Coolier - 新生・東方創想話

時をかける兎

2007/08/29 06:28:31
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 研究室のフラスコには紫色の半透明な液体が入っている。
 さきほど冷却処理を施したので、かなり冷えている。
 室内には三人の女性がおり、皆同様に液体に注目していた。

「ついに完成したわね」
 フラスコの中の液体をビーカーに移し替えながら、そう声を発したのは八意永琳。
「ええ。我々幻想郷・知識の三巨頭の共同研究の成果が」
 その隣にいるのは動かない図書館ことパチュリー・ノーレッジ。
 そしてもう一人の人物は、上白沢慧音だ。

「八意永琳の科学知識」
 口元に微笑をたたえながら、慧音は永琳を見る。
「パチュリー・ノーレッジの古代魔術」
 永琳は隣のパチュリーを。
「上白沢慧音の歴史改竄」
 パチュリーは最初に戻って慧音を見た。
「そしてできあがったのが、このタイムトラベルを可能にする薬というわけだな!」
「ふふふ。やっぱり私たちは天才ね」
「知識人が三人集まれば不可能はないわ」
「文殊が三人寄らばムテキングだな」
 お互いの健闘をたたえ合う知識人三人。
 ここは永遠亭、八意永琳の薬学実験室。
 ビーカーに入れられた紫色の液体は、彼女たちが作っていた薬。
 それは、服用することによって時間旅行を可能にする薬だった。


 薬の入ったビーカーを実験卓の上に置き、三人は休憩に入った。
 部屋の片隅に作られた喫煙スペースは、ちょうど実験卓に背を向ける形で配置されている。
 三人の知識人はポケットから煙草を取り出し、お互いに回しのみする。
 ジョーカーやモアなど、既に幻想入りした銘柄だ。
 ひと仕事やり終えた後の心地よい一服を、幻想郷でしか手に入らない煙草で。
 なかなかの贅沢だ。
 喘息のパチュリーが煙草なんか吸って大丈夫なのだろうか、という疑問は当然だが、妖怪は煙草の影響をさほど受けないのかもしれない。
 もう外の世界では畑ごと消え去った葉巻を、ウィンストン・チャーチル卿よろしくぷかぷかと吸っている。

「さて、まずどの時代に行きましょうか。楽しみね」
 パチュリーが珍しく、わずかに弾んだ声でそう発言する。
 感情を表に出すのは、この魔法使いにしては珍しい。
「やっぱり未来じゃないかな。私も過去の歴史は見れるしちょっといじれるが、未来は見れないからな」
「白亜紀やジュラ紀なんかも捨てがたいわね。恐竜を見てみたいわ。慧音も人類のいない時代は見れないんでしょ?」
 永琳も嬉しそうにそう言う。
 考えただけでもわくわくしてくる。
 なんと言っても、夢の時間旅行だ。苦労した甲斐があった。
 後は自分たちで薬の効果をテストするだけなのだ。

「ごくごく」
「ん? ごくごく?」
 パチュリーが音に気づいて後ろを振り向く。
「美味しいジュースですねー。香りはラベンダーだけど、味は葡萄みたいですね」
 そう言ったのは鈴仙で、彼女の手には空になったビーカーが握られていた。
「れ、鈴仙!?」
 永琳も振り返って事態に気づき、驚く。
「全部飲んだの!?」
「あれ? 飲んじゃダメでした?」
「三人分だったのに……なんでビーカーに入れてある怪しい色の液体をジュースだと思うのよ?」
 パチュリーが声を荒げて抗議する。
「いや、だって師匠いつも実験器具を食器代わりに物食べたり飲んだりしているから」
「おいおい、いくら何でも勝手に師匠の研究室の品物を飲むか?」
「いいえ、ウドンゲを責められないの。いつもここで彼女にエサをあげているから」
「いつも何しているですって? いやらしい、はしたない! 何て破廉恥な兎なのかしら!」
「パチュリー、急に何言い出すの!?」
「そういうところだけは、ちゃんとペットとして扱っているんだな」
「月兎をペットとして愛でるのは高貴な者のたしなみ」
「師弟関係じゃなかったっけ?」
「ところでウドンゲ、あなた体は何ともないの?」
 永琳がいぶかしげに尋ねる。
「? 別に何ともないですよ」
「そういえば、この薬、どうやったら未来に行ったり過去に行ったりできるんだっけ?」
 自分で実験していたのに、そんな重要なことを知らない当たりパチュリーは天然である。
「未来に行く時は、行きたい時代と場所を強く念じながらホップステップジャンプするの」
 研究を主導していた永琳がその質問に答えた。
「過去は?」
「前に進むようにして後ろに進むと過去へ行けるはず」
「なにそれ? どういう動き?」
「こんなかんじ」
 永琳が実践してみせる。
 前に足を出して歩いているように見えるのに、滑るように床を後ろに下がっていく永琳。
「キモっ!?」
「かかとを上手く使うのがコツよ」
「要するにムーンウォークか。月人らしいといえばらしいな」
「そうかしら??」
「あのう、みなさん何をしていらしたんですか?」
「ウドンゲ、私たちの目的はタイムリープよ」
「タイムリープ?」
「そう、私たちは時間旅行をするための薬を作っていたの。あなたが今飲み干したのが、その薬。
 完成まで三ヶ月かかったのよ。ガッデム、ゴッド・ダムン! 責任取りなさい、支払いなさい、体で」
 七曜の魔女は性的にフランク……なのだろうか。
「ガッデムとゴッド・ダムンは意味が同じなんだが」
 クライシスだのエフェメラリティだの和風のくせに妙に横文字に詳しい慧音がつっこみを入れたが、無視された。
「へー、そーなんですかー。あれ? 頭がくらくらする~」
「ウドンゲ!?」
 永琳が支えようとするのも間にあわず、鈴仙は唐突に意識を失い、その場でばったりと倒れた。


 *


 ひんやりとした土の感触で目が覚める。
 次に鈴仙が気が付いたとき、そこは竹林の中だった。
「あれ? いつの間に外に?」

 鈴仙は起き上がり、林の中をさまよう。
 迷いの竹林のどこかであることは雰囲気でわかるのだが、あまり見憶えの無い場所だ。
 ちくちくと手足をつく野草をかきわけて、鼻を頼りに知っている場所を探す。
 しばらく彷徨っていると、遠くから地鳴りのような音が近づいてくるのに気づいた。
「なんだろう、この音? だんだん近づいてくる」

 竹林が開けて草むらなっている部分に出る。

 唐突に、鈴仙をある違和感が襲った。
 竹林を出たこの場所。いつもの幻想郷とは何かが違う。
 何が違うのか、そう感じる原因を鈴仙は探った。
 だんだんと分かってきた。
 普段ならうるさいぐらいに聞こえてくる妖精の羽音や妖怪の息吹きがない。
 幻想郷を支えていた、いつも漂っていたある種の霊的な力を今は感じない。
 なんと言うか、今のこの場所の雰囲気は……
 既に半分終わってしまった世界のような……。

 鈴仙は身震いした。
 いつもの幻想郷と違う。それも、悪い方向に違っている。
 いつの間にこうなってしまったのだろうか。
 いったい何が起こったというのだろうか?
 先ほどから聞こえてくる音も気になる。

 鈴仙は視線をちょっと横にずらした。
 草むらの向こうにはあぜ道があり、道の右手の方は下り坂になっていて先が見えない。
 音はその坂の下から聞こえてくる。
 先ほどは気づかなかったが、注意深く聞いてみて鈴仙は音の正体に気づいた。
 エンジンの駆動音だ。
 地面を切り裂くのは、車輪が回転して胴体を進行させる類の、車両の出す音のようだ。
 そのうちでも大きな、いくつもの車輪で動かされるもの。そう、たとえばキャタピラみたいな。
 音が近づいてくる。

 いよいよ鈴仙の目にも、音を上げていた物の姿が見えた。
 坂の上に乗り上げた巨大な鉄塊。
 角ばったシルエット。表面は見るからに強固そうないくつかの金属製の箱形で作られている。
 上面には大きな砲塔が備え付けられている。
「せ、戦車!?」
 ずいぶん立派な戦車だった。外の世界の主力戦車に形が似ている。
「何で、幻想郷に、戦車が!?」

 鈴仙が目をぱちくりさせていると、油圧の機械音と共に砲塔が回転し始める。
 車体はあぜ道の途中で停止した。砲塔は竹林の外れに顔を出している鈴仙の方を向こうとしている。

「えっ? えっ?」
 砲塔がぴったりと鈴仙に正対した形で静止する。
 丸くて黒い砲門の穴が見えた。
 どうやら鈴仙は、標的として認識されてしまっているようだ。

 はりつめた一瞬の沈黙の後、爆音と共に砲弾が放たれた。
 弾は鈴仙の至近に着弾し、地面が炸裂して鈴仙は吹き飛ばされる。
「うわっ!?」

 そのまま鈴仙は数メートル吹っ飛ばされて草むらの中に着地した。
「いててて…」
 弾丸が逸れたことを確認したのか、戦車がエンジンを全開にし、鈴仙の方へうなりを上げて突っ込んで来た。
 轢き殺そうという目論見だろうか。
 鈴仙はしりもちをついたままで、あっけに取られていた。
「うわわわ!?」

 その時。

「鳳翼天翔!」
 甲高い声と共に、空から見覚えのある炎の塊が飛んできた。
 戦車の装甲に火炎がぶち当たって爆炎を巻きあげる。
 目を上空にあげる。居た。
 体に炎の鳥をまとったシルエット。藤原妹紅だ。

「妹紅!」
「おまえ、こんなところで何をやっているんだ!? 輝夜と一緒に月に帰ったんじゃなかったのか?」

 妹紅は草むらに着地して、鈴仙の体を引き起こす。
「いったい何があったんですか?」
「なに寝ぼけたこと言ってるんだ? とにかく、ここは危険だ。早くこっちへ来い!」

 妹紅に手を引っ張られて、竹林の中に連れ込まれる。
 戦車は鳳翼天翔の勢いに恐慌をきたしたのか、しばらく沈黙していたが、またすぐに動き出した。
 後ろの方からキャタピラの駆動音が聞こえる。
 次いで、竹林の方向にまた砲弾が放たれた。
 爆発が起こって竹が何本か粉々になって吹っ飛んでくる。

「うわ!?」
「ああゆう装甲車の類には、私の炎が効きにくいんだ!」

 また竹藪をかき分けて奥へと逃げる。
 竹林の大分奥まで進み、敵の追跡が無いことを確認した後二人は休んだ。
 戦車も複雑な竹林の中までは入ってこれないだろう。
 妖精や妖怪の力はひどく弱まっていたが、迷いの竹林は依然としてその効果を保っているようだった。
 鈴仙は息を整えた後、隣にいて周囲を警戒していた妹紅に尋ねる。
「妹紅、これは一体どういう状況なの?」
「……おまえ、何で知らないんだ?」
「何があったんですか?」
「……結界が消えて、外の世界と幻想郷が繋がったんだ。それで奴らが侵攻してきた」
「そ、そんな!?」
「奴らは人間の里を占拠して、抵抗する妖怪へ攻撃を仕掛けてきたんだ。ここを自分たちの領土にするつもりらしい」
「みんなは、みんなはどうなったんですか!? 永遠亭のみんなは!?」
「お前、本当に知らないのか?」
 そう妹紅が聞いたときに、風鳴りが聞こえて遠くから何かが飛んできた。

「伏せろ!」
 妹紅は鈴仙の頭を押しこんで引っ込める。
 無理やり鈴仙は地面に突っ伏した形になった。
 その次の瞬間、二人が隠れていた場所の近くでまた爆発が起こった。
「!?」
「敵の歩兵だ……どうも妖怪に対抗する強力な武器を作り出したらしい」
 妹紅は真剣な表情で辺りを伺っている。敵の位置を探っているようだ。
 鈴仙は伏せたままで、妹紅から聞いた内容と現在の状況を照らし合わせて考えた。
(師匠は時間旅行を可能にする薬を作っていたって言っていた……ってことは、もしかして私、時間を飛び越えちゃったってこと?)


「鈴仙お前、敵の場所を探れないか……」
 妹紅は振り向いて鈴仙に話しかけようとした。
 声が宙を切る。
 今まですぐ隣にいた月兎の姿が忽然と消えていた。

「!?」
 驚いて妹紅は視線をめまぐるしく動かし、鈴仙の姿を探す。
 どこまでも広がる竹林。今まで自分たちが休んでいた枯れ藪。
 どこを見ても鈴仙は居ない。
 隠れる場所も時間もほとんどなかったはずなのに。

「……? いったいどこへ?」



 *


 形容しがたい幾筋もの光が鈴仙の体を取り巻き、形を持たない無数のもやのようなものが幾度も周囲を通り過ぎていく。
 気がつくと鈴仙は今までに見たことのない不可思議な空間の中を、どこまでもどこまでも上昇していた。
 浮遊感だけが月兎の体を支配する。
「おわあああ!?」

 ここは時の狭間。
 永琳達の開発した薬を飲んだ鈴仙は、意識とは無関係に、偶発的にタイムリープする体質になってしまったのだ。

 やがて上空の方にまばゆい光の群れが収束し、目の前が真っ白になる。
 目を開けていられなくなり、気が遠くなる。
 しばらくして鈴仙はまた気を失った。



 ――心地よい風が頬を過ぎる。
 鳥の鳴き声を聞いて、鈴仙は目をさました。
 むっくりと起き上がってあたりを見渡す。
 一面の花畑。色とりどりの美しい花が咲き乱れている。
 先程の世界とは違う。
 遠くにではあるが、ちゃんと妖精や妖怪の息吹きを感じるし、大気は霊的な自然の力に満ちあふれている。
 鈴仙の知っている、懐かしい幻想の風が吹いている。

 起き上がったのち、しばらく歩いていると鈴仙の耳に滝の音が聞こえてきた。
 向こうの方は崖になっているようだ。

「……!? なんじゃあ、こりゃああ!」
 開けた崖が広がる大地のパノラマ、それを目にして鈴仙は素っ頓狂な奇声をあげた。
 崖の一面が極彩色に彩られていて、無数の段が崖の全面に出来ている。
 そこには庭園や、美しい装飾の施された建物が林立していた。
 崖が大きく割れた場所からは、美しく澄んだ滝が幾筋も流れ出て遙か下方の大河に注いでいる。
 恐ろしく高い崖であるらしく、底の方は霧がかっていて良く見えなかった。
 一番驚いたのは、おそらくそれが全て人造の風景であるということだ。
 崖を刻んで建物を作ったのか、崖のような建物を建てたのかは分からないが、岩壁であると思っていた物は実は全部巨大な建築物であるようだ。
 呆然としながら風景に見入っていると、崖の両端を無数の小さな豆粒が行き来しているのに気づいた。
 よく見てみると、それは船の形をしたゴンドラのような乗り物で、中に人が乗っていた。
 空中を飛ぶ渡し船のようだ。
 船頭のような人物が穂先に乗っていて、その人間は鎌のような棒を持っている。
「すげええ」

 幻想郷でも目にしたことのない、実に幻想的な風景だった。
(もも、もしかしてものすごい未来ってことかな?)
 あまりにも規模の大きい風景に圧倒されたが、全体に漂っているのは、のどかで平和そうな雰囲気だった。
「良かった…戦争は終わったんだ」

 そのうち鈴仙はまた歩き出して、他の場所へ行ってみることにした。
 花畑をしばらく崖と反対側の方へ歩いてみると、向日葵の群れが見えてきた。
 地平線の向こうまでずっと向日葵畑が広がっている。
「もしかしてこれは、幻想郷にあった太陽の丘かな?」

 向日葵の畑の中をずっと歩いていく。
 辺りにはたくさんの蜜蜂が飛び交っていた。
 ふと見回すと、花の中から飛び出た傘のようなシルエットを見つけた。
 唐突に現れたような気がした。なぜ近づくまで気付かなかったのだろうか。
 嫌な予感がする。

「あら? お客様?」
 傘がくるっと回転して回していた人物の姿が見えた。
 エメラルドグリーンの髪、ストライプのチョッキとスカート、肩に乗せてくるくると回す日傘。
 そういった特徴を持つ人物を鈴仙は一人だけ知っている。
 自分の縄張りへの侵入者に対してはかなり好戦的で、鈴仙にとっては厄介な人物。
「変わった耳のうさぎさんね。旅行者の方かしら?」
「げえっ! 風見幽香!」
「あらあ、確かに私の名字は風見ですけど。残念だけど、幽香さんではありませんのー」
(あ、そっか。ここは未来なんだった……)
 そう言われて鈴仙が良く姿を見てみると、目の前の女性はロングヘアーであり、見知っている幽香より髪が長かったし、ナイトキャップのような帽子をつけている点も幽香とは違うし、それにどことなく受ける印象が柔らかだった。
「えっと初めまして、鈴仙・優曇華院・イナバ と言います」
「初めまして。私は風見蛍香と言いますの」
「す、素敵なお名前ですね……」
(嫌な想像を掻き立てられる名前だなあ)
「確か、ご先祖様に幽香さんという方がいたような気がするわ……」
 風見蛍香と名乗った女性は、そう言って人差し指を顎に当てて考えている。
 風見幽香よりは仕種が女らしくて可愛い。

「あ、そうだ! ちょうどお茶の時間なの。よろしかったらご一緒しませんか?」
 思いついたように手をたたくと、女性は鈴仙を見つめた。
「え……」
「ね、そうしましょ? 近くに私のサロンがあるの。美味しいハーブティーをごちそうするわ」
 急な提案。鈴仙はちょっと考える。しかしどちらかと言えば魅力的な申し出だ。
(そういえばちょうどお腹減ってきたしな……この人は悪い人じゃなさそうだし。ごちそうになろうかな)

「じゃあ、こっちね」
 女性に着いていく。
 向日葵畑の切れ目に、綺麗にガーデニングされた屋外サロンがあった。
 観葉の植物がたくさん置いてあったり植えてあって、清々しい雰囲気のある場所だ。
 屋根付きの広間の中心には、白ペンキで塗られた瀟洒な椅子と卓台一式が据えてあった。
 
 広間の端にはいくつかの機器が景観に溶け込んで置いてあった。
 女性はそこから可愛らしい紅茶のセットを取り出して、カップを用意しテーブルの上に置いていく。
 熱いハーブティーが注がれて鈴仙に勧められる。
「さあ、どうぞ。お召し上がれ」
「あ、ありがとうございます」
 先ほどは戦車に追われたり、爆弾を投げつけられたり散々な目にあったので鈴仙は疲れていた。
 勧められたお茶は喉にも体にも心地よかった。
 少し落ち着いて辺りの風景になじんだ頃に、鈴仙は女性に話しかけた。
「あのー、ちょっとお尋ねしていいでしょうか?」
「ハイ、なんでしょう?」
「ここは幻想郷ですよねー?」
「そうですよ?」
(良かった……)
「以前、戦争がありませんでしたっけ?」
「うーん。千年以上前にそういう異変があったって歴史の授業で習ったけど……それ以来、戦争は起こっていないそうですけどー」
「ああ、そうでしたっけ……」
(千年て…ものすごい未来に来ちゃったんだ……)
「あの、ところで永遠亭という屋敷が幻想郷にあったと思うんですが」
「あなた、不思議なこと聞くのねー」
「そ、そうでしょうか」
「わかった。あなた、宇宙飛行士さんでしょう? 最近地球に帰ってきたから、今のことに詳しくないとか?」
「そんなところです」
「永遠亭はね、今も兎さんが住んでいるけど。今はちょっとした史跡というか、観光地になっているわ」
「そうなんですか」
(良かった…今でも永遠亭はあるんだ……みんなは…てゐは元気かな? 私は姫様と一緒に月に帰ったってことになっているらしいけど)

 カップに口をつけながら、サロンの様子を眺めてみる。
 とても丁寧に手が加えられていて、センスの良い草花や小物が飾られていた。
 時折七色の羽根を持つ美しい蝶がふわふわと目の前を横切っていく。
 遠くの空は穏やかで、幻想郷らしい霊的な力にも満ちあふれている。
 最初に幻想郷を訪れた時に感じた、あの何とも言えない心地良さをまた感じた。
 よく目を凝らすと、青空に浮いているものは雲かと思ったら巨大な浮遊大陸だったりしたが。
(まあ、結構いい未来なのかな……)
 例えようのない美しい風景の中で、鈴仙の心は和んでいった。
 目の前の女性が帽子を脱いだ時に、頭の上にぴこぴこと動く触覚のようなものを見つけた時には、さすがに飲んでいたお茶を吹き出しそうになったが。

「ちょっと待っててね。今、フルーツのタルトを出すから。朝作って冷やしておいたの」
 タルトと聞いて、しわくちゃの兎の耳がぴんと跳ね上がる。
 甘いものには鈴仙も目がない。

 女性は広場の隅に置いてあった冷蔵庫からタルトを取り出して、テーブルに戻ってくる。
「あれ?」

 いつの間にか、先ほどまで椅子に座っていた鈴仙の姿が消えていた。
「あら、どこへ行ったのかしら? せっかちな兎さんねえ」


 またしても鈴仙の体を光が取り巻いた。
 先ほどの異空間。今度は、上から下へと下降していくような感じだ。
「ま、またあ? ああ……タルト食べたかったなあ……」


 *


「ぶへっ!」
 異空間から吐き出された鈴仙が着地したのは、ただの草っぱらだった。
 幻想郷のどこかであることは分かる。
 だが太陽の丘とは別の場所だ。タイムリープするとき、位置も同時にずれるようだ。

「ふええ、何もないなあ」
 
 何となく地形に見覚えがあった。
 小高い草原の丘に、くぼんでいく地形。
 ここは元の時代だったら、人間の里に近い場所のはずだ。
 確か目の前の丘を越えれば里が一望できるはず。

 あった。
 だが、やっぱり元居た時間の里とは違っていた。
 あるべき位置に知っている家屋が無い。
 建物は全て骨組か土台の段階で、今丁度軒上げを行って建てている真っ最中だ。
 たくさんの大工や農夫がめまぐるしく仕事をしている。
「今から里を作るの? も、もしかして……過去に来ちゃったってこと?」

 話声が聞こえてきた。
 里を見下ろせる丘の上に何名かの古めかしい衣装を着た男女がいた。
 鈴仙はとっさにその人物たちの背後にある草むらに隠れた。

 人物の集団の中心に、二人の女性が居てその会話が聞こえてきた。
 一人は古風な巫女服を着ている黒髪の女性。
 もう一人は、鈴仙も知っている人物だった。
(八雲紫……)

「まもなく完成するわね」
「ええ。東の果ての神社も、建立式を控えているし。やっと私たちの楽園ができあがるのね」
「まあ、すぐには楽園とはいかないでしょうねえ。ここに入ってくるのは、何も人間たちにとって優しい幻想だけではないわ。結界は恐怖の幻想も同様に閉じ込めるのだから」
「恐怖の代表者としては、ここはもう既に結構な楽園なんじゃないの?」
「まあねえ。あなたは、神社の巫女になるんだっけ?」
「ええ。そこに住んで、結界を見守りながら暮らすわ」
「そう……たまに遊びにいってもいい?」
「断りを入れるなんて、あんたらしくないわね。お酒とつまみを持ってきてくれるんだったら、いつでも歓迎するわよ」
「ちゃんと一人で生活できる? あなた、今までは炊事も洗濯も従者の人にやらせてたんでしょ?」
「何、お母さんみたいな心配してるの。私、こう見えても生活力あるんだから」
「それならいいんだけど……あなた、結構そそっかしい所あるから」
 二人は仲の良い親友か、姉妹といった雰囲気だった。
(へー、八雲紫は一番最初の巫女の時から知り合いだったのかあ)
 そんな風に鈴仙は納得しつつ関心していた。
「ねえ、紫」
「なにかしら?」
「いつの日か、妖怪が人間を襲うのをやめて、仲良くまったり暮らしていける時代が来るかしら?」
「……。妖怪の私には約束できないけれど、実を言えば、私もそんな郷の姿を見てみたいわ」
 そこまで聞いて、鈴仙はその場を立ち去ろうとした。
 特に会って話すこともないし、逆に時間旅行者である自分が過去の人物に会ってもまずいだろうと思ったのだ。
「む!? 妖怪!?」
 巫女が鈴仙に気づいた。
「へっ?」
「博麗、後ろに下がって! ここは私たちが引き受ける!」
 八雲紫が巫女の前に出てくる。割と殺る気満々な雰囲気に鈴仙はたじろいだ。
「いや、私は……その、お二人の敵ではなく……」
「問答無用! 式神『八雲藍』!」
 紫はいきなり式神を投げつけてきた。
「うわあ!」
 鈴仙は驚いたが、藍をなんとかかわして一目算に逃げ出した。
「逃げられたか……!」


(はー、びっくりした)
 紫はその場の護衛を本来の目的としていたのか、本気で追いかけてくる気はないようだ。
 鈴仙は逃げに逃げて魔法の森の近くにまで来ていた。

(そうだ、もし過去へ行けるんだったらあの時に行けるかもしれない。
 えーと、現在から見て過去だから…この時代から考えると未来か……)
「確か、行きたい時間を念じてホップ・ステップ・ジャンプすると未来へ行けるって言ってたな……」
 鈴仙は目の前の草原を見つめる。
 あの時、あの場所。取り戻したい瞬間がその先に見えたような気がする。
「よし!」

 思いっきり助走を付けて草原を走る。
 あの日を目がけて、行きたい時間を思い浮かべて。

「いっけえ!!」

 兎が、跳んだ。


 *


 もしかしたら、あの時に行けるかもしれない。
 失ってしまったものを、取り戻せるかもしれない。
 鈴仙の行ってみたい過去、それは、彼女が月面に居た時分のことだ。
 仲間の月兎達と共に過ごしていた時間。
 その中でも、仲の良かったあの雄兎。
 鈴仙には同じ区画に生まれて同じ学校に通った幼馴染が居た。
 恋人と言うにはまだ幼かったが、月を去る以前にはかなり意識していた仲だった。
 学園のフォークダンスの時には手を握り合って、ちょっと恥ずかしかったりもした。
 残念ながら、軍の配備では別々の場所に飛ばされてしまったが、毎日メールのやり取りを続けていた。

 おなじみの時空間を抜けて、鈴仙がたどり着いたのは、どこまでも広がる鋼鉄の回廊、その床の上だった。
「ここは!……月表側第三独立都市、第十八坑道Bブロック。ということは、もう少し上に行けば」

 資源採掘のために月面に縦横に掘られた坑道の中を、鈴仙は目的の場所目指して駆けた。

 会える、会える、あの人に会える!
 この方面に配置された知人。
 幼馴染の雄兎。
 懐かしいその顔が、記憶の段ボールから取り出されて鈴仙の脳裏に浮かぶ。

 その鈴仙の足元に、高速で飛来した鉄釘が何本か撃ち込まれる。
 走っていた鈴仙はそれに驚いて急ブレーキをかけた。
「!?」
 頭上を見上げると、奇怪な姿をした影があった。
 全面が硬質の装甲で覆われ、口はぎざぎざの牙がむき出しになっていて、そこからは唾液のようなものが垂れ出ている。
 だが、生物ではない。機械でできているようだ。
「敵!?」
 月面に上陸した地球の軍隊が、大量に送りこんできた人型の自律兵器。
 鈴仙も月面に居た頃は幾度となく対峙した、量産型のドローン兵器だ。
 とはいえ、現在の鈴仙はその時敵と戦うために使っていた武器のほとんどを持っていない。
 冷汗が出てくる。今の状態では自分にこの敵を撃破することはできないかもしれない。
 なんということだ。せっかく時を越えてまで、昔の知人に会いに来たのに。
 怪物がその醜い口を開けて、威嚇の咆哮をあげた。

 その時、鈴仙の前方から閃光が飛んできて、敵に命中しその体躯が爆散した。

 通路の前方から、一人の人物が歩いてきた。
 戦闘用のスーツに身を包んでいるが、頭から飛び出ているうさ耳で仲間だと言う事はわかる。
 そして鈴仙には間もなくその人物が誰であるかが分かった。
 忘れたくても忘れられない顔。
 彼女が会いたかった幼馴染の雄兎だ。
「シデン!」
「レイセン……どうしてここに? それにその格好は……甲種兵装はどうした?」
「シデン、私、あなたに伝えたいことが」
「ここは危険だ。敵はもう第三階層まで侵入している」
 雄兎は鈴仙の手を引っ張って、一緒に坑道の通路の中を移動する。
 安全な場所まで誘導してくれた。
 二人は四角い作業場のような避難所に入り、隔壁を閉めて外部からの侵入を阻止する。

「この中なら安全だ。ここのエレベーターを使えば、市民が脱出に使った坑道まで行ける。君はそこから逃げるといい」
 雄兎はそう伝える。
「レイセン、いったいどうやってここまで来たんだ?」
「……」
 二人とも立ったままで沈黙が続く。
 鈴仙には話したいことがたくさんあったはずなのに、いざという時になると何も浮かんでこなかった。
 それでも一緒に居ると、二人で過ごした思い出が次々と浮かんできて胸が一杯になった。
 鈴仙が相手の手を取って握る。
 雄兎が不思議そうな顔をした。
 しばらく音のない時間が流れた。

「……もう行かないと。ライデンやヒエンが、上の階層で敵を食い止めている」
「シデン、一緒に逃げよう!」
「逃げるって、どこへ?」
 鈴仙は今の自分のことを話そうと思った。
 今はもう、優しい姫様や師匠の元で暮らしているし、地上の兎達ともだんだんなじんできた。
 友達も一杯できたし、自分と一緒に来れば平和で幸せな場所に連れていくことができる。
 もしかしたら、一緒に時間を飛び越えられるかもしれない。
 そうしたら永遠亭に来て、共に暮らせばいい。

 だが、言えなかった。
 思い出したのだ。
 自分は仲間を裏切った。不可抗力ではあったが、結果としては月の故郷を見捨てた形になった。
 この兎は。目の前にいる自分の幼馴染はどうだったか。

 月兎の念波を使って、地上にいた鈴仙も、月の戦史日報に語られた記録を確認した。
 月面第三独立都市は最小限の犠牲で、三万人の市民全員を脱出させることに成功――
 三名の戦闘兎が命と引き換えに敵の侵入を防衛――
 その三名の中には、この雄兎の名前も含まれるのだ。
 侵攻が思うように進まなかったことに業を煮やした地球の軍隊は、衛星軌道上からの熱核攻撃を行い、都市は消滅した。
 もしこの雄兎がいなかったら、防衛線は突破されてしまい、市民の脱出は間に合わないかもしれない。
 三万の市民と、一人の想い人。
 目前の幸せと、戦士としての義務を全うすること。
 それらを、鈴仙の心は自然に天秤に掛ける。

 戦士として生まれ、戦士として生き、戦士として死ぬ。
 それが月兎だと教わってきた。
 でも。それでも……。
 まだ、なにも言っていない。
 まだ、なにも大切なことは伝えていない。


 ……しばらく悩んだ後、鈴仙は決断を下した。

「ご武運を、お祈りします」
 肘をぴんと張り、こめかみに握りこぶしを当てる仕種は、月式の敬礼。
 グッドラック、フレンドリー(友軍機)
 それは欺瞞と虚飾に満ちた挨拶。だけど。
 幼馴染に向けるには、まったく味気ない言葉。だけど。

「行ってきます」
 雄兎は笑った。
 ちょっと斜めに構えた格好での敬礼の返礼。
 これから死にに行く者のものとは思えない、垢ぬけた爽やかな笑みだった。
 それから、少しの間鈴仙を見つめて何か言いたそうにしていたが、やがてくるりと踵を返して廊下の奥へ走って行った。

「うっ……うええ」

 鈴仙は泣いた。
 走っていく、去っていく、消えていく幼馴染の背中が涙でにじむ。

 やがて鈴仙の目からとめどなく涙があふれ出し、口からは嗚咽が漏れだした。
 一匹の月兎は声が枯れるまで泣き続けた。
「うわああああああああああああん…あああ、ああああ……」

 過去は、変えられない。
 自分は過ぎ去ってしまった幻影を見ているだけなのだ。

 鈴仙は自問自答する。
 どうして、どうしてこんな風になってしまったのか。
 月の人々に過酷な運命を強いたものは何だったのか。
 全ての不幸の原因はどこにあるのか。

 心の悲痛な高ぶりに、時空の因子が反応したのか。無意識のうちに鈴仙がそれを望んでいたのか。
 鈴仙の体はまたしても時の旅人となり、その体は遙かに過去へと運ばれた。


 *


 半円の透明なドーム屋根には空が青々と映っている。
 ビニルハウスの中のような庭園の中心に、鈴仙は一人立っていた。
 だんだんと目が慣れてきて、周りを観察する余裕が出てくると、庭園の中心に車椅子に座った男が一人居るのに気づいた。

「誰だね?」
(月面語?)
「あ、あの私…………!? あ……?」
 男の姿を見て鈴仙は言葉を失った。
 体の色が、右半分だけ灰色になっていて罅割れている。
「ああ、私はもう長くないんだ。体が硬直化していく病気でね。ここに住んでいた他の天津はもう皆、月へと旅立ってしまったよ?」
「アマツ?」
「君はどこから来たんだ? 失礼だが、君のような人は見たことがないが」
「信じてもらえないかもしれませんが、私は今とは別の時代から来たんです」
 そう言うと、男はしばらくの間黙って何か考えているようだった。
「……。遙か昔、月の聖地よりも前の時代に、天津は銀河を駆け巡り、時空すらも支配していたというが」
(月……この人は月人?)
「天津というのは?」
「月より放たれた神聖な民族のことだ。天津は労働力として、地上の環境に適応した国津を作り、彼らと共存し地上を支配していた。だが問題が起きた」
「……何があったんですか?」
「国津の間に、疫病がはやったんだ。そのウィルス自体は、国津にとっては致死性のものではなかったが、天津は免疫を持っていなかった」
「あなたのその体……」
「そういうことだ。私を殺そうとしているのもそのウィルス。もともと、宇宙生活に特化した生物である天津には、地球に適応する能力がなかったんだ。天津の議会は国津を穢民と認定し、彼らの住居を焼却処分する決定を下した」
「そんな……」
(もしかして……ここはかなりの過去……じゃあ、月の民が地上人のことを穢れた民だって呼んでいたのは……)
「だが、私は最後の抵抗を試みた。国津の男女を何名か地下に逃がしたのだ。生き延びれば、彼らは子孫を増やすことができるかもしれない」

 やがて男は視線を上げると、鈴仙の方を向いて話しかけた。
「君も早く逃げた方がいい。まもなくここは爆撃を受ける。跡形も残らないだろう」
「でも、あなたは?」
「私はここに残る。自分で望んだことだ。それに、どうせ生きれても数日の命だ」
「そうですか……。最後に、聞かせてくれませんか。あなたのお名前は?」
「私かい? 私はカグツチという。以前は天津の王族だったが、今では見捨てられた身だ」
(その名前、……月の王族の歴史に残っている、地上に追放されたという太古の王の名前……)

 古事記に詠われる八百万の神々の中に、火之迦具土神、ヒノカグツチという名前の火を司る神がいる。
 彼は母であるイザナミの腹を焼いて生まれた、母殺しの神だ。
 そのために父であるイザナギに恨まれた望まれぬ子、反逆の神でもある。
 そしてその名前は、迦具夜比売、すなわちカグヤ姫の語源にもなっているのだ。

(この人は姫様のご先祖? どういうこと? 月人は最初は地上で生まれたと言うこと?)
 見れば男には面影があった。
 黒くてまっすぐにのびた髪。白い肌。そして丸みを帯びた端正な顔立ち。
 おそらく、輝夜の一族という事実には間違いはないのだろう。
(いったい、私はどれくらい過去に来てしまったんだろう?)

 男は鈴仙に地下への脱出路を教えてくれた。
 雄兎がしてくれたように。
 地上の人間は月を侵略し、月人を虐げたが、それよりはるか以前に月人は地上人に同じ仕打ちをしていたのだ。
 皮肉な話。
 鈴仙は深い無常観を味わいつつも、男を残して教えられた道を走った。

 その途中で、鈴仙をまたも時空の振動が襲った。


 *


 頭上には、見渡す限りの満天の星々。
 水平線の方向には、砂と岩でできた無限の荒野。
 闇夜を切り裂くようにぎらぎらと光輝く灼熱の光球が前方に一つ、目を焦がす。

「酸素がない!? ここは……月面!?」

 ふと後方を見る。
 月面都市に住む者なら、その映像は何度か見たことのあるもの。
 月の表側からは、太陽が後方にある時はいつも見えるのだ。
 だが。
「なに……これ…」

 月面から見た青い宝石。虚空に浮かぶ半円。
 生命の母なる星、地球。
 だが、いつも見慣れていたその姿とは、決定的に違う点があった。

 大陸の形が全く違う。

 アメリカ大陸も、ユーラシア大陸も見知っている陸地は一つも視界に入ってこない。
 あるのはたった一つの繋がった陸塊だけ。

 鈴仙は聞いたことがある。
 三億年ほど前には、地球の大陸は全て一つであり、その巨大大陸はパンゲアという名前が付けられていたと。
「そんな昔なの…?」

 圧倒的なその姿にしばらく見入る。話にしか聞いたことのない、地球の、大地の歴史。
 それを肉眼で見て体験しているのだ。

 ふと人の気配を感じ、月面をきょろきょろと見渡す。
 すぐ近くに、地面に突っ伏した宇宙服を着た人形を一つ見受けた。
「あなた、大丈夫!? 生きているの?」

 鈴仙は急いですぐ側まで行き、その体に触れる。
 身体が発する波長を読みとる限り、女は弱っている。何日もこの場所で放置されていたらしい。
 女は死にかかっていた。
 女は何かうめいてもいるようだ。鈴仙に何か伝えようとしているのかもしれない。
 鈴仙は手を当てて、宇宙服を通して伝わる、声帯が発するわずかな振動を聞きとる。
「……プログラムは全部終わっているの……」

 女は滔々と語り始めた。
 鈴仙にも、その意味を聴き取ることができた。
 なぜならそれは古代の月の言語だったからだ。

「もう少し時間がたったら、この衛星からカプセルが射出される。
 中には遺伝子情報と再生用のディバイス……私たち一族の全人格データがダウンロードされている……
 自動的に人類は再生されるはず」

 女は酸素欠乏症と栄養失調で意識朦朧としていた。
 そのため、ただ狂ったレコードのように、過去の記憶を口に出してているだけなのかもしれなかった。
「あの子、あの子のこと……私はあの子を救うために、時空の挟間に……そうするしかなかった。
 タイムトンネル……エネルギーが足りなくて一人分しか……私はあの子が生き残る最後の望みに賭けた」

 女の声は途切れ途切れで、断片的にしか聞き取れなかった。
 それでも鈴仙は必死に意味を読みとろうとした。
 鈴仙の予想が正しければ、この人物は……。

「あの子の美しい銀髪、私とそっくりのあの銀髪……もう一度見たい……名前も付けてあげられなかった…いつの時代に……たぶん今よりももっとずっと先の未来で……どうか、生きていてくれれば……」
「あなた、あなたはいったい誰なの!? あなたの名前は?」
「……私? 私はオモイカネ。アメノトリフネでこの銀河に渡ってきた一族……遠い星辰を越えて…長い、長い旅だった」

「不慮の事故……不時着……あそこ、あそこから……」
 女が今にも力つきそうな腕で指し示した方角。
 鈴仙も月にいた時に、星図の授業で習ったことがある。
 NGC224、M31。アンドロメダ座の渦巻き銀河。
 俗に言う、アンドロメダ星雲だ。

「!? だめ……だめよ、死なないで!」
 鈴仙は必死で女の体をゆすった。
 が、まもなく女は息絶えた。
 宇宙服は気密されているが、少し時が経てば備え付けられたヒーターが動かなくなり、絶対零度の帳が女の体を凍らせるだろう。
 
 月面に白光がきらめいた。
 一筋の光が、矢のようにまっすぐと地球の方角へと向かって流れていく。
 女の言が正しければ、それは生命の種子を乗せた希望の矢、オモイカネの矢だ。
 幾億幾千万の年月を経ればやがて、女の予言の通り人類が誕生するのだろう。
 その時に彼女の人格は再生され、新しい彼女達は新人類の上に天上の神々として君臨するのかもしれない。
 そして地上で文明を再生した一族は、やがて聖地となった月へ渡り月面にまた再び文明を築くのだろう。

 鈴仙は見た。
 知識の鋭鋒・八意一族ですら知り得なかった月文明の成り立ちと、地球人類発祥の歴史を。
 そしてあの銀髪の、自分の師匠に良く似た表情を持つ紅い悪魔の従者が……どこから来たのか……。

 鈴仙が知っていて、師匠の前では知らぬフリをしている事実が一つある。
 月の都には女の名前が付けられた神宝が一つあり、それは現在幻想郷に移されている。
 その名はオモイカネディバイスと言い、八意一族三十万代の人格情報を封じ込めたそれは、八意永琳の力の根源となっているのだ。
 八意永琳とはオモイカネディバイスを継承する八意一族の長にのみ代々伝えられてきた名前である。
 八意一族の長は、脳の記憶容量が限界に達した時に、魂だけを次の世代に移し替えてきた。

 月兎の持つ鋭敏なセンサーだけが感知しえる情報。
 生物にはそれぞれ固有の波形パターンがあり、鈴仙が感知したそれは、目前の死体がまぎれもなく彼女の良く知る人物と同一であると伝えている。
 鈴仙は、最初の八意永琳の死に立ち会ったのだ。


「うわあああああああああああ!!」
 鈴仙は女の死体を抱いて絶叫した。
 命の失われたむくろが彼女の中で力なく腕を垂れている。

(もういやだ、もういやだ! 元の時代に戻りたい! お師匠様! 姫様、てゐ! いやだよう、帰りたいよう!!)


 *


「ウドンゲ! 大丈夫? しっかりして!」
「し、師匠?」
「大丈夫? あなた急に倒れたのよ。それきり起きないから心配して」
「ししょう…じ・ししょう…うわああん」
「あら。この子ったら、どうしたのかしら……」
 鈴仙は永琳の体にしがみつき、子供のように泣きじゃくった。
 永琳は鈴仙のあまりの弱々しさに驚きながらも、母親のように彼女の頭や体をなでてあげる。
「よしよし、何か嫌な夢でも見たの?」
 鈴仙は強く永琳の体を抱きしめる。
 大切な人の命のぬくもりを確かめるために。
 しばらくうわんうわんと声をあげて泣き続けていたが、次第におさまったのか、小さな嗚咽だけになった。
 パチュリーや慧音がどうしたのかと尋ねるが、鈴仙は何も答えなかった。

「……鈴仙?」

 鈴仙はやがて泣き疲れて眠ってしまった。
 いろんな体験を一度にして、精神が弱ってしまっていたのかもしれない。
 鈴仙は母の、全ての人類種の母の手に抱かれてすやすやと寝息を立てた。

「……」
 永琳は他の二人に目配せをする。
 二人とも、状況を飲んで黙って退席してくれた。


 慧音とパチュリーは部屋の外に出て、話し合う。
「何があったんだろうね」
「実験は失敗だったのかしら。ただ昏倒するだけの薬? おまけに精神不安定になるとか」
「さてなあ。ちょっと思いついたことがあるんだが……」
「なに?」
「タイムリープしてね、同じ時間に帰ってきたら、端から見ている私たちには何も起こらなかったのと同じなのではないかと思って」
「え? じゃあ、あなたは鈴仙が実際に過去や未来に行って来たって思ってるの? あの一瞬で?」
「証拠がないから何とも言えないけどな。あのおびえ方、何かよほど恐ろしい物を見てしまったんじゃないかと。それに…」
「それに?」
「前々から気になっていたんだが、かなり昔、この郷を結界で封じ込めた時ぐらいに、一度鈴仙みたいな奴を見たような気がするんだ」
「気のせいじゃないの? 鈴仙はホップステップもムーンウォークもやらなかったじゃない」
「だから、それは一人分の時の話だろ? 三人分まとめて飲んだ時にどうなるかはまだ実験していない」
「うーん。所用量を間違えると危険なのかしら……」
「いずれにしろ、もう少し実験を重ねないといけないかもしれないな」
「残念ね。せっかく完成したと思ったのに。そうだ……今度は実際に時間を操れる人に実験台になってもらったらどうかしら。つまりうちの咲夜」
「それは良い考えだ。輝夜なんかもいいんじゃないかな。あいつの能力も時間に関係ありそうだし」

 新しい実験台を手に入れることができれば、彼女たちの研究もはかどるだろう。
 知識人の業は深い。生きている限り何かを探求したいと思うのが知識人である。
 彼女たちはまだ時間旅行をあきらめていないようだった。

 薬の効果が切れたのか、元々未完成品だったのか、鈴仙がそのあともう一度タイムリープをすることは、なかった。





 未来はある。きっとある。
 たとえ、望んでいる形とは違っていたとしても。
 自然が滅び、子供達が容易に笑いあえない世界になったとしても。
 都市計画が失敗し、年金制度が崩壊しても。
 海が汚れ、空が排気ガスで曇っても。

 きっとそれは素晴らしいものなのだ。
 きっとそれは幾筋もの流れて行った血と汗と涙の結晶なのだから。
 全ての幻想を叶えるために、全ての過去を犠牲にして未来は輝く。
 花を咲かせ、実を結ぶ。
 やがては那由多の空を駆け、人の望みが全てを超える時代がやってくる。

 だから、きっと、未来はそこにある。
 だから、きっと、夢は現実になる。
 だから、きっと、


 幻想は―死なない


■後書
 八月二十八日は埴輪の日。
 タイトルで例の名作みたいなものを想像した方にはごめんなさい。
 イメージはどっちかっていうと筒井さんの方……でもないか。
 単に東方SFを書きたかったというのが本音かもしれない。なんとなく東方にはSFちっくな部分も感じるのです。
 オリキャラ・オリジナル設定ばかりな上、自ら読んでもぶっ飛んでると思いますが、IFの世界としてこんなのもアリかって思ってもらえれば幸いです。


>Admiral様
 ごめんなさい、あそこはホームページとして公に公開しているスペースというよりは、単なる倉庫的な意味合いが強く、私としてもファイルの置き場所としての認識しかないのです。TOPアドレス自体、どこにもリンクを貼っておらず、個人的な友人の方にしか公開しておりません。ご覧いただくのはかまいませんが、もともと人に見てもらうために整備してあるスペースではないので、できればアドレスやそちらの内容については話題に出さないでいただけませんでしょうか。
 失礼に聞こえましたらばご容赦ください。
 お読みいただきましたことは、大変に感謝しております。ありがとうございました。
乳脂固形分
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コメント



0.2900簡易評価
1.60床間たろひ削除
うむ、面白かった。
最初のコメディタッチな描写により、過去も未来もありというトンデモ設定をそれもありかと納得させるという手法が見事。それ故に次はどんな世界が見れるのかというわくわく感があり、最後まで飽きずに読めました。
未来と過去、それは鈴仙の見たままなのか、それとも薬の副作用による幻覚なのか。答えなどありませんが、可能性に想いを馳せるというのは楽しい事です。
ご馳走様でした。
4.100時空や空間を翔る程度の能力削除
鈴仙が見た未来や過去・・・
目を覚ましたら
辛い思い出になるか
良い思い出に変わるか・・・・・

私は良い作品を読みました。
5.70司馬漬け削除
好きなものを好きなように書いたのが伝わってきて、良かったです。鈴仙は自分からジャンプしても上手く飛べない子なのかもしれません。
9.100三文字削除
素直に面白かったと思えた作品です。
日本神話の話を色々と取り入れていたり、永淋のデヴァイスの話や、幻想郷の成り立ちの話など、色々と興味深かったです。

あと、蛍香ちゃんカワイイよ蛍香ちゃん
リグルンと幽香がどうやって子作りしたか気にな(元祖マスタースパーク
やっぱり愛は性別をこえるのかー
15.100名前ガの兎削除
すげぇ、この発想は無かった。
それに発想止まりではなく各々の時代に各々のストーリーを描写し、さらにその一つ一つが面白くて脱帽。
欲を言えば時代ごとにもっと長いお話をつけて欲しかったけれど、それをするとこの話の味が死んでしまう気もする。

何が言いたいかってーと、面白かった ご馳走様。
16.60ライス削除
きれいな幻想郷でした。
まさに幻想郷、てな感じでした。
17.90n削除
これはいいSFですね。場面が次々と移り変わり、
飽きることなく楽しめました。
あなたが次にできる善行は風見蛍香誕生秘話を書くことです。
20.100イスピン削除
風見蛍香が嫌な予感をかき立てる名前だと?素晴らしい名前じゃないか!頭に触覚があるのも良いじゃないか!
……あれ?でも、風見幽香って一人一種族の妖怪だったような…ま、いっか。

ともあれ、幻想は受け継がれていくのですね。
国津神と天津神の闘争や、幻想郷の歴史など、読んでて面白かったです。
個人的なMVPは咲夜さんの顔を見て驚いた永琳の謎の種明かしですが。
23.40名前が無い程度の能力削除
一部を除いて意識して力を行使したのではなく、ランダムに飛ばされたのにそれぞれピンポイントに歴史の改変期を見て取れたのはご都合主義過ぎるかな、と。
アイディアや解釈は斬新でした。
26.60名前が無い程度の能力削除
秘封倶楽部の出番があるかと思ってしまった
31.1007743削除
久々に東方空想科学的良作を読ませて頂きました。感謝。
35.90名前が無い程度の能力削除
ムテキング否ムテクイーンとかタンクを相手にするときは縦だとかいろいろ思った。
これは面白い。
あと、幻想郷に行けばまたジョーカーが吸えるのか。
だとしたら是非とも行ってみたいな……。
37.100名前が無い程度の能力削除
これは良作。
永林と咲夜の設定あたりがおいしいと思います。

蛍香ちゃん…ほんとうにいろいろと妄sじゃなかった。想像を掻き立てられる名前です
39.100名前が無い程度の能力削除
普通にかなり面白いですね。未来の方が良いのがいい。
旅行先はきっと鈴仙の無意識下の願望を反映しているのでしょう。
42.90蝦蟇口咬平削除
ごめん、いちばんきになったのは風見蛍香さん・・・
46.100名前が無い程度の能力削除
これは良作のSF!普通に面白かったし、東方がSF的下地を持つというのにも禿同です。こうして見ると幻想郷の歴史より月世界の歴史の方が遥かに永かったんですね。普段意識していなかったのでなんか意外でした。
>「……!? なんじゃあ、こりゃああ!」
>「すげええ」
鈴仙って驚いたときこんな言葉遣いでしたっけ?
時間移動先は六つの内一つは意識して跳んだからランダムは五つ。加具土とオモイカネの時は意識して跳んだ後だから無意識が働いているとすれば残りは戦争中・平和な未来・幻想郷誕生の三つ。このうち歴史改変期は最後だけなので割合としては三分の一。そんなにご都合主義でもないと思いますよ。
47.90名前が無い程度の能力削除
こういう発想が浮かぶのは正直に凄いと思います。
いろんなSF作品たちが脳裏に去来しました。

良い作品、ありがとうございました。
49.80deso削除
なにげにパタリロを思い出した自分は間違いなく少数派。
SF良いですね、SF!
シリアス長編として使えそうなネタをさくっと使っちゃうところが素晴らしい。
56.100fe削除
展開がすごすぎて唖然としました。面白い
57.100Admiral削除
先にHPの方で読んでしまったのですが、改めてこちらで読ませていただきました。
上手い、上手すぎる…!
是非この作品にも挿絵をお願いします!

最後の知識人達がまだ懲りない?様子がちょっと気になりましたが、彼女たちはうどんげの体験を知らないから仕方がないか…。

あ ん た は 最 高 だ !
59.70ドライブ削除
東方をSFにするというアイディアがいいですね。幻想郷の誕生を見れた気がしました。
63.100名前が無い程度の能力削除
うわ…これはすごい…
64.100じょにーず削除
こういうSFはだいすきなんです………
67.70名前が無い程度の能力削除
良いですねぇ…
69.100自転車で流鏑馬削除
ぶわってきた
なんかぶわってきた
82.100名前が無い程度の能力削除
泣いた。
いちいち物語の中へ吸い込まれてしまった