彼女の家に家族が増えてから一ヶ月。
その間の日々は、本当に何事もなく、ただただ平和で、ひょっとしたらこれこそが幸せと呼べるものかもしれないと、そう思えてしまうほど、本当に穏やかな日々だった。
真白な犬は、キボウという名前を与えられた。漢字にすると、「既望」だそうだ。
これは、私の名字、十六夜にかけたものだと美鈴は言う。
既に望月を過ぎた月。
十五夜を越えて、やや遅く昇る月を、躊躇っていると見立てた言葉。
けれど、そんな言葉の意味は、彼女は勿論、私にも何ら関係はなかった。
私の名前はお嬢様からもらったということだけに意味があるのだから。
だとしたら、美鈴のつけた名前にはどういう意味があるのだろうか……。
「いってらっしゃい」
いつだったろう。
私が屋敷に戻るさい、美鈴がそう笑いかけてくれたことがある。
さようならでも、またね、でもなく。いってらっしゃいという言葉。
私は正直戸惑った。
美鈴の笑顔にではない。彼女の笑顔自体は、キボウと共に暮らすようになってから、みるみるうちに増えていった。今では、かつての表情が乏しく感情が見えなかった様子を伺い知ることは出来ない。
あの頃の美鈴を知っている者が、今の彼女を見れば、まず間違いなく首を傾げるだろう。
それほどまでに、彼女は変わったのだ。
そんな彼女と、ことある事に付き合っている私は、流石にそれで戸惑うほど鈍いわけでもなく、変わっていく彼女をただ受け入れている。
そういうわけで、私が戸惑ったのは、美鈴の笑顔ではなく、その言葉のほうだった。
いってらっしゃい。なんて言葉。生まれて初めてかけられた気がする。仕事上、言うことはあったとしても、だ。
「…………」
私は即座に返事をすることが出来なかった。
いってらっしゃい。
それは、家から出かける者にかける言葉で、おかえりなさいへと続く言葉。
今更思考するまでもないけれど、つまりそれは、帰ってくる場所の存在を表している。
“家”があるから、その言葉が成立するのだ。
ということは、だ。美鈴は、このちっぽけで薄汚れて質素で今にも壊れそうで、そしてそれ以上に温もりに満ちたこの家を、私の帰る場所だと、そう思っているというのだろうか。そう、思ってくれているというのだろうか。
……愚問ね。
自分の考えに、私は思わず冷笑を浮かべる。
この子は深く考えが回るほど利口な子ではない。そのことは、誰よりも私が知っている。だからきっと、そういうことなのだ。
「…………行ってくるわね」
多分、私は笑っていたと思う。だって、目の前に立つ美鈴も、幸せそうに笑っていたのだから。
真白な子犬も、「わんっ」と小さいながらに元気な声で、私を見送る。
――あぁ、本当に。これが幸せと言わずになんて言うのだろうね。
キボウといつも遊んでいたのは彼女の方だった。
私はいつも、一歩退いたところで、それを眺めていた。
家の近くの広場を、真白な犬と駆け回る彼女の表情はいつだって弾んでいて、私はそんな彼女の姿を眺めているだけで、なんだか満たされたような、そんな気分になれたのだ。
彼女は本当に楽しそうで、幸せそうで、私はそれを見ているだけでよかった。
その数ヶ月は本当に幸せだったのだ。
私の半生において、その数ヶ月は決して忘れない日々だった。始まりも、終わりも。
その日は朝から雨が降っていた。
しとしとと、ただ降り続けるだけの穏やかな雨だ。
こんな天気の日は、どうしてだか憂鬱とさせられる。それはきっと、外で元気に駆け回る彼女と子犬の姿を見ることが出来ないからだろう。
お昼を過ぎた頃だったろうか。私は唐突にお嬢様に呼ばれた。
お茶の時間には早すぎて、お昼の時間には遅すぎる、そんな微妙な時間帯。普段なら、美鈴の所に行っているか、溜まった雑務を片づけているかのどちらかである時間帯である。
「失礼します」
頭を下げたまま室内へ。顔を上げると、退屈そうにつまらなそうな顔をしたお嬢様が、雨や何かで汚れた服のまま、呆と窓の外を眺めていた。
「どうなさいましたか?」
私の声にも、お嬢様は反応しない。
どうしたというのだろう。不信感を拭えない。なぜだか嫌な予感がする。
一歩踏みだし、お嬢様の所へ向かおうとしたとき、お嬢様は冷めた眸を私に向けた。
ぞわりと、背筋が凍った。沸々と鳥肌が立つ。
それほどに、冷めた眸。感情一つない眸。美鈴の無表情とはまた違った無表情。威圧感溢れる無表情。
「どう、なさいましたか?」
再び私が尋ねると、お嬢様は小さく嘆息する。
「つまらないものを殺したのよ。えぇ、本当に本当につまらないものよ。殺したことさえつまらない。単に鬱陶しかっただけ。それだけなのよ」
するりと私に向けた右手は、赤く染まっていた。考えるまでもなく、それは血だ。それに慣れ親しんでしまった私は、今ようやくその臭いに気づけた。
「…………ひとまずお着替えを」
「そうね。えぇ、まずは着替えが先ね」
お嬢様は譫言のように呟くと、つかつかとシャワールームへ向かう。
「あ、私が」
「今日は一人で入るわ。着替えを用意しておいて」
素っ気ない態度。お嬢様はそのままシャワールームへと姿を消す。
少しして、雨の音に混じってシャワーの音が聞こえてくる。
私はそそくさと、クローゼットより洗い立ての下着とドレスを手に取ると、シャワールーム前にかけられてあったハンガーへとかける。
続いてタオルを手に、そのままお嬢様が出てくるのを待った。
何十分待っていただろう。
シャワーの音が途切れ、中から裸のお嬢様が姿を見せる。
「……ありがとう」
私からすっとタオルをとると、私が拭こうとするのを遮って、自分で身体を拭いてしまうと、やはり私の手を借りることなく着替えを済ませてしまう。
「……ハーブティを、いえ、やっぱりいいわ。何もいらない」
はぁ。と深い溜息をついて、お嬢様はまた窓際の丸テーブルの席へつく。
私はただそれに付き従い、後ろに立つ。
「…………私はね、あなたをかっていた。人にしては面白い力を持っているし、どこまでも冷たくて冷静だと思ったからよ。けれど、それは間違いだったようね。やはりあなたは人間よ。裏切るのは人間だけですもの」
最初、何のことだかはわからなかった。
けれど、徐々に何かわかってくる。
何かを殺してきたお嬢様。裏切りという言葉。
もしかして……。
私がそう思い当たるとほぼ同時に、お嬢様が口を開く。
「今日、なんとなく雨の中を散歩したら見つけたのよ。白い犬。馬鹿みたいに真っ白な小さな犬よ。警戒もせずに私に近づいてきたわ。えぇ、あんまりにも無邪気すぎて思わず殺せちゃったくらい、本当に無防備。このあたりの動物は、まず私の館には近づかないわ。近づいたところで、無警戒なんてありえない。だからね――」
少しだけ振り向いて、私に鋭い視線を注ぐ。
私は表面上動揺を隠し、けれど内心今にも駆け出したい気持ちを抑えて、ただお嬢様の言葉を聞き続ける。
「――以前あなた、ペットがどうのと言っていたわね。あの犬、あなたのペットだったのかしら?」
もしそうだったら許さない。お嬢様の眸はそう語っていた。
私は、答える。
「…………いいえ。違います」
それは事実だ。
けれど、その言葉で彼女を裏切ったのは確かだった。
つまり、私はここに来て人を二度も裏切ったのだ。お嬢様風に言うのであれば、私が人間だから。なのだろう。
「……そう。だったらいいのよ。あなたの言葉を信じるわ」
そうお嬢様は言っていたが、眸はそうは言ってなかった。「この場はそういうことにしてあげる」ようするに今回だけは見逃すと言っているのだ。
そのまま、私はお嬢様に下がっていいと言われるまで無言でその場に立っていた。
お嬢様もまた無言だった。
そのとき、私の心に去来していたのは、多分後悔。
お嬢様の部屋を後にして、そのまま美鈴の元に走っていったのは言うまでもなかった。
彼女は雨の中立っていた。
一人で立っていた。
身体がびしょ濡れになるのも構わず。そもそも、雨のことを意識しているかもわからない。ただ、立っていたんだ。
視線を足下へと移す。最初、それを見た瞬間、塵か何かかと思った。
広がっている赤い血で、それがようやく、あの真白の子犬だと気づけた。
やっぱり。
キボウの死体を見て思ったのは、ただそれだけだ。
やっぱり。お嬢様はこの子を殺していたのか。と。
びしょ濡れになるのもかまわず、ただ美鈴は立ち尽くしていた。
一歩踏み出す。
ぴしゃりと水が跳ねた。
びくりと美鈴の肩が震え、そこでやっと彼女は私に気づく。
「…………」
「…………」
その眸には感情が篭もっていなかった。
初めて彼女と出会ったときのような、そんな死んだ魚の目。
私は声をかけることが出来なかった。
なんて言ったらいいのか、それがわからなかったのだ。
「…………ねぇ」
そんな中。彼女が口を開く。
私は一字一句聞き逃すまいと、耳を澄ます。
「……なんで?」
美鈴は、私に尋ねる。
「なんで?」
聞かれる。
でも、私は、答えれない。
なんて答えたらいいのかわからない。
「なんで? なんでなの?」
美鈴が踏み出す。子犬の死体を避けて、私の目の前に立つ。メイド服を捕まれる。ぎゅっと。手が真っ白になるくらい力を込めて。
「なんで、この子が死んでるの?!」
…………それは、私の所為だ。
「私の大事なもの、また死んじゃった。なんでなのっ?!」
……それは、私の所為だ。
「大切だったのに。大事だったのに。ずっと一緒にいるって、そう思ってたのに、どうしてなのっ」
美鈴は泣いていた。
彼女の泣き顔は、初めて見た。
それはきっと、今まで彼女が泣くような出来事がなかったからだ。
それはきっと、今までが夢のように楽しく幸せな日だったからだ。
私は抱きしめてあげることも、声をかけることも出来なかった。
ただ私の服を掴んで、小さな子供のように泣き叫ぶ彼女を見ていることしか出来なかった。
そう、これで終わったのだ。
彼女が望んでいた家族。一緒にいつ何時も共に過ごす家族。彼女にとって、この殺された子犬がそれで、それだけが彼女の幸せに繋がっていた。そう、彼女の笑顔が増えたのも、この子犬のお陰だった。彼女が幸せそうにしていたのも、この子犬が来てからだった。
私は何もしてない。この子犬のお陰で、私は彼女の笑顔を見ることが出来たのだから。
だから、今の私には何も出来なかった。
出来なかったんだ……。
そのあとの数日間。美鈴は人形のようだった。
呆としたまま、ずっと椅子に座っていた。
一人では食事もとらない。一人では何もしようとしない。ただ、椅子に座って窓から外を眺めていた。
番人としては失格で、生気さえも感じられず、放って置いたらそのまま死んでしまいそうだった。
こうなってしまったのも、私の責任だ。
私があのとき、嘘をつかなければ、そのときは落ち込んだかも知れないが、今のような状態にはならなかったに違いない。だってそうでしょう? 彼女は幸せを望み、それが叶って、そしてそれを失ったのだから。期待して、裏切られたのだから。
傷を浅くしたかったら、初めから望まなければいいんだ。望まなければ、願わなければ、傷は浅くて済む。望んで願うから、傷はどこまでも深くなっていく。今の美鈴の状態がそうだ。深い傷を負って、生きる気力を失った。
無責任な責任感から、私は美鈴の世話をしていた。
お嬢様には勿論何も話していない。もしも、あの子犬が彼女のペットだと知ったら、お嬢様は彼女を間違いなく殺すかどうにかしてしまうだろう。
彼女の家に移動する時間は、幸いにも私の能力でどうにか出来た。
ほんの三十分程の時間さえあればいいのだ。食事を手に、止められた時間の中彼女の家に向かい、世話をして帰る。
掃除や片づけをする時間は止めている。食事と身体を拭くときだけ、時間は動いている。
彼女は一人でものを噛み飲み込もうともしなかった。だから、食事は主にスープ関係だけ。それをスプーンで掬って、彼女の口に近づけて、無理矢理流し込む。飲み込まなかったスープは、口の端からこぼれる。それをハンカチで拭い、ただ食べさせる。食べないと人は死ぬから。だから、無理矢理にでも食べさせるのだ。
美鈴は、されるがままだった。
本当に、自分では何もしようとしない。
服を脱がせて身体を拭いている間も、彼女はぴくりとも反応しなかった。
人形を相手にしているような気持ち。このままずっと、彼女がこの状態だったら私はどうするんだろうという不安。先が見えないという、不安。
正直、放棄したくなった。泣きたくなった。
でも、彼女がこうなってしまったのは私の所為。
あの雨の中、何か上手く慰めていれば、こんな状態にはならなかったかもしれない。
あのとき、ペットを飼えるという嘘をつかなければ、こんな状態にはならなかっただろう。
そもそも、あの約束をしなかったら…………。
後悔は後で悔いるから後悔で、私はただその想いに潰される。
そんな日々は一ヶ月くらい続いた。
一ヶ月後の私は、本当に辛かったことを覚えてる。
もう何もかも投げ出してしまおうと思っていた。
美鈴は話しかけても何も答えてくれない。何かしても何も言ってくれない。そのことが本当に辛かった。
以前のように笑って欲しい。以前のように話をしたい。
そのことさえ、もう叶わない願いだと、無情な現実だけを突きつけられる。
そこでやっと私は気づいた。
望まなければ傷は浅いと思っていたのは私だ。
今の私は、傷ついている。
どうして?
きっと、知らず知らずのうちに望んでいたのだろう。
あの、幸せだった日々を。本当に、心から楽しんでいたのだ。
だから、あの日々をもう一度迎えたいと願っている。願ってしまった。
気づいたら、泣きたくなった。
何も言わず、何もしようとしない彼女の身体を拭きながら、辛くなって、泣きたくなって、私はほんの少しだけ、涙を流した。たった一度だけで、たった一筋の涙。それが、私の初めての涙で、初めての後悔だ。
「……ねぇ、私。もう一度お嬢様に頼んでみるわ。もう一度ペットを飼えるように頼んでみる。そしたら、また以前のように賑やかになると思うわ」
美鈴は何も言わない。
「今度もまた真白な子犬にしようかしら? 今度は名前、私が考えるわ。あぁ、それとも次は猫にする? あなたの好きな動物を飼いましょう」
美鈴は何も言わない。
「ね、そしたらきっとまた、以前のように楽しい日が待ってるわ。きっと、きっとよ」
美鈴は何も言わない。
「………………」
彼女の身体を拭いていた手が、ぴたりと止まった。
何度声をかけただろう。何度話しかけただろう。
でも、一度だって反応はなかった。
今だって、反応はなかった。
もう、嫌だ。
「喋ってよ……」
彼女の肩に手をかける。ろくな食事もとれないから、すっかり骨ばった身体になっている。
「お願いだから喋ってよ……」
揺すってみる。反応はない。
「喋って…………喋ってよ………」
揺する。ただ揺する。
美鈴はされるがまま。ただ揺れる。
「……喋りなさい!」
一際強く揺すって、思わず肩から手を離してしまう。
ぐらりと、彼女の身体は揺れて、椅子から転がり落ちた。
それでも、何の反応はなかった。
転がり落ちたままの姿勢で、ぴくりとも動かなかった。
死んでるのだろうか。
そう思えた。でも、呼吸音が聞こえて、まだ生きてるとわかった。
このまま殺してあげたほうが、彼女にとって幸せなのかも知れない。
そう思ったときには、すでにナイフが握られていて、そのことに気づいて私は愕然とした。
彼女がこうなってしまったのはきっと私の責任。
でも、私はその責任さえ、もうとれない。
「…………」
ナイフを振り上げて、振り下ろそうとして、身体が震えていることに気づいた。
昔は人を殺すことを躊躇わなかったのに、何十人と殺しても心は動かなかったのに、今は、たった一人殺すのがこんなにも怖かったんだ。
「…………っ」
きゅっと目を瞑る。
思い出すのはなんだろう。
自分のことなのに、わからなかった。
ただ、これ以上その場にいることが辛くて、痛くて。
そのまま、私はその家をあとにした。
最後に一度振り返って、外に出る。
彼女が、泣いているように見えた。今や自分で何も出来ない彼女だから、きっとそんなことはないのにね。
自分の部屋。夜で、眠りにつく前に、ただ天井を見つめていた。
私は今日何をしていたんだろうか。
単に疲れて、辛くなって、嫌になって、彼女を殺そうとした。
私は、一体何をやってるんだろう。
心底自分が嫌になった。
これのどこが、完璧なメイドなのだろう。
溜息を吐く。思ったよりも、昏いものだった。
誰かの世話するというのは、本当に大変なことだった。
何も語らない彼女を、何もしようとしない彼女の面倒を見るのは、本当に大変で、一体自分はいつまでそれをしたらいいのかわからなくて、先が見えなくて、次第に辛くなっていった。
初めの頃は、責任感という言葉で自分を奮い立たせていた。私の所為だからって、そう思うことでなんとかやってきた。
でも、数週間経つと、それだけじゃ駄目だった。惰性のように面倒を見る。惰性のように話しかける。内容はほとんど同じで、元々話し上手ではない私には話題なんてなくて、その日あったことを伝えても、これからしようと思うことを伝えても、何の反応もない彼女を見るのが、ただ辛かったのだ。
辛くなって、辛くて、辛いんだ。
だから最後。今日。ただ嫌だから。この日々を繰り返すのが嫌になって、彼女の面倒を見ることが辛くなって、私はそれを放棄した。
裏切って、嘘をついて、また裏切って。
どこまでも中途半端で。
…………全てがどうでもいいと、そう思えた。
次の日、私は初めて彼女の家に行かなかった。
彼女は何も出来ない。
だから、多分、昨日のあの状態のままぴくりとも動かず、衰弱していくだけなんだと思う。
そのことはわかっていた。
でももう、私があの家に行く資格なんてないと思ったんだ。
「咲夜さん、これ、見てくださいっ」
真白な子犬を連れて、美鈴が私の所に駆け寄ってくる。手にしているのは赤い花。
「これ、向こうに咲いていたんです。綺麗でしょう? なんて名前かわかりますかっ?」
差し出されたそれを、私はじっと見つめ、
「アネモネね。花言葉は沢山あるわ。例えば、見捨てられたものとか儚い恋とかね」
私の言葉を聞いて、美鈴はむぅと眉を寄せる。
足下で子犬もくぅんと鳴いた。
「嫌な言葉ですね」
「でもね」
私は微笑みかけて、言葉続けた。
「あなたを愛しますという言葉も、恋のための苦しみという言葉も、期待も、真実も、この花の花言葉なのよ」
「…………ふえー」
美鈴は感心したような表情をして、その顔がなんだか真抜けて面白かった。
「きっとね、それは全部同じ意味なのよ」
「同じ?」
首を傾げる彼女に、私はえぇ。と肯く。
「儚い恋でも、愛していたことには違いないわ。そのために期待するのも同じ。もしもそれで恋が破れたら、それは見捨てられたということかもしれない。それは真実。でも、そういう苦しみ全てを含めて、人はきっと恋って言うのよ」
「…………なんだか咲夜さん、詩人みたいです」
彼女に言われて、私ははっとした。
「忘れて頂戴。柄じゃなかったわ」
「あ、咲夜さん照れてる?」
「照れてないわよ」
素っ気なく返す。あぁ、無様。それで照れてるということがわかるじゃないか。
「あはは、咲夜さんが照れてるー」
美鈴は笑いながら、子犬をそっと抱き上げて、そのままくるくるとその場を回った。
「あ、この花綺麗だから咲夜さんに上げます」
「……嫌な花をくれるのね」
私が何とも言えない表情をすれば、美鈴は笑って、
「その花は、それだけで恋の全てなんでしょう? だったら、いいじゃないですか。綺麗だっていう理由だけでも、ね」
最後のね。で、彼女は一番の笑顔を見せてくれた。
しゅるりと彼女の手からキボウが逃げて、慌てて美鈴はその後を追う。勿論、笑顔で。
私は渡されたアネモネを見つめて、なんだか不思議な気持ちになった。
――そんな以前の、幸せだった日の夢を見た。
美鈴の家。
もう二度と来ないだろうと思っていたのに、それはたった一日だけのことだった。
でも、扉を開けるのは怖かった。そこに変わらない風景が広がっていたらと、不安になった。またあの日々を繰り返すだけなのは、ただ辛いから。
でも、私が面倒を見なければ、彼女は死んでしまう。このままここに来ないということは、彼女を見殺しにするということだ。
どれだけ、扉の前で葛藤していただろうか。
最後に私を後押ししたのは、今日見た夢だった。
あの幸せな日々。また来るかも知れないと、それを信じる。
だから、行こう。
ドアノブに手をかける。
かたりと室内から物音がした。
でも、それは気のせい。だって、この家の主はもう、自分で何かをするということを忘れてしまっているのだから。
ぎぃぃと、立て付けの悪い扉を開けてみれば、以前と変わらない風景が広がっている筈だった。
でも、そこで私は思わず身体が固まった。
何もなかったからだ。
いいや、家具はある。でも、そこに倒れていなければいけない人が、そのままでいる筈だった人が、何処にもいなかった。
慌てて家の中を漁ってみた。
小さな家だ。時間を止めるまでもなく、すぐ探し終わった。
でも、誰もいなかった。
「――――」
たった一日だ。
たった一日この家を尋ねなかっただけで、彼女は姿を消した。
でも、どうやって? 動ける筈ないのに。
……動ける筈、…………動けるようになったのだろうか?
また、彼女は自分の意志で動けるようになったのだろうか。
本当に? わからない。でも、でもっ。
私は慌てて外へ飛び出す。そして夢にもみた、あの広場に走る。
私たちはいつだってそこで二人と一匹でいて、そこで幸せな日々を作ってきたから。
走って、辿り着いて、私は顔を上げた。
広場の真ん中。
ぽつんと、彼女がしゃがみ込んでいた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息を整える。
その音が聞こえたのか、彼女は顔を上げて、そして私の姿を見つけた。
彼女は、ぎこちなく笑った。まるで、笑い方を初めて覚えた子供のように。
「…………これ」
しゃがみ込んだまま、美鈴は一本の花を私に差し出した。
それは、あの赤い花。
綺麗な赤い花で、思い出の花。
私はゆっくりと歩み寄って、それを受け取る。
「アネモネね」
「……恋の花」
ぎこちない笑顔を浮かべたまま、美鈴は立ち上がる。私のすぐ目の前に、ちゃんと立った。
ずっと、自分で何かをすることさえ止めていたのに、今こうやって目の前に立っていた。
でも、何と言ったらいいかわからなくて、ただ黙っていた。
一度は殺そうとしたこの子に、なんて声を掛けたらいいのか、そもそも声をかけていいのか、それがわからなかったんだ。
しばらくそのまま立っていて、やがて美鈴が口を開く。
「…………私、ずっと聞いていた」
「え?」
「咲夜さん。私に色んなことを話してくれていた。ずっと面倒を見てくれていた。でも、私、何も言えなかった」
「…………」
「咲夜さんには一杯迷惑かけたけど、でも、私、何も出来なかった。喋ろうと思っても、口を開くのも辛くて、身体を動かそうと思っても、動くことさえ辛くて。どうして私ばっかりって、私だけがって、ずっと悲しかった」
美鈴は顔を伏せる。私は何も言えなかった。
「でも。それは違ってたんだね」
私が少し眉をよせる。美鈴は顔を少し上げる。
「この間の咲夜さん、泣いてた。今まではずっと甘えていて。私ばかり大切なものをなくて、世界で一番私が不幸だってそう思って、世界で一番私が辛いんだって思っていたけれど、それは間違いだってそのときやっと、気づいた。気づけた」
そっと、彼女が私の手をとった。
「咲夜さんだって辛かった筈だよね。何もしようとしなかった私の面倒をずっとみて、辛くない筈がないよね。それでもずっと我慢して、私の傍にいてくれたんだよね。私、馬鹿だからわからなかった。咲夜さんがそうしてくれているのって、仕事だと思ってたの。だから甘えていたんだと思う。だから私は、咲夜さんに謝らないといけない。ごめんなさい。ずっと甘えていて、ごめんなさい。迷惑掛けて、ごめんなさい……」
私は何も答えれなかった。
私に何が言えると思う? 私は自分が辛いからと、彼女を殺そうとしていたんだ。それなのに、彼女は私に謝ってる。そんな相手に、私はなんて答えられる?
「…………やめてよ」
だから、口から出たのは拒絶の言葉。
「咲夜、さん?」
私の手を握っていた彼女から、力が少し抜ける。
「私はあなたを殺そうとしたのよ。ちゃんと覚えているんでしょう? だとしたら、どうしてそんな相手に謝ることが出来るのよ。憎んでもらったほうが、まだマシよ」
「…………憎むなんて出来ないよ」
私は、はっとして美鈴の顔を見る。
「辛かったんだよね。私がしっかりしてなかったから、咲夜さん辛くて、だから私を殺そうとしたんでしょう? 私も多分そうするよ。生きてるか死んでるかわからない人だもの。それなら、無理に生かすより殺したほうがその人にとって幸せかもしれないとか思うよ。だから、そこまで追いつめてしまったことを私が謝ったとしても、憎むことなんてないよ。それにね」
再び美鈴の手に力が込められて、
「咲夜さん、あのとき私を殺すこと出来た筈なのに、殺さなかったじゃない。だから、私のことはいいのよ」
「…………でも」
私がその先を続けようとして、ぎゅっと美鈴に抱きしめられた。
唐突なことで、思わず言葉を失う。
「私、咲夜さんが好きよ。…………だから、殺されていたとしても、幸せだよ」
胸に顔を埋めて、美鈴が呟く。
私は、もてあましていた手を、彼女の背中と、頭に乗せて、そっと寄せる。
「馬鹿ね。殺されて幸せなんて事、あるわけないわ」
「そっか……」
「…………許してくれるのね」
「うん。咲夜さんも、迷惑かけてごめんね」
「いいのよ。あなたが元気になってくれれば、それでいいの」
彼女の背中越しに、渡された花を見つめる。
「アネモネね」
「うん」
「恋の花」
「うん」
「…………ありがとう」
「私も。ありがとう、咲夜さん」
それから、しばらくの間私たちは抱き合って、それからどちらかともなく笑った。
辛さがなくなったわけじゃない。
美鈴は家族を失ったし、私も裏切ったという事実は消えない。
でも、一人じゃなかった。
だから多分、大丈夫と、そう言える。
そう思った。
「ふぅ…………」
薫りのいいハーブティを飲み干して、私は小さく嘆息する。
半生を省みるというのは、なかなかに大変なことだと思った。
振り返ってみれば、ベッドの上には幸せそうな表情で眠る美鈴の姿がある。
この子は数年経ったところで相変わらず子供っぽい。
なんだか頭が痛くなって、また溜息を吐く。
時刻を確認すれば、彼女はとっくに門へ立ってなければいけない時間だった。(私は久しぶりのオフだ)
ここは一つ心を鬼にするまでもなく、いつものようにベッドへ歩み寄ると、そのまま暢気に惰眠を貪る彼女の頬を、思いっきりひっぱたいた。
「あぐっ」
面白い声を上げる。
もう一度叩く。
「ふぐっ」
そうして、ゆっくりと薄目あけられ、虚ろな眸は右往左往とする。
「あっれぇ。咲夜さん、どうしたんですかぁ?」
目の焦点が私にあったのだろう。にへらとした表情を浮かべる。
とりあえず、もう一度ひっぱたく。
「ぎゃうっ。痛いですよーもう」
叩かれた頭を撫でながら、ようやく目が覚めたのか、しっかりとした声を上げる。
「起きたわね」
「起きますよ。人の頭をぽんぽんぽんぽん。馬鹿になったらどうするんですかぁ」
「大丈夫、昔から叩き続けたお陰で、今ではすっかり手遅れよ」
「全然大丈夫じゃありませんよっ」
顔を真っ赤にして美鈴。
なんというか、いつの間にか、この子を弄ることが生き甲斐となっている節がある。
それになんというか。苛めたときのこの子の顔が、それこそ餌をお預けされた犬のように、可愛らしい表情なんだ。(私は決してサドではない)
あと、何度叩いたり苛めたところで、反応は変わらず面白いというのも理由の一つ。(繰り返すが、私は決してサドではない)
「ほら、時間確認しなさい」
懐中時計を彼女に見せると、一瞬ぽかんとした表情を作り、そこから赤くなり青ざめた。ふむ、面白い。
「あわわわわっ、やばいやばいですっ。時間ーっ」
慌てて起きあがると、髪も梳かさず、服の乱れも直さずそのまま部屋を出ていこうとする。
いつもの光景だった。
私はなんとなくおかしくなって少しだけ笑う。
「美鈴」
「はい?」
部屋を出ようとした彼女に声をかける。
「いってらっしゃい」
「…………」
彼女は少しだけぽかんとして。やがてにこりと微笑んだ。
「いってきます」
本日快晴。私は今日も幸せだ。
-終-
感動した
長々とは出来ないので一言。
いいもの読ませていただきました。
お互いがお互いを寝ずり合っているところではどうなるかと思いましたが
優しく終わってよかったです