* 改とか書いてありますが、気にせず普通に読んでください。
突然の突風に、十六夜咲夜は身を屈めた。
何事かと顔を上げる。しかし、ただの風に正体などあるわけもない。そこには熱せられた鉄板のように、赤く腫れあがった雲海が広がっているだけだった。きっとあの向こうには、赤剥けた夕日が沈もうとしているのだろう。
ああ、もうこんな時間だったのか。咲夜は今初めて、自分が時間を忘れて仕事をしていたことに気づいた。時間を操ることのできるわたしが時の流れを失念するなど、いささか滑稽な話ではある。笑い話の域には届かない程度の滑稽さだが。
とはいえ、この年中モラトリアムの如き幻想郷のおいて、時の流れを正確に把握し続けることは難しい。そもそも時間というものは一定で不変であるように見えて、その実とてもうつろいやすい。それは体感時間と実際時間の違い、などというものではなく、きっともっと本質的な意味を含んでいる。絶対的な時間など存在しない。それが咲夜の見解だった。
咲夜は振り向き、今しがた調整を終えたばかりの時計台に目をやった。
十六時八分。そろそろレミリアが目を覚ます頃だ。
咲夜は軽く嘆息した。仕事も一段落したところで一息つきたいところだが、時間的にそうもいかないらしい。
時計台に続く渡り廊下から、咲夜は遠くの空に首を巡らせた。
今日は朝からいつにも増して寒い空気だった。ぐっと歯を食いしばらなければ胴震いが収まらないほどの底冷えで、咲夜もいつもより厚着をして外に出ていた。雲の向こうには夕日の気配があるが、天候もなにやらどんよりと曇っていて、ずいぶんと空が低く感じられる。今夜辺り、もうひと雪振るかもしれない。
もう、世間はすっかり冬なのね。咲夜はしみじみとそう思った。
しかしだからといって、そんなことに特別感慨を覚えるほどこちらも老人ではない。冬は年に一度、必ず訪れる。それに伴い、雪も積もる。珍しいことでもなんでもない。
それでも心のどこかでノスタルジックなものを感じてしまうのは、わたしが人間だからなのではないか。ふと、そう思うことがある。わたし達人間にとって、一年という時間は長い。たった三百六十五日と指を折ってみても、一年という月日は人を変えるには十分な期間なのだ。
人は移ろいやすく、そして変わりやすい。外見的な変化はもちろん、心の内面すらも、ふとしたことで容易に変容をきたす。だから毎年訪れる冬も、律儀に降り注ぐ雪も、半年も挟めばどこか違うものに感じてしまう。記憶が認識している景色は不変でも、刺激を受容する精神には、この一年が少なからず変化をもたらした。いわゆる心境の変化とは、そういうことなのだろう。
だがそれゆえに人間は脆弱なのだと、咲夜は以前レミリアに聞かされたことがあった。肉体にしろ精神にしろ、変わりやすいということは脆いということと同義なのだと。力の多寡とは、どれだけ自己を保てるかで測られる。何者にも脅かされず、何事にも動じない自身。言うなれば存在の力こそが、自身が強大である証なのだ。そうグラスを傾けながら、饒舌に話していたのを覚えている。
事実、真性の吸血鬼であるレミリア・スカーレットは、すでに五百年の時を生きている。彼女は見た目こそ、咲夜などよりもずっと小さい。だが彼女の持つ存在の力は、人間である咲夜には到底脅かせるには至らない。それは二つ名の通り、千代に八千代に、永遠に幼い無窮の存在。彼女の存在は、レミリア自身が語る力の概念そのものを体現していると言える。
しかし、不変であるがゆえに、彼女達は感情を動かさない。そう咲夜は思う事があった。咲夜のように、ふと雪景色を見て何かを思うことは無いだろう。地面が茶から白になった。せいぜいその程度の、感慨とも言えぬ自覚しか持たないに違いない。そもそも、強力な妖怪は寒さすら感じない。特に吸血鬼などは、何十年氷づけにされても簡単に蘇生してしまう。
一年は人間にとっては長いが、妖怪にとっては一瞬に過ぎない。季節の移り変わりの変化など、視覚的変化以外に何の意味も持たない。その見た目の移り変わりですら、とうの昔に見飽きてしまっているだろう。彼女達魔族の魂は、人間と比べ遥か老境の域に達している。彼我の違いには、決定的な懸隔がある。
……なんて小難しいことを咲夜が思いつくはずがなかったけれど、どことなくそんなことを考える無意味さには気づきつつあった。
自分が紅魔館に勤めるようになって、もう随分が経つ。妖怪達の下に仕えてから、わたしも―――不本意ではあるが―――日に日に人間離れしてきたように感じる。しかしながら、やはり自分は彼女達とは別の生物なのだと、こういう時に気づいてしまう。
ふう、と軽く息をつくと、咲夜は身を翻した。仕事をこなして食事を摂り、今日もいつも通りの毎日であればそれでいい。それ以上に、望むものなどありはしない。
*
主人の一日は、一杯の紅茶から始まる。夕方に起きて着替えをすますと、リビングで今日最初のティータイムを迎えるのだ。
だが一日の初めであるだけに、こちらも幾分注意しなければならないことがある。泰然を装っていても精神的には幼いここのご主人様は、この紅茶の出来で今日一日の機嫌が決まってしまう。彼女の口に合わない茶を出そうものなら、容赦なく槍やらレーザーやらが飛んでくる―――それはそれでこちらも運動不足解消にはなるが。わたしも仕えたての頃は、よくそんな事態に陥ったものだ。今となっては主人の好みは寸分も無く把握しているので、機嫌を損ねることはめったになくなっていた。今では葉にバリエーションを加えたりして、逆に満足させることが常だ。そして叶った紅茶に舌鼓を打たせ、主人の満足げな表情を眺める。ささやかながら、それがいつしか咲夜にとっても一つの楽しみになっていることを自覚していた。我ながら、小市民的だなと自嘲する。
「お嬢様、紅茶をお持ちしました」
ノックをしてから、ドアを開ける。レミリア・スカーレットはいつもの通り、窓際でお気に入りのビンテージアイアンの椅子に腰を降ろしていた。
「ああ、咲夜。ご苦労ね」
紅茶セット一式を乗せた台車を押しながら、部屋に入る。レミリアの側まで行くと、咲夜は台車の上で紅茶を淹れる作業に入った。
「本日のブレンドは……」
「ダージリンのマカイバリでしょう。香気ですぐにわかったわ。よく仕入れてこれたわね」
小さくあくびをしながら、レミリアはメニューの読み上げを遮った。小指の先っぽのように小さな鼻を上下させると、わずかに口許を吊り上げる。まだ眠い様子だが、今日も紅茶の選択はこれで正解だったらしい。咲夜は微笑しながら答えた。
「それは、企業秘密ですわ」
カップに紅茶を注ぎ、それを円形のテーブルに置く。レミリアは目を閉じて紅茶に顔を近づけると、香りに満足したようにそれを口に運んだ。
普段は里で葉を揃えるのだが、今回は香霖堂で仕入れてみた。といっても手に入れたのは偶然で、別の用件で買い物に来た時に、主人の目を盗んで拝借したものだ。こうして喜んでくれるなら、わざわざ犯罪まがいの事―――もはやまがいじゃないかもしれないが―――をしてまで入手した甲斐があったというものだった。
「あなたがわたしに秘密にして何の得があるかはわからないけど……まあいいわ」
隠すつもりなどなかったのだが、レミリアは別段気にしてはいないようだった。いつも通りの言葉遊びを、咲夜も続けることにした。
「行動のひとつひとつに、必ず意味があるとは限りませんわ」
「そう。人間は寿命が短い分、生きている間は自分のメリットを優先する。そんな業の深い生き物だと思っていたのだけれど」
「まあ、わたくしの場合、時間は無限にありますし」
「それもそうね」
蓮っ葉に言うと、レミリアはカップをテーブルに置いた。
空になったカップに二杯目を注ぎ、小皿に並べたスコーンを一緒に差し出す。茶菓子はいつも二杯目から。それが二人の間に定められた、ささいな決まりごとの一つだった。
紅茶とスコーンを交互に味わいながら、レミリアはベランダに続く大窓から、外の景色を眺めていた。まだ眠気が残っているような目で、じっとりと視線を向けている。
咲夜もつられて、外の景色に目をやった。すでに日は沈みかかり、対岸の雪原はオレンジ色というよりは紫に近い色の衣をまとっている。さっき外でも気づいたことだが、今日は珍しく霧が晴れ、向こう岸まで景観が見渡せていた。
……雪が、降りましたね。そう言葉をかけようとしたが、咲夜はやめた。それが何。そう返ってくるのが、目に見えていたからだった。
咲夜はレミリアの横顔を見た。夕暮れに染まる雪原を見ながら、この方はいったい何を思っているのか。そのうつろな視線からは、何かを推し量ることはできない。
「今日はいかがなさいますか?」
結局ついてでたのは、そんな事務的な質問だった。まあ、いつものことである。
「いつも通りよ。こうしてのんびりと紅茶でも飲みながら、雲間から漏れる陽光を眺め、一句詠む。幻想郷的一句をね。それだけよ」
こちらの内面など知る由もなく、レミリアは本当に普段通りのように佇む。一句とは、また古風な。このお嬢様は、一見冗談に聞こえるような事を案外本気で言っていたりする―――いわゆる天然というやつだが、咲夜はこれを勝手に、レミリアンジョークと名付けていた―――。この場合もやはり例には漏れなかったようである。咲夜は曖昧な笑みを浮かべた。
「一句って……そんなことしてたんですか」
「ええ。もしあの日光がわたしに降りかかったら、この体はどう朽ちてゆくのか、そんなことを思い描きながら詠むのよ」
「さぞ鬼気迫った句なんでしょうね」
それはまあ、当然。そうとでも言うように、レミリアは得意げに足を組み替えた。わたしとしては、別に褒めたつもりではなかったのだが。
「咲夜は今日は何をするつもりなの?」
尚更機嫌をよくした様子で、レミリアは上目遣いに訊いてきた。ティータイムが終わってからの予定は、特に思案していなかった。一瞬考え、そういえば香辛料が切れていたことに気づく。
「わたくしですか? 一通り仕事は終わったので、麓まで買出しに行こうかと思ってたんですけど」
「ふうん。面白くもないわね」と、レミリアは本当につまらなそうに顔を背けた。
「いや、そう言われましても」
レミリアも何かを期待して尋ねたわけではなかったのだろうが、こちらとしてはそれ以外に答えようがなかった。まあ、彼女の退屈を満足に埋める出来事など、そうそう起こりはしないだろうが。
「でも、たまにはわたしも行ってみようかしら。人間の村に」
唐突にそんなことを言い出すレミリアに、咲夜は心中でぎょっとした。咲夜はこれまで、なるべくレミリアを里に近づけないようにしてきた。理由はもちろん、里の住民にいらぬ恐怖を与えないためである。これから夜が更けていく時間帯とはいえ、まだ街には大勢の人が出歩いている。あの紅魔館の吸血鬼が街中を闊歩していると知れたら、みんな血相を変えて家に閉じこもるに違いない。咲夜としては、そんな余計な騒ぎを起こしたくはなかった―――このお嬢様にしたらきっと面白がるだろうが。ただでさえ紅魔館の者と名乗るだけで煙たがられるのに、これ以上風評を悪くしたらおちおち買い物もさせてもらえなくなる。
「うーん、今日は止めておいたほうがいいかと。見ての通り、雪が相当積もってますし」
咲夜は頬を指で掻きながら、適当な理由をつけて返した。反対されるとは思ってなかったらしく、レミリアは少し驚いたような顔を向けた。
「そんなの、飛んでいけばいいじゃない」
咲夜は顔を引き攣らせて難色を示した。そんなことをされれば、余計に人目についてしまう。
それに彼女が外に出るということは、わたしが隣で日傘を差さなければならないということだ。空を飛びながら日光が当たらないように傘を差し続けるのは、正直わたしとて骨が折れる―――というか面倒くさい。
「あのぅ、できればそういうことは自重なさった方が。一応人間がたくさんいますし」
「でも、咲夜だって飛んで行くんでしょ?」
「それはまあ、そうですが……」
どうにも答えようがなく、咲夜は語尾を濁した。こういう時はさすがに、いいかげん察しろとどついてやりたくなる。レミリアはしばらくこちらを不思議そうに見つめていたが、やがて視線をまた窓の方に戻した。
「まあ、確かにわざわざこんな日に行くこともないか。わたしは平気だけど、咲夜は寒いでしょう」
「ええ。まあどっちにしろわたくしは行くんですけどね」
咲夜は苦笑しながら、肩をすくめてみせた。それを見て、レミリアもふっと鼻息をつく。
「難儀なものね」
「紺屋の白袴、というやつですわ」
「……それはわたしのことを言ってるのかしら?」
じろりと横目が送られる。軽い皮肉で自分のことを言ったつもりだったのだが、変な勘違いをされてしまったらしい。そういえば今のことわざは、そういう意味もあった気がする。あれこれ指図をするだけして、自分は何もしない紺屋。確かにこの引き篭もりのお嬢様にぴったりだ。自分で感づくあたり、案外本人も自覚があるんじゃないだろうか。そう考えるとなんだかおかしい気分になって、咲夜は口元を抑えて笑った。
「それでも間違っちゃいないですけど」
「別にいいけどね」レミリアは特に気分を害した様子は無かった。スコーンをかじっていると、何かを思い出したようにこちらに首を向けた。「そういえば、もう一人の紺屋が何か欲しいものがあるって言ってたわよ。出る前に聞いておきなさい」
もう一人の紺屋。咲夜は一瞬ひどいしかめっ面をして止まった。たちまち嫌な予感が脳裏をよぎる。
この紅魔館には、咲夜達メイドの主人ともいうべき人物は三人いる。一人はもちろん、このレミリア・スカーレット。もう一人はレミリアの妹で、普段は地下に引き篭もっているが、情緒不安定で手のかかる紅魔館の核弾頭、フランドール。そして最後の一人が、日の光の届かない大図書館で暮らす、これまた引き篭もりの魔女、パチュリー・ノーレッジ―――あら、考えてみれば、全員引き篭もりじゃないの―――。彼女こそ、レミリアの言う紺屋である。
「パチュリー様ですか? また何かの実験の材料でしょうか。あまり無駄な荷物は増やしたくないんですけど」
パチュリーは普段大図書館で人知れず本を読んだり、怪しげな研究に精を出している。研究のテーマは気まぐれでしょっちゅう変わり―――ひょっとしたらそれも曜日ごとに決めているのかもしれない―――、それによって実験をしたり儀式をしたりまた変わる。しかし成功しても失敗しても、終われば満足そうな顔をしている―――なんとなく、ではあるが―――から不思議である。
だがどんな実験にせよ、本人が外に出る気が無い以上、必要な用具や材料は他の誰かが調達しなけらばならない。つまりは結局、わたしにお鉢がまわってくるのである。無論ただ代わりに買出しに行くぐらいならこちらも特に文句などないのだが、けっこうな確率で理不尽な要求をしてくるから堪らない―――あの紫の紺屋ときたら、あきらかに幻想郷には無さそうなものを、平気でもってこいだののたまうのだから。
レミリアはいたずらっぽく口許を吊り上げた。「本音が出たわね」
「出したんですわ。一応わたくしは人間なのですから。疲れる時は疲れるというものです。特に、どうでもいい実験の、くだらない材料なんか買いに行かされた日には」
「でも、あなたにとって時間は無限に存在する。そうでしょう?」
そうレミリアは、してやったりという顔でこちらを見上げる。そんな意地の悪い顔をされては、苦言を呈することなどできなかった。咲夜はため息をついてみせた。
「ふぅ。それを言われると、素直に従う他ありませんわね」
レミリアの手が止まっているのを見てとり、咲夜はティーセットを片付けにかかった。台車に乗せて立ち去ろうとした時、背後からレミリアの声が聞こえた。
「もっとも、あなたにはわたしに逆らう気なんて、初めからないでしょうけどね」
「言われるまでもありませんわ」咲夜はドアに手をかけながら振り向き、自然な微笑を浮かべてみせた。「わたくしは合理的な生き物ですから」
*
大図書館には窓が無く、よって出入り口は正面の一つしかない。広く長い廊下を突き当たった先に、この大扉はあった。
見上げるほどに巨大な扉は鉄枠が打ち付けられ、まるで先に猛獣でも隔離しているかのようなものものしさがある。パチュリーがここに住み着いたのは百年足らず前らしいから、案外それ以前は本当にそういう用途で使っていたのかもしれない。
咲夜は陰鬱な面持ちで、その大きな扉を見上げていた。一応言われてここまで足を運んだものの、現場に来たからといってモチベーションが上がるわけでもない。いつもの用件となれば尚更だった。いったい、今回はどんなくだらない難題を押し付けてくるのだろうか。仕事を選り好みするつもりはないが、ものには何事も限度というものがある。これでやる気が出る人間がいるとすれば、そいつはただのマゾに違いない。
「失礼しますわ」
念のため、一言断っておく。返事を待たずに扉を開け、中に入った。
ぎっしりと詰まった本棚の合間を、咲夜は歩いた。本棚は場所によっては天井に届くほどのものもあるため、棚というよりはまるで壁のようだ。ほとんど狭い廊下を歩いているような感覚である。とはいえ、ただの廊下より雑然としているのは間違いなかった。通路のそこらじゅうには、棚に収まりきらなかった本が無造作に積まれている。ひどい所はまさに足の踏み場もないくらいで、おかげでこちらはそれらを跨いで歩かなければならず、とにかく面倒なことこの上なかった。本来ならば散乱した本を整理するのは咲夜の役目なのだろうが、整頓した場所から次々と新しい本で埋まっていくのだから、投げ出しても文句を言われる筋合いはない。
ふいに唐突にぐらりと上体がよろめき、咲夜は一瞬体勢を崩した。どうやら、爪先が本に躓いたらしい。
向こうへ蹴り飛ばしてやりたいところだったが、そうしたところで周囲の埃が踊り狂うだけでしかない。仕方なく咲夜は、振り上げかけた足を自重させた。
まったくもって忌々しい。咲夜は諸悪の根元を拾い上げた。だいたいここの本ときたら、とにもかくにも量が多すぎる。加えてその大半が何が何だかわからないことを書いているとくれば、咲夜にとってここの本は、便所の紙よりも価値が無かった。いっそのこと火事でも何でも起きて、きれいさっぱり連れ去ってしまえばいいのだ。そうすれば、そこらじゅうに堆積した埃も同時に一掃して、このかび臭さともおさらばできるに違いない。半ば本気でそう思いたくなるほど、咲夜はいい加減この図書館に嫌気が差していた。
とまあさすがに炎で焼き尽くすのはやりすぎとして、これだけあるのだから毎日少しずつ持ち出していっても、ここの紫色は気づかないのではないだろうか。一日百冊処分するとして―――これでも少し、だ―――、一年もすれば通路に転がってる分ぐらいはすっきりするに違いない。
となれば早速計画を実行……と本棚に手を伸ばした時、声が飛んだ。
「こら。勝手に本に触れるなって言ってあるでしょう」
声の方角へ振り向く。いつのまにか、本棚の交差点の先に亡霊のような人影が突っ立っていた。咲夜からすればこの人影も人外だという点で、結局亡霊と似たようなものだった。実際長年日に当たらずすっかり精気を失った肌は、見た目も亡霊と大差無い。咲夜はポイと本を放り出し、笑顔を繕って向き直った。
「ああ、パチュリー様。いらしてたんですね」
パチュリー・ノーレッジは、やっぱり亡霊のような足取りでふわふわと近づいてきた。しかし目元にはいつも以上に大層なクマができており、亡霊を通り越して天邪鬼か幽鬼の類に見えなくもなかった。パチュリーは、いつもの抑揚に欠いた声で言った。
「わたしはいつもこの図書館にいるわよ。基本的には」
「いや、そういう意味ではなかったんですけど……」
図書館にではなくて、いつのまにそこに突っ立っていたのかという事を言ったのだが、徹夜明けの頭には十分に思考が行き渡っていないらしかった。
「そう。じゃあ、とりあえずこっちの頼みを聞いてくれるかしら?」
そんなことを淡々と漏らしだした。話の流れからしてじゃあも何も無かったのだが、もともと覚悟していたことだったので咲夜はさらりと返した。
「ええ。そのつもりで伺ったのですわ」
「またちょっと仕入れてほしいものがあるの。リスト書いておいたから、これ見ておいて」
どこかの本のページを強引に引き千切ったらしき紙切れが差し出された。そこには意外と可愛げのある丸文字で、こう殴りかかれていた。
硬玉の碑石
歯磨き粉(一本)
クチナシの果実(五個)
ファブリーズ(320ml)
アランビーク蒸留器
結界石(小さめの)
単一電池
……今日はやけに統一性が無い。これらがどうデタラメな作用を起こせば、実験と呼べるようになるのだろうか。咲夜は遠慮なく顔をしかめてみせたが、パチュリーはそれすらもいつものことと、無視して勝手な補足を始めた。
「ファブリーズは詰め替え用でいいわ」
「はあ」
「あと、単一電池はすでに電気が切れ掛かってるのが望ましいわね」
「はあ、そうなんですか」
まったくもってわけのわからない注文だったが、いい加減疲れるだけだったので問いただすこともしなかった。それよりも前向きに、今後のことを思案することにした。とりあえずパッと見た限りでは、荷物になりそうなものは蒸留器くらいだ。これならば今回は、さほど肉体労働にはならないかもしれない。それにリストの半分は、どこに行けば手に入るのか見当がつく。となれば問題は、残りの見当がつかない半分なのだが……。
「この硬玉の碑石とは、具体的にはどういうものなのですか?」
硬玉といえば、いわゆる翡翠輝石のことだ。翡翠は硬玉と軟玉の二種類があり、科学的鉱物学的に分けられる。硬玉の方が文字通り硬度が高く、宝石として珍重されているのはこちらの方である。そこまではわかるのだが、碑石とはどういうことだろうか。
「何でもいいわ」
「何でもいい、とは……?」
「言葉は何が書いてあってもいいのよ。碑石であることが重要なの。硬玉のね」
はあ、と咲夜は頭を掻きながら、気の抜けた返事を返した。「パチュリー様がそう仰るなら、そうなのかもしれませんね」
「かもしれないじゃなくて、そうなのよ。わたしが今まで間違ったことを言ったことがある?」
「無くもなかったような気はしますが」
「だとしたら、それはあなたの気のせいね」パチュリーはふわりと踵を返した。「そういうわけだから、頼んだわよ」
頼まれた咲夜だったわけだが、こうそっけない頼み方をされたのでは、よっしゃと期待に答える気にもなれなかった。代わりに、去り行く背中にくらわせてやれとばかりに、咲夜は大きくため息を放った。
「ふぅ、かしこまりましたわ」
*
そんなわけで特に急ぐ気にもならなかった咲夜は、「一度でいいから南フランスを旅してみたかった」などとあさっての方向に思いを馳せながら、のんびりと自室へ向かった。
タンスを開け、一番大きなサイズの風呂敷を引っ張り出した。仮に注文された品を全て詰め込んでもそれほどの荷物にはならなそうだが、念を入れてこれを持っていくことにする。もし余裕があるなら、明日の食材でも適当に詰め込んでくればいい。
小豆色の厚手のマフラーを取り出し、首にぐるぐるに巻いた。巻いたところでとたんに首元が暑苦しくなり、何も今部屋の中で巻くことはなかったんじゃないかと、咲夜は少し後悔した。まあいい、館を出るまでの我慢だ。そう割り切り咲夜は部屋を出た。
次に一階ホールに赴き、部下の妖怪メイドを集めた。そうはいってもこのハネの生えた役立たず達は、全員が揃うまでに丸一時間を要した―――ちなみに三十分を過ぎたあたりで、咲夜は暑苦しさに我慢しきれず結局マフラーを脱ぎ捨てた。メイド長がこれから買出しに館を空けるということで、咲夜はその間の仕事の指示をしておこうと思っていたのだが、クソ暑いマフラーなんぞ巻いて長時間待たされた鬱屈もあって、指示というよりはほとんど罵声のようなものがメイド達に浴びせられた。しかし物覚えが破滅的に悪いメイド達は口を開けて小首を捻るばかりで、上司が何に腹をたてているのかすら理解が及ばないらしかった。なので咲夜はさらに声を張り上げねばならず、後半は息切れを起こしてまるで中距離マラソンでも走らされたみたいになっていた。最後にはいよいよ業を煮やし、ナイフをそこらじゅうに投げつけて強引に解散させた。結局伝えたいことの五パーセントも伝わったのかわからないまま、咲夜は紅魔館の外へ出た。
再びマフラーをぐるぐる巻きにしながら歩いていくと、いつもどおりの幸せそうな顔をした門番が、門のところに突っ立っていた。
「美鈴、門番ごくろうさま」
にこりともせずそう告げると、美鈴はびくりとして振り返った。
「あ、咲夜さん。お疲れ様です~」
こちらをみとめると、なんだか美鈴は少しホッとしたような顔をした。その顔がなんだか癪に感じて、咲夜は皮肉の一つでも食らわせてやりたくなった。
「といっても、あなたは全然疲れてなんかなさそうだけど。何してたの?」
「そりゃあ、門番ですよ。それ以外に何をするっていうんです」
確かに。「まあね。でも、年中来訪者なんか来ないのに、門番もなにもないと思ってね」
「今更そんなこと言われても……。一応わたしのアイデンティティなんですけど」
「アイデンティティなんて、そんなもの、屋敷の中にいくらでも用意してるわよ。掃除当番に、皿洗い、食事当番。どれがいいかしら?」
美鈴の反応は早かった。まるで娘さんを下さいとでも言わんばかりの男前な顔で、きっぱりと言い放った。「どれも遠慮します」
「即答ね。で、本当はいつも何してるの?」
「普通に雪だるまとか作ってますけど」
言ってから、あっと美鈴は口を手で覆った。咲夜はどちらかというと雪だるま云々よりも、美鈴のありえない口の滑らし方に唖然とした。
「やっぱり遊んでるんじゃない」
「あ、雪だるまを作りつつ門番してるの間違いでした」
「一緒よ。まあ、その雪だるまはお嬢様に見つからないうちに処分しておくことね。もし見つかったら、それを口実にいろいろされると思うから」
もうバレてるだろうけど、と心の中で付け加えておく。いろいろというのは、それはもういろいろである。
「ううう、いろいろですか。そういう曖昧な言い方が一番怖いんですけど」
そんないろいろな運命が待ち受けている美鈴は不安げな顔をしたが、想像力の乏しさが幸いして、いとも簡単に気を取り直してしまった。
「ところで、咲夜さんはおでかけですか?」
挙句の果てにこちらにまで気を回すとは、つくづく幸せな妖怪である。咲夜はそんな性格をかわいそうに思う反面、ちょっぴりうらやましくも感じた。
「ええ、ちょっと買出しにね」
「寒いのに大変ですね」と、美鈴はさして大変そうもなく言った。
「あら、あなた妖怪なのに寒さを感じるの?」
「え、そりゃあ感じますよ。冷たくはないですけど」
「言いたいことはわからなくもないわね」
「うーん、なんて説明したらいいのかな」
と、やがて首を捻り始めたので、咲夜は早めにそれを制した。
「あなたは無理に頭を使わなくてもいいわ。形だけでも門番の仕事をしててくれれば」
「形だけでいいんですか……」
「事実そうしてたでしょう」
「……はい、すみません。もう雪だるまなんか作りません」
「それでいいのよ」
なんだかへこたれたように頭を垂らす様を見ると、溜飲も少しはさがった気がする。うな垂れた門番を尻目に通り過ぎ、咲夜はひらひらと背後に手を振った。「それじゃ、行ってくるわね」
*
どうやら、今日のわたしはついているらしい。
前途多難な旅路を覚悟していた咲夜だったが、その予測はいい意味で裏切られた。これだけ気分のいい裏切られ方をしたのは久しぶりかもしれない。すっかり上機嫌になった咲夜は街角を歩きながら、知らずして周囲に満面の笑顔を振りまいていた。
この人間の里には食料や日用品の調達のために、三日に一回くらい足を運ぶ。すでに日は暮れていたが、繁華街の賑わいはいつものとおりだった。
通り過ぎる市民は誰もかれもこちらに訝しげな視線を送ってきたが、それは咲夜のスマイルがやたらと極上だったからというよりも、その背中にある馬鹿でかい風呂敷の方だった。しかし機嫌をよくした咲夜は、そんな視線など屁とも感じなかった。
紅魔館を出てすぐさま人間の里へ向かった咲夜だったが、目的の一つ目はすぐに見つかった。途中で見かけた民家の庭にクチナシの木があったので、家主に事情を話して実を少し分けてもらった。もともとこの木人家周辺に栽培されていることが多いと踏んでいたので、予定通りすんなり手に入れることができた。
里に着くと、ちょうど入り口のところに結界石があった。台座の無い墓のような石の塊で、高さは膝ぐらいしかない。かなりの年月が経過しているせいか、角が取れて地蔵のように丸みを帯びていた。真ん中には何か文字が彫られているが咲夜には興味が無かった。結界石とはいわゆる霊界と俗界とを区切る標石で、普通は神社などに設置されているものである。それが何故こんなところにあるのかは知らないが、この幻想郷においては何か別の意味があるのだろう。とはいえ咲夜からしたら、こんな石の塊はそこらの地蔵程度のありがたみも無かった。さすがにこれをまるごと持っていくのは大変そうなので、一部をナイフで削って、それを持っていくことにした。
雑貨屋に行き、歯磨き粉とファブリーズ―――詰め替え用は値段もお得でいい―――はすぐに手に入った。少々手こずると思っていたのは単一電池だが、その辺に落ちていたのを拾った。捨てられていたのだから中身はからっぽなのだろうし、これで問題無いだろう。
というわけで出発して一時間足らずのうちに、欲しいもののほとんどが手に入ってしまった。あまりにトントン拍子に揃っていくので、咲夜の口からは普段めったに口にすることのない鼻歌まで漏れ出していた。
残る注文の品は硬玉の碑石と、アランビーク蒸留器。これらは店にもなければ、もちろんその辺に落ちているわけでもない。さてどうしたものかと笑顔を振りまきながら歩いていたわけだが、なんだか考えているうちにどうとでもなりそうな気がしていた。何しろ、今日のわたしはついている。さっきまでそうだったように、こうして歩いているだけで万事がわたしを中心に進んでいくような気がする。物事というのは、一つがうまくいくと連鎖的に好転していくものらしい。思えばストレス要因だった館での些事も、いずれくる幸運の裏返しだったのかもしれない。
「おっ、悪魔城のメイド長じゃないか。こんな所で会うとは、珍しいこともあるもんだな」
悪魔城がどこのことだかはわからなかったが、メイド長と呼ばれて、ああんと咲夜は振り返った。
「霧雨魔理沙。どうしてあなたがここに?」
咲夜の風呂敷に負けないくらい馬鹿でかい帽子を被った人物がそこにいた。霧雨魔理沙はいつもの人懐っこい笑みを浮かべながら、ヘラヘラとこちらに近づいてきた。
「いや、どうしてもなにも、わたしだって買い物ぐらいするぜ」
「それもそうね」
たいして面白くもなかったが、ご機嫌な咲夜はくすくすと笑った。魔理沙はさして気にした様子も無く、隣に並んで歩調を合わせてきた。
「そっちはいつもの小間使いか? この寒い中ご苦労なことだな」
咲夜のミニスカートにマフラーのみという真冬にはぎりぎりの軽装に対して、魔理沙は内はセーター、首にはアフガンストール、下はレッグウォーマーと、これから登山にでも繰り出すのかというくらいの重装備だった―――もしかしたらさらに懐にカイロも忍ばせているかもしれない。こちらとしては少々足が冷えるくらいでそれほど寒いとは感じなかったのだが、それだけ着込んでいる側から見ればこちらは何も着てないのも同じらしかった。
それにしても、小間使いとは心外だ。そこは訂正しておかねばならない。「仕事よ。変な言い方しないでくれるかしら」
「それにしても、見れば見るほど凄い荷物だなぁ」
魔理沙は、こちらの訂正などまるで意に介さない様子だった。しげしげと背中の風呂敷を眺める。
「江戸時代の泥棒みたいだぜ。いったいどれだけの金を使ったんだ」
「別にたいして使ってないわよ。みんなわたしが紅魔館の者だって知ってるから、快く譲ってくれるわ」
咲夜はしれっと言った。事実、店で手に入れた物のほとんどは無料だった。現代の時になっても、人々にとって吸血鬼は畏怖の対象なのである―――実際はあのとおりの幼女なのだが。ゆえに吸血鬼の住処で平然と暮らす人間は、似たような化け物も同然らしかった。そんな一方的な悪評のせいで、店に入れば誰もかれもがこれをお納め下さいと物品を差し出してくる。もはや咲夜の行く店は、八割方が顔パス状態だった。欲しい物が労せずして手に入るのは嬉しい限りだが、知らぬ間に人外扱いされていたとあっては不本意も甚だしい。甚だしいのだが、咲夜は使えるものは使う主義だった。くれるというならばもらってやる。罪悪感など無きに等しい。
そんな腹の内が堂々とした挙措に出ていたらしい。魔理沙は呆れたように吐き捨てた。
「みかじめ料かよ。性質の悪い客もいたもんだぜ」
「十分紳士的よ。その気になれば時間を止めていくらでも拝借できるのに、それをしないわたしは、稀に見る善人と言えるわね」
「まるで盗人の言い草だな」
「本物の泥棒がよく言うわ。何冊うちの本を持っていけば気が済むの」
「そう言われてもな。読みたくなったらもらいにいく、ただそれだけだ」
そう半ば名言みたいなセリフまでのたまった魔理沙は、こちらに負けないぐらいのしれっとぶりだった。彼女が大図書館から盗み出した書物はもはや百は下らなくなっているだろうが、咲夜としてはどれだけ盗まれようが構わなかった。むしろもっとハイペースかつ定期的に持ち出していってくれれば、整理整頓の手間が省けていいのだが。
とはいえ、体面上は一応注意しておかねばならない。咲夜は従者としての意識などさらさら持ち合わせていなかったが、責務は理解しているつもりだった。
「パチュリー様は、まだあなたを許したわけじゃないのよ。まあ、あの人にはそれを咎める行動力もないんだけど」
「なら、固い信頼関係を形成したも同然だぜ」
そう魔理沙はカラカラと笑った。反省の色なし。ということはつまり、結局はこの白黒も同じ穴の狢だった。
ところでこの狢、確か蒐集家という話だった。とすれば、ひょっとすると残りの注文の品にも心当たりがあるかもしれない。いや、あるに違いない。だいたいこのタイミングでのこのこわたしの前に現れる事自体、天啓めいたものを感じられる。鴨が葱しょってやってくるとは、まさにこのことではないか―――少し違うかもしれないが。
「ねえあなた、錬金術はやったことないの?」
咲夜がほとんど決めつけるように問いただすと、は?と鴨は片眉を吊り上げた。
「突然なんだ。月にでも行きたくなったか?」
何故そうなる。「違うわよ。いいから質問に答えなさい」
「やってたぜ。といっても、だいぶ昔の話だがな。すぐに飽きてやめてしまったが」
「じゃあ、アランビーク蒸留器、知ってるわよね。実は今それを探してるんだけど、あなたの家にあったりしない?」
「あったりするかもな」
やはり、今日のわたしはついている。咲夜は内心の小躍りをなんとか抑えながら、ポンと鴨の肩に手を乗せた。
「決まりね。今からお邪魔するわよ」
「あー? さっぱりわけがわからん」
魔理沙は小首も声色もこれでもかというくらい裏返した。そんな間抜け面も、だんだん鴨みたいに見えてくるから不思議だった―――あらよく見たら、なかなか愛嬌のある顔をしてるじゃない―――。対して咲夜は、例の極上のスマイルをこれでもかというくらいプレゼントしてやった。
「だから、紳士的にお邪魔するって言ってるの。気づいたら勝手に無くなったりするより、十分ましでしょ」
「どっちにしろ無くなってるんだから、ましも何もないぜ」ふぅ、とため息を一つ吐くと、魔理沙はこちらを見やった。「だいたい、わたしは渡さないなんて一言も言ってないぞ」
「あら、そうなの?」咲夜は目を丸くしてみせた。「あなた、割と賢明な性格だったのね。初めて知ったわ」
「……わたしも、こんなにも善意を悪意で返されたのは初めてだぜ」
こちらとしてはそれほど悪意のつもりではなかったのだが、どうやらわざとらしく目を丸くしたのが気に障ったらしい。魔理沙は今しがた言ったことを後悔したように、チッと舌打ちを鳴らした。とはいえそれで困るわけでもなかったので、咲夜はついでにと、もう一発悪意の笑みをくらわせてやった。
「感謝してるのよ。心からね」
「長い間吸血鬼なんかにこき使われてると、こうも人間味が無くなってしまうのかね」
魔理沙の鼻にかけた口調に、咲夜はわずかに奥歯を噛んだ。仮に今日の自分がもう少し不機嫌で、もう少し無鉄砲だったとしたら、この鴨を張り倒していたかもしれない。そう思った。
で、そんなささいな反撃が効いて満足したらしく、魔理沙はくるりと向き直って尋ねてきた。「まあ、とりあえず蒸留器が欲しいんだったな。そんなもの、今時何に使うんだ?」
「それは、わたしの知るところではないの。後でパチュリー様にきいて」
「ああ、小間使いだから持ってくるよう言われただけか」
咲夜は無視した。「あと、硬玉でできた碑石なんてあったりしない? 古代の発掘品なんかと一緒に」
「硬玉? 翡翠石の事か。そんな碑文なんて聞いたこともないが。翡翠じゃなくて、翠玉の間違いじゃないのか? 錬金術に使うなら、おそらくエメラルドタブレットの事だと思うが」
こちらの当ては外れたらしかった。まあ、たまにはこういうこともあるだろう。
咲夜は首を横に振った。「いや、今回は錬金術の実験じゃないと思うの。他にぜんぜん関係ないものも注文されたし。だから間違いじゃないと思うわ」
「実験って、ああ、やっぱりパチュリーの奴か」
「あら、今頃気づいたの?」
「なんだ、わたしは鈍い方なのか?」
「八割増ぐらいね」
魔理沙はフンと鼻笑いをしたが、愉快だから鼻笑いしたわけではないようだった。「まあいい。わたしが切れる人間だということは、今度華麗に本を盗む手際で証明してやる」
「あえて何も言わないでおくわ」
「で、翡翠だったな。翡翠だったら、博麗神社に普通に落ちてるぞ」
「いや、そんな土臭いのいらないんだけど。だいたい、その辺にある翡翠じゃ駄目なのよ。碑石じゃないと」
ふむ、と魔理沙は顎に手を置くと、しばらくしてからまたこちらを向いた。
「碑石ならなんでもいいのか?」
「いいらしいわ。理屈はわからないけど」
「だったら、やっぱり翡翠だけ探せばよくないか? 文字は適当に自分でいれればいい」
「あ……なるほど」
言われてみれば、パチュリーは碑石であれば何が描いてあってもいいと言っていた。それはつまり、どこぞの人外メイド長が適当な文字を入れても問題無しということではないか。
咲夜は大きく頷いた。「それでいいかもしれないわね」
「おおい、いいのかよ」
すかさず魔理沙のつっこみがはいった。そう言われても、依頼主がそれでいいというんだからこちらはそうとしか言えない。
「たぶんね。うん、これでなんとかなりそうだわ。翡翠の硬玉だけなら街にもあるだろうし」
また無辜の民からまきあげる気か、そうとでも言いたげな顔で魔理沙は呆れ声を出した。
「わざわざ店からまきあげなくても、博麗神社にあるぜ?」
「だからそれは結構よ。そんな鳥の糞まみれの石なんて」
「違うよ。霊夢の持ってる神具に、ちゃんと加工された羊脂玉があったはずだ。文字を書き込むぐらいの大きさはあると思うぜ」
羊脂玉。普通の翡翠よりもやや白く、透明感のある硬玉のことだ。翡翠の中では最上質のもので、ただの硬玉よりも希少価値は高い。そんなものを霊夢なんぞが持っているというのであれば、いただかないわけにはいかない。どうせあの腑抜けの巫女は宝石の価値などわからないだろうし、有効活用された方が―――得体の知らない実験の材料にされるのが有効活用なのかは知らないが―――宝石も喜ぶだろう。
「なるほど、羊脂玉か。悪くないわね」
ふふふ、と咲夜は満足げな笑みを漏らした。実際全ての目処がたったところで、彼女は十分に満足していた。
「どこまでも上からの物言いだな。まあとりあえず行こうぜ。もともと、わたしもそのつもりだったからな」
で、魔理沙はそんな満足に逆に愛想をつかしたようで、さっさと先へ進んでしまった。
*
「……で、着いたわけだが。ひどいな、これは」
まったくもって、咲夜も同意だった。「まったくね。どこもかしこも雪で、足の踏み場も無いわ。自分の神社なんだから、雪かきぐらいすればいいのに」
すっぽり雪に覆われた博麗神社を、二人は上から所在無さげに見下ろしていた。
実際は、足の踏み場も無いどころではなかった。境内に積もった雪は腰の高さなどとうに越え、事実人の通った痕跡などどこにも残っていない。積雪は境内を埋め尽くし、賽銭箱のある入り口まで続いている。上から見るとよくはわからないが、下手をしたら人間の身長ぐらい積もっているんじゃないだろうか。おかげで拝殿の下半分は、すっかり埋もれて見えなくなっていた。なら上半分はどうなのかというと、こちらも白い布団を被せたようにかわいく丸みを帯びている。かわいそうなことに、もうずいぶん長いことほったらかしにされていたらしい。おかげで主人に見放された博麗神社第一拝殿は、おとぎの国に出てくるキノコの家みたいな有様になっていた―――どちらかというとマッシュルームなわけだが。雪の重さで潰れていないのが奇跡的なぐらいだ。咲夜はそう思った。
「こんなへんぴな所に誰が来るわけでもないし、そんなことやってもしょうがないと思ったんだろ。外出するにしても飛んでいけばいいしな。まあ、それを口実にしている節はあるが」
魔理沙にとってこの景色はいつものことのようで、もはや呆れることすらしていなかった。ところで、誰も来ないへんぴな所といえばうちの赤い館も当てはまるわけだが、それでも雪かきぐらいは―――あるいは雪だるま作りは―――ちゃんと門番にさせている。うちも近所付き合いがいいとはいえないが、それに比べてもこの有様は、もはや付き合い自体を拒否してるとしか思えなかった。まあ、あの巫女らしいと言えばそれに尽きる。結論として咲夜の口から出た言葉は、こうだった。
「すでにパターンはいってるわね」
まあな、と魔理沙は頭を掻いた。「だがひとつだけ確かなことは、そんな怠慢なあいつに限って、こんな寒い日にわざわざ外出なんかしないってことだ」
それは言える。だいたいあの腑抜けときたら、寒い日に限らずとも家から出たがらない。となれば、今も中にいるのは確定だった。
「別にわたしはいなかったらいなかったで、もらう物もらって帰るだけだけど」
咲夜はひょいと肩をすくめて冗談だとアピールしたつもりだったが、魔理沙の目には本気に映ったらしかった。
「わたしが言うのもなんだが、お前って無駄に長生きしそうだよな」
「あら。あなたや霊夢には負けると思うわ」
「とりあえず、中に入ろうぜ。そしてまずはコタツの占拠だ」
それには同意だった。「そうね。いい加減、寒さで手もかじかんできたわ」
「この神社は暖房設備だけは徹底してるからな、なぜか」
「冷え性なんでしょ」
さすがに拝殿にはいないだろうとのことなので、二人は裏にある、霊夢が実際に寝泊りしている家屋の方へ向かった。こちらも案の定キノコが一つ生えていたが、玄関には出入りした跡があり、入り口として最低限の機能はしているらしかった。
「一応挨拶ぐらいしておくか。おーい、霊夢。はいるぞ」
玄関の前でそう断った魔理沙だったが、この寒さのせいか、それとも中の人物に聞かせる気がこれっぽっちも無いのか―――たぶん両方だろうが、挨拶というよりは夜毎独り言でも漏らすような小声だった。
「ねえ、もっと大きな声じゃないと聞こえないと思うんだけど」
「いやまあ、無理に聞かせるつもりもないし。それに、こんな寒い中大声出している人間がいるとすれば、それはただの馬鹿だしな」
魔理沙の言い分も最もだったので、咲夜は「違いないわね」と納得した。中に入ると、背中の風呂敷を玄関に残し、先の廊下を進んだ。
「それにしても、人気がまるで無いわ。本当にいるのかしら」
「まあここに来る人間なんて、わたしかお前ぐらいだからな」
「一応言っとくけど、にんきじゃなくて、ひとけよ」
「わかってるよ。だいたい、どっちでも会話繋がるだろ」
「ああくだらない」
薄暗い通路を我が物顔で突き進む魔理沙の後に、咲夜はついていった。やがて前方に、内から仄白い光を放つ障子が見えた。
「あ、たぶんあそこの部屋だぜ。コタツがあるのは茶の間しかないし」
魔理沙は障子の戸に手をかけると、それを勢いよく開け放った。
「よー、霊夢。今戻ったぞ」
その勢いがまた遠慮の欠片もないものだったので、博麗霊夢は下半身をコタツに突っ込んだまま、あんぐりと口を開けて固まっていた。まるで突然泥棒にでも出くわしたかのような顔を、こちらに向けている―――そしてその痴呆のように開いた口から、ぽろりと煎餅がこぼれ落ちた。
「あー、魔理沙? 入ってくるなら挨拶ぐらいしなさいよ」
相手が魔理沙だとわかり、霊夢は一気に脱力した。驚いて損したとばかりに、再びコタツの中に体をうずめる―――うずめた後で、何か忘れていることに気づき、間抜けな歯形のついた煎餅を拾い上げた。
「ちゃんとしたぜ。申し訳ない程度には」
当然、そう言う魔理沙には申し訳なさの欠片も見当たらなかった。霊夢はフンと盛大に鼻を鳴らす。
「で、頼んだ羊羹(ようかん)はちゃんと買ってきてくれた?」
「ああ。言われたとおり、店のやつ全種類買ってきたぜ。これでいいんだろ」
魔理沙はごそごそと懐のかばんに手を入れ、和紙で包まれた大きめの紙箱を差し出した。どうやら魔理沙も、霊夢におつかいを頼まれていたらしい。とすると、あの箱の中身がその羊羹だろう。霊夢はそれを受け取り、蓋を開いて中身を覗いた。すると、これよこれ、ととたんに目を輝かせた。
「うん、OKよ。じゃあ今からご馳走するわ」
そう霊夢が立ち上がろうとした時、ようやく魔理沙の背後にいたこちらに気づき視線を向けた。
「って、あら。あんたもいたのね」
その腑抜け顔が少し癪に障った咲夜だったが、彼女の上機嫌はまだ持続していたので、慇懃に挨拶を返す余裕があった。
「お邪魔してますわ」
「今日はあの小食なお嬢様はいないの? あんた一人で来るなんて、珍しいわね」
「遊びに来たわけじゃないからね」
じゃあ何しに来たんだ、とでも言いたげに霊夢は目を細めたが、それよりも霊夢は手元の羊羹の方に気が気でないようだった。「まあ、いいわ」と棚上げにすると、よいしょと重そうな腰を上げた。
「とりあえず、話は羊羹でも食べながらにしましょ」
*
「……というわけで、かくかくしかじかなんだけど」
何が角で鹿かというと、ようするに黙って羊脂玉を差し出せという件の事だった。咲夜は機嫌が良かったので、その旨をできる限りやんわりと言ってやった。聞いていた霊夢は羊脂玉って何だっけなどと見当違いなことに首を捻っていたし、隣で羊羹にがっつく魔理沙も特に横着する様子は無かったので、今回の目的も比較的容易に達せられそうに見えた。
「まるまるうまうまというわけね。いいわよ、それくらいなら」
コタツを三人で囲み、咲夜はコタツを挟んで霊夢の正面だった。腑抜けの霊夢は、腐りゆく葱みたいにぐったりと頬杖をついていた。羊羹とお茶を交互に口に運びながらこちらの話を聞いていたのだが、やがて話に飽きたのかあっさりとOKを出してくれた。
「あら、話が早くて助かるわ」
「勧めたわたしが言うのもなんだが、そんなに簡単に譲ってもいいのか?」魔理沙は頬杖をつきながら、楊枝に刺した羊羹をくるくると手元で弄んだ。「羊脂玉といったら、然る所で売ればかなりの値になるって聞いたが」
「だって、神具なんて物置に山ほどあるもの」
「だったら全部売っぱらって、山ほどの羊羹に替えとけよ」
「それは駄目よ。うちの神具は金品に替えてはいけない、そう決まってるの」
言い終わるくらいに、霊夢は魔理沙の手元から楊枝ごと羊羹を奪い、それを口に含んだ。
咲夜は尋ねた。「ただでくれるのはいいの?」
「いいんじゃない? そんな決まりはないし」
「よくわからん神社だな。巫女もこれなら戒律もってことか」
魔理沙にこれ呼ばわりされても、腑抜けの耳内には向こうに素通りしただけのようだった。「あんたが何を言いたいのか、よくわからないんだけど」
「ものぐさ神社」と、魔理沙はよくわかるように言った。
「やっぱりわからないわね」
「わかろうとしてないんだろ」
「まあとにかく」と、霊夢はさも面倒くさそうに話を打ち切った。「後で倉庫からとってきてあげるわよ。羊羹食べてからでいいでしょ?」
どれだけ食べれば気が済むんだと咲夜は思ったが、こちらはさっきまで喋ってばかりで羊羹にはろくに手をつけてなかったので、素直に従う事にした。
「ええ。こちらは別に急いでいるわけではないし」
「わたしもだぜ。そういうわけだから、もう一個くれ」
魔理沙は今日何度目かの手を伸ばした。霊夢もそうだが、こちらももうかなり食べていた。どうもこの二人は人間のくせに、食い意地が張って節操が無い。それでいて一日中コタツの中にいてもちっとも太る様子を見せないのだから、咲夜には腹立たしいことこの上なかった。
「また?」霊夢はひょいと羊羹を載せた皿を掲げると、魔理沙の魔手から逃れた。「もう五個目よ。買い置きの分まで食べる気?」
食べる気だけど? と魔理沙が不真面目な笑みを返すと、霊夢は憎々しげに皿を戻した。どうやら二人の間には、羊羹を買ってくる代わりに好きなだけ食べていいとでもいうような契約がなされていたらしい。
「じゃあ、わたしはお茶」
とりあえず咲夜も便乗しておいた。霊夢は、はあと居眠りから立ち直るように後頭部を掻きながら、億劫そうに腰を上げた。「まあいいけど」
急須の中がもう空だったらしく、霊夢はお湯を注ぎに一端茶の間を出て行った。部屋の主がいなくなったからというわけではなかったのだが、咲夜はようやくどれどれと皿の羊羹に手を伸ばした。
うん、なかなかに芳醇な甘みだ。咲夜は手の平を頬に当て、ご満悦に舌鼓を打った。紙箱を見たところ、この羊羹は里ではちょっとした有名店の物らしかった。なるほどこの二人が節操無しに貪るだけはある。
やがて霊夢は急須に湯気を乗せて戻ってきた。さむさむと急須側の腕を擦りながら、小動物みたいにばたばたとコタツに入り込んだ。そんなに寒いのなら、この時期に脇が丸出しの服など着るなと言いたかったが、自分もミニスカートなところを突っ込まれたくはなかった。
「そういえば、あなた。少しは除雪ぐらいしたほうがいいわよ。いくら誰も来ないからって、もう雪が境内の高さまで積もってたじゃない」
この期に及んで絶品の羊羹まで味わうことができた咲夜は、ガラにも無くそんなおせっかいを言ってみせた。要はそれほど、咲夜はご機嫌だった。
霊夢はお茶を湯呑みに注ぎながら、「除雪?」と訊き返した。
「別にいいでしょ。雪なんて、いずれは溶けてなくなるんだし」
魔理沙はカッと一発笑い飛ばした。「気の長い話だな」
渋い顔を向ける霊夢に、咲夜は饒舌に続けた。「せめて屋根の上の雪だけでも落としたら? このままだとこんなくたびれた神社、来年の日の出も見ないうちに潰れてしまうわよ」
潰れてしまうと言われて、霊夢の脳裏にもようやくあのキノコの姿が蘇ったらしい。確かにあのままだとそうなりかねないと思ったのか、うーんと腕組みなどし始めた。
「それは困るわ。かなり」
「わたしも困るな。ちょっとだけ」魔理沙が告げた。
「ここが無くなったら、お嬢様も悲しむだろうからね」咲夜もご機嫌に告げた。「ちょっとだけだけど」
二人同時にからかわれた霊夢はむっつりと腐って、コタツの上に頭を投げ出した。そのしおれっぷりときたら、葱からほうれん草に退化したかのようだった。
「ちょっとの為に頑張るのもなぁ~」
「ものぐさヒロイン」魔理沙が告げた。
「ヒロインってか、主人公なんだけど」
「ものぐさ主人公」咲夜が便乗した。
一人ならば聞き流せるだろうに、二方向から言われたのでは反駁する気力も失せるらしかった。やり場の無くなった霊夢は、「うーん」と意味不明な呻きを漏らした。
「こういうのは適材適所じゃないか? たとえばほら……」魔理沙はピンと人差し指を立てた。「あの蓬莱人でも連れてきて溶かしてもらえばいい」
「ああ」雪を溶かすあの蓬莱人、とくれば、咲夜にも思い当たる節があった。「あの焼き鳥屋ね。いつも全身が燃えている」
「なんか建物ごと燃やされそうで怖いんだけど」
ちっとも乗り気じゃない様子の霊夢に、魔理沙は得意げに言い放った。「その時は、お前が退治すればいい。それこそ適材適所だ」
どこがどう適材適所なのかはわからなかったが、勝手に呼ばれて勝手に退治される焼き鳥屋を想像したら、なんだか少し同情したくなってしまった。「こっちから呼んでおいて退治するなんて、理不尽な話もあったものね」
あん? と一瞬宙を向いて静止した霊夢は、何か思いついたように魔理沙の方を向いた。
「ちょっと待って。退治しちゃったら結局雪は積もったままじゃないの」
魔理沙はあっさり頷いた。「そうなるな。どう考えても」
「だったら、あの鬼の方がいいのではなくて? あの娘の能力なら、一瞬で雪も集められるわ」
つくづくご機嫌麗しい咲夜は、今度は意見の進言なぞしてみせた。ちなみにあの鬼とは、言うまでもなく伊吹萃香のことである。彼女の密と疎を操る能力を使えば、降り積もった雪の塊からお部屋の細かな埃まで、何でも一箇所にまとめることができる。つまりは生きる掃除機である。
魔理沙はポンと手を打った。「おお、それは名案だな。神社が燃える心配もない」
「いいかもしれないけど、あいつは神出鬼没でなかなか捕まえられないのよね」霊夢は相変わらずコタツに顔をへばりつかせながら言った。「鬼が普段幻想郷のどこに住んでるかなんて、見当もつかないし。前みたいに変な霧でもでてたらわかるかもしれないけど」
咲夜は告げた。「宴会を開けば、勝手に出てくるでしょ」
「あ、そっか」
「だが、そうなると、外の雪が溶けるまで、宴会は待たなくちゃいけないな」
今度は魔理沙が正論を言った。霊夢はどうしたものかと頭を掻き毟った。
「ああ、今度はそっちか。あちらをたてればこちらがたたず。うーん」
その姿は有頂天に等しい機嫌の咲夜から見れば、滑稽そのものだった。咲夜はハッハッハとついに高笑いまで上げながら、今日何度目かの極上のスマイルをたたえて霊夢の肩をポンと叩いた。
「これでわかったでしょう。結局は、自分の事は自分でやるしかないのよ。働かざる者食うべからず。雪かきせざる者、宴会するべからずよ」
霊夢はふんと腹立たしげに鼻を鳴らした。まるで自分が働いてないみたいじゃないか、そう不服そうにそっぽを向いた。「字あまりもいいところね」
「というか、宴会がしたいわけじゃないんじゃないのか?」
そんなわけで、一番話を理解していたのはどうやら魔理沙らしかった―――それでも彼女にとっちゃ他人事なんだろうが。
ふとポケットの懐中時計をまさぐると、そろそろいい時間だった。羊羹も味わったことだし、これ以上こんなあばら屋に用は無い。咲夜は立ち上がった。
「そういうわけだから、わたしはそろそろお暇するけど。今度お嬢様を連れてくる時まで、ちゃんと地面が見えるようにしておくこと。いいわね」
「わかったわよ。ハァ」霊夢は最後に、わかったようなわからないようなため息を付け加えた。
「それと、倉庫はどこ? 早く案内なさい。ついでにこの羊羹もお土産にもらっていくわよ」
ひょいと咲夜は、まだ中身の入った紙箱を拾い上げた。なんだかすっかりしょげかえった霊夢は、もうどうにでもしてくれとふらついて立ち上がった。「ハァ。こっちよ」
で、一部始終を見ていた魔理沙は、相変わらず他人事みたいに言った。
「なんかえらい散々だな」
*
さて、思ったよりゆっくりしすぎてしまったわ。
宝物殿から羊脂玉を拝借して――――ついでに羊羹も拝借して―――神社をでたところで、すでに時刻は二十三時を回っていた。咲夜は魔理沙とともに、魔法の森にある彼女の自宅へ足を運んだ。目的はもちろん、手に入っていない最後の蒸留器だった。
魔理沙の家に行くのは初めてではなかったが、足を踏み入れるのはずいぶんと久しぶりだった。というのも、訪問を避けていた節はある。何しろここは、家が丸ごと物置か何かなのではないかというくらい、雑物で溢れている。常人の神経ならば、中に入ることすら躊躇われるのが健常のはずだ。とりわけ咲夜のような神経質な人間には、気狂いか疑いたくなるほどだった。玄関の扉を開けただけでこうなのだから、部屋の中はもっとひどいのだろうなとうんざりした。
唯一目をひいたのが、廊下の出窓にちょこんとあったサボテンだった。掌の上に乗るサイズでしかなかったが、この娘にして観葉植物なぞ珍しい。何故こんなものをと尋ねたところ、街を歩いているところを気まぐれで買ったのだという。曰く、ろくに水をやらなくても枯れない点が気に入っているらしい。
部屋は案の定物という物が溢れかえっていて、まるで熊か何かが通った後のように雑然としていた。この中にあるだろうから勝手に探せと言われた時には、この娘を熊か何かのエサにしてやろうかと思ったが、少しの間引っ掻き回していると幸運にもそれは見つかった。やはり今日のわたしはついているらしい。ただその引っ掻き回し方が少し豪快すぎたせいか、「見つかったならとっとと帰れ」と玄関を締め出されたわけだが。
紅魔館に戻った咲夜は自室で身支度を整えた後、まずメイド妖精達に命じておいた仕事がどれだけこなせていたかをチェックした。さして期待などしていなかったわけだが、洗濯や難しいと思われていた窓枠の結露の掃除など、概ねの仕事は無難にこなせていた。まあ無難といっても、あいつらにしてはという意味だが―――洗濯物はシワシワのまま干されていたし、窓の方はどういうわけか洗剤の泡が残っていた。
なんにせよ、これで注文の品は全て揃った。パチュリーの口からも文句は出ないだろう。とすると残る問題は、今の時間だった。懐の時計と見ると、針はすでに零時八分を差していた。
紅魔館は、日に二回ティータイムが設けられている。十七時のモーニングティーと、零時のミッドナイトティーである―――夕方なのにモーニングもあったものではないが、レミリアが言うのだから仕方がない。もうすでにリビングでは、二人の紺屋が揃っていることだろう。
しかし咲夜には焦りなどなかった。咲夜は特に急ぐでもなく―――なんならこれから温泉にでも入りに行ってやろうかというくらいのゆうゆうとした足取りで―――、リビングに向かっていた。
これだけ余裕でいられるのはもちろん職務を軽く見ているからではなく―――見ているかもしれないが―――、別にちゃんとした根拠がある。今朝の紅茶だ。あのご主人様は今日のモーニングティーを、いつにも増してお気に召した様子だった。だからよほどの事が無ければ、今日一日はご機嫌麗しくいてくれるはずだ。で、よほどの事がある可能性なんてたかが知れてるわけだから、今もご機嫌麗しくいてくれていることだろう。それこそどこかのメイドが深夜のティータームに少し遅れて現れたところで、その麗しさはびくとも揺るがないに違いない。それにこちらには、念のための保険も用意していることだし……。
「ただいま戻りましたわ」
ノックをしてから告げると、入りなさいとの応えがあった。パチュリーの声だった。やはり、すでに揃っていたらしい。咲夜はリビングに入った。
「あら、咲夜。お帰りなさい。今日は遅かったわね」
レミリアはこちらを向かずにそう言った。案の定、声に咎める気配は無い。咲夜は礼をして答えた。
「申し訳ありません。少々材料の調達に手間取ってしまいまして」
「他のメイドに頼んで、先に淹れさせてもらったわよ」
ずず、と紅茶を啜りながら、パチュリーは膝元の本のページを捲った。見ると、すでに二人の囲むテーブルには、ティーセット一式が並べられている。先に始めていたのなら、尚更都合がいい。メイド達には紅茶の淹れ方だけは徹底させているし―――もちろん、くだらないヘマで主人の逆鱗に触れさせないためだ―――、何よりこれを切り出すタイミングとしてはちょうどいい。
「お詫びというわけではありませんが、今日はこちらを」
手元の箱をテーブルに置いて広げた。中身はもちろん、霊夢の家から拝借してきた羊羹であり、今回の保険である。
紺屋達は身を乗り出して、中身をしげしげと眺めた。次に、んん~とレミリアは首をかしげた。
「なに? この黒い寒天は」
羊羹も知らないのか、このチビっ子は。「いやまあ、間違ってはいないんですけど」
「これは羊羹ね。文献で読んだことがあるわ」
知識の泉と豪語するだけあって、こちらは知っていたらしい―――羊羹を本でしか知らないというのもどうかと思うが。
レミリアは意外そうな顔を向けた。「知ってるの? パチェ」
「ええ。主な原材料は小豆。それを練りこんで、餡にして固めてるの。黒いのはそのせいね。でも気をつけて。小豆といっても、甘いとは限らないわ」
一体何と勘違いしているのか、パチュリーは真面目な顔でレミリアに言い聞かせた。この魔女は知識は豊富らしいが、本に書いてあることなら何でも信じ込むものだから、それは物知りとは違う気がした。
「普通に甘いですわ。そしておいしいですわ」
「あら残念」
と、特に残念そうでもない顔で、パチュリーはまた膝元に視線を落とした。対してレミリアは興味深々といった表情で、子供が虫でもつつくように羊羹に指先を当てていた。
「ふぅん。黒いのに甘いなんて、キリストの血みたいね。おいしくはないらしいけど」
今度はこちらで勝手な勘違いをしだした。もういい加減に話が進まなかったので、咲夜は「ですから」と語気を強めた。「羊羹はおいしいですわ。今、新しいお茶をお淹れします。羊羹と一緒なら、日本茶の方がいいかしら」
ふむ、とパチュリーが一瞥した。「日本茶か。たまにはいいかもね」
「じゃあ、わたしはあれがいいわ。梅こぶ茶」
……そういえばなぜか、このお嬢様は生粋のこぶ茶好きだった。だが、さすがに時と場合というものがある。
「それはちょっとやめたほうがいいかと……。それと羊羹を一緒に食べると、少々悲惨な事になりますから」
「ちぇ」とそっぽを向くレミリアだったが、そんな子供っぽい仕種も機嫌の良さの表れだった。なんだかんだいっても、このご主人様がいい気分でいてくれるとわたしも楽しくなる。それは認めざるを得ない。
ぺこりと礼をすると、咲夜は背後の戸棚へ向き直った。奥から急須と湯呑みを取り出す。しばらく使っていなかったので、一応洗っておいた方がいいかもしれない―――洗わないで使うのもまた面白いかもしれないが、今日のところは素直に自重しておく。
リビングの西側には、扉一枚を隔てて給湯室が設けられている。咲夜はそちらに向かうと、ポットに火を点けてから、そこで茶道具一式を洗った。ドアは開けっ放しにしておいたので、リビングの方から二人の話し声が聞こえてきた。
「レミィは酸味が好きよね。一番好きな人間の血液は、B型だっけ? あれにも酸味がきいてたりするの?」
「うーん、そうねぇ。酸味っていうか、喉越しは一番いいかな」
「喉越しねぇ」
「そう、喉越し。血を飲むのも、案外コツがいるものよ」
「というか、どんな事にもコツってあるものなのね、としみじみ」
「なに年寄りみたいな事言ってるの。わたしなんかまだピチピチよ」
「レミィがうらやましいわ。わたしもトマトジュースでも飲もうかしら」
さしてうらやましくもなさそうな顔のパチュリーの前に、咲夜は淹れたての緑茶を差し出した。
「お嬢様はお酒はいつもブラッディーマリーですからね。人間の血で割ったやつですけど」
「あら、早いわね。もう淹れたの」
そう言うものの、レミリアはさして驚いたわけではなさそうだった。まあ、また時間を止めて作業していたとでも思っているのだろう。
「お待たせしました。緑茶ですけど、羊羹にはこれが一番かと」
差し出された湯呑みを、レミリアは口に運んだ。ちなみにこの湯呑み、いつだったか霊夢の座敷にあったのを拝借してきたものだが―――どういうデザインなのか、一面に魚偏の漢字が書き連ねられている―――、さすがに吸血鬼との取り合わせは間抜けなくらい滑稽だった。無論そんなことは、口が裂けても言えないが。
「ありがとう。で、これはフォークで食べていいの?」
そう訊いてきたのはパチュリーの方で、元々用意してあったフォークを手の上で弄んでいた。こちらはというと、吸血鬼と比べたら幾分マシな取り合わせといえた。
「別に何でもいいですけど。どうせならこっちの竹串がいいかもしれませんね」
「いいえ、これでいいわ」咲夜がフォークと竹串を取り替えようとした時、唐突にレミリアが制止した。「きっとそう」
きっと、という妙な物言いに、おやと咲夜は思った。レミリアは自信気に、フォークで羊羹を割っている。
「レミィがそう言うならそうなんでしょうね。わたしもこれでいただくわ」
その自信を見てとったように、パチュリーも羊羹をつつき始めた。どういうわけか、こちらもご機嫌らしい。一体羊羹をフォークで食べる事の何がそんなに楽しいのか、なんだか咲夜は自分だけが置いてけぼりをくらった気分だった。でも自分の淹れたお茶と羊羹で喜んでくれているのには違いないのだから、そんなに悪い気はしない。カチャ、カチャと洋食器に特有の音階とともに、吸血鬼と魔女がフォークで羊羹をつつき合う、みょうちくりんな光景を眺めた。
「……うん、悪くないわ」
やがてレミリアはゆっくりとフォークを置いた。どうやら満足してくれたらしい。咲夜は身を屈めて、主人の口許の餡を拭った。
「でしょう? これは麓では人気の店の羊羹ですから」
咲夜は胸を張って告げたが、レミリアは何やら上機嫌そうな笑みを浮かべながら、「そうじゃないの」と首を振った。そして、側のベランダに通じる窓扉を手で扇いだ。
「この窓に切り取られた景色を見なさい。透き通った夜空。雪原に蓄えられ、蘇る月の光。湖上の亡霊。そして、淹れたてのお茶に、金のフォークと、この羊羹。この全てが運命の秤の上で揺れ動き、絶妙な均整を保っている。これはとても悪くないことなのよ」
あら、と咲夜はしばし目を丸くした。というのも、彼女が目を丸くしたのは均整なんたらに対してではなく、唐突にそんな戯言を言い出した主人にだった。
このお嬢様、きっと上機嫌には違いないのだろうけど……どこかいつもとは違うような。こんな人間臭いことを言う方だったかしら。
どうにも狐に包まれたような気分のまま、咲夜は外の景色に目をやった。咲夜の当初の予測を裏切り、空にはひと欠片の雲も見当たらない。今夜の月相は満月だったと記憶しているが、月はすでに頂点に昇っていて、その姿は窓枠の遥か上にあるようだった。姿は見えないが降り注ぐ月光が、魔力を与えたかのように彼方の雪原を染め上げている。視界になくとも満月は遥か上空で、荒々しく存在を誇示していた。濁黒に呑まれた湖には、妖しくその姿が揺らめいている―――湖上の亡霊―――。一様の光景が窓枠に切り取られている様は、一枚の絵画のようでもあった。悄然と静まり返りつつも、静謐の中に鷹揚感と躍動感が混在している。
なるほどこれが……均整。
レミリアの言いたいことはわからないでもない。いや、むしろ人間であるわたしだからこそわかる、そう言っていい。数百年と漫然と生きた妖怪には、持ちえぬ感情。不死であるがゆえに、うつろう者を排他し、拒絶する。世界の全ては、うつろわざる者の夢まぼろし。わたし達とは、決して相容れない主観だけがある。胸襟を開くなど以ての外で、あるいはそんな意識すら無いのだろう。しかし……。
なんて小難しい分析をやっぱり咲夜はしたわけじゃなかったけれど、それでも漠然としたものは感じていた。ただ一言が、ぽつりと口から漏れた。
「……悪くないこと、ですか」
「ええ。好ましいともいえるわね」
レミリアは相変わらず自信たっぷりに言った。それを見て、くすりとパチュリーが笑みを漏らした。
「もう、レミィってば。素直においしいって言えばいいのに」
「あら。おいしくないなんて、一言も言ってないわよ」
屁理屈は相変わらずだ。咲夜も思わず微苦笑を浮かべた。
「まだまだたくさんありますから」
新しい羊羹を切り分けようとした時、パチュリーがこちらを向いた。
「そういえば、咲夜」
「なんでしょうか」
「今回の買出しはさすがに時間がかかったみたいね。ちょっと無理を言い過ぎたかと思って、少し反省していたのよ」
とても反省しているとは思えない物言いだったが、本人はこれで労っているつもりらしい。パチュリーの天然は今に始まったことではないが、咲夜はあえて皮肉で返した。
「はあ。ただお茶を啜っていただけのようにも見えましたが」
「そんなことはないわ。咲夜ほど重宝する人間はそういないもの」
と、いつもの無表情で言われたところで、はいそうですかという感想しか浮かばなかった。「それはまあ、そうでしょうね」と、咲夜はひょいと肩をすくめた。
「それで、件のものはどこ?」
そう言われると思い、咲夜は廊下に置いておいた風呂敷ごと持ってきた。「こちらでよろしかったでしょうか?」
「どれどれ」中身を検めると、パチュリーはうんうんと首肯した。「ああ、だいたいあるみたいね。ご苦労だったわ」
「蒸留器のほうは、すでに図書館の方に運んであります」
「この乾電池は」ひょいとパチュリーはそれを摘み上げた。「ちゃんと電気抜いてあるんでしょうね?」
「それはもう。万事においてぬかりはありませんわ」
何しろパーフェクトメイドですので。なんて鼻にかけたことはさすがに言わなかったけれど、残量はさっき部屋に戻った時にテスターで測定済みだったので、ぬかりが無いことには違いなかった。一連のやり取りを眺めていたレミリアは、したりと笑みを深くした。
「咲夜の自信はたいしたものね」
「ええ。大言は身を滅ぼす元ですから」
そんなことを言ってみるものの、結局はそれも大言以外の何者でもなかった。で、その間も、パチュリーはごそごそと風呂敷の中身を漁っていた。
「歯磨き粉も……ちゃんとメロン味みたいね」
「……いや、それは適当に選んだんですけど」
「いいえ咲夜」と言いながら、レミリアは薄い笑みを浮かべて夜空を見上げた。「それも一つの運命よ。命ある者は全て、未来を予感し、研磨する力を持っている。すなわち運命力をね。あなたがその歯磨き粉を選んだのも、それはあなたの意思ではなく、何物にも揺るがない運命力あってのものなのよ。きっとわたしと共にいるうちに、あなたにも運命を見通す能力が備わってきたのね」
機嫌のいい時にちょくちょく語る、レミリアの運命論だった。運命を操る能力といっても、その実態は曖昧で掴みどころが無い。加えて本人が自覚的でないのだから、一層胡散臭く聞こえる。それはともかく、酒も飲んでいないのにこれだけ饒舌になるレミリアはやはり珍しかった。いつもならば適当な相槌で聞き流すところだが、この時ばかりは何か考えさせられる気分になった。
「はあ、そういうものでしょうか」
考えさせられた結果、出たのは適当な相槌のようなものだったけれど、レミリアはそれを気にした様子は無かった。「そう。そういうもの」と、自画自賛気味に湯呑みに口をつけた。
その間もまだ中身を引っ掻き回していたパチュリーは、「あら」と声をあげた。
「これはまた、ずいぶんと上等な硬玉ね。こんなに高価なものじゃなくてもいいのに」
「ああ、それぐらいしかなかったもので。でも、いいものに越したことはないでしょう?」
それは、まあ。と、パチュリーは釈然としない面持ちで手の平の宝石に目をやる。これほどのものが一日で手に入れてきたのが、相当不思議らしい。別に隠すつもりはないのだが、わざわざ本当の事を言う必要も無かった。かといって、麓の店から強奪してきましたなどと冗談を言ったところで、ああなるほどと逆に納得されるのは目に見えている。
「んん? ねえパチェ、それなんて彫ってあるの?」
レミリアは身を乗り出し、パチュリーの持つ羊脂玉に食い入った。やっぱりそこに目をつけてきたか、そう思いつつも咲夜は面映く困惑した。
「ええっと……う~ん、何かしら。日本語じゃあないのかもね。一見すると象形文字のようだけど」
パチュリーは目を細めて刻まれた部分を指でなぞったりしたが、それ以上は首を捻るばかりだった。咲夜は気づかれない程度に、安堵のため息を漏らした。文字を入れた時は失敗したと思ったけど、今となってはそれが逆に幸いだったかもしれない。
魔理沙の家を出てから紅魔館への帰路の途中、咲夜は今回のおつかいの締めくくりをしなければならなかった。パチュリーが望んだのは翡翠石だが、硬玉の碑石である。すなわち石には何かしらの文字が刻まれていなければならない。魔理沙が言っていた通り、咲夜がそれを為す必要があった。
ナイフを石に近づけたところで、咲夜ははたと気づいた。この場合、どんな言葉を入れるのが適当なのだろうか。
この石がすでに加工されているのは誰の目でも一目瞭然だが、それでも遺跡か何かの発掘品とごまかすことはできる。しかし文字を入れてしまえば、彫り具合から最近彫刻されたものであることがわかってしまう。まあわかったところでそれはそれで構わないのだが、さすがに彫った本人が自分だということは悟られたくない。
そんなわけで自分とはばれないような言葉を入れたいのだが、どのようなものがいいか一向に思い浮かばないのだった。はてどうしたものかと、咲夜はしばし途方に暮れた。
誰か有名な日本の神の名前でも書くか。そうすれば、こんなお守りもあるのねと勘違いしてくれるかもしれない。あるいは思い切って、とびっきりのジョークでも入れてみるか。しかしそういったセンスに人一倍疎いことを自覚していた咲夜には―――レミリアからも、よく天然だなどと言われる―――、あの堅物なパチュリーに通じるような一言は思いつきそうになかった。
いろいろ考えた結果、意味を悟られないような言葉にすることに決めた。まず日本語やアルファベットなど、ポピュラーな字体はさけた方がいいだろう。ラテン語かギリシャ語辺りが無難そうだが、確か大図書館にはそれらの言語で書かれた本がかなりあった。パチュリーは知識人を気取るだけあって、―――わたしには及ばないものの―――語学にも堪能である。できれば、パチュリーが知らないような文字がいいのだが。
思い当たり、咲夜はサマリア文字で書くことにした。今でも聖書などで見かける文字だが、さすがに魔女やら吸血鬼やらが聖書をありがたがって読んでいるとは思えない。さしものパチュリーも、この文字だけはわからないに違いない。咲夜はそう見当をつけた。
で、サマリア語で彫るのはいいとして、肝心な事は何を刻むかだ。なのだが、少し考えてさほど肝心でもないことに気づいた。どうせ見る側にしたらちんぷんかんぷんなのだから、何を書いたところで一緒だった。そう考えると、ずいぶんと気が楽になった気がする。
ふと見ると、すでに紅魔館が視界に小さく映っていた。これまでずっと飛びながらあれこれ思索していたわけだが、まさかこんなに没頭していたとは思わなかった。戻ったらティータイムの後に、食事も用意しなければならないのだ。もう何でもいいから、とっととやってしまえ。咲夜は半ば投げやりな心持ちで、えいやとナイフを走らせた。
結局終わった後にはミミズが這ったような跡が残っていたわけだが、こうして二人の反応を見る限りは、何が書いてあるかは悟られてはいないようだった。安心するとなんだか難しい顔で睨み合う二人もおかしく見えてきて、咲夜は意地悪っぽく訊き返した。
「あ、やっぱりわかりませんか?」
「あなたはわかるの?」
怪訝そうな藪睨みで、パチュリーは切り替えしてくる。思わず咲夜は視線を逸らした。
「ええと、そうですね。何が書いてあるかはわかりませんけど、きっととるに足らない事だと思いますわ」
「何よそれ、歯切れが悪いわね。咲夜のくせに」
「でも、別に書いてあることは何でもよろしいんですよね?」
「まあ、そうなんだけど……」
どうも煮え切らないといった具合にパチュリーは押し黙った。まあまあとなだめながら、咲夜は右手を広げ、外の景色に水を向ける。
「そんなとるに足らないことよりも、今はこちらを楽しまれてはいかがです? お嬢様の仰る、均整というものを」
「……それもそうね」
「そう、静かな夜も、たまにはいい。たとえ月が紅くなくてもね」
ゆっくりとレミリアはまた窓の方へ視線を向けた。景色を眺めるのではなく、思いを投げかけるような視線が、咲夜にはひどく印象的に映った。
レミリアのような妖怪にはわからない感覚、そう思っていたけれど……。
ひょっとしたらレミリアには、わたしが石に何を刻んだのか、なんとなくわかったのかもしれない。レミリアの見つめる先に、咲夜も微笑を向けた。
「静かな夜、ですか……」
「ええ。静かで、肌寒い夜だわ」
終
ていうか霊夢フヌケ過ぎ
二人同時にからかわらた>二人同時にからかわれた
羊脂玉は軟玉、宝石とさえ認められていない中から硬玉を超える価値のものが出るから面白いのです。
原作風味は貴重だよな
霊夢が弱すぎというか腑抜けというかww
しかし、楽しめました。
季節や風景の移ろいに対する人間と妖怪の違いの話も面白かったです