私に注ぎながら、再び口を開いた。「御礼を言うだけでは足りません。ぜひとも、恩返しをさせてください」
 
「大したことをした憶えは、ないんだけどね」
 
 切り返しの前口上は、形式的なもの。でも、偽らざる本音でもあった。
 私がしたことは、この娘が難儀していたところに、たまたま通りかかって、どういう気紛れか声をかけてみただけ。それだけなのだ。本の奪還とて、うちの使用人に手伝わせたわけでもない。身も蓋もない言い方をするなら、見ず知らずの相手に退屈しのぎの奸計を吹き込み、無責任に焚きつけたのである。唆した結果がどうなろうと、正直に言って興味はなかった。
 
「だから、礼を言われる筋合いじゃない。恩返しも不要だわ」
「それでも、助けられたことに変わりはないですから」
「バカな子ね。好きに解釈すればいい」
「ええ、もちろん」
 
 少女は夜闇を照らすほどに、眩く笑った。見るからに年端もいかない小娘のくせして、随分とまあ肝が据わっていることだ。あるいは、頗る鈍感なのか。月明かりしかない夜の茶会で、顔色ひとつ変えないとはね。そればかりか、笑顔で私をドキリとさせたなんて、可愛さ余って憎さ百倍である。つい、嗜虐心を刺激されてしまう。
 
「もう解っているとは思うけれど、私は紅い悪魔と称される存在よ。他者の生き血を啜り、魂をも吸い取って、己が生命を繋ぐ怖ぁ~い魔物なのよ」
「ええ、紅い悪魔の噂は承知しています。この付近では有名ですもの。獲物の返り血で、ドレスを深紅に染めた残虐な悪魔だ――と」
「白状すると、恐怖を煽って人間を遠ざけるために、あることないこと盛って流した噂話だけどね。一度しか逢ってないのに、それが私のことだと確信したわけ?」
「だって、初めてお逢いしたときから、お姉さまは深紅のドレスに身を包み、背中の……とても美しい翼を、隠そうともしていないから」
「美しい? そんなこと言われたの初めて……じゃなくて。えぇと、そう、隠せるものでもないからね……って言うか、私を怖れないの? 調子が狂うわね。今まさに襲いかかって、貴女の血を一滴残らず吸い尽くしてしまうかもよ。もっと震えおののきなさいよ」
「お姉さまが望むなら、喜んで私の血を捧げましょう。そのくらいは、本を取り戻せた御礼の内です」
「……呆れたものね。本気で正気を疑うわ」
 
 やれやれ、ちょっと怖がらせてやるつもりが、毒気を抜かれてしまった。常識の通じない相手と話をすると、精神的に疲れさせられる。それは私たちにとって、ひどい苦痛を伴うことだ。往々にして、妖怪は精神面での打撃に脆弱なのだから。
 故意か過失か、娘はこちらの言葉尻を捕らえて、新たな毒を吹き込んでくる。
 
「私の正気を疑うお姉さまの正気は、なにによって保証されているのですか?」
「あら、聞き捨てならないわね。私が異常だと言うの?」 
「敢えて言えば、誰もが異常でしょう。この世は所詮、自分だけは正気だと思い込んでいる異常者の掃き溜めでしかない。判断の拠りどころとする知覚なんて、思っているよりずっと不確かなものでしかないのに」
「ふん……小娘が悟ったふうな口を利くのね。生意気に」
「不快にさせたなら、失礼しました。まあ、私の意見なんて、ほとんどが書物の受け売りですから。実体の伴わない頭でっかちな理屈に聞こえても、仕方ないかも知れませんね」
 
 なるほど、またひとつ確かなことが解った。この娘の読書量は既に、私が数百年かけて蓄積してきたソレを凌駕しているらしい。本に対する愛着は、本物のようだ。なおざりな身繕いを恥じようともせず来訪したのだって、本好きゆえに矢も盾も堪らなかったと考えれば、むしろ微笑ましい限りである。私の屋敷に誘ったのは、お互いにとって正解だったのかも。
 そこで脳裏に閃くものがあり、もしかして――と思った直後にはもう、私は声に出していた。
 
「もしかして……」
「えっ?」
「本を奪還したその足で、直接ここにきたの?」
「はい。すぐに追っ手から身を隠す必要がありましたし、無礼は承知で、お姉さまの元に庇護を求めるのが一番かなと思いまして」
「確信犯ね。と言うか、よく私の館まで辿り着けたものだわ」
「それしか、選択肢がなかっただけです。背水の陣と言いますか、死に物狂いになれば、大概のことは可能になりますわ」
「貴女一人で、陣なのかしら?」
 
 真偽のほどは、ともかく。気弱そうな見かけによらず、したたか者らしい。それとも、気弱だから要領よくならざるを得ないのか。いずれにせよ、面白そうな性格のキャラクターである。しばらく食料にしないでおこうと、私に思わせるくらいには。
 
「私は悪魔であって、鬼ではない。だから、貴女を匿うことに吝かでないわ」
「どういう理屈かは解りませんが、お姉さまなら、きっとそう言ってくれると信じてましたよ」
「こいつ……どう見たって二十年と生きてやしないだろう小娘の分際で、高貴な種族たる私に、生意気なおべっかなんか使って」
「穿った見方をされては心外ですよ。本心を、包み隠さず述べただけです」
「ふん。そういうことに、しておいてあげるわ」
 
 まったく、いちいち小癪な口を利く娘だ。
 けれど、それゆえに興味を惹かれてしまうのも事実だろう。取るに足らない存在ならば、私は歯牙にもかけない。こうして言葉をやりとりしたり、コミュニケーションを図ろうなどとは、微塵も考えなかったはずだ。
 
「とにもかくにも、うちの館を案内する前に、お風呂に入ってもらわないとね。そんな小汚い格好で歩き回られたのでは、堪らないから。メイドたちの気苦労も増えるだろうし」
「ご、ごめんなさい。すぐにでも身を清めて……あ、でも、着替えが」
「お得意の魔法で、用意できないの?」
「できると思いますけど、あまり複雑な組成の物は難しくて」
「未熟者ね」
「うぅ~……認めるしかない」
 
 魔法使いではあるけれど、まだまだ見習い以下か。ならば、却ってよかったかも知れない。うちの地下にある図書館には、魔導書の類が多く所蔵されているし、差し当たって先生になりそうな魔法使いだっている。なんなら、私が簡単な魔法の手ほどきをしてやってもいい。長すぎる時間を持て余す私にしてみれば、退屈しのぎには手頃な生徒だろう。
 
「まあ、誰にでも苦手なことが、ひとつはあって当然だからね。着替えは適当に見繕わせるわ。ちょうどいいサイズの服がないときは、メイド服で我慢してもらうから、そのつもりで」
「それはもう、厭だなんて言えた義理じゃないですから」
「よろしい。じゃあ、浴場に案内するわ。ついてらっしゃい」
 
 見窄らしい少女を従えての道すがら、メイド長に入浴の準備と、着替えの仕度を命じておいた。お風呂あがりのホットミルクを用意するよう、言いつけておくのも忘れない。メイド長は一を聞いて十を知る人間なので、その辺は抜かりなく気を回してくれるはずだけれど。
 先を歩く私の背中を、控えめな声が叩いた。
 
「いま……二人分の着替えって、言ってましたよね」
「それが、どうかした? 私も一緒に湯浴みをするの」
「吸血鬼は流水に触れたがらないと、なにかの本で読んだ憶えがあるので。入浴するのは無理じゃないかって、思い込んでました」
「私は見た目どおり、麗しの女の子よ。毎日、欠かさず沐浴しているわ。サウナで流した汗を、薬湯に浸したタオルで拭って終わりだけど。髪を洗うのは、完全に他人任せね」
「なるほど。お姉さまの長い金髪は、どうりで穢れのない美しさなのですね。タオルを浸して搾るぐらいなら、できるわけですか」
「できるけど、しないわ。だから、誰かの手を借りるわけ。私は産まれてこの方、一人で入浴したことがなくてね。いつもは、メイド長に手伝わせている」
 
 でも、今夜は貴女に手伝ってもらうつもり。
 そう告げた途端、少女の表情に、見る見る歓喜の色が広がっていった。なにかと奇妙な娘だが、慕ってくれている気持ちは本物らしい。恩返し以上の想いを感じるのは、私の自意識過剰による錯覚とでもしておこう。
 
「その金糸のような美しいブロンドに触れさせてもらえるなんて、身に余る光栄です。誠心誠意、務めさせてもらいますね!」
「私の世話は、二の次よ。貴女は、自分の身を清めるのが先でしょ」
「そうでした……てへっ」
「まったくもう」
 
 呆れてしまう。だが、その一方で無性に笑いだしたくなるのは、どうした心境か。我ながら、変な情動だと思う。
 もしや、この少女の奇妙な魅力は、人妖の隔てなく感染するのかしら?
 そんな取り留めないことに、想いを巡らせてみたりした。
 
 
        ▽        △  
 
「お姉さまは、どうして親切にしてくれるんですか?」
 
 湯あがりのサッパリ気分で、綺麗なピンク色を湛えた甘さ控えめホットミルクを味わっているところに、思いだしたような質問。少女は晴れ晴れとした表情で、私に問いを重ねてくる。
 
「あのとき、見ず知らずの私に声をかけたのは、なぜ?」
「ん~……正直に言うと、私にも解らないわ」
 
 本当だった。なぜ、この娘と交流を図ろうなどと思ったのか……。その理由を教えて欲しいのは、むしろ私のほうだ。見捨てて素通りしたとて、なんの罪悪感も抱きはしなかっただろうに。どうして、心が動いたのだろう。
 
「ただ、強いて一点だけ挙げるとするなら」
「ふむふむ」
「本を大切に想う貴女の意気に、少しばかり協力してあげたくなったのかもね。同好の士として」
「えへへ……そう言ってもらえると、ちょっと嬉しいな。お姉さまも読書が好きなんですよね。よく読むジャンルは、史書? 魔術書?」
「専ら、呪術の類ね。でも、珍しい知識や新しい技術を学ぶのも好きよ。なにしろ、私の興味は尽きることを知らないから」
「あ、私も占いの本は大好きですよ。趣味が合うかも知れませんね」
 
 無邪気に笑う。じつに、人好きさせる笑顔だ。
 人ならざる私でさえ、しばし見蕩れてしまう。それが少しばかり癪に障るけれど、忌避するほどには憎みきれない。喩えるならば、依存性の強い臭気と似ていた。嗅げば心が不愉快にざわめくと知りながら、遠ざけることには消極的になってしまう。
 
「ところで――」
 
 この娘とは、あまり深い仲になるべきじゃない。本能的に、そう感じる。
 一緒に入浴したとき、彼女が純然たる人間ではないことを、私は悟った。この娘の衣服に染み着いていた人間臭さは、人間のテリトリーに馴染んでいたがゆえの結果だ。それが今や、少女の身に染み着いていた人間的な痕跡の一切は、薬湯によって洗い流されている。そこに人間特有の臭いはなかった。そして、生粋の妖魔とも違う。
 得体が知れない以上、あくまで友人未満の、顔を合わせれば挨拶をする程度の関係でいい。頭では、冷静に判断している。だが、私の唇は別人のものに変わったかと疑ってしまうくらいに、勝手な言葉を紡ぎ続けた。
 
「まだ、貴女の名前を聞いていないわね」
「私の……名前ですか」
「他人に名を訊ねるときは、自分から名乗るのが礼儀だけどね。私はこの館の主人で、貴女は客人。立場を考えれば、貴女から名乗るべきだと思わない?」
「一理ありますね、それは。でも――」
「悪魔と称される者に、気安く本名を明かすのは抵抗があるのかしら」
「いえ、そうではなくて」
 
 言いかけて、少女は睫毛を伏せて口を噤んだ。あまり語りたくない、思いだしたくもない過去なのだろうか。それなら、無理に話してくれなくても構わない。お互いに確固たる境界線を引き、上辺だけの仲よしごっこを続けられるなら、それでもいい。
 私の想いが喉をくぐり、音声に変換されて唇から溢れそうになる。それを寸前で押し戻したのは、少女が紡いだ、歌にも似た軽やかな語りだった。
 
「いまの私には、名前がないんです」
「ほぅ……それはまた、随分な希少種ね。と言うか、貴女が初めてだわ」
「そうですか? よくあることだと、思ってましたけど」
「普通じゃないから、驚いているのよ。古今東西、親が子供に名前をつけないまま育てるなんて習俗は、聴いた憶えがないわ。私が浅学なだけかしら?」
 
 名前がなかったら、どう呼んだらいいか困るだろうに。他と識別するために、見たままの容姿を言葉に置き換えるのか? 漠然とした形容詞を並べ立てて、固有名詞の代わりにするとでも? それでは呼称が無駄に長くなるばかりだし、同じ形容詞を複数人が共有することにもなり得る。そうなった場合、呼ばれた側としても、自分のことだと咄嗟に認識できまい。いっそ、簡潔な綽名で呼ぶほうが判別もしやすく、賢い選択だ。
 なんのメリットがあって、名無しで育てる愚行をわざわざ犯す必要がある……?
 
「呪術的、あるいは宗教的な儀礼とか、そう言うこと?」
 
 独りごちたが、見当違いであることも、私は自覚していた。いくら洗礼名を与えられたところで、それは所詮、仮初めの肩書きにすぎない。生みの親から授けられた本名を、ゴミでも捨てるかのように未練もなく忘れるのであれば、そうするに足る理由があって然るべきだろう。こんなにも明瞭な会話ができるほどだ、名前だけ忘れるなんて、都合のいい記憶障害だとも考えにくい。
 では、思い当たる別の可能性は? 少し思考を巡らせた私は、意外にも即座の閃きを得た。
 
「貴女、もしや咎人じゃないでしょうね」
 
 罪を逃れるために本名を騙ることは、よくある話だ。それに、咎人が収監された際には、名前を含めた人格の否定をされると聞いた憶えもある。先着順で割り振られる通し番号こそが、閉鎖空間において保持を許されるアイデンティティーなのだ、と。
 私に猜疑の眼差しを注がれているにも拘わらず、名なし娘は笑みを浮かべる。思いどおりの結果を得た者がよく見せる、余裕に満ちた微笑みに違いなかった。
 さては、初めに愁いの表情を作ったのも、そのための布石だったと言うことか。たかが小娘風情のくせに、小癪な芝居を演じてくれる。
 まんまと乗せられたのは、私。しかも気に食わないことに、正解を知りたがっているのも、私。それが解っているだろうに、少女は涼しい顔で、黙っているだけ。上手におねだりできたなら、ご褒美をあげる――と、言わんばかりの仕種だった。
 
「本当のところは、どうなのよ」
 
 いいだろう。舐めた態度は気に入らないけれど、そちらの思惑に乗ってやる。
 私は、上目遣いに少女を見つめながら、おねだりをした。その瞬間、主人と客人の関係が崩れ去る音が、私には確かに聞こえた。もはや優劣は形骸としてしか存在せず、私たちは心理的に対等だった。
 屈辱は、もちろんある。生態系においては言うまでもなく、妖魔の勢力図でも高貴な種族である、この私が! なよなよした小娘ごときと対等だなんて! あり得ない。絶対に、あってはならないことだ。
 にも拘わらず、屈辱と同じか、それ以上に私の中で大きくなりつつある感情は、いったい……なんなのか? 抱いた困惑が、私の胸を高鳴らせた。
 
「本当のところは――」
 
 少女の蠢く唇に、視線が釘づけとなる。一言だって聞き漏らすまいとする思いが、私という存在を一個の耳と化した。もしも、誰かに向けた意識に質量があって、視認できるものならば、この不可思議な少女は私の意識によって雁字搦めにされていたことだろう。最悪、蛇が獲物を締めあげるかのように、圧死させていたかも知れない。
 ……いや。窒息しかけているのは、私か。答えを渇望するあまり、こんなにも呼吸を荒くしているのだから。
 
「つまらない理由ですよ。お姉さまに、聞かせる価値もないほどの」
「いい性格をしてるね、貴女」
 
 だからこそ、期待を裏切る言葉には、語気を強めずにはいられなかった。
 
「私を焦らして、そんなに愉しい?」
「とんでもない。意地悪をしてるつもりは、微塵もないですよ」
「あまり勘違いをしないことね。力尽くで聞きだしてもいいのよ」
 
 言って、テーブルに置かれた少女の手を凝視する。
 
「貴女の、その綺麗な指を一本もぎ取ったら、素直になってくれるの?」
「強引ですね、意外と」
「内なる欲求に素直なだけよ。私は知りたいの。目的を果たすためなら、手段は選ばないくらいにね」
「なるほど……よぉく解りました」
 
 観念した、と言うよりは、私の本音を引きだせて満足したかのように、少女は笑みを大きくした。どうやら、こんな小娘に弄ばれっぱなしらしい。いつもの私らしくなく、調子を狂わされている。誰に対しても、常にイニシアティブを取ってこその私だと言うのに。
 
「もちろん私にも、両親から頂いた名前がありましたよ。その名は魔法によって、永久に記憶から消してしまいましたけど」
「ほう……どうして?」
「大切な家族も、生まれ育った家も、幸せな思い出に満ちた故郷も、すべて喪ったから。早い話が、手向けですね。喪われた者たちに私の名を捧げることで、私という存在を社会的に屠り、亡き者たちとの同化を図る……それで、せめてもの慰霊になればと」
「死者を弔うために、生きながらの死を望んだ結果が、名なし娘とはね。どうにも、理解を超えた発想だわ。私のような存在にすらナンセンスと言われてしまうなんて、社会的には失格者よ。恥ずかしいとは思わないの?」
「とどのつまりは、自己満足ですから。他者の理解を得ようとは、端から思っていません」
「ふぅん。やっぱり貴女は、変わり者の希少種だわ。そんなにも簡単に、自分の名前を捨てられるなんてね」
「そうせざるを得ない理由があれば、誰でも同じ選択をする。それだけの話です。ほらね、言ったとおりでしょう? お姉さまに聞かせる価値もないって」
「それは私が決めることよ。貴女の価値基準を、私に押しつけないで」
「あら、失礼」
 
 まったく、なんて小娘だろう。ほとんどの人間は元より、多くの同類ですら私を畏れて、言葉を交わすどころか、近寄ろうともしないのに……。冗談ごとではなく、気が触れているんじゃないかと疑わずにいられなかった。
 私が調子を狂わされている理由も、そこにあるのかも知れない。真相はともかく、こうも気安く軽口を叩かれることに、私は慣れていないのだ。それが、取るに足らない存在と見下してきた人間風情ならば、なおさら戸惑いは大きくなる。もっとも、この娘は人間の姿をしているだけで、実際は違うようだけど。
 
「まあ、とにかくだ」
 
 こちらの反応を愉しんでいるのか、悠然と微笑みを絶やさない少女。まっすぐに向けられる視線に、私は柄にもなく狼狽えて、わざとらしく咳払いした。喉に引っかかった言葉を紡ぎだすには、必須の作業だった。
 
「私は、聞かせてもらえて満足しているわ。変わり者の希少種と評したのも、嘲ったわけじゃない。むしろ賞賛と思ってちょうだい。未練を引きずらない、不貞腐れない、そんな貴女の生き方には好感が持てるわ。本当よ」
 
 言いながら、少女の手荷物について思い返す。
 汗や泥にまみれて黒ずみ、端が擦り切れた粗末なバッグに押し込んだ9巻の本――この少女が携えていたのは、それだけ。女の子なら普通に持ち歩いているはずの櫛やアクセサリー、香水などの化粧品は疎か、髪を束ねるリボンすら持っていなかった。
 入浴前に嗅いだ体臭からして、長らく着の身着のまま彷徨っていたのは歴然だ。年頃を迎えた娘が、自分の体臭に無頓着でいられるはずはない。裏返せば、身体を洗う余裕さえない境遇だったと言うこと……すべてを喪ったと言うのも、まったくの出任せではないのだろう。
 
「それでも、いくつか腑に落ちないけどね」
「はい?」
「揚げ足を取るようだけど、すべて喪ったと言うのなら、貴女が後生大事に持っている9冊もの本はなに? 自慢の姉や妹がいると話してたのも、考えてみると変よね。喪ったなら、過去形で語られるべきことだもの。なのに、貴方は『いました』ではなく『います』と言ったわ。矛盾してるじゃない、いろいろと」
「この本こそが、私の両親であり姉妹だとしたら?」
 
 少女は言った。それまでの微笑を完全に消し去り、ひどく平坦な口調で。
 そして私は、また絶句する。これはまた大層な冗談だ。とても信じられた話ではない。例によって、私を煙に巻こうという魂胆か。それとも、今は亡き家族の記憶を、形見となった本に重ねているだけなのか。
 
「本が家族ですって? だったら、貴女は本に生みだされた何者だと言うの? まさか、錬金術で生みだされたホムンクルスか、精霊の類――とでも?」
「この期に及んで、嘘は吐きませんよ。私は魔法によって生を受けた者です」
 
 私は大仰に、肩を竦めて見せた。いささか芝居がかっていたかも知れない。
 だが、そうせずにはいられない心境だった。
 
「は! まったく馬鹿馬鹿しい。錬金術師によって創りだされた人造人間だなんて、誰が信じると思うの。そもそもホムンクルスは、もっと小さいはずよ。貴女みたいな人間サイズは、聞いた憶えがない。もう少し、マシな冗談を希望するわ」
「お姉さまが信じようと信じまいと、真実は変わらない。この9巻セットの本は、私の家族です。私にとって、生命そのものと言って差し支えないほど、大事なものなんです」
 
 そんな言葉を、真剣な表情で投げつけられては、調子よく躱すことが躊躇われてしまう。それもまた、小娘の策略とでも言うのだろうか。
 しかし、魔法によって生を受けたとの話は、少なからず真実を含んでいそうだ。
 
「ふん……まあ、いい。そんなに大切なら、二度と奪われたりしないように気をつけなさいな」
「ご忠告は、胸に刻んでおきます。油断してたんですね。問答無用で襲撃され、金品を強奪されることはあっても、本まで取りあげられるとは思ってもいませんでした」
 
 私が言えた義理ではないけれど、随分と世間知らずな娘だ。世間ずれしていない点では、純粋培養された深窓の令嬢を思わせる。これは……もしかしたら本当に、箱入り娘ならぬフラスコ娘なのかしら。
 考えてみたって、解らない。なにしろ私は、自慢じゃないがホムンクルスの実物なんて、見た例しがないのだから。あるのは書物から学んだ知識だけ。目の前で、美味しそうにホット生き血ミルクを飲んでいる少女が人造人間かどうか、見分ける術を持ってはいなかった。ただ、純粋な人間とは違う存在だとしか。
 
「ねえ――」
 
 だからこそ、余計に知的探求心を刺激されてしまう。あるいは、それすらも口実に過ぎなくて、私はただ珍しい生き物をペットにしたいだけなのかも知れないけれど……。
 どうすれば、この少女をもっと観察できるだろう。私は考えを巡らせた。そして、呼びかけたときには、至極簡単な結論に辿り着いていた。
 
「これから、どうするつもり?」
「そうですねぇ。お姉さまに、本を取り返した報告と御礼は言えましたし……ほとぼりが冷めたら、また当てもなく流離いの旅に身を投じるとします」
「急ぎの予定や、決意はないと言うのね」
「ええ。なにしろ、気ままな天涯孤独になってしまいましたから」
「だったら、ここに腰を落ち着ける気はない? 貴女が望む限りずっと、この館で暮らしてもいいのよ」
 
 猫なで声で誘うと、やおら躊躇する少女。ずけずけと他人の領域に踏み込んでくる割には、踏み込まれることに不慣れな様子だ。なるほど、イニシアティブを取られたら、一方的に押しまくられるタイプか。世間知らずで、コミュニケーション能力も拙いとは……本当に、手のかかる幼子を彷彿させる。まあ、私も他人をどうこう言えるほどの擦れっ枯らしでは、ないつもりだけど。
 しかし、これはこれで幸いだろう。思惑どおりに事態を運べそうだ。
 
「乗り気じゃないようね。こんな辛気くさい屋敷じゃ不満?」
「そんな……とんでもない。願ってもない提案ですよ。ただ、私には食客の身に甘んじられるだけの技能がないので、気が引けてしまって」
「魔法が使えるだけでも、充分すぎると思うけど」
「あんな子供だましのレベルでは、かえって申し訳なくなるだけです」
「謙遜ね。私が見る限り、貴女には人並みはずれた魔法の素養を感じる。磨けば光るはずよ」
「お姉さまは、御世辞がお上手ですね」
 
 私のセリフは、少女の失笑を買った。だが、それこそ私の求めていた反応。
 まんまと術中に嵌まってくれたのだから、もっと掌の上で踊ってもらうとしよう。
 
「貴女は、嫌味が上手ね」
 
 すぐさま苛立たしげに切り返して、眼光鋭く睨めつけた。心理的な圧迫を加えることで、有無を言わせず肯定させるために。
 迫真の演技が功を奏したらしく、少女は素直に非礼を詫びて、続けた。
 
「お姉さまに評価されるのは、背中がくすぐったくなるくらいに嬉しいです。でも、買い被りすぎてますよ。私なんか、暴力に晒されれば生命よりも大切な本さえ、簡単に強奪されてしまうほど脆弱なのに」
「ひとつ、教えておくわ。私は御世辞なんか言わない」
 
 もっと言えば、回りくどい表現も嫌いだし、自虐など唾棄すべきものと見做している。しかし、いま敢えて言う必要もないので、それは伏せておいた。
 
「とにかく、ここには貴女にとって有益な環境が整っている。私の庇護の元で、衣食住の心配をしなくても済むし、地下の大図書館を自由につかうことも許可するわ。魔法関連の蔵書は豊富に揃っているし、貴女に魔法使いの師を紹介することだってできるのよ」
 
 とどめとばかりに畳みかけ、殺し文句を口にする。
 
「それに、木を隠すなら森の中と言うじゃない。貴女の大切な本の隠し場所として、図書館ほど最適な場所は、ないと思うけど?」
「あ……」
 
 ぽん、と少女が掌を打ち鳴らした。それは私にとって、勝利を讃える喝采あるいはファンファーレ。欲しいものを得られた歓びに、自然と唇が綻んでしまう。私は自らの欲望に忠実なのだ。
 
「私の館が、貴女にとっても安住の地になってくれたなら、とても嬉しい。返事を聞かせてくれるかしら」
「選択の余地は、ないみたいです。と言うか、ここを訪れようと決心したときにはもう、そうなることを望んでいたのかも知れません。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「心から歓迎するわ。ただ――」
「なんでしょう?」
「そうなると、名なし娘のままじゃあ不便よね。私の妹や、館の住人たちに紹介するとき困る」
「でしたら、私に名前を与えてくださいな。そうすることで、私は正式に、この屋敷の一員になれます」
 
 なるほど、道理だ。では、館の主として素敵な名前を贈るとしよう。
 しばし思案して、私は愛用しているエッセンシャルオイルの、原料の名称を口にした。古来より【千の用途を持つ木】と呼ばれ、重宝されてきた植物である。肌身離さずと言ったら大袈裟だが、それに近い願望を宿していたのも確かだ。この娘を愛玩用のペットとしてではなく、お気に入りのアクセサリーくらいに思い始めていたのは間違いない。
 
「だったら、貴女は今日からリンデンよ。それが、貴女の新しい名前」
「いい感じの響きですね、気に入りました。ありがとうございます、お姉さま」
「我が館の住人となった以上、それは止めてもらおうかしら」
「それ、とは?」
「お姉さまと呼ばれるのは、なんだか気恥ずかしくてね。お互い、名前で呼び合いましょ。私は、エリス。敬称はつけずに、呼んでみて」
「うーん……さすがに、主人の名を呼び捨てにするのは気が引けます。もっとくだけた感じに、エリィ……じゃダメ?」
「いいえ。そう呼ばれたのは初めてだけど、なかなかどうして、悪い気がしないわ。まるで、古くからの友人同士みたい。私も、貴女のことをリンと呼ぼうかしら」
「エリィがくれた名前ですもの、好きに呼んでください」
「決まりね。よろしく、リン」
「こちらこそ、よろしくお願いします。エリィ」
 
 そんなこんなで、我が紅魔館に同居人が増えた。メイド長を迎え入れてから、じつに60年ぶりのことだ。
 パチェの素性は不明だけれど、それは然したる問題じゃない。この世に私が生を受けて初めて、書物でしか知り得なかった親友と呼べそうな存在ができたこと――そちらのほうが、よほど重大な関心事だったから。
 
 
        ▼        ▲ 
 
 幸せそうな顔――
 私は、純粋な驚きに包まれていた。この館に身を置くようになってから、少なからぬ時間が経つはずだけど、これほどまでに満たされた面持ちのお嬢様を見るのは、始めてかも知れなかった。
 
「好きになってしまったのですね? 夏の日の夕立みたいに、思いがけず現れた女の子……リンデン様のことを」
「ええ」
 
 冷やかすつもりが、呆気なく肯定されて拍子抜け。私は仕切り直すように、わざとらしい咳払いをして、お嬢様の飲み干されたカップに温い紅茶を注いだ。色は濃すぎる紅で、ハーブの薫りはともかく、一瞥するだけでも口中に酸味と渋味、微かな鉄味が広がってきた。
 
「もしかしたら――」
 
 しかし、お嬢様は紅茶の色を気に留めた様子もなく、それを唇に運んだ。
 直後、見る間に幼い表情を覆い尽くした苦渋は、紅茶がもたらしたものか。あるいは、もっと他の……心の底に沈んでいた澱が巻きあげられたためなのか。
 どちらとも、私には解らなかった。
 
「フランドールよりも、好きだったかも」
「妹様よりも?」
「あり得ないことだと、笑ってくれてもいい。私だって、未だに信じられないもの。自分の妹よりも、出逢って間もない他人に強い親しみを抱くだなんてね。あるいは理性をも凌駕して、種の保存のための原始的で本能的な衝動が働いたのかしら」
「惹かれる理由なんか、実際のところ当人たちにも解ってないものですわ。だいたい、そう自嘲することはお嬢様はもちろん、リンデン様の名誉をも傷つけることになります」
 
 安易な同意や慰めを口したつもりは、ない。他人には、そうとしか聞こえなかったとしても。だから、私は臆することなく続けた。
 
「元々なんの接点もなかったお嬢様と私も、毎晩こうして、飽きもせず会話してるくらいですもの。血族とか年齢とか、そういうのは結局、巧くいかなくなったときに都合よく用いられる自己弁護――ただの言い訳ではないでしょうか」
「そうなのかな? 私は、変じゃないの?」
「少なくとも私は、お嬢様が抱いた感情を、おかしいとは思いませんよ」
 
 こんな言葉のやり取りをすることで、互いの気持ちが救われるのなら、それもまたよし。どれほどの意味や効果があったのかは、成り行きに任せて、じっくり検証していけばいい。そのための時間は、いくらでもあるのだから。
 私の意見を受けて、お嬢様の紅い瞳に、深い憂いが満ちた。
 けれど、それも一瞬。どちらからともなく、私たちは恥じらいを溶け込ませた微笑みを交わし合い、視線で意志を確かめ合った。それが、回想の世界へと戻る合図。
 
 はたり、はた、はたり……。
 窓の外では、依然として雨が降り続いている。
 
 
 
   【3】  対等に接してくれる、そのことが嬉しかった。
 
 
 リンが我が館で暮らし始めてから、私にも欠かせない日課ができた。月光の降り注ぐテラスで、ささやかなティータイムを、この娘と愉しむことだ。
 そうするように、私から命じたわけじゃない。リンのほうから私の生活スタイルに当然とばかり同調して、相席するようになったのである。もう、彼女がホムンクルスかどうかなんて、気にも留めなくなっていた。
 もっとも、一介の妖怪とも見なしていなかったけれど。
 
「ねえ、リン。私たちが、こうして一緒にお茶を飲むようになって、どれだけの時間を数えると思う?」
「ん? さぁ……どうだったかな」
 
 リンは頸を傾げ、テーブルに置いた分厚い魔導書の表紙を、そっと撫でた。まるで、膝の上に載せたペットの猫を慈しむがごとく、優しく官能的に。その艶めかしい仕種を眺めているのが、私は好きだった。
 
「そう言うエリィは、数えているわけ?」
「今宵は私たちが巡り逢ってから、609回目の満月。人間の暦で言えば、50年よ。長いようで、あっと言う間だったわ」
「もう、そんなになるのね。あんまり意識してなかった」
「なるのよ。地下の図書館に篭もりがちだから、リンの時間感覚も随分と狂ってしまったのじゃなくて?」
「恥ずかしながら、それはあるかも」
 
 言葉どおりに、リンが照れ笑う。その表情や立ち居振る舞いに、出逢った頃のよそよそしさは、もうない。私に対して、必要以上の敬語を使うこともなくなったし、ときどきは一緒に添い寝もしている。内面はもちろん、外見だってそうだ。短く切りつめていた彼女の髪も、今では艶やかなロングヘアーとなっている。変わらないのは、五十年を経てなお若々しい見かけだけ。普通の人間ならば老いさらばえるに充分な年月も、リンには微々たる経過だった。
 思えば、ここまで打ち解けるのに、随分と時間を費やしたものだ。まだ、すべてを曝けだし合うほどではない。しかし、かなりの部分で相互理解が進んでいるのは、わざわざ論理的思考や客観的視点を持ちだすまでもなく明らかだろう。
 ナンセンスな話ではあるけれど、私もリンも、互いを百100年来の親友みたいに思い始めていた。馴れ馴れしくしたり、されたり……どんなに他愛ない交流でも心の奥底が刺激され、それを快く感じるほどに。
 
「ところで、どう? 勉強は捗っているの?」
 
 宵闇に映える月光を、深紅のお茶に落としつつ、気軽に訊ねる。勉強とは、魔法の習熟についてだ。リンは暇さえあれば昼夜を問わず、図書館の主と化した魔女の元で、魔法を基礎から学び直している。私の見立てどおり、なかなかの素養らしく、魔女の目から見ても驚くべき吸収力なのだとか。それを聞くと、やはり出生の特異性に思いを巡らせてしまう。
 ごく普通の人間ではない――さながら、生まれついての魔法使い、と言ったところか。
 リンは澄ました顔のまま、小さく頷いて見せた。
 
「ええ、とても順調よ。きちんと教えを請える先生がいてくれると、やっぱり理解できる早さが違うわ。痒いところに手が届く――そんな感じ。独学では、こうはいかなかったから、今は勉強するのが愉しくて寝る時間も惜しいくらい」
「リンは知的探求心が強いね」
「さぁね、どうなのかしら。魔法しか取り柄がないから、のめり込んでいるだけかも知れないし」
「夢中になれるものがなくて退屈するよりは、ずっとマシよ」
 
 なにげなく放ったつもりが、私の口振りには、なにかが含まれていたらしい。感受性の強い者を穏やかではいられなくする、なにかが。
 それを、如才なく感じ取ったのだろう。リンは一旦、言葉を探すように黙してから、徐に会話を継いだ。
 
「エリィは退屈していたのね」
 
 リンの声は耳からだけでなく、吸い込んだ空気や、嚥下した紅茶とともに私の奥深いところまで無遠慮に侵入してきた。それは質量など持っていないはずなのに、反撥しようとする心を盤石の重みで抑えつけ、私の喉を詰まらせる。ささやかな反駁を漏らすことさえ、許してはくれなかった。
 
(確かに――ええ、そう。確かに、当たらずとも遠からず、だわ)
 
 息苦しさすら覚える中で、ブツ切りにした言葉を反芻する。
 およそ認め難いことながら、私は孤独を持て余していた。館の当主であり、夜の貴族たる吸血鬼であっても……そんなものは大層にして空虚な肩書きにすぎない。ひとたび称号なんてヴェールを取り払ってしまえば、私はひどく没個性で、身勝手で、嫌われることに怯える人見知りだった。実の妹との交流にさえ手を拱いて、距離を置く始末なのに、どうして妖精メイドたちとプライベートな交流を図れようか。
 この広い屋敷の中で、大勢の従者たちに囲まれていながら、私は独り。最も近しいメイド長でさえ、公私の一線から逸脱することはない。当主として、姉として、高貴であろうとすればするほど、周囲から隔絶されるような感覚に苛まれ、それを糧に孤独が成長するという悪循環に陥っていた。いろいろ興味を持つものの、長続きしない理由は、その辺りにありそうだ。
 私はきっと、独り遊びのための人形を欲していたのだと思う。そんなときに巡り会った不思議な存在こそが、リンだった。長く生きるほどに色褪せていく世界に、もう一度、鮮やかな色を蘇らせた存在。そう、時間と共に際限なく増すのは、孤独ばかりではないと、リンが私に教えてくれた。
 
「そうね。でも――」
 
 だからこそ、リンの瞳をまっすぐに見つめて、素直な想いを口にする。おそらくは私の動揺など看破されているだろうと思いつつも冷静を装い、数百年にわたり膨らみ続けた孤独と、異常なまでの気恥ずかしさを懸命に脇へと押し退けながら。
 
「今は違うわ」
「なぜ?」
「相変わらず、リンは小憎らしいね」
 
 ちょっとした苛立ちは、皮肉となって紡がれる。まったく……可愛げがない。おままごとの人形としては、甚だ不向きだ。それなのに、なぜか離しがたい愛おしさを自分の裡に感じるのが、また癪に障る。
 
「容易に察しがつくでしょうに、言わせなければ気が済まないわけ?」 
「エリィの声で聞かせて欲しいのよ。エリィの想いを、エリィの言葉で」
「よしてよ。ますますもって、言えるものも言えなくなるじゃない」
「それなら、少しだけ手伝ってあげる」
 
 リンはティーカップを置くと、テーブルに肘を衝き、両手の指を胸の前で絡めた。その仕種は、リンの落ち着いた物腰と相俟って、さながら祈りを捧げる尼僧か修道女のように見えた。実際、そんな職に就いたとしても、リンならば巧く振舞うことだろう。私のように頑迷で、限られた生き方しかできない不器用者とは違って。
 
「私が簡単な質問をするから、エリィは必ず、イエスかノーで答えること」
「必ずってとこが、そこはかとなく怖いわね。正直、イエスという単語には、いい感情を抱けないけど……まあ、いいわ。受けて立とうじゃないか」
「それじゃあ、まず――私のこと、好き?」
 
 飲みかけの紅茶を、噴いてしまった。あまりにストレートすぎて、それ以外のリアクションができなかった。と言うか、カップから噴きあげられた紅茶を顔面に浴びて、メチャクチャ熱い。
 リンは眉を八の字にして、ハンカチを手渡してくる。私は顔を拭いながら、次はリンの顔めがけて噴いてやろうと決意を固めていた。
 
「そこまで狼狽えるような質問だったかしら。大袈裟すぎじゃない?」
「いきなりすぎなのよ!」
「はいはい。それで、答えは?」
「答えは……えぇと、その……き、嫌いじゃないわ」
「捻くれた解答ね。それなら、次の質問。どのくらい好き? 実の家族と……たとえば、妹様と同等のレベル?」
「精々が親友どまりね。それじゃ不服かしら」
「概ね、狙いどおりの答えを引きだせたから、むしろ上機嫌」
「あっそう。って言うか、もうイエスかノーかも関係なくなってるし」
 
 肩を竦め、呆れて見せたのに、リンは微笑みを崩さなかった。この娘は、なかなか私の思惑どおりの反応を見せてくれない。私はいつも、リンの思惑に乗せられてばかりなのに。
 まあ本音を言えば、そんな一筋縄でいかないところが憎たらしくて、けっこう気に入っているけれど。
 
「それじゃあ、三番目の質問」
「まだ続ける気っ!?」
「エリィが素直にならないからよ。さらっと言ってしまえば、楽になるのに」
「前言撤回。やっぱり、リンのことは嫌いだわ」
「私は好きよ、エリィのこと」
 
 どうして、そんな恥ずかしいセリフを、臆面もなく言えるのか。高貴な育ちの私が奥ゆかしすぎるだけで、このくらいは普通だとでも……?
 いや、そうではない。リンは毎度のごとく、私をからかって愉しんでいる。今回も、遊ばれているに違いない。そう思ってしまうと、もう穿った見方しかできなくなった。強い感情によって現実が歪められ、イメージが固まってしまうことは、往々にしてよくあるのだ。その点において、人と妖魔の差異はない。
 
「ふぅん」
 
 これまでとばかりに素っ気なく鼻を鳴らし、私は手にしたまま忘れていたティーカップを唇に運んだ。……が、温い紅茶を飲む寸前で、ふと思い留まった。
 
「ねえ、リン」
「なぁに?」
「いま言ったことは嘘偽りじゃないと、誓える? 誓えるなら、もう一回、ちゃんと聞かせてよ」
 
 言って、私は今度こそ黄昏色の液体を口に含んだ。そして――
 
「エリィのことが、好きよ」
 
 次の瞬間、リンの顔めがけて紅茶を噴きかけていた。
 
 
        ▽        △  
 
「さっきのアレは、エレガントじゃないと思う」
 
 珍しく不機嫌さも露わに、リンが呟く。紅茶まみれになった服を着替えるついでに、入浴しているときのことだ。湯に濡れて色を深めた髪を眺めるうちに、先刻の記憶が蘇り、熾火と化していた怒りが再燃したに違いない。だが私にとって、それは快哉をもたらす福音に等しかった。その声音が聞けただけで、私の溜飲は充分すぎるほど下がったのだから。
 
「どう贔屓目に見ても、淑女の所作には相応しくないもの。まるでテッポウウオよ、テッポウウオ! なんてこと、エリィはテッポウウオの化身なんだわ!」
 
 憮然と言いつつ、リンは薬湯に浸したタオルを差しだした。それを私は、これ以上ないくらいの笑顔で受け取り、サウナで汗ばんだ肌を丹念に拭いながら、鼻歌混じりに返す。
 
「なんのことぉ?」
「私に向けて、紅茶を噴きかけたことよ。しらばっくれて……わざとらしいわ」
「たまたま噎せただけ――とは、考えないわけか」
「偶発的にしては、やけにタイミングが合いすぎてたもの。そう、最初から狙い澄ましていたかのようにね」
「リンは、アンラッキーな確率に当たっただけ。そうなる運命だったの。割と、よくあるアクシデントよ。だから、あまりネガティブな憶測で、ものを言わないほうがいい。それが習癖になって、いろいろと生き辛くなるのはリンだからね」
 
 ――などと、胸裡では舌を出しながら、もっともらしい意見を口にする。
 リンは掴みかからんばかりにグイと身を乗りだし、さらに反論してきそうな気配を見せたが、結局これ以上の追求を諦めたようだった。その選択は、じつに賢明だと褒めておこう。しつこく訊かれたって、どうせ白を切り続けるだけだから、お互いに時間を浪費しないで済む。
 
「エリィは本当に、いい性格ね」
「御世辞を言ったって、なにも出ないよ」
「皮肉よ」
「知ってるわ」
 
 遠慮会釈もない言葉のやり取り。なにも知らない他人が聞けば、あまり仲のよくない二人と見做すのだろうか。
 けれど、当の本人たちは、割とこの距離感と気兼ねのなさを愉しんでいる。特に、無二の親友というものを知らなかった私は、リンとの馴れ合いに新鮮な驚きを覚えると同時に、どっぷりと溺れかけてさえいた。向けた情愛は、妹であるフランドールに対してよりも強かっただろう。そんな自覚すら、抱いてしまうほどに。
 
「さぁてと……サッパリしたし、あがるわ。リンは――」
 
 もう少し、ゆっくりしていくの? 訊ねようとした言葉は、しかし不意の驚愕によって飲み込まされて、別のセリフに置き換えられた。
 
「リンっ!」私の声が、浴室に響く。「どうしたのよ、いったい!」
 
 リンは胸を押さえながら、蹲っていた。固く瞼を閉ざしたその表情は蝋のように白く、苦しげに歪み、呼吸も荒い。半開きの唇からは、ひゅうひゅうと耳障りな音が漏れていた。明らかな呼吸困難の症状。しかし、背中をさすってやる以外の選択肢を、私は持っていない。とても数百年を生きてきたとは思えない稚拙さで、オロオロするばかりだった。
 
「どどどど、どうすれば……あぅあぅ……あ、そ、そうか! すぐにメイド長を呼ぶわ! もう少しだけ辛抱なさい、リン!」
 
 こんな簡単なことさえ、咄嗟に思いつかなかった自分への苛立ち。
 苦しむ親友を介抱してあげられない、もどかしさ。
 押し寄せるストレスと、フラストレーション。
 それら後ろ向きの感情は、混ざり合って猛然と毒素を発生させた。その毒で、心に新たな化学変化を誘発され、ますます情緒不安定になる私。身体の中で暴走しながら膨張し続ける暗い想いは、おかしな話だけれど、もはや私の制御を離れていた。私でありながらも、そこに私はいなかった。
 
 結局、リンは駆けつけたメイド長に介抱された。私は、らしくもなく涙ぐみながら、親友を運ぶメイド長の背中を追いかけただけ。それは、私が自発的に採った行動ではなかった。体内の化学変化によって、操り人形も同然になっていただけの話だ。
 なのに――この晩の失態が、長く私を忸怩たらしめることとなったのは、いささか不条理な気がする。いっそ、自分ではない誰かのせいにしてしまえたら、どんなにか気持ちが楽になっただろうに。
 
 
        ▽        △ 
 
 ときどき、こうなるのよ――リンはベッドに痩身を横たえたまま、心苦しそうに語った。以前から徴候はあったものの、ここ最近になって、呼吸が重篤な変調をきたすようになったのだ、と。
 だが、人間との関わりを最低限に留めていた私は、当然のことながら人間が罹る病気の知識に乏しかった。吸血鬼の嗅覚で、リンの体臭に健康な者とは違うナニかを感じていたけれど、それさえホムンクルスの特徴なのかも知れないと、根拠もなく決めつけていたのだ。そもそも、リンが本当にホムンクルスかどうかさえ、今度の一件があるまで、委細を調べようともしてこなかった。
 
「いつから?」
 
 ベッド脇に寄せたスツールに腰を降ろしながら、低い声で訊ねる。
 リンは静かに瞼を閉ざし、「そうね」と思案した。もう、呼吸は乱れていない。我が館で随一の知恵者にして図書館の主でもある、老練な魔女のお陰だ。彼女が調合した魔法の薬は、リンの症状に対して覿面の効果を見せていた。それでも、あくまで症状を緩和させるだけで、完治にはより精密な検査と治療期間が必要らしい。
 
「病気を自覚したのは、十歳くらいだったかしら。その頃から、たまに呼吸が苦しくなるときがあって……こんなに悪化したのは、図書館の埃のせいなのかな」
「ちっとも知らなかった。生まれつき、身体が弱かったりする?」
「その可能性は、否定できないわね。でも、肯定もできないわ。家族と暮らしていたときには、こんな重症にならなかったもの。病気になっても、両親やお姉さまは慌てることなく適切に介抱してくれたし」
「ごめんなさい」
 
 咄嗟に、ほとんど条件反射的に呟いていた。発作を起こして苦しむリンを、私は咄嗟に介抱してあげられなかった。慚愧に堪えないとは、まさに今の心情を的確に表した言葉だ。この体たらくで五十年も親友を気取っていたなんて、とんだお笑い種。
 打ちひしがれ、眼を伏せた私を、リンは不思議そうに見つめ返してきた。
 
「どうして、エリィが謝るの?」
「だって、それは――私、なにもしてあげられなかったし」
「即座にメイド長を呼んでくれたじゃない。それに、先生の薬も効いてくれたから、すぐに楽になったわ。エリィのお陰よ。謝らなきゃいけないのは、ずっと体調不良のことを話してなかった、私のほう」
「よしてよ。下手な同情されると、ますます傷つくから。私は無力だった。そのことに変わりはない」
「案外、ナイーブなのね」
「案外は余計だ」
 
 言って、リンの額を指で弾く。軽いデコピンのつもりが、夜の静寂の中では思いの外、大きな音となって私を驚かせた。
 
「あ、ごめん、痛かった?」
「容赦ないわね、エリィは。病人をいたぶるなんて、人間にも劣る行為だわ」
「ショボ~ン」
「ふふ……嘘よ。ちっとも痛くなかった」
「なっ! こいつ、私をからかうなんて百年早いのよ!」
 
 なんて、憤って見せるけれど、本音は愉しんでいた。対等に接してくれる、そのことが嬉しかった。傅かれることに慣れすぎた私にとって、姉妹や使用人とは一線を画したリンのような存在は新鮮で、それゆえに貴重だったのだ。
 
「ねえ、リン。これは、私の勝手な想像だけど」
「なぁに、改まって」
「貴女が魔法を学んでいるのは、その持病があるためじゃないの?」
「……キッカケは、そうだったのかな? ううん、やっぱり違ったと思う。さっきも言ったけれど、たまに息苦しくなるだけで、体質の脆弱さを感じてなかったもの。それにね、私は薬学や錬金術などの調合系って、あまり得意じゃないの。精霊系の魔法を使うほうが愉しいし、性に合っているのよ」
「それなら、図書館の婆さんに教えを請えたのは、むしろ幸運だったじゃない」
「婆さんなんて言ったら、先生に怒られるわよ。本人は、まだ充分に若いつもりだもの」
「外見は、人間の十五歳前後だからね。でも、リンだって知ってるでしょ。あれで千年近く生きているのよ。頭の中身も相応にポワポワ状態だし、婆さんそのものじゃない。それなのに、恋を夢見る魔女だなんて、お笑い種よね? 赤ん坊も白目を剥いて卒倒するわ。ぎゃおーって、さ」
 
 種族は違えども、同性として、いつまでも若く美しくありたいと思う気持ちは理解できる。しかし、千が十五のフリをするのは、やはり詐欺ではないか。二桁も違っていたら、もはやニアピンと笑って済ませられるレベルではない。
 
「……うん、どう考えても詐欺だ」
「ふふ、エリィったら悪いんだ~。先生に言いつけちゃおうかなぁ」
「ごめんなさい、それは勘弁して」
「嘘よ。そんなこと、するはずないじゃない」
「知ってたわ。転ばぬ先の杖を、用意しておいただけ」
「しっかりしてるのね」
「この館を守っていかなきゃいけない当主だもの。当然の配慮よ」
 
 リンと話していると、すぐに本題から逸れてしまう。まあ、女の子のお喋りなんて、それが普通なのだけれど。二転三転どころか五転も六転もして、脈絡もなく元の話題に戻る。私とリンも、その点では完璧に女の子と言えた。
 
「歳のことはさておき、うちの魔女が優秀なのは事実だわ。魔法関連の仕事なら、なんでも引き受けると言うから、図書館の司書としてパートタイマー待遇で雇ったんだけど、私の眼鏡に適っただけはある働き者だからね。魔法使いの家系に育った彼女に師事して学んだら、リンの持病が治る薬や魔法も、そう遠くないうちに創りだせるかもよ」
「うーん。それは、もう少し修練を積んでからの話ね。今はまだ、あれもこれもと乱雑に知識を吸収したり、本を書いて知識や思考を整理するのに手一杯で、応用法を考えるだけの余裕がないから」
「なるほど、道理だね」
 
 健康状態に不安を抱え、明日をも知れぬ身だとしても、知識を蓄えることが不毛だとは思わない。もちろん、宝の持ち腐れとなる可能性は、否定しないけれど。それでも、まったくのゼロでいるよりは、好転の余地を残せるはずだ。
 だから、私はリンを浅はかと笑ったりしない。無駄な努力をする娘だと、哀れんだりもしない。
 
「とりあえず、今夜はもう寝ておくこと」
「そうさせてもらうわ。おやすみなさい、エリィ」
「夜明けには、まだ早いけれど……おやすみ、リン」
 
 リンが枕に頭を沈めたのを見届けて、私も部屋を後にした。
 扉を閉ざしながら、ふと思う。私たちはもっと、お互いを知らなくてはいけないのだ、と。それによって増えた接点が、やがて面となり、干渉する機会が増えて軋轢を生じるとしても、より親密になるために避けては通れない通過儀礼なのだ。そして私は、万難を克服してでも、リンと親睦を深めたいと願っている。
 
「まだ、百年も経ってないんだもの。すべてを理解できたと思うのは、さすがに傲慢と言うものよね」
 
 独りごちたのは、痛恨の失態に対する自己弁護のつもりだったのか。
 ともあれ、この騒動を契機に、私たちはより多くの時間を共有するようになった。些細なケンカをする回数も比例して増えたけれど、それさえ二人にとっては愉しき戯れ。この世でたったひとつの絆を糾うための、大切な儀式だった。
 
 
        ▼        ▲
 
 頭の片隅が、微かに疼く。
 偏頭痛にも似た、奇妙で不愉快な現象は、私の頭の中でなんらかの化学反応が起きていることを表していた。急き立てるように放たれる、不思議な余韻を宿したお嬢様の声が、音の波となって私の鼓膜を騒がせ続ける。その波動が言語情報に置き換えられる過程で、不明瞭ながら確かに存在している異常は、言うなれば中間生成物であり、次の反応を促す触媒でもあった。
 私の脳内で繰り広げられる、劇的な連鎖反応は、暴走気味に疼きを拡大しつつも、やがて焚き火のごとく勢いを喪い、沈静化していった。その燃え残り――遍く拡散しきった白々しき疼きの中に、生成物の結晶を見つけた私は、拭いきれない疲労感を抱えながらも空想の手を伸ばし、躊躇なくそれを拾いあげた。
 新たに生まれた、内より焼かれる痛み。それが、私の思考をある一点へと導く。
 
「いまの話、以前にも聞きましたっけ?」
「さぁ、どうだったかしら。したような気もするし、そうじゃない気もするわ。でも、なぜ急に?」
「なんとなく、記憶にひっかかったものですから。まさか……私って健忘症?」
「ほぅ――」
 
 なんとなしに呟いた私を、好奇に満ちたスカーレットの瞳が射抜いた。
 いや、好奇だけではない。興味の範疇に収まらない感情――たとえば期待のような強い想いが、その細められた瞼には間違いなく宿っていた。
 
「先に、謝らないといけないわね」
「と言うと?」
「しらばっくれたけれど、この話は前にもしたことがあったわ」
「やっぱり、そうでしたか。私もハッキリとは憶えていませんでしたけど、図書館の婆さんという表現が、かなりインパクトあったものですから」
 
 言って、私は対座する少女に微笑みかけた。それが彼女の謝罪に対する、私なりの応諾の印。つられて安堵の笑みを浮かべるお嬢様は、小柄な身なりと相俟って、母親にイタズラを咎められた幼子のようにも見えた。
 
「でも、嬉しいわ」
「はい?」
 
 やおら放たれた、館の主の言葉。その意味を図りかねて、私は間抜けな声を返すのみだった。
 なにが嬉しかったのか。私の赦しを得たことだろうか?
 それとも……?
 あれこれと考え込む私の反応すら貪欲に愉しんでいるらしく、お嬢様は艶然と微笑んでばかり。けれど、いくらも経たず、その唇は徐に蠢いた。
 
「貴女が、憶えていてくれたことが嬉しいのよ」
「なんだか物覚えの悪い子供だと言われてるみたいで、複雑な心境です」
「だいたい合ってるわね」
「えぇー? ひどくないですか、それ」
「だって、本当のことだもの。否定できる?」
「できますわ、否定くらい。ところで――」
 
 私はポットを手に取り、まだ微かな重みがあることを確かめた。
 しかし、そこに温かみはない。会話に熱中するあまり、すっかり冷めてしまったようだ。渋味も、かなり増していることだろう。
 
「お茶の、おかわりは? なんでしたら、妖精メイドに淹れ直させますけど」
「別に、温いのでも構わないわ。手軽に喉を潤せるならね」
「それでは、これを飲みきってから、新しいお茶の用意を」
「そうしてちょうだい。夜は、まだ長いから」
「はい、お嬢様」
 
 私が注いだ冷たい液体を、お嬢様は美味しそうに飲み干した。
 そして、カップを置き、吐息ひとつ。
 
「気が変わったわ。やっぱり、ワインを用意して」
「銘柄は、いつもので?」
「もちろん! グラスは、二つよ。貴女も、たまには付き合いなさい」
「解りました。お嬢様が眠りに就くまで、お相伴に預かりますよ」
「いい返事だわ。でも、筆記のほうも正確に頼むわよ」
「もちろんです」
 
 徐に、私は使用人を呼ぶハンドベルを鳴らす。
 夜の静寂で満たされたラウンジに、それは心地よく響いた。
 気づけば、いつしか雨は止んで、森の中から濃密な霧が生まれ始めていた。
 
 
 
   【4】  とかく、この世は錬金術における坩堝――
 
 
 物事の変化について考えるとき、反応の速さこそが第一に注目されるべきファクターだと、私は考える。
 すり替わっていたことに気づかないほど、一瞬で変化していることもあれば、または逆に、じわじわと緩慢に浸食されて、気づいたときには別物に置き換わっている場合もある。その差を生んだのは、変化を誘発したインパクトの強弱――つまりは原因の影響力だ。反応の速さを注視することによって、原因が及ぼす影響力の多寡を認知し、変化を受け容れるに必要な準備を整えられるのである。特に長い長い時間を生き続ける妖魔には、気持ちの整理をつける作業が、極めて重要なのだ。
 振り返って、私とリンの仲については、どうだったか。先の表現を用いれば、紛れもなく前者であり、間違いなく後者でもあった。喩えるなら、リンは遥か異世界より流れ着いた種子。およそ五十年の暮らしで、凪いだ水面のごとく静かに、けれど樹木が広く根を張るがごとくに、私の人生の一部として揺るぎない存在となった。
 そして、いまでは私に『充実』と言う甘露な蜜の詰まった果実を、絶えず与えてくれる。
 
「最近、あまり眠っていないらしいね。図書館の婆さんが、心配していたわ」
 
 片時も眼を離したくないくらい、かけがえのない存在。
 だからこそ、過保護にもなるし、干渉しすぎたりもする。その善し悪しについては、私には判断がつかない。どのみち干渉せずにいられないことは、解っているつもりだけれど。
 
「ええ。ちょっと」リンは別段、不快を表すこともなく、澄ました表情のまま紅茶を啜る。
「魔法の勉強が面白くて、つい熱中してしまうのよ。そのせいなのかな、ちっとも眠気を感じないの」
 
 気持ちは解らなくもない。私だって、リンとお喋りしていると、時間や疲れを忘れてしまうから。どんなことであれ、夢中になれるのは幸せだ。しかし、魔法使いが魔法の勉強で倒れたりしたら、医者の不養生と同じではないのか?
 
「リンは身体が弱いのだから、あまり無理を重ねるのは感心しないね」
「あら、心配してくれてるの」
「当たり前でしょう。し……し、親友だし」
「相変わらず、その単語を口にするときは吃るわね。そんなに恥ずかしい?」
「違うわ。言い慣れていないだけよ」
「だったら、今度から私を呼ぶときは名前じゃなく『親友』とすること」
「なっ!? だだ、誰が、そんな恥ずかしいことを!」
「やっぱり、恥ずかしいと思ってるんじゃない」
「ぐぬぅぅ」
 
 悔しいが、リンは物静かなくせに口達者だ。それに闊達で、なかなか社交的でもある。会話を弾ませる相手を持てないまま、長く孤高を演じてきただけの私よりは、ずっと大人びているのだろう。
 せめて私も、この百年を妹と――フランドールと仲睦まじく暮らせていたのなら、あるいはもっと違っていたのかも知れない。そんな楽天的すぎる妄想が、独り歩きし始めそうになる。
 私は自嘲という鉄槌によって、馬鹿馬鹿しい妄想を跡形もなく叩き潰した。二度と思いだせなくなるくらい、徹底的に。
 まあ、そうしたところで妄想は生まれ、同じことを繰り返すだけなのだが。
 
「はいはい、私の負けよ。これで満足?」
「そんなふうに拗ねるエリィも、可愛らしくて好きよ」
「……バカ」
 
 子供扱いされるのは業腹だけれど、口では勝ち目が薄い。不利な話題を引きずるよりは、がらっと変えてしまうほうがマシだ。おそらく、リンも仕切り直しを望んでいる。その程度は、お互い普通に察せられる仲になっていた。
 
「今は、どんな魔法を勉強しているんだっけ」
「精霊魔法よ。主に、召喚系ね。それから錬金術の関連も」
「薬学関連じゃなくて? リンにとっては、その分野が肝心でしょうに」
「そう言われても、苦手なものは苦手なのよ。嫌々ながら勉強するのは苦痛だし、先生にも失礼だもの。だったら、愉しみながら得意分野を伸ばしたほうが利口だと思わない?」
「そうね、リンは賢いわ。感心するくらいに」
「あら、エリィに褒めてもらえるなんて光栄ね」
「皮肉だってば」
「私の切り返しも、よ」
 
 さすがの減らず口。でも、それが心地よい。いつまでも、こうして生温く暮らしていきたいと、本気で考えてしまう。たとえ狭い世界に固執する愚か者と嘲笑されようとも、私にとっては紅魔館での生活を護るほうが大切だ。吸血鬼一族の命運を引き合いに出されたって、答えは変わらない。世界の中の一部として紅魔館が存在しているのではなく、私の世界に紅魔館を含めたすべてが従属しているのだから。
 
「なにか、いいことあったの?」
「あん?」
 
 テーブル越しに投げかけられた藪から棒の問いに対処しきれず、間抜けな返事をしてしまった。
 なんの話をしてたっけ? 思いだすより先に、リンが続けた。
 
「満足げな表情だったから、そう思っただけ。違ったならいいの、気にしないで」
「私、そんな顔してた?」
「少なくとも、不機嫌そうではなかったわね」
「こんな気持ちのいい夜に、気の合う友人とティータイムを愉しんでいるのだもの。頗る上機嫌なのは当然でしょう」
「なら、いいんだけど」
 
 なんでもない語らいに、気持ちの悪い間隙が入り込む。それは曇天の裂け目から燦々と降り注ぐ陽光のように、私の心を冷たくさせた。
 
「思わせぶりに言葉を切るね。どうも、気懸かりなことがあるのはリンのほうみたい」
「まあ……ね」
 
 こちらの心理を探るかのように、じっと視線を合わせてくるリン。聡明な娘だから、あるいは既に見透かされているのかも知れないけれど。それでも、私から会話を繋ぐつもりはなかった。
 見つめ合う瞳が揺れて、思惑を孕んだ沈黙は終了。先に睫毛を伏せたのは、リンだった。矢庭に表情を曇らせ、唇を薄く開いて、なにかを語りだそうとする。だが、声はなく、再び閉ざされる。それでも、私からは問いかけなかった。
 やがて観念したらしく、リンは口ごもりがちに語り始めた。
 
「正直に言うと、杞憂であって欲しいと私が願っているだけ」
「うん? 話の筋が、よく見えないわ」 
「この館は、街から隔絶されているわよね」
「私が人間嫌いだからね、食料としてなら話は別だけれど。それに、妖精メイドたちにとっても人里は住み難い場所だし。どうしたって、山奥などの僻地に居を構える他なくなるわけよ」
「産業革命からこっち、人間は次々と森を切り払って生活圏を拡げ、巨大な都市を構築し続けているものね。それによって大気の汚染も拡がり、妖精たちの住処はもちろんのこと、その生命さえ脅かし始めている。近年では世界中で、大きな戦争が起きているとも聞くわ」
 
 騒がしい気配は、結界を透して紅魔館にも伝わっていた。騒音もさることながら、科学という魔法が生みだす侮りがたい破壊力を、人間たちが有し始めた事実も。
 
「血腥い世の中になったよねぇ。まあ、死体の調達に苦労しない分、私たちにとっては暮らしやすいとも言えるのかしら。実際こうも騒がしくなってしまうと、鄙びた片田舎でもない限り、人里の近くに妖精は残ってやしないかもね。でも、それがどうかした?」
「ここ最近ね、この館を覆い隠している森にも、人間が踏み入って伐採するようになってきたそうよ。燃料や建材を求めてのことみたい」
「ああ、それね」
 
 リンに言われるまでもなく、そうした動きがあるのは承知していた。戦争によって灰燼に帰した市街地を復興するため、人間たちは大量の建材を欲していたからだ。敵対する者に爆弾の雨を浴びせ、殺し合いをして、莫大なエネルギーを費やし破壊と再生を繰り返すとは、つくづく人間とは無駄が好きな種族だ。
 ともあれ、まだ然したる脅威ではない。私はそう見なして、結界を強化することもなく、彼らの所行を見逃してきた。しかし、図書館に閉じこもりがちなリンの耳にさえ入るのだから、そろそろ真剣に対応策を講じるべきかも知れない。せめて、万事休してしまう前に。
 
「ねえ、試みに訊くけれど」
 親友に上目遣いの眼差しをくれて、問いかける。「リンは私に、どうして欲しい?」
  
 私たちのテリトリーに近づく人間は、ひとり残らず抹殺すべき。リンがそう主張するのだったら、叶えるに吝かでない。私にとっては容易いことだ。でも……それをすれば、どうなるかも私は経験的に知っていた。
 人間たった一人だけなら、私たち妖魔に比べれば哀れなほど脆弱な存在だ。しかし、けっして愚鈍な生贄の羊ではない。科学と呼ばれる魔法を手に入れてからは、驚嘆すべき勢いで侮り難い脅威となり続けている。彼らの存亡に仇なせば、もはや怪異さえも過去の迷信へと追いやられる時代が訪れつつあるのだ。
 科学と巧智をもって挑んでくる人間たちを烏合の衆と侮り、逆に狩られた仲間は少なくない。その勝利で得られた自信は、より科学を発展させ、さらなる欲望と慢心を育む温床ともなっているから末恐ろしくなる。私が人間を嫌うのも、その辺りの底知れなさに、密かな焦りを覚えているからなのだろう。
 素直に認めるのは、業腹だけれど。
 
「試みと言うか――」リンは細い顎に人差し指を添え、薄い笑みを浮かべて続けた。「常識的かつ建設的な提案をさせてもらうと、衛士を置くべきだわ」
 
 結界を強化するのではなく、警護のための私設軍隊を編成しろ……とでも? 
 私の表情から、こちらの誤解を読みとったのだろう。リンは訂正した。
 
「そこまで、大掛かりなものじゃなくていいのよ。軍隊のような強制力によって排除しようとすれば、どうしても恐怖を抱かせて、反撥を買うものだから。そうではなく、対話によって権利を示し、自主的に退かせるの。とすれば、門番くらいの位置づけが適当でしょう」
「なるほどね。無益な諍いに発展させないための配慮か」
「より説得力を持たせたいなら、あちらのルールを逆手にとって誇示するのも、効果的だと思うわ。たとえば『この一帯は、高貴な御方の私有地であるため、許可なく立ち入りを禁ずる』とかね。必要とあれば、私と先生で、公的な権利書を偽造してもいいわ。そのくらいは簡単なことよ」
「ふむ。一考の価値はありそうだね。公文書偽造はともかく、門番の件は手配しようか。心当たりが、ないでもないから」
 
 私の旧友に、役に立ってくれそうな娘がいる。もう二百年は逢っていないし、頻繁に連絡をとり合う仲でもないけれど、同族のよしみで招聘には応じてくれるだろう。否、非常手段に訴えてでも、言うことをきかせてやる。メイドたちと同様に、衣食住の保証をすれば、文句など言うまい。我ながら名案だ。
 しかし、そのプランを告げた途端、リンは肩を竦めて頸を横に振った。
 
「あのねえ、エリィ。門番に吸血鬼を雇ったら、結局、昼間は手薄になってしまうじゃないの。人間が活動するのは専ら、陽のでている時間なのよ」
「あぁ、そうよね。これは迂闊だった。となると、雇うなら人里に近い妖怪か、最悪の場合は人間になるね。ふむ……非常食として、人間を飼うのもいいかな」
「なんなら、私が人造人間を創ってあげましょうか。もっと手軽に、魔法で死体を操ってもいいし。死体なら食費は要らないから、とてもリーズナブルよ」
「……それはそれで厭だわ、だいたい、ゾンビやスケルトンなんて化け物を徘徊させてたら、余計に排除の口実を人間に与えてしまうじゃないの。ひとつの選択肢として保留するけど、とにかく今日からでも探してみるとしよう。一応、さっき言った私の心当たりにも、連絡をとってみるわ」
「私も、先生と相談してみる」
 
 私とリンは顔を見合わせて、微笑みを交わす。それで、どことなく重たかった空気のすべてが払拭されるわけではなかったけれど、ひとまず穏やかな語らいへと戻ることはできた。
 二人、ほぼ同時にティーカップを唇に運ぶ。そして次には、やはり同時に「温いわね」と呟いて、フフッと鼻を鳴らし合った。
 この感じ、嫌いじゃない。
 
 
        ▽        △
 
 それから三日後のことだ。
 
「いや~、ホントに、ホンっトに助かりましたよ!」
 
 我が紅魔館に、新たな住み込み使用人が加わった。それも、一挙に二名である。なんて運命的な快挙だろう。これも私の、日頃の行いが素晴らしいからに違いない。
 一人は、私の招聘に応じてくれた同族の娘、くるみ。今は昼間だから館の一室を宛い、休養をとらせているが、夜間専門の門番として雇用契約を結んだ。ちょうど、別の館での契約を終え、自由の身だったと言う。
 あとは昼間の門番を揃えれば、二交代の二十四時間体制が完成するのにと話していたところに、優秀なメイド長――サクヤが折りよく候補を拾ってきてくれたのだ。
 それが、いま私の前にいる溌剌とした娘である。
 
「私の城、紅魔館にようこそ。サクヤから、おおよその話は聞いている。災難だったそうね」
 
 サクヤが語るには、街で買い物の最中に、路地裏で蹲っているこの娘を見つけたのだとか。そこで機転を利かせ、働き場所を提供してやると誘ったら、ホイホイついてきたらしい。たとえ門番の適性がなかったとしても、メイドとして下働きさせるか、それ以下なら食材にする予定だったと言うから、さすがの抜け目なさと感心せざるを得ない。
 
「ええ。恥ずかしながら、全財産を入れた財布を落としてしまって……旅行中のことで、途方に暮れていたんです」
 
 彼女――燃えるような紅毛と三つ編みがトレードマークの快活な娘、紅美鈴はソファーに腰を降ろすなり、眉で八の字を描きながら照れ笑った。表情豊かで気さくな印象は、人付き合いの巧さを期待させる。
 
「野宿はいつものことなので、あまり苦にはならなかったんですけど、ここ数日まともに食事もできず、消耗し切ってました。もし、メイド長さんに誘われなかったら、本気で野垂れ死にしていたかも」
「大袈裟ね。妖怪が、そう簡単に死んだりするものか」
「あれ? 私が妖怪変化だと、気づいていたんですか?」
「舐められたものだわ。私は、嗅覚や聴覚が鋭敏すぎて困っているくらいでね。特殊な臭いには、反応も過剰になるの」
 
 なにしろ私は、夜を統べる高貴な一族。人間と妖怪を見分けるなど、大豆と麦を分別するくらいに造作もないことだ。この程度、驚くに値しない。
 ――と胸を張って言いたいところだけれど、実際は相当に紛らわしかった。野宿の連続だった美鈴は汗臭くて、かなり人間に近い存在感を醸していたからだ。ずっと人間社会に混じって暮らしてきたのも、妖怪らしからぬ行動だろう。リンという前例がなければ、きっと美鈴のことも風変わりな人間と思い違いしていた。
 にしても……つくづく思うに、私の屋敷に流れ着く客人は、どうして初対面のとき体臭がキツイのか。ただの偶然だとは思うけれど、その一方で因縁を感じずにいられないほど奇妙にして不可解だ。
 
「あっちゃ~、やっぱり臭います? 重ね重ね、お恥ずかしい。なにしろ野宿の身では、入浴も儘ならかったものですから」
 
 今更ながら、自分の服を摘んでクフンクフンと嗅いでみせる美鈴。
 私は肩を竦めて、美鈴を見据えた。
 
「それでも水浴びくらい、できるでしょうに」
「気ままな独り旅で、この土地には着いたばかりなんです。人目を忍んで、水浴びできそうな場所には心当たりがなくて」
 
 なるほど、言い訳としては笑止千万だが、一応の納得もできる。
 それにしても、妖怪娘の独り旅だなんて随分と優雅な御身分ではないか。一時期の激しい戦火は収まり、見かけだけは平和な世の中になったが、それにしても違和感を覚える。もしや、私と同じく世間に疎い、名家の令嬢だとでも?
 しかし、それなら幾人か従者を連れていそうなものだ。それが普通だし、自然な発想である。私だったら、確実にそうしている。
 状況から推察するに、美鈴はあまり裕福な家柄の出身ではない。目的や理由は知る由もないけれど、シルクロードを辿ってヒッチハイクでもしつつ、遙か東方からヨーロッパまで流れてきた――と言ったところだろう。酔狂なことで。
 
「旅を始めて、どのくらいが経つ?」
「えぇと、人間の暦で1884年だからぁ……ざっと半世紀ほど、ふらふらと」
「暢気なものね。ところで、旅行と言うからには、いつか郷里に帰る予定が?」
「さぁ、どうでしょうか。いろんな世界を見聞して、気に入った土地に巡り逢えたら定住してもいいかな~、なんて思ってますけど」
「故郷や家族が懐かしくなったりしないのかしら」
「別に、なんとも。家族と言うか、義理の妹がいますけどね、もうずっと会っていません。何度か手紙をやりとりして確かなことは、彼女も故郷を離れて東の国へ移り住んだようです。そもそも、私が旅に出ようと思ったのも、人間同士の始めた戦争が煩わしくなったからで」
「ふぅん? いろいろあるみたいね、貴女にも」
 
 口先だけの同情を投げかけるが、それと気づかなかったのか、はたまた天然ボケなのか、美鈴は「いやぁ~まあ、それほどでもぉ」と、へらへら笑った。なんとも憎めない仕種ではないか。私の胸裡で、好奇心が疼いた。
 
「試みに訊くけれど、私の屋敷に留まる気は?」
「その気が皆無だったら、誘われても訪問したりしませんよ」
「いい返事ね。気に入った。うちにきて妹を○ァックしていいわ」
「はいっ、喜んで! ……って、えぇっ?」
「そこは笑うところだから」
「で、ですよね~。あは、あはは……」
 
 ふむ。臨機応変とはいかないが、物事への柔軟性はそれなりか。まあ、私たちが求めている衛士に、社交性の多寡はあまり重要ではないと思うけど。つまりは、招かれざる客を腕力で事務的に排除してくれればいいのだ。
 それ以外のスキルは、基本的に掘り出し物の魅力と考えておこう。
 
「ところで、あのぅ……仕事の内容とか、家賃について質問が」
「家賃は不要よ。使用人待遇で採用した以上、衣食住は保証してあげる。貴女が勤労奉仕を堅実に続けている限りはね。もしも怠慢が目に余るようであれば、容赦なく叩きだすから、そのつもりで」
「当然です。メイドでも厨房係でも使いっ走りでも、全力で働きますよ!」
 
 グッと両手に拳を握る美鈴は、なかなかに頼もしげ。人間相手には、充分な抑止力となってくれそうだ。とは言え、一応は実力を計っておこうか。雇ったあとで、見かけ倒しだと判明しては、さすがに困る。
 
「美鈴には、門番と庭園の管理を任せようと考えていた。これから顔合わせも兼ねて、我が館の外回りを受け持つ妖精メイドたちと力比べをしてもらうわ」
「採用試験ですね、望むところです」
「初めに言っておくけど、試験の途中で死んだとしても恨まないでね」
「もちろん」
 
 いい返事だ。それに、肝も据わっている。死の可能性を鼻先に突きつけられて、悠然と構えていられるのは相当な実力者か、鈍感すぎる愚か者だ。私と紅魔館からすれば、もちろん前者であることを期待して止まないが――
 さて、答えを見せてもらおうか。
 
「でも、その前に」
 
 しかし、立ち上がるが早いか、美鈴は申し訳なさげに苦笑い、口を開いた。
 
「厚かましいのは承知で、お願いします。なにか食べさせてもらえませんか~。おなかが空いちゃって、力がでないもので」
「はん! とことん、お約束どおりなのね。まあ、いいわ。食事くらいは、させてあげる。空腹で実力を発揮できませんでした――なんて言い訳は、私も好まないから」
「ありがとうございます! 私、これでも義理堅いんです。一飯と言えども、恩義には全力をもって報いますよー」
 
 まったく、現金な娘だ。でも、憎めない朗らかさ。こういうムードメーカーの存在は、紅魔館にとっては無論のことだが、情緒不安定なフランドールのためにもなりそうな気がする。
 私の中で重要な決断が下されたのは、正にこの瞬間だった。 
 
 
        ▽        △
 
「――ところでリン、庭を見てくれ。こいつを、どう思う?」
「すごく……荒野です」
 
 隣りに佇むリンの冷ややかな声が、耳に痛い。
 館二階のテラスから見おろす中庭は、さながら台風一過と評すべきか。いや、それすら生温く思えるくらいの荒みようだ。綺麗に刈り込まれていた庭木は、そのほとんどが薙ぎ倒され、代わりにボロ雑巾と化した妖精メイドたちが土を覆い隠していた。まさに死屍累々の阿鼻叫喚。
 私は地獄というものを見たことがないけれど、あるいは、いま眼前に広がっている景色に近いのかしらと思えた。
 
「図書館にいても地響きが伝わってきたけど……なにがあったの、エリィ?」
「いやなに、ちょっと門番の実力テストを、な」
「ふぅん。この娘の仕業と言うわけね」
 
 言って、リンが顎をしゃくった先では、美鈴が所在なさげに肩をすぼめ、身をくねらせてた。少しばかり調子に乗りすぎたと、恥じているのだろう。胸の前で両手の人差し指をイジイジと突き合わせている姿も、なかなかに愛嬌がある。あれほど暴れたにも拘わらず、衣服が乱れていないどころか、汗すら掻いていないのも気に入った。
 
「それで、どうするつもり? 責任をとらせるのなら、手伝うわよ」
「うひぇ~!?」
 
 珍妙な悲鳴をあげて畏縮する美鈴を冷ややかに睨めつけながら、氷を想わす声音でリンが言う。す……と肩の高さに伸ばされた右腕は、私の返事ひとつで無慈悲な魔法を放ち、美鈴を這い蹲らせることだろう。だが、それは私の望むことではない。正直なところ、リンの体調も気懸かりだった。
 
「らしくないね、リン。責任はとらせるものではなく、果たさせるものよ。貴女ならば、そう諭しそうだと思っていたけど、私の勘違いかしら?」
「……いいえ」
 
 と、リンは右腕を降ろす。「勘違いしたのは、私よ。でしゃばりすぎたわ」
 
 それまでの冷徹さは演技だったのかと訝りたくなるほど、呆気なく態度を軟化させた。ときどき、数百年に及ぶ私の知識と経験をもってしても、この娘の思考が解らなくなる。出逢ったばかりの美鈴のほうが、よほど素直で理解しやすく見えた。
 
「とにもかくにも、美鈴」
「うぅ~……私、失格ですかぁ~」
「逆よ。貴女の力量は、充分に見せてもらったわ。門番として申し分ないし、妖精メイドたちも、貴女の実力を認めて服従するだろう。早速、仕事始めとして、この荒れた庭を元どおりにしてもらおうかしら。庭師としての技量も、それで確かめられる」
 
 途端に、それこそ夜闇に沈んでいた暗い森が朝日に照らされたがごとく、美鈴は表情を一変させた。感情が顔に表れやすいのだろう。つまりは単純明快な性格と言うことだ。うむ、じつに可愛げがある。
 
「貴女に、やる気があればの話だけどね」
「は、はいっ! 任せてください、お嬢様!」
「じつにいい返事よ、美鈴。気に入った。うちにきて妹をファ○クしていいわ」
「ちょっ!? エリィ、なに言って――」
「ふふん……お硬いね、リンは。そこ笑うところだから」
「あ、そうだった? ごめんなさい、俗世の冗句には疎くて」
「コミュニケーション能力が足りてないのよ、それ。いい機会だから、リンも美鈴を手伝って庭いじりをしなさいな」
 
 私の軽口に、リンはジト眼で応じた。
 
「……なるほど。最初から、そのつもりで私を呼んだのね。まあ、ここ最近は魔法の勉強で篭もりがちだったし、たまには気分転換もいいかしら」
「その意気その意気。と言うわけだから美鈴、リンを好きにこき使ってやりなさい。私が許可する」
「エリィって、本当は鬼じゃないの?」
「いいえ、悪魔よ。あくまで……ね。ふふふっ」
 
 私の幼気にして渾身の駄洒落に、追従笑いをするどころか「うへぇ」と顔を顰めるリンと美鈴。なんて空気の読めない連中なのか。そこは御世辞でも、主人の顔を立てるべきだろうに! 
 主人として、これは絶対に看過できなかった。使用人の教育不足は、私の責任でもあるからだ。リンと美鈴にも、それ相応の指導を施さねばなるまい。それが義務、私にしか果たせない役割である。
 
「そうそう。作業を始める前に、渡しておくものがあるわ」
 
 怪訝な顔をする二人に朗らかな笑みを振り蒔きながら、私は眼にも留まらぬ早業を披露する。おなかはいっぱいだったけれど、スカーレットナックルは今日も血に飢えていた。 
 
 
        ▼        ▲
 
「――なるほど。美鈴さんが一緒に暮らし始めてから、紅魔館の雰囲気も、現在みたいな賑やかさを得たわけですね」
「笑えるでしょう。怖ろしい悪魔の住処を標榜するにしては、些か賑やかでアットホームすぎている」
 
 言って、お嬢様は弧を描いた唇の隙間に、ルビーのような液体を注ぎ込む。見た目こそ幼女のそれだけれど、ワイングラスを傾ける仕種は洗練された淑女を想わせた。伊達に500年の歳月を生きてはいない、と言ったところか。
 こんなふうに、どれほど些細でも新しい魅力を見つけることが、私にとって日々の愉しみだった。お嬢様が、館の住民たちを見つめ続けてきたように、私の瞳は常に、お嬢様へと向けられている。
 
「この館にとって、美鈴を受け容れた意味は大きい。特に、フランドールの慰めになってくれたこと……これについては、感謝の念さえ抱いているほどよ」
「確かに、妹様の懐きようは微笑ましいですね。この間も、月明かりの下で美鈴さんと一緒に庭の見回りをしていましたよ。以前ほど、情緒不安定でもなくなったみたいですし」
「それについては、きちんと理由があったのだけどね。とにかく、フランドールが自発的に触れ合いを求めてくれるようになったのは嬉しい。本来ならば、閉じ込めてきた者として、そして実の姉として、そうしたケアは私が果たさねばならない役目だろうけど……情けないことね、償いすら他人任せだなんて」
 
 どこまでが、お嬢様の本音なのか。一介の使用人にすぎない私が、主人の深層心理を安易に詮索すべきではないことは、心得ている。どれほど親密な関係を築いていようとも、踏み入ってはならない範疇があるのだ。
 ただ、お嬢様が妹様に対して少なからぬ負い目を感じ、美鈴さんに感謝している事実だけは偽りないだろう。
 
「誰でも、なにかの役には立っているのですね」
 
 だから私は、変に慰めたり茶化したりせず、相槌を打つに留めた。もっとも、それが模範解答だと確信していたからではない。我ながら愚かしく小賢しいけれども、つまりは気の利いたセリフを用意できなかっただけだ。
 中途半端な私の言を受けて、お嬢様は、その小さな肩を竦めた。
 
「とかく、この世は錬金術における坩堝――アタノールに等しい存在だってこと」
 
 呟くが早いか、唇から覗かせた鋭い糸切り歯で、自らの細い小指を噛んだ。
 突き破られた柔肌から溢れ、さらさらと伝い落ちる紅い雫。お嬢様は面白そうに双眸を細め、自身の血をワイングラスに滴下した。
 
「このワインと、私の血とが溶け合うように、複数のファクターは大概において親和性を見せるものよ。その反応が生んだ賢者の石は、よりよき触媒として、複雑玄妙で黄金の価値にも等しい趣をもたらしてくれる」
「美鈴さんは、紅魔館というグラスに注がれた一滴の紅い血液に等しい――と?」
「そう。そして一滴の血液を生んだのは、悪魔の牙たる存在に徹したメイド長だわ。アレは人間の身でありながら、最後まで牙としての勤めを果たしてくれた」
「先代のメイド長――サクヤ様は、どんな人だったんですか?」
「人間にしては、少しばかり長生きだった。もしかしたら、紅魔館に長く暮らして、私の近くにいたからこその長寿だったかもね。ほら、私って陽光に当たると身体の一部が気化しちゃったりするでしょ。それを、知らず知らずに吸引していたので、寿命が延びたのだとしても不思議はないわ」
 
 充分に、あり得る話だ。もちろん、私にとっても他人事ではない。そうした現場に立ち会った記憶も、少なからずあった。であるならば、私の寿命も微妙に延びていることになるのだろう……か?
 思い悩む私を他所に、お嬢様はマイペースで話を進める。
 
「私の本心としては、サクヤに人間を辞めさせたかったわ。初めて出逢ったとき感じたの、これは滅多に得られない逸材だ、とね。だから私が、この館へ受け入れる際に新たな名前と、あの懐中時計を与えたのよ」
「あら。サクヤ様の名は、お嬢様がつけたものでしたか。彼女の、元の名は――」
「さぁてね、もう忘れちゃったわ。ずぅっと、敬愛の念をもってサクヤと呼んでいたから」
「でも結局、それだけ大切な存在だと有形無形に伝えたにも拘らず、お嬢様の願いをサクヤ様は受け容れてくれずに?」
「ええ。従順な彼女の、最初で最後の反撥だったのね」
 
 そう話すお嬢様の様子は、しかし後悔や悔悟を含んではいなかった。むしろ、薄く弧を描く唇に、清々しさを湛えてすらいた。自分の思いどおりにならないと、すぐ不機嫌になるお嬢様の性格からすれば、それは極めて珍しいことだ。
 
「サクヤ様の誇り高い生き方に、感銘を受けたわけですか」
「まぁね、そんなところよ。信条を曲げずに生き続けるのは、なかなかに難しいわ。その存在が脆弱であるほど、なおさらに。強大な力を持たない者は、どうしても長いものに巻かれる運命へと傾ぐから」
「図書館の魔女様の能力を借りれば、永劫に老いない不死者として蘇生させられたのではないですか?」
「バカね。サクヤは人間として、故郷の土に還り、眠ることを望んだのよ。気高い意志には、敬意をもって応えるのが当然の礼儀でしょ。口約束だろうと、反故にしたりはしないわ。そう言うところ、人間よりも妖魔のほうが義理堅いんだからね」
 
 本心は、言葉と裏腹だ。お嬢様の声音から、それが察せられた。優位にある者の温情とは、世間体を取り繕う方便にすぎない。本当は誰よりも、メイド長に求めていたのだ。いつまでも一緒に、同じ時間を歩むことを。
 しかし、結局は方便を貫いて正解だったのかも知れない。身勝手のゴリ押しは、疎遠であれば互いの間に開いた溝を狭める原動力にもなろうが、親密な一枚岩に対しては軋轢でしかなく、亀裂と激震を生むだけなのだから。その余波は当人たちだけに留まらず、周囲の関係にも不幸を広げる。妹様との確執にも悩んでいたお嬢様は、きっと相当な――それこそ血の滲むような努力によって、暴走しそうになる自分の願望を抑えつけたに違いない。
 これ以上の過ちを、重ねないためにも。
 
「お嬢様の話を聞けば聞くほど、先代メイド長は優秀だったと思わされます。美鈴さんを拾ってきたのも、天寿を全うする前に、自分の後任として育てるつもりだったのかも知れませんね」
「いいや。美鈴はいい意味で期待を裏切る拾い物だったけど、サクヤの代わりは務まらないと私は思っていたわ。さすがに、門番と庭師とメイド長を兼任するのは無理だもの。ただ――」
「――ただ?」
 
 お嬢様は、奇妙に語尾を引き延ばしたした。私に向けられた瞳も、どこか茫乎として、白日夢に浸っているかのような気配。
 その理由を推し量るべく思案をしている間に、答えは呆気なく提示された。
 
「当時、サクヤが自らの死期を悟っていたことは確実ね。私が与えた懐中時計の能力が、それを報せたはずだから」
「寿命を教えてくれる時計、ですか。私は、あまり欲しくないかも」
「道具は持ち主によって、如何様にも能力を発揮するものよ。昔から言うでしょう、ナントカと鋏は使いよう……と。使い手が自分に合う道具を選ぶように、道具もまた自分の真価を発揮してくれる所有者を選ぶわ。サクヤほど優秀な人間でも、懐中時計の能力を完全には引きだせていなかったのは、惜しむべきことね。まあもっとも、その当時は私も、懐中時計の真価が解っていなかったんだけどさ」
「お嬢様なら、使いこなせるのですか?」
 
 私の素朴な問いかけに、お嬢様は、あからさまな自嘲を浮かべる。
 
「私にだって、得手不得手はあるよ。予期せぬ事態は、いくらでも起きる。サクヤと美鈴の一件も、それだけのこと。そうね……話すのは恥ずかしいけど、興味があるなら聞かせてあげましょうか。この私が、感情を乱された顛末をね」
 
 異存など、無論あろうはずもない。
 私は静かに頷き、先を促すばかりだった。
 
 
 
   【5】  レディーは少し傲慢なくらいが、ちょうどいいのよ。
 
 
 いつもは、あまり気にも留めないこと――
 漫然と生活していると、とかく多くのことを、おざなりにしがちだ。取り立てて興味を惹かない物事、あるいは日常的になりすぎて価値観が薄らでしまった事象に関して、その傾向はより顕著に現れる。
 身近な道具を、いくつか例として挙げよう。
 時計の歯車は、ただただ回り続け、本の綴り紐は数多の記録を、ひとつの塊に束ねている。そんなことは周知の事実であり、全体における動作原理や役割にまで絶えず心を砕いている者など、皆無じゃないにしても決して多くあるまい。その歯車、その綴り紐に、あまり喜ばしくない変化が訪れて初めて、ようやく誰もが思いだすのだ。
 そして……わずかな後悔と、やり場のない身勝手な憤りを抱えることになる。
 なぜ、こうなってしまったのか――と。
 
「だいぶ、紅魔館の空気にも馴染んだようじゃないか」
 
 もはや欠かせぬ日課となっている、真夜中のティータイム。ただし、今宵の席は屋敷の二階テラスではなく、庭園の一角に設けたベンチだった。
 テーブルを挟んで座る娘――くるみに向けて、ねぎらいの言葉を投げかける。あくまでも、館の主が使用人に対して接するように、鷹揚な態度で。同族であろうとも、そうでなければ示しがつかない。
 くるみは、カップを満たす紅い液体に注いでいた金色の瞳をあげて、しげしげと私を見つめた。彼女の左腕が、金髪を飾る純白のリボンへと伸び、ふらりと意味もなく指を遊ばせる。くるみが考えを纏めるとき、よく見せる癖だった。
 
「急に、どうしたの? エリス」
「どうもしないわ。ただ、急に呼びつけた手前もあって、気になっていただけ」
 
 それは社交辞令なんかじゃない。私の偽らざる本音だ。基本的に自己中心性の強い私だが、そのくらいの配慮はできるし、過失を認める柔軟さも持ち合わせているつもりである。私の基準に沿ったレベルで、だけど。
 
「くるみにも都合があっただろうし、本当に私の元で働いてくれるのかな、ってさ」
「そのことなら、気にしないでいいと最初に言ったでしょ。前の勤め先でも、門番みたいな役目を任されていたからね、仕事についての戸惑いはないわよ。まあ、契約の更新は見送られちゃったんだけどさ。あはは……」
「それこそ、どうでもいいことだわ。過去の職歴なんて関係ない。うちの古参使用人たちと仲よくやってくれてるなら、私は満足ってだけ」
「ふぅん?」
 
 あまり興味を感じさせない返事に相反して、くるみの好奇に満ちた眼差しは、私の身体に絡みついてくる。リンのそれに似た、観察者の眼。まるで、すべての衣服を剥ぎ取られ、肌は疎か毛穴のひとつに至るまで、微に入り細にわたって調べ尽くされるかのような……そんな錯覚に囚われ、知らず知らずに頬が熱くなってしまう。くるみとも一緒に湯浴みをする間柄ではあったが、浴室にいるときには決して抱くことのない、むず痒い感情だった。
 
「よっぽど、メイド長の死がショックだったみたいね。気丈に振る舞って見せるから、余計に目立ってることに気づかないの?」
「そうは言うけど、仕方ないじゃない。喪った部分が大きすぎるんだもの。家屋の土台と一緒ね。ぽっかりと虚ろになった部分へ、仮初めでも何かを補填しておかなければ、傾きすぎて潰れてしまいそうなのよ」
「感情移入しすぎたわけかぁ。確かに、人間にしては魅力的だったね、彼女は。私だって、サクヤの血を啜りたい衝動に駆られたことが、何度もあったから。でも、それだけじゃない気がするのよねぇ。――ははぁん」
「な、なによぅ」
 
 やおら、いやらしく双眸を細めたかと思えば、くるみは抑揚のない声で続ける。
 
「さては、リンデンと美鈴が親しくしてるのが面白くない……とか?」
 
 なにを言いだすかと思えば、くだらない。この私が、嫉妬なんて見苦しい真似をするわけがないではないか。そこのところは、同族のくるみなら解ってくれていると思っていたけれど、私の買いかぶりか?
 身体の芯に、憤りの種火が生まれるのを感じた。私の苛立ちを燃料にして、自身が驚いてしまうほど瞬時に成長する、大きな火柱。激情の炎に身の裡を焼かれて、私は震えた。
 
「随分と安く見られたものだね。ふざけた口を叩くと、くるみでも容赦しないよ」
「そんなにムキになって……やっぱり、面白くないのね。居心地が悪いから、ティータイムを口実に、わざわざ庭園のほうへ逃げてきたんでしょ」
「なんですって!?」
 
 鋭く睨めつけ、テーブルに叩きつけたティーカップが砕けると、くるみは怯んだように少しだけ身を引き、背中の黒い翼を竦めた。その反応が、私の激昂をわずかに鎮める。もし平然と構えられたままだったら、私はいよいよ感情をコントロールし切れなくなったかも知れない。妹のフランドールみたいに暴走して、目の前の少女を壊していた可能性も、まったくないとは言い切れなかった。
 
「エリスが苛ついているのは、見ていたからよね?」
 
 気勢を取り戻して、くるみが私に負けず劣らずの鋭い眼光をぶつけてくる。
 冷ややかな視線を浴びせられて、私の裡で燃え続けていた炎も、少しだけ勢いを衰えさせた。椅子から僅かに浮かせていた腰を、また椅子へと落ち着ける。
 
「知ってるのよ。昨晩、私が門番の引き継ぎの挨拶をしに美鈴の部屋へ行ったとき、リンデンも部屋を訪れたところだった。彼女たちは気づいていなかったようだけど、貴女は気配を消して、柱の陰からリンデンが美鈴の部屋に招き入れられるのを眺めていたでしょ」
「ああ…………確かに、見ていた。偶然、見かけてしまったのよ」
「気に食わない? リンデンと美鈴が、親密になるのは」
「正直なところ、私も自分の気持ちがよく解ってない」
 
 その前置きは、二割が本当で、残る八割は嘘だ。解っていない部分も、確かにある。だが苛立ちの直接の理由は、解っているからこそだった。
 
「でもね、くるみ……面白くないのは確かだわ。だって――」
「だって――なぁに?」
「リンは美鈴の部屋に入ったきり、朝まで出てこなかったのよ。私は廊下に独り佇んで、ずっと朝まで待っていたのに。いったい、なにをしていたのかしら」
「自分は本のそばを離れられない者と、リンデンはいつも語っているからね。ねえねえ、これってかなり意味深長だと思わなぁい?」
「と、言うと?」
 
 くるみは嫣然と双眸を細め、可愛らしい唇から禍々しい呪詛を吐いた。
 
「本とはホン――『紅』を指しているとしたら? そばを離れられないって、つまり美鈴と親密であることの暗喩じゃないかしら。夜な夜なベッドで、愛情を深めるためロマンティックな睦みごとを……って、やめやめ。これ以上くだらない冗談を言おうものなら、余計にエリスを怒らせちゃうわね。今でも充分すぎるほど、怖い顔してるもの」
「そこまで言ってから気遣ったって遅いのよ、バカぁ! くるみの意地悪! あぁもうっ! 貴女といいリンといい、どうして私の神経を逆撫でするのっ!」
「はいはい、ごめんなさい。でも、エリスが想像力を逞しくするほどのことは、してないと思うよ。これ、適当なようで本当は紛うことなく適当な吸血鬼の直感だけどね。単純に、お喋りに夢中になってただけじゃないのかな。美鈴は、昼間はずっと門番か庭仕事をしてるでしょ。長話ができる機会は、夜中しかないもの。もっとも、夜更かしのしすぎで仕事中に居眠りしているらしいから、そこのところは問題ありかも」
 
 本当だろうか……いや……きっと、くるみが推察した程度のことに違いない。
 それでも私は、リンが私のために時間を使ってくれることを願う。お喋りの相手が欲しいなら、一晩どころか一昼夜ずっと付き合ってもいい。私の性格上、それを臆面もなく口にしたりはできないけれど、親友として強く想っていることぐらい察して欲しい。洞察力に秀でたリンになら、造作もないはずだ。
 にも拘わらず、それをしないなんて――親しさゆえの怠慢か。それとも……。
 
「ねえ、エリス。まさか、美鈴を雇い入れたこと、後悔してる?」
「なにをバカな。美鈴は門番としても、庭師としても、よく働いてくれている。掘り出し物と呼んだって差し支えないくらいにね」
「一応は認めてるのね。もしかしたら、これを機に解雇されてしまうんじゃないかと心配しちゃった」
「それこそ愚かな臆測だわ。私は、そこまで幼稚じゃないつもりよ」
「よかった。折角できた家族であり友人でもある存在が、いなくなるのは寂しいものね」
 
 ね? と、小首を傾げて同意を求めてくる仕種が、またぞろ私の胸裡に隠したデリケートな部分を引っ掻き、傷つける。よくもまあ、いけしゃあしゃあと言うものだ。それを解っていながら、なぜ私の気持ちには関心を払ってくれないのか。未必の故意とでも?
 
「くるみも、相当に底意地が悪いね。私を焦らして、愉しんでいるなんて」
「捻くれた発想ね。いかにもエリスらしいわ。昔から、ちっとも変わらない」
「依怙地で悪うございました」
「ほらほら、拗ねないの。子供じゃあるまいし」
「くぅっ! だ、誰のせいだと思ってるのよっ!」
「私のせい? それとも、リンデンが構ってくれないから?」
「……ふん!」
 
 いちいち受け答えするのも癪に障るので、聞こえよがしに鼻を鳴らして、顔を逸らせた。幼稚ではないと見得を切った直後に、子供じみた真似をしたことに気づき、恥辱が私の耳や頬を火照らせる。
 横を向いた私の頬にある星のタトゥーを、テーブル越しに伸びてきた少女の指が、ふに……と突いた。肌に爪が食い込んできて、ちょっと痛い。しかし、その痛みは石を割る鏨のように、どうしようもなく凝固していた私の寂しさを、少しずつ砕いてくれた。
 穿たれた孤独の壁から覗く素直な部分に、くるみの指先が仄かな温かさを伝えてくる。その途端、なぜか痛みは心地よさとなって、私の胸底を妖しく疼かせた。
 
「ごめんね、エリス。ちょっと、からかいすぎたかも」
「ええ、すっかり傷ついたわ私。それはもう、くるみの頸にしがみついて、昼夜の別なく耳元で禍言を呟き続けてやろうかと根に持つくらいに」
「器用な真似ができるのね……。まあまあ、機嫌を直してよ。真面目な話、リンデンは美鈴の故郷や旅の話を聞くために、部屋を訪ねているに違いないわ」
「毎晩、明け方まで、お喋りに耽っていられるくらいに?」
「つい聞き入ってしまうほどに、愉しいんでしょうね。興味を惹かれたなら、エリスも同席してみなよ。諺に、百聞は一見に敷かずと言うわ。美鈴も本好きらしいから、共通の話題には事欠かないはずだってば」
「うん…………私が同席しても、構わないの……かなぁ?」
 
 もしも、くるみの推測どおりじゃなかったとしたら? その疑惑を拭いきれなくて、腰が引けた。
 くるみは、穏やかな魔性の微笑みを浮かべながら腕を伸ばし、私の自慢である金髪を一房、愛おしげに掬いあげた。まるで、愛玩動物でも愛でるかのように、指を絡ませてくる。その仕種は、私に少しの嫌悪感も抱かせなかった。それどころか安らぎさえ、もたらしたほどだ。私も意外と、スキンシップに弱いらしい。
 
「なにを急に、弱気になってるわけ? 館の主人を除け者になんて、できないでしょうに。ましてや親友を仲間はずれにするとは、考えられないじゃない」
「それが、リンの本心ならば嬉しいことだけど」
「エリスは変に勘繰りすぎなのよ」
「世の中を疑いたくもなるわ。だって、くるみもリンも意地悪なんだもの」
「あら、これは失礼」
 
 口振りからして悪びれた様子がないけれど、そこが、くるみの愛嬌でもある。リンにも共通して言えることだが、人を食った態度を見せるタイミングは、天才的だ。それは私の心を苛立たせたりするけれど、それ以上に強い印象を残し、和ませもした。
 あれほど私の裡に渦巻いていた激情は治まり、霧が晴れて静まり返った湖面のように、ただただ心の鏡は私の本性を映すばかりだった。我ながら、どうにも単純すぎる気がするのだけど、深くは考えないでおこう。
 
「よーし、決めたわ! 今夜、これから訪ねてみる。お菓子でも持参して」
「善は急げ、ってね。でも、二日連続で美鈴を徹夜させて、仕事に支障をきたしたら困るよ。いつも居眠りされてたら、門番の意味がなくなっちゃう」
「その程度で限界を迎える妖怪なら、どのみち使い物にならないわ。美鈴も、その辺は弁えているでしょうよ」
「まあ、ねぇ。それじゃあ、いってらっしゃい。早くしないと、美鈴が夢の世界に旅立ってしまうかもよ」
「眠っていたとしても、叩き起こすまでよ。この館では、私がルールだもの。使用人のプライベートはもちろん、すべてを自由にできるのは、私にのみ許された特権だ」
「まるで、一切の運命を操れるかのような発言ね。ちょっと傲慢じゃない?」
「レディーは少し傲慢なくらいが、ちょうどいいのよ。くるみも憶えておくといい」
 
 なんて、本当は図書館の婆さん――見た目は小娘だけど――の受け売りだ。
 くるみは、私がそれを初めて聞かされたときと同様に、素直な驚きを見せてくれた。

「長く生きているだけのことは、あるのね。アドバイスは胸に留めておくわ」
「なんだか、さらっと聞き捨てならないことを言われた気がするけれど……まあいいか。それじゃあ、我らが門番を徹夜させてくるわ!」
「……なんか、目的が変わってるし」
「うるさい。貴女は、門番の仕事に戻りなさいって。ほらほらほら!」
「わっ、ちょっ!」
 
 いい加減、間怠っこしくなった私は、くるみの腕を掴んで引っ張った。
 つんのめるように歩きだしながら、口をパクパクさせる旧友の顔に、ふと重なるフランドールのあどけない面差し。その突然すぎる幻影は、私を少なからず狼狽えさせた。こんなふうに気やすい姉妹の触れ合いを夢想していたのは、もう何百年前の記憶なのか。
 ――すぐには思いだせない。だが、私とフランドールの間には確かに、そんな世界に憧れている時期もあったのだ。
 懐かしむには、まだ早い。それは解っている。あの頃のように、仲よくコミュニケーションを愉しみたがっている自分の本音も。
 あるいは、私がリンや美鈴、くるみを紅魔館に住まわせたのは、キッカケを欲していたのかも知れない。かつて夢見た触れ合いへと、もう一度この腕を伸ばすために。
 
「エリス?」
 
 腕を引っ張っておきながら歩きださない私に、くるみが訝しげな視線を向けてくる。それを曖昧な笑みで遮り、私は逃げるように踵を返した。
 手の中に、くるみの体温を握り締めたままで。
 
 
        ▽        △
 
 美鈴が語る故郷の話は、なるほどリンをして夢中にさせるはずだと、私を納得させた。かく言う私ですら、夜明けまで質問を繰り返してしまったほどだ。
 それまで極東の地について私が持っていた予備知識は、マルコ・ポーロの東方見聞録に基づいたものと、一族の古老組が宴の席で話してくれた、わずかな情報だけである。それ以上を知らなくても、然したる不便はなかった。研究対象にしたくなるほどの、特別な魅力を感じていたわけでもない。
 だが、美鈴を迎え入れたことにより、東方世界に安っぽい親近感を抱き始めたのも確かだった。理由としては、いささか愚直に過ぎるけれど、知的探求心の発端など得てしてそんなものだろう。機会に恵まれれば、紅魔館の住民をお供に連れて旅行をするのもいいとさえ、今では思い始めていた。
 あるいは、そんな心境の変化さえも、サクヤを喪った心の痛みから逃れたいがための、姑息な口実だったのかも知れないけれど……。
 
「これからは、東の国々についての知識も少しずつ集めてみるか」
 
 薄暗い図書館に置かれた、広い文机。
 並んで椅子に腰掛け、二人して本を読み耽っているとき、ふとした思いつきを口にしてみた。隣から聞こえていたページを捲る音が、徐に止まる。
 横目に見遣ると、こちらに顔を向けたリンと、眼が合った。くい、と顎を引いた表情には、うっすらと満足げな微笑みが湛えられている。
 
「名案ね。私は賛成よ、エリィ」
「リンなら、そう言ってくれると思った。図書館の主も、異論はないと思うけど……ねえ、ないわよね?」
 
 立ち並ぶ書架の陰に声をかければ、「ええ、ええ、ないわよー」と、緊張感の欠片もない返事が、どこからともなく届いた。さらに相槌を打つように、猫の鳴き声が続く。図書館の主たる魔女エレンの飼い猫で、名をピタゴラスという。目つきの悪い黒猫だ。飼い猫としては何代目かになるらしいが、委細を訊いたことはない。この一人と一匹は、ほぼずっと一緒にいて、暇さえあれば書架を巡って本を読んだり、整理をしてくれている。
 元々が雇われ図書館司書なのだから当然とは言え、それでも感心すべきことである。メイド長――サクヤが亡きあと、おそらくエレンは紅魔館で一番の勤労者に違いなかった。そもそも魔女とは、魔術を研究する上で勤勉なものだからだ。
 だが、真に驚くべきは悪魔をも凌駕する魔女の地獄耳。こちらからは、向こうの所在が皆目見当もつかないのに、きちんと聞き取り、適切な返事を私の耳元に転送してくる。これでは、迂闊に図書館の婆さんなどと口にできないではないか。
 
「集めるとして、何から買うべきか……」
「できるだけ書物を蒐集して欲しいわ。文字が書かれていれば石版や美術品でも構わないけど、あんまり重いと不便よね。先生も私も、一人で持ち運べないし。美鈴に頼めば、書物だけの仕入れルートを見つけてくれるんじゃないかしら」
「あの娘も生まれと育ちは悪くなさそうだから、なんらかのツテは持ってるかもね。でも、翻訳本が買えるとは限らないわよ」
「原書でも構わないじゃない。異国の言語も学べて、一石二鳥よ」
 
 いかにもリンらしい発想に、つい、笑みを誘われる。なるほど言われてみれば確かに、いい暇つぶしになりそうだ。リンと一緒に語学を勉強するのも、悪くない。その光景を脳裏に描けば、自然と笑みが浮かんだ。
 それに、美鈴を繋ぎとすることで、フランドールとも同じ趣味を共有できるかも知れない。そうなってくれればいいと、かなり本気で期待してしまう。
 
「そうと決まれば早速、美鈴に仕入れ交渉を一任しよう。予算をケチるつもりはないが、できるだけ安く大量に、すぐ欲しいとの条件でね」
「かなりシビアじゃないの、それ」
「気にしたら負けよ、リン」
「いや、勝ち負けの問題じゃなくて」
「じゃあ、なにが問題? この紅魔館では、私がルールだと言ったはずだけど」
「もう……ワガママなんだから。美鈴が過労で倒れても、知らないから」
「そのときは、効果覿面の回復薬を調合してもらうさ。お誂え向きに、魔女が二人もいるんだからね。ちょっぴり飲んだだけで、元気ビンビンになるドーピングコンソメ魔薬を頼むわ」
 
 うわぁ、と言わんばかりに顔を顰めて、「うわぁ」と口走るリン。なかなかに胸の透く反応だ。これが私の気持ちを承知した上での演技だったら憎たらしいけれど、リンなら当然のように、そうした芝居を打ちそうだから困る。
 でも、まあいいか、どっちでも。これから迎える新たな愉しみに想いを馳せれば、この程度の瑣末な迷いは、月にかかる薄雲でしかない。
 
「貴女も、少しはお喋りに加わりなさいよ。エレン」
 
 再び暗がりに呼びかければ、微かに空気の揺れる気配。
 ことこと靴音をさせて、ふわふわ金髪の少女が黒猫を連れて現れた。思いがけない速さだ。気配を感じなかっただけで、じつは近くにいたのかも知れない。鋭敏な感覚を誇る私にすらも存在を察知させないなんて、本当に怖ろしいものだ。エレンがその気になれば、私を狩ることなど造作もないのだろう。
 そんな偉大さなど欠片も見せず、ぽわぽわと穏やかな笑みを浮かべたエレンは、私の背後で歩を止めた。
 
「お仕事中なんだけどなー。なんちゃって、えへへ」
「雇用主の求めに応じることも、仕事の内よ。さあ、お茶を注いであげるから、アドバイスをもらおうじゃないの」
「エリィ、それは親切の押し売りって言うのよ」
「私の認識では、正当な取引だわ。そして、この紅魔館では私のルールが絶対なの。何度も言っていることでしょう? 誰も、ここでは私に逆らえない。その運命に、まだ馴染めてないのかしらね、リンは」
「でも……先生に対して、あまりに不躾なのは聞き捨てならなくて」
「あははっ。リンデンは気にしすぎー」
 
 やおら憮然としたリンを、エレンが陽気に笑い飛ばした。
 魔法の師として、リンはエレンを敬愛しているのだ。だからこそ、私の横柄な態度に苛立ちを感じて、不機嫌さを露わにした。
 一方のエレンは、さすが年長者の風格。ふわりと、そよ風を彷彿させる笑みを漏らすや否や、私の頭を拳で挟んで、ぐりぐり捻り込んできた。通称『ウメボシ』という恐怖の虐待方法である。
 
「いい? エリスは、こういう子なの。それに相応しい付き合いかたを、適宜チョイスしないとねー。憶えておくこと、コミュニケーションは臨機応変よー」
「ちょっ! 主人に暴行を働くなんて、容赦しないわよエレン!」
「あれ? まだ憎まれ口を叩ける余裕が残ってるなら、遠慮は要らないよね? それそれーっ」
「痛たたたた! ごめんなさいごめんなさいっ!」
 
 私は、エレンの折檻に屈した。これだから、この魔女は油断がならない。そもそも魔女の類とは、そういうものかも知れないけれど。とにかく、見かけに騙されると、ひどい目に遭わされる。悪魔より悪魔的なのだ。
 
「うんうん。解ればよろしい」
「うぅ~……なによ、子供扱いして! 私を、なんだと思ってるの貴女は」
「偏屈な独り暮らしのお爺さんの家で育てられた、ワガママで生意気な孫娘(妹属性つき)……みたいな? だいたい、そんな感じー」
「呆れたわ。まさか、私の姉を気取ってるなんて。婆さんのくせ――痛い痛いっ!」
「ダメだよー、エリス。年長者には、それなりの敬意を払わないと」
「ごめんなさいごめんなさいっ! 解ったから、ウメボシはやめて! 頭が割れちゃうぅっ!」
 
 うっかり口を滑らせたら、この仕打ち。これでもリンは、私よりもエレンの味方をすると言うのか。涙目で訴えかけるも、そんな私の想いは、親友に届いていなかったらしい。ばかりか、余計に落胆させられることとなった。
 なぜなら、リンはエレンの所行に瞳を輝かせ、感心しきりだったのだから。
 
「教育的指導は、このくらいにしておこうかな。次からは、淑女たる物言いを心懸けようね、エリス」
「ふ……ふぁい」
「大丈夫、エリィ?」
 
 今更ながら心配そうに訊いてきたリンを、冷ややかに一瞥。この薄情者め。そんな怨みを込めた視線は、しかし意外なほど優しい眼差しに受け止められ、押し戻されてしまった。
 
「だいぶ、本来のエリィらしくなってきたわね」
 
 そう言われて、初めて気づく私の鈍感ぶりも、どうかと思う。我が親愛なる居候たちは、なにより案じてくれていたのだ。信頼するメイド長を喪い、少なからず失意に沈んでいた、この私を。
 改まって見れば、リンばかりかエレンさえ、柔らかく慈愛に満ちた笑みを私に向けていた。さっきの手荒な態度も、どうやら意図的になされたものだったらしい。まったく、回りくどいことをしてくれる。などと憤ってみても、露骨に心配されれば、それはそれで厭になったに違いないけれど。
 結局、リンたちは私以上に、私の性格を熟知していると……そう言うことなのだろう。うん。誰しも、そんなものかも知れない。
 
「私はいつでも、普段どおりよ!」
 
 ゆえに、素直な言葉は返さない。
 それこそが、私なりの素直な反応だから。
 
「さあ、早いところ蒐集する品物の優先順位を、決めてしまおうじゃないの。それが決まらないことには、美鈴に指示できないもの」
「私が欲しいのは、さっき話していたとおりよ、エリィ」
「ねえ、エリス。買おうとしているのは本だけ? それ以外でも可能なら、私は道具や原材料の類も欲しいなー。呪術に関する物なら優先的に」
「エレンは材料も希望、と。ふふ……しばらくは退屈しそうにないね」
 
 どんなものが揃うのか、まだ見ぬ品々を思うと心が弾んだ。
 こんな風にして、未来が過去を埋めていく。紅魔館というパズルから抜け落ちたメイド長――サクヤのピースも、やがて替わりが填め込まれて、まるで最初からそうであったかのように安定した存在となるのだろう。時間の経過が、無限の興味を私に抱かせる。
 でも、正直に言って、私はその変化を受け入れたくない。胸に残る悔恨や虚しさすら、サクヤの生命に他ならないから。新たな記憶で上書きされて、継ぎ接ぎだらけの思い出が残ってしまうくらいなら、いっそ私の心すべてをフォーマットしてしまいたい。それを考えるときだけ、私はいつも、大切な者を奪う死というものに強い嫌悪と、わずかばかりの憧れを抱いてしまうのだった。
 しかし、同居人たちの気遣いに応えるため、このまま温い日々を甘受するのも主人としての寛容というものだ。義務と言い換えてもいいだろう。
 
 私は、あまりにも多くの思惑に縛られすぎている。
 
 
        ▼        ▲
 
「それからの数十年は、東方世界の情報が絶えず集められ続けたものよ。もう量が多すぎて、置き場に困るくらいに。ちょっとした極東ブームだったわ。美鈴が得意げに吹聴するには、本を買うならブックオンなんだってさ」
 
 ワインが饒舌にさせたものか、お嬢様は大袈裟な身振りを交えつつ、いつになく陽気に語った。
 
「あれは一体、どう言う意味だったのかしらね」
「Bookon……即ち仏魂ですわ。東洋の宗教では、死んだ人間の魂を仏と見做すそうですから、著者の没後も長く本という形で魂と意思が残ることを、そのように示唆しているのでしょう」
「へぇえ、それは面白い説ね。知っていたの?」
「知っていた事実を繋ぎ合わせて、適当に考えてみました」
「あははっ、そんなことだろうと思ったわ」
 
 お嬢様は、どこまでも愉しげだ。
 購入した書物は数知れず。紅魔館の蔵書はもちろん、現在インテリアとして館内に飾られている品々も、そのとき集められた道具や美術品の一部らしい。服を繕う生地には、肌触りがよく染めあげも美しい、瀟洒な気分に浸れる東洋の絹が好みになった――とも。
 また、それらの流通過程においても面白い知識が付随してきたと、お嬢様は言う。もちろん取るに足らない噂話も多かったそうだが、取捨選択は抜きにして、貪欲に知的探求心を潤し続けたらしい。集めた伝承は、働き者の魔法使いエレンと、その弟子リンデンの手で本に編纂されて、図書館に収蔵されているとか。
 
「すべてが新鮮だったわ。この館にとって、最も潤沢な時期だったのかも」
 
 しみじみと胸に去来した感情が、ふと口を衝いてでたのだろう。お嬢様の口振りが、いささか年寄り臭く思えて、私の唇も弛む。そのとき私は、お嬢様との間に確かな繋がりを感じていた。慢心による錯覚ではなく、主人と従者の関係よりも、なお強く結びついていると。
 
「物と者が、ほぼ完全に揃っていたんだもの。気の合うメンバーで、共通の目的について夢中になっているときほど、心躍る瞬間はないわ」
「そして、充分に満たされ尽くせば、あとは気怠い衰退があるだけ。現在のお嬢様は、ただただ宝飾と飽食に退屈し始めている――と言ったところですか」
「そうでもないわよ。欲望に限度はないからね」
「あら、まだ求め足りないものが?」
 
 意外に思っての切り返しは、つい呆れを隠すことさえ忘れさせた。嘲るような響きが癪に障ったらしく、お嬢様は鼻息も荒く反駁してくる。
 
「当たり前じゃないの。貴女も女の子なら解るでしょう? 視野に入れば、欲しいものは衝動的に増えていくのよ。それが、誰かの所持品だったとしてもね。あるいは、喪った所有物を取り戻したいと、狂おしく願うことさえ」
 
 偽りない本音だ。そう思えるくらいに、いつになく語気が強かった。特に、取り戻したいと言ったときの、お嬢様の瞳は真剣そのものだった。
 では、そこまで想いを募らせる存在とは、なに? お嬢様の胸裡には、やはり先代メイド長の面影が、今もなお息づいているのだろうか。あるいは、まだ語られていない誰かを、その脳裏に描いているのか。
 私は、よほど好奇に満ちた瞳をしていたらしい。無遠慮な眼差しに晒されて、お嬢様は居心地悪そうに身を揺すりながら、自嘲の笑みで唇を歪めた。
 
「五百年も生きていると、そんな執着心とは無縁になると思うでしょ? だけどね、実際は逆なの。未練がましさばかりが強くなる。何十年も、何百年も、思い悩んで狂おしさを持て余すのよ。この心理状態は、妖魔にとって危険だわ」
「精神面での不安定は、アイデンティティークライシスとなるのですね」
「とても、そう、とても致命的なものよ。だから、妖魔の大多数は暗愚と思えるほどに、欲望に忠実となるの。場当たり的な行動だと自覚していようとも、おかしな妄執に囚われてしまうよりは、ずっと気楽だもの。いわゆる防衛本能かしら」
 
「だったら――」私は、胸に去来した感情を、そっと言葉に変えた。
「私を紅魔館に迎え入れた件も、お嬢様なりの素直な欲望だったのですね」
 
 質問ではなく、確認。そう、私にも答えは解っていた。
 お嬢様の思いつきよる行動は、今に始まったわけではない。およそ私の記憶にある限り、些細なことから壮大なことまで、いろいろと衝動的な労働を強いられたものだ。紅魔館の住民で、お嬢様の気紛れに翻弄されなかった者は皆無。誰もが経験的に知っていた。異を唱えるだけ、時間と労力の無駄である――と。
 
「まぁね。受け皿に余裕ができたから、彩りを加えただけよ。それだけ」
「ひどい喩えですわ。フルーツの盛り合わせじゃあるまいし」
「私にとっては、似たようなものだわ。本質的にもね。多くの妖魔たち同様、自分の感情と感性を満たすためならば、私は取捨選択を躊躇したりしない」
「利己的な行為を正当化するには、最高にして珠玉の殺し文句ですわね」
「そうでしょ、そうでしょ」
 
 言って、お嬢様は爽やかすぎる微笑みを、夜闇の中に振りまいた。
 くすくすと、少女のように笑う様子は、とても悪魔なんて思えない。表現としての小悪魔チックそのものだ。見る者に、そう感じさせるのも魔性の能力なのだろうか。
 
「ところで、知ってるかしら? すべての存在は変容する器であるけれど、そのキャパシティには限界が決められているってこと。個人だろうと、館だろうと、それを超える量は保有し得ないの。人間たちの言葉を借りるなら、エネルギー保存の法則というアレに該当するのかな」
「熱力学の第一法則ですか」
 
 例によって例のごとく、ころりと話題が変化する。それは、別の話題を切り出すための、少しばかり回りくどい助走期間。気が乗らなければ、話の腰を折ればいい。もっとも、お嬢様の怒りを買って無事でいられる自信があれば……の話だ。
 もちろん、私には自信などない。追従笑いを見せて、話を合わせるのみ。
 
「聞き憶えのある単語ですね、エネルギー保存の法則。本来の意味とは、ニュアンスが異なっているようですけど。でも、それは個人の才能みたいに、質量を持たない不明瞭な尺度に対しても、当て嵌まるんでしょうか?」
「愚問だわ。答えは既に示されているのに」
「えぇと……すみません、よく解りませんわ」
「いま、私の前にいる貴女は、誰? なぜ、紅魔館で暮らしているの?」
「それは、お嬢様に拾われたからで……それで…………んん?」
 
 また、思考に白い靄がかかる。久しぶりに呑んだワインのせいか。それとも、いい加減、この身体が眠りを欲しているのだろうか。頭の回転が、急速に鈍くなっている感じだ。
 お嬢様は小さな肩を竦めて、「ダメね」と独りごちた。それが、私に対してではなく、お嬢様自身に向けられた言葉だと理解するのに、かなりの時間を要した。どうして、なにがダメなのかについて思案する努力は、最初から放棄していた。
 
「まあ、いいか」
 
 勝手に独り合点して、お嬢様は話を纏めてしまう。いつも、こうだ。自分本位で周囲の者を翻弄する。せめて、なにがダメなのかについて、説明くらいは聞かせて欲しい。そうでなければ、私は見知らぬ土地で置き去りにされた子供みたいに呆然と立ち尽くし、路頭に迷ってしまう。
 
「ずっと、時間をかけてきたのだもの。今更、焦りはしないわ」
「ますますもって、困惑する言い種ですね。私の至らないところがあるなら、きちんと教えてくれませんか。そうでなければ、直しようがありませんもの」
「いいのよ。貴女は悪くないから。これは、私の問題なの」
 
 だから、あまり詮索しないで。私を射抜くお嬢様の眼差しが、そう語っていた。プライベートな問題、それも主人たる者の秘密であるのなら、私に口を挟む権限や猶予などない。ましてや暴こうとするなど、論外だ。
 モヤモヤは残ったけれど、私はお嬢様の意志に従い、口を噤んだ。
 
「器に水を注ぎ続ければ、いつか溢れて零れる――それが自然の法則よ」
 
 ラウンジに満ちた重い沈黙を払拭する、力強い声。
 お嬢様は、窓の外に広がる夜霧を見つめながら、続けた。
 
「紅魔館も同じ。あの頃の私たちは、享楽に酔いしれるあまり、キャパシティの限界を省みることがなかった。刹那的な生き方は、妖怪らしくもあるけれどね。その過剰な欲望の代償――増えすぎた物と幸福への対価は、高くついたわ。ずっと後悔し続けてしまうほど、零れたものは多すぎた」
 
 五百年以上を生きてきた者の執着心とは、どれほどの辛さなのだろうか。お嬢様は平然と構えているけれど、抱え込んだ不安定要素を持て余しているのは明らかだ。そうでなければ、こんな話を私に聞かせたりするまい。
 だがしかし、その未練を言葉に変えて発することで、いくらかでも慰めになっているのならば……聞き役に徹するに吝かでない。お嬢様が私に求めているのは、無償の包容力だと思うから。
 
「もし、お疲れではなければ」
「うん?」
「昔話の続きを、聞かせてもらえませんか。思いだすのが辛いなら、お開きにしても構いませんが」
「辛くはないわ。ちょっとだけ、胸の奥がチクチクするけれど。慣れてしまうと、それも気持ちがいいものよ。哀しいまでの愛おしさは、私だけの宝物だと実感できるから」
 
 痛みを感じられるのは、生きている証。
 お嬢様は徐に唇を開いて、再び月夜の語り部となろうとしていた。
 けれども、ふと窓の外に目を遣り、思いがけないことを呟いた。
 
「嵐がくるわ。湖を渡って、この館を覆い隠す霧を吹き飛ばしにくる」
「本当に? とっくに雨は止んで、さっきまでの霧も晴れていますよ。窓越しに見る限り、外は見るからに穏やかで……ほとんど無風みたいですけど」
「くるのよ、私には解るの。そういう運命だから」
 
 ――あのときも、ちょうど嵐の夜だったっけ。
 脳裏をよぎる記憶に誘われたのか、予言者のごとき独り言は紡がれる。
 回想録を語る、お嬢様の明瞭な口調とは対照的に、窓の外はいよいよ濃い霧が立ちこめ、中庭は無論のこと門構えすら覆い隠していた。
 
 深まる宵に、私は従順にして忠実な記録者へと、回帰する。
 
  
 
   【6】  この世のすべてが、私だけの夢幻の劇場であればいいと願った。
 
 
 ――幻で構わない。時間よ止まれ、生命の眩暈の中で。
 そんなにも真剣に願ってしまう貴重な瞬間なんて、一生のうちに幾度もあるわけがない。およそ私が逢ってきた誰もが、口々にそう語っては、乾いた笑みを漏らした。深い後悔の念を滲ませた寂しげな瞳を、虚空に彷徨わせながら。
 私には解る。その視線の先に、彼らは縋りつけるものを捉えたがっている。
 実際のところ、彼らも積み重ねてきた経験から、薄々と自覚しているのだろう。人生の長短に関わらず、そんな瞬間は幾度となく訪れている――と。それこそ、逐一を数えていられないほど頻繁に。そして、ほとんどの機会を無為に見過ごしてきたことも。昏い目をして自嘲気味に笑うのが、その最たる証拠だ。
 もし、全員が決定的な瞬間を的確に捉える眼を持ち、願いどおりの結末を迎えられたとしたら……運命のサイコロの目を選べるのならば、不幸な者は存在しなくなるのだろうか? それとも、個々の願望が鬩ぎ合うばかりの、修羅の世界となる? 詮ないことと承知の上で、ふと考えてみた。
 もちろん、本気で答えを欲してなどない。暇つぶしの浅慮だ。
 
「ストレスを感じないだけ、寿命は延びるのかもねぇ」
 
 草木も眠る丑三つ時、起きているのは魑魅魍魎。紅魔館という時間の方舟に囚われた者たちが、それぞれ思うがままに延々と生命の記憶を紡いでいる。その舳先が、どこへ向かっているかなんて気にも留めずに。
 ひっそりと静まり返る図書館は、どれほど小さく呟こうとも、私の独り言を呑み込んだりしない。まるで、闇から漆黒の腕が伸びてきたかのごとく、眼前に押し戻されてきた。
 それを聞きつけ、読書に没頭していたリンが顔をあげた。
 
「どうかしたの、エリィ? 藪から棒に」
「別に、深い意味なんてないわ。ただ、本に齧りついて読み耽るリンを見ていたら、言ってみたくなっただけ。これから先も、リンや他の住民たちと好きなことだけ続けていけたら、幸せだろうなぁって」
「……厭ね。そういう気紛れを起こすときって、なんらかの変化の兆候を、本能的に察知しているからなのよ」
「そんなものかしら?」
「私の直感では、そういうものなの」
「じゃあ、九割九分ハズレね。私の直感のほうが、信頼に値するもの」
「はいはい。エリィは正しいわ」
 
 冗談めかしているが、リンの口振りには本気で案じている様子も窺えた。微笑みを浮かべながらも、不安げに顰めた眉根の皺が、いつもより深い。私の瞳は、どれほど小さな変化さえも見逃さない。それゆえに、不要な心配事を抱える羽目にもなるのだけど。
 気づいてしまうと、私の胸裡にも小さな不安の種が、ぽとり……。それは私自身でさえ驚くほどに速やかな成長を見せて、闇色の黒い葉を茂らす畏怖の灌木となった。おそらくは、そのような土壌が私の裡にあったのだろう。これまでの幸せな生活が、遠からずカタチを変えてしまう運命にあると、淡く予感していたから。
 その前触れとなる情報を運んできたのは、美鈴だった。
 
「変化で思いだしたけど、最近また、人間たちが生活圏を拡充し始めたと聞いたわ。大きな戦争が終わったかと思えば、冷たい戦争を始めたり……その間に、文明を飛躍的に発展させたり。人間の行動パターンも、よくよく変わらないね」
「そのせいで、一度は急激に減った人口も増加傾向となり、妖怪は随所で棲息域を追われているとの話よ」
 
 リンの切り返しに、私は頷きで応える。確かに、由々しき事態だろう。
 私の沈黙で不安を煽られたらしく、リンは息苦しげに、表情を曇らせた。 

「世俗から隔離されていた私たちの館にも、いよいよ人間たちによる洗礼が迫っているのかも知れないわね。時代の流れは残酷だわ」
「そんな勝手を、主人たる私が赦すわけがないでしょう。人間たちを、この屋敷の敷地内に無断で立ち入らせたりするものか。エレンとリンの智慧を頼りに結界を強固にしたり、手は尽くすわよ」
 
 実際、中世の頃と比べれば、紅魔館を取り巻く環境の神秘性は喪われている。宗教的あるいは霊的に禁忌とされてきた他の土地でさえ、文明の発達により、その地位は著しく零落した。季節ごとの祭祀のみ接触を許されてきた聖地も、その多くが自然公園や観光地として整備され、ずっと身近な存在となっているのだ。自然遺産とやらに登録されると、開発の手は入らなくなるらしいが、大多数の人間にとって観光地という卑近な存在となることに変わりはない。
 紅魔館を懐に抱く深い森と、結界により霧に包まれがちな湖も、近年では環境保護区に指定する動きが生じているらしい。これも、人間社会とのゲートキーパーたる美鈴からの情報だ。メイド長の役職が欠員である現在、人間の街へ赴き多くの物品を調達にいく役目は、エレンと美鈴にしか務まらない。買出しのメンバーとしてリンを付随させないのは、健康面の不安があるためだった。
 
「警備の点で、くるみと美鈴の働きには、文句のつけようもないわ。もはや屋敷の安寧は、あの娘たちなしには語れないほどだもの」
「あら、エリィが手放しで賞賛するなんて珍しいわ、槍かナイフでも降ったりして」
「その言い方、気に入らないね。まるで私が、偏屈で依怙地な小物みたいに聞こえるじゃないか」
「似たようなものでしょうに」
「なによ、失礼ね……不愉快だわ」
 
 言って、私は拗ねて見せる。もちろん、本気で腹を立てたわけではないし、リンの謝罪や慰めを期待してもいなかった。事実、リンは小さな溜息を吐いただけ。無礼な物言いを謝りもせず、手元に開かれた本へと視線を戻した。
 しかし、それも数秒。今回の我慢比べは、私の勝ちだった。ちらりと伏し目がちな一瞥を投げて寄越し、私の態度が相変わらずと悟るや、根負けしたと言わんばかりに頭を振って本を閉じた。
 
「悪かったわよ、エリィ。冗談がすぎたのは謝るから、そんな顰めっ面のまま、恨めしそうな波動を放射し続けないでくれる?」
「厭よ。今日という今日は、完全にアッタマきたんだから。絶対に赦さない」
「そう……じゃあ、仕方がないわ」
 
 思いがけず、さばさばした声でリンが言う。
 
「主人の逆鱗に触れたとあっては、もう館に逗留していられないわよね。今まで、お世話になりました」
 
 深々と頭をさげる仕種が、慎ましくも腹立たしい。リンの行動は、絶対に計算し尽くして確実な勝算を約束されたものだ。セリフとは裏腹に、紅魔館を去る気など微塵もないだろう。ばかりか、私が引き留めるとさえ思っている。
 そして、なにより我慢ならないのが――
 
「好き勝手を言うだけ言って、逃げるつもり? 調子がいいのね」
 
 あぁ……なんて意志薄弱なのか、私は。リンの目論見を看破していながら、それでも思惑どおりに動いてしまうなんて。しかも、そうすることを心のどこかで悦んでいるなんて! 実に癪だ、どうしようもなく癪に障る。
 
「私が赦す気になるまで、どこへも逃がさないからね。憶えておきなさい」
「うふふ……承知いたしましたわ、ご・しゅ・じ・ん・さ・ま」
「バーカ」
 
 わざとらしい笑みを浮かべたリンに、高速のドラキュラデコピンシューティングを食らわせてやった。
 それが、せめてもの意趣返しだった。
 
 
        ▽        △
 
 今日も今日とて、二階のサロンで深夜のお茶会。美鈴がきてから、すっかり東洋かぶれとなった私たちは、ここのところ本格的な飲茶にハマっている。
 窓から庭を窺えば、夏の雨に濡れた木々の隙間を、小さなシルエットが横切るのが見えた。曲者だろうか? 泥棒ならば、返り討ちにすることも辞さない。
 眼を凝らして観察すると、それは焦げ茶色の毛並みの野兎だった。雨の中、巣穴へと急いでいるのだろうと思えば、なんとなく微笑ましくなる。雨が止んだら、日傘をさして屋敷の周りを散歩してみようかなと、気持ちが動いた。
 
「ねえリン、知ってる?」
 
 テーブルに着きながら、今しがた見た野兎にちなんだ話題を振る。
 
「東洋のとある国では、月に餅を搗く兎がいると信じられているんだってさ。餅とやらの正体は知らないけど、霊薬みたいなものかしらね」
「あぁ、その話ね。もちろん書物で読んだわよ、エリィ。ちなみに、お餅は食品に偽装した暗殺用のトラップらしいわ。いきなり喉に詰まって窒息させるそうよ」
「なにそれ怖い……。それにしても、どうして兎なのかしら。月に棲む動物なら、コウモリでもよさそうなのにさ」
「エリィは、ちっともロマンティックじゃないわね。満月の表面に浮かんだ模様から、連想されたものなのよ。その見えかたも、国によって異なるんですって」
 
 言われてみれば、そんな記述を読んだ憶えがある。もっとも、絵に描いてもらわなければ、どう見たら兎になるのかサッパリ解らない。星座にしても同じだ。茫漠たる星空に意味を当て嵌めてしまう人間の想像力は、確かに面白くて関心させられる。
 
「でも、この分じゃあ今夜ばかりは月の兎たちだって、お役御免よねぇ。今夜は満月のはずなのに、こうも雨が降りしきっていたら商売あがったりだもの。今頃は、臨時休業で酒盛りでもしているに違いないわ」
「雲に隠れていたって、月は月で通常営業でしょうよ。肝心なところが抜けている、エリィらしい発想ね。でも私は、そんなエリィが好きよ」
「な、なによ気持ち悪い」
 
 尻すぼみの憎まれ口は、周囲の喧騒に溶けていった。
 晩夏や初秋にありがちな、嵐のような夜だった。窓の外は暴風が唸りをあげ、大きな雨粒が矢のごとくガラスを打ち続けている。この状況では、夜間の門番くるみも外には出られない。玄関に陣取って、不審者の警戒に当たっているはずだ。
 一方、昼間の門番である美鈴には、夜の浅い時間もメイド長の代役まで担わせている。さすがに疲れが溜まっているらしく、胡麻をまぶした団子や、蒸かした中華饅頭の蒸籠をテーブルに置く間も、美鈴は眠たげな眼で欠伸を噛み殺していた。
 しかし、茶を注ぐ手並みは慣れたものだ。テーブルのセッティングもソツがなく、申し分ない。蒸籠の蓋を取れば広がる、柔らかな湯気と美味しそうな匂い。私もリンも思わず、ぐびび……と唾を呑み込んだ。
 
「今夜は、プーアル茶ですよ。お茶請けが足りないようでしたら、もう何品か点心を用意しましょうか?」
 
 よく気を回す娘だ。狡猾という表現が似合うリンや、ふわふわと掴みどころのないエレン、快活なくるみと違い、実直で裏表のない美鈴には愛嬌という形容が似合う。私のみならず、紅魔館の住民は全員、そんな美鈴を好いている。妹のフランドールにしても、美鈴には特に親しみを感じているようだった。
 
「いいえ、これで充分よ。貴女はもう休んでいいわ。明日の門番を、しっかり務めてもらわないといけないからね」
「はいっ! それでは失礼します、おやすみなさい!」
「ええ、おやすみ」
「愉しい夢と巡り会えるように、祈ってあげるわ」
 
 私とリンに優しい言葉を贈られて、美鈴は嬉しそうにはにかんだ。足取りも軽く、紅毛を靡かせ自室へと戻っていった。その背中を眺めていると、なにやら彼女の鼻歌まで聞こえる気がする。
 
「可愛いものね」
 
 私の何気ない呟きを聞きつけたリンが、ひょいと眉をあげる。
 
「あら、随分とお気に入りみたいね。目の前にも、可愛い女の子がいると言うのに」
「悪い冗談だわ。リンのどこに、可愛げがあるのかしら」
「ひ、ひどい! あんまりよ、エリィのバカぁ……ううぅっ」
「そこで嘘泣きしない。リンの安直な目論見なんか、お見通しなんだからね」
「ちぇっ」
 
 ちょっと訂正。拗ねたリンの顔は、意外に可愛いかも。
 思ったままに告げたら、リンは柄にもなく狼狽えた様子で、テーブルに置かれた蒸籠へと腕を伸ばした。
 
「はいはい、もう好きに言ってて。私は中華饅頭をいただいてるから」
「ちょっ、全部はダメよ! きちんと等分に分けるんだからねっ」
「エリィの口は、減らず口が隙間なく詰まっているでしょ。食べたいのなら、それを嚥下してからにしなさいよ」
「んがっぐっぐっ」
 
 ――などなど、嵐の騒々しさにも負けないくらい、私とリンは賑やかにティータイムを愉しんだ。
 その途中で、くるみも呼ぼうという話になった。私の発案だ。こんな天気だし、どうせ真夜中の来客などあるまい。朝まで玄関で門番をさせるより、休養を与えると同時に、親睦を深めるのもいいと思ったからだ。
 私としては、エレンも加えて賑やかに騒ぎたい気分だったが、嵐がくる前に彼女は帰宅したので、その願いは叶わなかった。
 
「エリスのお誘いじゃあ、断れっこないわよね。遠慮なく仕事を忘れて、ご相伴に預かっちゃいまーす!」
「なにを勘違いしてるの。主人を喜ばせるのも勤めの内よ、仕事しなさい仕事」
「ぶぅ~」
 
 さすがは夜の眷属、眠たげだった美鈴と違って、ブーイングまで元気があり余っている。私の許可を得るなりゴキゲンな調子で中華饅頭にかぶりつき、黒い蝙蝠の翼をピョコピョコ蠢かす仕種も、微笑ましい限りだ。私もリンも、くるみの愛嬌に揃って和まされ、目元や頬の筋肉を弛緩させていた。
 
「折角の夜ですもの、嵐の騒がしさだけでは華やぎに欠けるわ。ねえ、リン。あれを聴かせてちょうだい」
 
 あれ――とは、美鈴に東洋のものを集めさせたとき、一緒に調達された弦楽器だ。私のよく知る西洋の弦楽器と比べると、弦は半数しかない。正式な名称は、二胡だそうである。リンは、私の頼みを快諾してくれた。
 
「あまり、期待しないでね。魔法の勉強で疲れたとき、気分転換がてらに弾いていただけだから」
「巧い下手は、二の次でいいのよ。極東の音色に包まれ、異国情緒に耽ることこそ意味があるのだからね。くるみも、リンの演奏を聴きなさいな」
「そう言えば私、リンデンの演奏を間近で聴くのって初めてかも」
 
 門番をしているとき、遠く途切れ途切れに届く音なら、耳にしていたらしい。落ち着いた調べが奏でられると、くるみは瞼を閉じて聴き入った。私もそれに倣って、心を静めた。
 そんなときほど、ふと閃く発想がある。そして大概、それは名案となるものだ。
 
「リン、貴女に新しい名前をプレゼントしようと思うのだけど、どうかしら?」
「はぁ? また唐突な提案ね。エリィらしいと言えば、らしいんだけど」
「思い立ったが吉日って性格だからね、エリスは。いきなりすぎて周囲が戸惑うことなんか、お構いなしだもの。マイペースと言うより、身勝手?」
「紛うことなき身勝手ね」
 
 リンとくるみが顔を見合わせ、処置なしだと言わんばかりに肩を竦める。そのコンビネーションは悪くないが、別の場面で生かして欲しい。少なくとも、今は賛意を示してもらいたいところだ。まあ、否定されてもゴリ押しするのだけど。
 
「いいじゃない、別に。この際なんだし、東洋風の名前を名乗りなさいな」
「はいはい。例えば、どんな?」
 
 リンが、投げやりな調子で訊き返してくる。もはや、反対しても無駄であると承知している様子だ。そして、その返答こそが正解である。この館では、私こそが唯一無二のルールなのだから。
 二胡を奏でながら、溜息混じりに答えを待つリンに、私は嬉々として応じた。
 
「呼び慣れたリンは、そのまんまにして漢字を当てるのさ。でも、今まで苗字を持っていなかったじゃない。それじゃペットみたいで格好がつかないから、響きがよさそうな漢字を組み合わせてみたわ」
「それって本当は、かなり前から考えてたんじゃないの、エリス」
「くるみ、細かいことを気にしてると長生きできないわよ。憶えておきなさい」
 
 言って、私は右手でくるみに高速デコピンを食らわせつつ、左手でズビシッとリンを指差した。
 
「東洋に『麒麟』と呼ばれる神獣がいるのは、リンも知っているでしょう。その『麟』に、苗字として冴えた月の字を宛がうの。冴月麟、なんとなくエキゾチックで、いいと思わない?」
「へえぇ……正直、意外だったわ」
 
 その言葉どおり、驚きの表情を浮かべるリン。まじまじと注がれる視線で、私の正気を疑っているところがまた失礼だ。
 まあ、いつものことだけど。
 
「エリィのことだから、もっとセンスの悪い名前を口走るものだと思ってた」
「だよねー。エリスらしくなーい」
 
 リンの意見に、くるみも神妙な面持ちで、うんうんと頷く。お約束どおりの反応には、お約束どおりのお仕置きこそ相応しい。繰りだされた私の高速デコピンは、あやまたず吸血少女の額にクリーンヒットする。くるみはアッパーカットでも食らったかのように半身を仰け反らせ、そのまま椅子の背もたれに引っかかって沈黙した。
 
「ふふん。私の高貴にして秀逸なセンスを、今頃になって認識したわけ? そんなことだから、貴女たちは野暮ったいままなのよ」
「本当、ついていけないわ。エリィは他の追随を許さないわね」
「そうでしょ、そうでしょ」
「皮肉だってば」
「そんなもの、焼肉にして食べちゃうもん。ぎゃおー!」
「焼くと言うより、ほとんど自棄っぱちみたい」
「うるさいね。いつまでも細かい詮索してないで、曲の続きを聴かせてよ、リン」
「承知しましたわ、私のご主人さま」
 
 それから、仄かに血液の匂いがするプーアル茶をチビチビ飲みながら、素敵な音色で憩いのひとときを満喫していた途中。
 
「ねえねえ、ところで知ってる? つい最近、私の旧友から聞いた情報なんだけど」
 
 くるみが自分の金髪を弄びながら、やおら語り始めた。人類が科学という魔法を強化させて、生活圏を拡げ始めたこと。それによって暮らしにくくなった吸血鬼が、大挙して新天地の開拓に乗りだした結果、原住民と衝突した顛末までを大雑把に。
 私たちは、そこで初めて『吸血鬼異変』なる単語を耳にした。
 
「まさか一部の吸血鬼が、そんな革新運動を起こしていたとはね……ちっとも、知らなかった」
 
 私の独り言に、「そうね」と相槌を打つのは、リン。
 
「エリィだけじゃないわ。私たちは今まで、それなりに平穏な暮らしを送ってこられた。立地条件がよかったこと、現状維持に必要な能力が結集していたこと……諸々の幸いが重なって、外の世界が変遷していく速度に鈍感でいられたのよ」
「取り残されてた、とも言えるかなぁ。それでも不便なかったけどね、あはははっ」
 
 リンの言葉を、くるみが引き継いで朗らかに笑った。
 そう。くるみの言ったことは正しい。私たちは紅魔館という聖地に隠棲し、不自由なく暮らしてきた。人間のメイド長であるサクヤがいてくれたのも、それを可能にした大きな要因だ。世間から見た私たちは、時間の方舟に閉じ込められた化石みたいな存在だろう。それはそれで、理想的な終焉のカタチでもあった。
 
「閉ざされた世界こそ、理想郷に相応しいわ。それが、どれほど残酷な仕打ちを与えようともね。リンも、くるみも、エレンも、美鈴も、みんな私の大切な宝物だから……いつまでだって、私は幸せな楽園の主人でいられる」
「エリィにとって、そうであるように、私たちにとっても同じよ」
「リンデ……あ、これからは麟と呼んだほうが、いいのかな? それはさておき、彼女の言うとおりよ、エリス。本当の本当に、私たちも願っているんだからね。いつまでも今の暮らしを続けていけたらいいなぁ、って」
「ええ、そうね」
 
 心から、そう思う。今が永遠であれば、と。
 私の予感が告げているからこそ――望もうが望むまいが、これまでの安定した暮らしは、もう間もなく終わりを迎えることを――なおさら強く、求めずにはいられなかったのだ。『変わらない』という運命への、道しるべを。その先にある世界を予見するのは難しいけれど、変化の兆しを止められないことも、私は肌で感じていた。
 
「その『吸血鬼異変』とやらの情報を、美鈴も識ってたりするのかしら? リンは、なにか訊いていないの?」
「訊いてるわけないでしょう。そんな事件があったのを、私も初めて知ったんだもの。話題として持ちだす以前の問題よ」
「あぁ、そうか……そうだよねぇ」
 
 長旅で様々なものを見聞きしてきた美鈴ならば、噂話の類を知っている可能性は高い。その筋から情報を引きだすもよし、吸血鬼のコミュニティを利用して、吸血鬼異変に与した者を突きとめ、問い質すもよし。より正確を期すならば、後者を選ぶべきだが、物語として聴くなら、尾鰭のついた風説のほうが面白いだろう。
 結局、私はどちらも試すことにした。なんと言っても、娯楽は多いに限る。
 けれども、その矢先――
 
「――ふん。随分と、酔狂なことだわ。そして、無粋ね」
 
 やおら場違いな呟きを発した私に、リンとくるみが続いて頷き、表情を硬くした。この娘たちとて愚鈍ではない。こんなにも騒がしい嵐の夜でも、感じるべき気配は察知しているのだ。くんくんと神経質に鼻を鳴らして、くるみは困惑気味に吐息を漏らした。
 
「気配からすると、人間っぽいかな。でも、変だわ……人間の臭いがしない」
 
 確かに、くるみの言うとおりだった。私たちの嗅覚をもってすれば、テリトリーに入った獲物の臭いを嗅ぎつけるなど、容易なことだ。肌に感じる気配は、人間のそれに間違いない。しかし、肝心の臭いは、私でさえ感知できなかった。
 
「案外、幽霊だったりしてね。なんて冗談はさておき、何者かは知らないけれど招かれざる客だわ。リンもそうだったけれど、私の屋敷を訪れる珍客は、どうして決まって雨の夜を選ぶのやら」
「ただの偶然でしょう。それはともかく、今度の来客が、私のように友好的とは限らないわよエリィ。雨や嵐のとき、吸血鬼は出歩かない。それを承知の上で、ここまで辿り着いたのだもの。それってつまり――」
「無知なエサか、敵意ある狩人か……よね。何年ぶりかしら、来客の接待なんて」
 
 くるみは言って、音を立てず席を立つと、やおら相好を崩した。だが、双眸は笑っていない。獲物を狙う猛獣のごとく、爛々と瞳を輝かせていた。
 
「いずれにしても、露払いは門番たる私の役目よね! 敵ならば、斃してしまっても構わないんでしょ?」
「くるみ、それ微妙に死亡フラグよ」
「心配いらないってば、エリス。あー、でも念のため、美鈴を起こしておいて欲しいかも。もしかしたら、意外と厄介な人間かも知れないし」
「だったら、その役目は私が。どうせ、図書館に戻るつもりだったから、途中で美鈴の部屋に立ち寄るわ」
 
 リンが、連絡役を買ってでた。図書館にはリンの大切な本がある。紅魔館にくるキッカケとなった、9巻セットの本が。それらはリンにとって家族にも等しい、唯一無二の宝物だ。数多の蔵書に紛れ込ませてあるとは言え、やはり部外者に触られたくないのだろう。身体の弱いリンに、正体不明の侵入者と直接対決させたくなかった私としても、この申し出は渡りに船だ。
 
「そうね。エレンは帰宅していて不在だし、あとで図書館を荒らされたことの嫌味を聞かされるのも癪だわ。リンには、貴重な蔵書を護ってもらわないと」
「それじゃあ、決まり。片づくまで、私は図書館で待機してるから」
「解った。すべてにケリがついたなら、くるみか美鈴を伝令として走らせるよ」
 
 意志の疎通が充分な間柄だと、こうした場面では話が早い。対応が決まってしまえば、あとは各自が為すべきことを考え、行動するだけだ。私が逐一を指図する必要などない。
 
「ならば私は、宝物庫を先に見回ってくるとしようか。ただの泥棒かも知れないからね。くるみの手助けは、その後に。行くまでに決着が着いているといいけど」
「私と美鈴で挟み撃ちにすれば、きっと楽勝よ」
「そう願うわ」
 
 おしゃべりは、ここまで。口を噤んだ私たちは、速やかに行動した。最初に会敵するのは、くるみだろう。ロビーか、廊下か、食堂か……場所までは断言できないけれど、侵入者を一階で補足、牽制してくれるはずだ。そこを、背後から美鈴が衝く。相手は所詮、人間。くるみの言葉どおり、私が到着する頃には、一切が終わっていることだろう。
 
 
 
 それなのに――
 
 
   
「――え?」
 
 宝物庫に異常のないことを確かめ、ロビーに赴いた私は、驚愕のあまり我ながら間抜けな声をあげた。それは、久しく忘れていた感情を呼び覚ますに充分すぎるほど、ショッキングな光景だった。
 壁にレリーフのごとく貼りついた、旧友の姿。大きく左右に広げられた腕も、力なく垂れさがった両脚も、複数の楔によって刺し貫かれて、縫いつけられている。私たちの種族が忌み嫌う十字架を模したことは、誰の眼にも明らかだ。かなり痛めつけられているらしく、くるみは私の接近にさえ気づかず、項垂れたままだった。
 
「くるみ! しっかりしなさい!」
 
 呼びかけると、微かな呻き声。まだ生きていると解って、私は安堵した。くるみの胸に、銀製の杭はない。嬲り殺される前に、辛うじて間に合ったと言うことか。あと少し、私の到着が遅れていたらと思うと、うなじの辺りがザワザワと気持ち悪く騒いだ。
 ともかく、このままにはできない。もう一度、名前を呼ぶ。すると、くるみは流れ落ちた金髪の奥で双眸を見開き、 磔の状態のまま滂沱のごとく涙した。
 
「くっ、くやし~! 負けちゃったよ、エリスぅ~!」
「なによ、思ったより元気じゃない。心配して損したわ」
「ちっとも元気じゃないってばー! 早く助けてよぉー!」
「解ってるわ。自分が落ち着くために、軽口を叩いてみただけよ」
 
 確かに、この状態では哀れすぎる。逆の立場なら、屈辱に身悶え、血を吐かんばかりに同じことを叫んだだろう。
 私は身体の芯から沸きあがってくる怒りを抑えつけながら、握り潰さんばかりに掴んだ楔を引き抜いて、くるみに自由を与えた。
 
「あうぅ……ご、ごめんねエリス。大きな口を叩いておいて、あっさり返り討ちにされたなんて、かっこ悪すぎるよね」
 
 足の甲を穿たれた痛みと、一方的に打ち負かされた恥辱が、重たすぎたのだろう。くるみは、その場にへたり込み、楔の痕が残る掌に視線を落とした。青ざめた表情で、細い肩をさらに窄め、震えている。
 あるいは、私の不機嫌さを、自分の不甲斐なさに対する怒気と受け取ったのかも知れない。だが、私にだって情けはある。ひとつ屋根の下に暮らしてきた仲間の無事を確かめられれば、憤りよりも安堵が先にくるのは自然な感情だ。そもそも、私の怒りは、くるみに向けられたものではない。
 私は、くるみの傍らに片膝をついて彼女の肩を抱き、黒い翼を慈しむように撫でた。
 くるみが、涙を眼に溜めながら、静かに顔をあげる気配がした。
 
「気に病むことはないわ、くるみ。侵入者が、予想外に手強かっただけでしょ。人間の分際で、くるみを昆虫標本みたいに扱うなんて、舐めた真似を。たとえ、くるみが赦したとしても、私は絶対に赦さないからね」
「気をつけて、エリス。あれは……やっぱり、ただの人間じゃないわ」
「言われなくても解ってるわよ。この楔、この手口、随分と慣れているようだ」
「本職……よね、間違いなく。でも、それだけじゃないのよ!」
「どういうこと?」
「あ、ありのまま……今、起こったことを話すわ」
 
 くるみは、自分の身に起こった事態を語り始めた。それは、ひどく簡素で、要領を得ないものだった。彼女の混乱を思えば、仕方ないと頷ける面もある。だけれど、同時に偽りない現実を、極めて端的に突きつけてもいた。
 
「あぁもう……悔しいったら、ありゃしない!」
「もういいわ、くるみ」
 
 まだ傷が癒えていない彼女の手に、そっ……と、私は手を重ねて押し留めた。
 
「今も悪態を吐けるだけ、幸運だと思うべきよ貴女。ともかく、身体が完全に回復するまで単独行動は慎みなさい。ここからは、私と同行すること」
 
 一度は気色ばんだくるみの肌が、私の一言で、ふたたび色を失った。自分が置かれていた状況を、今更ながらに再認識したようだ。
 だが、戦慄したのは私とて同じ。ひとつの可能性に気づいてしまった直後、背筋が怪しく汗ばむのを感じた。
 私は本当に、最悪の事態を迎える前に、間に合ったのか?
 そうだと思いたいけれど、話ができすぎている。相手は市井の人間ではない、正真正銘の狩人なのだ。本命の獲物を誘き寄せるためだとか、あるいは足止めする囮として、くるみを生殺しにしたと考えるほうが、しっくりくるではないか。
 
「くぅっ!」
 
 歯噛みした私に、くるみが怯えた視線を向ける。「な、なに?」
 言葉を発するのももどかしくて、私はくるみの両肩を鷲掴みにした。勢い余って押し倒すかたちになり、私の下で床に頭を打ちつけた音と、小さな悲鳴が聞こえた。けれども、それは冷静の呼び水になり得なかったばかりか、却って私の激情を煽った。
 知らず知らず、掴む腕に力が入り、くるみの柔肌を私の爪が突き破り、彼女のブラウスに新たな鮮血の染みを作りだしていた。
 
「……どこなの?」
「痛っ! 痛いよエリス、なんなの一体? わけが解らないよ!」
「答えなさいっ! 美鈴は、どこにいるの!」
「し、知らない……ここには……きてない」
 
 途端、目の前が真っ暗になった。美鈴が、くるみと合流していない。それはつまり、合流前に侵入者が機先を制したか、そもそもリンが呼びにいっていないかを意味する。そして、私の直感は、忌むべきことに後者である可能性を指していた。
 
「先を急ぐわ。くるみ、貴女はここで休んでいて」
 
 言うが早いか、くるみの肩を離して宙に舞いあがる。
 手荒な真似をした私に、背後から追いかけてきた「気をつけてね」の声。その弱々しい響きが、罪悪感となって私の胸をチクリと刺した。まるで即効性の神経毒に冒されたかのように、全身に満ちていた昂ぶりが麻痺してゆく。
 振り返って、もっと丁寧に謝るべきなのは解っている。しかし、やはり私の焦りは、そんな少しの動作すら惜しませた。辛うじて動かせた左腕を、肩越しに振って見せるのが精一杯だった。
 それでも、くるみは私の真意を解ってくれたと思う。微かに息を呑んだ音と、緊張の和らぐ様子が、肌に感じられたから。
 
「まずは、美鈴の部屋に行かないと」
 
 道すがら、私は急ぎながらも幾度となく、犬のように鼻を鳴らした。リンを探すなら、視覚より嗅覚をもって足跡を辿るほうが確実だ。私の鋭敏な嗅覚は、多くの匂いが綯い交ぜとなった館内の空気から、最も新しいと思われるリンと美鈴の体臭を、確実に捉えている。だが、それは同時に、私を不可解な気持ちにもさせた。
 あまりにも……そう、あまりにも、人間の匂いが希薄すぎる。
 
「特徴的な臭いが、ほとんど……しない……ですって? さっきより確実に、追いすがっているはずなのに、どうなってるの?」
 
 侵入者が人間である以上、少なくとも魔女や妖怪より、解りやすい体臭を放っているものなのだ。わざわざ悪魔の巣に乗り込んでくるほどだし、臭いを消すための用意をしていたって不思議はない。けれど、そうした準備を当然のように施せる相手だとしても、ここまでの希薄さを維持し続けるのは容易じゃない。今夜みたいな湿度の高い夜なら、特に汗や空気中の水分で薬効が薄れるのも早いはずだ。
 
「もしかして、私の嗅覚が麻痺させられているとか?」
 
 散布式の薬剤なら、そうした方法もある。私は気づいて、ギクリとした。いつの間にか嗅がされていた薬品で、身体の自由を蝕まれている可能性を、なぜ今になるまで失念していたのだろう。くるみが呆気なく敗れ去った原因も、その辺りにあったのではないのか?
 私は焦燥感に苛まれながら、自分の指に歯を立ててみた。そして、確かな痛みと、わずかな血の匂いに心からの安堵を覚えた。こんなにも血の匂いを愛おしく想ったのは、何十年ぶりだろう。それまで抱えていた不安は、少しだけ私の中で和らいだ。
 
「どうやら、毒を盛られた心配はなさそうね。とは言え――」
 
 私を戸惑わせた理由は、臭いだけではなかった。幽かに感知できる気配さえも、残像のように輪郭が曖昧となっていたのだ。今まで侵入者は一人と決めつけていたけれど、実際のところ複数人である可能性も捨て切れなくなった。
 リンの残り香を嗅げば嗅ぐほどに、胸裡の不安が掻き立てられて、余計な妄想までも引き起こしてしまう。すぐにでも無事を確かめ、抱きしめ合って歓びを共有したい。だが、美鈴とて大切な家族だ。捜索の効率を高めるためにも、早急に彼女と合流しておきたかった。
 
「くるみを手玉に取るくらいだもの、侵入者は油断ならない強敵と見て、間違いないわよね。美鈴も充分な手練れだけど、寝込みを襲われれば不覚をとるだろう」
 
 くるみの話では、それこそ一瞬だったらしい。侵入者の影を視認した次の瞬間には、もう弾き飛ばされ、壁に叩きつけられていたと言う。しかも、反撃すべく身を乗りだすまで、四肢を楔で貫かれていたとも気づかないまま……。
 それが事実なら、眩惑の術を使えるのかも知れない。もしくは私と同等か、それ以上に高速で動ける相手なのだ。ナメてかかると、大火傷を負わされかねなかった。
 どう対処するか思案していると――
 
(ねえ、お姉様)
 
 私の思考を遮り、ふと、頭の中に声が響いた。妹の、フランドールの声だ。
 私たち姉妹は、向かい合っていなくても意志の疎通が可能である。距離に隔てられることのない、あまりにも近すぎる関係。だからこそ、ギクシャクもしてしまう。それは、やむを得ない話だろう。だが、この際それは問題じゃない。
 この緊急事態に、どんな意図でコンタクトをとってきたのか。よもや、私よりも先に侵入者の居場所を突きとめたとでも? 私は逸る気持ちを鎮めながら、飛翔の速度を緩めて、妹との会話に意識を傾けた。
 
「どうかしたの? 今、忙しいのよ。手短に頼むわ」
(手強い人間が、訪れているんでしょ?)
「ええ、あんまり嬉しくない客ね。可愛げがなさすぎる」
(私とも、一緒に遊んでくれるのかしら?)
「ダメよ。すぐに追い返すから」
(……つまんない。いつも、私は除け者なのね。遊びたいだけなのに)
 
 拗ねたような声音を最後に、フランドールは黙ってしまった。
 毎度のこととは言え、すげなく察しすぎたかと、後悔で胸が痛む。だのに、謝罪の言葉は素直に紡げない。
 妹とのコミュニケーションを繰り返すたびに、この先どれだけ苦々しい想いをし続けるのだろうか、私は。いつになったら、かつてのように蟠りなく交流できるのだろう。その運命が、私には見えない。どれほど意識を集中しても、未来を受像することは不可能だった。
 
「どうして誰も彼も、私の気持ちを掻き乱すの。これ以上、惑わせないでよ、お願いだから」
 
 思わず、口を衝いて出た弱音は、自分の声ではないように聞こえた。それほどまでに衰弱していると知り、さらに愕然とした。
 
「取り戻さなきゃ……今を失いたくない。変えられたくない」
 
 時間の方舟に取り残された遺物だとしても――否、だからこそ私は、今のままであれと望む。気心の知れた仲間たちと享楽に耽る、それだけが私の求めるもの。
 ならば、すべきことは解る。好転へのファクターであり、この紅魔館になくてはならない存在の美鈴を、護らなければ。その先にこそ、リンの元に続く道があるのだ。
 再び、残り香を頼りに速度を早める。すぐに探し求める者たちの匂いが強まり、それが私を奮い立たせた。
 間もなく美鈴の部屋に着き、ドアノブに指をかける。思えば不用心にもほどがあるけれど、ついつい罠への警戒を怠るくらい、私は焦っていた。くるみの痛めつけられた姿が瞼の裏から消えず、美鈴やリンまで同じ目に遭わされていたら……と、焦燥に駆られていたのだろう。
 そして結論から言えば、美鈴は無事だった。この騒動に気づいた様子もなく熟睡していたのだから、呆れ返るほどに図太い神経をしている。事態が収拾したときは、美鈴の爪垢を煎じて飲もうとすら、本気で思ってしまった。
 
「起きなさい、美鈴。早く夢から醒めないなら、鼻をもぎ取るわよ」
 
 言いながら、本当にキュッと美鈴の鼻を摘む。すると、よほど油断しきっていたらしく、美鈴はベッドに横たわったままビクリと身を震わせ、そのまま硬直した。まるで小動物が死んだフリでも演じるかのように、怖々といった様子で震える瞼を薄く開き、瞳だけを私に向けた。
 
「おお、お嬢様!? どうして――」
「お喋りは、後回しよ。緊急事態だからね」
「へぇ? え? ……ええぇ?」
「寝惚けてないで、すぐ着替えて。侵入者だわ、くるみが倒された」
 
 瞬間、美鈴の顔がさらに強張った。美鈴の性格からして『倒された』の意味を『殺された』と、誤解したのだろう。くるみの無事を伝えたら、案の定、美鈴は胸に手を当てて表情を和らげた。
 
「それで、お嬢様。賊は……」
「まだ、撃退していない。巧みに気配を消す厄介者でね、いいように振り回されている状況だわ。まったく忌々しいったら」
「何者でしょうか。ただの身の程知らずでは、なさそうです」
「はん! 買いかぶるだけ無駄よ。嵐の夜に侵入するくらいだもの。実力はあるみたいだけど、賢明だとは言い難いね」
 
 余裕をもって述べた見解の半分は、嘘である。美鈴を徒に不安がらせないための、ハッタリにすぎない。
 本当のところ、私は侵入者の智慧を怖れていた。その狡猾な毒牙を、我が館の住民――特に、リンに向けられることを。
 
「どこに侵入者が潜んでいるか解らない状況で、軽挙妄動は慎むべきだけど、私は先に図書館へいくわ。美鈴は着替えを終えたら、くるみと合流してから追いかけてきなさい。くるみは、ロビーに待機させてあるから」
「解りました。三十秒で仕度します」
 
 美鈴の小気味よい返事に満足の笑みで応え、私はその場を後にした。
 ひたすらに、リンの無事を祈りながら。
 
 
        ▼        ▲
 
 ――時間よ、運命よ、止まれ。
 ああも取り乱した記憶は、後にも先にも一度だけじゃあないかしら。

 お嬢様は、そのように語った。まるで、ひどく苦い液体を口に含んだかの如く、眉を顰めながら。実際、その記憶はお嬢様にとって、猛毒にも等しかったに違いない。肉体ではなく、精神を蝕み続ける、記憶と言う名の苦い毒。
 
「むしろ、幻であって欲しかった。この世のすべてが、私だけの夢幻の劇場であればいいと願った。館の中を翔けながら、胸裡で何度も吼えていたわ。誰もが、私の書いた台本どおりに役を演じ続ける人形になってしまえ……とね。それ以外の願いなんて、もはや私には存在しなかったのだもの」
「でも、そうはならなかった?」
「叶うはず、ないじゃないの。冷静になって考えれば、それは非情で傲慢な欲望にすぎなかったんだもの。むしろ、叶わなくてよかったと、今なら思えるわ」
 
 だって、そうでしょう? 私に向けられたお嬢様の瞳が、そう訴えかけていた。
 
「その願いは、リンやエレン、くるみや美鈴――私の大切な同居人たちの個性すらも否定して、人形劇のキャストになれと命じること。多様性を失った独り遊びを渇望するなんて、そもそも私にあるまじき選択だったのよね。それに気づいたとき、私はサクヤが逝った直後を思いだしたわ。そしてまた、自分の無力さに打ちひしがれたの」
 
 テーブルの向こうで、健気に作られる自嘲。すぐにでもテーブルを回り込んで、お嬢様の小さな肩を抱きしめたい衝動に、私は駆られた。それほどまでに儚げで、弱々しく映ったのだ、私の双眸には。
 それを赦さなかったのは、お嬢様のプライドだったのだろう。全身から放たれる拒否の気配が磐石の重石となって、私を椅子から離れさせなかった。
 
「お、お嬢様……感情を昂らせすぎては、身体に障りますわ。今夜のところは、ここまでにして休まれては、いかがでしょうか?」
 
 行動を抑制されるなら、せめて言葉だけでも尽くそう。そんな思いから気持ちを伝えると、お嬢様はようやく、わずかながら表情を和らげてくれた。
 
「心にもないことを、よく言うものね」
「あら、ひどい言い種ですよ。これでも本気で案じているのに」
「それは悪かったわ。正直なところ、貴女が優しくしてくれるだなんて、微塵も思っていなかったからね」
「失礼な」
 
 なんと言うこともない、軽口の応酬。それが、なんだか懐かしく想えてしまうのは、お嬢様の昔話を聴いていたからだろうか。この程度の会話など、いつでも交わしているのに。
 それを不思議だと感じた直後、それ以上の思考を遮るように、また――
 
「どうかしたの?」
 
 私の変化を目敏く捉えたお嬢様が、鋭い視線を投じてきた。嘘や誤魔化しを真っ向から拒絶する、真剣な表情とともに。
 ここで下手なことを口走れば、鉄拳制裁は免れない。もちろん、端から冗句を返す気分ではなかったから、素直に返答しておいた。
 
「いえ……どうも先刻から、断続的に頭が朦朧とするものですから」
「私の嗅覚をもってしても、貴女の体臭からは病気の臭いを感じられないわよ。ただ酔っただけかしら? それとも、眠気に襲われて?」
「よく解りません。たぶん、一過性の不調ですわ」
「一過性? 興味深いわね、それは」
 
 言葉どおり、お嬢様はテーブルに肘を衝き、身を乗りだしてくる。なにを期待してか、夜闇の中でルビーのような瞳から、妖しい輝きを放ってすらいた。私の体調不良を面白がられても、いい気分はしないのだが……どうやら、そのような雰囲気とも微妙に違うらしい。
 私の見立てを、お嬢様の言葉が肯定した。
 
「貴女に起きている変化は、私が与えてきたものよ。そして、貴女が護っていくべきものでもあるの。さっきも言ったでしょう。この世は錬金術における坩堝であり、器に水を注ぎ続ければ、溢れて零れるだけだって。でも、貴女にはまだ溢れるだけのものを与えていないわ」
「お嬢様……それは――」
 
 ――それは、どういう意味なのですか?
 
 問いかける言葉が、喉に詰まった。私自身でさえ驚くほど、意外であり突然すぎる変化だった。呼吸さえ止まってしまいそうな息苦しさの理由は、お嬢様の言葉と態度である。どこか、いつもと違う雰囲気に、私の迷いは増幅され続けた。記憶している限りにおいて、こんなにも強烈な畏れを抱いたのは、おそらく初めてことだった。
 
 ――触れてはいけない、忌みなのですか?
 
 我が身に起きた変調。その理由についての探究心は、儚くも恐怖心に覆われて、八方ふさがりの様相を呈していた。
 
「私が、護っていくべきもの?」
 
 辛うじて、掠れた声を絞りだせた。
 与えられ、護る。その一句には、義務と責務を示す意味が込められている。お嬢様と私の主従関係においては、ありふれた日常である。お嬢様も、そのつもりで発言しただけなのだろう。
 しかし、なぜか私は、それを上書きという意味に解釈していた。私という人格が、新たに創られた別の人格データで塗りつぶされて、なかったことにされてしまう。そのような錯覚に不安を掻き立てられ、私の身体は無様に震えた。
 入れ物だけが同じで、中身は入れ替えられた者。それは、もしかすると現在の私についても、言えることではないのか。私だと思い込んでいる『私』が、過去から連続するオリジナルの『私』だと断言するなら、その根拠を示さねばならない。
 
「私……私は…………なに?」
 
 お嬢様の無邪気な微笑みまでが、私の裡にある信頼と疑惑の境界を曖昧にさせ、混乱に陥れる。自己が揺らいだ状況で、そんなふうに笑いかけないで欲しかった。ますます、懐疑的になってしまうから。これまでどおり、盲目的に隷従させてくれたら、いっそ救われるのに。
 
「怯えているの? でも、狼狽えなくていいわ。なにを見聞きしたところで、貴女は貴女なのだからね。いずれ卵は孵り、あるべきカタチに還っていく」
「私は――卵ですか?」
「ただの喩えよ。紅魔館という殻のなかで、お酒を呑みながら語らいを愉しんでいる私たちを、孵化を待つ雛鳥に置換してみただけ。怖がることなんて、なにもないの。もっとも、貴女が時間の方舟から逃げだしたいと願っているのなら、話は別だけどね」
「逃げだすだなんて、そんな……私の居場所は、もうここだけですから」
 
 私の返答に、お嬢様は妖しい仕種で、すぅっと瞼を細めた。

「嬉しいわ。本当よ」
 
 いつまでも、そばにいて。そう続けた主人の微笑みは、あくまで無垢で柔らかい。そして私は、悪魔の囁きと妖しい眼差しに魅了され、紅魔館に縛りつけられてしまう。だが、誰かに運命を委ねてしまうことは気楽だ。たとえ自己を放棄して、操り人形に成り果てるとしても、心地よいままでいられる。悪魔の飼い犬でいることを、無上の歓びに感じていくのだ。
 ならば、このままお嬢様の意志に従っていればいい。さっき生まれた不安の芽を、私は躊躇なく摘みとった。そう、仮に別のナニかで上書きされたとしても、私がお嬢様にとっての『私』であることに、変わりはないのだから。
 
「失礼しました、お嬢様。やはり、酔いのせいだったみたいですわ。昔話の続きを、聞かせてくれませんか」
「大丈夫なの? 今夜のところは、ここまでにして休んでもいいのよ。せっかく記録に残すのだもの、口述筆記が疎かになっても困るわ」
「あら、お嬢様に優しくしてもらえるなんて、意外でした」
「失礼な。私は悪魔であって、鬼ではないわ」
 
 まるで、つい先刻と立場が逆転した会話に、自然と笑みを誘われた。
 この雰囲気、この距離感が、どうしようもなく愛おしい。お嬢様にとっての紅魔館が宝物であるように、私にとっても、ここで送る時間は無二の財宝なのだと、今更ながらに実感する。
 
「私のことなら、ご心配なく。これでも頑丈ですからね、徹夜したぐらいでは壊れませんよ」
「自分のことを最もよく解っているのは自分と言われるけれど、自分を解っていないのもまた自分だと、知らないみたいね貴女」
「そんなものでしょうか」
「過信は禁物、でしょ。ワインはやめにして、代わりに紅茶の用意を。昔話の続きは、それからよ」
「かしこまりました。すぐ、メイドに仕度させます」
 
 呼び鈴を鳴らして待つ間、窓の外に視線を向ければ、そこは乳白色の世界。もう、湖どころか庭先さえもが、ミルクの中に沈んでしまったかのようだった。とても、嵐がくるとは思えない。
 
「また、頭が朦朧としてきたのかしら?」
「いいえ。さっきの話を思い出しまして。こんなにも静かな夜なのに、嵐になるのかなぁ~って」
「運命だからね、いつか嵐にもなるわよ」
「今夜の話じゃなかったんですか」
「さぁてね」
 
 お嬢様は愉快そうに笑った。淡い色の唇から、吸血鬼の特徴とも言うべき牙を覗かせながら。そんな、屈託のない笑顔が憎めなくて、私もまた微笑を誘われた。
 まったく、どこまでが本気なのか、いつも曖昧にされてしまう。まあ、そんな気紛れは毎度のことだし、いいように振り回されるのも嫌いじゃなかった。主人のどんな戯れにも、飼い犬は喜んでじゃれつくだけだ。そうすれば、いつまでも可愛がってもらえる。
 
「手持ち無沙汰で待っているのも、能がないわ。話を戻そうか」
「ええ。図書館に向かうところから、でしたね」
「だけど、美鈴の部屋からの道のりでは、これと言って深刻なハプニングはなかったのよね。その辺は端折って、図書館に入った直後から話そう」
「解りました。それでは続けましょう」
 
 再び紡がれる昔話は、館を包む夜霧のように、私の意識を白く覆ってゆく。その先にある結末なんて、どうでもよくなってしまうほどに。
 我ながら単純だと恥ずかしくなるが、さっきまでの不安は、もう完全に消え失せていた。
 毒に蝕まれ、麻痺していただけかも知れないけれど――
 
「私にも――」レミリアお嬢様は、あからさまな自嘲を浮かべる。
「予期せぬことが起きた。これから話すのは、それだけのことよ。話すのは恥ずかしいけれど、この私が感情を乱された顛末だって、きちんと記録しておかないとね」
 
 もちろん異論など、あろうはずもない。
 私はただ、ちょっぴり脚色された歴史的な事実を、ひたすら書き綴るだけである。
 
 
 
   【7】  深紅の牙城で、不死者たちは永久の夢を見る。
 
 
「リン!」
 
 蹴破らんばかりの勢いで――とは月並みな形容だが、私は文字どおり抑えきれない衝動のままに、図書館の重厚なドアを蹴り開けていた。
 少しでも冷静であったなら、そんな軽はずみな行動はしない。ドアを隔てた直近に、気配を殺した敵が待ち伏せていたり、罠の存在を警戒するのが常識的だからだ。浅はかにも大声で自分の場所を知らせたり、親友の名前を呼んだりするなんて、我ながら常軌を逸した無用心さだったと言わざるを得ない。
 けれども、幸いなことに待ち伏せやブービートラップはなかった。それを敵の手抜かりと見るか、誘いと見るか……。ここまでの経緯を考えれば、後者の可能性が濃厚なのだが、頭に血がのぼりすぎていた私は、もはや正常な判断を下せる状況になかった。やおら嗅覚に飛び込んできた侵入者の残り香が、私の神経を逆撫でたのも、その一因だった。
 
「ふざけた真似を――」
 
 呟き、歯軋りした。周囲に漂っていたのは、紙や木が焼け焦げた臭気。
 図書館という場所で、火を使えばどういう結果を招くかなんて、子供でも解る。それを躊躇わないとは、つまり容赦しないとの意思表示でもあろう。自らの臭いを消し、足跡を曖昧にするためだけに香や書物を燃やしたのなら、まだ単純で対処もしやすいのに……と、なおのこと口惜しくなる。その程度の敵であれば、私の手を煩わせることなく、くるみが仕留めていたに違いない。
 
「どうしても、私の紅魔館を歴史から消し去りたいのか」
 
 そんなことは赦さない。ここは私のお城。私の宝物を護り続けるタイムカプセルを、傍若無人な輩に蹂躙させたりはしない。むしろ、法外な修理費や慰謝料の代わりに一命を請求したって、百パーセント認められる状況だ。
 しかし、イニシアティブは完全に握られていた。なんという屈辱、なんという醜態。この私が、あろうことか人間ごときの愚弄と翻弄を甘受して、柄にもなく半狂乱に陥りかけているとは!
 愚かにも相手のペースに乗せられ、焦りに駆られながら、私は薄暗闇に居並ぶ書架の間を巡り、ニオイを嗅ぎ、隅々に眼を走らせた。なんでもいい。そこにリンの気配を得て、少しでも安心したかったのだ。
 
「リ――」
 
 そんな状態だから、巧みに近づく他者を感知することにも鈍くなっていた。いきなり身体の自由を奪われるまで、迂闊にも背後の警戒を忘れていたのだ。大袈裟な表現ではなく、メデューサに睨まれたかのごとくに、一瞬で身体も思考も凍りついた。喉の奥に押し留められた吐息が、ひぃっ、と鳴った。
 リンの身を案じていながら、どれほど自分の護身については無頓着だったのか。それを悔やむ脳裏に、くるみの無残な姿が蘇った。私は、彼女より惨たらしい方法で処刑されるに違いない――と。
 私の耳元にかかる、嘲りを含んだ笑み。体温さえ感じる吐息が、静かに語りかけてきた。正確には耳元ではなく、脳裏に直接だったけれど。
 
(静かにね。騒いだら、気づかれちゃうから)
(フランドール!? お、驚かせないで)
 
 一瞬にして身体中の緊張が解けて、私はその場にへたり込んだ。私の不意を衝き、沈黙を強要してきたのは紛れもなく、ずっと閉じ込めてきた妹だった。
 フランドールは、嘲りを滲ませた吐息を私の耳に吹きかけ、言葉を続けた。
 
(冷たいわ、お姉様……愉しい遊びで、私だけ除け者にするだなんて。私が鬼ゴッコの鬼になるから、任せて。沈黙を武器に、匂いを辿り、音もなく近づいて一撃のもとに屠るの。気持ちいいよね、きっと)
 
 確かに、それは可能だ。そうすることが最善であるのも理解していた。先走りすぎた感情に、論理的な行動が抑制されていただけで、わざわざ諭されるほどのことでもない。
 そんな私の答えを、フランドールはまた鼻でせせら笑う。見苦しい強がりと思われたらしい。だが、事実でもあるので腹立たしくはなかった。むしろ、それで普段どおりの私を取り戻せたほどだ。いざとなれば――姉に対する妹の態度として、模範的であるかはともかく――心の拠りどころとなってくれる。そこが、最も近しい存在のありがたさだ。
 
(お礼を、言っておかないと)
(気にしないでいいのに。私は、ゲームの醍醐味を満喫したいだけだもの)
(一応の礼儀だわ。レディーたる者、礼節には厳格であらねばならない。それが、私の主義にして矜持だと知っているでしょ)
(もちろん、熟知しておりますわ。お姉様)
 
 慇懃無礼なフランドールの言葉に活力を得て、私は一度、気持ちを切り替えた。完全にリラックスしてから、すべての神経を研ぎ澄ませる。五感のすべてを駆使して、侵入者の足取りを可視化しようとした。敵の匂いは、ラビリンスに降りるテセウスが手にしたアリアドネの糸に等しい。
 果たして思惑どおり、嗅覚からの情報は運命の紅い糸となって、私たちの視覚に変換された。これを辿れば、すべてが終わる保証なんて、もちろんない。それどころか、さらに深く罠に嵌るだけかも知れない。けれど、疑心暗鬼ばかりでは埒が明かないし、リンを護るために急を要するのも、また事実だった。
 
(さて、鬼さん。準備は万全かしら)
(いつでも。私は、お姉様に着いていくだけよ)
(あら、私の背中を護ってくれるの?)
(運命共同体だもの。心中もドラマティックで悪くないけど、悲劇の主人公は柄じゃない。だから、死なない程度に護ってあげる)
 
 どうと言うこともない軽口の応酬で、多少なりとも普段どおりの私を取り戻すと、今度は不思議な高揚感が身体に満ちてきた。その最たる理由は、やはり嬉しさなのだろう。長い間、閉じ込めてきた後ろめたさは、もちろんある。しかし、それ以上にフランドールと意思を交わしている事実が、私を歓喜させていた。妹の本音は、私と真逆かも知れないけれど、それでも……。
 
(ありがとう。信頼しているわ)
 
 この契機を与えてくれた点に関してだけは、侵入者に感謝してやらなくもない。だが、それもリンに危害を加えていたなら帳消しだ。私から永久にリンを奪ったりしたら、容赦などするものか。全力をもって、侵入者の存在をこの世から抹消してやる。
 
(お姉様、聞こえてる?)
 
 ほとんど音も立てず、宙を滑るように移動していた最中、フランドールが緊張を露わにした。それまで泰然としていただけに、妹の急な変貌は、私の身体をも強張らせる。その理由は歴然だった。なぜなら、視覚化した敵の体臭――運命の紅い糸までが、荒縄ほどに太く見えていたから。
 
(ええ、私にも聞こえているわ)
 
 私たちの聴覚が捉えたのは、幾重にも連なる書架の奥から届いた、今にも消え入らんばかりの苦しげな吐息。くぐもって聞こえる理由は、障害物による反響と、服の袖か掌で口元を覆っているためだろうか。しかし、明瞭に聞こえずとも、私には解っていた。それが、リンの息遣いであると。手傷を負わされたのか、それとも持病の発作が起きているのか。親友の喘ぐような呼吸に、私の胸裡はジリジリ焦がされた。
 不意に、聞き憶えのない低い声が聴覚に割り込んだ。他ならぬ侵入者の声だ。それ以外ではあり得ない。
 
「貴女も、永遠の眠りに就かせてあげる。それが慈悲よ」
 
 まさしく冷徹の一言に尽きた。抑揚のない、一切の情を感じさせない口振りは、さながら極めて事務的に職務を遂行する自動人形を彷彿させる。あるいは、本当にそうなのかも知れない。人間に仇なす私たちのような存在を、動ける限り幾百年でも追い詰め、抹殺する役目を与えられた狡猾な傀儡。
 だとすれば、予想外に厄介な敵だ。得てして専門的な道具には、自らの能力を最大限に発揮できるように、装備や知識が与えられているものだから。この敵も、それらを兼ね備えていると見るべきだろう。くるみに施された蛮行からも、それは窺い知れた。
 早く、リンを救出しなければならない。視覚と聴覚によって、おおよその見当をつけた場所に、私は矢も盾もたまらず飛びだそうとした。そんな私の脚を押し留めたのは、リンの消え入りそうな声だった。
 
「まだ、忘れてはくれないのね。私から大切な家族を奪いとって一世紀が経つのに、まだ足りないの? 私は、もう元の名前さえ、記憶から消し去ってしまったのに」
 
 リンの声に、侵入者が淡々と言葉を覆い被せる。
 
「貴女の都合など、マスターの意思に優先されるものではない。名前を変えて姿を隠そうとしたって、いずれ尻尾は掴まれるものだ」
「可哀相ね。貴女もまた、過去に縛り続けられている亡霊と同じ。だったら、その業から解き放ってあげるのも、私の因果というものかしら」
「元々は、門外不出の技術を持ちだしたことが、許されざる罪でしょう。それを知った者たちは全員、口封じさせてもらうわ」
「させないって、私が言ったら?」
「虚勢を張ってもムダよ。貴女の運命も、もう私が握っている――」
 
 耳を欹てながら、私はいつしか、断片的な話の内容を繋ぐ作業に没頭していた。そこから導きだされる真実は、私たちを少なからず混乱させた。
 
(どういうことなの?)
 
 独りごちるフランドールに、私も無言で首肯した。リンと侵入者の会話は、私たちを疑問の泥沼に突き落とすに充分な衝撃だった。なぜ、二人が知己の間柄を感じさせる気配を漂わせて、言葉を交わしているのか。気のせいだとは思えないほどに、親密な、なにがあると言うのか……。
 その理由について、即座に返せる答えを私は持っていない。およそ百年――リンと紅魔館で暮らした日々に、思い当たる節があるなら話は別だけれど、リンが外部と頻繁に接触していた形跡は見出せなかった。どれほど記憶を辿っても、だ。
 しかし、それは私の記憶にないと言うだけの話である。たとえば、エレンの繋がりで私の知らない魔女のネットワークに、リンが参加していた可能性だって皆無ではない。どれほど親しくなっても、プライベートまで含めたすべてを把握するなんて不可能なのだから。
 
(あるいは、それ以前からの結びつき――か?)
 
 あの雨降る夜、私の元を訪ねてきたリンは、ほぼ着の身着のままで追われる身だった。そんな彼女が家族とさえ呼び、そばにいる者こそが自分と称するほどの9巻セットの本。侵入者とリンの接点と言えば、そのくらいしか思いつかない。
 かつて、リンが話してくれた故郷のことが襲撃の発端だとするなら、敵の標的は、私や紅魔館などではない。そして、図書館で火気を使ったりもした以上、本を強奪することが最終目的でもあるまい。そこに記されていた技術と、それによって生みだされた存在の抹消こそが、敵の完遂するべき目的に違いない。
 次の瞬間、私は自分の迂闊さを悔やみながら、反射的に身を躍らせ、リンの元へと翔けていた。間に合えと、それだけを痛む胸で念じ続けて。
 
「あぁ……」
 
 しかし、私の切実な願いは呆気なく裏切られた。匂いを辿って飛び込んだ書架の陰に、ぐったりと崩れ落ちたリンがいた。
 年季のこもった書架に背を凭せ、床に両脚を投げだして座る様子は、遊び疲れて眠った子供か、糸の切れた操り人形を想わせる。だが、現状は決して穏やかな状況ではなかった。身じろぎを忘れた少女の周囲には、小さな炎が本を糧に成長し始めていたし、その正面には、漆黒のローブに身を包んだ胡乱な人影が、傲然とリンを見据えていたのだから。
 やおら屈んだ侵入者の左腕が、リンの髪を無造作に掴んで、荒々しく上を向かせる。そこまでされても、リンは苦痛に表情を歪めるのみで、抵抗らしい抵抗を見せなかった。もう余力が残っていないのか、はたまた、このタイミングであの発作が起きてしまったのか。
 いずれにせよ、私にも猶予は残されていない。なぜならば、侵入者の右手に握られた銀製と思しいナイフは、今しもリンの喉を切り裂かんばかりだった。
 
「やらせないっ!」
  
 もはや、声など潜める必要もない。私の身体の体液と言う体液が、瞬時にして沸騰していた。急激な反応は、爆発的な活動力を生む。私は獣のような叫びをあげながら、猛然と具現化させた槍を構え、躍りかかっていた。この一撃で、侵入者を木っ端微塵に粉砕し、リンを救出する。それ以外の結末に至る要素など、どこにもない。
 私の全身に伝わる、確かな衝撃。それは当然にして歴然のことながら、憎き侵入者を刺し貫いた手ごたえに他ならない。私も妹も、そう信じて疑わなかった。
  
「――え?」
 
 やおら紡がれる、気の抜けた呟き。驚愕のあまり思考が空白となった者だけが放つ、すべての終焉を知らせる合図。
 次の瞬間、私は漆黒の闇へと投げだされていた。唐突すぎて、状況が理解できていない。思考力そのものが、ひどく緩慢かつ断続的で、答えを理路整然と導きだせなかった。おまけに、些細な動作すらできないときている。
 けれど、先の呆然とした声は、私が発したものではない。そもそも、発する暇すらなかったのだ。そして残念なことに、愚かな侵入者の唇から漏れた声でもなかった。
 この場にいる者で、それができたのはフランドールのみ。私は自分の身に起きたことさえ理解できないままだった。なにも見えない。声もだせない。思考は空白と化して、混乱を鎮める以前に、現状維持で精一杯の状態だ。
 やや遅れて、鈍い衝撃が床を伝ってきた。妹もまた私の横に倒れ伏したらしい。この段になって初めて、私たち姉妹は自分の身に起きた変化を悟った。そうなった理由までは、確認できなかったけれど。
 
(私……なにが……?)

 ようやく、少しずつ状況を確認できるようになると、その事実がまた私を動揺させた。信じられないことだが、私は一個の肉塊と化していた。より正確には、頭の一部と――脳漿と表現されるものだろうか。瞬きするよりさらに短い時間で、頭を吹き飛ばされていたのである。それも、なにか魔術を施した妖刀の類によって。
 
(再生……できない!? 変化も?)
 
 通常の刀剣であれば、私たち一族を傷つけることはできない。ましてや蝙蝠に変化する能力を奪ったり、再生を阻害させるなど不可能である。そこにこそ、私の油断があったとしか言い様がない。
 吸血鬼対策をしている相手だと解っていたし、くるみに偉そうなことを言っておきながら、まんまと相手の思惑どおりに踊らされたなんて、失態どころではない。恥辱のあまり、棺桶があったら入りたいほどだ。
 
「邪魔はさせない。深紅の牙城で、不死者たちは永久の夢を見る。美しいわね」
 
 もはや耳という器官を失った私でも、空気の振動で敵の言葉を認識できた。完全に動きを止めた肉塊を見おろして、勝利を確信しているのだろう。事実、コウモリに変化する能力すら奪われた私に、抗う術などなかった。このまま、次の瞬間には容赦なく踏み潰されてしまうとしても、逃れることさえ叶わない。誰かの助けに頼らなければ、私の命運は変わりようもなかった。
 
「もうやめてっ! 標的は私だけでしょう!」
 
 いきなり、なにか重々しい衝撃に続いて、リンの叫びが響いた。思うに任せない身体に鞭打って、私にとどめを刺そうとする敵を羽交い絞めにしたのかも知れない。無傷の敵にしてみれば、振りほどくのは簡単だろう。リンの接近を許したのも、そんな侮りがあればこそに違いない。
 
 しかし―― 
 
 そう。しかし、だ。
 確かに、この敵は手強い。幻術めいた小技を用いて、こちらを煙に巻き、全体の主導権を渡さない。まるでマジシャンだ。その自信から、これまで数多の標的を屠ってきたことは想像に難くない。そして、おそらく敗北したことが一度もないのだろう。そうでなければ、自らの勝利を確信するあまり隙を見せるなんて、あり得ないではないか。
 
「私を殺して、本を回収するだけでいいじゃない! これ以上、エリィたちには手をださないで!」
「無駄よ。貴女の存在を知っているだけで、このヴァンパイアも館も、充分に消去の対象なのだから。それにね、私の行動だって、あちらに監視されているの。この会話も記録されているはずだ。見逃してあげようにも、できない相談だってこと。災難だと思って、諦めるのね」
「あの本に記してあるのは、まだ発展途上の未熟なもの。だけど……あっちでなら既に完成されている技術でしょう。今更レトロな技術を欲して、どんな得があると言うの?」
「地上への技術漏洩を、最小限に食い止められる。それだけで充分な得じゃないの」
「そう…………よく解ったわ」
 
 やおら、リンの声音が強気なものへと変わった。
 
「これが、番犬の首輪ってわけね」
 
 それまでとは打って変わった冷たい声で、リンが言った。悲哀も露わに、悠長な語らいを続けたのは、この瞬間を得るためだったのだろう。もちろん、私たちの身を案じたのも偽らざる本音だと解っているが、今すべきは詮索じゃない。
 
「今よ、エリィ!」
(今よ、フランドール!)
 
 叫び声がしたのも一瞬、なにかが爆ぜる音と、微かな悲鳴が続いた。
 敵が読めていなかった事実が、二つある。
 ひとつは、あらゆるものを破壊できる能力を、フランドールが有していたこと。
 
「――え?」
 
 もうひとつは、エリスの身体が二つの魂によってシェアされた存在だと言うこと。
 再び紡がれた、気の抜けた呟き。今度のこそ、それは紛れもなく敵のものだった。
 頭の半分を吹き飛ばして、私を沈黙させた気になっていたのだろう。けれど、私が主導せずともフランドールはエリスの身体を動かせる。私よりわずかに反応が劣るのは仕方ないが、それとて刹那のこと。隙を衝かれた敵には、躱しようもない速度だ。
 ごとり、と重たいものが転がる音がして、あとには沈黙が続いた。フランドールの斬撃によって決着がついた証だと、私には感覚的に解った。
 呆気ない。誰しもが、そう思うことだろう。しかし、手練れ同士の闘いなんて、得てしてそんなものだ。睨み合いや鬩ぎ合いこそ長引くけれど、決着は一瞬である。少しでもミスの多かったほうが負けるのは、そうあるべき運命に従っただけのこと。
 
「終わ……ったわ。エリィ、傷は……大丈夫?」
「私はフランドールよ。お姉様は、そっち」
「えっ? 妹……様?」
 
 どうやらリンも、頭の半分を失ったエリスの身体を、私だと思っていたらしい。ただの肉塊と化した私を見れば、それも無理はないとは言え、やはり少しばかり面白くない。しかも、それに対して憤りすら表現できない我が身がじれったくて、余計に腹立たしかった。
 
「ひどい……ごめんなさい……エリィ。私のせいで、こんな姿に……してしまうなんて」
 
 途切れ途切れのリンの声は、嗚咽を堪えているためか。荒く苦しげな呼吸が、私を不安にさせた。もう悲しまないでと、口があれば伝えていただろう。腕があれば、リンの華奢な身体を抱き寄せ、あらゆる時間を費やしてでも慰めていただろう。それが叶わないことが、なにより悔しい。
  
「変だわ。この身体、壊れた箇所が再生しないの。お姉様も、そうじゃないの?」
「そ、そんな……こと……って」
「あいつ、武器に魔術を施してたのかしら」
 
 敵は最後まで、厄介な手土産を残してくれたと、そう言うことか。
 でも、これはこれで、よかったのかも知れない。私は今まで、エリスと呼ばれる魂の器に、フランドールの魂を閉じ込めたまま暮らしてきた。けれど、これでやっとフランドールは私の束縛を離れ、一個の存在として自由に振舞えるのだ。償いの意味を込めて、あの身体は妹に譲っても構わないだろう。それによって、私の存在が消えるとしても。
 そう。幸せな気分に浸ったまま、私は永久の眠りに就ける。
 
「駄目よ、そんなの」
 
 リンの呟きは、まるで私の思考を読んだかのようなタイミングで、私を驚かせた。あるいは本当に、以心伝心と言うものだったのだろうか。一緒に費やしてきた時間の長さに比例して、互いの心が融け合うほどに近づいていたのであれば、この上なく嬉しい。本当に、それだけでもう充分と思えてしまうくらいに。
 だが、それは互いに対して、より以上の負担をかけることでもある。
 
「聞いたこと……があるわ。吸血鬼……鮮血を得れば……復活するって」
 
 やめなさい。私は咄嗟に、そう切り返していた。リンが、なにをするつもりなのか理解できたからだ。これ以上、負傷したリンの身体に無理をさせたくはなかった。そんなことは、充分に静養してからでも遅くない。私なら今の状態でも、辛うじて生きてはいけるのだから。この身の不自由さなど、大した問題ではない。
 しかし、リンは――
 
「いいのよ、エリィ。私……もう長くなさそ……うだ……から。私の血を、エリィにあげる」
 
 肉塊と化した私に、生暖かい液体が注がれる。前後して、掌に包まれる感触と、近づく吐息。リンが私に口づけしたのだと、少ししてから気づいた。私の内側から、爆発的な勢いで活力が噴出してくる。肉体の再生が始まったのが解る。
 そんな私の変化を見届けて、リンは微笑む。
 
「エリィ……今まで、ありが……と……ね」
「リンっ!」
 
 腕の再生を待つのももどかしく、私はリンを包み込もうとした。実際には、ただリンに寄り添っただけのことだったけれど。
 それでも、彼女の温もりや匂いを間近に感じられただけで、心が震えた。
 
「リンッ! こんなの厭よ、リン――――ッ!」
 
 感情のままに叫ぶ。こんな結末にだけは、ならないようにと努力したのに。
 いつしか再生していた双眸から、涙が溢れていた。思いどおりに動く腕を得て、私は傷ついたリンを抱き寄せ、支えながら懸命に呼びかけ続けた。このままでは、リンが永遠に手の届かない存在になってしまいそうだったから。先代のメイド長――サクヤが死んでしまったときと同じ想いを、繰り返したくはなかったから。
 
「言ったはずよ、リン! 私が赦すまで、どこへも逃がさないって。いつも好き勝手に挑発するばかりで、勝ち逃げできると思っているの? ふざけないで!」
「ふふ……今度も、私の勝ちね」
 
 なにに対しての勝利だと言うのか。なにが勝ちで、なにが負けだと……なにを以って自ら誇るのだろう。あの襲撃者や、その裏で糸を引く黒幕に対する、リンの偽りない気持ちだったのか。
 しかし、それなら私は言いたい。私たちを置き去りにすることは、結局のところ敗北じゃないのか、と。親の敵でもある相手と相打ちになって、それでも勝利と呼べるのか、と。その憤りは、叫びとなって私の喉から迸っていた。
 
「あ…………ぁ」
 
 けれども、返事はもうなかった。
 私の腕に抱かれたリンは、穏やかな微笑みを浮かべたまま、いつの間にか眠りに就いていた。まるで陽だまりに寝転がった猫のように、四肢を力なく伸ばしきって、安らぎだけしかない深い深い眠りに旅立っていた。
 
  
 私が悲嘆のままに絶叫したのは、これが産まれて初めてかも知れなかった。
 そして、私の意識は白昼のような気持ち悪い空間に投げだされ、白一色に染まっていった。
 
 
        ▽        △
  
「……ィ?」
 
 唐突に、静寂を破る声が聞こえた。
 そもそも、いつから私はコールタールのように粘りつく沈黙が支配する世界と、同化していたのか……。
 ダジャレではないけれど、およそ認識できる私の感覚すべてが、どうかしていた。
 
「ねえ、聞こえているかしら?」
 
 今度は明瞭に聞こえたけれど、その意味を理解するまで数秒の間、思考を何順もさせねばならなかった。これではまるで、あみだくじを辿っている気分だ。答えまでダイレクトに向かえず、繁雑に折れ曲がる。そうして辿り着いた答えが間違っていたなら、また最初からやりなおし。
 それでも、思考を繰り返し続けることで、脳内における情報伝達の速さと正確性は改善されていった。
 
「目を醒ましてよ、エリィ」
 
 呼びかける声に、どうにか瞼をこじ開ける。
 朦朧とした視界が明瞭になっていくにつれ、ベッドに臥せったままの私を心配そうに見おろす人影を確認できた。ぼんやりと見える金色の髪が、暗く淀んでいた私の心に、猛然と熱い感情を呼び覚ます。おそらく、私の表情も輝いていたに違いない。
 
「あ……ぁ」
 
 けれども、それが意中の人ではないと知るや、私の心は再び冷たく凍っていった。病は気から――と言われるけれど、いざ体験してみると、つくづく同意できる言葉である。一瞬、ベッドから跳ね起きそうになった我が身は、もう石像のごとく動かなかった。動かそうという気力さえ湧いてこない。
 これは、私が妖魔であり精神的なダメージに弱い存在だから、余計に重篤となっているのかしら? それとも、誰だって同じことなのか……?
 
「おはよう。調子はどう、エリス?」
「見て解らないなら、もう黙っていてよぉ」
 
 言って、返事も待たずに俯せ、枕に顔を埋めたまま瞼を閉じる。
 もう、このまま永遠に醒めない夢が私を捕らえにきたとしても、抗おうとは思わなかった。深紅の牙城で、不死者たちは永久に眠る――憎い敵の言葉が、この場で思いだされるのは皮肉としか言い様もないが、それでも怒りは燃えあがらなかった。
 
(呼びかけてくれたのが、リンだったなら)
 
 どうしても、そう思ってしまう。私を案じてくれる、住民たちの想いは嬉しいのだけど、リンを求めてやまない感情にも嘘をつけない。
 もちろん、こうして見舞ってくれるエレンたちの心配だって本心からだと解っているし、厚意には好意で応えたい。彼女たちも、そんな私の本音を理解してくれているだろうと期待するあまり、素直な反応を返さずにいるのは傲慢すぎるだろうか。
 
「ねえ、そこで本当に黙られると、私も困るんだけど」
 
 いっそ不貞寝を決め込もうかとも思ったものの、このままでは永久の夢見も悪くなりそうだ。これから先、私が二度と醒めない眠りに堕ちたとして、そのあとも館の空気がギスギスしたままでは、エレンたちだって惨めな気持ちになってしまうだろう。それは、私の本意じゃない。
 だから、私は重たい身体をどうにか横臥させて、半開きにした瞼の奥からベッドの脇に佇むエレンを睨めつけた。いささか依怙地な気もするが、それでこそ私らしいだろう、とまたヘソを曲げてみる。
 
「ヘソを曲げたり、拗ねて見せる程度には元気なのねー」
「なによそれ。まるで私が、甘ったれな幼児みたいじゃないの」
「んー、まあ、そのものだと思うけど」
「否定してよね。傷心の乙女に対して、思いやりがなさすぎるわ」
「思いやり? へぇ……だったら、こう言うのはどう?」
 
 言うが早いか、エレンは腕を伸ばして、無造作に私の髪をくしゃくしゃと掻き乱した。館の主人にして雇用主でもある私を、まるっきりの子供扱いである。この遠慮なさは、しかし厭味など微塵も感じさせなかったばかりか、心地よくすらあった。つくづく私も、スキンシップに弱い。
 
(これが……年の功と言うものなのかしら?)
 
 上目遣いに様子を窺うと、ニンマリ笑いながら私の頭を撫で続けているエレンと、視線がぶつかった。口元の笑みは絶やさず、エレンは瞼だけを徐に細める。
 
「ねえ、エリス」
「なによ」
「今、年の功って思ったでしょ」
「はぁあ? なな、なに言ってるの?」
「はい、その反応で確定ね。エリスって、解りやすい性格だから助かるわー」
「ぐぬぅぅ」
 
 もしかして、私は単純すぎるのだろうか。そんな自覚はないのだけど、こうも簡単にあしらわれてしまうと、自分の感覚が間違っているのかと勘ぐりたくもなる。ちょっと危険な自己嫌悪が、胸の奥でチクリと疼いた。
 私の変化を、エレンも目敏く捉えたらしい。
 
「それはそれとして、自覚できてる? エリス」
「あん? 私は萎れて死にかけだけど、それがどうしたってのよ」
「半分は当たり、かな。でも、内面の話じゃないわ」
 
 やおら、エレンは私の頭に置いていた手を離し、あらためて私の眼前に伸ばしてきた。その指には毛髪が数本、絡みついている。撫でていたとき、抜け毛を攫ったのだろう。
 
「よく見て。髪の色を」
「これ……本当に、私の髪なの? 魔法を使って、騙していないでしょうね」
「ここでエリスを騙したって、得になるようなことはないわよ。この髪は、たった今ここで採取したものに間違いないから」
「金色じゃない……よね?」
 
 一瞬、自分の視覚と感情を疑った。
 なぜ、こんなに解りやすい変化を見逃していたのだろう。それも自分の身体についてなのに、無頓着にもほどがある。我ながら、鈍感ぶりに呆れてしまった。ブロンドが淡いブルーに変色しているのに、ずっと気づかなかったのは異常だ。
 そもそも考えてみれば、私はいつからベッドに横たわっているのか。
 
「あれ? そう言えば、どうして私……」
 
 力なく横たわったリンを腕に抱き、絶叫したところまでは憶えている。けれども、そこから先の記憶は綺麗に途切れて、ただただ黒い塊が横臥しているだけだった。
 視線で問いかけると、エレンは表情を同情の色で満たし、経緯を教えてくれた。
 
「エリスは図書館で意識不明になって、ここまで運ばれたのよ」
「私が昏倒していた……? まあ、状況を鑑みると、そう考えるよりなさそうね」
「昨晩、なにがあったかは聞いたわ。図書館が、ひどい有様だった」
「ちょっと待って。今、昨晩って言った? あんなことがあってから、まだ一日と経っていないわけ?」
「そうよ。今は盛夏の昼間で、太陽が燦々アサヒサン、みんな喜ぶチカラコブ」
「はぁ? ごめん、私って悪魔だからさ、魔法使いの言葉は意味不明だわ」
 
 さておき、率直に言って意外も意外、この境遇は完璧なまでに想定外だった。しかし、この私が昏倒したくらいだから、相当な精神ダメージを受けたのは間違いない。もしかしたら、生命の危機に瀕するほどの威力だったのではないか。そんな状況ならば、時間の感覚に狂いが生じたり、記憶が断片的だったりするのも、むしろ当然と言えよう。
 
「みんなは、無事だったのかしら」
 
 わずかばかりの期待を込めて、訊ねてみる。リンを含めた全員が健在だと、エレンに言って欲しかった。私の求める運命は、そうなるべきなのだから。すべてのピースが元どおりの位置に納まり、また約束された平穏な日常が続いていかねばならない。
 真っ直ぐに見据える視線を、エレンは笑顔で受けとめる。ほわほわ穏やかで、見る者を安堵させる微笑みには、チャームの魔法も作用しているのかも知れない。魔法に抵抗力のない人間ならば、エレンの思惑は成功したことだろう。
 だが、悲しいかな悪魔の鋭敏な感覚は、私に鈍感であることを許さなかった。優しさと言う儚いヴェールに覆われた、微かな嘘の気配をも見透かしてしまったのだ。
 そして、思いだした。
 たちまち脳裏にフラッシュバックする、忌まわしい映像。
 
「あぁぁ……い……ゃ……やだ、いや! リンっ! リンを返してっ!」
「エリス、落ち着いて!」
 
 右手で頭を、左手で胸を。不愉快に疼く箇所を、ひたすら力任せに掻き毟った。
 皮膚が破れ、鮮血が溢れる。それでも、脳を、心臓を、感情までも。
 私の身体に巣食った忌まわしい元凶のすべてを引きずりだして、ぶちまけてしまいたかった。
 けれど、それも長くは続かなかった。いまだかつて経験したこともない激痛が、身体中の神経すべてに走って、私は痙攣した。胸が締めつけられ、次の瞬間には内側から全身が弾け飛んでしまいそうだ。なにかが、臓腑を八つ裂きにしながら暴走している。それが脳に達したら一巻の終わりなのだと、なんとなく解ってはいても、それを制御する術までは見つけようもなかった。不死の身体が、苦悶を不止のものにする。
 まるでストリキニーネを摂取したかのように、私の身体は脊椎も折れよとばかりに仰け反り、治まる気配のない痙攣を続けた。
 
(このまま、体内から身も心も砕けるのか。そうなったら、リンとサクヤにも会えるのかしら。だとしたら……この苦痛を甘受するのも悪くもないわ)
 
 朦朧とし始めた意識の中、そう思った直後、意外にも私に急速な安静が訪れた。いくらか状況が把握できるようになると、額に重ねられたエレンの掌に気づいた。なにかの呪文を唱えているようだったけれど、それは聞き取れない。だが、劇的な効果を思えば答えは歴然である。
 痛みが薄れ、激しかった呼吸も平静を取り戻す。気づけば、私の全身は血と汗にまみれていた。まるで、一日中サウナと血の池地獄に籠もっていたかの様相だ。
 
「温かいね、エレンの掌は」
 
 もう大丈夫だと伝える代わりに、そう囁いてみる。
 エレンは呪文の詠唱をやめて、私の半身をベッドから起きあがらせた。いたわりの仕種こそ優しいけれど、その表情からはもう笑顔が消えている。それだけで、おおよその察しはついた。
 
「本当なら、もっと日を空けてから話すべきなんだけど」
 
 私の顔に飛び散った血をハンカチで拭いながら、エレンは唇を開いた。
 彼女にされるがまま、私も応じる。
 
「ううん、今なら平気だと思う。だから話して、エレン」
「それじゃあ、まずエリスの身体について、私なりの見立てを伝えるわね」
 
 前置いて、エレンは私の様子を窺いつつ語りだした。少しでも変調を見せたら、いつでも話を打ち切って介抱してくれるに違いない。そう思えると、さらに心強さが増して気持ちが安らいだ。
 
「エリスが昏倒したのは、未知の技術に蝕まれた状態で急激な身体の再生をしたことと、そこに加えて、かなりの心理的プレッシャーが過負荷となったためだと思うの」
「老練な魔法使いにしては、凡庸な見解ね。百人いたら、百人が考えるレベルだわ」
「それだけ確度が高いって意味でもあるでしょ。生存本能のブレーカーが作動しやすくなってるから、しばらくは予断を許さないわね。なるべく、感情を高ぶらせないように、エリスにも努力してもらわなきゃ」
「解ってる。私も、自分が思っているほど強くなかったってことか。情けないわ」
 
 情けない。それは偽りない本音だった。自分の弱さが口惜しくて、いっそこの場から逃げだしたい衝動に駆られる。あと一押し、なにか決定的な恥辱に見舞われていたなら、私は快晴の空に飛び込んで自分を消したくなったかも知れない。
 それでも、エレンの魔法が効果覿面だったのか、クヨクヨした感情がそれ以上の激変を生むことはなかった。ネガティブな言葉は脳裏に浮かぶものの、その状況が長続きしない。私の心が、すっぽりと真綿のような緩衝材で包まれ、内外からの圧力を中和しているらしい。多少の心理的プレッシャーも、これなら耐えられそうだ。
 
「お嬢様ぁ!」
 
 そこに、まるでタイミングを見計らっていたかの如く、美鈴が顔を見せた。彼女の長所でもあるバイタリティを全開に、ドアを蹴破らんばかりの勢いで。
 けれども、その表情は泣き笑いのクシャクシャで、目頭が赤く腫れあがっている。おそらく、私が昏倒してからずっと自室に籠もり、悲嘆に暮れていたのだろう。
 美鈴は、顔以外が血まみれの私を見るなりヒィッと喉を鳴らしたけれど、すぐに気持ちを立て直して言葉を継いだ。
 
「妖精メイドが知らせてくれたんです。お嬢様の意識が回復したって」
「心配かけたみたいね。すまなかったわ、美鈴」
「いいえ、そんな」
 
 部屋に入って、すぐ立ち止まったままの美鈴に、エレンが歩み寄る。
 
「意識のないエリスを、部屋まで抱きかかえて運んだのも美鈴なのよ」
「そうなの? 本当に、いろいろと迷惑かけてたのか」
「迷惑なんかじゃありません! そのくらいは当然のことですよ」
 
 エレンに背中を押され、美鈴はベッド脇まで歩み寄ってきた。その潤んだ眼差しに、そこはかとなく罪悪感を刺激される。私は徐に腕を差し伸べて、握手を求めた。こんなときくらいは、主従の垣根を取り払ってもいいだろう。まあ、そんな垣根も普段から有名無実のものだったけど。
 美鈴は、しばし躊躇したもののエレンに促され、おずおずと私の手を取った。
 
「もう、起きても平気なんですか?」
「愚問だわ。美鈴、私を誰だと思っているの?」
「そりゃあ、もちろん…………えぇと」
「どこに言い淀む要素があるってのよ!」
 
 ――と、反射的に声を荒げた私を、エレンが「まあまあ、安静に」と宥める。
 その際、わずかばかり美鈴が上げた視線に、答えが含まれていた。美鈴が困惑の表情で一瞥したのは、私の頭に他ならなかった。スタイリングしていないから、寝ぐせでクシャクシャだと自覚してるけど、それが理由ではあるまい。
 
「髪の色が変わったくらいで、別人に見えるものかしら?」
「すみません、お嬢様。髪だけじゃなくて、面差しまで幼くなった感じですから、なんとなく印象の違いに戸惑ってしまって」
「はぁ? ちょっと待って。嘘でしょ、顔つきまで変わってるの?」
「ご自身で確かめるなら、鏡を用意しましょうか」
「不要よ。どうせ、私の姿は鏡に映らないってば。それにしても、一体全体どうしたことやら。若返ったと喜んだらいいのかな」
「それなんだけどね、エリス。もしかしたら――」
 
 徐に、エレンが私の髪に手を伸ばし、撫でながら言った。すぐに原因を予測してくるのは、さすがに図書館の主と言ったところか。ならば、長い時間をかけて蓄積してきた豊富な智慧や見識の広さを、遺憾なく発揮してもらおう。
 
「なによ、心当たりがあるの?」
「もう少し詳しく調べないと、断言はできないけどね。でも、エリスのように特殊な種族に劇的な変化をもたらす事象なんて、そう多くないわ」
「いいから、勿体ぶらずに教えてってば」
「キーワードは『血』よ。フランドールに聞いた話では、リンデンの『魔女の血』によって特殊な呪詛を解いたそうね。それによって、再生能力を妨げられていたエリスも、元に戻れたって」
「完全な元どおりじゃないけど、肉塊の状態よりは格段にマシだわ」
  
 ほんの一瞬、胸の奥が木の杭でも打ち込まれたかのように痛んだ。どうしても、キーワードからの連鎖で記憶が蘇り、引き起こされた痛みである。ついさっきは、これが発端となって死を意識するくらいまで重症化した。
 しかし、今度もまた悲痛の暴走は凌げた。エレンの魔法は、正直に言って私の想像を遥かに上回る効力を宿している。抜きんでた耐魔法力を有する我が種族をして、ここまで魔法の効果を持続させるなど尋常なレベルではない。魔女としての千年以上のキャリアは、空恐ろしくもあるが全幅の信頼を寄せるに値するものでもあった。
 
「リンの魔女の血に、そこまでの効果が?」
「少なくとも、普通の人間から得た血液より特殊だもの。そもそも、彼女の出生からして普通じゃないからねー。どんな変化が起きても、不思議でもないでしょ」
「道理……なのかな、それ。そりゃあ、今まで人間の血しか摂取してこなかったけれど、輸血とは意味合いが違うし……。だったら、エレンや美鈴から輸血してもらったなら、私の髪も金色に戻ったり、容姿が変貌したりするのかしら」
「試してみたいの? エリスが望むなら、ちょっとだけ吸ってみてもいいわよ」
「お嬢様が元どおり健康になれるのであれば、私も喜んで血を捧げますよ!」
「それは殊勝な心がけね。貴女たちの気持ちは、ありがたく受け取っておくわ。けれども今はまだ、先に片づけないといけない問題があるからね」
 
 今回の襲撃者と、見聞きしたこともない技術。そして、リンも襲撃者と同じ側に属していたらしいこと。芋づる式に蘇ってくる記憶が、まだ本調子じゃない私の処理能力を圧迫する。とてもではないが、マルチタスクなど無理だ。こんな状態では、いずれまた私の頭がオーバーヒートしてしまう。ひとつづつ、適切に片づけねば。
 目下のところ、最優先で手を着けねばならない項目は――決して目を背けることが許されない現実に、しっかり向き合うこと。
 
「美鈴、ちょっと背中に負ぶってちょうだい」
「解りました、お嬢様。よっ……と、はい、どうぞ」
 
 美鈴はベッドの端に浅く腰かけ、私に向けて緩やかに背中を丸めた。今まで、じっくり観察したことがなかったけれど、長い旅をしてきた彼女の背や肩は、思いの外がっしりと逞しい。以前に聞いた話では、旅費が少なくなると重い荷物を運搬するキャラバンの手伝いや、用心棒みたいな仕事で路銀を稼いでいたらしい。それだけでも、魅了されるに充分な貫禄だ。
 見惚れた私は、ついつい美鈴の背中や肩を、ぺたぺたと撫で擦ってしまった。衣服越しにも、確かな肉体美が感じられる。リンやエレン、もちろん私やくるみにもない力強さだ。
 
「ど、どうかしたんですか、お嬢様?」
「えっ? あ、いや、その……」
「もしかして、服が汚れていました? すみません、昨晩から着替える暇もなかったもので」
「ち、違うの。大丈夫よ、うん。大丈夫」
「はあ……それならよかったです」
 
 釈然としない美鈴の仕種は愛らしかったが、和む暇などなかった。傍で一部始終を見ていたエレンのいやらしい笑みに耐えかね、誤魔化しながら美鈴の背中に張りつくので精一杯だったからだ。多分、顔の赤らみも隠せていなかったはずだ。
 美鈴の両腕に脚を抱えられ、私も反射的に彼女の肩をギュッと掴んでしまった。
 
「痛たた」
「あ、ごめんなさい。つい」
「平気です。えぇっと……それで、どこに向かわれるのでしたっけ?」
「リンの亡骸に会いにいくのよ。いかなる手段を用いてでも、甦らせるためにね」
 
 先代メイド長――サクヤが天寿を全うしたときには、彼女の意思を優先させた。サクヤの生き様を尊重するのだと、それがベストの選択だと、離れがたい想いに苛まれながらも自らを騙し続けて。
 しかし、それは私の臆病さを糊塗しただけの、お為ごかし。私は怖かったのだ。サクヤに不死を強要して、永遠に恨まれ続けるかも知れない運命を直視できなかった。逃げた挙句、美しい記憶だけを心の拠りどころに自責の念を抱いたまま生きてきた。
 
「でも、もう躊躇わないわ」
 
 今度と言う今度は、私の意志を優先させてもらう。欲望には愚直なまでに忠実であるのが、妖魔としての有り様なのだから。このまま何もせず、リンまで永遠に失ってしまうなんて厭だ。私が欲しいのは、オルゴールみたいに同じ音色を奏でるだけの遺物じゃない。千変万化に私の魂を刺激してくれる、親友をこそ求めているのだ。リンだって、きっと私の欲望を微苦笑しつつ受けとめてくれる。
 一切の活動を止めたリンを直視するのは、確かに怖い。サクヤを葬る際にも、私は埋葬にこそ立ち会ったが、決して彼女の死に顔を見なかった。遺体を納棺したり、エンジェルメイクを施したのは、エレンたち館の住民だ。
 だがしかし、エレンの魔法で精神状態が安定している今こそ、それをする絶好の機会でもある。逃げない決意をした以上、すべてを目に焼きつけねばなるまい。
 
「美鈴が取り寄せてくれた東洋の書物の中に、反魂の術について書かれた本もあったわ。エレンなら、その辺の知識もマスターしているんじゃないの?」
「知識だけならねー。本は読んだけれど、さすがに検証実験まではしてないの」
「それだって構わないわ。方法を熟知していることが重要なのよ」
「本気なのね」
 
 エレンが表情を固くする。魔女と言えども、踏み入ってはならない禁忌を定めているのかも知れない。仮に、そうであったとしても、私はエレンに禁忌を破らせる腹づもりだ。リンを取り戻すためなら、私は喜んで傲岸不遜な絶対君主となりたかった。
 この館におけるルールは、私が決めて従わせてきた。横紙破りは日常茶飯事、それが紅魔館の流儀であり伝統である。
 空気が引き締まる感覚に、美鈴まで影響されて固唾を呑んだ。
 
「どうしたの、美鈴? 寒気でも感じたのかしら」
「な、なんでもないです。平気ですから」
「よかった。それなら、早く向かうわよ」
「待って、エリス。それについて、補足しておくことがあるわ」
「なんなのよ、エレン。出鼻を挫いてくれるわね」
 
 気勢を削ぐのは、私の身を案じているからか。それとも、私が怪気炎をあげたとでも思われたのか。いずれにせよ、横槍を入れられて愉快に思えるわけがない。もし体調が万全だったなら、相手がエレンだろうと高速デコピンを食らわせていた。
 さらに言葉をかけるのも業腹なので、横目に睨めつけて続きを促した。できるだけ怒りを滲ませたつもりだが、エレンの瞳には子供っぽい癇癪と映ったらしい。私の行動は彼女を萎縮させるどころか、逆に鼻先で笑い飛ばされることになった。
 
「仏頂面をしないのー。リンデンに生き返って欲しいのは、私だって同じなんだからね。可愛い弟子の死を、悲しまないとでも思っているの? 私は確かに長く生きているけれど、時間の経過や感情を忘却の彼方に追いやったりしていないわ。猫を飼っているのも、いろいろな世界に溶け込むのも、それらを忘れないためなのよ」
 
 言われて、いつもエレンと一緒にいる目つきの悪い黒猫が、脳裏に浮かんだ。今は傍にいないところを見ると、図書館で留守番でも任せているのか。
 寿命がもたらす別れと、新たな出逢い……。それはそれで、素晴らしいものには違いない。替わりを用意できるペットならば、この私だって、ここまで苦しみはしないはずだ。でも、エレンは周囲の者ばかりかペットにさえ慈しみを向けて、生きていくことの辛さを抱えようとしている。そうして培われた精神力こそ、エレンの強さなのだろうか。これから先、どれほど生きていくのか解らない私だけど、彼女の生き様には学ぶべき点も多そうだった。
 
「そうね……ごめんなさい、エレン。答えを急ぎすぎてるね、私」
「できる限りは協力するつもりだから、エリスも冷静になってよ」
「努力はしてみるわ。それで、なにを補足しようっての?」
「反魂の術を実施するなら、用意周到かつ正確であることが重要よ。少しでも手順や方法を誤れば、甦らせても心を喪ったままの生ける屍になってしまう。それはもう、姿かたちが似ているだけの別人に他ならないわ」
 
 そう。私が読んだ書物にも、それらしい記述が載っていた。必須の材料に、手順さえ確かならば、無作為に拾い集めた白骨からでも完全な人造人間が創れる――とも。
 リンの場合は、遺体に傷こそあれ五体が揃っている。白骨からの蘇生じゃない分、まだ難易度や材料を集める手間など、煩雑さが減りそうではある。働き者で経験も豊富な魔女も味方してくれれば、失敗こそ考えられないではないか。そう考えると、私の精神は凍てついた湖面のように、漣すら立たなくなった
 
「とにかく、エレンの指示どおりに作業するわ。約束する。美鈴、貴女も誓うのよ」
「はい、お嬢様! 必要なものは、教えてもらえれば必ず揃えて見せます」
「必要なものは、あとでリストアップするね。きっと成功させよう、エリス」
「ええ、必ず。話の続きは、移動しながらしようか」
 
 解決の糸口は見えてきた。だがもちろん、それで万事が巧くいくなんて思ったりはしない。安穏と隠棲してきた私ではあるが、だからと言って能天気ではないつもりだ。急を要するとは言え……否、だからこそ一発勝負で本番に臨むなど、あってはならない事態だった。
 絶対に失敗しないためにも、慎重に追試をしておかねば。
 
「ねえ、エレンの知識を疑うわけじゃあないけれど、やはり実験はしておくべきよね。記述が間違ってる可能性もあるんだしさ」
「まあねー。正直なところ、私も何度か検証してから本番に進みたかったのよね。実際にやってみると、手順の合間に記載されていない不明点なんかも、きっと出てくるものだから」
「幸いなことに、実験用の死体なら、もうひとつ確保できてるでしょ」
 
 フランドールに仕留められた、憎むべき襲撃者の死体が。あれだったら、もし反魂の術が失敗したとて、心を痛めずに処分できる。打ってつけの実験体だ。成功したらしたで、憎い敵を我が手で屠ってやれる機会を得るだけのこと。
 私の天才的なナイスアイディアは、しかしエレンと美鈴の賛同を得られなかった。
 なぜならば――
 
「エリス、貴女は思い違いをしているわ」
「なにがよ?」
「お嬢様、あの襲撃者……まだ生きているんです。動けないほどの重傷ですけど、意識はあるようで。今は、くるみさんと妹様が24時間体勢で監視してます」
「はぁあ? どうして、まだ生かしているのよ」
「裁くのは、お嬢様にお任せしようと。みんなで相談し合ったんですよね、エレンさん」
「そういうこと。エリスの考えも、聞いておきたかったの」
 
 なるほど、主人の顔を立てるなんて住民の鑑というものだ。それに、どんなカタチデあれ憎い敵に引導を渡してやれるのだから、むしろ好都合ではないか。
 
「いいわ。だったら私が、その場で息の根を止めてから実験体にしてやる」
「くれぐれも、やりすぎないようにね。でも、エリスはそうしないと思うけど」
「解っているわよ、エレン。あんまり激しく損壊させちゃったら、余計な手間を増やすだけだから、でしょ」
「そう言う意味じゃなくてね」
「ん? なにが違うの?」
「ううん、やっぱりいい。気にしないで」
 
 変な区切りかたをされると、なおさら気になってしまう。
 しかし、エレンはもう触れるつもりがないらしく、私と視線どころか顔すら合わせようともせずに話題を転じた。
 
「でもまあ確かに、あんまりスプラッタな光景は遠慮したいなー」
「私の顔を覆っていた血を拭き取ったのも、それが理由?」
「洗濯物が増えたら、妖精メイドが可哀想でしょ」
「あぁ、そう」
 
 あまり意味のない会話だ。エレンが言いかけた内容には興味があるけれど、詮索したところで答えを引き出す前に、目的地へ着いてしまうだろう。そもそも、話の流れからして本題に関連していそうだと推察できる。
 ならば、すべきは無駄口を叩くことではない。
 美鈴に背負われながら、私はエレンを引き連れ、自室を後にした。目指すは、身動きも侭ならないほどの重傷だという敵の元。
 実を言うと、私は敵の容貌をほとんど憶えていなかった。斬りかかるや否や、一瞬で返り討ちに遭い、視覚を奪われたのだから仕方ない。空気の振動によって、音声や気配は察知できたから、面会してみれば当人かどうかの判別はつくはずだけど……。
 
「ねえ、エレン。貴女の目から見て、敵は何者だと推測するかしら」
 
 図書館での対決によって、リンと襲撃者は面識のある関係だと判明している。リンの家族を追い詰め亡き者にしたのも、同一犯と見做して間違いなさそうだ。
 そして襲撃者は、こうも言っていた。リンの宝物である9巻セットの本は元々、どこかで研究されていた門外不出の技術で、それを地の果てまで追いかけてでも回収するのがマスターの意思だ――と。マスターとやらにとっては忠実かつ優秀な猟犬であり、リンや私たち追われる者にとっては、厄介にして不倶戴天の敵だったわけだ。
 邪魔をする者、秘密を知った者たち、すべてを抹殺の対象にしてでも保持したい機密とは、なんなのだろうか。リンの本を読ませてもらったことはないが、ホムンクルスについての記述があるとすれば、おそらくそれは本題じゃない。あくまで本題を説明するための基礎導入編、もしくは類する知識として補足的に挿話されたにすぎないはずだ。
 これがもし、ホムンクルスに関してのみ記された、うちの図書館にも置いてあるような平凡な書物であるなら、手段を選ばず奪還しようなどとは敵も思わなかっただろう。
 ホムンクルスやフランケンシュタインなどの人造人間を作成する方法は、魂の根源を問うもの。神霊――錬金術で言うところの、世界霊魂と呼ばれるものに相当すると思われる。そして、これから私たちがやろうとしている反魂の秘法も、似たような技術に違いない。本人を連れ戻すか、別物を用意するかの差だ。
 
「そんなものを研究する連中は、自ずと限られてくると思うのだけどね」
 
 訊いておきながら、返答を待つことなく伝えた私の見解を受けて、エレンは難しい表情のまま頚を横に振った。その反応は、私が期待したものではない。私の倍以上を生きている彼女ならば、敵の素性について即座にではなくとも、いくつか心当たりを挙げてくれるものと予測していたのだが……。
 もっとも、エレンは少しばかり忘れっぽいところもあるので、即断したものでもない。単純に度忘れしてるだけであれば、記憶の引き出しを探り当てたら瞬時に答えが浮かぶだろう。
 果たして私の見立てが運命を変えたものか、エレンは腕組みしつつ天井を仰いで、自らの見解を語り始めた。
 
「そう言えば、荒らされた図書館や、館内のあちらこちらを片づけている最中にね、特殊な魔法くささを感じたわ。私の髪が静電気を帯びたから、魔法なのは疑いないんだけど、簡易分析してみたら馴染んだ魔法と書式が異なっていたの」
「どう異なっていたわけ?」
「私の知る範囲で、近いイメージに当て嵌めるなら、かなり古い時代……神代に創出された魔法の、そのまたプロトタイプにイメージが近いのかな。フォーマットには共通の根っこが見え隠れしてるし、かなり早い時期に枝分かれして独自の方向に発達したのは、間違いないと思う。少なくとも、こっちの世界では記録が残っていない形式だから、もしかすると特殊な結界に閉ざされた小世界か、別の次元で用いられてる技術なのかも」
「別の次元? そんなことって、あり得るの?」
「現に存在しちゃってるのよね、これが。エリスだって痛い目を見たでしょ」
「そうなんだけどさぁ」
 
 エレンですら明確な原因を特定しかねるなら、私としても頸を傾げるしかない。
 こうなってくると、襲撃者が生きていたのは勿怪の幸いと言うべきか。機密情報に携わる者として、簡単に口を割るとも思えないが――いや、むしろ任務に失敗して自らの存在意義を失った今だからこそ、手荒な尋問をせずとも話しだすかも知れない。なにしろ、戦闘中でもペラペラとおしゃべりするほどのお間抜けぶりなのだから。
 
「いずれにせよ、敵から知識を引きだす必要があるわね。リンを確実に甦らせるためにも、あらゆる手段を講じておくべきだもの」
「豊富な知識は大きな利益を生むわ。それらを正しく運用する能力がないと、翻弄されてしまいかねないけれど」
「その失敗を減らすために残されるのが記録であり、学習ってものでしょ。さあ、急いで美鈴。やらなきゃいけないことが、山ほどあるんだからね。グズグズなんかしていられないわよ」
「はいっ! 魔法以外の雑用でしたら、私に任せてください」
「ええ。もう許してと泣きが入るくらい、こき使ってあげるわ」
「望むところですよ。もし私が過労死した場合には、反魂法の実験台にしてくれて構いませんから」
「つまらない冗談ね。罰として、美鈴は永久に紅魔館で働くこと。簡単には逃がしてあげないから、その覚悟でいるがいい」
 
 言って、軽めに肩を掴んでやる。
 最初は肩口に咬みついてやろうかとも思ったけれど、それをしたらリンに怒られそうなので考え直した。もっとも、この場にリンがいたならば、これでもかと美鈴とのスキンシップを見せつけたに違いない。怒らせてからかいたい、怒って欲しい、そして拗ねた素振りのあとに、微苦笑を向けて欲しい。そう求めて止まない一番の相手こそリンであり、あの娘がいないことで、私はどこまでも醒めた気持ちになった。
 向かう場所を見失った憤りは、ぐるぐると私の中で彷徨うだけ。それが息苦しくて、息継ぎついでに少しだけ心情を吐露した。
 
「赦さないんだから」
 
 絶対にリンを叩き起こして、これまで私が感じた苛立ちや不満を、とにかく聞かせまくらないと胸裡に抱えた憤懣も収まりそうもない。
 私の独り言を、自分に対しての叱責と捉えたらしく、美鈴が乾いた笑みを零した。
 
「赦してもらえたとしても、お嬢様に暇を与えられるまでは傍にいますよ」
 
 口調こそ冗談半分の気配を滲ませているが、実際は美鈴の本心なのだろう。
 そのセリフを嬉しく思ったのは、私の本音だった。
 
 
        ▼        ▲
 
 随分と、思いがけない方向に話が広がったものである。
 聞き手としては退屈させられないが、筆記のほうに集中してしまうと肝心の箇所を聞き逃しそうになる。現に、私は度々マイペースで語り続けるお嬢様を制止して、せっせと筆を走らせねばならなかった。夜だと言うのに、じんわり汗ばんで肌に下着の張りつく不快感がある。
 
「それにしても、意外でしたね」
 
 ある程度を記し終えたところで、強張った身体中の筋肉を軽いストレッチでほぐしつつ、水を向ける。肩や首筋が特に凝っていて、鈍く痛んだ。
 お嬢様は、妖精メイドが運んできた紅茶で喉を潤しながら、きょとんと真顔になった。なにに対しての意見だったのか、唐突すぎて理解できなかったのは明白だ。立場が逆なら、私だって同じ反応を見せただろう。
 いつもの意趣返しとばかりに、茫然とした表情をじっくり観察。ただ、あまり焦らしすぎては主人の機嫌を損ねてしまう。その辺の按配は、経験則で許容値を越えないように配慮している。折角の夜を、些細なミスで興醒めさせては館の住人として失格だ。お互い、つまらない想いを経験したら、以後ひとつ屋根の下に暮らすことが苦痛になってしまうではないか。
 
「妹様の件です」
 
 差し出した答えに、お嬢様が得心の表情を浮かべる。それを見て、やはり自信に満ちた顔こそがお嬢様なのだなと、私は思う。でも、それを吟味するのは別の機会でいい。
 
「お嬢様と妹様は、最初から別個の存在だったと、勝手ながら思い込んでいました」
「それは当然でしょ。現在だけ見れば、誰だってそう思うだろうよ。文字どおり、血肉を分けた姉妹であることには変わりないんだからね」
「結局のところ、お嬢様と妹様は双子として産まれるはずが、生まれながらにして二身同体となってしまったのでしょうか」
「いいえ。それこそ貴女の早合点と言うものさ。こんな話を、聞いたことはある?」 
 お嬢様は問うて、挑むような眼差しを私に注ぐ。紅い瞳は夜闇の中でも、ルビーのような深い輝きを宿していた。思わず魅入ってしまうほど美しい。
 教師を前にした生徒の心境で、私も続く言葉を待った。
 
「精神面の耐性が低い幼少期には、過度のストレスを受け続けた場合、自己防衛のために別の人格を産出し得るってこと」
「あぁ、解離性同一性障害ですね。古くは多重人格障害と呼ばれて、24人もの人格を持つに至った人間もいるとか。お嬢様と妹様も、それと同じだ……と?」
「普通の人間ですら、そうなのだからね。精神的なダメージに弱い私たち妖魔にとって、その傾向がより強くなったとしても、不思議はないと思わない?」
「私は医者でも科学者でも妖怪博士でもありませんから、今すぐに確かな答えなんて用意できませんわ」
「だよねぇ。私だって、自分の身体でどんな化学変化が生じたのか、すべてを説明なんてできないもの。私の中に、いつの間にかフランドールが共生するようになった客観的事実だけが、すべてと言うより他にない」
 
 お嬢様が語るには、それでも最初のうちは苦労もなく、お互いの人格が身体を占有できる日なども決め合っていたらしい。しかし、主人格であるお嬢様が成長し、精神面での支配力を強めるに連れて、妹様を心の牢獄――深い闇に閉じ込めてしまうようになった、と。
 
「フランドールの能力は強大で、破壊力においては私をも凌駕するからね。それなのに情緒は不安定だったから、自由にさせておけなかったのよ。フランドールもまた、失敗を重ねるたびに自己嫌悪に陥り、自閉症のようになってね」
「衝動に駆られて、屋敷や住民すら破壊しかねないから?」
「そうなったことも、幾度かある。だけど一番の問題は、強力すぎれば望む望まないに拘らず目立つってこと。目立って畏れ敬われた末に祀りあげられるなら、神として君臨すればいい。でも大概において、強大な存在は畏れられた挙句、隙を見せた瞬間に駆逐されるものよ。歴史的に見てもね」
「なるほど。お嬢様は静かな生活を守りたいがために、不安要素の多い妹様を自らの心に匿っていたのですね」
「理由はどうあれ、フランドールに強いた苦悩の歳月は長すぎた。身体を共用する私もまた、同じ苦悩に涙を流すばかりの歳月だった。だけど……だけどね、それでも強大な分身を――フランドールを私という主人格に吸収、融合して消し去ろうとは絶対に思わなかったわ。私を最も理解してくれる、かけがえのない存在でもあったからよ。リンに逢うまではね、本当に唯一の友達だったの」
 
 けれども、なんの因果か――
 その強大な能力を隠してもなお、多くの者が紅魔館に吸い寄せられ、不可思議な運命を紡いでゆく。訪問者も、襲撃者も、餌食となる弱者も、一切の区別なくだ。そして、それは客人のみならず、お嬢様たちにも数奇な影響を及ぼしていく。
 お嬢様は先ほど、こう言っていた。この世は錬金術における坩堝だ――と。多くの材料を混ぜ合わせることで、任意の結果を得られるし、思いがけない成果も付随してくる。その意味では確かに、複雑玄妙な魔法の壺と言うものだろう。
 
「期せずして別個の存在となれた今、お嬢様たちは幸せですか?」
「ん~?」
 
 てっきり即答で肯定されるかと思いきや、暫しの間が開いた。お嬢様には、お嬢様なりに複雑な想いがあるのだろう。他でもない、数百年ひとつの身体を共有しながら多くを見聞きしてきた、自分の分身的な存在と離ればなれになったのだから。
 
「そうねぇ……幸せか不幸せか、どちらかで言うなら幸せよ。フランドールも自由を得て、本当に嬉しそうだからね。私も、少しは楽になれた」
「エリスと呼ばれていた頃のお嬢様が、今では妹様の容姿となっているのですね」
「翼の形状とか、それなりには変わってるわよ。敵に受けた頭の損傷は、私と同じように自力じゃ修復できなかったからね。魔力による障害を中和するために、エレンがフランドールに自分の鮮血を与えてくれた。その副作用で、翼があんな感じに……」
「宝石みたいで綺麗ですよね。もちろん、お嬢様の翼も綺麗ですわ」
「お世辞?」
「お世辞のようで、本当は正真正銘のお世辞です」
「だろうと思った」
 
 顔を見合わせて、クスッと笑う。この瞬間に、ささやかな幸せを感じてしまう。
 何度となく繰り返してきただろう仕種なのに、と思い、だからこそか、とも思う。きっと、大好物の料理みたいなもので、何度でも味わえる嬉しさで幸せになるに違いない。
 同じタイミングで紅茶を飲み干し、おかわりを用意する時間が、ちょうどいい幕間となる。私は紅茶を注ぎながら、もうひとつの件について切り出した。
 
「次のエピソードは、捕虜の尋問になるのですね。現状を見れば、良薬になったのは容易に想像できます。少しばかり、口には苦すぎたようですけど」
「薬には違いないけど、言うなればドラッグに近いかもね。快楽は得られたものの、代償も支払わされていたんだからさ」
 
 毒と薬は紙一重。劇薬も用法を間違えなければ、劇的な治療効果をもたらす。その逆もまた然り。反応が穏やかなのか、急変を伴うかの違いはあるだろうが、欲しい結果が得られるのであれば御の字だ。依存性などは、副次的な問題にすぎない。
 さて、この紅魔館にとってドラッグは、いかに機能したのだろうか。新たな魔法の知識を得たのなら、さぞかし図書館の蔵書も増えたに違いない。お嬢様が信頼を寄せる、図書館の主たる魔法使いの婆さんも――
 
「あれっ?」
 
 そこまで考えて、なにかが足りないと感じた。私の中で、奇妙なざわめきが生まれている。同時に、思考を遮る靄のようなものまで、どこからともなく湧いてきた。今夜は、どうにも変な気分にさせられる。さっき摘み取ったはずの不安の芽が、どこからともなく頭を覗かせている。それは私に、地下茎の植物を連想させた。
 
「今度は、なんなの」
 
 お嬢様の勝気な眼差しに捕らえられ、ざわめきは身体の中で一層、大きくなった。
 けれど、それがナニに起因するものなのかを説明できない。ただ、足りないとしか表現できずに迷うだけなんて、ありがちな幽霊譚ではないか。毎夜毎晩、未練がましく皿の数を勘定する生活など、まっぴらごめんだ。
 忸怩たる想いを抱えながらも、やはり的確な単語は、私の頭に浮かばなかった。
 
「お嬢様、あの……」
「どうかした? 紅茶に毒を盛ったのは、私じゃないわよ」
「違います。って言うか、いつの間に盛っていたんですか! は、早く解毒剤を!」
「冗談に決まってるでしょ。間に受けないでよ、バカね」
「はぁ……」
 
 リアクションに困るような、質の悪い冗談は遠慮して欲しい。多分、冗談だろうとは思っても、ネタ晴らしされるまでストレスを感じて、寿命が縮まってしまうではないか。
 まあ、それを言ったところで、お嬢様には馬耳東風かも知れないけれど。
 
「でも、本当に毒を浴びせられたのと近い気分ではありますね」
「ほほぅ。つまり、私が毒舌だとでも?」
「それには、もう耐性がついておりますから無問題ですわ」
「ふぅん。それじゃあ、私の昔話に中毒した――と。そういう意味?」
「どうでしょうか。そうかも知れませんし、ただの勘違いかも」
 
 明らかなのは、なにかが麻痺しかけている感覚だけ。脳内麻薬か。神経毒か。私の与り知らぬうちに、化学物質が侵蝕してきているなんて、どうにも気持ち悪い。
 疲れているの一言で、片づけることだってできる。妖魔は精神的に脆弱だと言うけれど、それは人間とて同じこと。過度の疲労は、正常な思考や判断力を奪う。その意味では、私もまた普通の存在でしかないと証明されたに等しい。
 しかし、改まって自分の体調を気にしてみると、これが不思議なことに極度の疲労を感じなかった。右手を開いたり閉じたりしても、特に反応が鈍いわけでもない。こうして様々に考えたり、周囲の現象を見聞きするのも、まったくもって問題なしだ。眠たすぎたり、体力の限界を超えかけたときの、記憶の混乱や不連続性もなかった。
 そう。私はずっと意識を明瞭に保ったまま、お嬢様の語る回想を口述筆記し続けている。居眠りなど、断じてしていない。
 
(それなら、やっぱり肉体的なエラーではない……?)
 
 そう思った瞬間、両の頬を小ぶりな手で挟み込まれ、私は身体を震わせた。
 いつの間にか、お嬢様が背後に回っていたのだ。いつ席を立ち、そこまで歩いたのか、微塵も気配を感じなかっただけに、私の驚きも大きかった。思考に没入していたとは言え、我ながら無防備なことだ。これが殺意を持った相手だったら、確実に生命を奪われていただろう。
 
「震えているね」
 
 耳に吐息を感じるくらい、お嬢様は顔を近づけて、言った。
 声音に、どこか愉しげな気配を醸しながら。
 
「さっきも言ったけれど、どうしても怖くなってしまうのなら、ここで中断してもいいのよ。未知なるものに触れれば、誰だって興味より先に慄く。恥じる必要もないくらい、自然な反応だわ」
「お嬢様は、それで構わないのですか?」
「私には、たくさんの時間があるもの。それに、人は慣れる生き物だと承知しているからね。未知が豊かな既知を得て、機知にも奇知にも変わり得る。素晴らしいことだわ。私はただ、貴女の既知を育てて、黄金の林檎が実るのを待つだけでいい」
「黄金の林檎……北欧神話における、永遠の若さを神々にもたらす果実でしたっけ? 私なんかが、お嬢様にとっての林檎になるとは思えませんけど」
「その感想に至るのは、足りていないからさ」
 
 足りていない。
 そう。私が感じている漠然とした不安は、足りないからこそ。
 知ることは、必ずしも幸せだけをもたらすものじゃあない。知らずに生きていくほうが、ずっと救われる場合だってある。
 
(でも……それは……)
 
 確かに、瞼を閉ざし、耳を塞いで逃げれば、逃げ切れるかも知れない。しかし、そうやって鈍感になればなるほど、迷走するリスクをも高めるだけ。自らを押し殺し、寄らば大樹の陰と、誰かの慈悲に運命を委ねて生きられる身なら、それでもいいだろう。悪魔の飼い犬として、ただ漫然と生き延びるだけならば。
 でも、これは断言できる。その程度の存在に、お嬢様は興味を注ぎ続けない。飽きられた先にあるのは、館を追い出されるか、処分されるかだ。
 ならば、いっそ完全に開き直って、幼児的な短絡思考に走ってもいいのでないか。同じ飼い犬でも、成犬より仔犬のほうが愛嬌も感じられるだろう。私としても、どうせなら愉快でありたい。可愛がられたい。
 この際だ、さっきの曖昧な決意ではなく、不退転の決断として。個人の疑問は胸裡に眠らせておき、知ることに全力を傾けてみよう。
 
「あのぉ、お嬢様?」
「ん? なにか」
「私はいつまで、頬を押さえられたままなのでしょうか」
「おや、これは失礼。ぷにぷにしてて、手触りがよかったものでね」
 
 お嬢様は笑いながら、両手を離した。けれど、その手はすぐに私の肩を捕らえ、優しく掴んだ。昔話の中で語られていた、美鈴さんの背に負われながらしたのと同じ行為とイメージが重なる。偶然か、意図されたものか。いずれにしても、私はただ受け入れるのみだ。
 
「それで、どうする? もう休むの?」
「お嬢様は、最初に断言しましたよね。これは夢見のよくなる寓話だって」
「ええ、言ったわ。寝る前に、睡魔も裸足で逃げるような物語は語らないと、ね。嘘じゃなかったでしょ」
「確かに、嘘じゃあないです。睡魔は逃げるどころか、卒倒してしまいましたから。このままだと、不眠症になってしまいますわ」
「ならば仕方ない。せめて夢見をよくするために、最期まで話を聴かなきゃね」
「罠に嵌められた気分です」
「それが悪魔の手口ってものさ。甘い言葉にご用心、逃げられやしないよ」
「はいはい……」
 
 しかし冗談ではなく、目が冴えてしまったからには、進むより他あるまい。立ち止まったところで、本のページに栞を挟むに等しく、そこに変化は生まれない。お嬢様の言葉を借りれば、未知を既知にできないままだ。
 テーブルに開かれた本の、真っ白なページを開く。ここに、これから私の手で新たな文字が綴られ、世界が広がっていくのだ。未知が既知に、そして、その先へ。
 試し書き用の紙片に走らせたペンの調子も、異常はない。
 
「続けましょう。最期まで」
「じゃあ、捕らえた敵の部屋に着いた場面からね。部屋の前には、くるみが待機していたのよ。あの娘が負わされた怪我も、エレンが治療して――」
 
 語られる話を、私は聴いては書き、書いては聞き続けた。
 ひたすら書記として作業する内に、夢見の件はすぐに忘れた。一個の道具に成り果てた今、他のことに思い悩む暇など与えられはしなかった。
 衣食住に困らない快適な暮らしを続けていけるのなら、余計な懊悩はいらない。
 
 
 
   【8】  ミイラ取りは即身仏の夢を見るか……
 
 
 エレンと美鈴を伴って訪れた部屋の前では、くるみがドアに寄りかかりながら、手持ち無沙汰っぽく番をしていた。普段の昼間なら、私たちみたいな夜の支配者は、地下や暗闇に潜んで眠りに就いている時間帯である。そのせいか、ちょっと注意力が散漫にも見える。実のところ、半分くらい寝惚けているのかも知れない。
 かく言う私は、気が向けば昼間でも日傘をさして外出したりもするけれど、吸血鬼の一族として稀少な趣向に違いない。それだけ、私が特別な存在と言うことだろう。
 しかし、今日は誰にとっても特別。生涯、忘れられない一日となったはずだ。イレギュラーな大事件によって、私を含めた館の住民は全員が全員、生活リズムと精神的な安定を狂わされまくっている。そんなストレスに長く曝され続ければ、肉体的に強靭な妖魔と言えども、どんな影響が現れるものか解ったものではなかった。エレンの魔法で仮初めの安定を維持してはいるが、いつまでも効果を期待できない。
 接近する私たち一行に気づいて、くるみは双眸を瞬かせた。微妙に、欠伸を噛み殺したような仕種は、特別の慈悲で見なかったことにしておく。
 
「あ……エリス、意識が戻ったのね」
「くるみこそ。すっかり怪我も治ったようじゃないか」
「おかげさまで。この館の魔法使いは偉大だわ、紅い服とリボンが似合うし、エリスの替わりに、紅魔館の主人を任せてもいいくらいよね」
「なによぉ、私をリコールしようって言うの?」
「エリスが昏睡状態のまんまだったらって話よ。貴女が目を醒ましそうになくて、この非常事態にどう対処すべきか、みんなで今後の展望を協議したんだからね。最初は全員、フランドールを推挙したんだけど」
「フランドールは厭がったのよねー。館の主人なんて、つまらなそうだから他の人がやってよ、だって。みんなの心境としてもね、やっぱり主人はエリスだけなのよ」
 
 くるみの話と、それを補足したエレンのお陰で、おおよその推移は把握できた。私が意識を喪っている間に、この娘たちには多大な心配をかけまくっていたことも。その上でなお、私なんかを選んでくれる想いに、不覚にも目頭が熱くなった。
 
「ま……まぁ当然よね! そんな大役は、高貴にして特別な私にしか務まらないわ」
「あっれあれぇ? エリスってば、ちょっと涙声になってるよ?」
「う、うるさいな、くるみは!」
 
 やれやれ、と思う反面、なんだか随分と懐かしいような会話に安らぎを覚える。ほんの一晩しか時間が経っていないのに、もう何年も感覚を閉ざし、コミュニケーションを忘れていたかのようだ。これもエレンの魔法による鈍感作用なら、もうちょっと影響を軽くしてもらいたいけれど、薬の類いは得てして融通の利かないものだし、これはこれで仕方ないところか。
 しかしながら、くるみが元気そうで嬉しい限りだ。何気ない仕種からも、不自然な点は感じられない。怪我を庇えば、どうしても動作がぎこちなくなったり、表情の僅かな変化となって表れるものである。悪魔の眼力をもってしても、それを見つけられないとあれば、くるみの怪我は完治していると思っていいだろう。表情に疲労の色こそ見られるが、そちらの回復も私に比べたら早そうだ。くるみたちも、エレンの魔法によって精神的ダメージを緩和されているらしい。
 ひとまず安心して、私はエレンに礼を言った。
 
「なんにしても、エレンがいてくれて助かった」
「気にしないでいいよ。エリスが目を醒ましてくれただけで、充分なんだから」
「そう言ってもらえると、多少なりとも救われるわ。ありがと」
「およよ。エリスってば、随分と神妙じゃない?」
 
 素直に感謝の気持ちを伝えた私を、くるみが横から茶化したけれど、それは華麗にスルーしておく。先にすべきは、別にあるからだ。焦りは禁物でも、急ごうとする意識は必要。館の主人として、今後の方向性は明確にしておかねばならない。
 くるみは、そんな私をまじまじと眺めて、徐に溜息を吐いた。
 
「なんなのよ、くるみ。歓んだかと思えば湿っぽい態度を見せたり、ちょっと情緒不安定なんじゃないの? こっちまで忙しない気持ちにさせないでよね」
「だってぇ……容姿と相俟って、エリスが別人みたいになっちゃったんだもの。名残りと言えば、その翼だけ。フランドールのほうが、よっぽど元のエリスに印象が近いわ。なんとなく、それが寂しいかなぁって」
「バカね。外見だけで、中身は変わってないってば。くるみも吸血鬼なんだからさ、外見に惑わされたりしないで。私は私でしょ」
「でも、くるみさんの言うとおり、お嬢様の雰囲気は変わりましたよ」
「美鈴も、そう感じるよねぇ。エレンだって、正直なところ同じ感想でしょ? 麟の血が、そうさせたのかしら」
 
 くるみの言うように、もしや本当に、リンが影響を及ぼしているのだろうか。今、それを確かめる術はない。でも、そんなこともあるかも知れないと、予感めいた感想が胸に残ったのも、また事実だ。ずっと以前、私の翼を美しいと評してくれた、リンならば……と。
 
「もういいわ。変わったと貴女たちが思いたいなら、勝手に思ってて」
 
 いつまでも、取り留めのない会話を続けていたい想いはある。だが、そうしていたって欲しい運命は得られない。意識して冷淡を装い、くるみに部屋のドアを開けるよう、視線で命じた。くるみも、もう表情から微笑みを消して、私の意志に従った。
 美鈴に背負われたまま、昼間でも薄暗くした部屋に立ち入る。室内の空気は薬品臭く、そこに人間の血膿と体臭が混然となっていた。かなり、死臭に近い。この館を訪れる新顔は、どうして例外なく強烈な臭いを放っているのか。じつに不思議だ。
 部屋の中央寄りに、深紅に染められた天鵞絨のカーテンでぐるり囲まれたベッドが鎮座している。どの部屋でも、ほぼ同じ室内レイアウトだ。重傷の敵は、カーテンの向こうで身動きさえ叶わずベッドに沈み込んでいるのだろう。あるいは、包帯でグルグル巻きのミイラ状態だったりして……。
 想像してみたら、思わず笑みが漏れた。悪魔の館にミイラとは、なかなかに面白味のあるインテリアではないか。同じアンデッドモンスターでも、開けっ広げなスケルトンよりは慎ましくて愛嬌がある。包まれているだけに。
 
「あら、お姉様。もう起きていいの?」
 
 やおら、声が降ってきた。文字どおり、真上から話しかけられたのだ。頭の中にではなく、直接の肉声。今、私を姉と呼ぶのはフランドールしかいない。
 顔を上げると、妹は天井から逆様にぶらさがり、せせら笑っていた。見張りが退屈すぎて、コウモリごっこでもしているのだろうか。クールを演じながらも、両手で一所懸命スカートを押さえ、捲れないように頑張っているところが微笑ましい。
 
「見てのとおり、まだ本調子じゃあないわ。エレンの魔法で、なんとかね」
「美鈴におんぶされて移動するのって、なんだか愉しそう」
「私が元気になったら、フランドールが代わりに背負ってもらうといいわ」
 
 答えると、フランドールは笑みを崩しもせず、ふわりと私たちの前に降り立った。
 思えば、こうして直に言葉を交わすのは、初めてのことだ。しかも、その姿は私が数百年もの間、使い続けてきた身体である。フランドールの身体でもあったけれど、愛着の強さなら私のほうが五年分は強い。私が一番、あの身体を巧く使えるのだ。
 
「フランドールは、五体の感覚にも馴染んだの?」
「かなり久しぶりだけど、それなりに動かせてるわ。ねえ、この身体は、もう私のものにしちゃってもいいんでしょ?」
「今更、返せだなんて言いっこないってば。そんな方法も知らないし、調べる気もないわ。もう、貴女を束縛するものはない。だからこそ、能力の使い方だけは間違えないでね」
 
 私の返事を聞いて、妹は嬉しそうに微笑んだ。フランドールの立場からすれば、ようやく手に入れた自由だ。それを奪われるとしたら、この世から紅魔館が消滅することになってでも、全力で抵抗してくるに違いない。骨肉の争いなんて、人間じみた見苦しい状況は敬遠したかった。妹への罪滅ぼしが、最たる理由だとしても。
 
「そんなことより、襲撃者は瀕死の重症だけど、生きているって聞いたわよ。フランドールなら、一撃で抹殺したものと確信していたのだけどね」
「私もね、一刀両断するつもりだったよ。でも数百年ぶりだったし、頭の半分を喪ってたから、遠近感とか平衡感覚が掴み難くなっててね。それに――」
「それに?」
 
 問い返すと、妹は忌々しそうにカーテンを睨んだ。その向こうに横たわる、敵の姿を透かして鋭利な視線を突き刺すが如くだ。あの眼で、物体の『目』を捉えたが最期、妹に睨まれた物体は抗う間もなく砕け散る。
 それを思いだしたとき、ひとつの可能性が私の裡に生まれた。
 
(もしも……図書館での戦闘中に、私がフランドールと入れ替わっていたら?)
 
 接近戦を挑む必要もなく、決着がついたのではないか。
 もっと早く、リンに手当てを施して、彼女の生命を救えたのではないか。
 
(私が選択を誤らなければ、リンは今も――)
 
 危険なサイクルが、やおら身体の奥底で蠢き始める。
 だが、そのネガティブな発想は膨張しきる前に、もうひとつの鋭利な言葉に両断された。エレンの魔法が、私の深層心理を操作したのか、危険なサイクルを否定する言葉が次々に生まれてくる。
 
(いいえ、それはない。あの瞬間に、その運命は用意されていなかった)
 
 だから、どれだけ必死に抗おうとも、結果は覆らなかった。
 現在の状況を迎えることこそが、変えられない運命だったのだから。
 そもそも、敵は漆黒のローブに身を包み、ボディラインも判然としなかった。あの状況では、フランドールと言えども『目』を探り当てるのに、少なからず時間を要したはずだ。その僅かな時間で、敵の逆襲を許していたかも知れない。私とフランドールは別個の存在となれないまま、この世から一緒に消滅していた可能性だって――
 
「大丈夫なの? ねえってば!」
「ほわっ!?」
 
 急に腕を引っぱられて、思わず奇妙な声をあげてしまった。
 見れば、フランドールが私の右手首を掴んで、子供みたいに頬を膨らませていた。
 
「ボーっとしちゃってさ。話、ちゃんと聞いてた?」
「えっ? あ……えと、ごめんなさい。なんの話だったっけ」
「もう! しっかりしてよね」 
 
 フランドールは文句を言いながらも、話を繰り返してくれた。彼女なりに、どうやら私の身を案じてくれているらしい。元々は長く一身同体だった私たちだ、分離した今でも互いの機微を察するのは容易いものだ。
 
「斬りかかった瞬間、ほんの一瞬なんだけどチカチカッとね。紅い光に視界を覆われた気がしたの。本当よ」
「あ、それ私も見たかも知れない。その次にはもう、壁に打ち付けられてて……」
「くるみも? はて……私は、それをされた憶えがないけどね。フランドールが見た紅い光って、レーザーポインタみたいな感じ?」
「うーん。そこまで一点集中じゃなくて、もっと広範囲に照射したみたいな」
「写真撮影でマグネシウムのフラッシュ焚いて、目が眩んだようなものか」
 
 私の感想に、フランドールはポンと手を打ち鳴らしながら、コクコクと頷いた。しかし、ただの目眩しではなかったことも、改めて強調する。
 
「まるで、幻覚の魔法を使われたような感覚のズレを伴う現象よ。私のほうが速かったから、今こうしていられるけどね。正直なところ、かなり僅差だったと思う」
「瞬時に形勢が逆転している点は、くるみや私が倒された状況と同じね。私も、自分になにが起きたか解らなかった。くるみの体験談でも、そうだったらしいし」
「私たちのような種族を狩るとなれば、魔法の知識も必須よね。一番の標的は、麟だったみたいだけど……本当に、何者なのかな?」
 
 くるみの意見については、誰も異論を挟まなかった。挟めなかったと言うほうが正しいか。どのような組織に所属していたのか知らないが、私たちとは別系統の魔法を用いたり、高度な知識を持っている辺り、油断ならざる敵だ。今後も安寧を永続させるためには、より多くの情報を聞き出しておくべきだろう。必要とあれば、我が一族の助力を頼んで逆襲し、敵の組織を殲滅することだって辞さない。
 私はフランドールに向き直って、訊いた。
 
「今となっては、一刀両断できなかったのが勿怪の幸いね。会話はできるの?」
「短い時間なら、できるくらいには回復してる。エレンの魔法医療は、いつもながら効果絶大で驚かされるね。私の身体も、完全に損壊が治ったんだもの」
「まあ、話が終われば私の手で地獄に落としてやるけど」
「それは、どうかなぁ」
「えっ?」
 
 フランドールの思いがけない返答に、私は意表を衝かれた。よもや、私が重傷の人間を相手に遅れをとるだなんて、見くびったわけでもあるまい。強敵を葬る千載一遇のチャンスなら、手心を加えたりしない。必要な情報だけ得たら、それでお別れだ。
 しかし、どうやら私と同じ驚きを共有した者は、この場に皆無だったらしい。見回しても、誰もが真顔で私の反応を窺っていた。この居心地の悪さは、なんだと言うのか。変に注目されると、背中がむず痒くなってくる。
 そんなときだ、エレンとの会話を思いだしたのは。ついさっき、敵に引導を渡してやると私が息巻いたとき、エレンはこう返してきた。
 
『くれぐれも、やりすぎないようにね。でも、エリスはそうしないと思うけど』
 
 そうしないと思う? 
 私なら、そうしないとは……どう言う意味だ。死にかけの敵にとどめは刺さず、苦しみを長引かせるだろう、と?
 しかし、それなら最初から怪我の治療をやめさせればいい。今からだって、放置しておけば緩やかに死を迎える運命だ。現に私の嗅覚は、ひそひそと忍び寄る死の気配を感知しているのだから。でも、フランドールの一撃で即死していたほうが楽だったのにねと嘲笑い、見殺しにするほど趣味は悪くないつもりだ。
 
「とにかく、対面してみるだけよね」
 
 あれこれ思い悩んだって時間の無駄。百聞は一見にしかず、とも言うではないか。
 私の声を聴いて、くるみがベッドの横にスツールを移動させる。美鈴がそこに私を座らせ、エレンはベッドを覆うカーテンを静かに開いた。分かれ目から溢れでる血膿とアンモニアと腐敗臭は強烈すぎて、思わず手で口元を覆ってしまうほどだった。
 さて、どのような敵なのか。最後に見た記憶は、全身を包み隠すローブを纏った姿のみ。表情さえ判然としなかった。詳しい容姿を眼にするのは、これが初めてだ。
 
 
 ――そして、私は一瞥するなり死ぬほど驚き、思考が真っ白になった。
 
 
 次に私が声を発せるようになるまで、どれだけの時間を費やしただろう。
 実際には、五分と経っていなかったのかも知れないし、小一時間も茫然としていたのかも知れない。とにかく、私は時間の感覚さえ失うほど慌てていた。
 
「なんてこと……」
 
 自分で呟いた言葉さえ、どこか他人の声に聞こえる始末だ。他の娘たちが落ち着いていられるのは、先に見ていた者に特有の余裕。初見では、きっと今の私みたいに狼狽えたはずだ。なぜならば――
 
「私ですら、この運命は見えなかったわ。運命もまた、妖精に負けず劣らずのイタズラ好きなのね」
 
 包帯だらけの身体をベッドに横たえたまま、私に鋭い視線を刺し続けている虜囚の顔つきは、かつて私たちが永遠に喪ったはずのメイド長に瓜二つだったのだから。体格も似ているし、髪だって色合いといい長さといい、別人だとは思えないほどだ。
 差異と言えば、その瞳が兎のように紅いことと、あからさまな敵意だけ。もし軽傷だったなら、カーテンを開けようとした瞬間、隙を逃さず襲いかかってきただろう。
 
「お前、なんなの?」
 
 敢えて、冷たく言い放った。
 敵の見た目が、思いがけず懐旧の念を呼び覚ます。だがしかし、これは他人の空似というやつだ。私からリンを奪った、断じて赦すことのできない仇敵に他ならない。
 でも、ひとつ解った。エレンたちが処遇を私に一任した、その理由が。あの娘たちもまた、敵の容姿に戸惑わされたのだ。そうでなければ、ここまで丁寧に手当てなどするまい。普通ならば、重傷だろうとなかろうと包帯の代わりに鉄鎖で身体を雁字搦めにして、牢に投げ込んでおくだけでいいのだから。
 当時、館にいた三人――くるみやフランドール、美鈴からすれば、館の主人とリンに仇なした敵に温情をかける義理などない。それでも手傷を負った敵にとどめを刺すことも、放置して逃がすという選択もできなかったのは、今は亡きメイド長に似ていたからこそである。
 私としても、うっかり情に絆されてしまわないように、気をつけねばならない。意識して強気を演じ、問い質してからもキッと睨み続けた。お互いに視線を逸らさず、黙したまま睨み合う。そうしていると、なんだか敵の紅い瞳に意識を吸い込まれそうな錯覚さえ生じる。
 
「ねえ、喋れるんでしょう? 捕虜らしく、従順にしたら?」
 
 ただ睨み合ったままでは、幻惑されてしまいそう。そんな不安が、私の腕を動かした。スツールから半身を乗りだし、露わになった敵の細い肩に、軽く右手を添える。少しばかり体温が高いようだけど、脈拍は安定したものだ。悪魔の巣に飛び込んでくるだけあって、度胸は据わっているらしい。
 
「もう少し痛めつけられないと、素直にならないのかしら」
 
 見た目こそ非力な少女っぽい容姿だが、私の筋力は人間のそれを凌駕している。やろうと思えば、片腕で人間を軽々と投げ飛ばしたり、柔肌を紙のように引き裂くことだってできる。私たちのような種族を狩ろうと企んだ者なら、そうした情報にも明るいはずだ。
 しかし、敵は表情ひとつ変えずに言い放った。鼻先で嘲笑うこともせず、淡々と。
 
「凡庸な脅しね。もう少し工夫してくれないと、退屈で眠気を催すわ」
「おや、退屈してたの? そりゃまあ、寝たきりだと手持ち無沙汰だろうけどね」
「大勢で集まっているなら、演劇でも鑑賞させてもらえると助かる」
「一丁前に、客人を気取るのか。強がるのも、大概にしておくべきよ」
 
 私は肩に添えた手を、無防備な頚へと移して掴みあげた。ベッドから敵の上半身が浮き上がり、グゥッと喉が鳴るのが聞こえた。傷の痛みと、息苦しさ。堪らず歪められた表情に、私の嗜虐心が刺激された。不意に血を啜りたい衝動が沸き起こり、喉が渇いてくる。
 
「じゃあ、とっておきの演劇を観せてあげようか。もちろん、お前もキャストの一人として舞台を盛りあげるのよ。今、ここにいないリンの分までね」
「リ……ン?」
「お前が手にかけた、私の親友だ!」
「あぁ、そう」
 
 思わず声を荒げた私とは対照的に、苦悶に歪んでいた敵の表情が和らいだ。明らかな満足感は、言葉を介するまでもなく私にも伝わってくる。ただ、それも一瞬のことだった。わずかな戸惑いから頚を掴む力を緩めた私を、剥きだしの敵意で睨み返してきた。
 
「任務は50パーセント完了。あとは、例の本とお前たちを処分するだけ」
「いいえ。残念だけど、お前の任務は失敗よ。私たちは必ず、リンを蘇生させるからね。リンの魂にも等しい本だって、絶対に処分なんかさせないわ」
「傷が癒えれば、いつでも達成できる。私のシグナルロストした地点も、特定されているはずだからね。捜索隊が派遣されてくれば、赤子の手を捻るより簡単よ。こんな館ひとつ、跡形もなく更地になるわ」
 
 そう答えた敵に、くるみが私の背後から反駁する。
 
「うわ、生意気ぃ。ねえ、エリス。私たちも思わず手加減しちゃったけどさ、とどめ刺しておいたほうが後腐れないよ」
「殺してから、アンデッドとして甦らせたほうが従順になるかもね」
 
 くるみの意見に、フランドールも同調した。黙して語らない美鈴も、おそらく処断もやむなしとの考えに傾いているのではないか。エレンだけは、あくまで私が情に流されるものと読んでいるような気配を感じる。
 確かに、リンを蘇生させるためには万難を排さねばならない。この敵に、儀式の途中で邪魔されては元の木阿弥だ。懐柔できれば、有用な情報を得られるかもと期待していたけれど、そんな甘い目論見は、この際スッパリ切り捨てるべきかも知れない。
 私の背後で繰り広げられる会話を聞きながら、ここにきて大胆にも微笑みを浮かべる敵。挑発のつもりか、それとも引かれ者の小唄と言うやつか。後者みたいな小者だとは思えないけれど、あからさまに敵愾心を煽るような振る舞いも気にかかる。
 そんな敵に対して、私は静かに訊ねる。じわじわと、細頸を掴んだ手に力を込めながら。
 
「殺して欲しい?」
 
 婉曲な表現など必要ない。ストレートに伝えるだけ。
 もしも微笑みが挑発であるなら、その目的はシンプルな答えに行き着く。つまり、名誉ある死を望んでいるのだ。どこまでも主人と仕事に忠実で、愚かしくもある点までもが天寿を全うしたメイド長と重なるなんて……なんだか面白くない。
 
「このまま、頸を折って――」
 
 声音こそ冷淡にできたけれど、無表情までは装えなかった。それどころか、言葉が喉に詰まり、目頭が熱くなり始めていたほどだ。エレンの魔法で感情の波を抑えられているとは言え、怒りや憎しみは溶岩のごとく胸裡を対流するばかりで、勢いの減衰する様子すら窺えない。そんな押し留められた情念が、幼子が癇癪を起こすように涙腺から噴出しかかっているのだろうかと、最初は訝った。
 でも……違う。この激情は憤怒や憎悪とは別のところ――私の中にある真っ暗な、どうしても埋め合わせの効かない悲嘆の深淵から、音もなく湧き出しているもの。かつて、フランドールを閉じ込めていた心の隙間には今、空虚な闇が横たわるだけ。
 そこに、亡きメイド長に似た面差しの者が現れるなんて、こんなのずるい。
 敵だろうと! 別人だろうと! リンの仇だろうと!
 それでも……それでも、こんなタイミングで出逢ってしまったら、憎みきれないどころか、愛おしく想えてしまうではないか。一度こうと転がりだした心は、自分ですら戸惑うほど弾みがついて、無我夢中に走り回る。まるで、階段を跳ねながら落ちる鞠そのものだ。
 その一方で、変に浮ついた気分の下には、重たい情念が澱んでいた。飛び跳ねた勢いで、ちょっと足許を強く踏み抜けば、薄氷みたいな隔たりの向こう側へ簡単に墜ちていけそうな気がする。けれど、その隔たりは意外なほどの粘り強さで、私を受けとめ続けた。他でもない、それこそ私の精神を保護しているエレンの魔法だ。もし、この魔法障壁がなかったら、私は軽薄な想いごとコールタールのような深層心理の底に沈んでいたに違いない。
 
「ど……うして……?」
 
 急速に弱ってゆく仇敵が見せた、明らかな動揺。
 逆の立場でなら、こうした場面も経験してきただろう。命乞いを始めた敗北者に、冷徹な引導を渡したのも一度や二度ではなさそうだ。狩人とは、そうしたもの。獲物を憐れんで生命を奪えないのでは、とても勤まらない。ましてや魔物を相手にするのであれば、一瞬の躊躇が死に繋がる。自らが獲物として狩られることも覚悟の上で、敵地に飛び込んできたはずだ。
 
「そんな眼、するの?」
 
 困惑の色を湛えた紅い瞳から、急速に光が喪われてゆく。喉を圧迫され、呼吸困難に陥っているのは、誰の眼にも歴然だった。ひたと私を捉えているようで、微かに視線が揺らいでいるのも、焦点が定まらなくなっている証拠だろう。瞬きさえ忘れたように見開かれた瞼は、驚愕に少しばかりの畏怖を加えた最高のエッセンス。こんな出逢いじゃなかったなら、私も心地よい優越感に酔い痴れていられたものを……。
 知らず知らずに、頬が濡れていた。それに気づいた私の腕から、徐に力が抜ける。掴みあげていた手が離れるや、束縛を解かれた敵の上半身は自らの重みでベッドに沈み込んだ。あわや窒息死する寸前で解放され、倒れた弾みで呼吸が戻ったらしく、激しく噎せ返る状態がしばらく続いた。
 
「どうして止めたの?」
 
 ぼんやりと苦しげに喘ぐ敵を眺めていたところに、エレンが私の半歩下がった右側に歩み寄ってきて、穏やかに問いかけてきた。決して高圧的に詰問するような口調ではなく、むずかる幼子を辛抱強くあやす大人然とした響きで。
 いつも、そう。認めるのは業腹だけれど、これまでの私にとって、エレンはどこか頼れるお姉さん的なポジションだった。裡にフランドールの存在を抱え、姉というものの有り様に少なからず悩んでいた私は、エレンの人柄に秘かな憧れを向けていたのかも知れない。
 ちらと横目で窺えば、ふわふわぽわぽわした印象と、普段と変わらない微笑み。エレンは間違いなく、この場の誰よりも泰然自若としていた。半歩だけ後ろに立ち止まったのも、私の涙を見て見ぬ振りする配慮だろう。そんな彼女だからこそ、私も素直に信頼を寄せ、気持ちを落ち着けられる。
 幸い、涙を見られたのはエレンだけらしい。指の腹で、さりげなく頬をひと拭いしてから、私は他の娘たちに背を向けたまま聞こえるように返答した。
 
「このままだと、こいつは名誉の殉職となってしまうからね。それじゃあ、いくらなんでも面白くないし、もっと悔しくなるだけでしょ」
「それなら、どうするのが一番だと思う?」
 
 待ち構えていたようなエレンの早い問い返しに、思わず苦笑を誘われる。この部屋にくるまでの道すがらといい、そこはかとなくエレンに意思を誘導されている気が、しないでもない。エレンにしてみれば、弟子の仇ではあるものの貴重な魔法分野の研究材料だから、無為に喪失するのを防ぎたい気持ちも捨てられないのだろう。
 けれど、それもまたいいか……と、酔狂な気分にさせられたのも事実だ。ここで意固地な多数決によって処刑を急げば、エレンは敵と一緒に館から去ってしまうかも知れない。私には、そちらのほうが辛くなるし、今度こそ再起不能な精神ダメージを受けそうだった。もう、誰も喪いたくはないのだ。
 私は、ようやく咳の鎮まってきた敵をビシッと指差して、有無を言わせぬ勢いそのままに宣言した。
 
「この館に侵入した時点で、お前の運命は私の思うがままなのよ。よって、お前の意思は意味をなさない。それを肝に銘じておくがいい」
「改造手術で、悪の組織の怪人にするつもり?」
 
 今までの強気とは一転して、紅い瞳の敵は諦めたように訊いた。もっとも、憔悴して見えるのは咳き込んで傷に響いたからだろうが、生きていて会話が可能であるなら他のことなど問題じゃない。
 
「悪の組織じゃないし! 高貴な私としては、もっとエレガントな手段が好みなのよね。そうだねぇ。折角だから、お前を悪魔のペットにしてやろうじゃないか」
「自分の手を咬んだ猛犬を、飼うと言うの? また咬みつくかも知れないわよ」
「咬まないように躾ければいいだけさ。それに、少しは跳ねっ返りの強いほうが可愛いわ。私も気分屋なのでね、あんまり従順すぎると早く厭きてしまうの」
「なるほど。それなら素直に従っておけば、厭きられて解放されやすくなるのか」
 
 私の言うことなど、端から想定の範囲内だったのだろう。そして、殺す意志がないなら隙を見て任務を遂行し、それから逃亡すればいい、と算段を立てた。素直に従うのも、服従ではなく私の言葉を額面どおりに受け取ったから。そんなところか。
 しかし、私だってそう単純ではないつもりだ。どちらが手玉に取っているのか、しばらく遊びながら様子を見るのも悪くない。リンの蘇生を邪魔するのであれば、容赦なく教育するけどね。
 そんな意図はおくびにも出さず、私はにこりと仇敵に微笑みかけて、白々しく続けた。
 
「解ってもらえて嬉しいわ。分別を弁えている人と話をするのは気持ちがいい。調教のために余計な労力を使わなくて済むし、相互理解もスムーズに進むもの」
「そう願いたいものだ」
 
 澄まして答える敵の仕種も、どこか滑稽に思える。私が流した涙を見て、心理的な揺らぎを生じているのは確かだろう。まだ、形勢逆転の可能性を疑っていないのも同様。眼力は漲り、絶望した者に特有の虚ろさが微塵も見られなかった。
 一度は私たちを追い詰めた実力者だ。傷さえ癒えれば、簡単に勝利を得られると確信していても不思議はない。でも、和三盆ほど甘い。エレンの知識や、回復したフランドールが戦力に加わった今、私たちの勝利こそ確実なのだから。
 
「ええ。住民たちも、お前の力量を認めて、仲よくやっていきたいと思っているわ。弱い人間なら食料としか見做さないけれど、強い人間は大好きだから」
「つまり、皆さまのお眼鏡に適ったと言うことかしら」
「資格は充分。あとは実際に働いてもらいながら、要領を掴んでもらえばいい」
「私に仕事をさせるのか。やっぱり、悪の組織の怪人として改造――」
「違うって言ってるでしょ! まず、その発想から離れなさいよっ、もうっ!」
 
 故意に煽っているの? それとも、かなり天然ボケ入ってる?
 思わず声を荒げたら、鼻先で笑い飛ばされた。私も早速、教育的指導の高速デコピンを食らわせる。無様に仰け反った姿と、直後の涙を滲ませた恨みがましい双眸に、少しだけ溜飲が下がった。
 
「話を戻すけれど、見てのとおりの広い屋敷でね。メイドこそ多くいるが妖精メイドばかりで、あまり仕事は捗っていないのが現実なのよ。だから、住み込みで働いてくれる厳しい現場監督が必要ってわけ。衣食住は完全保障よ。理解してもらえた?」
 
 答えに窮するような、難しい話ではない。
 ベッドに横たわる敵は、私が瞬きを三回する間に返事を用意した。
 
「そんなにメイド長を務めさせたいなら、引き受けてやってもいい。その代わり、料理やお茶に毒を盛られても恨まないでね」
「生憎と、毒で死ねるほど脆弱でもないんだ。それは解っているはずでしょう? お前こそ、ミイラ取りが即身仏にならないように気をつけるがいい」
「地味に昇格してるんじゃないか、それ」
「私にとっては類似品よ。この館では、私の感性こそが絶対に正しいんだから。私の言うことは、すべて正解なの」
「理不尽な……」
 
 これしきで絶句するようでは、まだまだ先が思いやられる。
 でも、それだって最初の数年だけの新鮮さだろう。数十年を経たとき、振り返ってティータイムの笑い話になっていれば、お慰みと言うものだ。いずれにせよ、インパクトが強烈すぎて、忘れようにも忘れられない相手であるのは間違いない。
 
「そうそう、大切なことをしていなかったわ」
「まだ、なにか? いい加減、休ませて欲しいのだが」
 
 仇敵、改め新メイド長は相も変わらず身の程知らずで、ぞんざいな口の利きかただけど、それはそれで躾のしがいがあって愉しめる。すぐにでも、私の偉大さに感服し、平伏する悦びを植えつけてやろう。
 
「すぐに終わる話よ。雇用するからには、正式に契約を結ぶものでしょう?」
「形ばかりの契約?」
「人間的な発想だね。人間なら身勝手な都合を優先して、平気で契約を反故にすることも多々あるみたいだけど、私たち妖魔は違う。契約は絶対のものとして、履行するし遵守もする。その意味では、義理堅いんだ。形ばかりなんて、あり得ない」
「不器用とも言えるわ。生存戦略を誤った者は、淘汰されるのが自然の摂理よ」
「それじゃあ、こうして存続している私たちの生きかたが正しいのもまた、自然の摂理と言うわけね。ようこそ、私たちの正しき世界へ」
 
 言いながら、私は新メイド長の頚に、手早く金の鎖をかけてやった。ネックレスではなく、懐中時計のチェーンだけど、アクセサリとしても充分に見映えがする。
 突然のプレゼントは、少なからず新メイド長を戸惑わせたらしい。
 
「これ……は?」
「お前が着けていた首輪は、リンとフランドールが戦闘で壊してしまったからね。この館の一員となるなら、新しい首輪を用意すべきでしょ。人間は家畜に焼印を押したりするけれど、私みたいに高貴な悪魔ともなると、所有物に傷をつける手段は好みじゃないわ。契約の証なら、この懐中時計だけでいい」
「それはそれは、ありがたい配慮ね」
「くだらない皮肉はいらない。お前はたった今から、この館のメイド長サクヤ――いいえ、十六夜咲夜と名乗りなさい」
 
 背後で、「どうして十六夜なのかな」と、くるみが呟いた。それに対して、美鈴は曖昧な返事をするだけだったが、フランドールとエレンには察しがついたらしい。
 
「昨夜が満月だったから、今日は十六夜に当たるわけよね。でもさぁ、エリス……ちょっとばかり適当すぎるんじゃない?」
「エレンにしては、珍しく本質を見誤ってるね。名前は識別に必要なものであると同時に、記憶への定着を目的とするものなんだから。そして、これは契約の儀式としても重要な意味を持つことよ。さらに決定的な言葉を補うならば――」
「私が館のルール、でしょ」
「解っているなら、よろしい。お前……咲夜も、文句ないわね」
 
 もちろん、文句があったところで有無は言わせない。参考までに、意見具申は受けつけるけれど、私の考えが変わることを期待されても無駄としか答えようがない。
 咲夜も、肩を竦めるだけで反論しなかった。やはり、賢明な人間に間違いないらしい。今のところは、単純に狡賢いだけじゃないことを望むばかりだ。
 
「これで、契約は締結ね。その懐中時計は、肌身離さず所持していなさい。もしかしたら、時計が咲夜に未来を見せるかも知れないけど、捨てたりしないでよ」
「未来を? ふむ……なるほど。それらしい魔法をかけてある代物らしい」
「咲夜ならば、もっと別の効果も引き出せるかもね。愉しみだわ」
 
 懐中時計を、興味深そうに矯めつ眇めつする咲夜が、なにやらオモチャを与えられた子供みたいに見えて微笑ましくなった。リンの仇ではあるけれど、その知識や戦闘能力は非凡のものである。自家薬籠中のものとできれば、私たちにとって非常に心強い支えとなろう。欲しいと思ったものは手に入れる、それも私の流儀だ。
 
「今日のところは、これで話を終わりにしておくわ。しばらくは、傷の快復に専念するがいい」
 
 私は美鈴を手招きして、彼女の腕に抱きあげさせた。やはり、背負われるのは見た目に威厳が薄れてしまうから。そうさせたのは、咲夜に対して少しでも格好よく見せたい、私の意地に他ならなかった。
 いわゆる、お姫さま抱っこと呼ばれる姿勢で、私は咲夜に告げた。

「私たちが淘汰されるだけの存在かどうか、その目で見極めるのね。もちろん、こそこそ逃げるのも咲夜の勝手よ。任務を放棄して、負け犬のまま仲間の元に平気で戻れるのならね。それ以外のことで、なにか用事ができたときは、ハンドベルで妖精メイドを呼んで命令するがいい」
 
 私の指示に対して、咲夜は答えなかった。
 ただただ、揃えた掌に載せられている懐中時計を、じっと見つめるだけで。
 
 私たちは部屋を後にして、くるみとフランドールも見張り役から外した。
 次に待つ難問を解決するべく、全力を注ぎたかったのはもちろんだが、プライドの高い咲夜なら不名誉な選択肢は却下するだろうと、確信も抱いていたからだ。
 
 
        ▽        △
 
 翌日は朝から、気持ち悪いほどの快晴だった。
 人間や、美鈴のような人間に近い妖怪ならば清々しいと表現するのだろうが、夜を活動の場とする大半の妖怪には、刺すような真夏の日射しなど悪寒を催す環境でしかない。それでも普段ならば、よくあることだと気にも留めなかったはずだ。
 にも拘わらず、気持ち悪く感じたのは、気分が滅入っていたからに他ならない。リンがいない現実と直面する都度、エレンにかけてもらった魔法の効果が弱まっていくのが解った。そして、そんな時にこそ想定外の事態が起きるのも、不思議な巡り合わせである。自意識過剰かも知れないが、どうにも私の周りでは、この偶然が他者より頻繁に起きている気がする。
 
「驚いたわね」
 
 私はティーカップを持ちあげたまま、呆気にとられてしまった。もう、なにが起きようとも驚かない自信があったのだけど、まだまだ早合点だったらしい。
 ちょうど、食後のモーニングティーを全員で味わっていたときのこと。誰もが焦燥の色を表情に浮かべて、それでも平常心を取り戻そうと努力しているところに、完全装備のメイド服で咲夜が平然と現れたのだ。あまりにも唐突すぎて、誰もが驚き刮目するばかり。そんな中、声を絞りだせたのは私だけだった。
 
「当分、寝たきりだと思っていたのに」
「ご心配してくださって、ありがとうございます」
 
 優雅に軽く会釈したあと、姿勢よく立つ咲夜。
 その姿は、在りし日の先代メイド長を彷彿させると同時に、私たちの裡に宿る美しい思い出を奔流の如く稀釈して、刷新しかねないほどの強烈なインパクトを有していた。はっきり言って、似合いすぎている。
 一瞬にして凍りついた住民たちを前に、咲夜は感情を潜めた顔で徐に唇を開いた。紅い瞳だけが、野生動物のような警戒心を宿している。けれど、昨日までの苛烈な敵愾心は垣間見ることさえできなかった。反撥よりむしろ、私たちに好意的ですらあるように見える。少なくとも、興味をもって理解しようと努めているのは確からしい。
 
「どうかしましたか?」
 
 その割に、丁寧な言葉遣いでも紡がれた声音は氷のように冷たく、硬い。慇懃無礼とも違う。単純に、上辺だけで平坦を演じている印象だ。その意味では、人間でありながらゼンマイ仕掛けの自動人形に近かった。
 ずっと敵視していた勢力の輪に入るからには、葛藤を整理する時間が必要なのだろう。そうした面倒くさい段取りを踏みたがるところが、人間の不便さであり、また素晴らしい点でもあろう。確かな区切りをつけることで、うっかりと肝心なものまで置き去りにしないですむ。
 まあ、その点に関しては妖魔のほうが適当すぎるとも言えるけれど。
 
(ちぐはぐな態度が、隠し切れない戸惑いの表れだとしたら、意外と可愛げがあるわね。しかし――)
 
 今、注視すべきは他にある。
 なおざりにはできない、私たちを驚愕させた本当の理由について糺さなければ。
 
「もう歩き回っても平気なのか」
 
 そう訊いてしまうのは、満身創痍の格好だったからではなく、その逆。四肢はもちろん身体のどこを見ても、打撲の青痣など負傷の痕跡が見当たらないためだ。私の嗅覚をもってしてさえ、もう咲夜からは血膿の臭いを嗅ぎ取れなかった。
 通常、重傷で身動きもままならなかった人間が、たった数日で完治するなどあり得ない。訊問と再契約を終えてから一日と経っていないはずだが、これは一体どうしたことか。
 
「エレンが魔法で?」
 
 訊かれたエレンは、思いだしたように頭と手を激しく横に振って否定する。
 そのはずだ。面会してからこっち、治療や世話などは妖精メイドのみに任せるよう指示した。ならば、エレン以外の誰かが妖精メイドを介して、咲夜に特殊な差し入れをしたのか。ぐるり見渡すが、頸を縦に振る者は誰もいなかった。
 
「では、メイド長」
「はい、お嬢様。なにか?」
「あれこれ詮索するのも面倒だ。当人に説明してもらおうじゃないか」
「それならば、質疑応答の形式にしてもらえると、こちらも答えやすいですわ」
「そうね。じゃあ、空いてる席に着きなさい。紅茶でも水でも、好きなものを飲みながら話すとしよう」
「水で充分です」
 
 言って、咲夜は空いている末席、私から最も遠い場所に腰を降ろした。その距離感は、侵入者から新入者に変わった者の分別だと思う。しかし、私にとっては少しばかり寂しい気持ちを募らせる距離でもあった。先代メイド長――サクヤを信頼していた分だけ、彼女に容姿の似ている咲夜との隔たりが、そのまま胸裡の虚しさに変わるよう気がした。
 
「それじゃあ、始めるわよ。貴女たちも質問があれば、順番に訊ねるといいわ」
 
 ややもすればネガティブになりそうな気持ちを強引に切り替え、作り笑いと共に一同を見渡したが、追従笑いを浮かべる者はいなかった。己が欲望に素直な妖魔と言えども、受け側に回ると動揺するのは毎度のことらしい。
 
「まずは、誰もが最も知りたいはずの質問。咲夜は何者なのかしら?」
「人間ですよ」
 
 さらりと返答。さらに、それに対して同席者が異を唱えるより早く、補足する。
 
「ただし、普通に地上で産まれ育った人間ではない」
「地上で産まれてないなら、どこで産まれたって言うのよ。まさか、地底人だの海底人なんてこと?」
「肌が色白なのは、太陽光に曝されない世界で育ったからとも考えられるわね。咲夜の瞳が兎みたいに紅いのも、アルビノ個体ってことじゃないかなぁ」
 
 くるみが私の言葉を継いだが、あくまで可能性の話に仮定を重ねただけ。それ以上は掘り下げなかったし、正解を確かめるなら咲夜に訊けば手っ取り早い。
 みんなの視線を浴びながら、咲夜は澄ました微笑みを絶やさず、ゆるゆると頭を横に振った。そして徐に、人差し指だけをピンと立てる。その指先が向かっているのは……。
 
「上? 屋根裏?」と、フランドールが天井を見上げた。
 くるみも眉で八の字を描き、予想を披露する。「コウノトリに運ばれてきた?」
「出生の話なら、天界の意味じゃないですか?」美鈴まで、なぞなぞに加わった。
 
 咲夜は、さもありなんと言わんばかりの表情で、ひとつ頷く。三者三様の反応は、想定の範疇だったようだ。けれど、曖昧な表現で煙に巻くと言うよりは、むしろ誤答を純粋に愉しもうとの意図が感じられた。
 
「解らないのも、無理はありません。私が指したのは、空よりも更に高い場所ですから。そして、私はアルビノでもありませんわ」
「アンティキティラ島の機械が作用する世界、と言うことかなー」
「そちらの魔女――エレン様は、ご存知みたいで話が早そうです。遙かな昔、地上の穢れを忌避して新天地へと移住した民のエピソードを」
「神代の伝承だから、書物で読んだ以上の詳細までは知らないわ」
「それで充分です。秘匿の厳守を第一義とした、月側の思惑どおりですから」
「貴女の仕事ってわけね」
「あー。二人とも、ちょっと待った」
 
 このまま周囲を置いてきぼりにして、二人きりで盛りあがられても困る。くるみたちは唖然とするばかりで、口を開くタイミングすら掴めないでいる。
 私は仕切り直しの後に、より解りやすい説明をエレンと咲夜に求めた。
 
「ずっとずっと昔、気の遠くなるような過去に、穢れに満ちた地上世界と袂を分けた集団がいたってことよ、エリス」
「ひとりの賢者が、わずかな親族を率いて新天地となる都を建設した場所、それこそが穢れのない月だったのです。正確には、月の裏側に都があります」
「月? 空に浮かんでる、あの月? 咲夜は、月の都からきたって言うの? およそ信じ難い話ね。決闘したから咲夜の実力と才能が並外れてるのは解っているけど、それでも冗談としか思えないわ」
「そんなものですよ、結局。自分で体験せずに得た知識は、童話や小説となにも変わらない。頭ごなしに、それらの情報を正しいものとして詰め込むことで、世界は安定した状態を維持できているのです。たとえ、それが意図的に用意された虚偽であったとしても、多くの者は安寧を失うくらいなら喜んで騙されるほうを選ぶでしょう。その意味では、月の民も同じと言わざるを得ません」
 
 知識と勉強については、解らなくもない。それが社会の構成に必須の要素だと言うことは、地下の図書館にある大量の蔵書を見ても明白だ。そして、共通の認識は集団にルールを敷く際の助けとなる。認識が常識となったとき、そこに禁忌も生まれ、秩序は揺るぎないものへと成長を遂げる。
 
「それなら、咲夜の言うとおりに月の都がある前提で、話を進めよう。そこで疑問なのが、どうして地上に戻ってきたのかって点よ。穢れの充満する地上から逃げた臆病者の末裔が、過去に記された書物を処分するためだけに地上に降りてきたら、元の木阿弥じゃあないか」
 
 意識的に、辛辣な単語を選んで挑発してみた。
 だが、咲夜は澄ました表情を強ばらせるどころか、眉ひとつ動かさなかった。
 
「ごもっとも。月の民は月世界において、穢れを存在しないものと認識しています。けれども、なにかの原因で穢れてしまった月の民は、軽度であれば清めを施されて帰還するし、より深刻と判定されたら厳重に封じられるか、地上に隔離されるのです」
「存在しないものと言っておきながら、穢れたって解るものなんですか?」
 
 折を見て口を挟んだ美鈴の意見は、これも至極もっともである。矛盾している。
 要するに、『オバケなんてないさ』と強がって歌うようなものだ。どれほど清浄な世界を望もうとも、それは正常な世界ではない。真実の浄土と、真似の浄土は、決して鏡映しになり得ない。穢れを見て見ぬフリしようと努める行為は、つまり月の民にも、幾ばくかの穢れが蔓延している証拠である。だからこそ、服についた汚れを洗濯するに等しく、余計に穢れを払拭しようと躍起になるのではないか。
 そのことについて、咲夜も素直に認めた。
 
「穢れた世界に産まれた者は、穢れと共に存在し続けるしかない。それこそが、生きとし生けるものの寿命です。言うなれば、月の民にとって地上は魂の牢獄であり、できれば永遠に相互不可侵でありたい場所でした。その努力は、長きに亘って充分な効果を維持していたのです」
「でも、完全には願いが叶わなかった。それは、なぜ?」
「好奇心は猫を殺す、と言う諺がありますよね。そして、猫も人間も、あらゆる生物が所詮は同じということです。精神面での気高さや豊かさを尊べば尊ぶほど、好奇心もまた強くなる。禁忌とされる穢れにまで、際限なく探求の腕を伸ばしてしまう」
「その結果が、地上への回帰になるなんて皮肉だけど、魔法を嗜む者としては痛いほど解る心境だなー」
 
 咲夜の言葉を受けて、エレンは、しみじみと呟いた。この場にリンがいたら、師弟の関係を別にしてもエレンと同じ感想を口にしたことだろう。研究とは、好奇心と想像力を原動力に、根気よく続けられるもの。魔法も科学も、根底には同じ気概が息づいている。
 
「じゃあさー、咲夜も好奇心から、任務を口実に地上へ降りる道を選んだの?」
 
 そう訊ねたのは、フランドール。同席している誰もが、少なからず好奇の眼差しを咲夜に注いでいたけれど、フランドールは誰よりも瞳を輝かせ、興味津々だった。私から離れたことで、今まで以上に知的探究心を刺激されているのだろうか。だとすれば、これを契機に少しは情緒不安定が治まればいいのだけど。
 
「いいえ、妹様。先にも述べたとおり、機密の保持が私に与えられた役割でした。月から地上に向かおうとする者を諫めたり、既に降りている者を拘束したり。その者が携えていた月の技術を回収、それが困難ならば処分する独自裁量も許可されていました。関わりを持った者も含めて、すべてを。私のようなイレイザーが数名、そうした特殊任務に就いているのです。要するに、汚れ役ならぬ穢れ役ですわ。私が纏っていたローブも、元々は穢れを寄せつけないため月で生みだされた羽衣でしたけど、数多の任務をこなす内に穢れが染みついて漆黒に色づいてしまいました」
 
 秘密を知れば処断するとは、一方的で酷い話だ。咲夜の口振りから察するに、過去にも相当数の者が、闇から闇に葬られてきたのだろう。当事者は元より、ただ巻き添えを食っただけの者も含めて。
 
「月の都とやらは、随分な監視社会なのね。そこから逃げだした者にすら、追っ手を差し向けるほどだもの。私だったら、息苦しくて三日と住み続けられないな」
「エリスなら、『私が支配者になって制度を変えてやる』って言いだしそうね」
「そうそう、絶対そう言うわ。間違いない。エリスって、昔っから典型的な唯我独尊タイプだからさぁ」
 
 私が思わず吐露した途端、エレンとくるみは、ここぞとばかりに勝手な憶測を連鎖させてきた。しかしまあ確かに、私が月の民だったならば革命ぐらい起こしていただろうから、邪推とも言えないか。
 
「私の性格はさておき、咲夜の話について検討しようじゃないの。状況を鑑みるに、信じざるを得ない点も多々あるように思うわ。エレンは、どう見る?」
「咲夜の知識や能力は、私たちと異なる文化に育まれたもの。私たちから見れば、傍流であるのは間違いないわねー。まあ、どっちが本家と分家なのかなんて、この際どうでもいいけど。殊更に技術の流出を危惧するのは、解らなくもないかな」
「私から見れば、解らないけどね。本当に月の技術が優れているなら、地上にフィードバックして穢れのない環境へと改良すればいいじゃないか。私は、そんな善意の押しつけなんて断固として拒否するけどさ」
「物質的な問題なら――たとえば、ミルクを透明に濾過する程度の技術だったら、エリスの言うようにフィードバックして環境整備の実現も可能なはずよ。でも、光が波と粒子の性質を併せ持つように、穢れもまた複数の因子を内包しているならば、話は簡単じゃないでしょ。しかも、心因性のものだしねぇ。朱に交われば赤くなる、と言うものかしら」
「さしずめ、咲夜は緋に交わって紅くなったわけね」
 
 もちろん、まだ全面的な信用を寄せるには早い。そうしたい気持ちはあれど、『昨日の敵は今日の友』なんて表現どおりに現実を受け入れようとすれば、割り切れない部分も当然でてくる。迷いを抱いているのは、咲夜も同じはずだ。
 つい、離れた席に座る咲夜を、じっと凝視してしまう。けれども、咲夜は澄ました表情を対座するエレンに向けるだけで、私を一瞥しようともしない。その態度だけ見ても、じんわりと避けられていると感じてしまう。
 そんな観察に耽っていたら、美鈴が控えめに手を挙げ、徐に唇を開いた。私が黙り込んだので、質問するなら今だと判断したのだろう。
 
「咲夜さんは紅い瞳をしていますけど、月の民は全員、そうなんですか?」
「この目は、地上から真実の満月を見たことで狂気に感染したからで、いずれ治ります。いつも紅い瞳のままなのは、より純粋な神霊へと昇華している月の貴族か、月の兎だけですね」
「ああ、兎が餅を搗いているって伝承か。東洋のお伽噺でしょ、知っているわ」
「現在の地上では、お伽噺としてのみ認識されているのですね。でも、月には兎もヒキガエルも実在するのですよ、お嬢様。太陽にはカラスも棲んでいます」
「ほ、ほんとに!?」
 
 てっきり一笑に付されるだけと思っていたら、咲夜は大真面目に金烏と玉兎が実在するものだと語り始めた。もちろん、咲夜が私たちを混乱させようと謀っている可能性もゼロじゃないけれど、それなら既に咲夜の出現こそが最大のインパクトだったと言っていい。もし、エレンの魔法治療を受けていなかったら、私たちはまだショック状態から立ち直れていなかっただろう。
 誰もが少なからず困惑する中で、エレンだけは比較的、平静を保っているようだ。普段はぽわぽわ頭でも、ここ一番では怜悧な面を見せる。伊達に千年近くを生きているわけじゃない、と言うことか。
 
「なぜ、地上にはお伽噺レベルの認識しか残っていないのか……。その理由は、情報を管理する部隊の暗躍による工作と言うわけねー。驚かされるばかりだけど、貴女の言動には納得せざるを得ない事実が満ちているわ、咲夜」
「エレン様は魔法に造詣が深い分、理解も早いですね。率直に言って、貴女ほどの人を今までノーマークだったことは、私にとって驚きです」
「長く生きれば、処世術も心得るものよ。人間社会と最小限の関わりを保ちつつ、その隣に隠れ棲む方法とかね。その意味で、紅魔館は理想的な場所だったの。私を受け入れてくれたエリスにも、とても感謝しているわ」
「ふん。まあ、私は高貴にして偉大だからね!」
 
 変に感謝されまくると、背中がむず痒くなる。その結果、私も奇妙な強がりを並べたりして、それを住民たちが承知しているのだから、我ながら不器用な照れ隠しだと自嘲を禁じ得ない。揺るぎないほどにワンパターンだ。
 場を取り繕うように、わざとらしい咳払いひとつ。羞恥で耳が熱を帯びるのを感じながら、私は仕切り直しの言葉を口にした。
 
「私のことはともあれ、私の館が隠れ家として充分な機能を発揮したのは事実らしいね。なにしろ、月の民にすら存在を確認されていなかったんだもの」
「それが露見することになったのは、時期的に見てもリンを匿ったから……になるのかな、やっぱり」
「そうは言うけど、エレン。リンが館の住人になってから、百年もの時間が経とうとしているのよ。単純に、リンのせいだけとは考えられないでしょ」
「お嬢様の言うとおりですわ」
 
 私の見解を支持したのは、この場の誰よりも実情を把握している咲夜だった。
 
「月側は地上の動きに敏感で、様々な情報収集と分析をおこなっています。どれほど些細であろうと、胡乱な企みを看破できるように。その結果、網に引っかかってきたのは――」
「麟の所持していた、9巻セットの本だと言うの?」
 
 くるみの問いに、咲夜は「いいえ」と頸を横に振る。
 
「それも違いますよ、くるみ様。もっと最近、より多くの物品を東洋から蒐集して、この屋敷に運び込みましたよね? それも、極めて短時間に」
 
 まさか、美鈴に頼んで集めさせた東方世界の書物や物品が、月側にチェックされていたと言うのか。監視用タグの存在を訊くと、その点については咲夜に否定された。
 
「お嬢様たちが購入したものに、監視タグは含まれていませんよ。でも、この地に集められた大量の物品が忽然と消え失せたことは、月側に不審を抱かせました。もし大規模な盗難に遭ったとしても、流通経路を調べれば大概は足がつくものです。それなのに、跡形もなく消え失せたとなれば、地底か結界の内側に持ち込まれたと推測するより他にない」
「月の別働隊が回収したまま連絡を忘れていた、とは考えないのか」
「それなら、本部に照会すれば確認が取れますわ。その結果、誰も関与していないと明らかになりました。そして確認のために、私と斥候の玉兎が数匹、こちらに派遣されたのです。結界に覆われた館を発見できたのも、地上の兎とコンタクトして情報を集めた玉兎の手柄ですわ」
「たかが兎に、結界を突破されてただって?」
 
 これには正直、驚かされた。偶然が重なって迷い込む人間はいるが、数年に一度あるかないかである。それなのに、私たちの与り知らぬ間に結界を抜けたばかりか、咲夜のような刺客を手引きしていたなんて、兎のくせに小癪なことだ。
 だが、どうやら私の認識にある兎と、月の兎とは能力的にも大きな隔たりがあるらしい。咲夜の説明によると、玉兎は仲間同士でテレパシーによる意思の疎通が可能で、どれほど遠く離れていても――月と地上ほどの距離でも連絡を交わせるのだとか。そればかりか、更に特異な能力を開花させている兎も珍しくないらしい。
 
「今も、この館は玉兎たちに監視されているはずです。私との連絡が途絶えて、動揺もしているでしょうけど。もしかしたら、月の仲間に応援を要請したかも知れませんね。本格的に討伐隊が組まれれば、とても勝ち目はありませんよ」
「はん! 月の兎が何匹こようと、後れを取る私たちじゃあないわよ」
「玉兎は瀬踏みの先兵にすぎません。事態が深刻だと判断されれば、私のような狩人が大挙して押し寄せるでしょう。それを凌駕する能力を宿した、月の神霊すらも重い腰をあげる可能性だってあります。蟷螂の斧を承知で、滅びをお望みですか?」
 
 咲夜の問いに、私は皆の手前、強がって見せることしかできなかった。
 けれども、楽観視できる事態じゃないことだって理解している。兎はともかく、咲夜と同等の戦闘能力を有する敵が三人も揃えば、また住民に犠牲者が出る。それは火を見るより明らかだ。
 
「咲夜は、どうするのが最善だと思う?」
 
 くるみやフランドールなら徹底抗戦を叫ぶだろうが、彼我の事情に明るい咲夜は、どう判断するのか。エレンと美鈴も、その点は興味があるらしい。テーブルに肘をつき、身を乗りだして咲夜の回答に注意を払っていた。
 
「私の見解を述べさせていただけば――」
 
 一身に注目を浴びてなお平然と、咲夜は意見を並べた。
 
「この館を引き払い、どこか別天地に逃れることを提案します。籠城しても、全滅するのは時間の問題ですから。地上に派遣される玉兎は、任務のために特別な戦闘訓練を受けていて、特異能力も使える侮れない存在です。けれど、基本的に臆病な性格でもあるので、私からの連絡が途絶えて不安を抱いていることでしょう。今すぐ急襲すれば方々に逃げて、一時的にでも監視を弱められるはずです」
「その玉兎たちも、私たちの側に引き込めないの?」
「私の説得では、おそらく従いませんよ。それどころか、私を裏切り者と断定して増援の到着を早めるだけでしょう。玉兎は、どれだけ距離を隔てていても仲間同士で連絡を取り合えるのです」
「わざわざ、こちらの状況を月側に教えてやることになるか。そりゃ面白くないね」
 
 咲夜の提案は、もっともだと思う。でも、この館もまた私たちの一部なのだ。だから、置いて逃げるなんてできない。女々しいセンチメンタリズムだとしても、愛着とはそうしたものだ。家も、仲間も、長く親しみ記憶を重ねるほどに、切り離せない自分の一部になっていく。喪えば、自らの生命をも危うくさせる、言うなれば魂の共有にも等しい。それを奪い取ろうと画策する者に、代償を求めるのは当然だろう。
 
「それとも、そうね……紅魔館を離れるのであれば、いっそのこと月の都に攻め込んで征服してやろうじゃないか。これこそ私らしい最善の判断だわ」
「エリスはね、こう言いだしたら我を曲げないのよ、咲夜。困ったものでしょ」
 
 エレンが苦笑いで水を向けると、咲夜にも苦笑が伝播した。薄々、そんな返答がくるのだろうと予期していた感だ。
 しかし、やれやれと戯けていたのは、ここまで。咲夜は表情を引き締め、私の軽口を諫めた。他の住民たちは半ば諦め、適当に相槌を打つだけのシーン。そこで真っ向から意見してくるのは、咲夜がまだ紅魔館にとっての新入りであることを如実に表していた。
 
「解った。解ったから落ち着いて、咲夜。私の考えが浅かったのは認めるわ。月を征服するのは、またの機会にするからお説教はやめてちょうだい」
「冷静に現状を把握してもらえたら、私も差し出がましいことは言いませんわ」
「咲夜の進言に従って、引っ越すことにしようか。ちょうど、この辺りも人間に侵食されて棲み難くなっていたところだし。ただ、気に入った新居が見つかるかどうかが問題ね。この屋敷ごと引っ越せたら、それが一番いいんだけど」
「は~いはいはい。それについては、私に考えがあるわよ、エリス」
 
 ちょうど全員が集まっているのだから、なにか文殊の智慧ならぬサタンの悪知恵でも生まれないかしらと訊こうとした矢先、挙手と共に口を開いたのは魔女エレン。表情を見ても、自信のほどが窺える。
 
「屋敷を移動させることが、可能だと言うの? それなら、エレンに一任してもいいけど、リンの件も疎かにされたら困るわ」
「もちろん、そっちを優先でね。屋敷みたいな巨大な物を移動させるには、いろいろと事前の準備もしておかなければいけないし。この件に関しては、美鈴の協力が不可欠になるわ。美鈴には義理の妹がいるって、ずっと前に教えてくれたわよね」
「ええ、間違いありません。彼女に用事があるわけですか?」
 
 いきなり名前を呼ばれて、美鈴が双眸をぱちくりさせる。私を含めた他の面々としても、エレンの思惑が解らず頸を傾げるのみだ。
 
「どのようなお手伝いだって、協力は惜しみませんよ。でも、時間の制約は大丈夫でしょうか? スパイが外を彷徨いているなら、門番の仕事も気が抜けませんから」
「それについては、エレンの手伝いを優先していいわ。美鈴の仕事は、妖精メイドにサポートさせるから。月のスパイに顔を知られてる咲夜は、屋敷内だけに行動を限定するべきね。夜になれば、くるみやフランドールが外を見張れるし」
「エリスの許可が下りたところで、早速やって欲しいことがあるわ、美鈴。貴女の義妹に、連絡を取ってもらいたいの。今でも、住んでいる場所が変わっていないかどうか……それこそが、とても重要なポイントなのでね」
  
 美鈴に義妹がいるのは、雇用する際に聞いていたから知っている。しかし、その住所までは私も委細を把握していなかった。美鈴と会話する機会の多かったエレンやリンなら、とっくに知っていた情報なのだろう。
 思っている以上に、大切な役割だと再認識したらしい。美鈴は表情を引き締め、力強く頷いた。
 
「解りました。これからすぐに、手紙を書きます。特に厳守するべき点などがあるなら、教えてください」
「じゃあ、場所を美鈴の部屋に変えましょ。エリスたちは、外で兎狩りでも愉しんでいてよ。うっかり逆襲されないように、気をつけてね」
「月の兎なんて、シチューにしてやるわ」
 
 美味しいかはともかく、月の兎を食せるものなら味わってみたい。滅多にない機会だと思うから、何匹か纏めて捕らえて保存用に加工しておくのもいいだろう。
 なすべきことが決まれば、あとは行動あるのみ。と言っても、昼間とあっては私たちも館内から妖精メイドに指示を出すだけだが。脅かして追い散らすだけなら、妖精メイドでちょうどいいのかも知れない。
 それぞれ、館の四方に赴いて司令塔の役割を務めるように、持ち場を割り振った。東はフランドール、くるみは西、私は北面を受け持ち、咲夜に南を任せる配置だ。
 誰もが無言で散開する中、私は咲夜だけを呼び止めた。
 
「なんでしょうか、お嬢様」
「まだ、肝心なことを訊き忘れていたものだからね」
 
 至って単純な、けれど重要なポイント。
 どうして、たった一晩で宗旨替えしたのか。
 本来なら全力をもって狩るべき存在に仕えるのだから、屈辱感や葛藤がなかったとは思えない。気持ちに、ある程度の折り合いをつけたとしても、ポーズだけの協力になったりするだろう。今の咲夜が、その状態であるとすれば好ましくない。肝心な場面で手を抜かれたり、裏切られでもしたら、今度こそ私は――
 
「あっけらかんとしちゃってさ。もっとこう……悩んで悩んで苦しんで吐血するほど悩んだ上で、一週間くらい迷った挙げ句に導かれる結論じゃあないの?」
「悩みましたよ、もちろん。吐血はしませんけど」
 
 そう答える表情も、憎たらしいまでの沈着ぶり。私には、咲夜の考えが読めない。
 大体、この状況はかなり危険ではないか。私と咲夜の二人きりなのだから、咲夜がその気になれば、隙を衝いて私を屠ることだって……。
 
「お嬢様」
 
 私の前に歩み寄った咲夜が、やおら跪いて、両手を私の肩に置いた。思わず、ブルッと背筋を震わせてしまったが、それでも咲夜は私の肩を、そっと掴んだまま。その仕種にも、瞳にも、昨晩に見た激しい敵意は微塵もなかった。それどころか、見つめ合う視線に微かな慈愛さえ感じたほどだ。
 
「こんなにも私を変えたのは、お嬢様ですよ」
「なにかしたかしら、私」
「これを――」
 
 言って、手にした懐中時計を、目の高さに掲げる。揺れて、屋外に溢れている陽光でキラキラと煌めくのは、紛れもなく私が咲夜に与えた時計だ。
 
「この時計が、近い将来を見せてくれました。私が月での生活を忘れ、この館で悠々自適に暮らしている世界を。それと、少しだけなら時間を操ることも可能になりましたわ。私の怪我も、その能力を駆使して治せたんです」
「本当に? もしかして、時計の真価を引き出せているの? 先代のメイド長にも、できなかったのに」
「幸い、私には魔法の知識や心得もありましたのでね。月側の技術に偏った知識ですけど、この懐中時計に施された呪法を使いこなすには、そのほうが適していました。あるいは、この時計も過去に月から逃亡した者によって、作られた物かも」
 
 偶然なのか、これこそ運命なのか。私にも解らなくなる。
 けれども、あるべき形に収まりつつある予感はする。これでいいのだ、と。
 ならば、今は信じるだけ信じておこう。詮索なら、一段落ついてからでもできる。
 
「貴女の未来は、常に私と共にあると……そう信じてもいいのね?」
「生きている間は一緒に居ると、ここに誓約しますわ」
「そう。じゃあ行こうか」
「はい」
 
 揺らぎは減衰し続けて、いつか平静を取り戻す。まるで、大海原で波に揉まれる箱船のように、運命だけを盲信しながら漂えば、予定調和へと回帰する。想いや日常生活も、また斯くの如し。いつか必ず、答えは提示されるものだ。すべてが望みどおりの結末に結びつくかは、保証の限りじゃあないけれど。
 配置に就くため、真逆の方向に歩み去る咲夜の背中を見つめながら、独りごちる。
 
「ミイラ取りは即身仏の夢を見るか……そんな巡り逢わせも、悪くないわ」
 
 
        ▼        ▲
 
 一寸先は闇、と言う表現がある。夜目が利かない人間が、物理的な闇を潜在的に怖れる文字どおりの意味と、将来への漠然とした不安や諦念を吐露した……即ち心理的な闇に該当する言葉だ。どちらであるにせよ、ネガティブな場面で用いられることが多いように思う。
 それでは、お嬢様の場合――のみならず、大多数の妖魔にとって――この言葉が持つ意味とは、いかなるものだろうか。昏い世界の住人にとっては、闇こそが楽園に等しい。それが目前に存在するのであれば、嬉々として飛び込んだりするのかしら?
 
「どう考えます?」
 
 ふとした思いつきについて訊くと、お嬢様は歯を見せて笑った。宵闇に包まれていても、特徴ある鋭い歯は妖しい輝きを放つ。それは、月明かりを浴びて仄かに光る氷柱にも似て、とても美しく見えた。
 お嬢様はテーブルに頬杖を突いて、上目遣いに私を見つめながら語りだした。
 
「確かに、物理的だろうが心理的だろうが、そこに闇があるなら覗いてみたくはなるよねぇ。好奇心や探究心は、自分が存在する証明でもあるもの」
「コギト命題ですか。しかし、観念と現実とは必ずしも一致するものではないでしょう。そこに乖離が生じたとき、自分の存在こそが疑われる要因にも、なり得るのではないですか」
「精神面での脆弱性を宿した妖魔には、諸刃の剣かも知れないわね。観念と現実、どちらを絶対的に正しいと認識するかで、有益にも害悪にもなる。だけど、ほとんどの妖魔は極めて利己的だからね、なにがあろうと自分が間違っているだなんて、死んでも認めやしないよ」
「ええ、ええ、そうでしょうね。そうでしょうとも」
「な、なによぅ」
 
 私が緩~い微笑みを向けると、お嬢様は気恥ずかしそうに頬を朱に染め、背中の翼をピコピコと震わせた。
 普段、わがままに振り回されていると、こうした機会に軽く意趣返してみたくもなる。そして、こんなにも可愛らしい反応をされては胸の奥が締めつけられ、また離れられなくなってしまうのだ。この館に逗留している者たちは、きっと同じ感情を抱いている。
 いずれにしても、ここが居心地のいい楽園であることは疑いない。それを伝えたところ、お嬢様もしたり顔で頷く。
 
「私にとっても、帰るべき家はここだけさ。住めば都と言うけどね、他のどんな場所に赴いたとしても、ここほど安心しきれないだろうと思うわ。でも誤解しないで欲しいけど、決して出不精なわけじゃないわよ。当てもなく諸国行脚の旅をする生活に憧れたのも、一度や二度ではなかったんだから。美鈴に興味を抱いたのだって、彼女がそんな体験をしてきたからこそだったのよね、今になって考えてみれば」
「お嬢様が館に独りぼっちで住んでいたなら、そうしていたのでしょうね」
 
 旅は見識を広げてくれると同時に、満たされないものを潤してもくれる。欲望には忠実で、自分の中にイマジナリーフレンドとして観念の妹を生みだし、現実の存在にしてしまったお嬢様だ。もしも妹様や、その他の住民が皆無だったならば、桃源郷を探す旅にも躊躇わずに出発したはずである。
 お嬢様も「そうかもねぇ……」などと、しみじみ呟いた。
 
「結局さ、誰だって潜在的に理想郷や楽園を探しているのよ。ここは自分にとって本当の居場所じゃないだとか、身勝手な価値観を抱きながらね。そして、冷静に情報を集めて検証すれば明らかに胡散臭いと解る伝説にさえ、追い詰められれば盲目的に縋りたがる」
「それもまた、現実と観念の乖離を解決せんとする自己防衛ですわ。生存本能と言い換えても、いいかも知れません。それに、夢を見ることだって悪くはないですよ」
「解ってるわよ。夢は生物が持って生まれた、欲求不満の解消法だからね。でも、願望を充足させるために眠り続けていたり、現実をメチャクチャにしていたら本末転倒じゃないのかって思うのよ」
「どうでしょうか。再生譚とは大概、破滅と誕生の繰り返しですよ。その意味では、楽園や浄土を目指すために厳しい修行を課したり、俗世の穢れを落とすべく清めの儀式に執着するのも、必然なのでは?」
「そういう考えもできるか……なるほどね」
 
 なぜか、お嬢様は感心したように何度も頷き、腕を組んでは、また「なるほど」と呟いた。小さく独りごちただけでも、夜の静けさにあっては昼間より大きな声に感じられる。まさに、草木も眠る深夜の風情だった。
 
「楽園に辿り着くための破滅って、つまり背水の陣ってことよね」
「一人では陣になりませんわ、お嬢様」
「わけの解らない指摘しないでよ。そう言えばさ、話してる最中に思いだしたんだけど、東洋の国には浄土と呼ばれる楽園を目指して、いろんな修行を積む集団がいたらしいよ。館の図書館にも、書物が残されているわ」
「衆生の願望が生みだす、よくある厭離穢土の物語ですね。プレスター・ジョンの伝説も、そう言ったものの一例でしょう。お嬢様には、そちらのほうが馴染み深いかと思いましたけど」
「あれでしょ、新約聖書の東方三博士の子孫とされる、架空の人物」
「お嬢様、聖書なんて読んで平気なんですか?」
「平気に決まってるでしょ。私にとっては聖書もマンガも、等しく単なる書物よ。退屈しのぎに人間観察がてら読んだけど、なかなかいい睡眠導入剤だったわ」
 
 聖書を枕代わりにスヤスヤ眠る悪魔だなんて、もう呆れを通り越して微笑ましくもある。この揺るぎない自由奔放さこそ、お嬢様の長所なのだ。
 そんな個性に惹かれて、より個性的な面々が群れ集い、気の合う者たちの楽園ができあがる。その点において、この紅魔館もまた縮小版プレスター・ジョンの国みたいな存在と言えよう。お嬢様の回想話に登場した月の都も、また同じ。
 
「これまでのお話も、お嬢様の楽園についての記録なのですね」
「私のお城だけど、私だけの楽園じゃないのさ。みんなの楽園なのよ、今も昔も」
「その楽園を揺るがす大事件は、再生のための破滅となったのでしょうか――って、これは訊くまでもない質問ですね」
 
 紅魔館は現存している。
 私たちも存在している。
 それだけが確かな現実。
 お嬢様は、間抜けな発言をした私を嘲ったり怒るどころか、いよいよ意気込んだ様子を見せた。
 
「こうして記録を残す作業も、佳境に入ってるからね。もうちょっとだけ頑張ってもらいたいわ」
「変に叱責して、やる気を削ぐ必要もないと?」
「それもある。でも、私が面倒くさいからってのが一番の理由かしら」
「あら、お気遣いいただけたものと思ったのに」
「じゃあ、そっちの理由にしておいてよ。さあさあ、物語を続けるよ!」
「うーん……腱鞘炎とは言いませんけど、しばらくは腕の筋肉痛に苦しみそうです」
「なってから労ってあげるわ」
 
 思いやりがあるのか、ないのか……。そこもまた、お嬢様らしい個性だ。
 ならば、ひとつ本当に腱鞘炎を患って、看護してもらおうではないか。私は冷め切った紅茶で軽く喉を潤し、気力も取り戻した。……が、溜まる一方の疲れは、短い休憩ぐらいでは解消されない。
 
(それにしても、今夜は気のせいか夜が長いような――)
 
 疲労による錯覚かも知れないが、もう夜が明けていても不思議じゃないくらい、ずっと口述筆記を続けている気がする。今夜だけで、どれほどのページが文字に埋まったのかは数えれば明らかだけれど、それをしようとは思わない。単調な作業では、きっと途中で居眠りしてしまうから。
 
「不思議な夜ね」
 
 やおら話しかけられて、私はドキリとした。まるで、お嬢様に心を読まれたようなタイミングだったから。
 でも、どうやら勘違いだったらしい。お嬢様もまた、奇妙な気配を感じ取っていたのだ。基礎的な能力が高い分、感覚も鋭敏だと言うことか。それで興味が移ってくれたなら、私も苦労から解放されそうだが……。
 
「でもまあ、夜の王としては嬉しい限りだわ。乾杯しなきゃ!」
「やはり、そうきますか」
「あん? なにか言った?」
「素敵な酩酊に浸れそうですね……と」
「そうでしょ、そうでしょ」
 
 喜び勇んで妖精メイドを呼びつけるお嬢様を見つめながら、重たい溜息を吐く私。またぞろ軽い頭痛が蘇ってきた。
 夜はまだ、明けそうにない。
 
 
 
   【9】  世界は音階と数字で成り立っている
 
 
 何事にも、その時にしか得られない勢いが存在する。それは通常では考えられないほどの巨大なエネルギーで、喩えば風力を頼みとする帆船を動かすようなものだ。帆に溜め込まれた風は、推進力へと変換されて船体を易々と動かし、人の手で舵を取らずとも風向きのままに押し流してしまう。進むも戻るも風任せ、私のような存在からすれば、それはそれで場当たり的な冒険にすぎない。
 勢いとは言うまでもなく、物理的な事象にだけ用いられる言葉ではない。調子が上向いているときは、風に背中を押されるが如く、小細工を労するまでもなく勢いだけで巧くいく。その逆なら、フラストレーションを溜め込むだけの期間として、舵取りに悩まされねばならない。これもまた、勢いの強弱による事実だ。
 さて、ならば時間の箱船たる我らが紅魔館には、いかなる変化が訪れたのだろう。
 私たちにとって、このときはV字回復の真っ最中、まさしく絶好調の波に乗っていたと言える。問題は山積していたけれど、月の技術を知る咲夜の参画が絶大な触媒となって、エレンとの相乗効果は状況の改善に寄与した。
 
「ひとまず検証実験は成功したと、エレンが伝えてくれってさ」
 
 昼間の館内は、普段であれば咲夜か妖精メイドしか活発に動き回っていない。美鈴は外で門番に就いているし、エレンは図書館の管理、私を含めた夜の眷属たちは眠っていたりする。咲夜は、エレンの手伝いやら妖精メイドの監督などで、かけ持ち作業である。
 だが、今日は夜からの雨が朝まで続き、私もくるみも起きていた。気怠さを持て余しながら紅茶を嗜んでいる席で、くるみがエレンに託かったメッセージを報告をしてくれたのだ。
 
「いよいよ、次は本番に移るんだって」
「エレンも今まで、充分な検証実験をしてくれたからね。本当に、魔女は勤勉だわ」
「反魂の術で蘇らせたのは、何年も前に死んでしまったエレンの飼い猫だそうよ。今のは何代目になるのか、エレン本人も憶えていないみたいだけど。それでも、お墓を掘り返すときには胸が痛んで、涙が溢れてしまったと聞いたわ」
 
 その話は、私もエレンの口から聞いた。そうでなくとも、死者の安らかな眠りを破るのだから、辛い役目には違いない。魔女になり、人間の寿命を遙かに超えて長く生き続けても、心はふわふわとピュアな部分を残した人間のまま。その彼女に、残酷な依頼をして悪かったと、私は本心から謝った。
 
「エレンは、赦してくれたわ。それどころか叱られちゃった。まだ精神面での揺らぎが収まりきっていない時期に、余計な心配を抱くなって、さ。気を遣ったつもりが、気遣われてたら世話ないわよね」
「本当、いい仲間に恵まれてると思うわよ、エリスは。もちろん、私もエリスのためなら助力を惜しまないからね」
「ありがとう。くるみは昔から、私のよき友人でいてくれたね」
 
 素直な想いを伝えると、くるみは私の顔を躊躇なく両手で挟むなり、ぐいと顔を近づけて私の双眸を覗き込んできた。やおらキスでもされそうな、あまりにも近すぎる距離に、私の胸裡で心臓が飛びあがる。
 
「な、なに?」
「やっぱり、エリス変わった」
「容姿が、少し変化しただけでしょ。前にも、そう言ったじゃない」
「外見もだけど、性格もだってば。こう……微妙に大人びたような?」
「ないない。私は私、それだけ」 
 
 と、素っ気なく応じたものの、私自身もまた不思議な落ち着きを感じていた。エレンがかけてくれた魔法は、もう効力を失っているのに、である。
 思い当たる節を挙げるなら、一心同体だったフランドールと分離したこと。比較できる例を私は知らないので、その見立てが正しいかどうかも証明できない。できないけれど、他の理由が思い浮かばなかった。
 
「どう思われようと、今の私がすべてなんだからさ。くるみも、今の私を受け入れてよね」
「もちろん、好意的に受け止めているつもりよ。私だけじゃなく、みんながね」
「そう願うわ。これ、当分からかわれそうね」
 
 溜息と一緒に憂鬱を吐き出したけれど、からかわれるのも親しみや愛情あればこそと思って、好意的に受け止めておこう。もっと先に問題とすべきは、他にある。
 
「ところで、月の兎たちの動きは?」
「咲夜の言ったとおり、こっちの急襲で一度は散り散りになったわ。だけど、完全には撤退してない。遠巻きに館を監視し続けてるみたい。チームリーダーでもあった咲夜と連絡つかなくなって、今後の方針を決めかねてる様子でもあるわね」
「増援を頼んだ様子は?」
 
 この質問には、くるみも頸を横に振った。
 
「そこまでは解らないよ。門番として睨みは効かせてるつもりだけど、兎が企んでいそうなことなら、咲夜に訊くほうが正確でしょ」
「うーん。くるみなら、動物の言葉を聞き取れそうな気がしたのに」
「私はドリトル先生じゃないってば」
「試してもみないで諦めるなんて、お母さん赦さないわよ!」
「誰が、誰のお母さんだって? とうとう、エリスが発狂しちゃったわ……って、それは元からか」
「失敬な。私、ちっとも狂ってないし」
 
 微妙にズレた軽口の応酬をしている最中に、ことこと……聞き慣れた靴の音。
 今日は、そこに耳に馴染みのない音が付随していた。昆虫の羽音のようだけれど、もっと遙かに高周波で、耳鳴りかと間違えるぐらいだ。くるみも眉根を寄せて、不愉快そうな面持ちになった。
 ただ、それは私たちの高感度な聴覚だから捉えた音であり、人間の可聴領域では認識すらできなかったはずだ。
 
「エレンか。およそ順調みたいだね」
「忙しすぎて、特別報酬でも給付してもらいたいくらいよー。咲夜にも、個人的な依頼を受けているし……あぁもう、能力を倍加させたり時間を操ったりする薬でも作ろうかなぁ」
「忙しさを解消するために、手間を増やすなんて皮肉ね」
「それなら、エリスも手伝ってくれる?」
「気が向いたらね」
 
 振り向いた先に立っていたエレンは、なるほど疲れた表情をしている。普段のふわふわした感じが薄らいで、まさに萎れた印象だ。あまり弱音を吐かない彼女が、こうも消耗するほどだ。改めて、負担の大きさが窺い知れる。
 そんな彼女の両脇に、寄り添って浮かぶ人影が、ひとつ。耳障りな高周波の発生源は、それに間違いなかった。その影響なのか、いつもエレンと一緒にいる目つきの悪い黒猫ピタゴラスは、姿を見せなかった。
 
「その娘が?」
 
 くるみと今も話していた、反魂の術による実験体だろう。私の問いに、エレンも無言で頷いた。
 しかし、気になった点もある。より強調して、不可解と言い換えてもいい。不思議が珍しくない我が館ではあるが、それでも予想だにしなかった点だ。
 
「質問したいのだけど、エレン。反魂の術で蘇らせたのは、貴女の飼い猫だった亡骸なのよね?」
「ええ、もちろん。材料を揃えたとき、エリスも立ち会いで確認したでしょ」
「立ち会ったわよ、確かに。猫の骨を見たのも、憶えているわよ。だけどさ――」
 
 私は、エレンの連れてきた娘をビシッと指さした。
 
「この姿は猫どころか、まるで人間……いいえ、使い魔に近いじゃないか。どう見ても女の子の風体だし、どういうことなの?」
「用いた素材と、月の技術を用いた影響、どちらが強いか解らないけどねー。美鈴やくるみの体細胞を分けてもらって、触媒にしたのも要因のひとつだし、咲夜から得た知識も本来の方法をなぞっていないわ。むしろ、既存の手法こそ未完成の技術よね。この子は、めでたく生まれ変わったのよ」
「容姿が見違えては、もう単純な『復活』じゃなくて、新たな『誕生』よね。会話能力や、知性のほうは?」
「その点についても、猫のレベルを凌駕するわ。もっと教育すれば、会話や文章でもコミュニケーションできるし、家事などの雑用だってこなせるはずよ」
「本当に? それは凄いわね」
 
 空を飛んでいるときのノイズには閉口するが、小間使いになるなら館の住民として登録するに吝かでない。だが、私の懸念は別にある。蘇って欲しいと切に願ってやまないリンが、別人に置き換わってしまうことは許せない。わがままと言われたって、私が欲しいのは元どおりのリンだけなのだ。
 
「もう一体だけ、今度は人間の死体をベースにして、蘇生実験できないかしら」
 
 エレンや、咲夜の能力を信じないわけではない。リンの遺体を理想状態で保存しているのは咲夜だし、エレンも優秀すぎる魔女だ。彼女たちの協力なくして、リンを取り戻すことはできない。だからこそ、慌てずに急ぐ手段を模索したかった。
 わずかな躊躇いを見抜いたか、エレンも重々しく頷く。
 
「言いたいことは解るつもりよ、エリス。だけど、私たちには多くの時間が残されていないのも事実だと、再認識して。少なくとも数日中には、この土地から屋敷ごと移動しなければならないもの」
「解ってる。エレンのことも信頼しているのよ。リンの復活は、貴女にしか任せられない」
「それは光栄だわ。じゃあ、この子のことも信頼してあげてよねー。きっと役に立つから、いろいろと教えてあげて」
「ふむ……経過の観察もまた実証の内か。その件は、くるみに一任してもいい?」
 
 この場にいたのを勿怪の幸いと頼んだら、くるみは意外にも快諾してくれた。夜間の門番だけでは、手持ち無沙汰だったのか。それとも、新たに加わる一名が妹のように思えたのか。理由は定かではないけれど、案外と適役かも知れなかった。
 
「じゃあ、決まり。お願いね、くるみ」
「はいは~い。こっちにいらっしゃい。それと、今から館内の移動は徒歩に限定よ。新しい身体に馴染む意味でも、横着してばかりでは訓練にならないからね」
 
 もっともらしい意見だ。だがもちろん、お為ごかしでもあるに違いない。飛行させなければ、耳障りな羽ばたきを聴かないですむ。
 素直に応じる新入りを従えて、くるみは地下の図書館へと向かった。教育の場としては、資料も豊富でいい環境だ。きっと、期待どおりの結果を見せてくれるだろう。
 
「さて、お忙しい魔女を引き留めて悪いけど、もうひとつの案件について経緯を報告してもらおうかしら」
 
 二人きりとなった場で、エレンに訊ねる。屋敷ごとの移転については、果たして予定どおりなのだろうか。美鈴の義妹に手紙を送ったと言うが、そんなに悠長な真似をしていては、答えが導きだされるまで時間を要しそうだけれど。
 エレンの回答は、あっけらかんと、既定の事実を簡潔に述べただけ。それは文字どおり一瞬で、私の心配を一瞬で払拭するものだった。
 
「もう、美鈴の義妹――オレンジさんからは、返事をもらっているわ」
「随分と早いじゃないの。美鈴も旅に出てからは、逢っていないと言っていたのに、よく住所を特定できたものね」
「おおよその滞在場所が解れば、連絡はつくものよ。じつのところ、私にも土地勘のある場所だったからね。この件については、私の思惑どおりに運べそうよ」
「さすがは、働き者にして優秀な魔女エレンだわ。できれば、計画の概要も教えてもらいたいのわね」
 
 簡単な話よ、と前置いてエレンはテーブルに置きっぱなしだった二つのティーカップを平行に並べると、蜘蛛が巣でも張るかのように、その間を指でなぞった。
 
「離れた場所の間で、物を受け渡しすると言えば、エリスならどうする?」
「うーん……伝書コウモリ?」
「小さな荷物なら、それで充分よねー。でも、この屋敷みたいに大きな物は?」
「それなら……やっぱり魔法?」
「魔法には違いないんだけど、もっと観念として訊いているの」
「観念? だったら――」
 
 もう一度、エレンがティーカップの間に指を這わせる。それはつまり、そう言うことなのだろう。簡単と言ったくせに、意外と面倒な説明をしてくれる。
 
「橋をかけるわけね」
「模範解答は、ロープウェイよ。二つの支柱を繋いで、屋敷ごと移送してしまうの。もちろん、魔法に依存するところ大でね」
「なるほど、なにをしたいのかはイメージできたわ。決行は、いつにするの?」
「それについても、既に考えてあるわよ。でも、こうした大掛かりな魔法となると物理的な準備の他に、月や星の巡り合わせ……つまり、日時が重要になってくるの。だから、今日明日じゃあないわ」
「もう前置きはいいから、結論だけ教えてよ。まったくもって、婆さんの話はどうにも長くて厭にな……痛い痛い痛い!」
 
 うっかりフラストレーションを言葉に換えてしまった私の頭を、瞬間移動でもしたかの如く背後に立ったエレンが、握り拳でゴリゴリ挟み込む。そのウメボシの刑は、いつになく殺意が込められていると感じられた。多忙による疲れも、エレンから余裕を奪っていたのだろう。
 
「ごめんなさい、ごめんなさいっ! もう言わないから、赦してぇ!」
「誓う?」
「はい、言いません。忘れるまでは」
「これだもんなぁ。エリスには敵わないわ」
「そうでしょ、そうでしょ」
 
 処置なしだと言わんばかりに、私を解放するエレン。そもそも、いざとなれば無数のコウモリに分裂して逃れるだけである。私にとっては本来、物理的な拘束など意味をなさない。
 
「それで、答えはどうなのよ?」
「せっかちすぎでしょ、エリス。和歌には枕詞が必要なように、物語にも少なからず解説が必要なんだからね。こうした重要案件については、そこを端折ったら致命的なミスにも繋がりかねないのよ。時間を費やして綿密な準備をしたのに、一瞬で無に帰するなんて厭でしょ」
「はいはい、私が浅はかでした。エレンのペースで説明していいから」
 
 じゃれ合って暇つぶしするのは嫌いじゃないけれど、あまり悠長にもしていられない。特に、エレンにはリンの蘇生に時間をかけて欲しかった。
 
「世界は音階と数字で成り立っている、って言葉を知ってる?」
 
 藪から棒な質問は、私をどこに導くためのものなのか。
 しばし逡巡してから、私は小さく頷いた。
 
「アリストテレス、よね。エレンが飼い猫につけている名前の元祖――ピタゴラスは、それぞれの数字には固有の意味があると言っていたわ。数秘術だっけ?」
「エリスは本当に、そうした占い系が好きなのね。運命を操ってみたいのかしら」
「それが可能ならば、いくらでも希望の未来を創造できるからね。あぁ、これってもしかして、決行の日付を説明するための布石?」
「大正解~」
 
 ぽわぽわと微笑みながら、エレンは手近にあった紙片を手に取り、書き出した。
 
 
 1:絶対 2:相対 3:発展 4:安定 5:変化
 6:調和 7:飛躍 8:秩序 9:完結 0:無あるいは無間
 
 
「いくつもの意味があるけど、これを数字と意味の関連とするね。これまでの紅魔館を数秘術に則って数字を当て嵌めると、『完結の9』と『秩序の8』なのよ」
「結界で掩われた、秩序ある完結世界だったと言いたいわけか」
「ええ。そして、メイド妖精を除いた現在の住民は、さっきの新人を加えれば7名になる。これは飛躍を示す数字よ」
「月の連中から逃れるため、従来の幸せな境遇を廃して新たな理想状態を作る……つまり、新人の参入も飛躍するための準備なのね」
「そこで、それじゃあ実行する日はいつなのか、って話だけど」
 
 長すぎた前振りも、やっと本題に繋がったらしい。だが、ここから答えに辿り着くまでは、もう少しだけステップを踏む必要がありそうだ。鍵となるのは、やはり数秘術だろう。
 
「現在を『絶対の1』と見做せば、将来とは現在の相対である2になるでしょ。そこに無と無限を意味する0を付加して、相対の2で閉じると、2002ってわけ」
「それって、つまり西暦紀元なら今年よね……って言うか、どうしようもなくコジツケめいて見えるんだけどさ。気にしたら負けなのかしら」
「魔法や呪術には、よくあることよ。事象から原理を解析するのが科学であるのに対して、原理に事象が追随するのが、魔法の魔法たる所以なの。エリスも魔に連なる者なら、経験的に解るでしょ?」
「なるほど。とりあえず、超飛躍的な発想力で理解したつもりになったわ。それで、今年のいつにするのかしら?」
「絶対を重ねて強調した土台に、秩序の家を建てるつもりよ」
「該当しそうな数字を挙げると、11、そして8……11/8?」
「はい残念。8/11が正解でしたー」
「あぁ。土台って、そういう意味なのね」
 
 エレンは笑顔で、拍手の真似をした。決行日までは、残すところ数日と知って驚いたが、善は急げとも言うし、拙速ではないなら三ヶ月後を要さず決行しても問題ないだろう。方法はエレンに任せた以上、それに従うよりない。
 
「美鈴の義妹は、協力を約束してくれているの?」
「もちろん。美鈴も、大丈夫だって確約しているわ。それに、私の想像どおりだったから、成功の確度は高いのよ。失敗する確率こそ、限りなくゼロに近いぐらい」
「想像どおり、って?」
「私の土地勘がある場所に、オレンジさんがいるってことよ。それだけで、両方の支柱を繋げるロープは頑丈になるわ。そこに、美鈴の記憶でサポートされるんだもの、絶対に切れっこないし、望む場所まで辿り着けるわよ」
「エレンが、そこまで自信をもっているなら、なにも心配いらないのね」
 
 言って、改めて労おうとした私に、エレンは釘を刺す。
 巧くいきそうな場面こそ、しっかりと気持ちを引き締めて取りかかる。チャンスは一度きりだからこそ、油断で足下を掬われるわけにいかないのだ。それは、リンの蘇生についても同じ。
 それについて訊ねると、エレンは珍しく不安の色を見せた。やはり、熟練の魔女と言えども反魂の術を施すに当たり、緊張もすれば失敗だってし得るわけか。猫の亡骸では成功しても、人間の死体となれば勝手が違うのだろう。ましてやリンは、普通の人間ではないのだから。
 
「正直なところ、麟が元どおりに蘇ってくれるとは、私も保証できないな。猫と人間の差は当然だけど、それ意外の点にも不安要素があるもの。こればかりは、実験の回数で成功率と自信を深めていくしかないわ」
「だろうね。私も、すごく不安だ」
 
 それでも私は、リンを取り戻したい。主人を主人と思わない態度や、憎まれ口さえも、今となっては愛おしい。どれほど困難を極めようとも、私が欲しいのは、リンが紡ぎだすそれらなのだ。
 私の決意を伝えると、エレンはしばし考える素振りを見せ、唇を開いた。
 
「そこに、成功の鍵があるのかも知れないわ」
「どう言うこと?」
「記憶を呼び覚ます、キーワードを用いるのよ。エリスと麟が共有している、鮮烈な言葉ほど効果が強まるはずよ」
「なるほど、鍵か」
 
 エレンの言うことは理解できた。その意味では、私が与えたリンの名前こそ、キーワードに相応しく思える。
 だが、私の考えを披露したところ、エレンは頸を横に振った。
 
「それでは、まだまだ一方的よ。この場合は、麟が口にした言葉こそ該当するわ。それも、強烈な感情で自発的に発した言葉よ」
「ふむ……難しいね。リンとは数え切れないくらい会話をしてきたけれど、あの娘がどんな言葉に強い感情や記憶を宿したかなんて、もう探りようもないわ」
「強い感情って言うと、どうしても怒りだとか歓びが当て嵌まるよね」
「傾向が解っていても、砂の山からダイヤモンドの粒を探すようなものじゃないの」
 
 しかし、やるしかない。努力を放棄すれば、なにも取り戻せないままだ。
 どれほどの時間や労力を費やそうとも、私はそこに一縷の希望を見出してやる。
 
「最善は尽くしてみるから、エリスも協力してね」
 
 ぽつりと呟くエレンを、努力が足りないと突き放せるほど、私も冷酷ではないつもりだ。努力なら、むしろ私がすべきこと。弱気になっているエレンを慰め、力づけるのもまた、私に課せられた役割だ。
 だからこそ、私は無言のまま老獪な魔女を抱き締めた。言葉よりも雄弁に、私の想いが伝わってくれるように、と。
 
 
        ▽        △  
 
 珍しく美鈴から話を切り出してきたのは、その日の夕食時だった。くるみは門番の空白を作らないように、早めの食事を終えているので、この場に同席していない。給仕役の咲夜も、テーブルにはついていないが、話を聞く分には立ちながらで問題ないだろう。
 
「お嬢様たちは、ヘツゥルオシュという言葉を聞いた憶えがありますか?」
 
 いきなり飛びだした単語に、誰もが一瞬、身動きを止めた。もしかして、著名なネクロマンサーが記した魔道書の類いだろうか。諸国を旅してきた美鈴なら、そんな知識を蓄えていても不思議はない。
 しかし、図書館の主でもあるエレンが首を傾げたのは、私にとっても意外な反応だった。私の倍近くも歳月を生きてきた彼女なら、普段から図書館の管理もしていることだし、大抵のことは知っているものと勝手に決めつけていた部分もあるが、それにしても驚きだ。
 沈黙を前に、美鈴は少しばかり気まずそうに話を続ける。
 
「私の故郷に古くから伝わる書物で、率直に言えば占いの本です」
「あぁ、もしかして河図・洛書のこと?」
 
 と、反応したのは、お約束どおりのエレン。ふわふわ頭で度忘れしていたわけではなく、発音の関連でピンとこなかっただけらしい。エレンがテーブルクロスに、指先を走らせる。文字にしてもらうと、私の記憶にも刺激されるものがあった。
 
「これ……リンと一緒に、翻訳しながら読んだ本よ。なんだか懐かしいわ」
 
 読書どころか、宿題をしている気分にもなったものだけど、それでも愉しかったと断言できる。出逢ってから百年近く経つ腐れ縁だとしても、リンが傍らに座ってくれているだけで、私は苦痛や退屈を感じたりしなかった。それらさえも、面白く感じられたのだから。
 もうすぐ、それを取り戻せる。新天地に移り住み、趣味と交遊に没頭するばかりの素晴らしい日々を迎えられるのだ。子供のように気持ちが逸ってしまうのも、仕方のないことだと自己弁護しておこう。
 ただ、浮かれた心境にあっても気になる点は、心に引っかかる。
 
「でも、どうして今頃になって河図・洛書の話をしたの?」
 
 いつもは指示を受けてから発言する美鈴が、どうして今日は率先して口を開いたのか、彼女の本心を訊きたかった。きっと、なにか思惑あってのことに違いないと、私の直感が訴えていたから。
 
「じつはですね、お嬢様。私の故郷には独自の占卜によって吉兆の方位を知り、より効果的な開運を目指す考え方が広まっていまして。今度の引っ越しをする際に、それを導入してみたらいいんじゃないかと思ったんです」
「要するに、意のままに運命を変えようとする作業よね。エレンも、数秘術に倣って館を移転する日取りを決めたし、この世界は本当に、数字と音階に満ちているみたいだわ」
「音階と言えば、発音や文字の画数が、適切かどうかを占ったりもしますよ。必要とあれば名前を変えることも、より幸運へと道を開く方法として、受け入れられているんです」
 
 もちろん私だって、名前が識別のみならず、多くの重要な意味を内包していることは承知している。むしろ、今更すぎると一笑に付してもいいくらいだ。
 しかし、口を開くより先に私を遮る者がいた。別世界の知識を有する者、咲夜だ。
 
「改名する案には、賛成しますわ」
「おや。咲夜も占いに興味があったの?」
「神秘的なことは好きですけど、より現実的な観点からの提案です」
 
 とは、どういう意味だろう。逃亡者が、偽名を使うようなものか。それはそれで、なんだか面白くない。そもそも、平和に暮らしていた私たちに干渉してきたのは月側の都合なのだから、そこまで妥協してやる義理などあるまい。
 訊かれるより早く、咲夜の説明が始まる。
 
「私に装着されていた【番犬の首輪】を、お忘れですか? あのとき、私は言いましたよね。この装置を介して、会話すら本部に記録されている――と。つまり、お嬢様たちの名前や綽名もまた、月側に知られてしまったという意味です」
「ここから屋敷ごと転居しても、名前を辿って所在地を突きとめられる、とでも?」
「音信不通のまま戻らない私を、返り討ちにされたと判断するのも時間の問題です。そうなれば、追及の手は確実に伸びるでしょう。過去にも、そうした例が何件かあって、私も従事しましたから」
「番犬を殺すほどの敵は、徹底的に叩き潰さないと逆襲される畏れがあるから? 月の民も、案外と臆病だね。それとも潔癖症なのかしら」
「自分たちの住まう楽園は、誰だって是が非でも護りたいのですよ。お嬢様たちが、この館と今までの暮らしを維持したいと切望するのと同じように」
「だったら、いっそ会談の場を設けて、不可侵協定でも結んだら楽な話なのにね。月側から頭を下げて、協定を結んでくださいと頼み込んでくれば、私も依怙地になったりしないのにさ」
 
 どうせ、こんな条件では月の連中が応諾するはずもない。だが、両者のプライドを擦り合わせた上で、折り合いをつけなければ将来的な禍根を残すことになる。そこを曖昧なまま放置するのは、問題の先送りに他ならないのだ。そして大概、そのように先送りした問題は新たな問題を生み続けて、より解決を困難にしてしまう。
 
「結局さぁ、どうするのがベストな選択なんだろうね。交渉するなら、もう一度くらい月の番犬を撃退してからでも、遅くないんじゃない?」
 
 フランドールが、安直な考えを披露する。あるいは、単純に自分が遊びたいだけかも知れない。私が長く閉じ込めてきたせいか、少しばかり世間ズレした発想をする妹だ。
 しかし、基本的な性格は私と近い面もある。フランドールの意見も、守りながら攻める気持ちの現れであり、嫌いではないが……。
 もう一戦するまで待つか、主導権を確保したまま闘いを避けるか。
 
「繰り返しますけど、やはり隠遁する選択をすべきです」
 
 私の迷いを断ち切らんばかりに、咲夜が語気を強める。諺にある『負けるが勝ち』を徹底するべきと、諫めているのは察せられる。月の事情に明るい咲夜が、それほどまでに交戦したがらないのは、かつての同僚と刃を交えたくないから……なんて、陳腐な理由でもなかろう。咲夜ならむしろ、誰だろうと敵は斃しにかかるに違いない。
 他に理由があるとすれば、月時計が咲夜に見せた未来にこそ根っこがありそうだ。未来を見た上で、それでも逃げることに利があると言うのであれば、もはや協議も時間の浪費。さっさと最終準備に入るほうが、賢明に違いない。
 
「いいわ。今までだって隠れ棲んできたんだから、どこへ行こうと同じことよね。逃げる逃げないの議論は、もうこれっきりにしようじゃないか。咲夜の案に従うから、みんなも決行日に向けた最後の調整に移ってちょうだい。名前を変える件は、各々の自由としようか」
「それについては、私と交戦した数名だけが対象ですわ、お嬢様」
「だったら、私とリン、くるみの三名になるのかしら。フランドールは?」
「私を戦闘不能に陥れたのは、フランドール様でしたね。あのとき、月側には妹様の存在を確認する術がありませんでしたから、おそらく大丈夫でしょう。お嬢様を含めた御三方は、用心のためにも改名をお奨めします」
「解った。咲夜の忠告に従おう」
 
 さて、ここにきて面倒な問題が増えてしまったが、どうしたものか。こうした事態だからこそ、名前をなおざりにはしたくない。しかし、悠長に考えている暇もないときた。遅くとも、転居の当日までに考えなければタイミングを逸する。呪術的な意味でも、それは好ましくないように思えた。
 
「リンには、無事に蘇生したときの記念として、名前をプレゼントしよう。くるみには、朝になったら主旨を伝えて、考えさせないとね」
「くるみの名前も、お姉様が決めちゃえば?」
「最終的には、それもありだけどねぇ」
 
 フランドールの案を採用するとしても、くるみの意思を確認するほうが先だ。その上で、勝手に決めても構わないと望むのであれば、私が主人としてのカリスマを発揮して、素晴らしい名前を考えようではないか。あるいは美鈴の智慧を借りて、東洋風の名前にしてもいい。
 東洋風と言えば、リンに与えた冴月麟の名が思い出される。あれはあれで、私も気に入っていたのだが……残念ながら、今では故人の名前になってしまった。だからこそ、リンが生まれ変わるのなら、それに相応しい名を新たに贈ろう。今度こそ、二度と変える必要のない環境で、永遠に誇りを保ち続けられる名前を。
 
「まあとにかく、まずは自分自身の名前を決めなきゃね。食事を終えたら、図書館で姓名判断の本でも探してみるか」
「エリスの音に漢字を当てるのでしたら、微力ながらお手伝いしますよ!」
 
 ここぞとばかりに美鈴が勢いづいたけれど、残念ながら漢字の名前にするつもりはない。麟の悲劇を思い出しそうになるとか、そうしたセンチメンタルな理由も多少なりともあるが、読みの音が同じままでは改名の意味がないと判断したためだ。
 それに、引っ越しの日取りなどを数秘術から導きだした以上、どうせなら名前にも数字を絡めてみたいとも思っていた。あからさまな数字を宛がうのでは面白味に欠けるし、アルファベットの文字数で換算するのは、どうだろうか。そこまで徹底すればこそ、この大掛かりな遁走劇も成功の可能性が高まるに違いない。
 
「今回は新天地への転送、つまり数字に付与された意味では『飛躍の7』が、鍵になりそうなのよね。7文字もアルファベットを使ったら、相当な量の並べ替えが行われることになるけれど、なんとか素晴らしいスペルを探してみせるわよ」
「エリスが【Elis】の4文字で安定だとすると、7文字の飛躍に繋げるのは改革の意味を含ませるわけね……あれっ?」
 
 話の途中で、エレンが急に素っ頓狂な声をあげた。徐に、全員の視線がエレンに集まる。なにに気づいたのか、誰もが知りたがった
 
「よく考えたら、フランドールの綴りも【Flandre】で7文字ね。エリスからの分離を示唆していたなんて言うつもりはないけど、不思議な符合かも知れないわ」
「偶然の巡り合わせも、そうなる運命だっただけの話よ。驚くには値しないわ」
 
 そして今回は、なるべき運命を必然に導き、桃源郷へと飛躍する原動力にせねばならない。
 ふと、館の移送についてエレンと話した内容が、ありありと思い出された。意味を強調するために、数字を重ねるのだと言っていたことを。その理屈ならば、姓と名も七文字ずつにしたほうが、飛躍力も高まる道理ではないのか。
 そのとき、私の脳裏に閃くものがあったのは、これもまた運命だったのかも知れない。
 
「そうだわ。だったらファミリーネームは、スカーレットにしようじゃないか。深紅を表すscarletなら、文字数も、紅魔館の主人である私のイメージにも、ドンピシャだと思わない?」
「紅で選ぶのなら、crimsonも七文字だよね」
 
 無粋な指摘をしてきたのは、くるみ。野暮すぎて、洒落にもならない。
 まあ、それでこそ……と思えてしまうのが、くるみの個性でもあるけれど。
 
「くるみのセンスじゃ、解らなくても仕方ないか。言葉の響きなら、スカーレットが美しいし若さを感じられるわ。クリムゾンだと、なんだか暗~い老魔道師っぽい印象がするでしょ。あ、エレンのことじゃないんだからねっ! 早とちりでウメボシ攻撃しないでよ?」
「はいはい、解ってますって。エリスが言いたいのは、聞いたときに浮かぶイメージが、男性的か女性的かの話よね」
「そんなところ。名前こそ、イメージにこだわりたいわよね。もう、今後は絶対に改名する気はないから、なおさらさ」
「どっちかに決めるなら、私はスカーレットに賛成よ」
 
 と、ここでフランドールが、思いがけず私の意見を後押ししてくれた。考えてみれば、妹にとっても他人事ではないのだし、関心を寄せるのも当然と言えよう。私から紅い悪魔の容姿を受け継いだフランドールだからこそ、よりスカーレットの響きに心を惹かれたとも考えられる。
 いずれにせよ、物事がスムーズに決まるのは気分がいいものだ。順調すぎるときこそ、足元を掬われないように注意が必要だけど、この程度なら心配するより勢いに乗ってしまうほうが事態を好転させる。
 
「この調子で、私とリンの新しい名前も考えてしまおう。食事のあとは、図書館に籠もって書物を漁るつもりだから、頃合いを見て紅茶を運んでちょうだい」
「承知しましたわ、お嬢様」
 
 咲夜が、柔らかい微笑みで快諾する。そんな表情を向けてくれることなど、出逢った頃には夢にも思わなかったものだ。本気で殺し合うほど憎かった敵同士が、ひとつ屋根の下で平穏な時間を共有しているなんて、誰が予想しただろうか。
 こんな生活を、これからも送り続けたい。心から、そう思う。
 私の望む楽園では、リンも一緒に微笑んでいて欲しい。ときどきは口喧嘩などのコミュニケーションを繰り返しながら、ずっと。
 
「ひとつ、思い出しましたが」
 
 食事を中断して夢想に耽りかけていた私を、咲夜の声が現実に引き戻した。
 その声音からは、ついさっきまでの和やかさが消え失せていた。
 
「まだ、なにか問題が?」
「もしかしたら、名前を変えるだけでは不十分かも――と思いまして」
「番犬の首輪を介して、月の連中に監視されてたってこと? それとも、月の兎たちに顔を憶えられてるとでも? いずれにしたって容姿を変えることぐらい、私たち妖魔にとっては朝飯前だよ。それこそ変幻自在だからね。より人間に近い美鈴や、咲夜はどうなのか解らないけどさ」
「玉兎も、そう仕事熱心ではありません。怖れるべきは玉兎たちの主人や、使者の長たる存在ですが、あの方たちは月から軽々しく動けないので、しばらく様子を見てもいいでしょう。私が危惧しているのは、私と戦闘した方々についてですわ」
「だったら、これもエレンや美鈴は除外されるわけだ」
「お嬢様と妹様も、ギリギリ対象外でしょう。記録された戦闘データでは、頭の半分を吹き飛ばされて行動不能に陥ったと判断されたはずですから。用心すべきは、くるみ様と、私ですね」
 
 確かに、門番は兎に監視されていたりするはずだ。その点では美鈴も同じ条件なのだが、くるみは夜間の門番として咲夜とも闘い、月側に収集されたログデータなら美鈴より多い。その分、特定されやすいとの結論に至る。
 咲夜については、月の特殊チームリーダーだっただけに一目瞭然だろう。ちょっとぐらい化粧したところで、元の仲間の目を誤魔化せるわけがない。
 それに対する方針を問うと、じつは既にエレンと打ち合わせずみだと言う。よくよく話を聞けば、くるみの件についても本人の快諾を得て、私の承認を待つだけまで進めていたらしい。つくづく、段取りのいいことだ。最終決定権を私に残すところも、小憎らしい演出である。
 
「容姿を変えられないなら、他人の空似として徹底するだけですわ、お嬢様。この世には、同じ顔をした人間が三人はいると言いますからね」
「そのために、魔法で自分の記憶を操作してしまおうと? 咲夜、貴女は……それでいいの?」
「構いません。その未来を、私は知っていますから」
 
 言って、咲夜は懐中時計を手にして見せた。とても、とても清々しい微笑みと、自信に満ちた眼差しを沿えて。
 月時計に示された未来なら、それに従うのも運命なのか。いや、それすらも私が月時計を咲夜に与えたから? もっと以前に、私の元に月時計が巡り巡って辿り着いたことこそが、今日の布石だったとでも?
 可能性を考え始めれば、キリがなくなる。肯定するのも否定するのも考えかた次第であるのなら、いっそポジティブに行動することで、あとから運命がついてくると信じたほうが気楽でもある。他に名案を提示できない私には、咲夜を信じるよりなかった。
 
「ならば承認しよう。貴女たちの考えどおりに進めなさい。だけど、エレン。八面六臂の活躍も、度を越せば…………いいえ、ごめんなさい。なんでもないわ」
 
 よもや、エレンが失敗するかもなどと疑問を呈するのは、最大の侮辱に他ならないだろう。そもそも優秀なエレンならば、すべて緻密なスケジュールを立てて巧くやるに決まっている。本当に困難だと判断したなら、正直に厳しいと言ってくるに違いなかった。その彼女が、なにも伝えてこないのだから、すべてを信じて任せっきりのままでも構わないのだ。
 それよりなにより、真剣に取り組むべきは、他人より自分である。私にのみ課せられた難題に、集中せねばなるまい。
 もちろん模範解答なら解っている。しかし、文字と数字で新たな世界を綴ることなど……果たして私に可能なのだろうか? 事態が事態だからこそ、どこかで自身の能力を疑問視せずにはいられない。胸の奥が、チリチリ焼かれるように痛む。
 その直後だ。私の胸裡に、ふと囁く声があったのは。あるいは、これこそが啓示と呼ばれるものだったのかも知れない。誰かの意図を押しつけられるのは癪だけど、ヒントを得たぐらいに思っておけば、妥協もできよう。
 
「再誕と、そこからの永続――それってつまり、飛躍と完結の意味に拡大解釈することだって可能よね。見えたわ! 方針が決まったら、あとは進むだけよ!」
 
 私は食事を中断して、テーブルを離れた。そもそも、普段だって用意された料理を完食することが稀だけど、今回はいつもより多く残してしまったようだ。しかし、もう空腹感はなかったし、早く作業に入りたい衝動を抑えきれずにいた。
 この世界が、音階と数字で成り立っていると言うのであれば、数字と音階で世界を成り立たせることも可能に違いない。それはつまり、運命を操作する意味でもある。
 
「だったら、とびっきりの運命を、リンのために私が用意してあげる。これ以上、悲劇のヒロインにならずに済むような、素晴らしい名前を!」
 
 今となっては確かめようもないものの、足取りも軽く図書館に向かう私は、きっと薄気味の悪い笑顔を浮かべていたと思う。ちょっとだけ、どんな感じだったかのか興味をそそられるけど、見せられたら見せられたで精神的ダメージも半端なさそうだ。
 やはり、誰にも目撃されていなかったことを幸運に思い、記憶の片隅にしまっておこう。いつか、親しい友人たちとのティータイムに、懐かしく振り返って語らうネタにすればいい。
 
 再びリンと談笑する日々を想像しながら、私は歩みを速めた。
 すべてが元どおりにならないとしても、私が欲しいものは、まさにそれなのだ。
 
 
        ▼        ▲
 
「――とまあ、長々と話してきたけどさぁ。今に至るのも簡単じゃなかったわけよ」
 
 いささか喋り疲れたのだろう、さも億劫そうな口振り。しかし、お嬢様の表情は口調に相違して、どこか愉しげだった。どのような苦労も、乗り越えてしまえば武勇伝に変わると言うことか。そこに織り交ぜられる少しばかり過剰な脚色は、労力へのお駄賃として見て見ぬ振りをするのがスマートなのだろう。
 そもそも、事実だけを淡々と書き連ねても、物語として面白くはない。
 
「それでも屋敷の移転は順調に終わり、平穏な日々を取り戻せたわけですね。ただ、回想録として編纂するには、まだ語りきっていない部分もあるようですが」
 
 そう。ここまで口述筆記をしてきても、記述の空白は多々ある。細かな点は無論のこと、いくつかの大きな差異まで。
 中でも、私が気になったのは、過去の紅魔館と、現在の紅魔館で附合しない点についてだ。その中でも特に――
 
「足りませんよね?」
「ああ、足りないわね」
 
 お嬢様は即座に首肯した。私の言わんとすることを正しく理解した上で、もはや誤魔化す必要もない、との意図なのだろう。
 なにが足りないのかと言えば、それは住民の数である。
 
「今まで記録してきた回想には、すぐに思いだせるだけでも、ええと……八人が登場してきましたよね」
 
 指折り数えながら、私は続ける。
 
「ところが今、この館に起居しているのは私を含めて、六人だけですわ。欠けた二名……くるみ様と、魔女のエレン様の去就は、どうなったのでしょうか」
「くるみなら、今も姿を変えて館に近づく者を見張って、夜の門番を勤めているよ。エレンに施された術の影響で、ちょっとだけ性格も変わっちゃってるけどね」
「えぇ? 誰ですか、それ」
「おやおや、そんなことさえ忘れてしまったのかしら、この娘は」
 
 瞼を細めて嘲笑うお嬢様は、幼い見かけに似合わぬ色気を醸して、私をドキリとさせた。些細な仕種に垣間見える、魔性の魅力と言うものか。
 
「湖にいる黒衣の娘が、くるみだった者さ。あの娘の元の名に、私の新しい名前から字を与えて新しい名前を贈ったの。くるみの『rumi』と、remiliaの『ia』を繋ぎ合わせれば、もう答えは解るでしょう?」
「えええっ!? あの娘の正体は、くるみ様だったんですか!」
「髪に結びつけたリボンは、エレンが変化の魔力を込めた護符なのよ。うっかり解けてしまわないように、私にしか解除できない緊縛の魔法も付与されているの」
「ほほぅ、そんな仕掛けまで」
「念には念を入れて、住み込み勤務から通い勤務に変えたりもしたのよ。すべては月側の監視を逃れるべく、別人を装わせた結果ね。ちなみに綴りはkurumiの六文字から、rumiaの五文字になるように調整したんだ。6の『調和』が、5の『変化』へと転換することを願ってね」
「ここでも数秘術ですか」
 
 ここまで徹底されると、あまりの固執しすぎに辟易させられるほどだ。しかし、それでお嬢様が満足してるなら、敢えて無粋な一石を投じる必要はあるまい。どんなに親しくても、立ち入ることを許されない領分は存在するのだ。
 延々と追求なんてデリカシーの欠片もない真似はせず、話題を転じる。
 
「もしかして……エレン様も魔法で変身を遂げて、屋敷の近くに?」
 
 状況からの単純な推察だった。そして、お嬢様に思いっきり笑われた。
 よほど面白かったのだろう。スカーレットデビルは快活に笑いながら、顔の前で掌をひらひら左右に振る。
 
「ないない。それは絶対ないわよ。誓ってもいいわ」
「断言しましたね。エレン様は、エレン様のままなんですか」
「決まってるじゃない、魔女は魔女だもの。そして、ここにエレンが居ない理由は、残ったからさ。私たちが住んでいた、元の世界にね」
 
 元の世界に居残る。それはつまり、月の監視を受け続ける危険に曝される意味だ。まかり間違えば、命を奪われ二度と再会を果たせなくなるかも知れない。私がエレン様の立場だったら、痛い目を見る前に逃げだしている。
 お嬢様は、エレン様に危害が及ぶことについて、怖れを抱いていないのだろうか。
 
「あまり辛くなさそうに見えるのは、私の気のせいでしょうか?」
「エレンの意志、彼女の生き方、それらを尊重してあげる喜びに比べたら、別れの寂しさなんて一過性のものだわ」
「支配者サイドにおける、模範解答ですね」
「そう皮肉めいた言いかたするの、やめてくれない? 他人の耳には建前にしか聞こえないのだとしても、偽りない本音の部分だって少なからずあるんだ。私はエレンを信頼しているし、これからも彼女が幸せであるように願ってもいるよ」
 
 これは、私が無思慮すぎたらしい。素直に詫びると、お嬢様は鷹揚に頷き、赦してくれた。
 今にも鎮座しかけていた気まずい空気を蹴飛ばすには、如才なく会話を紡ぎ続けるに限る。失敗の繰り返しを怖れて口を噤めば、それこそ染み込んだ水が凍って岩を割るように、沈黙が溝を広げてしまいかねないから。
 
「ここに姿はなくても、お嬢様にとってエレン様は、身体の一部にも等しい存在なのですね」
「そう思えるくらいには、時間を共有してきたからね。それにさ、先代のメイド長は死別だったけど、エレンとはまだ離れ離れになっただけ。どれほど遠くても便りを交わしたり、ひとっ飛びで会いにいくことだって可能なんだもの。彼女たちに対する想いを比較しようにも、条件が違いすぎるわ」
 
 なるほど、それはそうだ。お嬢様みたいな限りなく不死に近い存在にとって、死の隔たりは、いかなる障壁よりも分厚く、越すに越せない大河にも等しいだろう。彼岸に渡った者には、どれだけ望もうが永久に触れることさえ叶わないのだ。その悲嘆を考えたら、生き別れはまだ幸せな範疇に含まれている。
 問題は、別れた理由である。それについて問うと、即座に返答があった。
 
「エレンとくるみの離脱も、紅魔館の移転には必要なファクターだったのよ。8から7、そして6へ移行して、スムーズな転送を実現するための、ね」
「8から7、そして6?」
 
 おうむ返しに呟いてみたが、それがなにを示しているのかは察しがついた。
 
「これもまた、先の話にもあった数字が示す意味のことですね」
「繰り返すけど、8は『秩序』で、7が『飛躍』――」
「そして、6は『調和』でしたね」
 
 私の言葉に、お嬢様は満足げな微笑みを浮かべた。
 説明を中断されたことを不快に思った様子はなく、それどころか鷹揚に頷き、続けた。
 
「ひとつの『秩序』は終焉を迎え、魔法により『飛躍』した新天地での『調和』を図るってこと。見方を変えると、過去から未来への橋渡し、と言ってもいいのかしら。そして、エレンは送り側の原動力でもあった。これも回想の中で語ったはずよ。移転の方法は原理的に、ロープウェイが近いってね」
 
 そう言えば、確かに聴いて書き記した憶えがあった。ロープウェイなら、最低でも送り手と受け手、二本の支柱が必要だ。そのために、美鈴さんの義妹であるオレンジさんに協力を依頼した、とも。送り側のエレン様から、受け側のオレンジさんへと繋がるロープウェイのワイヤーは、さしずめ美鈴さんと言ったところか。
 
「やっと話の前後が繋がってきました。でも、まだ腑に落ちない点もありますわ。そこまで大掛かりな魔法を扱えるなら、転送を完了したあとに追いかけてくることも可能でしょうに。どうして、それをしなかったのか気になります」
 
 私の素朴な疑問に、お嬢様は乾いた笑みを返した。
 
「それこそ、人それぞれよ。言ったでしょ、エレンにはエレンの考えがあって紅魔館から去った、と。自分の店も構えていたしね、彼女は。数秘術における意味も、もちろん理由の大部分を占めるわけだけど」
「これは、私の勝手な見立てですが――」
 
 一応、前置いて続ける。「エレン様は、月側の注意を引きつける囮となるために、彼の地に残ったのではないでしょうか」
 
 あり得ない話でもない。この屋敷を、そっくりそのまま転送してしまうほどの優秀な魔法使いだ。跡地に館の幻影を出現させて、月の兎たちを欺し続けることだって、可能にしたのではないか。それどころか、その幻影を斃させることで、不穏分子と見做した面々を抹殺できたように演出したかも知れない。
 先に勝手な見立てと予防線を張ったが、私は自分の予想が真相に近いと信じ始めていた。
 
「それが事実だとしたら、感謝してもしきれないわ」
「ですよねぇ。エレン様にしてみれば、お嬢様と紅魔館への恩返しぐらいにしか、考えていないのかも知れませんけど」
「恩返しも返されすぎると、こっちがお礼を渡さなきゃいけないね」
「エレン様は、きっと受け取りませんよ」
「だよねぇ。うん。そうに違いない」
 
 深く考えもせず放った呟きに、我が意を得たとばかり、お嬢様が頷く。私の想像する人物像は、お嬢様に与えられた情報によって構成されたはずのものである。それなのに、逢ったこともないはずの人物に親しみを覚えているのは、ずっと昔話を聞かされてきたせいに違いない。
 そうした段階を経て、私の感性もお嬢様の視点に近くなっているから、こうした共感が生じやすいのだろう。それはそれで、嬉しい気持ちにさせられる。
 
「今すぐに、再会して真意を訊いてみたいとは思わないのですか?」
 
 私の問いかけに、「ふむ……」と唸って腕組みする少女。見た目こそ幼くても、その仕種には夜の王たる威厳が滲みだしている。あと十世紀ほど経験を積めば、貫禄も備わってくるだろう。環境によっては、そこまでの時間を要さないと思うけれど、今しばらくは、このまま変わらずにいて欲しくもある。
 
「真意を問い質したいとは思うわ。でも、それは今すぐじゃなくていいの。いつか、お互いの運命の輪が交わるときに再会できるだけで、私は満足なのだから」
「そのときが必ず訪れると、信じているのですね」
「きっと、ね。無を示す0は無限大の意味も含む。二つの0を繋げた∞こそ運命の輪でしょ? 途切れることのない夢が、あるだけなのよ」
「その場に、私も立ち会えるのでしょうか」
「どうかしら。実現するのは明日かも解らないし、千年後かも知れない。それが運命だとしか、私には言えないんだけどさ」
 
 もちろん、私にだって解るはずがない。ここで何を語ろうと、すべての未来は希望的観測の寄せ集めにすぎないのだ。それはそれで、ひとときの娯楽にはなるけれど、言葉を重ねれば重ねるほど虚しさも強まっていく。そうして生みだされた叶いそうもない希望ほど、感情の亀裂に根を浸透させて、精神を蝕むものだと知っているから。
 であるなら、これ以上エレン様の話題を続けるのも、妖魔であるお嬢様の負担となりかねない。ここまでにして、他のことを訊くとしよう。
 
「そうそう。話を元に戻しますけど」
「ん? なにか」
「じつは、まだ気になる点が。あの人は――」
 
 そう言って、誰かの名を口にしかけた刹那。
 
「あ、あれ?」
 
 またぞろ思考に雲がかかるような、気持ちの悪い感覚に襲われた。
 本当に、どうしたと言うのだろう。体調は、それほど不安定だとも思えないのに、思考だけが不規則に曖昧模糊となる。単純に、眠気が限界に達したのであれば、なんの心配もないのだけど。
 
「おかしいな、私……今日に限って、こんな……」
「いよいよ、か」
「えっ?」
 
 すべてを見透かしたかのような響き。お嬢様の放った呟きが、私の顎を反射的に跳ねあげさせた。心理的なショックだけでなく、まるで見えない拳でアッパーカットを食らったかの如き衝撃を感じたほどだ。
 そのまま、真正面にお嬢様の顔を見据える。対座する少女の表情には、強い期待が見て取れた。
 
「雛は自分で殻を突き破り、生まれ出てくるものだけど。早い誕生を促すために、外から刺激を与えるのも私の務めかしらね」
「あの……お嬢様? なにを――」
「心配ないわよ。寝ぼすけの頭に、目覚めの一発をくれてやるだけさ」
「や、優しくしてくださいね」
 
 もちろん、目覚めの一発とは言葉の綾にすぎず、物理的な意味と違うだろう。そうは思っても、お嬢様の不自然に朗らかな微笑みを目の当たりにしては、心も穏やかじゃなくなってくる。
 
「ねえ、ひとつ訊くけれど」
 
 声音まで魔性の優しさを含んで、私の身体に深く深く染み込んでくる。これは、侵食されているのだろうか。それとも、元から私の裡にあった、なんらかのネットワークが末端まで覚醒を始めているのか。
 
「貴女にとって、この館での暮らしは快適かしら?」
「はい?」
 
 どんな一撃がくるのかと身構えていた分、肩すかしを食らった気分だ。呆気にとられたままでいると、お嬢様は再び、答えを促してきた。
 意図が奈辺にあるのかを探るのも忘れ、朧気な意識のまま返答する。
 
「それは、もちろん快適ですわ。この時間が停まったような館で、衣食住の心配をせず趣味に打ち込めるなんて、最高じゃあないですか」
「まるで、お伽噺みたいで?」
「ええ! こんな世界に、ずっと憧れていたんです!」
 
 迷いなく告げた瞬間、どこかで陶磁器の砕け散る音が響き渡った。あまりにも大きな音量だったため、思わず頸を竦めたほどだ。
 しかし、それは現実ではない。私の裡でのみ起きた現象で、まったくの幻聴だった。悪魔の館で使うには相応しくない言葉を、敢えて持ちだすならば、福音と称しても構わないほどのインパクトが、私をもう一人の私へと誘う。
 そうなのだ。それは新生であると同時に回帰であり、途切れない運命の輪が完成したことを示してもいた。
 
「随分と、待たせてしまったのかしら」
「なに、大した時間じゃないさ。私たちのような存在にとってはね」
 
 私の問いかけに、深紅のお嬢様は茶目っ気たっぷりにウィンクして見せた。ニカッと笑う唇から、特徴的な鋭い歯が覗く。
 
「黄金の林檎は実ったわ。おかえり、リン。いいえ……パチェ」
「パチェ? それが、私の名前なの?」
「正式には、パチュリーよ。今まで話してきたように、この館も住民も、移転に際して文字どおりの心機一転を要求されたのでね。だから、私も貴女も新たな名前に変わるのが普通でしょ」
「なるほど、文字どおり寝耳に水の話だわ」
 
 思いつくまま物事を進める気性は、変わらない。その身勝手さも、どこか懐かしく愛おしい。古いアルバムに納められた一葉の写真を見て、忘れかけていた記憶が鮮やかに蘇るのに似ている。
 
「それで、この名前にした理由は?」
「リン……リンデンの意味を憶えている?」
「忘れはしないわ。植物の名前よね、千の用途を持つと評された」
「そのとおりよ。だから、今度も繋がりとして植物由来の名前を選んだの。地下の図書館にもイメージを重ねて、ね。エレンが去った今、図書館の管理を任せられるのは貴女だけだから、それも理由のひとつに含めたわけ」
「理由のひとつと言うなら、他の理由もあるのよね? それについて、訊いてもいいのかしら」
「一番に拘ったのは、スペルの文字数よ。数秘術で完結を意味する数字。それを強調させるべく、9文字のファミリーネームも付与したんだから」
 
 我ながら自信作だ、と臆面もなく語らいながら、お嬢様が腕を伸ばした。その小さな手が掴んだのは、私の手元にあった筆記具と、綴りかけの回想録。
 お嬢様は、止める間もなく裏表紙にペン先を走らせた。そこに、私の新しい名前を記すと、テーブルの上を滑らせて戻してきた。 
 
「9文字……知識を意味する単語が、私のファミリネームなの?」
「パチュリーのスペルが9文字、ノーレッジのスペルも9文字。単純だって思うかも知れないけど、私だって真剣に考えたんだからね」
「別に、安直だなんて言ってないわ。それよりも、完結を意味する数字に拘った理由こそ知りたいものよ」
「それこそ簡単な理由さ」
 
 親友である私の存在が、いつまでも私として、紅魔館という時間の箱船にあり続けるように。もう二度と目の前から去ってしまわないように。引き留めるための願いを込めて、完結を選んだのだと、お嬢様は教えてくれた。
 つまりは、いつもどおりの独りよがり。
 
「明日にでも流浪の旅にでると、私が決意を表明するかも知れないのに。完結とは、必ずしも望む結末に至ると限らないのよ」
「言わないさ、パチェならね」
「言ったわよ、たった今」
「本心じゃないくせに」
「なんで、そう言い切れるの」
「それだけの時間を、私たちは一緒に歩んできたから」
 
 本当に自分本位で、欲望に忠実なところは妖魔のお手本と呼んでもいいくらいだ。
 その純粋さ故に、愛おしさが募るのも仕方のないことだろう。
 
「貴女の個人的な願望までもが、確定事項だと言うの? 敵わないわね」
「状況は、あるべき姿へと収束していくものよ。それが運命なのだから」
「都合のいい言葉よね、運命って」
「だからこその運命なんだってば」
  
 こうした禅問答みたいな冗長は、私も嫌いじゃない。けれども、二度寝したあとの起き抜けに等しい私の頭には、少しばかり発熱と痛みを生じさせるものでもあった。できれば、もっと他愛ない話題で談笑したい。どんな煩わしさをも忘れきって。
 ならば、こちらで流れを掌握してしまおう。私の行動は早かった。
 
「ともあれ、仕切り直す必要があるみたいね」
「あん?」
 
 対座するスカーレットデビルの瞳に、訝しげな光が宿る。今更、そんな必要があるのかと、視線で問いかけてくる。けれど、ひどく機嫌を損ねた様子でもなかった。
 そこに自信を得て、私の口調も勢いを増した。

「生まれ変わったんだもの。あの頃と同じように、初めましての挨拶は交わしておきたいわ。親しき仲にも礼儀あり、って言うじゃない」
「それもまた通過儀礼だって? パチェは律儀だな」
「儀礼と言うより、礼儀作法の問題。高貴なレディーたる者は、礼節にも厳格であらねばならない――でしょ」
「なるほど。まあ、そうね。ここで悪魔と魔女の契約をしておくのも、いいかも知れないわ。もう二度と、私の前から勝手に去ろうとしなくなるように」
 
 お嬢様は悠然と構えて見せつつ、軽口を装う。ありがちな演出だから、余計に眼光の真剣さが目立ってしまう。それを、もっと上手に隠せない辺り、まだまだ幼いなと感じざるを得ない。私よりも、ずっと長生きしていながら、そうした駆け引きについては不慣れなのだ。
 ある意味で純粋な可愛らしさを見せられては、どうにも庇護欲をそそられ、言いなりになってみたくもなる。もしかして、それこそが正真正銘の魔性の魅力というものなのだろうか。
 
「改めて、よろしくお願いします。えぇと……レミィ……でいいのかしら」
「私たちの仲だ。構わないどころか、そう呼んでもらえると嬉しいよ。エレンの後任として、図書館の管理もよろしく頼むわ、パチェ。反魂の術で蘇生させたエレンの元飼い猫――便宜上、容姿のままに小悪魔って呼んでるけど、あいつも図書館で働かせてるから面倒を見てあげて」
「引き受けたわ。どうせ私は、本の側を離れることができないのだもの」
「頼りにしているよ。図書館に関しては、パチェの裁量で進めて構わないから。蔵書を増やすときには、相談して欲しいけどね」
 
 交わされる微笑み。多くの説明を用いなくても、私たちのコミュニケーションはスムーズに完了する。なぜなら、100年以上もの間に積み上げてきた言葉が、お互いをスムーズに橋渡ししてくれるから。
 でも、だからと言って心機一転による交流を、なおざりにしようとは思わない。温故知新とは、少しばかりニュアンスが異なるかも知れないけれど、これからの生活こそが大切なのだ。パチュリー・ノーレッジとして、レミリア・スカーレットとして、私たちは多くの時間を共有し続けるに違いない。
 私の考えを告げると、紅魔のお嬢様は当然と言わんばかりに、満足げな笑みを唇に浮かべた。
 
「美しい記憶は、素晴らしい記録の苗床となる。それが運命だからね」
「運命なんて重たい言葉を、レミィは本当に軽々しく使うのね。つくづく偉大だわ」
「だから、何度もそう言ってるでしょ」
「皮肉だってば」
「それなら朝食のメニューは、皮肉を使ったハンバーグステーキね。咲夜に言づけておかなきゃ」
「さぞかし苦いハンバーグでしょうね。私は遠慮しようかしら」
「おや、ますますもって愉しみだ。逃がしはしないわよ、パチェ。毒を喰らわば皿まで、と言うでしょ」
「どうせ毒なら、レミィの毒舌をタン塩で味わう趣向は、いかがかしら?」
 
 まあ、毒舌の云々については、私も人のことを言えた義理でもないけれど。
 こうして朗らかな笑顔を向け合いながら、ちょっぴり棘のある会話を交わせるのも、お互いを信頼できている証拠なのだろう。
 私はもちろんだが、レミィもまた昂揚しているのが解る。それは、大切なものを取り戻した歓びに他ならない。そして、これから大切なものを友と共に作っていける甘美でもある。
 
「食事もいいけど、どうせなら引越祝いと、パチェの快気祝いを同時にしようか」
「また藪から棒に。ささやかなパーティーで構わないわよ」
「滅多にあることじゃないんだから、いいでしょ。まずは盛大でファンタスティックに、この屋敷を紅い霧で覆ってあげるわよ。それと、祝賀ムードには花火も欠かせない演出よね」
 
 一人で、どんどん盛りあがり始めている。こうなると、もう誰にもレミィを止められないのは、紅魔館における不文律みたいなものだ。
 でも、紅い霧に包まれた世界というのも、想像してみれば幻想的かも知れない。変に水を差すよりも、見せてくれるとの親切心をこそ歓迎すべきだろう。
 
「花火は、誰が用意するの? なんなら、私の魔法を披露してもいいわよ」
「大丈夫よ。それについても、私に案があるから」
 
 レミィはニヤッと得意気に微笑んで、続ける。
 
「回想話で言ったこと、憶えてる?」
「もうちょっと、ピンポイントで解説してくれないかしら」
「例の『吸血鬼異変』について、さ」
 
 それが、どうしたと言うのか。
 釈然とせずに固まったままでいると、レミィが珍しく素直に謝った。
 
「ごめんなさい。さすがに説明を端折りすぎよね」
「レミィの自分本位には慣れたつもりだったけど、あんまり話が飛躍しすぎても意味が解らないわ」
「そうだよねぇ。つまりさ、以前に得た『吸血鬼異変』の情報、その舞台となった土地に、私たちの紅魔館は移設されたわけなのよ」
「ええ。そこの繋がりについては類推できるわよ。問題は、それと花火がどう繋がるのかって点ね」
「館ごと移住してから、私たちも周辺の情報収集をしたのさ。郷に入りては郷に従えと言うし、高貴な血族として最低限の礼儀作法や風習ぐらい調べておこうかなって。どうよ、この殊勝な心がけ」
「はいはい、レミィは偉いわね」
 
 冗談はさておき、そうして得た情報の中に、決闘についてのルール――弾幕ごっこ――命名決闘法案があったと言う。ここで行われる決闘は、美しさと思念こそ尊重されるべきものと定められているらしい。
 
「……で、決闘の際に使用されるのが、スペルカードと呼ばれるものなのさ」
「つまり、レミィはそのスペルカードを、花火の代わりにしようと企んでるのね」
「私だけじゃなくて、みんなが独自にスペルカードを作って、一斉にお披露目しようと。じつは既に、美鈴や咲夜たちにもカードを準備させたのよ」
「それじゃあ、スペルカードを持っていないのは、私だけと――」
「今から準備すれば、余裕で間に合うよ」
 
 こちらの都合は、まったくお構いなし。そもそも、私は寝ようと思っていたところで、回想録の口述筆記を命じられたのではなかったか。目の前で頬杖を突き、悠然と微笑んでいるお嬢様に言わせれば、そうなる運命だったで終わる話なのだろうけど、最初に訊いておいた『夢見のよくなる寓話』とは違う気もする。
 それを指摘してみると「これからが夢の本番よ」と、あっさり切り返された。
 
「私が創りだす紅色の幻想郷で、私たちの再誕を祝う宴は盛大に執り行われるのさ。そのフィナーレを飾るためにも、急いで用意をしなさいよ、パチェ」
「はいはい。レミィに言われたら、やらざるを得ないわね」
「この私こそが、紅魔館におけるルールだからね」
 
 自分自身のこと。自分を取り巻く環境。変わったことは、たくさんある。
 けれど、相も変わらず引き継がれたことも、確かに存在していて。
 私もまた、それらをもって私へと演繹する。
 私たちの物語を、私たちで共有するために。
 
「ねえ、パチェ」
 
 窓の外で、早起きな鳥たちが夜明けの近さを告げ始める。
 東の空が白さを増していく中、夜の眷属、永遠の紅い幼き月は甘えた声で語らう。
 
「私もね……こんな世界に、ずっと憧れていたのよ」
 
 初めと、終わりと、始まりと。
 レミリアお嬢様の言葉は、彼女の偽らざる本音にして、永遠の連環を構築するために必要不可欠な言霊でもあった。
 今度こそ私たちは、ひとつの完結した世界を得られるだろう。
 この、幻想郷と呼ばれる楽園で。
 
「さあ、それじゃあ支度を始めようじゃないか。この世を紅い霧で埋め尽くし、私たちの再スタートを喧伝してやるよっ!」
  
 意気揚々の表現そのままに、お嬢様は席を立ってテラスに向かい、払暁の空に臆することなく飛翔した。霧で覆ってしまえば、もはや陽光など怖れるに足らないのだろう。
 もっとも、昼間でも日傘ひとつで散歩するほどだから、大して怖がっていないのかも知れないけれど。
 窓の外を見遣りながら、そんなことを考えていた私の脳裏に、ふと蘇るセリフがあった。
 
 
『嵐がくるわ。湖を渡って、この館を覆い隠す霧を吹き飛ばしにくる』
 
 
『くるのよ、私には解るの。そういう運命だから』
 
 
 それはもしや、これから起きる事象ではないのかしら?
 確信めいた予感で、私の胸裡が微かにざわめく。
 しかし、終焉を危惧したわけではない。むしろ、新生への歓喜に近かった。
 
「この通過儀礼をもって、紅魔館は本当の意味で幻想郷の一部となれる。私たちもまた、より新しい絆で強く結びつけられるのね」
 
 幻想郷と呼ばれる器に、どれほどのキャパシティがあるのかは今後の研究課題だけど、紅い雫を注いでも溢れなかったことは確実だ。さもなくば、紅魔館ごと転送する計画は成功していない。お嬢様の口癖を借りるなら、これもまた運命と言うより他ないだろう。
 
「さて、私も自分の役目を果たすとしようかな。どうやら、長い休養で雑務が溜まっているみたいだから」
 
 もう一度、窓の外に目を向ける。
 そこに紅い闇が広がっていく状況を確かめてから、私は地下の図書館へと足を向けた。
 
 幻想から現創へ。
 夢は醒めて、また新たな夢を紡ぐ。
 
 
 
 
   -了-
 
こんな過去があったかも知れない――そんな妄想話。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
佐乃一
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コメント



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3.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
4.100名前が無い程度の能力削除
久しぶりにがっつりと読める話で楽しませてもらいました。
5.100奇声を発する程度の能力削除
とても面白く素晴らしかったです
6.100名前が無い程度の能力削除
お洒落な過去話でした
素晴らしかったです
9.100名前が無い程度の能力削除
謎の没キャラと旧作のキャラを織り込んでいるんですね。
旧作キャラは名前くらいしか知らなくて、検索しながら読みましたが、上手くキャラを組み合わせていると感心しました。
面白かったです。