Coolier - 新生・東方創想話

星のむこう、時の底

2015/03/02 13:02:46
最終更新
サイズ
33.74KB
ページ数
1
閲覧数
3804
評価数
8/19
POINT
1220
Rate
12.45

分類タグ

1
「それで、貴女は旅に出るのね」
 私の目の前で、十人の岡崎夢美教授がいっせいに口を開いた。当然のことながら、それらの声は殆ど一致しているから、整然としたハーモニーにはなりようがない。彼女の研究室は世界を救うという大義名分のもと、今やちょっとした一軒家程度の敷地を誇っている。とはいえやはり十一人もの人間を詰め込むには少しばかり心もとなくて、どうにも息苦しい。
「はい、そうです。私が、メリーを迎えに行くんです」
「厳しい旅になるわよ」
 十人の中で最も幼い岡崎教授が答えた。まだ十台前半といった風貌である。彼女の上着の胸元には、ローマ数字のⅠを意匠とした絹の刺繍が施されている。若葉と蔦を象った大袈裟な装飾で、華々しく存在を主張していた。
 それと同じデザインの刺繍は、同様に残り九人の岡崎教授の上着にも入っている。違うのは、それぞれ表す数字の中身だけだ。ⅠからⅩまで一通り揃っていて、中でもⅠとⅡの二人は他の岡崎教授よりもずいぶん幼く見える。
「覚悟の上です」
 私の答えに、岡崎教授たちは一斉に頷く。まるで、私がそう言うことををはじめから知っていたかのように。
「貴方を見送るのも、これで五回目ね」
 彼女の胸元には、Ⅴの一文字。漢数字に直せば五だ。
 大方の予想通り、その番号は彼女の年齢順に割り振られている。Ⅰは最も幼い岡崎教授で、Ⅱはその次。そうして数字を上ってⅩまで辿りつくと、彼女はおおよそ三十台半ばといった外見である。本人曰く彼女たちはそれぞれきっかり二年分歳の差があるらしく、つまりⅠとⅩの岡崎教授では二十歳年齢が違うことになる。もともと私たちと一緒にいたのはⅣあたりだと思うのだけれど、確証はない。
 五。それはその岡崎教授の語る、私を見送った回数と一致する。
 ついでに言えば、彼女がここ最近の一年間を過ごした回数とも一致する。彼女は今からおよそ一年後に巨大な事故に巻き込まれて、そこから二年前に送り込まれるらしい。それを計九回繰り返したから、十人の彼女がここにいる計算になる。幼少時代の彼女まで呼び出されていることから、その改変がいかに時空構造を盛大に書き換えるのか、想像に難くない。
 点けっぱなしだったテレビの向こうで、女性キャスターが淡々と今日のニュースを告げている。北九州の一部が大規模な時空凍結に巻き込まれて、あらゆる活動を停止したらしい。日常から僅か一本の道路を隔てた向こう側は時間が完全に止まっていて、外から見える誰も彼も指一本動こうとすらしない。画面は現地でその境界を監視する、結界警備隊を大写しにした。先月カリフォルニア州が突然消滅して以来の大規模な空間異常だ。同様の事件があちこちで繰り返されているせいで、私たちの住むことの出来る土地は少しずつ狭くなってきている。
 クロノスの指先で複製された岡崎教授。
 シャッフル中のルービックキューブみたいに、絶えず表面が変転する空間。
 どうして世界がこんな風に狂ってしまったのか、話すと長くなるし、だからこそ話さずにはいられない。

 縮退炉。
 かつて、日常では聞きなれなかったこの単語はしかし、ほんの少し前まで原子力発電に変わる夢のエネルギー源として脚光を浴びていた。
 その仕組みは思いのほか単純だ。管理された微小のブラックホールに、一定の質量を放り込む。するとブラックホールは、放り込まれた物品を殆どすべてエネルギーに変換して、外に吐き出すのだ。あとはこのエネルギーを利用すればいいだけで、放射能もゴミも出ないどころか、ゴミをエネルギー源にすることすら出来る。
 構想自体は大昔からあったのだが、当初はまったく成功せず、そのうち科学者たちからは単なるSF物語の延長としか見られなくなった。そうして過去の空想として忘れ去られかけていた理論を、掘り起こして体系化し、実現したのが他ならぬ私と岡崎教授だったのである。正確には、私が『マイクロブラックホールにおけるホーキング輻射の研究、及びその現実的利用法』と銘打った論文に着目した岡崎教授が、理論から実践まで殆ど一人で作り上げたのだったが。
 それでも私との連名の論文にしたのだから、なんというか岡崎教授も可笑しな人だと思う。
 兎にも角にも、私たちの生み出したこの理論は瞬く間に実用化まで漕ぎ付けて、数年後には日本のあちこちで縮退炉が稼動するようになった。ブラックホール、という単語へ強く抵抗する人々も多くいたが、科学への無知が招いた杞憂だと一蹴された。それに、放射能が出ないクリーンエネルギー、の一言だけで彼らはおおよそ黙ってしまったのも事実だった。

 トランプで出来たピラミッドみたいに、時空がいとも容易く崩壊した日のことを、私は今も鮮明に覚えている。
 その縮退炉は国内では十八箇所目で、いつも通りに稼動を開始する筈だった。今までよりも大型の施設で、理論の提唱者である私も初日に特別に招聘されていたのである。縮退炉といえば、当時の最先端施設といって過言でない。お願い連れてって、しょうがないわね、の定型文を経て、私はメリーと共に訪れたのである。
 正直なところ、記念式典は退屈ではあった。私からの形式ばかりのスピーチ、統一物理学の最先端に対して百年は遅れているご意見番からのありがたいご高説。なんというか、最悪という言葉を丸ごとゼリー寄せにしたような時間だった。特に電子放映局の取材はしつこくて、ずっと不機嫌な顔で睨み付けてやるしかなかった。マスコミは私の能力ではなくて、私の性別しか見ないから嫌いだった。
 しかしながら、それだけの対価を払う価値が、その日にはあった。いよいよ稼動、という段になると私とメリー、それに岡崎教授の三人は最前列に立ってそれを見守った。私たちの立つ廊下と炉の間には分厚い強化ガラスがあるので、透明度はそう高くはない。いくら危険性がないといっても、こういった形ばかりの保護は必要なのである。
 口先ばかりは達者な所長がいよいよその時が来たことを告げる。恐ろしいほど静かなまま、宇宙の暗黒を湛える機械が作動した。

 なにかがおかしい、とすぐに直感したのは私だけではなかった。計器も機械も、正常な数値を指している。だからこそ、本能的に恐怖した。
 まるで巨大な魚眼レンズがそこに置いてあるかのように、目の前の光景がひどく歪み始めたからだ。
 はじめはそういうものか、と考えていた群衆にも困惑が広がる。私も二人と目を見合わせて眉を顰めた。
 所長の怒鳴り声のような命令が響いて、緊急停止システムが作動した。しかし、異変は収まらなかった。炉の本体が、壊れた映像ファイルの中身みたいに大きく波打ち始めて、辺りを飲み込み始めた。
 ごおん、ごおん、と怪物のうなり声のような金属音が聞こえてきた。
 まずい、と岡崎教授の悲鳴に近い絶叫が聞こえた。岡崎教授が呆然とした私たち二人に飛びついて、何かから庇うようにして押し倒した。私たちは抗議する間もなく、その下敷きになる。
 次の瞬間、空間そのものが弾け飛んだ。
 大気の津波が私たちを飲み込んで、三人纏めて近くの壁に叩き付けた。
 衝撃波が私の身体を潰す。強化ガラスが粉微塵になってシャワーのように降り注ぐ。肺の中の空気が全て押し出された。激痛に意識が四散して、そのまま目の前が真っ白になった。
 気づいたときには、そこには何人かの生き残りと巨大な黒い穴、それと十人の岡崎教授が呆然と立ちつくしているばかりで、メリーの姿はどこにもなくなっていた。

 いつだったかその悪夢の原因を教えてくれたのは、確かⅨの刺繍の岡崎教授だったように思う。
「つまりね、私たちはブラックホールの基本的な性質を見落としていたんだ。重力とは空間の歪みであると考えられているのだが、シュヴァルツシルト半径を無視した極小の重力半径が周囲の空間を極端に歪めたため、その伸張に耐えられなかった次元空間が断裂して」
「ちょ、ちょっと教授、それはハードすぎるぜ。もうすぐ簡単に言えないのか?」
 傍らで事故のあらましに耳を傾けていた、岡崎教授の助手が慌てて制止した。かつてはお茶らけた金髪少女であった彼女も、例の事件以降随分と大人しくなってしまった。彼女は一つの身体で十人分の世話をしなければいけないのだから、なんともはや、お疲れ様だと思う。
 ふぅむ、と岡崎教授は一通り考えこんでから、こんな例え話をしてくれた。
 一枚の大きな和紙を思い描いて欲しい。貴方は宙に浮かんだそれに、ひたすら錐を突き立てる。一つ、二つと少し穴を開けたくらいでは何も起こらない。しからばと安心した貴方がそれを繰り返すうちに、いつかは既にある穴の近くに穴を開けざるを得ない時がやってくる。とても柔らかい和紙は既存の穴の近くを軽くつついただけで、穴を基点にびりりと破れてしまう。穴ぼこだらけの和紙はとても脆く、一箇所からすべてが連鎖的に崩壊していく。
 あっという間に、錐で貫かれたブラックホールと、裂け目の向こうからやってきた混沌が、はじめ和紙に描かれていた、現実という絵を水浸しにしてしまった。
 私たちの時空はどうやらそういった理屈で、どうしようもなく壊れてしまったらしい。
 そんなことを岡崎教授は教えてくれたが、私も助手も、そんな風に徹頭徹尾おかしくなってしまった時空の修繕の方法など、思いつく訳もなかった。
「そしてたぶん、マエリベリー君もこの穴の向こう側に行ってしまったのだろう」
 勿論、メリーを救い出す方法も。

 明日の次の日が一昨日で、その次は百年後。あまりに倒錯しきった世界では、そんなことも珍しくない。主観的な時間には関係ないとはいえ、やはり客観的な時間が瞬間移動するというのはどうも居心地が悪い。星空を見るたびそう思う。
 岡崎教授の世界を救うという研究は、要するにそんな風に発狂してしまった宇宙を正気に戻してやることだ。あっちこっちに分裂した時間軸を再び一つに纏めて、こちらに歩けとレールを敷いてやる。千切れた空間はとりあえずテープで止めてやって、直ってくれよと祈りを捧げる。彼女はそんな絵空事を実現するために、十の頭脳と二十の腕を限界まで酷使している。
 けれどもそれは、粉々に砕け散った硝子の時計の破片を、集めて繋げて元通りにしようとしているようなもので、奇跡が何回起これば良いのかすら見当がつかない。ならば集めた硝子を溶かして固めて新しく作り直したほうが、元通り繋げるよりも幾らか早そうだと思い付いても、霧散した時間を鋳直す方法など誰も知る筈がない。岡崎教授もその不可能性については薄々分かっているのだろうけれど、努めて触れないようにしているのだと思う。
 今、私の背後、教授の立つ方向と逆側には時空の隙間がある。この世界が崩壊しつつあることの証明だ。それは黒い口をぱっくりと開けて、研究室の片隅にひっそりと陣取っている。宙に浮かぶ、縦に二メートルほどの空間で、どの方向から見てもなめらかな長方形だ。当然のことながら、その向こうがどこに繋がっているのかは分からない。ただ、前に岡崎教授がゴミを投げ込んだときは暫くして投げ返されてきたから、たぶん誰かはいる筈だ。せめて人間の形くらいはしていて欲しい、と思う。

 食料と水を詰め込んだバックパックを背中に、私は一歩踏み出しかけた。ふと思い出して、そうだと私は岡崎教授に向き直る。
「岡崎教授も私と一緒に旅に出ませんか。この世界はもう、どうしようもないと思います。メリーを見つけるまでとは言いません。どこか安住の地を一緒に探しませんか」
「それは出来ないわ。ここに十人の私がいるということは、私はあと八回はこの時間線を生きないといけないのだもの。ⅠからⅩまで揃って二年間を過ごしたことを、私たちは覚えている。それを変えたらどのようなタイムパラドックスが起こってもおかしくないわ。そんなことはできない」
 即答したのは、Ⅱの岡崎教授。他の九人も、そのとおりだと口々に言う。
「でも、捨ててしまえばいいではないですか。たとえこの世界が壊れてしまっても、それは遅かれ早かれいつか来ることです。沈み行く船に乗り続ける理由は何ですか」
「責任だよ。私の理論がこの世界を壊した張本人なのだから、ここに留まらなければいけないんだ。子供の罪は、親が責任を追うものさ。私の可能性はこの二年間で閉ざされているが、君は違う。君にはまだ、未来への可能性が残っている」
 とは、Ⅷの岡崎教授の弁だ。私はしばらく考えて、その矛盾に気がつく。
「いや、待ってください。教授にだって可能性はあるはずです。そうですよね、Ⅹの教授? 貴方までしか今ここにいないのは、つまり十ループ目の二年間の先に、教授の未来が開けているからの筈です」
 合理的なはずの私の問いに、Ⅹの岡崎教授は俯いた。ひどく言いづらそうな、そんな雰囲気だった。
「教授?」
「・・・・・・今から約一年後、私はここにいる十人で、大規模な時空修復作戦に従事する。しかし、その作戦は失敗に終わり、悲劇的な結末を迎えることになる。十人の内九人は、作戦終了時の時空改変に巻き込まれて、過去に飛ばされる。そして一人は事態収拾のため作戦地域に残り、時空ごと引き裂かれる。それが私に、確定された未来だ」
 間もなく、彼女は優しく口を開いた。ゆったりとしていて、寂しげな、しかしはっきりとした声色だった。まるで悲惨な過去を伝える、語り部の老人のようだった。
「・・・・・・え?」
 ついで私の口から零れたのは、その対極にあるような、ひどく間の抜けた声だった。
「あの、教授、十人目より後の教授がここに居ない理由って、そ、そんな、そんなことが・・・・・・」
「まあ、失敗に終わることが分かっている研究に命を捧げる羽目になるなんて、研究者にはお似合いの罰じゃないか。・・・・・・宇佐見くん、これ以上は無駄だ。残された時間が決定されている私と違って、君に残された時間はどんどんと短くなっていく。早く、行きなさい」
「ちょ、ちょっと待ってください教授、未来が分かっているなら、変えようとしてみれば良いじゃないですか。教授、ずっと言っていたじゃないですか。科学は奇跡への挑戦だって、奇跡を起こす魔法は実在するはずだって」
「言ったはずだ。私はタイムパラドックスはけして起こさないと」
「で、でも」
「行きなさい」
 それ以上はもう、私が何を言っても岡崎教授は黙って首を振るだけだった。
 私は泣きそうになって、思わず岡崎教授に背を向けた。眼前には黒い穴。おいでおいでと手招きしているかのようだ。私は躊躇った。どうにか旅をやめ、メリーと岡崎教授の両方を救う答えを見つけようとした。
「行きなさい。マエリベリー君は待っているよ」
 もう一度、岡崎教授。今度はさっきよりもずっと優しい声だ。
「何、心配することはない。私はまだあと十年も、君に会えるのだから。また、過去で会おう」
 見かねて私に話しかけたのは、たぶん、Ⅴの岡崎教授だ。顔を見ていないから、単なる推測だ。私はもう、誰とも顔を合わせられなくなっていた。喉がひりひりして、頭が痛かった。鼻の奥がつんとした。
「うだうだ言ってないで、ほら、さっさと行ってきなさい。擬似魔力を込めて適当に作ってあげたから、現実の認識くらいには役立つはずよ」
 背中を向けたままの私に苛立ったような声をあげる、一つの気配を感じた。それは私の腕を掴んで、小さな布の塊を無理やり押し付けた。
 私は震える腕を前まで持ってきて、恐る恐る手のひらを開いた。
 そこにあったのは、再会祈願、と赤い文字で書かれた、小さなお守りだった。
「私は今日が最終回だが・・・・・・君と過ごした二十年間は実に楽しかったよ。それは間違いない。君の頭脳にはいつも感服させられるばかりだった。過去を書き換えられたせいで、それより前のことは思い出せないが。それでもきっと、君からは沢山の素敵な贈り物を受け取ったのだと思う。今まで、ありがとう」
「教授」
 私は前を向いたまま、答える。声が震えた。いくら押さえつけようとしても、いくら笑ってやろうとしても、無駄だった。抑えがたい後悔が私の瞼をいっぱいにして溢れ出した。冷たい感触が頬を伝い、落ちていく。
「岡崎教授、ごめんなさい。私、行ってきます。必ずメリーを見つけ出します。あの、私たち秘封倶楽部って言って、素敵なオカルトを探索するクラブ活動しているんです。全部全部終わったら、教授もご一緒にどうですか。ああ見えてメリーの才能は凄いんですよ。そこに教授の頭脳が加われば百人力です。だから、だから絶対に待っていてください。お願いします。教授なら絶対に大丈夫です」
「ああ、楽しみにしているよ」
 誰かがそう言った。
 それとも、全員が。
 私は最後まで十人の岡崎教授に振り向かないまま、無限の旅路の第一歩を踏み出した。
 十個の別れの記憶に、私の涙を残したくなかったからだ。



2
 時間という概念がすっかり意味を失ってからどれだけの時間が流れたのか、当然のことながら私には分からない。私が旅を始めてからの時間も、なおのことだ。
 時空の隙間を抜けて、世界の空隙を縫って、私はひたすらに歩く。
 色々な世界があった。鋼鉄の天蓋の内側で人工太陽が輝く世界も、一面原生林に覆われた熱帯の世界も。東京に首都がある世界も、そもそも首都という概念が消失した世界も。私の目の前に様々な日本国の姿が現われては、私の足跡の後ろで瞬き消える。そんな風景を平行世界と呼ぶことくらいは私も知っていた。私のそっくりさんが、星印の帽子を被って巫女の真似事をしていた世界には驚かされたけど、平行世界の大体は私の予想の範疇だった。
 私の世界で生まれた罅割れは、どうやら別の次元にも根を張ったらしい。どこに行っても無数の穴が空いていて、私はその中から一つを選んで進むことになる。そんな旅は地平線の向こうまで続くあみだくじを辿るようなもので、終わりと呼べる場所があるのかも疑わしい。一周してもとの場所に戻って来てしまいました、という可能性は十分にあるし、無論そこに青い鳥がいるはずもない。
 幸いなことに、私の頭の中にはとっておきの武器が眠っていた。
 一つの時空の裂け目をくぐるたびに、夜を待って星空を見上げる。まさかこの能力が、こんな場状況で役に立つなんて思ってもみなかった。
 あちらの裂け目に行けば、二一九四年。こちらの陥穽に落ちれば、一五一二年。そんなことを繰り返して、点描でもするみたいに時空の地図を書き上げていく。これが何の役に立つのかは分からない。しかし、なにもしないよりはずっといいように思えた。森の獣道で後ろに落としたパン屑くらいには、役に立ってくれるだろう。
 幸いなことに、隙間を抜けたむこうは元いた場所の座標と同じであるらしい。いきなりマントルの中心に送り込まれない奇跡に感謝しながら、しかし吹き飛ばされたメリーもそうとは限らないと思い直す。そうなったらどうやって探せば良いのだろう、と三秒だけ考えた。
 大丈夫。
 きっと近くにメリーがいれば、私には分かるはずだ。
 まったくもって根拠のない自信だったが、あの日の喪失感を思えば、あながち的外れな理想でもないと思う。第一ずっと前から、私の思考の傾向とはおおよそそういったものだったのだし。

 そんな風に自分の来歴を話すと、私の前で女性が笑う。
「貴方、なかなかの苦労人ね。見た目に違わず」
 彼女はとてもメリーに似ている。最初はついに本人を見つけたかと思ったほどだった。その第一印象のせいで少し彼女には失礼なことをしてしまった。
「こらこら。どなたか存じないですけれど、こちらには初めてかしら?」
 けれど彼女は怒った様子もなく、ただ優しげに微笑むだけだった。
「ごめんなさい。ずっと探していた人に似ていたので、つい」
「へえ、探し人、ねえ」
 くすくす、と扇子で口を隠しながら笑ってから、彼女はずいと顔を乗り出し私の瞳を覗き込んだ。やっぱり、似ている。フリルをミルフィーユの生地みたいに重ねたドレスはメリーのそれとは全然違うのに、やっぱりメリーにしか見えない。
「私は八雲紫。ご期待には沿えず申し訳ないけれども、貴方に探される覚えは無いわ、旅人さん」
「え、どうして旅人だって」
「この国で私のことを知らない人なんていないのよ。貴方はなかなか面白いわね。ほら、ちょっと付き合ってあげるから、おいで」
 そんなことを身勝手に言いながら、彼女は勝手に先導を始める。お腹も空いたし、ここの勝手は分からないし、なにより先ほどの大失態の埋め合わせをするためにも、彼女の後ろにつく以外の選択肢は無かったのである。
 辺りの風景は、本と時代劇ぐらいでしか見たことのないような町並みだった。木と瓦で出来た平屋が、だらだらと舗装されていない道の左右に続いている。その家屋たちのあちこちには暖簾がかけられていて、蒲団だの魚屋だの肉屋だの、売り物の内容をを誇らしげに掲げている。人はかなり多い。活気に溢れていて、行商だの芸人だのがそこかしこに人だかりを作っている。紫さんに置いて行かれないよう、人並みを掻き分け歩く。
 そしてすぐに、この国で彼女を知らない人はいない、というのがあながち嘘でもないことも分かった。漬物屋の前を通れば味見を頼まれて、子供の集まりに話しかけられては、にこにことお喋りに花を咲かせる。ただ歩いているだけで何人もの住民たちに相談される彼女は、どうやら相当の人格者らしい。
 彼女が何度目かの立ち話を始めたころ、いい加減飽きてきた私は、長屋の白壁に寄りかかる一人の少女に目が行った。
 赤い髪の毛の女の子だが、巨大なマントの長い襟が唇のあたりまですっぽりと覆っている。格好つけた吸血鬼みたいだった。きりりとした目鼻立ちで、背丈のわりにずいぶん大人っぽく見える。なんだか無性に気になってしばらく見つめていた。
 彼女はへくしっ、と盛大なくしゃみをかました。と。ぽろりと彼女の首が落ちた。ばね仕掛けのおもちゃみたいに、ひどくあっけない壊れ方だった。西洋の首無し騎士のようで、私は思いっきり瞬きをした。何度見直しても、彼女の首は取れている。
 道端で私が目を丸くしていると、気づいたらしいその赤髪が歩み寄ってきた。
「あ、ごめんごめん。驚かせちゃった?」
「す、少し」
 私が戸惑っていると、彼女(と呼んでいいのだろうか?)は頭を掻いて舌を出した。勿論、両手に抱えられたまま。
「こら、蛮奇。それはみんな驚くからやっちゃ駄目って言ったでしょう」
 私が後ろにいないことに気がついた紫さんが、いつの間にか彼女を叱責していた。すると今まで悪戯っぽく笑っていた少女が慌てて謝る。生首は落ちかけて、ぱん、と叩いた手と胸の間に浮かぶ。
「うげげ、紫さま! す、すみません! わざとじゃないんですよぅ」
 渋面のまま、赤い髪の彼女は謝る。
「外れるものは外れちゃうんだから仕方ないけど、気をつけなさいよね」
「は、はい、以降気をつけます。ごめんね、突然。別にひどいことするつもりじゃなかったんだって。あのさ、良かったら家に来る? お詫びにご飯くらいなら出してあげるよ」
「こらこら、これからこの子は私の家に来るのよ」
「あ、なんだ。じゃあこれ、私の名刺だから、もし暇になったら遊びに来てね」
 それだけ言い残すと首無しの少女は私に名刺だけ手渡して、さっさと立ち去ってしまった。
 私はというと、ただあっけにとられるばかりで、ただなされるがままだった。
「ごめんなさいね、驚かせちゃって。あの子も悪気はないのよ。ちょっと、その、油断しちゃうだけで」
「大丈夫です。あの、ここの世界の人間は、みんなあんなことができるんですか」
「いいえ、あの子は人間ではなく妖怪です。この国では、妖怪たちは人間と一緒に助け合って暮らしてるの。せっかくだし、案内して差し上げますわ」
 紫さんは私の手を引いて、あっちこっちに連れまわす。近代史の教科書の中を歩くような気分だった。ちょっとした観光気分で、楽しかったのは間違いない。それに、彼女の話に出てくる単語は聞いたことの無いようなものばかりで、余計に気になって仕方ない。
「あそこは『覚』の姉妹がやってる占い屋で、連日大繁盛ですの。向こうは土蜘蛛と河童の修繕屋。『月の博物館』と寺子屋は隣接しているからよく出張授業をしているわね。ここからは少し遠いですけれど、吸血鬼の喫茶店もありましてよ。代金を血で払えるらしいけれど、カロリーで損していないかしら」
 そんな風に指さし手を差し出し、時には私を店の中にまで連れ込んで彼女は説明する。
 特に印象に残ったのは、金髪の少女が番をしていた自称魔法店だった。店内は整頓と混沌を足して二で割ったような状況だった。半分は丁寧に整理されているのに、残り半分は商品なのにあちこちに撒き散らされていて、絶望的な状態だ。紫さんに許可を貰って、暫く見て回る。
 動く表紙の洋書や七色に輝く宝石などは単純に面白い。その上得体の知れない眼球の瓶詰めだのツチノコの剥製だのまであって、ケレン味も十分である。岡崎教授がもしここに来ていれば、店主ごと買い取ろうとしてもおかしくないほどだった。
 道行く人たちも、少し注意してみれば随分と人間とは姿かたちが異なっていた。肩に少女を乗せた大男とすれ違う。彼の額には大きな赤い角が生えていて、少女のほうも良く見ればふさふさとした尻尾が生えている。二人の似ているところといえば、満面の笑みを浮かべた表情くらいのものだ。
「どう? 気に入ってくれた?」
 紫さんは随分と必死に私に話しかけるように見えた。それとも単に、世話焼きなだけだろうか。
「は、はい。とっても素敵な世界だと思います。私の世界では妖怪はとうに滅び去った、人間に害なす恐ろしいものだって言われてました。この世界では、その、皆さん楽しそうでびっくりしてます」
「そう、ありがとう。ねえ、お話があるの。続きは、私の部屋でゆっくりしましょう。ほら、着きましたよ」
 紫さんの家は、私の想像していたのよりも二倍は広かった。立派な庭園には満開の花が咲き誇り、池と盆栽が日本的な美を演出している。
 もし私がいた日本にこの建築物があったのなら、なんらかの文化遺産に指定されていたに違いない。それほどの異様だった。
 私の感動を知ってか知らずか、紫さんはさっさと中に入ってしまったのだけれど。

 紫さんに案内された応接間は、やはりというか和室であった。床の間には一幅の掛け軸が垂らされているが、そこに描かれた水墨画は複雑な幾何学模様で、なんと言うか前衛芸術的である。
 畳の青い匂いは随分と久しぶりだった。そもそも畳が残っている世界のほうが少なかったからだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
 私が座布団に正座をすると、襖を引き開けて現われた金髪の女性が、盆から茶を差し出した。私と同い年くらいに見えるようで、しかしずっと老練な雰囲気も持ち合わせている。
 「私の式、ああ、伝わらないかしら? 私の部下の、藍です」
 送れて入ってきた紫さんが彼女を手で示す。紫さんは服を直してから茶を啜り、にっこり笑って私を見つめた。藍さんはそれを見てから退室しようとしたが、紫さんがそれを手で制する。
「今日一日この町を見ていただいて、どのような暮らしを営んでいるか、分かって頂けたでしょう。人は妖怪に感謝し、妖怪はその感謝を糧に人に貢献する。私たちの理想郷ですわ」
 理想郷。確かにその単語は言い得て妙だったかもしれない。この世界は、私とメリーのずっと探していた、優しくて甘く、そして何より刺激に溢れた理想郷そのものだったからだ。
「色々な場所を旅してきましたが、確かにこの地は最も素晴らしい世界かもしれません」
 紫さんは満足そうに頷く。それから急に真剣な眼差しになって、じっと見つめてくる。その言いようも無く蟲惑的な視線に私はどぎまぎして、なんとなく目を逸らしてしまった。
「さて、貴方は旅人と言いましたね。それは、きっと難しい旅でしょう。貴方もそのことは薄々分かっているのではありませんか」
「確かに、簡単なものではありませんが」
「ならばいかがです、私たちと共に暮らしませんか。勿論、衣食住は保障させて頂きます。その代わり、この地を共に守護していただくことになりますが」
 突然の提案に驚いたのは、私だけではなかった。紫さんの隣でぴんと背筋を伸ばして座していた藍さんも、驚愕の表情とともに紫さんに向き直る。
「ゆ、紫さま? そんな突然」
「いいじゃない、一人ぐらい。それにこの娘、ただの人間じゃない。巫女の才能があるわ」
「え」
 と、藍さんはじっと私のことを見つめて、それから首を傾げた。
「私には分かりませんが」
「私には分かるの。貴方の眼、普通の人間とは違うもの。でしょう?」
 もう一度、紫さんが私の瞳を覗き込む。なんだかすべてを見透かされている気がして、私は頷くことしか出来なかった。
「説明させて頂きますね。この理想郷は、元来人間の巫女と妖怪が二人で協力して治めてきました。しかし先代の巫女は子を成す前に倒れ、また国内に巫女としての能力に長ける女性は見つかりませんでした」
 紫さんはゆっくりと話す。私にとって唐突な話なのは分かっているのだろう。私が意味を噛み締めて理解できるまで、待ってくれているようだった。
「今は無理やり私一人でバランスを保っています。しかし、それではいつか無理が祟るでしょう。そうなれば、外界の歪みがこの楽園を容易く飲み込むのは間違いありません。勿論、強制するものではありません。けれど、残された時間は間違いなく僅かで、貴方には適性があります。どうか、ここに留まって、ご助力は頂けませんか」
 紫さんはそこまで話して私をじっと見つめると、それから深く頭を下げた。
 あれほど親切にしてくれた紫さんがここまでしてお願いしてくるのだから、相当深刻な問題なのだろう。心の隅で、良心がちくりと痛む。
 正直、私は迷った。ここには不思議があり、平和があり、夢があった。
 いくら探しても見つからないメリーの後姿に、手を伸ばすことを諦めたほうが良いのではないか、と思えかけてきていた。
 私とメリーの時間線は、ひょっとしたら完全に平行で、どこまで行っても交わらないのかもしれない。
 私とメリーの時間線は、ひょっとしたら遺伝子の二重螺旋みたいに意地悪に捩じくれていて、漸近しているようで近づくことすら叶わないのかもしれない。
 だったら、この平和で妥協してしまったほうが良いのではないか。
 紫さんの笑顔はメリーにとっても似ていて、心が揺さぶられたのは事実だった。

 ・・・・・・。
 私は、頭を振る。
 それでも、だった。
「・・・・・・ごめんなさい。私のことを、待っている人がいるんです。確かにこの世界はとっても素敵でとっても魅力的で、もし私たち二人が揃っていたら、ずっとここにいたかもしれません。でも、やっぱり駄目なんです。私はどうしても、その人を救い出さなきゃいけないんです」
「・・・・・・そう。おかしなことだけれど、貴方には断られる気がしていたわ。その人のことが、とても大事なのね」
 私の答えを聞くと、残念そうに、けれどもそれ以上にどこか嬉しそうに紫さんは微笑んで、私に教えてくれた。
「残念だけれども、そうと決まれば僭越ながら忠告させて頂きましょう。私から言えることはただ一つ。底を目指しなさい。ボトムのほうね」
「底、ですか」
「そう。あらゆる物事に終わりがあるように、あらゆる歴史に終わりがあるように、貴方の旅にも必ず終わりがあります。そこを目指すには、ただひたすらに落ち続けなさい。貴方の心が赴くままに、貴方の足が赴くままに。決して振り向いてはいけません。自然にすべてを任せなさい。どのような道筋を辿っても、終着点は一つなのです。そのことは妖怪の賢者として、私、八雲紫が保証させていただきます」
「はい」
 紫さんの言葉には、重みがあった。確信と威厳に満ちた言葉は私に自信を与えてくれた。底、が具体的に何を刺すのかは分からない。けれども自分を応援してくれる人が出来たと言うことが、純粋に嬉しかった。
「もしも失敗したら、あなたの死後に魂だけ貰いに行こうかしら」
「ええと。そうならないように努力します」
 返答に少し困った私に、紫さんは可笑しそうに笑う。まるで子供のように無邪気そうだった。
「そして私から言えないことをもう一つ。いつでもあるのに、どこにもないもの、なーんだ?」
「なぞなぞですか?」
 少し答えを考える。いつでもあるのにどこにもないもの。分からない。
「単なるやきもちです。ちょっとだけ、答えに悩んで困りなさいな。さて、今日は長々とありがとう。時間も時間ですけれど、泊まっていく?」
「いえ、あまり長くいると、寂しくなりそうですから」
「あら、寂しくなるわね」
 私は一礼する。紫さんは立ち上がって、先に襖を開けてくれた。からからと音を立てて、また次の旅への第一歩が姿を現す。
「ありがとう。楽しかったわ。待っているから、もう二度と来ないでね」
「紫さんもお元気で。巫女さん、見つかると良いですね」
 左手で帽子を被り直し、右手で紫さんと固い握手を交わす。暖かくて柔らかくて、やっぱりメリーの手のひらみたいだった。私は深々とお辞儀をしてから、紫さんの家を後にする。軒先まで、二人は見送ってくれた。もうすぐ見えなくなるだろう、という時に振り向くと、一瞬、紫さんがひどく悲しそうな表情を浮かべていた気がした。藍さんが彼女の身体を支え、また家の中に戻っていく。その苦しそうな姿に、一瞬私もきびすを返しかけた。けれども余計に彼女を傷つけるだけだと気がついて、私は伸ばしかけた腕を下ろす。胸がひどく痛んだ。
 外はもうすっかり暗くなっていた。通りかかった広場では、大きなキャンプファイアーが赤々と焚かれていた。その周りでたくさんの人と妖怪が酒を飲み、歌い、踊っていた。笑いながら、友と生を謳歌している。アルコールと炎に茜に染められた真っ赤な顔が、いくつも並んで眩しい。じっと見ているとなんだか無性に寂しくなって、私は空を見上げた。夜に輝くのは二〇八七年の銀河の姿で、それは偶然にも私たちの世界が壊れてしまった年と同じだった。
 私は心の片隅に掠めた後悔を否定するように、手近な裂け目に手を伸ばす。

 こうして私は、理想郷に別れを告げた。
 ただ、自分の旅を続けるために。



3
 色々な世界があった。
 巨大知性体と名乗るAIが、壊れた世界をどうにか修繕しようと奮闘している世界。
 魔法と信仰がすべてを支配し、妖怪と魔物が夜を闊歩する一方で、あらゆる科学技術がどこか薄暗い郷に押し込められた世界。
 大魔王岡崎教授がISBMを雨霰と降らせて、北極から南極まで丸ごと焦土に変えてしまった世界。
 サボテンの力で動く機械の世界。
 なにもかもがそこにある世界。
 なにもかもがそこにない世界。
 単なる空白。
 しかしあらゆる可能性を巡ってなお、私はメリーを見つけられずにいた。

 たぶん、数十年が経ったのだと思う。
 ひょっとしたら、数百年だったのかもしれない。
 何百何千の世界を巡ったのかすら、最早判然としない。唯一つ分かっているのは、私の身体が遠くない未来に、人間としての限界を迎えるだろうということだけだった。
 その世界に辿りついたころには、身体は殆ど朽ちかけていたように思う。
 ぶくぶくと赤く膨れ上がった太陽らしき紅が、全天の半分ほどを埋め尽くしたまま、鬱病めいた光を投射している。空は灰色に淀んでいて、どろりと濁っている。辺りは一面の砂漠だ。オアシスどころか蜃気楼の一つも見えない。しかしながら、不思議と暑くは無い。ただ、どうしようもなく疲れ果てていた。旅の疲弊が、私の身体を隅の隅まで蝕んでいた。痩せ衰えた体躯。歩く速度は蛞蝓のよう。身体が重い。そう感じる思考すら重い。生暖かい憂鬱が、すっかり薄くなった血液の代わりに身体に充満する。
 暫くして、夜になった。あの腐った林檎のような太陽とはうって変わって、満天の星空が視界を占拠する。北極星も、夏の大三角形も良く見える。しかし奇妙なことに、それをいくら見上げてみても、この世界がいつの時代なのかまるで分からなかった。老いに老いて、終に唯一の能力すら失ったか、と私は呆然と膝をついて倒れこんだ。
 たぶん、ここで私は死ぬのだろう、と思う。砂に塗れたまま、ゆっくりと身体をミイラみたいに乾かして。誰にも知られぬままに。頬の下に柔らかな砂の感触。これが私の棺桶か、と奇妙な感慨が背筋をなぞる。
 影が差す。巨大な黒い影が私の身体をすっぽりと包み込んだ。
 それが死神のものでないことに気がつくまで、ほんの少し時間が必要だった。
 視線を上げると、宮殿があった。ギリシャの神殿のようであり、チベットの仏教建築のようであり、西洋の煉瓦の館のようであり。また日本の屋敷のようでもあった。世界中のあらゆる伝統建築を寄せ集めて積み重ねたような、奇妙な家である。しかし不思議なことに、どこかいいようもなく懐かしかった。
 私は重い重い身体をどうにか繰って、眼前の巨大な鉄鋼の扉に手をかける。意外なほど軽かった。
 宮殿の中は、よく磨かれた大理石の純白で構成されていた。天井から吊るされた、満開の花束のように豪奢なシャンデリアの光を反射して、床が冷たい水面のように煌めいている。
 正面の奥には、幅だけで十メートルはありそうな階段がある。一段一段の高さはそれほどでもないが、かなりの段数だ。
 それを上った先には、その大階段すら玩具に見えるような壮大なステンドグラス。星と月の光を僅かな光を濾過して、七色に輝いている。
 そしてその足元に一つ、人影があった。

「おはよう、蓮子」
「・・・・・・嘘」
 そこにいたのは、嘘としか思えないほどに昔のままの、親友だった。
「あら、再会の第一声がそれなんて、あんまりだわ。もうずっと長いことここにいたのに」
「だって貴方はあの頃から、何も変わっていないわ」
「貴方が一段ずつ降りてきた螺旋階段を、私は一飛びしてしまっただけよ。今更時間構造になんの意味なんてないでしょう?」
 ふわり、とメリーが跳んだ。彼女は階段を三段飛ばしで舞うように降りてくる。
「そう、かもしれないけれど。じゃあ、ここは何? 私の旅の終わりは、砂漠だったの?」
「そう、ここはすべての時空の終着点。ここには、過去も、未来も無いわ。あるのは敷衍された今この時だけ」
 メリーが両腕を広げて、幼いバレリーナみたいに一回転した。ひどくぎこちなくて、そういえばメリーは運動が苦手だったと思い出す。今も昔も、やっぱりそれは変わらない。
 いつでもあるのに、どこにもないもの、なーんだ。
 遠い昔、八雲紫と名乗る女性から投げかけられた問いが突然脳裏に蘇った。失われかけていたシナプスが最期の呻きのように稼動して、やはり唐突にその問いの答えを見つけ出した。
 答えは、『今』だ。
 たとえば何月何日何時何分何秒というような、『いつ』は確かにあり、確かに訪れて過ぎていく。しかし未来は次々と過去に変換されていくから、時間とは結局そのどちらかでしかありえない。
 今とは矛盾した概念だ。そんなものは存在しない。
「でも、それは間違っているわ」
 メリーは答える。
「『今』は、ここにあるのよ。ここは時間の集積所。過去になれなかった時間たちが、砂時計の硝子の内側を伝って集まるところ。だからここには、過去はない。かわりにいつまでも今が続くの」
「私、メリーが何を言っているのか理解できないわ」
「簡単な話よ。私たちは、ここでなら永遠になれるの」
 メリーが私の枯れ木のような腕を取る。途端、私の身体はふわりと軽くなった。細く骨ばっていた腕に、ほの温かい血色と感覚が一瞬で戻った。心の臓が私の左胸で激しく脈打った。あんなに曇っていた脳髄に、過日の煌めきが過ぎった。視界の白濁が消えて視力が戻り、メリーの姿がはっきりと見える。紛れも無く、私の記憶にうすぼんやりとしか残っていなかった、しかし彼女とはっきり分かる、メリーだった。
「メリー・・・・・・本当にあの頃のままの、メリーなんだ・・・・・・」
「当たり前じゃない、蓮子。私たち秘封倶楽部の今は、あの事故の瞬間で止まったままだったのだもの。だから、やり直しましょう。この世界は最高の不思議に包まれているわ。ほら、冒険の支度をしなきゃ。海に行く? 山に行く? 地底迷宮も
謎の遺跡も異界への入り口も、ここには何だってあるわ」
 メリーは私の頭に帽子を被せた。懐かしい、黒い帽子。メリーと出かける時は必ず被っていた、大きな帽子。涙が出た。
「これが今際の夢の可能性は?」
「蓮子がそう望むなら」
「貴方が本物のメリーの確率は?」
「蓮子がそう思う確率と同値」
「今まで冒険に出ていなかった理由は?」
「だって、私、蓮子が来るのを待っていたのだもの。一人で積み木遊びをしていても面白くともなんともないわ」
 その答えで、私は確信した。
 ああ、メリーだ。本物の、私がずっと探していた、メリーだ。口には出さないが、そう思った。
「信じてくれて、ありがとう」
 メリーが微笑む。
「信じさせてくれて、ありがとう」
 私はメリーに飛び込んだ。メリーは私の身体を両手で受け止めて、そっと抱きしめた。懐かしい体温があった。一緒に夢の世界に旅立ったときのメリーの手の感触が、心のどこからか湧き上がって来る。しかし、これは夢ではなかった。思わずコートの胸ポケットに手を入れる。そこには、大昔に岡崎教授から貰った魔法のお守りが、今もかわらず現実であることを告げてくれていた。けれどもそれは、黙っておく。
「夢じゃないことを、証明させて」
 メリーの胸に顔を埋めてそれから、どうしようかな、と少しだけ考える。
 なんだか、今は眠い。
 そうだ、とりあえず。
 メリーと一緒の、普通の明日が来て欲しいな。
 それだけ願って、私はそっと瞼を閉じる。
「いままでお疲れ様。蓮子」
 メリーが耳元で、そう囁いた気がした。
アイデアの元ネタは、円城塔の短編集『Self-Reference ENGINE』より。
味付けはだいぶ変わっていますが。

秘封熱が来てるのでちゅっちゅを書いてみました。秘封ちゅっちゅ。
 
>>2
誤字でした。名前を間違えるとは・・・・・。修正しました、ありがとうございます
るゐ
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.520点簡易評価
1.80点名前が無い程度の能力 削除
元ネタよろしくまとまった文量で読みたい作品。
久々にワクワクした!
2.90点名前が無い程度の能力 削除
再開できてよかった
岡崎教授も救われるといいですね

蛮奇じゃなくて蛮鬼なのは並行世界だからだろうか
3.80点奇声を発する程度の能力 削除
楽しめて、面白かったです
4.100点名前が無い程度の能力 削除
元ネタは知らんけど、背景が壮大なのに中身はきっちり詰まってて読みやすかった。
5.90点大根屋 削除
そんなに長くも無く、かと言って短くも無い文章量の中に凄まじく圧縮された世界観。
それをはっきりと感じさせているのが凄い。
8.90点名前が無い程度の能力 削除
お疲れ様、蓮子
出会ったあとどうなったかはわかりませんが、
これも教授と同じように「やってしまった人間」の罰なんでしょう

そして紫はどんな別れ方をして幻想郷にいたのか……
13.80点名前が無い程度の能力 削除
よくわならないのに、不思議と面白かった
14.90点名前が無い程度の能力 削除
最後の永遠や岡崎教授と幻想郷など、救いがあるとは言い難い世界が好きです。