凝視。
それは何かをじっと見つめると言う事。
黙考。
それはじっと黙って何かを考えると言う事。
逡巡。
それは決断をためらう事。
机の上に人形が置いてあった。
黒い帽子に黒い服。
黒い靴を履いている。
帽子には白いリボン。
黒い服の上には白いエプロンの様な物を纏っている。
その人形の隣には千切れた人形の手。
机の上に座っている人形には左手が無かった。
その腕の中からは綿が出てしまっている。
何かに貫かれたか千切り取られたかのように断面は粗かった。
「―――だめだわ、どうしても決められない。」
机の上に置かれた、壊れた人形をアリスは眺めながら大きな溜息をついた。
この人形とにらめっこし始めてから早三時間。時間が経つのははやいのだなぁ、とまったく見当違いのことを思う。
直せばいいのだろう。いや、直すべきなのだろう。
けれど、直すのはなんとなく嫌だった。
これはパチュリーに頼まれていたという理由で作った人形のうちの一つ。二つの人形をパチュリーに見せて好きなほうを選んでもらった残りだった。
もちろん自分の分が残る様に二つ作ったわけではない。
パチュリーにやっぱり両方欲しいと言われたのに断ってしまったのは契約と違っていたからだと思う―――思いたい。
「一体どうすればいいのよ……」
放っておくのもこの人形が可愛そうだと思う。自分は人形使いなのだし、人形が壊れたままにするなんて出来ないと考えるのが当たり前の筈だ。この人形が壊れた原因は自分にあるのだし。けれど、それとは別に頭のどこかで何故かこの人形が気になってしまうのがアリスには嫌だった。
この頃変な噂が広まっているらしい。
誰から聞いたのかは忘れたのだけれど、私が魔理沙の事を好きだという噂だった。
自分で作ったこんな人形が家に置いてあるのを誰かに見られたら、あの噂は嘘だと何度言っても信じてもらえなくなるかもしれない。だからこそこの人形をどうしようかと考えながら、ずっとこの人形とにらめっこをしているのだった。
この人形を家においているのを見られただけで、あの噂の様に私が魔理沙の事を好きなのではないかと言われてしまうのは嫌だった。
「そうよ、私はなんでもないんだから。」
うん、と頷いた所で人形と目が合う。
気が付いたら体の動きが止まっていた。
慌てて頭を激しく振り、その考えを追い出す。
「わ、私は人形使いなんだから人形を治しても何もおかしくはないわよね。」
誰に言うでもなく言葉を発する。
普段だったら上海や蓬莱がいるのだけれど、今日はちょっとした事件で香霖堂に二人とも預けてしまっていた。普段なら他にも人形達が沢山いるはずなのだけれど、その子達も一緒に香霖堂に預けてしまっている。
だから、さっきの言葉は完全な独白だ。誰に聞かせるための言葉ではない。
「うん、私が直したいんじゃなくて人形使いとしての私が直したがってるんだから。そうに決まっているわ。」
そう言いながらうんうん頷くと、本当にそうなのだろうという気分が次第にアリスの心の中を満たしていく。
思い立ったが吉日。いままで悩んでいた時間が長かった分アリスは一度決めると動くのが早かった。
「じゃあ、早速直しましょうか。」
そう言いながらその人形にそっと手を伸ばす。
左手で体を、右手で取れた左手を掴み、針と糸はどこだったかしら、と考えた所で突如として目の前にスキマが発生するのが見えた。誰が出てくるかは分かりきっているので、あわててその人形を机の下に隠す。
幸い人形が乗っていた机にはテーブルクロスがかかっていたので、テーブルの下にある自分の膝の上に見られないように人形を置くことが出来た。アリスが両手を机の上にと置くのと同時にその場にはスキマ妖怪、八雲紫が現れていた。
「あら、アリスじゃない。こんな所で奇遇ねえ。」
「奇遇ってなによ。ここは私の家なんだからあなたが居る方がおかしいんじゃないの?」
憎まれ口を叩くが、体内ではは心臓が止まりそうなほどに早鐘を鳴らしていた。
顔や手に汗をかいていないかどうか心配だったが、変な挙動をすると紫に感づかれてしまうのではないかと考えると、うかつな動きは出来なかった。
「ねえアリス。ちょっと聞きたい事があるんだけれどいいかしら?」
「いきなりうちに来てなんなのよ。何か聞きたい事があるなら入り口から入ってくればいいじゃない。」
「そんなことはどうでも良いわ。聞いてもいいかしら?」
「どうでもはよくないけど……何よ。」
「あの話って本当なのかしら?」
その言葉にアリスの体が一瞬固まる。
自分でも理由は分からないのだけれど、思考すらも一瞬凍ってしまっていたらしい。何を言うべきかが思いつくことが出来ない。声が軽く上ずっているような気がする。
「な、なんのこと?」
「ちょっと聞いた話なのだけど。当然貴方も知っているのでしょう。あなたが当事者なのに知らないわけはないわよねえ?」
その言葉を発している紫の目が細くなった様にアリスには見えた。口元の笑みもどことなく歪んでいる気がする。
それと同時に自分の体の中で心臓の鼓動がさらに早くなっていっている気がする。
今はまだ顔が赤くなっていないと自覚できているものの、いつ赤く変化してしまうかは分からなかった。もしも自分が何も言わなくても顔で答えを言っていたと相手に思われてしまったのでは意味が無い。それより、自分ではそんなはずが無いと思っているのに変な噂が立ってしまうのは困る。
「だから、何の事よ。ちゃんと言わないと分からないわ。」
「あら、へんなことを言うのね。」
そう言って紫はくすくすとおかしそうに笑う。
「あなたに関係ある人達全員が知っているって聞いたのですが。嘘だったのですか?」
「嘘に決まっているじゃない。なんでそんな噂が立つのよ。いつもの私が本当の私に決まっているでしょう。変な噂を立てないでよ。」
「あら、では今日のこともそうなのですか?」
「今日って―――」
そう言われて考えてみるが、早朝に魔理沙といつものように口論になり攻撃をしかけて返り討ちになった事以外には何も思い浮かばなかった。
戦ったぐらいで噂が立つわけもないし、何か紫は勘違いをしているのだろうとアリスは考える。
「その噂に関係する事は何もしていないはずよ。なんでそんな風に思ったのかしりたいわ。誰がそんな事言ってたの?」
「……本当に?」
「本当よ。」
「本当に本当に?」
「本当よ。」
「本当に本当に本当に―――」
「だから本当だって言ってるでしょ!」
そう言いながらドン、と音が立つほどに机を叩く。その衝撃で膝の上で人形が揺れて片腕が転げ落ちてしまった。拾わなければ見られてしまうかもしれないと思い焦るが、変な動きをするわけにはいかない。
「―――そうなの。」
そう言って紫はうんうんと何かを考えるように頷いた。
「じゃあこれで話しは終わりね。またそのうち話きかせてもらうわ。お土産にこのあたりの……お酒を貰っていくわ。」
「なんで不法侵入のあなたに土産を渡さなきゃいけないのよ!」
そう言ったところまではよかったのだが、不用意に動けない状態では如何ともしがたかった。アリスが飲むのを楽しみにしていた高級な酒が次々とスキマの中へと放り込まれてゆく。
めぼしいものをあらかた奪いつくしたのか、紫は頷くと
「じゃあまたくるわね。」
そう言いながらスキマの中へと入っていった。
「もう絶対にこないで!」
アリスは叫ぶが、その声に全くおびえた様子も無く紫の体がゆっくりとアリスの目の前から消えてゆく。それを睨みながら、アリスは物凄い疲労感に襲われていた。
「紫まで知っているなんて……」
うう、と呻きながら頭をかかえるが、噂は自分ではどうしようもない。
紫はアリスの主観では噂等とは程遠い人物だった。基本的にいつも寝ているし、酒盛りの場以外では殆ど出会った記憶も無い。その紫が知っているとなると―――
「本当に私の知り合い全員が知っているのかしら……」
口の中で魔理沙にどんな顔して会えば良いのよ、と小さく呟く。
もちろん答えてくれるものは誰も居ない。
床の上に転げ落ちていた人形を取れている片手と一緒に机の上ではなく、戸棚の中へと丁寧にしまう。
「今日は疲れたからまた明日―――」
紫と短時間会話しただけなのに、体がふらふらしていた。ゆらゆらと体を左右に揺らしながら寝室へと移動し、ベッドに一息に体を預ける。
大きく溜息を付きながら布団の上でぼーっとしていると、いつの間にか睡魔に襲われていた。その睡魔に抗わずにアリスは目を閉じる。
(明日は今日と比べて少しはまともな日になるといいんだけど……)
頭の中で呟いた言葉はどこへいくとでもなく消えていった。
アリスはどことも知れない場所にいた。
座っている場所は純白のベッドの上。
どこを見回しても平坦な白い壁しかなかった。
出入り口が見つからない。
何がなんだか分からない。
自分の体を見て小さく悲鳴を上げる。
アリスは服を着ていなかった。
慌てて隠そうと布団を掴むが、その布団は誰かによって押さえられてしまっていた。
「ぇ……」
小さく声を上げる。
黒い帽子が見えた。
「う……ぁ?」
何がなんだか分からない。布団を使って体を隠そうとするが、その帽子を被った誰かがその布団の上に俯きながら座っているので上手く引っ張れない。
アリスの目線がその帽子の下へと向かう。
綺麗な足が目に飛び込んでくる。
気が付いたら鼓動が高まっていた。
帽子を被ってうつむいていた誰かがゆっくりと体を起こす。
そして、その誰かとアリスは目があってしまう。
もちろんアリスにはその顔に見覚えがあった。
それは―――――――
がばっと音がするのではないかと思うぐらいに勢い良くアリスは体を起こした。
窓からは既に日差しが差し込んできており、今のは夢だったのだとはっきりと確信する。
「でも、なんだってあんな夢……」
夢で見た綺麗な脚を思い出し、慌てて頭を振る。
「そ、そんなわけ無いわ。紫があんなこというからわるいのよ。」
紫のせいだ、紫が悪いと何度も口の中で呟いてやっとアリスは心が落ち着いてくるのを感じた。
「そうよ、私と魔理沙は天敵同士なんだから。どっちもそうだと認めてるじゃない。そんな噂が広まる理由なんてないはずなのに。」
改めて考えてみると何となく変な感じがした。
紫は思考パターンが良く分からない妖怪ではあるけれど、わざわざあんな噂が気になったからと言う理由で私の家に来る様な相手では無い筈だった。
紫とある程度付き合いの深い相手ならまだしも、アリスは自分が紫にとって興味の対象になるとはあまり思えなかった。
「もう、一体なんだったのよ。楽しみにしていたお酒までもってっちゃうし。」
その事を思い出したアリスは、あのお酒をまだ飲んでないなら取り戻せるかもと思い直して急いで起きることにした。
昨日服も着替えないまま寝てしまったので、慌てて風呂へと入り身だしなみを整える。
「とりあえずどこから行くべきかしら……」
長い髪を乾かしながら小さく呟く。
眉を寄せて考えてみるものの、多くは思い浮ばなかった。自分が知っている限りで紫と関わりがありそうな場所といえば、紅魔館・博麗神社・冥界ぐらいである。マヨヒガに住んでいるとは聞いた事があるのだけれど、そのマヨヒガがどこにあるのか聞いた事は無かった。
興味もあまりなかったし、行く事などないだろうとおもっていたからだった。
「もう、こんな事なら藍にでも聞いておくんだったわ。」
愚痴るがいまさら言ってもどうしようもない。探せば見つかるのかもしれないが、先に思った四箇所のどこかに居る確立も十分に高いだろう。どうせ行くなら噂がどのように伝わっているのかも知りたかった。
「じゃあ行きますか―――人形が居ないと独り言が多くなって困るわね。」
姿見で身だしなみを確認し、息を吐きながら大きく伸びをする。
何となく窓から外の景色を眺めてみた。
既に太陽は空高く上っており、空は殆ど青一色で染まっていた。白い雲がまばらに見えるがそんなものでは頭上一杯に広がっている青を隠す役には立っていない。
ドアを開けて外に出ると蝉の鳴き声が一気に大きくなった。
「うわ、今日も暑いわね。」
手で太陽を遮りながら空を仰ぐ。
「この天気なら数日中には人形たちを家に戻してあげられるわね。」
昨日家に帰ってきたら魔法薬が暑さで変質して暴走しており、、家の中が異常な魔力に犯された状態となってしまっていた。その薬は放って置けば太陽の光と熱で勝手に分解するのは分かっているのだけれど、それ以外の方法で解消する方法は見つからなかった。そのせいで全ての人形を家においておくことができなくなり、昨日は香霖堂へ全ての人形を預かってもらうこととなってしまったのだった。
「さて、と。どこから行こうかしら。」
まあ、とりあえず一番近い所で良いかしらと思い、空中へと浮かび上がり紅魔館へと進路を向ける。
上からまるで焼くかのように照り付けてくる日差しは億劫な物だったが、それによって早く人形たちを家に返して上げられる事を考えるとアリスにとってそれはあまり嫌な事ではなかった。この時点では。
「あれ、アリスさんじゃないですか。珍しいですね、誰かとの約束もないのにここに来るなんて。」
「今日は真面目に起きているのね。」
「いつも私は真面目ですよ。」
「私が通りかかるとたまに貴方がここで寝ているようにおもうんだけど。」
「……あれは寝ているんじゃなくて負けて倒れているだけです。」
「門番がそんな事で良いの?別に私にとってはどうでも良い事なんだけど。」
「う、そんな事言わないでくださいよ。黒ネズミを通すなって咲夜さんにもパチュリー様にも何度も言われているんですから……」
そう言いながらふう、と大きく息を吐く。同時に体が前へと大きく倒れ、それに合わせてふくよかな胸がゆっくりと揺れる。
「あれは強すぎというか、異常ですよ。」
「相変わらず大きな胸ね。」
「む、胸は関係ないじゃないですか。」
「胸が大きすぎて動きが鈍いんじゃないの?」
「そんなわけありませんって!」
両手で胸を隠しながら、嫌そうにアリスを睨む。
「それで、今日は屋敷に何の御用ですか?」
「ええ、ちょっと聞きたいのよ。私に関する噂なにか聞かなかった?」
「うわさ、ですか。」
そう言ってちょっと考え込むような素振りを見せる。
「特にこれといって新しいのは知りませんねえ。何かあったんですか?」
「知らないなら別にいいのよ。レミリアはいるかしら?」
「お嬢様でしたら多分博麗神社にいらっしゃると思いますが。お嬢様に何か御用ですか?」
「大したことじゃないわ。咲夜も一緒?」
「ええ、咲夜さんはお嬢様の傍をそうそう離れる事はありませんし。」
「まあ、そうでしょうね。」
「今日はパチュリー様と会いに着た訳ではなかったんですか?」
「今日は違うわ。博麗神社に行ってみるわね、ありがとう。」
そう言ってアリスは門の前から飛び立とうとした。けれど、その肩が後ろから掴まれる。
振り向いてみると、何となく困ったような焦ったような顔が見えた。
「何か用でもあるの?」
「いえ、大したことじゃないんですが―――私の名前覚えてます?今日一度も名前で呼ばれなかったような気が……。」
「勿論覚えてるに決まってるじゃない。一日や二日の付き合いじゃないんだし。」
「そ、そうですよね。ちょっとこの頃色々あったんで心配で。」
「じゃあまたそのうち来ると思うけど。ええと―――」
「ええと?」
アリスが黙り込んだ事を不審に思ったのか、顔から汗がつーっと一滴垂れる。唇の端もどことなく引きつっているようにアリスには見えた。
「―――門番。」
「門番名前と違うーーー!」
「冥界との境界が薄くなっているとは聞いていたけど。本当に無茶苦茶ね、これ。だれでも入れてしまうじゃない。普通の人間が迷い込んだらどうするつもりなのよ。紅魔館みたいに門番がいるでもないし。妖夢がなんとかしているのかしら。」
幻想郷と冥界とを繋ぐ境界を通りながら、アリスは眉をひそめながら小さく呟いていた。
「たしか白玉楼よね、幽々子がいるのは。妖夢もどうせ一緒だろうし。」
結界の上を飛び越え、幻想郷から冥界へと入る。そこに現れたのは数え切れないほどの幽霊達。妖夢がずっと働いているのに全く減らないと不平を言っていた事を何となく思い出す。
長い階段を一気に飛び上がり、平坦な道が見えたところから桜並木に沿って飛ぶ。
桜の花はとっくに散っており、今は緑の葉をつけていた。
遠くに枯れているように思える西行妖が見えている。そういえばあの妖怪桜を開花させようとしたときには私もこの冥界に向かう二人と戦ったんだなぁと思い出す。
「それにしても広い庭ねえ。咲夜みたいに時間を止める能力持っていないと掃除なんて追いつかないんじゃないかしら。妖夢は確か半分人間だったから少しは寝ないと体持たないだろうし……」
「御気遣いには感謝します―――けど、幽々子様に何の用です?」
「あら、いたの?」
「居たのを知っていたから私を気遣う様な言葉を言ったんじゃ?」
「只の感想よ。貴方が居ても居なくても思うことに変わりなんて無いわよ。」
「……そういうものですか。」
ところで、と妖夢が言葉を区切る。
「改めて聞きますけど、魔法使いが冥界に何の用ですか。貴方がここに来る理由なんて私には思いつかないんですけど。」
「特に理由なんてないわよ。まあ、どうでも良い理由があるといえばあるんだけど。」
「どうでもいい理由?」
その言葉に妖夢が眉を潜める。手の位置が先ほどと比べて少し身に着けている二本の刀の方へと寄っていた。
「ええ。私の噂をきかなかった?って聞こうと思ってたのよ。」
「噂、ですか。私は聞いていないとおもいますけど。何故私と幽々子様に聞きに着たんですか?特に私達二人が噂に詳しいとは思えないんですが。」
「只単に紫から私は聞いたからよ。確か幽々子って紫と親しいんでしょ、私達よりもずっと付き合いも長いらしいし。」
「ええ、それはそうですが。」
「だから幽々子に聞きに着たんだけど……」
「幽々子様でしたら今博麗神社で行われている大宴会にいらっしゃいますが。」
「……なんで貴方だけここにいるのよ。」
「色々とあったんですよ、亡霊の世話とか。」
「死人の世話なんてしてどうするのよ。」
「色々あるんですって。そんな事言ったら私が幽々子様にしている事は全部無駄ってことになっちゃうじゃないですか。」
そこで二人は思い当たった事があったのか、一瞬言葉を止めた。
「…亡霊って食べる事に意味あるの?」
「……多分あると思いますけど。」
「一体何処に行っているのかずっと不思議なのよね。本当は肉体があるわけじゃないのに、実際に存在する物体がどこに消えているのか。」
「それは私もそうですけど……幽々子様に頼まれて断るわけにも行かないじゃないですか。私は一応従者なんですし。」
「一応なのね。」
「一応じゃないですけど―――もう少し燃費を良くして欲しいとは常々思っています。」
うう、西行妖を復活させようとするまではあんな食欲魔人じゃなかったのに、と妖夢は思い出し泣きをする。
「遠くを見ているところ悪いんだけど。じゃあ私はこれで行くわよ。」
「ええ、幽々子様に会ったら是非とも沢山食べてきてこちらでの食費を浮かせてください、と言っておいてください。」
「………覚えておくわ。」
「そういえば、霊夢と会うのも久しぶりねえ。」
あの夜がずっと続いていた夜に開かれた宴会以来霊夢には会っていなかった。あの時霊夢を倒してしまったので何となく気兼ねをしていたのだけれど、今日はそうも言っていられない。
「霊夢にまで誤解されてると困るんだけど。」
もしもその噂を霊夢が聞いていたらどう思っているのだろうと思うと何となく飛行速度が落ちてくる。
「うう、なんでこんなことになってしまったのよ。この頃は面倒な事ばっかり起きるじゃない、冗談じゃないわ。」
昨日は昨日で薬が暴走したから慌てて人形達を救い出してわざわざ香霖堂に預けに行ったり紫に高級な酒を持っていかれたり。今日はといえばこの炎天下の中何度も何度も汗をかきながら飛行して、尋ねる内容は自分の噂の内容を知っているか、知っていたらそれをどう思っているかについて聞きに行く。
馬鹿らしくて涙が出てきそうだった。
「ったく。一体誰がこんな噂流したのよ。やっぱり紫の仕業?」
ぶつぶつと小さく呟く言葉はやはり独り言だ。
いつもであればここで人形達がなんらかの反応を見せてくれるのだけれど、もちろんそれも無い。
「ああ、もう。何だってこんなに暑いのよ。」
日光を遮る雲が全く無い空。大分太陽の位置は下がってきてまもなく夕暮れになろうとしているものの、相変わらず気温は下がる素振りを見せていなかった。直射日光が当たらない深い森の下は飛ぶのには全く適していないので通れず、仕方なく涼しそうな森を下に見下ろして飛行するのもまた文句が出てしまう一因となっていた。
「これで霊夢が噂を知っていてそれを信じていたら踏んだり蹴ったりじゃない。そうだったら誰にこの鬱憤をぶつければ良いのよ。やっぱり魔理沙かしら。」
そこまで呟いてはた、と気づく。
「良く考えたら今私人形一個も持ってないのにどうやって戦えば良いのよ。どうしようもないじゃないの。」
普段自分の隣に人形達がいるのが当然のアリスにとっては、人形がいないというのは戦闘能力の殆どを奪われたのと同然の事となってしまう。人形を使っての攻撃は当然出来ないし、スペルカードも全く使えない。
「ってことは何。私挑発されても全て我慢しなくちゃいけないってこと?」
妖夢から聞いた話では今博麗神社は宴会の真っ最中。当然酔った妖怪や人たちは絡んでくる事だろう。それに対して何もできないと言う事は―――
「お、アリスじゃないか、珍しいな。呼びに行こうと思ってたんだが良いところで会ったぜ。」
「ま、魔理沙!?」
「何そんなに驚いてんだ。私に会いたくない理由でも会ったのか?」
「そんな事は無いわ。で、私にって何の用なのよ。」
「ああ、博麗神社で宴会やってるから霊夢がお前も呼んで来いってさ。」
その言葉にアリスは怪訝そうな顔をする。
「もう飛べないぐらい霊夢は飲んでるって事?」
「違うぜ、只単に幹事として忙しいってだけだ。私は飛ぶの早いしな。」
「へえ、そうなの。」
「なんか今日覇気が無いような気がするんだが。」
「気のせいに決まってるでしょ!」
「そうだな、じゃあ行くぜ。」
そう言って魔理沙が急加速して行くのを慌てて追いかける。勿論速度に差があるから次第に距離は離れていくが、目的地は同じなので別に問題はなかった。
所変わって博麗神社。そこにはまだ夕刻前だというのに既に十を超える人妖と宇宙人が集まっていた。日傘の下で優雅に紅茶を飲んでいる吸血鬼がいるかと思えば、既に顔を真っ赤にして地茣蓙の上に転がっているいる地上の兎もいる。月人はそれを横目で見ながらゆったりと日本酒を飲んでいた。幽々子は、と目をむけると案の定目の前に食料を大量に置いてさてどれから食べようかしら、と嬉しそうにその山を眺めている所だった。
宴会会場に降り立ったアリス目の前に丁度霊夢霊夢が立っていた。既に空になった酒瓶を何本も抱えている。
「あら、来たのねアリス。早かったじゃない。」
「偶然会ったんだよ、ちょっとそこでな。」
「へえ、めずらしいこともあるのね。アリスが真昼間から空を飛んでいるだなんて。」
「私だって昼間から空飛ぶことぐらいあるわよ。」
「とりあえずその辺り座ってて。魔理沙の隣が空いてるわよ。」
そう言われてあいている席に腰を下ろす。魔理沙の隣というのが何となく気になったが、過剰な反応をするのも変な話だろう。
いや、でも私と魔理沙が犬猿の仲だというのは霊夢も良くしっていたと思ったけれど、とまで考えた所で魔理沙が隣に腰を下ろし、小さく囁いてきた。
「おい、今日は何の用なんだ?」
「何の事よ。」
「お前が何も用事無くて来るわけ無いだろ。霊夢を覗きに来るならばれないように夜からずっと張っているはずだしな。」
「そんな事するわけ無いじゃないの!」
その大声に霊夢がアリスの方へと目を向けるが、次の瞬間には何事も無かったかのように小走りで再び境内の方へと向かっていった。
「おいおい、そんな大きな声出したら気づかれるじゃないか。」
「だから、何の事よ。」
耳にかかる吐息がくすぐったい。魔理沙は一体何が言いたいのか、と思う。
「どうせ霊夢に何か用事でもあったんだろう。今がチャンスだぜ。今なら誰も周りにはいないしな。突然出て来そうなスキマ妖怪も―――」
魔理沙が顔を向けるのにあわせてアリスも顔を向ける。すると、そこには何故か地面に打ち付けられた太い丸太に縛り付けられた藍と、その藍に酒を飲ませている橙。そしてそれを楽しそうにに眺めている紫という良く分からない構図が繰り広げられていた。
「―――あそこで酒飲んでるしな。聞かれたくない事ならチャンスだぜ。」
「そういう貴方はどうなのよ。どうせ私が行ったら盗み聞きしにくるんでしょ?」
「当然じゃないか。そんな面白そうな事私が放っておく訳が無いぜ。」
「じゃあ意味ないじゃない。やっぱり野魔法使いが考える事はどうしようもないわね。」
「お、調子が出てきたな。」
じゃあな、と言って魔理沙が席を立つ。もしかして元気付けてくれたのかしら、と思った所で慌てて頭を振る。そんなわけないじゃない、と自分に言い聞かせて席を立つ。魔理沙に言われてというのは何処か釈然としないが、霊夢が今一人なのは確かだ。だったら行かない理由は無い。最終的にはあそこにいる全員にも聞く羽目になるのかもしれないけれど、こんな話をするためにわざわざここまで来たと知られる人数が少ないに越した事は無かった。
夕日が辺りを照らしていた。緑一色だった森も今は紅色に染まっている。もちろん大地も空も同じ色だ。大地に立っているものは等しく紅色に染まっている。もちろん自分と目の前にいる霊夢も含めて。
「で、用って何なの。わざわざ結界まで張らせて。」
逆光で霊夢の姿がシルエットの様になっていて良く見えない。どんな表情をしているのか分からない。まっすぐに目を向けると太陽を直接眺める事になってしまうので、霊夢の小振りな胸あたりを見つめながら話す。
「魔理沙が盗み聞きしているような気が激しくしたからよ。」
「まあ、事実魔理沙は居たわ。さっき結界にはじき出されているのを見たし。」
「聞きたい事は、その。噂のことなのよ。」
歯切れの悪いアリスの言葉を霊夢は不思議そうに首を傾げる。
「噂ねえ。二つ知っているけど、どっちの事?」
「二つ?」
「うん、二つ。」
二つ。自分が知っているのは一つ。
「二つって一体何のこと?」
「アリスに関する噂でしょ。だったら二つ知ってる、って言ったのよ。まあ、一つはついさっき紫から聞いた奴だから信憑性はあまりないけど。」
紫、という単語を耳にしてアリスはぐ、と息を呑んだ。一度大きく深呼吸をしてからおそるおそる霊夢に続きを聞く。
「……とりあえずまずは紫じゃないほうから教えてくれない?」
「いいけど。一つ目ってアリスが魔理沙に本当はぞっこんって話でしょ。」
やっぱりそうだったのか、と内心焦りが増す。
「まさか、信じているわけじゃないわよね。」
「半々って所かな。良く分からないし。」
「半々って。ちょっとやめてよ。私が本当に魔理沙の事を好きだなんて本当に霊夢は考えているって訳?」
「だから分からないんだってば。否定しようにも肯定しようにもそのネタがないのよ。二人が良く弾幕ごっこしているってのは良く知っているんだけどね。」
うふふ、と小さく笑いながら嫌らしい笑みを霊夢は浮かべた。
「好きな子に手を出すっていうのは常識っていうしねぇ。」
「だからやめてって言ってるでしょ、私達はそんなじゃないのよ。成り行きで戦いになってしまうだけで。」
「本当かなぁ?」
「本当よ。」
「本当に本当に?」
「本当よ。」
「本当に本当に本当に―――」
「本当だってば!」
と、そこまで言った所ではたと気づく。既視感とでもいうのだろうか。何かが頭の中で引っかかっていた。ちょっと考えた所でそこに思い当たる。
「え、でも紫が言っていた噂ってそれじゃあないの?」
「紫が言っていたのは違うわよ。それだと思っていたの?この噂私達に関係ある人―――人じゃないのも大分混じってるけど、皆知ってるわよ。」
「皆って……ま、まあそれは置いておくわ。どんな話だったの、詳しく聞かせてくれないかしら。」
「どうせもう皆知っているとおもうわ。紫が言いふらしていたわよ、さっき。後で聞けば良いじゃない。もう結界張るのにも疲れたわ。幹事がずっと席を離している訳にもいかないし。萃香がやってくれると楽なんだけどねえ」
萃香今何してるのかなーと言いながら霊夢が目の前から立ち去っていくのを慌てて追いかける。捕まえようとして手を伸ばしたら、「はい。」と酒瓶が山積みになって入っているケースを渡されてしまった。
「話に付き合ったんだからそれぐらい手伝ってよね。」
「手伝いはいいから紫から聞いた話ってのを教えてくれない?」
紫との会話で話しを必死に否定してしまったが、あれは一体何だったんだろうと内心で冷や汗を流しながら必死に聞くが、結局霊夢は取り合ってくれなかった。
「どうせ嘘の話よ。アリスに直接尋ねたってのも怪しい限りだわ。あいつがアリスの家なんて知っている理由がないとおもうし。」
じゃあそれよろしくねー、と言って霊夢が足早に去っていった。追いかけようにも酒瓶の重さがずっしりと両手にのしかかり、思うように歩けない。
「ああ、もう。一体何なのよ。」
酒瓶の重さによろよろとよろけながらアリスはゆっくりと進んでゆく。さっきの場所に付いた頃にはすでに日は沈み、月が空に浮かんでいるのが良く見えていた。
「おー、まってたぜ。一本貰っていくがいいか?」
「卑しいわね。私に聞かないでよ。霊夢が幹事なんだからそっちに聞くぐらいのことは出来ないの?」
「言ってくれるじゃないか。今持ってるのはお前だろう。だったらお前が判断すればいいじゃないか。それぐらいの事も出来ないのか?」
「じゃあ言うわ。あっちへ行きなさいこの野蛮人、貴方に渡す物なんか何もないわ。礼儀ぐらい弁えなさい。これでいいの?」
「ほう、言ってくれるな。」
いつものやり取り。二人してにらみ合いが始まる。いつものように弾幕ごっこが始まるのかと思われたその時、横から霊夢が声をかけてきた。
「こんなところで暴れようとしないでよ。神社が壊れたり酒瓶が割れたりしたらどうしてくれるのよ。二人して弁償してくれるなら構わないけど。」
「ほう、霊夢はアリスの肩を持つっていうのか?」
「どういうことよ。私が戦ったら貴方なんかに負けるとでも思ってるの?」
「だ・か・ら。ここで争わないでって言ってるでしょ。本当に二人とも追い出すわよ!」
その言葉に魔理沙がちぇ、と言いながらアリスの持っていた箱の中から酒を一本取り出して背を向ける。
「一本貰ってくぜ。」
「まあ、いいわ。あっちでちゃんと座って飲んでなさいよ。」
「逃げるの、魔理沙。」
「今のお前と戦っても楽しくなさそうだしな。力取り戻してからまたやれば良いじゃないか。」
楽しみにしてるぜ、と言って魔理沙が紫の所へ向かっていくのを見ながらアリスは魔理沙の言った一言に首を傾げていた。
「力を取り戻したら、ってどういうことよ?」
「ああ、それは紫が言っていたことだわ。貴方が本気で戦ってたのにあのチルノに負けて逃げるしかなかったって言いふらしてたのよ。」
「チルノに負けたって……あれは違うのよ。」
「本当の話だったの?」
「いや、負けたっていうか……あれは、その。」
「嘘、本当に負けたの?」
「違うわ。人形が傷ついちゃったから離れただけよ。」
「信じられないわ。アリスがチルノに人形を傷つけさせるなんて。」
「だから、違うのよ。あの時―――」
思い出すのは昨日の事。
「ああ、もう。なんで魔法薬が暴走したりなんかするのよ。」
「それは君のミスだろう。君にとってあの魔法薬を熱の中で放っておいたらどうなるかなんて分かりきった物だったんじゃないのかい?」
「そんなことはないわよ。いままで何年もおいておいて何とも無かったんだから。今年の暑さが異常なのよ。本当に何か起きているのじゃないのかしら。」
「さあねえ。僕に聞かれてもこまるんだけど。妖怪の君が知らないのに人間の僕が知っているわけ無いだろう。」
「変な道具使ってるわけじゃないんでしょうね。」
「そんな道具あったら堂々と売りに出すさ。そもそも、外の世界に気候や気温を操作できる装置なんてあるのかい?」
二人が話している場所は香霖堂。魔法薬に侵されてしまった家に人形達を置いていくわけにもいかず、自分の持っている魔導書一冊と引き換えに人形達を保管してもらうことになったのだった。他の場所も考えていなかった事は無いのだけれど、ここ香霖堂は家から近く、霊夢や魔理沙の襲撃にあうという事実を除けば特に問題点は見つからなかったというのがその理由だ。さすがに契約上で預けられた物を魔理沙や霊夢に渡してしまうほど霖之助も管理が甘くないだろう。
「まあ、とにかく確かに預けたわよ。もしも一体でも減っていたり傷ついていたりしたら容赦しないわ。」
「分かっているさ。しっかりと保管しておくよ。君に殺されたり食べられたりしたくは無いからね。」
「私は貴方なんて食べるつもりないわよ。人形がおかしくなってたり盗まれたりしていても。両手両足ぐらいはもぐかもしれないけど。」
「怖い事を言わないでくれよ。言葉のあやさ、気にしないでくれ。しっかりと保管しておくから。」
魔力に侵されて動けない人形達に軽く手を振り、アリスは香霖堂を後にした。ここに来たときと同じように太陽は強く照りつけ、直接日光に当たっている大地は手で触ると熱い程だった。
「じゃあそろそろパチュリーに人形を渡しに行かないと……」
約束の期日は明後日だったが、手元に人形を置いておいて誰かに見られる等ということは冗談ではなかった。香霖堂から出たアリスを太陽が照りつける。その熱さを我慢してアリスは紅魔館へと向かう事にした。
そして、それは紅魔館から出た水の上で起きた。
「ちょっとちょっとちょっと。暑過ぎなのよ、熱過ぎなのよ。私の相手はあんた。憂さ晴らしに付き合って!」
騒々しい声と共に直上から氷柱が降ってくる。それをアリスは軽く見切ってかわした。
「なんであたらないのよ、もう。頭にくるわね。」
「いきなりなんなのよ。まあ、涼しいから良いんだけど。」
「あんたが涼しくてもどうしようもないじゃないの。私は暑いんだから!」
「だったら自分を自分で冷やしたらどうなの。私は帰るのよ。貴方なんかの相手をするつもりなんて無いわ。」
「うるさい、あんたが相手する気無くてもあたいにはあるんだ。勝負しろ!」
その言葉にアリスは首を傾げた。
「要するに暑いからじゃなくて理由があって私に喧嘩を売っているってことなの。」
「さっきからそう言ってるじゃない、何聞いてんのよ!」
「そう。ならすぐに倒してあげるわ。貴方私に負けたら数日は家を無理矢理に家を冷却させてあげるからそのつもりでいなさい。」
そう言ってスペルカードを展開しようと思ったところではた、と気づく。戦いに使う人形は全て香霖堂。手持ちの人形は魔理沙を模した物が一つだけ。これは愛玩用に作ったもので戦闘用ではない。どんな人形でもアリスが扱えば戦う事ぐらいは出来るのだけれど。
「もしかして知っているの?」
「何をよ、訳がわからないわ。あの魔法使いがあんたを倒したら相手してくれるって言うから倒しに来ただけ。それ以外の理由なんてない!」
「あの魔法使いって、まさか黒い奴じゃ?」
「知っているなら話は早いじゃない。行くわよ!」
そう言ってチルノはスペルカードを展開する。使った符は氷符『アイシクルフォール』
「もう、あの野魔法使いは考えている事が意味不明だわ。私にチルノをけしかけてどうさせようって言うのよ。」
上下左右から降って来る氷の欠片をかわしながら考える。手持ちの人形はこの魔理沙人形のみ。勿論戦闘に使うつもりなんてなかったから魔術的に加工なんかしていない。要するにそこらの人間が作る人形と全く同じだ。
「まあ、大丈夫よね。私があんなのに負けるはずは無いんだし。」
そう言いながら魔理沙人形に魔力をゆっくりと通してゆく。勿論弾幕を避けながらだが、この程度なら何も考えて居なくても避けられる程度だった。
「あー、もう。なんで当たらないのよ。当たれって言ってんのよ、あたいは!」
アイシクルフォールを展開したままチルノが通常弾幕を開始してきた。どうやらアリスが全く反撃してこないようなので好機と見て攻撃に全力をつぎ込む事にしたらしい。
「当たれ当たれ当たれってば、ちょっと聞いてんの!?」
かんしゃくを起こして怒鳴り散らすが、そんなことをしてもアリスに弾が当たるはずもなかった。
「うるさいわね。これでも受けなさいよ。」
突如としてアリスが持っていた魔理沙人形から閃光が迸る。その閃光上にあった氷が瞬時に溶け消え、あわててチルノがそれを避ける。
「あ、ああ危ないじゃないの。あたったらどーすんのよ!」
「当てるつもりだったのに、良く避けたわね。逃がすつもりはないけど。」
「あたいにはまだスペルカードが残ってるんだ。簡単にまけてたまるか!」
効果時間が過ぎた氷符『アイシクルフォール』から雪符『ダイアモンドブリザード』へとチルノが攻撃を変化させる。
先ほどと比べると弾幕の密度は勿論あがっているのだけれど、魔理沙や霊夢と戦っているアリスにとってはその弾幕は簡単に避けきれるものだった。
そう、避けるのがアリスだけだったならば。
「―――ともかく、元々その時に使った人形は戦闘用じゃなかったのよ。香霖堂に行けば理由もわかるわ。」
「でも、負けたのは事実って事なの?」
「……人形の腕が飛ばされたから直すために帰ったのよ。」
「ふうん、珍しい事もあるものねえ。アリスが本気で戦うなんて。」
何だか話がかみ合っていない気がした。
霊夢が言っている事は要するに自分がチルノに負けた事では無いのだろうか、という考えが頭をもたげてくる。
「私がチルノ相手に本気を出すわけないじゃない。」
「あれ、でも紫は貴方が本気だったって言ってたわよ。本気で戦ってたのにチルノに負けたって。」
「まさかと思うんだけど。魔理沙が妙にやさしかったのはそのせいなの?」
「あら、そうだったの。よかったじゃない。」
「良くないわよ、そんな誤解されているなんて冗談じゃないわ。」
「あら、優しくされてうれしくなかったの?」
「そんなの気持ち悪いだけよ。」
「素直じゃないわねえ。」
半目になって唇の端を軽く歪めている霊夢に眉を寄せるという表情で感情表現をする。その顔を見ても霊夢は何食わぬ顔で続けた。
「じゃあ誤解を解けばいいじゃないの。魔理沙を倒すのは別にいいわよ。神社から離れてやるんだったら多分良い余興になるだろうし。」
「解きたいけど、今は無理。手持ちの人形がないから。」
ぐ、と歯噛みをする。
まさか、紫が言っていたのは私がどんな相手にも本気を出さないという事なのだろうか。相手よりもほんの少し上の力を使って戦うという事実。それを私自身で否定してしまったということなのだろうか。
「ともかく、私は紫の所へ行って来るわ。誤解解いてこないと。」
「もう遅いとおもうけどねぇ……」
「そんな不吉な事言わないで!」
宴もたけなわ。皆楽しそうに飲んだり騒いだりしている。
いつのまにか妖夢も宴会に加わり、幽々子にせっせと食事を運んでいた。宴会に着てまでそんな事をしている妖夢が少し不憫に思えてくる。
その情景から目をそらし、右をみると藍が今度は太い木の枝に逆さに吊り下げられていた。木の下では橙がおろおろと歩き回ってはいるが、根元の所に紫が座っているので木の上に登れないらしい。
「紫、昨日の噂って一体何を言っていたの?」
「そんなの決まってるじゃないの。貴方が本気で戦ったかどうかよ。」
「ならそう言ってよ、誤解を広められたら困るじゃないの。」
「貴方が聞かなかったんでしょう。私は同じ事を考えてるのだと思ったわ。」
「それはそうだけど。でも、あれは卑怯じゃないの?」
「卑怯って何がかしら。」
「……わざと私が誤解するように話したでしょう。」
その言葉にゆかりはすこし視線を逸らした。
「やっぱりそうだったんじゃない。私を馬鹿にして楽しいわけ?」
「結構楽しいわよ、あなたもやってみたら分かるわ。」
上の方から、「紫様、やっぱりそんなことをなされてはいけませんよ~」と声が降って来る。見るとつるされている藍がゆらゆらと揺れていた。
「でもどっちにしても事実みたいじゃない。」
「事実って、何がよ。」
「貴方が本気を出しているって事。」
「そんなわけないじゃない!」
「でも魔理沙はやっぱりそうだったのか、って言ってたわよ。」
「何がよ。」
「何だかこの頃アリスが弱いって言ってたわ。本当は本気で戦っているのに私に勝てないんじゃないか、って。」
「そ、そんな。本当に言ってたの?」
「私はそんなことで嘘なんてつかないわ。」
「そう……私帰るわね。」
気が付いたらそんな言葉を口走っていた。藍が何かを言いたげに体をみのむしの様にさらに揺らすが、アリスはそれを無視した。太陽が完全に沈んで星がちらほらと見え始めている夜空へと墜落するように上昇し、一瞬停止した後力なく滑空するように自分の家へと向かう。
「私、そんな風に思われてたのね。」
弱い相手。確かにこの頃は何度やっても魔理沙には勝てていなかった。けれど、そんな風に思われていたとは思ってもみなかった。
私は魔理沙と良い勝負が出来る程度に力を出していたつもりだったのだけれど、勘違いでもしていたのだろうか。それとも単純に魔理沙が自分に合わせて戦ってくれていただけだったのだろうか。
良く自分でも理解出来ない事が頭の中をぐるぐると回る。
気が付いたら自分の家を通り過ぎていた。慌てて戻る気にもなれず、萎んだ心そのままに力なく向きを変える。
布団の上に倒れていた。
何もする気が起きない。
当然、壊れた魔理沙人形はそのままだ。直す気なんて全く起きなかった。
家には誰もいない。
慰めてくれる人もいなければ、話し相手になって気を紛らわせてくれる人もいない。
人形もいない。
何も、いない。
ぼーん、ぼーん、と鐘が10回鳴ったのが聞こえた。
気が付いたら寝入ってしまっていたらしい。
起きる気力なんて勿論なかった。
半分寝ている頭は変な事ばかり考える。
夢を見ているような。
空想をしているような。
夢想をしているような。
白昼夢を見ているような。
白日夢を見ているような。
何をしているのか自分でも良く分からない。
どうでも良いはずの事が何度も頭に浮かぶ。
全力で戦っていればよかったのだろうか。
全力で戦って、魔理沙を叩きのめしていればよかったのだろうか。
そんな事ばかり頭に浮かぶ。
私が本気を出していたのにチルノに負けると魔理沙は本当に考えていたのだろうか。
魔理沙にとって、自分はその程度の存在だと考えられているのだろうか。
自分にとってはどうでも良いことの筈なのに。
――――――何故か、悲しかった。
ドンドンドンとドアが激しく叩かれているのが聞こえてくる。
時間を確認してみると10時30分を少し過ぎた所。
始めは無視していたものの、一向に止む気配は無かった。
重たい体を無理矢理に起こしてベッドの上に座りはしたものの、それ以上動く気が起きなかった。
そのまま1分ぐらい経った頃、ドアを叩く音が不意に止んだ。静寂が辺りを支配する。諦めて帰ったのだろうと思って再び布団の上に倒れこもうとしたとき、今度はコンコンと窓を叩かれた。
「よ、元気か?」
窓を通してだから勿論あまり良く声は聞こえない。けれど、そこから聞こえてきたのは紛れも無く今自分が考えていた人の物だった。
「元気ないって聞いてきたんだが。本当に元気ない様に見えるぜ。宴会の時は今よりましだったのにな。」
「魔理沙、何しにきたのよ。」
気分は重い。声を出すのも億劫だった。
「私を笑いにでも来たの?」
「笑いにって、何をだ?」
オウム返しに魔理沙が聞き返す。本当に良く分かっていない様だった。
「霊夢がアリスが元気ないから励ましに行けって言ってたんだよ。」
「そう、霊夢がね。別にいいわ。」
「いいのか、お邪魔するぜ。」
「いいってそっちの良いじゃないわよ、分かって言ってるんでしょ!」
「決まってるじゃないか。アリスが許可したことぐらい分かってるさ。」
「そんな事言ってないわよ!」
「良いって言ったじゃないか。言葉には責任を持つべきだと思うがな。」
「言い回しぐらい理解しなさいよ、これだから野良は嫌いなのよ。」
はあ、と深く溜息を付く。けれど、溜息をわざとついているわけではないのに気が付いたら気分が少し軽くなっていた。
よいしょ、と魔理沙が窓を開け部屋の中へと進入する。トラップが仕掛けられていた筈だったのだけれど、いつのまにか解除されていたらしい。
「結構綺麗だな。もっと散らかってると思ったぜ。」
「あいにく、私は都会派だからきれい好きなのよ。」
「都会と綺麗好きは関係ないぜ。」
「野蛮人はどこに何があろうとどうでもいいんでしょ。」
「ま、私はそうでもないがな。」
その言葉を信じられずにへぇ~とアリスが声を漏らすと、魔理沙は嫌そうに手を振って言った。
「まあ、なんだ。わざわざ来てやったんだからとりあえず茶ぐらい出してくれてもいいんじゃないか。別に酒でもいいぜ。」
「だから、なんで貴方にそんなもの出さなきゃいけないのよ。招かれざる客なのに。」
「嫌なのか?」
「嫌に決まってるわよ。」
「じゃあ勝手に飲んでくるぜ。」
そう言って魔理沙が階段を下りていこうとするのを慌てて止める。
「ちょっと、何処へいくのよ。」
「だから言ったじゃないか。茶を貰いに行くんだよ。」
「私は出さないってはっきり言ったはずよ。」
「それぐらい良いじゃないか。家に入れてくれたついでだと考えろよ。」
「私は家に入るのも許可してないわ、勝手に変な事しないで!」
「茶を入れるのは変な事なのか?」
「そんな事言ってないわよ、ちゃんと話をしてよ!」
そこまで言って大きく息を吸った所ではっと気づく。いつのまにか倦怠感や無力感、寂寥感等が全て消えうせていた。それが魔理沙のおかげだと考えるのが嫌で少し俯いて黙り込んでしまった。
突然静かになったアリスを奇妙に思ったのか、魔理沙が首を傾げる。
「まあ、良いわ。麦茶ぐらいなら出してあげるわよ、下へついて着なさい。変な部屋入ろうとしたら吹き飛ばすわよ。」
「ありがたく頂くぜ。」
二人で向き合って無言で淹れたばかりの麦茶を飲む。外の気温は相変わらず高い。部屋の中も言うまでもない。
「なあ、アリス。」
「何よ?」
「実は嫌がらせだろ、これ。」
「貴方が茶を出せって言ったんじゃない。本当に自分勝手ね。」
そう言ってふん、と鼻を鳴らすが本当は別にそんなに怒っているわけではない。魔理沙が霊夢に言われたから来たというだけでなく、本当に自分を元気付けに来てくれたことがなんとなくではあるが感じられたからだった。
「で、何をしに来たのよ。」
「始めに言ったはずだが。」
「本当にそれだけが理由で来たの?」
「いや、違うぜ。」
その返答にはあ、とアリスは息を大きく吐いた。
「そんなことだろうと思ったわ。本当の理由は何なのよ。」
「いや、家が魔法薬の暴走で侵されてな、ちょっと居れない状態なんだよ。霊夢は泊めてくれなかったし励ましに行くついでにアリスの家でも行ってみようかと思ってな。」
「どうせ泊まる所を探すのが目的で励ましに来るのなんてついでのついででしょ。」
「そうとも言うぜ。」
そうして二人して少し睨みあう。今回は珍しく魔理沙の方が先に言葉を発した。
「で、泊めてくれるのか、くれないのか。泊めてくれるなら背中を流すサービスぐらいはするが。」
「せ、背中を流すって。」
「一緒に風呂に入るって事だ。タオルを巻くから裸は見せないがな。」
その情景が一瞬頭に浮かび、アリスは激しく頭を振ってその絵を吹き飛ばした。あまりの勢いにさすがの魔理沙も慌てる。
「ど、どうしたんだアリス。」
「な、なんでも、ないわ。別に、そんなこと、しなくていいわ。」
激しく振りすぎたせいでクラクラする。でもそのおかげでその情景はどこかへ行ってしまったらしい。少し静かにしてるとやっと体が元に戻ってきた。
「いきなり変な事いわないで。」
「別に変な事じゃないだろう。女同士なんだし何か気にする事あるのか?」
「べ、別にないわよ。」
「じゃあいいじゃないか。タダで家を借りるってのも悪いしな。それぐらいはしてやるよ。」
「そう言う事を言ってるんじゃなくて……」
「まさかとは思うが。」
そう言って魔理沙が一度言葉を切る。魔理沙の瞳がじっとこちらを見ているのに気づき、慌てて目を逸らす。
「アリスって女の裸が好きなのか?私がタオルを巻いて風呂に入るって言ったからそれを覆そうとしているようにも思えるんだが。」
「そんなわけないでしょう、馬鹿にするのもいい加減にしてよ!」
「じゃあいいじゃないか。あんまり断りすぎるのも変だぜ。たまの善意ぐらいしっかりと受け取れよ。」
「いつもの魔理沙がいるから心配なのよ!」
「まあ、それは否定しないがな。」
大きく息を吐いてアリスが机に突っ伏していると魔理沙が勝手に話を続けた。
「じゃあアリス風呂に入れよ。私も少し経ったらいくから。」
「だ、だから入らないって言ってるでしょう。そう、魔理沙が来る前に入っちゃったのよ。だから別にいいわ。」
「そうなのか。でも別に私は構わないぜ。」
「私が構うのよ!」
「別に一日二度風呂に入ったら体が溶ける呪いとか魔法になんてかかってないんだろう?」
「当たり前じゃない。何なのよその無駄な魔法は。」
「じゃあいくか。そろそろ風呂に入りたいと思ってたんだよ。」
「だから、一人で入ればいいって言ってるでしょ、話を聞きなさいよ。」
「まあまあ、遠慮するなって。」
「遠慮するに決まってるでしょ!」
その言葉にアリスを引っ張っていこうとしていた魔理沙が動きを止める。不思議そうに首を傾げていた。
「決まってるって、何が決まってるんだ?」
「な、何がでもよ。」
「まあいいか。じゃあ行くぜ。」
「だ、だから一人で行きなさいって……」
「まあまあまあいいじゃないか。私がアリスの裸見てみたいんだよ。」
「つっ!?」
「よし行くぜ。」
そう言って動きが鈍くなったアリスをずるずると引っ張っていく。そして、ドアの前に立つと勢い良くドアを開けた。開いた途端に異臭があたりに立ち込め、慌てて魔理沙がそのドアをしめる
「なんだ、ここは。」
「工房よ。何がしたいの。」
「風呂はどこだ?」
「近くに温泉があるわ……もう勝手にして頂戴。」
「よし、そこに行こう。バスタオルは四人分頼むぜ。」
そう言って魔理沙が再びアリスをずるずると引っ張っていく。引っ張られていくアリスはというと、ぐったりとうなだれてなすがままにされていた。
本当に、一緒に入るのね……
もちろん体にバスタオルをしっかりと巻いているから魔理沙からは自分の体はあまり魔理沙には見えないだろう。服を着ているのとあまり変わらないはずだ。けれども。
「遅かったじゃないか、アリス。何してたんだ?」
魔理沙が既に岩の上に座り込んでいた。自然に沸いていた温泉にアリスが少し手を加えて常に綺麗な湯が一つ所から出るようにしたものだ。俗に言う露天風呂で岩風呂である。ここは樹海の中なので人間は元々殆ど来なかった。今はアリスが細工して来れないようにしているので、全く来ることはない。
「こんな所に温泉があったのか、すばらしいじゃないか。またたまに来させてもらうぜ。」
「私が作ったのよ。入るなら何か貰うわ。」
「そうだな、考えておくぜ。」
「どうせそう言って何も渡さずに入るつもりでしょう?」
「私が死んだ後にいろいろ道具持って行っていいぜ。どうせアリスのほうが長生きするんだしな。」
「気の長い話ね、ホント。」
そう言って空を見上げた。相変わらず雲が浮かんでおらず、満月が煌々と辺りを照らしていた。星が天蓋を埋め尽くしているのが良く見える。
「良く考えると貴方とこんなにのんびりするの初めてじゃない?」
「まあ、いつも出会ったらすぐに撃ちあいだからな。」
「そうよねえ、何でかしら。」
「アリスの元気がないからじゃないのか。私はいつもと変わらないぞ。」
「そっちじゃないわ。すぐに撃ちあいの方。」
「それは言うまでもないじゃないか。ウマが合わないからだぜ。」
「それはそうね。」
そう言って二人して静かに夜空を見上げる
「魔理沙は変わらないわね。」
「お前もな。」
「変わらないのになんで二人してこんなにのんびりしてるのかしら。」
「たまにはのんびりしたい時もあるんじゃないのか。」
「どうかしらね。」
「で、だ。」
「何よ。」
そろそろとにじり寄ってくる魔理沙に少し違和感を感じて慌ててアリスは離れる。
「なんだ、忘れたのか。背中を流すって言ったじゃないか。」
「そ、そうだったわね……まあ良く見えないし諦めて流させてあげるわ。」
「ちゃんと光で辺りを照らすぜ。」
「それは止めて!」
ちぇ、仕方がないぜ。と言いながら魔理沙が小さなタオルに石鹸を塗りこんでゆく。
「じゃあ後ろ向けよ。」
「変な事したら張り倒すわよ。」
「そんなことしないぜ。」
アリスが岩に座ってバスタオルを前に集めるのを見てから魔理沙が背中にタオルを当ててこする。
「良く考えると、私って背中誰かにながしてもらったことなんてあったかしら。」
「いつもはどうしてるんだ?」
「人形がいるじゃない。」
「それもそうだな。」
ゴシゴシとタオルがこすり付けられるのを感じる。いつもの人形の力無さとは比べ物にならない。
「ねえ、魔理沙。」
「なんだ?」
「私にも貴方の背中流させてくれるんでしょう?」
「まあ良いが。何でだ?」
「貴方に流してもらうだけなんてまっぴらよ。私にもやらせなさい。」
「変な言葉の使い方だなあ。別にいいが。」
ゴシゴシ、と背中が擦られる。先ほど一瞬でも空想してしまったような変な事は全く起こらない。けれども、何となく気分が良かった。
とても名残惜しい。もっとやってもらいたい気がする。けれども、ずっとやってもらうというのも変な話だろう。そう思って後ろへと振り向く。
「じゃあ魔理沙、今度は私が……って、なんで裸なのよ!?」
「いきなり見るなよ。タオルで背中擦ってるんだから裸に決まってるじゃないか。」
体のどこを隠すでもなく魔理沙が立っていた。美しい肌が月明かりに映えてまるで一枚の絵画のようにアリスには見えてしまった。
「なにじろじろ見てるんだ?」
その言葉にはっとアリスは我に帰る。
「べ、別に見てなんかいないわよ。ちゃんとバスタオル二枚渡したじゃない。もう一枚はどうしたのよ。」
「何言ってるんだ。もう一枚は後で体を拭くのに使うんだろう。今使ってどうするんだ?」
「そ、それもそうね。」
「まあいいか、じゃあ頼むぜ。」
そう言ってアリスは手ごろな岩に腰かけ背中を向けるが、顔はこっちを向いたままだった。
「なんでこっち向いてるのよ。」
「いや、アリスはいつになったら脱ぐのかと思ってな。」
「ぬ、脱ぐわけ無いでしょう。私はこのバスタオル羽織ったまま背中を流すのよ。」
「おお、聞いたことがあるぜ。『体を使って洗う』という奴だな?」
「……なんだか良く分からないけど。変な事考えてるのだけはよくわかるわ。」
アリスは再び大きく溜息を付いた。今日はよく溜息を付く日だな、とどうでも良いことを思う。
「いい加減向こう向いてよ。脱がないから。」
「えー、それを楽しみに着たんだが。」
「!?」
「何驚いてんだ?」
「お、驚かしたのは魔理沙でしょう。」
「別に見てみたいと思っても変じゃないだろう。」
「変に決まってるじゃないの。何言うのよいきなり。」
「だって、人形使いの体には紋章とか魔方陣が刻んであるんだろう?どんな物なのかきになるじゃないか。」
その言葉にアリスははて、と首を傾げた。もちろんアリスの体にそんなものは刻み込まれていない。それ以前に、そんな事をする必要もない。
「ねえ魔理沙。もしかしてそれが見たくて私と風呂に入ろうって言ったの?」
「ああ、そうだが。」
はあ、とアリスは三度大きく溜息をついた。
「ねえ、魔理沙。それは人間の魔法使いで人形使いの話じゃないの?私は魔法使いで人形使いよ。」
「そうなのか?」
「そうよ。私達魔法使いはそんなことしなくても人形を操る事なんて簡単に出来るもの。」
「なんだ、そうなのか。じゃあ脱がなくていいぜ。」
それだけ言うともうアリスの体に興味を無くしたのか、視線を前へと戻してしまった。アリスは嬉しいような寂しいような良く分からない気持ちで魔理沙の背中を流し始める。
もしもその疑問がなかったら今のように二人で風呂にはいることなんて言い出そうと思わなかったの?と聞きたかったのだけれど、その答えを聞くのが怖かった。霊夢が言っていたように自分は魔理沙のことが好きなのかもしれない、と漠然と思う。もちろん愛情ではない。劣情なんてもっての他だ。恐らくは友情や友愛に属する物だろう。魔理沙は自分の事をどうおもっているのか知りたかった。けれども、聞くことは出来なかった。
「ねえ、魔理沙。」
「あぁ?」
「………なんでもないわ。」
「なんだよ、気になるじゃないか。」
「またいつか、こんなことがあるのかしらね、って聞こうと思ったのよ。」
「さあな。二人の気分次第じゃないのか。もう二度とないかもしれないが。」
「そうね、私もそう思うわ。」
結局あの後特に何を話すでもなく、二人で温泉に入って夜空を見上げていた後、帰ってきただけだった。夜になっても暑さは殆ど収まらず、空を高速で飛んでいるときはよかったものの、家に帰ってくるとまたうっすらと汗がふきだしてきてしまうありさまだった。
「あー、暑いなぁ。」
「そうね。」
「なあ、氷とかってないのか?」
「食べる分ぐらいならあるわよ。少しだけど。」
「妙に気前がいいな。断られると思って言ったんだが。」
「たまにはそういう気分の日もあるのよ。で、いるの?」
「いるいる。麦茶に山ほど入れてくれ。」
「わかったわ。その辺で待ってなさい。家捜しなんてしてたら追い出すわよ。」
「分かってるぜ。」
アリスが氷を山ほどいれた麦茶を持ってくると、そこにはガサゴソと戸棚をあさっている魔理沙がいた。
「魔理沙、何してるのかしら。」
「いや、ゴキブリがいたものでちょっとな。」
「嘘言わないでよ、この家にゴキブリがいるわけ無いじゃない。ちゃんと駆除してるんだから!」
「そんなこと言われてもな。ほら、そこにいるぜ。」
そう言われて指差された所を見ると、確かに小さくはあるがゴキブリの様なものが壁を這っていた。
「……どこから沸いてきたのかしら。まあ、それはいいわ。それより、ゴキブリと貴方がそこを漁ってるのとなんの関係が有るのよ!」
「いや、駆除の道具がないかと思ってな。」
「無いわよ、もう魔理沙二階に行って。泊めてはあげるからもう絶対に下に下りてこないで!」
「おいおい、下に下りてこないと玄関から帰れないじゃないか。」
「別に玄関から入ってきたわけじゃないんだから良いでしょう。それより、さっさと行かないと本当に追い出すわよ。」
「怖いぜ。まあ、今回は言うとおりにしておいてやるか。」
そう言って悪びれた風も無く二階への階段をトントンとテンポ良く登っていく。アリスはあわてて漁られた戸棚の中を調べるが、特になくなっているものは無いようだった。
「はあ、やっぱり油断ならないわ。家にあげたのは失敗かしらね。」
結局、今日何度目かもうわからない溜息をアリスはつくのだった。
二人して一緒の布団に寝る。
良く考えるとそれは当たり前の事だった。
アリスが二階に行くと、いつのまにか魔理沙は黄緑色の上下が分かれた寝巻きに着替えていて、それはアリスにとっては新鮮な景色だった。
「なんだ、今度は何を見てるんだ?」
「いや、貴方ってあの服以外持ってたのね、って思っただけよ。」
「当たり前じゃないか。何を言っているんだか。」
「じゃあなんでいつもあの服なのよ。」
「そんなの決まっている。魔法使いといったらあの服だろう。」
「訳が分からないわ。」
「そんなもんだぜ。」
「まあ、いいじゃないか。とりあえずこっち来いよ。ベッド一つしかないんだろ?」
「ま、まあそうね。」
「まさか私に床で寝ろとか言うんじゃないだろうな。いくらカーペットが引いてあると言ってもそんなとこで寝たら体痛めそうだぜ。」
「じゃあ私が……」
そう言って床に寝ようとするアリスを無理矢理魔理沙がベッドの上へと引っ張り上げる
「何でだ。ようするに私はこういっているんだ。せっかく泊まりに着たんだから一緒に寝ようじゃないか、と。」
「ど、どうしてそんなことしなくちゃいけないのよ。」
「嫌なのか。」
「ど、どうしてもってわけじゃないわよ。只、寝ている間に襲われないか心配で。」
「襲ったりなんかしないぜ。なんで私がアリスを襲わなくちゃいけないんだ。」
「そ、それもそうね。何言っているのかしら……」
「それに、本当に襲う気なら上の方が絶対に有利じゃないか。安全のためにも一緒に寝ることをオススメするぜ。」
「変な事言わないでよ。気になっちゃうじゃない。」
「気にする必要はないぜ。私はもう寝るからな。襲うなよ?」
「襲うわけ無いでしょう!」
―――夢を見ている。
はっきりとこれは夢だと分かる夢。
目の前に上海と蓬莱が浮かんでいる。
前方を飛んでいるのは黒の魔法使い。
七色の星が視界を埋め尽くすほどに飛び交っている。
楽しそうな笑い声が聞こえた気がする。
その声につられるようにして私も人形達を繰り出し、弾幕を張る。
お互いがお互いしか見ていない時間。
お互いがお互いだけの事を考えている時。
当たらない。当たらない。当たらない。
当てようとしているのに当たらない。
もちろんそれは相手も同じ。
どちらかがちょっとしたミスをするまで延々と続く二人だけの舞踏会。
お互いがお互いを叩きのめそうとしているのに、お互いがお互いの事しか考えていない。
閃光が走る。
人影が飛ぶ。
弾をかわす。
人形を操る。
弾が飛び出す。
星を避ける。
人形が撃ち落とされる。
新しい人形を繰り出す。
また閃光が目に飛び込んでくる。
その閃光を避ける。
私が、笑っている。
魔理沙も、笑っている。
お互いに罵り合っているのに、笑っている。
今この時だけは二人きり。
二人きりの時間。
二人きりの世界。
不意に影のコースが逸れた。
人形が放ったレーザーに直撃するコースへと変化する。
作戦かとおもって一瞬様子を見る。
だが、コースは変わらない。
その影が何かを言っているような気がする。
けれど、私には伝わらない。
焦りが生まれる。
けれど、どうしようもない。
一度放った弾はもう自分の所へと戻ってくる事は無い。
それは、分かっている――――――
影の一部が千切れ飛ぶのが見えた。
見えてしまった。
――――――お互いに、分かっている筈なのに。
目が覚めた。歯がガチガチと鳴っている。体の振るえが止まらない。
今のは夢。そう、夢だ。それは分かっている。けれど、体の震えを止める事が全く出来ない。
「ま、魔理沙?」
寝ているはずのところへ手を伸ばしてみるが、そこには誰もいなかった。慌てて飛び起きてあたりを見回すが、どこにもいなかった。箒がここにおいてあるということは魔理沙はまだこの家にいるのだろう。あわてて階下へと駆け下りる。
「あ、アリスか。早かったじゃないか。」
そこには勿論五体満足な魔理沙が立っていた。後ろ手に何かを持っている。そして、机の上には本が一冊。
「いや、これは、な。」
「魔理沙……」
「な、何だ?」
「やっぱり、そうだったの?」
気が付いたら目から熱いものが一筋垂れ落ちていた。それを見て魔理沙が慌てる。自分でも何を言おうとしているのか分からなかった。夢のショックもあった。けれど、魔理沙は自分の事を本当に励ましに来てくれたのだと思っていた。そう、信じていたのに。
「ちょ、ちょっとまて。これには深い訳が。」
「出てって。」
「いや、だから話を―――」
「出てってよぉぉぉぉぉぉお!」
あらん限りの声で叫ぶ。もう何もかもがどうでも良かった。やはり魔理沙はこれが目的だったのだと分かってしまったから。何か言おうとしているようだが、この期に及んで一体何を言おうと言うのか。
両目から次々と熱い物が頬を伝って落ちる。
「御願いだから、早く私の目の届かない所に消えて。」
「だから、話を……」
「私、魔理沙を殺したくは無いから。」
これは本当に本心から出た言葉。でもこのまま魔理沙が目の前にいると何をしてしまうか分からなかった。
「……そうか。」
「ねえ、魔理沙。」
「なんだ?」
「私、魔理沙の事多分好きだったよ?」
「ああ、多分私もだ。」
そう言って二人して床へと視線を落とす。
「そう、残念ね。次に会った時はどうなるかはわからないけど。」
「そうか。」
「私は、楽しかったから。魔理沙がどうだったとしても。」
「私も楽しかったぜ。」
「そっか。じゃあね、魔理沙。」
魔理沙が諦めたかのように後ろ手に持っていたものをアリスから見えないようにテーブルの椅子の上に置く。そして、そのまま何も言わず二階へと上がって行った。恐らく箒を取りに行ったのだろう。二階から声が響いてくる
「なあ、アリス。」
「…………」
「私も、本当に楽しかったぜ。」
その言葉に結局アリスは何も返さなかった。少ししてから窓が開く音がして暑い風が部屋の中へと流れ込んでくる。
そのまま力なく床へと座り込んでいた。
涙が止め処なく流れてくる。
魔理沙が大怪我をしたのではないかと思った時、本当に怖かった。
いつもやっている戦いが急に恐ろしい物に思えてしまった。
夢の中で、魔理沙の左手をレーザーが貫き通した時。
そして、魔理沙が地面へと落ちてゆく時。
どうしていいか全く分からなかった。
魔理沙は言っていたのではなかったのだろうか。
『アリスは弱い』と。
だから夢の中では勝っていた。
それも大勝利の筈だった。相手に大怪我を負わせたのだから。
けれど、それを自分は望んでいなかったらしい。
魔理沙に勝つ事よりもいつの間にか魔理沙と戦う事それ自体に意味を求めていた様だった。
夢の中で自分は笑っていた。
魔理沙も笑っていた。
けれど、もう二度とあんなことはないだろうと思ってしまった。
それがまた―――悲しかった。
いつの間にか日が傾いていた。夕日が部屋に差し込んでくる。恐らくは今頃香霖堂では霖之助が遅いと文句を言っている事だろう。人形達も待っているのではないだろうか。
「取りに、行かないと。」
口に言葉は出せる。
でも、体が動こうとしない。
動ける気がしなかった。
何か、小さな物音がした気がした。
ズ、ズ、と何かが床を這っている気がする。
いつもだったらすぐにでも確認をしに行く所だが、アリスは何もしなかった。
只、そこに目を向けただけだった。
小さな音は止もうとしなかった。
テーブルの下から何かがゆっくりと出てくる。
(……人形?)
暗くてよく見えない。もしかしたら一人ぐらい香霖堂に持っていくときに足りていなかったのかもしれない。恐らく魔力が解消された事で動けるようになったのだろう。話しかけてこないところを見ると、そんなに上位の人形では無いようだった。
ゆっくりと、ゆっくりと。
その人形はアリスの方へと近づいてくる。
無気力な目でそれをじっと見ていた。
漆黒の闇の中、物音だけが静かに部屋の中に響いている。
小さな、か細い音がゆっくりと近づいてくる。
はじめと比べてどれくらい時間が経っただろうか。気が付いたらその人形はアリスの足元まで寄ってきていた。その人形を何となく掴む。その瞬間に頭がクリアになった。
「魔理沙、人形?」
なんでこの子が、とまで考えた所でその左手がくっついている事に気が付いた。
「う、そ。」
慌てて明かりをつけてその人形を良く見た。左手は確かに縫合されていた。綿も少し飛び出してしまっていて、お世辞にも上手とは言えなかった。けれども、たしかにその人形は縫合された跡があった。
「―――魔理沙?」
あわてて机の上にある本を見る。そうしたら、案の定そこにあったのは人形の本だった。
「まさか、これを直そうとしてたの?」
そういえば昨日魔理沙はこの魔理沙人形が入っていた辺りの戸棚を漁っていたはずだ、と思い出す。
「まさかと思うけど、私が落ち込んでたのこの人形が壊れたせいだとか考えていた訳じゃないわよね。」
だとすれば。
魔理沙は、私を本当に元気付けるためだけに着たのではなかったのだろうか。
何かを取に来たわけではなく。
純粋に。
「あ、あははははは……」
だとすれば、自分は何てことを言ってしまったのだろう。それよりも、
「私、魔理沙の事好きって言っちゃったわよねえ!?」
どうしよう。取り返しの付かない事だ。
瞬間的に顔が真紅に染まる。
でも、良く考えると魔理沙も言っていた気がする。
「と、とりあえず、魔理沙に謝らないと。」
そこまで考えた所でふと思いつく。
さっきまでがおかしかったのだ。だったら、今度の私は普通でなければいけない。いつもの通りに。いままでと同じように。
ならば。
魔理沙人形をしっかりと直し、魔法や道具を使って大幅に補強する。
戦いに耐えうるように。魔理沙と戦えるように。
私の早とちりかもしれないけど、魔理沙はどこかで私を待っている気がする。
私と戦うために。
そうだ、そして今度は勝とう。
この頃負けっぱなしだ。
夢の中だけで勝つなんて負け犬みたいねえ、とくすりと小さく笑う。
勿論、夢の中のように大怪我をさせて勝つつもりなんて毛頭無い。
相手より、少しだけうわまわる。
それが、人形使い『アリス・マーガトロイド』の戦い方の筈なんだから。
いつもの通りに。
いつもの様に。
――――――魔理沙と二人きりのダンスを踊りに行こう――――――
それは何かをじっと見つめると言う事。
黙考。
それはじっと黙って何かを考えると言う事。
逡巡。
それは決断をためらう事。
机の上に人形が置いてあった。
黒い帽子に黒い服。
黒い靴を履いている。
帽子には白いリボン。
黒い服の上には白いエプロンの様な物を纏っている。
その人形の隣には千切れた人形の手。
机の上に座っている人形には左手が無かった。
その腕の中からは綿が出てしまっている。
何かに貫かれたか千切り取られたかのように断面は粗かった。
「―――だめだわ、どうしても決められない。」
机の上に置かれた、壊れた人形をアリスは眺めながら大きな溜息をついた。
この人形とにらめっこし始めてから早三時間。時間が経つのははやいのだなぁ、とまったく見当違いのことを思う。
直せばいいのだろう。いや、直すべきなのだろう。
けれど、直すのはなんとなく嫌だった。
これはパチュリーに頼まれていたという理由で作った人形のうちの一つ。二つの人形をパチュリーに見せて好きなほうを選んでもらった残りだった。
もちろん自分の分が残る様に二つ作ったわけではない。
パチュリーにやっぱり両方欲しいと言われたのに断ってしまったのは契約と違っていたからだと思う―――思いたい。
「一体どうすればいいのよ……」
放っておくのもこの人形が可愛そうだと思う。自分は人形使いなのだし、人形が壊れたままにするなんて出来ないと考えるのが当たり前の筈だ。この人形が壊れた原因は自分にあるのだし。けれど、それとは別に頭のどこかで何故かこの人形が気になってしまうのがアリスには嫌だった。
この頃変な噂が広まっているらしい。
誰から聞いたのかは忘れたのだけれど、私が魔理沙の事を好きだという噂だった。
自分で作ったこんな人形が家に置いてあるのを誰かに見られたら、あの噂は嘘だと何度言っても信じてもらえなくなるかもしれない。だからこそこの人形をどうしようかと考えながら、ずっとこの人形とにらめっこをしているのだった。
この人形を家においているのを見られただけで、あの噂の様に私が魔理沙の事を好きなのではないかと言われてしまうのは嫌だった。
「そうよ、私はなんでもないんだから。」
うん、と頷いた所で人形と目が合う。
気が付いたら体の動きが止まっていた。
慌てて頭を激しく振り、その考えを追い出す。
「わ、私は人形使いなんだから人形を治しても何もおかしくはないわよね。」
誰に言うでもなく言葉を発する。
普段だったら上海や蓬莱がいるのだけれど、今日はちょっとした事件で香霖堂に二人とも預けてしまっていた。普段なら他にも人形達が沢山いるはずなのだけれど、その子達も一緒に香霖堂に預けてしまっている。
だから、さっきの言葉は完全な独白だ。誰に聞かせるための言葉ではない。
「うん、私が直したいんじゃなくて人形使いとしての私が直したがってるんだから。そうに決まっているわ。」
そう言いながらうんうん頷くと、本当にそうなのだろうという気分が次第にアリスの心の中を満たしていく。
思い立ったが吉日。いままで悩んでいた時間が長かった分アリスは一度決めると動くのが早かった。
「じゃあ、早速直しましょうか。」
そう言いながらその人形にそっと手を伸ばす。
左手で体を、右手で取れた左手を掴み、針と糸はどこだったかしら、と考えた所で突如として目の前にスキマが発生するのが見えた。誰が出てくるかは分かりきっているので、あわててその人形を机の下に隠す。
幸い人形が乗っていた机にはテーブルクロスがかかっていたので、テーブルの下にある自分の膝の上に見られないように人形を置くことが出来た。アリスが両手を机の上にと置くのと同時にその場にはスキマ妖怪、八雲紫が現れていた。
「あら、アリスじゃない。こんな所で奇遇ねえ。」
「奇遇ってなによ。ここは私の家なんだからあなたが居る方がおかしいんじゃないの?」
憎まれ口を叩くが、体内ではは心臓が止まりそうなほどに早鐘を鳴らしていた。
顔や手に汗をかいていないかどうか心配だったが、変な挙動をすると紫に感づかれてしまうのではないかと考えると、うかつな動きは出来なかった。
「ねえアリス。ちょっと聞きたい事があるんだけれどいいかしら?」
「いきなりうちに来てなんなのよ。何か聞きたい事があるなら入り口から入ってくればいいじゃない。」
「そんなことはどうでも良いわ。聞いてもいいかしら?」
「どうでもはよくないけど……何よ。」
「あの話って本当なのかしら?」
その言葉にアリスの体が一瞬固まる。
自分でも理由は分からないのだけれど、思考すらも一瞬凍ってしまっていたらしい。何を言うべきかが思いつくことが出来ない。声が軽く上ずっているような気がする。
「な、なんのこと?」
「ちょっと聞いた話なのだけど。当然貴方も知っているのでしょう。あなたが当事者なのに知らないわけはないわよねえ?」
その言葉を発している紫の目が細くなった様にアリスには見えた。口元の笑みもどことなく歪んでいる気がする。
それと同時に自分の体の中で心臓の鼓動がさらに早くなっていっている気がする。
今はまだ顔が赤くなっていないと自覚できているものの、いつ赤く変化してしまうかは分からなかった。もしも自分が何も言わなくても顔で答えを言っていたと相手に思われてしまったのでは意味が無い。それより、自分ではそんなはずが無いと思っているのに変な噂が立ってしまうのは困る。
「だから、何の事よ。ちゃんと言わないと分からないわ。」
「あら、へんなことを言うのね。」
そう言って紫はくすくすとおかしそうに笑う。
「あなたに関係ある人達全員が知っているって聞いたのですが。嘘だったのですか?」
「嘘に決まっているじゃない。なんでそんな噂が立つのよ。いつもの私が本当の私に決まっているでしょう。変な噂を立てないでよ。」
「あら、では今日のこともそうなのですか?」
「今日って―――」
そう言われて考えてみるが、早朝に魔理沙といつものように口論になり攻撃をしかけて返り討ちになった事以外には何も思い浮かばなかった。
戦ったぐらいで噂が立つわけもないし、何か紫は勘違いをしているのだろうとアリスは考える。
「その噂に関係する事は何もしていないはずよ。なんでそんな風に思ったのかしりたいわ。誰がそんな事言ってたの?」
「……本当に?」
「本当よ。」
「本当に本当に?」
「本当よ。」
「本当に本当に本当に―――」
「だから本当だって言ってるでしょ!」
そう言いながらドン、と音が立つほどに机を叩く。その衝撃で膝の上で人形が揺れて片腕が転げ落ちてしまった。拾わなければ見られてしまうかもしれないと思い焦るが、変な動きをするわけにはいかない。
「―――そうなの。」
そう言って紫はうんうんと何かを考えるように頷いた。
「じゃあこれで話しは終わりね。またそのうち話きかせてもらうわ。お土産にこのあたりの……お酒を貰っていくわ。」
「なんで不法侵入のあなたに土産を渡さなきゃいけないのよ!」
そう言ったところまではよかったのだが、不用意に動けない状態では如何ともしがたかった。アリスが飲むのを楽しみにしていた高級な酒が次々とスキマの中へと放り込まれてゆく。
めぼしいものをあらかた奪いつくしたのか、紫は頷くと
「じゃあまたくるわね。」
そう言いながらスキマの中へと入っていった。
「もう絶対にこないで!」
アリスは叫ぶが、その声に全くおびえた様子も無く紫の体がゆっくりとアリスの目の前から消えてゆく。それを睨みながら、アリスは物凄い疲労感に襲われていた。
「紫まで知っているなんて……」
うう、と呻きながら頭をかかえるが、噂は自分ではどうしようもない。
紫はアリスの主観では噂等とは程遠い人物だった。基本的にいつも寝ているし、酒盛りの場以外では殆ど出会った記憶も無い。その紫が知っているとなると―――
「本当に私の知り合い全員が知っているのかしら……」
口の中で魔理沙にどんな顔して会えば良いのよ、と小さく呟く。
もちろん答えてくれるものは誰も居ない。
床の上に転げ落ちていた人形を取れている片手と一緒に机の上ではなく、戸棚の中へと丁寧にしまう。
「今日は疲れたからまた明日―――」
紫と短時間会話しただけなのに、体がふらふらしていた。ゆらゆらと体を左右に揺らしながら寝室へと移動し、ベッドに一息に体を預ける。
大きく溜息を付きながら布団の上でぼーっとしていると、いつの間にか睡魔に襲われていた。その睡魔に抗わずにアリスは目を閉じる。
(明日は今日と比べて少しはまともな日になるといいんだけど……)
頭の中で呟いた言葉はどこへいくとでもなく消えていった。
アリスはどことも知れない場所にいた。
座っている場所は純白のベッドの上。
どこを見回しても平坦な白い壁しかなかった。
出入り口が見つからない。
何がなんだか分からない。
自分の体を見て小さく悲鳴を上げる。
アリスは服を着ていなかった。
慌てて隠そうと布団を掴むが、その布団は誰かによって押さえられてしまっていた。
「ぇ……」
小さく声を上げる。
黒い帽子が見えた。
「う……ぁ?」
何がなんだか分からない。布団を使って体を隠そうとするが、その帽子を被った誰かがその布団の上に俯きながら座っているので上手く引っ張れない。
アリスの目線がその帽子の下へと向かう。
綺麗な足が目に飛び込んでくる。
気が付いたら鼓動が高まっていた。
帽子を被ってうつむいていた誰かがゆっくりと体を起こす。
そして、その誰かとアリスは目があってしまう。
もちろんアリスにはその顔に見覚えがあった。
それは―――――――
がばっと音がするのではないかと思うぐらいに勢い良くアリスは体を起こした。
窓からは既に日差しが差し込んできており、今のは夢だったのだとはっきりと確信する。
「でも、なんだってあんな夢……」
夢で見た綺麗な脚を思い出し、慌てて頭を振る。
「そ、そんなわけ無いわ。紫があんなこというからわるいのよ。」
紫のせいだ、紫が悪いと何度も口の中で呟いてやっとアリスは心が落ち着いてくるのを感じた。
「そうよ、私と魔理沙は天敵同士なんだから。どっちもそうだと認めてるじゃない。そんな噂が広まる理由なんてないはずなのに。」
改めて考えてみると何となく変な感じがした。
紫は思考パターンが良く分からない妖怪ではあるけれど、わざわざあんな噂が気になったからと言う理由で私の家に来る様な相手では無い筈だった。
紫とある程度付き合いの深い相手ならまだしも、アリスは自分が紫にとって興味の対象になるとはあまり思えなかった。
「もう、一体なんだったのよ。楽しみにしていたお酒までもってっちゃうし。」
その事を思い出したアリスは、あのお酒をまだ飲んでないなら取り戻せるかもと思い直して急いで起きることにした。
昨日服も着替えないまま寝てしまったので、慌てて風呂へと入り身だしなみを整える。
「とりあえずどこから行くべきかしら……」
長い髪を乾かしながら小さく呟く。
眉を寄せて考えてみるものの、多くは思い浮ばなかった。自分が知っている限りで紫と関わりがありそうな場所といえば、紅魔館・博麗神社・冥界ぐらいである。マヨヒガに住んでいるとは聞いた事があるのだけれど、そのマヨヒガがどこにあるのか聞いた事は無かった。
興味もあまりなかったし、行く事などないだろうとおもっていたからだった。
「もう、こんな事なら藍にでも聞いておくんだったわ。」
愚痴るがいまさら言ってもどうしようもない。探せば見つかるのかもしれないが、先に思った四箇所のどこかに居る確立も十分に高いだろう。どうせ行くなら噂がどのように伝わっているのかも知りたかった。
「じゃあ行きますか―――人形が居ないと独り言が多くなって困るわね。」
姿見で身だしなみを確認し、息を吐きながら大きく伸びをする。
何となく窓から外の景色を眺めてみた。
既に太陽は空高く上っており、空は殆ど青一色で染まっていた。白い雲がまばらに見えるがそんなものでは頭上一杯に広がっている青を隠す役には立っていない。
ドアを開けて外に出ると蝉の鳴き声が一気に大きくなった。
「うわ、今日も暑いわね。」
手で太陽を遮りながら空を仰ぐ。
「この天気なら数日中には人形たちを家に戻してあげられるわね。」
昨日家に帰ってきたら魔法薬が暑さで変質して暴走しており、、家の中が異常な魔力に犯された状態となってしまっていた。その薬は放って置けば太陽の光と熱で勝手に分解するのは分かっているのだけれど、それ以外の方法で解消する方法は見つからなかった。そのせいで全ての人形を家においておくことができなくなり、昨日は香霖堂へ全ての人形を預かってもらうこととなってしまったのだった。
「さて、と。どこから行こうかしら。」
まあ、とりあえず一番近い所で良いかしらと思い、空中へと浮かび上がり紅魔館へと進路を向ける。
上からまるで焼くかのように照り付けてくる日差しは億劫な物だったが、それによって早く人形たちを家に返して上げられる事を考えるとアリスにとってそれはあまり嫌な事ではなかった。この時点では。
「あれ、アリスさんじゃないですか。珍しいですね、誰かとの約束もないのにここに来るなんて。」
「今日は真面目に起きているのね。」
「いつも私は真面目ですよ。」
「私が通りかかるとたまに貴方がここで寝ているようにおもうんだけど。」
「……あれは寝ているんじゃなくて負けて倒れているだけです。」
「門番がそんな事で良いの?別に私にとってはどうでも良い事なんだけど。」
「う、そんな事言わないでくださいよ。黒ネズミを通すなって咲夜さんにもパチュリー様にも何度も言われているんですから……」
そう言いながらふう、と大きく息を吐く。同時に体が前へと大きく倒れ、それに合わせてふくよかな胸がゆっくりと揺れる。
「あれは強すぎというか、異常ですよ。」
「相変わらず大きな胸ね。」
「む、胸は関係ないじゃないですか。」
「胸が大きすぎて動きが鈍いんじゃないの?」
「そんなわけありませんって!」
両手で胸を隠しながら、嫌そうにアリスを睨む。
「それで、今日は屋敷に何の御用ですか?」
「ええ、ちょっと聞きたいのよ。私に関する噂なにか聞かなかった?」
「うわさ、ですか。」
そう言ってちょっと考え込むような素振りを見せる。
「特にこれといって新しいのは知りませんねえ。何かあったんですか?」
「知らないなら別にいいのよ。レミリアはいるかしら?」
「お嬢様でしたら多分博麗神社にいらっしゃると思いますが。お嬢様に何か御用ですか?」
「大したことじゃないわ。咲夜も一緒?」
「ええ、咲夜さんはお嬢様の傍をそうそう離れる事はありませんし。」
「まあ、そうでしょうね。」
「今日はパチュリー様と会いに着た訳ではなかったんですか?」
「今日は違うわ。博麗神社に行ってみるわね、ありがとう。」
そう言ってアリスは門の前から飛び立とうとした。けれど、その肩が後ろから掴まれる。
振り向いてみると、何となく困ったような焦ったような顔が見えた。
「何か用でもあるの?」
「いえ、大したことじゃないんですが―――私の名前覚えてます?今日一度も名前で呼ばれなかったような気が……。」
「勿論覚えてるに決まってるじゃない。一日や二日の付き合いじゃないんだし。」
「そ、そうですよね。ちょっとこの頃色々あったんで心配で。」
「じゃあまたそのうち来ると思うけど。ええと―――」
「ええと?」
アリスが黙り込んだ事を不審に思ったのか、顔から汗がつーっと一滴垂れる。唇の端もどことなく引きつっているようにアリスには見えた。
「―――門番。」
「門番名前と違うーーー!」
「冥界との境界が薄くなっているとは聞いていたけど。本当に無茶苦茶ね、これ。だれでも入れてしまうじゃない。普通の人間が迷い込んだらどうするつもりなのよ。紅魔館みたいに門番がいるでもないし。妖夢がなんとかしているのかしら。」
幻想郷と冥界とを繋ぐ境界を通りながら、アリスは眉をひそめながら小さく呟いていた。
「たしか白玉楼よね、幽々子がいるのは。妖夢もどうせ一緒だろうし。」
結界の上を飛び越え、幻想郷から冥界へと入る。そこに現れたのは数え切れないほどの幽霊達。妖夢がずっと働いているのに全く減らないと不平を言っていた事を何となく思い出す。
長い階段を一気に飛び上がり、平坦な道が見えたところから桜並木に沿って飛ぶ。
桜の花はとっくに散っており、今は緑の葉をつけていた。
遠くに枯れているように思える西行妖が見えている。そういえばあの妖怪桜を開花させようとしたときには私もこの冥界に向かう二人と戦ったんだなぁと思い出す。
「それにしても広い庭ねえ。咲夜みたいに時間を止める能力持っていないと掃除なんて追いつかないんじゃないかしら。妖夢は確か半分人間だったから少しは寝ないと体持たないだろうし……」
「御気遣いには感謝します―――けど、幽々子様に何の用です?」
「あら、いたの?」
「居たのを知っていたから私を気遣う様な言葉を言ったんじゃ?」
「只の感想よ。貴方が居ても居なくても思うことに変わりなんて無いわよ。」
「……そういうものですか。」
ところで、と妖夢が言葉を区切る。
「改めて聞きますけど、魔法使いが冥界に何の用ですか。貴方がここに来る理由なんて私には思いつかないんですけど。」
「特に理由なんてないわよ。まあ、どうでも良い理由があるといえばあるんだけど。」
「どうでもいい理由?」
その言葉に妖夢が眉を潜める。手の位置が先ほどと比べて少し身に着けている二本の刀の方へと寄っていた。
「ええ。私の噂をきかなかった?って聞こうと思ってたのよ。」
「噂、ですか。私は聞いていないとおもいますけど。何故私と幽々子様に聞きに着たんですか?特に私達二人が噂に詳しいとは思えないんですが。」
「只単に紫から私は聞いたからよ。確か幽々子って紫と親しいんでしょ、私達よりもずっと付き合いも長いらしいし。」
「ええ、それはそうですが。」
「だから幽々子に聞きに着たんだけど……」
「幽々子様でしたら今博麗神社で行われている大宴会にいらっしゃいますが。」
「……なんで貴方だけここにいるのよ。」
「色々とあったんですよ、亡霊の世話とか。」
「死人の世話なんてしてどうするのよ。」
「色々あるんですって。そんな事言ったら私が幽々子様にしている事は全部無駄ってことになっちゃうじゃないですか。」
そこで二人は思い当たった事があったのか、一瞬言葉を止めた。
「…亡霊って食べる事に意味あるの?」
「……多分あると思いますけど。」
「一体何処に行っているのかずっと不思議なのよね。本当は肉体があるわけじゃないのに、実際に存在する物体がどこに消えているのか。」
「それは私もそうですけど……幽々子様に頼まれて断るわけにも行かないじゃないですか。私は一応従者なんですし。」
「一応なのね。」
「一応じゃないですけど―――もう少し燃費を良くして欲しいとは常々思っています。」
うう、西行妖を復活させようとするまではあんな食欲魔人じゃなかったのに、と妖夢は思い出し泣きをする。
「遠くを見ているところ悪いんだけど。じゃあ私はこれで行くわよ。」
「ええ、幽々子様に会ったら是非とも沢山食べてきてこちらでの食費を浮かせてください、と言っておいてください。」
「………覚えておくわ。」
「そういえば、霊夢と会うのも久しぶりねえ。」
あの夜がずっと続いていた夜に開かれた宴会以来霊夢には会っていなかった。あの時霊夢を倒してしまったので何となく気兼ねをしていたのだけれど、今日はそうも言っていられない。
「霊夢にまで誤解されてると困るんだけど。」
もしもその噂を霊夢が聞いていたらどう思っているのだろうと思うと何となく飛行速度が落ちてくる。
「うう、なんでこんなことになってしまったのよ。この頃は面倒な事ばっかり起きるじゃない、冗談じゃないわ。」
昨日は昨日で薬が暴走したから慌てて人形達を救い出してわざわざ香霖堂に預けに行ったり紫に高級な酒を持っていかれたり。今日はといえばこの炎天下の中何度も何度も汗をかきながら飛行して、尋ねる内容は自分の噂の内容を知っているか、知っていたらそれをどう思っているかについて聞きに行く。
馬鹿らしくて涙が出てきそうだった。
「ったく。一体誰がこんな噂流したのよ。やっぱり紫の仕業?」
ぶつぶつと小さく呟く言葉はやはり独り言だ。
いつもであればここで人形達がなんらかの反応を見せてくれるのだけれど、もちろんそれも無い。
「ああ、もう。何だってこんなに暑いのよ。」
日光を遮る雲が全く無い空。大分太陽の位置は下がってきてまもなく夕暮れになろうとしているものの、相変わらず気温は下がる素振りを見せていなかった。直射日光が当たらない深い森の下は飛ぶのには全く適していないので通れず、仕方なく涼しそうな森を下に見下ろして飛行するのもまた文句が出てしまう一因となっていた。
「これで霊夢が噂を知っていてそれを信じていたら踏んだり蹴ったりじゃない。そうだったら誰にこの鬱憤をぶつければ良いのよ。やっぱり魔理沙かしら。」
そこまで呟いてはた、と気づく。
「良く考えたら今私人形一個も持ってないのにどうやって戦えば良いのよ。どうしようもないじゃないの。」
普段自分の隣に人形達がいるのが当然のアリスにとっては、人形がいないというのは戦闘能力の殆どを奪われたのと同然の事となってしまう。人形を使っての攻撃は当然出来ないし、スペルカードも全く使えない。
「ってことは何。私挑発されても全て我慢しなくちゃいけないってこと?」
妖夢から聞いた話では今博麗神社は宴会の真っ最中。当然酔った妖怪や人たちは絡んでくる事だろう。それに対して何もできないと言う事は―――
「お、アリスじゃないか、珍しいな。呼びに行こうと思ってたんだが良いところで会ったぜ。」
「ま、魔理沙!?」
「何そんなに驚いてんだ。私に会いたくない理由でも会ったのか?」
「そんな事は無いわ。で、私にって何の用なのよ。」
「ああ、博麗神社で宴会やってるから霊夢がお前も呼んで来いってさ。」
その言葉にアリスは怪訝そうな顔をする。
「もう飛べないぐらい霊夢は飲んでるって事?」
「違うぜ、只単に幹事として忙しいってだけだ。私は飛ぶの早いしな。」
「へえ、そうなの。」
「なんか今日覇気が無いような気がするんだが。」
「気のせいに決まってるでしょ!」
「そうだな、じゃあ行くぜ。」
そう言って魔理沙が急加速して行くのを慌てて追いかける。勿論速度に差があるから次第に距離は離れていくが、目的地は同じなので別に問題はなかった。
所変わって博麗神社。そこにはまだ夕刻前だというのに既に十を超える人妖と宇宙人が集まっていた。日傘の下で優雅に紅茶を飲んでいる吸血鬼がいるかと思えば、既に顔を真っ赤にして地茣蓙の上に転がっているいる地上の兎もいる。月人はそれを横目で見ながらゆったりと日本酒を飲んでいた。幽々子は、と目をむけると案の定目の前に食料を大量に置いてさてどれから食べようかしら、と嬉しそうにその山を眺めている所だった。
宴会会場に降り立ったアリス目の前に丁度霊夢霊夢が立っていた。既に空になった酒瓶を何本も抱えている。
「あら、来たのねアリス。早かったじゃない。」
「偶然会ったんだよ、ちょっとそこでな。」
「へえ、めずらしいこともあるのね。アリスが真昼間から空を飛んでいるだなんて。」
「私だって昼間から空飛ぶことぐらいあるわよ。」
「とりあえずその辺り座ってて。魔理沙の隣が空いてるわよ。」
そう言われてあいている席に腰を下ろす。魔理沙の隣というのが何となく気になったが、過剰な反応をするのも変な話だろう。
いや、でも私と魔理沙が犬猿の仲だというのは霊夢も良くしっていたと思ったけれど、とまで考えた所で魔理沙が隣に腰を下ろし、小さく囁いてきた。
「おい、今日は何の用なんだ?」
「何の事よ。」
「お前が何も用事無くて来るわけ無いだろ。霊夢を覗きに来るならばれないように夜からずっと張っているはずだしな。」
「そんな事するわけ無いじゃないの!」
その大声に霊夢がアリスの方へと目を向けるが、次の瞬間には何事も無かったかのように小走りで再び境内の方へと向かっていった。
「おいおい、そんな大きな声出したら気づかれるじゃないか。」
「だから、何の事よ。」
耳にかかる吐息がくすぐったい。魔理沙は一体何が言いたいのか、と思う。
「どうせ霊夢に何か用事でもあったんだろう。今がチャンスだぜ。今なら誰も周りにはいないしな。突然出て来そうなスキマ妖怪も―――」
魔理沙が顔を向けるのにあわせてアリスも顔を向ける。すると、そこには何故か地面に打ち付けられた太い丸太に縛り付けられた藍と、その藍に酒を飲ませている橙。そしてそれを楽しそうにに眺めている紫という良く分からない構図が繰り広げられていた。
「―――あそこで酒飲んでるしな。聞かれたくない事ならチャンスだぜ。」
「そういう貴方はどうなのよ。どうせ私が行ったら盗み聞きしにくるんでしょ?」
「当然じゃないか。そんな面白そうな事私が放っておく訳が無いぜ。」
「じゃあ意味ないじゃない。やっぱり野魔法使いが考える事はどうしようもないわね。」
「お、調子が出てきたな。」
じゃあな、と言って魔理沙が席を立つ。もしかして元気付けてくれたのかしら、と思った所で慌てて頭を振る。そんなわけないじゃない、と自分に言い聞かせて席を立つ。魔理沙に言われてというのは何処か釈然としないが、霊夢が今一人なのは確かだ。だったら行かない理由は無い。最終的にはあそこにいる全員にも聞く羽目になるのかもしれないけれど、こんな話をするためにわざわざここまで来たと知られる人数が少ないに越した事は無かった。
夕日が辺りを照らしていた。緑一色だった森も今は紅色に染まっている。もちろん大地も空も同じ色だ。大地に立っているものは等しく紅色に染まっている。もちろん自分と目の前にいる霊夢も含めて。
「で、用って何なの。わざわざ結界まで張らせて。」
逆光で霊夢の姿がシルエットの様になっていて良く見えない。どんな表情をしているのか分からない。まっすぐに目を向けると太陽を直接眺める事になってしまうので、霊夢の小振りな胸あたりを見つめながら話す。
「魔理沙が盗み聞きしているような気が激しくしたからよ。」
「まあ、事実魔理沙は居たわ。さっき結界にはじき出されているのを見たし。」
「聞きたい事は、その。噂のことなのよ。」
歯切れの悪いアリスの言葉を霊夢は不思議そうに首を傾げる。
「噂ねえ。二つ知っているけど、どっちの事?」
「二つ?」
「うん、二つ。」
二つ。自分が知っているのは一つ。
「二つって一体何のこと?」
「アリスに関する噂でしょ。だったら二つ知ってる、って言ったのよ。まあ、一つはついさっき紫から聞いた奴だから信憑性はあまりないけど。」
紫、という単語を耳にしてアリスはぐ、と息を呑んだ。一度大きく深呼吸をしてからおそるおそる霊夢に続きを聞く。
「……とりあえずまずは紫じゃないほうから教えてくれない?」
「いいけど。一つ目ってアリスが魔理沙に本当はぞっこんって話でしょ。」
やっぱりそうだったのか、と内心焦りが増す。
「まさか、信じているわけじゃないわよね。」
「半々って所かな。良く分からないし。」
「半々って。ちょっとやめてよ。私が本当に魔理沙の事を好きだなんて本当に霊夢は考えているって訳?」
「だから分からないんだってば。否定しようにも肯定しようにもそのネタがないのよ。二人が良く弾幕ごっこしているってのは良く知っているんだけどね。」
うふふ、と小さく笑いながら嫌らしい笑みを霊夢は浮かべた。
「好きな子に手を出すっていうのは常識っていうしねぇ。」
「だからやめてって言ってるでしょ、私達はそんなじゃないのよ。成り行きで戦いになってしまうだけで。」
「本当かなぁ?」
「本当よ。」
「本当に本当に?」
「本当よ。」
「本当に本当に本当に―――」
「本当だってば!」
と、そこまで言った所ではたと気づく。既視感とでもいうのだろうか。何かが頭の中で引っかかっていた。ちょっと考えた所でそこに思い当たる。
「え、でも紫が言っていた噂ってそれじゃあないの?」
「紫が言っていたのは違うわよ。それだと思っていたの?この噂私達に関係ある人―――人じゃないのも大分混じってるけど、皆知ってるわよ。」
「皆って……ま、まあそれは置いておくわ。どんな話だったの、詳しく聞かせてくれないかしら。」
「どうせもう皆知っているとおもうわ。紫が言いふらしていたわよ、さっき。後で聞けば良いじゃない。もう結界張るのにも疲れたわ。幹事がずっと席を離している訳にもいかないし。萃香がやってくれると楽なんだけどねえ」
萃香今何してるのかなーと言いながら霊夢が目の前から立ち去っていくのを慌てて追いかける。捕まえようとして手を伸ばしたら、「はい。」と酒瓶が山積みになって入っているケースを渡されてしまった。
「話に付き合ったんだからそれぐらい手伝ってよね。」
「手伝いはいいから紫から聞いた話ってのを教えてくれない?」
紫との会話で話しを必死に否定してしまったが、あれは一体何だったんだろうと内心で冷や汗を流しながら必死に聞くが、結局霊夢は取り合ってくれなかった。
「どうせ嘘の話よ。アリスに直接尋ねたってのも怪しい限りだわ。あいつがアリスの家なんて知っている理由がないとおもうし。」
じゃあそれよろしくねー、と言って霊夢が足早に去っていった。追いかけようにも酒瓶の重さがずっしりと両手にのしかかり、思うように歩けない。
「ああ、もう。一体何なのよ。」
酒瓶の重さによろよろとよろけながらアリスはゆっくりと進んでゆく。さっきの場所に付いた頃にはすでに日は沈み、月が空に浮かんでいるのが良く見えていた。
「おー、まってたぜ。一本貰っていくがいいか?」
「卑しいわね。私に聞かないでよ。霊夢が幹事なんだからそっちに聞くぐらいのことは出来ないの?」
「言ってくれるじゃないか。今持ってるのはお前だろう。だったらお前が判断すればいいじゃないか。それぐらいの事も出来ないのか?」
「じゃあ言うわ。あっちへ行きなさいこの野蛮人、貴方に渡す物なんか何もないわ。礼儀ぐらい弁えなさい。これでいいの?」
「ほう、言ってくれるな。」
いつものやり取り。二人してにらみ合いが始まる。いつものように弾幕ごっこが始まるのかと思われたその時、横から霊夢が声をかけてきた。
「こんなところで暴れようとしないでよ。神社が壊れたり酒瓶が割れたりしたらどうしてくれるのよ。二人して弁償してくれるなら構わないけど。」
「ほう、霊夢はアリスの肩を持つっていうのか?」
「どういうことよ。私が戦ったら貴方なんかに負けるとでも思ってるの?」
「だ・か・ら。ここで争わないでって言ってるでしょ。本当に二人とも追い出すわよ!」
その言葉に魔理沙がちぇ、と言いながらアリスの持っていた箱の中から酒を一本取り出して背を向ける。
「一本貰ってくぜ。」
「まあ、いいわ。あっちでちゃんと座って飲んでなさいよ。」
「逃げるの、魔理沙。」
「今のお前と戦っても楽しくなさそうだしな。力取り戻してからまたやれば良いじゃないか。」
楽しみにしてるぜ、と言って魔理沙が紫の所へ向かっていくのを見ながらアリスは魔理沙の言った一言に首を傾げていた。
「力を取り戻したら、ってどういうことよ?」
「ああ、それは紫が言っていたことだわ。貴方が本気で戦ってたのにあのチルノに負けて逃げるしかなかったって言いふらしてたのよ。」
「チルノに負けたって……あれは違うのよ。」
「本当の話だったの?」
「いや、負けたっていうか……あれは、その。」
「嘘、本当に負けたの?」
「違うわ。人形が傷ついちゃったから離れただけよ。」
「信じられないわ。アリスがチルノに人形を傷つけさせるなんて。」
「だから、違うのよ。あの時―――」
思い出すのは昨日の事。
「ああ、もう。なんで魔法薬が暴走したりなんかするのよ。」
「それは君のミスだろう。君にとってあの魔法薬を熱の中で放っておいたらどうなるかなんて分かりきった物だったんじゃないのかい?」
「そんなことはないわよ。いままで何年もおいておいて何とも無かったんだから。今年の暑さが異常なのよ。本当に何か起きているのじゃないのかしら。」
「さあねえ。僕に聞かれてもこまるんだけど。妖怪の君が知らないのに人間の僕が知っているわけ無いだろう。」
「変な道具使ってるわけじゃないんでしょうね。」
「そんな道具あったら堂々と売りに出すさ。そもそも、外の世界に気候や気温を操作できる装置なんてあるのかい?」
二人が話している場所は香霖堂。魔法薬に侵されてしまった家に人形達を置いていくわけにもいかず、自分の持っている魔導書一冊と引き換えに人形達を保管してもらうことになったのだった。他の場所も考えていなかった事は無いのだけれど、ここ香霖堂は家から近く、霊夢や魔理沙の襲撃にあうという事実を除けば特に問題点は見つからなかったというのがその理由だ。さすがに契約上で預けられた物を魔理沙や霊夢に渡してしまうほど霖之助も管理が甘くないだろう。
「まあ、とにかく確かに預けたわよ。もしも一体でも減っていたり傷ついていたりしたら容赦しないわ。」
「分かっているさ。しっかりと保管しておくよ。君に殺されたり食べられたりしたくは無いからね。」
「私は貴方なんて食べるつもりないわよ。人形がおかしくなってたり盗まれたりしていても。両手両足ぐらいはもぐかもしれないけど。」
「怖い事を言わないでくれよ。言葉のあやさ、気にしないでくれ。しっかりと保管しておくから。」
魔力に侵されて動けない人形達に軽く手を振り、アリスは香霖堂を後にした。ここに来たときと同じように太陽は強く照りつけ、直接日光に当たっている大地は手で触ると熱い程だった。
「じゃあそろそろパチュリーに人形を渡しに行かないと……」
約束の期日は明後日だったが、手元に人形を置いておいて誰かに見られる等ということは冗談ではなかった。香霖堂から出たアリスを太陽が照りつける。その熱さを我慢してアリスは紅魔館へと向かう事にした。
そして、それは紅魔館から出た水の上で起きた。
「ちょっとちょっとちょっと。暑過ぎなのよ、熱過ぎなのよ。私の相手はあんた。憂さ晴らしに付き合って!」
騒々しい声と共に直上から氷柱が降ってくる。それをアリスは軽く見切ってかわした。
「なんであたらないのよ、もう。頭にくるわね。」
「いきなりなんなのよ。まあ、涼しいから良いんだけど。」
「あんたが涼しくてもどうしようもないじゃないの。私は暑いんだから!」
「だったら自分を自分で冷やしたらどうなの。私は帰るのよ。貴方なんかの相手をするつもりなんて無いわ。」
「うるさい、あんたが相手する気無くてもあたいにはあるんだ。勝負しろ!」
その言葉にアリスは首を傾げた。
「要するに暑いからじゃなくて理由があって私に喧嘩を売っているってことなの。」
「さっきからそう言ってるじゃない、何聞いてんのよ!」
「そう。ならすぐに倒してあげるわ。貴方私に負けたら数日は家を無理矢理に家を冷却させてあげるからそのつもりでいなさい。」
そう言ってスペルカードを展開しようと思ったところではた、と気づく。戦いに使う人形は全て香霖堂。手持ちの人形は魔理沙を模した物が一つだけ。これは愛玩用に作ったもので戦闘用ではない。どんな人形でもアリスが扱えば戦う事ぐらいは出来るのだけれど。
「もしかして知っているの?」
「何をよ、訳がわからないわ。あの魔法使いがあんたを倒したら相手してくれるって言うから倒しに来ただけ。それ以外の理由なんてない!」
「あの魔法使いって、まさか黒い奴じゃ?」
「知っているなら話は早いじゃない。行くわよ!」
そう言ってチルノはスペルカードを展開する。使った符は氷符『アイシクルフォール』
「もう、あの野魔法使いは考えている事が意味不明だわ。私にチルノをけしかけてどうさせようって言うのよ。」
上下左右から降って来る氷の欠片をかわしながら考える。手持ちの人形はこの魔理沙人形のみ。勿論戦闘に使うつもりなんてなかったから魔術的に加工なんかしていない。要するにそこらの人間が作る人形と全く同じだ。
「まあ、大丈夫よね。私があんなのに負けるはずは無いんだし。」
そう言いながら魔理沙人形に魔力をゆっくりと通してゆく。勿論弾幕を避けながらだが、この程度なら何も考えて居なくても避けられる程度だった。
「あー、もう。なんで当たらないのよ。当たれって言ってんのよ、あたいは!」
アイシクルフォールを展開したままチルノが通常弾幕を開始してきた。どうやらアリスが全く反撃してこないようなので好機と見て攻撃に全力をつぎ込む事にしたらしい。
「当たれ当たれ当たれってば、ちょっと聞いてんの!?」
かんしゃくを起こして怒鳴り散らすが、そんなことをしてもアリスに弾が当たるはずもなかった。
「うるさいわね。これでも受けなさいよ。」
突如としてアリスが持っていた魔理沙人形から閃光が迸る。その閃光上にあった氷が瞬時に溶け消え、あわててチルノがそれを避ける。
「あ、ああ危ないじゃないの。あたったらどーすんのよ!」
「当てるつもりだったのに、良く避けたわね。逃がすつもりはないけど。」
「あたいにはまだスペルカードが残ってるんだ。簡単にまけてたまるか!」
効果時間が過ぎた氷符『アイシクルフォール』から雪符『ダイアモンドブリザード』へとチルノが攻撃を変化させる。
先ほどと比べると弾幕の密度は勿論あがっているのだけれど、魔理沙や霊夢と戦っているアリスにとってはその弾幕は簡単に避けきれるものだった。
そう、避けるのがアリスだけだったならば。
「―――ともかく、元々その時に使った人形は戦闘用じゃなかったのよ。香霖堂に行けば理由もわかるわ。」
「でも、負けたのは事実って事なの?」
「……人形の腕が飛ばされたから直すために帰ったのよ。」
「ふうん、珍しい事もあるものねえ。アリスが本気で戦うなんて。」
何だか話がかみ合っていない気がした。
霊夢が言っている事は要するに自分がチルノに負けた事では無いのだろうか、という考えが頭をもたげてくる。
「私がチルノ相手に本気を出すわけないじゃない。」
「あれ、でも紫は貴方が本気だったって言ってたわよ。本気で戦ってたのにチルノに負けたって。」
「まさかと思うんだけど。魔理沙が妙にやさしかったのはそのせいなの?」
「あら、そうだったの。よかったじゃない。」
「良くないわよ、そんな誤解されているなんて冗談じゃないわ。」
「あら、優しくされてうれしくなかったの?」
「そんなの気持ち悪いだけよ。」
「素直じゃないわねえ。」
半目になって唇の端を軽く歪めている霊夢に眉を寄せるという表情で感情表現をする。その顔を見ても霊夢は何食わぬ顔で続けた。
「じゃあ誤解を解けばいいじゃないの。魔理沙を倒すのは別にいいわよ。神社から離れてやるんだったら多分良い余興になるだろうし。」
「解きたいけど、今は無理。手持ちの人形がないから。」
ぐ、と歯噛みをする。
まさか、紫が言っていたのは私がどんな相手にも本気を出さないという事なのだろうか。相手よりもほんの少し上の力を使って戦うという事実。それを私自身で否定してしまったということなのだろうか。
「ともかく、私は紫の所へ行って来るわ。誤解解いてこないと。」
「もう遅いとおもうけどねぇ……」
「そんな不吉な事言わないで!」
宴もたけなわ。皆楽しそうに飲んだり騒いだりしている。
いつのまにか妖夢も宴会に加わり、幽々子にせっせと食事を運んでいた。宴会に着てまでそんな事をしている妖夢が少し不憫に思えてくる。
その情景から目をそらし、右をみると藍が今度は太い木の枝に逆さに吊り下げられていた。木の下では橙がおろおろと歩き回ってはいるが、根元の所に紫が座っているので木の上に登れないらしい。
「紫、昨日の噂って一体何を言っていたの?」
「そんなの決まってるじゃないの。貴方が本気で戦ったかどうかよ。」
「ならそう言ってよ、誤解を広められたら困るじゃないの。」
「貴方が聞かなかったんでしょう。私は同じ事を考えてるのだと思ったわ。」
「それはそうだけど。でも、あれは卑怯じゃないの?」
「卑怯って何がかしら。」
「……わざと私が誤解するように話したでしょう。」
その言葉にゆかりはすこし視線を逸らした。
「やっぱりそうだったんじゃない。私を馬鹿にして楽しいわけ?」
「結構楽しいわよ、あなたもやってみたら分かるわ。」
上の方から、「紫様、やっぱりそんなことをなされてはいけませんよ~」と声が降って来る。見るとつるされている藍がゆらゆらと揺れていた。
「でもどっちにしても事実みたいじゃない。」
「事実って、何がよ。」
「貴方が本気を出しているって事。」
「そんなわけないじゃない!」
「でも魔理沙はやっぱりそうだったのか、って言ってたわよ。」
「何がよ。」
「何だかこの頃アリスが弱いって言ってたわ。本当は本気で戦っているのに私に勝てないんじゃないか、って。」
「そ、そんな。本当に言ってたの?」
「私はそんなことで嘘なんてつかないわ。」
「そう……私帰るわね。」
気が付いたらそんな言葉を口走っていた。藍が何かを言いたげに体をみのむしの様にさらに揺らすが、アリスはそれを無視した。太陽が完全に沈んで星がちらほらと見え始めている夜空へと墜落するように上昇し、一瞬停止した後力なく滑空するように自分の家へと向かう。
「私、そんな風に思われてたのね。」
弱い相手。確かにこの頃は何度やっても魔理沙には勝てていなかった。けれど、そんな風に思われていたとは思ってもみなかった。
私は魔理沙と良い勝負が出来る程度に力を出していたつもりだったのだけれど、勘違いでもしていたのだろうか。それとも単純に魔理沙が自分に合わせて戦ってくれていただけだったのだろうか。
良く自分でも理解出来ない事が頭の中をぐるぐると回る。
気が付いたら自分の家を通り過ぎていた。慌てて戻る気にもなれず、萎んだ心そのままに力なく向きを変える。
布団の上に倒れていた。
何もする気が起きない。
当然、壊れた魔理沙人形はそのままだ。直す気なんて全く起きなかった。
家には誰もいない。
慰めてくれる人もいなければ、話し相手になって気を紛らわせてくれる人もいない。
人形もいない。
何も、いない。
ぼーん、ぼーん、と鐘が10回鳴ったのが聞こえた。
気が付いたら寝入ってしまっていたらしい。
起きる気力なんて勿論なかった。
半分寝ている頭は変な事ばかり考える。
夢を見ているような。
空想をしているような。
夢想をしているような。
白昼夢を見ているような。
白日夢を見ているような。
何をしているのか自分でも良く分からない。
どうでも良いはずの事が何度も頭に浮かぶ。
全力で戦っていればよかったのだろうか。
全力で戦って、魔理沙を叩きのめしていればよかったのだろうか。
そんな事ばかり頭に浮かぶ。
私が本気を出していたのにチルノに負けると魔理沙は本当に考えていたのだろうか。
魔理沙にとって、自分はその程度の存在だと考えられているのだろうか。
自分にとってはどうでも良いことの筈なのに。
――――――何故か、悲しかった。
ドンドンドンとドアが激しく叩かれているのが聞こえてくる。
時間を確認してみると10時30分を少し過ぎた所。
始めは無視していたものの、一向に止む気配は無かった。
重たい体を無理矢理に起こしてベッドの上に座りはしたものの、それ以上動く気が起きなかった。
そのまま1分ぐらい経った頃、ドアを叩く音が不意に止んだ。静寂が辺りを支配する。諦めて帰ったのだろうと思って再び布団の上に倒れこもうとしたとき、今度はコンコンと窓を叩かれた。
「よ、元気か?」
窓を通してだから勿論あまり良く声は聞こえない。けれど、そこから聞こえてきたのは紛れも無く今自分が考えていた人の物だった。
「元気ないって聞いてきたんだが。本当に元気ない様に見えるぜ。宴会の時は今よりましだったのにな。」
「魔理沙、何しにきたのよ。」
気分は重い。声を出すのも億劫だった。
「私を笑いにでも来たの?」
「笑いにって、何をだ?」
オウム返しに魔理沙が聞き返す。本当に良く分かっていない様だった。
「霊夢がアリスが元気ないから励ましに行けって言ってたんだよ。」
「そう、霊夢がね。別にいいわ。」
「いいのか、お邪魔するぜ。」
「いいってそっちの良いじゃないわよ、分かって言ってるんでしょ!」
「決まってるじゃないか。アリスが許可したことぐらい分かってるさ。」
「そんな事言ってないわよ!」
「良いって言ったじゃないか。言葉には責任を持つべきだと思うがな。」
「言い回しぐらい理解しなさいよ、これだから野良は嫌いなのよ。」
はあ、と深く溜息を付く。けれど、溜息をわざとついているわけではないのに気が付いたら気分が少し軽くなっていた。
よいしょ、と魔理沙が窓を開け部屋の中へと進入する。トラップが仕掛けられていた筈だったのだけれど、いつのまにか解除されていたらしい。
「結構綺麗だな。もっと散らかってると思ったぜ。」
「あいにく、私は都会派だからきれい好きなのよ。」
「都会と綺麗好きは関係ないぜ。」
「野蛮人はどこに何があろうとどうでもいいんでしょ。」
「ま、私はそうでもないがな。」
その言葉を信じられずにへぇ~とアリスが声を漏らすと、魔理沙は嫌そうに手を振って言った。
「まあ、なんだ。わざわざ来てやったんだからとりあえず茶ぐらい出してくれてもいいんじゃないか。別に酒でもいいぜ。」
「だから、なんで貴方にそんなもの出さなきゃいけないのよ。招かれざる客なのに。」
「嫌なのか?」
「嫌に決まってるわよ。」
「じゃあ勝手に飲んでくるぜ。」
そう言って魔理沙が階段を下りていこうとするのを慌てて止める。
「ちょっと、何処へいくのよ。」
「だから言ったじゃないか。茶を貰いに行くんだよ。」
「私は出さないってはっきり言ったはずよ。」
「それぐらい良いじゃないか。家に入れてくれたついでだと考えろよ。」
「私は家に入るのも許可してないわ、勝手に変な事しないで!」
「茶を入れるのは変な事なのか?」
「そんな事言ってないわよ、ちゃんと話をしてよ!」
そこまで言って大きく息を吸った所ではっと気づく。いつのまにか倦怠感や無力感、寂寥感等が全て消えうせていた。それが魔理沙のおかげだと考えるのが嫌で少し俯いて黙り込んでしまった。
突然静かになったアリスを奇妙に思ったのか、魔理沙が首を傾げる。
「まあ、良いわ。麦茶ぐらいなら出してあげるわよ、下へついて着なさい。変な部屋入ろうとしたら吹き飛ばすわよ。」
「ありがたく頂くぜ。」
二人で向き合って無言で淹れたばかりの麦茶を飲む。外の気温は相変わらず高い。部屋の中も言うまでもない。
「なあ、アリス。」
「何よ?」
「実は嫌がらせだろ、これ。」
「貴方が茶を出せって言ったんじゃない。本当に自分勝手ね。」
そう言ってふん、と鼻を鳴らすが本当は別にそんなに怒っているわけではない。魔理沙が霊夢に言われたから来たというだけでなく、本当に自分を元気付けに来てくれたことがなんとなくではあるが感じられたからだった。
「で、何をしに来たのよ。」
「始めに言ったはずだが。」
「本当にそれだけが理由で来たの?」
「いや、違うぜ。」
その返答にはあ、とアリスは息を大きく吐いた。
「そんなことだろうと思ったわ。本当の理由は何なのよ。」
「いや、家が魔法薬の暴走で侵されてな、ちょっと居れない状態なんだよ。霊夢は泊めてくれなかったし励ましに行くついでにアリスの家でも行ってみようかと思ってな。」
「どうせ泊まる所を探すのが目的で励ましに来るのなんてついでのついででしょ。」
「そうとも言うぜ。」
そうして二人して少し睨みあう。今回は珍しく魔理沙の方が先に言葉を発した。
「で、泊めてくれるのか、くれないのか。泊めてくれるなら背中を流すサービスぐらいはするが。」
「せ、背中を流すって。」
「一緒に風呂に入るって事だ。タオルを巻くから裸は見せないがな。」
その情景が一瞬頭に浮かび、アリスは激しく頭を振ってその絵を吹き飛ばした。あまりの勢いにさすがの魔理沙も慌てる。
「ど、どうしたんだアリス。」
「な、なんでも、ないわ。別に、そんなこと、しなくていいわ。」
激しく振りすぎたせいでクラクラする。でもそのおかげでその情景はどこかへ行ってしまったらしい。少し静かにしてるとやっと体が元に戻ってきた。
「いきなり変な事いわないで。」
「別に変な事じゃないだろう。女同士なんだし何か気にする事あるのか?」
「べ、別にないわよ。」
「じゃあいいじゃないか。タダで家を借りるってのも悪いしな。それぐらいはしてやるよ。」
「そう言う事を言ってるんじゃなくて……」
「まさかとは思うが。」
そう言って魔理沙が一度言葉を切る。魔理沙の瞳がじっとこちらを見ているのに気づき、慌てて目を逸らす。
「アリスって女の裸が好きなのか?私がタオルを巻いて風呂に入るって言ったからそれを覆そうとしているようにも思えるんだが。」
「そんなわけないでしょう、馬鹿にするのもいい加減にしてよ!」
「じゃあいいじゃないか。あんまり断りすぎるのも変だぜ。たまの善意ぐらいしっかりと受け取れよ。」
「いつもの魔理沙がいるから心配なのよ!」
「まあ、それは否定しないがな。」
大きく息を吐いてアリスが机に突っ伏していると魔理沙が勝手に話を続けた。
「じゃあアリス風呂に入れよ。私も少し経ったらいくから。」
「だ、だから入らないって言ってるでしょう。そう、魔理沙が来る前に入っちゃったのよ。だから別にいいわ。」
「そうなのか。でも別に私は構わないぜ。」
「私が構うのよ!」
「別に一日二度風呂に入ったら体が溶ける呪いとか魔法になんてかかってないんだろう?」
「当たり前じゃない。何なのよその無駄な魔法は。」
「じゃあいくか。そろそろ風呂に入りたいと思ってたんだよ。」
「だから、一人で入ればいいって言ってるでしょ、話を聞きなさいよ。」
「まあまあ、遠慮するなって。」
「遠慮するに決まってるでしょ!」
その言葉にアリスを引っ張っていこうとしていた魔理沙が動きを止める。不思議そうに首を傾げていた。
「決まってるって、何が決まってるんだ?」
「な、何がでもよ。」
「まあいいか。じゃあ行くぜ。」
「だ、だから一人で行きなさいって……」
「まあまあまあいいじゃないか。私がアリスの裸見てみたいんだよ。」
「つっ!?」
「よし行くぜ。」
そう言って動きが鈍くなったアリスをずるずると引っ張っていく。そして、ドアの前に立つと勢い良くドアを開けた。開いた途端に異臭があたりに立ち込め、慌てて魔理沙がそのドアをしめる
「なんだ、ここは。」
「工房よ。何がしたいの。」
「風呂はどこだ?」
「近くに温泉があるわ……もう勝手にして頂戴。」
「よし、そこに行こう。バスタオルは四人分頼むぜ。」
そう言って魔理沙が再びアリスをずるずると引っ張っていく。引っ張られていくアリスはというと、ぐったりとうなだれてなすがままにされていた。
本当に、一緒に入るのね……
もちろん体にバスタオルをしっかりと巻いているから魔理沙からは自分の体はあまり魔理沙には見えないだろう。服を着ているのとあまり変わらないはずだ。けれども。
「遅かったじゃないか、アリス。何してたんだ?」
魔理沙が既に岩の上に座り込んでいた。自然に沸いていた温泉にアリスが少し手を加えて常に綺麗な湯が一つ所から出るようにしたものだ。俗に言う露天風呂で岩風呂である。ここは樹海の中なので人間は元々殆ど来なかった。今はアリスが細工して来れないようにしているので、全く来ることはない。
「こんな所に温泉があったのか、すばらしいじゃないか。またたまに来させてもらうぜ。」
「私が作ったのよ。入るなら何か貰うわ。」
「そうだな、考えておくぜ。」
「どうせそう言って何も渡さずに入るつもりでしょう?」
「私が死んだ後にいろいろ道具持って行っていいぜ。どうせアリスのほうが長生きするんだしな。」
「気の長い話ね、ホント。」
そう言って空を見上げた。相変わらず雲が浮かんでおらず、満月が煌々と辺りを照らしていた。星が天蓋を埋め尽くしているのが良く見える。
「良く考えると貴方とこんなにのんびりするの初めてじゃない?」
「まあ、いつも出会ったらすぐに撃ちあいだからな。」
「そうよねえ、何でかしら。」
「アリスの元気がないからじゃないのか。私はいつもと変わらないぞ。」
「そっちじゃないわ。すぐに撃ちあいの方。」
「それは言うまでもないじゃないか。ウマが合わないからだぜ。」
「それはそうね。」
そう言って二人して静かに夜空を見上げる
「魔理沙は変わらないわね。」
「お前もな。」
「変わらないのになんで二人してこんなにのんびりしてるのかしら。」
「たまにはのんびりしたい時もあるんじゃないのか。」
「どうかしらね。」
「で、だ。」
「何よ。」
そろそろとにじり寄ってくる魔理沙に少し違和感を感じて慌ててアリスは離れる。
「なんだ、忘れたのか。背中を流すって言ったじゃないか。」
「そ、そうだったわね……まあ良く見えないし諦めて流させてあげるわ。」
「ちゃんと光で辺りを照らすぜ。」
「それは止めて!」
ちぇ、仕方がないぜ。と言いながら魔理沙が小さなタオルに石鹸を塗りこんでゆく。
「じゃあ後ろ向けよ。」
「変な事したら張り倒すわよ。」
「そんなことしないぜ。」
アリスが岩に座ってバスタオルを前に集めるのを見てから魔理沙が背中にタオルを当ててこする。
「良く考えると、私って背中誰かにながしてもらったことなんてあったかしら。」
「いつもはどうしてるんだ?」
「人形がいるじゃない。」
「それもそうだな。」
ゴシゴシとタオルがこすり付けられるのを感じる。いつもの人形の力無さとは比べ物にならない。
「ねえ、魔理沙。」
「なんだ?」
「私にも貴方の背中流させてくれるんでしょう?」
「まあ良いが。何でだ?」
「貴方に流してもらうだけなんてまっぴらよ。私にもやらせなさい。」
「変な言葉の使い方だなあ。別にいいが。」
ゴシゴシ、と背中が擦られる。先ほど一瞬でも空想してしまったような変な事は全く起こらない。けれども、何となく気分が良かった。
とても名残惜しい。もっとやってもらいたい気がする。けれども、ずっとやってもらうというのも変な話だろう。そう思って後ろへと振り向く。
「じゃあ魔理沙、今度は私が……って、なんで裸なのよ!?」
「いきなり見るなよ。タオルで背中擦ってるんだから裸に決まってるじゃないか。」
体のどこを隠すでもなく魔理沙が立っていた。美しい肌が月明かりに映えてまるで一枚の絵画のようにアリスには見えてしまった。
「なにじろじろ見てるんだ?」
その言葉にはっとアリスは我に帰る。
「べ、別に見てなんかいないわよ。ちゃんとバスタオル二枚渡したじゃない。もう一枚はどうしたのよ。」
「何言ってるんだ。もう一枚は後で体を拭くのに使うんだろう。今使ってどうするんだ?」
「そ、それもそうね。」
「まあいいか、じゃあ頼むぜ。」
そう言ってアリスは手ごろな岩に腰かけ背中を向けるが、顔はこっちを向いたままだった。
「なんでこっち向いてるのよ。」
「いや、アリスはいつになったら脱ぐのかと思ってな。」
「ぬ、脱ぐわけ無いでしょう。私はこのバスタオル羽織ったまま背中を流すのよ。」
「おお、聞いたことがあるぜ。『体を使って洗う』という奴だな?」
「……なんだか良く分からないけど。変な事考えてるのだけはよくわかるわ。」
アリスは再び大きく溜息を付いた。今日はよく溜息を付く日だな、とどうでも良いことを思う。
「いい加減向こう向いてよ。脱がないから。」
「えー、それを楽しみに着たんだが。」
「!?」
「何驚いてんだ?」
「お、驚かしたのは魔理沙でしょう。」
「別に見てみたいと思っても変じゃないだろう。」
「変に決まってるじゃないの。何言うのよいきなり。」
「だって、人形使いの体には紋章とか魔方陣が刻んであるんだろう?どんな物なのかきになるじゃないか。」
その言葉にアリスははて、と首を傾げた。もちろんアリスの体にそんなものは刻み込まれていない。それ以前に、そんな事をする必要もない。
「ねえ魔理沙。もしかしてそれが見たくて私と風呂に入ろうって言ったの?」
「ああ、そうだが。」
はあ、とアリスは三度大きく溜息をついた。
「ねえ、魔理沙。それは人間の魔法使いで人形使いの話じゃないの?私は魔法使いで人形使いよ。」
「そうなのか?」
「そうよ。私達魔法使いはそんなことしなくても人形を操る事なんて簡単に出来るもの。」
「なんだ、そうなのか。じゃあ脱がなくていいぜ。」
それだけ言うともうアリスの体に興味を無くしたのか、視線を前へと戻してしまった。アリスは嬉しいような寂しいような良く分からない気持ちで魔理沙の背中を流し始める。
もしもその疑問がなかったら今のように二人で風呂にはいることなんて言い出そうと思わなかったの?と聞きたかったのだけれど、その答えを聞くのが怖かった。霊夢が言っていたように自分は魔理沙のことが好きなのかもしれない、と漠然と思う。もちろん愛情ではない。劣情なんてもっての他だ。恐らくは友情や友愛に属する物だろう。魔理沙は自分の事をどうおもっているのか知りたかった。けれども、聞くことは出来なかった。
「ねえ、魔理沙。」
「あぁ?」
「………なんでもないわ。」
「なんだよ、気になるじゃないか。」
「またいつか、こんなことがあるのかしらね、って聞こうと思ったのよ。」
「さあな。二人の気分次第じゃないのか。もう二度とないかもしれないが。」
「そうね、私もそう思うわ。」
結局あの後特に何を話すでもなく、二人で温泉に入って夜空を見上げていた後、帰ってきただけだった。夜になっても暑さは殆ど収まらず、空を高速で飛んでいるときはよかったものの、家に帰ってくるとまたうっすらと汗がふきだしてきてしまうありさまだった。
「あー、暑いなぁ。」
「そうね。」
「なあ、氷とかってないのか?」
「食べる分ぐらいならあるわよ。少しだけど。」
「妙に気前がいいな。断られると思って言ったんだが。」
「たまにはそういう気分の日もあるのよ。で、いるの?」
「いるいる。麦茶に山ほど入れてくれ。」
「わかったわ。その辺で待ってなさい。家捜しなんてしてたら追い出すわよ。」
「分かってるぜ。」
アリスが氷を山ほどいれた麦茶を持ってくると、そこにはガサゴソと戸棚をあさっている魔理沙がいた。
「魔理沙、何してるのかしら。」
「いや、ゴキブリがいたものでちょっとな。」
「嘘言わないでよ、この家にゴキブリがいるわけ無いじゃない。ちゃんと駆除してるんだから!」
「そんなこと言われてもな。ほら、そこにいるぜ。」
そう言われて指差された所を見ると、確かに小さくはあるがゴキブリの様なものが壁を這っていた。
「……どこから沸いてきたのかしら。まあ、それはいいわ。それより、ゴキブリと貴方がそこを漁ってるのとなんの関係が有るのよ!」
「いや、駆除の道具がないかと思ってな。」
「無いわよ、もう魔理沙二階に行って。泊めてはあげるからもう絶対に下に下りてこないで!」
「おいおい、下に下りてこないと玄関から帰れないじゃないか。」
「別に玄関から入ってきたわけじゃないんだから良いでしょう。それより、さっさと行かないと本当に追い出すわよ。」
「怖いぜ。まあ、今回は言うとおりにしておいてやるか。」
そう言って悪びれた風も無く二階への階段をトントンとテンポ良く登っていく。アリスはあわてて漁られた戸棚の中を調べるが、特になくなっているものは無いようだった。
「はあ、やっぱり油断ならないわ。家にあげたのは失敗かしらね。」
結局、今日何度目かもうわからない溜息をアリスはつくのだった。
二人して一緒の布団に寝る。
良く考えるとそれは当たり前の事だった。
アリスが二階に行くと、いつのまにか魔理沙は黄緑色の上下が分かれた寝巻きに着替えていて、それはアリスにとっては新鮮な景色だった。
「なんだ、今度は何を見てるんだ?」
「いや、貴方ってあの服以外持ってたのね、って思っただけよ。」
「当たり前じゃないか。何を言っているんだか。」
「じゃあなんでいつもあの服なのよ。」
「そんなの決まっている。魔法使いといったらあの服だろう。」
「訳が分からないわ。」
「そんなもんだぜ。」
「まあ、いいじゃないか。とりあえずこっち来いよ。ベッド一つしかないんだろ?」
「ま、まあそうね。」
「まさか私に床で寝ろとか言うんじゃないだろうな。いくらカーペットが引いてあると言ってもそんなとこで寝たら体痛めそうだぜ。」
「じゃあ私が……」
そう言って床に寝ようとするアリスを無理矢理魔理沙がベッドの上へと引っ張り上げる
「何でだ。ようするに私はこういっているんだ。せっかく泊まりに着たんだから一緒に寝ようじゃないか、と。」
「ど、どうしてそんなことしなくちゃいけないのよ。」
「嫌なのか。」
「ど、どうしてもってわけじゃないわよ。只、寝ている間に襲われないか心配で。」
「襲ったりなんかしないぜ。なんで私がアリスを襲わなくちゃいけないんだ。」
「そ、それもそうね。何言っているのかしら……」
「それに、本当に襲う気なら上の方が絶対に有利じゃないか。安全のためにも一緒に寝ることをオススメするぜ。」
「変な事言わないでよ。気になっちゃうじゃない。」
「気にする必要はないぜ。私はもう寝るからな。襲うなよ?」
「襲うわけ無いでしょう!」
―――夢を見ている。
はっきりとこれは夢だと分かる夢。
目の前に上海と蓬莱が浮かんでいる。
前方を飛んでいるのは黒の魔法使い。
七色の星が視界を埋め尽くすほどに飛び交っている。
楽しそうな笑い声が聞こえた気がする。
その声につられるようにして私も人形達を繰り出し、弾幕を張る。
お互いがお互いしか見ていない時間。
お互いがお互いだけの事を考えている時。
当たらない。当たらない。当たらない。
当てようとしているのに当たらない。
もちろんそれは相手も同じ。
どちらかがちょっとしたミスをするまで延々と続く二人だけの舞踏会。
お互いがお互いを叩きのめそうとしているのに、お互いがお互いの事しか考えていない。
閃光が走る。
人影が飛ぶ。
弾をかわす。
人形を操る。
弾が飛び出す。
星を避ける。
人形が撃ち落とされる。
新しい人形を繰り出す。
また閃光が目に飛び込んでくる。
その閃光を避ける。
私が、笑っている。
魔理沙も、笑っている。
お互いに罵り合っているのに、笑っている。
今この時だけは二人きり。
二人きりの時間。
二人きりの世界。
不意に影のコースが逸れた。
人形が放ったレーザーに直撃するコースへと変化する。
作戦かとおもって一瞬様子を見る。
だが、コースは変わらない。
その影が何かを言っているような気がする。
けれど、私には伝わらない。
焦りが生まれる。
けれど、どうしようもない。
一度放った弾はもう自分の所へと戻ってくる事は無い。
それは、分かっている――――――
影の一部が千切れ飛ぶのが見えた。
見えてしまった。
――――――お互いに、分かっている筈なのに。
目が覚めた。歯がガチガチと鳴っている。体の振るえが止まらない。
今のは夢。そう、夢だ。それは分かっている。けれど、体の震えを止める事が全く出来ない。
「ま、魔理沙?」
寝ているはずのところへ手を伸ばしてみるが、そこには誰もいなかった。慌てて飛び起きてあたりを見回すが、どこにもいなかった。箒がここにおいてあるということは魔理沙はまだこの家にいるのだろう。あわてて階下へと駆け下りる。
「あ、アリスか。早かったじゃないか。」
そこには勿論五体満足な魔理沙が立っていた。後ろ手に何かを持っている。そして、机の上には本が一冊。
「いや、これは、な。」
「魔理沙……」
「な、何だ?」
「やっぱり、そうだったの?」
気が付いたら目から熱いものが一筋垂れ落ちていた。それを見て魔理沙が慌てる。自分でも何を言おうとしているのか分からなかった。夢のショックもあった。けれど、魔理沙は自分の事を本当に励ましに来てくれたのだと思っていた。そう、信じていたのに。
「ちょ、ちょっとまて。これには深い訳が。」
「出てって。」
「いや、だから話を―――」
「出てってよぉぉぉぉぉぉお!」
あらん限りの声で叫ぶ。もう何もかもがどうでも良かった。やはり魔理沙はこれが目的だったのだと分かってしまったから。何か言おうとしているようだが、この期に及んで一体何を言おうと言うのか。
両目から次々と熱い物が頬を伝って落ちる。
「御願いだから、早く私の目の届かない所に消えて。」
「だから、話を……」
「私、魔理沙を殺したくは無いから。」
これは本当に本心から出た言葉。でもこのまま魔理沙が目の前にいると何をしてしまうか分からなかった。
「……そうか。」
「ねえ、魔理沙。」
「なんだ?」
「私、魔理沙の事多分好きだったよ?」
「ああ、多分私もだ。」
そう言って二人して床へと視線を落とす。
「そう、残念ね。次に会った時はどうなるかはわからないけど。」
「そうか。」
「私は、楽しかったから。魔理沙がどうだったとしても。」
「私も楽しかったぜ。」
「そっか。じゃあね、魔理沙。」
魔理沙が諦めたかのように後ろ手に持っていたものをアリスから見えないようにテーブルの椅子の上に置く。そして、そのまま何も言わず二階へと上がって行った。恐らく箒を取りに行ったのだろう。二階から声が響いてくる
「なあ、アリス。」
「…………」
「私も、本当に楽しかったぜ。」
その言葉に結局アリスは何も返さなかった。少ししてから窓が開く音がして暑い風が部屋の中へと流れ込んでくる。
そのまま力なく床へと座り込んでいた。
涙が止め処なく流れてくる。
魔理沙が大怪我をしたのではないかと思った時、本当に怖かった。
いつもやっている戦いが急に恐ろしい物に思えてしまった。
夢の中で、魔理沙の左手をレーザーが貫き通した時。
そして、魔理沙が地面へと落ちてゆく時。
どうしていいか全く分からなかった。
魔理沙は言っていたのではなかったのだろうか。
『アリスは弱い』と。
だから夢の中では勝っていた。
それも大勝利の筈だった。相手に大怪我を負わせたのだから。
けれど、それを自分は望んでいなかったらしい。
魔理沙に勝つ事よりもいつの間にか魔理沙と戦う事それ自体に意味を求めていた様だった。
夢の中で自分は笑っていた。
魔理沙も笑っていた。
けれど、もう二度とあんなことはないだろうと思ってしまった。
それがまた―――悲しかった。
いつの間にか日が傾いていた。夕日が部屋に差し込んでくる。恐らくは今頃香霖堂では霖之助が遅いと文句を言っている事だろう。人形達も待っているのではないだろうか。
「取りに、行かないと。」
口に言葉は出せる。
でも、体が動こうとしない。
動ける気がしなかった。
何か、小さな物音がした気がした。
ズ、ズ、と何かが床を這っている気がする。
いつもだったらすぐにでも確認をしに行く所だが、アリスは何もしなかった。
只、そこに目を向けただけだった。
小さな音は止もうとしなかった。
テーブルの下から何かがゆっくりと出てくる。
(……人形?)
暗くてよく見えない。もしかしたら一人ぐらい香霖堂に持っていくときに足りていなかったのかもしれない。恐らく魔力が解消された事で動けるようになったのだろう。話しかけてこないところを見ると、そんなに上位の人形では無いようだった。
ゆっくりと、ゆっくりと。
その人形はアリスの方へと近づいてくる。
無気力な目でそれをじっと見ていた。
漆黒の闇の中、物音だけが静かに部屋の中に響いている。
小さな、か細い音がゆっくりと近づいてくる。
はじめと比べてどれくらい時間が経っただろうか。気が付いたらその人形はアリスの足元まで寄ってきていた。その人形を何となく掴む。その瞬間に頭がクリアになった。
「魔理沙、人形?」
なんでこの子が、とまで考えた所でその左手がくっついている事に気が付いた。
「う、そ。」
慌てて明かりをつけてその人形を良く見た。左手は確かに縫合されていた。綿も少し飛び出してしまっていて、お世辞にも上手とは言えなかった。けれども、たしかにその人形は縫合された跡があった。
「―――魔理沙?」
あわてて机の上にある本を見る。そうしたら、案の定そこにあったのは人形の本だった。
「まさか、これを直そうとしてたの?」
そういえば昨日魔理沙はこの魔理沙人形が入っていた辺りの戸棚を漁っていたはずだ、と思い出す。
「まさかと思うけど、私が落ち込んでたのこの人形が壊れたせいだとか考えていた訳じゃないわよね。」
だとすれば。
魔理沙は、私を本当に元気付けるためだけに着たのではなかったのだろうか。
何かを取に来たわけではなく。
純粋に。
「あ、あははははは……」
だとすれば、自分は何てことを言ってしまったのだろう。それよりも、
「私、魔理沙の事好きって言っちゃったわよねえ!?」
どうしよう。取り返しの付かない事だ。
瞬間的に顔が真紅に染まる。
でも、良く考えると魔理沙も言っていた気がする。
「と、とりあえず、魔理沙に謝らないと。」
そこまで考えた所でふと思いつく。
さっきまでがおかしかったのだ。だったら、今度の私は普通でなければいけない。いつもの通りに。いままでと同じように。
ならば。
魔理沙人形をしっかりと直し、魔法や道具を使って大幅に補強する。
戦いに耐えうるように。魔理沙と戦えるように。
私の早とちりかもしれないけど、魔理沙はどこかで私を待っている気がする。
私と戦うために。
そうだ、そして今度は勝とう。
この頃負けっぱなしだ。
夢の中だけで勝つなんて負け犬みたいねえ、とくすりと小さく笑う。
勿論、夢の中のように大怪我をさせて勝つつもりなんて毛頭無い。
相手より、少しだけうわまわる。
それが、人形使い『アリス・マーガトロイド』の戦い方の筈なんだから。
いつもの通りに。
いつもの様に。
――――――魔理沙と二人きりのダンスを踊りに行こう――――――
アリスは
ツンデレだ
な