幻想鏡現詩 博麗大結界
『博麗大結界』鏡あわせの現と夢を別つ境界。
現が夢をみられるように、また夢から現へ帰れるようにと、相反し喰らい合う人と妖とが手を取り合い作ったもの。
陰と陽、二つの力で別つ世界は、互いに看過することなく今も何事もなく巡っている。
そう何事もなく。
これは、少し。いえ、ずっと昔々の物語。
まだこの辺りが『幻想郷』と呼ばれていなかった頃のお話。
ほんの幼い妖怪の少女と、ほんの幼い不思議な少女、二人の物語。
二人は出会い、奪い合い、傷つけ合い、わかり合い、互いの夢を語り合い、手を取り合い、そして、一つの理想郷を作った。
か弱きもの、強すぎるもの達の安息の地として。
思い出す必要はない。なぜならずっと覚えているのだから。
あなたにだけ話すわ。私の現の写し鏡のあなたに。
私が、いえ、『私たちが愛した幻想郷』の事を。
私は約束を守れるのかしら。
いいえ、守るわ、必ず。
私たちの子をこの手で。
ねぇ―――――
――――夢があるの、紫――――
◆ 第 篇 妖の屋敷
紫は自らの名と同じ色をした紫煙を細く吐き出しながら微笑んだ。
妖艶、その言葉は彼女のためだけにあるのではないか。相応しい、そう思わざるを得ないような、ひどく美しく、そう、彼女に触れたいと、手を伸ばさずにはいられない不思議な魅力を称える女性がそこには居た。ゆったりと『貢物』の山々に囲まれながら悠々と。
虚ろな目をした女の髪を撫ぜる。膝元にいたはずの女が一瞬にして何処かに消えた。
色鮮やかな紫色をした艶やかな着物、すべらかな金の絹糸の様な美しい髪、揺らめく蝋の炎を写し揺らめく金の瞳、死人のような白磁の肌。全てが一枚の絵のように不思議と調和の取れた姿だった。
どさっ。
突然に一人の女が薄暗い部屋の中に投げ出された。
意識を失っているのか静かに伏したままだ。手足こそ縛られてはいるものの、目の当たりには傷ひとつ無い。紫は意に介さす、部屋に置かれた様々な貢物の中からひとつ、小さな李を手に取り口に含む。
ちゅぷっ、くちゅっ。
柔らかな果実をねぶる音が、静かな部屋に木霊する。
ほどよく熟れた果実の甘い香りが溢れ、様々な香を焚きたきしめられた部屋は、複雑で難解な香りの雲に包まれている。
夢か現か。何れにせよ、この空間が彼女の世界であることは確かだ。
そしてゆらり、部屋の闇から二つ、妖怪が生まれた。
巨大な影は跪く形でそこにある。
『異形のもの』
一人は細身の人、の形はしているが『一部が大きく変化』していた。腕、だった部位は不気味に肥大し、歪んだ笑みを浮かべた顔のようなものが浮かび、右肩にはぎょろりとした大きな目が世話しなく周りを伺っていた。
じゃらじゃらと趣味の悪い首飾り、極彩色の着物を着ている。
もう一人は卑しい豚の様な、醜い、穢らわしさを形にしたような姿。色欲が滲み出しているかのような目は淀み、真っ直ぐに紫に向けられている。はぁはぁと息を荒げ、涎と汗で床に染みをいくつも作っていた。
裂けた、びっしりと鋸の様な歯を見せながら妖怪は話しはじめた。地鳴りの様な低い声。
「お申し付け通り、例の国を落としてきました。紫様。この女は……」
「……『大妖怪』、紫」
紫は呆れたように、鮮やかな紅を差した唇を開いた。
「ぐぎぃいっ!」
突然に醜い、そして短い鳴き声。
妖怪が首にしていた、小さな頭蓋を幾重にも列ねた首飾りが爆ぜた。
妖怪はあまりの痛みに言葉を失う。構わず紫は続けた。
「あら、どうしたの? ご褒美をあげたのだけれど」
妖怪の肩には紫が口にしていた李の種子がめり込んでいた。
「ああぁ……ありがとうございます……『大妖怪』紫様」
搾り出すように震えながら妖怪は言った。
「うふふ。良くできました」
満足そうに口角を上げ、指についた果汁を舐めとる。
その姿は匂い立つほど厭らしく、美しい。
「ぶひひひっ! しかしいつ見てもお美しい御姿!」
ぬらぬらと光る二つの大きな牙が空を切る。蝉も息絶える頃。
夜とはいえまだ暖かい。にもかかわらず、口から立ち上る湯気。
「さて、国落としのお話ですが・・・・・・」
駒使いの妖怪二人は跪いたまま、お互い紫に取り入ろうと、我先にと賛辞と称賛、歯の浮くような言葉を並べ立てたのだった。
紫はなにとも思わない。
夜に巣食うその他大勢の妖怪に興味はなかった。
興味があるのは、自分自身を満たしてくれる、否、満たす事が出来るかもしれない、
その可能性を持っているものだけ。 そう己が『興がそそられるもの』だけだった。
生まれてから百幾夜年生きてきた。
頼れるものは己の力だけだった。
『群れ』を持たない妖怪は、一人の力で生き抜かなくてはならない。
今までであった強いと謳われていた妖怪たち。それは勿論も多々敗れることもあったが、逃げ延びてきた。彼女の『能力』は運良くそれに長けていたからだ。
そして、二度目には必ず屠り、喰らってきた。
それが私。大妖怪『紫』隙間妖怪。
隙間妖怪とは何か?
嗚呼、無知とは罪ね、おかわいそうに。仕方がないから教えてあげる。
この世にある隙間と隙間を往来し、またその隙間を操る妖怪よ。
そう隙間なんて何処にでもあるわ。
木陰、岩影、葛の影に、扉、雲間に人の影。
そして人の心にも。
それら全てを操る力を持つのがこの私。
つまらない。
絶対の能力。隙間。
何処にでもある『隙間』が彼女の力の源だった。
何処にでもあるなんの変鉄もないものを操る。
単純な能力。隙間。
広げ、閉じ、入り込み、そして誘う。
彼女はその力一つでここまで生き抜いてきた。
知恵と力で他の者を押し退け、押さえ付けて。
また、一筋の煙を吐き出す。紫は女に目もくれず、次の木の実を口に運び喰らう。
「で、『これ』は?」
「この女は国抱えの占い師をやっていた女です。大妖怪紫様の役に立てばと思って連れてきましたぁ。ぶひひっ」
息も絶え絶えに語るもう一人の妖怪。豚そのものだ。染みがまた輪をかけて広がる。醜い。
「へぇ」
漸く女を一瞥する。なるほど確かに言われてみると。
美しく艶やかな黒髪は言われてみるとなるほど、野良仕事等とは暫く縁も無いのだろう事が伺い知れた。
もう一人の妖怪が肩にめり込んでいた李の種子を取りだした。かたん、ころころ。
床に転がる。
しゅるりと長い舌が伸び、それを捕まえて口に運ぶ。がりりと噛み砕く小気味のいい音。
「紫様の唾液がづいてるのもっだいない」
吐き気がするほど穢らわしい。恍惚の表情で美味そうに貪る。
「こ…ここは…」
種子が砕ける音に、女は目を覚ました。瞳は恐怖と不安の色で真っ黒に満たされていた。
が、すぐに香りの波に気付き、紫の姿を捉える。事態を飲み込む。
夜に塗り潰されていたその眼に怨みの炎が灯り、ゆらめく。
「ここは私の屋敷よ、はじめましてええと……」
紫が話終えるより早く、女は言い放った。
「よくも私たちの国を! 民を手にかけてくれたな! お前を呪い殺してや…!」
占い師は眼を見開いた。
「まだ私が、話しているのよ?」
! 口が縫い付けられたように、開かない。
「貴女、お名前は? 私は紫、よろしくね。」
遮られたはしたが、言いたいことを言い終わり、満足そうに微笑みかける紫。
女の口が開く。
「っはぁ!はぁはぁ……。妖怪に、名乗る名など、無い……!」
息も絶え絶えに答えた。
「あらあら気の強いことで。嫌いじゃないわよ、そう言うの」
尋ねはしたが、どうでもいいことの様にまた次の獲物を品定めする紫。
「愚弄するな! 卑しい妖怪め! いつか必ず貴様を殺してやるっ!」
女は後ろ手に縛られたまま叫んだ。
そして、矢継ぎ早に血の気の少ない白い唇が瞬き、口から溢れる呪いの言葉。
紫は病的に白い顔に薄ら笑いを浮かべながら目を女に向け、続ける。
「貴女、占い師なんですって? 私の事も占ってくれないかしら?」
次の獲物は燃えるような宝石、ではなく木苺。舌先で転がして遊び、喰らう。
「私のこの期の行く末を。そうね、そうしたら貴女の命だけは助けてあげるわ」
女は急にしおらしくなり口どもる。
「で、出来ない……」
「あら、どうして? 国に抱えられる程の占い師なら、先方を見透す程度の眼くらいは持っているのではなくて?」
煙管を玩びながら目をやる。妖怪二人は何も言わずそのやり取りを眺めているだけだ。
「それには準備が三月は必要で……」
「あらぁ面倒なものなのね、占い師と言うのは。ああ、明日の天気でも当ててもらおうかしら」
占い師の眼に迷いが浮かんだ。紫は見取る。
「それも……んぅ……!」
女はまた、口を塞がれた。
「んんっん…んむぅっ……!」
女は必死に抵抗した。がしかし手足の自由はとうに無い。するりと開いた口の隙間から入り込んだそれは、女の内側を探るように蠢く。
入り込んでくる物を咬みきろうとした。が、出来なかった。体が言うことをきかない。
くちゅっ、くちゃり。
噎せ返る様な濃密な女の香り、柔らかな髪、冷たい唇。
そして息遣い、甘く広がる木苺の味。静かに、音だけの世界に引きずり込まれる。
柔らかな何かが体に触れた。着物のあわせに忍び込んだ冷たい手はゆっくりと、少しずつ身体から熱を奪いさって行く。
「や……めっ…ん……!」
紫は応えない。そのまま首に手を回し、さらに女の奥にまで突き進む。
女は掌を握り締めた。
だが、嫌悪とは裏腹に少しずつ満たされていくのを感じる。これは、いったい……。
「んんっ……んむっ……!」
長く永い妖怪の時間は人の身では長過ぎる。息が、苦しい。塞き止められたように、重苦しいなにかが心を満たす。額に汗がじわりと浮かび、白い肌がほんのりと桜色の花が咲く。
くちゅっ、ぬちゃり。
「……っはぁ!」
紫は存分に女の言葉を堪能した。名残惜しそうに、そして愛おしそうに女から離れる。軽く開いた唇から伸びた一筋の銀糸は、まだ二人を繋いではいたが。
ふつん。手で自らの唇をなぞり、言った。
「ごめんなさい。美味しそうだったから、つい」
悪戯っぽく微笑む妖怪は、何事もなかったかのように貢物に囲まれ座っていた。対する占い師は上気し息をあらげたままだ。
「で、出来るのかしら?」
のんびり杏を口に運びながら次の質問を投げ掛ける。
「なっ……何を……した」
「別に、何も」
占い師の問いにまともに答える気もなく、ぱっくりと割れた果肉を満足そうに頬張る。
「で、どうなのかしら? するの? しないの?」
その問いは命の選択ではない。ただ、暇つぶしをするのかしないのか、それだけを問うたものだ。
ただそのためだけに。だが、女は気が付かない。命だけは、卑しい人の子。
妖怪が人の命の選択をするわけがない。もう答えは決まっているのだから。
糧、人と同じだ。鳥を縊ることを躊躇う年でも無かろうに。人は斯くも愚かだ。
「……時間をくれ、少しでいい。少しでいいから時間を……」
逡巡した後占い師は言った。紫はちらりと細身の妖怪に目配せをした。
はらり。どういうわけか、ふと縄が解かれた。
「簡単でいいわ。今ここで、なんでもいいから占ってみて下さる?」
その言葉に女は焦る。解かれた縄の痕が残る手首をさする。痛い。
命が、惜しい。死にたく、ない。
「あら、国の御抱えの占い師がまさか、民を騙していた訳ではないわよね」
嫌だ嫌だ死にたくない嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない
死にたくない死にたくない死にたくない。
嫌だ、死にたくない。
せっかく手に入れたのに、手に入れたのに。
女は自分の着物が汗で張り付いていることに気がつかない。命の選択。
女は人間だった。
「なんでもする!何でもするから命だけは!」
女は叫ぶように言った。が、その言葉は夜に溶け、紫には届かない。
「私は『占ってくれ』と、言ったのよ」
有無を言わせぬその言葉。それは重く、鋭く女の心を抉る。
女は人の子。そしてその人は儚く、脆い。言葉は剣。ただそれだけで、人の心を簡単に、無残に切り刻むことができる。紫はもう、知っていた。
「うわああああああああ!」
女は突然に駆け出す。逃げ出すでも無く、自由になったその身体で煙草を燻らし寛ぐ紫に飛びかかろうとした。
「きゃあぁ!」
どんっ
痛い。背中を激しく打ち付けられた。
目を開けると、透き通るような金の目が見つめていた。
冷たく冷たい視線。何もかもを見透かされている。だからこそ女は。
「若くして、人の子なりに生きてきたのね」
紫は女の頬に舌を這わせた。女の汗の味。生きている。
その味。何度も何度も何度も、喰らってきたその味。
「けれど、こともあろうに私に手を上げるとは、人が自棄になるのも大概ね」
紫は女の体を弄った。
そして女の唇に顔を近づけ、唇が触れ合うか触れ合わないかの寸で止まった。
そして目を丸くし言う。
「あら?」
「きゃああああああああああああああああああ!」
紫は、女の隙間を開いた。
馬乗りに乗っていた紫を押しのけ、仰け反り、女は痛みに声を上げ、悶えた。
じわり、滴る、赤。
女の目には涙が浮かび、視線は宙を彷徨う。身体は痛みに伏し震え、濡れた。
身体が突然軽くなる。
ダンッ!
激しい音。紫は妖怪の男を踏みつけた。迸る生暖かいもの。
「貴方、いったいどういうつもりなのかしら?」
妖怪は壮絶な痛みに戦慄き、声が出ない。紫は、続ける。
「連れて来たのはわかったわ。けれど」
さらに力を込めて踏みにじる。何かが弾ける音がした。
「摘み食いなんて、行儀がよろしくないわね」
妖怪は目を剥き、口から泡を吹きだしながら答える。がくがくと震えるその姿までも穢らわしい。
「も……もうしわ、けありません。大妖、怪、紫様」
途切れ途切れに何とか答えた妖怪だったが、変わらずかけられているその力に全てを支配されていた。
「さて、どうしましょうか。興が殺げたわ」
ふいと両の手を広げおどける紫。二つのふくらみが大きく開いた着物から零れ落ちそうになった。
「大妖怪……紫様、もうひとつ、もう……一つ聞いてきた事が……」
何も言わずその光景を見ていた細身の妖怪が身じろぐ。
「なにかしら?」
紫は初めて力を緩めた。妖怪はまだ痛みと戦いながら搾り出した言葉を投げかける。
「ある里に、不思議な力を持った少女がいると……」
紫の片方の口角とすらりとした足が上がった。
「あらぁ、面白いことを聞いたわ。そうね、『摘み食い』のことは許してあげる」
紫は作り物のような顔を綻ばせた。背筋の凍るような、笑顔。
「そうね、貴方にもご褒美も上げなくちゃ、ね」
紫は足でその妖怪の肩を踏みつけ押し倒し、また踏みつける。
妖怪は痛みも忘れ、悦んだ。
「ぶっ……ぶひひひっ!紫様!ありがとうございます!」
そして、ぬらぬらと唾液に濡れた大きな口に顔を近づけ――――
「ありがとうございますうううううううう!」
ぐちゃっ ばきん ぼきん ごりっ くちゃっ
「――――――――っ!」
女はこみ上げる吐気を抑えた。目の前に居た妖怪が音と色だけの存在になったからだ。
そこに居た。という痕跡は床を染める血だけだ。紫は真紅に染まった身体を見て一言。
「あら。汚れちゃったわね」
はらり。帯を解き着物を脱ぎ捨てた紫は、くるりと踵を返しながら言った。
「どうせ貴方も聞いていたのでしょう? 場所くらいは、判るわよね」
残った妖怪に言付ける。何の感情も持たない、否。
複雑に絡み合う感情が解けぬままだったからこそ、短い、短い応答。
「はっ」
妖怪は三つの目にそれぞれの感情を宿したまま、闇に溶けていった。
女は未だ身体の痛みに震えながら、その真っ白な身体、
いや返り血に染まり赤の滴る身体に目を奪われていた。居たのだ。そこに。
(えっ……)
目を離したつもりは無い。涙で滲む視界ながらもその光景、今まさに見ていたのに。
また、身体が重さを感じた。身体の上を見ると、また紫がいつの間にかそこに居る。
「ひっ……!」
女は絶望した。命を奪われる恐怖ではない。何か、別の何かに、戦慄したのだ。
顔に滴るまだ温かいそれは、女の肌を蝕んでゆく。
目の前に居るのはただの女の姿をした妖怪。いや、もっと得体の知れない、何か。
紫は口についた血を拭いもせずにけたけたと笑う。そっと女の涙を白い指で掬い舐めた。
「可愛い」
目は、笑ってはいなかった。
頬に伝う色。深く深い金、いや、そこにあったのは濁り濁った漆黒の瞳。
全てを飲み込む、黒。
瞳の奥に狂う焔が見えた。飢えにのたうつ獣が見えた。
色にまどろむ女が見えた。手にした剣に驕る男が見えた。全てを諦めた老婆が見えた。
そして渇きに苦しむ涙も涸れた少女が見えた。
妖怪。人の邪なる心、そのもの。
違う。
この、目の前にいる女、いや、妖怪は違う。もっと別の――――
紫は女にそっと口付けをした。女の首に花が咲く。
冷たい。
あたたかい。
紫は、何とも思わない。自分以外のその他の全ては、己の飢えを渇きを癒す糧。
「あ……あっ……」
女は震えた声で喘ぐ。濡れた瞳を紫から逸らせなかった。
「大丈夫」
紫の口から零れるそれは夜を塗りつぶす。ひたひたと、しとしとと。
「綺麗な瞳」
その言葉に感情は、無い。全てが、この世のすべてがただ、欲しい。
女の着物の袷に手を滑り込ませ、払う。やわらかく豊かな白が顕わになった。
女の目には払えど払えど雨と雨。
「美味しそう」
紫の目にはもう女は居ない。女は身じろぐ。
逃れられないことはもう、本能で解っていたのだが。
「駄目よ」
空を切る女の手を押さえつけ、耳元で囁く。
「安心して」
紫は手に入れたものを手放さない。決して。
「嫌ぁ……」
女は顔を背けることができずにいた。
もう、飲み込まれている。身体を冷たい蛇が這い、心を冷たい風が舞う。
「怖くはないわ」
毒。紫の声色は女の耳から心を侵し、少しずつ少しずつ溶け出したものを味わう。
それは蜜。畏れは恐れ、怖れは惧れ。女は魅入られ、見入られる。
妖怪 紫。 隙間妖怪。
どこにでもいる、ということは、どこにもいないということだ。
「んんっ……!」
紫は女に歯を爪を突き立てる。真っ赤に惹かれるその一筋は、人と妖とを分ける境界。
「甘い」
飢えて、餓えている。人は持ちすぎている。そして持て余し、溢す。
「勿体無い」
足りない。人の溢したものだけでは。大地を潤す雨のように、もっと、もっと。
「ねぇ、感じる?」
女は答えない。堪えられない。綻び、解け、説け、砕け、落ちる。
「心配しないで。夜は永いわ」
紫は女の隙間にもう一度、深く、深く。潜り込んでいった。
こういうのもっと増えるとよいなあ。