ある秋の夜。
その吸血鬼は、館のテラスから月を見上げていた。
澄み渡った空から月の光が降り注ぎ、少女の体と、大きな翼を、柔らかく包み込んでいる。
その姿には、まるで遥か有史以前からそうしていたかのような、冒しがたい神秘の美が漂っていた。
「お嬢様」
そんな吸血鬼を、呼ぶ声がする。
テラスとは対照的に、闇に沈んだ部屋の中からだ。
「……お嬢様」
一向に応じない吸血鬼の少女に、声がやや語調を強めた。
しかし、やはり吸血鬼は反応しない。月を見つめ続け、頑なに声を無視する。
ため息が聞こえた。
「お病気なのですから……」
吸血鬼の背中が二、三度震えた。
それから、我慢できない、といった調子で一気に振り返る。
「病気?」
声の主――メイド服の女性と向かい合い、吸血鬼は主張した。
「何度も言わせないで。これはちょっと調子を崩しているだけで……」
そこで、大きく何度も咳き込んだ。
喉の奥に痰がからまっているであろう、かなり深い咳だ。吸血鬼の心肺であるから、苦しくはないだろうが、それでも病状を察するに余りあった。
「直に、元に戻るわ」
そう言って顔をあげた吸血鬼、その口と鼻を大きなマスクが覆っていた。
耳は赤く染まり、瞳も熱に潤んでいる。常の力強さなどはどこにもなく、ただ茫洋とした印象だけがある。
「すぐ戻るといって、もう二日目ですよ」
メイド――咲夜は嘆息して続けた。
「完全無欠に病気です」
「だから違っ……」
言葉の続きは、咳で聞こえなかった。
*
妖怪はなるほど人外のものだ。
が、それでも生きている以上、やはり病気というものはあるらしい。
持病を持った妖怪もいるし、この館にも一人喘息持ちの魔女がいる。
しかしまさか、吸血鬼もそうであるとは思わなかった。
「まだ、信じられない気持ちです」
主の病状を察してか、夜だというのに紅魔館は静まり返っていた。
その静寂に、咲夜の声が響く。
「まさかお嬢様にそんなことが起こるなんて……」
「今さら?」
そう応えるのは、隣を歩く魔女、パチュリーだ。
布地の多い独特の装いが、廊下を進むテンポに合わせて揺れている。
「熱が出てもう三日目よ、咲夜」
「そうなのですが……どうにも、まだ違和感が」
それは咲夜の本音だった。
レミリアは500年の時を生きた大吸血鬼であり、妖怪の中でも最強の部類に入る。
それでいて気品に溢れ、常に洗練された動作をする。
その有り様に惹きつけられた者は数知れない。
病に弱る姿など、咲夜には想像もできなかった。
「私は、そうは思わない」
が、パチュリーは違う見解を示した。
「さすがに病気になるとは思わなかったけど……でも、いつか調子を崩す、ていう気はしてたわ」
「……本当ですか」
「ええ。最近のレミィは、特に不養生だし。吸血鬼は夜起きて朝寝るのに……最近は、日中に起きて、神社へ行くことも多かった。
レミィは力のある吸血鬼よ。だけど、かといって睡眠数時間の生活を長く続けていられるほど、都合よくはできていない。抵抗力も弱まるだろうし、体の中の『悪い血』が暴れだしたというなら……それも仕方ない」
パチュリーは興味なさげに言ったが、咲夜は思わず考え込んでしまった。
主人が寝込んでからというもの、頻繁に考えていたことが頭をもたげる。
「勘違いしないで」
それを止めたのはパチュリーだった。
「あなたの健康管理がどうこう……という単純な問題じゃないわ。私と同じようなことを、あなたもレミィに言っていた。
だから、私も口を出さなかった。でもレミィはこっそり館を抜け出したりもしていたようだし、そこから先の行為は彼女の責任で、自業自得なのよ」
表情は相変わらずだったが、そこには咲夜への気遣いが感じられた。
自然と笑みが浮かび、ありがとうございます、と心から礼を言う。
しかし、気分が完全に晴れることはなかった。この館の一室で、主が今も苦しんでいるという事実は変わらないのだから。
「まぁ、もう原因も治療法も見つかったのだから、後は実践するだけ」
パチュリーはそう続けたが、咲夜は口元を引きつらせた。
「そ、そこも問題なのですけどね」
「何なら魔法で押さえつけてしまうのも手よ。お灸を据えてやりましょう」
言いながら、パチュリーは咲夜の方に――正確には、その脇に抱えられた「もの」に一瞬だけ目をやった。
「で、患者は?」
「自室です。昨日は月光浴を試されたようですが、逆に体を冷やして朝方寝込んでしまいました」
「……」
パチュリーが、まさに正気を疑う目つきをした。
さすがの咲夜も、何も言えなかった。
*
全身が熱っぽい。頭が重い。
自室の、お気に入りの安楽椅子に腰かけているというのに、力がちっとも回復していかない。
ぼやけた視界で時計を見やれば、時刻は午後七時だ。
吸血鬼の力が高まりだす頃合いなのだが、今日はその兆候さえ見られなかった。
(これは、かなりまずい)
発症から三日経った今、ようやくレミリアは事態を謙虚に受け止め始めていた。
今日までの五〇〇年という歳月、そして自分が吸血鬼であるという自負――病気だなどと、まるで人間みたいな!――から、決してそうは思わないよう心がけていたのだが、さすがに三日も続けば認めざるを得ない。
(意地張るんじゃなかったわ……)
今までは、いつもより血の濃度の高い紅茶を飲んだり、月光を長く浴びたりする、ぐらいの対策しかとってはいなかった。
しかしこれからは、周りのメイドたちに薬の調合、ばかりか下手をすれば看病まで依頼しなければいけなくなるかもしれない。
「本末転倒……形なしね」
情けなさに胸が詰まり、自慢の翼もしおしおと萎んだ。
いっそこのまま霧にでもなって、どこかに消えてしまいたい気分だ。
(これで死んだら、ものすっごい恥ずかしいわよね)
そう思っていると、不意にノックが聞こえた。
強すぎず弱すぎず、理想の力加減で行われる、等間隔での二回のノック。
咲夜だ。
「入って」
黒塗りのドアが開き、現れたのはいつものメイド服だ。見慣れた姿に少し安心する一方、疑問符も浮かんだ。
(何の用、かしら)
呼び出した覚えはない。なるだけ入室を控えるようにも言ってある。
手には何も持っていないようなので、また薬を飲ませにきたわけでもないはずだったが。
「お体の調子はいかがですか?」
部屋の中ほど、レミリアの一メートル手前まで進んでから、従者はまずそう訊ねた。
「……あなたには、いいように見えるのかしら?」
「見えませんね」
目を潤ませ、マスクをし、耳まで赤くなった吸血鬼がどれほど滑稽に見えているかを想像し、レミリアはまた項垂れた。
が、
「お嬢様の体調を戻す手段が見つかりました」
まさしく天の助けだった。
ぼやけていた視界が、一瞬にして鮮明な像を結んだ。
「本当っ?」
「ええ。私とパチュリー様で、初日から探していました。どうも今回の体調不良は、今までとは違う様子でしたので」
レミリアは驚き、同時に感謝が心にあふれた。
そうだった。この従者は、そもそもそういう人材なのだ。
レミリアが口に出さなくても、どこかで主人のニーズを拾っている。主人の病気に手をこまねいているわけがない。
さらに、友人であるパチュリーも、治療方法を探してきてくれたという。
「……そうなの」
噛み締めるように呟いてから、
「さすがね。感謝するわ」
角の取れた笑顔で、労をねぎらった。
しかしどういうわけか、対する咲夜の微笑はどこか引きつっていた。
急にいやな予感がした。
「……どうしたの?」
応じるようなタイミングで、レミリアが座る安楽椅子から木の根が発生した。
根はまるで意思があるかのように伸び、しなり、半秒もかけずにレミリアの体を椅子に縛り付けてしまう。
強力な木属性の呪文だ。
「パチェっ?」
考える前に、その名が口をついた。
と、部屋の扉が音もなく開き、白装束の少女が滑るように入ってくる。
混乱も一瞬、その少女――パチュリーの小脇に抱えられたものを見て、頭が真っ白になった。
注射器だった。ただ、でかい。
丸太のような太さで、針は人差し指ほどもある。
治療用というよりは、もはや拷問器具としての存在感を部屋中に放散していた。
だが何よりもレミリアの目を奪ったのは――その注射器の針が、鈍い『銀』の色に輝いていることだ。
「これって……!」
パチュリーと咲夜が、同時に視線をそらす。
本能が悲鳴をあげた。
「『銀針』じゃないっ!」
「はい。普通の注射針ではお嬢様の肌を通りません」
咲夜の応答を、さらにパチュリーが引き継いだ。
「ちなみに、中に入っている液体は、ただの薬でもないわ。私の魔力を飽和ぎりぎりまで宿した、特製の魔法液よ」
「パチュリー様には、より多くの魔力を注げるよう、瞬間移動も飛行も抜きでわざわざ徒歩でここまでおいで頂きました。ただ今淹れたてほやほやとなっております」
「ちょ、ちょっと待って!」
取り乱すのを止められない。
銀。銀である。
吸血鬼にとって最も穢らわしい物質の一つだ。
それを通して、他人の魔力を、吸血鬼レミリアそのものである『血』に注入されるというのか。
(冗談じゃないわ……!)
当然、滅茶苦茶に痛いだろう。
だがそれ以上に、半端でない嫌悪感を感じる。治療であることは分かった。それを調べてくれたのもありがたい。
が、それでも他人の魔力で血流を乱されたくないのだ。
身体の成長がない吸血鬼にとって、血液とは自身の歴史を証明する唯一のものだからだ。
「必要な処置よ」
動転するレミリアとは対照的に、パチュリーは淡々と述べた。
「あなたのは紛れもなく病。500年に及ぶ吸血行動は、純粋に力となる血液以外にも、汚れた血をも取り込んでいる。
物凄く簡単に言うと、病因は、ちょっと体が弱ったすきにその汚れた血が暴れだしたから。治すためには……」
魔女の紫の瞳が、咲夜が持つ注射器を、正確にはその中の深草色の液体を見やった。
「血液を清めるしかない。三日間かけて、あなたの病状と照らして、調べあげた結果の判断よ。永遠亭にも確認をとったわ」
真摯な態度に打たれ、レミリアはできるだけ冷静に提案を吟味した。
血が濁っている。
そう意識してみれば、確かにそうだった。
今も自分に生命力を供給している血流に、かすかな異物が混じっているのを感じる。
背中の出来物には気付きにくいように、自分の体のことながら、レミリアは指摘されるまで全く気付けなかった。
しかしだからといって、簡単に納得できるものではない。
「でも、ふ、不自然なのはよくないわ。自然治癒に任せましょうよ」
「無理。あなたの中の悪い血は膨大な量になっている。あなた自身の抵抗力がそれを鎮圧しきるのには、あまりにも永い時間がかかる」
「……そ、そうだ、咲夜! あなたが時間を止めて、その間に注射すれば」
「申し訳ありません。時間を止めるとお嬢様の血液の流れも止まってしまい、魔法液がうまく血流に流れない可能性が」
彼らの態度はにべもない。
声が震えた。
「いきなりそんな……!」
「でも、レミィ。あなた自身もこのままじゃまずいって、分かってるんじゃないの?」
言葉に詰まった。
その通りだったからだ。
目が泳ぐ。
パチュリーと目が合った。咲夜とも。
二人は真剣だ。
であるならば、どういう行動を取るべきかは、やはり決まっていた。
腐っても上に立つ者。
胸を締め付ける恐怖を、丹田に力をこめて抑え込む。
思慮深かった彼女らの好意を、裏切るべきではないということだけは、今の彼女にも分かった。
「……いいわ」
そう言って目を閉じ、椅子の背もたれに身を預ける。
「お願い」
しかし口ではそう言っても、怖いものは怖い。
脚がわずかに震えてしまう。心臓の音もいやに大きく聞こえて、それがまた恐怖を駆り立てた。
「ご安心ください」
耳元で、咲夜の声がした。
と同時に、両の手を温かいものが包み込む。
「従者の名にかけて、痛みも時間も最小限に留めます」
真っ暗だった心に、光が射した。
そのあまりの安心感に、レミリアは自然と閉じた目を開き――そのまま硬直した。
さぁっ、と血圧が急降下していく。
「……ねぇ」
すっかり漂白された表情の中、ただ目線だけが動き、頬のすぐ傍に迫った注射針を凝視した。
「何でしょうか」
「聞いて、なかったわ」
「はい?」
「どこに、注射するの?」
咲夜がぎくりとした。
代わりにパチュリーが応える。
「……頭よ。こめかみに一発」
数分後、部屋のドアから大量のコウモリが飛び出した。
*
「パチュリー様から念話が」
「お嬢様がお逃げになられました」
「では手筈どおりに」
ガチャガチャ音を立てて、待機室から出撃していくメイド達に、
「もはや猛獣狩りの雰囲気ですよねこれ」
パチュリーの使い魔――小悪魔がにやりとした。
*
(冗談じゃないわっ)
コウモリの群れと化したレミリアは、廊下を猛スピードで飛行した。
脳には先ほどの映像が焼き付いている。
病気は嫌だ。だがあんな殺人級の拷問があるとなれば話は別だ。
二人には悪いが、ここは自分で病を解決しよう。
(今日は満月。もういっそ外へでも出て、もう一度月明かりを浴びれば……!)
思った時、ようやく窓のある廊下へたどり着いた。
安堵したのもつかの間、すぐにコウモリの聴覚が不穏な音を拾う。
(水音?)
違う、雨の音だ。
外で雨が降っている。
吸血鬼は雨も苦手だ。これでは外に出られない。
(間の悪い!)
思考に蹴りが入った。
大急ぎで次の目的地を検索する。
ひとまず身を隠せて、いざという時の逃走ルートも確保できなければいけない。外と繋がっていればなおいい。
――見つからない!
だいたいのイメージは掴めているのに、明確な場所が浮かんでこなかった。
頭の芯がぼうっとして、思考がすぐに拡散してしまうのだ。
(……私の体って、こんなに不便だったかしら)
そう嘆いた時だった。
「失礼します!」
そんな声とともに、背後からメイドが飛びかかってきた。
慌ててコウモリを散開させ、間一髪やり過ごす。
ほっと安堵した瞬間、今度は前から新手が来た。
「失礼しますっ」
反応しきれず何匹か捕まった。
手が早い。待ち伏せされていたらしい。
態勢を立て直そうと、レミリアの『群れ』は天井付近にまで飛びあがる。
そこに伏兵がいた。
「お嬢様~」
ぞくりとした。
恐る恐る上を見る。
「捕まえましたよ~」
小悪魔だった。
にへら、とした口もと、火照った頬。その上で、半開きの目がこちらをじっと見つめている。
「うふふ」
本日二度目の怖気。
か弱いコウモリと化したレミリアを捕まえるのに、何か妙な連想をしているとしか思えない表情だ。
(そういえば、小悪魔ってそういう種族なのよね……)
思い出し、喉がごくりと鳴る。
小悪魔が唇を舐めた。病気以外の部分で、ひどく生々しい身の危険を感じる。
(逃げなきゃ)
渾身の力をこめて羽ばたいた。
逃げちゃだめですよう、と小悪魔が素早く手を伸ばす。
忽ち数匹が捕まった。普段の動きができないレミリアの『群れ』など、小悪魔にとってはまさしく濡れ手に粟の状況だろう。
(やばい)
「お嬢様!」
廊下の遥か先から、張りのある声が響いてきた。
一発で誰か分かった。
「失礼します! でもこれもお嬢様のためっ」
遠目にも分かる、華人風の長身――門番『紅美鈴』だった。
七色の弾幕を引き連れて、矢のように突っ込んでくる。
今のレミリアに、その弾幕を避ける余力はない。
「逃がしませんよ~」
すぐ後ろで小悪魔の声がする。退路もない。
残された力を振り絞った。
(な、舐めるんじゃ……っ)
コウモリの『群れ』が小さくなった。
コウモリとして散在していた『レミリア』、その一部を取り崩して、攻撃のための力に転化させたのだ。
(ないっ!)
スペルカードを発動させる。
意識の内で、吸血鬼としての力が起き上がるのが分かった。
その魔力の顕現。それこそが吸血鬼にとっての弾幕だ。
メイドや小悪魔が慌てて離れる。
今までのこともあって、胸がすくような心地だ。
と、次の瞬間、空間におびただしい数の弾が出現――
(あれ?)
しなかった。
中型の弾が一つと、大型の弾が幾つか。弾幕と呼ぶのもおこがましい、隙間だらけの弾の群れだ。
ケフン、と咳が出る。
メイドや美鈴がきょとんとし、背後で小悪魔が邪悪そのものの笑みを浮かべた。
「チャンスです!」
小悪魔の声と共に、全員がレミリアに殺到した。
*
「やってますね」
「そのようね」
主がいなくなった部屋。
弾幕戦の音が聞こえくると、咲夜とパチュリーは溜息を吐いた。
「大人しく注射させてくれればいいのに」
「ですね」
「逃げても、いつかは打たなければいけないのにね」
そこまで語って、また二人は嘆息した。
力は強大なくせに、所々が子供っぽいのは吸血鬼の難である。付き合う側としては、溜息も吐きたくなるというものだ。
「……やはり、銀で血液を乱されるのは嫌なのでしょうか」
「それはそうでしょうね。吸血鬼はそういうところに拘るから」
パチュリーがそう言った時、大きな揺れが来た。
誰かの悲鳴も。
「お嬢様のですね」
「心配して駆け付けないようにね」
「まさか」
即答する咲夜だが、度々入口の方へ目をやっていた。
一方パチュリーはぞんざいだ。
「まぁメイドや門番にやられれば、自分がいかに弱ってるかっていう危機感も沸くでしょ。そうでもしないと、どうせ注射も受けてくれないだろうし……」
そこでまた爆音がし、パチュリーも口をつぐんだ。
気まずい沈黙の中、咲夜がまたドアに目をやる。
「……大丈夫でしょうか。突然倒れられたりしては……」
「そこは心配無用。事態が最悪の方向へ転び続けたとしても、死に至ることはない。そもそもがアレルギーと疲労の合併症だしね」
「アレルギー?」
「そうよ。花粉症とかと同じ。事態の原因は確かに『悪い血』が暴れているからだけど、彼女が体調を崩しているのは、暴れ出した悪い血に対する免疫過敏が主な理由。
汚れた血と澄んだ血の抗争に、弱った体が耐えきれないのよ」
咲夜は首をかしげた。
パチュリーも頭を振った。
「……そうね。ちょっと分かりにくいわね」
「お嬢様はそのことを?」
「知らないと思うわよ。吸血鬼は血に敏感だけど、血球レベルで行われてるやりとりまでは、さすがに感知できない。それこそ、よほど顕在化しないとね」
咲夜の顔に露骨な困惑が浮かんだ。血球、という単語がさらに混乱を深めたのかもしれない。
つまり、とパチュリーは無理やりまとめに入った
「病そのものは軽度のアレルギーよ。無理がたたってこじらせているけど、これ以上悪くなることはないはず。楽観はできないけどね」
「……そうなのですか」
「そうなの、まったく……」
いつの間にか騒音は止んでいた。
静まり返った部屋の中に、ただ雨が屋根を叩く音だけが聞こえる。
その沈黙を破ったのはパチュリーだった。
「雨でよかった。レミィは外へ出られない。幸運も味方しているわ」
「せっかくの満月ですけどね。いつもならさぞ残念がられるでしょう」
吸血鬼は月光から力を得ることができる。満月ともなれば、その恩恵はその他の月と比べ物にならない。
そうでなくても、秋の満月を見損ねるというのは、月を愛する者として純粋に寂しいはずだった。
「その分、明日は完治を喜べるといいですね。みんなで」
咲夜の呟きに、パチュリーが珍しく素直に頷いた。
*
メイドと門番の連合軍に、レミリアはぼろぼろに負けた。
他のコウモリ達を捨石にし、なんとか煙突の中にまで逃げ延びてきたが、それだけで僥倖といえるだろう。
後半はまっすぐ飛ぶことさえままならない状態だったのだから。
(こんなに、ひどかったのね)
煤くさい闇の中、レミリアは嘆息した。
コウモリでなく人間の姿であったなら、きっとがっくり項垂れていたはずだ。
(……失敗だったかもな)
少なくとも、逃げてしまったのは不用意だった。この騒ぎでは戻るのにも勇気がいるし、何より非常に――格好悪い。おまけに暴れたせいで、せっかく治まっていた咳がぶり返していた。
やはりあの二人が正しかったようだ。
思えば、治療に自信がなければ、あんな風に持ちかけては来ないだろう。
しかし、あの注射を思い出すと、身震いせずにはいられなかった。
銀による痛みは勿論だが、血液に他人の魔力を注入されるのも、どうしても嫌だ。
吸血鬼の精神は強靭だ。
だが長く生きるものの宿命、迷うこともあるし、傷つくこともある。
そんな時内側から支えてくれるのが、血だ。
血には今までどんな血を吸い、どんな生活を送ってきたかが反映されている。そこに蓄えられた歴史は、いつだって揺らいだ自分の足がかりになってくれる。
それが病気の原因だというだけで、レミリアにとっては秘かなショックだったのだ。
まして、そこに異物を混ぜられるなど――。
(考えられない……!)
下からは絶えず足音がする。
煙突の出口――暖炉の辺りで、メイドたちが自分を探しているのだ。
決断はまだ出せないそうもない。だが焦燥といたたまれなさで、胸がひどくざわついた。
らしくない。
だがどうすることもできず、感情のうねりに身を任せるしかなかった。
(……あれ)
何分、そうしていただろうか。
いつの間にか雨音が遠のいていることに気づき、レミリアは思考を今に戻した。
もう一度注意して聞いてみるが、やはり雨音は小さくなっている。
ということは雨が小降りになったということであり、雨雲に隙間ができている可能性も出てくる。
上手くすれば、その隙間から月が拝めるだろう。
状況の打開に繋がるかもしれない。
(試してみましょう)
昨日もそうやってベランダに出ていた。その時は、逆に体を冷やして病状を悪化させてしまったのだが。
レミリアは煤まみれの壁を離れ、煙突の上へと羽ばたいた。
普段あまり意識しないが、紅魔館の煙突には屋根がついており、雨水が入らないようになっている。
レミリアは、その屋根と煙突の縁の間から、そっと空を覗いた。
雨は、まだ僅かに降っていた。
しかし遠くには、すでに雲の切れ目が生まれている。
レミリアの期待通り、満月はその隙間に浮かんでいた。
(……あれ?)
喜んだのもつかの間、すぐに違和感を覚えた。
おかしい。見慣れた満月なのに、ひどく不安を煽られる。
体が休まるどころか、腹のあたりがムカムカする。
こんなのは違う。
今日の満月は――どこか毒々しい。
直後、痛烈な吐き気が臓腑を貫いた。
*
耳に凄まじい痛みが走ったかと思うと、部屋中のガラスがひび割れた。
妖怪の耳でしか聞き取れなかったであろう、高音域の叫び声――超音波だ。
レミリアが出したものに違いない。彼女は今コウモリになっているはずだからだ。しかし、これではまるで――。
「どういうこと」
言いながら咲夜を見やると、彼女は片耳を抑え姿勢を崩していた。
当然だ。妖怪だから痛みを感じるだけで済んだが、人間にとっては気絶する寸前の強烈な超音波だったのだ。
「今のは、お嬢様ですか?」
しかし、そこは紅魔館のメイド長だった。
ちゃんと状況は把握しているし、意識もしっかりしている。声もなんとか聞こえているらしい。
「そのようね。でもこんな強力な超音波を出すのは普通じゃ考えられない」
「悲鳴」
「そう考えるのが妥当ね。向こうで何かあったとしか……」
そこで、部屋のドアが開いた。
現れたのは、この間来たばかりの新米のメイドだ。
ひどく動揺している。
「あの、その」
「お嬢様はっ?」
相手の言葉を待たず、咲夜が尋ねた。
メイド長の鬼気迫る、だが極めて冷静な態度に、当惑に泳いでいたメイドの表情がみるみる引き締まった。
「み、見失いました」
「それはいいわ。想定の範囲内よ。最後に見たときのご様子は?」
「かなり悪いようでした。まっすぐ飛ぶこともできないようで……」
二人の会話が軌道に乗ったのを見計らい、パチュリーは自らの思考に潜った。
何故突然具合が悪化したのか。だとしたら今どこにいるのか。
今までレミリアの病状が悪化した時の様子と、今の様子を照らし合わせてみる。
病気が大きく悪化したのは、今まで二回。一回目はティータイムの後だ。いつもより血液の濃い紅茶を飲んだが、実らずにそのまま悪化した。
二回目は月光を浴びにテラスへ出た時だ。これが決定打となり寝込んでしまった。
考えてみれば、いずれも吸血鬼の力を高めるための行為であるはずなのだが――。
「あ」
まさしく、あ、という声だった。
パチュリーの頭の中で、仮説が猛スピードで組み上がっていく。
「あなた」
「は、はい」
新米メイドが慌ててパチュリーに向き直った。
「外はどうだった? 月は出てた?」
「月、ですか? 雨は止みかかっていたようですから……顔を出しても不思議ではない、と思います」
仮説が裏付けられた。
まさしく盲点だった。
「原因が分かったのですね」
素早く訊く咲夜に、パチュリーは頷く。
それからさらに詳しく説明しようと、咲夜の方へ目をやり――言葉を失った。
新米メイドも一瞬遅れてそれに気づき、顔を真っ青にした。
「メ、メイド長、いったい何を……!」
パチュリーにしてみれば、何をするのかは明白だった。その目的も。
だが、
「本当にいいの?」
パチュリーの質問に、咲夜は頷いた。
「当然、痛いわ。それを乗り越えたとしても、レミィが見つかるかは分からない。下手すれば吸血鬼化の危険もある」
従者は迷わず頷いた。
「……効果は、まぁそこそこあるでしょうけどね。もともとそのための薬だし」
その言葉に、咲夜の口元が力強い笑みを結んだ。
パチュリーは嘆息し、新米メイドに指示を出す。
「……今すぐ厨房へ行きなさい」
「え?」
「メニューはレバーとか串カツとか。ニラでもいい」
全てを察したのか、新米メイドは一礼して部屋を飛び出していった。
それから半秒も待たずに、咲夜は自分の二の腕を、注射針に浅く突き刺した。
レミリアに刺すはずだった、巨大な注射器。
その中の深草色の液体が、咲夜の血管内に流し込まれていく。
「レミィに出会ったら一発引っぱたいてもいいかもね。今日のあなたには、その資格があると思う」
半分本気のパチュリーに、咲夜は真っ青な顔で笑み、直後に忽然と消え去った。
残された注射器が倒れ、ごろごろ転がり、パチュリーの足にぶつかって止まる。
お前も何かやれと言われた気がした。
嘆息し、魔女は魔法書を取り出す。
*
頭がぐらぐらする。吐き気も酷い。まるで血が泥や油に変わってしまったかのようだ。
随分と苦労して、瞼を開ける。
外の景色がうっすらと見えたことで、なんとかここが煙突の縁であるということは分かった。
――かなりまずい。
レミリアはそう思った。
体が動かない。コウモリから元の姿に返ることもできない。
全身がかつてない不調を訴えている。
この血流の叫びさえ途絶えたら、いよいよ末期だろうと思った。
(……なによ、これ)
確かに自分も悪かった。だがこんな仕打ちはあんまりだ。
憤りを覚える。それと同じくらいの後悔も。
そしてそれらの裏側から、じわりじわりと恐怖が染みだしてきた。
滅ぶのは怖い。一人で消えるのはもっと怖い。
コウモリでよかったと思った。いつもの姿であったなら、きっと涙が滲んでいた。そんなのはやっぱり許せない。
(こんな時でも……めんどくさいわね、私って)
嗤った時、ふと風を感じた。
そくりとした。
雲の動く気配。死に物狂いで目を開けると、雲に新たな切れ目が生まれつつあり――見る間に、そこから月が顔を出した。
月光が体に降り注ぐ。
レミリアは身をこわばらせ、来るべき地獄に備えた。
一秒、二秒。
目の前が歪んだ。
全身の血が、沸騰したように熱くなる。頭が内側から殴打されているようだ。胃袋が別の生き物のように蠢動しているのが分かる。だが吐くべきものは、数秒でなくなってしまった。
(なに、これ)
さっきよりも何倍もひどい症状だ。
苦痛に散り散りになった思考が、何故、という所に飛んでいく。
雨だ。
煙突の淵に出て雨に打たれたから、さらに力を吸い取られたのだ。
(まずい)
その時、確かに死をすぐ隣に感じた。
だが決定的な瞬間は訪れなかった。
頭痛は続き、血脈も乱れたままだが、なんとか一線を保っている。
前に気配。何かが――いや誰かが、月の光を遮ってくれたのだ。
「お嬢様」
放心状態のレミリアを、温かいものが包み込んだ。
心中に渦巻いていたほの暗い感情が、残らず安堵へ流れ込んでいく。
「どうぞ」
そして、目の前に何かが差し出された。
*
『いい、咲夜。病気の原因はアレルギーで、汚れた血と澄んだ血の抗争が体を傷つけているから、っていうのは話した通りよ』
咲夜は、パチュリーの説明を思い出した。
『はっきり言って盲点だったわ。レミィは早く回復しようと月光を浴びたり、血を多めに摂取していたけど、それによってもたらされる効果は、厳密にいえば身体機能の回復ではない。
血の活性化なのよ。
吸血鬼の本性は血に宿っている。血が活性化するから、身体も元気になるという理屈なの』
目の前で、コウモリが弱々しく身震いしている。
その姿と、パチュリーの言葉が重なる。
『でも血が活性化するということは、早い話が汚れた血と澄んだ血の抗争も、激化するということ。難しい言い方をすれば、抵抗力の増大が、かえって強力なアレルギー反応を引き起こしていることになる。
本当に問題だったのは、月の光を浴びることや、血を多めに摂ったりすることだったのよ。
満月なんてもっての外』
目の前の吸血鬼は、それに気付けなかった。
自分達もだ。
申し訳なさと、それでも間に合ったという安堵が胸中で一緒くたになっている。
「用意はできております」
こうなっては、もはや治療を急がなければならない。
応急処置も必要だろう。
記憶の中で、パチュリーが嘆息した。
『……その魔法液には、汚れた血と澄んだ血の抗争そのものを抑制する効果もある。もちろん汚れた血そのものの駆除も。
血に溶かして飲ませても、まぁマシにはなると保証するわ』
咲夜は剥き出しの手首を、レミリアの前に近づけた。
「どうぞ」
吸血鬼の瞳に、逡巡がよぎる。
咲夜はそれを感じ取り、そっと腰をかがめ、視線をレミリアと合わせた。
例え相手の姿が変わっていても、長い付き合いだ。
目線を重ねるだけで気持は伝わっていく。
コウモリが、ゆっくりと口を開けた。そして力を振り絞って、従者の手首に牙を立てる。
稚拙な痛みと、必要以上にこぼれる血液に、相変わらず下手だなぁ、とこんな時でも咲夜は愛おしさを覚えた。
*
牙を通して、従者の血が体内に流れ込んでくる。
まだ若い、乙女の血だ。
なにより、血の端々にまでレミリアを真摯に想う気持ちが込められている。
飲み込んだ瞬間、まるで元から自分の血液であったかのように、血流の中に馴染んでいくのがわかった。
しかし効能はそれだけではなかった。
取り込まれた咲夜の血、その中に温かい魔力の奔流を感じる。
パチュリーのものだ。
それが、熱湯のようであった血液をなだめ、元の穏やかな姿に戻していく。まるで、駄々をこねる子供を寝かしつけていくように。
(あったかい……)
いつしか、頭痛も消えていた。
全身が弛緩していく。痛めつけられた体に、この感覚は心地よすぎた。
瞼が落ちかける。
それを、誰かのうめき声が留めた。
レミリアは最初自分のものかと思った。
だがそれは前から聞こえた。猛烈に悪い予感と共に、恐る恐るコウモリの頭を上げる。
咲夜の真っ青な顔がそこにあった。
(貧血)
考えてみれば、無理からぬことだった。
咲夜は人間だ。それが、魔女の強力な魔力を宿したまま、ここまで飛んできたのだ。
その上さらにレミリアに血を与えれば、それが例え微量であっても、あっという間に精力を奪われてしまう。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
真っ青な顔で笑う咲夜には、レミリアをして戦慄せしめる何かがあった。
「ちょっと、休めば……」
そこで、カクンと頭が落ちる。
ここは煙突の頂上、地上四階分の高さ――その情報がレミリアの中でスパークした。
眠りに向かっていた体をたたき起こす。
と同時に、今しがた飲んだ咲夜の血から、潤沢な力を吸い上げた。
コウモリの輪郭がぐにゃりと歪み、弾け、一瞬で腕を、翼を、頭を模った。
目の位置に真っ赤な灯が灯る。僅かに開いた口から、体に不釣り合いな長大な牙が覗いた。
「あなたが」
闇の中で、幼い吸血鬼は翼をいっぱいに広げた。
「落ちて、どうするのよっ」
煙突の淵を蹴り、空に躍り出る。
自由落下を羽ばたきで加速させ、落下する咲夜に追いついた。
人間の体だ。もちろん重い。
それを吸血鬼の膂力にものを言わせて、強引に抱きかかえる。
その時には、地面がもうすぐそこまで迫っていた。
羽ばたく。
地面と翼の間に空気を圧縮する。
そこから莫大な揚力が生まれ、二人の体はふわりと宙へ舞い上がった。
(体は悪くない)
抱きやすいよう咲夜の位置を調節しつつ、レミリアは思った。
が、すぐに身震いした。
復活したと思ったのに、また寒気が襲ってきたのだ。
(どういうこと?)
そこでようやく、レミリアはまだ雨が降っていることを思い出した。
雨にぬれて、再び体が弱りだしているのかもしれない。
と同時に、さらに致命的なことにも気付いた。
また雲が動き出している。
これではいつ月が顔を出すか分からない。雲の切れ目付近にあの金の輝きが見えるので、時間はそうないだろう。
そして、その金の輝きが未だに毒々しく見えるということは――やはり、まだ月光も危険なのだろう。
こと緊急時においては、吸血鬼の知覚は信用できる。
(ここまで来て)
口元を引き結ぶと、咲夜がぴくりと動いた。
相変わらず察しがいい。
「動くわよ」
「ご迷惑おかけします」
「……平気よ」
早めに戻りましょう、と続けると、従者はしっかりと頷いた。
レミリアは翼を閉じる。
自由落下がまた始まる。
頭が下になり、また地面ががぐんぐん近づいてくる。
が、今度は適当なところで軌道修正、翼を戻し、高速での滑空に入った。
吸血鬼の視力は夜にこそ発揮される。
小康状態の今でさえ、雨粒の一滴一滴がよく見えた。
体をひねったり、高低差を調節したりして雨の隙間をかいくぐるのもわけないことだ。
「こういうのは初めてね」
「頻繁にあったら卒倒してしまいます」
一人言にも、咲夜は律儀に応えてくれた。
「元気じゃない」
「フラフラですよ」
そこで咲夜が、あら、と声を出した。
何気なくその視線の先を見やると、ひび割れた窓から館の内部が見て取れた。
廊下を走っているメイド達の姿も。一瞬美鈴の姿も見えた気がした。
「みんな、まだ探してくれてるのね」
言った瞬間、中の廊下に妙な物体が浮かんでいるのに気づいた。
少ししか見えなかったが、あれは空中に浮かぶ、色とりどりの――魔道書だ。
主に索敵に使われる類のものだった。
こんなものが使えるのは館に一人しかいない。
「パチェまでっ?」
図らずも胸が熱くなった。
図書館から歩いてきた、という以上、彼女の魔力が残りわずかだというのは本当のはずだ。パチュリーは運動を嫌う。
だというのに、浮遊する魔道書の数はかなりのものだ。
残りの力を限界まで振り絞らなければ、これほどのことはできない。
嬉しさの中に、苦いものが混じった。
「……大分、心配かけてたようね。みんなに悪いことをしたわ」
ぽつり、と声が漏れる。
咲夜が少し眉をあげたが、レミリアは目をそらして気付かないふりをした。
らしくない言葉だ、というのは自覚している。
しかし今は病人なのだ。
まだ調子が悪いのだ。だからそんな気分になっても仕方がないのだ。
「……お肉」
「はい?」
「明日は、高いのを使っていいわ。小麦粉も。いつもなら満月の祝いの時期だしね」
紅魔館にも催事はある。倉庫の奥の方には、そのための酒だったり材料だったりが貯蔵されている。
それを崩していいということだった。
「……あとね」
「はい」
「そのね……」
「はい?」
レミリアは逡巡した。
だが意を決して、
「私、あの注射……」
「お嬢様、月がっ」
慌てて振り返った。
雲が動き、まさに月が顔を出そうとしていた。
悠長に雨を避けている場合ではない。本当は玄関から入りたかったが、
「突っ込むわよ」
大きく羽ばたき、雨に当たるのも無視して突っ込んだ。
唯一窓の鍵の開いていた、レミリア本人の部屋に向かって。
「! レミ……」
中で魔道書の制御を行っていたパチュリーに、二人は盛大に突っ込んだ。
間の悪いことに、パチュリーの足元には例の注射器が転がっていた。
不意の衝撃に転倒するパチュリー、その足が注射器の腹を絶妙なタイミングで蹴りあげる。
巨大な注射器が、回転しながら宙を舞った。
「あ」
「あ」
「あ」
三人の声が重なる中、注射器が降ってくる。
今まさに飛び込んできた、レミリアに向かって。
幸か不幸か――針は下を向いていた。
*
咲夜は咄嗟の判断で、その一瞬を限界まで引き延ばした。
不調を訴える体を無視して、体勢を立て直し、主人の方向を確認する。
ぞっとした。
今まさに、巨大な注射器がレミリアの頭に刺さる瞬間だったのだ。
もはや禍々しささえ漂う巨大な銀針が、レミリアの頭の数センチ上で停止している。
時間をちょっとでも動かせば、主の悲鳴が聞けるだろう。
咲夜は急いで注射器をどかそうとしたが――その際、レミリアの表情を見て気がついた。
主人の表情は、恐れに歪んではいなかった。
むしろ、それを必死に抑え込んでいる感じで、その目はまっすぐ正面を――ついさっきまで咲夜がいたところを見つめている。
何をすべきで、何をするべきでないか。
主はすでにどのような決断をしていたか。
それはすぐに分かった。
「失礼します」
咲夜は、レミリアの傍らに立った。
そして注射器を握り、主人の頭に狙いを定める。
そこで、時間を元に戻した。
「よろしいのですね」
確認を取ると、迷いは一瞬、レミリアは確かに頷いた。
咲夜も覚悟を決め、主人のこめかみに浅く針を突き刺す。
叫びは聞こえなかった。
*
気づくとレミリアは、館の廊下を歩いていた。
目的も特にないまま、ただ足の進むままに、ぶらぶらと。
「お嬢様」
声に振り向くと、そこにはいつの間にか咲夜がいる。手に、巨大な注射器を抱えて。
思わず後ずさった。
何か恐ろしいことが起こるような気がした。
しかし数歩下がったところで、背中が誰かに当たってしまう。
「お嬢様」
退路を塞ぐのは、美鈴だった。その後ろには小悪魔も、メイドたちもいる。
全員が当たり前のように注射器を持ち、一部の隙もない友好的な笑みを浮かべていた。
信じがたいことに、吸血鬼である自分の腰が抜けた。
陸に上がった魚のように口をパクパクさせるレミリアに、彼女たちが歩み寄ってくる。
「レミィ」
そんな時に、親友の声がしたのだ。
レミリアはぱっと顔を輝かせて、辺りを見回す。
だが、どこにもパチュリーの姿はない。
「レミィ、ここよ」
声は前から聞こえた。
正確には、いつの間にか真正面に迫っている注射器、そのシリンダーが湛える液体の中からだ。
急激に寒気が増した。
「パチェ……?」
間。
「ここよ……」
液体がうねり、中からミニサイズのパチュリーが顔を出した。
もろに目が合った。
シュールさよりも恐怖が先に立つ。
心臓がぎゅーっと縮あがった。
「お嬢様」
咲夜の声がする。
「レミィ」
パチュリーの声が聞こえる。
頭が恐怖で真っ白になっていく。
「起きて下さい!」
再び咲夜の声が――
(『起きて』?)
思った時、意識が急速に浮上した。
跳ね起きる。
地面に手をつくと、柔らかい。ここはベッドの上だ。
ただ体が熱く、呼吸も早かった。額に手をやると、汗でぐっしょりと濡れていた。
それでもなんとか気を落ち着かせてから、ぎこちなく首を回せば、ベッドの脇には咲夜とパチュリーが立っている。
息と一緒に、力が抜けた。
「夢……」
パチュリーが肩をすくめる。
その辺りで、ようやく状況が分かってきた。
確か部屋に飛び込んだ際、パチュリーの蹴りあげた注射器が頭に刺さりかけた。
その時咲夜にこのまま注射を続けるよう言ったのまでは覚えている。
恐らく、その辺りで気絶してしまい、ベッドまで運ばれたのだ。
「大分うなされていたようですが、ご気分はいかがですか?」
咲夜の言葉に、頭の芯が痛んだ。
「頭は、痛いわね」
「針が刺さったせいでしょう。それ以外は」
「平気よ」
パチュリーと咲夜が、顔を見合せて頷いた。
「それならば、ひとまずは安心らしいです」
「吐き気とかがあるようなら、ばっちり副作用よ。でも心配はないようね」
言われて、レミリアはもう一度自らの体をチェックした。
確かに、もう吐き気も気だるさもない。頭も常のように冴えている。
健康は戻ってきたようだ。
(でも……)
レミリアは血流に語りかけた。
濁っているわけではない。
ただ、事前の読み通り、今までとは何かが確実に変わっている。
今まで一切の干渉がなかった血液だ。そこに他人の魔力を直接注入されれば――それが僅かな量であれ――血の純潔が破られたことには違いない。
溜息が洩れた。
(高くついたわね)
詮ないことだと分かってはいるが、やはり喪失感も大きかった。
嫌な時に風邪をひいたものだ。
五〇〇年の間、ずっとその血の中では独りだったのに。
レミリアはそっと目を閉じ、しばし陰鬱な感情に身を任せようとした。
だが、どうしてもできなかった。
この変化に落胆しきれない自分がいる。
朦朧とした意識で感じた、従者の慕情に、友人の気遣い。
あの出来事が今やレミリアの歴史として、血に記録されている。例えこの先何があとうとも、そこまでやってくれた友人たちが自分の周りにいたという事実を、忘れることはないだろう。
それは、悪くないと思う。
知らず、口の端が笑んでしまうほどに。
久しく忘れていたが、『変化』とはこういうものなのだろうか。
「どうかしましたか?」
考え込むレミリアに、咲夜が怪訝な顔をした。
「なんでもない」
咲夜をそうはぐらかしたところで、突然部屋のドアが開いた。
入ってきたのは、長身で、華人風の――
「美鈴じゃない」
レミリアが言うと、門番は急きこんで告げた。
「はいっ、あの大変なんです! 実はさっき変な音がすると思って、見に行ったら、地下室で……」
そこで、グシュン、という音が部屋に響いた。
重低音のくしゃみみたいな音だった。
廊下に響く音が、開け放たれたドアから部屋に流れてきたのだ。
「この音」
パチュリーが眉をひそめ、咲夜も硬直した。
一泊遅れて、レミリアにも理解がやってくる。
くしゃみのような音。
誰かがまた風邪をひいている?
誰が。
こんな音を出すくらいだ、よほど肺活量のある者だ。それでいて、自身の力のコントロールがうまくできずに、必要以上に大きなくしゃみや咳をしてしまう程度の精神年齢だろう。
(まさか)
血圧が急降下した。
この館には吸血鬼がもう一人いる。
そう言えば、彼女も最近不養生だったが――
「音の源は、『地下室』だそうよ」
パチュリーが、美鈴からの情報を復唱した。
これから彼女の元に行き、治療が必要であることを説き、あの地獄のような注射をさせなければならない。
その苦行を思い、部屋に絶望的な空気が流れる。
「来年からは予防注射ですね」
咲夜の言葉に、一同は大きく頷いた。
――グシュン。
その吸血鬼は、館のテラスから月を見上げていた。
澄み渡った空から月の光が降り注ぎ、少女の体と、大きな翼を、柔らかく包み込んでいる。
その姿には、まるで遥か有史以前からそうしていたかのような、冒しがたい神秘の美が漂っていた。
「お嬢様」
そんな吸血鬼を、呼ぶ声がする。
テラスとは対照的に、闇に沈んだ部屋の中からだ。
「……お嬢様」
一向に応じない吸血鬼の少女に、声がやや語調を強めた。
しかし、やはり吸血鬼は反応しない。月を見つめ続け、頑なに声を無視する。
ため息が聞こえた。
「お病気なのですから……」
吸血鬼の背中が二、三度震えた。
それから、我慢できない、といった調子で一気に振り返る。
「病気?」
声の主――メイド服の女性と向かい合い、吸血鬼は主張した。
「何度も言わせないで。これはちょっと調子を崩しているだけで……」
そこで、大きく何度も咳き込んだ。
喉の奥に痰がからまっているであろう、かなり深い咳だ。吸血鬼の心肺であるから、苦しくはないだろうが、それでも病状を察するに余りあった。
「直に、元に戻るわ」
そう言って顔をあげた吸血鬼、その口と鼻を大きなマスクが覆っていた。
耳は赤く染まり、瞳も熱に潤んでいる。常の力強さなどはどこにもなく、ただ茫洋とした印象だけがある。
「すぐ戻るといって、もう二日目ですよ」
メイド――咲夜は嘆息して続けた。
「完全無欠に病気です」
「だから違っ……」
言葉の続きは、咳で聞こえなかった。
*
妖怪はなるほど人外のものだ。
が、それでも生きている以上、やはり病気というものはあるらしい。
持病を持った妖怪もいるし、この館にも一人喘息持ちの魔女がいる。
しかしまさか、吸血鬼もそうであるとは思わなかった。
「まだ、信じられない気持ちです」
主の病状を察してか、夜だというのに紅魔館は静まり返っていた。
その静寂に、咲夜の声が響く。
「まさかお嬢様にそんなことが起こるなんて……」
「今さら?」
そう応えるのは、隣を歩く魔女、パチュリーだ。
布地の多い独特の装いが、廊下を進むテンポに合わせて揺れている。
「熱が出てもう三日目よ、咲夜」
「そうなのですが……どうにも、まだ違和感が」
それは咲夜の本音だった。
レミリアは500年の時を生きた大吸血鬼であり、妖怪の中でも最強の部類に入る。
それでいて気品に溢れ、常に洗練された動作をする。
その有り様に惹きつけられた者は数知れない。
病に弱る姿など、咲夜には想像もできなかった。
「私は、そうは思わない」
が、パチュリーは違う見解を示した。
「さすがに病気になるとは思わなかったけど……でも、いつか調子を崩す、ていう気はしてたわ」
「……本当ですか」
「ええ。最近のレミィは、特に不養生だし。吸血鬼は夜起きて朝寝るのに……最近は、日中に起きて、神社へ行くことも多かった。
レミィは力のある吸血鬼よ。だけど、かといって睡眠数時間の生活を長く続けていられるほど、都合よくはできていない。抵抗力も弱まるだろうし、体の中の『悪い血』が暴れだしたというなら……それも仕方ない」
パチュリーは興味なさげに言ったが、咲夜は思わず考え込んでしまった。
主人が寝込んでからというもの、頻繁に考えていたことが頭をもたげる。
「勘違いしないで」
それを止めたのはパチュリーだった。
「あなたの健康管理がどうこう……という単純な問題じゃないわ。私と同じようなことを、あなたもレミィに言っていた。
だから、私も口を出さなかった。でもレミィはこっそり館を抜け出したりもしていたようだし、そこから先の行為は彼女の責任で、自業自得なのよ」
表情は相変わらずだったが、そこには咲夜への気遣いが感じられた。
自然と笑みが浮かび、ありがとうございます、と心から礼を言う。
しかし、気分が完全に晴れることはなかった。この館の一室で、主が今も苦しんでいるという事実は変わらないのだから。
「まぁ、もう原因も治療法も見つかったのだから、後は実践するだけ」
パチュリーはそう続けたが、咲夜は口元を引きつらせた。
「そ、そこも問題なのですけどね」
「何なら魔法で押さえつけてしまうのも手よ。お灸を据えてやりましょう」
言いながら、パチュリーは咲夜の方に――正確には、その脇に抱えられた「もの」に一瞬だけ目をやった。
「で、患者は?」
「自室です。昨日は月光浴を試されたようですが、逆に体を冷やして朝方寝込んでしまいました」
「……」
パチュリーが、まさに正気を疑う目つきをした。
さすがの咲夜も、何も言えなかった。
*
全身が熱っぽい。頭が重い。
自室の、お気に入りの安楽椅子に腰かけているというのに、力がちっとも回復していかない。
ぼやけた視界で時計を見やれば、時刻は午後七時だ。
吸血鬼の力が高まりだす頃合いなのだが、今日はその兆候さえ見られなかった。
(これは、かなりまずい)
発症から三日経った今、ようやくレミリアは事態を謙虚に受け止め始めていた。
今日までの五〇〇年という歳月、そして自分が吸血鬼であるという自負――病気だなどと、まるで人間みたいな!――から、決してそうは思わないよう心がけていたのだが、さすがに三日も続けば認めざるを得ない。
(意地張るんじゃなかったわ……)
今までは、いつもより血の濃度の高い紅茶を飲んだり、月光を長く浴びたりする、ぐらいの対策しかとってはいなかった。
しかしこれからは、周りのメイドたちに薬の調合、ばかりか下手をすれば看病まで依頼しなければいけなくなるかもしれない。
「本末転倒……形なしね」
情けなさに胸が詰まり、自慢の翼もしおしおと萎んだ。
いっそこのまま霧にでもなって、どこかに消えてしまいたい気分だ。
(これで死んだら、ものすっごい恥ずかしいわよね)
そう思っていると、不意にノックが聞こえた。
強すぎず弱すぎず、理想の力加減で行われる、等間隔での二回のノック。
咲夜だ。
「入って」
黒塗りのドアが開き、現れたのはいつものメイド服だ。見慣れた姿に少し安心する一方、疑問符も浮かんだ。
(何の用、かしら)
呼び出した覚えはない。なるだけ入室を控えるようにも言ってある。
手には何も持っていないようなので、また薬を飲ませにきたわけでもないはずだったが。
「お体の調子はいかがですか?」
部屋の中ほど、レミリアの一メートル手前まで進んでから、従者はまずそう訊ねた。
「……あなたには、いいように見えるのかしら?」
「見えませんね」
目を潤ませ、マスクをし、耳まで赤くなった吸血鬼がどれほど滑稽に見えているかを想像し、レミリアはまた項垂れた。
が、
「お嬢様の体調を戻す手段が見つかりました」
まさしく天の助けだった。
ぼやけていた視界が、一瞬にして鮮明な像を結んだ。
「本当っ?」
「ええ。私とパチュリー様で、初日から探していました。どうも今回の体調不良は、今までとは違う様子でしたので」
レミリアは驚き、同時に感謝が心にあふれた。
そうだった。この従者は、そもそもそういう人材なのだ。
レミリアが口に出さなくても、どこかで主人のニーズを拾っている。主人の病気に手をこまねいているわけがない。
さらに、友人であるパチュリーも、治療方法を探してきてくれたという。
「……そうなの」
噛み締めるように呟いてから、
「さすがね。感謝するわ」
角の取れた笑顔で、労をねぎらった。
しかしどういうわけか、対する咲夜の微笑はどこか引きつっていた。
急にいやな予感がした。
「……どうしたの?」
応じるようなタイミングで、レミリアが座る安楽椅子から木の根が発生した。
根はまるで意思があるかのように伸び、しなり、半秒もかけずにレミリアの体を椅子に縛り付けてしまう。
強力な木属性の呪文だ。
「パチェっ?」
考える前に、その名が口をついた。
と、部屋の扉が音もなく開き、白装束の少女が滑るように入ってくる。
混乱も一瞬、その少女――パチュリーの小脇に抱えられたものを見て、頭が真っ白になった。
注射器だった。ただ、でかい。
丸太のような太さで、針は人差し指ほどもある。
治療用というよりは、もはや拷問器具としての存在感を部屋中に放散していた。
だが何よりもレミリアの目を奪ったのは――その注射器の針が、鈍い『銀』の色に輝いていることだ。
「これって……!」
パチュリーと咲夜が、同時に視線をそらす。
本能が悲鳴をあげた。
「『銀針』じゃないっ!」
「はい。普通の注射針ではお嬢様の肌を通りません」
咲夜の応答を、さらにパチュリーが引き継いだ。
「ちなみに、中に入っている液体は、ただの薬でもないわ。私の魔力を飽和ぎりぎりまで宿した、特製の魔法液よ」
「パチュリー様には、より多くの魔力を注げるよう、瞬間移動も飛行も抜きでわざわざ徒歩でここまでおいで頂きました。ただ今淹れたてほやほやとなっております」
「ちょ、ちょっと待って!」
取り乱すのを止められない。
銀。銀である。
吸血鬼にとって最も穢らわしい物質の一つだ。
それを通して、他人の魔力を、吸血鬼レミリアそのものである『血』に注入されるというのか。
(冗談じゃないわ……!)
当然、滅茶苦茶に痛いだろう。
だがそれ以上に、半端でない嫌悪感を感じる。治療であることは分かった。それを調べてくれたのもありがたい。
が、それでも他人の魔力で血流を乱されたくないのだ。
身体の成長がない吸血鬼にとって、血液とは自身の歴史を証明する唯一のものだからだ。
「必要な処置よ」
動転するレミリアとは対照的に、パチュリーは淡々と述べた。
「あなたのは紛れもなく病。500年に及ぶ吸血行動は、純粋に力となる血液以外にも、汚れた血をも取り込んでいる。
物凄く簡単に言うと、病因は、ちょっと体が弱ったすきにその汚れた血が暴れだしたから。治すためには……」
魔女の紫の瞳が、咲夜が持つ注射器を、正確にはその中の深草色の液体を見やった。
「血液を清めるしかない。三日間かけて、あなたの病状と照らして、調べあげた結果の判断よ。永遠亭にも確認をとったわ」
真摯な態度に打たれ、レミリアはできるだけ冷静に提案を吟味した。
血が濁っている。
そう意識してみれば、確かにそうだった。
今も自分に生命力を供給している血流に、かすかな異物が混じっているのを感じる。
背中の出来物には気付きにくいように、自分の体のことながら、レミリアは指摘されるまで全く気付けなかった。
しかしだからといって、簡単に納得できるものではない。
「でも、ふ、不自然なのはよくないわ。自然治癒に任せましょうよ」
「無理。あなたの中の悪い血は膨大な量になっている。あなた自身の抵抗力がそれを鎮圧しきるのには、あまりにも永い時間がかかる」
「……そ、そうだ、咲夜! あなたが時間を止めて、その間に注射すれば」
「申し訳ありません。時間を止めるとお嬢様の血液の流れも止まってしまい、魔法液がうまく血流に流れない可能性が」
彼らの態度はにべもない。
声が震えた。
「いきなりそんな……!」
「でも、レミィ。あなた自身もこのままじゃまずいって、分かってるんじゃないの?」
言葉に詰まった。
その通りだったからだ。
目が泳ぐ。
パチュリーと目が合った。咲夜とも。
二人は真剣だ。
であるならば、どういう行動を取るべきかは、やはり決まっていた。
腐っても上に立つ者。
胸を締め付ける恐怖を、丹田に力をこめて抑え込む。
思慮深かった彼女らの好意を、裏切るべきではないということだけは、今の彼女にも分かった。
「……いいわ」
そう言って目を閉じ、椅子の背もたれに身を預ける。
「お願い」
しかし口ではそう言っても、怖いものは怖い。
脚がわずかに震えてしまう。心臓の音もいやに大きく聞こえて、それがまた恐怖を駆り立てた。
「ご安心ください」
耳元で、咲夜の声がした。
と同時に、両の手を温かいものが包み込む。
「従者の名にかけて、痛みも時間も最小限に留めます」
真っ暗だった心に、光が射した。
そのあまりの安心感に、レミリアは自然と閉じた目を開き――そのまま硬直した。
さぁっ、と血圧が急降下していく。
「……ねぇ」
すっかり漂白された表情の中、ただ目線だけが動き、頬のすぐ傍に迫った注射針を凝視した。
「何でしょうか」
「聞いて、なかったわ」
「はい?」
「どこに、注射するの?」
咲夜がぎくりとした。
代わりにパチュリーが応える。
「……頭よ。こめかみに一発」
数分後、部屋のドアから大量のコウモリが飛び出した。
*
「パチュリー様から念話が」
「お嬢様がお逃げになられました」
「では手筈どおりに」
ガチャガチャ音を立てて、待機室から出撃していくメイド達に、
「もはや猛獣狩りの雰囲気ですよねこれ」
パチュリーの使い魔――小悪魔がにやりとした。
*
(冗談じゃないわっ)
コウモリの群れと化したレミリアは、廊下を猛スピードで飛行した。
脳には先ほどの映像が焼き付いている。
病気は嫌だ。だがあんな殺人級の拷問があるとなれば話は別だ。
二人には悪いが、ここは自分で病を解決しよう。
(今日は満月。もういっそ外へでも出て、もう一度月明かりを浴びれば……!)
思った時、ようやく窓のある廊下へたどり着いた。
安堵したのもつかの間、すぐにコウモリの聴覚が不穏な音を拾う。
(水音?)
違う、雨の音だ。
外で雨が降っている。
吸血鬼は雨も苦手だ。これでは外に出られない。
(間の悪い!)
思考に蹴りが入った。
大急ぎで次の目的地を検索する。
ひとまず身を隠せて、いざという時の逃走ルートも確保できなければいけない。外と繋がっていればなおいい。
――見つからない!
だいたいのイメージは掴めているのに、明確な場所が浮かんでこなかった。
頭の芯がぼうっとして、思考がすぐに拡散してしまうのだ。
(……私の体って、こんなに不便だったかしら)
そう嘆いた時だった。
「失礼します!」
そんな声とともに、背後からメイドが飛びかかってきた。
慌ててコウモリを散開させ、間一髪やり過ごす。
ほっと安堵した瞬間、今度は前から新手が来た。
「失礼しますっ」
反応しきれず何匹か捕まった。
手が早い。待ち伏せされていたらしい。
態勢を立て直そうと、レミリアの『群れ』は天井付近にまで飛びあがる。
そこに伏兵がいた。
「お嬢様~」
ぞくりとした。
恐る恐る上を見る。
「捕まえましたよ~」
小悪魔だった。
にへら、とした口もと、火照った頬。その上で、半開きの目がこちらをじっと見つめている。
「うふふ」
本日二度目の怖気。
か弱いコウモリと化したレミリアを捕まえるのに、何か妙な連想をしているとしか思えない表情だ。
(そういえば、小悪魔ってそういう種族なのよね……)
思い出し、喉がごくりと鳴る。
小悪魔が唇を舐めた。病気以外の部分で、ひどく生々しい身の危険を感じる。
(逃げなきゃ)
渾身の力をこめて羽ばたいた。
逃げちゃだめですよう、と小悪魔が素早く手を伸ばす。
忽ち数匹が捕まった。普段の動きができないレミリアの『群れ』など、小悪魔にとってはまさしく濡れ手に粟の状況だろう。
(やばい)
「お嬢様!」
廊下の遥か先から、張りのある声が響いてきた。
一発で誰か分かった。
「失礼します! でもこれもお嬢様のためっ」
遠目にも分かる、華人風の長身――門番『紅美鈴』だった。
七色の弾幕を引き連れて、矢のように突っ込んでくる。
今のレミリアに、その弾幕を避ける余力はない。
「逃がしませんよ~」
すぐ後ろで小悪魔の声がする。退路もない。
残された力を振り絞った。
(な、舐めるんじゃ……っ)
コウモリの『群れ』が小さくなった。
コウモリとして散在していた『レミリア』、その一部を取り崩して、攻撃のための力に転化させたのだ。
(ないっ!)
スペルカードを発動させる。
意識の内で、吸血鬼としての力が起き上がるのが分かった。
その魔力の顕現。それこそが吸血鬼にとっての弾幕だ。
メイドや小悪魔が慌てて離れる。
今までのこともあって、胸がすくような心地だ。
と、次の瞬間、空間におびただしい数の弾が出現――
(あれ?)
しなかった。
中型の弾が一つと、大型の弾が幾つか。弾幕と呼ぶのもおこがましい、隙間だらけの弾の群れだ。
ケフン、と咳が出る。
メイドや美鈴がきょとんとし、背後で小悪魔が邪悪そのものの笑みを浮かべた。
「チャンスです!」
小悪魔の声と共に、全員がレミリアに殺到した。
*
「やってますね」
「そのようね」
主がいなくなった部屋。
弾幕戦の音が聞こえくると、咲夜とパチュリーは溜息を吐いた。
「大人しく注射させてくれればいいのに」
「ですね」
「逃げても、いつかは打たなければいけないのにね」
そこまで語って、また二人は嘆息した。
力は強大なくせに、所々が子供っぽいのは吸血鬼の難である。付き合う側としては、溜息も吐きたくなるというものだ。
「……やはり、銀で血液を乱されるのは嫌なのでしょうか」
「それはそうでしょうね。吸血鬼はそういうところに拘るから」
パチュリーがそう言った時、大きな揺れが来た。
誰かの悲鳴も。
「お嬢様のですね」
「心配して駆け付けないようにね」
「まさか」
即答する咲夜だが、度々入口の方へ目をやっていた。
一方パチュリーはぞんざいだ。
「まぁメイドや門番にやられれば、自分がいかに弱ってるかっていう危機感も沸くでしょ。そうでもしないと、どうせ注射も受けてくれないだろうし……」
そこでまた爆音がし、パチュリーも口をつぐんだ。
気まずい沈黙の中、咲夜がまたドアに目をやる。
「……大丈夫でしょうか。突然倒れられたりしては……」
「そこは心配無用。事態が最悪の方向へ転び続けたとしても、死に至ることはない。そもそもがアレルギーと疲労の合併症だしね」
「アレルギー?」
「そうよ。花粉症とかと同じ。事態の原因は確かに『悪い血』が暴れているからだけど、彼女が体調を崩しているのは、暴れ出した悪い血に対する免疫過敏が主な理由。
汚れた血と澄んだ血の抗争に、弱った体が耐えきれないのよ」
咲夜は首をかしげた。
パチュリーも頭を振った。
「……そうね。ちょっと分かりにくいわね」
「お嬢様はそのことを?」
「知らないと思うわよ。吸血鬼は血に敏感だけど、血球レベルで行われてるやりとりまでは、さすがに感知できない。それこそ、よほど顕在化しないとね」
咲夜の顔に露骨な困惑が浮かんだ。血球、という単語がさらに混乱を深めたのかもしれない。
つまり、とパチュリーは無理やりまとめに入った
「病そのものは軽度のアレルギーよ。無理がたたってこじらせているけど、これ以上悪くなることはないはず。楽観はできないけどね」
「……そうなのですか」
「そうなの、まったく……」
いつの間にか騒音は止んでいた。
静まり返った部屋の中に、ただ雨が屋根を叩く音だけが聞こえる。
その沈黙を破ったのはパチュリーだった。
「雨でよかった。レミィは外へ出られない。幸運も味方しているわ」
「せっかくの満月ですけどね。いつもならさぞ残念がられるでしょう」
吸血鬼は月光から力を得ることができる。満月ともなれば、その恩恵はその他の月と比べ物にならない。
そうでなくても、秋の満月を見損ねるというのは、月を愛する者として純粋に寂しいはずだった。
「その分、明日は完治を喜べるといいですね。みんなで」
咲夜の呟きに、パチュリーが珍しく素直に頷いた。
*
メイドと門番の連合軍に、レミリアはぼろぼろに負けた。
他のコウモリ達を捨石にし、なんとか煙突の中にまで逃げ延びてきたが、それだけで僥倖といえるだろう。
後半はまっすぐ飛ぶことさえままならない状態だったのだから。
(こんなに、ひどかったのね)
煤くさい闇の中、レミリアは嘆息した。
コウモリでなく人間の姿であったなら、きっとがっくり項垂れていたはずだ。
(……失敗だったかもな)
少なくとも、逃げてしまったのは不用意だった。この騒ぎでは戻るのにも勇気がいるし、何より非常に――格好悪い。おまけに暴れたせいで、せっかく治まっていた咳がぶり返していた。
やはりあの二人が正しかったようだ。
思えば、治療に自信がなければ、あんな風に持ちかけては来ないだろう。
しかし、あの注射を思い出すと、身震いせずにはいられなかった。
銀による痛みは勿論だが、血液に他人の魔力を注入されるのも、どうしても嫌だ。
吸血鬼の精神は強靭だ。
だが長く生きるものの宿命、迷うこともあるし、傷つくこともある。
そんな時内側から支えてくれるのが、血だ。
血には今までどんな血を吸い、どんな生活を送ってきたかが反映されている。そこに蓄えられた歴史は、いつだって揺らいだ自分の足がかりになってくれる。
それが病気の原因だというだけで、レミリアにとっては秘かなショックだったのだ。
まして、そこに異物を混ぜられるなど――。
(考えられない……!)
下からは絶えず足音がする。
煙突の出口――暖炉の辺りで、メイドたちが自分を探しているのだ。
決断はまだ出せないそうもない。だが焦燥といたたまれなさで、胸がひどくざわついた。
らしくない。
だがどうすることもできず、感情のうねりに身を任せるしかなかった。
(……あれ)
何分、そうしていただろうか。
いつの間にか雨音が遠のいていることに気づき、レミリアは思考を今に戻した。
もう一度注意して聞いてみるが、やはり雨音は小さくなっている。
ということは雨が小降りになったということであり、雨雲に隙間ができている可能性も出てくる。
上手くすれば、その隙間から月が拝めるだろう。
状況の打開に繋がるかもしれない。
(試してみましょう)
昨日もそうやってベランダに出ていた。その時は、逆に体を冷やして病状を悪化させてしまったのだが。
レミリアは煤まみれの壁を離れ、煙突の上へと羽ばたいた。
普段あまり意識しないが、紅魔館の煙突には屋根がついており、雨水が入らないようになっている。
レミリアは、その屋根と煙突の縁の間から、そっと空を覗いた。
雨は、まだ僅かに降っていた。
しかし遠くには、すでに雲の切れ目が生まれている。
レミリアの期待通り、満月はその隙間に浮かんでいた。
(……あれ?)
喜んだのもつかの間、すぐに違和感を覚えた。
おかしい。見慣れた満月なのに、ひどく不安を煽られる。
体が休まるどころか、腹のあたりがムカムカする。
こんなのは違う。
今日の満月は――どこか毒々しい。
直後、痛烈な吐き気が臓腑を貫いた。
*
耳に凄まじい痛みが走ったかと思うと、部屋中のガラスがひび割れた。
妖怪の耳でしか聞き取れなかったであろう、高音域の叫び声――超音波だ。
レミリアが出したものに違いない。彼女は今コウモリになっているはずだからだ。しかし、これではまるで――。
「どういうこと」
言いながら咲夜を見やると、彼女は片耳を抑え姿勢を崩していた。
当然だ。妖怪だから痛みを感じるだけで済んだが、人間にとっては気絶する寸前の強烈な超音波だったのだ。
「今のは、お嬢様ですか?」
しかし、そこは紅魔館のメイド長だった。
ちゃんと状況は把握しているし、意識もしっかりしている。声もなんとか聞こえているらしい。
「そのようね。でもこんな強力な超音波を出すのは普通じゃ考えられない」
「悲鳴」
「そう考えるのが妥当ね。向こうで何かあったとしか……」
そこで、部屋のドアが開いた。
現れたのは、この間来たばかりの新米のメイドだ。
ひどく動揺している。
「あの、その」
「お嬢様はっ?」
相手の言葉を待たず、咲夜が尋ねた。
メイド長の鬼気迫る、だが極めて冷静な態度に、当惑に泳いでいたメイドの表情がみるみる引き締まった。
「み、見失いました」
「それはいいわ。想定の範囲内よ。最後に見たときのご様子は?」
「かなり悪いようでした。まっすぐ飛ぶこともできないようで……」
二人の会話が軌道に乗ったのを見計らい、パチュリーは自らの思考に潜った。
何故突然具合が悪化したのか。だとしたら今どこにいるのか。
今までレミリアの病状が悪化した時の様子と、今の様子を照らし合わせてみる。
病気が大きく悪化したのは、今まで二回。一回目はティータイムの後だ。いつもより血液の濃い紅茶を飲んだが、実らずにそのまま悪化した。
二回目は月光を浴びにテラスへ出た時だ。これが決定打となり寝込んでしまった。
考えてみれば、いずれも吸血鬼の力を高めるための行為であるはずなのだが――。
「あ」
まさしく、あ、という声だった。
パチュリーの頭の中で、仮説が猛スピードで組み上がっていく。
「あなた」
「は、はい」
新米メイドが慌ててパチュリーに向き直った。
「外はどうだった? 月は出てた?」
「月、ですか? 雨は止みかかっていたようですから……顔を出しても不思議ではない、と思います」
仮説が裏付けられた。
まさしく盲点だった。
「原因が分かったのですね」
素早く訊く咲夜に、パチュリーは頷く。
それからさらに詳しく説明しようと、咲夜の方へ目をやり――言葉を失った。
新米メイドも一瞬遅れてそれに気づき、顔を真っ青にした。
「メ、メイド長、いったい何を……!」
パチュリーにしてみれば、何をするのかは明白だった。その目的も。
だが、
「本当にいいの?」
パチュリーの質問に、咲夜は頷いた。
「当然、痛いわ。それを乗り越えたとしても、レミィが見つかるかは分からない。下手すれば吸血鬼化の危険もある」
従者は迷わず頷いた。
「……効果は、まぁそこそこあるでしょうけどね。もともとそのための薬だし」
その言葉に、咲夜の口元が力強い笑みを結んだ。
パチュリーは嘆息し、新米メイドに指示を出す。
「……今すぐ厨房へ行きなさい」
「え?」
「メニューはレバーとか串カツとか。ニラでもいい」
全てを察したのか、新米メイドは一礼して部屋を飛び出していった。
それから半秒も待たずに、咲夜は自分の二の腕を、注射針に浅く突き刺した。
レミリアに刺すはずだった、巨大な注射器。
その中の深草色の液体が、咲夜の血管内に流し込まれていく。
「レミィに出会ったら一発引っぱたいてもいいかもね。今日のあなたには、その資格があると思う」
半分本気のパチュリーに、咲夜は真っ青な顔で笑み、直後に忽然と消え去った。
残された注射器が倒れ、ごろごろ転がり、パチュリーの足にぶつかって止まる。
お前も何かやれと言われた気がした。
嘆息し、魔女は魔法書を取り出す。
*
頭がぐらぐらする。吐き気も酷い。まるで血が泥や油に変わってしまったかのようだ。
随分と苦労して、瞼を開ける。
外の景色がうっすらと見えたことで、なんとかここが煙突の縁であるということは分かった。
――かなりまずい。
レミリアはそう思った。
体が動かない。コウモリから元の姿に返ることもできない。
全身がかつてない不調を訴えている。
この血流の叫びさえ途絶えたら、いよいよ末期だろうと思った。
(……なによ、これ)
確かに自分も悪かった。だがこんな仕打ちはあんまりだ。
憤りを覚える。それと同じくらいの後悔も。
そしてそれらの裏側から、じわりじわりと恐怖が染みだしてきた。
滅ぶのは怖い。一人で消えるのはもっと怖い。
コウモリでよかったと思った。いつもの姿であったなら、きっと涙が滲んでいた。そんなのはやっぱり許せない。
(こんな時でも……めんどくさいわね、私って)
嗤った時、ふと風を感じた。
そくりとした。
雲の動く気配。死に物狂いで目を開けると、雲に新たな切れ目が生まれつつあり――見る間に、そこから月が顔を出した。
月光が体に降り注ぐ。
レミリアは身をこわばらせ、来るべき地獄に備えた。
一秒、二秒。
目の前が歪んだ。
全身の血が、沸騰したように熱くなる。頭が内側から殴打されているようだ。胃袋が別の生き物のように蠢動しているのが分かる。だが吐くべきものは、数秒でなくなってしまった。
(なに、これ)
さっきよりも何倍もひどい症状だ。
苦痛に散り散りになった思考が、何故、という所に飛んでいく。
雨だ。
煙突の淵に出て雨に打たれたから、さらに力を吸い取られたのだ。
(まずい)
その時、確かに死をすぐ隣に感じた。
だが決定的な瞬間は訪れなかった。
頭痛は続き、血脈も乱れたままだが、なんとか一線を保っている。
前に気配。何かが――いや誰かが、月の光を遮ってくれたのだ。
「お嬢様」
放心状態のレミリアを、温かいものが包み込んだ。
心中に渦巻いていたほの暗い感情が、残らず安堵へ流れ込んでいく。
「どうぞ」
そして、目の前に何かが差し出された。
*
『いい、咲夜。病気の原因はアレルギーで、汚れた血と澄んだ血の抗争が体を傷つけているから、っていうのは話した通りよ』
咲夜は、パチュリーの説明を思い出した。
『はっきり言って盲点だったわ。レミィは早く回復しようと月光を浴びたり、血を多めに摂取していたけど、それによってもたらされる効果は、厳密にいえば身体機能の回復ではない。
血の活性化なのよ。
吸血鬼の本性は血に宿っている。血が活性化するから、身体も元気になるという理屈なの』
目の前で、コウモリが弱々しく身震いしている。
その姿と、パチュリーの言葉が重なる。
『でも血が活性化するということは、早い話が汚れた血と澄んだ血の抗争も、激化するということ。難しい言い方をすれば、抵抗力の増大が、かえって強力なアレルギー反応を引き起こしていることになる。
本当に問題だったのは、月の光を浴びることや、血を多めに摂ったりすることだったのよ。
満月なんてもっての外』
目の前の吸血鬼は、それに気付けなかった。
自分達もだ。
申し訳なさと、それでも間に合ったという安堵が胸中で一緒くたになっている。
「用意はできております」
こうなっては、もはや治療を急がなければならない。
応急処置も必要だろう。
記憶の中で、パチュリーが嘆息した。
『……その魔法液には、汚れた血と澄んだ血の抗争そのものを抑制する効果もある。もちろん汚れた血そのものの駆除も。
血に溶かして飲ませても、まぁマシにはなると保証するわ』
咲夜は剥き出しの手首を、レミリアの前に近づけた。
「どうぞ」
吸血鬼の瞳に、逡巡がよぎる。
咲夜はそれを感じ取り、そっと腰をかがめ、視線をレミリアと合わせた。
例え相手の姿が変わっていても、長い付き合いだ。
目線を重ねるだけで気持は伝わっていく。
コウモリが、ゆっくりと口を開けた。そして力を振り絞って、従者の手首に牙を立てる。
稚拙な痛みと、必要以上にこぼれる血液に、相変わらず下手だなぁ、とこんな時でも咲夜は愛おしさを覚えた。
*
牙を通して、従者の血が体内に流れ込んでくる。
まだ若い、乙女の血だ。
なにより、血の端々にまでレミリアを真摯に想う気持ちが込められている。
飲み込んだ瞬間、まるで元から自分の血液であったかのように、血流の中に馴染んでいくのがわかった。
しかし効能はそれだけではなかった。
取り込まれた咲夜の血、その中に温かい魔力の奔流を感じる。
パチュリーのものだ。
それが、熱湯のようであった血液をなだめ、元の穏やかな姿に戻していく。まるで、駄々をこねる子供を寝かしつけていくように。
(あったかい……)
いつしか、頭痛も消えていた。
全身が弛緩していく。痛めつけられた体に、この感覚は心地よすぎた。
瞼が落ちかける。
それを、誰かのうめき声が留めた。
レミリアは最初自分のものかと思った。
だがそれは前から聞こえた。猛烈に悪い予感と共に、恐る恐るコウモリの頭を上げる。
咲夜の真っ青な顔がそこにあった。
(貧血)
考えてみれば、無理からぬことだった。
咲夜は人間だ。それが、魔女の強力な魔力を宿したまま、ここまで飛んできたのだ。
その上さらにレミリアに血を与えれば、それが例え微量であっても、あっという間に精力を奪われてしまう。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
真っ青な顔で笑う咲夜には、レミリアをして戦慄せしめる何かがあった。
「ちょっと、休めば……」
そこで、カクンと頭が落ちる。
ここは煙突の頂上、地上四階分の高さ――その情報がレミリアの中でスパークした。
眠りに向かっていた体をたたき起こす。
と同時に、今しがた飲んだ咲夜の血から、潤沢な力を吸い上げた。
コウモリの輪郭がぐにゃりと歪み、弾け、一瞬で腕を、翼を、頭を模った。
目の位置に真っ赤な灯が灯る。僅かに開いた口から、体に不釣り合いな長大な牙が覗いた。
「あなたが」
闇の中で、幼い吸血鬼は翼をいっぱいに広げた。
「落ちて、どうするのよっ」
煙突の淵を蹴り、空に躍り出る。
自由落下を羽ばたきで加速させ、落下する咲夜に追いついた。
人間の体だ。もちろん重い。
それを吸血鬼の膂力にものを言わせて、強引に抱きかかえる。
その時には、地面がもうすぐそこまで迫っていた。
羽ばたく。
地面と翼の間に空気を圧縮する。
そこから莫大な揚力が生まれ、二人の体はふわりと宙へ舞い上がった。
(体は悪くない)
抱きやすいよう咲夜の位置を調節しつつ、レミリアは思った。
が、すぐに身震いした。
復活したと思ったのに、また寒気が襲ってきたのだ。
(どういうこと?)
そこでようやく、レミリアはまだ雨が降っていることを思い出した。
雨にぬれて、再び体が弱りだしているのかもしれない。
と同時に、さらに致命的なことにも気付いた。
また雲が動き出している。
これではいつ月が顔を出すか分からない。雲の切れ目付近にあの金の輝きが見えるので、時間はそうないだろう。
そして、その金の輝きが未だに毒々しく見えるということは――やはり、まだ月光も危険なのだろう。
こと緊急時においては、吸血鬼の知覚は信用できる。
(ここまで来て)
口元を引き結ぶと、咲夜がぴくりと動いた。
相変わらず察しがいい。
「動くわよ」
「ご迷惑おかけします」
「……平気よ」
早めに戻りましょう、と続けると、従者はしっかりと頷いた。
レミリアは翼を閉じる。
自由落下がまた始まる。
頭が下になり、また地面ががぐんぐん近づいてくる。
が、今度は適当なところで軌道修正、翼を戻し、高速での滑空に入った。
吸血鬼の視力は夜にこそ発揮される。
小康状態の今でさえ、雨粒の一滴一滴がよく見えた。
体をひねったり、高低差を調節したりして雨の隙間をかいくぐるのもわけないことだ。
「こういうのは初めてね」
「頻繁にあったら卒倒してしまいます」
一人言にも、咲夜は律儀に応えてくれた。
「元気じゃない」
「フラフラですよ」
そこで咲夜が、あら、と声を出した。
何気なくその視線の先を見やると、ひび割れた窓から館の内部が見て取れた。
廊下を走っているメイド達の姿も。一瞬美鈴の姿も見えた気がした。
「みんな、まだ探してくれてるのね」
言った瞬間、中の廊下に妙な物体が浮かんでいるのに気づいた。
少ししか見えなかったが、あれは空中に浮かぶ、色とりどりの――魔道書だ。
主に索敵に使われる類のものだった。
こんなものが使えるのは館に一人しかいない。
「パチェまでっ?」
図らずも胸が熱くなった。
図書館から歩いてきた、という以上、彼女の魔力が残りわずかだというのは本当のはずだ。パチュリーは運動を嫌う。
だというのに、浮遊する魔道書の数はかなりのものだ。
残りの力を限界まで振り絞らなければ、これほどのことはできない。
嬉しさの中に、苦いものが混じった。
「……大分、心配かけてたようね。みんなに悪いことをしたわ」
ぽつり、と声が漏れる。
咲夜が少し眉をあげたが、レミリアは目をそらして気付かないふりをした。
らしくない言葉だ、というのは自覚している。
しかし今は病人なのだ。
まだ調子が悪いのだ。だからそんな気分になっても仕方がないのだ。
「……お肉」
「はい?」
「明日は、高いのを使っていいわ。小麦粉も。いつもなら満月の祝いの時期だしね」
紅魔館にも催事はある。倉庫の奥の方には、そのための酒だったり材料だったりが貯蔵されている。
それを崩していいということだった。
「……あとね」
「はい」
「そのね……」
「はい?」
レミリアは逡巡した。
だが意を決して、
「私、あの注射……」
「お嬢様、月がっ」
慌てて振り返った。
雲が動き、まさに月が顔を出そうとしていた。
悠長に雨を避けている場合ではない。本当は玄関から入りたかったが、
「突っ込むわよ」
大きく羽ばたき、雨に当たるのも無視して突っ込んだ。
唯一窓の鍵の開いていた、レミリア本人の部屋に向かって。
「! レミ……」
中で魔道書の制御を行っていたパチュリーに、二人は盛大に突っ込んだ。
間の悪いことに、パチュリーの足元には例の注射器が転がっていた。
不意の衝撃に転倒するパチュリー、その足が注射器の腹を絶妙なタイミングで蹴りあげる。
巨大な注射器が、回転しながら宙を舞った。
「あ」
「あ」
「あ」
三人の声が重なる中、注射器が降ってくる。
今まさに飛び込んできた、レミリアに向かって。
幸か不幸か――針は下を向いていた。
*
咲夜は咄嗟の判断で、その一瞬を限界まで引き延ばした。
不調を訴える体を無視して、体勢を立て直し、主人の方向を確認する。
ぞっとした。
今まさに、巨大な注射器がレミリアの頭に刺さる瞬間だったのだ。
もはや禍々しささえ漂う巨大な銀針が、レミリアの頭の数センチ上で停止している。
時間をちょっとでも動かせば、主の悲鳴が聞けるだろう。
咲夜は急いで注射器をどかそうとしたが――その際、レミリアの表情を見て気がついた。
主人の表情は、恐れに歪んではいなかった。
むしろ、それを必死に抑え込んでいる感じで、その目はまっすぐ正面を――ついさっきまで咲夜がいたところを見つめている。
何をすべきで、何をするべきでないか。
主はすでにどのような決断をしていたか。
それはすぐに分かった。
「失礼します」
咲夜は、レミリアの傍らに立った。
そして注射器を握り、主人の頭に狙いを定める。
そこで、時間を元に戻した。
「よろしいのですね」
確認を取ると、迷いは一瞬、レミリアは確かに頷いた。
咲夜も覚悟を決め、主人のこめかみに浅く針を突き刺す。
叫びは聞こえなかった。
*
気づくとレミリアは、館の廊下を歩いていた。
目的も特にないまま、ただ足の進むままに、ぶらぶらと。
「お嬢様」
声に振り向くと、そこにはいつの間にか咲夜がいる。手に、巨大な注射器を抱えて。
思わず後ずさった。
何か恐ろしいことが起こるような気がした。
しかし数歩下がったところで、背中が誰かに当たってしまう。
「お嬢様」
退路を塞ぐのは、美鈴だった。その後ろには小悪魔も、メイドたちもいる。
全員が当たり前のように注射器を持ち、一部の隙もない友好的な笑みを浮かべていた。
信じがたいことに、吸血鬼である自分の腰が抜けた。
陸に上がった魚のように口をパクパクさせるレミリアに、彼女たちが歩み寄ってくる。
「レミィ」
そんな時に、親友の声がしたのだ。
レミリアはぱっと顔を輝かせて、辺りを見回す。
だが、どこにもパチュリーの姿はない。
「レミィ、ここよ」
声は前から聞こえた。
正確には、いつの間にか真正面に迫っている注射器、そのシリンダーが湛える液体の中からだ。
急激に寒気が増した。
「パチェ……?」
間。
「ここよ……」
液体がうねり、中からミニサイズのパチュリーが顔を出した。
もろに目が合った。
シュールさよりも恐怖が先に立つ。
心臓がぎゅーっと縮あがった。
「お嬢様」
咲夜の声がする。
「レミィ」
パチュリーの声が聞こえる。
頭が恐怖で真っ白になっていく。
「起きて下さい!」
再び咲夜の声が――
(『起きて』?)
思った時、意識が急速に浮上した。
跳ね起きる。
地面に手をつくと、柔らかい。ここはベッドの上だ。
ただ体が熱く、呼吸も早かった。額に手をやると、汗でぐっしょりと濡れていた。
それでもなんとか気を落ち着かせてから、ぎこちなく首を回せば、ベッドの脇には咲夜とパチュリーが立っている。
息と一緒に、力が抜けた。
「夢……」
パチュリーが肩をすくめる。
その辺りで、ようやく状況が分かってきた。
確か部屋に飛び込んだ際、パチュリーの蹴りあげた注射器が頭に刺さりかけた。
その時咲夜にこのまま注射を続けるよう言ったのまでは覚えている。
恐らく、その辺りで気絶してしまい、ベッドまで運ばれたのだ。
「大分うなされていたようですが、ご気分はいかがですか?」
咲夜の言葉に、頭の芯が痛んだ。
「頭は、痛いわね」
「針が刺さったせいでしょう。それ以外は」
「平気よ」
パチュリーと咲夜が、顔を見合せて頷いた。
「それならば、ひとまずは安心らしいです」
「吐き気とかがあるようなら、ばっちり副作用よ。でも心配はないようね」
言われて、レミリアはもう一度自らの体をチェックした。
確かに、もう吐き気も気だるさもない。頭も常のように冴えている。
健康は戻ってきたようだ。
(でも……)
レミリアは血流に語りかけた。
濁っているわけではない。
ただ、事前の読み通り、今までとは何かが確実に変わっている。
今まで一切の干渉がなかった血液だ。そこに他人の魔力を直接注入されれば――それが僅かな量であれ――血の純潔が破られたことには違いない。
溜息が洩れた。
(高くついたわね)
詮ないことだと分かってはいるが、やはり喪失感も大きかった。
嫌な時に風邪をひいたものだ。
五〇〇年の間、ずっとその血の中では独りだったのに。
レミリアはそっと目を閉じ、しばし陰鬱な感情に身を任せようとした。
だが、どうしてもできなかった。
この変化に落胆しきれない自分がいる。
朦朧とした意識で感じた、従者の慕情に、友人の気遣い。
あの出来事が今やレミリアの歴史として、血に記録されている。例えこの先何があとうとも、そこまでやってくれた友人たちが自分の周りにいたという事実を、忘れることはないだろう。
それは、悪くないと思う。
知らず、口の端が笑んでしまうほどに。
久しく忘れていたが、『変化』とはこういうものなのだろうか。
「どうかしましたか?」
考え込むレミリアに、咲夜が怪訝な顔をした。
「なんでもない」
咲夜をそうはぐらかしたところで、突然部屋のドアが開いた。
入ってきたのは、長身で、華人風の――
「美鈴じゃない」
レミリアが言うと、門番は急きこんで告げた。
「はいっ、あの大変なんです! 実はさっき変な音がすると思って、見に行ったら、地下室で……」
そこで、グシュン、という音が部屋に響いた。
重低音のくしゃみみたいな音だった。
廊下に響く音が、開け放たれたドアから部屋に流れてきたのだ。
「この音」
パチュリーが眉をひそめ、咲夜も硬直した。
一泊遅れて、レミリアにも理解がやってくる。
くしゃみのような音。
誰かがまた風邪をひいている?
誰が。
こんな音を出すくらいだ、よほど肺活量のある者だ。それでいて、自身の力のコントロールがうまくできずに、必要以上に大きなくしゃみや咳をしてしまう程度の精神年齢だろう。
(まさか)
血圧が急降下した。
この館には吸血鬼がもう一人いる。
そう言えば、彼女も最近不養生だったが――
「音の源は、『地下室』だそうよ」
パチュリーが、美鈴からの情報を復唱した。
これから彼女の元に行き、治療が必要であることを説き、あの地獄のような注射をさせなければならない。
その苦行を思い、部屋に絶望的な空気が流れる。
「来年からは予防注射ですね」
咲夜の言葉に、一同は大きく頷いた。
――グシュン。
キャラがそれぞれの個性を出していていい感じでしたよ。
しかし、咲夜は本当、よい従者だなぁ・・・。
俺も逃げるかも。
自分も一度抗体検査に行かんとマズイかもなぁ。
昔から注射は嫌いだったんですが、アレルギー治療のために6年間毎週打ってたら慣れてしまいました。
もっとも、治療は途中までしか効果が上がらず、今はやってませんがw
しかしこめかみに注射なんてゾッとするな。
今度はお嬢様が妹様に注射するためまた一騒ぎすると妄想が広がってしまう。
ちょっと気になったのは、なぜパチュリーは最初からそんな何回分もの量をつくっていたか(この後分フランに一回で済んで、それで切れたとしても最低三回分。確実にレミィに注入するためにしても・・・
更にレミリアにとっての銀は人にとっての焼けた鉄(多分)、そりゃ夜の王も逃げるさw
いい紅魔館でした。
想像したら漏らした