古明地さとりは、その少女の心を読んでしまわないように、努めて第三の眼の意識を逸らした。
死体の腐臭がそばに寄らずとも届くように、その少女からは、死臭……死臭としか形容しえない、淀んだ気配が漂っていたからだ。
いかに目の前の少女が常人よりも死に近い場所――冥界の住人であるとはいえ――さとりは第三の眼だけでなく、顔についている二つの目さえも逸らしたくなる衝動に駆られた。
目の前の少女がその小さな体の内に押し込めた、暗く粘ついた感情を感じ取ったのか……そばに控えていた燐と空がおびえた表情をするのを気配で察し、さとりは二人の頭を優しく撫でようとしたが、その手はかすかに震えていた。
その間、目の前の少女――魂魄妖夢は片膝をついた姿勢のまま、塑像のごとく微動だにしない。
「可能か不可能かで言えば……可能です」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
そう答える妖夢の声は、抑揚なく、かすれ、固い。言葉とは裏腹に、とても安心しているようには聞こえない。
彼女の人となりを深く知っているわけではないが、さとりの目から見て、目の前にいる魂魄妖夢は、彼女の知る姿とはまるで別人に見えた。
誰かが化けていると言われればあっさり納得してしまいそうなほど、目の前の少女はさとりの知る魂魄妖夢には見えなかった。
ひどく憔悴しているのは、声からも明らかだ。
ほほがこけているように見えるのは、決して照明の作る影のせいだけではないだろう。
短く切りそろえられた銀髪も、心なしかくすんでいるように見える。
その銀髪は今、彼女のうつむいた顔の上半分を緞帳のように覆い隠している。
表情は見えないが、明るい顔をしているわけはない。
妖夢は顔を上げない。何も言わない。
「ですが……なぜ? なぜ、そんなことを、私に頼むのです?」
沈黙に耐えかねて、さとりは尋ねた。
先ほどは可能だと答えはしたが、やりたいかやりたくないかで言えば、彼女はやりたくなかった。
理由は簡単だ。危険だからだ。自分がではなく、妖夢が。
言外に「やめておいた方がいい」という意思を添えて口にしたその言葉に、妖夢はうつむいたまま、は……と床に向かって息を吐いた。
笑っ……た?
妖夢が顔を上げる。
その顔は、さとりの背後のステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの薄い光に彩られている。
一瞬その顔が、ひび割れたつぎはぎの仮面に見えた。
妖夢が口を開く。
およそ温度と言うものの感じられない、まるで木枯らしのような声で、妖夢は答えた。
「斬らねばならない相手が……いるのです」
振り上げた木剣の切っ先を、妖夢は力なく下ろした。
体が重い。
体だけではない。
真剣に比べればはるかに軽いはずの木剣が、鉛のように重く感じる。
疲労ではない。
日課の朝稽古の素振りを始めてから、まだたったの十数回しか振っていない。
だのに妖夢の両肩は石仏を抱えたかのように重く、下ろした木剣を再び振り上げることすらできない。
「はあ……」
吐く息すらも石となって、ごとりと音を立てて白砂の上に落ちてしまいそうだ。
また、これだ。
力なく下げた木剣の切っ先が、こつんと砂を叩く。
雲ひとつない早朝の、さわやかな青空とは裏腹に、妖夢の胸中にはどんよりと暗雲が垂れ込めていた。
剣が冴えない。
いつもなら、いくらか体を動かせば、あるいは無心で剣を振っていれば、そうした気分は晴れるものだ。
しかし今日に限っては、剣を振ろうという気分にさえなれない。
「はあ……」
もう一度、ため息。
鍛錬を途中で中断するなどしたくはなかったが、妖夢は結局木剣を仕舞い、朝餉の用意へと向かった。
こういう時は、気持ちの切り替えが大切だ。
焼き魚の香ばしい香りと、包丁がまな板を叩く音。そして……。
「よーむぅ、ごはんまだぁ~?」
しどけなく着崩れた寝巻き姿で目をこすりながら、いつものように寝ぼけ声で台所に歩いてきた幽々子に、妖夢もいつもどおり苦笑する。
「もお、ちょっと待っててくださいよ……」
そう言って幽々子の背中を見送った時には、朝の稽古の時の重い気分は多少は薄れてくれていた。
いつも通りに朝餉の準備を終え、部屋へと運ぶ。
「いただきます」
「いただきまぁす♪」
主ののんきな声とともに、朝餉に手を合わせる。
まだ多少は心の片隅にしこりのようなものは残ってはいたが、今日一日やらなくてはいけないことはたくさんある。
それに、こういうことは珍しくもない。
剣技に限らず、芸事に関わる者なら同じような悩みを抱かないものはいないだろう。いちいち気にして入られない。
道を極めようとするのなら、こんな壁にぶつかることなどこの先数えきれないほどあることなのだ。
魂魄妖忌という偉大な師を先達に持つのならなおさらのことだ。
こんなところで立ち止まっているわけにはいかない!
食器を片付け、庭木の剪定をはじめる頃には、妖夢の心からはそうしたしこりは次第になくなっていった。
ぱちん、と小気味良い音を響かせて小枝を切り落とし、額の汗を拭う。
そう、これと同じだ。
そうした余計なものは、切り落としてしまえばいい。
余計なものをいちいち抱え込んでいてはきりがないのだ。伸びるべき枝も伸びないままになってしまう。
たったそれだけのことだ。
「うん……うん! そうだよね。よーし、なんだかやる気が湧いてきたぞーっ!」
「妖夢、何独り事言ってるの?」
「ななな、なんでもないですっ!」
いつの間にか後ろにいた幽々子の声に飛び上がる妖夢を見て、幽々子はころころと笑う。
妖夢もそれにつられて笑った。
二人の笑い声の響く中、妖夢の心からはすっかり重い靄はなくなっていた。
――そのはず、だった。
振り上げた木剣の切っ先を、妖夢は力なく下ろした。
体が重い。
体だけではない。
真剣に比べればはるかに軽いはずの木剣が、鉛のように重く感じる。
昨日すっかり消えてなくなったはずも重苦しい靄が、再び妖夢の胸の中を満たしていた。
「はあ……」
昨日、すっかり無くなってしまったはずの重苦しい気分は、今日も変わらず、素知らぬ顔で妖夢の喉の奥に居座っている。
体が重い。
まだ偉大なる先達のその影にすら追いついてはいないとはいえ、日頃の鍛錬で練り上げてきた自身の剣には、決して驕りではなく、自信と誇りを妖夢は持っていた。
それを忘れてしまったかのように、木剣の剣閃は鈍く、重く、奔らない。
そんなはずはないと、迷いを断ち切ろうと木剣を振り上げるその所作が、すでに重い。
日々のたゆまぬ鍛錬により、己の血肉としてきたはずの数々の術理と理合が、汗と一緒に流れ出てしまったかのようだ。
たまたま今日は調子が悪いだけ、などというのは言い訳にすらならないことは、十分すぎるほと分かっていた。
木剣を脇に置き、自分の両手を見つめる。
修練を重ねてきた。そのことに偽りはない。
しかしその薄皮を貼り重ねるが如き修練は……未だ実を結んではいない。
「足りない……の、かなあ……」
師の業を、脳裏に思い描く。
剛にして柔、精緻にして豪壮。
振るう二刀は時をも斬ると謳われた剣士、魂魄妖忌。
小さな手に預けられた二刀は、未だに重い。
謙遜などではない。自分の業があの偉大な師のそれに届いているなど……驕慢にもほどがあるというものだ。
しかし、進んでいるはずだ。一歩、否、半歩にも満たない歩みではあるが、確実に前に、師の背中に近づいている。
……本当に、そうだろうか。
木剣すら満足に振るうことのできない自分は、本当に前に進んでいるのだろうか。
迷いが、妖夢の全身に縛鎖となって絡みついていた。
それを振り切ろうと、妖夢は脇に置いた木剣を取り、振り上げ、振り下ろす。繰り返す。
考えてはいけない。余計なことを考えてはいけない。ひたすら素振りを繰り返す。
疲労で迷いを追い出そうと、妖夢は汗を飛び散らせながら木剣を振るう。
「……で、お箸も満足に使えないくらい腕痛めちゃったわけね」
夕刻。
いつものように幽々子と食事をとる妖夢だったが、もう三回も箸を取り落としている。
あのあと、胸の中にこびりついた疑念を振り払おうと、妖夢は数刻もの間休むことなく木剣での素振りを繰り返していた。
ようやくそれを止めたのは、積み重なった疲労で木剣を取り落としてからだった。
「うぅ……面目ないです……」
「もぉ、妖夢ったら。稽古熱心なのは感心だけど、やり過ぎはよくないわよ?」
「仰るとおりです……」
そして、汗みずくになって素振りを繰り返した結果がこれだ。
食事の席で、しかも敬愛する主の前で箸を取り落とすなど、恥さらしもいいところだ。
それに、胸の中にはまだ不快な靄がこびりついたまま……。得たものなど何一つありはしない。
両腕をすっかり痛めてしまったという理由がなくても、妖夢の箸は進まなかったのに違いない。
ほとんど手付かずの焼き魚の尾ひれの辺りに視線を落としたまま、妖夢はもう何度目になるかもわからない深い溜息をついた。
そんな妖夢に、幽々子もまたため息をつく。
「妖夢」
「はい……」
蚊の鳴くような声でなんとか返事を返して顔を上げた妖夢の鼻先に、香ばしい香りの焼き魚の身が突きつけられた。
ぎょっとして首を引く妖夢に、幽々子はにっこり微笑む。
「あーん♪」
「え……や、い、いいですって、そんなの……」
思わず顔を真赤にする妖夢に、幽々子はいたずらっぽい笑みを向ける。
「うりうり、ご主人さまの言うことが聞けないのか~?」
完全にからかわれているとは分かっているが、根が真面目な妖夢はそういう風に言われると、それだけで逆らえない。
妖夢は無意味に周囲に自分たち以外の誰も居ないことを確認し、箸に挟まれた焼き魚の身を睨みつける。
異様な羞恥に両耳から首筋にかけてを真っ赤に染められながら、妖夢は全身の力を動員してようやく焼き魚の身を口に含んだ。無論味などわからない。
「んふふぅ♪ 顔真っ赤にしちゃってぇ。妖夢ったら、かーわいい!」
「からかわないでくださいよ、ほんと……」
しばらくにまにま笑いながら妖夢の赤い顔を堪能していた幽々子が、不意に静かな口調で口を開いた。
「ねえ、妖夢」
「はい……?」
「あなたが妖忌の背中を必死になって追いかけようとするのは、分かるわ。妖忌に託された楼観剣と白楼剣のふた振りが、あなたにとってどれだけ重いのかも」
「……」
妖夢は箸を止めた。そのまま視線を、すっかり冷めてしまった湯飲みの中の茶に落とす。
しかし、自身の思いを幽々子が理解してくれていたことに対する安堵が、ほんの少しだけ心を軽くしてくれた。
幽々子は続ける。
「私には剣の道のことは分からないけれど、でも……あなたや妖忌の業が、一朝一夕で積み上げられたものじゃないことくらい、分かる。でもね……」
そう言って幽々子は手を伸ばし、俯いた妖夢の頭を撫でた。
妖夢はなにか言おうとしたが、言葉にならないうめき声を漏らすので精一杯だった。
頭を撫でてくれる、やさしいてのひらの感触に、妖夢は自分がひと回り幼くなったような、そんな気分になった。
「……だ、大丈夫ですよ幽々子様」
だが妖夢は、出来る限りそっと、幽々子の手を頭の上からどけ、身を引いた。
そうしなければ、いつまででもそうしていただろうから。
いや、確実にそうしていた。
なぜなら、今までもそうだったからだ。
いつでも、そうだった。
未熟な自分を、失敗ばかりの自分を、弱い自分を、至らない自分を、泣いてばかりの自分を……幽々子はいつでも、こうして慰めてくれた。
そして、今もこうしてくれている。
きっと、これからもそうしてくれるだろう。
……だめだ。
だめなのだ、それでは。
いつまでもこうして、自分では何も出来ない赤ん坊のように甘えることなど、してはいけない。
「……妖夢?」
「……えへへ、だ、だめですよね、私ったら、いつまでも、こんな……」
そう言って妖夢は、さらに身を引く。
そうしなければ、あの優しい両腕に絡め取られて……動けなくなってしまう。
「そうですよ、いつまでもこんな調子じゃ、いつまでたってもお師匠様みたいなすごい剣士になるなんて……。幽々子様にも甘えっぱなしで……。もっと頑張らなきゃ、ですっ!」
もちろんそんな言葉は幼稚な強がりで、幽々子にもそれは見透かされているだろう。
それでも妖夢は、その幼稚な強がりを口にせずにはいられなかった。
「……」
幽々子が困ったような顔をして手を引くのを確認してから、妖夢は席に戻り、食事を再開した。
――眠れない。
妖夢の眠りを妨げているのは、やはり……朝の事だった。
自分の自信の無さが加算されたかのような、不自然な木剣の重みが、こうして布団に身を横たえている時にさえ蘇ってくる。
どころか、あの重さが全身にのしかかってくるようだ。妖夢は布団の中で、それから逃れようと何度も寝返りをうつ。
暗闇の中で眠りが訪れるのを待つが、今日に限って足が遅い。
布団の中に何度目かの溜息をこぼし、妖夢は枕に顔を埋める。
両手で布団を掴んで包まっていても、そんなものは妖夢を守ってなどくれない。
何から?
自分は、一体何にこんなに怯えている?
焦りか? いつまでたっても師の影にすら追いつけない焦り?
その通りだ。
才能の無さか? 修行を詰めば積むほど顕になる、自分の才能のなさ?
その通りだ。
未熟さか? 未だ師の最初の教えすら体現できない、己の未熟さ?
その通りだ。
……自分の全てか?
――その通りだ!!
その認識に至った瞬間、妖夢は小さな体が、無数の刃に串刺しにされた幻触に襲われた。
否、それは幻触などではない。
すでにその刃は妖夢の全身を切り刻んでいた。
自分がそれに気付かなかっただけだ。気づこうとしなかっただけだ。認めようとしなかっただけだ。
認めてしまえば最後、研ぎ澄まされた刃が肉にたやすく埋もれていくように、その認識は妖夢が必死に隠し通そうとしていた最も脆い部分を、あっさりと突き徹した。
「ううう……!」
食いしばった歯の間から、ひゅうと息が漏れた。
分かっていた。
分かっていたからこそ、認めてはならなかった。
背後から追ってくるそれから逃げおおせるためだけに、修業の日々を送っていた。
いや違う、修行などではない――ただの逃避だ。
剣を振っている間だけは、自分をごまかせた。その認識を誤認することができた。
だがもうそんなものは意味が無い。
それはもうすぐそこに、すぐ後ろに、いる。
それは――呪い。
自分は呪われている。
非才という名の呪い。
未熟という名の呪い。
無能という名の呪い。
――自分である、という名の呪い!!
できない。
何も手に入れられない。
誰にも追いつけない。
最初からそうだったのだ。
わからない。
今まで自分は、いったいどうやって平気な顔をして、こんな自分でいたのだろうか。
足りない。
何もかもが足りない。
自分には何もかもが足りない。
布団の中に潜り込み、膝を抱えて目をつぶっても、己の裡の欠落からは逃れられない。
自分でいる限り、この欠落からは逃れられない。
温かい布団に包まれながら、妖夢の小さな体は凍えきったように震えている。
「ううう……うう……!」
うめき声すら漏らすことが出来ないまま、妖夢は夜の闇の中、ひとり震える。
「たす、けて……」
虚空に向けたその訴えに答えるものは、何一つない。
振り上げた木剣の切っ先を、妖夢は力なく下ろした。
体が重い。
体だけではない。
真剣に比べればはるかに軽いはずの木剣が、鉛のように……否、鉄塊のように重い。
自分の周囲には、悪魔がいたことに、妖夢は今更気づいた。
悪魔は常に、彼女の頭上に、背後に、足元に……彼女の行く所なら、ところかまわずどこにでもついてくる。
その悪魔は今、頭上に振り上げようとした木剣の切っ先に腰掛け、妖夢を見上げてにやにやと笑っている。
――重い。
使い慣れたはずの木剣が、幻覚的に重い。振り上げられない。持ってすらいられない。
加えて、手に力が入らない。
今のままでは、棒きれすら持っていられそうにない。
気の抜けた手から、ずるりと、生皮が剥がれるように木剣が落ちた。
拾えない。
何故?
拾って、振って、その一刀が、己の未熟を、己の非才を、己の無能を証明するだけだとわかっているから。
朝の冷えた空気の中にあって、妖夢の周囲だけが暗雲に満ちている。
悪魔が、耳元でささやく。
耳をふさいでも、阻むことはできない。
――お前は、無能だ。
残酷なまでに鮮明に、その幻聴は聞こえる。
見えない糸に引かれるように、妖夢は白砂の上に落ちた木剣を置き去りに、ふらふらとその場を去った。
「よーむ、よーむぅ? 今日はお稽古はお休みなのぉ?」
背中のほうで聞こえた幽々子の声は、遠かった。
障子の隙間から差し込む朝日。
夜が明けたことに落胆するというのは、初めての経験だった。
昨夜、布団に潜り込んでなんとか眠りの中に逃げ込んだまま……そのまま目が覚めなければ、どれほど幸福だったか。
体が……いや、布団が異様に重く感じる。
まるで巨石にのしかかられてでもいるかのように、うつ伏せになったまま動けない。
妖夢はそう思い込もうとした。
そうであればこのまま、布団から出ないで済む。
朝日を見ずに済む。
この生ぬるい暗闇の中にいつまでも浸っていられる。
慈悲深い眠りの中にこもっていられる。
――だが、それがなんになるというのか。
自分が必死で逃げようとしている怪物は、自分の中に巣食っているというのに。
がば、と布団をはねのける。
障子を開けると、早朝のさわやかな空気と陽光が部屋の中にさし込むが、俯いた妖夢の顔からは、精気が抜け落ちていた。
そのままのろのろと着替えを済ませ、枕元の刀掛けに安置してある二刀――楼観剣、白楼剣を掴む。
重い。とてつもなく。
二刀を引きずるようにしながら、妖夢は部屋の外へ出た。
「楼観、白楼……」
未熟な自分に託された、何よりも……自らの命などよりも大切な二刀の名を呼ぶ声はかすれ、なんの感情も伺えない。
すらりと引き抜かれた刀身に、妖夢は呼びかける。
「斬らなければいけない、相手がいるの」
答えるものはいない。
刀身を鞘に納め、つぶやく。
「――必ず」
そのまま妖夢は、何処へともなく姿を消した。
毎日の稽古や主の朝食のことなど、もう頭にはなかった。
そんなことはすでに、ばっくりと開いた傷からあふれる血のように流れ落ちてしまっていた。
そんな日常など、もうどうでもよかった。
ただひとつの事以外、妖夢にはもうどうでもよかった。
しばらく経って、妖夢の部屋を訪れた幽々子が見たのは、主を失い静まり返った、廃墟のような部屋だった。
異教の神話には、泥から人形を創りだす秘法があるという。
これはまさにそれだ。妖夢は思う。
自らの内に堆積した、無力感、未熟さ、迷い……悲哀憎悔の泥濘から練り上げられた、己の分身。己の写身。
床から染み出した影は次第に立体感を増し、液化し、固体化し、そして形を成していく。
妖夢は動かない。
紙のように白い顔色のまま、前だけを見据えている。
影の形がおぼろげな人形を取り、少しずつ形を整えていく。
手が、足が、そして顔が――形を成していく。
自分と同じ手。
自分と同じ足。
自分と同じ顔。
今や影は影でなくなっていた。一人の少女の姿をとっていた。
妖夢の全身が汗と、そして恐慌を噴き出した。
妖夢にとって、目の前にうっそりと佇立している少女の姿は、この世の誰よりも見知ったものでありながら、この世のどんな魔神よりも恐ろしく、この世のどんな妖魅よりもおぞましく、この世のどんな怪異よりも邪悪で、この世のどんな業苦よりも目を背けたくなるもの。
――自分自身の、姿だった。
自分と同じ目と視線が合う。
それだけで妖夢の右足は自重を支えることを忘れた。ひとたまりもなく片膝をつく。
「妖夢さ……!」
思わず駆け寄ろうとするさとり。
しかし、妖夢の背中が「来るな」と言っている。
二歩、三歩と踏み出し、そこで足を止め、後ずさる。
頬に白刃を当てられたかのような殺気が、さとりに突風のように吹き付けていた。
影は――否、もう一人の妖夢は、両手に二刀を提げたまま、塑像のように微動だにしない。
「く……か、は……」
対する妖夢は、まだ一合も打ち合っていないにも関わらず、溺れているかのように呼吸が乱れきっている。
やはり、こんな事などするべきではなかったのだ。
このままでは、妖夢は据え物の如くたやすく頭を断ち割られてしまうだろう。
「かっ、は……はぁっ、は、は、ふ、はぁっ……く」
ついに妖夢は両膝をつき、さらに両手を床についた。
細い肩が、小刻みに震えている。
もう見ていられない。
さとりは今度こそ駆け寄ろうとしたが、できない。
その場に足を縫いとめられたかのように、動けなくなっている。
彼女の足を縫い止めているのは……妖夢の声だった。
「く、か、くっ……くく……はぁっ……は、ははぁ、は、ふふ……は……!」
笑っている。
引き攣れたような声を上げて、妖夢は笑っていた。
「く、くくく、ひ、ひひっひひひひぃははははは!!」
がば、と妖夢が立ち上がる。声を上げて笑う。狂笑。
その笑い声が、さとりの耳どころか、第三の目(サードアイ)までもを刺す。
脆い盾を鋭利な穂先が貫くように、意識を逸らす間もなく、妖夢の思考が、感情が、第三の目(サードアイ)に流れ込んでくる。
妖夢は狂喜していた。
己の影を前に狂喜していた。
「すごい! わたしだ! わたしがいる! 実体を持って、わたしの目の前に立ってる!」
妖夢が抜刀する。
合わせて、もう一人の妖夢も抜刀する。天地上下。鏡写しに左右逆の、同じ構え。
殺気が乗り、獣の牙の如く輝く二対四刀の刃よりもなおぎらつく目で、妖夢はさとりを振り返った。
「ありがとうさとりさん。これで斬れます。弱い自分を斬れます。憎い自分を斬れます。ありがとう。本当にありがとう」
さとりの知っている妖夢の表情からは想像することもできないほど、獰猛な笑み。
笑み――本当にこれが、笑った顔なのか? そう思わせるほど禍々しく引き攣れた表情。
その笑みが、陶然と溶け崩れる。
「ああ……」
歓喜でとろけ、熱く湿った吐息が、妖夢の幼い唇からこぼれた。
その唇の間に、一瞬、赤い舌がひらめく。
「夢、みたぁい……」
互いの肉を貪り食らうべく、四つの牙が闇を裂いた。
「妖夢が……そんなことを?」
「ええ……たぶん、家にも居づらくなって、それで……」
ため息をつく幽々子に、紫も眉根を寄せる。
早朝、幽々子が誰もいないの寝床を見つけてから午後になっても、妖夢は戻っては来なかった。
紫が久しぶりに遊びに来ても、その表情は晴れることはなかった。
「まあ……真面目な子だからねえ。思いつめるのも無理は無いわ」
「でも、どこに行ったのかしら。本当に……」
机の上に置かれたせんべいにも手を付けず、心配気な表情をしている幽々子の様子に、紫は苦笑を漏らした。
「紫! 笑い事じゃ……」
「幽々子、あなた、もう少し妖夢を信じてあげたら?」
神妙な顔になった幽々子に、紫は続ける。
「確かに、あの子はまだまだ未熟だわ。……でも、いいえ、だからこそ、信じてあげなきゃ」
「紫……」
「それにね、私はこう思うのよ」
紫は手にしていた湯のみを置いた。
「あの子は自分が未熟なことを十分にわかっているわ。もちろん、だからこそ苦しんでいるのだけど……。でも、それを知っているからこそ、こうして悩んで、苦しむことができるのよ」
「でも……」
「大丈夫よ、幽々子」
そう言って紫は、幽々子の手を取る。
「あの子は強い子だわ。それに、あなたがいちばん、あの子のことを信じてあげなきゃ。それに妖忌だって、あの子の強さを知っているからこそ、幼いあの子に、後を任せたのよ」
「そう……ね。そうよね……」
ようやく表情を明るくして、幽々子は答えた。
それは、もはや「戦い」と呼べるような行為ではなかった。
「暴虐」「殺戮」……そういった言葉すらも当てはまらない。
目の前に繰り広げられる光景を前に、さとりにできることは、息を呑み、小さく震えながらその場に立ち尽くすことだけだった。
実際に目にし、触れることの出来る世界とは比べ物にならない、おぞましく、恐ろしく、奇怪な心象世界をその第三の眼に写してきた、サトリの一族。
そのさとりですら文字通り目を覆いたくなるほどの凄惨な光景が、眼前にあった。
大理石の床を真紅の絨毯のように染め上げているのは、鮮血だった。
あとから、あとから、重ね塗られていく鮮血の只中にあるのは、二人の剣士……否。
二匹の……獣。
咆哮とともに振り上げられたのは、刃か、爪か、牙か。
肉を裂くおぞましい音とともに、壁に血しぶきが叩きつけられる。
それでも両者は倒れることはない。
床を削り弧を描いて下から斬り上げられた一刀が、袈裟懸けに肉を斬り裂く。
大上段から振り下ろされた一刀が、脳天を打ち砕く。
雷光の如き鋭さで突きこまれた切っ先が、心の臓を貫く。
――しかし、どちらも倒れない。
床を、壁を、天井を、そして自らを、何十人、何百人分もの赤黒い色に染め上げながら、二匹の獣は殺し合い続ける。
死してなお戦いを続ける修羅の獄――眼前に顕現した地獄に、さとりはどうすることもできない。
やはり、やるべきではなかった。
自我の奥底からさとりの能力を持って、妖夢の持つトラウマを実体化させるなど、危険過ぎる行為だったのだ。
だが――。
さとりがそれをしなかったとして、妖夢はどうなっていただろう。
地霊殿を訪れた時の妖夢の目を思い出す。
第三の眼を使うまでもなかった。
目を、顔を見るまでもなかった。
もうその時には妖夢は、引き返すことのできないところにまで来ていたのだ。
遅かったのだ。手遅れだったのだ。
――では、どうすれば間に合っていた?
その答えを、さとりは持ち合わせてはいない。
ただ、間に合わなかったことだけが……今更自分には、否、誰にもこの少女を救うことなどできはしなかったことだけが、残酷なまでに明確な真実としてそこにあった。
その時にはすでに……否、それより以前に、もうこの魂魄妖夢という少女はこうなる運命にあったのだ。
誰にも、助けることなどできはしなかったのだ。
妖夢が地霊殿を訪れた時に、第三の目に流れ込んできた彼女の心の一端を、さとりは思い出す。
――修羅。
そこはすでに地獄だった。
赤黒く錆びついた無数の刃が斬り結び、血まみれの大地に見えるものは全てが屍。
血が飛び散り肉がひしゃげ骨が砕け散り、なおも戦いの叫喚の止まない、地獄だった。
そこにはすでに魂魄妖夢と呼ばれた少女の心などどこにもなかった。
否、倒れ伏す屍が、撒き散らされる鮮血が、踏み砕かれる骨が――その世界そのものが――。
そしてその地獄は、今まさにさとりの眼前で現実のものとなっていた。
床を染める鮮血は、もうさとりの足元にまで達していた。
二人の妖夢は――妖夢だったものはもう、血まみれの肉塊となっていた。
手も足も顔も刀も、もうどちらがどちらのものかわからない。
肉塊は振り上げた刃で自らを裂き、腐汁にも似た粘ついた血を天井にまで吹き上げたかと思えば、その傷口からは何本もの腕が生え、刃を叩き折る。
指先が眼球を押しつぶし、縦に開いた巨大な口がもがく足を噛み砕く。
あまりにもおぞましい、鮮血の交合。
それにも、終わりの時が来た。
一際高く吹き上げられた血の幕の中、肉塊から生え出た無数の刃が、腕が、足が、眼球が口が牙が、一斉に互いを貪り食らう。
耳を聾する異音が広間に響く中、さとりは耳をふさぐことすらできない。
永遠につづくかと思われた異音が、ぴたりと止んだ。
巨大だった肉塊は、今やその体積の半分以上が床に飛び散っていた。
半分にも満たない量の肉塊だけが、広間の中央に残っている。
その肉塊の中から、ずるりと何がが伸びた。
――手、だった。
血まみれ肉塊の中、異様に目立つ白い手が、二本、肉塊の中から伸びている。
床を掴み、その二本の手は体を肉塊の中から引きずりだした。
嬰児のごとく血まみれのその裸形は、確かに魂魄妖夢と言う名の少女のはずだった。
血に濡れて重く垂れ下がる前髪に隠れ、その表情は見えない。
濡れた音を立てて、血だまりの中に裸足で立つその少女に、さとりは震える声で問いかける。
「あなたは……誰」
少女は緩慢な……死にかけた動物のような緩慢さでさとりに向き直った。
表情は見えない。
少女は答える。およそ温度というものの感じられない、木枯らしのような声で答える。
「私は……私ですよ」
死体の腐臭がそばに寄らずとも届くように、その少女からは、死臭……死臭としか形容しえない、淀んだ気配が漂っていたからだ。
いかに目の前の少女が常人よりも死に近い場所――冥界の住人であるとはいえ――さとりは第三の眼だけでなく、顔についている二つの目さえも逸らしたくなる衝動に駆られた。
目の前の少女がその小さな体の内に押し込めた、暗く粘ついた感情を感じ取ったのか……そばに控えていた燐と空がおびえた表情をするのを気配で察し、さとりは二人の頭を優しく撫でようとしたが、その手はかすかに震えていた。
その間、目の前の少女――魂魄妖夢は片膝をついた姿勢のまま、塑像のごとく微動だにしない。
「可能か不可能かで言えば……可能です」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
そう答える妖夢の声は、抑揚なく、かすれ、固い。言葉とは裏腹に、とても安心しているようには聞こえない。
彼女の人となりを深く知っているわけではないが、さとりの目から見て、目の前にいる魂魄妖夢は、彼女の知る姿とはまるで別人に見えた。
誰かが化けていると言われればあっさり納得してしまいそうなほど、目の前の少女はさとりの知る魂魄妖夢には見えなかった。
ひどく憔悴しているのは、声からも明らかだ。
ほほがこけているように見えるのは、決して照明の作る影のせいだけではないだろう。
短く切りそろえられた銀髪も、心なしかくすんでいるように見える。
その銀髪は今、彼女のうつむいた顔の上半分を緞帳のように覆い隠している。
表情は見えないが、明るい顔をしているわけはない。
妖夢は顔を上げない。何も言わない。
「ですが……なぜ? なぜ、そんなことを、私に頼むのです?」
沈黙に耐えかねて、さとりは尋ねた。
先ほどは可能だと答えはしたが、やりたいかやりたくないかで言えば、彼女はやりたくなかった。
理由は簡単だ。危険だからだ。自分がではなく、妖夢が。
言外に「やめておいた方がいい」という意思を添えて口にしたその言葉に、妖夢はうつむいたまま、は……と床に向かって息を吐いた。
笑っ……た?
妖夢が顔を上げる。
その顔は、さとりの背後のステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの薄い光に彩られている。
一瞬その顔が、ひび割れたつぎはぎの仮面に見えた。
妖夢が口を開く。
およそ温度と言うものの感じられない、まるで木枯らしのような声で、妖夢は答えた。
「斬らねばならない相手が……いるのです」
振り上げた木剣の切っ先を、妖夢は力なく下ろした。
体が重い。
体だけではない。
真剣に比べればはるかに軽いはずの木剣が、鉛のように重く感じる。
疲労ではない。
日課の朝稽古の素振りを始めてから、まだたったの十数回しか振っていない。
だのに妖夢の両肩は石仏を抱えたかのように重く、下ろした木剣を再び振り上げることすらできない。
「はあ……」
吐く息すらも石となって、ごとりと音を立てて白砂の上に落ちてしまいそうだ。
また、これだ。
力なく下げた木剣の切っ先が、こつんと砂を叩く。
雲ひとつない早朝の、さわやかな青空とは裏腹に、妖夢の胸中にはどんよりと暗雲が垂れ込めていた。
剣が冴えない。
いつもなら、いくらか体を動かせば、あるいは無心で剣を振っていれば、そうした気分は晴れるものだ。
しかし今日に限っては、剣を振ろうという気分にさえなれない。
「はあ……」
もう一度、ため息。
鍛錬を途中で中断するなどしたくはなかったが、妖夢は結局木剣を仕舞い、朝餉の用意へと向かった。
こういう時は、気持ちの切り替えが大切だ。
焼き魚の香ばしい香りと、包丁がまな板を叩く音。そして……。
「よーむぅ、ごはんまだぁ~?」
しどけなく着崩れた寝巻き姿で目をこすりながら、いつものように寝ぼけ声で台所に歩いてきた幽々子に、妖夢もいつもどおり苦笑する。
「もお、ちょっと待っててくださいよ……」
そう言って幽々子の背中を見送った時には、朝の稽古の時の重い気分は多少は薄れてくれていた。
いつも通りに朝餉の準備を終え、部屋へと運ぶ。
「いただきます」
「いただきまぁす♪」
主ののんきな声とともに、朝餉に手を合わせる。
まだ多少は心の片隅にしこりのようなものは残ってはいたが、今日一日やらなくてはいけないことはたくさんある。
それに、こういうことは珍しくもない。
剣技に限らず、芸事に関わる者なら同じような悩みを抱かないものはいないだろう。いちいち気にして入られない。
道を極めようとするのなら、こんな壁にぶつかることなどこの先数えきれないほどあることなのだ。
魂魄妖忌という偉大な師を先達に持つのならなおさらのことだ。
こんなところで立ち止まっているわけにはいかない!
食器を片付け、庭木の剪定をはじめる頃には、妖夢の心からはそうしたしこりは次第になくなっていった。
ぱちん、と小気味良い音を響かせて小枝を切り落とし、額の汗を拭う。
そう、これと同じだ。
そうした余計なものは、切り落としてしまえばいい。
余計なものをいちいち抱え込んでいてはきりがないのだ。伸びるべき枝も伸びないままになってしまう。
たったそれだけのことだ。
「うん……うん! そうだよね。よーし、なんだかやる気が湧いてきたぞーっ!」
「妖夢、何独り事言ってるの?」
「ななな、なんでもないですっ!」
いつの間にか後ろにいた幽々子の声に飛び上がる妖夢を見て、幽々子はころころと笑う。
妖夢もそれにつられて笑った。
二人の笑い声の響く中、妖夢の心からはすっかり重い靄はなくなっていた。
――そのはず、だった。
振り上げた木剣の切っ先を、妖夢は力なく下ろした。
体が重い。
体だけではない。
真剣に比べればはるかに軽いはずの木剣が、鉛のように重く感じる。
昨日すっかり消えてなくなったはずも重苦しい靄が、再び妖夢の胸の中を満たしていた。
「はあ……」
昨日、すっかり無くなってしまったはずの重苦しい気分は、今日も変わらず、素知らぬ顔で妖夢の喉の奥に居座っている。
体が重い。
まだ偉大なる先達のその影にすら追いついてはいないとはいえ、日頃の鍛錬で練り上げてきた自身の剣には、決して驕りではなく、自信と誇りを妖夢は持っていた。
それを忘れてしまったかのように、木剣の剣閃は鈍く、重く、奔らない。
そんなはずはないと、迷いを断ち切ろうと木剣を振り上げるその所作が、すでに重い。
日々のたゆまぬ鍛錬により、己の血肉としてきたはずの数々の術理と理合が、汗と一緒に流れ出てしまったかのようだ。
たまたま今日は調子が悪いだけ、などというのは言い訳にすらならないことは、十分すぎるほと分かっていた。
木剣を脇に置き、自分の両手を見つめる。
修練を重ねてきた。そのことに偽りはない。
しかしその薄皮を貼り重ねるが如き修練は……未だ実を結んではいない。
「足りない……の、かなあ……」
師の業を、脳裏に思い描く。
剛にして柔、精緻にして豪壮。
振るう二刀は時をも斬ると謳われた剣士、魂魄妖忌。
小さな手に預けられた二刀は、未だに重い。
謙遜などではない。自分の業があの偉大な師のそれに届いているなど……驕慢にもほどがあるというものだ。
しかし、進んでいるはずだ。一歩、否、半歩にも満たない歩みではあるが、確実に前に、師の背中に近づいている。
……本当に、そうだろうか。
木剣すら満足に振るうことのできない自分は、本当に前に進んでいるのだろうか。
迷いが、妖夢の全身に縛鎖となって絡みついていた。
それを振り切ろうと、妖夢は脇に置いた木剣を取り、振り上げ、振り下ろす。繰り返す。
考えてはいけない。余計なことを考えてはいけない。ひたすら素振りを繰り返す。
疲労で迷いを追い出そうと、妖夢は汗を飛び散らせながら木剣を振るう。
「……で、お箸も満足に使えないくらい腕痛めちゃったわけね」
夕刻。
いつものように幽々子と食事をとる妖夢だったが、もう三回も箸を取り落としている。
あのあと、胸の中にこびりついた疑念を振り払おうと、妖夢は数刻もの間休むことなく木剣での素振りを繰り返していた。
ようやくそれを止めたのは、積み重なった疲労で木剣を取り落としてからだった。
「うぅ……面目ないです……」
「もぉ、妖夢ったら。稽古熱心なのは感心だけど、やり過ぎはよくないわよ?」
「仰るとおりです……」
そして、汗みずくになって素振りを繰り返した結果がこれだ。
食事の席で、しかも敬愛する主の前で箸を取り落とすなど、恥さらしもいいところだ。
それに、胸の中にはまだ不快な靄がこびりついたまま……。得たものなど何一つありはしない。
両腕をすっかり痛めてしまったという理由がなくても、妖夢の箸は進まなかったのに違いない。
ほとんど手付かずの焼き魚の尾ひれの辺りに視線を落としたまま、妖夢はもう何度目になるかもわからない深い溜息をついた。
そんな妖夢に、幽々子もまたため息をつく。
「妖夢」
「はい……」
蚊の鳴くような声でなんとか返事を返して顔を上げた妖夢の鼻先に、香ばしい香りの焼き魚の身が突きつけられた。
ぎょっとして首を引く妖夢に、幽々子はにっこり微笑む。
「あーん♪」
「え……や、い、いいですって、そんなの……」
思わず顔を真赤にする妖夢に、幽々子はいたずらっぽい笑みを向ける。
「うりうり、ご主人さまの言うことが聞けないのか~?」
完全にからかわれているとは分かっているが、根が真面目な妖夢はそういう風に言われると、それだけで逆らえない。
妖夢は無意味に周囲に自分たち以外の誰も居ないことを確認し、箸に挟まれた焼き魚の身を睨みつける。
異様な羞恥に両耳から首筋にかけてを真っ赤に染められながら、妖夢は全身の力を動員してようやく焼き魚の身を口に含んだ。無論味などわからない。
「んふふぅ♪ 顔真っ赤にしちゃってぇ。妖夢ったら、かーわいい!」
「からかわないでくださいよ、ほんと……」
しばらくにまにま笑いながら妖夢の赤い顔を堪能していた幽々子が、不意に静かな口調で口を開いた。
「ねえ、妖夢」
「はい……?」
「あなたが妖忌の背中を必死になって追いかけようとするのは、分かるわ。妖忌に託された楼観剣と白楼剣のふた振りが、あなたにとってどれだけ重いのかも」
「……」
妖夢は箸を止めた。そのまま視線を、すっかり冷めてしまった湯飲みの中の茶に落とす。
しかし、自身の思いを幽々子が理解してくれていたことに対する安堵が、ほんの少しだけ心を軽くしてくれた。
幽々子は続ける。
「私には剣の道のことは分からないけれど、でも……あなたや妖忌の業が、一朝一夕で積み上げられたものじゃないことくらい、分かる。でもね……」
そう言って幽々子は手を伸ばし、俯いた妖夢の頭を撫でた。
妖夢はなにか言おうとしたが、言葉にならないうめき声を漏らすので精一杯だった。
頭を撫でてくれる、やさしいてのひらの感触に、妖夢は自分がひと回り幼くなったような、そんな気分になった。
「……だ、大丈夫ですよ幽々子様」
だが妖夢は、出来る限りそっと、幽々子の手を頭の上からどけ、身を引いた。
そうしなければ、いつまででもそうしていただろうから。
いや、確実にそうしていた。
なぜなら、今までもそうだったからだ。
いつでも、そうだった。
未熟な自分を、失敗ばかりの自分を、弱い自分を、至らない自分を、泣いてばかりの自分を……幽々子はいつでも、こうして慰めてくれた。
そして、今もこうしてくれている。
きっと、これからもそうしてくれるだろう。
……だめだ。
だめなのだ、それでは。
いつまでもこうして、自分では何も出来ない赤ん坊のように甘えることなど、してはいけない。
「……妖夢?」
「……えへへ、だ、だめですよね、私ったら、いつまでも、こんな……」
そう言って妖夢は、さらに身を引く。
そうしなければ、あの優しい両腕に絡め取られて……動けなくなってしまう。
「そうですよ、いつまでもこんな調子じゃ、いつまでたってもお師匠様みたいなすごい剣士になるなんて……。幽々子様にも甘えっぱなしで……。もっと頑張らなきゃ、ですっ!」
もちろんそんな言葉は幼稚な強がりで、幽々子にもそれは見透かされているだろう。
それでも妖夢は、その幼稚な強がりを口にせずにはいられなかった。
「……」
幽々子が困ったような顔をして手を引くのを確認してから、妖夢は席に戻り、食事を再開した。
――眠れない。
妖夢の眠りを妨げているのは、やはり……朝の事だった。
自分の自信の無さが加算されたかのような、不自然な木剣の重みが、こうして布団に身を横たえている時にさえ蘇ってくる。
どころか、あの重さが全身にのしかかってくるようだ。妖夢は布団の中で、それから逃れようと何度も寝返りをうつ。
暗闇の中で眠りが訪れるのを待つが、今日に限って足が遅い。
布団の中に何度目かの溜息をこぼし、妖夢は枕に顔を埋める。
両手で布団を掴んで包まっていても、そんなものは妖夢を守ってなどくれない。
何から?
自分は、一体何にこんなに怯えている?
焦りか? いつまでたっても師の影にすら追いつけない焦り?
その通りだ。
才能の無さか? 修行を詰めば積むほど顕になる、自分の才能のなさ?
その通りだ。
未熟さか? 未だ師の最初の教えすら体現できない、己の未熟さ?
その通りだ。
……自分の全てか?
――その通りだ!!
その認識に至った瞬間、妖夢は小さな体が、無数の刃に串刺しにされた幻触に襲われた。
否、それは幻触などではない。
すでにその刃は妖夢の全身を切り刻んでいた。
自分がそれに気付かなかっただけだ。気づこうとしなかっただけだ。認めようとしなかっただけだ。
認めてしまえば最後、研ぎ澄まされた刃が肉にたやすく埋もれていくように、その認識は妖夢が必死に隠し通そうとしていた最も脆い部分を、あっさりと突き徹した。
「ううう……!」
食いしばった歯の間から、ひゅうと息が漏れた。
分かっていた。
分かっていたからこそ、認めてはならなかった。
背後から追ってくるそれから逃げおおせるためだけに、修業の日々を送っていた。
いや違う、修行などではない――ただの逃避だ。
剣を振っている間だけは、自分をごまかせた。その認識を誤認することができた。
だがもうそんなものは意味が無い。
それはもうすぐそこに、すぐ後ろに、いる。
それは――呪い。
自分は呪われている。
非才という名の呪い。
未熟という名の呪い。
無能という名の呪い。
――自分である、という名の呪い!!
できない。
何も手に入れられない。
誰にも追いつけない。
最初からそうだったのだ。
わからない。
今まで自分は、いったいどうやって平気な顔をして、こんな自分でいたのだろうか。
足りない。
何もかもが足りない。
自分には何もかもが足りない。
布団の中に潜り込み、膝を抱えて目をつぶっても、己の裡の欠落からは逃れられない。
自分でいる限り、この欠落からは逃れられない。
温かい布団に包まれながら、妖夢の小さな体は凍えきったように震えている。
「ううう……うう……!」
うめき声すら漏らすことが出来ないまま、妖夢は夜の闇の中、ひとり震える。
「たす、けて……」
虚空に向けたその訴えに答えるものは、何一つない。
振り上げた木剣の切っ先を、妖夢は力なく下ろした。
体が重い。
体だけではない。
真剣に比べればはるかに軽いはずの木剣が、鉛のように……否、鉄塊のように重い。
自分の周囲には、悪魔がいたことに、妖夢は今更気づいた。
悪魔は常に、彼女の頭上に、背後に、足元に……彼女の行く所なら、ところかまわずどこにでもついてくる。
その悪魔は今、頭上に振り上げようとした木剣の切っ先に腰掛け、妖夢を見上げてにやにやと笑っている。
――重い。
使い慣れたはずの木剣が、幻覚的に重い。振り上げられない。持ってすらいられない。
加えて、手に力が入らない。
今のままでは、棒きれすら持っていられそうにない。
気の抜けた手から、ずるりと、生皮が剥がれるように木剣が落ちた。
拾えない。
何故?
拾って、振って、その一刀が、己の未熟を、己の非才を、己の無能を証明するだけだとわかっているから。
朝の冷えた空気の中にあって、妖夢の周囲だけが暗雲に満ちている。
悪魔が、耳元でささやく。
耳をふさいでも、阻むことはできない。
――お前は、無能だ。
残酷なまでに鮮明に、その幻聴は聞こえる。
見えない糸に引かれるように、妖夢は白砂の上に落ちた木剣を置き去りに、ふらふらとその場を去った。
「よーむ、よーむぅ? 今日はお稽古はお休みなのぉ?」
背中のほうで聞こえた幽々子の声は、遠かった。
障子の隙間から差し込む朝日。
夜が明けたことに落胆するというのは、初めての経験だった。
昨夜、布団に潜り込んでなんとか眠りの中に逃げ込んだまま……そのまま目が覚めなければ、どれほど幸福だったか。
体が……いや、布団が異様に重く感じる。
まるで巨石にのしかかられてでもいるかのように、うつ伏せになったまま動けない。
妖夢はそう思い込もうとした。
そうであればこのまま、布団から出ないで済む。
朝日を見ずに済む。
この生ぬるい暗闇の中にいつまでも浸っていられる。
慈悲深い眠りの中にこもっていられる。
――だが、それがなんになるというのか。
自分が必死で逃げようとしている怪物は、自分の中に巣食っているというのに。
がば、と布団をはねのける。
障子を開けると、早朝のさわやかな空気と陽光が部屋の中にさし込むが、俯いた妖夢の顔からは、精気が抜け落ちていた。
そのままのろのろと着替えを済ませ、枕元の刀掛けに安置してある二刀――楼観剣、白楼剣を掴む。
重い。とてつもなく。
二刀を引きずるようにしながら、妖夢は部屋の外へ出た。
「楼観、白楼……」
未熟な自分に託された、何よりも……自らの命などよりも大切な二刀の名を呼ぶ声はかすれ、なんの感情も伺えない。
すらりと引き抜かれた刀身に、妖夢は呼びかける。
「斬らなければいけない、相手がいるの」
答えるものはいない。
刀身を鞘に納め、つぶやく。
「――必ず」
そのまま妖夢は、何処へともなく姿を消した。
毎日の稽古や主の朝食のことなど、もう頭にはなかった。
そんなことはすでに、ばっくりと開いた傷からあふれる血のように流れ落ちてしまっていた。
そんな日常など、もうどうでもよかった。
ただひとつの事以外、妖夢にはもうどうでもよかった。
しばらく経って、妖夢の部屋を訪れた幽々子が見たのは、主を失い静まり返った、廃墟のような部屋だった。
異教の神話には、泥から人形を創りだす秘法があるという。
これはまさにそれだ。妖夢は思う。
自らの内に堆積した、無力感、未熟さ、迷い……悲哀憎悔の泥濘から練り上げられた、己の分身。己の写身。
床から染み出した影は次第に立体感を増し、液化し、固体化し、そして形を成していく。
妖夢は動かない。
紙のように白い顔色のまま、前だけを見据えている。
影の形がおぼろげな人形を取り、少しずつ形を整えていく。
手が、足が、そして顔が――形を成していく。
自分と同じ手。
自分と同じ足。
自分と同じ顔。
今や影は影でなくなっていた。一人の少女の姿をとっていた。
妖夢の全身が汗と、そして恐慌を噴き出した。
妖夢にとって、目の前にうっそりと佇立している少女の姿は、この世の誰よりも見知ったものでありながら、この世のどんな魔神よりも恐ろしく、この世のどんな妖魅よりもおぞましく、この世のどんな怪異よりも邪悪で、この世のどんな業苦よりも目を背けたくなるもの。
――自分自身の、姿だった。
自分と同じ目と視線が合う。
それだけで妖夢の右足は自重を支えることを忘れた。ひとたまりもなく片膝をつく。
「妖夢さ……!」
思わず駆け寄ろうとするさとり。
しかし、妖夢の背中が「来るな」と言っている。
二歩、三歩と踏み出し、そこで足を止め、後ずさる。
頬に白刃を当てられたかのような殺気が、さとりに突風のように吹き付けていた。
影は――否、もう一人の妖夢は、両手に二刀を提げたまま、塑像のように微動だにしない。
「く……か、は……」
対する妖夢は、まだ一合も打ち合っていないにも関わらず、溺れているかのように呼吸が乱れきっている。
やはり、こんな事などするべきではなかったのだ。
このままでは、妖夢は据え物の如くたやすく頭を断ち割られてしまうだろう。
「かっ、は……はぁっ、は、は、ふ、はぁっ……く」
ついに妖夢は両膝をつき、さらに両手を床についた。
細い肩が、小刻みに震えている。
もう見ていられない。
さとりは今度こそ駆け寄ろうとしたが、できない。
その場に足を縫いとめられたかのように、動けなくなっている。
彼女の足を縫い止めているのは……妖夢の声だった。
「く、か、くっ……くく……はぁっ……は、ははぁ、は、ふふ……は……!」
笑っている。
引き攣れたような声を上げて、妖夢は笑っていた。
「く、くくく、ひ、ひひっひひひひぃははははは!!」
がば、と妖夢が立ち上がる。声を上げて笑う。狂笑。
その笑い声が、さとりの耳どころか、第三の目(サードアイ)までもを刺す。
脆い盾を鋭利な穂先が貫くように、意識を逸らす間もなく、妖夢の思考が、感情が、第三の目(サードアイ)に流れ込んでくる。
妖夢は狂喜していた。
己の影を前に狂喜していた。
「すごい! わたしだ! わたしがいる! 実体を持って、わたしの目の前に立ってる!」
妖夢が抜刀する。
合わせて、もう一人の妖夢も抜刀する。天地上下。鏡写しに左右逆の、同じ構え。
殺気が乗り、獣の牙の如く輝く二対四刀の刃よりもなおぎらつく目で、妖夢はさとりを振り返った。
「ありがとうさとりさん。これで斬れます。弱い自分を斬れます。憎い自分を斬れます。ありがとう。本当にありがとう」
さとりの知っている妖夢の表情からは想像することもできないほど、獰猛な笑み。
笑み――本当にこれが、笑った顔なのか? そう思わせるほど禍々しく引き攣れた表情。
その笑みが、陶然と溶け崩れる。
「ああ……」
歓喜でとろけ、熱く湿った吐息が、妖夢の幼い唇からこぼれた。
その唇の間に、一瞬、赤い舌がひらめく。
「夢、みたぁい……」
互いの肉を貪り食らうべく、四つの牙が闇を裂いた。
「妖夢が……そんなことを?」
「ええ……たぶん、家にも居づらくなって、それで……」
ため息をつく幽々子に、紫も眉根を寄せる。
早朝、幽々子が誰もいないの寝床を見つけてから午後になっても、妖夢は戻っては来なかった。
紫が久しぶりに遊びに来ても、その表情は晴れることはなかった。
「まあ……真面目な子だからねえ。思いつめるのも無理は無いわ」
「でも、どこに行ったのかしら。本当に……」
机の上に置かれたせんべいにも手を付けず、心配気な表情をしている幽々子の様子に、紫は苦笑を漏らした。
「紫! 笑い事じゃ……」
「幽々子、あなた、もう少し妖夢を信じてあげたら?」
神妙な顔になった幽々子に、紫は続ける。
「確かに、あの子はまだまだ未熟だわ。……でも、いいえ、だからこそ、信じてあげなきゃ」
「紫……」
「それにね、私はこう思うのよ」
紫は手にしていた湯のみを置いた。
「あの子は自分が未熟なことを十分にわかっているわ。もちろん、だからこそ苦しんでいるのだけど……。でも、それを知っているからこそ、こうして悩んで、苦しむことができるのよ」
「でも……」
「大丈夫よ、幽々子」
そう言って紫は、幽々子の手を取る。
「あの子は強い子だわ。それに、あなたがいちばん、あの子のことを信じてあげなきゃ。それに妖忌だって、あの子の強さを知っているからこそ、幼いあの子に、後を任せたのよ」
「そう……ね。そうよね……」
ようやく表情を明るくして、幽々子は答えた。
それは、もはや「戦い」と呼べるような行為ではなかった。
「暴虐」「殺戮」……そういった言葉すらも当てはまらない。
目の前に繰り広げられる光景を前に、さとりにできることは、息を呑み、小さく震えながらその場に立ち尽くすことだけだった。
実際に目にし、触れることの出来る世界とは比べ物にならない、おぞましく、恐ろしく、奇怪な心象世界をその第三の眼に写してきた、サトリの一族。
そのさとりですら文字通り目を覆いたくなるほどの凄惨な光景が、眼前にあった。
大理石の床を真紅の絨毯のように染め上げているのは、鮮血だった。
あとから、あとから、重ね塗られていく鮮血の只中にあるのは、二人の剣士……否。
二匹の……獣。
咆哮とともに振り上げられたのは、刃か、爪か、牙か。
肉を裂くおぞましい音とともに、壁に血しぶきが叩きつけられる。
それでも両者は倒れることはない。
床を削り弧を描いて下から斬り上げられた一刀が、袈裟懸けに肉を斬り裂く。
大上段から振り下ろされた一刀が、脳天を打ち砕く。
雷光の如き鋭さで突きこまれた切っ先が、心の臓を貫く。
――しかし、どちらも倒れない。
床を、壁を、天井を、そして自らを、何十人、何百人分もの赤黒い色に染め上げながら、二匹の獣は殺し合い続ける。
死してなお戦いを続ける修羅の獄――眼前に顕現した地獄に、さとりはどうすることもできない。
やはり、やるべきではなかった。
自我の奥底からさとりの能力を持って、妖夢の持つトラウマを実体化させるなど、危険過ぎる行為だったのだ。
だが――。
さとりがそれをしなかったとして、妖夢はどうなっていただろう。
地霊殿を訪れた時の妖夢の目を思い出す。
第三の眼を使うまでもなかった。
目を、顔を見るまでもなかった。
もうその時には妖夢は、引き返すことのできないところにまで来ていたのだ。
遅かったのだ。手遅れだったのだ。
――では、どうすれば間に合っていた?
その答えを、さとりは持ち合わせてはいない。
ただ、間に合わなかったことだけが……今更自分には、否、誰にもこの少女を救うことなどできはしなかったことだけが、残酷なまでに明確な真実としてそこにあった。
その時にはすでに……否、それより以前に、もうこの魂魄妖夢という少女はこうなる運命にあったのだ。
誰にも、助けることなどできはしなかったのだ。
妖夢が地霊殿を訪れた時に、第三の目に流れ込んできた彼女の心の一端を、さとりは思い出す。
――修羅。
そこはすでに地獄だった。
赤黒く錆びついた無数の刃が斬り結び、血まみれの大地に見えるものは全てが屍。
血が飛び散り肉がひしゃげ骨が砕け散り、なおも戦いの叫喚の止まない、地獄だった。
そこにはすでに魂魄妖夢と呼ばれた少女の心などどこにもなかった。
否、倒れ伏す屍が、撒き散らされる鮮血が、踏み砕かれる骨が――その世界そのものが――。
そしてその地獄は、今まさにさとりの眼前で現実のものとなっていた。
床を染める鮮血は、もうさとりの足元にまで達していた。
二人の妖夢は――妖夢だったものはもう、血まみれの肉塊となっていた。
手も足も顔も刀も、もうどちらがどちらのものかわからない。
肉塊は振り上げた刃で自らを裂き、腐汁にも似た粘ついた血を天井にまで吹き上げたかと思えば、その傷口からは何本もの腕が生え、刃を叩き折る。
指先が眼球を押しつぶし、縦に開いた巨大な口がもがく足を噛み砕く。
あまりにもおぞましい、鮮血の交合。
それにも、終わりの時が来た。
一際高く吹き上げられた血の幕の中、肉塊から生え出た無数の刃が、腕が、足が、眼球が口が牙が、一斉に互いを貪り食らう。
耳を聾する異音が広間に響く中、さとりは耳をふさぐことすらできない。
永遠につづくかと思われた異音が、ぴたりと止んだ。
巨大だった肉塊は、今やその体積の半分以上が床に飛び散っていた。
半分にも満たない量の肉塊だけが、広間の中央に残っている。
その肉塊の中から、ずるりと何がが伸びた。
――手、だった。
血まみれ肉塊の中、異様に目立つ白い手が、二本、肉塊の中から伸びている。
床を掴み、その二本の手は体を肉塊の中から引きずりだした。
嬰児のごとく血まみれのその裸形は、確かに魂魄妖夢と言う名の少女のはずだった。
血に濡れて重く垂れ下がる前髪に隠れ、その表情は見えない。
濡れた音を立てて、血だまりの中に裸足で立つその少女に、さとりは震える声で問いかける。
「あなたは……誰」
少女は緩慢な……死にかけた動物のような緩慢さでさとりに向き直った。
表情は見えない。
少女は答える。およそ温度というものの感じられない、木枯らしのような声で答える。
「私は……私ですよ」
キャラクター(主に妖霧)が、作者の意図に応じて演じさせられている感を受けました。
シリアスものですから、もっと鬼気迫る心理描写が必要だったように思えます。
妖夢の悩みをもう少し軽めにして、幽々子以外の人物も交えて日常を描けばよくなるのではないかと思いました。素人の戯言ですので、深く考えないで頂けると助かります。
次をお待ちしています
真に迫る描写に圧倒されっぱなしでしたので、もったいない。