※このお話は、作品集110『春の午睡は心地よく』の続編となっています。
未読でもそこまでの支障は無いと思いますが、できれば読んでいただけると、作者的にとても嬉しいです。
(これはちょっと、まずいな)
眠りから覚めて、まず思ったのはそれだった。……空が暗い。
神社へのお使いを終え、帰宅しようとしたときには、もう既に日が暮れかけていた。
見上げれば、きらりと輝く一番星。
闇へまぎれるようにしながら、何羽かの烏が飛んでいく様子も見える。
いつもなら、とっくに晩御飯の支度を始めているような時間だ。今日はまだその材料すら仕入れていないのだが。
(いくらなんでも、遅くなりすぎてしまった。あの子達ののんびり加減につられたかな)
私が起きても尚、尻尾の上でくうくうと眠りを貪っていた3人娘を思い出す。
今思えば、あそこで寝てしまわずに、適当な時間に3人を起して立ち去ってくれば良かっただけの話なのだが。
だが、今更そんなことを思ったところで、後悔先に立たず。
私は出来る限り急いで、まずは食材を買うために、人里の店屋を目指すのだった。
「今日も疲れたなあ」
脱衣場にて衣服を脱ぎつつ、私は一日を回想しながら、大きな息をつく。
まったく、紫様にも困ったものだ。
私にも色々と仕事があるというのに、突然「博麗神社までお使いお願い」だもんなあ。
橙用の教科書や、新しい服も作りかけで、しかもいい感じに乗ってきたところだったというのに。
このままでは、完成がいつになるか分からないではないか。何としても、投げっぱなしという最悪の事態だけは避けなければ。
「その上、出先であの子たちに、妙に懐かれて大変だったしな」
霊夢たちに散々弄られ、紫様にもクスクス笑われてしまった、ごしゃごしゃの尻尾を見ながら振り返る。
あの後、帰宅した私はすぐにご飯支度を始めようとしたのだが、紫様に『先にお風呂に入ってきなさいな。そんな尻尾じゃ惨めでしょう』と言われてしまった。傍目から見ても、それだけひどい状態だという事だろう。
私の自慢の尻尾で喜んでくれるのはいいが、少しは気を使ってくれてもいいのではないか。
今日は、普段よりもしっかりと、気合を入れて手入れをしておかなければ。
「ふう。ともあれ、入ろうか」
一人呟きつつ、がらりと浴室の引き戸を開ける。
八雲家自慢の檜風呂の香りは、何度嗅いでもいいものだ。
心が落ち着くし、この香りを嗅ぐだけで、体の疲れが取れるような気がする。
正直、この風呂は、神社の温泉にも全く引けをとらない出来だと思うのだがどうだろうか。
桶にお湯を汲み、体を流す。
汗ばんだ体に、やや熱めのお湯が心地良い。
その刺激に私は思わず、はあ、と声にならぬ声を上げてしまう。
スポンジに石鹸を擦りつけ、泡立てる。
まずは頭を洗い、続いて右足、右手と体を順番に洗っていき、洗い終えると、再び桶にお湯を汲む。
(この瞬間は、好きだな。体の汚れが一気に落ちる気がして)
そんな他愛無いことを考えつつ、頭からざばっとお湯を被る。
一度では体に付いた泡が落ちきらないため、二度、三度と繰り返して行う。
その後、ブルブルと体を振って水気を飛ばすと、溜めていた息をぷはっと吐き出す。
瞑っていた目を開くと、さっきのお湯が入ってしまったのか、少しだけしみた。
そのわずかな痛みが落ち着くのを待って、私は全身を見渡す。
(うん。ちゃんと落ちたようだ)
この段階で体に泡が残っていると、後々浴槽に入ったとき、泡もお湯へと入れてしまうことになる。
多少の量はどうということもないのだが、やっぱり嫌な感じはするものだ。
体中を見渡して、泡がついていないことを確認する。
そして、大丈夫だと判断したところで、私は本日最も気に掛かっている尻尾の手入れへと入った。
(ううむ、いかんな。想像以上にダメージが大きいようだ)
いつもの触り心地とまるで違う尻尾の状態に、私は顔を顰める。
思えば、いくら今日乗せた彼女たちが人間にしては軽い方と言っても、一人頭数十キロは確実にあるのだ。
それが3人。総重量が軽く100キロを越えることは、間違いない。
元々尻尾など、何人も人を載せるように出来ているわけではない。それを考えれば、むしろ今日は痛まない方がおかしい話だろう。
「可哀想に。今日は、よく耐えたなあ」
自らの尻尾に語り掛けつつ、私は一本一本丁寧に、出来る限り優しい手つきで尾の手入れを行っていく。
当然、使う石鹸も、先程使ったものより一段上の高級品だ。というか、普段はこんな高いもの、紫様にすら使わせていないくらいである。
傍から見ればおかしいと言われるかもしれないが、それだけ私は尻尾に思い入れがあるということなのだ。
考えてみて欲しい。
商売道具の喉を大事にしない歌手がいるだろうか?
資本である体にまったく気を使わないスポーツ選手がいるだろうか?
私は『九尾の狐』だ。つまり、この一本一本の尾は、私のアイデンティティそのものと言っても過言ではないのだ。
それを思えば、私が大切にしている尻尾に語り掛けたり、やたらと高級な石鹸を使ったりするのも、別段大げさという訳ではないだろう。
(そういえば昔、体を洗う順番で紫様ともめたことがあったなあ)
尻尾の手入れを続けながら、ふとそんなことを思い出す。
私は先に頭を洗い、しかる後体や顔を洗う。
その後頭からお湯をかぶれば、一気に全身の泡を洗い落とすことが出来て合理的だからだ。
ところが、紫様はまず頭を洗い、一度その泡を流し落としてから体を洗うというのだ。
何でも「藍の順番でやると、折角洗った体に、頭を洗った泡がついて汚れちゃうじゃない」ということらしい。
「そんな些細な事を気にするなんて、紫様らしくないです!」
「それはどういう意味よ!?」
と喧嘩になってしまったのだが、今思うと、つまらないことで言い争ったものだ。
私のやり方のほうが絶対に正しいに違いないが、たしかに紫様の言い分にも一理ある。
細かすぎるとは思うものの、気にする人はそういう点もとことん気にするのかもしれない。
まあ、そうは言っても、今更紫様のやり方を真似しようとも思わないが。
時間をかけて、じっくりと尻尾の手入れを行った後、ようやく浴槽へと向かう。
たっぷりと張られたお湯を眺めていると、それだけで幸福感が沸いてくるのは何故だろう。
ほかほかと温かい湯気をたてながら微かに波打つそれは、見ているだけでも気持ちよさが伝わってくるようだ。
居ても立ってもいられず、私は『ざぶん』と音をたてながら、一気に体を肩まで湯に沈めた。
「はふう」
お湯に浸かると同時に、全身にその温もりが染み渡り、私は思わず自分でも間抜けだと思う様な声を上げてしまう。
全身のコリが、徐々に解れてゆく感じとでも言えばいいのだろうか。その体がすーっと楽になるような感覚が、とても気持ちよい。
そうしている内に、体のみならず、心までじんわりと暖まってくる気がするから、不思議なものだ。
両手でお湯を汲み、顔を洗う。水で洗うのとは違う、肌に残るほわっとした感じが心地良い。
昔ながらの薪で焚いたこの湯は、外の世界で使われているガス釜の湯よりも、柔らかく炊き上がるのだという。
だからこそ、紫様は河童の技術力でガスを引く事もできたのに、敢えてそれをしなかったのだとか。
あの方もお風呂に関しては大変なこだわりのある方だから、その気持ちは分からないでもない。
ただ、勿論気持ちいいお湯に浸かれるのは嬉しいのだが、従者としては、少しでも楽な方がありがたいとも思う。
(ふむ。手間をかけて質を保つか、質を落として手間を省くか、か)
これは、風呂に限らず何にでも言える事であり、答えのない問いでもあるだろう。
どちらが良いかなんて、そうそう断言して良いものではない。
そもそも、ここは風呂場だ。あまり、難しい考えをするのに似合った場所とは言えない。
「よし。考えるの、やめ」
今はとことん、ゆっくりと体を休めよう。
そう考えつつ、私は、頭から湯の中へドボンと潜るのだった。
「気持ちいいなあ……」
壁に頭をもたれさせつつ、うわ言のように、そんなことを呟く。
体が温まるうちに、段々ふわふわとした、非常にいい気分になってきた。
その影響で、今は思考力すらも、まともなものではなくなっているようだ。
さっきの、当たり前すぎて言う意味もないような台詞が良い証拠である。
「~♪」
終いには、鼻歌まで出てしまう始末だ。とてもではないが、こんなところを他人様には見せられない。
誰に気を遣うでもなく、一人で思いっきり寛げるこの時間が、私はたまらなく好きだ。
何しろ従者というのは、四六時中主と顔を合わせていなければならない。
また、そうでなくとも今日のようにお使いに行かされたりで、一人の時間は少ない。
そういう訳で、入浴中は誰の目からも解放される、数少ない貴重な時間なのだ。(以前、紫様が私の入浴を密かに覗いていたことはあったが。勿論、全力で桶を投げつけておいた)
もっとも、昔橙と一緒に入っていた風呂は、また一段と格別だったわけだが―――。
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
「橙の体も、大分成長してきたなあ」
「そうですか?ありがとうございますっ」
「よし橙、今日は久しぶりに、私が体を洗ってあげよう」
「え?そんなの、藍様に悪いですよ」
「遠慮しないで。ほら」
「な、何か手がわきわきしてるんですが……にゃああ!?」
▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲
結局あれ以来、何度誘っても、橙が私と一緒に風呂に入ってくれることはなかった。
あの日の翌日は、誘っただけで泣かれた。翌々日も、ひどく苦いものを食べたような顔をされた。
とても寂しい。5日連続で断られたときは、もういっそ死のうかとすら考えた。
何が悪かったんだろう。もしや、こっそり防水カメラで毎日録画してたのがバレたのだろうか。
もしそうだとすれば、橙が怒るのも無理はない話だ。私が紫様に同じ事をされたら、余裕で3日はガン無視するだろう。
そう考えれば、泣きながらでも私にしっかり対応してくれた橙は、とてもできた式と言える。
(『観賞用、保存用、布教用』ととってあるテープだが、もっとこまめに隠し場所を変えなくてはまずかったのかもしれないな。しかし、橙はいい子に育っているようで良かった良かった)
「……いかんな。そろそろのぼせてきそうだ」
何故か、橙の裸身を思い出していたら鼻血が出そうになってきた。原因はよく分からないが、これはまずい。
今日、私は一番風呂を頂いている。
つまり、このままだとお湯を血で汚す事になりかねない。それは嫌だ。
まだ少し早い気もするが、そろそろあがった方が良いだろう。
夕飯の支度も残っていることだし。あの2人(主に橙)がお腹を空かせて倒れては大変だ。
私は、最後にもう一度顔を洗うと、再びざぶんと音をたてながら立ち上がった。
「ふう、いいお湯だった」
誰にともなくそう言うと、洗い場で椅子に腰掛け、しばしの間涼みつつ、汗が引くのを待つ。バスタオルの汚れを最小限にするための工夫である。
これも毎日の事で、いつもなら、3~4分も座っていれば、充分に汗は引いていく。
しかし、今日に関しては想像以上に体が温まっていたようで、じっと待っていても中々汗は引いてくれない。
「少しのぼせたかな……暑い」
そう呟きつつ、その場しのぎでパタパタと手を使って扇ぐと、火照った体に風が心地良い。
(お、これは思った以上にいいな)
すっかりその感覚が気に入った私は、パタパタ、パタパタと両手を忙しなく動かす。
だが、その内に手だけでは物足りなくなり、何か代わりになるものはないかと私は風呂場を見渡す。
「ううむ、桶……これは意外といける、か……?」
「ふにゃ?何がですか?」
「ええ、何がいけるのかしら?藍」
「ゆ、紫様?それに橙!?」
私が桶に気を取られている間に、気付けば風呂場の戸は開けられており、そこには紫様と橙の姿があった。
「ねえ藍、桶で何しようとしてたの?」
「何ですか~?」
「え、あ、そ、それは……」
突然の2人の登場に、私の心臓はバクバクと跳ねる。
(独り言言ってるの聞こえてた……恥ずかしい)
(もしかして、あんな、パタパタ手を振ってる恥ずかしい姿も見られたのだろうか?)
(というか、は、裸……)
「ふ、2人とも、どうしてここに?」
そんな心中穏やかではない私は、どもりながらも、何とかそれだけ訊ねる。
すると、紫様はにこにこと微笑みながら
「橙が、貴女と一緒にお風呂に入りたいって言い出してね。罪滅ぼしのためだとか何とか。でも、何故だか2人で入るのは躊躇っていたようだから、それなら私も入っちゃえって思って」
「そ、そうですか」
「貴女、もしかして橙にお風呂で変なことしたんじゃないでしょうね?この子にしては珍しく、相当怯えてたみたいだけど」
「い、いえ、滅相もない」
「そう?だったらいいけど。もしおいたがバレたら、あとでお仕置きですからね☆」
……語尾に☆がついてる割には、紫様の目はまったく笑っていなかった。怖い。
脱衣場にいる二人の格好は、当然の如く素っ裸だ。
紫様の姿は、どんな裸婦のモデルも敵わないぐらい美しいし、橙の可愛さはあまりにも破壊力がありすぎる。
思わず、私はごくんと唾を飲み込みながら、二人の姿に見入ってしまう。
「あら~?まじまじ見ちゃって。そんなに、私たちの格好が魅力的かしら?」
「ら、藍様!久しぶりに、一緒にお風呂入りましょう!」
からかうように言いながらシナを作る紫様と、そんな紫様の陰からチラチラとこちらを伺ってくる橙。
いかん。このままこんな桃源郷をずっと見ていたら、最早鼻血どころの騒ぎでは済まなくなる。そうなったら、誰が今夜の夕飯を作るというのか。
ここは何としても、一時撤退をせねばならない場面だ。
「いえ、残念ですが私は今上がるところで!?」
「まあまあ。いいじゃないの、もう少しくらい」
入り口から逃げるように出ようとした私だったが、紫様によってあっさりと捕らえられていた。
その上、橙からも上目遣いで「うう、藍様……駄目ですか?」なんて追い討ち付きで。
橙のそんな姿を見て、耐えられる者は果たしてどれだけいるだろう。少なくとも、私は無理。
言い訳がましいが、本当は、どうにか「すまんな。また今度一緒に入ろう」なんて言って、乗り切るつもりだった。
だが、ふと気付いたときには「全然ウェルカムだ!」なんて言っている自分がいた。
……ああ、どうして私は、こうも自分に正直なのだろうか。
だが、また橙と一緒にお風呂に入れるなら、例え少しぐらい血が足りなくなったとしても、大した問題ではないっ。
「よし橙、今日は私が体を洗ってあげよう」
「にゃ!?そ、それは遠慮しておきます!」
「あら、私の体だったら全然OKよ?」
「遠慮します。ほら橙、遠慮しないで。さあ……」
「ら、藍さまぁぁぁ!?」
……私の意識は、そこで途切れている。
あとで聞いたところによると、本格的にのぼせあがって、倒れてしまったらしい。
私としたことが、とんだ不覚を取ったものだ。
折角の橙とのお風呂が水の泡になってしまった。
あのときの記憶は、残念ながら朧気にしかおぼえていない。
紫様の美しさも、橙の可愛さも、どうやって思い出そうとしても霞がかかったようになってしまうのだ。
まあ、暑さにやられてのぼせてしまったのだから、仕方あるまい。
ただ、倒れる直前、後頭部に鋭い痛みが走った事と。
それから、紫様の「まったく。2人して本当に仲が良いんだから。妬けちゃうわ」という、少し拗ねたような声が聞こえた気がしたことだけは、はっきりと憶えている。
―――――――――――――
「う、うぅ……かわいいな……橙……」
「……ふん」
八雲家の寝室。
藍は鼻血を出しつつも、幸せそうに布団へと横たわっていた。
その頭には大きなコブができており、ご丁寧に、コブを冷やすための氷嚢も当てられている。
そして、そんな藍を、紫は冷たい視線で眺めていた。
あの時、藍から自分の台詞をさくっと流されたことに一瞬殺意を覚えた紫は、隙間越しに藍の手から桶を掴み取り、全力で藍に向かって投げつけたのだった。
(……何よ。「橙、橙」って。昔は、何をするでも「紫様、紫様」ってちょこまかつきまとってきて、それこそトイレだって2人で行ってたくらいなのに)
紫はそんなことを思いながら、ぎりっと歯ぎしりをする。
『昔』って何十年、いや何百年前の話だ、とつっこんではいけない。
それがどれだけ古い話だろうが、彼女にとっては単に事実を回想しているに過ぎないのだから。
藍が子供の頃。紫に拾われたばかりの彼女は力も弱く、何より泣き虫だった。
夜は「一人で寝るの怖い」と紫に泣きつき、今日のような、きちんとしたお使いができるようになるまでには相当な時間がかかった。
そして、そんな藍を、紫は愛おしみ慈しみ、叱咤激励しながら大切に一人前の式へと育て上げてきたのだ。
要するに、彼女にとって、藍は何年経っても子供なのである。
その意識は、藍が結界の修復という難しい作業をこなせるようになろうが、橙という式を持とうが、全く変わることはない。
(最近の藍は、ちょっと私に冷たすぎじゃないの?橙にばっかり甘くなって)
初めはたまたまそうなのかと思っていたが、それにしてはどうも続く気もする。ここ数ヶ月の藍の言動を振り返りつつ、紫は考える。
(そういえば、この前の夕飯のハンバーグは、橙が2個で私は1個だったわね)
「橙は育ち盛りなので」とか何とか藍は言っていたが、それを言ったら自分だって17歳だ。そんな自覚のある紫が
「17歳といえば、人間で考えれば十分育ち盛り。だから私ももう1個ちょーだい」
真面目にそう言った結果、紫は思いっきり白い目で藍に見られる結果となった。
ちなみに、その次の日の夕食は、橙がステーキで紫はめざしだった。
(「橙は、強い妖獣になるため、子供の内に顎を鍛えておかなければなりませんから。紫様は、いつまでも健康でいてもらわなくては困りますから」だって。うまいこと理屈をつけるものよね。だからって、私もそう易々とは死なないから、おかずがめざしでいい理由には何にもならないのだけど)
紫がそんなとりとめもないことを考えていると、コブが痛み出してきたのか、藍の顔が苦しそうに歪んだ。
零れる吐息も、先程までと違い、どこか苦しげなそれに変わっている。
「い……つう……」
「いい気味よ。妖怪の力で桶投げつけられたら、凄まじく痛いでしょ?私だって、あの時はそれこそ死ぬかと思うくらい痛かったんだから」
数週間程前、娘の成長を思う親心から、藍の入浴を覗き見たことを思い出しつつ、紫は一人呟く。
あの時紫は、自分が悪い事をしている自覚というなど、一欠片も持ち合わせていなかった。
それどころか、自分に気付いた藍が「紫様、久しぶりに一緒に入りましょう」という感じで声をかけてくれるのではないかと、期待すらしていたのだ。
その結果が桶である。彼女が受けたダメージは、肉体面というより、むしろ精神面の方で大きなものだった。
「……さて、そろそろ行こうかしら」
ゆっくりと回想を終え、紫は独り言を洩らしつつ立ち上がる。
倒れた藍をここまで運び、寝巻きを着せ、布団を敷いて横にし、氷嚢も準備した。
ついでに、起きたときのことを考えて、枕元には痛み止めの薬と水を一杯置き、台所には雑炊を作ってある。
となれば、後は自分にできることは何もない。
(自分で攻撃しといて、自分で看病してるんじゃ世話ないわね)
そう思い、紫は一人苦笑する。
放っておいたって、別に構わないのではないか。
どうせ藍だって、今やべらぼうな力を持った妖怪で、この程度で命がどうにかなるわけじゃないのだから。
誰しもが浮かべそうなそんな考えは、しかし、紫には微塵も思い浮かばなかった。
結局、何だかんだ言いながらも、彼女の愛娘に対する溺愛っぷりは、まだまだ半端なものではないのだ。
(明日一日は、藍にお休みあげて休養に専念させようかしら。その代わり、明後日からはバリバリ働いてもらう事にして)
ふふっと微笑みながらそんなことを考えつつ、紫は部屋を出ようと、障子に手をかける。
と、まさに部屋を出る直前、紫の耳に、か細い藍の寝言が飛びこんだ。
「ゆ……ゆかり、さま……」
(え?)
その声に、紫の足は思わず止まっていた。
彼女のこんな声を聞くのは、一体何年ぶりだろうか。久しく聞かなかったその声に、紫は感慨にも似た何かをおぼえる。
どこか不安そうで心もとないその声は、尚も続けて言う。
「一人は……やです……置いてかないで……」
「……馬鹿ね。貴女の主は、いつだって側にいるじゃない」
障子を閉め、藍の枕元へと戻ると、紫はいつの間にか涙目になっている彼女に向かってそう囁いた。
すると途端に、藍の寝顔は安心しきったかのような安らかなものへと変わっていく。
(あらあら。昔の夢でも見てたのかしら?ねえ、藍)
初めてお留守番を任せた日を思い出し、紫の胸はちくりと痛んだ。
あの日、できるだけ急いで用事を終えて家に帰ると、それまで気丈に振舞っていたであろう藍が、号泣しながら紫へ向かって飛びついてきたのだ。
その時も、藍から今と同じように「もうお留守番嫌です……置いてかないで……」と涙ながらに言われた紫は「大丈夫よ。藍が困ったときにはいつだって、私が隙間を使って助けに行くから」と言って安心させたものだった。
(やっぱり、まだまだ子供ね)
愛する娘の寝顔を眺めながら、紫は思う。
(もっとビシビシ鍛えなきゃ。藍、明日……じゃなかった。明後日からは、覚悟してなさいよ!)
ぎゅっと藍の手を強く握り締め、まだ夢の中にいる彼女に向かい、紫は心中でそう声をかける。
しかし、そんな厳しい言葉とは裏腹に、紫の顔には、優し気な笑みが溢れているのだった―――。
一人も良いけど大人数での風呂も良いですね。
ほのぼのとして良かったです
作者様、教えてくれてありがとう、ありがとう……
それはそうと、藍様がお風呂に入ったら、九尾の浮力でお尻が浮き上がらないのでしょうか?
主人公3人に対しては姉や母のような藍様も、橙は溺愛、紫さんには……
ああ、もう、良いなぁ……!! 風呂でこの気分を叫んでくれようかッ!
いや~いいっすよね風呂、なんか心も体もリラックスできます
これで八雲一家が全員いればなあ
にやにやが最後までとまりませんでした