小悪魔は申し訳なさそうに知りませんと言い、妖精メイドたちは皆一様に首を横に振った。フランに関しては訊ねる事すら出来なかったし、例え訊ねたとしても答えは返ってこないだろう。あの堅牢な地下の扉をどうやったら再び開いてくれるか、それはここのところの研究課題でもあった。
「お嬢様ですか?」
美鈴は首をかしげ、右足に重心をかける。
「今日は見ていませんね。少なくとも、お館からは出ていませんよ」
そう、と言ってパチュリーはため息と共に小さく肩をおろす。昼の日差しが、ローブから露出した肌をじりじりと焼いている。
「何か御用でもあるんですか?」
美鈴の問いに、パチュリーは一言、いえ、と答える。その後、少し間を置いて
「目を光らせとかないと、また異変でも起こしかねないから」
「そうですねぇ。また昔みたいに、博麗の巫女さんが乗り込んできちゃ、たまらないですよ」
そうね、とパチュリーは頷き、そしてふと、何か違和感を覚える。
それは美鈴も同じだったようで、二人は門のまで顔を見合わせ、ほとんど同じタイミングで
『昔?』
と呟いた。
「そんなに前の事だったかしら?」
美鈴は日に熱された鉄門に体を預け、んー、と喉をうならせる。
「霊夢さんがあっちこっち飛び回っていた頃ですから、もう随分と前になるんですかね」
「私たちも歳を取ったわね」
えぇ、美鈴は手のひらをおでこに当てて庇を作り、首をもたげ、ずっと遠くを眺める。世界で一番悲しいものを見るように、白く焼けた太陽を見据え、半端に開いた口からポツリと
「太陽が昇らない日はありませんでしたから」
と漏らした。
「確かに」とパチュリーは頷いた。頷いて、自分の足元を見下ろした。大きな黒アリが、靴の形に添って右往左往としていた。ちょいと脚を上げて道をあけると、アリは何も言わず、その下をくぐっていく。
「そんなの、気にかけたことも無かったんだけどね」
美鈴は何も言わず、ただ遠くを見つめていた。
館中探しても見つからず、仕方なしに図書館に戻って疲れた脚をやすませていると、天井の向こうから、なにか、甲高い音が聞こえた。
パチュリーは開いていた本から顔を上げ、そのまま首を後ろに、コテンと90度に傾けた。木目も見えないほど高い天井がそこにあった。
「台所、かしら」
直後に、もっとふてぶてしい音が我が物顔で空気を揺らしていった。
食器棚は倒れ、中の皿は軒並み欠片となって床に散らばっていた。背もたれのない丸いすは横倒しになり、調理用の小ぶりなテーブルは、食器棚を危げに支えていた。メモ挟み用のコルクボードは顔を下に向け、上からぶら下がるランタンは未だに首をふり、その下で、見慣れた漆黒の翼が夜露の滴る雑草のようにしおれていた。
「レミィ、どこにいたの? 探したわよ」
「――紅茶を入れようかと思ったの」
レミリアは振り返る事もせず、背中で返事を返す。
「温かい紅茶を、たまには自分でと思って。けど肝心の茶葉が見当たらなくて。あちこち探ってようやくその棚の上にあるのを見つけたの」
横目で棚を見る。麻袋に入った翠の葉の大半が、床へ舞い落ちていた。
「素直に飛んでいれば良かったんだけど、頑張ればいけそうな高さだったんで。体中ピンと伸ばしてやっと手が届いたと思ったら、この様よ。だめね、歳ばっか食って、紅茶一つ入れられないなんて」
昔とちっとも変わってない、レミリアはそう付け加え、長い長いため息を吐き出した。
パチュリーはしゃがみこみ、割れた茶碗に手を伸ばす。いつも、レミリアが使っているものだ。底に描かれた真紅のバラは、切ないほどまっすぐ、二つに割れている。
見当たる限りの欠片を手のひらに集め、そっと口で呪文を囁く。かけら達が光を帯び、集まり、やがて一つとなっていく。
弾けとんだ光の跡、パチュリーの手の中で、元通りのカップがひそやかに姿を現した。
「気にする事は無いわ」
とパチュリーは言った。カップが割れたことも、それが元通りになったことも知らない背中に向かって。
「紅茶なら、私が入れてあげる。この間本で読んだの、おいしい紅茶の入れ方を。きっとあなたも気に入ると思うわ。部屋の片づけだって、妖精メイドに任せておけばいい。あなたは日陰のテラスで、腰を落ち着かせていれば、それでいいのよ」
そう、とレミリアは言った。腕を前に組んであごを引き、顔を斜め下に向けた。
「最近ね、夜が怖いの」
レミリアは、不意に口にした。
「おかしな話でしょ? 吸血鬼なのに。けれど、ダメなの。太陽が沈んで空が黒く滲んでくると、胸の奥がざわめくのよ。十五夜なんて、特にそう。綺麗な満月を見つめると、頭がおかしくなりそうになる。空に耀く金色の丸が、違う世界に繋がる穴のように思えてくるの。その世界が幸せなものか、怖いものか、それは分からないわ。でも、不意にそこへ飛び込んでみたくなるの」
「疲れているのよ。最近、色んなことがあったから。大丈夫、きっと時が癒してくれるわ」
「どうかしら」
言葉の端は揺れていた。どんな顔をして笑みを含んだのだろうと、パチュリーは疑問に思った。
「時間はいつだって残酷だから」
長い沈黙が流れた。太陽がたゆたう雲に隠れ、地面に影を落とした。小鳥がさえずり、風が窓枠をピシピシ揺らした。目の前に手を伸ばせば、目に見えない沈黙の粒子を掴み取る事が出来るような気がした。
「悪いわね、パチェ。辛気臭い話しちゃって。何か、私がやることはあるかしら? とりあえず、割れた食器を片付けるところから?」
「あなたのやりたいようにやればいいわ。ここは紅魔館で、あなたは当主なんだから」
そう、レミリアは振り返り、それでも顔は伏せたまま、扉に向けて歩き始める。崩れた欠片を器用に避け、パチュリーの隣を通り過ぎ、カツカツという、床を打つ音を響かせる。
「それじゃ、片づけをお願いしていいかしら?」
「任せなさい。けれど、どこで何をしているかぐらい、教えてくれないかしら? 紅茶を入れたら呼びに行くし、それに私は意外と心配性なのよ」
パチュリーは振り返り、出口の扉で佇む幼い王様を見つめる。その王様は、小さく、ふとすれば空気に溶け込んで暗い静かな声で
「色々思い出したから、咲夜の部屋で、少し、泣いて来る」
と言った。
遠ざかる足音を聞きながら、パチュリーは思った。今日の夜は枕を持って、あの寂しがり屋の元へ行ってやろう。明日は人里に行って、腕いっぱいのスズランを買ってこよう。その次の日は、がけの上で静かに眠る冷たい石に祈りを捧げに行こう。お気に入りの白い日傘を差して、手にはカラス麦で作ったクッキーを持って。きっと強がるに違いないその横顔を、精一杯からかってやろう。そして変わらない笑顔を見せ、笑い声を響かせ、私たちは大丈夫だと空に知らしめてやろう。それが、あるがままに生きた彼女に対する、せめてもの手向けになるのではないだろうか。だから、そのために、今はまずこの部屋を片付けて、あの子のために紅茶を入れてあげなければ。うまく入れられても、入れられなくても、きっとしょっぱくなるその紅茶を。
「お嬢様ですか?」
美鈴は首をかしげ、右足に重心をかける。
「今日は見ていませんね。少なくとも、お館からは出ていませんよ」
そう、と言ってパチュリーはため息と共に小さく肩をおろす。昼の日差しが、ローブから露出した肌をじりじりと焼いている。
「何か御用でもあるんですか?」
美鈴の問いに、パチュリーは一言、いえ、と答える。その後、少し間を置いて
「目を光らせとかないと、また異変でも起こしかねないから」
「そうですねぇ。また昔みたいに、博麗の巫女さんが乗り込んできちゃ、たまらないですよ」
そうね、とパチュリーは頷き、そしてふと、何か違和感を覚える。
それは美鈴も同じだったようで、二人は門のまで顔を見合わせ、ほとんど同じタイミングで
『昔?』
と呟いた。
「そんなに前の事だったかしら?」
美鈴は日に熱された鉄門に体を預け、んー、と喉をうならせる。
「霊夢さんがあっちこっち飛び回っていた頃ですから、もう随分と前になるんですかね」
「私たちも歳を取ったわね」
えぇ、美鈴は手のひらをおでこに当てて庇を作り、首をもたげ、ずっと遠くを眺める。世界で一番悲しいものを見るように、白く焼けた太陽を見据え、半端に開いた口からポツリと
「太陽が昇らない日はありませんでしたから」
と漏らした。
「確かに」とパチュリーは頷いた。頷いて、自分の足元を見下ろした。大きな黒アリが、靴の形に添って右往左往としていた。ちょいと脚を上げて道をあけると、アリは何も言わず、その下をくぐっていく。
「そんなの、気にかけたことも無かったんだけどね」
美鈴は何も言わず、ただ遠くを見つめていた。
館中探しても見つからず、仕方なしに図書館に戻って疲れた脚をやすませていると、天井の向こうから、なにか、甲高い音が聞こえた。
パチュリーは開いていた本から顔を上げ、そのまま首を後ろに、コテンと90度に傾けた。木目も見えないほど高い天井がそこにあった。
「台所、かしら」
直後に、もっとふてぶてしい音が我が物顔で空気を揺らしていった。
食器棚は倒れ、中の皿は軒並み欠片となって床に散らばっていた。背もたれのない丸いすは横倒しになり、調理用の小ぶりなテーブルは、食器棚を危げに支えていた。メモ挟み用のコルクボードは顔を下に向け、上からぶら下がるランタンは未だに首をふり、その下で、見慣れた漆黒の翼が夜露の滴る雑草のようにしおれていた。
「レミィ、どこにいたの? 探したわよ」
「――紅茶を入れようかと思ったの」
レミリアは振り返る事もせず、背中で返事を返す。
「温かい紅茶を、たまには自分でと思って。けど肝心の茶葉が見当たらなくて。あちこち探ってようやくその棚の上にあるのを見つけたの」
横目で棚を見る。麻袋に入った翠の葉の大半が、床へ舞い落ちていた。
「素直に飛んでいれば良かったんだけど、頑張ればいけそうな高さだったんで。体中ピンと伸ばしてやっと手が届いたと思ったら、この様よ。だめね、歳ばっか食って、紅茶一つ入れられないなんて」
昔とちっとも変わってない、レミリアはそう付け加え、長い長いため息を吐き出した。
パチュリーはしゃがみこみ、割れた茶碗に手を伸ばす。いつも、レミリアが使っているものだ。底に描かれた真紅のバラは、切ないほどまっすぐ、二つに割れている。
見当たる限りの欠片を手のひらに集め、そっと口で呪文を囁く。かけら達が光を帯び、集まり、やがて一つとなっていく。
弾けとんだ光の跡、パチュリーの手の中で、元通りのカップがひそやかに姿を現した。
「気にする事は無いわ」
とパチュリーは言った。カップが割れたことも、それが元通りになったことも知らない背中に向かって。
「紅茶なら、私が入れてあげる。この間本で読んだの、おいしい紅茶の入れ方を。きっとあなたも気に入ると思うわ。部屋の片づけだって、妖精メイドに任せておけばいい。あなたは日陰のテラスで、腰を落ち着かせていれば、それでいいのよ」
そう、とレミリアは言った。腕を前に組んであごを引き、顔を斜め下に向けた。
「最近ね、夜が怖いの」
レミリアは、不意に口にした。
「おかしな話でしょ? 吸血鬼なのに。けれど、ダメなの。太陽が沈んで空が黒く滲んでくると、胸の奥がざわめくのよ。十五夜なんて、特にそう。綺麗な満月を見つめると、頭がおかしくなりそうになる。空に耀く金色の丸が、違う世界に繋がる穴のように思えてくるの。その世界が幸せなものか、怖いものか、それは分からないわ。でも、不意にそこへ飛び込んでみたくなるの」
「疲れているのよ。最近、色んなことがあったから。大丈夫、きっと時が癒してくれるわ」
「どうかしら」
言葉の端は揺れていた。どんな顔をして笑みを含んだのだろうと、パチュリーは疑問に思った。
「時間はいつだって残酷だから」
長い沈黙が流れた。太陽がたゆたう雲に隠れ、地面に影を落とした。小鳥がさえずり、風が窓枠をピシピシ揺らした。目の前に手を伸ばせば、目に見えない沈黙の粒子を掴み取る事が出来るような気がした。
「悪いわね、パチェ。辛気臭い話しちゃって。何か、私がやることはあるかしら? とりあえず、割れた食器を片付けるところから?」
「あなたのやりたいようにやればいいわ。ここは紅魔館で、あなたは当主なんだから」
そう、レミリアは振り返り、それでも顔は伏せたまま、扉に向けて歩き始める。崩れた欠片を器用に避け、パチュリーの隣を通り過ぎ、カツカツという、床を打つ音を響かせる。
「それじゃ、片づけをお願いしていいかしら?」
「任せなさい。けれど、どこで何をしているかぐらい、教えてくれないかしら? 紅茶を入れたら呼びに行くし、それに私は意外と心配性なのよ」
パチュリーは振り返り、出口の扉で佇む幼い王様を見つめる。その王様は、小さく、ふとすれば空気に溶け込んで暗い静かな声で
「色々思い出したから、咲夜の部屋で、少し、泣いて来る」
と言った。
遠ざかる足音を聞きながら、パチュリーは思った。今日の夜は枕を持って、あの寂しがり屋の元へ行ってやろう。明日は人里に行って、腕いっぱいのスズランを買ってこよう。その次の日は、がけの上で静かに眠る冷たい石に祈りを捧げに行こう。お気に入りの白い日傘を差して、手にはカラス麦で作ったクッキーを持って。きっと強がるに違いないその横顔を、精一杯からかってやろう。そして変わらない笑顔を見せ、笑い声を響かせ、私たちは大丈夫だと空に知らしめてやろう。それが、あるがままに生きた彼女に対する、せめてもの手向けになるのではないだろうか。だから、そのために、今はまずこの部屋を片付けて、あの子のために紅茶を入れてあげなければ。うまく入れられても、入れられなくても、きっとしょっぱくなるその紅茶を。
もっと続きを!続きを!!