生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
春の暖かな日差しが降り注ぐ。
「ふあ……」
幽々子は白玉楼の縁側で午睡の時を迎えていた。
夢を、見ていたような気がする。
――思えば、いつのことだっただろうか。この力に気付いたのは。
ある時、道端で一匹の猫を見つけた。見た目からして野良なのだろう。
連れていこうと思い差し出した手を引っ掻かれた。
それを少し不快に思ったとたん、目の前の猫は糸が切れたように倒れ、動かなくなった。
またある時。一人の友達に些細な、本当に些細なことで貶された。
それを疎ましく思ったら、その子は倒れた。
死にこそしなかったものの一月ものあいだまともに立つことさえできなかった。
私の周りには常に死が付きまとう。気がつけば周りに人は寄らなくなっていた。
そしていつしか私もそれを受け入れ、それが当たり前と思うようになった。
どこか諦めに似た感情を抱いていたのだろう。
両親でさえもそうだった。
いつしか私は別邸に一人住まわされるようになっていた。
食事や掃除などの最低限のことをする者意外は、私一人。
それすらも私が知らないあいだに済まされている。
この広い屋敷に一人、他には誰もいない。
夜。知らぬ間に用意されていた夕食。静かな部屋で一人冷飯を食む。
何故だろう。
こんな時はたまに、忘れた、いや忘れようとしたはずの感覚を思い出すような気がして、とても寂しくなる。
庭に咲いていた一本の見事な桜の木が友と呼ぶべきものだったのかもしれない。
見上げるような大木だった。無数の傷や皺が刻まれたその太い幹と枝は年輪と風格を感じさせる。
春になればそれは見事な花をつけた。
聞いた話によるとこの木を見つけた先祖がその美しさに惹かれ、この地に今は別低として使われているこの邸宅を構えたのだという。
ならば確実に百年以上は経っているだろう。
本当に見事な、今までに見たこともなく美しく、そして妖しい桜だった。
月を従え夜闇に浮かぶその姿はまるでこの世のものとは思えなかった。
ある年。この年訪れた台風は大きなものだった。
その夜は一晩中叩きつけるような雨が降り、家を軋ませるほどの風が吹いていた。
そして翌日。ようやく台風は過ぎ去り、久方ぶりとなる晴天が広がっていた。
庭は飛んできた木々の枝葉などで大分荒れてしまっていた。
この分では元に戻すのは相当な手間になるだろう。
見れば、あの桜の木も僅かだが傾いてしまっているようだった。
その様子を確かめようと側に寄ってみた。
近くで見ると良くわかった。太い根の一本が僅かに地面から浮き上がってしまっていた。
この程度で済んだのなら、まあ良い方なのだろう。
他の庭木の中には倒れてしまったものもあったのだから。
そう思いながらその根の埋まっていたところを検めてみようとした。
「――!!」
――そこで、私は、恐ろしいものを見てしまった。
傾いた根の下の土から、白骨が覗いていた。それも、一つや二つではなかった。
落ち窪んだ眼窩の穴までも細い根に絡め取られ、恨ましげな目をこちらに向け、
手の骨は差し伸べるようにこちらへと向けられていた。
「ぐっ……!!」
その怖気の走るような光景に吐き気を覚え、目を背けるかのように走り逃げ出していた。
洗い場で吐いた。朝食を全て吐き出してしまってもまだ収まらなかった。
血混じりの胃液が出るようになってもまだまだ収まらなかった。
そしてそこでそのまま気を失ってしまった。
目が覚めると、そこは私の部屋だった。
「お目覚めになられましたか」
と、誰かが語りかけてきた。
「――あの者たちは墓を作り、改めて埋めてやりました。あれは、一体……」
「……貴方は?」
まだ少しはっきりとしない頭で問いかけた。
「これは失礼を。本日より、西行寺幽々子様の身の回りの世話を仰せつかりました、魂魄妖忌と申します」
目の前の、一振りの刀を携えた男はそう名乗った。それが、妖忌との出会いだった。
話によれば今日よりこの屋敷で働くことになったのだという。そして訪れた矢先に倒れた私と、あれを見つけたのだ。
さぞや驚いたことだろう。
あの光景を見てまだ正気で居られるのが不思議に思えたが、
帯刀しているくらいなのだからある程度は慣れているのだろう。
「……まあ、散々な始まりになってしまったけど、よろしく頼むわ」
「こちらこそ」
妖忌は本当によく働いてくれた。
あの荒れた庭をわずか数日で元通りにしてしまったあたりからもそれが伺える。
呼べば間を空けずに駆けつけてくれた。
ここでの暮らしにも少しながら変化が訪れた。
考えてみればこの屋敷に私以外の者が居ること自体が珍しい。
私の心にも変化があった。やはり心のどこかでは孤独を悲しく思っていたのだろう。
妖忌という話し相手、いやそれ以上の存在が今はかけがえもなく大切で嬉しかった。
……そしてそれと同時に、奇妙な変化もあった。
良くはわからない「何か」が私の周りに現れるようになった。
有り体に言うのならば怨霊とでもいうのだろうか、とにかくそんなものが現れては私を苦しめた。
体が重い。眠りに落ちると、「何か」が私の中に入り込んでくるような気がする。
そんなときもやはり妖忌が助けてくれた。妖忌もまたその何かの存在を感じていたようだ。
そしてその刀を一振りすると、それは霧のように掻き消えた。
だがしばらくするとまたそれは現れる。現れては妖忌が祓う。
いつしかそれも普通のこととなっていた。
ある時。春の日差しも心地良く、柔らかな風が吹く日。
私は妖忌とともにあの桜の下で花見をしていた。
「しかし、見事な桜ですな。これほどのものは見たことがない」
「そうね、何せ人を食べているんだもの」
はは、と妖忌が苦笑した。
久しぶりに歌を詠むことにした。
「うーん……いまいちね」
「調子が乗りませぬか」
「久しぶりになるし……貴方に見られているからかしら?」
「これは厳しい」
また妖忌が笑った。つられて私も笑う。
そして暫くの時が過ぎた。と。
「……妖気を辿ってきてみれば、こんな見事な桜があるとはね」
その声に気付くと、桜の根元に誰かが立っていた。
「……何奴」
妖忌が刀に手をかける。
「あら、そんな邪険にしなくてもいいじゃない。
春の陽気に誘われふらふらとさ迷う最中にこんな見事な桜ですもの。
誘われても不思議じゃないでしょう?」
日傘を差し、見慣れない衣装に身を包んだ少女はそう言った。
「……何をしに来た」
妖忌が一歩前に出ようとする。それを止めた。
「幽々子様……?」
思えば何故そうしたのだろうか。それは気付いていたのかもしれない。
この目の前にいる少女は私とどこか似ている。
姿見こそ人と同じだが、内には絶対的に違う何かを秘めていることに。
「大丈夫……妖忌、貴方は少し下がっていて」
「ですが……」
「……妖忌」
「……分かりました」
そして私と少女だけが桜のもとに残された。
「……さて、まずは名前でも聞かせてもらおうかしら?」
「これは失礼、私は八雲紫。紫でいいわ」
「私は幽々子、西行寺幽々子よ」
「……そう」
一瞬、その紫と名乗った少女がどこか怪訝な表情を浮かべたような気がした。
「花の下で歌詠みとは風流ね」
横に置いていた硯箱を見ながら紫が言った。
「……それで、何をしに来たのかしら」
「あら、言ったでしょう?この桜に誘われたのよ」
…やはりこの少女はどこか普通ではないような気がする。
それからしばらく無言の時間が過ぎた。
「さて、今日はふらふらと立ち寄っただけだし、そろそろお暇させていただきましょうか」
そう言いながら紫が立ち上がった。
「次は……そうね。なにか手土産でもお持ちしましょうか?」
そう言って紫がこちらを見る。その顔は妖しく笑っている。
「まあ、この広い屋敷に二人。たとえ妖の類でも、客人として来るのならば相応に扱いましょう」
「ありがとう。それでは、またいずれ」
風が吹き花弁が舞う。少女の姿はいつの間にか消えていた。
それからこの紫という奇妙な友人は度々訪れるようになった。
妖忌はまだ信用しきれてはいないようだが、そこは彼の性格によるものが大きいのだろう。
それでもそれなりにはやっているようであった。
私自信、友人が出来るのは嬉しく思えた。
自分と同種のものなら、それはまた。
お互いがお互いのことは分かっている。だがそれを口には出さない。
そんな暗黙の了解が自然と生まれていた。
そして紫と出会い数年目の春のことだった。
今年も満開のあの木の下。
「……美しいわね。まるで、この世のものではないみたい」
紫が呟く。
「それはそうよ。なにせ――」
「人を食べている、から?」
言いかけた言葉は紫によって遮られた。
「……なんだ、気付いてたの」
「……そんな大きな力が漏れっぱなしなんですもの。気付かない方がおかしいわ」
桜の方に目をやったまま紫が続ける。
「大きすぎる力を持ちそれを御しきれない時、その力は災いとなる。
――幽々子、貴女も気付いているでしょう?」
「……ええ」
今思えば何故、この事を口にしたのだろうか。
いままである想いがそれを留めていたというのに。
この桜とあの子が惹かれあったのもきっとそれが元なのだろう。
お互いに大きすぎる力を持ち、同族から疎まれ――孤独だった。だから惹かれあった。
そこに罪はない。ただ、巡り合わせが悪かった。ただそれだけの事。
だがそのままにしておけばいずれ取りかえしのつかないことになる。だから――
思えば何故この事を口にしたのだろう。……それは私自身がそれを羨んだからかもしれない。
……滑稽だ。そんなものはとうに捨てて久しいというのに。
「……このまま放っておけばいずれ、取りかえしのつかないことになる、だから――」
「この子を封じるの?それとも私を殺す?」
「幽々子……」
「私は嫌よ、紫。私は孤独だった。この子も孤独だった。だから、もう離れることはできないの」
「気付いて、いたのね……」
目の前で桜に縋りつき、言葉を続ける幽々子の目には狂気が宿っていた。
今なら、きっと私も殺しかねないだろう。
「……後悔、するわよ?」
「それでも私は、この子と共に在れればそれでいいのよ」
「……そう」
それ以来、紫が訪れることはなくなった。そして、また変化が訪れた。
私の周りに現れる霊の数が以前よりも増えた。
そして表には出さないようにしているのだろうが、妖忌もどこか調子を悪くしているようだ。
それに比例するようにあの桜から感じる力も大きくなっているように思えた。
そしてある日。それは決定的となった。
「……」
「幽々子様……!?」
桜の元へと駆けつけてきた妖忌も絶句した。
桜の元で、名も知らぬ何者かが死んでいたのだ。
「これは……一体」
その後は妖忌が墓を作り弔ってやった。だが、それだけには終わらなかった。
始めは一年に一人。次は半年に一人。その次は三月に一人。そして一月に一人――
墓標もずいぶんな数になった。一人死ぬたびにこの桜は美しさを増す。
「……これが、そうなのね。紫……」
互いに傷を舐めあい、ひたすら共に在ろうとした結果が、これ。
「……そうだとしたら、私も、あなたも、とんでもない罪人ね……」
絶え間なく襲い来る後悔と煩悶の中で、私は決意した。
ある日、私は幽々子様に呼び出されていた。
奇しくも季節は春。また、死体が出たのであろうか。あの桜も満開に近い。
体もどこか思わしくは無かった。不安と言えば不安である。
「失礼します、幽々子、様……?」
自分の目を疑った。目の前の幽々子様は経帷子――死に装束に身を包んでいたのだから。
「……何のつもりですか、幽々子様」
「妖忌」
その格好とは裏腹にどこか毅然とした態度と声が意外だった。
「……貴方も気付いているとは思うけど、あの桜は人を死に誘う」
口を挟むことはできなかった。
「そしてそれは私とあの桜が出会ったから――故に、私はあの子と運命を共にします」
最後まで聞かずとも判った。幽々子様は――自ら命を絶たれるつもりだ。
「……いけません」
「……止めないでちょうだい。私はもう、誰かが死ぬことに耐えられない……私が死ねば全てが終わる」
そう言って幽々子様が立ち上がる。
「幽々子様!」
「来ないで、妖忌。――今なら、貴方でも死に誘いかねない」
そして最後に、こちらを見ずに言った。
「ありがとう」
次第にその後ろ姿が見えなくなっていく。
――分かっていた。だが、足は自然とその後を追いはじめていた。
一歩、また一歩桜へと近づく。それはまさに死への旅路。
死を目前にして、その胸のうちに去来するものは。
それは犠牲となった者たちへの哀悼だろうか。だが不思議と怖くはなかった。
そしてついにその元へと辿り着く。花は、もうすぐで満開となるところか。
「私もあなたも、罪を重ねすぎたわね……」
その姿は、もはや完全にこの世のものではない。力を持ちすぎたものの末路。
墓標のあるほうへと目をやる。あの者たちは、何を思って死んでいったのだろうか。
……悩むことはない。もうすぐ、それを知ることが出来るのだから。
願わくは、それが贖罪とならんことを。
手にした短刀を、鞘から抜き放つ。白刃が光った。
迷うことなく喉元へと当てる。あとは、一瞬。それで全てが終わる。
「ならばこの身をもって、償いとしましょう」
体が、重い。
幽々子様の後を追ってあの桜へと近づくたびに体の力が抜けていくような感覚。
その姿が見える頃には刀を支えに這うような様だった。
「幽々子、様……」
短刀を握る手に力を込める。意外なほどあっさりと、その刃は体を裂いた。
不思議と、痛くはなかった。
ただ、力が抜けていき、自分の身体が自分のものでなくなるような感覚があるだけだった。
ふと気付くと、目の前にはあの桜。
「そう、これで……あなたと本当に、ひとつに……」
桜の元に佇んでいた幽々子様の姿が崩れ落ちた。
それとほぼ時を同じくして、私の意識は闇へと落ちていった。
頬を冷たいものが叩く。雨が、降っていた。その感覚で目を覚ます。
体は、殆ど動かなかった。
それでも、動く腕を必死に使って這いずり、桜の元へと向かう。
「くっ……」
桜は、見事なまでに満開だった。それは同時に、何かが終わってしまったことも感じさせていた。
桜の元に倒れ伏した幽々子様はすでに息絶えていた。
広がる血の溜りに、花弁がいくつか浮いていた。
そのお顔は、不思議なまでに安らかだった。とめどもなく、涙が溢れ出た。
「……こうなることは分かっていた、でも、止められなかった」
気付くと後ろには、あの紫という幽々子様の友人だった者が立っていた。
「……何故だ」
「……あの子は孤独だった。望まないのに、その身には大きすぎる力を持ち……」
その声は、とても悲しげだった。
「……私もかつてそうだった。だから……」
そして幽々子様のお身体を抱えあげた。
「何、を……」
「……最後の仕上げよ。この子の身体を礎として、この桜を封印する」
「……!」
「……あの子も、そう言っていた。だから……そしてこれは私の罪滅ぼしでもある……」
そして儀式が始まった。
目の前に光が溢れる。そしてそれが収まったとき、目の前に広がった光景は――
桜の花が、全て散っていた。幽々子様の姿も消えていた。
「……これで終わり。この桜はもう、二度と咲くことはない。そして誰かが死ぬことも……」
「そう……か」
これからどうすればいいのかわからなかった。
幽々子様は、もう居ない。
傍らに転がった刀が目に入った。いっそ、後を追い私も。そう思った瞬間、紫が口を開いた。
「……待ちなさい」
「……?」
そしてそのまま言葉を続けた。
「……これであの子は、二度と転生することなく、同じ苦しみを味わうことのない存在となった。
……訳あって言うことはできない……けれど貴方にその意思があれば、再び巡りあうことができる」
「……!」
「……けれど、きっと今までのことは覚えていない。
貴方のことも分からないかもしれない。……それでも……」
「……それでも、幽々子様は幽々子様だ」
その言葉に紫はどこか満足そうな顔をした。
「そう、ならば巡りあえるでしょう。縁があれば、またいずれ」
その姿はいつの間にか消え去っていた。
そして今、最後の桜の一片が散った。
かつてこの地にはひとつの屋敷があったという。
だが今はその影も無く、ただ一本の花をつけない桜の古木が佇むだけだという。
紫はマヨヒガの縁側でまどろんでいた。
「……昔を、思い出すなんてね」
この季節になると思い出すような気がする。あの日のことを。
「……今年は、どうなるのかしらね」
それに応えるものは居ない。生者も死者もにわかに浮き足立つような春は、すぐそこである。
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
春の暖かな日差しが降り注ぐ。
「ふあ……」
幽々子は白玉楼の縁側で午睡の時を迎えていた。
夢を、見ていたような気がする。
――思えば、いつのことだっただろうか。この力に気付いたのは。
ある時、道端で一匹の猫を見つけた。見た目からして野良なのだろう。
連れていこうと思い差し出した手を引っ掻かれた。
それを少し不快に思ったとたん、目の前の猫は糸が切れたように倒れ、動かなくなった。
またある時。一人の友達に些細な、本当に些細なことで貶された。
それを疎ましく思ったら、その子は倒れた。
死にこそしなかったものの一月ものあいだまともに立つことさえできなかった。
私の周りには常に死が付きまとう。気がつけば周りに人は寄らなくなっていた。
そしていつしか私もそれを受け入れ、それが当たり前と思うようになった。
どこか諦めに似た感情を抱いていたのだろう。
両親でさえもそうだった。
いつしか私は別邸に一人住まわされるようになっていた。
食事や掃除などの最低限のことをする者意外は、私一人。
それすらも私が知らないあいだに済まされている。
この広い屋敷に一人、他には誰もいない。
夜。知らぬ間に用意されていた夕食。静かな部屋で一人冷飯を食む。
何故だろう。
こんな時はたまに、忘れた、いや忘れようとしたはずの感覚を思い出すような気がして、とても寂しくなる。
庭に咲いていた一本の見事な桜の木が友と呼ぶべきものだったのかもしれない。
見上げるような大木だった。無数の傷や皺が刻まれたその太い幹と枝は年輪と風格を感じさせる。
春になればそれは見事な花をつけた。
聞いた話によるとこの木を見つけた先祖がその美しさに惹かれ、この地に今は別低として使われているこの邸宅を構えたのだという。
ならば確実に百年以上は経っているだろう。
本当に見事な、今までに見たこともなく美しく、そして妖しい桜だった。
月を従え夜闇に浮かぶその姿はまるでこの世のものとは思えなかった。
ある年。この年訪れた台風は大きなものだった。
その夜は一晩中叩きつけるような雨が降り、家を軋ませるほどの風が吹いていた。
そして翌日。ようやく台風は過ぎ去り、久方ぶりとなる晴天が広がっていた。
庭は飛んできた木々の枝葉などで大分荒れてしまっていた。
この分では元に戻すのは相当な手間になるだろう。
見れば、あの桜の木も僅かだが傾いてしまっているようだった。
その様子を確かめようと側に寄ってみた。
近くで見ると良くわかった。太い根の一本が僅かに地面から浮き上がってしまっていた。
この程度で済んだのなら、まあ良い方なのだろう。
他の庭木の中には倒れてしまったものもあったのだから。
そう思いながらその根の埋まっていたところを検めてみようとした。
「――!!」
――そこで、私は、恐ろしいものを見てしまった。
傾いた根の下の土から、白骨が覗いていた。それも、一つや二つではなかった。
落ち窪んだ眼窩の穴までも細い根に絡め取られ、恨ましげな目をこちらに向け、
手の骨は差し伸べるようにこちらへと向けられていた。
「ぐっ……!!」
その怖気の走るような光景に吐き気を覚え、目を背けるかのように走り逃げ出していた。
洗い場で吐いた。朝食を全て吐き出してしまってもまだ収まらなかった。
血混じりの胃液が出るようになってもまだまだ収まらなかった。
そしてそこでそのまま気を失ってしまった。
目が覚めると、そこは私の部屋だった。
「お目覚めになられましたか」
と、誰かが語りかけてきた。
「――あの者たちは墓を作り、改めて埋めてやりました。あれは、一体……」
「……貴方は?」
まだ少しはっきりとしない頭で問いかけた。
「これは失礼を。本日より、西行寺幽々子様の身の回りの世話を仰せつかりました、魂魄妖忌と申します」
目の前の、一振りの刀を携えた男はそう名乗った。それが、妖忌との出会いだった。
話によれば今日よりこの屋敷で働くことになったのだという。そして訪れた矢先に倒れた私と、あれを見つけたのだ。
さぞや驚いたことだろう。
あの光景を見てまだ正気で居られるのが不思議に思えたが、
帯刀しているくらいなのだからある程度は慣れているのだろう。
「……まあ、散々な始まりになってしまったけど、よろしく頼むわ」
「こちらこそ」
妖忌は本当によく働いてくれた。
あの荒れた庭をわずか数日で元通りにしてしまったあたりからもそれが伺える。
呼べば間を空けずに駆けつけてくれた。
ここでの暮らしにも少しながら変化が訪れた。
考えてみればこの屋敷に私以外の者が居ること自体が珍しい。
私の心にも変化があった。やはり心のどこかでは孤独を悲しく思っていたのだろう。
妖忌という話し相手、いやそれ以上の存在が今はかけがえもなく大切で嬉しかった。
……そしてそれと同時に、奇妙な変化もあった。
良くはわからない「何か」が私の周りに現れるようになった。
有り体に言うのならば怨霊とでもいうのだろうか、とにかくそんなものが現れては私を苦しめた。
体が重い。眠りに落ちると、「何か」が私の中に入り込んでくるような気がする。
そんなときもやはり妖忌が助けてくれた。妖忌もまたその何かの存在を感じていたようだ。
そしてその刀を一振りすると、それは霧のように掻き消えた。
だがしばらくするとまたそれは現れる。現れては妖忌が祓う。
いつしかそれも普通のこととなっていた。
ある時。春の日差しも心地良く、柔らかな風が吹く日。
私は妖忌とともにあの桜の下で花見をしていた。
「しかし、見事な桜ですな。これほどのものは見たことがない」
「そうね、何せ人を食べているんだもの」
はは、と妖忌が苦笑した。
久しぶりに歌を詠むことにした。
「うーん……いまいちね」
「調子が乗りませぬか」
「久しぶりになるし……貴方に見られているからかしら?」
「これは厳しい」
また妖忌が笑った。つられて私も笑う。
そして暫くの時が過ぎた。と。
「……妖気を辿ってきてみれば、こんな見事な桜があるとはね」
その声に気付くと、桜の根元に誰かが立っていた。
「……何奴」
妖忌が刀に手をかける。
「あら、そんな邪険にしなくてもいいじゃない。
春の陽気に誘われふらふらとさ迷う最中にこんな見事な桜ですもの。
誘われても不思議じゃないでしょう?」
日傘を差し、見慣れない衣装に身を包んだ少女はそう言った。
「……何をしに来た」
妖忌が一歩前に出ようとする。それを止めた。
「幽々子様……?」
思えば何故そうしたのだろうか。それは気付いていたのかもしれない。
この目の前にいる少女は私とどこか似ている。
姿見こそ人と同じだが、内には絶対的に違う何かを秘めていることに。
「大丈夫……妖忌、貴方は少し下がっていて」
「ですが……」
「……妖忌」
「……分かりました」
そして私と少女だけが桜のもとに残された。
「……さて、まずは名前でも聞かせてもらおうかしら?」
「これは失礼、私は八雲紫。紫でいいわ」
「私は幽々子、西行寺幽々子よ」
「……そう」
一瞬、その紫と名乗った少女がどこか怪訝な表情を浮かべたような気がした。
「花の下で歌詠みとは風流ね」
横に置いていた硯箱を見ながら紫が言った。
「……それで、何をしに来たのかしら」
「あら、言ったでしょう?この桜に誘われたのよ」
…やはりこの少女はどこか普通ではないような気がする。
それからしばらく無言の時間が過ぎた。
「さて、今日はふらふらと立ち寄っただけだし、そろそろお暇させていただきましょうか」
そう言いながら紫が立ち上がった。
「次は……そうね。なにか手土産でもお持ちしましょうか?」
そう言って紫がこちらを見る。その顔は妖しく笑っている。
「まあ、この広い屋敷に二人。たとえ妖の類でも、客人として来るのならば相応に扱いましょう」
「ありがとう。それでは、またいずれ」
風が吹き花弁が舞う。少女の姿はいつの間にか消えていた。
それからこの紫という奇妙な友人は度々訪れるようになった。
妖忌はまだ信用しきれてはいないようだが、そこは彼の性格によるものが大きいのだろう。
それでもそれなりにはやっているようであった。
私自信、友人が出来るのは嬉しく思えた。
自分と同種のものなら、それはまた。
お互いがお互いのことは分かっている。だがそれを口には出さない。
そんな暗黙の了解が自然と生まれていた。
そして紫と出会い数年目の春のことだった。
今年も満開のあの木の下。
「……美しいわね。まるで、この世のものではないみたい」
紫が呟く。
「それはそうよ。なにせ――」
「人を食べている、から?」
言いかけた言葉は紫によって遮られた。
「……なんだ、気付いてたの」
「……そんな大きな力が漏れっぱなしなんですもの。気付かない方がおかしいわ」
桜の方に目をやったまま紫が続ける。
「大きすぎる力を持ちそれを御しきれない時、その力は災いとなる。
――幽々子、貴女も気付いているでしょう?」
「……ええ」
今思えば何故、この事を口にしたのだろうか。
いままである想いがそれを留めていたというのに。
この桜とあの子が惹かれあったのもきっとそれが元なのだろう。
お互いに大きすぎる力を持ち、同族から疎まれ――孤独だった。だから惹かれあった。
そこに罪はない。ただ、巡り合わせが悪かった。ただそれだけの事。
だがそのままにしておけばいずれ取りかえしのつかないことになる。だから――
思えば何故この事を口にしたのだろう。……それは私自身がそれを羨んだからかもしれない。
……滑稽だ。そんなものはとうに捨てて久しいというのに。
「……このまま放っておけばいずれ、取りかえしのつかないことになる、だから――」
「この子を封じるの?それとも私を殺す?」
「幽々子……」
「私は嫌よ、紫。私は孤独だった。この子も孤独だった。だから、もう離れることはできないの」
「気付いて、いたのね……」
目の前で桜に縋りつき、言葉を続ける幽々子の目には狂気が宿っていた。
今なら、きっと私も殺しかねないだろう。
「……後悔、するわよ?」
「それでも私は、この子と共に在れればそれでいいのよ」
「……そう」
それ以来、紫が訪れることはなくなった。そして、また変化が訪れた。
私の周りに現れる霊の数が以前よりも増えた。
そして表には出さないようにしているのだろうが、妖忌もどこか調子を悪くしているようだ。
それに比例するようにあの桜から感じる力も大きくなっているように思えた。
そしてある日。それは決定的となった。
「……」
「幽々子様……!?」
桜の元へと駆けつけてきた妖忌も絶句した。
桜の元で、名も知らぬ何者かが死んでいたのだ。
「これは……一体」
その後は妖忌が墓を作り弔ってやった。だが、それだけには終わらなかった。
始めは一年に一人。次は半年に一人。その次は三月に一人。そして一月に一人――
墓標もずいぶんな数になった。一人死ぬたびにこの桜は美しさを増す。
「……これが、そうなのね。紫……」
互いに傷を舐めあい、ひたすら共に在ろうとした結果が、これ。
「……そうだとしたら、私も、あなたも、とんでもない罪人ね……」
絶え間なく襲い来る後悔と煩悶の中で、私は決意した。
ある日、私は幽々子様に呼び出されていた。
奇しくも季節は春。また、死体が出たのであろうか。あの桜も満開に近い。
体もどこか思わしくは無かった。不安と言えば不安である。
「失礼します、幽々子、様……?」
自分の目を疑った。目の前の幽々子様は経帷子――死に装束に身を包んでいたのだから。
「……何のつもりですか、幽々子様」
「妖忌」
その格好とは裏腹にどこか毅然とした態度と声が意外だった。
「……貴方も気付いているとは思うけど、あの桜は人を死に誘う」
口を挟むことはできなかった。
「そしてそれは私とあの桜が出会ったから――故に、私はあの子と運命を共にします」
最後まで聞かずとも判った。幽々子様は――自ら命を絶たれるつもりだ。
「……いけません」
「……止めないでちょうだい。私はもう、誰かが死ぬことに耐えられない……私が死ねば全てが終わる」
そう言って幽々子様が立ち上がる。
「幽々子様!」
「来ないで、妖忌。――今なら、貴方でも死に誘いかねない」
そして最後に、こちらを見ずに言った。
「ありがとう」
次第にその後ろ姿が見えなくなっていく。
――分かっていた。だが、足は自然とその後を追いはじめていた。
一歩、また一歩桜へと近づく。それはまさに死への旅路。
死を目前にして、その胸のうちに去来するものは。
それは犠牲となった者たちへの哀悼だろうか。だが不思議と怖くはなかった。
そしてついにその元へと辿り着く。花は、もうすぐで満開となるところか。
「私もあなたも、罪を重ねすぎたわね……」
その姿は、もはや完全にこの世のものではない。力を持ちすぎたものの末路。
墓標のあるほうへと目をやる。あの者たちは、何を思って死んでいったのだろうか。
……悩むことはない。もうすぐ、それを知ることが出来るのだから。
願わくは、それが贖罪とならんことを。
手にした短刀を、鞘から抜き放つ。白刃が光った。
迷うことなく喉元へと当てる。あとは、一瞬。それで全てが終わる。
「ならばこの身をもって、償いとしましょう」
体が、重い。
幽々子様の後を追ってあの桜へと近づくたびに体の力が抜けていくような感覚。
その姿が見える頃には刀を支えに這うような様だった。
「幽々子、様……」
短刀を握る手に力を込める。意外なほどあっさりと、その刃は体を裂いた。
不思議と、痛くはなかった。
ただ、力が抜けていき、自分の身体が自分のものでなくなるような感覚があるだけだった。
ふと気付くと、目の前にはあの桜。
「そう、これで……あなたと本当に、ひとつに……」
桜の元に佇んでいた幽々子様の姿が崩れ落ちた。
それとほぼ時を同じくして、私の意識は闇へと落ちていった。
頬を冷たいものが叩く。雨が、降っていた。その感覚で目を覚ます。
体は、殆ど動かなかった。
それでも、動く腕を必死に使って這いずり、桜の元へと向かう。
「くっ……」
桜は、見事なまでに満開だった。それは同時に、何かが終わってしまったことも感じさせていた。
桜の元に倒れ伏した幽々子様はすでに息絶えていた。
広がる血の溜りに、花弁がいくつか浮いていた。
そのお顔は、不思議なまでに安らかだった。とめどもなく、涙が溢れ出た。
「……こうなることは分かっていた、でも、止められなかった」
気付くと後ろには、あの紫という幽々子様の友人だった者が立っていた。
「……何故だ」
「……あの子は孤独だった。望まないのに、その身には大きすぎる力を持ち……」
その声は、とても悲しげだった。
「……私もかつてそうだった。だから……」
そして幽々子様のお身体を抱えあげた。
「何、を……」
「……最後の仕上げよ。この子の身体を礎として、この桜を封印する」
「……!」
「……あの子も、そう言っていた。だから……そしてこれは私の罪滅ぼしでもある……」
そして儀式が始まった。
目の前に光が溢れる。そしてそれが収まったとき、目の前に広がった光景は――
桜の花が、全て散っていた。幽々子様の姿も消えていた。
「……これで終わり。この桜はもう、二度と咲くことはない。そして誰かが死ぬことも……」
「そう……か」
これからどうすればいいのかわからなかった。
幽々子様は、もう居ない。
傍らに転がった刀が目に入った。いっそ、後を追い私も。そう思った瞬間、紫が口を開いた。
「……待ちなさい」
「……?」
そしてそのまま言葉を続けた。
「……これであの子は、二度と転生することなく、同じ苦しみを味わうことのない存在となった。
……訳あって言うことはできない……けれど貴方にその意思があれば、再び巡りあうことができる」
「……!」
「……けれど、きっと今までのことは覚えていない。
貴方のことも分からないかもしれない。……それでも……」
「……それでも、幽々子様は幽々子様だ」
その言葉に紫はどこか満足そうな顔をした。
「そう、ならば巡りあえるでしょう。縁があれば、またいずれ」
その姿はいつの間にか消え去っていた。
そして今、最後の桜の一片が散った。
かつてこの地にはひとつの屋敷があったという。
だが今はその影も無く、ただ一本の花をつけない桜の古木が佇むだけだという。
紫はマヨヒガの縁側でまどろんでいた。
「……昔を、思い出すなんてね」
この季節になると思い出すような気がする。あの日のことを。
「……今年は、どうなるのかしらね」
それに応えるものは居ない。生者も死者もにわかに浮き足立つような春は、すぐそこである。