※この作品は久遠恭介と凪羅による合作になっています。
天界は相変わらず暇。
あの小鬼もさすがに天界の退屈さには参ったらしく、地上に降りてくれたみたい。
私の領域に図々しく入り込んでいたからそれは不満だったけど、あれもいたらいたで退屈凌ぎにはなっていたからちょっとだけ損した気分。
天界は雲の上、天気なんて変わらない。
下界はどうやら梅雨に入ったとかで雨と快晴、曇りが不定期に繰り返されているとか。
こっちは変わらない天気にうんざりしてるってのにあいつら地上の人間は天気の変化に恵まれているなんて贅沢なものだ。
そう思うとなんだか無性に腹が立ってきた。
「あいつらだけに変化する天気を満喫させて堪るもんですか。私も存分に楽しんでやる」
退屈凌ぎにもなるし、腹の虫を収めないとどうしようも無いから、取り敢えず地上に降りてみる事にした。
天界を出ると、その下の雲は鼠色に濁っていた。
雷鳴轟く鼠色の世界。
その雲の海を、ひらひらと羽衣を舞わせながら泳ぐ。
鳴り響く雷鳴は恐ろしい響きだけれど、彼女にとってはそうではなかった。
よくある風景。よくある音響。
なら、今ここにある鼠色の世界もまた、龍宮の使いたる彼女――永江衣玖にとっては当たり前の風景だ。
「下界は雨季。なればこの雲も暫くは続くのでしょうね」
何気なく漏れた言葉には特別な感情もなく、雷の音にかき消えた。
天子は眼下に広がる鼠色の雲の海を眺めながら、躊躇していた。
この鼠色の雲は明らかに雨雲。となれば、この雲の中は多量の湿気と雷の嵐で堪ったものではないだろう。
しかし周囲を見渡しても雲の途切れは無く、下界に下りるならば雲の中を突っ切るしか道は無く、天子は小さく溜息を吐いた。
「今更戻るのも馬鹿らしいし、緋想の剣で吹き飛ばしたら折角の梅雨の天気が台無しだわ。あんまり気は進まないけど、通るしか無いのかなぁ」
そうぼやきながら、天子はゆっくりと巨大な雨雲を目指して下降。
程無くして雨雲に頭から入った天子はすぐに不快な湿気と食らい雨雲の世界に眉を潜めた。
「うぅ、やっぱ気持ち悪いわねぇ……」
文句は言うものの、中に入らなければ話にならない。
さっさと通り抜けてしまおう、とそのまま上半身を潜らせ、下半身が雲の世界に侵入した時だった。
天子は真横から視線を感じ、反射的に横を向いた。
「……何をしているんです?」
「……えーっと、衣玖……?」
少しばかり驚いた顔をして天子は衣玖を見る。
衣玖はといえば、何故彼の人がこんなところにいるのだろうという疑問と共に、まさかまた地震のときのような異変でも起こそうとしているのかと、訝しげに彼女を眺める。
「どうされたのです? このようなところに降りて来られて」
「いやね、退屈だったのよ。それで下界は今梅雨でしょ? 天気の変わらない天界にいるより楽しいんじゃないかなーって思って」
今降りてるところ、と天子は下方の雲を指差す。
それで言いたい事をしっかり把握したらしい衣玖は、異変を起こそうとしている訳ではないと安堵すると共に、地上で面倒事を起こさないか心配になるのだった。
「このようなことはあまり言いたくはないのですが、お戯れもほどほどに……」
「退屈だから戯れやってるのよ。衣玖ったらちゃんと言葉の意味考えないと駄目よ?」
天子は人差し指を立て、得意げにそんな事をのたまう。
「はあ……」
立場上強く言えないこともあり、なんとも困った表情で衣玖は曖昧に相づちをうつ。
全く総領娘様には困ったものだと、溜息が一つ零れた。
「でさ、どうせだから衣玖も一緒に行かない? 折角顔合わせたんだし、たまには息抜きしないと帽子の中に抜け毛溜まっちゃうわよ」
非常に失礼な物言いだが、自分勝手で相手の気持ちをよく考えない天子には常日頃の事である。
更に天子は既に衣玖の手を掴んでいて、相手の了解を求める発言をしておきながら、逃がすつもりはない、という意思を表していた。
「……手を掴まれたところで、私は行けませんよ」
「えーどうしてよー。どうせ雲の中飛んでるだけじゃない、龍宮の使いなんて」
「それが私のライフワークなのですけれどね。……それに、私は人間の世界に用なんてありませんから」
「衣玖に用があっても無くてもどうでもいいの! 私がついてきて欲しいだけなんだから、衣玖は付いて来ればいいのよ!」
そう言って、天子は掴んだままの衣玖の手をぐいぐいと引っ張る。
「ってちょっと! そんな勢いよく引っ張らないでくださいっ!」
「ほらほら、大人しくついて来る来る! いいじゃないライフワークって言っても、要はやる事無いからやってるだけでしょ」
「そんな強引なっ!? あっ、ちょっ待っあああああっ!」
手を掴んでいる相手が相手なため、強引に振りほどくことも出来ず、流されるままに連れて行かれる。
天子は衣玖の手を引きながら雲を抜け、どんどんと高度を下げていく。
次第に上空のひんやりとした空気から梅雨特有のじめじめとした空気へと変わっていき、降り注ぐ雨に服が濡れ、肌に張り付ている事に気付いていないのか、天子は冒険に出た子供のように瞳を輝かせてどんどんと高度を下げていっている。
「ほら衣玖、地が見えてきたわよ」
「……えぇ、見えてしまいましたね」
天子がはしゃぐ一方、衣玖は頭上に敷き詰められた雲のようにどんよりとした心持ちで返事をする。
あーあ……。そんな溜息が脳裏をぐるぐる回っていた。
衣玖のそんな憂鬱な様子に天子は一切気付いていない。
だから手は離さないし、自分の楽しみを求めて地面を目指す。
「さー着地するわよ」
やがて天子は雨でどろどろにぬかるんだ地面に勢い良く両足をついて――
「うえっ!?」
ずるりと、勢い良く足を滑らせ、驚いた反動に繋いでいた手を離してしまって支えさえ失った天子は無様にどろどろの地面に頭から突っ込むのだった。
「はあ……」
そんな天子の様子に溜息を吐きながら、ふわりと着地する。
衣玖にとってせめてもの救いは思わず天子が手を離してくれたことだろうか。
……それもこのあとの展開を考えるに、とてもじゃないけれど幸運とは思えないのだけれど。
「大丈夫ですか? 総領娘様」
天子はゆっくりと起き上がる。
召し物は泥で汚れ、顔も酷い有様である。
だが天子は笑っていた。だが見た目そのままの笑顔ではない。こめかみに青筋が浮かんでいるのだから。
そして無言で、腰の緋想の剣に手を掛けた。
「早速やってくれるじゃない、地上は。ふふふ……そっちがその気ならこっちにだって考えがあるわ」
天子が緋想の剣を掲げる。
すると緋想の剣から紅い霧が立ち昇る――否、吸い込まれていた。
「高貴な天人を汚し嘲笑う雨雲よ、後悔しなさい! 気符「天啓気象の剣」!」
天子が上空に向かって緋想の剣を突き上げた瞬間、一筋の紅が天へと向かって伸び、雨雲を直撃。
天は紅い光に包まる。バリバリと雷のような音が鳴り響き、それらが晴れた時、上空はすっかり蒼い空と太陽が顔を出していた。
「ちょっと!? 総領娘様っ! 何をしてるんですかっ!」
決して地上が悪いわけではない。悪いのはどじっ娘な天子のほうだ。
転けたくらいで緋想の剣でもって天候を勝手に弄られては異変再来に他ならない。
慌てた衣玖は天子に駆け寄るが何もかもが遅い様子だった。
「ああああ……、今季は雨季なのに、今日は雨なのに、晴れちゃった……」
がっくりと項垂れる衣玖。背中には哀愁が漂っていた。
「はーすっきりした。ざまーみろってのよ」
天子は後ろで項垂れる衣玖は微塵も気にかけない。
この天子の気紛れによる戯れが終われば、衣玖はまず雲を探さなければならないのだ。
梅雨ならば少し探せば漂えるだけの大きな雲はすぐに見つかるのだが、このように周囲の雨雲をかき消されては堪らないだろう。
「それにしても、酷い有様ね……」
天子は改めて自分の身なりを眺め、さてどうしようと考える。
そして出た結論は、まず顔の泥ぐらいはどうにかしよう、というものだった。
「ね、衣玖。手拭か何か持ってない?」
「……そんな都合よく持ってませんよ。それに総領娘様、こんなことをしてしまったら、また名居様の大目玉が待ってますよ」
「いいのよ、私家出してるんだから。父様が怒ったりしたってどうでもいいもの。……しかし困ったわねぇ。私の可愛い顔が薄汚れたままなんて」
確かに家に帰らないのであれば直接的には天子に影響は無いだろう。
だが、このような横暴にはいずれ手痛いしっぺ返しがあるのが世の常である。
そのしっぺ返しがいつになるかは定かでは無いが、天子のこれからに影がひとつ差したのは確実である。
しかしそんな事にまったく気付かない天子は、とにかく顔の泥を拭いたいと周囲を見渡す。
梅雨時という事もあり、用も無いのに出歩くような物好きは見当たらない。
そして視線の行き着き先はやはり衣玖。
「……なんだ衣玖。いい物持ってるじゃない」
天子の瞳がキラリと光る。
凝視する先は、衣玖がいつも身に着けている羽衣。
「……! こ、これは駄目ですよっ」
ぎゅっと自分の羽衣を胸にかき抱くと、半身になって天子の視線からそれを逸らそうとする。
「これがないと、私、空に帰れないんですから。それに……」
「後で洗えばいいじゃない。それよりほら、貸して貸して!」
天子は衣玖に近づく。両手をわきわきとさせながら、それはもう楽しげに。
「ちょ、やっ、予想してましたけど! この展開を予想してましたけどもっ!」
なんでこの総領娘様ったら目がぎらぎらしてるんだろう! それにあのわきわきと動いてる手! 色んな意味で身の危険を感じるのは何故?!
羽衣及び貞操の危険を感じた衣玖は逃げ出してしまえと、宙にふわりと浮かび上がる。
「あっ、こら逃げるな!」
天子も慌てて宙に浮かぶ。
だが衣玖は既に背を向けていて、手を伸ばしても掴むのは何も無い空中だけだった。
「だからちょっと貸してくれるだけでいいんだから、けちけちするなー!」
などと無茶苦茶をのたまい、天子は衣玖を追いかける。
「けちとかそういう問題じゃありませんよ! それに、顔を綺麗にしたいのなら水で洗えばいいじゃないですかぁっ!」
逃げまどいながらも律儀に反論する。
飛んでいれば当然ふわりふわりと羽衣も舞うため、いつ掴まれるかと恐々だ。
「水場なんてどこにあるか分からないんだから、今あるもので対処するのは当然でしょっ! それより止まりなさい!」
天子もそれに我侭全開で受け答えつつ、手を伸ばす。
だがひらひらと踊るように舞う羽衣は幾度も天子の手をすり抜けてしまう。
「あぁもう、ひらっひらして……!」
次第にフラストレーションの溜まってきた、我慢という我慢を知らない天子はすぐに怒りが有頂天を迎え、片手に小さな要石を呼び出した。
「止まりなさい衣玖! 止まらないと――」
要石を振り被る天子。
一瞬溜めを作り、そして
「こうよ!!」
思いっきりぶん投げたのだった。
しかし要石は衣玖の頭上を過ぎ去り、何処かへと消え去っていった。
殆ど見当違いの方向だった事から、脅しであったのは明白である。
衣玖はといえば、その脅しよりもこの展開にぞっとした。
これは一体なんなんだ。私が一体何をしたって言うのか。
突然総領娘様に拉致されたかと思えば自爆した後始末に羽衣を狙い、逃げたら逃げたで今まさに命を狙われる。
神様龍神様天人様、衣玖はどうしてかような目に遭っているのでしょうか――
「もう嫌ぁっ!」
止まれば羽衣を奪われる。逃げれば要石に撃ち落とされる。
選択肢は二つ。どちらも最悪。
「総領娘様、いい加減にしてください!」
「!?」
衣玖の涙混じりの叫び声に、流石の我侭天人も動きを止めてしまう。
「あ、あれ……もしかして、怒った?」
怒声で水をぶっかけられたかのようにテンションが落ち着いた天子は思った。
流石にやりすぎたかなー、と。
「普通これで怒らない人はいませんよ! 怒らない龍宮の使いもいませんよっ!」
「あ、あはは……でもほら、素直に羽衣貸さない衣玖も悪いのよ?」
しかしこの自己中心な天人の娘はまだ自分が悪いとは思っていないようで、空笑いしながら、尚も衣玖に非があると申す。
悟りを開きまくった天人であれば天子の所業にも大らかな懐を示したかもしれない。
だが、衣玖はただの龍宮の使いである。
――そのような寛大な心は持っていない。
「素直にって、例えば総領娘様が緋想の剣を誰かにほいほい貸し与えることがありますか?!
――ありそぉぉぉぉぅっ!?」
思い切って説教してやろうとした。
したけれど、なんか自爆した。
「ちょっと失礼ねー。折角持ち出した緋想の剣をほいほいと貸す訳無いじゃない。ってかなんで私が自分の物を誰かに貸さないといけないのよ」
腰に手を当てて、天子は憮然とした態度を示す。
「良かった、流石に貸すことはなかったんですね安心しました……」
ほっと一息つくと、
「まさにそれです! 今総領娘様が仰られたように、私だって命に続いて大切な羽衣を簡単に他人に手渡すわけにはいかないのです」
ここにきて少し落ち着いた衣玖は、しずしずと天子に説く。
「総領娘様であれば、この気持ちをわかってくれますよね」
「だから、ちょっと貸して貰うだけだってば。別にどこぞの白黒魔法使いみたいに一生借りるとか言う訳じゃないんだし」
しかし天子はどうにもズレていた。
「違っ……そうじゃないんですよ総領娘様。あれですよ。総領娘様は天女と人間の話をご存じではないのですか」
「えーっと、確かアレだっけ。羽衣を取られた天女は空に帰れず、人間と結婚したっていう」
頭が基本的に緩んでいる天子だが、学が無い訳では無い。
知識的な事を問われれば、それなりの回答は用意できる。
……一般常識は天人故か、ややズレているのが何とも残念である。
「ええ、そのお話です。つまり、その、総領娘様が私の羽衣を奪うとなりますと、私は……私はその、総領娘様のお、およ、およ……っ!」
突然衣玖はぼふっと顔を真っ赤にすると、目をくるくる回しながら両手で顔を覆う。
「あ……あー……」
天子もすぐにそれに気付く。
このまま衣玖の羽衣を取ってしまえば、衣玖と結婚しなければならない、という事に。
同じように、天子の顔もかぁっと紅く染まる。
「えと、その……ご、ごめん、衣玖……」
衣玖の羽衣を奪おうとした事に対してか、それとも知らずに結婚を迫っていた事に対してか――定かでは無いが、天子は顔を真っ赤にして俯き、やっと謝罪を口にする。
「ぅぁぅぁ……その、総領娘様ならご存じだと思っていたので、まさか突然これを要求されるとも思わず……ぅぁぅぁ」
一方衣玖は、頭に血が回りすぎたのかふらふらとしながらも、なんとか言葉を返す。
「その、顔を拭きたくて、丁度衣玖の羽衣が目に入ったから……それでうっかり……」
天子も衣玖にあてられてか、両手をスカートの前で組み、既に必要の無い説明を口にする。
急に快晴になって気温の上がった空気は既に天子の顔を乾かし、泥は砂や単なる黒い塊になっており、吹く風がそれらをぼろぼろと剥がしている。
故に、もう羽衣は必要無い。
無いのだが――
「ね、衣玖。もしそれでも羽衣を貸して欲しいって言ったら……」
こそばゆい、どこか甘いものを含んだ空気にあてられたからだろうか。
天子の発言は、このタイミングでは爆弾以外の何者でも無かった。
「っぁ! ……そ、それは」
これでもかというくらいに真っ赤に染まった頬を両手で押さえながら、衣玖はなんとか口を開く。
「それは……あ、その、わ、私は……」
そして、
衣玖の中で何かがキレた。
「わ、私は……も、もう……あ、穴掘って埋まってますぅっ!」
ぐるんと羽衣が右腕に巻き付く。すなわち『龍魚ドリル』を持ってして、恥ずかしさのあまり地面に埋まった。
「あ、ちょ、ちょっと衣玖……」
天子は今度も手を伸ばすが、追いかけようとはしない。
というよりは、追いかけるかどうか迷っているのだ。
天子は自分でも驚いていた。
自分が衣玖に告白紛いを口にするとは、微塵も考えていなかったのだ。
「ぁぅもう……私はどうしたらいいのよぉ……」
口をついて出てしまった告白だが、言ってしまった天子もやはり女の子だった。
何でもいいから、返事が欲しいのである。
衣玖は地面に埋まったまま、一向に出てくる気配は無い。
仕方なく、天子は地面に降りて穴の前に座り込む。
「い、衣玖……? ね、いるんでしょ?」
「い、いませんよー……」
バレバレだった。
「何だ、いるんじゃない」
衣玖の動揺っぷりが可笑しかったのか、天子は少しだけ顔を綻ばせる。
「ねー出てきてよー」
「む、無理です。だって、どんな顔をしたらいいのかもうわかりません……」
「そ、そんなの私だってわかんないわよっ。でもさ、一応、こ、告白したんだし、返事ぐらい欲しいじゃない……衣玖はそういう風に思わないの?」
「こ、告白って……でも私と総領娘様ではそもそも立場が全然違いますから……その、ごめんなさい」
「え、あ……」
断られた。
天子は呆然とするも、不思議と悲しさや絶望感、悲壮感といった類の感情は覚えなかった。
そして、その理由にすぐに気が付いた。
自分は衣玖との関係を壊さずに済んだのだ。
だから、これは本気の気持ちではなく、言うなれば戯れだ。
そしてこのやり取りから、天子は漸く気付いた。
自分は衣玖と友達になりたかったのだ。
「あ、あははっ、そうよねー。うん、まぁ当然よねっ! 衣玖ー。もう出ておいでー。もう羽衣貸してとか奪うとか言わないからさー」
「……ごめんなさい」
天子はそう言ってくれた。
でも、衣玖はそれでも顔を出せなかった。
合わせる顔がない。本当に、その通りだ。
好意を持って接してくれたのに、私は一体何をしてるんだろうなんて、思った。
「衣玖? 出てきていいのよー? さっきの事は忘れるからー! 衣玖も忘れなよー!」
「…………」
「出てこない気かしら……」
天子は一向に出てこようとしない事に、眉根を寄せて難しい顔になる。
まさか衣玖がここまで思いつめるなど、天子にしてみれば意外も意外なのだろう。
穴の前で座り込み、天子はもう少しだけ待ってみる事にした。
こうしていれば自分で感情の整理をして出てくるのではないか。というやや楽観的な考えである。
「……忘れられるわけ、ないですよ」
そんな中、聞き逃してしまいそうな程小さな呟きが穴の奥から聞こえた。
天子は尚も待ってみるが、衣玖はやはり姿を見せない。
「あぁもう、衣玖は何をそんなに悩んでるのよっ! イライラするなぁもうっ!」
座って待ってみようと思った当初は出てくるまで待つつもりだったのだが、天子はそんなに我慢強い方ではない。
「衣玖がその気なら待つのはもうやめやめ! こっちから行ってやるわ!」
故に痺れを切らしてしまうのもまた然り。
天子はふわりと空に浮かび上がると、底の見えない程深い縦穴に身を沈めていった。
「…………」
微かな光が射し込むだけの底には、ぽつんと体育座りに衣玖が座っていた。
抱えた膝に顔を押しつけて、ただじっとしていた。
「それにしても深いわねぇ……」
縦穴を降り始めて既に四半刻。
衣玖は一向に見えず、逆に穴を照らしていた光の明度はどんどんと落ちていく。
「よし、速度増加!」
などとのたまうと、天子は逆さにしていた体を反転、足元に自分が乗れる程度の大きさの要石を呼び出し、それに身体を預ける事にした。
――風をきる微かな音がして、反射的にぴくんと衣玖の耳が動いた。
「……まさか、こっちに来てるんですか」
見えない空。
そこからあの人が降りてくる気がして、衣玖は顔をくしゃくしゃに歪めた。
「本当に自分勝手な人なんですから……」
呟きに込められていたのは批判するような刺々しさではなく、何処かもの悲しい想い。
突然告白してきて、返事に困って思わず穴を掘って逃げてしまったら、今の言葉は忘れていいだなんて。
それじゃあ、一人で照れて恥ずかしくなって逃げてしまった私は一体何なのだろうなんて落ち込んで……。
――ああ、本当にあの人は自分勝手だ。
私の気持ちもちゃんと考えて欲しい。いつだって押しつけで振り回すんじゃなくて、
もう少しだけ。ちゃんと、見て欲しいのに。
「馬鹿、みたいです……」
その言葉は彼女には届かないだろう。それがわかっているから衣玖は小さく呟いた。
音は徐々に近づいてくる……。
「おー、見えてきた見えてきた」
落下して早数分。要石から身を乗り出して下を見続けた天子の視界に、衣玖の帽子に飾り付けられている長い尾羽が飛び込んできた。
「逃げないみたいね」
頭上から高速で落ちてくる物体が近づけば、唯の人間であろうとすぐに気付く。
しかし衣玖は上も見上げず、座り込んでいる。
となればもう要石は不要。天子は足元の要石を消すと、そのまま勢いに任せて落下。
「とーちゃ……っくぅっ!?」
砂埃が立つ程盛大に着地した天子はそのまま全身に走る痺れに身体が硬直。
後、衝撃に耐え切れず天子はそのまま地面に倒れこんだ。
「……なに、してるんですか」
抱え込んだ膝から、視線だけを天子に向けて尋ねる。
あいたたたと地面に蹲る様はかなり面白いのだけれど、衣玖の今のテンションでは笑うことが難しかった。
お互いの立場があるため、たとえ笑えるテンションだったとしても我慢していただろうけれど。
待ち望んだ衣玖の視線も、痛みに耐える天子には感じ取る余裕が無い。
「あたたた……衣玖ー。手貸してー手ー」
やっとの思いで痛みに耐え切った天子は、衣玖に向かって右手を伸ばす。
「…………なんで」
小さな声は天子には聞こえなかったらしい。
ぺたんと地面に座り込みながら、衣玖が手を貸してくれることを当然と笑ってる。
それが、耐えれない。
「なんで、追い掛けてきてるんですか」
きょとんと首を傾げる天子の顔が、やけに新鮮に映った。
「や、なんでって、衣玖が出て来ないからこっちから来たんじゃない。まさかこっちから誘っておいて置いて帰る訳にもいかないじゃない?」
そう言って、天子は座ったまま不思議そうに衣玖を見上げる。
「構いませんよ。私のことは置いていってください」
衣玖の冷たい態度に、天子の顔は不満に満ちていく。
「何でそんな事言うのよ。そりゃまぁ、あれは私が原因かもしれないけど……でも衣玖は断って、私はそれに対して何も怒ってないんだから気にする事無いわ」
事実、天子の声は不満に満ちてはいるが、怒りは含まれていない。
だが、天子はまだ気付いていない。
結局、それが衣玖を振り回しているだけだという事に。
「私にはもう、総領娘様のことがわかりません。……いいえ、きっと最初からわかってなかったんです」
悲痛な響きを持って、衣玖は訴える。
「何よ、私だって衣玖の事なんてあんまり分からないわよ。分からないからこうやってるんじゃない」
漸く痛みが引いて動けるようになったのか、天子はゆっくりと立ち上がる。
「さっきの、『それでも羽衣を貸して欲しいって言ったらどうする?』って訊いたの、確かに勢いもあったけど……そう言ってしまったのは何でだか分かる?」
視線を向けられ、衣玖は顔を背ける。
「知りませんよ。どうせ思いつきで喋っただけなんでしょう……?」
「思いつき以前の段階よ。考えるより先に口が動いてたんだから」
一歩、天子は衣玖に近づく。
「質問をして、相手からの反応が欲しいから。――衣玖の事が知りたかったのよ、多分。そして衣玖は答えを返してくれた。――衣玖が私に対して、そういう関係を望んでいなかったって分かった。それがね、何となく嬉しかったわ。それで、やっと私自身、気付けたのよ」
すっ、と。
天子は左手を差し出す。
「衣玖と友達になりたいな、って」
差し出した手の求めは、友好の証である。
その手を見つめて、微かに衣玖の瞳が揺れた。
「とも、だ、ち……?」
「そ、友達」
天子は笑顔で、握手を強調するように少しだけ左手を持ち上げる。
「もし嫌なら断ってもいいわよ。それはそれで衣玖の気持ちなんだしね」
「…………ぁ」
揺れる。
瞳が揺れて、心が揺れた。
天子にそういって貰えるのは嬉しい。
でも、何故か悲しくて切ない。
『もしそれでも羽衣を貸して欲しいって』
『衣玖と友達になりたいな、って』
二つの言葉は、衣玖に戸惑いを与えてくれた。
相反する言葉は、嬉しさと切なさを教えてくれた。
――ああ本当にこの人は、なんて、自分勝手。
小さく息を吐くと、なんだか可笑しくなった。
口元が少しだけ笑って、馬鹿みたいなんて声に出さずに呟いて。
「…………そう、ですね。断っても、いいんですよね」
なんて、俯きながら答えた。
ちょっとした仕返しのつもりで。笑いながら。
「あー……んー……そっか」
衣玖の拒否を匂わす言に、天子は寂しさと少しの悲しさと、そして衣玖の上下を外れた答えに対する嬉しさの混じった複雑な笑顔になる。
左手は既に下がり、天子の諦めの気持ちをよく表していた。
「ふふ……あは……」
そんな天子の様子に、久しぶりに衣玖は声に出して笑った。
「?」
天子は突然笑い出した衣玖に対し、きょとんとする。
下がりかけた左手はそのままで、動きは完全に停止してしまっている。
「外に出ましょう、総領娘様。ここは、少々暗すぎます」
ゆっくりと立ち上がると、何事もなかったかのようにスカートの泥を払った。
「え、あ、うん……」
衣玖の突然の変化。
天子を動揺させるには十分で、衣玖の言葉も上手く飲み込めていないのか、返事はしたものの動こうとはしない。
「さあ、行きますよ。……天子様」
すっと、微笑みながら衣玖は彼女に手を差し出す。
差し出された手は天子の望む関係の最初の一歩。
尚も惚けた顔をしていた天子だが、じわじわとその意味が浸透するにつれて、表情は笑顔へと変わっていった。
「――――――うんっ!」
そして満面の笑顔になると、まるで無邪気な子供のように元気良く返事をして、差し出された衣玖の手をきゅっと握った。
天子は自分が強引に掴んで連れてきたと時とは違って、その手を温かいと思った。
穴の外へ出れば、西の空から再び雨雲が走ってきていた。
近く雨が降る。
衣玖は目を細めながら雲の行方を眺める。
上空は強く風が吹いているのか、なかなか速い。
「雨が、来ますね」
「また緋想の剣で吹き飛ばそうか?」
無邪気に、楽しそうに笑いながら、天子は二度目のトンデモナイ行動を申し出る。
しかし先刻と違って衣玖に同意を求めている事から、衣玖という存在を強く感じていた。
「……その必要は、割と最初からなかったんですけどね」
ふふ。と微かに口元を歪めると、何処からともなく、くるりと傘を手にしていた。
「なんだ、持ってたんだ。なら最初から出してくれれば良かったのに」
「出す前に私を勝手に連れ出して、あまつさえ勝手に転んだ癖に緋想の剣で天候を弄ったのは誰でしょうね」
遠い目で非難するように反論した。
「あー……」
天子は視線を衣玖から逸らして明後日の方向を見ながら、今更ながらに己の自分勝手な行動を思い返す。
自分のしていた事に、確かに衣玖の意思はまったく介在していなかったし、衣玖の立場としても介入しづらかったのだろう。
天子はすぐにその答えに至り、そして、思った。
――謝らないといけないな、と。
天子は再度衣玖の方へと向き直る。
「その節は、えーっと……ごめんなさい」
謝り、天子は静かに頭を下げた。
「…………」
そんな天子の様子に、衣玖は一瞬惚けたような顔を見せた。
こいつは一体何を言ってるんだとか割と真剣に考えた。
「……なんだ」
そして、初めて聞いた天子の謝罪に目を閉じて答える。
「謝れるんですね。天子様も」
意地が悪そうな声だった。
そんな衣玖の意地の悪い物言い、そして声に天子は反射的に顔を上げた。
「私だって悪いと思ったらちゃんと謝るぐらいの事はするわよ!」
一転、心外だと怒り出す天子。
笑顔、申し訳無さそうな顔、そして怒り顔と、天子の表情はくるくると変わる。
まるで子供のように。
「それに、衣玖は……友達なんだし」
今度は少し照れたような、拗ねたような顔。
天界では天子の一族は異端で、俗さの無い天人では、天子の友達になどなろうとする輩はいなかったのだろう。
初めてとも言える友達という存在に対し、改めてそう言うのは、天子には少しばかり気恥ずかしかった。
「…………ふふ」
衣玖は一つ笑って、 ぱっと傘を開いた。
雨雲はもうとっくに頭上を覆っている。
ぽん、と雨粒の音。
「どうしたんですか? もう少し寄ってくださらないと濡れてしまいますよ」
「う、うんっ」
確かにこのままでは乾いた服がまた濡れてしまう。
濡れればまたこびりついた泥が水を吸ってしまい、酷い有様に忽ち逆戻り。
天子は頭上を手で庇いながら、慌てて衣玖の傍に駆け寄った。
一つの傘に二人の少女。
肩が触れ合う程近くにいて、ゆっくりと歩く。
「雨、激しいですね」
「うん……」
天子はちらちらと、自分より少しだけ背の高い友達を見る。
少ない口数。
普段の我侭傍若無人が嘘のように素直で大人しい態度。
――天子は、この距離に少しも慣れていなかった。
衣玖は逆に、今までの動揺が嘘みたいに落ち着いていた。
多分、気持ちに整理がついたのだと思う。
「ところで、結局地上で何がしたかったんですか?」
不意に思いだしたことを尋ねてみる。
「え? 特に何も。ただ地上に降りて梅雨を体験してみたかっただけよ」
そんな天子の言葉に、衣玖は立ち止まる。
「ああ、そういえばそんなことも言っていたような」
「わっ、ちょっと衣玖っ。いきなり立ち止まらないでよっ」
危うく傘の外に出かけた天子の小さな文句。
だが、衣玖はそれに特に頓着する様子も無い。
「梅雨を体験したいのであれば、正しく最初の展開で良かったんですよねぇ」
くすりと一つ笑う。
そして、隣りに立って惚けている天子へとびっきりの笑顔を見せてあげると、
「えい」
突き飛ばしてみた。
「わぁっ!?」
突然突き飛ばされた天子は傘の外に出て、たたらを踏みながらどうにか転倒だけは免れていた。
激しい雨粒はすぐに天子の全身を叩き、忽ちの内に天子は濡れ鼠になった。
「ちょっと衣玖、何するのよっ!」
「これが、梅雨を楽しむということですよ」
ふふと笑う衣玖。けれど傘の柄だけは死守していた。
衣玖の言葉に、天子は空を見上げる。
天から降り注ぐ水の粒。
それは、天界に住む天子には縁の無い現象だった。
冷たい雨、しかし、高い気温が手伝ってそれは天子を寒さに震わせはしない。
ここまで濡れてしまえば、もういくら濡れても関係は無い。
天子は、ただ、気持ちいいな、と思った。
衣玖の言っている事はきっとこの事なのだろうと納得すると同時に、天子に悪戯心が沸いてきた。
くるりと振り向き、天子は衣玖を楽しそうに見つめ、それからつかつかとやや早足で歩き出し、そして
「えいっ」
自分と同じように、衣玖を突き飛ばすのだった。
しかも突き飛ばした拍子に緩んだ手からちゃっかりと傘を奪い取っている。
「……おっと」
突然のことにも関わらず、落ち着いたものでふわりと着地する。
「私も濡れてしまいましたね」
ふむ。と思案気な顔で呟いて、そして笑った。
「ちぇっ、少しは驚いてくれてもいいのに」
少しだけ不満げな表情になるが、濡れていく衣玖を見ると、またすぐに笑顔になる天子。
満足そうにしながら、天子は衣玖に駆け寄り、すぐに傘で自分と衣玖の身体を雨から遮ると
「そろそろ帰ろっか、衣玖」
衣玖を見上げながら、満面の笑顔で言う。
「ええ。帰りましょう」
つられるようにして、衣玖も笑顔で答える。
衣玖の了解に頷くと、天子はふわりと宙に浮き上がる。
ゆっくりと、衣玖が続いて浮き上がり、濡れないように配慮しながら。
やがて高高度になると、強風で傘は用を成さなくなる。
天子は傘を畳み、衣玖に手渡す。
そして雲の中へと突入すると、そこはもう行きと同様に龍宮の使いの世界。
――ここが衣玖の世界で、自分はその上の退屈な世界に住まう存在。
ここがこの日の二人の出会いの場所であり、そして別れの場所でもあった。
「さて、ここでお別れね」
「そうですね」
少しだけ寂しげな表情の天子に対して、衣玖は至って涼しげな顔で頷く。
「少しぐらい名残惜しげにしてくれたっていいのに」
とは言うが、天子の表情は変わらず、少しだけ寂しげ。
「どうせ、またすぐ暇潰しに来るのでしょう?」
永遠の別れじゃないんだから。と、衣玖は苦笑してみせて、
「それでは、また」
さようならではなくて、またねと小さく手を振った。
「ん、またね、衣玖」
衣玖に手を振り、少しだけ名残惜しいな、と思いながら、天子は背中を向けて上空へと上がり、雲を抜ける。
衣玖はまだ手を振ってくれているのかな、と淡い期待に頬を緩めながら。
梅雨の日に出来た、天子にとっての初めての友達。
次に会う時は、きっと笑顔で迎えてくれると信じながら、天子は住み慣れた天界の地を踏むのだった。
非常に退屈なものに見受けられました。個々で書いたほうがよろしいのでは?