Coolier - 新生・東方創想話

定期報告

2022/05/08 21:00:33
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 今日もいつもと変わらない一日が始まる。
 気怠さを振り払うように、布団から体を起こして立ち上がる。
 
 服を着替えながら壁に貼り付けたカレンダーを見た。
 暦では春を迎えようとしているが、日の光が届かない地底でその実感はない。
 
 地上の人妖は例年通りなら今頃花見だなんだと騒ぎ浮かれているに違いない。
 ああ、光に照らされた世界で能天気に過ごす連中が妬ましい。
 
 私は姿見で身だしなみを整え、敷いていた布団を片付けると
壁際に寄せていた丸いテーブルを部屋の中央に移動させた。
 
 そして炊事場から昨日の残り物を並べ、さっさと朝食を済ませる。
 何百、何千回と繰り返された、変わらない朝の時間だった。

 食器を洗い終えたところで炊事場に置かれた時計を見る。
 そろそろ時間か、行かないと。
 
 上がり框に置いた布袋と工具の入った箱を手に外に出た。
 中の道具がガチャガチャと音を立てる。

 立て付けの悪くなった引戸を閉め、鍵をかけた。
 この家に住み始めてからもう何十年になるだろうか。
 ここで暮らし始めたのは今の仕事を始めてからだけど、最早数えてはいない。

 この家は地上に続く穴と旧都の丁度中間辺りに建っている。
 元々新築ではなかったし、お世辞にも大きな家とは言えない。
 
 それでもここに住み込んで働くことにしたのは、
借賃が安かったことと、周囲に他の家がなかったことが大きい。
 何故なら私は嫉妬心を操る妖怪であり、その力の源は言うまでもなく周囲の生物の負の感情だ。

 大小はあれど、人妖は少なからず他者に対して嫉妬心を持っている。
 私にはそれが手に取るように分かる。
 でも、だからといって旧都のような他の妖怪の出入りの激しい場所で暮らそうとはとても思えない。
 
 毎日毎日、周囲の感情に曝されてはこちらが耐えられないからだ。
 もしも私が能力を抑えることが出来ず、無差別に住民達の心を狂わせればどうなるか。
 
 その場は瞬く間に常人なら目を背けたくなる大惨事と化すだろう。
 嫉妬に支配された者は自制心を失い、他者を傷つけることにさえなんの躊躇いもなくなるからだ。

 そして、そんな事態を引き起こしたとなれば当然私もただでは済まない。
 捕縛される程度では済むまい。
 
 封印、処刑されてもおかしくない。
 だから私は滅多に他人と出会うことのないこの場所で暮らしているのだ。










 目的の場所には飛行を始めてからものの五分ほどで到着した。
 私は持ってきた布袋と工具箱から必要な道具を取り出し、川に架かった橋の掃除、点検を始める。
 
 運よく橋の周囲には誰もいない。
 いたとしてもやることは変わらないけど、他人の視線に晒されるのはあまり好きではない。

 そう、私の仕事は旧都周辺に架かる橋の管理だ。
 とはいえ、対象の橋は全部で二十ヵ所近くあるので毎日全てを回るというわけにはいかない。
 今日はこことあと四ヵ所を点検する。

 管理と言えば聞こえはいいけど、その実態はただの修理屋だ。
 大体、妖怪の大半は空を飛ぶことが出来るのだ。
 橋などなくても大して困らないのが実情だろう。
 
 さらに、旧都を囲むように点在している橋の中には明らかに誰も使用していない物もある。
 そんな場所の掃除や点検など、果たして必要だろうか。
 
 欄干の汚れを拭き取りながらそんなことを考えていると、橋の上を歩く音が聞こえてくる。
 足音からして体格は小さそうだ。
 作業を続けながらも私は音のする方に視線を向けた。
   
 真っすぐにこちらに歩を進めているのは私のよく知る、しかしあまり会いたくない人物だった。
 何故こんなところにいるのだろうか。 
 彼女はすぐ傍まで来て、軽くお辞儀をしながら言った。

「こんにちは、パルスィさん」

 私より頭半分ほど低い背丈に、病的と言っていいぐらいに真っ白な肌。
 稚気の残る顔立ちも相まって、一見すると人間の幼子にも見える。
 けれど、彼女はれっきとした妖怪だ。
 
 鮮やかなピンク色の髪から伸びるコードのようなものとそれが繋がっている第三の目。
 彼女は他者の心を読む妖怪、古明地さとりだ。
 私はとりあえず応える。 

「……こんなところに何の用なの?」

「たまには貴女の仕事ぶりを見ておこうと思いましてね」

 口調は丁寧だけど、抑揚のないその声に感情はろくに感じられない。
 なにより、いつものことながら彼女の半開きの目には生気があまり感じられないし
そのくせ口元には薄ら笑いを浮かべている。
 慇懃無礼、という言葉が相応しいのではないだろうか。

「酷いですね。そんな風に思われていたなんて、悲しいです」

 そんなこと全く思っていない癖に、こいつはご丁寧にハンカチまで取り出してよよよと泣く真似をした。
 誰が騙されるものか。
 大体本当に傷ついているならその他者を小馬鹿にしたような態度はなんなんだ。
  
 これだから私は古明地さとりが苦手だ。
 心の奥底、自分さえも気づいていない感情まで、何もかもを見透かす相手とまともな会話など出来るわけがない。
 早く帰って欲しいと心で念じながら私は言った。
 
「こっちはいつもと変わらないわよ。
相変わらず定期修繕の時期を大きく過ぎた橋ばっかりだけど」

「予算が」

「ないんでしょ、だからガタがくる度にそっちでなんとかしろということよね」

「貴女も大分分かってきましたね」

 精一杯皮肉っぽく言ったのにこいつは全く応えていないようだ。
 元々橋というのは造られてから一定の年数が経過する度に耐久検査を行い、
その結果次第では補強工事を行うことが必要とされている。
  
 私が管理している橋のほとんどは着工から数百年が経過し、耐久検査の実施推奨年数などとっくに超過している。

 理屈で言えば極端な話、崩落してもおかしくないということだ。
 私が普段しているのはあくまで清掃と目視点検、簡単な修繕だけなので
本来行われるべき検査は全くされていない。
 暖簾に腕押しなことは分かっているが、私は続けた。

「……そのうち本当に崩落するわよ。地底の管理者として、そんなことでいいの?」

「予算配分の都合で仕方がないのです。
貴女も知っての通り、ここ地底の住民は大半が空を飛ぶことが出来る以上、
橋の修繕の優先度はどうしても低くなるのです。
それに鬼をはじめとするここ地底の妖怪達が橋の崩落に巻き込まれて
死ぬような方々じゃないことは貴女も分かっているでしょう?」

 だったら、私がしている仕事は一体なんなのだろうか。
 つい反射的に考えてしまう。
 
 尤も、これに対する答えならもう何度も聞いている。
 案の定、今度も彼女は相変わらずアクセントの無い声で言った。

「必要な仕事ですよ。徒歩で移動する住民がゼロというわけではありませんからね。
それに景観のこともあるんです、橋があった方が見映えがいいと上層部の方達は皆言っています」

 こちらの心の声に勝手に返事をするなという気になるけど、
今更言っても仕方がないしこいつはやめないだろう。
 だったら今の状況を少しはなんとかしてもらいたいものだ。
 
 不具合箇所が出る度に直せる箇所は自分で修繕をし、直せない箇所は
これも自分で旧都に足を運び専門の業者に見積もりを取って工事を依頼しなくてはいけない。
 
 それも予算が限られている以上可能な限りの値切り交渉まで必須ときている。
 橋の数が多いだけにその手間は小さくなく、直しても直してもきりがない様はまるで賽の河原だ。 

「大変かと思いますが、頑張って下さい」

 彼女はいつの間にかハンカチをポケットにしまい、踵を返しながら片頬をこちらに向けて言った。
 演技でも少しはそれっぽく言えないのか。
 
 私は背を向けて立ち去る彼女から目を離し、溜息をつきながら床板に置いた道具を手に作業を再開した。
 地霊殿の綺麗な部屋で優雅に暮らす彼女の姿が嫌でも脳裏を過る。
 ああ、妬ましい。




















 それから二日後の昼なか。
 雨が降り続く中地霊殿に向かう私の足取りは重い。
 尤も天気がよかったところで、気持ちが前向きだったことなどないのだけど。
 
 私は週に一度、地霊殿に業務の定期報告に行かなくてはならない。
 一昨日会ったばかりの彼女とまた会うのは億劫だし、今日はなんだか朝から体が重い。 

 こんなことは普段ないので体に何か異変が起きているのかと思考を巡らせたけど、
動けないほどではないし定期連絡を欠かすわけにはいかない。
 後の処理が面倒なことが目に見えている。 

 そんなことを考えながらひたすら旧地獄街道を進む。
 ここを抜けると地霊殿はすぐだけど、辺りからは急に人気がなくなる。
 
 心を読むさとり妖怪が他の多くの妖怪から忌み嫌われているせいだろう。
 実際に旧都を出てから地霊殿に向かうまでの道中で他者に会ったことなど数えるほどしかない。
 今日も実際に、誰にも出会うことはなかった。 

 地霊殿の門を潜り、エントランスに入る。
 蒸されるような熱気を感じるのはこの建物が灼熱地獄跡の
真上に建っているせいか、私自身の疲労のせいか、あるいはその両方だろうか。
 汗で肌着が張り付くのが不快だけど我慢するしかない。
 
 エントランスのベルを鳴らすと廊下からいつも応対をしてくれる彼女のペットが出てきた。
 赤色の髪と三つ編みが特徴的な火車の妖怪、火焔猫燐だ。
 
 要件を告げると彼女は陽気な声ではーいと返事をして館の奥に引っ込んだ。
 それから一分もしないうちに彼女は小走りで再び姿を現して言った。

「このまま執務室までどうぞ、とのことだよー」

「……どうも」

 短く応え、幾度となく通った道筋を経てさとりのいる執務室に向かった。
 階段を上がった先の一番奥の部屋の前で私は足を止め、一応ノックをして呼びかける。

「水橋パルスィです」

「どうぞ」

 室内から間髪入れずに帰ってきた返事を聞き届け、私はドアを開いた。
 十二畳ほどの広さの執務室で彼女は本と書類が積み上げられた事務机にいた。
 
 視線は手元の紙に向けられていた。
 私が近付いてもなかなか顔を上げないけど、これもいつものことだ。

 黙って部屋の角にある来客用のソファーセットの机に報告書の入った封筒を置いた。
 どうせ彼女は報告書などろくに読まない。
 
 初めてここに定期報告に訪れた時、私が報告書を手渡そうとした時に彼女はこう言ったのだ。
「仕事ぶりなら貴女の心を読めば分かりますのでそこに置いておいて下さい」と。
 視線をソファーセットから彼女の席に戻したところでようやくさとりは顔を上げた。
 
「報告書、ここに置いておくわよ」

「はい、ありがとうございます」

 相変わらず感情に乏しい声だった。
 相手は地霊殿で怨霊の管理をする遥か目上の存在だけど、こちらもそれなりに頑張って報告書を作っているのだ。
 慣れたこととはいえこんな態度を取られては面白くない。
 
 大体この前も、いや、まずはここを立ち去ろう。
 つい余計なことを考えてしまう。
 
 こちらが心で思ったことにいちいち揚げ足を取られてはかなわない。
 私が部屋の入口に向かおうとした時だった。

「すみません。少しよろしいでしょうか」 

 後ろから自分を呼び止める声がした。
 背後を返ると彼女の三つの目がこちらを真っすぐに見つめている。
 
 もう何十、何百回とこの部屋を訪れたけどこうして帰りがけのところを呼び止められたのは初めてだ。
 何か問題でもあったのだろうか。
 
 動悸が激しくなるのが自分でも分かる。
 私は返事はせずに彼女の座る机の横に立って言った。

「……何かミスでもしていたかしら」

 私の問いに彼女は答えない。
 無言でこちらを凝視している。
 お互いに手を伸ばせば触れられそうな距離だ。
 
 その近さのせいか胸元のサードアイがぎょろぎょろと瞳を動かしているのが普段以上に不気味に感じられた。
 一分ほどだろうか、無言の時間が続いた後に彼女は不意に口を開いた。
 
「……いえ、大丈夫です」

「……え?」

 拍子抜けして間抜けな声を出してしまった。
 何か重大な問題でもあるのかと思ったではないか。
 
 それなら早く帰らせて欲しい。
 私は半ば逃げるように早口で言った。

「それなら、帰るわよ」

「はい、呼び止めてすみませんでした」

 さとりは軽く頭を下げて謝意を示すと、それ以降顔を上げることはなかった。 
 私は早歩きでエントランスに向かう。
 
 執務室で変に神経を使ったせいか来る時よりも体にずしりと重い疲労を感じた。
 さっさと家に帰りたい。

「あ、橋姫のお姉さん。もうお帰りかい?」

 声のした方に振り向くと通路の脇にいた燐が話しかけてきていた。
 早くここを立ち去りたいのに、と思いながらも歩を止めた。

「ええ」

「そうかい、お姉さんも妖怪だから大丈夫だと思うけど体調には気を付けてね。
さとり様は多分お姉さんのこと気に入ってるから」

 馬鹿な、勘違いに決まっている。 
 あいつが私に好意を持っているはずがないし、万が一そうだとしても
好きな相手にあんな愛想のない態度は取らないだろう。
 私は早く立ち去りたい思いもあって、歩き出しながら言った。

「……気のせいでしょ、それじゃ」 
 
 それから私は地霊殿を後にし、真っすぐ帰路についた。
 陽は完全に落ち、家の周りは薄暗かった。

 玄関を開けて家に入ると私はすぐに脱衣所で服を脱いでシャワーを浴び、部屋着に着替えた。
 肌の気持ちの悪さは取れたけど体の怠さは変わらない。
 
 まだ夕食を済ませていないけど、取り敢えず横になりたい。
 私は目を閉じて布団の上にうつ伏せに倒れ込んだ。
 
 明日はこの家から少し遠い場所にある橋に行かないといけない。
 しかもいつものように私一人というわけではなく、旧都の重役が珍しく現地を見に来るらしい。
 
 身体の不調もあって憂鬱極まりないけど、決まっているものはどうしようもない。
 早く寝ればおそらく大丈夫だろう。
 そう結論付けた私は無理矢理に眠りにつこうと目を閉じた。
 
 しかしそれから三十分、一時間と時間が過ぎても眠れず、頭が何かでちくちくと刺されるように痛み始めた。
 私は布団の中で身体を丸めながらしばし思量した。
 
 妖怪は肉体的には人間などよりずっと丈夫だ。
 だから私もこれまで生きてきて病に倒れたことなどない。
 疲労は感じても病気などとは無縁だと思って過ごしてきた。

 けれど、これはただの疲労ではなさそうだ。
 明日はよりにもよって面倒な案件が控えているというのに。
 
 地底にも市場に行けば薬屋ぐらいはあったはずだ。
 適当な置き薬を買っておかなかった自分の不用意さに臍を噛む思いだけど、
今更悔やんだところでどうしようもない。

 どうする、今の体調で片道四十分近くかかる旧都西側の橋に行けるだろうか。
 時計を見ると時刻は既に深夜の一時。
 遠方に連絡を取る手段など持っていないし、今の体調を誰かに伝えることも出来ない。
 
 掛け布団を足で無造作に蹴飛ばし、身体を無理矢理に起こす。
 立ち上がったところで、不意に地面が傾く。
 
 実際は違うのだろうけど、そう錯覚するほどに私の平衡感覚は狂っていた。
 左に向かって倒れそうになる自身の体を、壁に手をついてなんとか支える。

 駄目だ、とても動けそうにない。
 かと言って旧都の重役との約束をなんの連絡もなく欠席することなどあってはならない。
 誰かに頼ろうにも、今の孤独な境遇を望んだのは他ならぬ私だ。

 旧都に知り合いの妖怪がいないわけではないけど、そこまで足を運ぶだけの力は既に残っていない。
 さとりに連絡を取ることが出来れば、迷惑をかける以上嫌味は言われるだろうけど
彼女の方から重役に話は通してくれるに違いない。
 
 尤も、今からどうやって地霊殿にいる彼女に連絡を取るのか。
 万が一辿り着けたところで、こんな時間に来客に会うわけもない。

 無理だ、どうしようもない。
 最早出来ることは目を閉じて横になり、明日の朝この身体の怠さと
頭痛が治まっている僅かな可能性に賭ける以外にない。
 私は発条の切れた玩具のように動作を止め、再び布団の上にばたりと倒れ込んだ。




















 翌朝。
 目を覚まして時計を見ようと体をひねった拍子に頭がずきっと痛んだ。
 昨日よりは若干痛みが引いているけどやはり痛い。
 
 時計を見ると時刻は既に七時過ぎ、旧都の重役との約束の時間は九時だから、
そこに着くまでに要する時間を考えると八時には家を出る必要がある。

 私は石でも背負わされているかのように重い自分の体を懸命に起こした。
 なんとかふらつかずに立つことは出来た。
 
 これならなんとか現地までは飛行出来るかもしれない。
 いや、するしかないと言うのが正しいのだけれど。

「ふ、ふふ」

 噴き出すような吐息が声となって漏れた。
 ああ、妬ましい。
 世の中にはろくに仕事もせずに毎日能天気に遊び呆けているだけの連中がいくらでもいるというのに。
 
 何故私がこんな目に遭わなければいけないのか。
 そりゃ私は嫉妬を操る妖怪でおまけに性格も陰気だから、周りに好かれないことぐらい分かってる。
 でも、私は私なりに精一杯やってるのに。
 それなのに。

 目から涙が零れる。
 私は思わず自嘲して呟いた。
 
「ふ、ふふふ、妖怪が体調を崩してべそをかくなんてお笑い、ね」

 なんと無様だろうか、と心の中で付け加える。
 ああ、もうどうにでもなってしまえ。
 目元を白い寝間着の袖で乱暴に拭っていたその時だった。

「パルスィさん、起きていますか」

 玄関から声がした。
 落ち着き払った、起伏に乏しい声。
 
 間違いない、あいつだ。
 でもこんな時間に、何故ここにいるのか。

「少し待って、すぐ開けるわ」

 私は頭の中を整理する間もなく慌てて返事をすると、着替えを急いで済ませる。
 それから脱衣所の鏡の前に駆け込み、髪の乱れを手でなんとか見られる程度まで直す。
 どたどたと床を踏む度に頭が痛むけど、気にしている暇もない。
 
 なんとか身だしなみを整え、三和土に身を乗り出しながら玄関の引き戸を開けた。
 そこには昨日も会ったばかりの古明地さとりが茶褐色のトートバッグを片手に佇んでいた。
 私が上がり框に立っているせいで完全に彼女を見下ろす形だ。
 
 ともかく、何故こんな時間に彼女はやってきたのだろうか。
 私が問いかけようとしたその時、さとりは口を開いた。

「すみません、昨日これをお渡ししないといけなかったのですがすっかり忘れていました」

 そう言うとさとりはバッグの口を開き、中から白い封筒を取り出した。
  
「貴女に管理をお願いしている橋の着工当時の完成書類です、多分必要になると思いまして」

 成程、合点がいった。
 それで私が家を出るであろう時間より前を見計らって渡しに来たということか。
 私は封筒を受け取ろうと手を伸ばした。
 
 しかし、彼女は封筒をこちらに渡さず引っ込めた。
 私はバランスを崩して前のめりに倒れそうになった。
 
 行動の意味が理解出来ない。
 すかさずその双眸を凝視したけど彼女は相変わらず表情一つ変えない。

 その態度は私の心に急速に怒りの炎を燃え滾らせた。
 ふざけるな。
 
 こっちは体調が悪い中これから仕事に行かなきゃいけないんだ。
 それも、嫌でも気を遣わないといけない旧都の重役と一緒にだ。

 普段なら多少小馬鹿にした態度を取られても我慢するけど、今は別だ。
 こっちは綺麗なお屋敷でのんびり仕事が出来るお前とは違うんだ。
 私が抗議の声を上げようとしたところで、彼女は再び口を開きぽつりと呟くように言った。

「やはり、貴女はそうなのですね」

 意図が分からないその言葉は文字通り火に油を注ぐだけだった。
 私はついにイライラを隠さずに痛む頭を抑えながら精一杯凄んで言った。
 声が裏返る。
 
「はあ!?」

 だが彼女は気圧されるでもなく平然と言った。 

「やめて下さい。そんな体調で無理をして、何かあったらどうするんですか」

 その言葉に、心が水でもかけられたように急速に冷やされた気がした。
 こいつは今、私を心配したのか。
 こちらが絶句しているのに構わず、さとりは続けて言った。

「心を読めば貴女の体調が相当悪いことぐらい分かります。
今日のことならご心配なく、先方にはすぐに使いを送ります。
この時間なら十分に間に合うでしょう」

「私は、というか、重役との約束をそんなに簡単に断るなんて」

「そんなことは連絡一つでどうとでもなります、それに」

 さとりは封筒をバッグにしまいながら続けた。

「貴女の真面目で丁寧な仕事ぶりは大変評判がいいですよ。
気付いていないかもしれませんが、時々旧都上層部の方達も貴女の仕事ぶりを見に行っているのです。
だからそんな貴女が体調を崩したから予定を先延ばしにさせてくれと言っても、誰も文句など言わないでしょう」

 今私は、褒められたのか。
 代わり映えのない、特別誰の役に立つでもない仕事だと、ずっと思っていた。
 
 それが、知らないところで評価されていた。
 私は思わず、声を漏らしていた。 

「そう、だったの……」

「ご理解頂けたようですね。
そういうことなので、今日は休んで下さい」

 さとりはそう言うと、空を見上げながらぼそぼそと聞き取れないほどの小声で何かを呟く。
 すると首に紅色のチョーカーを着けた鴉が空から現れた。  

「ではこれを……お願いしますね」

 そしてバッグから取り出した円筒形の小さな入れ物を鴉の胸元に括り、優しい手つきで頭を撫でた。
 鴉はこくりと頷き、勢いよく飛び去って行った。
 
 その一連の動作において、彼女の顔はこれまでに見たことがないほど穏やかで、明るい雰囲気に満ちていた。
 私が驚いて呆気に取られていると、さとりは再び表情を元に戻して言った。
 
「これで大丈夫です」

「……使いって今の鴉のことよね」

「そうですよ。よく言うことを聞いてくれるいい子です」

「……いくらなんでも相手が怒らないかしら」

「心配いりませんよ。
万が一なにかあったところで彼らとの面倒事なら高級酒の数本でも贈ればそれで解決します。
どうせ家にはお中元でもらった物がいくらでもありますから」

 口調は掴みどころのないいつものそれに戻っていた。
 でも、さとりが私の身を案じてここまでしてくれるとは思っていなかった。
 
 つい先ほどまで敵意を剥き出しにしていたことが恥ずかしく、申し訳ない。
 私は頭を垂れて言った。

「その、えっと……迷惑かけてごめんなさい。
それに最初揶揄われてるんだと思って、その……酷いこと思って」

「気にしないで下さい、それに私もこれを機に業務の流れを変えるよう上に上申します。
貴女のことは信頼していますし、これまでなんの不都合もなく仕事が進んでいたので
週に一度の定期報告で貴女の心を読むだけで大丈夫だろうと思っていたんです。
 ですが昨日は微かに体調不良を訴える心の声が聞こえたのでもしやと思い、
書類を持ってくるついでに貴女が休みたいと言えば休めるような手筈を整えてきたということです」

 そういえば、先程さとりは文書を書くそぶりもなくバッグから出した筒型のケースをすぐに鴉に預けていた。
 重役宛の手紙を予め用意していたということか。

「ええ。ですが勿論実際にどのくらい症状が悪いかは貴女に直接聞かなければ分からないので、
その場で時間を取らなくて済むように一応準備をして来たということです」

 毎週の、二言三言言葉を交わすだけの定期報告の間にさとりは私の体調を気にかけてくれていた。
 いつも会う度に文句や愚痴を言うばかりの私のために。
 数瞬の後、さとりはバッグの口を閉じると少しばつが悪そうに続けた。

「私も配慮が足りなさ過ぎたので、すみませんでした。
それだけ体調が悪ければ休ませてくれと言うだろうと思っていたのです。
出来る限りのことはさせて頂きますので、今後も要望があれば遠慮なく言って下さい」

 修繕費は今のところどうしようもありませんが、と付け加えながらさとりは頭を下げた。
 私は言うべき言葉はたくさんあるけどそれが上手く見つからず、同じように頭を垂れて一言だけ言った。
 少し声が震えてしまった。

「……ありがとう」 
 
 さとりは私の言葉を聞いて、頬を緩めた。
 それは先程鴉に向けていた表情に似ている。
 
 こんな顔を向けられたのは初めてかもしれない。
 恥ずかしさから私は思わず目を逸らしてしまった。

「では、貴女は寝ていて下さい。ちょっと台所をお借りしますよ」

 さとりはそう言って三和土で靴を脱ごうとする。
 私は驚いて言った。

「え、いいわよそこまでしなくて! 大体そんな暇ないでしょ」

「ご心配なく、丸一日はいませんよ。
これでもペットの面倒をずっと見ているので家事には自信があります」

 どうしようかと思ったけど、身体の重さと頭の痛さが結論を出させるのは早かった。
 私は一歩後ずさりしながら言った。

「じゃあ……お願いするわ」

 さとりは今度は明らかに顔に喜色を表して言った。

「では、お邪魔しますね」




















 私は布団に入って目を閉じている。
 さとりはわざわざ錠剤形の薬まで持参していた。
 
 所謂市販薬らしいけど、疲労や頭痛には十分効果があるから
常備薬として持っておいた方がいいと言われた。
 
 時折聞こえる物音からして、今は部屋を片付けてくれているようだ。 
 普段から掃除は欠かさず行っているけど、気分が悪かった昨日は全く出来ていない。

 知り合ってから今まで、私は執務室で眠そうな目をしながら
仕事をしている以外のさとりはほとんど見たことがない。
 それだけに今日彼女が見せた優しい表情や家庭的な一面には一驚を喫した。 
 
 広くない家だから私のこの心の声も聞こえているはずだけど、どうしてだろう。
 恥ずかしいはずなのに、嫌な感じが全くしない。
 
 きっと体調に余裕がないからというだけじゃない、私の中で彼女を、さとりを見る目が確実に変わっているからだ。
 そんなことを思案しているうちに、私の意識は闇に落ちた。










 次に目を覚ました時、さとりの姿はなく部屋はすっかり綺麗に片付いていた。
 頭痛と気怠さも治まっている。
 薬が効いたようだ。
 私は心の底からの安堵とともに布団から勢いよく体を出す。 

 次に壁際のテーブルを見やると、四つ折りの置手紙があった。
 開いてみると整った字で書かれた文章と、最後に人差し指の第一関節程度の大きさの捺印がされていた。

「午後は外せない仕事があるのでこれで失礼します。
なお、今朝の重役との約束についてはまた日を改めるということで先方から
了承を得られていますのでご心配なく。
また、台所に簡単ですが食事を作っているのでよければ食べて下さい。
もし明日も厳しいようであればこの手紙の端の赤い印に貴女の右手の人差し指を合わせ、
三十秒以内に伝えたい言葉を言って下さい。執務室まで届くようになっています。
ただし、この印は一度しか機能しないので注意して下さい」

 眠っている間に、さとりは全てをそつなく終わらせてくれていた。
 今度、きちんとお礼を言わないといけない。
 私の為にわざわざここまでしてくれた彼女に。
 
 とりあえず布団を片付けようとしたところで、ふと気が付いた。
 そういえば、今日の朝受け取るはずだった封筒がない。
 
 どうせ使うのなら今日置いて帰ればいいような気はしたけど、
予定が先延ばしになったからまた改めて受け取るようにということだろうと、
私はそれ以上深く考えなかった。




















 パルスィが目覚めたのと同時刻。
 私は旧地獄の上層部達との会議を終えてようやく帰って来ることが出来た。
 彼女は、大丈夫だろうか。

 エントランスに入るとお燐がいつもの笑顔で迎えてくれた。
 手を軽く振って応える。

「あっ、お帰りなさいさとり様!」

「ただいま、お燐」

 私が真っすぐ自室に向かおうとしていると、お燐が問いかけてくる。

「橋姫のお姉さんの体調はどうでしたか?」

「今はなんとも言えないわね。もし厳しそうなら、明日も休んでもらう予定よ」

「そうですか……。大事にならないといいですね」

 お燐の心の声が聞こえてくる。
「さとり様、外出はいつも憂鬱そうなのに今日みたいに橋姫のお姉さんの
ところに行く時はちょっとだけ前向きに見えるからなあ。
お姉さん早くよくなるといいけど」

 私は表情は一切変えずに努めて柔らかい口調で言った。

「ふふ、お燐は優しい子ね。貴女も体調が悪い時はすぐに言うのよ?」

「は、はい、ありがとうございます!」

 頭を軽く撫でてやると、お燐は嬉しそうに尻尾を振った。
 




 それから私は執務室に戻った。
 普段は鍵などかけないけど一応錠を回す。
 ガチャリと小気味のいい施錠音が鳴った。

 トートバッグから今日「必要だということにしていた」書類の入った封筒を取り出し、
事務机の鍵のかかる引き出しにしまった。

 今日のパルスィからは、家事をしている私に対してしきりに申し訳ないと
いう気持ちとありがとう、という気持ちが心の声として聞こえてきていた。
 
 私はこれまでいろんな妖怪を見てきた。
 その中でも彼女、水橋パルスィは珍しい妖怪だった。
 
 元々妖怪というのは長命であり、出来ることなら働きたくない、という考えを持つ者が大多数を占める。
 そして大抵はすぐに職務に取り組む気持ちが希薄になったり、杜撰な仕事をするようになることが多い。
 
 また、心を読まれることを嫌って私の元から去る者も勿論いる。
 よって長年に渡って仕事を任せられるほど信頼できる妖怪というのはかなり少ないのだ。 
 
 でも彼女は違う。
 仕事を始めてから現在に至るまで、彼女はずっと変わらなかった。
 
 皮肉混じりの文句こそ多いけど仕事にはいつでも真面目に取り組み、
過度に私を恐れるでもなく率直な意見をぶつけてくる。

 いつから意識するようになったのかは正直、分からない。
 でも、今日彼女の元を尋ねた理由は書類を渡すためではない。
 別にこんな物、なくても何の問題もなかった。
 ただ、「貴女が心配だから来た」と言うのがどうしても恥ずかしくて、理由が欲しかっただけだ。
 
 おそらく今日の様子を見た限り彼女はそれに気づいていない。 
 手紙には明日も厳しそうなら連絡をするようにと書いておいたけど、
生真面目な彼女は回復していてもきちんと報告をしてくるだろう。

 早くよくなって欲しいという気持ちに嘘偽りは無い。
 でも私は、気付いてしまった。
 
 自分の心の中に、「明日も休ませて欲しい」と
助けを求められることを期待する気持ちが確実に存在していることに。
 私はパルスィに、頼られたいのだ。 

 我ながら自分はとことんまで面倒で歪んだ奴だと思いながら、
席に座って積み上げられた報告書に目を通し始める。
 いつかこの関係が進展することはあるのだろうか。
 
 文面に視線を走らせながらも、パルスィからの連絡が気になって内容はほとんど頭に入らなかった。
 昔はなんとも思っていなかった週に一度の定期報告さえも今は遥か遠くに感じられる。










 早く私に、声を聞かせて。
 早く私に、助けを求めて。
六作目の投稿になります、ローファルです。
今回はパルスィとさとりの関係について書いてみました。

パルスィはきっと愚痴や文句は言いながらも真面目に働くし、
そんなパルスィにさとりが少しずつ惹かれたらいいなと思いました。

駄文ですが少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
ここまで読了頂き、ありがとうございました。
ローファル
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1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.100雨宮 幽削除
さとパルだァーー!!!!!やったぁーーー!!!!!馴れ初めというか近付きはじめというか、お互いまだ手探りな関係性、良かったです。
3.100名前が無い程度の能力削除
とても良かったです。もうこの初々しくて慣れてない距離感がもどかしくて素晴らしかったです。
4.100サク_ウマ削除
病みさとパル、すき
5.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしいお姉ちゃんでした。有難う御座います。
他者評価が高く肯定的、嫌味だけではなく本当にプラスの感情を他人に向けている。そんな古明地さとりの良さが存分に出ていて素晴らしかったと思います。
その感情受けるパルスィの反応も良く、きっと未来は明るいのだろうなあと思うことができました。
有難う御座いました。さとパル。
8.100名前が無い程度の能力削除
とても良いさとパルでした。互いの関係がここから少しずつ変わるのだろうと想起させるお話でした。最も、ひねくれもの同士なのでくっつくのには時間がかかりそうですね。よければ、続編も期待してます。