「お求めの物は見つかったかな?」
人里から少し離れた森の入り口。そこにひっそりと営業中の古物屋「香霖堂」の店主森近霖之助は、その日最後であろう客へ声をかける。彼の性格上、またその店の性質上客へ対して聞かれもしないのにあれこれと御用聞きをするのは趣味ではないのだが、その時はそうせざるを得ない理由があった。なにしろ、今日はもう店を閉めようと思っていたのだから。
「あ、はい。見つかりました」
ややあって店の奥から返事があり、一人の女性が数冊の書物を抱えて霖之助のもとへと近づいてきた。
「えーと、草花の図鑑に鳥の写真集、科学雑誌……と。お代はこんなものでどうかな。」
ぱちぱちとソロバンをはじいて見せる霖之助。これくらいの計算がそらでできないわけではないが、客商売の信用のため、客に対して金額を目に見える形で提示することも必要なのだ。
「そんなに安くでいいんですか?……これでどうでしょう」
ソロバンの駒を一つ大きい値にはじいてみせる客。
「高く買う方に交渉する客なんてものがあるかい。これが相場なんだよ」
駒を元に戻す。すると再び駒がはじかれる。
「この前来た時とあまり物が変わっていないようですが。そんなにお客さん来ないんでしょう」
実際のところ近頃あまりこの店は繁盛していない。常連客はよく訪れるのだが逆に物を売りつけに来るか、買ってもツケにされてしまう。また、決まった買い物をする客向けの品物は売り場とは別のところに保管しているのだ。
「君が心配することじゃないよ。お金がなくたって飢えて死ぬわけじゃなし」
一度決めた金額は譲らない。店の主はその矜持を保つべく三度ソロバンをはじくのだが。
「今すぐ命にかかわることがないからと言って、無理をしているとあとが怖いですよ。優れない体調のままお
じいさんになるつもりですか?」
ぱちん、ぱちん。それから数度そうしたやりとりが繰り返され、最終的には霖之助が折れることとなった。
「……お買い上げどうも。このお礼はいつか何かしらの形で……いや、今日のうちに返そう」
彼は帰りかけた客を引き留めると、店の奥の住居から酒瓶を手にして戻ってきた。
「いいのが手に入ったんだよ。店に出すつもりはないから一緒にどうだい」
「お礼なんていいですよ。……と言いたいところなんですが、早くお店を閉めたそうだったのはそういうわけだったんですね?」
珍しく声をかけてきた店主の様子を察していたのか、あきれたような顔をしている。
「ばれてたか。僕もまだまだ精進が足りないようだ……」
先ほどの仏頂面とは変わり、上機嫌で悪びれず言う霖之助。
「そういうことなら、ご厚意に甘えさせていただくことにしましょう」
彼と旧知の仲の半妖、上白沢慧音は苦笑しながらそう答えた。
しばらくして、香霖堂の会計台には簡単なつまみが数品と湯飲みが二つ、そして台を隔てて二人の男女が席についていた。お互いに酒を注ぎ合い、軽く湯飲みを合わせてささやかな酒宴が始まった。
「うん、やはり美味い。店に出さずに正解だった」
「ええほんと。飲みやすくていいですね。外の世界のものですか?」
「それは企業秘密というやつさ」
なんなく出自を言い当てる慧音に驚くこともなく、軽口で返す霖之助。香霖堂には様々な珍しい商品が入荷
するが、彼が店に出したがらないのはほとんど幻想郷の外から持ち込まれたものだ。特に嗜好品の類で状態の
いいものは、自ら消費するかこうして親しい者に振る舞われることとなる。
「秘密なら仕方ないですね。でも、それならこのお酒があることも秘密にしておけばよかったのでは?」
「……しまった。今からでもなかったことにならないかな」
「できますけど、とっておきのお酒が減っている理由を思い悩むことになりますよ?」
彼女は歴史を食べて「なかったこと」にする能力を持っている。しかし、そう周囲の者に思わせるだけで、本当に無くなってしまったものを取り戻すことはできない。今二人で酒を飲んでいるという出来事を相手が忘れてしまっても、飲んでしまったものは元には戻らないのだ。
「それは嫌だな。酒は気持ちよく飲みたい」
「同感です」
お互いにとっていまさら特に確認し合うようなことでもないが、せっかく良い酒と話し相手が居るのだからと、幻想郷の平均から見れば酒に強い方ではない二人は酔いも手伝って口数が増えていく。
「さっき買ってくれたのは外来本ばかりだったけど、やっぱり仕事に使うのかい?」
「ええ、外の本は色のきれいな写真が載っていますから、それだけでも子供たちの関心を引くんですよ」
慧音は人間の里で寺子屋を営んでいる教師だ。珍しいものに関心を持つのは大人も子供も変わりなく、こと退屈な授業に評判のある彼女にとって外の世界の本は強い味方なのだ。家から遠いこの店に足繁く通う理由もそこにある。
「里にだって外来本を扱っている店くらいあるだろう。仕事が終わってからならそっちのほうが便利じゃないかい?」
「あるにはあるんですけど、貸本屋のお店なので子供たちに見せるには少し不安ですね。安いものではないで
すから」
「ふうん、うちにはそんなもの売るほどあるから特に気にしてないけどなあ」
「……霖之助さん。それおじさんみたいです」
違う場所で違う生活をしている者同士が同じ席に着けば、それだけで話題に困ることはない。まして酒の席ともなればとりとめのないことで笑い、驚き、共感する。その日あった出来事、思ったこと、今後について考えていること。二人きりの宴の夜は静かに更けていった。
ひとしきり話題も尽き、用意したつまみを平らげるころには二人とも程よく酔い、新たに酒を注ぎ足すことをためらい始めていた。時間もだいぶ遅くなり、置かれたランタンから遠い窓辺には月の光が差し込んでいる。途絶えた会話の静寂が、しめやかに宴の終わりを告げていた。いつまでもこの余韻に浸っていたい衝動に駆られつつも、霖之助は対面に座る彼女へ帰宅を促す。
「今日はありがとう。またいいのが手に入ったら声をかけるよ」
「……あ、いえ。こちらこそありがとうございました。では、また」
彼女は少し名残惜しそうな表情を見せたが、すぐに立ち上がると戸口へ向かう。月光にさらされた長い銀髪が揺れ、薄暗い店内に輪郭を浮かび上がらせた。それに目を引かれた霖之助は、あることに気づく。
「……君は今日何をしにここへ来たんだったかな」
「はい?」
「忘れ物だよ」
彼は先ほど慧音が購入した本の入った袋を掲げて見せる。彼女は恥ずかしそうにそれを受取ると、急いで出口へと引き返す。しかし、酒が入った状態で慌てたためか、少し足取りが頼りない。
「よかったら送っていくよ。そんな状態の君をひとりで返すのは心配だ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。そのあと霖之助さんがひとりで帰ることの方が心配なので」
「言ってくれるね。これでも妖怪の男だよ僕は」
「半分だけでしょう。夜道を歩くのは感心しません」
自らもまた半妖であることを棚に上げて、彼の申し出を固辞する慧音。こと他者の身を案ずることにかけては頑固な彼女だ。しかしこればかりは霖之助も譲らない。自分から酒に誘った手前もあるが、なにより意地がある。男として。その日二度目の押し問答を繰り返す。そのうち油の切れかかったランタンの灯が、ふっと消えた。月の光だけの薄闇の中、我に返った二人は言葉を失い、店内に再び静寂が訪れた。
「……こういうとき、他の子たちはどうしてるんですか?」
「どうって」
「霖之助さんに送ってもらうんですか?」
沈黙を破った彼女はこう問う。第三者の例を出して妥協点としようと言うのだろう。彼は身近な例をいくつか思い出して答える。
「どうもしない。彼女らは勝手にやってきて勝手に飲み始め、勝手に寝て勝手に帰るよ」
ことさらに勝手を強調して伝える霖之助。まさか君までそんなことはしないだろう、とでも言いたげだ。同時にどこか言い訳めいた雰囲気も感じられるが。
「そう、ですか」
少しだけ、彼女の声に戸惑いと柔和さが加わった。その表情までは霖之助からうかがい知ることはできなかったが、彼はこの交渉が自分の勝利に終わったと確信した。月明かりの穏やかな夜、その下でふたり連れ立って歩くのは、酔い覚ましの運動にしては贅沢すぎるくらいだと彼は思った。しかし、連れは帰路と逆方向に歩き出す。呆気にとられていると、背後からする陶器と水の音。
「では、わたしも勝手にさせていただきます」
居座ることを決めたらしい客は注ぎ足された杯を手にしている。丁寧にもふたつ。先ほどまでの席に再び腰を下ろし、向かい側にひとつを置く。
「それは駄目だ。……わかった、この際一人でもいいから帰りなさい」
「どうして駄目なんですか?」
「どうしても」
「わたしだけ?」
「そう、君は駄目」
「なぜ?」
「飲むのをやめなさい」
質問を繰り返す間にも彼女は杯を空けてゆく。彼は台上の瓶を手に取り、それ以上の飲酒を阻止する。残り少なくなった酒が水音を立て、二人の会話と位置に間が生まれる。なぜ駄目なのか、それは彼女が大人だからだ。一人で生計を立て、大人顔負けに酒を飲む少女たちが子供と呼べるかはわからないが、霖之助から見れば彼女らは明らかに年少者である。友人、あるいは歳の離れた妹程度以上の認識をするべき相手ではない。
しかし、この上白沢慧音は違う。これまでお互い歳相応の節度と距離感をもって接してきた相手なのだ。それは、友人として、同好の士として、あるいは数少ない同族としても。しかし、今の彼女は子供のように聞き分けがない。霖之助は、急接近してくる事態になんとか対処しようと言葉を続ける。
「君も知っているだろうけど、僕はあまり酒に強い方じゃない。だから、好きなだけ飲んで好きに騒いで、そのあと力尽きるように眠ってしまうような飲み方は、基本的にはしたくない」
「ええ、わかります。私もそうですから」
「だろう?もちろん、その時の気分にもよるし、そういう飲み方の楽しさが分からないわけではないけど」
「それで?」
言葉を選びながらの説得に、先を促す彼女。その口調はまるで悪さをした生徒の弁解を聞く教師のようで、霖之助はいつの間にこのような構図が出来上がってしまったのかとの疑問を感じていた。だが、それを口にすればいつまでも話が終わらないので、理不尽さを受け入れて有効打を探る。
「だから、今日は本当に楽しかったんだよ。僕は、こういう静かで、安心して過ごせる時間が好きなんだ。騒ぎも起こらないし、店の物も無くならない。今日この後や、明日の心配をすることもない」
「それじゃちょっと弱いですねえ」
文章問題の採点のような事を言う慧音。何かもうひと押し足りないということだ。その手の問題を解く基本
とは何だったか、それは相手の気持ちになって考えること。
「……でも、いい酒も一人じゃ味気ない」
「よろしい」
彼女は立ち上がって小さく拍手をし、そのまま彼の横をすり抜けてゆく。先ほどとは違いふらつくこともなく、忘れ物をすることもなかった。事態が呑み込めない店主を残して、帰途に就く客は戸口を開け放つ。
「今日は、本当にありがとうございました。また誘ってくださいね?」
「あ、ああ。君の都合がよければ」
「きっとですよ」
開かれた戸口からさらに月の光が差し込む。それに照らされた彼女は優しく微笑んでいた。それは、凛としていながらどこか儚げな、上白沢慧音のいつもの姿だった。
慧音の去った香霖堂の店内で、霖之助は再びランタンに火を灯し、自分の椅子へ腰かける。先ほどまで起っていた出来事に、どっと疲労感が押し寄せ思わずため息がこぼれる。酔いはどこかへ行ってしまったが、片づけをする気力は起りそうにない。今日はこのまま床に就くことにしてランタンを手に寝室へ向かう。
その時、彼女が先ほど置いたままの中身の入った湯飲みが目に入った。もう酒を飲む気分ではないが、この
まま捨てるには惜しい。そう思うほど今日のこの酒は美味かったのだ。寝酒と思い一息にあおる。とそこで、彼はようやく先ほど感じた戸惑いの正体に気づく。なぜあれほど酔っていたはずの彼女が急に平静を取り戻したのか、それがわかったのだ。
つい今まで、彼女との付き合い方を考え直さなければならないと本気で思っていた。しかし、今はまだその時でないようだ。その件については彼女も同じ考えらしく、彼は舞い上がっていた自分を恥じつつも、安堵を覚える。
今彼が飲み干したもの、そして彼女が最後に飲んでいたもの。それはただの、水だったのだ。
人里から少し離れた森の入り口。そこにひっそりと営業中の古物屋「香霖堂」の店主森近霖之助は、その日最後であろう客へ声をかける。彼の性格上、またその店の性質上客へ対して聞かれもしないのにあれこれと御用聞きをするのは趣味ではないのだが、その時はそうせざるを得ない理由があった。なにしろ、今日はもう店を閉めようと思っていたのだから。
「あ、はい。見つかりました」
ややあって店の奥から返事があり、一人の女性が数冊の書物を抱えて霖之助のもとへと近づいてきた。
「えーと、草花の図鑑に鳥の写真集、科学雑誌……と。お代はこんなものでどうかな。」
ぱちぱちとソロバンをはじいて見せる霖之助。これくらいの計算がそらでできないわけではないが、客商売の信用のため、客に対して金額を目に見える形で提示することも必要なのだ。
「そんなに安くでいいんですか?……これでどうでしょう」
ソロバンの駒を一つ大きい値にはじいてみせる客。
「高く買う方に交渉する客なんてものがあるかい。これが相場なんだよ」
駒を元に戻す。すると再び駒がはじかれる。
「この前来た時とあまり物が変わっていないようですが。そんなにお客さん来ないんでしょう」
実際のところ近頃あまりこの店は繁盛していない。常連客はよく訪れるのだが逆に物を売りつけに来るか、買ってもツケにされてしまう。また、決まった買い物をする客向けの品物は売り場とは別のところに保管しているのだ。
「君が心配することじゃないよ。お金がなくたって飢えて死ぬわけじゃなし」
一度決めた金額は譲らない。店の主はその矜持を保つべく三度ソロバンをはじくのだが。
「今すぐ命にかかわることがないからと言って、無理をしているとあとが怖いですよ。優れない体調のままお
じいさんになるつもりですか?」
ぱちん、ぱちん。それから数度そうしたやりとりが繰り返され、最終的には霖之助が折れることとなった。
「……お買い上げどうも。このお礼はいつか何かしらの形で……いや、今日のうちに返そう」
彼は帰りかけた客を引き留めると、店の奥の住居から酒瓶を手にして戻ってきた。
「いいのが手に入ったんだよ。店に出すつもりはないから一緒にどうだい」
「お礼なんていいですよ。……と言いたいところなんですが、早くお店を閉めたそうだったのはそういうわけだったんですね?」
珍しく声をかけてきた店主の様子を察していたのか、あきれたような顔をしている。
「ばれてたか。僕もまだまだ精進が足りないようだ……」
先ほどの仏頂面とは変わり、上機嫌で悪びれず言う霖之助。
「そういうことなら、ご厚意に甘えさせていただくことにしましょう」
彼と旧知の仲の半妖、上白沢慧音は苦笑しながらそう答えた。
しばらくして、香霖堂の会計台には簡単なつまみが数品と湯飲みが二つ、そして台を隔てて二人の男女が席についていた。お互いに酒を注ぎ合い、軽く湯飲みを合わせてささやかな酒宴が始まった。
「うん、やはり美味い。店に出さずに正解だった」
「ええほんと。飲みやすくていいですね。外の世界のものですか?」
「それは企業秘密というやつさ」
なんなく出自を言い当てる慧音に驚くこともなく、軽口で返す霖之助。香霖堂には様々な珍しい商品が入荷
するが、彼が店に出したがらないのはほとんど幻想郷の外から持ち込まれたものだ。特に嗜好品の類で状態の
いいものは、自ら消費するかこうして親しい者に振る舞われることとなる。
「秘密なら仕方ないですね。でも、それならこのお酒があることも秘密にしておけばよかったのでは?」
「……しまった。今からでもなかったことにならないかな」
「できますけど、とっておきのお酒が減っている理由を思い悩むことになりますよ?」
彼女は歴史を食べて「なかったこと」にする能力を持っている。しかし、そう周囲の者に思わせるだけで、本当に無くなってしまったものを取り戻すことはできない。今二人で酒を飲んでいるという出来事を相手が忘れてしまっても、飲んでしまったものは元には戻らないのだ。
「それは嫌だな。酒は気持ちよく飲みたい」
「同感です」
お互いにとっていまさら特に確認し合うようなことでもないが、せっかく良い酒と話し相手が居るのだからと、幻想郷の平均から見れば酒に強い方ではない二人は酔いも手伝って口数が増えていく。
「さっき買ってくれたのは外来本ばかりだったけど、やっぱり仕事に使うのかい?」
「ええ、外の本は色のきれいな写真が載っていますから、それだけでも子供たちの関心を引くんですよ」
慧音は人間の里で寺子屋を営んでいる教師だ。珍しいものに関心を持つのは大人も子供も変わりなく、こと退屈な授業に評判のある彼女にとって外の世界の本は強い味方なのだ。家から遠いこの店に足繁く通う理由もそこにある。
「里にだって外来本を扱っている店くらいあるだろう。仕事が終わってからならそっちのほうが便利じゃないかい?」
「あるにはあるんですけど、貸本屋のお店なので子供たちに見せるには少し不安ですね。安いものではないで
すから」
「ふうん、うちにはそんなもの売るほどあるから特に気にしてないけどなあ」
「……霖之助さん。それおじさんみたいです」
違う場所で違う生活をしている者同士が同じ席に着けば、それだけで話題に困ることはない。まして酒の席ともなればとりとめのないことで笑い、驚き、共感する。その日あった出来事、思ったこと、今後について考えていること。二人きりの宴の夜は静かに更けていった。
ひとしきり話題も尽き、用意したつまみを平らげるころには二人とも程よく酔い、新たに酒を注ぎ足すことをためらい始めていた。時間もだいぶ遅くなり、置かれたランタンから遠い窓辺には月の光が差し込んでいる。途絶えた会話の静寂が、しめやかに宴の終わりを告げていた。いつまでもこの余韻に浸っていたい衝動に駆られつつも、霖之助は対面に座る彼女へ帰宅を促す。
「今日はありがとう。またいいのが手に入ったら声をかけるよ」
「……あ、いえ。こちらこそありがとうございました。では、また」
彼女は少し名残惜しそうな表情を見せたが、すぐに立ち上がると戸口へ向かう。月光にさらされた長い銀髪が揺れ、薄暗い店内に輪郭を浮かび上がらせた。それに目を引かれた霖之助は、あることに気づく。
「……君は今日何をしにここへ来たんだったかな」
「はい?」
「忘れ物だよ」
彼は先ほど慧音が購入した本の入った袋を掲げて見せる。彼女は恥ずかしそうにそれを受取ると、急いで出口へと引き返す。しかし、酒が入った状態で慌てたためか、少し足取りが頼りない。
「よかったら送っていくよ。そんな状態の君をひとりで返すのは心配だ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。そのあと霖之助さんがひとりで帰ることの方が心配なので」
「言ってくれるね。これでも妖怪の男だよ僕は」
「半分だけでしょう。夜道を歩くのは感心しません」
自らもまた半妖であることを棚に上げて、彼の申し出を固辞する慧音。こと他者の身を案ずることにかけては頑固な彼女だ。しかしこればかりは霖之助も譲らない。自分から酒に誘った手前もあるが、なにより意地がある。男として。その日二度目の押し問答を繰り返す。そのうち油の切れかかったランタンの灯が、ふっと消えた。月の光だけの薄闇の中、我に返った二人は言葉を失い、店内に再び静寂が訪れた。
「……こういうとき、他の子たちはどうしてるんですか?」
「どうって」
「霖之助さんに送ってもらうんですか?」
沈黙を破った彼女はこう問う。第三者の例を出して妥協点としようと言うのだろう。彼は身近な例をいくつか思い出して答える。
「どうもしない。彼女らは勝手にやってきて勝手に飲み始め、勝手に寝て勝手に帰るよ」
ことさらに勝手を強調して伝える霖之助。まさか君までそんなことはしないだろう、とでも言いたげだ。同時にどこか言い訳めいた雰囲気も感じられるが。
「そう、ですか」
少しだけ、彼女の声に戸惑いと柔和さが加わった。その表情までは霖之助からうかがい知ることはできなかったが、彼はこの交渉が自分の勝利に終わったと確信した。月明かりの穏やかな夜、その下でふたり連れ立って歩くのは、酔い覚ましの運動にしては贅沢すぎるくらいだと彼は思った。しかし、連れは帰路と逆方向に歩き出す。呆気にとられていると、背後からする陶器と水の音。
「では、わたしも勝手にさせていただきます」
居座ることを決めたらしい客は注ぎ足された杯を手にしている。丁寧にもふたつ。先ほどまでの席に再び腰を下ろし、向かい側にひとつを置く。
「それは駄目だ。……わかった、この際一人でもいいから帰りなさい」
「どうして駄目なんですか?」
「どうしても」
「わたしだけ?」
「そう、君は駄目」
「なぜ?」
「飲むのをやめなさい」
質問を繰り返す間にも彼女は杯を空けてゆく。彼は台上の瓶を手に取り、それ以上の飲酒を阻止する。残り少なくなった酒が水音を立て、二人の会話と位置に間が生まれる。なぜ駄目なのか、それは彼女が大人だからだ。一人で生計を立て、大人顔負けに酒を飲む少女たちが子供と呼べるかはわからないが、霖之助から見れば彼女らは明らかに年少者である。友人、あるいは歳の離れた妹程度以上の認識をするべき相手ではない。
しかし、この上白沢慧音は違う。これまでお互い歳相応の節度と距離感をもって接してきた相手なのだ。それは、友人として、同好の士として、あるいは数少ない同族としても。しかし、今の彼女は子供のように聞き分けがない。霖之助は、急接近してくる事態になんとか対処しようと言葉を続ける。
「君も知っているだろうけど、僕はあまり酒に強い方じゃない。だから、好きなだけ飲んで好きに騒いで、そのあと力尽きるように眠ってしまうような飲み方は、基本的にはしたくない」
「ええ、わかります。私もそうですから」
「だろう?もちろん、その時の気分にもよるし、そういう飲み方の楽しさが分からないわけではないけど」
「それで?」
言葉を選びながらの説得に、先を促す彼女。その口調はまるで悪さをした生徒の弁解を聞く教師のようで、霖之助はいつの間にこのような構図が出来上がってしまったのかとの疑問を感じていた。だが、それを口にすればいつまでも話が終わらないので、理不尽さを受け入れて有効打を探る。
「だから、今日は本当に楽しかったんだよ。僕は、こういう静かで、安心して過ごせる時間が好きなんだ。騒ぎも起こらないし、店の物も無くならない。今日この後や、明日の心配をすることもない」
「それじゃちょっと弱いですねえ」
文章問題の採点のような事を言う慧音。何かもうひと押し足りないということだ。その手の問題を解く基本
とは何だったか、それは相手の気持ちになって考えること。
「……でも、いい酒も一人じゃ味気ない」
「よろしい」
彼女は立ち上がって小さく拍手をし、そのまま彼の横をすり抜けてゆく。先ほどとは違いふらつくこともなく、忘れ物をすることもなかった。事態が呑み込めない店主を残して、帰途に就く客は戸口を開け放つ。
「今日は、本当にありがとうございました。また誘ってくださいね?」
「あ、ああ。君の都合がよければ」
「きっとですよ」
開かれた戸口からさらに月の光が差し込む。それに照らされた彼女は優しく微笑んでいた。それは、凛としていながらどこか儚げな、上白沢慧音のいつもの姿だった。
慧音の去った香霖堂の店内で、霖之助は再びランタンに火を灯し、自分の椅子へ腰かける。先ほどまで起っていた出来事に、どっと疲労感が押し寄せ思わずため息がこぼれる。酔いはどこかへ行ってしまったが、片づけをする気力は起りそうにない。今日はこのまま床に就くことにしてランタンを手に寝室へ向かう。
その時、彼女が先ほど置いたままの中身の入った湯飲みが目に入った。もう酒を飲む気分ではないが、この
まま捨てるには惜しい。そう思うほど今日のこの酒は美味かったのだ。寝酒と思い一息にあおる。とそこで、彼はようやく先ほど感じた戸惑いの正体に気づく。なぜあれほど酔っていたはずの彼女が急に平静を取り戻したのか、それがわかったのだ。
つい今まで、彼女との付き合い方を考え直さなければならないと本気で思っていた。しかし、今はまだその時でないようだ。その件については彼女も同じ考えらしく、彼は舞い上がっていた自分を恥じつつも、安堵を覚える。
今彼が飲み干したもの、そして彼女が最後に飲んでいたもの。それはただの、水だったのだ。
寝る前などに読むと良さそうなお話でした