我が主人は鶏卵を好む。鹿の死肉を焼いた物をよく食べて居るのを目にするが、其れと食物の好みとは少々異なるらしい。殺したのはきちんと食べなければならないと云う倫理観がある様だ。ならば初めから殺さなれけば良い物を。兎に角、其の様な事もあって鹿の肉はよく我にも分け与えてくれるのだが、鶏卵の中身を溶いて焼いたのだけは気付いた時には彼女の腹に収まって居て、我が盗み食いを働く隙さえ無い。鳥の卵を好むなんて、其れこそ恰で生きた蛇の様だ。
我は食事を必要としない。然して食事をするのは好きだ。我が主人が肉を分け与えてくれるのが好きだ。竪穴を流れる情報の波も表面が硬くなる迄焼かれた鹿の肉も、どちらも等しく我の腹を満たす事は無い。が、我にとって其れらは同様の価値は持たない。其れは彼女が射った鹿だ。其れは彼女の所有物だ。其れを彼女は我に与えようと云うのだ。彼女は気の良い奴だった。我は我が使命の為に、彼女を好く様に作られて居るのだろうと云うのも容易に想像はつく。然し其れとは関係無しに、我は我の意思に仍て、彼女の其の人柄に仍て彼女をいたく信頼して居る。そう思って居る。彼女とは長らく倶に生きてきた。故に曲がりなりにも彼女には愛着が有ったし、彼女も亦我に愛着を持って居るのだと云う事実は我に奇妙な安心感を与えた。
我が主人には同居人が居る。竪穴を覆う山の主は我が主人を酷く溺愛して居る。だと云うのに、我が主人は我に向ける其れと同等の好意のみを山の主へ返す。同居人を蔑ろにして居る訳ではきっと無い。我が主人は気の良い奴だから。彼女は唯、彼女の身体の一部として、そして彼女の最大の拠り所としての我自身を過大評価して居るだけだ。我が使命がそうさせた。我が肉体は、我の為には無い。こうして眺めて居ると、其れは真の意味で我が主人の為でもきっと無い。そして、我に其の事に関して述べる権利も無い。
「……メンテナンスだって、今日。」
惘と虚空を眺める我が双眸に向けて主人は告げた。数ヶ月に一度、管理人が竪穴にやって来る。メンテナンス等と称し、我が肉体を弄り回して去って行く。初めて其の作業が行われた時、我が苦痛を訴えたら次からは眠って居る間に終わらせてくれる様になって、したがって“メンテナンス”の間に何が行われて居るのかを我は知らない。苦しくも無くなったので何だって構わない。
我が主人はメンテナンスの間、浅間浄穢山の外へ出て鹿を射る。褒美だと云って一番脂の乗ったヒレを与えてくれる。我は何の苦労も無くただ眠っているばかりであるから気を遣わせるのは忍び無かったが、貰える物は貰っておく事にして居る。どうせメンテナンスの日にしか分けて貰える事は無いのだから。
「良い子で頑張るんだよ。」
主人は我が頭蓋を覆う鱗に二度軽く触れ、大義そうに腰を上げた。弓と矢筒を引き摺って。其の背中を黙ったまま見送り、黒く煤けた空気の中に其れが見えなくなってから、擡げた頭を下ろし、外界の情報を遮断する。管理人が来る迄どうせする事も無いから、近頃は眠って其れを待って居る。我が意識の総てを外殻から切り離し、内側へと引っ込める。光と音と熱と揺れる空気の感触と、其れら総てが我が世界から消えて行く。熱く柔らかな我が内臓だけを、無限大の虚無の中へと移し替える。我は其れを睡眠と表現して居る。果たして主人の其れと同じ物を指して居るのか否かは知らない。考えた事も無い。
そうして虚の中を気の向く儘に泳いだ。生き物は、睡眠の間に夢を見るのだと云う。我が精神を穏やかに包む此の感触を指す物であろうか。何も見えない、何も聴こえない、何も感じないけれど、虚無の大洋の底を泳いで居るのに近しい心地だけは、眠って居る間ずっと抱えて居る。我は此れをそれなりに好いて居る。その時ふと、肉体の方に違和感を憶えた。肉体と精神とが繋がってしまった。存在しない身体を水底に向けて必死に捻り抵抗するが、闇の中に開いた小さな綻びは我が魂を現の世界へと呼び戻した。
色が視える。熱を感じる。地面が微かに震えて居る。目覚めてしまったらしい。管理人は、我が真なる主は、我がゆっくりと首を持ち上げたのを少し驚いた様に見下ろした。それから我が主人がするのと同じ様に、我が頭蓋を覆う鱗に二度軽く触れた。揺らした舌先からふわりと桃の香りがした。今暫く眠らせてくれと訴えてみるが、主は徐に瞼を下ろし被りを振った。
「丁度終わりましたよ。」
左様であったか。それなら丁度良い。ぐるりと蜷局を巻いて、見下ろした先の肉体に変化は見られなかった。相変わらず彼女が我が肉体にどの様な仕掛けを施して居るのかは良く分からない。無意識の内に大きな欠伸が一つ零れ落ちた。主は心此処に在らずと云った様子で此れを眺めた。そうして不意に、我へ向けて問うた。
「……維縵王女は、もう忘れてしまったのでしょうか。」
彼女が何を云わんとして居るのかを理解するのに暫しの時間が要った。彼女はいつもそうだ。『維縵王女』は言葉を選ぶと云う事をしないから、或いは恰も選んで居ないかの様な言葉を選ぶから、主の話すのを聞くと余計にそう思う。然しまあ、彼女が我へ向けて物を云う事が有るとすれば、其れは大抵の場合我が写し身の事である。『維縵王女』が自らの意思で忘れたのでは無い。彼女らが忘れる様にさせたのだと云うのに。
彼女らは『維縵王女』を此の場所に閉じ込める為に、其の精神的苦痛を少しでも和らげる為に我を宛てがった。一つは我に王女の夫の代わりを務めさせる為。そしてもう一つは、我が使命を『維縵王女』の其れとして与える為。王女は元より、此の場所で情報に触れ穢れを祓う為の資質を持たない。其の意識をも持たない。其の為に生まれた存在では無いのだから。故に彼女らは、穢れを喰らい生まれ変わらせると云う使命を“我に”与えた。そして『維縵王女』の夫と同じ蛇の姿の我を、精神的な拠り所と称して王女に与えた。王女はまんまと我が使命を自身の其れと思い込んだ。そうする他に無かった。さもなくば壊れてしまうだけだ。
我は最早、仮初の主人を仮初の自由の中に縛り付けるだけの牢獄の鍵と成り下がった。否、初めから我はその様にして作られた。思念を持たぬ肉の塊に、ヨスガを持たぬ孤独な蛇に、成すべき使命を与えてくれた。故に我が真なる主は竪穴の管理人、月都の乙姫様唯一人である。然し同時に、我は長く倶に過ごして来た我が仮住まいの主人にいたく愛着を抱いて居る。我が使命が意味を持たぬ作り物である事に、作り物の身でどうこう考えた事は無い。然しながら、『維縵王女』の使命はどうだろう。他者に与えられた空虚な使命を自らの選択の結果と思い込み、自ら選んだ道と思い込んで、それを幸福と呼ぶのだと心から信じて歩む彼女の背中を眺めて居ると、不意に胸が痛む事がある。そして、乙姫様もきっと同じ心地で居るのだろう。内心察しは付いておきながら、彼女自身すらも偽って、気付いて居ないふりをして居るだけだ。
「……貴方に聞いても仕方のない事ですね。それに、貴方にとってはその方が都合が良い筈ですね?」
告げて強引に蓋をした。彼女はいつもそうだ。然し彼女が都合が良いと云うのなら、其れは我にとっても都合の良い事なのだ。我が使命は唯一つ、我が真なる主に報いる事のみ。唯此れのみが我自ら選び取った“我が”使命である。だから総て呑み込もう。我が物で無い作られた使命に殉じる我が道程を。そしてどうか赦して欲しい。時には貴方の心を置き去りにして、作り物の使命に閉じ込められた哀れな蛇姫の人生に思いを馳せる事も。
少しばかり遅れて、寝起きの脳が精神と癒着する音がした。知覚される世界が意味の羅列を成した。主は重そうに脚を引き摺って腰を上げ、それから一度此方を見下ろした。彼女は何も云わなかった。我も何も云わなかった。元より我にその機能は備わって居ない。それから彼女は踵を返し、靴底の地面にぶつかる軽い音を残して其の場を後にした。初めに視覚で其れを見送った。我が貧弱な視神経は直ぐに役目を放棄したので、残りは大気の中へ放り出した舌先で見送った。其の気配が我が領域を抜けて消える迄の長い間、最後の最後まで彼女は何も云わなかった。
我は総てを識って居る。月の民が識る事を拒絶した総てを識って居る。『維縵王女』に見せる事を畏れ、我に負わせた総てを我は愚直に識って居る。我はその為に生まれ直したのだと云う事も識って居る。然して此の果て無き欺瞞と葛藤の、行き着く先を我は識らない。識る由も無い。
我は食事を必要としない。然して食事をするのは好きだ。我が主人が肉を分け与えてくれるのが好きだ。竪穴を流れる情報の波も表面が硬くなる迄焼かれた鹿の肉も、どちらも等しく我の腹を満たす事は無い。が、我にとって其れらは同様の価値は持たない。其れは彼女が射った鹿だ。其れは彼女の所有物だ。其れを彼女は我に与えようと云うのだ。彼女は気の良い奴だった。我は我が使命の為に、彼女を好く様に作られて居るのだろうと云うのも容易に想像はつく。然し其れとは関係無しに、我は我の意思に仍て、彼女の其の人柄に仍て彼女をいたく信頼して居る。そう思って居る。彼女とは長らく倶に生きてきた。故に曲がりなりにも彼女には愛着が有ったし、彼女も亦我に愛着を持って居るのだと云う事実は我に奇妙な安心感を与えた。
我が主人には同居人が居る。竪穴を覆う山の主は我が主人を酷く溺愛して居る。だと云うのに、我が主人は我に向ける其れと同等の好意のみを山の主へ返す。同居人を蔑ろにして居る訳ではきっと無い。我が主人は気の良い奴だから。彼女は唯、彼女の身体の一部として、そして彼女の最大の拠り所としての我自身を過大評価して居るだけだ。我が使命がそうさせた。我が肉体は、我の為には無い。こうして眺めて居ると、其れは真の意味で我が主人の為でもきっと無い。そして、我に其の事に関して述べる権利も無い。
「……メンテナンスだって、今日。」
惘と虚空を眺める我が双眸に向けて主人は告げた。数ヶ月に一度、管理人が竪穴にやって来る。メンテナンス等と称し、我が肉体を弄り回して去って行く。初めて其の作業が行われた時、我が苦痛を訴えたら次からは眠って居る間に終わらせてくれる様になって、したがって“メンテナンス”の間に何が行われて居るのかを我は知らない。苦しくも無くなったので何だって構わない。
我が主人はメンテナンスの間、浅間浄穢山の外へ出て鹿を射る。褒美だと云って一番脂の乗ったヒレを与えてくれる。我は何の苦労も無くただ眠っているばかりであるから気を遣わせるのは忍び無かったが、貰える物は貰っておく事にして居る。どうせメンテナンスの日にしか分けて貰える事は無いのだから。
「良い子で頑張るんだよ。」
主人は我が頭蓋を覆う鱗に二度軽く触れ、大義そうに腰を上げた。弓と矢筒を引き摺って。其の背中を黙ったまま見送り、黒く煤けた空気の中に其れが見えなくなってから、擡げた頭を下ろし、外界の情報を遮断する。管理人が来る迄どうせする事も無いから、近頃は眠って其れを待って居る。我が意識の総てを外殻から切り離し、内側へと引っ込める。光と音と熱と揺れる空気の感触と、其れら総てが我が世界から消えて行く。熱く柔らかな我が内臓だけを、無限大の虚無の中へと移し替える。我は其れを睡眠と表現して居る。果たして主人の其れと同じ物を指して居るのか否かは知らない。考えた事も無い。
そうして虚の中を気の向く儘に泳いだ。生き物は、睡眠の間に夢を見るのだと云う。我が精神を穏やかに包む此の感触を指す物であろうか。何も見えない、何も聴こえない、何も感じないけれど、虚無の大洋の底を泳いで居るのに近しい心地だけは、眠って居る間ずっと抱えて居る。我は此れをそれなりに好いて居る。その時ふと、肉体の方に違和感を憶えた。肉体と精神とが繋がってしまった。存在しない身体を水底に向けて必死に捻り抵抗するが、闇の中に開いた小さな綻びは我が魂を現の世界へと呼び戻した。
色が視える。熱を感じる。地面が微かに震えて居る。目覚めてしまったらしい。管理人は、我が真なる主は、我がゆっくりと首を持ち上げたのを少し驚いた様に見下ろした。それから我が主人がするのと同じ様に、我が頭蓋を覆う鱗に二度軽く触れた。揺らした舌先からふわりと桃の香りがした。今暫く眠らせてくれと訴えてみるが、主は徐に瞼を下ろし被りを振った。
「丁度終わりましたよ。」
左様であったか。それなら丁度良い。ぐるりと蜷局を巻いて、見下ろした先の肉体に変化は見られなかった。相変わらず彼女が我が肉体にどの様な仕掛けを施して居るのかは良く分からない。無意識の内に大きな欠伸が一つ零れ落ちた。主は心此処に在らずと云った様子で此れを眺めた。そうして不意に、我へ向けて問うた。
「……維縵王女は、もう忘れてしまったのでしょうか。」
彼女が何を云わんとして居るのかを理解するのに暫しの時間が要った。彼女はいつもそうだ。『維縵王女』は言葉を選ぶと云う事をしないから、或いは恰も選んで居ないかの様な言葉を選ぶから、主の話すのを聞くと余計にそう思う。然しまあ、彼女が我へ向けて物を云う事が有るとすれば、其れは大抵の場合我が写し身の事である。『維縵王女』が自らの意思で忘れたのでは無い。彼女らが忘れる様にさせたのだと云うのに。
彼女らは『維縵王女』を此の場所に閉じ込める為に、其の精神的苦痛を少しでも和らげる為に我を宛てがった。一つは我に王女の夫の代わりを務めさせる為。そしてもう一つは、我が使命を『維縵王女』の其れとして与える為。王女は元より、此の場所で情報に触れ穢れを祓う為の資質を持たない。其の意識をも持たない。其の為に生まれた存在では無いのだから。故に彼女らは、穢れを喰らい生まれ変わらせると云う使命を“我に”与えた。そして『維縵王女』の夫と同じ蛇の姿の我を、精神的な拠り所と称して王女に与えた。王女はまんまと我が使命を自身の其れと思い込んだ。そうする他に無かった。さもなくば壊れてしまうだけだ。
我は最早、仮初の主人を仮初の自由の中に縛り付けるだけの牢獄の鍵と成り下がった。否、初めから我はその様にして作られた。思念を持たぬ肉の塊に、ヨスガを持たぬ孤独な蛇に、成すべき使命を与えてくれた。故に我が真なる主は竪穴の管理人、月都の乙姫様唯一人である。然し同時に、我は長く倶に過ごして来た我が仮住まいの主人にいたく愛着を抱いて居る。我が使命が意味を持たぬ作り物である事に、作り物の身でどうこう考えた事は無い。然しながら、『維縵王女』の使命はどうだろう。他者に与えられた空虚な使命を自らの選択の結果と思い込み、自ら選んだ道と思い込んで、それを幸福と呼ぶのだと心から信じて歩む彼女の背中を眺めて居ると、不意に胸が痛む事がある。そして、乙姫様もきっと同じ心地で居るのだろう。内心察しは付いておきながら、彼女自身すらも偽って、気付いて居ないふりをして居るだけだ。
「……貴方に聞いても仕方のない事ですね。それに、貴方にとってはその方が都合が良い筈ですね?」
告げて強引に蓋をした。彼女はいつもそうだ。然し彼女が都合が良いと云うのなら、其れは我にとっても都合の良い事なのだ。我が使命は唯一つ、我が真なる主に報いる事のみ。唯此れのみが我自ら選び取った“我が”使命である。だから総て呑み込もう。我が物で無い作られた使命に殉じる我が道程を。そしてどうか赦して欲しい。時には貴方の心を置き去りにして、作り物の使命に閉じ込められた哀れな蛇姫の人生に思いを馳せる事も。
少しばかり遅れて、寝起きの脳が精神と癒着する音がした。知覚される世界が意味の羅列を成した。主は重そうに脚を引き摺って腰を上げ、それから一度此方を見下ろした。彼女は何も云わなかった。我も何も云わなかった。元より我にその機能は備わって居ない。それから彼女は踵を返し、靴底の地面にぶつかる軽い音を残して其の場を後にした。初めに視覚で其れを見送った。我が貧弱な視神経は直ぐに役目を放棄したので、残りは大気の中へ放り出した舌先で見送った。其の気配が我が領域を抜けて消える迄の長い間、最後の最後まで彼女は何も云わなかった。
我は総てを識って居る。月の民が識る事を拒絶した総てを識って居る。『維縵王女』に見せる事を畏れ、我に負わせた総てを我は愚直に識って居る。我はその為に生まれ直したのだと云う事も識って居る。然して此の果て無き欺瞞と葛藤の、行き着く先を我は識らない。識る由も無い。