私、八雲藍はとある人、いやとある妖怪の式神をやっている。
そのとある妖怪と言うのが、私の主人である八雲紫様だ。
具体的にどんなお方か述べさせてもらうと、胡散臭い人としか言いようがない。
式神のクセに自分の主をこんな風に言い捨てて不忠義者と言われるかもしれないが、こんな言い方しかできないのだか
らしょうがない。
が、このまま私が不忠義者だと思われるのも嫌なので、紫様についてもう少し語らしてもらう。
紫様の能力はあらゆる境界を操る能力、その能力を使えばあらゆる物を防ぐ結界を作り出す事ができるし。
空間の境界を揺るがせてスキマを広げ、自分の行きたい所へ簡単に行く事もできる。
さらには、私のような式神を作り出し、意のままに使役する事もできる。
この様に紫様は、ただの妖怪が束になっても適いもしない様な能力を持っておられ、正に妖怪達を束ねてもおかしくない
様な力をお持ちなのだ。
………まぁ、実際の所、境界を操る力を持っていると言っても、操るのは昼と夜の境界だとか、人と妖怪の境界だとか、
こんな境界を弄っても
何の役に立つのかよく分からない物しか弄らないし。
スキマを使って自由に移動できるから、自分はほとんど動かずに座っているだけになってしまっているし、
式神である自分を使役して身の回りの世話や、仕事とかを押し付けて自分は寝ているだけしかしていないって……ハッ!
いっ、今のは別に紫様の愚痴を言ってたのではないぞ、本当だからな。
そんな事よりも今の私には大事な仕事があるのだ。
普段の私は、紫様が張られた結界などを見回り、以上が無いかどうか調べる仕事をしているのだ。
もし、この見回りで結界に何か異常が見つかれば、私の手で直せる範囲で結界の修復などを行う。
本来ならこういった見回りなどは結界を張った本人がやるべき仕事である。
大体、式神でしかない私が修復するよりも。
紫様の方がより早く、簡単に修復できる。
それなのに、紫様は寝てばかりいて、私に全て押し付けているだけだ。
まだ食事の支度や、身の回りの世話などなら納得もいく、式神はそういった仕事をするものだし、それ位なら別に苦にも
ならない。
しかし、この結界の修復は…っとこれ以上話を続けるとまた愚痴に発展しそうなのでいい加減に切り上げよう。
私は気を取り直し、結界の見回りの続きを始めた。
別段これといった問題も無く、結界の見回りは進む。
毎日こういった見回りを行っているのだが、実際に何か問題が発生したことは実はほとんどない。
何しろ結界を張っているのがあの紫様なのだ、五年や十年で結界が消えるといったことも無いから、何か問題があるとす
るば何者かが
結界をいじくるといった問題しかない。
しかし、仮に力ずくで結界を壊そうとしても生半可な力では結界はビクともしない、結界を多少ともなり揺るがすには相当
な力が必要になる。
いくら様々な人間や人間以外がいる幻想郷といえども、そこまでの力を持った存在など一握りしかいない。
そういった理由から、結界に問題が起こるのは少ないのだが、この見回りを止めるわけにわいない。
なぜなら、結界を張ったはずの紫様が、ご自身の気まぐれで結界を緩めたり、無くしたりするするからだ。
しかも、自分でやった事のはずなのに、やった後の事を覚えておかず、すっかり忘れてしまうのだ。
だからこの仕事の本当の目的は、紫様が起こした問題の後始末といった方が正しい。
ああ、結局愚痴になってしまった……別にいいか、こんな不毛な仕事は正直言ってさっさと終わらせたい、今日は少し早
く終わらせよう。
見回りを始めたときはまだ明るかったのだが、家に帰ったときには、もう日が沈みかけていた。
夏が終わり、日が落ちるのがどんどん早くなってくる。
「藍さま、ただいまー」
今、元気な声を上げながら家に帰ってきたのは私が式神として使役している黒猫の橙だ。
式神の私が式神を使役すると言う話はなんだか可笑しく聞こえるかもしれないが、実際に橙は私の式神なのだから仕方
ない。
最近の橙はいつもより元気さが増してきている。
「お帰り、橙、今日は何をしていた?」
「えーーとね、この辺に近づいてきた人間達を驚かせて遊んでました」
「またか橙、いつも言っているが、あまりやり過ぎないようにするんだぞ」
「大丈夫ですよ藍さま、人間を驚かせているだけだから」
「やりすぎるようだと、何時かみたいに紅白が来るかもしれないぞ?」
「うっ…、わかりました気をつけます」
「それならいい、今から夕飯の支度をするから中に入ってなさい」
「ハーイ」
そう答えると橙は勢いよく家の中に飛び込んでいった、本当に最近の橙は元気がいい。
夏は暑さにやられ伸びて、冬は寒さに身を縮ませ布団で丸まっているのだが、夏と冬の間にあるこの季節には元気にな
る。
なら、冬と夏の間にある春はどうかと言うの暖気に当てられほとんど寝ている。
唯一この季節にだけ活発に遊びまわっている、どうやら橙の体に一番適している季節はこれしかないようだ。
「私とは違うな…」
ふと、そんな言葉を呟いてしまい思わず首をひねる。
何が私とは違うんだろう? ちゃんといつも通りの私だと思うのだが、何故か口の中から出てきた。
そのまま、何故そんな事を口走ったのかと思案していると、家の中から橙の声が聞こえてきた。
「藍さまー、早くご飯を作ってよー」
本当に、この季節の橙は元気がいい、私は苦笑しながら家の中に入っていった。
橙にご飯を作ってやった後は、いつもの様に嫌がる橙を押さえつけて風呂に入れてやる。
実は、一日の仕事の中で一番疲れるのがこいつだ。
橙は、よほど水が苦手らしく風呂に入ろうとすると、いつも暴れてくれる。
そんな橙を押さえつけて風呂に入れるだけで、その日の体力の半分以上を費やする。
橙を無事に風呂に入れてやり寝かしつける、それだけでもう夜遅くの時間になる。
どうせならこのまま私も寝りにつきたいがそうはいかない、これから起きる紫様の食事の仕度をしなければならない。
疲れた体を無理やり動かしながら食事の仕度をしていと、居間の方に誰かが入ってくる気配がしてきた。
どうやらお目覚めになったらしい、ちょうど食事の仕度が終わった頃だ、今日はタイミングがいい。
私は手を洗い、挨拶をする為に居間へ向かった。
「お早う、藍、今起きたわ」
「お早う御座います紫様、しかし、今日はお目覚めになるのが少し遅かったようですね」
「あらそう? ……そうね、もうそろそろ冬が近いから少し起きるのが遅くなってきているのかもね」
そう言いながら紫様は部屋の中央に置いてある食卓へ座られた。
「それより藍、ご飯はもうできているかしら?」
「はい、紫様ちゃんとつくってあります」
「それなら早く頂戴、起きたばっかりでお腹が空いているんだから」
「分かりました紫様」
私が紫様に言われた通りに紫様の食事を食卓へ置くと、紫様はすぐに食べ始められた。
冬眠が近づいてきたこの季節になると、紫様はよくお食べになる、さすがにかの白玉楼の亡霊嬢に勝るとは思えないが、
やはりあの亡令嬢の御友人と納得するぐらいによく食べる。
これじゃあ、冬眠する熊の食い溜めと同じではないかと思うのだが、それを本人の前で言おうものなら、容赦無しに弾幕
結界に落とされるので、それは禁句となっている。
おかげでこの季節の、紫様の食事のしたくは普段の数倍の手間になるのだが、あの亡令嬢の従者である半人半幻の剣
士は、その食事の支度を一年中やっているのかと思うと、思わず同情したくなる。
……本人はそんな事をされたくないと思うが。
「やはり、今年も何時もの様に冬眠をなされるのですか?」
結構な量のある食事を全て召し上がり、お茶を飲んでいる紫様に、確認のために声をかける。
「そうね…、やっぱり今年もするんでしょうね、冬眠」
「今年は何時頃に?」
「さぁ? 雪が降る前か後か、そんな事は始めればわかるでしょ」
「そうですね」
「けど……、実は嫌なのよね、冬眠するのは」
「そうだったんですか?」
「そうよ、だって冬眠すると私自身無防備になるし」
確かに冬眠している間の紫様はまったくのスキだらけと言ってもいいが、実際にその紫様の寝首をかく事は不可能に近
い。
ご自身がスキマの中に入られそのスキマを閉じてしまうのだから、会おうとするのなら空間を操作してスキマを開かな
いかぎり紫様に近づくことさえできなくなるからだ。
しかし、あの博麗神社に居る紅白巫女なら札とあの二つの陰陽玉さえあれば、あっさり空間を破壊して紫様を引きずり
出せそうな気がしないでもない。
あの巫女にはこの世界の理など、何の束縛にもならないのだろう。
「それなら紫様、今年の冬は冬眠をなさるのをお止めにn」
「それはイヤ」
すべてを言い切る前にあっさり断られた。
いや、そもそもこの方にこんな願いをして聞き入れてもらえるとは思ってもなかったが、少しくらいなら希望を持たしてくれ
てもいいと思う。
「何故ですか? 嫌なのでしょう?」
「そんな事はないわよ?」
「えっ!? だって今嫌いだと仰ったでしょう」
「そんな事言ったかしら?」
「いえ……、こちらの気のせいです」
やはり、と思いながら私は溜息を吐きつつ返事をする。
この人は、その場のノリで会話をするから全てを信じるとひどい目に会う。
それは、長い付き合いで身に沁みて判った事だ。
「それよりも、冬眠を止めろだなんて如何してそんな事を?」
「いえ、別に理由など……」
「ひょっとして寂しいの?」
「いっ、いきなり何を言うんですか、そんな事はないですよ」
「ほんとうに?」
「そうですよっ! そっ、それより紫様、今夜はこれからどうしますか? また、いつもの様に散歩にでも?」
「そうね……、それより今夜は久しぶりに見回りにでも行こうかしら」
「ええっ!?」
紫様がこんなことを言って、私は驚いた、普段の紫様ならこんな面倒なことはすべて私に押し付けて、よほどの事が無い
限り自分からは決して動かれない方なのに。
「何その顔? 私が自分から見回りに行くのがそんなに可笑しいかしら?」
そんな私の動揺が顔に出ていたのだろう、紫様が不機嫌な声で追求してきた。
「いっいえ、決してそのような事は……」
久しぶりに自分から動こうとしたのだ、このまま機嫌をそこねてせっかくの機会を逃しては大変と私は慌てて否定したが
紫様はそんな事を気にせずに話を続けられた。
「それよりの藍、今日はあなたも付いてきなさい」
「私もですか?」
本当に今日は驚くことばかりだ、私が紫様の供をすることなど、それこそ滅多にない。
今日はこのまま外に出て、無事に済むのだろうかとすら思ってしまう。
「早くしなさい、藍、もう行くわよ」
「はっ、はい」
しかし、紫様はそんなことなど気にせずに、さっさと行ってしまった。 私も慌てながら紫様に付いて行く。
昼間に見回りに行ったのに、また見回りに行くなど、無駄な事をしていると思いなのだろうが、これは数少ないチャンス
なのである。
なぜなら、紫様自ら見回りに行くという事は、結界を新たに張り直すと言うことなのである。
新しく結界を張りなおせば、一ヶ月ぐらいは見回りに行かずにすむ。
流石に張ったばかりの結界を、いじるほど紫様も暇ではないし。
新しく強固になった結界は、触れただけで結界を壊せる程の非常識な体の持ち主でない限り、手も足も出なくなるから
だ。
最も、こんな幸運は、二、三十年に一度有るか無いかの出来事なのだが……。
「そういえば…、どれくらいかしらね? あなたと一緒にこうして結界を張りなおすのは」
結界を張りなおしている最中にふと、紫様がそんな事を言ってきた。
「そうですね…、随分と久しぶりですね、こうするのも…」
昔を思い出しながら答える。
ずっと昔の話だが、確かにあの頃は二人で結界を張りなおしていた。
その頃は、結界を打ち壊しその向こう側へと行こうとする身の程知らずな者達が結構いたのだ。
今ではもう無理だと悟ったのか、ほとんどそんな事も無くなり、結界を張りなおす必要も殆ど無くなった。
そう言えば、あの頃は博麗大結界の方も数々の人間や、それ以外が、結界を打ち壊しその向こうへと行こうとしていたと
紫様が言っていた。
今ではそんな話など聞かなくなったがこちらは諦めたと言うよりも、向こう側の事など既にどうでも良くなったのだろ
う、人間も、それ以外も、それだけの時間は流れている。
「これで、もう全部終わりね」
そんな事を考えていると、紫様が全ての結界を張り終えた。
やはり、紫様がやると私より大分早く終わる、いつもこうだとこちらとしては大変うれしいが、そんな無茶な事を願って
も仕方が無い。
「お疲れ様です、紫様、今夜はもうお休みになられますか?」
願っても通じない願いを頭から追い出しながら、今日はもう十分に働かれた紫様にもう帰られるか尋ねる。
「いえ、もう少し外を回ってくるわ、まだ家に戻るには早い時間でしょう?」
確かに、普段の紫様はもっと遅くまで起きてらっしゃる。 久しぶりに働いたからと言って、まだまだ眠るつもりは無い
のだろう。
「何ならあなたも一緒についてくる?」
「遠慮させてもらいます」
「そう、残念ね」
今日は珍しい事ばかりが起こる、紫様が私と一緒に遊びに行こうとするなんて。
それこそ、ここ百年ほど無かったことだ。
久しぶりに紫様と一緒に遊び行くのも悪くは無いと思うが、家に一人残してきた橙が気になり誘いを断る。
紫様も特に残念がる様子も無く、あっさり諦めた。 ただの気まぐれだったのだろう。
「それでは紫様、今夜は出来るだけお早めに帰りになさりますよう…」
取り合えず私はもう家に戻ることにし、紫様に早く帰られるように告げ家の戻ろうと後ろを振り向いた。
「それよりも藍、私が帰る頃にはいつもの調子に戻るのよ?」
帰ろうとしていた私に、紫様が不思議なことを言ってきた。 後ろを向きながら紫様にたずねる。
「いつもの調子とはどう言う事でしょう?」
言っている意味がよく分からなかったので、訪ね返すと紫様は、全てを知っているといった様子で話だした。
「何故っていつもより元気が無いでしょう? だってあなたは橙とは違うから」
紫様は、昼間私が何気なく呟いた事と、同じことを言ってきた。
そして私の元気がないと、本当にそうだろうか? 私自身はそんな事を思っていない。
しかし、その言葉を言ったのは紫様だ。
長い間、あらゆる物の境界を見極め、それを操ってきた紫様は恐らく私が思うよりも様々なことを知っている筈の紫様が
言ってきたのだ。
だが、この方は何かを知っていても普段は滅多にその事を話さない、いや、知っているからこそ紫様は何も言わない。
知っている事を話すのは、この人の役目ではないのだから。
しかし、今夜の紫様はそんな自分の役目を忘れてしまったのかと思うぐらいよく喋られる。
「嫌いなんでしょう、この季節が? だから元気が無いのよね?」
一瞬体が硬直してしまった、そんな事は無いはずだと頭の中では思っているのに、心がその一言に反応している。
だが、私はそんな自分の反応を無視して紫様が言ったことを否定した。
「いいえ紫様、そんな事はありませんよ」
「……まぁ、いいわ、藍あなたは帰ったらもう寝てもいいわよ」
その言葉を聞いた紫様は、私が言ったことを信じていないといった目をしていたが、特に追求することもなくあっさり引
いた。
「分かりました、今夜はもう休まさせてもらいます」
「お休み、藍」
「はい」
そんな挨拶を交わして、私と紫様は別れた。
紫様は、その場でスキマを開くとそのまま何処かへ行ってしまわれた、多分いつもの所へ行くつもりなのだろう。
私は、紫様がスキマへ入られた方を向き、一度お辞儀をして家に帰っていった。
別に寄り道をするという事も無く、真っ直ぐに家へと向かったのだが、家に着いた頃にはすでに夜も大分深けた時間に
なってしまった。
この時間では橙はもう、熟睡しているに違いないと思っていたのだが、家の中に入ると、橙が縁側で座りながら庭を見て
いた。
こんな時間にまだ起きていたのかと驚きながら橙に声をかける。
「どうした橙?」
「あ……、藍さま」
「こんな時間にまだお前が起きているんて、何かあったのか?」
「なっなんにも無かったですよ」
「それなら、どうしてこんな時間に起きているんだ?」
「え~~と、らっ藍さまと紫さまがいないから…、どこに行ったのかな~って」
明らかに嘘を言っている態度なのだが、特に問題も無かったようだし深く追求をするのは止めにする。
微かにだが、橙以外の妖気の匂いがする事から此処に妖怪か何かが来た事が分かる、何となく、どこかで嗅いだことがあ
る様な匂いなのだが、思い出せないという事はたいした妖怪ではないはずだ。
多分、迷い込んできた妖怪に帰り道を教えただけなのだろう。
取り合えず私は、橙の分かり易い嘘に、引っかかる事にした。
「そうかすまない、紫様と少し出かけていたんだ」
「紫さまとですか?」
「ああそうだ、それよりも、橙、今日はもう遅いから早く眠りなさい」
「あ、ハーイ」
橙を寝室に連れて行き、布団に寝かしつける。
布団にもぐりこんだ橙だが、すぐに寝付くわけでもなく、隣に座る私に話しかけてきた。
「あの、藍さま」
「なんだ?」
「もう少しで冬になりますよね?」
「そうだな、もう少しで冬になるな」
「そしたら紫さまは今年の冬も眠っちゃうんですか?」
「ああ、今年も眠られるそうだ」
「やっぱり……、あっそうだ、藍さま」
「うん?」
「紫さまって、藍さまが式神になった時から冬眠をしていたのですか?」
「何でそんな事を?」
「え、えと…、何となく…」
橙にそんな事を尋ねられて、私は昔のことを思い出してみた。
そうだ、確か私が紫様の下についた頃は、冬眠などしなかったはずだ。
あの頃の私は今ほど力を付けていなかった、だから紫様も私を一人だけにするのが心配だったのだろう。
あまり、紫様の側を離れないようにと言われていたのを覚えている。
それに、あの頃はずっと紫様の側にいたような気がする、紫様が何処かへお出かけになれば、自分もその後を付いて
行ったものだ。
紫様も、あの頃は私にいろんな事を教えてくれた。
簡単な符の作り方、式を打つ術、結界の張り方など、様々な事を紫様から教わった。
私が紫様が出す課題を終える度に、頭を撫でてくれたものだ。
「ねーー、藍さまー、藍さまーーってば!」
はるか昔の事を想いふけっていた私を、橙の声が呼び戻す。
そうだ、そんな事よりも橙の質問に答えなければ。
私は何時頃から紫様が冬眠をする様になったのかを思い出そうとしたのだが、なぜかまったく出てこない。
思い出せるのは、冬に一人で過ごしていたという事だけだ。
「すまん、覚えてない、確か橙が私の式神になる前だったと思うのだが、詳しくは思い出せん」
「全然思い出せないんですか?」
「ああ、思いだせせない、すまないな橙」
「いえ、なんとなく気になっただけですから…。 それじゃあお休みなさい、藍さま」
「お休み、橙」
橙は目を瞑ると、数分後には完全に眠ってしまった。
しかし、私は橙が眠ってた後も、紫様が何時頃から冬眠をするようになったか思い出そうとしてたが、
やはり全然思い出せない。
そういえば、何故紫様が冬眠をするようになったか理由も知らない事に私は気が付いた。
まぁ、どうせ冬は寒いからいやだとか、面倒くさいことは全て私に押し付けたいという理由だろう。
紫様の言う通りだ、確かに私はこの季節が嫌いだ、これからの事を考えると溜息がでる。
早く冬になればいい、そうすれば仕事が増えてこんな事を考えずにすむ。 この季節は私をただ憂鬱にするだけだ。
橙の寝顔を見るのをやめ、そろそろ眠ろうかと思ったその瞬間。 それまで気配の無かったはずの後ろから誰かの手が私
の首をつかんで来た。
突然の出来事でまったく反応できなかった私だが、次の瞬間にはどんな状況にも対応できる様にすぐさま体を緊張させ
る、半分だけ。
普通なら簡単に辿り着くこともできないこのマヨイガに入り込み。
私に気配を感じさせずに背後に忍び寄るこの侵入者に対して、最大限の警戒を持つのが当たり前だが。
私の頭の何処かではすでに、この手の持ち主に見当が付き、こう呟いている。
またか、と。
こうして警戒半分諦め半分の状態で相手の次の出方を待っていると、相手は私を後ろに引き倒してきた。
半分諦めていた私は、特に抵抗するまでも無く後ろに引き倒される。
仰向けに倒れこんだ私が見たのは住み慣れた我が家の天井ではなく、何故か星が浮かぶ夜空だった。
ここが何処か確かめようと、首を掴まられたままで辺りを見回すと、紫様と、幽々子嬢、そして剣士であり庭師でもある
妖夢殿がいた。
全然状況を理解できずに目を瞬かせていると、私の首を掴んでいた紫様が声をかけてきた。
「ああ、来たわね藍、これから月見の宴をするからあなたも参加しない」
「参加しなさいって、今夜はもう寝てもいいと仰られたではありませんか」
「そんなことを言ったかどうかは忘れたわ、すでに料理も出来て、お酒もきているからあなたも早く参加なさい」
そう言われてもう一度辺りを見回してみると、此処が西行寺家の庭だということに気がついた。 さらにこの体勢では下
の方が分からないけど、
確かにいくつかの料理の匂いがする事からすでに、宴の準備は万全だということが分かる。
次に周りの人たちを見てみると、沢山の酒瓶を抱えている妖夢殿が眼に留まった。
普段の妖夢殿なら剣を持ち歩き、あまりスキを見せない真剣な空気をまとっているのだが。
今の妖夢殿は何処か疲れた雰囲気を出しながら幽々子嬢の側に酒を持って控えている。
おそらくこの宴の準備を全て一人で行ったのだろう、見るからに疲れた顔をしている妖夢殿を見ていたら、妖夢殿も眼を
こちらに向けてきた。
今の私は紫様が開けたスキマから顔を出している状態なので、其方からは多分首しか見えていないだろう。
そんな私を見つめる妖夢殿の眼つきにはなんとなく覚えがある、きっと私が今の妖夢殿に対して向ける眼とほとんど同じ
だろう。
このまま、お互いに見つめあっていてもただ不毛なだけなので、同時に目を逸らしてお互いの主人に声をかける。
「幽々子様、言われたとおりにお酒をお持ちいたしました」
「分かりました紫様、そちらに行きますから手を離してください」
こうして私と紫様、幽々子嬢と、私と同じように無理やり参加させられた妖夢殿で月見の宴を始めることになった。
と言っても、私と妖夢殿は主人に酒を注いだり、二人が食べる料理を盛ったりと色々やっているので楽しめる様な余裕は
無い。
「ほら、藍、あなたもちゃんとお酒を飲みなさい」
……酒なら無理やり大量に飲まされたが。
………どれだけ飲まされたのだろうか? 頭の半分以上がまともに回らず、体の感覚もほとんどなくなってきている。
これ程までに酔いが回るのも随分と久しぶりだ、紫様がこんなに私に酒を勧めてくるのも。
その紫様と幽々子嬢はと言うと、相変わらず飲み続けている。 私の倍以上は飲んでいる筈はずだ、流石の二人もかなり
酔っているだろう。
しかし、それで二人が飲むのを止めるはずも無く、笑いながらお互いの杯に酒を注ぎ飲み交わす。
すでに、月見の趣などかけらほども無い。 ただひたすら飲み続けるだけだ。
この宴の最後の参加者である妖夢殿は、余程酒が回っているのかもう眠ってしまっている。
私と同じように、妖夢殿も自分の主人に大量の酒を飲まされている。
妖夢殿は、半分だけとはいえちゃんとした人間だ、人間にあんな早さで酒を飲まし続ければああもなるだろう、本人の酒
の弱さもあるだろうが。
私といえば、まだ大量に残っている宴の料理を黙々と食べている。 別にそんなに腹が空いていると言うわけではない。
ただ、こうして料理を減らさなければ、明日の朝かなりの確率で二日酔いになってるはずの妖夢殿が苦労するからだ。
こうして少しだけでも明日の片付けの苦労を取り除いてやるのが、互いに主の行動に振り回されている者として、手伝っ
てやることが出来る唯一の事だろう。
「藍、あなたも楽しんでいるー?」
突然、紫様が後ろから抱き付いてきた。 よっぽど飲んでいたのだろう、大分酒臭い。
「紫様、飲みすぎですよ。 あと、急に抱きつかないで下さい」
紫様が急に抱きついてきたおかげで、私は危うく料理を自分の膝の上にばら撒けるところだった。
だが、酔っ払っている紫様は、そんな私の抗議の声など聞こえていないのか、更に体を私に密着させてきた。
「だから、藍、あなたも楽しんでいるのか聞いてるのよ、ちゃんと答えなさい」
「ハイハイ、紫様、私なら十分楽しませてもらってますよ」
「嘘言いなさい、あなたの嘘なんてすぐ分かるんだから」
「ちょっ、 ちょっと紫様、そんなにくっつかないで下さい、料理がこぼれてしまいます」
「それよりも藍、あなた今日はまだ一度も月を見ていないでしょう? 私があんなに苦労して元に戻した月を見ないなんて どういうつもり?」
紫様が突然そんな事をを言ってきた。 確かに少し前に月が完全に満ちる事が無くなり、少しばかり不自由していた時が
あった。
その時は、異変を解決するべく、紫さまは博麗神社の巫女と一緒に永い夜を飛び回ることになったが、その時は私も紫様
に付いて行ったし。
紫様の無茶な支持通りにあちこち飛び回っていて、目を回した記憶がある。
確かに紫様も自ら動きになられ、それなりに苦労もしたかも知れないが、実際、あの時一番苦労していたのは私だろう。
「その事でしたら、私の方が苦労したと思うのですが…」
「何よ、藍あなた主人の手柄を認めないの?」
「違いますよ、ただあの時は、私も相当苦労したと…」
「だったらちゃんと月を見なさい、今夜の月はそれ位の苦労をした価値があるわよ」
「いいですよ、そんな事は」
「よくないわ、ほらちゃんと月を見てみなさいって…」
「ちょっ、紫様! やめて下さい」
相当酔っているのだろう、しつこく絡んでくる紫様に私は思わず、大きな声を上げてしまった。
「いい加減にして下さい! そろそろ怒りますよ?」
すると突然紫様が。
「藍、あなた私が言った事を忘れているでしょう?」
と、酔っているとは思えない声で私に話しかけてきた。
「忘れているって、何をですか?」
「私が、初めて冬眠をすることを決めた時にあなたに言った言葉」
「『別にあなたをどうでもいいと思っているから一人にするわけじゃないわ』」
………そうだ、あの時紫様は今のと同じ言葉を言われた、そして―
―ならば何故、私一人で冬を越せと?―
―もうあなた一人でも大丈夫でしょう?―
―いえ、私一人ではまだ…―
―藍、あなたに力の使い方を教えたのは誰?―
―紫様です…―
―正解、あなたは私が言った事を全部できるようになったでしょう、それなら大丈夫―
―本当ですか?―
―本当よ、何ならあなたも自分の式神を持ってみなさい、きっと使えるから、それに―
―それに?―
―もしあなたに何か起きるようなら、必ず起きるから―
―必ずですか?―
―ええ必ず、あなたがもし忘れてしまっても私が絶対に覚えているから、だから、藍―
―はい―
―後の事はすべて任せたわよ?―
―分かりました、紫様―
「思い出した?」
「はい、思い出せました」
「ならいいわ」
「紫様、思い出したついでに聞きたいことがあるのですが…」
「なに?」
「何故、冬眠をするように?」
「面倒くさいからよ、冬は寒くなって外へ出るのが辛くなるから、あなたに全てを任せようと思って」
思った通りの答えが返ってきた。
先程までの私ならこの答えを聞いたら溜息をつくだけだったが、今の私は微かに笑っている。
「それならば、今年の冬も私が頑張るしかありませんね」
「分かっているじゃない、藍…って、幽々子さっきから何をしてるの?」
私のその言葉に答えようとしていた紫様だが、気になる事があるのか後ろを振り向いてしまった。
私も何事かと思い後ろを振り返ってみた、すると。
「よーむ、起きなさい、起きなさいってば! よーーむぅ!」
幽々子嬢が大きな声を上げながら、妖夢殿の頬をべしべしと叩いている。
結構、大きな音を立てているからあれは相当痛いと思うのだが。 妖夢殿は青い顔をして眠っているだけだ。
それなのに幽々子嬢は妖夢殿の頬を叩き続けている。
「幽々子、それぐらいにしなさい。 あんまりやり過ぎると、明日その子頬がはれ上がるわ」
流石に見かねたのだろう、紫様が私から離れ幽々子嬢を止めに入る。
「だって、私も紫と同じことをしたいのに、よーむが起きないのよ」
「だからって、それはやり過ぎでしょう」
「むーー」
紫様に言われ、幽々子嬢は渋々といった風で妖夢殿から離れた。 紫様はその様子を苦笑しながら見ていたが、ふと、妖
夢殿の側にある、人魂持ち上げ。
「はい、これで我慢しなさい」
と言って、妖夢殿の半身である人魂を渡してしまった。
「しょうがないか」
紫様が差し出した人魂を幽々子嬢は、物足りない表情でそれを受る。
と言うか、他人の半身である物をこれ呼ばわりした上に、あまつさえ本人の許可もなしに勝手に受け渡してしまって
本当にいいのだろうか?
しかし、幽々子嬢はそんな事を気にする様子も無く、妖夢殿の半身を好き勝手に弄くり始めた。
まず、半身の表面を撫で回し、次に半身のあちこちをくすぐり始める。
先程は、頬を思いっきり叩かれても反応しなかった妖夢殿だが。 何故かこれは耐え切れないらしく、表情が変わり幽々
子嬢の手つきと一緒に体をもぞもぞさせた。
一方、半身を弄くり回していた幽々子殿だが、妖夢殿が反応を示すのに気がつくと、その行為をどんどんエスカレートさ
せていった。
半身をくすぐって言ったかと思えば、息を吹きかけたり、半身を抓り少し引っ張ってみたりと、やりたい放題だ。
それに応じて妖夢殿も、
「おのれっ! 妖怪め」 とか
「そっ、そこを触るなっ!」 とか
「やめっ、やめろっ! それ以上やるなら本当に斬るっ!」 とか
「そっ、それ以上は、ほっ本当に……あっ!」 などと、寝言を上げながらうなされている。
余程、悪い夢を見ているのだろう。
幽々子嬢の手つきも段々と妖しい手つきへと変化していっている。 その変化に対して、妖夢殿の反応も何かに耐える様
なものへと変わって来た。
表情も青かった顔が、赤みを帯びてきて、なにやらおかしな気分になってしまいそうな表情になっている。
仮にも、心ある友人であるのならば、これ以上幽々子嬢の手が妖しく動く前に止めるべきなのだが、私ではそんなことは
出来ない。
と言うか、止めようとすると私まで同じ目に会うだろう。 それは正直言って遠慮したい。
紫様なら止められるはずだと思い、紫様の様子を見てみるが。
紫様は今度は止める様子も無く、むしろ笑いながら見ている、これでは妖夢殿の半身が幽々子嬢の手から解放されるの
はまだ先のことだろう。
「私もまぜてー」
と思っていたら、紫様もまざってしまった、二人がかりで半身を弄られている妖夢殿は、みょーんと叫び、既に目も当て
られない状態になっている。
そんな私に出来る事と言えば、その様子に背を向け見なかった事にするだけだ。 私ではこの二人を止めることなど出来
ない、絶対に。
すまん、妖夢殿この報いはいずれ必ず、と心の中で誓いながら後ろの痴態を思考の中から追い出し、自分の杯に酒を注
ぐ。
酒が杯の中に満たされると、杯の中に満月が写り込んでいた。
丸く、紅い杯に写っている満月は、なぜか他の季節に見れる満月よりも鮮やかに見える。
この季節の月はこんなに丸く、大きかったのだろうか? 記憶を探ろうとしても、随分と長い間この季節に月を見た記憶
がない。
その事実に気がついた時、私は思わず苦笑した。 やはりこの季節は私を少し憂鬱にする。
顔を上げて初めて今宵の満月を見る、確かにそれは紫様が言うように、あれほどの苦労をする価値があると思わせる
ほどの立派な満月だった。
私は月を見上げながら杯を持ち上げ、杯の中に写っている満月を酒と一緒に飲み込む。
しかし、あんなに綺麗な月が見れて、それを肴にこんなに美味い酒が飲めるのなら、秋もそんなに悪くはない。
これエロい。色々とヤバい(何が)。
まあそんな事より。
紫は何も考えていないようで、見るものはしっかりと見ていますね。結界の綻びも、夜空に浮かぶ満月も、そして悩める式の心の中も。
酒の味を愉しみ、綺麗な満月を愛でる――そんななんでもない事によって藍を元気付けようとする紫がいいですね。紫なりの優しさを垣間見ることが出来た気がします。
それと、誤字が少し多いのが気になりました。