あちら側の世界を見てみたい。
そう何度も、幼いころから考えてきた。
数字と論理の積み重ねで表現されてしまう世界。そのくせ、やけに不安定な世界。抜け出したくなるのも、当然ではないか?
ユング派の心理学者どもは、人類の普遍的な深層心理が、離れた土地にも関わらず同じようなあらすじ、風景を共有する世界創造や桃源郷などという伝説が残されている原因である、云々などとのたまっている。今の時代そんなたわごとを信じている人は少ないが、もし彼らを信じるならば、あちら側の世界とは全人類に共通する深層心理に存在する。われわれ一人ひとりに、向こう側は内在し、共有されているのではないか。ならば、私にだって見ることができない道理はない。
見たい。どうしても見たい!
それなのに。
私の目が、向こう側を見ることを何よりも望んでいる私のこの目が、邪魔をしてくる。月を見るたび、自分の時間と場所がわかってしまう能力。草木も眠る夜、姿なき者が蠢く夜、輪郭がぼやけて夢心地でいるときにも、空を見上げてクリーム色のぶくぶくした中途半端な円が視界に入るたび、それだけで引き戻されてしまう。空を見まいとしても、窓ガラス、水たまり、何にだって月ははびこるのだ。帽子を目深に被っても、前や横の髪を不自然にまで伸ばしたって無駄だった。逃げ場なんて窓を閉め切った自分の部屋にしかない。夜闇を不自然に壊す電灯よりもずっと控えめな薄明りは、道しるべなどにはなってくれない。立ちふさがるだけの重石にしか見えないのだ。なぜこんな能力を持って生まれてしまったのか。問う相手も分からぬまま、何度も何度も問いかけてきた。
曇りの日には、私はひそかに安堵した。友人は陰鬱な天気に辟易していることも多かったが、私にとっては喜ぶべきことだ。あのいまいましい月の変にぼこぼこした表面を見なくて済む。時間も場所も分からぬまま、一晩中霞をたゆたっていられる。それだけで十分だった。
月には兎が住み、人も住み、高度な文明が作られているといわれてきた。今はもう隅から隅まで開発が進み、そんなことは妄言にしか受け取ってもらえない。それでも、見えているものが全てだなんて限らないではないか。いなかったということは、いることの否定にはならないのだ。深層心理の奥深くでは、月では兎や人が生活しているに違いない。
そんな未知の魅知に溢れた月なのに。邪魔だ。なくなってしまえばいいのに。
月のせいで、私はこちら側に縛りつけられている――――。
しかしかえって、私のあちら側への憧れは増していく一方だった。行けるわけなんてない、どこかでそう諦めていたからこそ、ますます渇望した。
いつしか私は、一人の人物を思い浮かべるようになっていた。縛られて動けない私の代わりに、ひょいひょいと危なっかしい足取りで世界を渡り歩くのだ。彼女の眼は焦点よりも先を見ており、視点の先が一点に留まることはない。たくさん見落としているようでいても、しっかり見通し、忘れない。
空想に過ぎないということは重々わかっていた。もしもそうだったらいいな、くらいの軽いノリだ。深層心理だとか桃源郷なんて馬鹿げている。理論と数式の歯車で組み立てられた世界では。私くらいに頭がよくなくともそれくらいは自明に分かってしまう。
それなのに彼女は止まることはなかった。彼女はいつも散歩をしていた。新月なのか雲はまばらにもかかわらず空には小さな星しか見えない夜道を歩いていると思えば、、突然ふっと消えたりする。しばらく待っていると、いきなり横から現れたりする。長い髪をふわふわ揺らしながら走り、道を外れて藪のほうへと走って行ったりもするのだ。
たまらなかった。私にできないことをひょいひょいとやってのける彼女が。惹かれていった。本当にいればいいのに、なんて考えて、そのたびに現実に目を向けなおして、首を横に振る、そんな日ばかり。治まることはなく、日増しにエスカレートしていった。
今にしてみると、私はおかしかったんじゃないか、と思う。
それだから、大学に入学して何日かたったある日に彼女と知り合ったとき、私は度肝を抜かれたのだ。目の前に、自分の考えていた姿と全く等しい人物がいる。背丈も、髪の色も長さも、声も、喋り口も、全てがだ!
すぐに話しかけた。すこし夢見る少女ぶって、遠まわしに私の夢想した内容を告げてみると、見事に食いついてきた。私の期待は膨らむ。一方で、理性の皮を被った何かがチクチクと邪魔をしてくる。
不思議な力とやらを彼女は語った。境目が見えるのだという。ますますもってビンゴではないか。彼女と一緒なら、私もあちら側を覗けるのだ。もう、夢ではなくなったのだ!これは現実なのだ!
心の中で陰に隠れた何かをひたすらに抑えつつ、私はもう止まれなかった。
「私、宇佐見蓮子。あなたは?」
「私?マエリベリー・ハーン」
ああ。
彼女の声が心臓の鼓動を響かせたように感じた。なんだかひどく重い。
My Reverie―――そう彼女は発音した。ように聞こえた。間違いない。そう言った。
そうなのか。結局、そうなのか。私の、空想なのか。
ちくしょう、とつぶやいたような気がする。視線はずっと下のまま、彼女がどうこちらを見ているかもわからない。くらくらして仕方がない。
どこまでコケにすればすむのだろう。縛るだけでは飽き足らず、私の頭の中で済ませておけばいいものを、リアルにまで持ち出してきて。妄想と現実、そのくらいの分別はつけているつもりだったのに。
広がったように感じたのは嘘だった。自己完結の世界に閉じ込められただけじゃないか。
最後の最後まで、私は夢見る女の子ってわけか。
そんなこと、あってたまるか。
せっかく向こうから夢と現の境界を越えてやってきてくれたのだ。これはチャンスだ。空想だなんてくだらない。現に彼女は目の前にいて、ほかの人にも認識されているじゃないか。ここはリアルだ。妄想なんかじゃない。引っ張り出してやるんだ、こちら側の世界に!解き放て!
まずは名前だ。私の空想なんて名前で縛り付けるわけにはいかない。
「マエ…リベリー?その名前少し言いにくいわね……何か呼びやすいあだ名考えてよ、それで呼ぶから」
「ええ……そんなことを言われたのは初めてよ。マエリベリーが難しいなら、ハーンでいいじゃない」
「ダーメ。苗字で呼ぶのは好きじゃないのよ」
「はぁ……。
じゃあ、そうね、メリーなんてどう?」
「ん、いいよ。メリー、ね。それでいきましょう。それじゃ、メリー」
「ようこそ、秘封倶楽部へ―――」
そう何度も、幼いころから考えてきた。
数字と論理の積み重ねで表現されてしまう世界。そのくせ、やけに不安定な世界。抜け出したくなるのも、当然ではないか?
ユング派の心理学者どもは、人類の普遍的な深層心理が、離れた土地にも関わらず同じようなあらすじ、風景を共有する世界創造や桃源郷などという伝説が残されている原因である、云々などとのたまっている。今の時代そんなたわごとを信じている人は少ないが、もし彼らを信じるならば、あちら側の世界とは全人類に共通する深層心理に存在する。われわれ一人ひとりに、向こう側は内在し、共有されているのではないか。ならば、私にだって見ることができない道理はない。
見たい。どうしても見たい!
それなのに。
私の目が、向こう側を見ることを何よりも望んでいる私のこの目が、邪魔をしてくる。月を見るたび、自分の時間と場所がわかってしまう能力。草木も眠る夜、姿なき者が蠢く夜、輪郭がぼやけて夢心地でいるときにも、空を見上げてクリーム色のぶくぶくした中途半端な円が視界に入るたび、それだけで引き戻されてしまう。空を見まいとしても、窓ガラス、水たまり、何にだって月ははびこるのだ。帽子を目深に被っても、前や横の髪を不自然にまで伸ばしたって無駄だった。逃げ場なんて窓を閉め切った自分の部屋にしかない。夜闇を不自然に壊す電灯よりもずっと控えめな薄明りは、道しるべなどにはなってくれない。立ちふさがるだけの重石にしか見えないのだ。なぜこんな能力を持って生まれてしまったのか。問う相手も分からぬまま、何度も何度も問いかけてきた。
曇りの日には、私はひそかに安堵した。友人は陰鬱な天気に辟易していることも多かったが、私にとっては喜ぶべきことだ。あのいまいましい月の変にぼこぼこした表面を見なくて済む。時間も場所も分からぬまま、一晩中霞をたゆたっていられる。それだけで十分だった。
月には兎が住み、人も住み、高度な文明が作られているといわれてきた。今はもう隅から隅まで開発が進み、そんなことは妄言にしか受け取ってもらえない。それでも、見えているものが全てだなんて限らないではないか。いなかったということは、いることの否定にはならないのだ。深層心理の奥深くでは、月では兎や人が生活しているに違いない。
そんな未知の魅知に溢れた月なのに。邪魔だ。なくなってしまえばいいのに。
月のせいで、私はこちら側に縛りつけられている――――。
しかしかえって、私のあちら側への憧れは増していく一方だった。行けるわけなんてない、どこかでそう諦めていたからこそ、ますます渇望した。
いつしか私は、一人の人物を思い浮かべるようになっていた。縛られて動けない私の代わりに、ひょいひょいと危なっかしい足取りで世界を渡り歩くのだ。彼女の眼は焦点よりも先を見ており、視点の先が一点に留まることはない。たくさん見落としているようでいても、しっかり見通し、忘れない。
空想に過ぎないということは重々わかっていた。もしもそうだったらいいな、くらいの軽いノリだ。深層心理だとか桃源郷なんて馬鹿げている。理論と数式の歯車で組み立てられた世界では。私くらいに頭がよくなくともそれくらいは自明に分かってしまう。
それなのに彼女は止まることはなかった。彼女はいつも散歩をしていた。新月なのか雲はまばらにもかかわらず空には小さな星しか見えない夜道を歩いていると思えば、、突然ふっと消えたりする。しばらく待っていると、いきなり横から現れたりする。長い髪をふわふわ揺らしながら走り、道を外れて藪のほうへと走って行ったりもするのだ。
たまらなかった。私にできないことをひょいひょいとやってのける彼女が。惹かれていった。本当にいればいいのに、なんて考えて、そのたびに現実に目を向けなおして、首を横に振る、そんな日ばかり。治まることはなく、日増しにエスカレートしていった。
今にしてみると、私はおかしかったんじゃないか、と思う。
それだから、大学に入学して何日かたったある日に彼女と知り合ったとき、私は度肝を抜かれたのだ。目の前に、自分の考えていた姿と全く等しい人物がいる。背丈も、髪の色も長さも、声も、喋り口も、全てがだ!
すぐに話しかけた。すこし夢見る少女ぶって、遠まわしに私の夢想した内容を告げてみると、見事に食いついてきた。私の期待は膨らむ。一方で、理性の皮を被った何かがチクチクと邪魔をしてくる。
不思議な力とやらを彼女は語った。境目が見えるのだという。ますますもってビンゴではないか。彼女と一緒なら、私もあちら側を覗けるのだ。もう、夢ではなくなったのだ!これは現実なのだ!
心の中で陰に隠れた何かをひたすらに抑えつつ、私はもう止まれなかった。
「私、宇佐見蓮子。あなたは?」
「私?マエリベリー・ハーン」
ああ。
彼女の声が心臓の鼓動を響かせたように感じた。なんだかひどく重い。
My Reverie―――そう彼女は発音した。ように聞こえた。間違いない。そう言った。
そうなのか。結局、そうなのか。私の、空想なのか。
ちくしょう、とつぶやいたような気がする。視線はずっと下のまま、彼女がどうこちらを見ているかもわからない。くらくらして仕方がない。
どこまでコケにすればすむのだろう。縛るだけでは飽き足らず、私の頭の中で済ませておけばいいものを、リアルにまで持ち出してきて。妄想と現実、そのくらいの分別はつけているつもりだったのに。
広がったように感じたのは嘘だった。自己完結の世界に閉じ込められただけじゃないか。
最後の最後まで、私は夢見る女の子ってわけか。
そんなこと、あってたまるか。
せっかく向こうから夢と現の境界を越えてやってきてくれたのだ。これはチャンスだ。空想だなんてくだらない。現に彼女は目の前にいて、ほかの人にも認識されているじゃないか。ここはリアルだ。妄想なんかじゃない。引っ張り出してやるんだ、こちら側の世界に!解き放て!
まずは名前だ。私の空想なんて名前で縛り付けるわけにはいかない。
「マエ…リベリー?その名前少し言いにくいわね……何か呼びやすいあだ名考えてよ、それで呼ぶから」
「ええ……そんなことを言われたのは初めてよ。マエリベリーが難しいなら、ハーンでいいじゃない」
「ダーメ。苗字で呼ぶのは好きじゃないのよ」
「はぁ……。
じゃあ、そうね、メリーなんてどう?」
「ん、いいよ。メリー、ね。それでいきましょう。それじゃ、メリー」
「ようこそ、秘封倶楽部へ―――」
なんというか、勿体ない感じがする。
雰囲気は良かったです。