※本SSには、古明地こいしの能力に関して独自の解釈が含まれています。
「ぺろぺろ」
何だろう、自分の首筋に何か生暖かい感触を感じた。
『それ』は、ぴちゃぴちゃという水音に合わせて私の首筋を這い回っている。
私はその行為を受けたことによって、誠に不本意ながら意識を眠りという海底から浮上していった。
完全に海面へ顔を出す前に覚醒しかけた意識が、首筋に感じる『それ』が何なのか、答えを導き出した。
これは舌だ。
何者かが私の首筋を舌でもって舐めまわしているのだ。
まったく……大方、ペットの内の一匹が眠れなくて私のベッドまで来たのだろう。
ペットたちの中には、まだまだ甘えたがりな子達もいる。
そんなペットたちの相手で一日が終わってしまうことがあるくらいだ。
いや、ひょっとしたらお燐かもしれない。
あの子はペットたちのまとめ役みたいな立ち位置にいるけれど、周りの目がない時は結構甘えてきたりするのだ。
どちらであるにせよ、このままされるがままでい続けるのもくすぐったくてしょうがない。
……くすぐったい?
「ん、んんぅっ……」
いや、何ていうか、これは、くすぐったいというより。
ツツー、と舌先で鎖骨から首筋へなぞるように舐められる。ひええええ。
これは違う。決定的に何かが違う。少なくとも、甘えている舐め方ではない。
今まさに喉元へ噛みつかんとする吸血鬼が、牙を立てるべき肌の下の血の暖かさを確認するかのような、どこか淫靡さをも感じさせる、そんな舐め方だ。
それに加えて、暗く静かな部屋に響くわざとらしい水音が余計に扇情的にさせるというか。
要するに、イヤラシイのだ。
そして、はぁぁ……と熱のこもった吐息を顔に感じた瞬間、身の危険を感じた。
脳内に鳴り響く警告音により、貞操の非常事態宣言を発令した私は一気に意識を浮上させる。
浮上していく意識の中で、私の首筋を舌でもって蹂躙している者の正体にも気付く。
というかとっくに気付いてもよかったのだ。
私は心を読む程度の能力を持つ覚り妖怪。
その能力は地上を追放され、さらに追放されたもの同士が集うこの地底においても忌み嫌われる能力。
半覚醒くらいまで意識が夢から現に戻ってくれば、相手の心を読み取ることは造作も無いのだ。
だが、読めなかった。
どんな相手でもその心の声を覗き見ることが出来る私の能力を持ってしても読めなかったのだ。
そんな相手が果たして存在するのか?
その答えはイエス。
唯一例外が存在するのだ。
それは、私の大切な、たったひとりの――。
「……何をしているのかしら? こいし」
「あ、起きちゃった」
――たったひとりの妹、古明地こいしである。
「起きちゃった、じゃありません。何をしているのかを聞いているの」
「何って、ぺろぺろしていたに決まっているじゃない」
「ぺ、ぺろぺろ!? 汚いじゃないの!」
覆い被さるようしているこいしを押し退けながら起き上がる。
こいしは「やぁん」と不満を口にはしたが、特に抵抗することはなかった。
「えーそうかなー」
私の言葉が理解できないのか、小首を傾げるこいし。
その動作は大変可愛らしいのだが、お姉ちゃんとしてはこの感覚、倫理観には同意して欲しいところだった。
「どう考えても汚いでしょ……」
ため息を吐きながら妹のモラルの欠如を嘆く。
そんな私に、こいしが言葉を投げかける。
「本当にそう思ってるのー?」
一瞬、時が止まったような気がした。
一体この子は何を言っているのだろうか。
「当たり前じゃない。唾液でべたべたになっちゃうし」
「へぇー、ふぅーん」
私の返答に対して、こいしは意味ありげな表情で私を見る。
「……何よ?」
「えー、だってぇー……クスクスクス」
僅かに不快感を露にしながらこいしを睨みつける。
一方のこいしは、私のそんな視線などどこ吹く風といった風に、いつもと変わらない無邪気な顔で私の顔を覗き込む。
そして、とんでもないことを口にした。
「お姉ちゃん、私にこうして欲しかったのにそんなこと言うんだもの。おかしいなぁーって思って……」
また時を止められた気がした。今度は先程よりも長く。
その分妹の言葉の意味を理解するまでの時間も長かった。
止まった時が動き出すと、すぐさま私はこいしに言葉を返す。
「なっ……! そんなわけがないじゃない!」
私が一体いつそんなことを望んだのか。
口にしたこともなければ、そんなことは微塵も思っていない。
「そんなわけがあるんだよねー、これが」
自分でも珍しく声を荒げているのだが、こいしはニヤニヤと不快な笑みを浮かべ続けている。
その表情のまま放つ言葉が、私をさらにイラつかせる。
「どうしてそんなことがあなたにわかるのよ! もうあなたは心が読めるわけではないのに!」
そう口にしてから、私はすぐに後悔した。
私と違ってこいしはもう心が読めない。
姉妹で持っていた覚りの力を妹は自ら閉ざしてしまった。
否応なしに流れ込んでくる他者が心に秘めた負の感情に、こいしは耐えられなかったから。
それはこいしにとってトラウマとも呼ぶべきものである。無意識になって、もうそのことを忘れているかもしれないが。
だから、もし仮に彼女が忘れていたとしても、私は自分の言葉を大いに自省した。
そこで私の噴き上がった感情もしぼむ。いや、しぼむどころか地下に潜った。気持ちが下にずぶずぶと沈んでいくのと同じように、私は顔を俯かせる。
しばらく、無音だった。暗い部屋が余計にその静けさを感じさせる。
それから私が顔を上げたのは、こいしからの思いもよらない言葉が静寂を切り裂いたからである。
「読めるよ」
「えっ?」
これで、三度目だ。
こいしは時間を操る程度の能力でも手に入れたのだろうか。
しかし、今回のはあまりにも強烈だった。
「私も心を読めるよ。お姉ちゃんと同じ覚り妖怪だもの」
「だって……こいし。あなたは……」
「うん。私は自ら心を読む第三の目を閉ざした。そうして私は心を読むことが出来なくなった」
そうだ。その通りだ。
覚り妖怪が覚り妖怪でいられるのは、第三の目があるからこそだ。
その目を自らの手で閉ざしてしまったこいしには、もう相手の心を読むことは出来ない。
出来ないはずなのに、読むことが出来るというのは一体どういうことなのだろうか。
「でもそれは意識の世界――つまりは現実の世界においての話。ねえ、お姉ちゃん。心を閉ざした私が得た能力って何だったっけ?」
「……無意識を操る程度の能力」
無意識。心を閉ざしたこいしが得た能力。
こいしがこの能力を得てから、私は彼女の心を読むことが出来なくなった。
それだけではない。私を含め、全ての人妖からこいしは認識されなくなった。
今でこそ、近くにいればおぼろげに捉えることは出来るのだが――それも肉親である私だけのようで他の者たちは声を掛けられるなどしてようやく存在に気付く――、無意識になりたての頃は完全に存在が消えていた。
それが、こいしの閉ざされた心が僅かに開いているのか、それとも能力の扱い方を学習したのかによるものなのかはわからない。
「そう。この能力を得たことで私は無意識で行動することが出来るようになった。それは意識の世界での存在が希薄になったということ。逆に言うと、無意識の世界で私は強く存在しているということなの。じゃあ、お姉ちゃん。無意識の世界って何だと思う?」
無意識の世界。
今私たちがいるこの部屋が意識の世界だというのなら。
無意識を操って存在を捉えられなくなったこいしは、そこにいるとでも言うのだろうか。
想像もつかなかった。
「……わからないわ」
しばし思案した後に、私からやっと出た言葉はそれだけだった。
その答えに、ぷぅと頬を膨らませて不満げな顔をするこいし。
しょうがないなあ、といった風に眉を潜めて答えを教えてくれた。
「ダメだなあ、お姉ちゃんは。無意識の世界っていうのはね、夢の中のことなんだよ」
「夢の、中……」
「そうだよ。無意識の、深層心理の世界では、自分でも知らない自分がそこにはいるの。だけれどそれは、心の内に秘めた願望であり、忌避すべき恐怖の対象であり、蓄積された過去の記憶でもある」
「……」
「そして私の能力は、そういった他者の無意識への干渉もできるのよ。その人の、より深いところを覗き見ることが出来るの」
「……より深いところ? あなたは他者の心が読めることを嫌って心を第三の目を閉ざしたのではないの……?」
ただ相手の思っていることを読むだけでは足りず、相手の根元まで深く知るために第三の目を閉ざしたというのか。
他者の心が読めてしまうことが嫌で第三の目を閉ざしたというのは、嘘だったというのか。
「ううん、それは本当。でも理由としては半分だね」
「半分?」
「残りの半分は、お姉ちゃんの心を、もっと深くまで見たかったから」
「私の、心を……?」
「うん。第三の目を閉ざす前もお姉ちゃんの心を読むことはもちろん出来たけれど、それだけじゃ足りなくなっちゃってね。お姉ちゃんが望むこと、お姉ちゃんが怖いと思うもの、お姉ちゃんが見てきた風景を、意識下では見えない無意識の奥の奥の奥底まで知りたかったから」
「何で、そんなことを……」
第三の目を閉ざしてまでして、私の心の無意識の部分まで見たかった。こいしはそう言った。
そこまでする理由が私には皆目見当がつかなかった。
こいしは私の心に、一体何を求めていたのだろうか。
その疑問は、こいしの言葉によって氷解した。
「だって、私はお姉ちゃんのこと大好きだもの。愛しているもの」
「なっ……!」
こいしが、私のことを、愛している?
家族として――ではないのだろう。そういったニュアンスだとは、感じなかった。
頬を僅かに紅く染めたこいしが、私にしなだれかかってくる。
「愛しい相手のことを知りたいと思うのは、当然でしょ? でも良かったぁ、お姉ちゃんも私のことを好きみたいだったから」
「ど、どういうことよ……」
本当に、どういうことだ。
私はそんなことは言っていない筈なのに……。
私がこいしの発言に対応する言語の検索をかけている間に、こいしは私の身体を押し倒す。
「言ったでしょ? 他者の無意識へ干渉できるって。さっきお姉ちゃんをぺろぺろしていたのは、お姉ちゃんの無意識に踏み込んでそこからお姉ちゃんがして欲しいことを読み取ったからなんだけどなあー」
「わ、私はそんなこと!」
決してそんなことは思っていない。思っていないはず……なのに。
「いいんだよ、お姉ちゃん。私はお姉ちゃんのためなら何でもできるよ?」
でも、思い返せば、こいしの心が読めなくなってから、姿が認識できなくなってから、私はずっとこいしのことを考えていたかもしれない。
「こいし……」
こいしと一緒にいる瞬間が、一番幸せだったと、こいしが第三の目を閉じて、確かに気付かされたのだ。
「ほら、触ってみて……」
こいしが私の手を取って自らの胸へと導く。
「あ……」
こいしの控えめな胸から伝わる鼓動。
それが早鐘を打っているのがパジャマ越しからでもはっきりと伝わる。
「私、さっきからずっとドキドキしてるんだよ? お姉ちゃんが私にぺろぺろして欲しいなんて思ってたから……。お姉ちゃんはどう? ドキドキした?」
今度はこいしが空いている手で私の胸に手を伸ばす。
「私は……あ、こら、こいし」
私もこいしに負けず劣らずの控えめな胸に、こいしの手が優しく触れる。
何だか変な感じだ。
「……お姉ちゃんもドキドキしてるね? 嬉しいなあ……」
こいしにそう言われて、私は自分の体温が一気に跳ね上がるのを感じた。
だって、こいしが、本当に嬉しそうな顔をするから……。
こいしのことを心の底から可愛いと思ったから……。
「こいし……」
心の底から……――ああ、そうか。
「おねぇちゃん……」
私は……心の底からこいしのことを――。
「こいし!」
私に覆い被さるようにしているこいしを力任せに横たえて、今度は私がこいしに覆い被さる。
「あっ……」
「こいしは本当にダメな子です! よりにもよってお姉ちゃんを好きになっちゃうなんて!」
もうどうにも止まらない。こいしへの気持ちは止まらない。
「うん、こいしはダメな子だよ。もうお姉ちゃんしか見えてないんだよ」
「折角私は我慢していたのに、これじゃあ台無しじゃない!」
こいしが心を閉ざして姿が見えなくなってしまって、それが悲しくて悲しくて、会いたくて会いたくて。
「ごめんね、ごめんねお姉ちゃん」
「仕様のない子。これは私が今まで我慢していた分も含めて、可愛がられてもらわないといけないわね」
それがいつの間にか、こいしへの恋心に変わっていったんだ。本当に罪作りな子だ。
「うん、こいしはお姉ちゃんの言うことなら何でも聞くよ? だからいっぱい可愛がってぇ……」
「こいし!!」
「こいし……こいしぃ……!」
明かりの消えたお姉ちゃんの部屋の中。
私は切なそうに私の名前を呼ぶ姉の姿を、とても満ち足りた表情で見下ろしていた。
「ウフ。お姉ちゃんたら、そんなに私のこと想ってくれていたのね。こいしは嬉しいよ」
お姉ちゃんはふかふかの毛布を私に見立てているのだろうか、私の名を呟きながら毛布を抱き締めている。
なんて可愛い生き物なんだろう。惜しむらくは、これがまだ現実世界の私には向いていないことか。
まだまだ姉の気持ちは、深層意識から外へは出ていない段階だ。
なまじ、相手の心を一方的に読んで一方的に会話して、相手に嫌われるものだから、自分の感情を吐き出せずに内に溜め込んでばかりいるこの姉である。
深層意識から秘めた感情を引っ張り出すのには、中々骨が折れそうだった。
しかし、ここまで来れば――。
「後は……お姉ちゃんの深層意識にある私を好きと想う気持ちを表層意識まで引き上げるために、これから毎晩夢の中でこいしを可愛がってもらうからね」
――時間の問題である。
今お姉ちゃんが感じているであろう幸せも、朝になって、目が覚めて、夢だと分かれば、一時の気の迷いだと思われかねない。
この夢を現実にするためには、毎日毎日お姉ちゃんの無意識に干渉して、今と同じような夢を視せなければならない。
そうすれば次第に、自分の視ている夢がどうしようもないほどの願望であると思うようになるはずだ。
「寝ても覚めても私のことで頭がいっぱいのお姉ちゃん……どうしようもなくなって私を襲いに来てくれることが、今の私の願望なんだよ、おねぇちゃん……」
ぺロリ、と愛しい姉の頬を一舐めして、私はベッドから出る。
そのまま部屋のドアノブに手をかけ、少し開けてからきっと幸せな夢を見ているだろう姉を見遣る。
「ウフフ……おやすみ、おねぇちゃん」
私は心の底から湧き出した喜びを噛み締めながら、部屋を後にした。
「ぺろぺろ」
何だろう、自分の首筋に何か生暖かい感触を感じた。
『それ』は、ぴちゃぴちゃという水音に合わせて私の首筋を這い回っている。
私はその行為を受けたことによって、誠に不本意ながら意識を眠りという海底から浮上していった。
完全に海面へ顔を出す前に覚醒しかけた意識が、首筋に感じる『それ』が何なのか、答えを導き出した。
これは舌だ。
何者かが私の首筋を舌でもって舐めまわしているのだ。
まったく……大方、ペットの内の一匹が眠れなくて私のベッドまで来たのだろう。
ペットたちの中には、まだまだ甘えたがりな子達もいる。
そんなペットたちの相手で一日が終わってしまうことがあるくらいだ。
いや、ひょっとしたらお燐かもしれない。
あの子はペットたちのまとめ役みたいな立ち位置にいるけれど、周りの目がない時は結構甘えてきたりするのだ。
どちらであるにせよ、このままされるがままでい続けるのもくすぐったくてしょうがない。
……くすぐったい?
「ん、んんぅっ……」
いや、何ていうか、これは、くすぐったいというより。
ツツー、と舌先で鎖骨から首筋へなぞるように舐められる。ひええええ。
これは違う。決定的に何かが違う。少なくとも、甘えている舐め方ではない。
今まさに喉元へ噛みつかんとする吸血鬼が、牙を立てるべき肌の下の血の暖かさを確認するかのような、どこか淫靡さをも感じさせる、そんな舐め方だ。
それに加えて、暗く静かな部屋に響くわざとらしい水音が余計に扇情的にさせるというか。
要するに、イヤラシイのだ。
そして、はぁぁ……と熱のこもった吐息を顔に感じた瞬間、身の危険を感じた。
脳内に鳴り響く警告音により、貞操の非常事態宣言を発令した私は一気に意識を浮上させる。
浮上していく意識の中で、私の首筋を舌でもって蹂躙している者の正体にも気付く。
というかとっくに気付いてもよかったのだ。
私は心を読む程度の能力を持つ覚り妖怪。
その能力は地上を追放され、さらに追放されたもの同士が集うこの地底においても忌み嫌われる能力。
半覚醒くらいまで意識が夢から現に戻ってくれば、相手の心を読み取ることは造作も無いのだ。
だが、読めなかった。
どんな相手でもその心の声を覗き見ることが出来る私の能力を持ってしても読めなかったのだ。
そんな相手が果たして存在するのか?
その答えはイエス。
唯一例外が存在するのだ。
それは、私の大切な、たったひとりの――。
「……何をしているのかしら? こいし」
「あ、起きちゃった」
――たったひとりの妹、古明地こいしである。
「起きちゃった、じゃありません。何をしているのかを聞いているの」
「何って、ぺろぺろしていたに決まっているじゃない」
「ぺ、ぺろぺろ!? 汚いじゃないの!」
覆い被さるようしているこいしを押し退けながら起き上がる。
こいしは「やぁん」と不満を口にはしたが、特に抵抗することはなかった。
「えーそうかなー」
私の言葉が理解できないのか、小首を傾げるこいし。
その動作は大変可愛らしいのだが、お姉ちゃんとしてはこの感覚、倫理観には同意して欲しいところだった。
「どう考えても汚いでしょ……」
ため息を吐きながら妹のモラルの欠如を嘆く。
そんな私に、こいしが言葉を投げかける。
「本当にそう思ってるのー?」
一瞬、時が止まったような気がした。
一体この子は何を言っているのだろうか。
「当たり前じゃない。唾液でべたべたになっちゃうし」
「へぇー、ふぅーん」
私の返答に対して、こいしは意味ありげな表情で私を見る。
「……何よ?」
「えー、だってぇー……クスクスクス」
僅かに不快感を露にしながらこいしを睨みつける。
一方のこいしは、私のそんな視線などどこ吹く風といった風に、いつもと変わらない無邪気な顔で私の顔を覗き込む。
そして、とんでもないことを口にした。
「お姉ちゃん、私にこうして欲しかったのにそんなこと言うんだもの。おかしいなぁーって思って……」
また時を止められた気がした。今度は先程よりも長く。
その分妹の言葉の意味を理解するまでの時間も長かった。
止まった時が動き出すと、すぐさま私はこいしに言葉を返す。
「なっ……! そんなわけがないじゃない!」
私が一体いつそんなことを望んだのか。
口にしたこともなければ、そんなことは微塵も思っていない。
「そんなわけがあるんだよねー、これが」
自分でも珍しく声を荒げているのだが、こいしはニヤニヤと不快な笑みを浮かべ続けている。
その表情のまま放つ言葉が、私をさらにイラつかせる。
「どうしてそんなことがあなたにわかるのよ! もうあなたは心が読めるわけではないのに!」
そう口にしてから、私はすぐに後悔した。
私と違ってこいしはもう心が読めない。
姉妹で持っていた覚りの力を妹は自ら閉ざしてしまった。
否応なしに流れ込んでくる他者が心に秘めた負の感情に、こいしは耐えられなかったから。
それはこいしにとってトラウマとも呼ぶべきものである。無意識になって、もうそのことを忘れているかもしれないが。
だから、もし仮に彼女が忘れていたとしても、私は自分の言葉を大いに自省した。
そこで私の噴き上がった感情もしぼむ。いや、しぼむどころか地下に潜った。気持ちが下にずぶずぶと沈んでいくのと同じように、私は顔を俯かせる。
しばらく、無音だった。暗い部屋が余計にその静けさを感じさせる。
それから私が顔を上げたのは、こいしからの思いもよらない言葉が静寂を切り裂いたからである。
「読めるよ」
「えっ?」
これで、三度目だ。
こいしは時間を操る程度の能力でも手に入れたのだろうか。
しかし、今回のはあまりにも強烈だった。
「私も心を読めるよ。お姉ちゃんと同じ覚り妖怪だもの」
「だって……こいし。あなたは……」
「うん。私は自ら心を読む第三の目を閉ざした。そうして私は心を読むことが出来なくなった」
そうだ。その通りだ。
覚り妖怪が覚り妖怪でいられるのは、第三の目があるからこそだ。
その目を自らの手で閉ざしてしまったこいしには、もう相手の心を読むことは出来ない。
出来ないはずなのに、読むことが出来るというのは一体どういうことなのだろうか。
「でもそれは意識の世界――つまりは現実の世界においての話。ねえ、お姉ちゃん。心を閉ざした私が得た能力って何だったっけ?」
「……無意識を操る程度の能力」
無意識。心を閉ざしたこいしが得た能力。
こいしがこの能力を得てから、私は彼女の心を読むことが出来なくなった。
それだけではない。私を含め、全ての人妖からこいしは認識されなくなった。
今でこそ、近くにいればおぼろげに捉えることは出来るのだが――それも肉親である私だけのようで他の者たちは声を掛けられるなどしてようやく存在に気付く――、無意識になりたての頃は完全に存在が消えていた。
それが、こいしの閉ざされた心が僅かに開いているのか、それとも能力の扱い方を学習したのかによるものなのかはわからない。
「そう。この能力を得たことで私は無意識で行動することが出来るようになった。それは意識の世界での存在が希薄になったということ。逆に言うと、無意識の世界で私は強く存在しているということなの。じゃあ、お姉ちゃん。無意識の世界って何だと思う?」
無意識の世界。
今私たちがいるこの部屋が意識の世界だというのなら。
無意識を操って存在を捉えられなくなったこいしは、そこにいるとでも言うのだろうか。
想像もつかなかった。
「……わからないわ」
しばし思案した後に、私からやっと出た言葉はそれだけだった。
その答えに、ぷぅと頬を膨らませて不満げな顔をするこいし。
しょうがないなあ、といった風に眉を潜めて答えを教えてくれた。
「ダメだなあ、お姉ちゃんは。無意識の世界っていうのはね、夢の中のことなんだよ」
「夢の、中……」
「そうだよ。無意識の、深層心理の世界では、自分でも知らない自分がそこにはいるの。だけれどそれは、心の内に秘めた願望であり、忌避すべき恐怖の対象であり、蓄積された過去の記憶でもある」
「……」
「そして私の能力は、そういった他者の無意識への干渉もできるのよ。その人の、より深いところを覗き見ることが出来るの」
「……より深いところ? あなたは他者の心が読めることを嫌って心を第三の目を閉ざしたのではないの……?」
ただ相手の思っていることを読むだけでは足りず、相手の根元まで深く知るために第三の目を閉ざしたというのか。
他者の心が読めてしまうことが嫌で第三の目を閉ざしたというのは、嘘だったというのか。
「ううん、それは本当。でも理由としては半分だね」
「半分?」
「残りの半分は、お姉ちゃんの心を、もっと深くまで見たかったから」
「私の、心を……?」
「うん。第三の目を閉ざす前もお姉ちゃんの心を読むことはもちろん出来たけれど、それだけじゃ足りなくなっちゃってね。お姉ちゃんが望むこと、お姉ちゃんが怖いと思うもの、お姉ちゃんが見てきた風景を、意識下では見えない無意識の奥の奥の奥底まで知りたかったから」
「何で、そんなことを……」
第三の目を閉ざしてまでして、私の心の無意識の部分まで見たかった。こいしはそう言った。
そこまでする理由が私には皆目見当がつかなかった。
こいしは私の心に、一体何を求めていたのだろうか。
その疑問は、こいしの言葉によって氷解した。
「だって、私はお姉ちゃんのこと大好きだもの。愛しているもの」
「なっ……!」
こいしが、私のことを、愛している?
家族として――ではないのだろう。そういったニュアンスだとは、感じなかった。
頬を僅かに紅く染めたこいしが、私にしなだれかかってくる。
「愛しい相手のことを知りたいと思うのは、当然でしょ? でも良かったぁ、お姉ちゃんも私のことを好きみたいだったから」
「ど、どういうことよ……」
本当に、どういうことだ。
私はそんなことは言っていない筈なのに……。
私がこいしの発言に対応する言語の検索をかけている間に、こいしは私の身体を押し倒す。
「言ったでしょ? 他者の無意識へ干渉できるって。さっきお姉ちゃんをぺろぺろしていたのは、お姉ちゃんの無意識に踏み込んでそこからお姉ちゃんがして欲しいことを読み取ったからなんだけどなあー」
「わ、私はそんなこと!」
決してそんなことは思っていない。思っていないはず……なのに。
「いいんだよ、お姉ちゃん。私はお姉ちゃんのためなら何でもできるよ?」
でも、思い返せば、こいしの心が読めなくなってから、姿が認識できなくなってから、私はずっとこいしのことを考えていたかもしれない。
「こいし……」
こいしと一緒にいる瞬間が、一番幸せだったと、こいしが第三の目を閉じて、確かに気付かされたのだ。
「ほら、触ってみて……」
こいしが私の手を取って自らの胸へと導く。
「あ……」
こいしの控えめな胸から伝わる鼓動。
それが早鐘を打っているのがパジャマ越しからでもはっきりと伝わる。
「私、さっきからずっとドキドキしてるんだよ? お姉ちゃんが私にぺろぺろして欲しいなんて思ってたから……。お姉ちゃんはどう? ドキドキした?」
今度はこいしが空いている手で私の胸に手を伸ばす。
「私は……あ、こら、こいし」
私もこいしに負けず劣らずの控えめな胸に、こいしの手が優しく触れる。
何だか変な感じだ。
「……お姉ちゃんもドキドキしてるね? 嬉しいなあ……」
こいしにそう言われて、私は自分の体温が一気に跳ね上がるのを感じた。
だって、こいしが、本当に嬉しそうな顔をするから……。
こいしのことを心の底から可愛いと思ったから……。
「こいし……」
心の底から……――ああ、そうか。
「おねぇちゃん……」
私は……心の底からこいしのことを――。
「こいし!」
私に覆い被さるようにしているこいしを力任せに横たえて、今度は私がこいしに覆い被さる。
「あっ……」
「こいしは本当にダメな子です! よりにもよってお姉ちゃんを好きになっちゃうなんて!」
もうどうにも止まらない。こいしへの気持ちは止まらない。
「うん、こいしはダメな子だよ。もうお姉ちゃんしか見えてないんだよ」
「折角私は我慢していたのに、これじゃあ台無しじゃない!」
こいしが心を閉ざして姿が見えなくなってしまって、それが悲しくて悲しくて、会いたくて会いたくて。
「ごめんね、ごめんねお姉ちゃん」
「仕様のない子。これは私が今まで我慢していた分も含めて、可愛がられてもらわないといけないわね」
それがいつの間にか、こいしへの恋心に変わっていったんだ。本当に罪作りな子だ。
「うん、こいしはお姉ちゃんの言うことなら何でも聞くよ? だからいっぱい可愛がってぇ……」
「こいし!!」
「こいし……こいしぃ……!」
明かりの消えたお姉ちゃんの部屋の中。
私は切なそうに私の名前を呼ぶ姉の姿を、とても満ち足りた表情で見下ろしていた。
「ウフ。お姉ちゃんたら、そんなに私のこと想ってくれていたのね。こいしは嬉しいよ」
お姉ちゃんはふかふかの毛布を私に見立てているのだろうか、私の名を呟きながら毛布を抱き締めている。
なんて可愛い生き物なんだろう。惜しむらくは、これがまだ現実世界の私には向いていないことか。
まだまだ姉の気持ちは、深層意識から外へは出ていない段階だ。
なまじ、相手の心を一方的に読んで一方的に会話して、相手に嫌われるものだから、自分の感情を吐き出せずに内に溜め込んでばかりいるこの姉である。
深層意識から秘めた感情を引っ張り出すのには、中々骨が折れそうだった。
しかし、ここまで来れば――。
「後は……お姉ちゃんの深層意識にある私を好きと想う気持ちを表層意識まで引き上げるために、これから毎晩夢の中でこいしを可愛がってもらうからね」
――時間の問題である。
今お姉ちゃんが感じているであろう幸せも、朝になって、目が覚めて、夢だと分かれば、一時の気の迷いだと思われかねない。
この夢を現実にするためには、毎日毎日お姉ちゃんの無意識に干渉して、今と同じような夢を視せなければならない。
そうすれば次第に、自分の視ている夢がどうしようもないほどの願望であると思うようになるはずだ。
「寝ても覚めても私のことで頭がいっぱいのお姉ちゃん……どうしようもなくなって私を襲いに来てくれることが、今の私の願望なんだよ、おねぇちゃん……」
ぺロリ、と愛しい姉の頬を一舐めして、私はベッドから出る。
そのまま部屋のドアノブに手をかけ、少し開けてからきっと幸せな夢を見ているだろう姉を見遣る。
「ウフフ……おやすみ、おねぇちゃん」
私は心の底から湧き出した喜びを噛み締めながら、部屋を後にした。
ヤンデレ以上の何かってあまりに素敵過ぎるでしょう
いやあ、こいしの能力は考えれば考えるほど怖い。ぺろぺろ。
これからもお幸せに!
ちょっとダーク入ってますが、
ハッピーエンドまでもうすぐなのを期待します^^
ご馳走様でした!