地底の荒い岩盤の上を似つかわしくない手押車が駆け抜ける。
その手押車は、使用者である化猫の少女の気持ちを代弁するようにガタガタと忙しなく音を立てていた。
「ふふふ、いやー今日は大漁だねぇ」
化猫の口から上擦った独り言が漏れた。
──確かに大漁だった。
ただ、地面に乱雑に安置された死体の山を「大漁」と形容するのはいかがなものなのだろうか。
化猫は大漁の屍に手を伸ばすと、手押車に馴れた手つきで詰め込み始めた。
死体の形が変形しないように丁寧に詰め込んでいたが、それでも尚迅速だった。きっと幾度となく同じ事を繰り返していたのだろう。
手押車にすっぽり入りきった死体を見ると、化猫は満足気な笑みを浮かべた。その目は現状のスプラッタな絵面とは裏腹に、濁りのない輝きを湛えていた。
化猫は手押車の持ち手に両手を添えて、
「そろそろ引き上げようかねぇ」
と上擦った独り言をまた漏らして、鼻歌を奏で始めた。
再び荒い岩盤の上を駆け出した化猫は、暗く陰鬱な地底の景色とは対照的にどこまでも陽気だった。
是非曲直庁が施策した地獄のスリム化政策に伴い、化猫の住処であったこの地域は地獄の管轄外──旧地獄となった。
まもなくして、是非曲直庁の管轄である地獄に移らず旧地獄に留まった者達は土地の所有権ををめぐり争いを始めた。
争いといってもそう大規模なものではなかったが、中々決着がつかずに長期化し、旧地獄は混迷を極めていた。
だが、その争いはえらくあっけない幕引きを迎えた。
地上から現れた新勢力によって鎮圧、という誰もが予想だにしていなかった幕引きだった。
化猫の住処は灼熱地獄と呼ばれていた場所にあった。
件のスリム化政策によってこの地域が是非曲直庁の管轄から離れた後、灼熱地獄は徐々に冷え込んでいった。
そのため、本来の火力を失った灼熱地獄は、今では灼熱地獄跡と呼ばれている。
灼熱地獄跡は地底にぽっかりと空いた穴から入り込む事が出来た。
化猫はその穴に向かって、揚々と手押車を運んで行く。
穴に近づくにつれて人影のようなものを化猫の目は捉え始めた。
長い一本の角を額から生やした影、側頭部から二本の角を生やした影、そして、つむじ辺りから長いコードを生やした影が見えた。
これはまずい、と近くにあった岩に手押車と自身の姿を隠した。
──あの連中が地上から現れた新勢力だ、そう化猫は確信した。
きっと奴らは強欲で危険な存在なのだ、とも黒猫は思った。
地底よりずっと広いであろう地上から、態々こんな見窄らしい土地を確保しに来るぐらいなのだ。
気が正常な者ならきっとそんな事はしないだろう。
とっさに隠れた岩の裏から連中の方へ耳を傾けると話し声が聞こえた。
地獄の猫は地獄耳なのだ。
「──つまりここが灼熱地獄に通じる穴ってことかい?」
「紫の言う事を信用するならそういう事になるわね──放置しておくのは危険かしら」
化猫は焦った。
このままでは、地上の連中が灼熱地獄跡に通ずる穴を塞いでしまう、そう考えたからだ。
──それは自分の故郷に二度と戻れなくなる事を意味している。
物心ついた時からずっと居た安息の地。
それを失う事になるのだ。
お気に入りの死体のコレクションも灼熱地獄跡に保管している。
その量は膨大で、外に持ち出すのも現実的では無かった。
つまり、それも失う事になるのだ。
考えれば考えるほど焦りと不安が募り、冷や汗が止まらなかった。
「まあ視察はこんなもんかねぇ。そろそろパァっと宴会でもしたいもんだね」
「いいねぇ。原住民に話もつけれたし今日はもう引き上げようか」
「さとりも来るか?」
「私はいいわ。宴会にいても迷惑でしょうし。もう少しだけ調査を続けるわ」
「そうかい。じゃあ私達は引き上げるからね」
化猫は岩からひょっこり顔を出すと、角を生やした少女2人が立ち去って行くのが見えた。
──つまり灼熱地獄跡の穴の近くには、長いコードを生やした妖怪しかいない。
これはチャンスだ、そう化猫は思った。
今ならあの妖怪を仕留められる。
当然、その妖怪を殺したところで何かが解決するという事は無い。
だが、そんな事を考えられる程の余裕が今の化猫にはなかった。
化猫は手押車を置くと、その妖怪に近い別の岩へと素早く移動した。
化猫は、再び岩からひょっこりと顔を出すと、その妖怪の紫と水色の背後が見えた。
──殺れる。
そう思い、飛び出そうとしたその瞬間だった。
化猫はその妖怪と目があったのだ。
──妖怪は化猫に背を向けているにも関わらず、だ。
化猫は恐怖した。
熱い灼熱地獄跡の近くであるにも関わらず、凍える程の寒気を背筋に感じた。
自分の行動はずっとこの妖怪の手中にあったのではないかと錯覚する様な、まるで心を見透かされている様な恐怖。
化猫が散々地獄で味わってきた恐怖とは全く別物の恐怖であった。
「……あら、心を見透かしている事がバレるなんて。動物の勘かしらね」
妖怪はそう呟き化猫の方へ振り向いた。
その顔には、恐怖する化猫を嘲る様な笑みが浮かんでいた。
──逃げないと。
化猫はそう思ったが震えて足が動かない。
妖怪は身を屈めて震えている化猫に向かって、一歩、一歩、とゆっくりと歩を進めてきた。
気がつけば、妖怪は手を伸ばせば化猫に届く程の位置まで接近していた。
「こんにちは──こんばんは、かしらね?地底は時間感覚が判らなくて不便だわ」
妖怪は朗らかに言った。
化猫はまだ震えている。
「何も貴方を殺そうとは思っていないわ。貴方はここの原住民かしら?」
化猫は声を出そうとしたが、この妖怪は返答する前に話を進めた。
「……貴方には是非とも色々案内をしてもらいたくてね。お察しの通り私達は地上出身の妖怪ですから……あと、灼熱地獄を封じ込めはしないわ。封じ込めただけじゃ何も解決しないから、ちゃんと管理をしないといけないのよ。そのために調査が必要なの」
その時やっと、化猫は重い肩の荷が下りた様な気がした。
今までの不安が全て杞憂であった事を理解したからだ。
安心したところで何故さっきから会話が成立しているのか、という順当な疑問を持ち始めた。
「……ああ、申し遅れました。私の名前は古明地さとり。心を読む覚妖怪です」
心を読む妖怪!
そんな妖怪が存在したのかと驚いたが、不可解だった謎が解消されて、少しスッキリもした。
「貴方は?」
「私は……ただの火車です。名前はまだありません」
「あーなるほど、名前が無かったのね。どおりで」
妖怪──もといさとりは何かが腑に落ちたようだった。
どうやら、心のどこにも化猫の名前が無かった事を少し疑問に思っていたようだ。
「でも名前が無いのって不便よねぇ。これから頼みたい事がたくさんあるのに」
さとりは少し考えるように腕を組んだ。
「良かったら、私が名前を付けて上げましょうか?」
「え?うん……まあいいですよ」
化猫は歯切れの悪い返事をした。
今まで名前が無かった事で不便に思った事なんてなかったからだ。
「灼熱地獄……火焔……火車……車輪……」
そんな化猫の様子を気にも留めず、さとりはブツブツと独り言を呟き始めた。
どうやら、真剣に化猫の名前を考えているようだった。
「……そうね。今日から貴方の名前は火焔猫燐としましょう」
「え?少し長くありませんか?」
化猫は思った事をそのまま口に出した。明らかにあまり気に入っていない様だった。
「あだ名で呼べばいいのよ。お燐とかどうかしら?」
お燐、お燐……化猫は心の中で反芻した。
どうやらお燐という名前はとても気に入った様だった。
「じゃあお燐」
その時、化猫は人生で初めて名前で呼ばれた。
さとりも、お燐という響きに満足したのか暖かい笑みを浮かべた。
「早速だけど灼熱地獄を少し案内してくれるかしら?」
「よろこんで」
化猫──もといお燐は快い返事をした。
燐とさとりの出会いがとても丁寧に書かれていて読みやすかったです
これから二人がどうなるのか気になりました
表現は処女作にしてある程度完成されている感があるので、話の構成の引き出しをいろんな創作に触れることで増やしていくと大成するかなと思います
過去話というか出会いの話は多くのキャラでいろんな形で描かれているものなので、もう少し作者さんの想いというか個性を強く出してみた方が印象には残るような気はします。
次回作を楽しみにしております。
他の場面なども見てみたくなる、良い作品だと感じます。
次回作もお待ちしてます。
文章は分かりやすくて良かったです さとりがお燐の名前を名付ける所とか特に好きでした。 こういう出会いも良いなって思わせてくれます。
さとりとお燐の今後が気になります。