永遠と続く白い空間。
そこにあるのは大きな時計。一人のピエロと独りの私。
引き攣るみたいに口角上げて、くるくるくるりとダンスを踊る。
ダンスの相手は時計の針で、くるくるくるりと回りだす。
するとそこには眠る奇術師、パチリと目を開け身体を起こす。
目の前の彼女に、私が笑う。
そこはまるで夢世界だと…。
目が覚める。
夢の世界とは別れを告げて、最悪な朝が訪れた。
正直、腹いせにもう一度寝てやりたい。
でも、それをすると彼女は怒っただろう。
のっそりとした動きでベッドを這い出し、サイドテーブルの呼び鈴を鳴らす。
そして。
「……」
数秒の間を空けて。
「……ふぅ」
私――レミリア・スカーレットは着替え始めた。
あの夢は何度目か。
決まって彼女の顔を見ようとしたとき、頭をハンマーで叩かれたような衝撃を感じて目が覚める。
――ねぇ、あなたはあの時笑っていたの?それとも……――
それは意味の無い問いかけ。
答えが現れることのない、一方通行の想い。
その愚問に縋る私は酷く、滑稽だった。
■■■
咲夜が死んだら、屍肉を一片残らず食べてあげるわ。
あら、その頃の私は皺だらけで美味しくないですよ?
そんな冗談を言っていたのは、いつだっただろうか。
目の前に在る彼女の身体は、一片の肉どころか、一滴の血も流していなかった。
温もりを失った手を、ゆっくりと握り締める。
するりと指を絡めると、頭の中に記憶が溢れた。
初めて出会った彼女は、とても小さかった。
私の背を越えた時のしたり顔と言ったらなかった。
初めて喧嘩をした理由は、凄いくだらない事だったっけ。
仲直りの印は彼女からの甘い甘いショートケーキだった。
異変を起こしたあの夜以来、彼女は丸くなった気がした。
笑顔が増えて、感情を顔に出すことが多くなった。
黒白鼠を餌付けしていたのは、屋敷で働くものとしてどうかと思うけれど。
フランが感情に任せて暴走したとき、彼女は優しくフランを包み込んだ。
歩間違えれば眷属にされていたのに何故そうも優しくできるのかと聞いたら、家族ですから、と笑って答えた彼女の顔は一生忘れることはないだろう。
幾十年の時を、彼女と共に過ごした。
けど、もう隣を歩く貴方はいない。私の左手は空を切るだけだ。
想いが溢れかえって目から零れる。
落ちた雫が、冷たい彼女の手に仄かな温もりを灯す。
その温かみに縋る様に、私は彼女の手に頬を這わせた。
別れの先にある喪失は、分かっていたはずだ。
でも、私は咲夜を傍に居させた。
何故?どうして?
それが分かっていたら、私の心はどれだけ楽になるだろうか。
目前の現実から必死に目を背けていた私は、まるで……。
「私も、人間臭くなったわね……。貴方のせいよ、咲夜……」
零れた言葉が、彼女の鼓膜を揺らすことはもう、ない。
窓から差し込む月光は、私の頬の雫を照らすばかり……。
■■■
とても静かに、あまりにも呆気なく、咲夜は事切れた。
それは、私が必死に運命から目を背けていた頃。
もし運命を見れば、変えられない彼女の死が待ち受けているから。
それが嫌で、私は能力を全く使わなくなっていた。
今考えるなら、酷く愚か。
けど、その頃の私は分かっていなかった。
別れの後に心の枷となるのは、喪失ではなくて……。
いつもどおりの朝、私はサイドテーブルの呼び鈴を鳴らした。
私が起きたという合図。これを鳴らした直後、ノックの音が部屋に響く。はずだった。
「……?」
遅い。何時まで経っても部屋に音が響くことはなかった。
「何かあったのかしらね……」
昔、同じことが一度あった。
私が違和感を感じ咲夜の部屋に行ってみれば、なんとそこには寝巻き姿の咲夜が倒れているではないか。
竹林の医師の診断によると、極度の過労から来る高熱、らしかった。
咲夜がタンスの前で倒れていたのは、熱にうなされながらも働こうとする彼女の意思の表れだった。
こんな熱があるなら休めばいいのに、と苦笑しながらも、彼女らしい、と頭の片隅で思っていた。
「最近元気が無かったし……。また倒れてるのかしら?」
少々小走り気味に部屋を出る。
あの頃はまだ良かったものの、今の彼女は少しの体調不良が命に関わるかもしれない。
過保護ね、とパチェには言われたけれど、それくらい咲夜が大事なのだ。
彼女の部屋の前に立つ。
音を立てずドアを開けると、ベッドの上に咲夜が静かに眠っていた。
それはもうぐっすりと。寝息も聞こえないくらいの深い眠りが…
とても、静かだ。静か過ぎる。
聞こえない、彼女の命の刻む音。
感じない、彼女の存在を示す力。
「咲夜っ!」
バタバタと音を立ててベッドに近づく。
それでも咲夜は、そこに横たわったままで、目を覚まさない。
「嘘っ……そんな……」
あまりにも、あっけなさ過ぎる。
昨日の夜、咲夜の様子はいつも通りだったと思う。
今日の朝、私はいつも通りの目覚めだと思った。
そう、それもこれも全部、「思った」なのだ。
絶対ではない推定、私が世界に押し付けるif。
その未来の分岐を決めるものは――ほかでもない、運命だ。
「……」
今になって、逃げていた自分を呪う。
もし、私が現実を見ていたのなら。
もし、私が咲夜の死を受け入れていたのなら。
この痛みは、後悔は生まれなかったのに。
彼女に、別れを告げられたのに。
それも、すべてが「もしも」。
もう叶わない願望、私が永久に背負い続けるif。
「……ああっ……」
頭の中を覆う後悔の津波。
波に呑まれた思考はグチャグチャに掻き混ぜられて。
私は目から溢れ出る涙を止める術を知らなかった。
■■■
たまたま通りがかった妖精メイドが涙を流す私を見て、咲夜の死は紅魔館中に知れ渡った。
ドタドタと廊下を走る音が鳴り響き、何十もの妖精メイドが入ってくる。
美鈴、パチェ、小悪魔、そしてフラン。
紅魔館の全員が、彼女の部屋に集まった。
妖精メイドは子供のように泣いて。
美鈴と小悪魔は泣き崩れていて。
パチュリーは顔を伏せて、静かに泣いていた。
フランは咲夜の手を握り、静かに涙を流していた。
少し前、咲夜の死を受け入れられずに暴走した姿は跡形もなく消え去って。
まるで聖女のような綺麗な泣き顔だった。
彼女の目から溢れるモノは、感謝。
今まで連れ添ってくれた咲夜への。
並んで歩いた咲夜への。
感謝、そして労い。
私はあなたのおかげで、一人で歩いていけるようになったのよ。
今までありがとう。だから、ゆっくり休んでね。
フランの呟いた言葉が、降り注ぐ他の声をくぐりぬけて、私の鼓膜を突く。
ベッドに横たわる主人公。
その手を握るヒロイン。
鳴り響く泣き声の賛美歌。
それは哀しくも美しい狂想の戯曲。
運命という台本を握り締めた、彼女達の物語。
シナリオから目を背けた私は、観客でしかなくて。
ただただ涙を流し、そこに佇んでいた。
■■■
針が止まった紅魔館の時計は、またゆっくりと時を刻み始めた。
パチェと小悪魔は空間を拡張する魔法を作って、紅魔館が形を変えることは無かった。
美鈴が門で居眠りすることは、もう無くなった。
――背中を預けるところが無かったら、おちおち寝てなんていられませんよ――
朗らかで、綺麗な笑顔を浮かべた彼女は言った。
フランは、咲夜から紅茶の技術を受け継いだ。
彼女が淹れた紅茶を飲んだら、無意識のうちに涙が流れていた。
それ以来、フランの紅茶を飲むことはなかった。
咲夜を思い出して、苦しまないように。
妖精メイドたちは、よく働くようになった。
咲夜の穴を埋めるように、テキパキと仕事をこなす。
――メイド長が安心できるように、頑張るぞ!――
妖精メイドの発した言葉は、私の胸を貫いた。
変わっていないのは私だけ。
動き出す時計の針を、この手で押さえつけているんだ。
まだ――、私は台本を手に取らないでいた。
■■■
いつの間にか、寝てしまっていたのか。
月は天高く昇り、星々と共に光る。
握り締めていた咲夜の手を離して、部屋から出た。
今、隣に咲夜がいない。
それを感じて、寂しさが浮かんでくる。
誰かに隣に居てほしかった。
ただ、それだけ。
心では分かっているんだ。
彼女の代わりなんていない。
でも、誰かが居ないと、私の心が壊れてしまいそうで。
ふらふらと、覚束ない足取りで親友が待つ図書館へと向かった。
■■■
「酷い顔ね、レミィ」
出会い頭に皮肉を言ってくる彼女は、いつもと変わりない様子だった。
ことり、と小悪魔が差し出した紅茶が机に置かれる。
今の私には、小悪魔の紅茶に手をつける気にはならなかった。
「何か用かしら?」
「……いや、別に」
「そう……」
途切れ途切れの会話。
「――貴方は、いつまで立ち止まっている気なのかしら」
「……っ!」
唐突に、パチェは話し始めた。
「今の貴方の顔、鏡があったら見せてあげたいわ。まぁ、映りはしないけれど」
「けど、自分の心くらい見えるはずよ」
強い口調で、パチェが続ける。
「たしかに、貴方にとって咲夜は体の一部のような存在だったかもしれない。現に、私だってそれくらい彼女のことが大切だった」
「でもね、レミィ。立ち止まっていては、何も始まらないの。前を向かないと、目前の景色は見えないのよ」
分かっている。そんなことは、とうの昔に分かっているんだ。
「貴方の心の傷を癒すことはできても、貴方の足を動かすことは私にはできない。私はただ、貴方の背中を軽く押すことしかできないわ。全ては貴方次第なのよ」
ゆっくりと、諭すような口調の声が心に染み込む。
「ここからは貴方の問題。私は口出ししないわ。けどね、レミィ。親友として、言わせてちょうだい」
「私は今の貴方を、立ち止まって苦しむ貴方をこれ以上見ていたくない。それは小悪魔もフランも美鈴も妖精メイドたちも、咲夜だってそうだと思うわ」
「……」
「そして、もう1つ。もし貴方がまた歩き始めたなら、私は一生共に歩むことを誓うわ。これは親友としてじゃない――家族として、よ」
パチェは言いたいことを全て言い切ったのか、本に目を戻した。
短い沈黙が流れる。
「……少し、夜風に当たってくるわ。ありがとうね、パチェ」
「どういたしまして、レミィ」
紅茶を飲み干して、席を立つ。
それは、咲夜の紅茶とは全然違う味だけど。
体が、心が、ひどく温まった気がした。
「重要なのは、何かを成すことではない。次の1歩を踏み出すことだ――。一体、誰の言葉だったかしらね」
ぼそりと呟いたパチュリーの言葉は、中空に溶けて消えていった。
■■■
「あっ、お姉様だー!」
「こんばんは、レミリアお嬢様」
門に着くと、元気な二つの声が私を出迎えた。
「……フラン、こんなところに居たのね」
「うん!美鈴と一緒に蛍見てたんだ!」
蛍、か。
目前には幾多の蛍たちが光り、飛び交っていた。
それはまるで星空を舞台に踊るよう。
昔、咲夜と蛍を見たことがあった。
本当は興味なかったのだけれど、無理矢理に連れてこられた森の中。
無数に舞う蛍の姿は、悔しいけど、美しく思えた。
――私は、この蛍のようになりたいです。目にする時は一瞬、でも心の中に残って光り続ける……そんな存在に――
あの時、咲夜はそんなことを言っていたっけ。
咲夜の願った通り、私の心には彼女の光が焼きついていた。
それは、心を焦がすほどに明るくて。
「……お姉様、人は死んだらお星様になるって話、あるでしょ?」
どこにでもあるようなメルヘンチックな台詞を、フランは零す。
「あれ、私は本当だと思うんだ。だって、咲夜はもういないのに、咲夜の温かい目を私は感じるんだから。だから、私は信じるよ」
とても子供じみた言葉。
だからこそ、私の心に真直ぐに突き刺さる。
確かに、咲夜は死んでしまった。
でも、それで彼女の全てが消えたわけではない。
咲夜が浮かべる笑顔、咲夜が淹れた紅茶の味、咲夜の温かい眼差し……
思い出は私の心の中に沢山残っているんだ。
それは、一生忘れることはないだろう。
「確かに、そうかもしれないわ……」
それは仮想に縋り付く言葉。
だけど、それでも――。
そのifは私の心を優しく包み込んだ。
「そうかもしれない、じゃないですよお嬢様。そうだ、と強く願えば、きっと咲夜さんはそこに居てくれるんだと思います。咲夜さんは、優しい人ですから」
子供のような笑みを浮かべて、美鈴は言う。
また、夜空へと目を向ける。
そこには無数の星と幾多の蛍、星空の天井に浮かぶ月。
キラリ、と。
月の隣の小さな星が光った気がした。
――あぁ、あなたはそんなところにいたのね――
いつもの私が見たら、メルヘンチックだと鼻で笑い飛ばすだろう光景。
でも、それは私の背中を強く押してくれた。
「そう、よね。咲夜はずっと、私たちを見てくれていたのよね……」
爛々と輝く夜空が、少しだけ霞む。
「ありがとう、フラン、美鈴」
パチュリーも、小悪魔も、妖精メイドも、そして咲夜も。
みんなが私の背中を押してくれているんだ。
もう、足を止める理由なんて、どこにあるんだろう。
「部屋へ戻りましょう、フラン。美鈴も、今日は許してあげるわ」
「はーい、お姉様ー」
「ありがとうございます、レミリアお嬢様」
「あと、フラン。紅茶を淹れてくれないかしら?外に出ていたら体が冷えちゃったわ」
「ふふっ……。とびっきり美味しいのを淹れてあげるわ!」
「じゃあ、私はパチュリー様と小悪魔ちゃんを呼んできます。久々に『みんな』でお茶会をしましょう」
「そうね、頼んだわ美鈴」
美鈴が図書館の方へ歩き出す。
するりと、私はフランの手を握った。
フランは笑って、私の手を握り返してくれた。
強く、強く。
存在を確かめ合うように、私たちは手を握り合った。
――ふと、左手を握られた感触は、きっと気のせいじゃない――
五人の影と、六つのカップ。
紅魔館の時計の針は、静かに時を刻んだ。
■■■
永遠と続く白い空間。
そこにあるのは大きな時計。一人の奇術師と一人の私。
子供みたいに笑いあって、くるくるくるりとダンスを踊る。
ダンスの相手が悪戯をして、くるくるくるりと目が回る。
ニコニコ笑うイジワル奇術師、細い左手を私に差し出す。
彼女が笑う、私も笑う。
彼女の手を握り締める。
いつのまにか、右手を握る愛しき我が妹。
後ろを歩くは小さな笑みを浮かべる親友、朗らかに笑う司書、子供のように笑っている門番、そして少し騒がしい妖精メイドたち。
――行くわよ、みんな――
ゆっくりと、一歩一歩踏み締めるように歩く。
ここから始まるのは台本なんてない、私たちの物語。
咲夜と、みんなと奏でる協奏曲。
――大きな時計の針が、今、始まりの合図を告げた――
表現のしかたが多彩で格好良く、尚且つ、とても説得力があって納得させられてしまうし、色々と考えさせてもくれる。
例えば、”私が世界に押し付けるif” という表現など、素敵すぎてゾクッときました。
良い作品をありがとうございます。